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2017年3月31日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『異文化共存における折衝』(3)

『ウンベルト・エーコ』は、『折衝』では、自分にとって最善と思われる案は断念し、自分にとって好ましくないと思ういくつかの案を比べて、どちらかといえば『これならなんとか我慢できる』と思う案を選ぶしかないと書いています。 

『価値観』が異なるからこそ『折衝』しているわけですから、双方があくまでも自分の『価値観』からみて最善の案を主張すれば、決裂するしかなくなるのは当然のことです。『これならなんとか我慢できる』という案で決着するのが『折衝』ですから、それを選ぶしかないという結論は当然の話です。難しいのは『何を持って我慢できる』と判断するかであって、この判断にも個性が関与し、一般論はありません。 

『折衝』では、どちらの最善策も、まず排除して、条件が異なる複数の『中間案』を双方が提示する必要があります。この『中間案』を創出できる能力が『折衝能力』です。『人間』や『人間社会』を洞察する能力がなければ、したたかな『中間案』など創出できるはずがありません。裏を返せば、相手の欲望やホンネを読み取ることですから、『きれいごと』では『折衝』に臨めません。『キツネとタヌキの化かし合い』と揶揄される所以(ゆえん)です。 

狡猾な『折衝家』は条件を設定するときに、相手が興味を示すであろう条件をたくみに挿入して、それを『あなたにとってお得ですよ』とそれとなく示唆するテクニックを用います。『最後は正義が勝つ』などと本当に思い込んでいる人は有能な『折衝家』にはなれません。

仕事の現役のころ、『折衝』をしながら、『自分はなんと嫌な人間なのか』と自己嫌悪に陥ることがありました。

リタイアして、そのようなストレスがなくなり、『自分を偽らずに生きられる』と安堵する一方、そのような『キッタハッタ』の緊張の日々を『充実した日々』としてむしろ懐かしむ自分も感じて、なんと人間は身勝手で矛盾しているのだろうと思い知りました。

人間は、『生きて』行く上で『ストレス』を必要とします。老人も『ストレス』がなければボケでしまいます。適度な『ストレス』を自ら求めて維持できる人は有能な人です。

梅爺の周辺で、『生き生きしている老人』は、何かしらの『ストレス』を自分から求めている人たちです。

『天国』は、『何も思い煩うことにないところ』と聞かされると、『三日もいれば、むしろ苦痛になるのではないか』と減らず口をたたきなるのは、人間の矛盾した習性を肯定したくなる梅爺の悪い癖です。

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2017年3月30日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『異文化共存における折衝』(2)

それぞれ異なった文化を持つ人たちが、『一緒に生活する』ことがお互いを理解する(違いを認める)上で、最も効率が良い方法であると『ウンベルト・エーコ』は書いています。

梅爺も、たった一週間海外観光旅行をしただけで、それも現地の人と一緒に生活したというより、異文化の中にただ身を置いただけで、いくつかの『違い』を感ずることができますので、『一緒に生活する』は更によいに決まっています。

イタリアでは、『イスラム圏』からの移民の子弟の教育をどうするかで、論争があることをこのエッセイを読んで知りました。子供が『キリスト教文化』を基盤とする教育をうけることを好ましいと思わない移民の親たちから、教室を分けて欲しいという要望があるらしいのです。

教育内容から『宗教色』を一切排除するのが公平なのかもしれませんが、イタリアで『歴史』から『キリスト教色』をなくすことなどできるはずがありません。

『ウンベルト・エーコ』は、『イスラム圏』からの移民の子供に、『聖書』や『歴史』を勉強してもらう代わりに、イタリア人の子供にも『クアーラン(コーラン)』や『イスラムの歴史』を勉強してもらえばよいではないかと書いています。多分現実はそうなっていないということでしょう。そのようなことになれば、今度はイタリア人の親たちから苦情がでるのではないでしょうか。

『事実』を客観的に認識できる人同士が議論や折衝をする場合は、冷静な議論や折衝になりますが、同じ『事実』を主観的にしか受け止めることができない人同士はうまくいきません。

多くの議論や折衝が、うまく運ばないのは、対象が難しいからというより、議論や折衝をしている人たちが、『事実』を客観的に認識する能力を持たないことの方が多いように感じます。それに加えて議論や折衝には、最低限のルールを関係者がわきまえていることが必要になります。

日本人は議論や折衝が得意とは言えません。『理』より『情』を重んずる文化背景がある上に、アメリカのように子供のころから学校で『Debate(議論)』の訓練を受けないからかもしれません。

梅爺は、仕事の現役のころアメリカの会社へ出向いて、『技術導入』するための条件『折衝』を担当しましたが、最初は『異文化』に直面して戸惑いました。『言葉(英語)』を含め『異文化』のハードルは想像以上に高いものでした。

ようやく『妥協の仮案』をまとめて日本へ帰国し上司へ報告すると、『それでは条件が悪すぎる、再折衝せよ』などとにべもなく言われて閉口しました。『そうおっしゃるならご自分で出向いて折衝してください。だいたいあなたの英語では折衝どころか会話にもならないでしょう』などと悪態をつきたくなりましたが、ぐっとこらえました。『サラリーマンはつらいよ』を絵に描いたような話です。

『折衝』は『タヌキとキツネの化かし合い』の側面があります。双方とも『本心』は明かさずに、『化かし合い』の中で相手の『本心』を探ろうとします。

多くの『折衝』には、双方の『損得勘定』が背景に絡んでいて、『落とし所』の探り合いになります。ビジネス折衝では、よく『Win-Winの関係』などと簡単に言いますが、『Win-Winの関係』などそう簡単に実現できるものではありません。

政治家は、『国民にご理解いただくために誠心誠意キチンと議論すべきである』などと、これまた軽々しく言いますが、これは『言語明瞭、意味不明』の典型です。『国民のご理解』とは何か、『キチンと議論する』とは何かが分からないからです。梅爺は、この手の発言に接したら、クスッと笑うことにしています。

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2017年3月29日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『異文化共存における折衝』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の25番目の話題は『Negotiation in a Multiethnic Society(多様な民族文化が混在する社会における折衝)』です。

冒頭、『ウンベルト・エーコ』は以下のように書いています(梅爺の拙意訳)。

人間社会の出来事で、誤解、紛争、実現できそうもない理想を回避したければ、基本的な処理方法は『折衝(話し合い)』しかない。『折衝』の原型は、中東のバザールなどで見かけられる『値段折衝』で、売り手が『10』と言い、買手はまず『3』と言い返し、その後すこしづつ歩み寄って結局『6』で合意するというようなことが行われる。買手は売り手に『4』も下げさせることに成功したと思って満足し、売り手はその品物の価値は『5』であることを知っているので、こちらも満足する。 

基本的な『折衝』は、今や『商売』だけでなく、労働組合の闘争、国際的な利害対立、それに異文化の調整にも使われている。 

『折衝』は、言葉の使い方がカギを握り、『言葉の正しい翻訳』が重要な役割を果たす。『ある言葉』の解釈が異なっていたら、話し合って合意できる基本表現を模索し、お互いに異なった解釈にいたる論理プロセスを認め合う、つまり『価値観』の違いを認め合うことが重要になる。 

たとえば、『雨が降っている』という表現を、『どしゃ降り』の時にだけ使う人と、『ポツポツ手にあたる程度の雨』でも使う人がいたとして、後者が『雨が降っているから海岸へは行かない』と主張すれば、前者は戸惑うことになる。前者にとって『雨が降っている』は『どしゃ降り』のことを指すからである。しかし、話し合ってみれば『雨の量』が『出かけるか出かけないかを決める』要素になっているという共通点では合意できるはずである。

西欧の教養人が好む議論の形式は、このように、これでもかこれでもかというほどの『理』を優先したしつこいもので、屁理屈屋の梅爺でも、少々辟易することがあります。でも総合的には尊敬する『ウンベルト・エーコ』の特徴ですから、なんとかついていこうと努力をしています。

このエッセイは、『異文化共存における折衝』が、いかに重要であり、また易しくないものであるかを論じています。

『価値観』はお互いに変えられないとしても、異なった『価値観』が何を基盤に生じているかを理解して認め合うことが、『異文化』環境どころか、日常の親しい人との人間関係でも重要であることは、説明を要しません。

『人間は生物として個性的であるように宿命づけられている』からです。『寛容』と『忍耐』でお互いに『違い』を認めなければ、生きていけません。

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2017年3月28日 (火)

『理』の文化、『情』の文化(8)

『音楽』ばかりではなく、『絵画』においても、西欧では『理』の関与が強いように感じます。

『遠近法』『黄金分割』『光と影の対比』『補色』などは、『理』に裏付けされたルールです。『ピカソ』の『キュービズム』なども、『ものの観方』に関するある種の理的な思考が背景にあります。奔放にデフォルメしたわけではありません。

日本の伝統的な『絵画』でも、技法は継承されていますが、『理』が先行して考え出されたものというより、試行錯誤の中で『情』に訴える表現方式を見つけたもののように思われます。

『文章表現』も西欧の方が『理』のルールを尊重しているように思えます。『名詞』に『男性名詞』『女性名詞』『中性名詞』の区分けがあるなどと言われただけで、梅爺は頭が痛くなります。『主語』のない文章を日本人は多用しますが、逆に西欧人は戸惑うはずです。

西欧の人達の多くは、自分たちの文化が、他の文化に比べて『洗練されている』と考えていて、それが『白色人種(コーカソイド)』は『黒色人種(ネグロイド)』『黄色人種(モンゴロイド)』より優れているという根拠のない優越感につながっています。

『ミトコンドリア遺伝子』『Y染色体』を系統的にたどって、現生人種(ホモ・サピエンス)の先祖はアフリカに出現したと、『科学』が特定した時に、ヨーロッパの多くの学者はショックを受け、長らく認めない人たちもいました。

『白色人種』が優れているという主張は根拠がありませんが、中世から現代にかけて、西欧文化は、『理』を尊重してきたということは言えるのではないでしょうか。

『キリスト教』は『西欧文化』をうまく取り込んできましたので、『宗教絵画、彫刻』『宗教音楽』が、『理』のルールを活用しているという点で、他の宗教芸術に比べて『洗練されている』と感ずるのではないでしょうか。

