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2017年1月31日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『70年代への回帰』(3)

1970年代に、イタリアでテロ活動を行った集団が極左思想の『赤い旅団』で、政府と合法的な反政府組織(政党や労働組合)の間にいかなる『合意』が成立することにも阻止しようとしたと『ウンベルト・エーコ』は書いています。

合法的な左派組織の『考え方』さえも、『生ぬるい』『許し難い』ということなのでしょうが、これではまるで秩序がない社会を目指すということにもなりますから、駄々っ子のようなもので梅爺には理解できない話です。

ただし、当時のイタリアの国情が不況による失業増加などで、国民の間に希望のない閉そく感が蔓延していたとしたら、『何もかもぶち壊す』という過激集団を心情的に受け容れる人たちが意外に多かったのかもしれません。

しかし、『ムッソリーニ』の『ファシズム』で以前に痛い経験をしたイタリア国民は、極端が何をもたらすのか教訓として知っていたためか、やがて『赤い旅団』は力を失っていきました。

『民主主義』はそのしくみ上、『右派政党』『中道政党』『左派政党』が混在することになります。勿論、『合法』が前提です。どれが多数派を占めるのかは、国民の選択(選挙による)で決まります。

中国のような『一党独裁』の方が、政治の運用は『効率的』であることになりますが、人類は、歴史における試行錯誤で、『民主主義』を『人間社会が結果的に大きな問題を回避できる可能性が高いしくみ』として考え出しました。

『個性的である人間が集まっている以上、違いを認めて共存するしかない』『それでも社会の約束事は必要なので、多数決でそれを決める』という考え方に基づいています。『自己主張は認めるが、最後は約束事を守りなさい』ということですから、『憲法』『法律』などの『約束事』が重要な意味を持ちます。『憲法』も『法律』も、その国家の『約束事』ですから、その国家でのみ価値が共有される、いってみれば『絶対的善悪』の尺度で決められたものではないという認識が必要になります。『法律』や『憲法』といえども『金科玉条』ではありません。

『民主主義』は、『約束事』が成立するまでのプロセスに時間がかかりますから、ある意味で非常に『効率の悪い』システムであるということになります。

日本の『民主主義』は、敗戦の結果としてもたらされたもので、自分たちが『勝ち取ったもの』ではありませんが、日本の永い歴史のなかで培われてきた『中庸』を尊ぶ文化と結びついて、『日本的な民主主義』として成熟しつつあると梅爺は評価しています。

『中庸』が多数派であることは、『民主主義』にとっては悪いことではありません。しかし、時に必要となる『大きな改革』には、『日本的な民主主義』は俊敏に対応できない短所が目立つことになるのかもしれません。

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2017年1月30日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『70年代への回帰』(2)

『信条』『考え方』『価値観』が対極的に異なるグループが対立した場合、弱者が強者へ反撃する手段として『テロ行為』は、人類の歴史の中で繰り返されてきました。

人間の『精神世界』は『個性的』であることを認めれば、『信条』『考え方』『価値観』に違いが生ずることは、極めて当然のことで、両者ともに『生きる』ことを優先すれば、『違いを認めて共存を図る』しか道はなくなります。

この原則は、『国家』や『宗教』の対立などばかりではなく、私達の身近な人間関係にも当てはまることです。

しかし、このような極めて単純な原則も、現時点で全人類の『合意事項』にはなっていません。

『自分が正しい』『相手は間違っている』という単純な白黒判断で、『間違っている相手を抹殺する』行為を、『正義』『神の裁き』などと臆面もなく主張しあいます。

『物質世界』の『摂理』を解明しようとする『科学』の世界では、『真偽』の判定が普遍的に可能ですが、人間の『精神世界』が絡む人間社会の事象では、『正義』『邪悪』の判定は、ほとんど不可能です。

『正義』『邪悪』という概念は、人間の『精神世界』が創出した価値概念で、絶対的、普遍的な判定基準が存在しないからです。『美しい』『醜い』などの判定も同様です。

個人が『正しい』『美しい』という主張をすることは、その人の『立場』を表明する上で必要なことですから、梅爺が『私はこれが正しいと思う』『私はこれが美しいと思う』と発言することは許されます。しかし、『正しいとは思わない』『美しいとは思わない』という他人に遭遇したら、『立場』の違いを認めたうえで、その人とどのように共存するかを考えなければなりません。

『自分が正しいのであるから、間違っている相手は殺しても構わない』と言い始めたら、人間関係ばかりか、あらゆる社会が崩壊してしてしまいます。

『テロ』は、『命より大切なものがある』という主張の形を変えた表現ですが、皆がそれを主張し始めたら、前述の通り人間社会が崩壊することになりますから、多くの人が本能的に『テロは許せない』と感ずるのは自然な話です。

権力者が、従わない国民を綱紀粛正と称して抹殺する行為は『テロ』とは呼ばれませんが、『テロ』以上に、人間社会にとっては恐ろしい話です。自分は安泰な場所に身を置いて『気に入らない奴は殺す』というのは、臆病の裏返しのようなものです。論理的には自分も『殺されても仕方がない』ということになると気づいていないとしたら、余程頭の悪い人間です。

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2017年1月29日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『70年代への回帰』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の22番目のタイトルは『Back to the Seventies(70年代への回帰)』で、イタリア国内政治にかかわる『テロ事件』を論じた内容になっています。

このエッセイが書かれた2000年初めに、イタリアでは『新赤い旅団』と称す極左テロ集団による、政治テロ事件が頻発しています。

1970年代にも、同じくイタリアで『赤い旅団』と称する極左テロ集団による、テロ事件が度々起きていました。

『ウンベルト・エーコ』は、『赤い旅団』『新赤い旅団』の活動を通じて、『テロ』の本質と、それがもたらす社会への影響を洞察しています。

梅爺は、『赤い旅団』『新赤い旅団』などというテロ集団の名前はおぼろに記憶していますが、グループの成り立ちや、テロの目的などについては皆目分かっていませんでしたので、一生懸命このエッセイを読んでみましたが、正直なところ、やはり理解ができないことが多く、戸惑っています。

『イタリアの現代史』『イタリアが抱える問題』などに、かなり知識がないと、本当の理解はできないのだろうと、観念しました。

このブログでは、イタリアで起きた『テロ事件』の内容を皆様に紹介することはあきらめ、『ウンベルト・エーコ』が洞察している『テロの本質』だけに絞って、感想を述べたいと思います。

『ウンベルト・エーコ』は『テロリスト』の行為を心情的に支持する人たちの数の多寡(たか)で、その『テロ事件』が効果的であったかどうかを判断しようとしています。

『オサマ・ビン・ラーディン』の『9.11』同時多発テロは、その意味で『十分効果的であった』と論じています。アメリカの『アフガニスタン』での反テロ戦闘行為に対して、イスラム社会に『反米』を唱える人の数がむしろ増えたことを挙げています。

『いかなるテロも人道に反する非道な行為である』と主張することが、まともな人間の意見であると考える多くの日本人にとって、『ウンベルト・エーコ』の論調は『冷徹』に見えますが、『ウンベルト・エーコ』は別に『テロを容認している』わけではありません。

『テロは許せない』という『情』の判断を排して、『現実に存在するテロ事件』の社会的影響を『理』で論じようとしているだけです。

西欧の教養人の思考形式や内容に、日本人が戸惑うのはこのためです。

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2017年1月28日 (土)

人口増加より生活水準向上が問題(4)

マクロに観ると『人口増加』が、人類の存続を脅かす、優先度の高い要因の一つであるという実感を、日本人は普段あまり持ち合わせていないのではないでしょうか。

敗戦後80年で、日本人は『日本』を世界でもトップクラスの『先進文明国』へと変貌させました。それが相対的にどれほど高いレベルであるかは、『海外旅行』に出かければ分かります。日本へ帰国してほっとするのは、言葉に困らない、慣れ親しんだ料理が食べられるといったことだけではなく、『快適、安全に管理運用されている社会インフラ』『文化の多様性を享受できる自由な雰囲気』といった環境が当り前のものとして存在していることを実感するからです。

なぜ『日本』は、敗戦で徹底荒廃した状態から、現在へと変貌できたのかは、日本人のどの資質によるものかを、私達はよく洞察しておくべきです。

『歴史文化を基盤とする価値観、社会観、人生観』『教育レベル』など、戦争以前から日本に存在していたものが、本領を発揮したのではないでしょうか。『民主主義』も、敗戦でアメリカから押し付けられたというような言い方もありますが、それは形式上の話で、『民主主義』を理解し、受け入れる能力基盤を日本人は保有してからではないかと梅爺は思います。そうでなければ、まるで手品のように、『軍国主義』から『民主主義』へ変貌するなどできるはずがありません。

アメリカは『サダム・フセイン』さえ倒せば、『イラク』国民はもろ手をあげて『民主国家』への変貌を歓迎すると勘違いしました。『日本』で起きたことがなぜ『イラク』では起きないのかを、アメリカの政治リーダーたちは事前に洞察できなかったからです。

日本が世界でもトップクラスの『先進文明国』へ変貌できたのは、多くの日本人が、大変な努力を継続してきたからです。特に経済力は変貌の推進力でしたから、『企業戦士』が、異文化の中に出向いて、市場開拓、製造拠点づくりなどに、悪戦苦闘してきたことが大きく貢献しています。

このエッセイの著者は、『人口増加』の問題を解決するには、人々の『価値観』、とくに『何を人生の成功とみなすか』『幸せな生活とは何か』を変える必要があると書いています。『清貧に甘んじよ』ということで『ごもっとも』ですが、『戦争をなくすには、みんなが平和を大切にする心をもつことだ』といっているようでもあり、いまひとつ迫力を欠きます。

世界のトップクラスの『文明先進国』になった以上、日本人は、『日本の視点』と『世界の視点』の双方を持ち合わせる必要があります。それでこそ、真の『文明先進国家』の国民といえるからです。

『少子高齢化』は『日本』の問題であり、『急速な人口増加』は『世界』の問題です。両者は矛盾しますが、どのように折り合いをつけるかは、日本人に託された課題です。

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2017年1月27日 (金)

人口増加より生活水準の向上が問題(3)

『人口の増加』は、『資源の奪い合い』を引き起こし、『紛争』が多くなります。経済力を背景に、なりふり構わず世界のエネルギー源、資源を買いあさる『中国』は、資源のある国には、貿易相手の『お得意さん』として歓迎されますが、『中国』のような経済力を持たない国にとっては、『資源』の入手は極めて困難になり、貧困がさらに助長されることになります。

かつて、外国の『植民地帝国主義』の標的であった『中国』は、それに異を唱えて独立を果たしましたが、今度は、経済力、軍事力で周辺諸国ばかりでなく、世界中を威圧しようとする『中華思想国家』になろうとしていることは、皮肉な話です。

一方『中国』の中でも、豊かな暮らしを求めて、『農村』から『都会』へ移り住もうとする人たちが増え、国の中での『経済格差(貧富の差)』が顕著になっています。しかし、『農村』から『都会』へ移って成功する人たちの数はごく少なく、『都会』の中でも貧しい暮らしを強いられて、『不満』が爆発寸前に膨らんでいます。

