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2016年12月31日 (土)

『あるべき姿』と科学の関わり(4)

この著者は、哲学者が思考対象としてきた、『人間の価値』『道徳』『倫理』などといった分野にも、科学者が『科学的手法』を用いて関与すべきだ、と主張しています。 

梅爺がつけ加えれば、『宗教』『芸術』の分野も関与が期待できる分野です。 

しかし、科学者にとっては易しい挑戦ではありません。理由は簡単で、『精神世界』の事象には、『物質世界』の事象のように、『真偽』を決する絶対的な判定尺度が存在しないからです。定量的な比較もほとんどできません。 

『神』といった『抽象物』に、誰もが納得できる『定義』を下すことはできませんし、『美しい』といった『抽象表現』の度合を測定比較することもできません。 

『精神世界』で、人間社会が約束事として共有している『表現』は、このように『抽象的』であり、『理性』に加えて『感性』が『価値観』を構築する基盤になっています。『感性』は定性的な表現対象であり、定量的に比較することは、現状では至難の業です。 

何やら難しいことを云っているようですが、例を挙げれば、『なんだ、そういうことか』とご理解いただけるでしょう。 

AさんとBさんが同じ音楽を聴いて、どちらも『美しい』と云った時に、どちらの『美しい』の方がより深い情感の表現なのか、判定はできないということです。同じく二人の人が『信じます』と云った時に、どちらの『信ずる』度合が深いのかも分かりません。 

このエッセイ著者は、『道徳や倫理で、正しいとすることが、本当に正しいことを科学的な手法で証明せよ』と主張しているように、梅爺には見えます。 

前に紹介したように、『民主主義』『市場経済原理』『国際組織(機関)への加盟』を、国家がめざすべき『三つの決め手』であることが、科学的に証明できたようなニュアンスで紹介しています。 

しかし、梅爺はこのようなアプローチに『危なっかしさ』を感じます。この論法で『キリスト教の方がイスラム教より優れた宗教である』『ベートーベンはブラームスより音楽的に優れている』などという結論を導き出して、悦に入られても困ります。 

人間の『精神世界』が絡む事象は、このようなものですから、『あるべき姿』はコミュニティの相対的な『共有認識』であって、科学的な定量分析、絶対比較の対象ではないことを、この著者は心から理解していないように思えます。 

『民主主義』と『共産主義』の『あるべき姿』が、全く相いれないものであることは明白です。科学者は『アメリカ』のほうが『正しい』と証明せよと、この著者は主張しているように、梅爺には見えます。

『精神世界』の価値観は、一見矛盾をはらんでいるように見えます。『人』は『利己的』でありながら、時に『利他的』な言動も行います。

『利己的』にばかり徹する他人を観れば、その人を忌避し、罰することにも同意します。

また、同じコミュニティに属する他人を、他のコミュニティに属する他人に比べて、いわれなく『信頼』し、親近感を抱きます。

また『商取引』などの関係が成立した相手は、無縁の相手より、『信頼』の眼で見るようになります。

このような事象を洞察するには、『生物進化』の過程で、『脳』がどのような進化を遂げたのかを、確かに『科学的』に洞察する必要がありますが、それは『統計』などの手法で、『確率』を論ずることに止まらざるをえないのではないかと、梅爺は感じています。

『精神世界』の事象に、『物質世界』の事象と同じように『真偽』の判断をくだすことは、極めて慎重であるべきではないでしょうか。

『個性的』ということは、一つの価値観では律することができないということなのではないでしょうか。

人間社会に『約束事』は必要ですが、『約束事』はあくまでも相対的な価値観で創りだされたものであることを承知しておく必要があるのではないでしょうか。

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2016年12月30日 (金)

『あるべき姿』と科学の関わり(3)

『物質世界(自然界)』の事象には『あるべき姿』などないということを、梅爺はイギリスの生物進化学者『リチャード・ドーキンス』の本を読んで最初に知りました。その後、『宇宙の誕生と歴史』のことを学んで、確信を持つようになりました。『リチャード・ドーキンス』は『無神論者』としても有名で、『神は妄想である』という著作が有名です。

『リチャード・ドーキンス』の視点で観れば、神による『天地創造』は、『不条理、知性の減衰、虚言』ということになります。『神の御意志』『神のデザイン』らしいものは、『物質世界(自然界)』には見当たりませんし、それを前提として事象を説明することはできないという主張です。『リチャード・ドーキンス』ほど辛辣な批判精神は持ち合わせませんが、基本的には梅爺もこの考え方を受け容れています。

善良な人々の命を容赦なく奪う『天災』に遭遇して、『これも神の意図なのか』『神は私たちを愛して下さるのではないのか』などと信仰を持っておられる方は悩みます。冷たい表現で恐縮ですが、『天災』は『物質世界の変容』で生じたものの一つと考えざるをえません。『物質世界の変容』は、私たちの『願い(期待)』『祈り』で変えることはできません。『願い』『祈り』は『人』の『精神世界』がその価値観で行う行為で、『精神世界』が絡む事象でのみ、意味を持ちます。『加持祈祷』を行っても、疫病や干ばつにはなくなりません。

『物質世界の変容』の内容を人間が変更できるとしたら、それは科学知識の応用で対応することに限られます。医療技術や薬品投与で延命するなどがその例です。しかし大半の『変容』に対して、人間は無力です。台風や地震を現状では回避できません。

『物質世界』は、複雑な要因が絡みながら、『新しい平衡を求めて絶えず変容している』と観ると、あらゆる事象が矛盾なく見えてきます。この『変容』には『目的』『あるべき姿』『デザイン』は関与しません。分子生物学の『福岡伸一』先生はこれを『動的平衡移行』と呼んでいます。

梅爺は、『物質世界』と『精神世界』を区分けし、その本質を理解して周囲を眺めてみると、色々なことが矛盾なく理解できることに新鮮な感動を覚えました。どうしてもっと早く誰かがこのことを教えてくれなかったのかと、恨み事もいいたくなりました。若いころに知ることができたなら、人生観は大きく変っていたに違いないからです。

『物質世界』は科学者によって、『しくみ』や『摂理』が解明され、私たちは多くの『科学知識』を有するようになりました。勿論、全てが解明されたわけではなく、科学者の探究対象はむしろ増えるばかりです。

人間の『身体』や『脳』は、『モノ』としてみれば『物質世界』に属します。ありきたりの材料(元素)で構成され、『命のしくみ』は、物理反応、化学反応といった、これもありきたりな『摂理』で維持されています。『死』は『変容』として訪れます。

しかし、『脳』が創りだす仮想世界である『精神世界』の存在が、人間を理解することを難しくしています。『精神世界』では『物質世界』の摂理の支配が及びませんので、自由奔放に『抽象物』『抽象概念』を創造できます。

『精神世界』が創造した典型的な『概念』の一つが『神』であろうと、梅爺は考えています。科学知識が乏しかった頃の人間の『精神世界』にとっては極めて重要は『概念』として登場したのであろうとも推察しています。

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2016年12月29日 (木)

『あるべき姿』と科学の関わり(2)

このエッセイの著者は、国家間の紛争(戦争など)を減らし、平和的な関係を増進するには、各国が『民主主義』『市場経済原理』『国際組織への加盟』の政策を採用すべきで、これが『三つの切り札』になると主張しています。

この『三つの切り札』の有効性を、『Bruce Russett』と『John Oneal』という二人の政治学者が、1816年~2001年までの間に国際的に起きた2300の紛争事例を統計的に分析し、定量的に示していることを紹介しています。

『民主主義』を採用している国同士、『市場経済原理』を採用している国同士、『国際組織へ加盟』している国同士は、そうでない国同士に比べて、紛争(戦争)を起こす確率が低いという事実が存在するということです。

著者は、これをもって『三つの切り札』が、最善の体制であると、単純に結論付けています。歴史を素材とした統計的分析で、『三つの切り札』の有効性を定量的に示すことは、有意義でこの結果は勿論尊重しなければなりませんが、最善の体制と短絡的に決めつけるところが、アメリカ人的であると感じました。

アメリカを正当化するには都合の良い、いかにもアメリカ人が好む論法ですが、『民主主義』『市場経済原理』『国際組織への加盟』にも、内在する弊害がありますから、それらも定量的に分析した上でないと、本当に『三つの切り札』が、国家が採用すべき『最善の政策』なのかどうかは判断できないのではないでしょうか。

このエッセイを振りかざせば、『北朝鮮』『中国』のような『独裁者、独裁政党国家』や、『イスラム国』のような『(宗教)原理主義国家』が、『はい、私たちが間違っていました』と『三つの切り札』採用へ政策転換するかどうかを想像してみただけで、『そのようなことは起きそうにない』ことが分かります。

『国家』は、民族、文化、宗教、歴史が絡んだ複雑なコミュニティであり、それらが過去から現在までにどのように推移し、影響を及ぼしてきたかも、科学的な手法で分析しない限り、『何が正しい』『何が間違い』などと軽々には言えません。

梅爺も『民主主義』『節度を前提とした市場経済原理』『国際組織』が、他の考え方よりも『好ましい』と個人的には考え、それを前提としている日本の国民であることをありがたいと感じています。

しかし、世界には全く別の体制を基盤にする国家が存在することも現実ですから、難しいことですが『異なった価値観』とどう対応するかを考える必要があると思っています。

『似通った価値観』の者同士が、『平和な関係』を築きやすいのは当然です。

『異なった価値観』の者同士が、『平和な関係』を築くための方策を、科学的な手法で提示することが、現実に求められていることではないでしょうか。

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2016年12月28日 (水)

『あるべき姿』と科学の関わり(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の33番目の話題は『The Is-Ought Fallacy of Science and Morality(あるべき姿に関する科学の誤認と道義)』で、著者は科学コラムニストの『Michel Shermer』です。

タイトルの直訳(上記)では、日本語として分かり難いので、内容を斟酌(しんしゃく)して、『あるべき姿と科学の関わり』に意訳しました。

科学者は、『事象を「こうある」と客観的に記述すべきで、「こうあるべき」と主観的に記述してはいけない』と主張します。そして『人間の価値、道徳、倫理などを「こうあるべき」と云う視点で論ずるのは哲学の行為である』と主張します。

この科学者の主張に梅爺は異論がありません。

梅爺流に云いかえれば、『物質世界の事象を摂理で解明するのが科学であり、この解明に「あるべき姿」という概念を持ち込んではいけないと考えています。「あるべき姿」と云う概念は人の精神世界が創りだしたもので、人や人間社会の合意事項としてのみ大きな意味意味を持つ』ということになります。

