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2016年10月31日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『パスタ・クネゴンダ』(2)

『知りたい』『学びたい』という欲求は、人間の基本的な習性です。『知る』ことは『安泰を得たい』という『精神世界』の基盤とも言うべき本能と合致するからです。 

近世に、人類は大衆向けの『報道機関』を創出しました。一度に同じ『情報』を大衆が得るというしくみは、文明の発展に大きく寄与しました。 

『情報』の伝達、流布に関して、大きな制約があった中世以前の社会と、近世の社会がどれほど大きな差があるかは、容易に想像できます。 

専門の『発信者』が『報道機関』であり、『受信者』は大衆でした。『発信者』が倫理観を保有していて、『情報』を『大衆を騙すための手段』にすることを控えれば、おおきな問題は発生しません。 

大衆もいつしか、『報道機関』が発信する『情報』の内容は、『ただしい』と鵜呑みにするようにもなりました。大衆には、一般的に『情報』を自分で獲得、精査する能力は無いからです。 

しかし『性質(たち)の悪い権力者や権力集団』が出現し、自分たちを利する目的で『情報』を巧妙に操作、歪曲して『大衆を騙す』手段として『報道機関』を利用するようにもなりました。一般の『報道機関』を検閲対象とするばかりか、自分たちのお抱えの『報道機関』を優先し駆使するようにもなります。 

中国や北朝鮮の、新聞、テレビでは今日でもこのようなことが行われています。大衆を『啓蒙する』と称して、『騙す』『洗脳する』行為が堂々と横行しています。

オランダ、ハーグの国際司法裁判所が、『中国の南沙諸島領有の主張は根拠が無い』と厳しい判決を下しても、中国政府、中国国民はともに、『不当な判決である』と強がりな姿勢を見せています。ホンネでは中国政府は、国際的な孤立が深まることを懸念していると思いますが、国民の大半は、国営のテレビ・新聞が報道する内容を信じて、『本当に中国の方が正しい』と思い込んでいるのではないでしょうか。

イタリアのような民主主義国家では、大衆を毒するテレビや新聞を、大衆がボイコットすればよいではないかという主張もありますが、『ウンベルト・エーコ』は『現実は、そうはいかない』と論じています。大衆の大半は、『自分たちが毒されていること』にも気づかないからですが、仮に気づいていたとしても、次のような反論があるだろうと書いています。

(1)いかがわしいテレビ局でも、『素晴らしい昔の映画』を放映することがある。これは観ないわけにはいかない。
(2)いかがわしい報道の内容を確認するには、観る必要がある。
(3)一部のテレビや新聞がボイコットされたからといって、権力者は主張や姿勢を変えたりしない(効果が薄い)。

そこで『ウンベルト・エーコ』は、実質的に、いかがわしい新聞やテレビの経営に打撃を与える他の手段を提言しています。

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2016年10月30日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『パスタ・クネゴンダ』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時間を戻す)』の18番目のエッセイのタイトルは『パスタ・クネゴンダ』です。 

エッセイの内容は食品『パスタ』とは無関係で、政党や政治権力者と報道機関の関係を論じたものです。 

『ウンベルト・エーコ』のエッセイをブログで紹介してきた中で、何度も『政治権力者と報道機関の癒着』の問題を取り上げてきました。 

このエッセイが書かれた当時(2001年頃)、イタリアの首相は『ベルルスコーニ』で、彼はイタリアの主要なテレビ局、新聞社のオーナーでもあり、この異常な関係に『ウンベルト・エーコ』は何度も警鐘を鳴らしています。 

このような事態は、他の民主主義国家でも将来起こりうることですが、憲法や法が起草された時、このような事態は予測できていないとすれば、具体的な『規制』は明示されているとは思えません。 

日本で云えば、『朝日新聞』『読売新聞』の企業オーナーが、『首相』に選ばれるというような事態です。幸い日本では、その様なことが起こりそうな気配はありませんが、論理的には起きないとは言えません。 

上記のような事態が起きた時の問題と、現在の『朝日新聞』がやや左寄り、『読売新聞』がやや右寄りである(ほんとうにそうかどうかは判定は易しくありませんが)ということとは別の問題です。報道は『公正、公平』を旨とするとはいえ、新聞社も人間が構成する組織である以上『個性』をもつことは、避けられないことであり、読者は意にそわないなら購読をやめれば良いだけの話です。 

公明党の支持基盤である『創価学会』が『聖教新聞』を発行し、共産党が機関紙『赤旗』を発行していることは、『言論の自由』という基本権利の範囲で認められますが、公明党、共産党の党首が日本の『首相』に選ばれるということになると、国民は『権力者と報道機関』の関係について、現在とは違った判断を迫られることになるかもしれません。 

『ウンベルト・エーコ』は、政治権力と結びついた報道機関を『スポイル・システム』と呼んでいます。社会の健全さを『損なう』原因を創りだすというような意味なのでしょう。

『情報』は『発信者』と『受信者』が双方ともその価値を査定できる能力を保有している時にのみ、有効なものになります。『発信者』『受信者』ともに、高い知性と感性を保有しているという条件がもとめられますから、現実にはその条件が満たされることは稀です。『情報』は『啓蒙』の手段にも『洗脳』の手段にもなりうるということです。

『権力者』と『報道機関』が結びつくと、『権力者』は大衆を自分に都合よく誘導するために、『情報』を巧妙に操作、利用するという懸念は確かに問題です。『騙そうとする権力者』も悪いのですが、『騙され易い大衆』も全く責任がないわけではありません。

『騙そうとする権力者』が少なく、『騙され易い大衆』も少ない社会が、レベルの高い『民主主義』社会といえることになります。

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2016年10月29日 (土)

Keep a thing seven years and you'll always find a use for it.

英語の諺『Keep a thing seven years and you'll always find a use for it.』の話です。

『一見役に立たないようにみえるものでも、7年間持っていれば、役に立ち使い方が必ず見つかる』というような訳になります。

梅爺もどちらかといえば、モノが捨てられず、『まだ使える』『いつか使い道が出てくる』と思いながらため込む習性が強い人間です。

敗戦後の、何もない時代に育ったために、『もったいない』という発想が強いのかもしれません。

しかし、正直に振り返ってみると、『7年後についに使い道を見つけた』などというケースはほとんどありませんから、この諺は鵜呑みにはできません。

しかし『thing』を、『モノ』ではなく、日常の『行為』と考えれば、この諺は受け入れることができます。

梅爺は、『一度始めたことは10年間は続ける』という妙な癖があり、40歳代は『ジョギング(マラソン)』、50歳代は『ゴルフ』、60歳代の後半から『ブログ執筆』を続けています。

『ジョギング』では、『走りながら季節や自然を感じる』ことを学びましたが、『ゴルフ』は一向に腕が上がらず、あまり得るものがなく止めることになりました。

『ブログ執筆』は8年目を迎えていますが、これは確かに『得るものがあった』と自信を持っていうことができます。

いつもブログに書いている、世の中の事象を『物質世界』『精神世界』に分けて把握するという考え方を、自分で見つけたという自負と喜びがあるからです。

『ブログ』を書き始めた当初は、このような『ご褒美』が待ち受けているなどということは夢想だにしませんでした。

老い先短い『爺さん』が、新しい人生観を見つけてみても、『時すでに遅し』ではないかとお笑いいただくような話ですが、本人は『見つけた』ことに大いに満足しています。

『何か始めたら、7年は頑張りなさい』という主旨なら、自分の体験を基に、この諺を受け入れます。

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2016年10月28日 (金)

地球生物の原先祖に迫る(6)

生物の遺伝子内容は『突然変異』することがあり、その変異が環境に適応するのに都合がよい場合に、その子孫が『種』として生き延びてきた、というのが『ダーウィン』の『進化論』の主な内容です。 

『生物進化系統樹』を逆に遡れば、地球のあらゆる生物の『原先祖』に到達でき、それは『細菌』のレベルの『生物』であると論理的に考えたくなりますが、あるレベルに達すると、『突然変異』ではなく、『細菌』が他の『細菌』を呑みこんで、新種の『細菌』が出現することを想定しなくてはならなくなり、遡り行為が困難になります。つまり『子』から『親』を推定することが簡単ではなくなるということです。 

この結果、最初の『原生物』の特定は、現状ではできていないことを『生命誕生』という本を読んで知りました。 

いずれにしても遺伝子を子孫に継承するという『しくみ』を『生物』が獲得し、それを利用して『進化』してきたことになります。この『しくみ』は、生物に共通なもので、『ヒト』だけが、特殊な存在ではありません。 

遺伝子に関して『DNAの二重らせん構造』が発見されたのは、たった60年位前のことです。しかも人類は、既に『ヒトの遺伝子配列』について解読を完了させています。その結果、『ヒト』の遺伝子の数は約2.5万種程度と判明しました。『ヒト』と『チンパンジー』の遺伝子の違いは数%にもみたないことも分かってきました。ほんの少しの違いが、総合的には大きな違いになっていることになります。それにしても、たった4種類の『塩基』の組み合わせでできる記号配列で、全ての生物の遺伝的特性が決まるという事実は、驚きに値します。組み合わせ記号配列に秘められている情報に従って、全ての生命活動が、時に、思春期など時系列的な発現なども含め、展開されるということも、一層の驚きです。

『細菌』が他の『細菌』を『呑みこむ』とか、『突然変異』とか、遺伝子に関る事象は、従来自然界だけで起こっていましたが、遺伝子の『しくみ』を知った人類は、人為的に遺伝子を組み替えるなどの、操作を開始しました。

『難病の人を救う』『環境に強く、収穫率の良い穀物を作る』などは、ある程度理解できることですが、『ヒトの遺伝子をもった花を咲かせる』などという、なにやらおぞましいことまで実現していますので、『遺伝子操作』に関する倫理基準を早急に取り決める必要があります。

『神の領域に踏み込むのはいけない』などと梅爺は言うつもりはありませんが、『ヒト』が自然環境のなかで、ゆっくり『進化』して作り上げてきた人間社会のバランスを、人為的な『進化』で急激に変えることに、人間社会がついていけずに、不幸な結果になることを懸念しています。自然環境の『進化』は、『ヒト』に『個性』を宿命づけましたが、人為的な『進化』では、『個性』を矯正して、一律にするように向かう恐れがあります。

個人が欲望のために、全員『美男美女』に変り、全員『賢い人』に変り、全員『スポーツ、芸術の領域で一流のレベル』に達し、全員『長寿』に変ったりしたら、一体どうなるのだろうと、想像してしまいます。そのような時代が来る前に、梅爺はこの世においとまできそうなことを、負け惜しみのようですが、幸せと思っています。