しかし、それは私達は『西欧文化』に接することが多く、それに慣れているからに過ぎません。

イスラム文化になじんだ人たちは、キリスト教の宗教音楽を必ずしも『崇高』と感じていないのかもしれません。

『文化』は人間の『精神世界』が創り出すもので、『精神世界』が『理』と『情』の複雑な組み合わせでできている以上、『文化』が、『理』の影響、『情』の影響をうけるのは当然のことです。

今回は、『日本文化』『西欧文化』の微妙な違いについて、考えてみましたが、『文化』を一般的に論ずるときにも、『理』と『情』の視点で考察することに意味がありそうです。

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2017年3月27日 (月)

『理』の文化、『情』の文化(7)

『芸術』は、そもそも『情』の文化様式ですが、西欧ではここでも『理』の関与が強いように感じます。

『音楽』ではそれが特に顕著です。『楽譜』という、記号を用いた表現様式は『理』で考案された合理的なルールで、『音』の高低、『音』の永さ、リズム(拍子)といった基本表現を可能にしています。

『強く』『次第に強く』『弱く』『次第に弱く』や、『徐々にゆっくり』『徐々に急ぐ』などの指示も、記号で表記されます。

ただ、『勇壮に』『可憐に』などといった『情』の表現だけは、『言葉』で付記されています。

『西欧音楽』の大きな特徴は、絶対的な音程を、物理的な『周波数』と対応させたことと、複数の異なった『音』を同時に演奏した時に、独特の『情感』が醸し出されることを『和声』としてルール化したことです。

絶対的な音程や『和声』がルール化されなければ、『合唱』『合奏』は成立しません。『西欧音楽』が現在世界の主流になっているのは、『音楽』が『理』のルールで体系化されているからです。

日本にも、『音楽』は古来からありましたが、『絶対音程』や『和声』を『理』で対応するという考え方はありませんでした。『調律する』という考え方はあったとしても、それは『和声』を創り出すためではなく、複数の楽器で同じ旋律を奏でるための相対的な手段でした。『音楽』の伝承も、弟子が師のまねをするといった効率の悪い方法で行われてきました。『音楽』と『理』のルールが対応していることを日本人が認識したのは、『西欧音楽』に触れた後のことです。

このことで、『西欧音楽』が日本古来の『音楽』より『優れている』とは言えません。ただ『西欧音楽』は、世界の他の『音楽』より合理的に様式化されているとは言えます。

しかし、さすがの『西欧音楽』も、作曲家が作曲時に抱いていた『精神世界』をルールだけで忠実に再現できる保証はありません。

『演奏家』や『指揮者』が、『楽譜』に忠実に演奏しようとするのは当然ですが、どうしても『楽譜』で表現されていない部分を『忖度(そんたく)』しなければなりません。

この洞察の深さ、自分の感性の付与で、『演奏』のレベルが大きく変わります。名『演奏家』、名『指揮者』は、この能力にたけている人達です。

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2017年3月26日 (日)

『理』の文化、『情』の文化(6)

西欧文化の源流は古代ギリシャにあるとよく言われます。『理』を尊重する文化は、『真理』を探求する古代ギリシャの科学や哲学の精神の継承であるという説です。

一理ある説のように思えますが、何となく単純すぎるようにも感じます。

『西欧文化』が何故『理』を尊重するのかは、『日本文化』が何故『情』を尊重するのかと同様、現状では『よくわかっていない』ことなのではないでしょうか。

民族固有の先天的な『遺伝子』に由来するものなのか、そうではなく後天的な生活習慣に由来するものなのかを梅爺は理解していません。

もし後天的な生活習慣に由来するなら、西欧環境で育った日本人は『理』を尊重するようになるはずですが、そのような優位さのある実験データを見たことがありません。

『よくわかっていない』ことを前提として、勝手な憶測をいくつか述べてみたいと思います。憶測ですから『正しい』と主張するものではありません。

『文化』に大きな影響を与えているものの一つは、『文字文化』ではないかと思います。

『西欧文化』および『アラビア文化』は、フェニキア人が発明したと言われている『アルファベット(限定された数の表音記号)』を文字の要素として利用しています。

人類にとっての『言語』の原点は、『話し言葉』であったはずですから、限定された数の表音記号の組み合わせで、聴覚情報を視覚情報に変換する方法は、極めて効率的で合理的なものです。『言語』と『文字』の関係を習得するのも容易です。ただし文字の組み合わせで提示された『単語』が、どのような『意味』をもつかは、『脳』で記憶内容とマッチングさせて認識しなければなりません。

一方、中国語のような『表意文字(漢字)』は、視覚情報が直接『意味』に通ずるという点では脳の認識負担は減りますが、膨大な数の『文字(記号)』をあらかじめ習得する必要があるという点では、逆に脳には大きな負担になります。

『表音文字文化』と『表意文字文化』のどちらが、総合的に脳の負担が軽いのかは梅爺に判断できませんが、何となく『表音文字文化』は、『脳』の『理』の機能を発達させ、『表音文字文化』は『脳』の『情』の機能を発達させるのではないかと感じます。

梅爺が『言語学者』であれば、『脳科学者』の支援を得て、これを立証する研究を行いたいところです。

『日本』は、土着の『言語』を『文字』で表現するために、先ず『漢字』を導入したために、極めて特徴的な『文字文化』を保有するようになりました。

『漢字』と『かな(ひらがな、カタカナ)』の併用がその基本です。『漢字』で『表意文字文化』のよいところを利用し、『かな』で『表音文字文化』のよいところを利用しています。

韓国の『ハングル』のように、『漢字』を排除して全てを『表音文字文化』にしてしまったところでは、『単語』の『意味』に到達するのに脳の負担が増えてしまうという短所も背負いこみます。日本語文章を全て『かな』または『ローマ字』で表記されたら、私達は文章の意味を理解するのに今以上の時間がかかるということを考えてみれば、このことは分かります。

『ハングル』は合理的、人工的に考えられた表音記号の組み合わせで構成されていて、『文字』の習得は効率的にできる半面、文章の理解に脳の負担がかかるという話です。

『日本』の『表意文字』『表音文字』の折衷文化は、なんとなく見事なような気がします。特に最近は『カタカナ』で『外来語』を表音表現する習慣になっていて、これも外来語を一目で区分けできる利点があります。

中国のように、『漢字』だけで、表音文字表現にも対応しなけらばならないのは『外来語』をとりこむときに、その都度『当て字』を工夫しなければならず負担になるはずです。

日本語の文字文化故に、日本人が『情』を尊重するようになったという、因果関係の証明は困難ですが、『情』を表現するのに、日本語は向いていたというような気がしてなりません。

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2017年3月25日 (土)

『理』の文化、『情』の文化(5)

人間の『精神世界』は『理』と『情』の複雑な組み合わせで判断が行われますから、人間である以上『理』だけの人、『情』だけの人はいません。

ただ、相対的に『理』を好みその判断を優先する人、逆に相対的に『情』を好みその判断を重視する人は存在します。

『科学者』は前者であり、『芸術家』は後者と言えるでしょう。

大雑把な表現で恐縮ですが、『日本人』はどちらかというと『情』を重視する文化を保有、継承しており、『西欧人』はどちらかというと『理』を重視する文化を保有、継承しているように感じています。

何故このように異なるのか、その原因について梅爺は非常に興味を惹かれます。このように『因果関係』に執着するのは『理』を好む人の習性ですから、梅爺は『日本人』の中では、ズレているのかもしれません。『どうしてあなたはそのようなことに執着するのですか』と周囲の人からよく問われて、ズレているらしいと気づくことがあります。『梅爺閑話』は理屈っぽい、面白くないと言われるのもそのためなのでしょう。

『日本人』の『情』を重視する精神文化は、風土、気候、言語、宗教など多くの要素が影響して、永い時間をかけて醸成されたものにちがいありません。

『四季のある豊かで温暖な自然風土』が大きく影響しているのではないでしょうか。『自然の恵み』によって『生かされている』という感覚は、砂漠の民のような『過酷な自然』と対決して『生きる』民族とは、異なった精神風土となるのは当然のように思われます。

『日本人』の『美意識』は、自然によって育まれたものに違いありません。原色より中間色を好んだり、対象より非対称の形状を好んだり、虫の音、波の音、雨の音を心地よく感じたりするのは、自然の中にそれらが満ち溢れているからなのでしょう。『情』の文化は自然と共存することから生まれたのかもしれません。

同じ東アジアでも、『中国』『韓国』とも、『美意識』が微妙に異なっているのも興味深いことです。

大陸や朝鮮半島から、多くの文化がもたらされ、奈良時代まではその影響が強かったはずですが、『室町時代』ころを境に、日本らしい『美意識』が確立していったように見えるのはどうしてなのでしょう。

三代将軍足利義満の時代の『北山文化』、八代将軍足利義政の時代の『東山文化』が、その後の日本の文化の基盤になっているのは間違いなさそうですが、何故この時代に成熟したのかは、梅爺も理解できていません。ただこの時代は為政者が創った文化でした。

戦国時代以降、『文化』は庶民のものとなり、江戸時代に、見事な庶民文化が花開きました。日本の文化は、一握りの為政者ではなく、庶民がその高いレベルを実現してきたことに意味があります。

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2017年3月24日 (金)

『理』の文化、『情』の文化(4)

人間は、生物進化のプロセスの中で『個性的』であるように宿命づけられています。『両性生殖のしくみ』『受胎時の偶発的な遺伝子の組み合わせで子供の遺伝子が決定』『人間は2~3万種の遺伝子を保有』などという事柄が、『個性的』である理由です。

容貌、体格などの違いは、眼で見て分かりますが、『精神世界』も『個性的』であるという重要な事実は、見えない故に軽視されがちです。

厳密にいえば、同じ事象に遭遇しても、誰も同じようには『考えたり』『感じたり』していないということです。親子、兄弟など遺伝子の類似性が比較的高い間柄でも『考え方』『感じ方』は異なります。

先天的な遺伝子ばかりでなく、後天的な『経験』が『精神世界』に大きな影響を及ぼし、人間の『精神世界』は『個性的』であると同時に時々刻々『変容』していく厄介なものです。

若いころの梅爺の『考え方』と、現在の『考え方』は、まるで別人のように異なっています。音楽の好みも大きく変わりました。

『初心』は、『変容』しやすいからこそ、『初心忘れるべからず』という諺で注意を喚起することになります。

『精神世界』も宿命的に『個性的』であるということを認識していないと、人間関係に問題が生じます。

『自分と同じように相手も考えたり、感じたりしているのであろうと勘違いする』『自分と同じように考えたり、感じたりしない相手を非難する』という行為が、人間関係のもつれの根底にあります。