著者は先ず、上記の科学者の主張は、『間違っている』と述べています。

ということは、梅爺の考え方も『間違っている』ということになりますので、梅爺の考え方のどこに『間違い』の要因があるのだろうと、慎重にエッセイを読み進めました。

その結果、著者の主張は、『精神世界が絡む人間社会の事象として「あるべき姿」を論ずる時に、科学的な手法を駆使すべきである』ということだと分かりました。

勿論著者は、『物質世界』と『精神世界』という区分に気づいているようには見えませんので、『物質世界の事象には「あるべき姿」は存在しない』という梅爺の主張を受け容れてもらえるのかどうかは分かりません。

しかし、『あるべき姿』は、『精神世界』の事象でのみ意味を持つということを認めてもらえるのであれば、その場合に『科学的手法を駆使すべき』という著者の主張に梅爺も異論がありません。『精神世界』の解明は学際的であって欲しいと今まで書いてきたことと矛盾しないからです。

このままでは、話が抽象的で分かり難いので、具体的な例を挙げれば、『なんだ、そういうことか』と皆さまにも納得いただけるでしょう。

『合法的な手段で高収益をあげる』という行為は、企業にとっては『目標(あるべき姿)』になります。これは、人間の『精神世界』の価値観が産み出した『目標』であって、自然界(物質世界)には、『高収益をあげることが好ましい』などという事象や摂理は存在しません。

『高収益をあげる』ための、いくつかの手法の中で、どれが最も効率が良いかを検証するのに、『統計手法』などの科学的な手法を用いるのは当然ですし、多くの企業は既に利用しています。

『科学の世界に「あるべき姿」という概念を持ち込むな』と科学者は云っているだけで、『精神世界が絡む人間社会の事象として「あるべき姿」を検討する時に科学的手法を用いるな』とは誰も云っはいないのではないでしょうか。

このことに、著者の混同(誤解)があると感じました。

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2016年12月27日 (火)

爆発的進化論(6)

『生物進化』『生命』について、知識を増やしたいという方には『爆発的進化論』という本はお勧めです。 

『膜』『口』『骨』『眼』『肺』『脚』『羽』『脳』『性』『生命』に関するエピソードが、対応する章で綴られています。 

梅爺は、『生物進化』『生命』について、予備知識がありましたから、中には初めて知ったエピソードもありますが、全体的には知識を補強することになり、特段『ビックリ』することはありませんでした。 

またこの本では、現時点の科学レベルでは解明できていないことも明記されていて、これも重要な『情報』であると思いました。 

『生命』に関して人類が『分かっていない』ことは沢山ありますが、それでも私達は現実に『生きて』います。 

『分かっていない』ことを認識すれば、私達は『何者』かによって『生かされている』という感が深まります。信仰深い方はその『何者』こそ『神』ではないかと主張されるでしょうが、梅爺は『何者』を『物質世界』の『摂理』であると推定しています。梅爺の中では『神』と『摂理』は異なった概念です。

『摂理』は冷厳なるルールで、『祈り』や『願い』といった人間の『精神世界』では重要な行為と無縁であると思うからです。その証拠に、『摂理』がもたらす天災などは、容赦なく善良な人の命を奪います。『摂理』は『生』も『死』も支配しています。『精神世界』では重要な意味をもつ『愛』や『慈悲』などという概念とも『摂理』は無縁です。

『精神世界』は『摂理』に支配されない概念や話を『虚構』として自由に創出できる特徴を有しています。この『虚構』を『物質世界』の『実態』として混同するとややこしい話になります。

『天地や人間は神が創造した』という『話』を、数千年にわたり人類は『真』であると『信じて』きましたが、梅爺の『科学知識』をベースにした『理性』は、それは『虚構』であろうと囁(ささや)きます。

『科学』は、『物質世界』の『摂理』を見出し、普遍性を証明する活動領域で、ここでは『真偽』は区分できます。

しかし、『精神世界』が創り出した『虚構』は、『真偽』の区分ができないものが大半です。『天地創造』もその例です。

私達は、周囲の事象を『物質世界』の『摂理』が支配する『実態』なのか、『精神世界』が関与する『虚構』なのかを、注意して見極めることが大切です。

『宇宙』『生命』は、『物質世界』に属する事象で『実態』があり、『真偽』の区分も理論的には可能です。当然『宇宙』と『生命』は無縁ではありません。同じ『摂理』に支配されているからです。

『摂理』に関する最大の難問は、『摂理はなぜ存在するのか』という問いです。現在の『科学』は、それを解明する手がかりさえも見出していません。

そのような事情を承知して読む限り『爆発的進化論』は面白い本です。

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2016年12月26日 (月)

爆発的進化論(5)

『生物進化』の『進化』という言葉が、誤解をまねく要因の一つかもしれません。

『進化』という言葉は、『変容』によって『前より良い状態になる』『理想に近づく』というニュアンスを含めて一般には使われますが、『生物進化』の場合は、『前より良い状態になる』とは限りません。むしろ『後退』することもあります。勿論自然界(物質世界)には『理想』という概念は適用できませんから、『理想へ近づく』ことでもありません。

『理想』は人間の『精神世界』が考え出した『抽象概念』の一つで、通用するのは『精神世界』だけです。つまり人間がいない世界には、『理想』は存在しません。

『生物進化』は、『遺伝子の突然変異』で生物『種』の中に『いままでとは異なった資質』を持つ『個』が出現することが引き金で起こります。

その『今までとは異なった資質』が、偶然環境で生き延びるために有利なものであれば、その『個』の子孫は繁栄し、従来の資質を持つ『個』の子孫は消滅または絶滅して、結果的に『今までと異なった資質』がその『種』の標準の資質にとって代わります。

『環境に適応するように資質を変えた』のではなく、偶然『環境に適応した』ものが出現し、世代交代の中でその『種』の主流になっていったということです。

くどいようですが、『目的に合うように変わった』のではなく、偶然『目的に合う』ものが出現したと理解しなければなりません。

『生物進化』は非常に効率の悪い『試行錯誤』のプロセスで、結果として、感嘆したくなるほど見事な資質に到達したということに他なりません。

私達は、『結果』だけを見て『こんな見事なしくみが偶然出来上がったとは思えない。神が創造したに違いない』と思いたくなりますが、数千万年、数億年をかけて一つ一つの『変容』が累積された事象が『生物進化』なのです。

『ホモ・サピエンス』の中の『ネグロイド(黒人種)』は、強い太陽の紫外線を浴びる環境に適応するために肌が黒くなった、という『生物進化』の事例説明は厳密には適切ではありません。。偶然肌が黒い『個』が出現し、それが環境に適応しているため世代交代の中で主流になっていったという話です。

『生物進化』では、『理想』という概念は存在しないこと、偶然の『突然変異(遺伝子)』が引き金であること、環境への適応資質が主流になること、が本質です。これを理解すれば、『生物進化』や『自然淘汰(Natural Selection)』が見えてきます。

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2016年12月25日 (日)

爆発的進化論(4)

梅爺が学生のころは、『分子生物学』という『科学』の分野はありませんでした。しかし、現在では最先端科学分野として、世界中の優秀な学者が研究に邁進しています。『分子生物学』は、『細胞』『遺伝子』など『生命』の基本要素が研究対象で、『生命とは何か』にもっとも肉薄した科学分野です。

勿論それ以前から、『生命とは何か』は、科学者、医学者、哲学者、宗教学者にとって興味の対象でした。

しかし、一気に展望が開けたのは、20世紀の半ばに『DNAの二重らせん構造』が発見され、生物が子孫を残すための『遺伝子伝承』の基本的なしくみは『同じ』であることが明らかになってからです。

その点において、『ヒト』も何ら生物として特殊な存在ではないということが一層明確になりました。『人間は神に似せて創られた特別な存在』という宗教の教義にとっては、少々不都合な結果かもしれません。

これらの発見は、『生物進化論』に矛盾するものではないばかりか、それを強く肯定するものになりました。『ダーウィン』の『種の起源』から、約100年後のことです。

『爆発的進化論』という本は、『生物進化』に関わる興味深い断片的なエピソードを、一般読者がスラスラよめるような文体で綴ったものです。

『生物進化』の本質を理解している人にとっては、新しい知識を獲得して、自分の理解を更に深めることになりますが、理解していない人には、個々のエピソードは興味深く読めても、本質へたどりつけるのかどうかは少々疑問です。

でも、本質から論じ始める解説書は、難解になりがちで一般読者は途中で放棄してしまうかもしれませんので、このようにまず『興味』をひくことが結果的に有効なのかもしれません。『興味』をひかれた人は、今度は本格的に『生物進化』を勉強してみようと思うかもしれないからです。

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2016年12月24日 (土)

爆発的進化論(3)

『爆発的進化論』という本のサブタイトルは『1%の奇跡がヒトを作った』となっています。

本文を読むと、『ヒト』が出現したプロセスには、途方もない数の『奇跡』に近い確率の小さい『変容』が累積的に関わっていることが記載されていますので、不都合ではないのですが、このサブタイトルだけ見ると、『誤解』が生じかねません。

『ヒト』は『1%の奇跡』で出現したという表現は適切ではないような気がします。

『爆発的進化論』の『爆発的』は、地球の歴史の『カンブリア紀(5億4200万年~4億8830万年前)』に、『生物』が一気に進化を加速させ、多様な『種』が出現したことを指しています。生物学ではこれを『カンブリア爆発』と呼んでいます。

地球上に、最初の『生命』が出現したのは、約40億年前と推測されています。地球が誕生したのは45億円前ですから、誕生から5億年後のことです。当初灼熱の惑星であった地球の表面が冷却し、『海』を保有する状態になるまでに、約5億年を要したと考えられます。

最初の『生命』は『海』の中で誕生した『単細胞生物』で、これが全ての生物の『先祖』であるという想定になっています。この最初の『生命』が誕生するメカニズムは、現在も解明できていません。海底の『熱水噴出孔』付近で誕生したというのが有力な仮説です。

ところが、その後『カンブリア紀』になるまでは、『生物』は目立った進化を遂げませんでした(約35億年間)。何故『カンブリア紀』に『爆発的な進化』が起きたのかも、詳細には分かっていませんが、『地球環境』が『進化』を促進するのに都合のよい状態に『変容』したからであろうと推測されます。

具体的には、火山活動が盛んになり、ミネラルなどの『素材』を含んだ川の水が河口から海へ流れこんだことが関与していると考えられています。リンやカルシュームといった元素素材がなければ、生物に必要な『甲殻』や『骨』は創れないからです。

その後も『生物進化』に大きな影響を及ばしたのは『地球環境の変容』です。突然変異で、新しい環境に耐えられる資質をもった『個』が出現し、その資質を子孫に継承した『種』が地球上で『命』を継承し続けてきたとも言えます。

『ヒト』も例外ではありません。現在地球上に存在する『ヒト』の『種』は『ホモ・サピエンス』だけですが、『生物進化』の過程では、約20から30種の別の『人類種』が約800万年の間に絶滅しています。

