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2016年9月30日 (金)

『精神世界』のおさらい(9)

以下に本質(4)について解説します。

(4)具象概念ばかりか抽象概念も認識することができ、他人とも共有できる。

『精神世界』を構成する要素の一つが『情』ですから、これを表現する方法として『抽象概念』の利用を『脳』の進化はもたらしました。

当然のことながらある『抽象概念』は、その反対の情感と対(つい)をなしますから、『善悪』『美醜』『苦楽』『好き嫌い』などと『対表現』が用いられます。

これらの『抽象概念』は、人間の『精神世界』でのみ意味があるものです。『美しい花』『忌まわしい地震』『崇高な日の出』などの表現は、人間だけに通用するもので、『物質世界』には、ただ『花』や『地震』や『日の出』が存在するだけです。『物質世界』と『精神世界』を区分けして、混同しないようにすると、多くのことが『なんだそういうことか』と観えてきます。

『物質世界』の事象は、『摂理』を利用して、普遍的に『真偽』の判定が可能ですが、『精神世界』で『情』が絡む認識事項については、普遍的に判定する基準がありません。

勿論、梅爺は、『善悪』『美醜』『苦楽』『好き嫌い』の判定を個人的に行いながら生きていますが、それはあくまでも梅爺の判定で、他の方の判定内容と同じとは限らないという意味です。逆説的になりますが、普遍的な判定基準がないからこそ、梅爺は自分の『立場』を表明することは、人間関係を維持するために意味があります。『私はこう思う』と主張することは『私が正しい』と主張することとは異なります。しかし、梅爺の周囲の方は誤解され、『あいつは自己主張が強い』と非難されることが多く、ほとほと閉口しています。

『普遍的な判定基準が無い』と言う表現は、極めて論理的な主張ですから、多くの人達の判定内容は類似しているということを否定するものではありません。『人を殺すことは善くない』と多くの方が主張しますが、『死刑』を認めるかどうかでは意見が分かれたりします。『類似している』ことは論理的に『同じ』とは言えないという意味です。

人間同士、『精神世界』の表現である『抽象概念』を共有できますが、その判定基準は同じではないと認識することが重要になります。このことを受け容れ、他人の『違い』に寛容であれば、多くの諍(いさか)いはなくなります。

『平和』は、人類が一色になることではなく、『違い』を認め合うことで達成されるということに他なりません。『自分が正しい。自分と同じように考えない人は認めない(抹殺する)』という主張が横行する限り『独裁者』『独裁政党』は後を絶たず、『イデオロギー』や『宗教』が原因の諍いや殺し合いもなくならないことになります。

梅爺でも思いつくような、こんな簡単な話が、何故人類の共通認識にならないのかが不思議でなりません。

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2016年9月29日 (木)

『精神世界』のおさらい(8)

以下の(3)の本質について、解説します。

(3)情と理という二つの機能の絡み合いで成り立っている。情が関与することには普遍的な判定基準が存在しない。また随意と不随意という両面がある。

『精神世界』は、『情』と『理』、『随意』と『不随意』の絡み合いで構成されています。『情』は『楽しい』『嬉しい』『悲しい』『寂しい』などの『情感』のことで、『理』は『因果関係を推論する』ような理的思考行為を指します。

『随意』は、意識的な行為で、『不随意』は自分の意志では制御できない行為のことです。不意に『感動する』『悲しさに襲われる』、眠っている時に『夢を見る』などが『不随意』の例です。『不随意』は『無意識』の行為ともいえますから、まるで自分の中にもう一人の知らない自分がいるようなものです。私たちは『自分のことは自分が全て分かっている』と勘違いしがちですが、本当は『知らない自分に戸惑ったり、驚いたり』しながら生きています。

『精神世界』が『情』と『理』、『随意』と『不随意』で構成されているのも、『脳』の進化と関係しています。生物は本能的に周囲の事象が自分にとって『都合の良い』ことか『都合が悪い』ことかを判断します。人間もこの習性を継承しています。判断は、多くの場合咄嗟におこなわれますから『不随意』な行為で、判断が適切であるかどうかを『理』で検証する前に行われます。顔へ向かってボールが飛んで来ることを察知すれば、私たちは無意識によけようとしたり、顔を手で覆って防御しようとします。

『脳』の進化の過程では『情』を司る部分が先にでき、後に『理』を司る部分が追加されたと考えられます。

『危険』『不安』を感じた時、逆に『安泰』を感じた時に、『脳』にはそれに相当するホルモンが分泌され、『悲しい』『寂しい』、または『楽しい』『嬉しい』という『情感』を誘起します。これを私たちは『情』と感じていることになります。ホルモンはやがて消失しますから、『情』はいつまでも継続はしません。このことも生きる上では重要な意味を持っています。

『情』は人間らしさを象徴する崇高なものでもありますが、生物学的には『安泰を希求する本能』の存在を間接的に示しているものとも考えられます。

『情』に関する厄介なことは、『精神世界』が個性的であるが故に、普遍的な判定基準が存在しないことです。同じものを見ても『美しい』と感ずるレベルに差があったり、中には『美しい』と感じない人もいたりするからです。

『精神世界』で『情』が絡む判断に関しては、普遍的な判定基準がないということを知って梅爺も最初は戸惑いました。これを認めてしまうと『世の中のことの大半は、善悪の判断さえできない』ということになるからです。

しかし、冷静に考えてみると、これは受け入れざるを得ないことだと思うようになりました。そう考えた方が、矛盾が少ないからです。

『自分の考え方』や『神の御意志』を、普遍的に正しい判断と勘違いすることが、人間社会に多くの悲劇や混乱を創りだしているように見えるからです。

普遍的な判定基準が無くとも、私たちは生きるために判断して前に進む必要があります。そこで『精神世界』は『信ずる』という行為を編みだしました。

何が正解か分からない状況で、前へ進むということが『生きる』ことですから、『信ずる』ことは必須の行為になります。

難しいことではありますが、『信じた』ことが『正しい』かどうかは『分からない』ということも『理』でわきまえておく必要があるということです。

『信ずる』ことは人間である以上避けられませんが、それを『正しい』と主張することは慎重であるべきです。

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2016年9月28日 (水)