身近な夫婦、友人間でもこれが原因で、深刻な仲たがいが生じたりします。国家間の争い、戦争などもこれがきっかけで起きたりします。

『個性的』な個人が集まって集団で生きるためには、『寛容と忍耐』が有効な知恵となります。何よりも『人間や、人間の精神世界は個性的にできている』という事実を認識することがまず求められます。

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2017年3月23日 (木)

『理』の文化、『情』の文化(3)

人間も、生物の最も原始的な『安泰(自分にとって好都合なこと)を最優先する本能』を『精神世界』の基盤として継承していると考えると、色々なことが『なんだ、そういうことか』と見えてきます。

ただし、人間の『脳』は高度に進化したため、刹那的な『安泰』の希求だけではなく、いくつかの可能性の中から『相対的に有利な条件の選択』、『将来の安泰を予測しての選択』などの、『比較』『推測』の機能も駆使するようになりました。

『パターン認識』『記憶内容とのマッチング』『因果関係の推測』などの『脳』の機能が、『安泰を最優先する』本能を支えて、総合的に見事な『判断』を下せるように変容していったことになります。

『個(じぶん)の都合』と『全体(コミュニティ)の都合』が、相いれないことに気付き、『脳』は『利己』『利他』という矛盾する『抽象概念』を創出して共有するようになりました。

哲学者や宗教学者は、『人間の中に、邪悪な心と善良な心が共存するのはなぜか』などと悩んだりしますが、『安泰を希求する本能』の二つの側面、『利己』『利他』であると観れば、説明がつきます。

人間である以上、この宿命からは逃れられませんから、『邪悪な心を持つ自分は罪深い』などとことさら畏れ入る必要はありません。勿論『邪悪な心』を是認して開き直ることは慎むべきです。

釈迦のように、邪心、仏心が人の中にあることを認めたうえで、『仏心』を優先して生きなさい、説いたのは極めて鋭い洞察であると言えます。生物進化論などという知識がなかった2500年前に、このような洞察ができたことは驚嘆に値します。『仏心』を優先するには、『理性』が必要ですから、『理性』を磨くことが大切になります。

『好ましい』『愛らしい』『美しい』『美味しい』は『安泰』を肯定する概念で、逆に『嫌い』『憎い』『醜い』『不味い』は、『安泰』を脅かす概念です。

『安泰』を肯定する状況に遭遇すれば、『脳』のなかに対応するホルモンが分泌され、『愉快』になって『笑い』ます。

『安泰』を脅かす状況に遭遇すれば、『脳』のなかには、これまた対応するホルモンが分泌され、『不快』になって『怒ったり』『泣いたり』します。

『精神世界』の事象も、『物質世界』と無縁でないことがこのことで分かります。『脳』の中の『化学反応』『物理反応』が、『情』や『理』を支えています。

『宗教』『哲学』『芸術』『科学』などの高尚な世界も、味気ない言い方で恐縮ですが、『脳』の中の『化学反応』『物理反応』が生み出しています。

梅爺は『精神世界』は、所詮『脳』の中の『化学反応』『物理反応』であると蔑んでいるのではありません。

『精神世界』といえども『物質世界』の基盤の上に成り立っているということは認識しておくべきだと申し上げたいだけです。

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2017年3月22日 (水)

『理』の文化、『情』の文化(2)

『精神世界』に『理』と『情』の主要機能があることは、勿論、母体である『脳』(『物質世界』に存在する実態)の機能と深い関係があります。

『生物』にとって『脳』はどのような意味を持つものかを先ずおさらいしてみます。

『脳』は、『生物進化』の中で、一部の生物が獲得した機能で、『動物』に継承されてきました。獲得したと言っても、必要であるから創ったのではなく、突然変異で出現した機能が、偶然生物の生き残りに都合のよい機能であったので残ったということに過ぎません。現在の『脳』になるまで、数えきれないどの突然変異が繰り返されてきたことになります。『生物進化』は極めて効率の悪い方式で、『物質世界』の『摂理』が関与して進行する『変容』と言い換えることができます。

生物の中で『植物』に何故『脳』は出現しなかったのかを推察してみると、『脳』の出現の意味がわかります。

『植物』と『動物』の違いは、『動かない』か『動く』かの違いです。『植物』は『動かず』その場で、環境から生命維持のための栄養素やエネルギー源を摂取します。一方、『動物』は、生命維持の栄養素やエネルギー源を効率よく摂取するために『動く』機能を採用したことになります。

『動いて』捕食するために、身体の構造に大きな変化が起きました。人間の手足の構造や、感覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、消化器官は、この目的で出現した機能が継承されてきたものです。

『動物』は、『(動いて)捕食する』機能を獲得しましたが、一方、自分が他の『動物』に『捕食される』危険も背負いこみました。効率よく『捕食する』にも、『捕食されない』ように闘ったり、逃げたりするにも、体や感覚器官を総合的に『制御』する必要があり、この目的で『中枢指令センター』として『脳』の機能が出現したことになります。

動かない『植物』は、このような必要に迫られなかったために『脳』が出現しなかったと考えれば、合点がいきます。

『動物』の場合『脳』は、基本的な『生命維持』のための『制御センター』ですから、この機能が失われれば、『命』は維持できなくなり、『死』に至ります。

『動物』が動いて『捕食』の目的を達したり、自分が『捕食』されないように闘ったり、逃げたりするためには、『周囲の状況を判断する』必要が生じます。

『脳』は『感覚器官』と連動して、周囲の状況を判断するための『情報』を取得し、その『情報』を用いて『判断』を行うようになりました。

『ヒト』で言えば、これが『精神世界』の原点ということになります。

最初に必要とした『判断』は、周囲の状況が自分にとって『都合のよいもの』か『都合の悪いもの』かを区別することであったに違いありません。

梅爺が、『精神世界』を支配する基本的なものは、『安泰を希求する本能』であろうと推察したのは、上記の考え方によります。

私達の『精神世界』は、非常に高度で複雑なものにまで進化していますので、『高尚なもの』と考えがちですが、原点は『安泰を希求する本能』、つまり『自分にとって都合のよいものを優先的に選ぶ習性』という単純なものであると考えると、いままで不思議に思われていたことが、『なんだ、そういうことか』と理解できるようになりました。

『宗教』『芸術』『哲学』『科学』など全ての精神活動は『安泰を希求する本能』という原点から派生したものと考えれば、多くの謎が解けます。

梅爺は、この考え方が多いに気に入っています。

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2017年3月21日 (火)

『理』の文化、『情』の文化(1)

人間の『精神世界』は、『脳』が創り出す『仮想世界』であろうと梅爺は考えています。一般に『心』と呼ばれているものも、『精神世界』に属します。 

『精神世界』は、言葉やその他の芸術表現手段で表現されたものを介して、部分的に、『眼に見えるもの(文、絵、彫刻など)』『耳に聞こえるもの(音楽など)』として把握することができますが、『精神世界』の全貌は、実態として把握することはできません。『仮想世界』と呼ぶのはそのためです。 

人間の『身体』は『物質世界(自然界)』の『摂理(自然の法則)』によって『生かされ』ています。つまり『身体』やその一部である『脳』は、『物質世界』に属し、『実態』があるもので、自然界に存在するありふれた素材を使ってできています。 

『物資世界』に属する『脳』が、『仮想世界』である『精神世界』を創り出す基盤として機能しているという関係を先ず理解する必要があります。こう考えれば、『脳』が機能を停止した時、『精神世界』も同時に消滅する(無に帰す)という論理帰結になります。 

『精神世界』の大きな特徴の一つは、『物質世界』の『摂理』の制約を受けずに、自由奔放に『虚構』を考え出すことができることです。 

私達の周囲にある事象が、『物質世界』に属する実態ある事象なのか、『精神世界』が創り出した実態のない(虚構の)事象なのかを、私達は普段あまり意識して区別していません。 

『桃太郎』『かぐや姫』は、誰でも『虚構』と認めますが、『神』『悪魔』『霊魂』『天国』『地獄』となると、誰もが『虚構』と認めているわけではありません。 

証明することはできませんが、梅爺の『理性』は、『神』『悪魔』『霊魂』『天国』『地獄』が『虚構』であると囁き続けています。そう考えて、『矛盾』を見出すことができないからです。 

『神』は『虚構』であると考えれば、『神の体を形成する素材は何か、神が活動に要するエネルギーはどこから得ているのか』などと考える必要がないからです。もし『虚構』ではなく『実態』があるものということになると、そういう議論も必要になるはずですが、かつてそのような議論を耳にしたことがありません。 

『精神世界』のもう一つの特徴は、『抽象概念』を言葉として、共有できることです。『愛』『正義』などはこの『精神世界』でのみ通用する『抽象概念』であろうと梅爺は考えています。換言すれば『物資世界』には『愛』『正義』は存在しません。 

『精神世界』の三つ目の特徴は、『理』と『情』という異なった種類の『判断』要因が複雑に絡み合って、最終判断が行われていることです。そしてその判断は『個性的』で、一人一人異なります。厳密にいえば地球上の70億人の『精神世界』は全て異なっていて『個性的』です。『生物進化』によってそのように、肉体や脳が形成されるように宿命づけられているからです。

人類が歴史の中で培ってきた『文明』『文化』(これらも『精神世界』が創り出した抽象概念)は、勿論この『精神世界』の『理』と『情』が深く関与しています。このブログでは『理』と『情』と、『文化』の関係を考えてみたいと思います。

くどいようですが『理』も『情』も『抽象概念』です。

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2017年3月20日 (月)

無心のマエストロ(6)

人間社会のグループでは、そのグループの特質で、『リーダー』に求められる資質に違いが生ずることになります。

一国の『政治リーダー』、企業の『経営責任者』、団体スポーツチームの『監督(コーチ)』、そしてオーケストラの『指揮者』では、事情が異なるからです。

しかし、いずれも『人間が構成する集団』であり、『集団の総合行動成果を最大限に発揮させること』『個々のメンバーの意欲や生きがいを高揚させること』が目的であるという点では共通ですから、この視点で観れば一般的な『リーダー』の資質を論ずることは無意味ではありません。