私達は、偶然と幸運で、生き延びた人類種です。とても『1%の奇跡』などという高い確率で出現したわけではありません。

『生物進化』は、累々たる『絶滅』の上に、かろうじて生き延びた『命』の歴史ですから、極めて効率の悪いプロセスです。ただし、すべての『命』が『絶滅』してしまわなかったことは『幸運』というほかありません。

私達の『命』はその『幸運』で継承されてきたものです。

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2016年12月23日 (金)

爆発的進化論(2)

ブログを書き始める前(8年前)の梅爺は、『生物進化論』を疑いの目で見ていました。 

『ヒトはサルから分岐して進化したとしても、サルは進化していないように見えるのはなぜか』『人間は今でも進化し続けているという実感がないのはなぜか』『生物の命の複雑なしくみはあまりにも見事にできていて、これが偶然出現したとは思えない(神の創造という説明の方が説得力がある)』などと、今考えるとトンチンカンな疑問を抱いていました。 

イギリスの生物学者『Richard Dawkins』の『The Greatest Show on Earth(地上最大のショー)』という『生物進化』の存在を証明するために書かれたノンフィクションを読み、梅爺の『誤解』『誤認』は晴れました。 

この時の感想は、前にブログに書きました。 

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-c03c.html 

これを機に、梅爺は周囲の事象を『物質世界』と『精神世界』に区分けして観るようになり、いままで『不思議』『神秘』と思っていたことが、『なんだ、背景はそういうことか』と、目から鱗が落ちるように認識できるようになりました。 

ブログを書き続けてきたことの最大の効用は、この『物質世界』と『精神世界』を区分けして観るという一種の『規範』を取得できたことです。梅爺はこの『規範』に矛盾を見出せませんので、大いに気に入っています。 

『生物進化』を理解するためには、『物質世界(自然界)』の特質を認めて、論理思考する必要があります。 

(1)『物質世界』に存在するものは、例外なく宇宙の歴史の中で出現した『素材』だけで構成されている。
(2)『物質世界』で起こる『変容』は、例外なく『摂理(法則)』だけで支配されている。『変容』は偶発的に始まる『動的な平衡遷移』で、あらかじめデザインされた事象ではない。時間を戻すことができたとしても、再び同じ『変容』が起こるとは限らない。
 

『生物進化』も『物質世界』で起きた事象ですから、あらかじめデザインされたものではないということを最初に認める必要があります。 

そうすれば、『天地創造(神によるデザイン)』という考え方は成り立たないという論理帰結になります。『天地創造』は人間の『精神世界』が創出した『虚構』の一つと考えれば納得がいきます。 

『精神世界』では、『物質世界』の『素材』『摂理』の制約を離れて、自由に『虚構』を創出できることが特徴です。『桃太郎』『かぐや姫』は誰もが『虚構』と認めていますが、『神』『天国』となると多くの方が『実態』あるものとしてその存在を信じているのはなぜなのでしょう。2000年以上の『宗教』の歴史が、『信ずる』ことの重要性を説き続けてきたからではないでしょうか。 

梅爺は『神』『天国』も『虚構』であると考えますが、何故人間はこのような『虚構』を創出し『信ずる』対象にするのかの方が興味の対象です。 

『精神世界』は『安泰を優先し希求する本能』に強く支配されているというのが梅爺の仮説です。このため『心の安らぎ(安泰)』を得る手段として『神』『天国』という『虚構』を必要としたのではないかと考えています。 

『生物進化』から話が少し逸れましたが、『生物進化』を考えるときに『精神世界』が創出した『虚構』や、『精神世界』の重要な要素である『情感』を持ち込んではいけないということを申し上げたかっただけです。 

生物の『命』のしくみは、結果的に見事なほどに『合理的』にできているように見えます。このような『合理的』なしくみが、『偶然』できあがるには、どのようなプロセスがあったのかを『生物進化論』は『理』だけで説明しなければなりません。

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2016年12月22日 (木)

爆発的進化論(1)

書店の売れ行きの良い本が平積みされている場所で、『爆発的進化論:更科功著(新潮新書)』を見つけました。

梅爺は、読書を『電子書籍(Amazon:KIndle)』に切り替えつつありますので、早速ダウンロード(電子書籍版)して読みました。

『電子書籍』は、紙の本と勝手が違うため、最初は戸惑いもありますが、慣れると快適です。特に、『文字フォント』を拡大できたり(老人には助かる)、辞書機能と連動していたりするところは便利です。大量の書籍が収納できますので、外出時に携帯にも重さを苦にする必要がありません。

検索やダウンロードは、PCへの直接接続(USB)、携帯電話用無線通信環境(3G)、WiFi環境を利用して行います。いずれも無料で利用できます。

書籍購入価格は、紙の本と同等または廉価になります。購読したい本のタイトル、著者名などが分かっていれば、本屋まで出向くことなく、短時間でダウンロードできます。

『爆発的進化論』は、一般読者向けに書かれた『生物進化論』の解説書です。著者の『更科功』氏は、東大大学院を卒業された博士(理学系)で、現在は東大総合博物館に勤務しておられる方と知りました。

科学の基礎知識がない方でも、『爆発的進化論』は興味深くスラスラ読めますので、著者は『サイエンス・ライター(ジャーナリスト)』『サイエンス・コミュニケーター』としての才能に秀でておられます。

『科学者(研究者)』が、自ら担当する内容の本質を、一般の人へ分かりやすく説明できることが理想ですが、文才を兼ね備えることは誰でもできることではありませんので、『iPS細胞』の山中教授も、『サイエンス・ライター(ジャーナリスト)』『サイエンス・コミュニケーター』の育成が重要と説いておられます。

もっとも、『分子生物学』の『福岡伸一』先生、『宇宙物理学』の『村山斉』先生のように、最先端の研究者でありながら、見事な日本語で本質を分かりやすく解説してくださる方もおられます。

『科学』は現代人の生活基盤の重要な要因で、政治、経済も大きな影響を受けます。一般の人たちもさることながら、『政治リーダー』『企業リーダー』『教師』が、その本質を理解していることが重要な意味を持ちます。

『科学』それ自体は、『咎(とが)』を負うべき性質のものではありませんが、その応用は人類を救済する結果になったり、人類を破滅に追い込む結果になったりする可能性を秘めているからです。

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2016年12月21日 (水)

民主主義は盲腸のようなもの(6)

『宗教』は、古来から『祭ごと』と一体であり、『コミュニティ』を統治するための手段でもありました。

人々は、周囲の事象を観て、自然の中に、自分たちの能力では及ばない、『不思議な力』が存在すると感じて、それを司る者を因果関係で推定し、『神(神々)』という虚構の概念を思いつきました。

地球上の、どのような未開部族も『神(神々)』という概念は保有していますから、人間が進化のプロセスで、必ず到達するレベルと考えられます。

『能力が及ばない人間』は『圧倒的な能力を保有する神』に従えば、間違うことが無いという論理思考が、人間側に働いたことになります。

『神』は絶対的に存在するものではなく、人間が必要を感じて創出した、『概念』であると梅爺が考えている所以(ゆえん)です。

その後『宗教』は、洗練された『教義』や『様式』に変貌しましたが、『信ずる』ことで、『一律の価値観』をコミュニティのメンバー(信者達)に醸成する手段としては、絶大な効果を発揮するようになりました。

信者は、自らの意思で『信仰』を受け容れていますから、『独裁政治』における『恐怖政治』のような強制手段を用いる必要はありません。

コミュニティに『一律の価値観』を醸成するために、『神』という『絶対的存在』を用いているところがみごとです。

しかし、近世の『民主主義』は、『基本的人権』の一つとして『信条の自由』つまり『信仰』を持つか持たないかも自由と認めたために、論理的に、『政治』と『宗教』は分離されるようになりました。イスラム圏の国家では、必ずしも『政治』と『宗教』は分離されていないのは御承知の通りです。

『政教分離』と『政教一致』のどちらが、『正しい』かといった議論には、単純な解答はありません。

ただ梅爺のような『信仰』の薄い人間には、『政教分離』は快適です。

このエッセイの著者は、『民主主義』は歴史的に『袋小路』に追い込まれるのではないかと危惧しています。

『民主主義』は、遠目には『すばらしいもの』に見えていても、実はもっと『良いシステム』へ移行できないのではないかという心配です。

思い切った実験として、『都市を国家から独立させ、現在の民主主義にとらわれに政治手法を実験したらどうか』などと提言しています。『有能なリーダー』を選挙とは別の手段で選ぶなどを示唆しています。中世の『貴族政治』や、現在の『中国』は国民の選挙で『リーダー』が選ばれてはいませんから、一つのモデルになります。

これが有効な実験手段かどうか、梅爺には判断がつきかねます。中国のリーダーは、権力闘争の勝者ではあることは明らかですが、『有能なリーダー』といえるかどうか分からないからです。

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2016年12月20日 (火)

民主主義は盲腸のようなもの(5)

コミュニティのメンバーに、『一律な価値観』を認めさせる方法は、ある種の『絶対的な権威』を想定し、その『絶対的な権威』が提示する内容を『正しい』として、メンバーに無条件で従うことを強いることです。

『絶対的な権威』として、人類の文明の歴史上、最初に出現したのは、『王』『皇帝』などで、その中には『独裁者』も含まれます。北朝鮮のように現代でも『独裁者』を擁する国家が存在します。

『王』『皇帝』『独裁者』は、その肩書きをはく奪すれば、ごく普通の人間であることは、コミュニティのメンバーで、冷静な理性を持つ人なら誰でも思い至ることで、逆に『王』『皇帝』『独裁者』は、メンバーから批判されたり、疎まれたりすることは自分の命取りになると感じ取りますから、あらゆる手段を弄して、『権威』を維持しようとします。

古代エジプトの王(ファラオ)や、インカ帝国の王のように、自分は『神の子』であると宣言し、『人間であって人間ではない』ことを強調しました。

『独裁者』の常套手段は『恐怖政治』で、『秘密警察』が幅を利かせることになります。『独裁者』の意向に従わない者は、強制労働所へ送られたり、即座に処刑されたりします。『死の恐怖』は、人々を沈黙させ、自分が助かるためには、親しい人をも『密告』の対象にするといった、まがまがしい出来事が横行することになります。

本来『優しい心』『他人を思いやる心』も保有しているはずの人間が、何故『状況』や『環境』で、『凶暴』『非情』な人間に変ってしまうのかは、人類学者、脳科学者、心理学者が、現在も解明しようと努力している『謎』の一つです。

『人の性格は生まれ持っている個性的な資質(遺伝子などの影響)で決まる』と従来の心理学は唱えてきましたが、それに加えて、置かれた『状況』『環境』によって、大きな影響を受けることが分かってきました。