『精神世界』のおさらい(7)

『精神世界』の本質は、以下のようにまとめることができます。 

(1)安泰を希求する本能に支配されている。
(2)個性的で常に変化している。
(3)情と理という二つの機能の絡み合いで成り立っている。情が関与することには普遍的な判定基準が存在しない。また随意と不随意という両面がある。
(4)具象概念ばかりか抽象概念も認識することができ、他人とも共有できる。
(5)何にも束縛されない自由な発想ができる(どのような虚構も創りだせる)。
 

(1)については既に詳しく説明しました。(1)から(5)までの全ての本質要素は生物進化、とりわけ『脳』の進化が関与しています。(2)~(5)までについても説明したいと思います。 

(2)個性的で常に変化している。

生物進化の過程で『両性生殖』の仕組みが継承されてきたことに由来します。受胎時に、父親と母親の遺伝子が関与し、偶発的な組み合わせで子供の遺伝子が決まることになります。人間の遺伝子は3万個程度の異なった要素で構成されていますから、子供に継承される遺伝子は、『指紋』と同じように、一人一人異なったものになります。容姿が異なるのはそのためです。子供が親に『似る』確率が高いのは当然ですが、親と『同じ』になることはありません。 

当然『脳』も一人一人異なります。生命維持に関与する原始的、生理的な『脳』の部分は、誰もが類似していると言えますが、『認識』『記憶』『推論』などを行う『脳神経細胞ネットワーク』のパターンは、個性的な構成になります。『脳神経細胞』は140億個ほどあり、その連携パターンは、先天的要素(遺伝子)と後天的要素(生後の環境刺激から得られる経験)で決まりますから、更に複雑な様相を呈します。一卵性双生児の『精神世界』でさえも、微妙に異なるのはこのためです。 

更に『生きている』過程で、私たちは新しい外部情報を摂取し続けますから、それによって『脳神経細胞ネットワーク』は常に変化しています。新しい体験で価値観が変わることも珍しくありません。梅爺のような年寄りは『老化』で『脳神経細胞ネットワーク』の機能が劣化したりしますから、これまた変化の要因になります。梅爺の『精神世界』は、厳密に言うなら若い時と現在では別人のように異なっています。 

『精神世界』が個性的であるということは、同じ事象を体験しても、誰もが同じように理解したり、考えたり、感じたりしないということを意味します。食べ物の嗜好、美意識、倫理観などの違いを考えれば、ご理解いただけるでしょう。

このように個性的で、しかも絶えず変化している『精神世界』の持ち主(個人)が寄り集まってコミュニティが形成されるわけですから、コミュニティの運営が困難を極めるのは当然のことです。人類は、コミュニティの運営を円滑にするための『知恵』を模索し続けてきていますが、決定的な『方法』を見出していません。

個人の個性的な価値観を放置すれば、コミュニティはまとまりがつかなくなりますから、コミュニティには『約束事』が必要になり、個人はその『約束事』を遵守(じゅんしゅ)することを強いられます。『法』『道徳』『倫理』などの概念を人類は考え出し、コミュニティの『約束事』としてきました。しかし、『法』『道徳』『倫理』は、特定のコミュニティの『約束事』であり、普遍的な尺度にはなりません。『イスラム国』『北朝鮮』にも『約束事』があります。

『宗教』は、コミュニティの価値観を統一する手段であり、『イスラム社会』は現在でもこの色彩が強いのはご存知の通りです。しかし『信教の自由』を認めるコミュニティでは特定の『宗教』が規範にはなりません。

歴史上、種々の政治システム(イデオロギー)や経済システムが登場しましたが、どれも決定的な『方法』とは言えません。

『平和を求めながら、なぜ人類は諍(いさか)いや戦争を繰り返すのか、人類はなんと愚かなのか』と嘆く方が多いのは分かりますが、『愚か』にみえることの真因は、『人間の精神世界が宿命的に個性的にできている』ことにあると、指摘する方があまりおられないのは残念なことです。

戦争などを持ちださなくとも、『夫婦の諍い』『友人との仲たがい』など、私たちは日常的に、『個性的な精神世界』の問題を体験しています。難しいことではありますが、一人一人が『異なっている』ことを先ず認めることが全ての始まりではないでしょうか。価値観が共有できることはむしろ幸運であり、普通は異なるのが当たり前なことだと受け容れる必要があります。

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2016年9月27日 (火)

『精神世界』のおさらい(6)

人間は、進化した脳を駆使して、高度な『言語』によるコミュニケーションの方法を獲得しました。 

人間以外の動物も、コミュニケーションの方法は保有していますが、人間の『言語』に比べると、『情報交換の質、量の度合』において原始的なレベルに止まっているように見えます。 

人間にとって『言語』は、自分の『精神世界』を表現する代表的な手段ですから、『言語』の進化によって、『精神世界』も進化したと考えられます。 

勿論、『精神世界』を表現するのは『言語』だけでなく、『しぐさ』や『顔の表情』などもあります。これらは『生物進化』で継承してきた原始的な表現手段ですから、他の動物と類似しています。逆の云い方をすれば、人間の遠い先祖は他の動物と共通であるということを示しています。 

人間は『言語』の他に、『絵』『造形』『音』なども『精神世界』を表現する手段とするようになり、これは後に『文学』『絵画・彫刻』『音楽』などという『芸術』というジャンルを確立する基盤になりました。 

『化粧をする』『お面をかぶる』『装飾具を身につける』『着飾る』などという行為も、動物としては人間だけが保有する『精神世界』の表現手段です。 

これらを総合して考えると、人間は、自分の『精神世界』を『表現したい』という基本的な欲求を有しているのではないかという推察できます。この欲求の大元は何かと梅爺は考え、それは『安泰を希求する本能』ではないかと思いつきました。 

生物として、生き残るために一番重要なことは、『安泰』を選択することですから、『生物進化』の過程で『安泰を優先する本能』が強い遺伝子を持つものが残り、この本能は人間にも継承されてきたという推定です。