経済発展の裏側に生じた『国内の貧富の格差』が、『中国』の抱える『時限爆弾』になっています。また、威圧的な『ヘゲモニー』を指向する『中華思想』外交も、国際的な軋轢を生み、これも命取りになりかねません。

陰湿な権力闘争をはらむ『一党独裁政治』で、これらの難問に立ち向かうわけですから、『中国』の将来には、意外な落とし穴が待ち受けているような気がします。

建国時に荒廃した広大な国土を掌握するために『効率のよい政治システム』であった『一党独裁(共産党)』が、経済力がつき、国民の『民度』も向上した時には障害になることは目に見えています。いつ、どのような形で『中国』は変貌するのかは、予測が困難ですが、いつかは変貌を迫られることだけは確かなのではないでしょうか。

『自己の安泰を最優先する』人間の本性を考えると、『人口増加の抑制』も『生活水準の抑制』も難題です。しかし『難題である』と手をこまねいている間に、人類絶滅の危機へ追いやられるかもしれないという困った話でもあります。

人類に、『理不尽なこと』『我慢』を強いないと、問題は解決に向かいませんから、多くの『政治家』は、この問題には触れたがりません。国連でも議論が行われ、『国連人口基金』なども設立されていますは、めぼしい成果は見当たりません。

『人口』が増えれば『マーケット規模』も増えるといって、『経済』ではこれを歓迎するところもありますから、問題は一層厄介になります。

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2017年1月26日 (木)

人口増加より生活水準の向上が問題(2)

1970年代、『中国』は『一人っ子政策(計画生育)』を、『インド』は『産児制限政策』を積極的に推進しました。地球規模の『人口増加』の深刻な問題に、他国に率先して立ち向かったわけではなく、自国にとって『人口増加』が非常事態と判断したからです。 

『全体(地球規模)』と『部分(中国、インドという国家)』の問題意識が、たまたま一致しただけの話です。 

『中国』が『一人っ子政策』を推進した時、国民に提示したスローガンは『国家の富強と家庭の幸福の為にあなたも計画生育を実行してください』でした。 

『一党独裁国家』であるがゆえに断行できた政策で、『民主主義国家』では、『基本的人権の侵害』『神への冒涜』など多数の異論が頻出して、とても採用できそうにない政策です。逆にいえば、『民主主義』は『思い切った政策』を多数の人の合意として打ち出すためには効率の良いシステムとは言えません。『政策』はどうしても『中庸』になりがちです。 

『計画生育』が『国家の富強』『家庭の幸福』になるという、一方的な『因果関係』を『中国共産党』の価値観として国民に押し付けているだけで、多分反論すれば昔の日本のように『非国民』のレッテルが張られて弾圧されたに違いありません。本来『党の決定に従え』で済む話を、『○○のため』などと『もっともらしい説得』をしようとしているところに、為政者の後ろめたさが垣間見えます。

しかし、『中国』の『一人っ子政策』に関して、私達は『好ましいと思わない』と意見を述べることはできますが、『間違いである』と断定はできません。当時『中国』が置かれていた状況が『政策決断』と関係しているからです。

その後の『中国』の急速な経済発展に、『一人っ子政策』がどれだけ寄与したかを定量的に判定することは難しいことですが、何らかの貢献をしていることは確かなことではないでしょうか。

35年が経過して、現在では『一人っ子政策』の弊害が、社会的に目立つようになり、『中国』は、『一人っ子同士が結婚した場合は、二人までの子供を認め、三人目以上は特別な課税対象にする』というように『政策』を緩和しました。これも『中国』の事情が背景にありますから、部外者が単純に、『おかしい』と非難はできません。

このエッセイに話を戻すと、著者は『地球規模の急速な人口増加は、確かに異常であるが、より直接的に地球環境を悪化させる要因は、その増えた人たちが生活水準を高めようとするすることにある』と主張しています。

オリジナルなタイトルが示すように、『人口の増加は危惧の対象ではなく、生活水準の向上が危惧の対象である』という表現になります。

しかし『地球環境の悪化、資源の枯渇』を直接的に助長するのが『生活水準の向上』であるという『事実』を『理』で表現しているだけで、『生活水準の向上』自体を『悪いこと』と非難しているわけではないと理解する必要があります。

このような『理』の議論は、日本人が不得意とするところで、すぐに『発展途上国の人たちに生活水準の向上はあきらめろというのか、なんと身勝手な言い分だ』などと『情』で反感を抱き反論しようとします。

『事実』を認めたうえで、次に『どう対応するか』の議論のプロセスへ移るのが欧米の流儀です。

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2017年1月25日 (水)

人口増加より生活水準の向上が問題(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の36番目のタイトルは『Human Population, Prosperity Growth; One I Fear, One I Don't』で直訳すると『人口、繁栄の伸長、一つを私は恐れ、もう一つは恐れない』となり、とてもこなれた日本語とは言えませんので、エッセイの内容を忖度(そんたく)して、『人口増加より生活水準の向上が問題』と意訳しました。 

『人口増加』が、『ヒト』という生物種(ホモ・サピエンス)の『成功』を示す指標であるなら、20世紀は『成功』の時代といえます。 

ほぼ『ヒト』の一世代の間に、世界の人口は16億人から61億人に増加しています。その間、人類としては最大規模にして、最悪の『世界大戦』を2度も体験していて、その犠牲者総数は1億人以上と考えられますから、それを考えると驚きの増加です。 

21世紀に入って、世界の人口は70億人を超え、2050年には、90億~100億人に達すると予測されています。 

生物生態学や地球環境問題の学者は、この『人口増加』を、『ヒト』の生物種としての衰退、滅亡の前兆として危惧しています。 

確かに、『ヒト』以外の生物種の歴史を顧みると、『幾何級数的な個体の増加』は、『繁栄の後に急速に滅亡へ向かう』事例であふれています。『食糧源』を採取し尽くし、枯渇させてしまうためです。しかも、ある『種』が絶滅すると、それを『エサ』としていた生態系の上位の『種』も連鎖して絶滅してしまう可能性も高まります。 

現在の『ヒト』には、『ヒト』を『エサ』として生息している『生物』はいませんので、『ヒト』が絶滅しても上位の『生物』に迷惑をかけることはありませんが、『ヒト』がいなくなった『地球』の支配者は誰に変わるのかなど、多くの疑問が残ります。

90億~100億という人口数は、『ヒト』の生息に必要な『資源』が、地球規模で有限であることを考えると、『過大』というより『途方もない数値』であると著者は書いています。

世界各地に生息する『かも』のような鳥でも、個体数の総数は精々3千万程度で、『クマ』のような動物でも、100万頭程度ですから、『ヒト』が如何に並はずれであるか分かります。

地球全体では、『人口増加』が『人類滅亡』につながるかもしれない大問題であるにも関わらず、『日本』では『少子高齢化』が『日本』の国力を維持するために『大きな障害』になりかねないとして、『人口を増やす(出生率を上げる)政策』が優先度高く取り上げられています。

『全体』の問題意識と『部分』の問題意識が、全く逆であるという皮肉な現象ですが、『日本』においてこの矛盾が議論の対象にならないのはどうしてでしょう。世界が衰退しても『日本』だけは現状を維持し続けられるということなのでしょうか。

『個(自分)の安泰を優先する』か『全体の安泰を優先するか』の、客観的な判定基準(尺度)を人類は見出していないことを示唆する典型的な事例です。

人間は、悲しいことに全体の問題は、見て見ぬふりをして、『自分の都合』を優先するという習性から逃れられません。生物進化の過程で、『自己の安泰を希求する根強い本能』を獲得し、継承してきたからであろうと梅爺は推測しています。

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2017年1月24日 (火)

Steve Berryの小説『リンカーンの神話』(8)

『ジョセフ・スミス』が『キリスト』から託された『正しい教会』というのは、『原始キリスト教』で『キリスト』と12人の使徒が保有していた『神権(神の機能を地上にもたらす権限)』を、再び取り戻した『教会』ということらしいのですが、梅爺の理解を超えています。

その後『ジョセフ・スミス』の前に、12使徒の『ペテロ』『ヤコブ』『ヨハネ』が天使として現れ、神の啓示が『ジョセフ・スミス』を介して継承されていることが確認されたということになっています。

更に、アメリカ古代に存在した預言者『モロナイ』のお告げで、『金板に改良エジプト文字で刻まれた書物』を掘り出し、この内容を英語に翻訳して『モルモンの書』として出版(1830年)しました。この『モルモンの書』は、『聖書』と並ぶ『聖典』として扱われています。ただし『聖書』には、後の人たちの間違った解釈も含まれているとしています。

原書の『金板』は、『モロナイ』に返され、いまは『天』に保管されているということになっていて、誰も『金板』を目にすることができません。『ジョセフ・スミス』に『改良エジプト語』を翻訳する能力が本当にあったのか、も含め何やら『いかがわしい』話ですが、英語版の『モルモンの書』は確かに現存しますから、ある種の『文学的才能』には恵まれていたのでしょう。

『モルモン教』は、『三位一体』『原罪』といった『カトリック』の重要な教義を否定しています。『最後の審判』を重視していて、生前『モルモン教』の教えに接しなかった人も、その時受け入れれば『天国』へ行け、あくまでも拒んだ人だけが、サタンとともに地獄へ落ちると説いています。後に否定しましたが、当初の『モルモン教』では『一夫多妻』を認めていたために、アメリカ社会から強い非難を受けました。

梅爺の率直な感想は、『人間の精神世界は、自由奔放に虚構を創り出すことができる』ということの証左のようなものだということです。真面目に『モルモンの書』を読んでみたいという気はなりません。

『宗教』は、必ずこのように『宗派分かれ』していくのも、『人は個性的である』という人間の本質的特徴が関与しているためなのでしょう。『私はそうは思わない』という人が必ず出現するからです。

この小説では、『リンカーン』は、神話のように信じられている『奴隷解放を推進した人道的な理想主義者』ではなく、冷徹な決断を下し責任を取ろうとする現実主義的な政治リーダーの側面も備えていたということを強調しています。『アメリカ合衆国から州の離脱を防ぐためなら、奴隷制を認めてもよい』という判断をしていたということになっています。

一人の人間の中に、時に矛盾するような多様な側面があるということで、梅爺は抵抗なく受け入れることができます。この小説を読んで『リンカーン』に親近感を持つことはあっても、幻滅を感じるというようなことはありませんでした。

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2017年1月23日 (月)

Steve Berryの小説『リンカーンの神話』(7)

この小説の筋書き以上に梅爺の興味をひいたのは、『モルモン教』が誕生した経緯です。『宗教』は人間の『精神世界』を理解する上で、貴重な手掛かりを提供してくれると考えるからです。

梅爺の基本的な推測は、『神(仏)』が存在するから『宗教』が生まれたのではなく、人間が『神(仏)』という抽象概念を創出し、『神(仏)』との対応を体系的に様式化するために『宗教』も創出したというものです。

前にも書いたように、『生きる』環境を取り巻く『摩訶不思議(にみえる事象)』を、放置することは『不安』のストレスとなるために、『神(仏)』という概念を創出することで、『因果関係』を特定し、『不安』を解消しようとしたからではないかと考えています。つまり『安泰を希求する本能』が背景にあるという仮説です。