恐怖政治下の『密告』、文化大革命の時の『凶暴な糾弾』、『日本陸軍の上等兵による初年兵いじめ』など、普通の人間を『陰湿な人間』に変えてしまった事例は枚挙にいとまがありません。

誰もがその様に変貌してしまうと考えると怖ろしくなりますが、それほど『人はその状況で自分に都合が良いことを最優先する』という強い本能、習性を保有しているということなのでしょう。

『独裁政党』の支配も、結局『独裁者』の支配と似たことになり、『恐怖政治』になりがちです。現在の『中国』は、資本主義国家以上に資本主義的な経済活動で発展を遂げていますが、本質は『一党独裁国家』ですから、随所に『恐怖政治』が垣間見えます。『公安』と称する『秘密警察』が、どれほど陰湿な行為を行っているかは、想像に難くありません。

歴史的に、コミュニティのメンバーに『一律の価値観』を認めさせるのに、非常に効果を発揮した他の例が『宗教の教義』を利用する手法です。

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2016年12月19日 (月)

民主主義は盲腸のようなもの(4)

生物進化の学者の中には、『盲腸』は、むしろ必要であるから、人体の中に残されていると指摘する人もいます。『盲腸』が退化して、小さく、細くなったりすると反って『盲腸炎』を発症する確率が高まるために、現状のような形で残っているという主張です。

『盲腸』が本当に『無用』なら退化していたはずですが、むしろ退化しない方がシステム全体を利する確率が高いために、残されているという考え方です。

梅爺は、この説の『真偽』を判断できる能力を持ち合わせていませんが、『一理ある』ことは認めます。

著者が『民主主義は盲腸のようなもの』と例える真意は、『弊害が多いと分かっていても抱え込んでいる』という単純なことを云いたかったのでしょう。上記の生物進化の学者の主張のように、『弊害がある』として排除してしまうと、もっと大きな『弊害』がもたらされる可能性があると高まるというような、深遠な意味を込めて云っているのではないように思われます。

『中庸に収斂(しゅうれん)してしまい、斬新な改革は起こり難い』『大多数が、なんとなく不満を感じている』『選挙は必ずしも有能なリーダーを選ぶ手段ではない』『議論で合意が成立するまでに時間がかかり効率が悪い』など、『民主主義』の弊害を列記することは比較的容易です。

『民主主義』は人間社会を律する基本的な考え方の一つで、人類は永い試行錯誤の末に見出したものです。

何故『弊害』や『矛盾』を孕んでいるかは、そう難しい理由ではありません。全ては『人は生物学的に個性をもった存在として創られている』という事実に帰着します。これは『両性生殖』で、両親の遺伝子を利用して、子供の遺伝子が偶発的組み合わせで決まるという『仕組み』が関与していますから、誰もがこの宿命から逃れることはできません。

容貌や体格の違いは勿論ですが、『精神世界』を利用した『考え方』『感じ方』も『個性』の対象になります。

『個性的』であったからこそ、環境変化に耐える『個性』をもった子孫だけが生き残ってくることができたわけですから、この『摂理』に私たちは感謝し、膨大な数の不幸にして生き残れなかった人達にも、思いを馳せる必要があります。『個性的』でなかったら、生物や人類は絶滅していた可能性が高いからです。

やがて人類は、個人は『個性的』であるにも関わらず、個人の集団である『人間社会』は、『一律性』を必要するという矛盾に遭遇することになりました。

『法』『道徳』『倫理』などの『約束事』が決められ、『一律性』をなんとか実現しようとしてきました。しかし、個人は『個性的』で、社会は『一律的』である必要があるという矛盾を、人類は根本的に解消する『知恵』を未だ見出していません。

『民主主義』に、『弊害』『矛盾』があるのはそのためです。勿論『共産主義』『社会主義』にも『弊害』『矛盾』があるのは当然です。

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2016年12月18日 (日)

民主主義は盲腸のようなもの(3)

多くの人が少しは不満を持ちながら、『まあ、これなら許容できる』とする『中庸』へ向かうのが『民主主義』であるということになります。そうなることに、自分も『選挙での投票』という形で関与しているために、『独裁者』や『独裁政党』に『不本意なことを押しつけられる』ことにくらべれば、受け容れざるをえないと考えるからでしょう。

この『民主主義』の特質そのものが、『より良い政治システム』への移行を阻害する要因になっていると著者は論じています。『より良い政治ステム』とは何かがここでは問題になりますが、『民主主義の欠点を是正した政治システム』ということであれば、『一歩改革へ踏み出してみたいこと』はたしかに、いくつか思いつきます。著者はその『一歩踏み出す』ことを、『民主主義』自体が押しとどめる要因になっていると観ているのでしょう。

多くの『システム』は、複雑な要因を内包していますから、何から何まで、どこから観ても不都合がないなどということはありません。

『民主主義』は優れていて、『共産主義』『社会主義』は劣っているなどという、単純な区分けでは本質を見誤ります。『自分にとってより不都合の少ないシステム』として、コミュニティのメンバーが『どれを選択するか』ということが重要であるに過ぎません。梅爺は『日本』が、現状で『民主主義』を採用していることを基本的に有難いと思っています。『梅爺閑話』のような自由な発言が認められているからです。

ただ梅爺も、このエッセイの著者同様、『民主主義』にいくつかの弊害がある以上『最善の策』ではないと考えています。『最善の策』が特定できないために現状で『次善の策』に止まっているという表現が適切かもしれません。

『システム』の特徴を説明するために、著者は『人間の身体』を例に挙げています。『人間の身体』はたしかに、複雑極まる『システム』です。

『盲腸』は、生物進化の名残で、現在の人類には『無用の存在』であると言われています。何もなければ『無用の存在』で済みますが、時に『盲腸炎』を発症して、摘出手術を受けることを強いられたり、最悪死亡する人もでてきます。こうなると『不都合な存在』になります。

『人間の身体』が『不都合な存在』である『盲腸』を抱えていることと、『民主主義』も『不都合な弊害』を抱えながら成り立っていることの類似性を著者は指摘しています。

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2016年12月17日 (土)

民主主義は盲腸のようなもの(2)

著者は、私たちが『民主主義より優れたシステムを希求している』にもかかわらず、『代替システム』が見つからなかったり、見つかったとしても移行することが困難に思えるのは、『民主主義』そのものが障害になっているからであるという主張です。

『民主主義は最善のシステムである』と言われてしまうと、『そうかもしれない』と納得したくもなりますが、『でも、なにか変だぞ』と感ずることがあります。私たちは、その『変なこと』を見て見ぬふりをせず、冷静に直視する必要があります。

『民主主義』は大多数の人に『満足』をもたらすどころか、『不満』をもたらしていることがそのひとつと、著者は論じています。

2012年に『オバマ大統領』が誕生した時、支持票は51%で、反対票は49%でした。反対投票の49%の人達は、結果に『不満』であったことは明白です。

それならば、賛成した51%の人達は『満足』したかというと、そうではありませんでした。何故なら、『オバマ大統領』は、半数に近い反対者を配慮した政策しか打ち出せず、彼を支持した人達には、『私が期待したのはそのような政策ではない』という『不満』が残ることになったからです。

『民主的な選挙』と言われても、『限定された立候補者の中からの選択』であり、大半の場合有権者に『好ましいと思う人物』がいないと、著者は指摘しています。選挙の度に、梅爺が感じていることですから、『そうだ、そうだ』と云いたくなります。

誰が当選しても、『釈然としない気持ち』や『不満』が残ることになります。

『選択に期待が持てなくなる理由』の一つは、『民主主義』体制下では、どの政党の主張も『似たようなもの』に収束する傾向があり、どちらを選んでも『大差がない』ことになってしまうからだと著者は洞察しています。

『国民の生活を守る』『不公平を是正する』『弱者をいたわる』などという考え方に違いが生ずるはずはありません。

『民主主義』は、『中庸を重視する社会を創りだし固定化する』ということになります。『中庸』は善い言葉のようにも聞こえますが、社会的には『皆があるレベルの不満を我慢している』常態であるともいえます。

『快適』『不快』で極端に人々を色分けするより、大半の人が『ぬるま湯』で我慢するのが『民主主義』ということになります。

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2016年12月16日 (金)

民主主義は盲腸のようなもの(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の32番目の話題は、『Democracy is like appendix(民主主義は盲腸のようなもの)』で、著者は作家でビジョナリーの『Dylan Evans』です。 

『民主主義』の本質的な問題点を指摘した内容で、今まで読んできたこの本のエッセイの中で、梅爺が最も強く共感を覚えました。 

問題を指摘するだけでなく、最後に現状を打破できるかもしれない『方法論』を提示しているのも好感が持てました。ただし、その方法論が妥当であるかどうかは、別の話です。 

1989年に、アメリカの政治学者『Francis Fukuyama(日系三世)』が上梓した『The End of History and the Last Man』は、『民主主義』と『自由経済システム』は、人類が編み出した最善の『社会的しくみ』で、これ以上の進化はもうないと論じた内容で、当時世界的なベストセラーになり、梅爺も読みました。

1989年は『ベルリンの壁』が崩壊した時で、『共産主義』『社会主義』の劣勢が誰の目にも明らかでしたから、『民主主義』こそが人類が見出した、究極かつ最良のシステムであるという主張は、時宜を得て説得力があるように見えました。

『Francis Fukuyama』によれば、世界中の国々は今後『民主主義』『自由経済の仕組み』に移行し、そこで人類の『社会システム』の進化は終わりを迎えるというなるということでした。つまり、その時点で人類は、『頂点を極めた人(The Last Man)』になるという主張です。

『Francis Fukuyama』の予測が、『誤り』であると断ずるのには時期尚早であるのかもしれませんが、約25年経った現在、世界は雪崩を打って『民主主義』へ移行しているようには見えません。

しかも『民主主義』の国々も、25年前より一層社会は健全な方向へ向かっているといった実感はなく、むしろ混迷が深まっているようにも見えます。

このエッセイの著者『Dylan Evans』は、『民主主義』は決して、究極かつ最善のシステムではないと主張しています。

梅爺もその主張には賛同します。いつもの『物質世界』の考え方を持ちだして恐縮ですが、『社会システム』は『宇宙』同様、複雑な要因が絡んで、『変容(動的平衡移行)』を行っているだけで、『究極のあるべき姿』などは存在しないと考える方が理に適っていると思うからです。

永い眼で見ると『変容』を続ける『宇宙』の中で、『地球環境』は現在、人類の生存に適している状態にありますが、この状態は幸運な『小康状態』のようなもので、やがて人類の生存には適さない状態へ『変容』する可能性を秘めています。