『精神世界』の根底に『安泰を希求する本能』があるという推定は、梅爺の『仮説』ですが、こう考えると人間の習性の大半が矛盾なく説明できますから、大いに気に入っています。

『精神世界』を表現することが何故『安泰』に起因しているかを知るには、『精神世界』が個性的であることと、人間が『群をなして生きる』習性を選択したことの二つを結びつけて考える必要があります。

人間は、『他人は自分と同じように考えたり感じたりしていないらしい』ことに薄々気づき、そのままでは、群のなかの『絆』は保てないという『不安』に駆られ、なんとか『自分を表現』し、『相手の表現』を読み解こうとしたに違いありません。現在でも幼児が『言語』を習得していく過程を観ていると、そのことの名残りを感じます。

『孤独』が人間にとって一番深刻な不安のストレスであることも、このことを裏付けています。『自分を表現』し『相手の表現』にも接する環境にないと、人は『絆』を失い、『安泰』が脅かされるからです。

『宗教』や『芸術』といった、崇高なレベルに進化した世界も、元はと言えば『精神世界』の『安泰を希求する本能』から発したものだと考えると梅爺には納得がいきます。『生物進化』の知識がなければ、このような『仮説』は生まれません。学際的に検証する時代になったというのは、このようなことを意味します。

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2016年9月26日 (月)

『精神世界』のおさらい(5)

138億年前の『ビッグ・バン』で、『宇宙』という『物質世界』が出現し、その後の絶え間ない『変容』の中で、『地球』『生命』『人間』が出現し、その『人間』の進化した『脳』が『精神世界』という『物質世界』とは別の仮想世界ともいえるものを産み出したという『考え方』を梅爺は受け容れています。

生きている『人間』を総合的に理解するには、『物質世界』に属する『肉体』や『脳』のことを知る必要があると同時に、『心』が属する『精神世界』のことも知る必要があります。

云いかえれば、『物質世界』と『精神世界』の違いを理解しないと『人間』は理解できないことになります。梅爺が気づいた最大の違いは、『物質世界』の事象は『真偽』の判定が普遍的に可能であるのに対して、『精神世界』の事象にはそのような基準が存在しないということです。何故『精神世界』には、普遍的な判断基準がないかという理由は、追々説明したいと思います。

ここ100年間程度の短い期間に、人類の『物質世界』に関する理解(科学知識)は格段に進みました。勿論、『物質世界』には、まだ『分からない(因果関係を特定できない)事象』が沢山ありますが、それは、全ての『摂理』が分かっていないからで、やがては解明できる可能性があると、科学者たちは推定しています。つまり、『物質世界』には、論理的に『神秘』や『奇跡』は存在しないと推定しています。

『物質世界』と『精神世界』が『地続き』である以上、『精神世界』のことを解明するためにも、最新の科学知識は重要な役割を演じます。科学知識を駆使できるのは現代人の特権で、私たちは2500年前の『釈迦』の時代、2000年前の『キリスト』の時代の人達とは、異なった検証が可能であるということです。

昔の人達が、限られた知識の中で『物質世界』や『精神世界』の事象を、どのように理解しようとしたかを知ることは、無意味なことではありませんが、その内容を、新しい知識で検証し、新しい判断をくだすことも重要です。

『精神世界』が大きく関与する『哲学』『宗教』『芸術』の分野でさえも、科学知識による検証の対象になる時代になりつつあると言えます。学際的な検証で、あらゆることが従来とは異なった観方で見えてくるのではないでしょうか。

学際的に『人間』を探究すると、『人間』の素晴らしい側面が新たに見えてくるかもしれませんが、従来『当たり前として受け容れていたこと』を否定しなければならない事態が生じたり、『人間』のおぞましい側面が露(あら)わになったりする事態が生じたりするかもしれません。

しかし、それを乗り越えて『人間』は新しい時代を迎えるのではないでしょうか。『人間』には、そのような資質があると梅爺は期待しています。

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2016年9月25日 (日)

『精神世界』のおさらい(4)

私たちが『生きている』のは、『物質世界』の『摂理』が『命』という仕組みを機能させるように、絶妙に関与しているからです。 

何故『物質世界』に『命』という仕組みが出現したのかは、詳細には分かっていませんが、極めて偶然な『変容』の産物であろうと考えられています。 

『物質世界』は、『摂理』による絶え間ない『変容』が継続しているだけで、『目的』『あるべき姿』『理想』などは存在しないと既に書きました。この理解は、極めて重要で、受け容れてしまえば、『何だそう云うことか』と色々なことが理路整然と観えてきますが、多くの方は、この考え方に最初は戸惑われます。 

何故ならば『精神世界』では、『目的』『あるべき姿』『理想』という概念が非常に重要な意味を持つからです。『精神世界』の根底にある『安泰を希求する本能』にとって、『目的』『あるべき姿』『理想』へ向かうことこそが『安泰』を得る最善の手段であると推測できるからです。 

このことから、『物質世界』も何らかの『目的』に向かって変化しているのであろうと多くの方が推測します。しかしこれは『精神世界』における推測であって、『物質世界』には当てはまらないと梅爺は考えています。そう考えれば『物質世界』の事象は全て矛盾なく受け容れることができるからです。

『物質世界』にも『目的』『あるべき姿』が存在するという説明に、『神による天地創造、神による全ての支配』が使われます。人類は数千年にわたってこの『考え方』を継承してきて、今でも多くの方々が『信じて』おられます。『神の意図』という『目的』や『理想』が世界を支配していると仮定すれば、『分からないことは全て神の御意志』とすることで『精神世界』での『得心(安泰)』が得られるからです。 

しかし、『神』が世界を支配しているならば、何故大きな自然災害で多くの善良な人達の命が失われるようなことが起こるのか、という素朴な疑問が生じます。『慈悲深い神』が何故『善良な人達の命を奪う』ような災害をもたらすのかと信仰厚い人でも悩むことになります。そして『神の御意志は人智を越えている』などと無理な説明が登場したりします。 