地球生物の原先祖を特定できるかどうかは別にしても、『地球環境変容のしくみと歴史』『分子生物学』などの専門知識を総動員しないと、追及はできないことは明らかになってきました。

『生命誕生(中沢弘基著)』と言う本は、まさしく『学際』的に『生命誕生』に迫ろうとする本で、従来の『生物学』の本とは異なり、啓発されることが沢山あります。

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2016年10月27日 (木)

地球生物の原先祖に迫る(5)

例えば、ある『細菌』が、他の『細菌』を『呑みこんだ』場合に、何が起こるかは以下のように推定できます。

(1)呑みこんだ『細菌』の細胞内で、両者のDNAは混じり合って、新たな性質をもった『細菌』に変貌する。
(2)呑みこまれた『細菌』は、呑みこんだ『細菌』の細胞の中で、『小容体』として独立性を保ち、両者は『共生』するようになる。
(3)DNAの混じり合い、『共生』にはいたらず、両者ともに死滅する。

梅爺は、専門家でないので、単なる推測になりますが、ほとんどのケースは(3)なのではないでしょうか。極めて偶然に、幸運に(1)や(2)が起きたといえるのではないかと思います。

『ミトコンドリア』『葉緑体』は(2)のケースで、太古にこれが実現した故に、現在地球上の植物、動物の大半は『生きている』ことになります。

自然界(物質世界)は、『不均一(ムラ)』を是正しようとする『摂理』が作用して、絶え間なく『平衡状態』が変化しているように見えます。『平衡が動的に変る変容』が続いているということになります。

『宇宙』も『地球』も『人』も、この『変容』の対象であることには違いがありません。『人』の感覚で、『変容』が認識できないこともあり、『安泰』が継続していると勘違いしがちですが、『変容』は止まることがありません。『人』の『精神世界』の『願い』に反して、自然現象としての天災は必ず起き、『人』は永遠に生き続けることはできません。

一方厄介なことに『人』は、『生物』として『安泰を希求する本能』を保有しています。『変容』しかない環境で、『安泰』を求めて生きるという矛盾が『人』に重くのしかかります。

その結果、『人』は『神仏』『不滅の魂』『天国』などという、虚構の『抽象概念』を考え出し、これを『信ずる』ことで、『心の安らぎ』を得ようとしてきたことになります。梅爺はこのような歴史的な『人』の対応を、嘲笑しているのではありません。数千年前の『人』が、その当時の『知識』を総動員して、このような『因果関係』を考え出したのは当然のことであるからです。ただ、現代の『科学知識』を獲得した『人』の理性にとっては、それをそのまま受け容れることに無理があると考えているだけです。

自然界(物質世界)で『摂理』が引き起こす『変容』は、『人』にとって都合のよいものばかりではありません。時に『恵み』で、時に『災厄』であるというだけのことに過ぎません。『人』の『願い』『祈り』とは『摂理』は無縁なものと覚悟して、『恵み』にだけは一方的に『感謝』をすることにしようと、梅爺は心に決めました。

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2016年10月26日 (水)

地球生物の原先祖に迫る(4)

少し前までは、『生物』は、『原核生物(単細胞生物)』と『真核生物(多細胞生物)』とに二分されていました。  

ところが、その後、『原核生物』の、『RNA(遺伝子に関与する塩基配列)』を調べると、高温や、高塩分濃度の環境に存在するバクテリア(細菌)と、それ以外にバクテリアでは、大きな違いがあることが分かり、前者を『古細菌』、後者を『真正細菌』と呼んで区別することが一般的になりました。 

つまり『生物』は、『古細菌』『真正細菌』『真核生物』の三つに区分され、これを『生物三界説』と呼んでいます。 

こういうややこしい名前を記憶するのが、梅爺は苦手ですが、これを理解しないと『原先祖』へは到達できませんので、我慢して頭に入れました。  

誤解してはいけないのは、『古細菌』といっても、太古にのみ存在し、今は存在しない『細菌』のことではなく、現在も地球上に存在する『細菌』のことです。『古細菌』の『先祖』が、太古に先ず出現したであろうというイメージでこの名が付されました。 

原始的な『単細胞生物(古細菌、真正細菌)』や、単純な『多細胞生物(真核生物)』の世界で、ある『生物』が、他の異なった『生物』を『呑みこんで(自分の細胞内へ相手を採りこんでしまう)』という事象が、何かの拍子で偶然起こり、これが、後の『生物』の生態へ決定的な影響を与えることになりました。 

現在地球上に生息する『真核生物(多細胞生物)』は『ヒト』を含め、『細胞』の中に『ミトコンドリア』という『小容体』を保有しています。また『植物』は『細胞』の中には『葉緑体』という『小容体』を保有しています。 

『ミトコンドリア』『葉緑体』は、もともと独立した『生物』であったものが、現在の『宿主生物』の先祖に『呑みこまれた』名残と推定されています。その証拠に、『ミトコンドリア』『葉緑体』は固有の『DNA』を保有し、それは『宿主生物』の『DNA』とは異なっています。

『ミトコンドリア』が無ければ、私たちは『酸素』を代謝エネルギーの手段として利用できませんし、『葉緑体』が無ければ植物は『光合成』ができません。つまり『生きていけない』ことになります。 

『ミトコンドリア』や『葉緑体』は、『宿主生物』の『細胞』の中で、自分を包む膜壁を介して、『宿主生物』の『細胞』と、情報交換、物質交換(化学、物理反応を利用)を行い、あたかも独立した『生物』のように機能しています。『共生している』ともいえます。 

『ヒト』の場合、数千兆個の『ミトコンドリア』を保有していると言われていますから、私たちが『生きている』根源で、膨大な数の事象が、黙々と機能していることを想像して、呆然としてしまいます。明らかに、私たちは、自分の意志だけで『生きている』のではなく、自然(物質世界)の『摂理』によって、『生かされている』ことが分かります。信仰心の薄い梅爺でも、『自分が生かされている』という実感は、常人同様に保有しています。

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2016年10月25日 (火)

地球生命の原先祖へ迫る(3)

34億年から37億年前の『生物』の『化石』といっても、この時代の地球には『酸素』がほとんどありませんから、『ヒト』をはじめとする現在の地球に棲息する多くの『動物』のように、『酸素』を代謝エネルギー確保の手段には使えません。

従って、最初の『生物』は、『硫黄代謝バクテリア』や『シアノバクテリア』であろうと考えられています。『硫黄代謝バクテリア』は『硫酸イオン』を採りこんで『硫黄イオン』に変える化学反応でエネルギーを獲得する『バクテリア』です。『硫黄イオン』は周囲の『鉄イオン』と結びついて、『黄鉄鉱』を生成しますので、『化石』周辺には『黄鉄鉱』も存在することになります。一方『シアノバクテリア』は、『クロロホルム』など『光合成』を行う色素を保有していて、太陽光を代謝エネルギーを獲得する手段として利用します。『光合成』では『酸素』が副次的に作られますので、これが周囲の『鉄イオン』と結びついて『酸化鉄』も生成されます。

『光合成』を行う『シアノバクテリア』は、『植物』の先祖にふさわしい資質を持っています。『シアノバクテリア』や『植物』のお陰で、地球の大気に『酸素』が多量に存在するようになり、その後『酸素』を生きる手段として利用する『動物』の先祖が出現したことになりました。『酸化鉄』などの鉱物資源を作りだすことにも、寄与しています。

『生物』と『非生物』が、相互に影響し合って、地球の歴史が進行していくことが分かります。『人と自然の共生』は、環境問題に取り組む人たちの合言葉ですが、いまさら言うまでもなく、『共生』しなければ、生きていけないように元々両者は仕組まれています。

『化石』以外の手段で、『生物先祖』を追求しようと言う方法が、『遺伝子(DNA/RNA)』を利用する方法です。この分野を研究対象とする『分子生物学』が近年大きく進展しています。梅爺が高校生、大学生であった頃には、このような学問分野の名前はありませんでした。

科学者でありながら、文学的で美しい日本語表現で随筆を書かれる『福岡伸一』先生の著作は梅爺のお気に入りですが、福岡先生の御専門は『分子生物学』です。

『遺伝子』の類似性を判断基準として、『生物進化系統樹』を遡る作業は、大変な作業ではありますが、論理的には『原先祖』へ辿りつけるのであろうと、梅爺は考えていましたが、そううまくは行かず、最後に『越えられない壁』があることを、『生物誕生』と言う本を読んで知りました。

『単細胞生物(原核生物)』または、それに近い『多細胞生物(真核生物)』の領域にいたると、『DNA』だけで親子が特定できない事態が出現するからであると分かりました。平たく言ってしまうと、ある『生物』が他の『生物』を呑みこんで、両者の特性をもった新種の『生物』が誕生するということがあるからです。『細胞分裂』や『生殖行為』で子孫が作られるプロセスでのみ『ダーウィン』の進化論は適用できますが、上記のような新種(呑みこみで生まれる)には、適用できません。何が何を呑みこむかが予測できないからです

『呑みこみによる新種』も『進化』の要因になりますが、『ダーウィン』の時代には、このようなことが分かっていなかったことになります。

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2016年10月24日 (月)

地球生物の原先祖へ迫る(2)

『生命誕生(中沢弘基著)』という本は、関連するあらゆる分野の科学知識を総動員して、『謎』を解明しようとする視点で書かれていて、梅爺のような人間でも、一気にあるレベルの総合理解に達することができ、助かります。 

『生命』の歴史は、当然『地球』の歴史が背景にありますから、『地球』の歴史についてかなりのページが割かれています。 

『大陸移動説(一つの大陸が別れて現在の地形になった)』『プレートテクトニクス(地球表面は12のプレートの相互作用で構成されている)』『プルームテクトニクス(上部マントルが、下部マントルまで下降し1億年程度止まった後に、コールドプルームとなって更に地球核の付近まで落下し、この反動で海底に大量の玄武岩やマグマが放出される)』などが、分かり易く解説されています。 

一見『生物』とは無関係に見えるこのような事象が、じつは『生命誕生』の『謎』を解くカギを握っているということになります。 

学校で習った、生半可で断片的な『科学知識』を、試験のために暗記するのは梅爺にとって苦痛でしたが、このように『謎』が先ず提起され、その謎を解くにはこういう知識が必要ですよと言われれば、突然知識が光り輝いて見え始め、自分からそれを理解しようと努力することになります。本来の『教育』は、『考えるための方法論』を教えることであって、無味乾燥な知識の暗記を強いることではないことが良く分かります。『優れた先生』が多い国に日本が変貌すれば、日本の将来は、自ずと明るくなります。教育改革とは、国家がこのような人材投資を行い、一人一人が『自分で考える』能力を高めるしくみを作り上げることです。