『信仰』が『心の安らぎ』をもたらすなどという体験は、高度に洗練化された『宗教』で初めて得られたもので、『原始宗教』は、『得体のしれないもの』に対する『畏れ』が基盤になっているように見えます。人間にとって都合のよいものをもたらして欲しい、人間にとって都合の悪いことはもたらさないで欲しいと『祈願』することが主体となっています。

洗練された『宗教』で、『神(仏)』を『愛(慈悲)』の象徴としてしまったために、その対極の『悪魔(悪霊)』という概念を創出せざるをえなくなりましたが、『原始宗教』では、『神』と『悪魔』の区分は明確ではありません。都合がよいことも、都合が悪いことももたらす『得体が知れない恐ろしい存在』であったからです。

『宗教』には必ず、『神(仏)』と人間との仲介役である、『呪術師』『巫女』『神官』『僧侶』『預言者』が登場するのも興味深いことです。

『神と交流できる特別の能力』の内容について、そのような能力のない梅爺はただ想像するしかありませんが、『精神世界』で『虚構』を創出する才能の一つと考えれば、特別に能力にたけた人が存在することはある程度理解できます。梅爺には到底生み出せない芸術作品(虚構)を、『モーツァルト』『ゲーテ』『ゴヤ』は生み出せる能力の保有者であると認めるからです。

しかし、『宗教』における『神』と人間の仲介者の『主張』は『虚構』であると考えるのは梅爺のような一部の人間で、多くの方々はこれを『事実』として受け入れるために、ややこしい話になります。しかし、誰も『理』で『事実』であることを証明できませんので、『信ずる』という行為で受け入れるしかありません。

預言者が、『神が私の前に現れてこう言われた』『夢でお告げを受けた』などと言えば、普通の人が受け入れるには『信ずる』しかないという話です。

『モルモン教』もこのパターンで始まっています。『ジョセフ・スミス』の前に、『神』と『キリスト』が二人連れで現れ(示現し)、『キリスト』が、『現存のキリスト教宗派のすべてが誤っている。おまえはどの教会にも加わってはいけない』と述べた後に、『正しい教会』へ戻すための権限(預言者としての)を『ジョセフ・スミス』に託したということになっています。

梅爺が、『私は夢で、預言者になれと神のお告げを受けたぞ』といっても、周囲は『お前気でも触れたか』と冷笑するだけでしょうが、この程度の話で『モルモン教』が成立したということは『ジョセフ・スミス』には、他人を惹きつける特別の魅力があったのでしょう。

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2017年1月22日 (日)

Steve Berryの小説『リンカーンの神話』(6)

『ホモ・サピエンス(現生人類)』が、8~10万年前にアフリカから地球の各地へ拡散を開始し、アメリカ大陸へ到達したのは、1万4千年前と考えられています(もっと古いという説もあります)。シベリア、ベーリング海峡を経由して到達した、アジア系の『モンゴロイド』で、これが『アメリカ先住民』の祖先ということになります。

『アメリカ大陸』を『新大陸』『新世界』と呼ぶのは、ヨーロッパ系白人種『コーカソイド』が『コロンブス』の発見まで『存在を知らなかった』だけで、現生人類はとっくの昔から住んでいたということです。

『ホモ・サピエンス』の日本列島への到達は、4万年前(石器時代)と考えられていますので、これに比べてもアメリカの人類史は、比較的短いことになります。アフリカから到達しにくい遠い大陸であったということに他なりません。

『アメリカ合衆国』の建国は、1776年ですから、国家の歴史は約300年しかありません。日本への『黒船来航』は1853年ですから、建国より100年程度後のことです。しかし、その後、『南北戦争(1861-1865年)』を経て、真の近代国家へ発展しました。

『アメリカの歴史』は、北米大陸の人類史ととらえるか、『アメリカ合衆国の歴史』ととらえるかで大きく変わります。

『アメリカ合衆国の歴史』も、建国前後、『南北戦争』前後、その後では、大きく事情が異なります。『近世以降で、広大な領土に、多民族国家を短期間で作り上げた』人類の歴史の中でも前例のないケースですから、『人間』や『人間社会』の習性を考える上で、『アメリカ合衆国の歴史』は示唆に富んでいます。

『ジョセフ・スミス』が『モルモン教』を始めたのは1830年で、『異端』として迫害を受ける受難の時代を経て、教団は『ユタ州(ソルトレーク・シティ)』に逃れ、そこを本拠としたのが1847年ですから、『黒船来航』の少し前の時期ということになります。

1791年に、『アメリカ合衆国』は、『憲法修正第1条』で、『思想、信条の自由』を定めています。人類の歴史で初めての画期的な内容です。現在では世界の民主国家で採用されている『基本的人権』に関わる重要な考え方ですが、人類にとっては約200年の歴史しかないことに少し驚きます。

民主主義の理想を実現したとも言えますが、『多民族国家』をまとめるために現実に必要な条件という側面もあったのでしょう。

『モルモン教』は、憲法によって保障された宗教のはずでしたが、現実は、キリスト教の他宗派から『異端』と糾弾され、創始者『ジョセフ・スミス』は暴徒によって射殺されています。憲法の理想は、社会の常識には程遠いものであったということになります。

『モルモン教』が、憲法を重要視するのは、教団を守るために必要であったからでしょう。『神の救いを求めるかどうかを決める権利を個人は保有する』と主張しています。この主張は、アメリカの他の『プロテスタント』宗派と同じです。しかしそうは言いながら、信者が脱退すれば、『地獄へ落ちるぞ』などと脅かすことになるのではないでしょうか。

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2017年1月21日 (土)

Steve Berryの小説『リンカーンの神話』(5)

『モルモン教』は、1830年に、アメリカの宗教家『ジョセフ・スミス』によって興された『新興宗教』です。 

1776年の『独立宣言』、1778年の『アメリカ合衆国憲法制定』、と『南北戦争(1861~1865年)』の間の、いわば建国のための動乱時期に、そして近世とはいえ、『科学知識』が乏しかった時代に『モルモン教』が生まれたことが、理解のために重要な要因です。

いかなる『宗教』も、それが始まった時期の社会環境と、当時の人間が保有していた『科学知識』のレベルを配慮して考えないと本質は理解できません。

人類の長い歴史の中で、何故『神』は、2000年前の『ユダヤ』を選択して、『神の子(キリスト)』を一度だけ遣(つか)わされたのか、といった素朴な疑問を梅爺は抱いていますが、納得できる説明に出会ったことがありません。『神のみぞ知る(知ろうとするお前が不遜だ)』と言われてしまえばそれまでですが。

そこで、『ユダヤの歴史』『当時のユダヤの状況(ローマ帝国の支配下)』を自分なりに考えてみて、偉大な『思想家(キリスト)』が出現したのではないかと推察し、それならば受け入れられると感じています。『キリスト』は偉大な『思想家』ではありますが、『ユダヤの文化』『ユダヤの言葉』『ユダヤの宗教観』を基盤にした人物であることも配慮して観る必要があります。

『処女マリアから生まれた神の子』『死後三日目に復活』『行ったとされるいくつかの奇跡』は、後の世の人たちが『キリスト』に特別な意味を持たせるために考え出した『虚構』であると推測しています。人間の『精神世界』は、自由に『虚構』を創出できるからで、厄介なことに『虚構』が独り歩きを始めて、『事実』と区別できなくなることが、人間社会にはよく起こります。『霊』『地獄、極楽』なども典型的な例と考えています。

古代ギリシャに『ソクラテス』や『プラトン』が、2500年前のインドに『釈迦』が、同じく2500年前の中国に『孔子』が出現したのと同じと考えれば、『キリスト』の出現は納得がいきます。 

『モルモン教』は俗称で、正式名は『末日聖徒イエス・キリスト教会(The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)』です。

大雑把にいえば『キリスト教』の宗派のひとつと言えそうですが、『三位一体』を否定していることで、『カトリック』からは『異端』とみなされており、当初の『モルモン教』が『一夫多妻』を認めていたことで(現在は認めていない)、『プロテスタント』からも激しく非難されました。自分が『正当なキリスト教』と考える方々から観れば、『モルモン教』は、『一緒にされては困るいかがわしい存在』ということになります。

人間はおかしなことに、近くに存在する『似て非なるもの』を敵視する習性があります。

『モルモン教』の名前は、古代のアメリカに存在した預言者『モルナイ』のお告げが重要な役割を果たしていることに由来しています。『モルモンの書』とよばれる書物が、聖書と並んで『聖典』とされています。

創始者『ジョセフ・スミス』の創出したいくつかの『虚構』が、『モルモン教』の『教義』となっていますが、『虚構』と観るのは梅爺の推察で、信者の方々は『事実』と『信じて』いることになります。

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2017年1月20日 (金)

Steve Berryの小説『リンカーンの神話』(4)

この小説を読んで、『モルモン教』に関する知識が増えました。何故『人類』は『宗教』の概念を保有するに至ったのかは、梅爺の興味の対象で、ブログに何度も『仮説』を記してきました。

『因果関係』を脳で『推論』する能力と、『抽象概念』を言葉で表現して仲間内で共有する能力とを保有するに至った『人類』は、『神(仏)』という概念を創造し、『神との関係』を『宗教』という様式で作り上げてきたというのが、梅爺の『仮説』です。

『科学知識』が乏しかった時代の『人類』にとって、自分たちの『生死』に関わる多くの事象は『摩訶不思議』であったはずです。これを『摩訶不思議』として放置しておくことは、『精神世界』では『不安』の要因になりますから、なんとしても『因果関係』を推論して、『安泰』を得ようとしたに違いありません。

『摩訶不思議』の根源を『神』とすることで、自分たちにとっては『摩訶不思議』なことは、『神の意図、神の所業』であると『因果関係』を想定したことになります。見事な推論といえます。

『神の意図、神の所業』は、必ずしも人間にとって『都合のよいこと』ばかりではありませんので、『都合のよいこと』は『祈祷』でお願いし、『都合の悪いこと』は『神』に暴れないで鎮(しず)まっていてほしい、恨みを抱いて死んだ人の霊に祟(たたら)らないで欲しいと、これも『祈祷』の対象にしました。

『一神教』『全知全能の神』『愛の神』などという『概念』は、人類の歴史の中で特定の『宗教』が後に考え出したむしろ特殊なものです。原始社会の『宗教』は、『良いことも悪いことももたらす神々』という『多神教』であり、自然界に存在する『摩訶不思議』が対象でしたので、『自然界のモノに神が宿る』とする『アミニズム』が主流であったのは当然のことです。

日本人の『精神文化』は、外国から伝えられた宗教の影響も受けていますが、『多神教』『アミニズム』の影響が根強く残っています。当然『死生観』にもこれが深く関与しています。

人間にとっては『生まれる』『死ぬ』ことも、『摩訶不思議』でしたから、『死後の霊』『死後の世界(天国、地獄)』も推論の対象になりました。

『科学知識』が増えた今日では、多くのことが『摩訶不思議』ではなくなりました。風や雷は『風神』『雷神』の仕業などとは、誰も考えなくなりました。江戸時代初期の『俵屋宗達』は、『風神』『雷神』を言い伝えを信じて描き、当時の人たちは、『風神』『雷神』は存在すると考えていたということですから、たった300年から400年で、様変わりしたことになります。