梅爺は、『物質世界』は『摂理』に従って『目的』のない『変容』を繰り返しているという考え方を受け容れて、上記のような疑問は消え去りました。『物質世界』は人間の願いや祈りと無関係に『変容』しているだけで、『変容』には人間にとって都合の良いものと都合の悪いものがあるにすぎないと考えれば、疑問はなくなります。

『人』の『精神世界』は、生き残りの確率を高めるために、周囲の事象を自分にとって『都合の良いこと』『都合の悪いこと』に区分けをする判断を先ず行って対応します。『人』は科学技術などを利用して、『物質世界』にある限られた範囲の『都合の良い事象(変容)』を創りだすことは可能ですが、自然界の『変容』の大半は、人間の都合などとは無関係に起きています。

『医療』で少し寿命を延ばすことはできますが、『摂理』が関与して起こる『死』という『変容』は誰も逃れることができません。『死』は人間の『精神世界』にとっては最も『都合の悪い事象』ですが、『物質世界』の視点で観れば一つの『変容』にすぎません。

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2016年9月24日 (土)

『精神世界』のおさらい(3)

『物質世界』と『精神世界』は『地続き』であるということは、もう少し丁寧に説明しないと分かり難いでしょう。

『精神世界』は人間の『脳』が作り出している世界ですが、『脳』を構成している素材や『脳』を機能させているしくみは、『物質世界』の素材、『摂理』そのものであるということです。ミクロに観察すれば、脳神経細胞の活動は、一般的な物理反応、化学反応を利用した変容に過ぎません。つまり『脳』そのものは『物質世界』に属する『モノ』に過ぎません。

『脳』と『精神世界』の関係は、『ピアノ』と『音楽』の関係に類似しています。『ピアノ』は『物質世界』に存在する素材だけでできていて、『音』を発する仕組みは『物質世界』の『摂理』を利用しています。つまり『空気の振動の伝播』という物理現象に過ぎません。

しかし、『ピアノ』が奏でる『音楽』は、マクロにとらえれば人間の『精神世界』が創造した抽象的な『虚構』であり、『物質世界』が変容の中で発生させている『音』とは存在意義が全く異なったものです。

『森の中の木々を揺らす風の音』『岸辺に寄せては返す波の音』は、『物質世界』の変容が作り出す『音』で、仮に『物質世界』に人間が存在しないとしても、発生しているにちがいありませんが、『ショパンのピアノソナタ』は、『物質世界』に自然には存在しません。『音楽』は『精神世界』が創りだした『虚構』であるというのはそう云う意味です。

これは、『絵具』と『絵画』、『本』と『文学』の関係と同じです。『絵画』『文学』という『芸術様式』は、『絵具』『本』という『物質世界』の素材や摂理を利用した『モノ』があって産み出されるものですが、『芸術作品』は、『精神世界』の『虚構』という別物になっています。人間のいない『物質世界』には『芸術作品』は存在しません。

『物質世界』に属するものとして『ヒト(肉体)』や『脳』が存在し、そう云う視点で観れば『人間』は他の生物と何ら変わりがありません。人間の『脳』が、広大な『精神世界』を産み出すまでに進化したことが、『人間』を他の生物と異なった存在にしているといえるかもしれません。

『物質世界』と『精神世界』が『地続き』であるということは、『物質世界』の摂理が機能しなくなった時に、『精神世界』も機能を停止することを示唆しています。『肉体や脳の死とともに精神世界は消滅する』という結論を受け入れざるをえないと梅爺は考えるようになりました。

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2016年9月23日 (金)

『精神世界』のおさらい(2)

梅爺が『尺度』に行き着くために、放浪した分野は、『宇宙』『生命』『脳科学』『生物分子学(遺伝や細胞)』『生物進化』『人類学』『考古学』『日本史』『世界史』『個人の伝記』『宗教(教義)』『芸術(特に音楽)』『哲学』『スポーツ』と、まさに種々雑多です。 

間接的には、好きな『テレビ番組の視聴』、好きな作家の『著作読書』も、『尺度』の形成に役立っています。 

『尺度』に関する考え方がまとまりだしたのは、『宇宙』『生命』『生物進化』『脳の機能』がつながって見え始めてからです。 

『宇宙』に代表される『自然界』を、梅爺は『物質世界』と名付けることにしました。『物質世界』は138億年前の『ビッグ・バン』で始まり、その後『宇宙』は『膨張』を続けています。何故『ビッグ・バン』が起きたのかについて、科学は解明しきっていませんが、『ビッグ・バン』以降起きた事象については、ほぼ矛盾なく説明できることが判明しています。 

『ビッグ・バン』で出現した『物質世界』は、時間と空間を保有しており、出現した『素材(素粒子、ダークマター、ダークエネルギー)』を基に、『物質(元素や元素の結合)』『星』『ブラックホール』『銀河』が形成されていきます。逆にいえば『物質世界』に存在しうるものは、すべてこの『素材』『物質』で構成されていなければなりません。約40億年前に『地球』に出現した最初の『生命体』も、その後進化して出現した『人間』も、『物質世界』に存在する『素材、物質』だけで形成されています。 

『物質世界』は、『ビッグ・バン』以降、マクロに観れば『膨張』を、局部的に観れば『変容』を続けています。『変容』は、局部的な『歪み』『物質分布のムラ』などを、解消しようという動きであり、専門用語を使えば『新しい平衡状態への動的移行』ということになります。この『変容』は、『物質世界』に存在する普遍的なルールによって起こります。このルールを梅爺は『摂理』と呼ぶことにしました。『物質世界』には、人間にとって重要な概念である『目的』『あるべき姿』『理想』は存在しません。偶発的ともいえる絶え間ない『変容』があるだけです。 

ニュートン、アインシュタインなどの科学者によって、既に多くの『摂理』の存在を明らかになっています。しかし『物質世界』を支配する全ての『摂理』が判明しているわけではありません。科学者が最後に遭遇する難問は、『物質世界には何故摂理が存在するのか』でしょう。この問いに答える手掛かりさえもまだ見つけていません。『摂理』があることで起こる事象は、説明できますが『何故摂理が存在するのか』は皆目分かっていないということです。