46億年の地球の歴史を、大雑把に区分けすれば以下のようになります。

冥王代(めいおうだい) 46億年~40億年前
太古代(たいこだい)  40億年~20億年前
原生代(げんせいだい) 25億年~5.4億年前
顕生代(けんせいだい) 5.4億年~現在

最初の『生命体』が出現したのは『太古代』と推定されていますが、『生物』が爆発的に『進化』をしたのは『顕生代』で、それ以前の三つの時代(約40億年間)はまとめて『先カンブリア時代』とも呼ばれています。

『生命体』は出現以来約30億年間、原始的な『単細胞生物』で止まっていて、『カンブリア紀(5.4億年前)』に、突然『進化』で多様な『多細胞生物』が出現しました。『ヒト』の先祖は、500万年~800万年前に『チンパンジー』と共通の先祖から枝分かれしたわけですから、極めて『現代』に近い『顕生代』に登場したことになります。

『天地創造』と同時に、『神の形に似せて人間が創られた』という話とは、実態は大きく異なります。基本的に『生物』である『ヒト』が、『精神世界』を獲得して『人』になったプロセスを私たちは謙虚に受け止めるべきではないでしょうか。

『生命体』の出現を確認する直接的な手段は、その痕跡がのこる『化石』を探すことになります。

最古の『化石』ということになると、『バクテリア』のようなものの『化石』ですから、これが『生命体』なのか、非生物や無機物質が類似の形を形成したものなのかを判別することは容易ではありません。

それでも、ある程度信頼性が高い34億年前の『バクテリア』の『化石』が見つかっています。その後37億年前の鉱石の中に、『生命体』が見つかったという報告がありましたが、真贋は確定していません。

いずれにせよ、40億年くらい前から、『無機分子』が『有機分子』へ『進化』する何らかの事象がおこり、『生命体』出現の準備が整えられていたのではないでしょうか。何の前触れもなく『生命』が突然地球に現れたのではないと考える方が自然です。

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2016年10月23日 (日)

地球生物の原先祖に迫る(1)

ダーウィンの『生物進化論』を肯定すれば、地球に現存する全ての生物の先祖は、一つの『原先祖』に到達します。『ヒト』も例外ではありません。 

『原先祖』から、『個としての生命活動』『遺伝子を利用した種の継承活動(子孫を残す活動)』が開始されました。あまりにも精緻でみごとな『カラクリ』であるために、人類は『神がデザインした(神は創造主)』ものと推測し、信じてきました。現在でも多くの人たちがこれを信じています。私たちの経験的な直感で、『このようなことが偶発的に起こるはずがない』と考えるのはもっともなことです。 

しかし、科学者は、『物質世界』には、『摂理』だけを利用した『偶発的な変容』のみが存在したという前提で、『原先祖』に迫ろうとしています。『物質世界』には、『意図』『目的』などは存在せず、『摂理』に則った『変容』だけがあると考えているからです。梅爺もこの考え方を受け容れています。 

『意図』『目的』などは、人間の『精神世界』でのみ重要な意味をもつ『抽象概念』であると、ブログを書いて梅爺は気付き、以後『物質世界』の事象を観る目が変りました。『神』『天国(地獄)』『愛』『正義』『平和』『平等』なども、『精神世界』でのみ意味を持つ『抽象概念』であると考えるようになりました。

私たちは、『物質世界』では『ヒト』であり、『精神世界』を伴う時には『人』であると区別すれば、多くの疑問が解消できます。『ヒト』は他の生物と基本的に変りませんが、『人』は他の生物とは異なった資質を保有しています。上記の『抽象概念』を共有する能力はその一つです。『精神世界』がその資質を創りだしています。しかし、『異なった資質』を『優れた資質』と呼ぶのは慎重であるべきです。『ヒト』を高等生物と区分するのも『人』の『精神世界』が創り出した価値観であるからです。 

『原先祖』は、『単細胞生物』であったであろうことは推測できますが、『いつ、どのような環境で、どのようなプロセスで出現したのか』は、特定できていません。 

『原先祖』に迫る科学的手法は、大きく二分できます。一つは『化石』など、実際に存在する『モノ(遺物)』を利用する手法で、もう一つは『遺伝子』を『生物進化の樹』を遡って追求し大元へ到達しようとする手法です。『遺伝子』を遡って、私たち『現生人類(ホモ・サピエンス)』の先祖は17万年前に、アフリカ中部の草原地帯に存在していたと科学は突き止めました。この手法で更に遡ることで、生物の『原先祖』に到達しようという壮大な試みです。 

いずれにしても、『生物』だけを観ていては、分からないことがあり、『地球の歴史』と関連付けて観る必要があります。『物質世界』の『変容』は、環境条件がもたらすものですから、当然のことです。『釈迦』が、この世の本質は『縁起(全ては関連している)』であると喝破(かっぱ)したことは、驚くべき洞察です。

多くの『謎』は、専門分野の知識だけでは解けないというのが、現代の『科学』の常識になっています。『原先祖』を特定するには、『生物学』『考古学』『分子生物学(遺伝子)』『地質学』『地球・宇宙物理学』『物理学』『化学』などの知識を総動員しなければなりません。ある分野の『常識』に縛られていると『真相』は見えてきません。

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2016年10月22日 (土)

『進化』は何故起こるのか(4)

『人間』の肉体は、『有機高分子』で構成される『細胞』で維持されています。『細胞』の『有機高分子』は、死後の土葬、火葬などで素材の軽元素分子へ還元されてしまいますが、『生きて』いる間は、『細胞』の秩序は保たれています。

地球上に『有機高分子』が出現した理由は、地球の『保有熱放出(エントロピーの減少)』であることは昨日書きました。

更にこの本は、『人間』の『生きる』プロセスにも『エントロピー』が関与していることを紹介しています。

私たちは、『食材』を摂取し、エネルギー源、栄養源として利用した後に、老廃物を『排泄』して『生きて』います。

ここで『食材』は『エントロピー』の『低い』もので、『排泄物』は『エントロピー』が高い状態になっていることが重要な意味を持ちます。

つまり『人間』は、『食材』を『排泄物』へ変えるプロセスの中で、差となる負の『エントロピー』を獲得し、これで『細胞』の秩序を維持していることになります。

『精神世界』が創り出す、芸術や宗教など高尚な世界だけを観ると、『人間』は限りなく崇高な存在ですが、一方『生物』としては、『食べる』『排泄する』という基本的な行為が『生きる』ために必要になります。換言すれば、『食べる』『排出する』と言う行為が、当たり前にできなくなった時に『死』を迎えることになります。

『生命誕生(中沢弘基著)』という本の、『進化は何故起こるのか』ということだけに絞って今回は紹介しました。この本は、それだけでなく、『生命』の出現に関しても、『地球の歴史』と関連付けた、興味深い沢山の提言が記述されています。その紹介は、他の機会に譲りたいとおもいます。

中沢先生は、ご自分の主張を『仮説』として提示し、当然従来の説も公平に提示しておられます。そして『科学はつねに前節を覆したり修正したりして進歩するものです』と述べておられます。

『福岡伸一』先生(分子生物学)、『村山斉』先生(宇宙物理学)、と同様『中沢弘基』先生も、梅爺のような凡人に分かるように最先端科学内容を解説していただけるのはありがたいことです。

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2016年10月21日 (金)

『進化』は何故起こるのか(3)

地球で、『広義の進化(非生物、生物を含めた)』が起こるのは、地球が46億年前の誕生以来、宇宙環境にたいして『保有熱を放出し続けている』ことが真の『理由』であると、著者の中沢先生は論じています。

梅爺が想像もしなかった『理由』で驚きましたが、理性的に考えてみれば、『コロンブスの卵』のように至極当然のように思えてきます。

地球は、太陽熱を外部から受け、一方内部保有熱を外部へ放出しています。結果的に放出量が勝って、誕生以来『熱放出』が続いていることになります。

地球の内部保有熱は、灼熱の誕生時に蓄積された熱と、地球内部で今なお起きている放射性反応熱とで構成されていて、両者の比率は約50:50であるとこの本には書いてありました。放射性反応熱の測定には、東北大学の『ニュートリノ』研究チームが寄与しています。

地球の『熱放出』は、地球全体の『エントロピー』が減少し続けていることを意味します。『エントロピー』は逆に増えていれば、地球の軽元素は、それ以上組織化、複雑化することはありませんが、減少しているために、『有機高分子』のような、組織化、複雑化した『物質』が必然的に出現することになります。

『有機高分子』の出現の延長上に『生命』の出現があるわけですから、『広義の進化』が起こる原因は、『地球の保有熱放出』であるということになります。

中沢先生の表現を引用すれば以下のようになります。

生命の発生と生物進化は、地球のエントロピーの減少に応じた、地球軽元素の秩序化(組織化、複雑化)である。
地球が冷却し続けるかぎり、バクテリアからヒト、あるいはその先まで、生物(および生物界)は進化し続けなければいけないのです。

宇宙に存在する地球以外の惑星で、『水』と『有機分子』が発見されれば、そこには『生命体』が存在する可能性が高いと言われていますが、その惑星で地球と同じような『生物進化』が起こるには、地球と同じように『エントロピーの減少』環境であることが必要になります。

そう考えると、『地球外生命体』の存在可能性は、ゼロとは言えないまでも、従来の考え方よりは低くなります。

逆に、地球は、物質世界の沢山の偶然が重なりあった、非常に稀有な惑星であり、それ故に、梅爺が存在していることを改めて痛感させられます。

これらの偶然は『神』が人間のために仕組んでくださったものという考え方には無理があります。なぜならば、地球も人間も、宇宙という『物質世界』の視点で観れば、なんら特殊なものではないからです。偶然がもたらした幸運によって、特殊なもののように見えているだけです。梅爺はこの幸運に感謝する以外の対応を思いつきません。

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2016年10月20日 (木)

『進化』は何故起こるのか(2)

『生命出現』の謎を追う科学者にとって、『生命』を構成する『高分子有機物質素材』が何故地球に存在していたのかは、未だ解けていない謎です。 

『地球(深海の熱噴出孔付近)で作られた』『宇宙からもたらされた』と色々な『仮説』がありますが、どれも『仮説』の域を出ません。

岩石や鉱物ばかりの『原始地球』に、『炭素』や『水素』でできた『有機分子』が何故出現したのかは、明解には『分かっていない』ことなのです。現在の地球は『生命』に満ち溢れ、いずれも『有機高分子』で生命体は構成、維持されていますから、あまりにも『当たり前』のことと考えてしまいがちです。