しかし、現代にも人間が『因果関係』を見出していない一見『摩訶不思議』なことは沢山あり、手っ取り早く『神仏』に祈りたくなることがないわけではありません。科学者は、『神仏』を前提とせずに、『因果関係』を普遍的な『摂理』との関係で明らかにしようとする人たちです。

現代人も『宗教』を必要としているのは、『心の安らぎ』を得るのに、極めて効果があると感ずるからです。『安泰を希求する本能』を人間が宿命的に継承していることが背景にあります。

『心の安らぎ』の正体は脳が分泌するある種のホルモンであることが、分かってきました。さらに『心の安らぎ』が『科学』によって解明されたときに、『宗教』はどう対応することになるのか気になります。

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2017年1月19日 (木)

Steve Berryの小説『リンカーンの神話』(3)

『リンカーン』の一番の信念は、『合衆国は州の離脱を認めない』ということで、『南北戦争』はこの信念を貫くための内戦でした。『奴隷制』を認めるか、認めないかは確かに『合衆国』『連合国』を隔てる要因でしたが、これは表向きな理由の一つに過ぎません。『離脱を認めることは、アメリカの将来に大きな禍根を残す』という信念でしたが、現実にこの信念を貫くために、60万人もの戦死者が出ることになりました。

この『信念』がなければ、現在アメリカは、二つの異なった『国家』に分割されていたかもしれないという話です。

『信念を貫く』ことが、結果的に多数の国民を死においやる事実に、『リンカーン』は苦悩しました。『大統領』は、時にこのように『冷酷な決断を迫られる』職責を負っているということで、この小説にでてくる現在の『大統領(架空の人物)』も、『合衆国の結束』を守るために、『悪人』二人を『闇に葬る』ことを暗黙に認める姿勢をとります。

小説の結末では、『悪人』の二人は仲たがいし、一人が一人を射殺し、残った一人もアメリカの『特務機関』のために働く主人公に銃を向け、正当防衛として主人公に逆に射殺されます。

『悪人』二人の『死』は、事故、病死として隠ぺいされ、『州離脱工作』があったことも隠ぺいされて、『合衆国安泰、メデタシ、メデタシ』で小説は終わります。

アメリカは、建国時に『イギリスの支配から離脱する』ことで、独立しました。独立宣言および憲法発布に署名した人たちは『建国の父たち(Founding Fathers)』と呼ばれています。

憲法では、『州の離脱』を認める記述はありませんが、『建国の父たち』は『将来州の意図で、州が合衆国から離脱する権利を保有する』ことを認めた文書にも署名していて、その文書は後の大統領に、内々に秘密文書として、継承されてきたということに、この小説ではなっています。『建国の父たち』にとっては、自分たちも『イギリス』から離脱したこともあり、将来州の離脱も権利として認めるのはごく自然の発想に見えます。しかし、多分この文書の存在は『Steve Berry』の創作なのでしょう。

『リンカーン』は自分の『信念』を否定するようなこの文書の存在に当惑したということになっています。

『南北戦争』のときに、『モルモン教』が実質支配する『ユタ州』は、中立的な立場をとっていましたが、『リンカーン』は『モルモン教』のリーダー『ブリガム・ヤング』に秘密の書簡を送り、『ユタ州』の自主制を認めることを示唆して『南軍』に加担しないような、何らかの『取引』を行ったという小説の筋書きになっています。

『モルモン教』の『ブリガム・ヤング』もこの『取引』に応じ、書簡は秘密に保管されて今日に至っているというのが小説のプロットです。この書簡が明るみにでれば、『リンカーン』も州の独立を認めることをにおわせて『政治取引』していたことが判明し、『悪人』たちにとって有利な証拠になりますから、これをめぐって活劇が展開します。

『モルモン教』にとっては、『アメリカ憲法』は、自分たちが『教義』としている『モルモンの書』の内容が反映しているとして、これを神聖視する向きがあると、小説には書いてありますが、真偽のほどはわかりません。『モルモン教』は当初異端の宗教として、アメリカ国内で迫害されてきた経緯があり、『ユタ州』に安寧の地を確保することが最優先であったのでしょう。『モルモン教』に理解を示す『リンカーン』は貴重な政治家で、『取引』に応じたのはこのためではないでしょうか。

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2017年1月18日 (水)

Steve Berryの小説『リンカーンの神話』(2)

『ユタ州』をはじめとして、いくつかのアメリカの州を、『合衆国』から離脱させ、独立国家にしようと、この小説で目論むのは、『ユタ州』選出で『モルモン教』徒の上院議員と、スペイン在住の狂信的な『モルモン教』徒の二人です。 

勿論この二人は『架空の人物』ですが、『モルモン教』徒を小説の中で『悪役』に仕立てていることに、梅爺は興味を抱きました。 

『モルモン教』は、現実にアメリカ(ユタ州、ソルト・レイク・シティ)に本部を置く『宗教団体』で、全世界の信徒数は1500万人(半数以上がアメリカ在住、210万人がユタ州在住、日本にも支部がある)ですから、このような小説をアメリカで出版すれば、作者は名誉棄損で訴えられるのではないかと余計な心配をしてしまいました。 

『Steve Berry』は、いつもこのように『きわどい設定』で、読者の好奇心を買おうとします。以前ブログで紹介した小説でも、『中国共産党幹部』『北朝鮮独裁者一族』などから登場人物を設定しています。 

『中国』や『北朝鮮』から、作者に対してどのような反応があったのか梅爺は知りませんが、ベストセラーを生み出すためには、『命がけの覚悟』が必要であろうと推測できます。 

『フィクションのエンターテイメントなのだから、何でもあり』という発想は、如何にもアメリカならではのものです。日本にも荒唐無稽なストーリーを売り物にする大衆作家はいますが、世間を現実に敵に回すような内容は避け、自制するのが普通です。 

勿論、この小説では、『善良なモルモン教徒』を敵に回さないように、配慮はしてあります。『カトリック』の『法王』にあたる、『モルモン教』のリーダー『大管長』は、狂信的な『悪役』二人を受け入れず、アメリカ大統領にも協力的な態度で小説に登場します。つまり『悪い』のは、狂信的な二人だけと限定しています。 

しかし、『狂信的』であるのは、『イスラム原理主義』と同じで、本来その宗教の初期の『教義』に忠実であるという側面もありますから、微妙な話になります。 

梅爺は、この小説のプロットそのものより、『リンカーン』の人物像、『南北戦争』の意味、『モルモン教』の歴史、教義について、興味を惹かれました。 

『小説のプロットそのものを楽しむ』『関連知識が豊富になる』という、『一粒で二度おいしい、グリコ・アーモンド・キャラメル』のような小説が、『Steve Berry』の特徴です。

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2017年1月17日 (火)

Steve Berryの小説『リンカーンの神話』(1)

アメリカの歴史ミステリー作家『Steve Berry』の小説『The Lincoln Myth(リンカーンの神話)』を英語版ペーパーバックで読みました。

少し前にAmazonの電子書籍『Kindle』を購入しましたので、紙の書籍の読書は終わりにしたいのですが、以前に買い置きしておいた本が何冊か残っており、目下そちらを減らす努力をしています。『The Lincoln Myth』はその中の一冊です。

『Steve Berry』については、何度もブログで紹介してきました(カテゴリー『Steve Berry』を参照ください)。

『The Lincoln Myth』は、『アメリカの州は、合衆国から離脱して独立国家となる権利を保有しているのか』という興味深い問題を扱った小説です。

『アメリカ合衆国(The United States of America)』は、現在では盤石(ばんじゃく)の結束を誇る強固な体制に見えますが、『リンカーン』が共和党大統領として就任した1860年当時、主として『奴隷制』をめぐって北部州と南部州の対立は一触即発の危険な状態にありました。

やがて、『サウスカロライナ州』をはじめとする南部7州が『合衆国』からまず離脱(1860年)し、『連合国』を結成し、後にさらに4州が加わりました。

北部州および大陸西岸のカリフォルニア州などで構成される『アメリカ合衆国(United States)』と、南部州で結成された『アメリカ連合国(Confederate States)』は、やがて戦闘状態に入りました。これが『南北戦争(The Civil War:1861-1864年)』です。

私達は、学校で歴史を習ったときに、『南北戦争』は『奴隷解放のための内戦』、『リンカーン大統領』は奴隷制に反対し、『人民による、人民のための、人民の政治』を唱えた立派で高潔な人物であると習いました。

しかし、『人間』および『人間社会』が関与する事象は、それほど『単純』ではないことは、容易に想像できます。

この小説では、『リンカーン大統領』は、何を最も重要なことと考えていたのか、その重要なことを優先度高く推進するために、どのような決断を下したのか、その決断にはどのような苦悩があったのか、を史実をベースに解き明かしています。つまり単に『立派で高潔な人物』とせずに、『苦悩の決断者』という現実的な視点で『リンカーン大統領』をとらえています。

『リンカーン』はアメリカの歴史の中で『もっとも偉大な大統領』という『神話』が出来上がっていますが、この小説は、それを必ずしも肯定していませんので、アメリカの読者の多くは、『あれあれ、そういうことなの』と興味をひかれるに違いありません。作者が本を売るために計算高くしかけたことのひとつです。

この小説は、現代のアメリカで、『州を独立させる』ことをもくろむ人物が、いわば『悪役』として登場し、それを阻止しようとする『大統領』『特殊任務組織』との間で、手に汗握る活劇が展開されます。舞台も『スペイン』『オーストリア』『アメリカ』と広域に及びます。

歴史素材をベースに、現代のミステリー小説に仕立てるといういつのも『Steve Berry』のスタイルです。

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2017年1月16日 (月)

経済成長のない世界(4)

現在の『成長』を支えるためには、『成長』で得られる『利益』以上の『投資』を必要としていることを指摘する経済学者もいます。つまり『負債』がどんどん増えていくことになるという指摘です。

そうであれば、『成長』は『自転車操業』のようなもので、立ち止まらず走り続けなければなりません。しかも、その間『負債』は増えていくことになります。

また『経済成長』の一番の問題は、『成長』で得られた『利益』が、少数の『勝者』の所得となり、大半の『敗者』には分配されないと事だと指摘する経済学者もいます。

『勝者』は『成長』でえられた所得を、更なる利益を求めて『金融投資』に供しますから、『敗者』は『成長』の恩恵を受けないという指摘です。

『アメリカの富の99%を、たった1%の人たちが握っている』という指摘は、この『富の配分』の不公平さを表現したものです。

『経済成長』は、『地球環境の悪化』『地球資源の枯渇』を招くという指摘もあります。

『再生可能なエネルギー』『再生可能な資源』だけで、私達が欲する『生活水準』は保てないという矛盾が見えてきます。

アメリカやカナダで、農耕、牧畜だけの『自給自足』の生活を送る『アーミッシュ(キリスト教プロテスタントの一派)』の人たちは、『電化製品』や『自動車』などを使いません。