『宇宙』の『変容』は、数千万年、数億年の単位で観察すべきものであるのに対し、現生人類の歴史は、20万年しかないわけですから、『小康状態』がいつまでも続くと勘違いするのはもっともで、『明日にでも人類が滅亡する』と悩む必要はありません。しかし、現状を幸運な『小康状態』と認識し、自分が『摂理』によって『生かされていある』ことに感謝するのは無意味なことではありません。

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2016年12月15日 (木)

安田講堂での演奏会

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東大本郷キャンパス『安田講堂』

12月11日(日)の午後、東京大学音楽部コールアカデミー(男声合唱団)の第63回定期演奏会が、東大本郷キャンパスの『安田講堂』で開催され、梅爺が所属するアカデミカ・コール(コールアカデミーOB男声合唱団)も賛助出演し、現役と合同で『月光とピエロ(堀口大学作詞、清水脩作曲:指揮三沢洋史)』を歌いました。

『安田講堂』の正式名称は『東京大学大講堂』で、『安田財閥』の創始者『安田善次郎』が建築費用を匿名寄付して、1925年に完成しました。『安田善次郎』の死後、遺徳を偲んで通称『安田講堂』と呼ばれるようになりました。

『安田講堂』が一躍有名になったのは、1968年の『東大紛争』で『全学共闘会議』の学生たちが立てこもり、最終的には機動隊が突入するという事件があったからです。

内部が荒廃した『安田講堂』が、改修され再び利用できるようになったのは、1994年のことです。最近耐震補強の再改修工事が終わり、『卒業式』はここで行われるようになりました。

梅爺の在学時には、『入学式』『卒業式』も『安田講堂』で行われました。最近は『父兄列席』を希望する声が多く、『入学式』は『列席父兄3名以内』という条件で『日本武道館』で行われています。梅爺の時代は、学生数も少なかったこともありますが、父兄が式典に列席するようなことはありませんでした。時代とともに価値観が変わっていることが分かります。

最近の『卒業式』は、2回に分けて『安田講堂』で行われ、父兄は別会場で『ライブ配信』を観るという方式のようです。

『安田講堂』は席数が1144席ですが、いわゆる『楽屋』施設がないために音楽の『演奏会』には必ずしも向いていません。驚くことにピアも常備されていません。音響も心配のところがありましたが、関係者の色々な工夫で、今回はしのぎました。

梅爺の在学時から、今日まで『コールアカデミー』の定期演奏会が『安田講堂』で開催されたのは、今回が初めてです。そのためか、聴衆もほぼ満席で、演奏会は成功裡に終わりました。

現役の学生の『合唱レベル』は年々向上していて、OBとしてはうれしい限りです。

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2016年12月14日 (水)

ダーク・エネルギー(4)

強力な『モノを引き離す力(真空のエネルギー)』が『ビッグ・バン』の宇宙急膨張をもたらしたという『インフレーション理論』そのものを論じたり、批判したりする能力を梅爺は持ち合わせていませんので、多くの学者が支持するなら『信じよう』と受け入れることにしています。

しかし、『ビッグ・バン』時の『急膨張』と、現在も続いている宇宙の『膨張』は、同じ『摂理』が働いているのか、言葉を換えると、『真空のエネルギー』と『ダーク・エネルギー』は、同根のものなのか、それとも同根のものとは言えないのかは、分かっていません。

『真空のエネルギー』を考え出された『佐藤勝彦』氏は、『ダーク・エネルギー』は『真空のエネルギー』と同じものと観ておられるようです。

現在分かっていることは、『空間と時間の歪みで重力が発生する(アインシュタイン)』ということと、『時間とともに空間が拡大するとダーク・エネルギーが増える(エネルギー密度は一定)』ということです。後者は従来の『摂理』では説明がつきません。

いつの日にか、『科学』は、『重力』と『反重力(ダーク・エネルギー)』を矛盾なく説明する『摂理』を見出すであろうと期待しています。

『理論数学』『古典的な物理学』『アインシュタインの相対性理論』『電磁物理学』『量子物理学』などがが見出した『摂理』を俯瞰して矛盾なく結びつける新しい『摂理』への期待です。勿論、従来の『摂理』の一部に誤謬が見つかることもあるかもしれません。

『物質世界』の代名詞ともいえる『宇宙』の『未知なる部分』が、このようにして『既知』に変わる可能性は高いように思いますが、『人』の『脳』と『精神世界』の関係を解明するのは、『宇宙』の解明より難しそうだと感じています。

それでも『科学』は、『脳』と『精神世界』の未知なる関係を、徐々にではあっても、『既知』に変えていくこともまた確かであろうと思います。

『脳』と『精神世界』の関係を明らかにすることは、人類にとっては『パンドラの箱』の蓋をあけるようなことになるのではないでしょうか。

『宇宙』の『摂理』が総合的に解明されても、私達は『なるほど、そういうことだったんですか』と冷静に対応できますが、『脳』と『精神世界』の関係が総合的に解明された時にはそうはいきません。

『宗教』の基盤である『心の安らぎ』や、『芸術』で崇高とされる『情感』の『正体』が、『ある条件で脳に分泌されるホルモン』であるなどという、味気ない『因果関係』として説明されてしまうかもしれないからです。

『睡眠時の夢』『予知能力』『抽象概念を創出する能力』『虚構の創造能力』『能力の個人差』なども解明されると、厄介なことになりかねません。

そのような時代を観てみたいという気持ちと、そのような時代を観るのは嫌だという気持ちが入り混じって、梅爺は複雑な気持ちになっています。

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2016年12月13日 (火)

ダーク・エネルギー(3)

『宇宙物理学』の世界では、『ダーク・エネルギー』に類似した概念で『真空のエネルギー』という言葉があります。

『ビッグ・バン』で、『宇宙』は空間的には『無』の状態から、指数関数的に急膨張(インフレーション)した事象を説明するために、日本の『佐藤勝彦』氏(現東大名誉教授)が、1981年に『インフレーション理論』を発表しました。

理論的な『仮説』ですから、『真』であると立証することは難しいのですが、現在では世界の多くの学者にも支持されています。

138億年前という、勿論『人間』など存在しない時の事象ですし、実験で再現することもきませんから、『理』だけで推論するしかありません。

『人間』が可視的に観察することが困難な『素粒子』の世界なども、同じく『理』だけの推論が行われます。

『ビッグ・バン』の概念を思いつかなかった過去の時代では、広大な『宇宙』を解明するための『宇宙物理学』と、『物質』の究極的な細分化された領域を解明するための『量子物理学』は、お互いのまるで違った世界を探求する学問であると考えられていましたが、現在では、両者の連携なしに『ビッグ・バン』は解明できないことが明らかになっています。

『宇宙物理学』では、『仮説』を立証するための『観測』、または逆に『仮説』を考え出す基となる『観測』が必須ですが、『観察』を実現するために、数学、物理、化学の知識、最新のロケット、人工衛星技術、コンピュータを用いた複雑な画像解析技術などが、総動員されています。

最新の『科学知識』を、『学際的』に利用できるようになったのはごく最近のことで、『宇宙物理学』の目覚ましい発展を支えています。

『自然科学』の分野の、『学際的』な協力がもたらす、いわば指数関数的ともいえる進化とその成果は、過去の人類は誰も体験していません。

たった5年間程度の間に、日本人の大半が『スマホ』を保有するようになるとは、10年前の私たちでさえ想像していませんでした。

『真空のエネルギー』の話が、だいぶ逸れてしまいましたが、ついでに脱線すれば、『ヒト』という生物や、その『ヒト』の脳が考え出した『政治』『宗教』『芸術』などの分野は、『科学』のような急速な『進化』は起こりません。

この『アンバランス(インバランス)』が、『人間』や『人間社会』にどのような影響を与えるのかは、梅爺の興味の対象です。『科学』は『政治』『宗教』『芸術』とは無関係などと、能天気に考えていると、痛い目にあうような予感がします。『科学』には、人間にとって都合のよい面と、都合の悪い面が共存していることを忘れてはいけません。社会の格差を増大させる危険だけでなく、人類を絶滅においやる危険もはらんでいます。勿論『科学』が悪いのではなく、対応する人間側に問題があります。

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2016年12月12日 (月)

ダーク・エネルギー(2)

『天体物理学者』が、『銀河』が成立する条件を計算してみて、私達が実態のあるものとして把握できる『物質』の総質量だけでは、『銀河』は現状のように維持できないことに気付きました。

現状では、実態として把握できない『未知の物質』が『宇宙』に存在すると仮定しないと『銀河』は重力不足で維持できない(バラバラに放散してしまう)ということで、『未知の物質』は、80年ほど前から『ダーク・マター(暗黒物質)』と呼ばれるようになりました。

『質量』だけがあり、他の見える物質のような『電磁相互作用』を持たない(現状の観測技術ではとらえられない)『ダーク・マター』の存在を前提とすれば、論理は矛盾なく成立することからほぼ『定説』になりつつあります。しかし、存在は認められてはいるものの、その『正体』は解明できていません。

『実態のある物質』も『ダーク・マター』も『質量』を持っていますから、『宇宙』では『引き合う力(重力)』の根源になっています。

一方、『宇宙』には、『重力』とは反対に、未知の『引き離す力(反重力)』が存在すると仮定しないと、全体が説明できないとして、約20年前にこれを『ダーク・エネルギー』と呼ぶようになりました。『ダーク・エネルギー』もまた『正体』は解明できていません。

『ダーク・エネルギー』という呼び名がなかったころ、『アインシュタイン』は、『重力場の方程式』の中に『重力』とバランスをとるために、『宇宙定数』という『反重力』にあたる考え方を導入しました。つまり、『アインシュタイン』は『宇宙は静的に平衡が保たれている』という『前提』でこの方程式を提示したことになります。

ところが、アメリカの天文学者『ハッブル』が、『銀河』を観測して、どの『銀河』も『遠ざかっていく』ことを発見し、『宇宙は膨張を続けている』と結論付けました。

驚いた『アインシュタイン』は『ハッブル』のところへ出向き、観測データを検証して『正しい』ことを認め、『重力場の方程式』から『宇宙定数』を削除しました。『アインシュタイン』は『動的な宇宙の存在を予測できなかったことは人生最大の失敗』と述べています。

『科学』は『理』で『真偽』を判定する世界ですから、『仮説』が訂正されることは、別に恥ずかしいことではありません。間違いを認めることに大きな意味があります。『アインシュタイン』のような『天才』でも、間違った『仮説』で論理を展開することがある、ということに過ぎません。

『真偽の判定』手段がない、『政治』や『宗教』などの世界では、間違いを立証することは不可能といえますので、延々と『神学論争』のような『私の方が正しい』という主張を対立者が繰り返すことになります。