著者の中沢先生は、地球上で『進化』が進んでいるのは、『生物』の世界だけではなく、『物質世界』でも『進化』に相当する事象が進行していると考えました。

『単純な元素で構成される無機分子』から『複雑で大きな有機高分子』が作られるようなプロセスがそれにあたります。『進化』と言う概念を『生物』以外へも拡大して考えるという視点は卓越です。

先ず原始地球の『物質世界』で『進化』が進み、『複雑で大きな有機高分子』が出現し、それを素材に『生命』が出現し、その後『生命』も『進化』を継続しているという推定です。

『前生物的分子進化』があって、『生物進化』があるという考え方は、実に魅力的です。そして、この『非生物』『生物』を問わない『進化』を『広義の進化』と呼ぶことにすれば、それを起こす要因は『同一』ではないかと考えたくなります。

しかし、この『広義の進化』は、『物質世界』の『摂理』の一つである『熱力学の第二法則』に矛盾しているように見えます。

『熱力学の法則』は二つあり、定義は以下のようになります。

『熱力学の第一法則』:宇宙のエネルギーの総和は一定不変である
『熱力学の第二法則』:宇宙のエントロピーは常に極大へ向かって増加する

『エントロピー』という難しい言葉が使われていますが、これは、インクを一滴コップの水に落とした時の現象を考えれば、理解できます。時間が経つとインクは薄まって、コップ全体の水が薄く色づいて止まります。最初の凝集してたインクは『エントロピー』が『小さい』状態であり、インク分子がバラバラに水に溶けたのは『エントロピー』が『大きい』状態に変ったことを意味します。

『熱力学の第二法則』は、上記のインクとコップの水との関係で、逆の現象は自然界では起こらないことを意味します。つまり、一度とけたインク分子が、自然に再び凝集することはないということです(人為的に水を蒸発させて凝集インクに戻すことはできますが)。

『無機分子から有機分子が作られる』『生命体が有機高分子で構成される』というような現象は、一見『エントロピー』が大きな状態から、小さい状態へ移行しているように見えます。この『熱力学の第二法則』との『矛盾』は、一体どう説明すれば良いのでしょう。

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2016年10月19日 (水)

『進化』は何故起こるのか(1)

『生命誕生- 地球史から読み解く新しい生命像-(中沢弘基著:講談社現代新書)』を読んで、『物質世界』を支配する『摂理』の真髄を改めて再認識し、大いに満足しました。一つの『知識』で、物事の観方が変るという典型的な経験で、『学ぶ』ことの大切さを知る瞬間でもあります。

梅爺は、『30億年程度前に、地球上に生命体が出現し、その後、進化で人間を含む全ての生物が現在存在している』ことを知っていますが、『何故生命体が出現したのか』『何故進化するのか』の本質的な『理由』を今まで理解していませんでした。つまり、『生命体出現のカラクリ』に関するいくつかの仮説、『進化のカラクリ』に関するダーウィンの『進化論』については、ある程度理解していますが、『出現』『進化』が何故起きるのかという本質的な問いには、梅爺は無知であったということです。この本には明解な『解』が示されています。

この本は『なるほど、そういうことか』という驚きに満ちていて、下手な推理小説を読むよりエキサイティングです。名探偵(著者)が、極めて論理的に真犯人(生命出現、進化を推進する本当の正体)を追い詰めていきます。興奮しているのは梅爺だけではなく、この本の『腰巻』には、東大の池谷裕二教授の『脳髄を金槌で殴らるほどの衝撃を受けた』という賛辞が掲載されていますから、専門の科学者にとっても画期的な内容であることが分かります。

著者の『中沢弘基』氏は、元東北大学大学院理学研究科教授で、物質・材料がご専門の科学者です。

梅爺が大変気に入ったのは、『生命』『進化』を、ミクロに観察するだけではなく、地球の『変容』の歴史全体の中で考察している姿勢で、当然あらゆる科学分野を総合的に見渡して、『学際的』に真実に迫ろうとしてことです。歴史を『ビッグ・ヒストリー』の視点で観るのと似ています。

著者の中沢先生は、繰り返し『専門家』が、狭い視野や、その分野の『常識』に惑わされて、判断を誤る弊害に警告を発しておられます。

梅爺も、生意気に『宗教』『哲学』『芸術』までも、『脳が創り出す精神世界』と関連付けて考えると、『どう見えるのか』について、ブログに度々書いてきましたから、中沢先生のご指摘には共感します。

『宗教』の真髄は、『神学者』の解釈だけではなかなか理解できませんが、『脳科学者』『生物学者』『心理学者』の視点が加われば、新しい側面が見えてくるのではないかというような期待を梅爺は抱いています。

梅爺の野次馬精神と同じように、何にでも『何故だろう』と疑問を抱く好奇心旺盛の方には、この本はお薦めできます。

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2016年10月18日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『歴史を振り返る』(4)

『民主主義国家』では、『言論の自由』『思想、信条の自由』が保証されますから、『右翼』『左翼』『中道』の政党が存在するのは自然なことです。

人の『精神世界』は『個性的』であるように宿命付けられていますから、色々な『考え方』の人が共存するのが『社会(コミュニティ)』であるからです。むしろ全員が『同じ色に染まっている社会』は異常であり、不気味です。

しかし、『右翼』『左翼』『中道』を区別する尺度はありませんから、呼び名は定性的に付与されているに過ぎません。『右寄りの中道』『左寄りの中道』などの呼び名も可能ですが、これもまた尺度はありません。

政党や団体は、自分の主張を発信するために専従の新聞社、出版社などを保有することも当然起こります。『メディア』も、『右寄り』『左寄り』『中道的』などと区分されることになります。

『右寄りのメディア』と『左寄りのメディア』は、お互いに非難合戦を行う羽目になるのもある程度やむを得ないことです。

『イタリア』では、メディアによる批難、中傷が、醜いレベルまでにいたることが多いらしく、『ウンベルト・エーコ』は、色々な事例を挙げて嘆いています。

『メディア王』の『ベルルスコーニ』が首相になるという、他の国では考えにくいことが起きた国ですから、『ベルルスコーニ』が、いかに巧妙に、あくどく『メディア』を自分に有利に利用したかは、容易に想像できます。

『民主主義国家』では、『言論の自由』と『何を云ってもよい』は同じことを意味しません。このことが、多くの人に理解されている国家は、レベルの高い国です。

『自己主張』の裏返しとして『他人の主張』も認めることが大切で、認めず『中傷』『脅迫』を行うことは許されません。

ある人の発言が、他人の心を傷つけ、その他人が自殺をしてしまった事例をいくつか挙げて、『ウンベルト・エーコ』は、『言論の自由』の実践が、難しいことを指摘しています。同じ発言が、相手を勇気付けたり、絶望に追いやったりするのも、人の『精神世界』が『個性的』であるためで、組み合わせによって何が起きるか変ってきますから、一律の議論ができないのは当然です。

『イタリア』では、メディアの論戦がかなり際どい『中傷』『脅迫』になっても、『独裁国家』『一党独裁国家』のように、政府がメディアを規制したり、つぶしにかかったりしなかったことがせめての救いというようなニュアンスの発言を『ウンベルト・エーコ』はしています。

『イタリア』には、『ひどい目にあってこそ、うまく振る舞えるようになる』というような諺(日本では『災い転じて福となす』)があるらしく、『ウンベルト・エーコ』は、この諺でエッセイを締めくくっています。『正義の味方気取りで、相手を罵倒ばかりしているメディア』は、反って多くの人から疎まれ、結局損をするということなのでしょうか。日本でも『偉そうに威張り散らす人』は周囲から疎まれます。疎まれていることに気づかないのは可哀そうな人です。

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2016年10月17日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『歴史を振り返る』(3)

『ファシズム』は、本来『ムッソリーニ』が提唱した政治思想ですが、今では、『独裁政治』の代名詞として使われることが多く、『ナチのファシズム』『スペインのファシズム(フランコ将軍の政権)』などのように使われます。

しかし、『ムッソリーニ』の『ファシズム』は、確かに『独裁政治』の一つの様式ですが、それ以外にも多くの特徴的な要因を含んでいて、政治学者でも『ファシズム』を簡単に定義することが難しいとされています。

例えば『自由主義、共産主義、保守主義の否定』『愛国的な権威主義的帝国の確立』『理想主義的な自己決定、宗教とは無関係の文化確立』『カリスマ的なリーダーによる統率』『暴力の肯定と使用、男性原理の強調』などの要因が含まれています。

現代人の眼で観れば、『このような考え方が何故通用するのか』と疑問を呈したくなりますが、当時の『イタリア』では、『いまのままより、この方がマシ』として受け容れてしまう状況があったのでしょう。

『ムッソリーニ』は『誇大妄想』の愚か者のように、受け止められていますが、青年期から政治リーダーへ成りあがっていく過程を見ると、普通の人より有能、雄弁であることが分かります。ただし教養人とは言い難いレベルであることは確かです。現代の日本の政治家の中にも、『ムッソリーニ』並みの人物は、沢山見受けられます。

第二次世界大戦の敗戦で、『ムッソリーニ』は失墜し、処刑され、死体はミラノで吊るされ公開されました。国民の『復讐』でもあり、『ファシズム』は消滅したことを国民に宣言する『みせしめ』として行われたことです。

しかし、現在でも『ファシズム』の考え方を一部継承する政党が『イタリア』では『右翼的政党』として後を絶ちません。

戦後の『イタリア』では、『共産主義』『社会主義』の左翼、『ファシズム』を継承する右翼、それにキリスト教(カトリック)民主主義の中道が入り乱れて、政権の座を争うことになります。何といっても『カトリック』の影響が強いことが『日本』などとは異なる『イタリア』の政治の特徴です。

『日本』も、戦後、左翼、右翼の政治思想の台頭がありましたが、GHQによって持ち込まれた『民主主義』が国民の圧倒的な支持を獲得することになりました。これは、世界的に観ても、珍しいことです。『軍国主義』から『民主主義』への急転換が何故このように可能なのかは、日本人の資質、日本の文化、日本の歴史を総合的に考えないと理解できません。『サダム・フセイン』を倒してみても『イラク』は民主主義国家にはなりませんでした。

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2016年10月16日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『歴史を振り返る』(2)

『ウンベルト・エーコ』は『ムッソリーニ』政権下のイタリアの教養人、文化人の大半は、外国へ亡命しようにも、密出国の具体的な手段、費用などを工面する手段もなく、外国語を話す能力も、迎え入れてくれる外国の知人や友人の伝手(つて)も持たなかったと書いています。

