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2017年2月28日 (火)

『科学』を受け入れようとしない人たち(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の41番目のタイトルは『A Fearful Asymmetry :The Worrying World of A Would-be Science(恐るべき不調和:科学で対応すべき世界への懸念)』で、著者はロンドンの経済学者『Helena Cronin』です。

著者の専門は、『自然科学』と『社会科学(人文科学)』の関係論で、勿論『科学』を肯定する立場を基盤としています。

このエッセイは、『科学』を信奉する人たちと、『科学』に不信感を抱く人たちの、溝の埋まらない対立を論じています。

『科学』知識が豊富に普及している現在でも、『科学』に不信感を抱く人たちが沢山存在することは梅爺も承知しています。

典型的な例は『科学』と『宗教(教義)』の対立で、アメリカ人の40%は『ダーウィンの進化論』を受け容れていないと言われています。神による『天地創造』という聖書の記述に反するからという理由です。

もうひとつの根深い『科学』への不信感は、『科学』が『味気ない情のない世界』であることへの本能的な嫌悪によるものと梅爺は感じています。必ずしも宗教関係者でなくても、この嫌悪を抱く人はいます。日本では特に、『理で論ずる(理屈っぽい)人』は敬遠され、『あの人は情が薄い』などと非難されがちです

『情』を生きるための重要な要素と感じている人たちにとって、『科学』はあまりにも無味乾燥で、こんなことですべてを律っせられてはかなわないということなのでしょう。しかし『理』で論ずる人は『情』が薄いという因果関係は根拠がありません。

『人間』の基本的な習性を理解するときに、『唯物論』を基盤とすべきか『唯心論』を基盤とすべきかの論争も続いてきました。

梅爺もブログを書く前は、『科学信奉』対『科学不信』、『唯物論』対『唯心論』という対立構造で事象を観ようとしていました。

しかし、人間を生物の『ヒト』として観ることと、進化の過程で高度な『精神世界』を保有した『人』として観ることとを、『同じ存在の異なった側面』としてとらえればよいのではないかと考えるようになりました。

この視点でエッセイを読むと、筆者が『科学信奉者』と『科学不信者』の対立という、従来の考え方から抜け出していないように見えます。

梅爺は、『自分の考え方』が『正しい』と主張するつもりはありませんが、少なくとも『自分の考え方』に従って『人間』を理解する方が、納得がいくと感じています。

人間にとって『信ずべきか』『疑うべきか』は二者択一の対立概念ではなく、誰もが、『信ずる心(信じたいという気持)』と『疑う心』の両方を同時に持ち合わせていると考えた方が現実的です。

何故このように表面的に矛盾する『心』を持ち合わせているかを理解する鍵は、『精神世界』を支配する『安泰を希求する本能』であろうと考えています。

つまり『安泰を希求する』結果として『信ずる』か、『疑う』かに分かれるだけで、基盤は同じであると考えれば納得がいくという話です。

『人間の中には何故仏心と邪心が共存するのか』『人間は時に利己的であり時に利他的であるのはなぜか』などという問いも、すべて同じ『安泰を希求する本能』から発して、結果として別れたと考えれば得心がいきます。

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