しかしこの議論は『科学』の真偽を決める議論とは異なりますから、提言はあくまで一つの提言であって、提言内容を『正しい』と断言はできません。

提言内容を観て、各自が『自分としては納得がいく』かどうかを判断し、比較的多くの方が『納得がいく』と思うならば、人間社会では価値があるということになります。

この本の著者は、『リーダー』の資質として『虚心坦懐(無心)』『違いを受け容れる』『他人の話に耳を傾ける(聞き上手)』の三つを挙げています。

日本人は、これを見てびっくりはしませんが、『個人主義(自己主張)』が強いアメリカ社会では、人々の意表をついた提言に見えるのかもしれません。『話し上手』はアメリカ社会では能力評価の有力な対象になります。『トランプ大統領』に投票した人たちは、この本の指摘に目を丸くするでしょう。

梅爺も、会社の現役時代にアメリカのコンサルタント会社の『上級経営者コース』を現地で受講したことがありますが、この時も理想の『リーダー』は『サーバント・リーダー』であるべきだと教えられました。私利私欲なしに、グループメンバーのために『奉仕』をする姿勢が大切ということです。英語では『Humble(謙虚))』という言葉が使われます。

高度な知識、知恵を導き出す推論能力、他人の情感を配慮する感受性などの優れている人が、『虚心坦懐』『違いを認め』『聴き上手』に徹したらそれは『リーダー』として素晴らしいと梅爺は賛同します。

最近のオーケストラの『指揮者』では、確かにこの本が指摘するような資質を保有する人が増えているように感じます。

NHK交響楽団の初の首席指揮者『パーヴォ・ヤルヴィー』なども、その一人でしょう。

指揮ぶり、インタビューへの受け答えなどをテレビで観て、梅爺はすっかりファンになりました。

ブログでも、感動を伝えようと前に紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-ad15.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-6fd7.html

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2017年3月19日 (日)

無心のマエストロ(5)

人間社会にどのようなタイプの『リーダー』が出現するかを考えてみれば、オーケストラの『指揮者』にどのようなタイプの人間が登場するかは想像ができます。

『Ignorant Maestro』という本では、以下の過去、現在の著名な指揮者を例に挙げて、『リーダー』の資質を論じています。

『リカルド・ムーティー』(1941-:イタリア)
『アルトゥーロ・トスカニーニ』(1867-1957:イタリア)
『リヒァルト・シュトラウス』(1864-1949:ドイツ)
『ヘルベルト・フォン・カラヤン』(1908-1989:ドイツ)
『カルロス・クライバー』(1930-2004:ドイツ)
『レオナード・バーンスタイン』(1918-1990:アメリカ)

いずれも時代を画した『大指揮者』ですから、優劣をつけるような話にはなっていませんが、その人の短所と思われる点を挙げて、『もし、こんな人物があなたの会社のボスであったとしたら戸惑うのではありませんか』とほのめかしています。

確かに、『自分本位』『妥協を許さない』『気難しい』などの天才肌の人間にありがちな資質を持っている人が多く、音楽の世界を離れて観れば、日常の生活では私達があまりお付き合いしたくない方々かもしれません。

ただ『レオナード・バーンスタイン』だけは、別格の『指揮者』として好意的に紹介されています。著者(指揮者)自身が、薫陶を受けた師であることと、『バーンスタイン』がアメリカ人に愛されるタイプの人物(映画音楽、ミュージカルの作曲で有名)であることが、著者(アメリカ人)の共感の基になっているのではないでしょうか。

上記の『指揮者』の中で、『シュトラウス』と『バーンスタイン』は『作曲家』でもあります。自分の『作品』の『指揮』をするときは、自分の『精神世界』の表現ですから『作曲家の情感、考え方』などを忖度(そんたく)する必要がありません。『作曲家』が自ら『指揮』をする、というスタイルは音楽の理想かもしれません。

『指揮者』の中には、もともと楽器の演奏者であった人も沢山います。現在活躍中の『指揮者』では、『アシュケナージ』『バレンボイム』などは『ピアニスト』としても有名です。『オーケストラ』による幅の広い音楽表現を目指したくなる気持ちは理解できます。

『指揮者』は必ずしも楽器演奏ができる必要はありませんが、『音楽』に関するあらゆる基礎知識を習得する必要があり、『楽譜』に書かれていること、書かれていないことを含めて作品を読み解く能力が求められます。

『リハーサル』の時には『言葉』で、『本番演奏』の時には『ボディ・ランゲージ(顔の表情、手や体の動きなど)』で表現したい内容をオーケストラ団員へ伝えなければなりません。つまり、高度なコミュニケーション能力が求められます。

『指揮者』は特定の能力をもった人だけにできる『仕事』ですから、『マエストロ』と呼ばれるのは大げさな話ではありません。

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2017年3月18日 (土)

無心のマエストロ(4)

『指揮者』が抱える問題を理解するには、『音楽』という芸術の特殊性を理解しなければなりません。

『音楽』は、『創作する人(作曲家)』『演奏する人』『演奏を聴く人』が存在して成立します。特に『演奏する人』と『演奏を聴く人』は、場所と時間を共有する必要があるのも大きな特徴です。

レコードやCDが出現して、『音楽鑑賞のスタイル』は変わりましたが、本来『音楽』は、『一回だけの真剣勝負』で、これに『演奏する人』と『演奏を聴く人』が参加する芸術様式です。

『一回だけの真剣勝負』で『何を創造し、何を伝えるのか』がポイントですから、同じ曲を、同じ指揮者とオーケストラで2度演奏すれば、演奏内容は微妙に異なることになります。『二度と同じ演奏ができない』のが『音楽』の特徴です。ジャズほどではありませんが、クラシック音楽の演奏にも、『即興』の要素があるということです。

『絵画、彫刻』『文学』と『音楽』の基本的な違いをご理解いただけたでしょうか。

ここで問題になるのが、『創作する人』の『創造』と、『演奏する人』の『創造』はどのような関係になるのかということです。

『モーツァルト』や『ベートーベン』は、『作品』を『楽譜』で残しました。『楽譜』は『音楽』を表現する『記号』で、『文学』の『文字』に相当するものですが、『楽譜』で表記できる範囲には限界があります。

そこで、『演奏する人』は、『創作する人がこのような音楽表現を意図したのであろう』と推測して、実際の演奏を行います。つまり、『演奏する人』の『解釈』が演奏に反映されます。『モーツァルト』や『ベートーベン』が生きていて立ち会えば、『オイオイ、違うよ』と言い出すかもしれません。大体当時の『楽器』と現在の『楽器』は同じではありませんから、『創作する人』が想像もしなかったような『音』が響いているにちがいありません。

『創作の意図と、演奏の解釈の違い』『一回だけの真剣勝負の演奏』『時間の経過を利用した表現様式』が『音楽』という芸術の特殊性です。

『オーケストラ』は、色々な役割分担の楽器とその演奏者(団員)、全体を統率する『指揮者』で構成されます。

団員である演奏者も音楽家としての自負があり、音楽に対する『解釈』『価値観』を個々に持ち合わせています。このような多様な『つわもの』を統率して、一つの『音楽』にまとめ上げていかなければならないわけですから『指揮者』の仕事は大変です。

『オーケストラ』は人間社会の縮図であり、『指揮者』の資質は、人間社会の『リーダー』の資質を投影するものであると考えれば、『指揮者』の役割の一端が理解できたことになります。

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2017年3月17日 (金)

無心なマエストロ(3)

オーケストラや合唱団の『指揮者』の役割を、音楽とは普段あまり縁のない方に『説明』することは、容易ではありません。

簡単に『説明』できないからこそ、『Ignorant Maestro』などという本が出版され、その深遠な内容が、読者を啓発し、反響を呼ぶことになるのでしょう。

本質を追求していくと、結局『個人とグループ(個と全体)』というそもそも『矛盾』をはらんだ関係を、『どのようにまとめていくか』という問題へ帰結します。

何故『個』と『全体』は『矛盾』をはらんだ関係であるかについては、何度もブログで梅爺は自分の『考え方』を述べてきました。

人間(個人)はマクロに観れば『同じ』ですが、ミクロに観ると『異なっている』、つまり細部においては『個性的』で、体格、容貌、性格、能力(考え方、感じ方など)は『違う』ということになります。

生物学的な進化の過程(両性生殖のしくみを採用)で、そのようになるように宿命づけられていますので、誰もこの制約から逃れることはできません。体格、容貌の違いは視覚で認識できますからすぐに理解できますが、『精神世界』の違いは、観えないこともあっても認識はあやふやになります。

『自分が考え、感じているように他人も考え、感じているのであろう』と、勝手に推測しがちですが、残念ながら事実はそうではありません。周囲の人間は、たとえ親子、兄弟、夫婦、親友同士であっても、『同じように考えたり、感じたりはしていない』というのが実態です。

この事実を直視し認めることに、最初は戸惑います。しかし、『互いの違いを認め合うことが人間関係の基本である』と覚悟して受け容れれば、周囲のことが全く違って見えてきます。そして、『自分の考え方、感じ方が正しい』と主張することに慎重になります。

人類は、『生き残りの確率を高める』ために、『集団で生きる』方法を生物進化の過程で選択しました。これは他の動物にも観られることです。

そして、『個の価値観』と『集団の価値観』の違いにどう対応するかのという問題に遭遇しました。本来『個性的』で多様な『価値観』を持つ『個』が、『集団』の中では、一律な『集団』の『価値観』を守らなければならない場合があるという『矛盾』に遭遇したことになります。

人類の歴史は、この『矛盾』と向き合い続けることでした。『法』や『倫理』などという『約束事』が考え出され、『民主主義』などという社会運用のシステムルールも考え出されました。

しかし、『矛盾』を解消する普遍的な方法論は、見つかっていません。『諍(いさか)い』『戦争』が絶えないのはそのためです。言い方を変えれば『法』も『民主主義』も、絶対的な『決め手』ではないということです。『民主主義』は人類が到達した究極の理想的なシステムとは言えません。

音楽の『指揮者』は英語では『Conductor』と表現されます。『統率して導く人』という意味ですが、音楽において『何を統率するのか』『どこへ導くのか』は必ずしも判然としていません。

歴史的に沢山の名『指揮者』が存在しますが、『何を統率し、どこへ向かうのか』の考え方は個性的であり、同じではありませんでした。

音楽の『指揮者』が、『個と全体の矛盾』という人間社会が抱える問題に直面し、その対応姿勢が時代によって変遷している背景をご理解いただけたでしょうか。

ここでも『絶対的な決め手』がないために、試行錯誤が続いています。

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2017年3月16日 (木)