『島国』の『日本』では、一層この条件が厳しかったことでしょう。

人は、自分が属する会社や国家などの『コミュニティ』の方針が、『好ましくない』と思っても、そう簡単に『退社』『亡命』などできません。

自分や家族の生活や、時に『命』がかかっているからです。独裁政権下では、国家方針に否定的な言動をする人は、容赦なく強制労働所や牢獄へ送られ、多くは正当な裁判を受けることなく『国家反逆罪』で処刑されてしまいます。

平和な環境に生きる現代人が、当時の『イタリア』人、『日本』人を、『ファシズムや軍国主義を容認したのは間違い』などと評するのは簡単ですが、自分がその場に居合わせたらどのように振る舞ったのかを考えてみるべきです。『信念に従って人生を全うせよ』などという教えは、時と場合によっては『命も差し出せ』といっているに等しいことになります。梅爺が、カッコイイ教訓やスローガンに反抗したくなるのは、『生きることは、もっと現実的で、きれいごとだけでは済まされない』と感じているからです。

北朝鮮のような独裁国家で、何が起きているかは、過去の他国の独裁政権で行われていたことから推察ができます。

洗脳されて、心から『将軍様』に心酔している人もいないとは言えませんが、心の中で多くに人達は、『好ましくない、オカシイ』と感じているに違いありません。ただ、秘密警察網が張り巡らされていて、夫婦、親子、兄弟、友人間の『密告』が横行していると考えられますから、見掛け上『体制容認』を装う必要があります。

今後北朝鮮が開放されることがあれば、今度は過去の『将軍様』への協力者、秘密警察やそれへの協力者(密告者)が摘発され、国民間の陰惨な『復讐』合戦が開始されることになるでしょう。『アパルトヘイト』が廃止された後の『南アフリカ』や、共産主義が終焉した後の、東欧、ドイツで何が起きたかを観れば、明らかなことです。過去の密告者が、自分の家族であることを知った苦悩などは、想像を絶します。

『ウンベルト・エーコ』は、『ファシズム』『独裁政権』といえども、一夜にして出現するわけではなく、徐々に国民の中に受け容れる土壌が醸成されるプロセスがあることを指摘しています。それは、他国との関係、経済問題、苦しい状況を打開してくれるかもしれないといったリーダーへの期待感などが複雑に絡んで進行するプロセスです。

『日本』の『軍国主義』についても、同じことが言えます。進行するプロセスを止めたり、逆転するには途方もないエネルギーが必要になります。一度動き始めた社会の慣性は実に厄介なものです。

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2016年10月15日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『歴史を振り返る』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の16番目の話題は『Revisiting History(歴史を振り返る)』です。

ここで取り上げられている『歴史』は、『ウンベルト・エーコ』の得意とするヨーロッパ中世史ではなく、『ウンベルト・エーコ』が幼少期に体験した『ムッソリーニ』の『ファシズム』と、第二次世界大戦で、イタリアが日本同様敗戦国となってから、今日まで体験してきた『左翼』政党と『右翼』政党のせめぎ合い論じたものです。

つまり、『ウンベルト・エーコ』が体験した時代の『歴史』を論じていますから、傍観者というより、流れの中に身を置き、翻弄されながら過ごした生々しい証言とも言えます。

『日独伊軍事同盟』が結成されるにいたった事情は、それぞれの国で異なり、敗戦から今日に至る経緯も、それぞれに異なります。

梅爺は、『イタリア』の近世史に詳しくありませんから、『ウンベルト・エーコ』がこのエッセイで云いたいことの本質を、理解できていないかもしれません。従ってブログに書く感想も的外れかもしれません。

『ウンベルト・エーコ』は、第二次世界大戦敗戦時に13歳でしたので、それまでは『ファシズム』政権の下で育ったことになります。当時『ウンベルト・エーコ』が子供ながらに感じ取っていた『イタリア』の世相は、『無気力感が蔓延しているものの、ムソリーニ政権を容認する姿勢が大勢を占めていた』と書いています。

日本の敗戦時に、梅爺は4歳でしたから、戦争へ突き進んでいった『日本』の世相を、『ウンベルト・エーコ』のように、『日本人の大半が軍国主義を容認していた』かどうかは認識はできていませんでしたし、それに関する記憶もありません。

新潟県の長岡で、敗戦のたった12日前に、米空軍の大規模爆撃にさらされ、家も家財も全て燃えて灰になった上に、母親が焼夷弾の炎を浴びて、大やけどをする羽目になりました。一家は一時離散し、梅爺は父方の親戚に預けられました。その後ようやく、長岡市が提供してくれたバラックで、一家は一緒に住めるようになりましたが、梅爺が今でも思い出せるほどの、貧しい生活でした。ひもじさをしのぐために、『つくし』や『イナゴ』も食べました。

母方の伯父から送られてきた絵本一冊が、当時の梅爺には宝もので、『玩具』などで遊んだ記憶は一つもありません。

自分の子供たちの幼児期や、現在の孫たちの恵まれた環境は、『何でも手に入り』『好きなものだけを食べる』という、梅爺の幼児期とは比べ物になりません。現在の環境が子供をダメにするなどというつもりはありませんが、逆に梅爺の生きることが精一杯であった幼児期の体験が人生において無意味であったとは考えていません。死んでしまわない限り『生きる』ための体験で、無意味なものなどはありません。

『ウンベルト・エーコ』は、当時『イタリア』の教養人たちが、どのように『ムッソリーニ』体制に対応してかを書いています。勿論、外国へ亡命した人もいますが、多くは『好ましくない』と感じながら、体制に従ったことになります。

多分、『日本』も同じではないでしょうか。『日本』の場合は、大半の教養人が黙して『体制に従った』のでしょう。

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2016年10月14日 (金)

青木紀久子 室内楽の夕べ(ウィーンの響き)

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10月7日の夕刻、銀座『王子ホール』で、『青木紀久子 室内楽の夕べ(ウィーンの響き)』が開催され、梅爺、梅婆は青梅からいそいそと出かけました。

室内楽でのピアノ演奏を得意とされるプロのピアニスト『青木紀久子』さんは、梅爺の大学時代の合唱仲間の『青木修三』氏の奥様で、毎年ウィーンから共演者を招いて、『室内楽演奏会』を開催しておられます。

演奏メンバーは以下の通りです。

青木紀久子(ピアノ)
クリストフ・エーレンフェルナー(ヴァイオリン)
ヘルベルト・ミュラー(ヴィオラ)
富岡廉太郎(チェロ)

プログラム内容は、以下の通りです。

(1) シューベルト 弦楽三重奏曲 第一番 変ロ長調(1楽章のみ)
(2) モーツァルト ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲 ト長調(全曲)
(3) モーツァルト ピアノ三重奏曲 ハ長調(全曲)
(4) ヘンデル J.ハルヴォルセン:バッサカリアト短調
           ヴァイオリンとヴィオラのための
(5) モーツァルト ピアノ四重奏曲 第一番 ト短調(全曲)

私達が多く接する西洋音楽(クラシック)は、年代順に『バロック音楽』『古典派音楽』『ロマン派音楽』『近代・現代音楽』です。勿論、『バロック音楽』以前にも西洋音楽は存在していましたが、飛躍的に洗練された様式となったのは『バロック音楽』以降のことです。

今回演奏された曲目の作曲家では、『ヘンデル』が『バロック音楽』、『モーツァルト』が『古典派音楽』、『シューベルト』が『ロマン派音楽』に属します。

異なった複数(少数)の楽器で演奏される『室内楽』も『バロック音楽』で洗練された様式が確立し、今日まで継承されてきています。勿論、時代とともに、様式、約束事、それに楽器そのものも進化してきたこと(特にピアノ)は言うまでもありません。大規模な楽器構成で演奏される『オーケストラ』は、『室内楽』から派生したものです。

したがって、私達は『現代の楽器』で演奏される昔の作曲内容を聴いていることになります。この日の演奏会も、そういうことになります。

音楽は、作曲家の個性的な『精神世界』が反映している『楽譜』を、演奏家が自らの個性的な『精神世界』を反映させて『再現』する芸術様式です。つまり『精神世界』の表現が多重に絡み合っています。

人間の『精神世界』は、古代も中世も近世も現代もほぼ変わりがありませんから、音楽様式が変遷したとはいえ、聴衆の『心』に迫ってくるものは同じです。どれが自分の好みに合うかを確認することは自分の『精神世界』を見つめるという点では意味がありますが、どれが優れているかを論ずることはあまり意味がありません。芸術への対応は、自分の好きなものを見つけることでよいのではないでしょうか。他人や評論家の意見は、副次的なものに過ぎません。

この日の演奏会では、プロが演奏する、中世、近世の才能にあふれ特徴のある作曲家の作品をまとめて聴くことができ、『室内楽』の素晴らしさを、再認識し満喫できました。

『王子ホール』の規模も、『室内楽』の演奏に適していて、比較的後方の席でしたが、舞台の演奏に溶け込んで聴くことができました。 

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2016年10月13日 (木)

Hela細胞(4)

『Hela細胞』は、1951年にアメリカ、ボルチモアの『ジョンズ・ホプキンス病院』で亡くなった黒人女性『Henrietta Lacks(31歳、母親)』の『子宮頚ガン細胞』を、生前に採取し、培養増殖することで作られました。『Hela』は、『Henrietta Lacks』から名付けられました。

培養増殖に成功したのは、『ジョージ・ガイ』で、彼はそれ以前20年間『人間の細胞の繰り返し培養増殖』の研究を行っていましたが一度も成功せず、幸運にも『Hela細胞』に遭遇して、初めて成功しました。まさしく研究者としての執念が実ったと言えます。

『Hela細胞』は、それ以降今日まで、増殖が継続していますので、唯一の『ヒト由来の不死細胞』です。これ以外の『ヒトの細胞』では、短期間の増殖例はあっても、『不死細胞』は実現できていません。

『ジョージ・ガイ』の偉い所は、培養増殖の具体的な技法を全て公開し、標準化手順を確立したことにあります。誰が試みても再現できるという、『科学』が必要とする条件を提供しました。『Hela細胞』は、企業によって商品化され、世界中の研究機関や試薬会社に販売されました。現在では、『細胞研究』『新薬開発』などに、欠かせないものとして利用されています。

『ポリオ・ワクチン』の開発などは、『Hela細胞』がなければ実現しなかったといえますから、多くの子供を病魔から守ったということで、人類に偉大な貢献をしたことになります。