文明の世の中に『変わった人たち』がいるものだと、私達は自分の価値観で観てしまいますが、『アーミッシュ』の人たちから観れば、私達は『破滅へ向かって突き進む愚かな人たち』ということなのでしょう。遠い将来まで生き残れるのは『アーミッシュ』だけかもしれません。

『理』で『アーミッシュ』の主張は理解できても、ある生活レベルを体験してしまった私たちは、『昔の生活レベル』へ戻ることを『情』が拒みます。

『経済成長』を『ゼロ』または『ゼロ近辺』にとどめたら、『何が起こるのか』を『理』で考えることはできても、その結果を受け入れることを『情』が拒むという、人間の習性を無視して、この問題は論ずることができないような気がします。

『地球環境』が破壊され、『地球資源』が枯渇するまでは、『見て見ぬふりをしながら』私達は、『経済成長』路線を突き進むのかもしれません。

『自分の安泰を最優先する本能』を持つ人間は、実に厄介です。しかし、この習性を無視しては、政治や経済の問題も洞察できません。

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2017年1月15日 (日)

経済成長のない世界(3)

2007年に明るみに出た、アメリカの低所得者向けの『サブプライム住宅ローン』危機で、2008年には大手投資銀行『リ-マン・ブラザーズ』が経営破たんし、世界経済へ大打撃を与えました。

本来返済能力がない低所得者層に、住宅購入目的の資金を貸し与えるしくみが『サブプライム住宅ローン』で、銀行は住宅(不動産)を担保にすることで、貸出資金以上の儲けを手にするという、魔法のようなしくみでした。

この魔法が成り立つ条件は、右肩上がりに続く『不動産価格の高騰』で、たしかに一時そのような状況が続きましたが、やがて『不動産高騰』がバブル崩壊すると、一挙にすべてが幻影のように消え去りました。

『貸出元(銀行)』と『低所得者層』の『Win-Win関係』は、一気に崩れ、『貸出元』は多大な負債を抱え、『低所得者層』は、無から手に入れて有頂天になっていた『我が家』を失い(抵当として召し上げられ)、路頭に迷うことになりました。

頭の良い金融業界の人たちが、このような事態を『予測していなかった』とは思えません。『サブプライム住宅ローン』という『金融商品』を創り出した人(人たち)は、リスクを承知で『目先の儲け』を優先したということでしょう。

その証拠に、『貸出元』の銀行は、『サブプライムローン負債』をまとめて上位の金融機関へ売却し、バブル崩壊時に自分に損害が及ばないように手を打っています。

上位の金融機関は、買い取った『サブプライムローン負債』を、他の『金融新商品(債権)』へ組み込み、この債権を国際金融市場で運用して、『儲け』を得ようとしました。

バブルが崩壊したときに、最後の『ババ』を持っていた大手金融機関(リーマン・ブラザーズなど)が経営破たんに追いやられましたが、最初のローン貸付を行った銀行の一部は、負債を事前に売却していることで難を逃れました。

生き馬の目を抜く『金融業界』で、『手段を選ばず、ずる賢く立ち回って傷を負わなかった者(ヒーロー)』と『ヘマをやって大打撃を受けた者(負け犬)』が常に存在します。

『金融商品』が、複数の債権を一つにまとめた商品に、次々に姿を変えるため、『バブル崩壊』時には、『サブプライムローン負債』は、他の『債権』に組み込まれていて、『サブプライムローン』の責任を追及することが難しくなっていました。『ずる賢い人』は、うまく逃げてしまったことになります。

世界の金融市場も、アメリカの売り出した『債権』を運用に供していましたから、『リーマン・ショック』のあおりを食らいましたが、アメリカの危機救済に、結局アメリカ政府は、破格の融資(支援)をせざるを得なくなりました。つまり国民の税金で、『しりぬぐい』をする結果になりました。企業の不始末であるにもかかわらず、経営破たんの影響が大きすぎるため、放置できずないというジレンマに遭遇したことになります。

『不動産価格』の価格は、常に右肩上がりで上がっていくというような、根拠のない『前提』が、破たんを呼びました。『経済成長』を続けたいという『願い』と、本当に続けられるかどうかの『現実』は、同じではありません。

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2017年1月14日 (土)

経済成長のない世界(2)

『経済成長』を過去に支えてきた要因は、『人口増加』『新市場』『技術や組織の革新』『生産増加』でした。この時代の経済は『実態経済』と称されます。

一方、この30年間の短期間に、世界経済は、『金融、財務操作』を『成長』推進の主役に代えてしまいました。『実態経済』に対して、この経済は『金融経済』と呼べるようなものです。

『実態経済』では、『ゼロサム・ゲーム』と呼ばれるように、『誰かが得をすれば、誰かが損をする(平均すればゼロになる)』という考え方が基盤にあります。これは、『同一の価値観』を前提とした考え方です。

しかし、人間は『個性的』にできた生物であるがゆえに、『精神世界』が創り出す『価値観』は多様で、これによって『経済行為』は複雑なものになりました。

原始社会の物々交換が典型的で、各自が自分の『価値観』で判断して取引しました。『自分にとって価値が低いものを、他人が持っている価値が高いものと交換する』ということで、『得をした』と『感ずる』ことになります。取引の相手も、逆にその交換で『得をした』と『感じて』いるならば、双方が『得をした』ことになり、『損をした』人はいないことになります。これは『ゼロサム・ゲーム』ではありません。現代の企業家が好む『Win-Win 関係』などというのも、同じ発想で、『価値観』に違いがあるために成り立つ取引です。

私達が『生活必需品』以外のものを購入するときに、出費以上の『満足』が得られると『感じて』購入するわけですから、ここでも個人的な『価値観』が関与していることがわかります。広告は個人の『欲しくなる気持』を喚起しようとします。

『実態経済』では『実態あるもの』に『価値』が付与されました。その『価値』のレベルが異なることを利用した経済行為も当然出現します。『発展途上国』の安い『労働力』を利用して、『商品』を生産し、それを『先進国市場』で高く売るというような行為が典型的です。経済は『価値』の違いを利用することになりますから、『格差』が存在することを必要とします。

論理的、現実的に『格差のない社会』などは存在しません。私達が配慮すべきなのは『格差が必要以上の弊害をもたらさない社会』です。

政治家が得意げに『格差のない社会』などと口にしたら、その人の思考レベルを疑うべきです。『人間』や『人間社会』の本質を理解していない人に、政治リーダーが務まるわけがありません。

『金融経済』は、『金融商品』という仮想的な対象に、相対的な『価値』を付与したものを取引の対象とするところが『実態経済』と異なります。

一瞬にして『価値』が暴騰したり、同じく一瞬にして『価値』が暴落する(消滅する)ということも起こるリスクに富んだ経済です。

『金融経済』が『バブル経済』に転じやすいのはこのためで、魔法のように『大儲け』をすることもあれば、魔法のようにすべてが消え去ってしまうことも当然起きます。

『金融商品』の形態が、『デリバティブ』など呼ばれる複雑で分かりにくいものになり、梅爺のような経済音痴は何回説明を受けても、理解できないような事態になっています。

『ハイ・イールド』などと呼ばれる『商品』は、利益を生む度合いが『高い』のかと思って購入してみたら、実は『ハイ・リスク』で、大きな損を蒙ったりします。

『ハイ・イールド』は『ハイ・リスク』のことだと、『騙された』と気づいた時には後の祭りということになります。

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2017年1月13日 (金)

経済成長のない世界(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の35番目の話題は『A World without Gtowth ?(成長のない世界とは)』で、著者は財務の専門家『Satajit Das』です。 

ここでいう『Growth』は明らかに『経済成長』のことですので、梅爺は『経済成長のない世界』と訳しました。 

著者は、現在の世界の政治、経済のしくみが『経済成長』を当然のこととして基盤にしていることに理解を示しながらも、『経済成長』がもたらしている弊害を考えて、敢えてここで私たちは、『経済成長ゼロ』または『プラス成長とマイナス成長の繰り返し』の状態を想定して、その時世界はどうなるのかを真剣に考えるべきではないかと主張しています。

そうは言いながら著者も『結論』を提示せずに、『考えてみるべきだ』にとどまっていて、ずるいような気がしますが、専門家にも判断が難しい問題であるということなのでしょう。 

正直に申し上げて、経済音痴の梅爺には、この話題は重荷です。感想を述べてはみたいと思いますが、内容に自信はありません。経済に造詣の深い方のご批判を期待しています。

『経済成長』は、『社会の活性化』『生活レベルの向上』『貧困の解消』などのために有効な手段であり、『債務過多』に陥っている個人、企業、国家の救済には必要な手段であるであるという主張が一般的です。『アベノミクス』も『経済成長』を基盤とし、雪だるま式に増えている国の負債に歯止めをかけようという方策です。

『経済成長』の良い面を強調したくなるのもわかりますが、悪い面も加味して総合判断した時にどうなるのかを知りたくなります。

世の中の議論の大半は、このように『賛成派』は良い面だけを強調し、『反対派』は悪い面だけを強調します。

その上、良い面と悪い面で指摘された事柄は、同じ尺度では比較できないことが大半ですから、議論を傍聴している一般の人たちは、『理』で判断することが難しくなり、結局『情(好き嫌いなどの直感)』で判断せざるを得なくなります。

自分ではよくわからないので、国民は政府や中央銀行が、『きっとうまくコントロールして経済成長をもたらしてくれるに違いない』と期待し、雲行きがあやしくなると、政府や日銀は『何をやっているのか』と批判し出します。

もちろん野党も、ここぞとばかりに『アベノミクスは間違いで、破たんしている』と叫びますが、具体的な代案を提示するわけではありません。

『アベノミクス』という言葉だけが、先行していて、その『本質』を理解している人は意外に少ないのではないでしょうか。梅爺も自信がない一人です。

『経済成長』だけでなく、『憲法改正』『集団的自衛権』『原発利用再開』などの議論も同様で、『本質』を理解することは容易ではありません。

『成長』『向上』は、人間の『安泰を希求する本能』が必然的に採用する方策であるとすれば、『理』ではない『信奉(信仰)』の対象になるのも当然なのかもしれません。スポーツでなぜ『勝ち』にこだわるのかということにも通じます。

『経済成長』を一度疑ってみなさい、という主張は『神』の存在を一度疑ってみなさいといっているのに等しく、『信奉(信仰)』を当り前のものとしてきた人には、越え難い障壁なのかもしれません。

歴史的に、繁栄した国家が『経済成長』を利用してきたことは確かですが、昔は多くの人たちは『経済成長』などとは無関係な生涯を送っていました。人類全体にとって『経済成長』が問題になり始めたのは、近世以降のことです。

平均的な『生活レベル』を例にとると、1300年から1800年の間の500年で、2倍に向上し、1800年から1900年の間の100年間で、さらに2倍に向上しました。20世紀以降現在までに、さらに5から6倍に向上しています。

『経済的生産高』も、歴史的に同様な推移をし、近世に急増しています。

『経済成長』が当り前になったのは、近世以降のことで、それ以前の人類の歴史では、すべての人に共通する問題ではなかったということです。

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2017年1月12日 (木)