最近の、『超新星の観測』結果で、『宇宙は現在加速的に膨張している』ことが判明し、この『加速的膨張』は、『ダーク・エネルギー』によって引き起こされているという考え方が『定説』になりつつあります。遠い将来、地球からみえる星や星座の数は、『だんだんまばらになっていく(遠ざかっていく)』ということですが、人生といった短い期間で体験できることではありません。

『宇宙』のエネルギーの、割合を測定した結果が最近発表され、以下のような比率になっています。

通常物質に由来するエネルギー(重力)         4.9%
ダーク・マターに由来するエネルギー(重力)    26.8%
ダーク・エネルギー(反重力)              68.3%

『反重力』が『重力』の総和より多いということで『宇宙』は、全体としては『膨張』していることになるのでしょう。

『空間』が広がることで、『ダーク・エネルギー』も増え続けているという(常に空間におけるエネルギー密度は一定)奇妙な事象を、どう説明するかで科学者は頭を悩ませています。

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2016年12月11日 (日)

ダーク・エネルギー(1)

考えれば考えるほど、人の『精神世界』は奇妙なものです。

自分の能力で『認識』できる事象の『因果関係』が理解できないとき、私達は『不思議』『神秘』と感じ、なんとか『因果関係』を見出して、納得したいと思います。『因果関係』を分からないままに放置することは、『不安』『恐れ』というストレスになるからです。

この『本当のことを知りたい』という欲求は、『精神世界』の基本的な習性で、『安泰(安堵)を希求する本能』に由来するものと梅爺は考えています。幼児が『どうして?』という質問を頻繁に発するのは、この習性の典型例です。

自分の能力で『認識』できる事象が沢山ある人ほど、『気になること』『心が乱されること』が増え、『不安』や『恐れ』の種も増えるということになります。

逆に認識しなければ、『悩み』は生じませんから、その方が幸せという観方もできます。日本人は、これを『知らぬが仏』と諧謔的に笑い飛ばしています。

しかし、以上のことは一般論であり、人の『精神世界』は『個性的』ですから、人によって違いが生じます。

(1)認識能力に差がある。
(2)ストレスと感ずる度合いに差がある。

また人は大人になると、『因果関係』を知らなくても、『そういうことになっている』という『事実』だけを認めることで、『別に不都合はない』『事実を利用することで利便性が得られる』ということに慣れっこになって、ストレスと感じなくなるという習性も人間は有しています。

『スマホ』には、非常に高度なデジタル多重無線通信技術、コンピュータ技術、入出力技術、高集積半導体技術が使われていますが、多くの利用者は『スマホ』が機能するための『しくみ』の詳細を『知りたい』『知らないと不安だ』とは感じません。

『パソコン』『テレビ』『飛行機』『自動車』も同じことです。

『因果関係を分からないままに放置できない』と感ずる度合いが高い人たちが、『科学者』『哲学者』で、幼児のような『好奇心』を大人になっても持ち合わせているともいえます。

『好奇心』による『因果関係の究明』が、人類の『文明』を進化させてきた原動力ですから、『科学者』『哲学者』を『そんなことにこだわらなくても、生きてはいけるのに』などと『変人』扱いをすることは適切なことではありません。

哲学者の『木田元』氏は、著書『反哲学入門』の中で、『哲学などに興味を持たない方が健全である』と逆説的に述べておられます。

ついでに申し上げれば、『芸術家』は、自分の『精神世界』を、『何としても表現したい』という欲求が極めて強い人たちです。これも観方によっては『変人』ですが、『作品』は普通の人たちの『精神世界』にも影響を及ぼし、そのレベルを引き上げますから、『文化の進化』という点で、人間社会では重要な役割を果たしていることになります。

梅爺の定義する『物質世界』の代表例である『宇宙』には、科学者も『因果関係』を解明できていない『ダーク・マター』『ダーク・エネルギー』があります。

梅爺には解明能力はありませんが、『野次馬』としては、『はやく正体を知りたい』と好奇心を抱いています。

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2016年12月10日 (土)

弊害の多いシステム(4)

『経済』は『取引』によって『利ザヤ(差益)』を得る行為で成り立っています。人類は、原始社会ですでにこの行為を始め、文明の進化とともに、『経済』は複雑かつ高度なものに変貌していきました。

貨幣システム、株式システム、銀行システムなどが出現しました。

実態のあるものを『取引』の対象とする『実態経済』は、梅爺のような経済音痴でもある程度理解できますが、色々な形態の『金融商品』を対象にする『金融経済』は、非常に複雑で分かり難いものです。

現代では、『金融経済』は情報通信システムに支えられて国際的な規模で行われていますから、『恐慌』が起こると、瞬時に伝播することになります。アメリカで始まった『リーマン・ショック』が、たちまち日本を不況へ陥れました。

『実態経済』と『金融経済』の違いは、実態のあるものを基盤とする『物質世界』と、実態のない『精神世界』の違いと似ている様な気がします。

『精神世界』でなら、『考える、思い浮かべる』ことは何でも自由ですが、それを『実行』するとなると、法、道徳、倫理などへ触れないような配慮が必要になります。つまり『実行』することは、『物質世界』が関与する『人間社会』へ影響を与えます。

『金融経済』では、自由に『金融商品』を『考える』ことは、許されるのかもしれませんが、その『金融商品』を『取り引き実行』の対象とするには、同じく、法、道徳、倫理に触れないかを配慮する必要が生ずるはずです。

しかし、この法、道徳、倫理に関する国家的、国際的な『合意』が現状ではできていません。

『リーマン・ショック』のような金融恐慌を二度と起こさないために、そして不幸にもそれが起きた時に、責任が明確で、国民が『しりぬぐい』をしないでもすむ『仕組み』を、国内法、国際法の齟齬(そご)がないように構築する必要があります。

確かにこの『仕組み』つくりは、『核兵器廃絶』や『環境規制』などと同様に、人間社会特に国際社会で『合意』を形成することは難しいことは、予測できます。必ず利害の対立が生ずるからです。

これは『民主主義に基づく自由経済のしくみ』に問題があるからではなく、多様な価値観をもった個人や社会が、『合意』にいたることが難しいという、人間が『個性的である』という特性に由来します。

云いかえれば、『合意』は難しいものと知りつつ『合意』を追い求めるのが人間で、これは、人間が存在する限り果てしなく続いていくのではないでしょうか。

『世界平和』はその典型例で、相対的な『世界平和』は出現しても、絶対的な『国際平和』は、いつになっても訪れないと考えるのが現実的ではないかと思います。

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2016年12月 9日 (金)

弊害の多いシステム(3)

現在弊害が顕著である社会システムの一つとして、『民主主義を基盤とする自由経済のしくみ』を著者は挙げています。

2008年に、世界を震撼させた『リーマンショック』が発生しました。

返済能力が乏しいアメリカの低所得者層へ、金融機関はどんどん金を貸しだし(サブ・プライム・ローン)、低所得者層はそれで、住宅などの不動産を購入しました。当時アメリカの不動産価格は右上がりで高騰を続けていましたので、利ザヤで借金は返済できるという、楽観的な予測で、一連の行為が進行しました。

しかし、冷静に考えて観れば、『無』から『有』を産むというこの手品のような手法に、落とし穴があることは、金融機関自身も危険を薄々感じていたに違いありません。その証拠に、金融機関は、『危なっかしい債権』をまとめて、他の金融機関へ売り、他の金融機関は、これを異なった債権にして、国際的な投機の資源にしました。

バブルがはじけるように、アメリカの不動産価格の下落が始まると、債権は明らかな『不良債権』になり、国際的な金融恐慌になりました。

低所得者層は、『甘い話』で踊らされた被害者となり、財産を全て失って、以前より更に惨めな境遇に逆戻りすることになりました。

『債権』は次々に金融機関を渡り歩いて、姿を変えてしまっているために、経済恐慌の責任がどこにあるのかも、あいまいになっていました。最初の『サブ・プライム・ローン』を組んだ、中小の銀行は、問題が起きる前にうまく『債権』を他の金融機関へ売って、難を逃れたところもありました。

それでも『不良債権』を多量に抱えていた大手金融機関は、経営破たんに追いやられました。『サブ・プライム・ローン』が危なっかしい債権であることを、承知の上で買い上げ、別の債権としてまとめて運用し、濡れ手で粟のような大儲けを狙ったわけですから、大手金融機関も『確信犯』として責任を問われることになりました。

『大手金融機関』は経営破綻となりましたが、これを本当に破綻させると、アメリカ経済ばかりか、アメリカの国際信用まで失うことになるという、アメリカ政府は苦しい状況へ追い込まれ、結局、国民の『税金』を投入して、『大手金融機関』の再建を支援することになりました。

『無』から『有』を産む手品を考え実行した人達の責任は曖昧になり、結局国民が『しりぬぐい』をするという結果になりました。

『民主主義を基盤とする自由経済のしくみ(システム)』は、このような不合理をチェックできない弊害を孕んでいるという指摘です。

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2016年12月 8日 (木)

弊害の多いシステム(2)

『情報化社会』の特徴の一つが、ほとんどの『情報』を『デジタル表現』に変えたことです。専門的に云えば、『圧縮技術』で『情報量』を見掛け上大幅に減らすことと、『情報の加工、処理』を容易にすることが目的でした。

しかし、今でも人間が接する『情報』は『アナログ表現』である必要がありますから、人間と『情報システム』の間には、『アナログからデジタルへの変換』『デジタルからアナログへの変換』が必ず介入しています。この『変換』が、極めて高速にできるように技術が進化したことが、『デジタル・メディア』時代を拓くことになりました。

『情報システム』の中でだけ、『情報』は『デジタル』表現で処理されていますから、人間が直接『デジタル』表現に接することは、普段はありません。

『情報の加工、処理』を容易にする目的が、副次的に『複製』を簡単に品質劣化なしで可能にしてしまいました。

この結果、『海賊版』の『コンピュータ・ソフト』『映像、音楽メディア』『ゲーム・ソフト』などが、市場に大量に流出し、巨大な闇市場になった中国などが、国際的に非難されることになりました。

東洋の歴史では、『真似る』ことは、倫理的罪悪感を伴う行為ではなく、『立派に真似る』ことは一つの『才能』としてむしろ評価の対象でさえありました。現在の中国には、まだそのような価値観が残っていることも、問題を起こした要因に挙げられるのかもしれません。

近世までの日本の歴史の中でも、『良いものを真似る』行為が、庶民の文化を進化させる要因でした。江戸の絢爛たる庶民文化などは、『知的財産権管理』などが行われていたら、花咲かなかったのではないでしょうか。

『知的財産権(著作権)を認める』という社会の『約束事』は、西欧社会に発した考え方で、現在では、国際社会共通の『約束事』になりつつあり、『特許』『デザイン』『芸術、芸能作品』などが対象になっています。