一人の若い黒人女性の死は、悲しい出来事ですが、彼女が間接的に人類へ多大な貢献をしたという話は、『メデタシ、メデタシ』で済まされるかと言うとそうはいきません。

彼女の『細胞』を摘出する事実と、その目的について、当時彼女または彼女の遺族に一切の説明や、承諾をえる手続きがなされていません。また『Hela細胞』が量産され、多大な利益を上げた事実も、遺族には報告されていません。勿論利益の一部が遺族に支払われたこともありません。最近になってようやく遺族は、実態を知らされました。

体外へ摘出された、臓器や細胞は、法的に『誰のものか』という問題が議論の焦点です。少なくとも細胞には元の所有者の『DNA』という個人情報が含まれていますから、摘出した途端に所有権がなくなるとは言えません。

『バイオ・ビジネス』が盛んになればなるほど、『ヒトの細胞』を利用する機会が増えますから、この問題は社会の合意を必要とします。『インフォームド・コンセント(事前に説明し提供者の合意を取り付けること)』『インフォームド・チョイス(提供者に対応を選択できる権利を与えること)』などが、現在では行われるようになりつつあります。『Hela細胞』についても、最近、研究機関、企業、遺族の間で話し合いがもたれています。

『精神世界』の価値観では、『人間の尊厳』や『個人の権利』が重要であり、『人間はモノではない』と主張することになりますが、『物質世界』の視点でみると、『ヒト』は『他のモノ』と基本的には変わらない(素材や摂理は共通)という事実が浮き彫りになる典型的な事例です。

『ヒト』は『物質世界』に属し、一方『精神世界』を保有したときには『人』と言う存在になるという両面を理解することが改めて重要であると認識しました。『精神世界』を駆使する『人』は、無限ともいえる魅力や可能性を内包していますが、『生まれる』『生きる』『死ぬ』といった基本的なプロセスでは、『物質世界』の支配から逃れることができません。

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2016年10月12日 (水)

Hela細胞(3)

『ヒト』は60兆個の細胞の集合体として構成されていて、細胞の種類は約200ケと言われています。細胞は、環境から情報や養分を受け取り、個々に生命活動(ミクロにみれば、物理反応、化学反応)を黙々と継続していると同時に、多くは分裂で新旧交代を繰り返しています。まさに眼もくらむような世界が、私たちの中で繰り広げられています。自分の力や意志で『生きている』などというのは思い上がりで、自然の『摂理』によって『生かされている』というのが実態であることに気づきます。

『摂理』は厳然たるもので、『精神世界』の『願い』『期待』『祈り』の対象にはなりませんから、『摂理』を『宗教』が教える『神』とみなすことは無理があります。『精神世界』が『生かされている』ことに『感謝』するのは当然ですが、一方的に『感謝』するに止まるしかありません。

このように、私たちの『命』は、絶え間ない細胞の『生死の繰り返し(分裂再生)』に支えられています。この仕組みが機能しなくなった時に、私たちは死を迎えることになります。

『ヒト』の細胞に含まれる『DNA』『染色体』『ミトコンドリア小容体』には、その人だけの特徴を表す情報が含まれています。これらが保有する『情報』と、環境条件から与えられる『情報』が組み合わされて処理され、必要な物理反応、化学反応が起こります。『細胞』の活動を支えるエネルギーは、『ミトコンドリア小容体』が作り出します。つまり『細胞』は、一つ一つが『発電機能付きで、コンピュータ制御されている工場』のようなもので、これが60兆個協力して私たちの『命』を支えているわけですから、『眼がくらむ』と言う表現が大袈裟ではないとお分かりいただけるのではないでしょうか。

『ヒト』の細胞を、単独に取りだして、再生できる培養環境が実現できれば、それを体内へ再移植することで『不老不死』も夢ではないということになりますが、残念ながらその可能性は見つかっていません。唯一例外的に『Hela細胞』だけが、『繰り返し培養再生』に成功しています。

理由は特定できていませんが、『Hela細胞』が『非情に悪性のガン細胞』で、異常に再生能力が高いからではないかと考えられています。

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2016年10月11日 (火)

Hela細胞(2)

NHKの番組のタイトル『フランケンシュタインの誘惑』は、『科学』には、『善用すれば文明の進化に貢献できるが、悪用すると分明ばかりか人類をも破滅に追いやりかねない事態を招来する闇の側面がある』というメッセージが込められています。

『フランケンシュタイン』は19世紀初頭のイギリスの作家『メアリー・シェリー』の小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』を簡略化したもので、『フランケンシュタイン』は主人公のスイスの科学者の姓です。

主人公は、『理想の人間』の設計図を完成させ、手に入れた死体を使って、『人造人間』を創りだしますが、この『人造人間』が『理想の人間』どころか、人間にとって都合の悪い怪物になるという物語です。

当時の科学知識を反映したサイエンス・フクションとも言えますが、『科学』の闇の部分を『寓話』として指摘した啓蒙の書であると取ることもできます。

この小説の『人造人間』を現代の『ロボット』に置き換えれば、『ロボット』はいつも『鉄腕アトム』のような『正義の味方』とは限らない事はすぐに推測できます。人間に歯向かったり、人間を支配する『ロボット』が登場するハリウッド映画は既に沢山あります。

しかし『科学には闇の側面がある』という表現は、論理的には『真(正しい)』とは言えません。

『科学』が明らかにしてきたのは、『物質世界』を支配する『摂理』であり、『摂理』には『善悪』の概念は適用でしません。『正しいニュートンの法則』『邪悪なアインシュタインの相対性理論』などは存在しません。

『摂理』を利用して『人間』が、新しい『モノ』や『技術』を創出し、それを適用する時に、結果として『都合の良い事態』と『都合の悪い事態』が生じます。多くの場合、どちらかが生ずるのではなく、ある割合で『どちらも』生ずることになります。何事にも『長所、短所』『陰陽』の両面があるからです。『薬』は病気を治癒すると同時に、副作用も起こします。『原子力発電』は、普段は効率の良いエネルギー提供手段ですが、一旦運用に不都合が生じた時には『凶器』に変ります。運用に不都合が生じない絶対の保証はありません。

『科学の闇の側面』は、実は『人の精神世界の闇の側面の反映』と言い換えた方が適切です。

人間が存在しない世界は、『摂理』が存在するだけで、『闇の側面』などは問題になりません。『闇の側面』は、『人間にとって都合の悪い事態』を指していることになります。

『科学』を悪者にする議論は、適切ではありません。反省、配慮すべきことは『人間』の側にあることを知っておくべきです。

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2016年10月10日 (月)

Hela細胞(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映された、科学解説番組『フランケンシュタインの誘惑』を録画して観て、『Hela細胞』というヒト由来の不死細胞の存在を知りました。

『私は文系なので科学に弱い』などとおっしゃる方は沢山おられますが、その様な方でも、科学と無縁では生きていけない社会環境の時代になっています。

『科学』は、『物質世界』を支配する『摂理』を解明し、その『摂理』がもたらす『因果関係』を確認する領域を指します。『科学』がもたらす『因果関係』は、必ずある原因から特定の結果が得られるという『反復再現性』が保証されていますから、『物質世界』の事象に関しては、普遍的に『真偽』の判定が可能です。

厳密にいえば、『科学』が探究対象にしている、『量子物理学』や『分子生物学』のようなミクロな世界では、因果関係が特定できない『不確実』な事象や『突然変異』があることが分かっていますから、『真偽』の判定が可能であると断言することは不適切ですが、少なくとも人間が感知できるマクロな領域の事象については、許される表現です。

何度もブログに書いてきたように、人間の『精神世界』が関与する事象の大半は、『科学』の世界のような『真偽の判定』ができないという、大きな違いがあり、その意味を知っておくことが重要です。これは『精神世界』が個性的で、普遍的な判定基準が存在しないことに由来します。

学校教育で、『正しい答』を言い当てる『テスト』という訓練を繰り返すために、私たちは、どのような問題にも『正しい答』が存在すると、勘違いしがちです。本を読んだり、専門家に尋ねれば『正しい答』が得られると期待しますが、そうはいきません。他人の意見を聴取することは重要ですが、最後は『自分で考え、自分で判断する』必要があります。そしてその『自分の判断』も、論理的に『真である(正しい)』ということにはならないことを認識しておくべきです。『私はこう思う』と主張することは、人間関係を維持するために必要なことですが、それは『私は正しい』と主張することとは違います。

ヒト由来の細胞で、『Hela細胞』という、『不死細胞(いくらでも増殖を繰り返すことができる細胞)』が存在することを初めて知って、驚きました。ヒトの細胞は、ある条件で増殖再生ができなくなるために、『私たちは死ぬ』と思っていましたが、『Hela細胞』に限っては例外であることを知ったからです。

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2016年10月 9日 (日)

都会の生活、田舎の生活(4)

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津軽半島『鶴田町』が平成になってから観光目的で作った『日本一長い木造三連太鼓橋』。吉永小百合のポスター(JR東日本)で一躍有名になった。背景にかすんでいるのは津軽富士『岩木山』。

よほどの山奥の村でもない限り、現在の『日本』の『田舎』は、昔とは環境が一変しています。

交通の大動脈である、『新幹線』や『高速道路』が、『田舎』の中を貫き、国道、県道、村道も網の目のように配置されています。

青森県を旅して、田園風景の中に、立派な『新幹線の駅』が出現し、その周りに小規模ながらホテルやショッピングモールなどができていることを観ることができました。

『自家用車』も普及していますから、移動手段は昔とは画期的に異なっています。勿論、運転ができない人や老人のための交通手段は配慮しなければなりませんが、やがて科学技術は、解決手段をもたらす可能性があります。

『テレビ』の視聴は『田舎』でも可能ですし、『インターネット』『無線電話』の環境も既に整っています。先進国の『日本』ですから、電気、水道などのインフラもほぼ普及しています。

『都会』並みの情報取得環境が既にあり、ほとんどのものは『ネット・ショッピング』で購入できます(宅配システムの利用で)。

どうしても『田舎』では供給できないものに、『教育(特に高等教育)』『医療』施設、文化、スポーツ施設があり、これは『都会』やその衛星都市を利用しなければなりません。

しかし、逆に『都会』では手に入らない、『豊かな自然』『安価で広い土地』などがありますから、『田舎』は短所ばかりではありません。

このような環境が既に存在しているわけですから、『一次産業』の魅力の問題が理解されれば、『都会』から『田舎』へ移住を選択する人は増えるのではないでしょうか。

『一次産業』を魅力的にする『知恵』に、すべてがかかっているように梅爺には見えます。

地方自治体による『村おこし』の自助努力は、勿論大切ですが、『地方再生』は、国家的なビジョンの後押しと知恵で行われるべきです。『地方再生』は日本の『国家像』にかかわる問題なのです。

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2016年10月 8日 (土)