何を『良い暮らし』というのか?(4)

『文明』の歴史と将来を論ずる学者の中には、『利用できる環境内の資源』を識別要因とする雄大な発想をする方がおられます。 

(A) 利用できる地域内の資源に立脚する文明
(B) 地球の総合的な資源に立脚する文明
(C) 太陽系の総合的な資源に立脚する文明
(D) 太陽系外の宇宙の総合的な資源に立脚する文明
 

近世までの人類の文明の大半は(A)に属するもので、現代は(B)の段階に入っていると見ることができます。 

しかし、やがて地球資源は人類を生存させ続けるには不足または枯渇状態になり、(C)(D)の段階へと移行するという予測になります。 

(C)(D)の段階まで、人類が生存しつけられるのか、生存し続けられる人類の数は限定されるのかは、予測できていません。

『宇宙』のどこかに、『知的生命体』が存在するとしたら(多くの学者は存在する可能性を認めています)、その『知的生命体』が創り出す『文明』も、同じ経路をたどるという観方になります。

(C)(D)に匹敵する『文明』を、他の『知的生命体』が達成しているとすれば、地球の人類よりも進んでいるということになります。

地球の人類が(B)のレベルに達するまでに、約5000年要したことになりますが、(C)(D)に達するまでにあとどのくらいの年数を要するのかも推測の域を出ません。

138億年の『宇宙』の歴史に比べれば、5000年という『文明』の歴史は、一瞬の出来事にすぎません。この相対的な認識も、私達が思いあがらないようにするためにも大切なことです。

『安泰を希求する本能』を持つ私たちは、『より便利』『より快適』を『満足』の尺度としがちですので、一般論としては『満足』は『文明』のレベルの影響を受けます。

『より便利』『より快適』は、『ヒト』が『生きる』ためには、必ずしも必要でないことかもしれません。『命が維持できるレベル』を限度として、それ以上は求めるなという説得は、もっともですが、『文明』は『便利』『快適』を当り前なことにしてしまいますから、さらなる上のレベルを目指すことになります。

一方このことは『環境資源』を『消費』することを促進し、やがては『文明』そのものが立ちいかなくなるという矛盾をはらんでいます。もちろん人口増加との関係も見落とせません。『ブレークスルー』は、新しい環境へ移行するという、上記の論理帰結しかありません。しかし現状の科学技術では『ブレークスルー』は困難ですし、地球の全人類が『ブレークスルー』の恩恵に預かれる保証もありません。

『継続維持可能な資源』『再生可能な資源』に頼って、それ以外の資源の枯渇を少しでも先送りにしようという『環境保護者』の提言には、現実的な意味があります。

しかし、このことは『あるレベルの満足で我慢しろ』ということでもありますので、人類の一致した価値感覚にすることが難しくなります。

現代の日本人に、『江戸時代の生活レベルへ戻れ』といっても、無理があるからです。人間は一度体験した『便利』『快適』は、手放そうとしません。心理的に『安泰』が脅かされるからです。

『良い暮らし』とは何かという議論は、『精神世界』『文明』『人口と資源』などにかかわる、実は奥深い問題にからんでいます。

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2017年1月11日 (水)

何を『良い暮らし』というのか?(3)

このエッセイの著者は、『満足』には、『モノを消費して得られる満足』と『モノを消費せずにえられる満足』があり、前者をほどほどに抑制して後者を優先すべきと主張しているように受け止められます。

一見『ごもっとも』のようですが、この二つの『満足』は、互いに異質なものであり、必ずしも一方が他方を代替することはできないかもしれないことに言及していません。

梅爺は、人間の本質を、梅爺流な論理(仮説)で把握してきましたが、この問題もそれに従った方が、エッセイの著者の主張を別の角度で説明できるように思います。

梅爺の論理(仮説)の骨子は以下です。

(1)人間を『物質世界』の摂理に支配される『生物』の一種とみなし、これを『ヒト』と呼ぶ。
(2)『ヒト』の物質的組成は、『物質世界』共通の素材の一部を利用して成り立っている。(『物質世界』に存在する他の実態と何ら変わらない)
(3)『ヒト』の生誕、生存、死は、摂理がもたらす『変容』である。
(4)『ヒト』は、生命維持、生存率向上のために『脳』の機能を進化させてきた。(生物進化と呼ばれる『物質世界』特有の事象)
(5)『ヒト』は高度に進化した『脳』で、『精神世界』という抽象的な世界を保有するに至った。このレベルに達した『ヒト』を、『人』と呼ぶ。当然『人』は、基盤として『ヒト』の習性を継承している。
(6)『精神世界』の根底に、『安泰を希求する本能』がある。
(7)『ヒト』の肉体的特性、『人』の精神的特性はいずれも個性的である。この個性的であることが、人間や人間社会を理解する重要な要因になる。
(8)『ヒト』は生存率向上のために『群』で生きる習性を選択した。このため、個の安泰と群(全体)の安泰が、必ずしも一致しないという矛盾を抱え込むことになった。その結果『精神世界』は『利己』と『利他』という一見矛盾する概念を保有するようになった。しかし『安泰を希求する』という基本において『利己』『利他』は同根である。
(9)『安泰』が確保されたと感じた時に、『ヒト』も『人』も『満足(安堵)』を得る。

『満足』は、食欲や性欲が満たされたというような、『ヒト』のレベルに属する肉体的な満足から、信仰で『心の安らぎ』が得られる、素晴らしい芸術に接して感動するなどの『人』のレベルに属する精神的な満足まで、多岐にわたります。

わかりやすく言ってしまえば、人間は『生きる』ために、肉体的な『満足』と精神的な『満足』の両方を必要とするということです。

肉体的な『満足』を満たすためには、どうしても必要な『消費』を伴います。ただ『生きる』ための最小限度の『消費』と、別の欲望を満たすための過大な『消費』とは異なることを理解する理性は求められます。この『消費』には、他の生命体の命を奪う行為も含まれます。

必要な栄養素を摂取するのと、美食のための贅沢な摂取は異なるということですが、現実にその区分けは至難です。『日々の糧』の摂取までは神によって許される行為で、それ以上の行為は『罪』と言われても、その境界は判然としません。

精神的な『満足』の中には、確かに『消費』を伴わないものもありますが、こちらは、『満足』の価値観が個人によって異なっており、全員に同じことを求めるわけにはいきません。

『満足』という概念は、相対的、抽象的であることがわかります。論理的に考えれば、『誰もが同様に満足する』という状態は存在しないとも言えます。

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2017年1月10日 (火)

何を『良い暮らし』というのか?(2)

著者は、『(経済)成長』が『良い暮らし』を牽引するという主張が、50%間違っているとする理由として、二つの理由を挙げています。

一つは、『良い暮らし』に関する浅薄な理解が横行することと、もう一つは、地球環境の悪化につながることを危惧しています。

私たちは、限りない『消費』ではなく、あるレベル(それもそう高いレベルではない)を越えれば、満足が得られることを知っています。『美味しい食事』も、沢山食べれば、より満足度が高いかと云えばそうではありません。

このことから、『幸福、満足』には、『消費』だけでなく『抑制』が関与していることが分かります。

現実に、『幸福、満足』を満たす要素の多くは、物質的な『消費』を必要としていません。何故ならば、それに要する『資源』は、『使ったからと云って減らないもの』であるからです。

例えば、『友情』『共感(絆)』『優しさ』『寛容さ』『充実した会話』『美意識』『親近感』『ユーモア』『良い考えを思いついた時の喜び』を減らない『資源』として著者は紹介しています。

1986年に暗殺される直前に、アメリカの国務長官『ロバート・ケネディ』は、カンサス大学での講演で、次のように語っています。

『GNPは、大気汚染、タバコ会社の広告量、ハイウェイでの交通事故、森林伐採、自然景観の破壊などの指標であって、子供たちの健康、教育の質、子供たちの遊びの楽しさ、詩の美しさ、人々の知的な議論、公共サービスの充実などの指標ではありません。云ってみればGNPは、暮らしを充実させるための指標とは云えないものです』

『消費の増加』は、地球環境を悪化させることに繋がります。地球の『生態系』は驚くほど豊富で、再生能力も優れています。しかし、それにも限度があり、今のような『消費の増加』が続けば、人類と云う生物種だけで、『生態系』を枯渇化へ追いやってしまいます。

こう考えてくると、私たちは、限定された資源を前提として、『良い暮らし』とは何かを考えるべきであると著者は主張しています。

子供たちや孫たちの代までも『良い暮らし』が継続できる方策を考えなければならいという、大変『ごもっとも』な主張で、もちろん梅爺は異論がありません。

しかし、ここまでの議論は、多くの人が『一般論』として認める話ですが、何となく『現実離れしたきれいごと』の感を受けないわけではありません。

梅爺が、へそ曲がりなためとも言えますが、『戦争は不幸を招くだけ。したがって戦争はいけない』といっているのに似ているように感じます。

人間社会の事象を論ずる時には、もっと深い『人間』の本質に関する洞察が必要ではないでしょうか。

『利他(全体)』のために、『利己(個)』を抑制しなさいという議論は、一般的で、どう抑制したら良いかと云う具体的な判断基準に関する共通認識を人類は保有していないからです。

具体的な『抑制策』が示されれば、必ず『個人的権利の侵害』などといって『反対』する人がでてきます。

個人が自発的に『抑制』すれば理想的ですが、そのような『立派な人』は沢山はいません。

梅爺も『年金でつつましく生きています』といいながら、世界の貧困レベルの人達から観れば『贅沢に生きている』にちがいないからです。

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2017年1月 9日 (月)

何を『良い暮らし』というのか?(1)

『What should we be worried about?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の34番目のタイトルは『What is a good life ?(何を良い暮らしというのか?)』で、著者はオーストラリアの大学の歴史学教授『David Christian』です。

2013年に、『Edge Question』という団体が、学者や有識者を集めて、人々が現在ではあまり議論の対象にしていないことで、実は学校で、家庭で、国会で、新聞やテレビで、国連で議論すべきことは何か問い、著者も招かれました。

著者は『良い暮らしとは何か』を挙げ、このエッセイで論じています。

何故私たちが『良い暮らしとは何か』を議論の対象にしないのは、『裕福な暮らし』がその解答であると端(はな)から思い込んでいるか、古代ギリシャの哲学者が論じた古臭い話題であり、現代には当てはまらないと感じているかのどちらかではないでしょうか。

『現代科学』は、私たちが欲するものを、限りなく実現し届けてくれるように見えますし、GDP、GNPといった経済指標は、私たちが古代ギリシャの人達より『良い暮らし』をしていることを示しています。

1500年から2000年の500年の間に、世界のGDPは150倍に、一人あたりのGDPは10倍に増加しています。

これは、私たちが経済の『成長』と呼ぶものです。

私たちの多くは、『良い暮らし』を支えているのは『成長』であると、考えるようになってしまい、政治家、経済人、企業家は『成長』を継続させるために、あらゆる努力を傾けてきました。

『良い暮らし』を実現するには『成長』が必要と云う考え方は、『毛沢東』も強調しています。

『良い暮らし』は、食糧、安全、その他生活に欠かせないものを必要とし、それらを産み出すために、『エネルギー』や『資源』を使わなければなりません。

『貧困レベル』を脱するには、あるレベル以上の『エネルギー』や『資源』の『消費』が必要になるという結論になります。

この主張は、50%正しく、50%誤っていると著者は論じています。

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2017年1月 8日 (日)

Zeal without knowledge is a runaway horse.