無心なマエストロ(2)

『Maestro(マエストロ)』は『巨匠』『大家』を意味するイタリア語で、音楽業界では『指揮者』を敬意をこめて呼ぶときに使います。ドイツ語の『Meister(マイスター)』も似た意味の言葉ですが、英語の『Mister』は男性一般の敬称語として異なったニュアンスで使われます。

『カラヤン』などは、風貌、身のこなしなどまさしく『マエストロ』という言葉がぴったりで、『カリスマ』と『威厳』で、オーケストラに君臨するイメージの『指揮者』でした。

しかし、昨今の世界的に有名なオーケストラの『指揮者』は、『カリスマ』と『威厳』で威圧的に団員を掌握するようなタイプの人は減り、むしろ、人間味あふれ、豊かな表情やしぐさで指揮する人が増えています。

『オーケストラ』の演奏は、『指揮者』の『音楽観』を団員が規律正しく、間違いなく表現することではなく、一人一人個性的な団員の『音楽観』をできるだけ損なわないように『指揮者』が束ね、団員が満足する一段階高いレベルの演奏を実現することであると、時代とともに『考え方』が変化してきているように感じます。

梅爺は、最近の『考え方』に共感を覚えます。団体競技のスポーツにおける『監督』『コーチ』の対応も、時代とともに変化していて、オーケストラと同じようなことがいえます。『スパルタ的な鬼コーチ』では本当に強いチームは創れません。

この『考え方』の変化の中に、リーダーに求められる資質の『本質』が潜んでいるからこそ、『The Ignorant Maestro』という本が、音楽の世界を超えて、あらゆる分野の人々関心を呼んだのではないでしょうか。

タイトルの『The Ignorant Maestro』という表現が、英語の表現としては読者の意表をついています。『Ignorant』は『無知な』という意味の形容詞ですから、『Maestro(巨匠、大家)』と結びつきません。

常識的に『無知な人』が、ある分野で誰もが認める『巨匠、大家』になれるはずがないからです。

この本を読むと、著者があえて意図的にネガティブなイメージの三つの言葉を、リーダーに必要な『キーワード』として挙げていることが分かります。読者に『常識』を疑ってほしいということなのでしょう。

『Ignorance』『Gaps』『Keynote Listening』がその三つです。

理解しやすい日本語に翻訳すれば『虚心坦懐(無心)』『違いの容認』『聴き上手』ということです。

本当に『無知な人』が『虚心坦懐』に振る舞っても意味がありません。広範な音楽に関する『知識』を保有している『指揮者』が『虚心坦懐』に振る舞うことに意味があります。

『学際的な知識』を保有しない人がには『リーダー』は務まらない時代になっていると梅爺は感じていますので、この著者の主張には賛同します。

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2017年3月15日 (水)

無心なマエストロ(1)

梅爺は、アマチュア合唱団(アカデミカ・コール:東京大学コールアカデミーOB男声合唱団)に所属し、年に数回開催される『演奏会』での曲目を練習するために、週に一度都心の練習場へ通っています。

『アカデミカ・コール』には、優れた団内指揮者(団員で、学生時代にコールアカデミーの学生指揮者であった方)が数人おられ、普段の練習を担当しています。しかし、多くの本番『演奏会』では、プロの指揮者である『三澤洋史(ひろふみ)』先生や『前田幸康』先生に指揮をお願いしています。

『三澤洋史』先生は、新国立劇場で合唱指揮者を務めておられる、我が国を代表する合唱指揮者のお一人で、オペラの中の合唱や宗教曲(ミサ、レクイエム、受難曲など)を多く手掛けられることもあって、数種類の外国語(欧米)とラテン語に通じておられます。ご自分でも作曲やミュージカルの総合プロデュースを手掛けるうらやましいほどの多彩な才能の持ち主です。

『アカデミカコール』のようなアマチュア合唱団を指導していただくには、もったいない先生なのですが、力量はともかく真摯(しんし)な努力をおこたらない合唱団員に好意をもっていただき、あたたかく、かつ厳しい指導をしてくださいます。

『前田幸康』先生は、梅爺が学生時代に属していた『コールアカデミー(男声合唱団)』で指揮をお願いしていた『前田幸市郎』先生の御子息で、オーケストラのチェリストと指揮者の『二刀流』で活躍されています。

合唱のほかに、梅爺は『クラシック音楽』も大好きですので、NHK地上波教育チャンネルの『クラシック音楽館(主としてNHK交響楽団の定期演奏会を放映)』や、NHKBSプレミアムチャンネルの『プレミアム・シアター(海外のオーケストラ、オペラ、バレーなどの放映)』を欠かさず録画し、鑑賞しています。

梅爺は、『合唱団』や『オーケストラ』の『指揮者』が欠かせないものであることを、体感的に理解しているつもりでしたが、書店で『The Ignorant Maestro : Itay Talgam著』という本(英語のペーパーバック)を見つけ読んでみて、『優れた指揮者の資質』について改めて考えることができました。

著者の『Itay Talgam』は、世界的な指揮者『バーンスタイン』から薫陶を受けたオーケストラ指揮者の一人で、20年間指揮者を務めてきて得た自らの見識をまとめて出版したものです。

組織に求められる『リーダーシップ』とは何かを論じた内容が反響を呼び、音楽の分野ではない、『企業』『軍隊』『学校』などの関係者から講演依頼が多数舞い込むようになり、今や『指揮者』よりは『リーダーシップ・コンサルタント』としての方が有名なのかもしれません。

この本の感想と、梅爺自身が考える『指揮者の役割』とを、このブログでは紹介していきます。

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2017年3月14日 (火)

The devil is not so black as he is painted.

英語の諺『The devil is not so black as he is painted.』の話です。 

直訳すれば『悪魔は描かれているほど黒くはない』となり、意訳すれば『悪いだけの人間はそうはいない』ということになります。 

誰もが保有すると仏教が教える『邪心』『仏心』のこととして観れば、『悪人にも仏心はある』ということを言っているのでしょう。 

しかし、報道される『血も涙もない冷酷な殺人事件』などに接すると、『救い難い極悪人』と考えたくなる犯人はいますから、『少し甘すぎませんか』と反論したくもなります。 

人間は、宿命的に『個性的』ですから、『邪心と仏心が共存する』というのは論理的な表現で、実際には『限りなく邪心だけ』の人間が、ある確率で社会には必ず存在するともいえます。 

問題は、『救い難い極悪人』が先天的要因(遺伝子)と後天的な要因(生後の体験)のどちらに起因するかの判定で、これも容易ではありません。 

『救い難い極悪人』が先天的な要因で出現するなら、社会はある確率で犯罪が起きることを覚悟しなければなりません。全体的には『善良な人たち』が大多数を占める社会でも、犯罪を皆無にはできないということになります。 

後天的な要因が強く作用しているとしたら、幼児期からの『情育』など教育への投資が効果的に犯罪率を減らすことにつながるはずです。 

梅爺は、自分の体験も含め『成人』の『精神世界』は、かなり後天的な体験で決まると感じていますので、幼児期からの『情育』の充実は、国として取り組み投資すべき事柄と考えています。 

犯罪は皆無にはできませんが、減らすことは可能です。犯罪発生率が低い国は『文明度』の高い国と言ってよいのではないでしょうか。 

話が変わりますが、西欧のキリスト教文化の中で、『神(God)』と『悪魔(Devil)』という対比概念が存在することに、梅爺は興味を惹かれます。 

『全知全能の神』が、どうして自分に対抗する(言うことをきかない)『悪魔』の存在を認めているのか(排除しないのか)と素朴な疑問を抱いています。 

『神』が唯一なら、『悪魔』も唯一なのかそれとも複数存在するのかも問いたくなります。 

梅爺なりの見解は、ブログに何度も書いてきましたが、皆さまはどのように考え、納得されますか?

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2017年3月13日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『聖戦、情熱、宗教』(6)

『人間』を本質的に理解するためのキーワードは『個性』であろうと梅爺は考えています。つまり、『容貌、能力、考え方、感じ方は同じではない』ということです。

『そのようなことは、あなたに言われなくとも分かっている』と多くの方がおっしゃいますが、『人間が個性的である』ということを、『歴史』『文明』『文化』『芸術』『宗教』『教育』と関連付けて深く論ずる方は多くはありません。

梅爺が子供のころに、この重要性を教わっていたとしたら、梅爺の人生は全く変わっていたに違いありません。

『人類は皆兄弟』というスローガンは、『誰もが同じ』という誤解を与えかねません。重要なことは『誰もが異なっていることを相互に認め合う』ということです。

『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず』という『教え』も、基本的な人権において論理的に『平等』であることを述べているのであって、誰もが同じレベルにあるということを言っているのではありません。

『戦争は何故なくならないのか』『差別、いじめは何故起きるのか』といった問題の本質も『人間は個性的である』ということを抜きにしては考えられません。

このことの重要性に気付いたのは、哲学的に深く考えて閃いたわけではなく、『宇宙の歴史』『生命の出現』『生命進化』を『科学知識』として学ぶ過程で、『論理的な帰結』として見えてきたからです。ブログを書き続けてきた効用ともいえます。

『ウンベルト・エーコ』は、このエッセイで、人は何故自分が属する『文化』が、他の文化より『優れている』と思いたがるのかを、種々の事例を挙げて論じています。

『誤解』や間違った『優越感』が生ずるのは、『異文化』を『知らない』からで、『知る』ための色々な方法論を述べています。

お互いに、何故相手が『奇異にみえる』のか、『許容できないと思うのか』を率直に話し合うことの大切さを強調しています。

何よりも子供に、『人間は一人一人異なっている』ことを教え、『異なった相手とどう対応するか』を考える訓練をすべきとも書いています。

このことは、上述の梅爺の考え方とも一致しますから異論はありません。

人間は『個性的』であるにもかかわらず、群のなかで『安泰』を得るために、『絆(一体感)』をよりどころにしようとします。この『異なった者が同じように振る舞う』という一見矛盾した行為が、人間関係を豊潤なものにすると同時に、時にはおどろおどろしいものにします。

コミュニティの『文化』は、『絆』の形成のための基盤になります。『個性的』な人間が集まって『文化』を作り、その『文化』は逆に『個人が生きる』ことに多大な影響を与えることになります。