都会の生活、田舎の生活(3)

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全国人気No1のローカル線『JR五能線(ディーゼル車)』

国家を総合的に運営するためには、『一次産業』『二次産業』『三次産業』のバランスを考える必要があります。国民の生活には、どれもが必要であるからです。

このバランスは、国家によって事情が異なるのは当然のことで、『日本』は、その地理的気候的環境、人口、文明のレベルを配慮して、独自のバランスを考えるべきです。これに関して、政治リーダーや官僚は、説得性のあるビジョンを国民に提示して、多数の国民の合意を得る努力をすべきです。

内容が見えない『地方再生』などという、ただのスローガンは意味がありません。

問題は、従来の『一次産業』には、『労力だけが多くて実入り(収入)が少ない』という不利な評価が付きまとっていたことです。若者の田舎離れの主要な原因です。

基本的に『個人事業主』が多い『一次産業』に、従来の対処方法を打ち破る画期的な経営効率の改善を求めても無理があります。『二次産業』や『三次産業』の多くは『会社経営』で、激しい競争の中で(時に国際的な競争の中で)効率の改善や、独自の付加価値を生み出す努力がなされてきました。

したがって、『日本』の『一次産業』を魅力的にする知恵が、国家戦略として必要になります。

今のままでも、知恵のある『一次産業』の事業主は、付加価値や競争力がある生産品を創り出し、高い収益をあげるにちがいありません。しかし、それは一部の知恵者の話で、『日本』の『一次産業』全般をそれに頼るのは、適切な対応とは言えません。

『日本』の『一次産業』を、抜本的に魅力的にするためには、『最新の科学技術』『二次産業で培ってきた高効率、高利益を可能にする経営ノウハウ』を総動員する必要があります。『構造改革』になりますから、多くの法制も見直す必要があるでしょう。魅力的な投資対象にすることが先決です。

勿論、『個人事業主』からは、発想の転換ができずに、既得権を守るための反対意見も出ると思いますが、その人たちをないがしろにするのではなく、納得のいく処遇や利益還元も配慮して説得すべきです。政治家の腕の見せ所ではないでしょうか。経済特区を決めて、『成功事例』を先行させるといった手法も必要かもしれません。

『里山』の一部は、徹底した観光地として残るかもしれませんが、日本の農業の革新は、すべてを『里山』化することではないと、梅爺は推察しています。

『一次産業』が魅力的に変貌すれば、『田舎の生活』自体も魅力的になるのかどうかが次なる問題です。

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2016年10月 7日 (金)

都会の生活、田舎の生活(2)

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本州最北端の『竜飛(たっぴ)岬』にあるモニュメント。赤いボタンを押すと石川さゆりの『津軽海峡冬景色』が大音響で流れる。

現代の日本人の多くが、自らの意思でまたはやむをえない事情で『都会の生活』を選ぶ理由は、以下のように考えられます。

(1)収入を得るための職場がそこにある。
(2)社会インフラ(上下水道、交通機関、警察、消防署など)が効率よく提供されている。
(3)よりよい教育(優秀な学校)が受けられる。
(4)よりよい医療(優秀な病院、医師)が受けられる。
(5)レベルの高い文化、芸術にじかに接することができる。
(6)遊楽の場(歓楽街)やショッピングの場が多く、豊富である。
(7)代々、都会に住んでいる(田舎への移住は敷居が高い)。

一方『都会の生活』で短所となる点は以下のようになります。

(1)経済的に広大な家屋、敷地を保有することは難しく、大家族構成はとりにくい(核家族が大半を占める)。
(2)生活テンポが速く、ストレスも多い。
(3)隣人との絆は希薄になりやすい(自己中心の価値観が強まる)。

生物としての『ヒト』は、『自然との共生』の中で歴史的に進化してきましたから、『土の大地』『森』『海』となじんで生きることに、本能的に強い郷愁を抱いています。

『アスファルト・ジャングル』といわれる人工的な環境を優先するようになったのは、人類の歴史の中では中世以降のことで、特に加速したのは近世になってからのことです。

『経済効率』『生活の利便性』『欲望の充足』などを優先すると、本来人間には不自然な生活環境とはいえ、『都会』中心の国家体制になるのは当然の流れで、よほど『独裁国家』でもなければこの流れは押し戻せません。

問題は、『田舎』が過疎化し、『一次産業(農業、酪農、林業、漁業)』の力が弱まることで、総合的な国家の安泰を考えると、大きなリスクになります。

『経済国際化(グローバライゼーション)』の中で、『一次産業生産品』を頑なに『自給自足』にこだわるのは、得策ではありませんが、そうかといって100%外国からの輸入に頼るというは、賢い選択とは言えません。

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2016年10月 6日 (木)

都会の生活、田舎の生活(1)

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下北半島西岸の名勝地『仏が浦』の奇岩

青森県の下北半島、津軽半島を旅し、『都会』に比べて明らかに人気(ひとけ)が少ない光景に接して、素朴な疑問が脳裏に浮かびました。
 

日本人の生活環境は、『都会の生活』と『田舎の生活』に大雑把に二分されると言ってよいと思いますが、どのような理由で、人はそれを選択をしているのだろうかという疑問です。 

これまた大雑把に人口比をみると、日本では70%近くの人が『都会』に、30%の人が『田舎』に住んでいると言えそうです。 

もっとも、何をもって『都会』と『田舎』を分けるかは、判然としていませんが、『人口密度』を基準に考えると、上記のような比率になります。 

居住面積の比で観れば、逆に圧倒的に『田舎』の面積が『都会』を上回ることになるのでしょう。 

次なる疑問は、国家的な視点で観た時に、このような比率は好ましいのかということです。日本が直面している問題を考えると、『田舎』の人口比を増やす必要があるのではないかという疑問です。 

『個人』が、何故『都会』か『田舎』を優先して選ぶのかという視点と、国家としてどのような人口比が望ましいのかという視点に大きなギャップがあるとしたならば、政治的、社会的問題がそこにあるということになります。 

『田舎』の過疎化が進み、地方行政が成り立たなくなるから自分たちのために『村おこし』を必死に考えるという姿勢と、国家が、国の将来の望ましい形態を模索して『地方再生』を推進しようという姿勢は、一見同じように見えて、本質はかなり異なっています。

『田舎』も自助努力だけでは、『村おこし』は限界がありますから、国家政策としての支援と、そのビジョンに対して国民の多くが賛同する説明を必要とします。

『地方再生』という言葉は、よく聞かれますが説得力のある説明や具体策は、あまり耳にしません。

従来の思考の延長である『経済力強化』のために『地方再生』が必要なのではなく、『人口減少』という現実に対処するための、新しい『経済システム(必ずしも成長路線だけを優先しない)』構築のために、『地方再生』が必要なのではないでしょうか。

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2016年10月 5日 (水)

『恐山(おそれざん)』考(4)

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外輪山、カルデラ湖(有曾利湖)を背景にした『賽(さい)の河原』

『慈覚大師円仁』が1200年前に、『恐山』を仏教の霊場としただけの話で、この地はもっと古くから土着の人たち(縄文人、アイヌ人)にとって既に『霊場』であったのではないでしょうか。

ここを訪れる観光客のほとんどが、そのことにあまり意を払わないことは残念なことです。

アフリカから世界各地へと移動を開始した『現生人類(ホモ・サピエンス)』が日本列島に到達したのは、少なくとも2万5千年程度の昔と考えられています。つまり、『日本』と『人間』の歴史は、それだけの永さを保有しています。

『文字で書かれた歴史資料』『継承された建造物』などで、『日本』と『人間』の歴史を知る手掛かり、情報が急に増えたのは『飛鳥時代』以降のことで、それから現代まで約1500年しか経っていません。

それ以前の『日本』と『人間』の歴史は、『石器時代』『縄文時代』『弥生時代』『古墳時代』などと大雑把な区分けで教わるだけで、『よくわからない』ために軽視されがちですが、2万年以上の『期間(時間)』が存在したことを忘れてはいけません。

現在の私達日本人の、『言葉(話し言葉)』『自然観』『死生観』の中に、日本に住んでいた古代人の『言葉』『自然観』『死生観』の一部が根強く継承されているのではないかと梅爺は推察しています。

仏教以前に、『恐山』は『死者の霊が住まうところ』と考えられていたと言われています。『死者の霊』が、自分たちが住まう里から見える『山』に宿っているという考え方(信仰)は、『遠野物語(柳田國男)』にも記載されています。

四季があり自然が豊かな『日本』に住んだ古代人にとって、自然と『神』を結びつけ『アミニズム』が宗教の原点となったであろうことは容易に推察できます。『山岳信仰』もその一つで、『死者の霊』との結びつきもそこから派生したものなのでしょう。

『空海』『最澄』などの優れたところは、日本の土着の信仰と『仏教』をうまく融和させながら布教したことではないでしょうか。『高野山』『比叡山』などは、『風水思想』で方角などを選んだこともありますが、既に存在していた『山岳信仰』を利用しているように見えます。

『恐山』も、仏教の霊場になっていますが、ずっとそれ以前から『恐山』を崇めていた多くの古代人の生き方に、梅爺は心が惹かれました。

『巫女の口寄せ』も、古代人が『恐山』にきて、『亡くなった人の霊』の『気持ち』を聴くための儀式が行われていたことの名残で、『霊媒者(巫女)』は、当時から重要な役割を演じていたことを示しているような気がします。

古代人も、私達とほとんど変わらない『精神世界』の持ち主であったことを忘れてはなりません。楽しい時に笑い、悲しい時に泣いていました。『亡くなった人を忘れたくない』という気持ちも同じです。私達が異なっているのは、『文明のレベル(特に科学知識とその応用)』だけです。

『恐山』で、古代の日本人をもっと知りたいと梅爺は思いました。

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2016年10月 4日 (火)

『恐山(おそれざん)』考(3)

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子供を抱くお地蔵様、原色のおもちゃの風車が地獄の景色と同居している

『恐山』を有名にしていることの一つは、『巫女(みこ)の口寄せ』です。

『巫女』は『霊媒者』で、『死者の霊』に成り代わって、『死者の気持ち』を残された人たちへ伝えてくれます。これが『口寄せ』です。日本の土着の宗教では、『女性』が『霊媒者』として選ばれていたのではないでしょうか。『卑弥呼』などがそれを想起させます。

『霊媒者』『預言者』は、どの『宗教』にも登場します。『この世』の人たちは、『霊媒者』『預言者』を介して、『神仏の意図』『死者の霊の気持ち』を聴くことになります。

『イスラム教』では、『教祖ムハンマド』は『預言者』とされています。『キリスト教』では、『預言者』であったはずの『キリスト』がいろいろな経緯で『神の子』になってしまったために、『三位一体』などという、難しい説明が必要になったのであろうと梅爺は推察しています。