日本社会でも、これが『常識』になったのは最近のことです。

たしかに、『原作者』が、そのアイデアに見合った『利益』をえる権利を有するという考え方は、『民主主義』『自由経済主義』のなかでは重要な価値観ですが、上記のように、『真似ることが人類文化を進化させる要因の一つ』という考え方も一方にありますから、『知的財産権管理』の範囲をどこでとどめるかも、再考の余地があるように思います。

『海賊版』のように『労せず不当に金儲けする』ような悪だくみは、当然管理の対象であるべきですが、『自分の考えや、技能を向上させるために他人を真似る』ことを全て『いけないこと』として規制するのは、人類の文化進化をむしろ阻害することになります。

『真似る』ことの本質的な意義を理解する必要があり、『真似る』ことを『盗む』ことと同様にみなして、すべて罪悪視することには反対です。

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2016年12月 7日 (水)

弊害の多いシステム(1)

『What should we be worried about ?(我々は何を危惧すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の31番目の話題は『Incompetent Systems(弊害の多いシステム)』で、著者は学者(ケンブリッジ大学)でジャーナリストでもあるイギリスの『John Naughton』です。 

著者の危惧は、私たちが現在依存している社会システムの中に、弊害が目立つものが存在するにもかかわらず、それをくいとめることができないか、解決のための合意が創出できないままで放置されているものが多いという主張です。

例として挙げているのが『知的財産権管理システム』と民主主義に基づいた『自由経済システム』です。

前者は、『デジタル・メディア』が主流である今日、誰もが簡単に『複製』を創ることができるようになって、実質的な『取り締まり』が極めて困難であることを、後者は金融機関の暴走を、事前に抑制対象にすることが難しいことを指摘しています。

これだけを読むと、『ごもっとも』ではありますが、いかなるシステムも長所、短所を抱き合わせで内包していることを考えると、短所だけを強調して、正義漢を装ったり、『あなたは気づいていないでしょう』と読者を見下すような姿勢を示したりすることに梅爺は少々抵抗を感じます。

その上、短所、弊害だけを指摘して、具体的な『抑制策』を提示しない姿勢も気になります。危惧すべきと主張する以上、その危惧を排除または抑制する方法論にも触れるべきで、単なる危惧の指摘ならば、誰にでもできることです。解決が難しいのなら、難しい理由の洞察もなされるべきです。

大規模で複雑な『システム』も、人間にとって『道具』であることには変わりがありません。いかなる『道具』にも、長所、短所があり、その上、長所、短所を判定する絶対的な基準が必ずしも存在はしません。

観方にに依っては長所が短所にもなるということもあり、これは『人』にも言えることです。例えば『人情に厚い』という性格は、長所でもあり、場合依っては短所でもあるということです。

調理道具としての『包丁』は、極めて便利なものですが、使いようによっては人を殺傷する道具にもなるという話も同様です。

最初の例として挙げられている『知的財産権管理システム』は、たしかに制定された当時の対象『メディア』が『アナログ表現』であったのに対して、現在の対象『メディア』の大半が『デジタル表現』に変ってしまっていることが、『管理環境』を激変させたことは事実です。

『アナログ』時代の『複製』は、労力、コストがかかり、その上品質劣化を伴いましたので、悪だくみをしようとしても割に合わない場合が多く、『管理システム』の抑制効果は顕著でした。

しかし、『デジタル』時代になった現在事情は一変しました。パーソナル・コンピュータなどを保有していれば、誰でも『複製』は、極めて簡単に、労力やコストを気にせず実施できます。その上『複製』後の品質劣化もありません。

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2016年12月 6日 (火)

Out of the mouths of babes and sucklings.

英語の諺『Out of the mouths of babes and sucklings.』の話です。

『babe』は『赤ん坊(嬰児)』で、『suckling』は、古い英語の表現で『乳児』のことです。『suckle(乳を吸う)』という動詞から派生した言葉なのでしょう。

したがって、『Out of the mouths of babes and sucklings.』は、直訳すると『赤ん坊(嬰児、乳児)の口から』となり、一体何のことかさっぱりわかりません。

『赤ん坊の口から』何かが現れたのだろうと推察はできますが、肝心なことが書いてありませんから、まるで雲をつかむような話です。

インターネットで、この諺の意味を調べてみると、原典は『旧約聖書:詩編8章2節』であることが分かりました。口語訳聖書の『詩編8章1節と2節』を参考のために紹介します。

( 旧約聖書:詩篇:8章: 1節)   主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、
(旧約聖書:詩篇:8章: 2節)   みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。

『詩編』の著者は、『神(エホバ)』を『ほめたたえる』表現として『Out of the mouths of babes and sucklings』を用いています。

転じて、『幼子は時に人を驚かすような賢いことを言う』『無知なる者が叡智を口にすることがある』というような意味として、英語圏(キリスト教文化圏)の人たちはこの諺を用いるらしいことが分かりました。

普段『異文化を知る努力が大切』などと、偉そうに書いている梅爺も、このレベルの『異文化』には手も足も出ません。

分厚い『旧約聖書』を全てそらんじてでもいない限り、関連を思いつくはずがないからです。

しかし、いつもの悪い癖で、人間の『精神世界』の本質から観て、この表現が妥当なのかどうかと、考えてみたくなりました。

『幼子』と『無知なる者』の共通点は、『精神世界』の『理(理性)』が発達していないか、不十分であることです。『理』で因果関係を推論する『知識』も乏しいことになります。

したがって『幼子』『無知なる者』は、『情(直感、好き嫌い)』だけで、対応することになり、一般的に『賢いこと(理にかなったこと)』を口にする可能性は低いと言わざるをえません。

ただ『大人』や『賢者』は、あまりに多くのことを一緒に、複雑に考えようとして、反って本質を見失うことがあるとは言えますから、『幼子』『無知なる者』が、『単純ゆえに本質をつく』ことがないとは言えません。

『情』だけ、『理』だけの人間は、人間としてはバランスを欠いています。梅爺が尊敬するのは、両方を持ち合わせていて、そのバランスが絶妙な方です。そのような方は、どういうわけか『柔和な表情』の持ち主です。

梅爺も『好々爺』になりたいと願いますが、遺憾ながら程遠い話です。

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2016年12月 5日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ワトソン博士からアラビアのロレンスまで』(6)

このエッセイは、『ワトソン博士(シャーロック・ホームズの相棒)』のエピソードで始まっていますので、タイトル通りに『アラビアのロレンス』のエピソードで終わるのかと思いましたら、そうではなく、『アラビアのロレンス』の話は具体的に最後まで出てきませんでした。

このエッセイが伝えたいことは、『異文化』と関係を持ったり、争ったりする時には、『異文化』の本質を理解するための情報が必須であるということなのでしょう。そのためには、現地へ赴き、現地社会へ入り込み、『体験』をする人が必要で、『ワトソン博士(アフガニスタンとの戦いに従軍)』や『アラビアのロレンス』はその典型的な人物として名を挙げたのでしょう。

『アラビアのロレンス』は、『デビット・リーン』監督の映画で誰もがしる人物です。元々、イギリスの考古学者でしたが、紅海東岸のアラビア地域に造詣が深かったことから、陸軍の依頼で、現地の調査を依頼され、軍属として現地に赴いています。

『アラビアのロレンス』の本名は『トーマス・エドワード・ロレンス(1888-1935)』です。

『ロレンス』は、『オスマントルコ帝国』に対して反乱を起こした、アラビア部族に加担し、巧妙なゲリラ戦術を駆使して成果をあげました。

当時の『オスマントルコ帝国』は、600年以上続いた帝国の終焉に近い衰退期でした。トルコ地域の利権をめぐり、ロシア、イギリス、フランスなどが歴史的に対立してきましたので、『イギリス』の『オスマントルコ帝国』への関与は、したたかな外交戦略でした。

ロシアと戦う『オスマントルコ帝国』を、イギリスは支援したりもしています。ロシアの利権が及ぶことを阻止するためです。

一方、『オスマントルコ帝国』自体の衰退は、その後の現地利権をイギリスが獲得するためにも好ましいことでもあり、アラブ部族に依る『オスマントルコ帝国』への反乱を蔭では歓迎していたことにもなります。

『ロレンス』は、イギリスのために戦ったとも言えますが、アラビア部族社会へ入り込み、相互信頼の関係を築いて、彼本人の信念で協力したのではないでしょうか。

イギリス本国の政治権力者は、『ロレンス』の活動や『ロレンス』から得られる情報を利用したことになりますが、双方の思惑は同じであったとは言えません。『ロレンス』はオートバイ事故で亡くなっていますが、最後は、イギリスのために働いたというより、イギリスに利用されたという気持ちが強かったのではないでしょうか。

『ウンベルト・エーコ』の云う通り、『異文化』を知るためには、『異文化』の中へ入り込み、情報をもたらしてくれる人の存在は必要ですが、その情報を利用する政治権力者と、情報提供者の思惑は同じではないという、複雑な事例が『アラビアのロレンス』ではないでしょうか。

『無知』な権力者は手に負えませんが、『情報』を利用する能力を持ち『無知』とは言えない権力者が、必ずしも適切な判断をするかどうかの保証はありません。権力者は権力志向が強く、横暴にもなりがちです。

『異文化』を知り、尊重することが重要という主張は、梅爺も同意しますが、実際には生易しいことではないことも承知してべきでしょう。

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2016年12月 4日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ワトソン博士からアラビアのロレンスまで』(5)

『ウンベルト・エーコ』は、彼が読んで大変面白いと思った本『The Great Game:by Peter Hopkirk』を、このエッセイで紹介しています。梅爺はこの本を読んだことがありません。

20世紀の初頭、イギリスとロシアが、アフガニスタンなどの中央アジアで展開した『スパイ活動』『現地人懐柔活動』などを紹介した本で、『ウンベルト・エーコ』が全く知らなかった歴史が次々に展開し、スリリングであると述べています。勿論『謀略』『殺戮』などの実態が書かれています。

ロシアの中央アジアへの領土的な野心を警戒して、イギリスはインドなどの植民地の安全を維持するために、近隣地域で『現地調査』『スパイ工作』を行いました。ロシアも同様に活動しました。

現地へ赴いた、ロシア人、イギリス人は、想像さへしなかった異質な文化に遭遇し、逆に現地の人達は、ロシア、イギリスについてほとんど知らないことが判明します。お互いが『無知』であるために、『問題』が発生するのは、目に見えています。イギリスが、『懐柔』に成功し平和な地帯と思っていたところで、1万6千人のイギリス人が、現地人によって突然殺戮されるような悲惨な事件もありました。

こういう本を、『ブッシュ大統領』やその取り巻きが読んでいたら、生半可な理解で『イラク』へ攻め入ることが、どれほど難しい問題に遭遇することになるかを予想できたはずだということを『ウンベルト・エーコ』は云いたいのでしょう。