『人間』と『文化』の関係について、梅爺はまだまだ考えが浅いと痛感しながらこのエッセイを読みました。

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2017年3月12日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『聖戦、情熱、宗教』(5)

『ウンベルト・エーコ』は、『文化』や『文化比較パラメータ』を定義するときに、『過去の歴史』は重要な意味を持たないと書いています。

天才『レオナルド・ダ・ヴィンチ』を輩出したから『ヴィンチ村』は『ニューヨーク』より優れているとは言えないと述べています。

『文化』は時代とともに『変容』するものですから、どの時代を論ずるかで、事情が異なるのは当然です。

『日本文化』に共通する本質を論ずることと、『飛鳥・奈良文化』『平安文化』『鎌倉文化』『室町文化』『戦国文化』『江戸文化』『明治文化』『現代文化』を比較論的に論ずることとは自ずから方法論が異なります。

『江戸時代』の特殊な事例を挙げて、『江戸時代の日本は現在より文化的に優れていた』などとは言えないのも当然です。

『現代の文化』で世界の『文化』を比較しようというのも、考えてみると易しいことではありません。

『科学知識の普及と技術応用のレベル』『政治システムの成熟度』『経済システムの成熟度』などが強い影響力を持つこと、『宗教』『社会風習』も少なからず影響力を持つことは容易に想像できます。

現代の西欧(欧米)社会が、『科学』『政治』『経済』で、他のアフリカ、中東、アジア、中南米、オセアニアの地域の社会より、高い水準を保持しており、その高い水準こそが『文化』の水準であるという論法なら、現代の『西欧文化』は他の地域の『文化』より進んでいるという話になります。

しかし、これは『文明比較』であって、『文化比較』ではないように梅爺は感じます。

何を『利便』『快適』と『感ずる』かは『精神世界』が深く関与する『価値観』で異なり、『文化』はその地域の『共有価値観』ですから、一概に『科学技術の普及度』で『文化』を比較することは慎重であるべきです。

その地域の人たちが、『知らない』がゆえに受け容れていないのか、『知っていて』受け容れようとしないのかも観察する必要があります。

『西欧社会』の『価値観』で観れば、『西欧文化』は『優れている』ということになり、それに近い『価値観』を歴史的に育んできた現代の『日本』も、『優れている』部類に入ることになります。

『文化』は、その国民が自らの意思で選択し、『変容』させていくものであって、他国から強要されるものではありません。

したがって、『文化』の優劣を比較することは、あまり意味がないように思います。しかし、『日本』の『文化』を、どのようなものにしていくかは、日本人にとっては極めて重要な問題になります。

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2017年3月11日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『聖戦、情熱、宗教』(4)

『ウンベルト・エーコ』は、異なった『文化』同士を比較するときには、『文化』の『定義』や、比較パラメータの記述が客観的に行われなければならないと述べています。

ごもっともに聞こえますが、これは『理』を優先する西欧人の論理であって、『科学』の世界では基本的な考え方として通用しますが、人間社会の事象に適用するのは困難であろうと梅爺は思います。

人の『精神世界』の『情』が絡む概念や世の中の事象を、『客観的』『普遍的』に『比較する方法』は『存在しない』と梅爺は考えているからです。

それは『好き嫌い』『美醜』『善悪』などの『抽象概念』を思い浮かべてみれば、納得がいきます。個人が、自分の個性的な『価値観』で、優劣を判断することは可能ですが、あくまでも『その人の判断』に過ぎません。

梅爺は『モーツァルト』の音楽が『好き』で、世の中には同じく『好き』という人たちが沢山おられることは承知していますが、それをもって他の作曲家より『モーツァルト』が『客観的に優れている』と主張することはできません。世の中には少数かもしれませんが『モーツァルト』を評価しない人も厳然と存在するからです。

『戦争反対』と多くの人が叫び、梅爺も個人的には『戦争』は嫌いですが、残念なことに人間社会全般に『戦争は邪悪』という概念が、普遍的価値観としては定着していません。『聖戦』を崇高視する人たちや、『安泰を脅かす敵』は積極的に撃退することを優先する人たちは絶えませんから、人類の永い歴史の中で、究極の『平和』は実現できていません。

『ウンベルト・エーコ』も、『文化』や『文化比較パラメター』を客観的に記述することは難しいと感じたのか、人類学者が色々試みたけれども、うまくいっていないと、人類学者に責任を押し付けています。

さすがの『ウンベルト・エーコ』も『評論家』にとどまっていて、いくつかの方法論は論じていますが、自説(自らの定義)を開陳していません。

『文化比較パラメータ』の『客観的記述』ができていないのは、人類学者のせいではなく、人間の持っている基本的な習性を是認する限り、所詮無理な話であるというのが梅爺の考えです。

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2017年3月10日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『聖戦、情熱、宗教』(3)

人は誰も、生まれ育った環境の『文化』に親近感を持つものだと、『ウンベルト・エーコ』は書いています。 

『ウンベルト・エーコ』自身も、老後住むとしたら風光明媚なふるさとを選ぶし、病気の治療は『ミラノ』の病院を利用したいと述べています。『モスクワは素晴らしい街ですよ、バグダッドの病院は世界一の設備を誇っていますよ』と言われても選ばないだろうとも書いています。しかしこのことは『イタリア』が『優れている』と言っているわけではなく、『イタリア』が『好きだ』と言っているだけに過ぎません。 

何よりも周囲の人たちと『同じ言語』で話ができるという環境は快適です。『言語』は『文化』に対して大きな影響力を持つからです。 

梅爺流に言えば、生まれ育った環境は、慣れ親しんで『ストレス』を感ずることが少ないのは当然ですから、人の『安泰を希求する本能』がそれを選択するのは極めて自然な話です。 

しかし、ここでも人間は『これが好きだ』『好きなものは優れている』と論理飛躍をし、他の『文化』を蔑視しようとする習性をもっています。 

『西欧文化』の歴史を観ても、『周囲の異文化』に興味を惹かれ、それを学んで、自分を客観視することの大切さを説いた賢人は勿論いましたがそれは少数派で、結局『西欧文化が優れていて、異文化は劣っている』という考え方が大勢を占めるようになるということの繰り返しが行われてきたように思えます。 

中世に、『イスラム文化』の学問が、『キリスト教文化』よりも優れていることに気付いた人たちが、アラビア語の書物を翻訳して学んだ時期もありましたが、現在では多くの『西欧人』は、『キリスト教文化』の方が『イスラム教文化』より、洗練されていて優れていると判断しています。

『言語』が『文化』の基本要素であることは、古代ギリシャ人が、『ギリシャ語』を話さない民族をすべて『野蛮人』と呼んでいたことでも分かります。中国の歴史でも、漢民族を取り囲む周辺の民族は、『蛮族』と呼ばれ、表記に『卑しい文字』をあてました。日本でも、最初に接した西欧人は『南蛮人』と呼ばれました。

言葉が通じない相手は、『何を考え』『何を感じ』『何を大切にしているか』は理解できませんから、そういう人たちは劣っていると勝手に思い込んでしまうことになります。

よく考えてみると、昔の人たちだけの話ではなく、私達も『自分の能力で理解できる範囲』で、判断しながら生きています。能力の高い人から観ると、これは滑稽なことなのでしょう。『知らぬが仏』で、『大切なこと』『危険なこと』などが身に迫っていても、能天気に気付かずに振る舞っているに違いないからです。自分が劣っているかもしれないと少しも疑念を持たない人は、客観的には器の小さい人です。

しかし、『自分が理解できないことを理解せよ』と言われても、論理的に無理ですから、『自分が理解できていないことが世の中にはある』ということだけでも心得ておく必要があります。そして少しでも理解の範囲を広げようと努力することが大切です。

『異文化』を少しでも知るための有効な手段は、『外国語』を学ぶことですが、現代では翻訳された情報も沢山ありますから、『日本語』で『異文化』を感じ取ることも可能です。

何といっても、好奇心を持続することが、自分の理解の範囲を広める原動力になります。『死ぬまで野次馬』が梅爺の理想です。

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2017年3月 9日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『聖戦、情熱、宗教』(2)

『私人』が自分の意見を述べ、たとえその意見の中に誤認が含まれていても、それはやむを得ないことです。私達は、自分の限られた知識や能力で、考え、表現しているわけですから、余程の賢人でもないかぎり、誤認や不適切な表現は避けられません。

したがって重要なことは、誤認や不適切な表現を犯してしまう可能性が自分に付きまとっていることを『認め』、常に謙虚に自分を『疑う』ことになります。

自分を『信じて』述べる、自分を『疑って』正すという一見矛盾する姿勢を受け容れる人は、周囲から非難されずに、むしろ尊敬されます。

一方『政治家』『宗教の聖職者』『教育に携わる教師』は、務めを果たす時には『公人』ですから、発言の中の誤認や不適切な表現は、『やむを得ない』などと寛容には見過ごせません。

『ウンベルト・エーコ』は、『公人』の発言は、社会に広く議論を呼び起こし、特に『若い人たち』を偏った考え方に誘導しやすいことを危惧しています。

『老人』は、人生で蓄積した自分の『価値観』を持っていて、他人の『言葉』で簡単にその『価値観』を変えたりはしませんが、純真な『若い人たち』は、他人の『言葉』、特に刹那的で煽情的な『言葉』に取りつかれてしまう可能性が高いからと述べています。

歴史的に、多くの血が流された『宗教対立戦争』を観てみると、『情緒的な忠誠心』『単純に対立を煽る言葉』で始まる例が多いと『ウンベルト・エーコ』は指摘しています。『我ら(仲間)対彼ら(敵)』『善良(自分たち)対邪悪(敵)』『白対黒』などが典型例です。

『対立を単純化して煽る』という手法は、一見『分かりやすい』ために、『政治家』が国民を誘導するためによく用います。小泉元首相は『郵政民営化の是非を問う』とだけ叫んで総選挙に踏み切りました。アメリカの大統領選挙時の『トランプ』の発言などは、この手法のオンパレードでした。

『スローガン』も『対立を単純化して煽る』のに効果的です。戦時中には『欲しがりません勝つまでは』『鬼畜米英』などの『スローガン』であふれていました。

『単純化』は、複雑な事象の本質を分かりやすく提示するという長所もありますが、そのことで背景の複雑な事象が『単純』であると誤解を与える短所も存在することをわきまえておく必要があります。