科学者は、『物質世界』には未だ『分かっていない』ことがあることは認めますが、それを『神秘』『奇跡』『神の御業(みわざ)』として追求を止めることはしません。つまり『物質世界』には『神秘』『奇跡』は無いという前提で、『摂理』を明らかにしようとします。

梅爺は、『物質世界』と、人間の脳が創りだす『精神世界』とを対比させて周囲の事象を観る方法を見つけました。これが『尺度』の原点です。

重要なことは、『物質世界』があって『精神世界』が存在するということで、これを『地続き』としてとらえています。『精神世界』が存在しない『物質世界』は存在しますが、『物質世界』なしでは『精神世界』は存在しないという考え方です。

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2016年9月22日 (木)

『精神世界』のおさらい(1)

8年以上ブログを書き続けて、梅爺の一番の収穫は、周囲の事象を観る時の、自分なりの『尺度』がある程度確立したことです。

『尺度』を確立しようとして、ブログを書き続けたわけではなく、興味の赴くままに色々な『疑問』に対して『本質はこういうことではないか』と、自分の考えを文章として表現している内に、個々にバラバラであった考え方がつながりだし、結果的に『尺度』らしいものが見えてきたというのが真相です。

すこし気取った云い方をすれば、地図の無い世界を『知的冒険』している内に、地図らしいものが見えてきたということになります。

学生時代、サラリーマン時代に、勿論『勉強』をしたり、『体験』をしましたが、リタイア後の現在のように、ゆったり全貌を鳥瞰する余裕がありませんでしたから、その都度勝手な『尺度』を持ちだして、事態に対応し判断していました。つまり自分の『尺度』を持ち合わせていなかったということになります。

もし、若いころに現在のような自分の『尺度』を手に入れていたら、またはこのような『尺度』の存在を教えてくれる方がおられたら、梅爺の人生は大きく異なったものになっただろうと、ちょっぴり残念な気がします。

しかし、余世が短いとはいえ、とにかく自分の『尺度』らしいものを得ることができたのは、蒙昧のまま死ぬよりはましだろうと、自分に言い聞かせています。

この『尺度』は、梅爺にとっては極めて得心のいくものなのですが、他の方にどのように受け止められるのかは、梅爺には分かりません。つまり、梅爺には、矛盾が少ない重宝な『尺度』なのですが、普遍性のある『尺度』であると、主張することは避けるように心がけています。

『普遍性がある』と主張することは慎重でありなさいと、梅爺の『尺度』が指し示すからです。

梅爺の『尺度』の内容を公開し、それへの批判も含めて他の方がご自分の『尺度』を確立されるならば、望外の喜びですから、しつこく『尺度』に触れてきました。

今回は、『尺度』をあらためて『おさらい』しなおして、本当に矛盾が無いのかを自分で再確認するのが目的です。

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2016年9月21日 (水)

Jam tomorrow and jam yesterday, but never jam today.

英語の諺『Jam tomorrow and jam yesterday, but never jam today.』の話です。

文法と単語だけで、これを訳そうとすると『jamするなら明日か昨日にしなさい、今日は絶対やめておきなさい』となります。これでは全体の意味が推察できませんので、辞書で『jam』の意味を確認してみても、結局文意は見えてきません。

『jam』は、食品の『ジャム』の意味とすると、『明日と昨日のジャムはあるが、今日のジャムは絶対にない』という意味になり、これも文意が読み取れません。

これでは、英語圏の人でも悩むのではないかと、Webで調べてみましたら、『不思議場国のアリス』の著者『ルイス・キャロル』の著作からの引用であることが分かりました。

『白の女王』と『アリス』の以下のような、会話の中に現れます。梅爺の拙訳で紹介します。

(女王)『喜んであなたを雇いたいと思います。週2ペンスと一日おきにジャムをお支払いします』
(アリス)『(笑いをこらえて)雇っていただこうとは思いません。それにジャムなんてどうでもいいわ』
(女王)『とっても素晴らしいジャムなのですよ』
(アリス)『とにかく、今日は何も欲しくないわ』
(女王)『欲しいと思わなければ得られませんよ。世の中は、Jam tomorrow and jam yesterday, but never jam today.なのです』
(アリス)『今日のジャムってことだって、あるに違いないわ』
(女王)『いいえ、一日おきということは、明日と昨日はあっても今日は含まれません。お分かりですか』
(アリス)『理解できないわ。何とも分かり難い話なのね』

理屈っぽいことでは人後に落ちない梅爺も『ルイス・キャロル』にはかないません。要するに『白の女王』の約束は詭弁で、『今日はジャムを支払わない』ということですから、来る日も来る日も『今日』で、いつになってもジャムは手に入らないことになります。西欧人らしく、純粋に『論理』を楽しむ典型で、日本人が『面白い』となかなか感じない表現様式です。日本人の好みは『諧謔』で、人間の抱える矛盾を笑い飛ばすことにあります。

このことから、この諺は、『絶対に実行されることがない空(から)約束』という意味になります。これを英語圏の人がどれだけ理解しているのか、梅爺にはわかりません。意味は知っていても、原典が『ルイス・キャロル』であることまでは、多くに人は知らないのではないでしょうか。

結果的には、『jam』は、食品の『ジャム』ということであると分かりました。

今回は、難解な『諺』に遭遇し、意味にたどり着くまで奮闘することで頭の体操になりました。

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2016年9月20日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『外国人と自分達』(6)

人種によって『考え方』『価値観』が異なるように見えますが、本当はそうではなく、『歴史』や『環境条件』がその『コミュニティ』の『考え方』『価値観』を決める要因になっています。

『ウンベルト・エーコ』は、『イタリア人』と『アメリカ人』を比較対象として、このエッセイを書いていますが、比較すべきは『イタリア』と『アメリカ』といった『コミュニティ(国家)』の違いであるべきです。

『アメリカ』で生まれ育った『イタリア人』は、『アメリカ人』のメンタリティを保有するようになり、むしろ本国の『イタリア人』とは異なった人種に見えるはずです。

『アメリカ』に駐在する日本人ビジネスマンの子弟で、小学校から高校、大学まで『アメリカ』の学校に通った人が、『日本人』より『アメリカ人』のメンタリティに近くなり、『日本人』の両親が戸惑う事例を梅爺はいくつか知っています。