梅爺は、何となく『豊臣秀吉の朝鮮征伐』のことを関連して思い浮かべてしまいました。

『豊臣秀吉』は、単純に中国(明朝)をも征服したいと野心を抱いたのか、『日本』を結束させるために『外敵』を必要としたのか、梅爺は分かっていませんが、朝鮮半島の事情について詳しい情報を必ずしも保有していなかったのではないでしょうか。

派遣を命じられた、日本の武将たちは、現地で『想定外』の事態に遭遇し、苦戦を強いられたことは、歴史が伝えています。

結局『豊臣秀吉』の死で、日本軍は撤兵することになりました。権力者の『思い込み』『無知』が、日本国民に強いた苦労もさることながら、後の日本に依る植民地政策と並んで、朝鮮半島の人達に、『日本に対する警戒心や嫌悪』を抱かせる原因にもなりました。

歴史を学べば『愚』は避けられるというのは、その通りですが、歴史などに興味を示さない『権力者』の出現が後を絶ちませんので、地球上にはいつも『諍(いさか)い』が絶えないことになります。

自分は『無知』であると思っている人は、『権力者』にはならないとすると、人間社会にとって『権力者』は実に厄介な存在であることになります。人間社会が抱える一つの『矛盾』かもしれません。

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2016年12月 3日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ワトソン博士からアラビアのロレンスまで』(4)

『ブッシュ大統領』の決断でイラクに侵攻を開始し、アメリカ、イギリスは、戦闘は短期間で終わると踏んでいました。

イラク軍はすぐにも投降し、多くのイラク市民は、アメリカ、イギリスの進軍に呼応して『サダム・フセイン』に反旗を翻し立ち上がるとも予想していました。

しかし、そのようなことは起こりませんでした。

確かに、『サダム・フセイン』の軍隊との戦いは短期間で終わりましたが、その後『イスラム原理主義者』のテロリスト集団との、終わりの見えない戦いに巻き込まれることになりました。テロリスト集団を構成するためにイスラム圏全土から、若者が集まりましたので、アメリカ、イギリスは、イラクだけではなく、イスラム圏全体を敵に回す結果にもなりました。

今や『イスラム原理主義者』のテロリスト集団は、アメリカ、イギリスだけではなく、西欧キリスト教諸国や、その同盟国を全て『敵』とみなすようになりました。『日本』もその中に含まれていることは、日本人ジャーナリストなどが、拉致、殺害されることからも明白です。

アメリカのイラク侵攻は、結果的に中等、西アジア、中央アジア全般の新しい『紛争』を呼び起こすことになりました。

『サダム・フセイン』の圧政から解放されたことは、イラク市民にとっては嬉しいことで、それを実現してくれた外国の軍隊を一時歓迎色で迎えましたが、その後、少しも治安がおさまらない現実に、外国の軍隊に対してむしろ嫌悪感を募らせるようになりました。

イラク人に依る自治政権の樹立も、人種や宗派の対立で少しも進まず、『民主主義国家の出現』などは、夢想に過ぎないことが判明しました。

『ウンベルト・エーコ』は、これらの事態は、過去の歴史からも事前に十分予測できたと主張して、『ブッシュ大統領』とその取り巻きの『無知』を批判しています。『無知』の人間が、大統領になってしまうというのは、『民主主義』の落とし穴です。

『独裁者』の圧政下でも、国民の『愛国心』という共通意識は醸成されると『ウンベルト・エーコ』は書いています。『独裁者』の方もそれをうまく利用しますから、『ヒトラー』や『スターリン』の支配下でも、ドイツ人、ロシア人は外国との戦争に身を投じました。

この心理は、イラクも同じですから、『サダム・フセイン』がいなくなっても、イラク市民は、外国の軍隊の介入を疎ましく思うのは当然です。

『戦争』は『無知』が原因で始まり、『文化』を破壊すると『ウンベルト・エーコ』は述べています。

これほど、情報が氾濫している時代でも、この原則は同じであるということでしょう。私たちが、イスラム文化について知らないことは沢山あり、イスラム圏の人達が西欧社会について知らないことは沢山あります。

お互いの『無知』から諍(いさか)いが起こるのは、国と国の間だけではなく、人と人の間も同じです。

自分が『無知』であることを、夢想だにしない人ほど手に負えない者はいません。『能天気』は愛嬌ではすまされません。

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2016年12月 2日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ワトソン博士からアラビアのロレンスまで』(3)

人は誰でも、自分の『精神世界』の総合能力で、他人の言動や周囲の事象を判断します。総合能力には、『理』を駆使した推論、『情』を駆使した直感、好き嫌いなど多様な要素が絡みます。 

『精神世界』の総合能力は、その人の『器の大きさ』といえるかもしれません。

原則として、人は自分の『器』以上の判断ができないということになります。一番困った事態は、世の中には自分より『器』の大きい人が存在するということに気づかなかったり、気づいたとしても認めようとしなかったりする人の言動です。

そしてそれが一国の大統領、首相、元首などであった場合は、国民は不幸な目にあう可能性が高く、国民の中の『器』の大きな人々は、やりきれない気持ちになります。

このエッセイ集で、『ウンベルト・エーコ』が、当時のイタリア首相『ベルルスコーニ』を度々批判しているのは、このような背景があるからです。そしてこの『ワトソン博士からアラビアのロレンス』というタイトルのエッセイでは、『9.11』の後、イラク攻撃に走ったアメリカの『ブッシュ大統領』を槍玉にあげています。『ベルルスコーニ』も『ブッシュ大統領』も『ウンベルト・エーコ』には『器』の小さな人物におもえるのでしょう。

アメリカの大学の図書館には、『イスラム社会の特質』を洞察した過去の著作が沢山あり、アメリカ人の中にも、『イスラム社会』を知る人達が沢山いるはずなのに、『ブッシュ大統領』やその取り巻きは、それらを読んだり、意見に耳を傾けようとしなかったことを批判しています。

『ブッシュ大統領』は、『サダム・フセイン』が次々に適当な嘘をつくことに、イライラし、不誠実であると罵っています。イラクは、ミサイルを撤去するように国際社会から圧力がかかると、『開発したり保有したりしていない』と先ず答え、次には『全て破壊した』と答え、更には『少しは保有している』と云うことがコロコロ変わりました。

しかし、バグダッドが舞台の『アラビアン・ナイト』を一度でも読んだことがあれば、語り手の『シェーラザード』が王様の気をひくために、次々に『話を変える』ことに気づくはずだと皮肉っています。

西欧文化、民主主義体制のなかで、『当たり前』のことが、『イスラム社会』や『独裁者、独裁政党が統治する国家』では通用しない例は、いくらでも思いつきます。そして、どの体制も自分が『当たり前』と考えることが『正しい』と主張します。

『サダム・フセイン』さえ倒せば、『イラク』が西欧社会が望む国家になると考えたアメリカの指導者やその取り巻きは、予想外の泥沼に引き込まれ、高い代償を払わされることになりました。戦闘で命を失ったアメリカの若い兵士たちは、その犠牲の最たるものです。

梅爺も若い時には、生意気に振る舞ったことがありますが、やがて多くの人と接し、世の中には、自分より『器』の大きな方が沢山おられることを知りました。

勿論、著作や伝記などを読んで、実際には接したことが無い方で『器』の大きな方の存在もしりました。歴史的に過去の方も含まれます。『ウンベルト・エーコ』などもその中の一人です。

私たちは、自分の『器』の制約をうけることは、避けることができませんが、唯一できることは、もしも自分より大きな『器』を持つ人達が判断したら、どうなるのだろうと、一度立ち止まって考えてみることです。

この訓練を重ねれば、やがて周囲には『畏敬の念』をもって接する必要のある方々が沢山存在することに気づくようになります。『我以外皆我師(誰もが私の師である)』などという『吉川英治』の言葉は、これを示したものなのでしょう。

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2016年12月 1日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ワトソン博士からアラビアのロレンスまで』(2)

『ワトソン博士』は、アフガニスタンの戦闘に参加し、『アフガニスタンとイギリスの違い』をまざまざと体験し、帰国後『戦争は不毛』と述べていることを『ウンベルト・エーコ』は重視しています。

戦争する前に、イギリス人が『アフガニスタン』の歴史、文化、宗教などを知っていたら、『不毛な戦争』は避けられたかもしれないということを示唆しています。

『ねぇワトソン博士、どうしてイギリスのブレア首相は、アメリカのブッシュ大統領(息子)がイラク戦争を始める前に、イラクについて勉強してからにしはいかがですかとたしなめなかったのでしょうね』と、『ウンベルト・エーコ』は皮肉っています。

『9.11』に対する復讐の念と、取り巻きの『ネオコン(新保守主義者)』や『産軍複合体』にそそのかされ、『イラク』の文化、歴史、宗教のことなど考えずに、『サダム・フセインさえ倒せば、民主国家が出現する』と考えた『ブッシュ大統領』の教養の無さは目に余ります。この程度の人物を大統領に選ぶアメリカの『民主主義』も、上出来とはいえません。

アメリカは『ベトナム戦争』で痛い体験をしたにも関わらず、『イラク』でも愚を犯したことになります。

そのアメリカも、日本相手の『第二次世界大戦』の終戦時に、優れた『日本分析』をしていたとこのエッセイには書いてあります。『菊と刀(ルース・ベネディクト著)』という著書がその例です。『天皇制(菊)や武士道(刀)』から、日本人の精神文化の特徴を分析、洞察した内容で、日本人でさえも『なるほど』と思いあたることがあります。GHQの日本統治に大きな影響を及ぼしました。

この著作は、戦争中にアメリカ軍の諜報機関が、日本について調査した報告を読んで、『ルース・ベネディクト(女性)』がまとめたもので、驚くべきことに『ルース・ベネディクト』は、一度も日本に行ったことがないと書いてあります。

このように、深い洞察能力があれば、『現地へ出向かなくても』その国の歴史、文化、宗教について理解することができることになります。

梅爺も『中東へ行った経験が少ないので、イスラムのことは分からない』などと言い訳はできないということで、耳が痛い話です。

現地を体験することは、圧倒的に有効ですが、それがかなわなくても、推察、洞察できる理性と教養を持ちなさいと『ウンベルト・エーコ』は云いたかったのでしょう。自分が体験した時代ではない『中世』に、深い洞察を示す『ウンベルト・エーコ』ならではの言葉の重みがあります。

戦争は、命や財産を奪うだけでなく、『文化』を破壊する行為でもあります。

戦争を前提におかなくとも、『異文化』のことを理解する努力は重要です。『異文化』を知ることは、翻(ひるがえ)って自国の『文化』の特質を再認識することでもあるからです。

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