誰かが、『対立を単純化して煽る』発言をしたり、もっともらしい『スローガン』を連呼したりしたら、眉に唾(つば)して対応すべきです。

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2017年3月 8日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『聖戦、情熱、宗教』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の24番目のタイトルは『Holy Wars, Passion, and Religion(聖戦、情熱、宗教)』で、人間は自分が育った文化環境が快適であり、他の環境より優れていると思い込む習性を持っていることを論じたものです。

『ウンベルト・エーコ』は、イタリアの首相(エッセイが書かれた2000代の初め)の『ベルルスコーニ』が、『西欧文明は他の文明(多分イスラム文明を念頭に挙げている)より優れている』と発言したことを例に挙げ、『ある個人が、間違ったり不適切なことを言ったりするのは、それほど問題ではない。世界中に、間違ったことや不適切なことを信じている人は現実に沢山いて、たとえばビン・ラーデン(9.11の首謀者)もそのひとりである。ひょっとするとビン・ラーデンはイタリア首相より金持ちで、教育レベルも高いかもしれない』と皮肉っています。

問題になるのは『自分の発言内容を、皆の共通意見として正当化しようとすることだ』と批判しています。

勿論、梅爺はこの主張に異論はありません。ブログに何度も書いてきた『人間の精神世界は個性的である』『精神世界が関与する人間社会の事象の大半は、真偽、優劣を客観的に決めることはできない』という考え方を、別の表現で述べているものだと思うからです。

言い方を変えれば、誰も主観的に『好む』『好まない』という主張をすることは許され、むしろ個性的な人たちの集合体である『コミュニティ』の中で、『自分の旗色(きしょく)を鮮明にする』ことは、相互に違いを認識するために、必要で意味のあることといえます。『何を考えているのかわからない人』は、不気味であり、周囲から敬遠されます。

前述の『ベルルスコーニ』の発言に戻れば、私人として『イスラム文化よりキリスト教文化が好きだ』というなら、『モーツァルトよりベートーベンが好きだ』といっているのと同じで何も問題がないことになります。

しかし、公人(首相)の立場で、『西欧文化の方が(イスラム文化より)優れている』と述べ、その主張が『正しい』ものとして受け容れるように国民を誘導することが目的ならば不適切ということになります。

残念なことに、世の中には、『私はこれが正しいと思う』『だからこれは正しい』『これを正しいと考えない人は間違っている』『間違っている人は排除(抹殺)すべきだ』という、無茶苦茶な論理や論理の飛躍を振りかざす人たちが沢山います。

『独裁者による粛清』『国際紛争』『宗教対立』『政党間の対立』などは、この無茶苦茶な論理が背景にあります。身近な家庭内の諍い、職場での諍い、友人、知人との不仲なども、よく考えてみれば、『私が正しい。だからあなたは間違っている』という主張に起因することが大半です。

『私はこの立場を採る』ということは許されますが『この立場が客観的に正しい』と論理飛躍することは差し控えるべきです。

そのようなことを言っていたら、『社会秩序』が成り立たないではないか、という反論はごもっともです。

個性的な個人の集合体であるコミュニティの『秩序』をどのように成立させるかが人類の歴史で難題の一つであり、今も『これが決め手』という方法論は見つかっていません。

『民主主義』は方法論の一つに過ぎません。『法(憲法も)』や『倫理』はそのコミュニティの多くの人が『認める立場』をコミュニティの『約束事』としているだけで、『法であるから正しい』という主張は論理的にはなりたちません。その証拠にコミュニティが異なれば『法』の内容も異なります。

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2017年3月 7日 (火)

人は何故『危惧』をするのか(4)

高度に進化した『脳(精神世界)』を獲得した『人』は、『危惧』の内容も、多様化、高度化するようになりました。

特に生活のテンポが速い現代人にとっては、『コミュニティの中の複雑な人間関係』や『メディアにあふれる情報』などの影響で、『危惧(心配事、悩み事)』のタネは無数に存在しますから、『脳』は過度の『ストレス』に晒され続けることになります。

『ストレス』を適当に解消することができれば問題ありませんが、これを貯め込んでしまう人は、社会生活への対応が難しくなったりします。『うつ病』などの精神疾患が増えるのもこのためです。

『情感』で直感的にとらえた『情報』に加え、『理』で因果関係を推測しても『分からない』事態が大変ですから、私達の周囲は『危惧』だらけです。

『脳』は遠い将来のことまでも、推測して『危惧』しますから、『人』の特徴は『高度な危惧をする』ことといってもよいのかもしれません。

このような状況下では、人間は『危惧』に鈍感になったり、マヒしてしまったりするようにもなります。

『悩んでも仕方がないこと』を『悩む』のも人間の習性ですが、本来『悩むべきこと』を『悩まなくなる』のも問題だとこのエッセイの著者は書いています。

『科学技術』の急速な発展が、人間社会へもたらす『変化』は、すべて『危惧』の対象でもありますが、現時点では、社会の合意はできていません。『ロボットとの付き合い方』『遺伝子操作の許容範囲』『プライバシー情報の扱い方』など、懸念事項だけが山積みになっています。

現代人は『筏(いかだ)で激流下りをしている』ようなものだと、エッセイの著者は表現しています。

振り落とされないように努力はするけれでも、基本的に『筏』の制御はできていないという意味です。

このような状態では、『楽観的な希望』をもつしか方法がないとも書いています。

『現代特有の危惧の数々』を、私達が解決へ導けるのかどうかは、確かに自信がありません。人類の『知恵』を期待するというだけでは、『楽観的な希望』と言われてもしかたがないような気がしてきました。

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2017年3月 6日 (月)

人は何故『危惧』をするのか(3)

どの生物も、周囲の環境から得られる『情報』を『認知』『判断』しながら生きています。『認知』『判断』を誤れば、最悪死が待ち受けています。

どんなに『危険』や『不都合な事態』が迫っていても『認知』できなければ、人は『危惧』せずに、安穏(あんのん)と過ごすことになります。日本人はこの状態を『知らぬが仏』と諧謔で笑い飛ばしています。

『認知』のためにどの生物も、『感覚器官』を進化させてきました。その進化の延長に『ヒト』の『五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)』があります。『ヒト』が『生きていく』『生き残る』ために、『生物進化』の過程で最低限必要なレベルの『感度』を獲得してきたと考えられます。『感覚器官』の能力だけを比較すれば、『ヒト』の『感覚器官』は優れているとは言えません。犬は『嗅覚』では『ヒト』に優ります。犬の先祖である狼にとって、『生き残る』ためには、感度の高い『嗅覚』を必要としたからに違いありません。

『直感』を『第六感』などと呼びますが、『直感』は特定の『感覚器官』との関係が希薄で、『五感』とは異なります。『直感』は『創造能力』同様に脳科学においても、完全に解明できていない『脳』の機能です。あらゆる分野の『天才』といわれる人たちは『直感』や『創造能力』に長(た)けています。

昨日も書いたように、『感覚器官』が感知した『情報』を、『脳』が自分にとって『都合がよい』か『都合が悪い』かを最優先で『判断』します。

『都合が悪い』と『判断』した結果の一つが『危惧』になります。『脳』は『不安』『危険』を感じて、対応するホルモンを分泌し、『ヒト』の心身に警鐘を鳴らして対応を迫ります。

『得体が知れない』対象物には、『不安』『危険』を咄嗟に(不随意に)『感じ』ます。古代の人たちが『神』という概念を必要としたのは、『神』を想定することで『得体のしれない』対象を、『因果関係』として受け容れようとしたからにちがいないと梅爺は考えています。『得体が知れないようにみえるけれど、それは神の所業である』と考えて得心したかったからなのでしょう。そして『神に頼れば、都合のよい方向へ転じてもらえる』とも期待したに違いありません。『加持祈祷』の原点はここにあります。

『人』は『不安』『危険』を回避しようと、心身ともに色々な対応努力をするものなのです。咄嗟に『言い訳をする』などという私達の行為もこれにあたります。

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2017年3月 5日 (日)

人はなぜ『危惧』をするのか(2)

『生物』は自分が生きる自然環境から受ける『情報』を、自分にとって『都合のよいもの』か『都合の悪いもの』かの判断し、『都合のよいもの』は優先して受け容れ、『都合の悪いもの』は回避しようとする本能的な習性を保有しています。

『個』が生き延び、『種』が存続する確率を高めるために、『生物進化』のプロセスで試行錯誤的に獲得した習性です。

この本能は、『ヒト』にも継承され、高度な『精神世界』を保有するまでに進化した『人(私達)』も当然保有しています。

これを梅爺は『安泰を希求する本能』と呼ぶことにしています。

原始的な人類は、他の生物と同様に、自然環境から受ける『情報』を主として処理対象にしていました。そのレベルでの『危惧』は感じ取っていたに違いありません。『感じ取れる、差し迫った問題』が『危惧』の対象であったとエッセイの筆者は書いています。『食糧の確保ができるか』『自分が野獣に食われることはないか』といったレベルの『危惧』ということになります。

その後、人類は『コミュニティ(群)』で生きることが、重要な影響力を持つようになり、『群』の『人間関係』に由来する『情報』も処理の対象にする必要が生じました。相手の顔の表情を観て、相手が何を考えているかを推測するといった情報処理のことです。この判断にも勿論自分にとって『都合がよいもの』『都合が悪いもの』の区分け基準が本能的に採用されました。

現代人は、更に『人工的な社会環境』から発信される膨大な『情報』に接しながら生きています。新聞、テレビ、インターネットなどの『情報』がそれにあたります。

『自然環境に由来する情報』『人間関係に由来する情報』『人工的な社会環境に由来する情報』の中で、最後の『人工的な社会環境に由来する情報』が圧倒的に多いのが現代の特徴です。

『原始時代の人類』『中世の人類』『現代の人類』では、接する『情報』の量と質が全く違うことは歴然です。

現代に生きる『人類』は、その意味で人類史の中で稀有な存在であると言えます。逆にいえば、『原始時代の人類』『中世の人類』を理解するときには、異なった『情報環境』へ立ち戻る必要があります。

現代人の感覚で、『釈迦』や『キリスト』の時代を観ても、歴史の本質は見えてきません。『仏』や『神』と人間の関係は、人間が置かれている『情報環境』によって大きく変わってくるからです。

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2017年3月 4日 (土)

人は何故『危惧』するのか(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集のタイトルは『Misplaced Worries(見当違いな危惧)』で、筆者はハンガリーの認識科学を専門とする大学教授の『Dan Sperber』です。