人の『精神世界』は、生まれつき保有する『遺伝子』と、生後体験した『環境』の影響を受けて、『個性的』になることが特徴ですが、圧倒的に生後体験の影響が強いと言えることが分かります。

従って、『外国人と自分達』を論ずる時には、『人種』ではなく、『コミュニティ』の『常識』『習慣』が、どのような『自然環境』『歴史経緯』の影響を受けて形成されたのかを洞察することが大切です。『日本人』が特徴のある習性を保有しているのは、『日本人』が人種として特殊であるからではなく、『日本』の地理的条件、自然環境条件、歴史経緯が、外国と異なるためです。

『日本人』の『宗教観』が、『自然との共生に根ざす温厚で寛容的なアミニズム』に近いのは、『日本』の自然環境が、『温暖な四季』に彩られているからではないでしょうか。

『ユダヤ』に『ユダヤ教』『キリスト教』が生まれたのは、厳しい自然環境と、たび重なる異民族の支配といった、過酷な歴史が背景にあるからであろうと梅爺は推察しています。『一神教』の思想は、この中から生まれました。

アラビア社会も、砂漠の多い過酷な自然環境で、『一神教』を受け容れ易かったために『ユダヤ教』にならって『イスラム教』を派生、継承することになったのであろうと思います。

ヨーロッパで根付いた『キリスト教』は、『芸術』『理性の思想』の素晴らしい進化を促し、逆にこれらを利用して、高度な宗教様式を確立しましたが、『一神教』である本質は変っていません。

明治維新以降、日本人は、日本の精神文化とは異なった『キリスト教』文化を知り、多くの若者が『優れたもの』として魅せられ受け容れましたが、日本社会全体が、ヨーロッパのような『キリスト教文化基盤』に変ることはありませんでした。

『神道』や『仏教』の根強い基盤があったからではなく、『神道』や日本的『仏教』を支える、『多神教的なアミニズム』を覆すほど、『キリスト教』の影響は強くななかったと言えるのではないでしょうか。

『コミュニティ』の価値観が、どのような経緯で形成されていくのかということへの梅爺の関心は、一層深まりました。

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2016年9月19日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『外国人と自分達』(5)

外国へ出向いた時に、現地の人たちが当たり前にやっていることが、私たちの眼には珍しく見えたりします。そして『習慣』や『常識』が異なっていることを思い知らされます。

中国では、食事に呼ばれた時は、料理を少し残すのが礼儀であるとか、『時計』は縁起が悪いので、贈り物にしてはいけない、などということを梅爺も仕事で出向いた時に知りました。中国語の『時計』という言葉の発音が、縁起が悪いものを想起させるのだそうです。

『ウンベルト・エーコ』も『アメリカ』で、この種の体験をしたことがエッセイに書かれています。一つは、昨日も紹介したように、多くのアメリカ人が『表面的な言葉を正直に信用する』という習性を保有しているということへの驚きです。人間は、自分の都合や安泰を最優先する本能が強いので、『発言』には『思惑』が含まれていて、必ずしも『正直』に話すとは限らないと、『ウンベルト・エーコ』は見抜いており、イタリア人も『明らかに本心ではないこと』を、日常平気で口にしている習性を知っていて、驚いたのでしょう。

これとは別に『ウンベルト・エーコ』が驚いたアメリカ人の習性として、『行列に辛抱強く並ぶ』ことと紹介されています。

『ウンベルト・エーコ』が、アメリカ国内の旅行を終えて、イタリアに帰国する時に、ニューヨークの『ラガーディア空港』から『J・F・ケネディ空港』へタクシーで移動しようとした時に、タクシー乗り場は長蛇の列ができていました。これでは、イタリア行きの飛行機に間に合わず、帰国後の重要な予定もキャンセルしなければならないとあわてて、列の先頭へ出向いて、並んでいる人達に事情を説明して、『先頭に割り込ませてほしい』と頼みました。

その時、列に並んでいたアメリカ人は、全員『異星人』を観るような眼で『ウンベルト・エーコ』みつめ、それでも『OK』はしてくれたと書いてありました。

思いもよらない外国人の行動に、アメリカ人は一瞬あっけにとられ、『OK』したのではないかと、『ウンベルト・エーコ』は推察しています。

それでも、『ウンベルト・エーコ』らしく、このアメリカ人の『列を神聖視する』習性の根源を洞察しています。

『アメリカ』は、近世になって、種々の人種が移民してできた国で、建国以来、『色々な人達が、共存するために根源的に守らなければならないルールは誰もが守る』という不文律が確立したのではないかという推察です。『法』は守らないような人でも、『列を乱す』ようなことはしないと論じています。

この仮説が妥当かどうかは分かりませんが、『アメリカ』では『個人』を主張する以上、『他人』の主張も許容しなければならないという考え方が強いように梅爺は感じます。

『生きる』ために、自己主張が重要な役割を果たす『アメリカ』は、『生きる』ために自分を抑制することが重要と考える『日本』とは異なった国家であるということなのでしょう。日本人も『行列』を比較的に守る国民ですが、『皆に合わせ、出しゃばらない』という価値観が強く働いていますので、同じようにみえる行動の動機は違うのではないでしょうか。

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2016年9月18日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『外国人と自分達』(4)

イタリアの新聞も、外国のこととなると、正義漢よろしく『クリントン大統領の不適切な情事』『ブッシュ大統領(息子)の外交音痴と失態』『ミッテラン大統領のスキャンダル』『ビル・ゲイツの市場支配と大儲け』『イギリス皇室メンバーの芳(かんば)しくない行状』を、批判や嘲笑の対象にして報じます。

そのくせ、イタリアが批判されたり、嘲笑されたりすると、イタリアの政治家やメディアは外国の相手メディアを『クズ』呼ばわりするのは、なんとも幼稚で野蛮であると『ウンベルト・エーコ』は嘆いています。

仮に、文学作家の作品が、新聞の書評欄で酷評されたとして、その作家が公(おおやけ)に『あの新聞はクズだ』と反論すれば、世間は『あの作家はうぬぼれの塊(かたまりだ』と評価するだろうと書いています。