英語の諺『Zeal without knowledge is a runaway horse.』の話です。

『知識を伴わない情熱は暴走馬のようなものだ』という意味ですので、何を言いたいのかはすぐに分かります。

『知識』と『情熱』は、人間にとって両輪のようなもので、『知識を伴わない情熱』は確かに危険ではた迷惑なものですが、『情熱を伴わない知識』も宝の持ち腐れとなってしまいます。

『知識』は『自分の考え(知恵)』をまとめるために必要な素材で、『問題意識』が先行している場合、人は必要な『知識』を探す努力をします。こうして得た『知識』は、詰め込み教育で教わった『知識』と異なり、強く記憶に残ります。

勿論『基礎知識』はある程度強制的にたたき込む必要がありますが、その後は『自分の問題意識に自分で答を出すために、自分で必要な知識を探す訓練』を教育の基盤とすべきです。この訓練は一生役に立つはずです。

もうひとつ重要なことは、人間社会には沢山の『問題』が発生しますが、『科学』の世界のように万人が納得する『正解』は存在しないことをわきまえておくことです。多くの人が共感して支持する『案』はもちろんあり、それを社会の『約束事』とすることがありますが、厳密にはそれは『正解』とはいえません。『憲法』『法』『倫理』なども、『正解』として提示されたものではありません。

日本の学校教育では、テストで100点をとることが奨励されますので、学生は『何事にも正解がある』と勘違いして大人になり、大人になってもそう信じ込んでいる人が多いように感じます。

『問題』に遭遇すると、『参考書』『専門家の意見』を求めますが『自分で考える』ことはしようとしません。

『正解』を他に求めようとするのは、『責任回避』の心理が働くからともいえます。他人の意見や、本に書いてあることも一つの『知識』とみなして、『自分の考え』を模索すべきです。

人間の『精神世界』は個性的に宿命づけられていますから、自分の『情』と『理』を最大限に駆使して、『自分の考え』を求めるしかありません。そうして得た『自分の考え』は、後々不具合なものであることが判明することもあることを覚悟し、責任は自分で負うしかありません。それが『人生を生きる』ということです。

『情』と『理』を駆使してみても、後々不都合に遭遇することがあるのですから、『情』だけで突っ走るのは無謀すぎるというこの諺の主張は、『ごもっとも』と納得がいきます。

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2017年1月 7日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『言葉は時に誤解のタネ』(6)

『戦争』への対応策は、『テロリズム』への対応策にはならないことを例に挙げ、『ウンベルト・エーコ』は、『戦争』と『テロリズム』の本質的な違いを理解し、混同してはいけないと論じています。

このような具体的な『事例』から、『言葉は時として誤解のタネ』になるという一般論を『帰納法的』に論じていることになります。

そう言われると、理屈屋の梅爺は、『言葉は何故誤解のタネになる』のかを、更に洞察したくなります。

このことを考えるには、『人間は何故、そしてどのように言語機能を獲得したのか(進化論)』『脳の言語機能のしくみはどうなっているのか(脳科学)』『人間は何故誤解をするのか(心理学)』などの基礎知識が必要になり、梅爺には荷が重いことは分かりますが、それでも『こうではないか』といくつか思いつくことはあります。

ヒトが生存確率を高めるために群で行動する生活パターンを採用したために、『自分の意思を示す』『他人の意志を理解する』手段として、つまり『コミニュケーション』の手段として『言語』機能』を獲得したのであろうことは容易に推測できます。他の生物も『コミニュケーション』手段を保有していますが、『ヒト』の言語機能は『脳』の進化とともに、複雑・高度なレベルに達したということでしょう。

とりわけ、『ヒト』が『抽象物』『抽象概念』も言葉で表現し、群(むれ)で共有するようになったことが画期的ですが、一方『抽象』であるが故に、同じ『言葉』でも、個人個人で『異なった受け止め方、感じ方』をすることは避けられず、これが『誤解のタネ』になっていると推測できます。

特に『ヒト』は、周囲の事象を『自分の能力範囲で判断する』『自分に都合よく受け止めようとする(安泰を希求する本能)』ために、『受け止め方、感じ方』に差が生じ、『誤解』が発生するということが避けにくいことになります。

従って『誤解』を回避しようとすれば、『話し手』と『聞き手』の能力レベルがほぼ同じで、しかも双方とも『自分が誤解してはいないか』と慎重に自省しながら対応するしかありません。

現実には、このような理想的な関係は望み得ませんから、私たちは、日常生活で『誤解』を繰り返し『泣いたり、笑ったり』していることになります。

また、対立する国家間、対立する宗教間で、『誤解』が次々に発生し、それが『戦争』や『テロリズム』を引き起こしていることになります。

平和主義者は『戦争反対』と叫ぶ前に、『生物としてのヒトの特性』『脳の仕組み』のことを学んでほしいと願います。

『言葉』は、『ヒト』や『脳』をしる手掛かりではありますが、まだまだ未知のことだらけです。幼児が何故短期間に『言語の論理構造』を理解するのかなどが、代表的な謎の一つです。親は幼児に『文法』などは教えませんが、幼児は個々の事例から一般的な論理構造を帰納的に理解してしまいます。それなのに大人は、このような速さで外国語の論理構造を身につけることができません。

『言葉』は、これほどに『知的探訪』の対象なのです。

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2017年1月 6日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『言葉は時に誤解のタネ』(5)

『戦争』『内戦』『レジスタン活動』『テロリズム』などは、いずれも『武器を使用した殺傷行為』を伴うという点では同じですが、それぞれの本質的な意味は大きく異なります。

『戦争』と『テロリズム』への『国家』の対応策は従って異なります。『コソ泥』と『銀行強盗』では、対応策が異なるのと同じと『ウンベルト・エーコ』は書いています。

現在の『日本』が、心ならずも戦争に巻き込まれる可能性はゼロではありませんが、世界で起きていることを観ると、それよりも『テロリズム』の攻撃対象になる可能性の方がずっと高いと言えるのではないでしょうか。『テロリズム』には、『殺傷、破壊活動』だけではなく、『情報通信システム』を麻痺させる『サイバー・テロ』も含まれます。

『戦争』は『敵』や『戦闘行為が発生するであろう場所』は特定できますが、『テロリズム』は事前に『犯人』や『犯行手口』を予測特定することは極めて困難です。

『戦争反対』『テロ反対』といくら叫んでも、『戦争』や『テロリズム』がなくなるわけではありません。『戦争』や『テロリズム』に『日本』が巻き込まれ難い国家であるために、また不幸にして巻き込まれた時に被害を最小限度にとどめる具体的な『方策(政策)』を私たちは議論し、準備すべきです。

そして、その『方策』を実現するには『資金(具体的には税金の投入)』が必要であることも認めなければなりません。

『国家』にとっての脅威対象が、『戦争』よりも『テロリズム』に移行している時代に、『具体的な対応策』も示さずに『戦争反対』とだけ叫んで、自分は平和主義者であると勘違いしている人が多いように梅爺は感じています。

『9.11』で『アメリカ』が直面した問題は、『戦争』に関しては『兵器、武器』などで質量ともに他国を圧倒する『アメリカ』が、『テロリズム』に関しては防御態勢が脆弱であるということを露呈したことです。

このような事態に、迅速かつ極端に対応するのが『アメリカ』の特徴で、情報通信技術を駆使した『国民』の監視体制が強化されました。これに対する反動で『プライバシー侵害』を訴える声も高まっています。

『日本』は『東日本大震災』で甚大な被害をこうむった教訓として、『防災対策』を優先しているのは当然ですが、『テロリズム』の脅威対策も、今後重要な課題になることは歴然としています。

『観光立国』『オリンピック招致』は、その代償として『テロリズム』対策を必要とするからです。『犯行者』『犯行場所』『犯行手段』が事前に特定し難い『テロリズム』への対策は、『戦争』に備える以上に厄介で、金がかかることかもしれません。

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2017年1月 5日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『言葉は時に誤解のタネ』(4)

私たちの周囲に存在する多くの『議論』が不毛なのは、発言で用いる『言葉』の定義があいまいであるためです。

相手が使った『言葉』の解釈に誤解があれば、それ以降の『議論』がかみ合わなくなるのは当然のことです。

ある発言が、単に『事実を述べている』のか、『理解を示している』のか、『正当化しようとしている』のか、『同情している』のかで、その後の『議論』の展開は異なると、『ウンベルト・エーコ』は述べています。

例えば『ビン・ラディンの存在を認める』と誰かが発言した時に、上記のどの意味で『認める』といったのかは、判然としません。

単に『事実を述べている』のであれば、『ビン・ラディンの言動は、私の価値観では同意できないけれども、彼のような考え方をする人がこの世にいることは認めざるを得ない』と云っているのかもしれません。それを『ビン・ラディンの言動を正当化しようとしている』と誤解すると、『議論』はとんでもない方向へ向かってしまいます。

私たちの周囲には、『自分の価値観には合わないこと』『自分にとって不都合なこと』が現に沢山存在します。それでも、最終的には自分の中で『白黒』をはっきりさせて、対応する必要があります。そうしないと、『生きていく』ための選択(次なる行動)ができないからです。

このことは、あくまでも『個人の相対的な価値観』で『白黒』をつけることであり、その『白黒』の決断が普遍的に『正しい』と主張することとは、大きく異なります。

『民主主義』が『基本的人権』を認めていることは、誰もが、『私の価値観ではこちらを選ぶ』という権利を保有していることです。他人がその人の立場を理解する上でも、『自己主張』は必要ですし、むしろ行う必要があります。

しかし、『自己主張』はあくまでも個人的、相対的な価値観に立脚していることも忘れてはなりません。

『私の主張が絶対(普遍的に)正しい』と主張することには、慎重であるべきです。

『梅爺閑話』で梅爺は、沢山『自己主張』していますが、その内容が『普遍的に正しい』というつもりはありませんし、そのような誤解が生じないように願っています。

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2017年1月 4日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『言葉は時に誤解のタネ』(3)

『9.11』の悲劇の後、ブッシュ大統領は、『正義は必ず邪悪に勝利する』というようなことを叫んで、『イラク』や『パキスタン』『アフガニスタン』へ侵攻しました。 

まるで、11世紀の『十字軍』のような発想だと『ウンベルト・エーコ』は皮肉っています。しかも『十字軍』は、『キリスト教』と『イスラム教』の闘いであったことをブッシュ大統領は理解しているとは思えないとも書いています。 

政治リーダーは『正義と邪悪の闘い』などと哲学的とは言えるものの陳腐な表現しかできない人ではなく、世界の歴史や地理を正しく理解できる人であってほしいとも書いています。 

『9.11』の『テロリスト』が、アラブ系の人達であったことから、『言葉』による誤解が、世界中に、特にアメリカ国内が広がっていることを、『ウンベルト・エーコ』は危惧しています。 