内容は、人間は何故『危惧』するのかを、生物進化のプロセスから解き明かし、情報過多の環境に生きている現代人にとっては、『危惧』することも急激に増え、どのように対応したらよいのか見当もつかないことまで『危惧』の対象にしていることを指摘したものです。

つまり、人間は『危惧』しても始まらないことまで『危惧』してしまう習性をもっているということを言いたかったのでしょう。

『悩んでも自分で対応策がみつからないものは、悩むだけ損なので、悩むのはおやめなさい』と言われても、それは『理』による説得で、『悩み』の根源は『精神世界』の『不随意の情』ですから、自分ではコントロールができません。したがって、『はい、分かりました』というわけにはいきません。

人間は、意図して『悲しんだり』『悩んだり』『感動したり』『嬉しがったり』『怒ったり』しているわけではなく、不意にそのような『情感』に襲われるというのが実態です。

自分の中に、自分で制御できない『もう一人の違った自分が潜んでいる』という表現が妥当なのではないでしょうか。『不随意の情感』を何故私達が保有しているのかも、『生物進化』のプロセスが関与しています。

人の『精神世界』は、『不随意の情』と『随意の理』が絡み合って機能しますから、『理性』で『悲しみ』や『怒り』をこらえることができる『器』の大きな人もいます。しかし、そのような人でも最初は、『不随意の情』で、『悲しみ』や『怒り』に襲われることには変わりがありません。

『精神世界』では、『情』が『理』に先行して働くことが、特徴の一つです。何故『情』が『理』に先行するのかも、『生物進化』のプロセスが関与しています。

人間の『脳』の中で、『情』を処理する部分が先に発達し、遅れて『理』を処理する部分が付け加えられたからです。

その証拠に『理』を処理する部分は、『脳』の表層部(大脳皮質)に配置されています。

『脳』は、付け足し付け足しで増築された『家』のようなものです。生命維持に必要な制御をおこなう部分が中心(深奥)にあり、それに密接に関与する『情』を制御する部分がその近辺にあり、『理』を制御する部分は表層部にあるという階層構造になっています。

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2017年3月 3日 (金)

『科学』を受け入れようとしない人たち(4)

人は『個性的』ですから、『理』の思考を好む人もいれば、『情』やその表現を重視する人もいます。『科学者』『数学者』『哲学者』は前者で、『芸術家』は後者と言えるかもしれません。

日本では、卒業した学部によって『理系』『文系』などと区分されますが、これは『自然科学』と『人文科学』の区分で、必ずしも『理』と『情』の区分ではありません。

個人は、誰もが『理』と『情』を兼ね備えているわけですから、『音楽が好きな科学者』や『将棋や碁を好む文学者』がいてもおかしくありません。

したがって、このエッセイが危惧するように、人間を『科学を信奉する人』と『科学に不審を抱く人』に分けて、対立的に論ずることは本質を誤解することになるように思います。

繰り返しになりますが、人は誰もが程度の差はあれ『客観的な理』の思考能力と、『主観的な情』の感知、表現能力を保有しています。『理』だけの人、『情』だけの人という区分けは不自然です。

ただ『科学がきらい』という人たちが存在することは仕方がないことです。『音楽がきらい』という人たちが存在するのも仕方がないことです。

もしも『科学がきらい』という人たちが、『科学を好む人は間違っている』『科学は人間にとって害をなすものである』と言い出したら、それは問題です。

現代社会は『科学の成果』の恩恵なしでは、生きていくことが難しい時代になっています。勿論『科学の成果』の一部は『害』につながるものもありますが、『科学』のすべてを否定するのは極端です。

『科学がきらい』な人たちが、尊重する『主観的な情』も、何故それが人間にとって重要な意味を持つのかを追求しようとすれば『科学』が必要になります。

『主観的な情』の能力は、生物が生き残る確率を高めるために獲得した『安泰を希求する本能』を発揮するための手段である、というのが梅爺の『理』の思考がたどりついた『仮説』です。

『悲しさ』『不安』などは、周囲の状況が『安泰』を脅かしているという警鐘です。対応するホルモンが脳に分泌され、人は『随意』『不随意』に、『安泰』を脅かすものを回避しようとします。それが『生きる』ために必要であるからです。

『主観的な情』が何故重要かを考えようとすれば、『宗教』や『芸術』は何故人間に必要なものなのかを考えることにもなります。

『科学を信奉する人』と『科学に不審を抱く人』の対立が問題なのではなく、何故人の『精神世界』は、『客観的な理』と『主観的な情』の組み合わせでできているのかを『科学的』に思考することの方が重要です。

世の中に『科学は嫌い』と主張する人たちが存在すること自体は、梅爺は人の好みは色々であるということに他なりませんから気になりません。

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2017年3月 2日 (木)

『科学』を受け入れようとしない人たち(3)

私達は日常の『思考』を、『精神世界』の『理』と『情』という異なった価値判断基準を用いて行っています。更に、『精神世界』は、本人が意図して行う『随意』の判断と、無意識に行う『不随意』の判断に区分けできます。 

『情』の多くは『不随意』です。『感動する』『一目ぼれする』『毛嫌いする』などの行動は、不意に襲ってくる『情感』に基づいていますから、本人も戸惑うことがしばしばです。 

逆に『理』の多くは、『損得を計算する』など、本人の意図が関与しますから『随意』の判断になります。

人間は、生物としての特性として『個性的』であるように宿命づけられていて、『精神世界』もまた『個性的』です。

当然のこととして、私達が日常行っている『判断』もまた『個性的』であることから逃れられません。

このことを正しく理解していないと、他人も『自分と同じように考え、感じている』のであろうと誤解することになります。

さらに、『自分の考え方、感じ方』が『正しい』と思い込むことで、それに同調しない他人を『間違い』と非難するようになると、『人間関係』はこじれ始めます。

厳密にいえば、『親子』『兄弟』も、『考え方、感じ方』が同じとは言えませんし、もともと血縁的に他人である『夫婦』は、まおさら同じとは言えません。

『違いを認めて、共存する』という寛容さがないと、『人間関係』はうまくいきません。外向きに『おしどり夫婦』といわれる人たちは、偶然『考え方、感じ方』が似ているという幸運な場合もありますが、多くは、夫婦のどちらかか、または双方が『寛容』であるという器量の持ち主であることに依存しています。

自分が期待するように相手が『振る舞ってくれない』のは『けしからん』と言い出したらきりがありません。自分も相手の価値観に合わせるように『振る舞っている』のかどうかを胸に手を当てて考えてみれば、お互い様であることが分かるはずです。

国と国の関係(外交)も同じです。双方が『違いを認めて共存する』という価値観を保有しなければ成り立ちません。しかし、現実の世界では、『自分が正しい、あなたが間違っている』『私が望むようにあなたが行動しないのはけしからん』と主張しあって、紛争や戦争が絶えません。

『政治リーダー』や『経営者』は、多様な価値観をもつ『国民』や『社員』を束ねて、『国家』のため、『企業』のために、『決断』をくだすことになりますから、大変な役割と責任を負っていることになります。

『政治リーダー』や『経営者』が、高い『知性(理)』と健全な『情』の双方を兼ね備えていることが求められます。そうでないと『国民』や『社員』は不幸を背負いこむことになりかねません。

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2017年3月 1日 (水)

『科学』を受け入れようとしない人たち(2)

『科学』を『信奉する人』と『信奉しない人』の、皮肉な関係の象徴として、筆者は『ニュートン(1642-1727年)』と『ウィリアム・ブレイク(1757-1827年)』を紹介しています。

英国ロンドンの国立図書館の中庭には、大きな『ニュートン』の銅像が建っていて、これは『ウィリアム・ブレーク(詩人、画家)』が描いた『ニュートン像』を基に作られたものです。

『ニュートン』は偉大な科学者で、限りなく『自然界の摂理』を解き明かそうとしましたが、『ウィリアム・ブレイク』は『科学』を毛嫌いしていたことで有名な人物です。本来縁はないはずの二人が、『銅像』でつながっているのは、確かに皮肉な話です。

『科学』は『物質世界』の『摂理』を明らかにしようとする領域で、原則として『因果関係』『真偽の判定』は普遍的、論理的に定義できることを前提としています。

つまり『摂理』を基にした判断基準があり、『同じ条件なら同じ事象が起きる』という『再現性』も、『真偽の判定』には重要な要因となります。

しかし『科学』の領域にも、『結果が予測できない偶発的な事象』は例外的に存在します。これに対しては『確率』などの、統計的な予測が適応されます。『物質世界』のミクロな領域を扱う『量子物理学』、細胞の複写過程で生ずる『突然変異』、『生殖』のプロセスの卵子と精子の結びつき、気象予測や地殻変動予測などの事象は、あらかじめ『結果』を詳細に予測することはできません。『確率』を利用した『因果関係』の予測とはいっても、『何が起きるかわからない神秘の世界』というわけではありません。

言い換えると『科学』は、『客観的な理』が支配する領域です。人間の『願い』『期待』『好き』『嫌い』などという『精神世界』の『主観的な情』は全く通用しません。

唯一科学者が『仮説』を唱える場合にのみ、『主観(直感)』を起点とすることは許されますが、『客観的な理』でそれが『証明』されなければ、『仮説』が『定説』や『法則』として認められることはありません。

人間の『精神世界』の思考において、『客観的な理』だけを用いる『科学』は、特殊な領域です。このことを理解することがまず必要になります。

私達の日常の思考は、『客観的な理』と『主観的な情』を無意識のうちに併用しています。特に『主観的な情』は、『安泰を希求する本能』と直接結び付きやすいために、これを使うことを禁じられると、多くの人は『不自然』『異常』『苦痛』を感ずることにもなります。『客観的な理』だけで議論している『科学者』は『変な人たち』として目に映りかねません。

一方『芸術』は、『主観的な情』が主役を演ずる領域です。『客観的な理』も全く使われないわけではありませんが、脇役です。

『主観的な情』には、普遍的な『価値基準』はありませんから、個人的に『好き嫌い』で評価はできますが、客観的な『優劣』を決めることは難しくなります。

『モーツァルト』と『ベートーベン』のどちらが『好きか』は個人として表明できますが、誰もが認める尺度で、『どちらが優れているか』を論ずることはできません。

『主観的な情』は、宿命的に『個性的』であり、多様であることを次に理解することが求められます。

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