後にイタリア首相になった『ベルルスコーニ』の人柄(私利私欲の亡者)とメディアとの癒着(主要メディアの企業オーナー)が、どうにも腹にすえかねるとみえて『ウンベルト・エーコ』は、徹底糾弾しています。逆に『ベルルスコーニ』は、世界が尊敬する教養人『ウンベルト・エーコ』を、『ろくでなしの学者、作家』『目の上のたんこぶ』として嫌っていたのでしょう。

フランスの『シラク』は、大統領選挙に立候補した時に、『私は、ベルルスコーニが統治するイタリアのような国にフランスをしない』と、イタリアを『反面教師』として揶揄していますから、国際的には『ウンベルト・エーコ』に軍配が挙がったとみて良いのでしょう。

ブッシュ大統領(息子)がイラク戦争を始めようとした時に、イギリスはアメリカ支持を表明し、ドイツとフランスは反対を表明しました。当時アメリカの新聞の一部は、『フランスが困っていた時に、若いアメリカ兵士が血を流して、ヒトラーから解放してあげた恩を忘れたのか』などと、お門違いの感情論でフランスを非難しました。それでも『イラク戦争』は強行され、ドイツ、フランスもなんとなく容認せざるを得ない状況になりましたが、『大量殺戮兵器は見つからない』『イラクは民主化するどころか政情は悪化するばかり』とアメリカ(ブッシュ大統領)の『読みの甘さ』が露呈することになりました。

ドイツとフランスがアメリカの方針に反対していた頃に、アメリカの新聞は『イタリアはアメリカに協力するだろう』と報じました。

イタリア人には『寝耳に水』の話で、イタリア議会もそのようなことを認める議決準備をしていませんでした。察するにイタリアの政治リーダーの『曖昧な発言』をアメリカ側が都合よく解釈したのであろうと『ウンベルト・エーコ』は書いています。

アメリカ人の特徴の一つは、『相手の言葉を単純に信用する』ことだとも書いています。『真面目』と『幼稚』が同居していると言いたいのでしょうか。

イタリア人は、その気が無くとも礼義的に『また会おう』と挨拶し、その気が無くとも若い男は若い女に誘いの言葉をかけるのだ、とも書いています。京都の人が『お茶漬けでもいかがどす』と云うのと同じです。

イタリアの政治リーダーが、ブッシュ大統領に『あなたの手腕に期待しています』などと儀礼的な挨拶をしたのを、アメリカが『イタリアは味方だ』と勘違いした原因なのでしょう。

『外国人と自分達』の習慣や価値観は、異なっていることを理解して、日本政府や日本人は、アメリカ政府やアメリカ人とつき合わないと、このような誤解を招くことになります。

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2016年9月17日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『外国人と自分達』(3)

『ウンベルト・エーコ』は、外国のメディアが『イタリアにとって不利なこと、不快なこと』を報じた場合に、イタリアの政治家やメディアが、やっきになって反撥する体質を、民主主義の視点で観て『かなり野蛮』と批判しています。

背景に、イタリアの主要メディアの企業オーナーが、『ベルルスコーニ』という首相候補の政治家であることがあります。『政治家』と『メディア』の癒着は、民主主義国家においては異常の事態であり、『ウンベルト・エーコ』が慨嘆する気持ちが分かります。このような事態を看過してきたイタリア国民は、『バナナ共和国』の国民並みと外国から揶揄されるのも頷(うなづ)けます。

民主主義国家では、『メディア』には『報道の中立性』が求められます。しかし、これは理想論であって、現実には『偏り』の無い報道などは存在しません。ブログに何度も書いてきたように、『政治』『経済』『文化』の事象は、人間の個性的な『精神世界』の価値観や、コミュニティの共有価値観が関与していて、この価値観は普遍的は判断基準で構成されているとは言えないからです。

日本人は、『聖教新聞』『赤旗』が、『公明党』『共産党』の所轄する『機関紙』であることを知っていますから、これらの新聞に『政党寄り』の記事が掲載されても、『あの立場でそういう発言するの当然』と、党員以外の人は『違い』を求めた上で許容しています。

しかし、『全国紙』『主要地方紙』に大きな『偏り報道』があれば、多くの一般読者から批判の声が上がります。『メディア』は『中立』であるような努力をし、読者や視聴者は、普段から自分で考えて判断する批判能力を研ぎ澄ます努力をしているという関係が、民主主義国家では、健全な関係であると言えます。

その意味で、現在の『日本』は、かなり健全なレベルに達しているのではないでしょうか。論理的な『中立報道』は存在しませんが、多くの日本人が『偏り』と『感ずる』内容は、『日本』にとって何らかの問題を内包している可能性が高いからです。

『朝日新聞』は『左寄り』、『読売新聞』『サンケイ新聞』は『右寄り』などという評価がなんとなくあって、読者は気に入らなければ購読紙を変えることができる環境も、健全さを示す一つの証拠なのかもしれません。

『中国』『北朝鮮』のように、『メディア』が国家の『機関紙』の役目をはたしている国家では、『報道の中立性』などは存在しません。このような国家は外国から非難されると、決まって『内政干渉は怪しからん』とヒステリックに反撥します。そのヒステリックな度合いを観て、私たちは『よほど痛い所を突かれた』に違いないと理解します。

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2016年9月16日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『外国人と自分達』(2)

人間は、他人のことは、比較的冷静に、客観的に観ることができますが、同じ事態が自分に降りかかってきた来た時には、同様には対応できません。

『他人の死』と『自分の死』では、『精神世界』の反応は雲泥の差があります。

『戦争』も同じことで、他国同士の『戦争』を報ずる場合、ジャーナリストは相対する陣営の立場や主張を、ある程度客観的に伝えようとします。ジャーナリストの本分は、『中立性』であると教えられているからです。

しかし、自国が『戦争』に巻き込まれた時に、ジャーナリストは『客観的中立性』の立場を堅持することは、極めて困難になります。『理』よりも『愛国心』という『情』が強く作用し、相手国を『非道、マチガイ』と糾弾することになります。自分に火の粉が振りかかって来た時は、『情』が強く『主観』となって支配することになります。