『イスラム教原理主義者』のグループが、『テロリスト』を養成し、世界各地で『テロ』の実行を行っているというのが私たちの一般認識です。 

『イスラム教徒』『イスラム原理主義者』『アラブ系の人達』『テロリスト』は、同じと誤解すると混乱が生じます。全ての『イスラム教徒』は『イスラム原理主義者』ではありませんし、『イスラム教徒』は必ずしも『アラブ系の人達』とは限りません。勿論全ての『アラブ系の人達』が『テロリスト』ではありません。 

しかし、誤解は悲劇を産むことになりました。『9.11』の後、アメリカでは『アラブ系の人達』に対する、云われの無い迫害が横行し、中には、『ターバン』を頭に巻いていたという理由で殺害される事件も起きました。『ターバン』はインドの宗教を信仰する人が身につけいる習慣としているもので、『イスラム教』とは直接の関係はありません。

『原理主義者』は『イスラム教』だけではなく、『キリスト教』『ユダヤ教』にもあります。『原理主義者』は、いずれの宗教でも、教義の元となっている『聖典』に書かれている内容を『絶対に正しい』として、それ以外の考え方を全て徹底否定します。

『キリスト教』の『原理主義』で有名なのは、アメリカの一部『プロテスタント』で、『ビッグ・バン』や『生物進化』といった科学の知識を一切否定しています。

『自由』な国を誇り、科学的研究分野でも世界をリードする『アメリカ』ですが、歴史的に『キリスト教原理主義』の影響が強く、今でも『生物進化』を信じない人達が40%近く存在すると言われています。州によっては、永い間『生物進化』を学校で教えることさえ禁止していました。

人の『精神世界』は、『安泰を希求する本能』が基盤にありますので、『絶対的な真』が存在すると仮定した方が、『懐疑に由来する不安』の度合が減少することは確かですが、冷静に考えてみれば、『精神世界』が創出し、私たちが共有している『抽象概念』には、『真偽』を判定する絶対的な尺度はありません。とりわけ、千年以上前に書かれた『聖典』の内容を、『全て正しい』とする姿勢は、人々を危険な行為へ誘う原因になります。

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2017年1月 3日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『言葉は時に誤解のタネ』(2)

『ウンベルト・エーコ』は、『戦争』という言葉は何を意味するのか曖昧である、と述べています。

『9.11』が起きて以降、『戦争とは何か』という議論が盛んになりました。『テロリスト』の殲滅(せんめつ)を掲げた、アメリカの『イラク』『アフガニスタン』での戦闘行為は、外観(そとみ)には、『戦争』における戦闘行為と同じように見えますが、従来の概念の『戦争』である、国家間の『戦闘』とは異なっています。

『9.11』に対して、ブッシュ大統領が『戦争』と言わずに、『テロリズム』と表現したために、『被害』は『損害保険』『生命保険』の対象になったと『ウンベルト・エーコ』は皮肉っています。ブッシュ大統領は、自分の言葉が、保険が有効かどうかを決める要因になるなどと洞察していたとは思えないという皮肉です。

現在、アフリカの『スーダン』、西アジアの『シリア』、中東各地で、『戦争』同様の戦闘行為が行われていますが、それらは、同じ国家の『政府』と『反政府』の闘いである『内戦』であったり、国家としての実態のない『イスラム国』という組織とそれに反対する勢力の『戦闘』であったりしますから、『戦争』ではないということにもなります。

しかし、『内戦』、『地域における勢力争い』にしては、『外国の軍隊』が『戦闘』に参加していますから、従来の『内戦』『地域紛争』とは様相が異なっています。

『第二次世界大戦』のころまでは、『戦争』『内戦』『テロリズム』は、何となく明確な概念として通用していましたが、現在では、それが曖昧になりつつあるということです。

『経済』の『グローバライゼーション』や、『情報』が瞬時に伝わる『情報通信網(特にインターネット)』の出現が背景にあることは明白です。

世界のどこかで、何が起きても、『それは、私には無関係である』とは、云い難い時代になっているということです。

アフリカの資源に関する利権を獲得しようとする国家には、アフリカの『内戦』は『他人事(ひとごと)』ではなく、干渉しようとします。

『武器』を購入してくれる『政府軍』を、『武器輸出』を目論む外国が支援したりもします。

アメリカは、中国や北朝鮮と『戦争』を始める可能性は低いと思われますが、『イラク』『アフガニスタン』『パキスタン』での『テロリストと戦闘』、中東、西アジアでの『イスラム国との戦闘』を続けています。

『戦争』はしていないといいながら、軍隊は軍事活動を続け、『軍需産業』はそれで潤っています。

『戦争』は『正義』と『邪悪』の闘いなどと考えるのは、皮相すぎます。ドロドロした利権争いである側面を洞察すべきです。中国が南沙諸島に人工島を強引に建設するのは、経済水域と云う利権を既成事実として獲得する目的です。数千年前から中国が支配していたなどと云う主張は、単なる詭弁に過ぎません。

このように、世界情勢は大きく変化しているにもかかわらず、日本の『平和主義者』は、『第二次世界大戦当時の戦争概念』を振りかざして、『戦争絶対反対』と叫んでいるのは、少々ズレているように梅爺は感じます。

勿論梅爺も『戦争』を望みませんが、現在日本が優先すべき警戒事項は、外国勢力による日本国内での『テロリズム』行為と、日本の経済支配領域における外国の権利侵害ではないでしょうか。

『東京オリンピック』『外国観光客の増加』は、『良いこと』ばかりを日本へもたらすとは限りません。総合的に冷静な対応ができる国家であってほしいと願います。

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2017年1月 2日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『言葉は時に誤解のタネ』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を戻す)』の21番目の話題は『Words Are Stones(言葉は石ころのようなもの)』で、戦争や紛争の報道に登場する『専門用語』が、皮相な理解で使われていて、反って誤解のタネになっていることを論じたものです。

梅爺はタイトルを『言葉は時に誤解のタネ』と意訳しました。

『9.11』のハイジャックされた飛行機が、ニューヨークの世界貿易センタービル(ツゥイン・タワー)ではなく、仮にオクラホマのダウンタウンのビルに激突し、同じような数の死傷者が出たとしても、アメリカ人や世界の人達のショックの度合は、異なっていたであろうと『ウンベルト・エーコ』は書いています。

アメリカの象徴、民主主義、市場経済主義の象徴(シンボル)であった世界貿易センタービルが崩壊したことで、より大きなショックを受けたということを云いたいのでしょう。オクラホマには失礼な話に聞こえますが、例え話ですから、良いことにしましょう。

『シンボル』が持つ意味合いで、人々の『受け取り方、感じ方』が異なるということですから、『シンボル』そのものとも言える『言葉』も、使い方、使う状況で、人々に異なった印象を与えるのは当然のことです。

梅爺はブログで何度も、西洋と東洋では、『言葉』に対する『受け止め方』が異なるのではないかと書いてきました。梅爺の直感ですから、『正しい』と主張するつもりはありませんが、梅爺自身はこの考え方が気に入っています。

古代ギリシャから受け継がれた『理性重視』の西洋の思想では、『言葉』は『正しい理解をもたらす手段』と考えられているように見えます。特に、『新約聖書』の『はじめに言葉あり。言葉は神なりき』は、これを如実に物語っているように感じます。『話し手』の『意図』を、そのまま『聞き手』に伝えることができる手段が『言葉』という考え方です。

一方、東洋、特に中国では、文字として『漢字』が用いられたためか、『広大な意味を内包する概念』に一つの『言葉(または文字)』が与えられました。『仁』『義』などがその例です。この場合『話し手』の『意図』を、『聞き手』は忖度(そんたく)して自分の理解にしなければなりません。むしろその様に色々な『受け止め方、感じ方』があってもよいと許容する文化です。云い方を変えれば、『言葉』だけでは全てを伝えることが困難と最初から割り切っているようにも見えます。

この文化を継承した『日本』では、『短歌』『俳諧』などという文芸様式が生まれました。むしろ、言葉を制約する方が、『広大な世界』を彷彿させるという、西欧人には驚きの発想です。『余白』が『俳諧』の真髄とはそのことです。

人の『精神世界』は個性的ですから、同じ言葉を聞いて同じ内容を想起するとは限りません。『富士山』『母』という言葉を聞いて、脳裏に描くイメージは全て異なります。

その様なことを、文化として体験している日本人は、『ウンベルト・エーコ』に『言葉は時に誤解のタネ』など教えてもらわなくとも、『先刻承知』と云いたくなります。

ただ、さすがに『ウンベルト・エーコ』の『戦争』『内戦』『テロ』『レジスタンス』『原理主義』『政教一致主義』『全体主義』などという『言葉』への洞察は、耳を傾けるに値します。

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2017年1月 1日 (日)

梅爺詩集『老いの言の葉』(3)

明けましておめでとうございます。

年始恒例の『梅爺詩集』です。理屈っぽい内容で『詩』とは程遠い内容になってしまいましたが、梅爺にとってはこれが一種の人生観です。

命と心

『命』は138億年前の『宇宙の始まり』とつながっています。

ですから『命』は宇宙にある材料だけでできていて、宇宙を支えている法則の一部だけを利用して活動しています。

数えきれない偶然の事象や変容が重なって『命』のしくみが出現しました。

『命』のしくみは、誰かが効率よく設計したようには見えません。

むしろ、無数の『変容』が永い時間をかけて累積した偶然の産物であるように見えます。

『命』のしくみを具体的に体現しているのが『細胞』です。

『細胞』はエネルギー源や栄養分を摂取し、不要な老廃物を排泄します。これが『代謝』です。

『細胞』は独自の『設計図(DNA)』を保有していて、これを利用して新しい『細胞』を創り出します。これが『複写』です。

『代謝』ができなくなると『細胞』は死を迎えます。後には素材だけが残り『命』は消滅します。

『複写』ができなくなると、その『細胞』が形成していた生物種は子孫を残せずに絶滅します。

『ヒト』の『命』の基本的なしくみは他の生物と変わりません。

約200種類の『細胞』が60兆個あつまって『ヒト』の『カラダ』を形成し、すべての『細胞』が協力しながら『命』を支えています。目もくらむような複雑な『命』のしくみが、自分の中に在ることを私たちは普段意識せずに『生きて』います。

『ヒト』は『脳細胞』を利用して、『心(精神世界)』という仮想世界を保有し進化させてきました。勿論『生きる』ために手段として必要であったからです。

生物種の『ヒト』は『心』を獲得し『人』になりました。

『心』を豊かに表現する方法も考え出しました。『言葉』はその代表です。

『心』は『理性』と『情感』で構成されています。

『心』は時に『人』を崇高な存在にしますが、時にはおどろおどろしい卑俗な存在にもします。

『命』があって『心』がなりたっています。

『命』が途絶えた時に、その人の『心』は消滅し、無に帰します。『霊魂不滅』は『心』が願望で考えだした虚構と考えれば得心がいきます。

豊かな『心』を育み、維持できるのは、『生きている人』だけの特権です。『心』が機能できる時間は有限です。

そうであるからこそ『人』は『生きている』時間を大切にしなければならないのです。

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