人間の『精神世界』が考え出した、虚構の概念である『神仏』『天国、地獄』『死者の霊』などは、検証のしようがありませんから、『霊媒者』『預言者』が語ることを『信ずる』行為が、『宗教』では重要な意味を持ちます。

『もっともらしい因果関係』『神仏、霊と人の仲介をする特別の者』を考え出したのも人間の『精神世界』で、見事な発想と言えます。

科学知識が乏しく、周囲の自然界の『摩訶不思議』に見える力で『生かされている』と感じた人類が、『因果関係』をなんとか考えて『安堵』しようとした様が容易に推察できます。そのためには『宗教』『霊媒者』『預言者』は必要であったということでしょう。

一度人類社会に根を下ろした『宗教』が、科学知識が豊富になった現代でも、影響力をもっていることに、『文化の大きな慣性』を感じます。

しかし、『宗教』が提示した『因果関係』の多くは、『科学』によって次々に『偽』であることが判明しました。『天地創造』『アダムとイヴ』は、『ビッグ・バン』『生物進化』とあまりにかけ離れた話です。これによって現代人は、無条件に『信ずる』ことを止め『疑う』気持ちが強くなっています。

『形式的な信仰』は『文化の慣性』のために根強く残っていますが、『疑う心』も芽生えている現代人に『宗教』が今後どのように対応するのかは、梅爺の関心事のひとつです。

『巫女の口寄せ』も、現代人の多くは『半信半疑』というのがホンネのところではないでしょうか。『巫女』が本当の『霊媒者』であるのかどうかは、証明のしようがありません。

『恐山』の仏教関係者は、『巫女の口寄せ』は自分たちの管轄外のこととしています。ごもっともなことで、『巫女の口寄せ』は、日本の土着の宗教、『神道』などに近い様式といえます。

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2016年10月 3日 (月)

『恐山(おそれざん)』考(2)

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境内には、『地獄めぐり』の順路がある

現在の『恐山』は、『恐山菩提寺(曹洞宗)』が管轄する仏教の霊場となっています。平安時代(862年)の開山で、開祖は、『最澄』の弟子『慈覚大師円仁』と伝えられています。

『円仁』が中国に留学し、修業中に見た夢のお告げに導かれ、帰国後諸国を巡った後に、『恐山』を見出し、『地蔵菩薩』本尊としたという話が伝承されています。

どの宗教でも、『夢のお告げ』『天使(大天使)との遭遇』『聖母マリア降臨との遭遇』などという、一般には検証のしようがない『特定の人物の特別な体験』が、重要な役割を演じています。

信仰心の薄い梅爺は、畏れ多くもこれらは、人間の『精神世界』が関与し、創造された『虚構』と考えています。どのような『虚構』でも創造できるのが『精神世界』の特徴の一つです。『虚構』を『真実』と信ずることが『宗教』の原点です。信ずることが『心の安らぎ』をもたらしますから、それが最も大切なことで、『虚構』か『真実』かは二の次ということになるのでしょう。

梅爺も『夢でお告げを受けた』と主張して、『梅爺教』の開祖になれるのかもしれませんが、人徳がありませんから到底信者が集まるとは思えません。

『恐山』の光景は、仏教の説く『地獄』を想起させます。『恐山』の入り口には『三途(さんず)の川』もあり、小さな橋がかけられています。

梅爺は、死後でないと渡れないはずの『三途の川』を渡り、30分程度の速足で『地獄』や『賽(さい)の河原』を巡り、この世へもどってくることができました。

これからは、誰かに『地獄へ落ちるぞ』と脅かされても、『30分で抜け出せる』と反論できます。

これは冗談で、『地獄』『三途の川』などは、『精神世界』が考え出した『虚構』であるとすれば、得心がいくだけのことです。

『大町桂月』は、『恐山 心と見ゆる湖を 囲める峰も 蓮華なりけり』と歌っていますが、これも『精神世界』がつくりだす表現(虚構)で、『真偽』を議論する対象ではありません。

硫黄臭が漂う、岩場に、『水子』や『幼子(死者)』の霊を慰めようと、原色のおもちゃの『風車』が手向(たむ)けてあり、これが『カラカラ』と音をあげている様は、一見不釣り合いであるように見えて、『親の悲しい弔いの心』が、妙に切なく伝わってきます。

私達は、周囲の『物質世界』を、自分の『精神世界』の目で観ていることを実感できる場所でもあります。

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2016年10月 2日 (日)

『恐山(おそれざん)』考(1)

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恐山菩提寺

9月25日から27日まで、梅爺と梅婆は、旅行会社が提供する『津軽、下北半島をめぐるツアー』に参加しました。
 

この季節心配な台風などの影響もなく、まあまあの天候に恵まれて、観光、温泉(薬研温泉、大鰐温泉)を楽しむことができました。 

人気のローカル鉄道路線(JR五能線)への乗車、『吉永小百合』さんを起用した観光ポスターで有名な『鶴の舞い橋(日本で一番長い木造太鼓橋)』の観光などがコースに含まれているために、ツアー参加者も多く(70人強)、大型バス2台という盛況でした。 

『津軽半島』『下北半島』を訪れるのは、これが最初ではありませんが、大都会東京の郊外都市『青梅』に住んでいて、その環境を当り前なものとして受け止めていた梅爺にとっては、訪れた青森県の田舎の人気(ひとけ)の少ない風情は、周囲の風景を『日本の原風景』と讃えてみても、『このまま推移すると日本はどうなるのだろうか』と考えさせられました。 

『二次産業(工業)』や『三次産業(サービス)』を効率よく展開しようとすると、大都会とその衛星都市を中心とした国家形態が主軸になり、人口もそこへ集中することになります。日本は、まさしくこのパターンで、先進国の一員になりました。 

このパターンでは『一次産業(農業、漁業、林業)』は衰退し、従事する人も少なくなり、利用されていた国土が、管理されない放棄された場所になってしまいます。 

日本は狭い、小さな『国』であると言いながら、ほとんどの『国土』は、総合的に有効活用されているとは言えない状態にあります。現状の経済の仕組みの中で、活用と収益が結び付かないからです。 

『経済の伸長』と『人口の伸長』が同期していた時代は、終わりを告げました。2050年をピークに世界の人口は減少に転ずると予想されていますが、日本はすでに先行して人口減少が始まっています。 

大都会とその衛星都市を中心とした日本の国家形態は、『人口減少』を既成事実とする新しい経済環境では、従来同様に維持できるとは思えません。 

青森県の下北半島、津軽半島をめぐってみて、『村おこし』『地方再生』などの掛け声だけでは、新しい経済環境に対応できる『日本』は実現できないのではないかと、心配になりました。 

これに関する考察は、別のブログタイトルでご紹介するとして、今回のツアーで最も梅爺の興味を惹いた『恐山(おそれざん)』について感想を述べたいと思います。 

『恐山』は、下北半島のほぼ中央に位置する、『高野山』『比叡山』に並ぶ『霊場』として名高いところです。外輪山で囲まれた『カルデラ湖』である『有曾利湖(うそりこ)』に隣接した場所で、火山の火口付近といえる場所にあります。しかし、噴火は1万年以上前のことで、歴史書や伝承に記録は見当たりません。多分縄文人が体験した噴火であったのでしょう。『有曾利湖』の『うそり』は、アイヌ語の『うしょろ(窪地)』が転じたものと考えられています。

『恐山』の、『地獄』を想起させる冷えた溶岩でできたごつごつした岩山、強い硫黄の臭いがするガスや熱水の噴出は、たしかに『地獄』を想起させるものがあります。

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2016年10月 1日 (土)

『精神世界』のおさらい(10)

最後に『精神世界』の本質(5)について解説します。

(5)何にも束縛されない自由な発想ができる(どのような虚構も創りだせる)。

このことは、『物質世界』との違いとして理解することが重要です。云いかえれば『物質世界』に存在する事象は、『ビッグバン』とその後の宇宙の変容で創りだされた限定された素材だけで構成され、『摂理』に支配されるという制約を受けます。

『物質世界』に『空飛ぶ蛇が存在する』という『仮説(命題)』は唱えることができますが、『浮力を産み出す構造はどうなっているのか』『エネルギー源として何を利用しているのか』などを合理的に説明できなければ、『命題』は『真』であると証明できません。何よりも『空飛ぶ蛇』が実際に発見されないかぎり、その『仮説』は『定説』になりません。

一方、『精神世界』では、『素材』や『摂理』の制約なしに、どのようなことでも自由に発想できます。そのように創りだされた『虚構』について、多くの場合『物質世界』のように実態があるものかどうかの『証明』を求められることもありません。『精神世界』では『桃から生まれた桃太郎』『竹から生まれたかぐや姫』がいてもかまいません。

『桃太郎』や『かぐや姫』は、『作り話』であると誰もが理解しているから当然ではないかとご指摘があるかもしれません。

それでは、『神』『仏』『悪魔』『悪霊』『天国(極楽)』『地獄』『冥界』はどうでしょう。これらは『桃太郎』『かぐや姫』と異なり、どこかにそのような実態が本当に存在するといえるものなのでしょうか。

梅爺は、『精神世界』の本質を考える過程で、『神』『仏』『悪魔』『悪霊』『天国(極楽)』『地獄』『冥界』は、人間が『精神世界』で発想した『虚構』ではないかと思いつきました。『虚構』であれば、『神のからだはどのような素材で構成され、活動のエネルギーはどこから摂取しているのであろう』などと追及する必要がなくなります。現にそのような議論がなされるのを聞いたことがありません。

勿論、梅爺の考え方も『仮説』ですから、このままでは証明にはなりませんが、周囲の事象を観察してみて、今のところ矛盾に遭遇しませんので、自分では大いに納得しています。逆に、『神』『仏』『悪魔』『悪霊』『天国(極楽)』『地獄』『冥界』は『虚構』ではないという主張の方が、苦しい説明を求められるのではないでしょうか。

梅爺の『仮説』に従えば、『神が人間を創ったのではなく、人間が神という概念を創った』という畏れ多い結論になります。そして『物質世界』には実態として『神』は存在しないという推定になります。

誤解が無いように申し上げれば、『神』という概念は『虚構』であるから『意味が無い』と梅爺は考えていません。人間は『生きる』上で必要であるから『虚構』を思いついたのであって、その大元は『安泰を希求する本能』であろうと思います。『神』を『信ずる』ことで、『心の安らぎ』が得られることを『精神世界』が『体感』させてくれるからです。

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