『9.11』の直後、『アメリカ』は国民、マスメディアを挙げて、『愛国心』の塊になりました。

自分の安全を確認した上で『戦争反対』と叫ぶことは、誰にもできます。『戦争は悪いこと』という主張も、大多数で共有できます。しかし、不幸にして、自国が他国のミサイル攻撃の標的になり、身の安全が保てなくなった時でも、『戦争反対』と叫び続けることができるのかどうかが問題です。

自国から『戦争』を仕掛けることは論外として、普段どのような国家であることが自国を『戦争』に巻き込まれるリスクを低くすることになるのか、それでも不幸にして自国が『戦争』に巻き込まれた時にどう対応するのかを考えるのが、現実的な対応です。『何が何でも戦争絶対反対』と叫んでみても、身の安全が保てるわけではありません。

『ウンベルト・エーコ』がこのエッセイを書いていた当時、『イタリア』は、『イタリアのメディア王』と呼ばれていた『ベルルスコーニ』が首相の座を狙って選挙活動を繰り広げていました。『ベルルスコーニ』は、自分が支配するメディア(テレビ、新聞)を選挙に有利に利用しようとしましたから、外国のジャーナリストは、『いかがわしい政治家』として糾弾記事を書きました。

これに対して『ベルルスコーニ』は、『奴らは全て左翼分子』と切って捨て、他の政治家も外国の報道を内政干渉と言わんばかりに、『人は勝手なことを云うものだ』と反撥しました。

『偏った報道を信じて投票するイタリア国民は、バナナ共和国の国民並みだ』などと外国の新聞に云われてしまうのは、さすがにイタリア人には面白くないことなのでしょう。そう云えば、日本も『日本人はウサギ小屋に住んでいる』などと外国のメディアに云われたことがありました。

『バナナ共和国(バナナ・リパブリック)』というのは、ここではアメリカのアパレルブランドのことではなく、『後進国』という意味です。国家収入をバナナのような一次農産物に頼り、しかも外国資本に経済的に牛耳られている国と言うような意味ですから、辛辣な皮肉が込められていることになります。

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2016年9月15日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『外国人と自分達』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の15番目の話題は『外国人と自分達(Foreigners and Us)』です。

このエッセイが書かれた頃の、イタリアの政治情勢を背景に、外国人とイタリア人の『考え方の違い』を論評しています。教養人で異文化に精通している『ウンベルト・エーコ』でも、アメリカでは戸惑うことがあるなどという逸話が紹介されています。梅爺も、仕事で欧米人や、中国人、韓国人などとお付き合いがあった時に、『アレアレ、そう云うことなんですか』と驚いた経験がありますから、共感をもって読みました。

日本人の多くは、『周囲から自分がどのように見られているか(どのように評価されているか)』を大変気にかけます。つまり『体裁(ていさい)』を気にします。共同意識を大切にする農耕文化の中で、『村八分』にされることを極端におそれる風習が根底にあるのかもしれません。できるだけ自分を主張せずに、目立たないように、しかも協力的に振舞うことが、『身の安全』とされてきました。『出る杭は打たれる』などという諺が象徴的です。

したがって『ニューヨーク・タイムス』『ワシントン・ポスト』に日本を非難する記事が載ったり、中国政府のこわもてオバサンの広報担当が日本を非難する声明を出したりすると、自分の価値観でその記事や生命の内容を吟味、評価せずに、『日本が悪いかもしれない』と畏れ入ったりしがちです。日本の新聞の中には、『そうだ、そうだ』と相手の肩を持つものまで現れますから、多くの人は一層畏れ入ってしまいます。他人の視点で自分を観る習性が強いからです。

何回もブログに書いてきたように、『科学』の世界では、誰もが『真偽』の判定を共有できますが、『政治』『経済』『文化』は、人間の『精神世界』の価値観が関与しますから、観方に依って一理があるとしても、普遍的に『正しい』といえることなどは、ほとんどありません。

自分と異なった価値観を、真っ向から否定する必要はありませんが、少なくとも自分の価値観を重視して、『あなたの立場ではそう云う主張になるのですね。でも私の立場ではこういう主張になります』と冷静に対応することが大切です。

『異文化を認める』ことは、どちらかを『正しい』とすることではなく、『違いを認める』ことです。『ウンベルト・エーコ』もそのことを指摘していますが、『違いに気づくこと』が意外に難しいと指摘もしています。

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2016年9月14日 (水)

歴史ミステリー小説『愛国者の脅し』(8)

アメリカで20世紀初頭成立した『憲法修正第16条』が、実は『違憲』の疑いがあり、この証拠書類を入手して、アメリカを財政破綻へ追い込み、その功績を手土産に北朝鮮トップの座を手に入れようとする、北朝鮮の現リーダーの異母兄が登場するプロットですから、『よくまあこのようなフィクションを思いついたものだ』と感心してしまいます。

活劇の場は、ヨーロッパ(イタリア、クロアチア)で、同時にアメリカでは、大統領も参加して、対応処置が画策されるという想定ですから、国際的な視野の娯楽小説ということになります。日本人の娯楽小説作家で、このような国際舞台を想定したフィクションを創出できる方は少ないのではないでしょうか。

アメリカが財政破綻すれば、アメリカの国債を多量に保有する中国も財政危機に陥りますから、疑惑の存在を嗅ぎつけた中国の駐米大使も、ワシントンで介入してくるという設定です。中国はアメリカの『もみ消し工作』を内密に支持する態度を示しながら、裏では北朝鮮へ情報(将軍様の異母兄が暗躍しているぞと知らせる)を流すという複雑な話の展開になっています。この情報で、将軍様は工作員を使って異母兄を暗殺しようとします。

この小説では、『北朝鮮』の冷酷な独裁政治の実態が、かなり詳しく描かれています。将軍様が、自分に逆らう者、気に入らない者は身内であろうが容赦なく家族も含めて処刑してしまう様子が描かれています。

思想犯を収容する『強制労働収容所』の実態も描かれています。悪役として小説に登場する『キムヨンジン(将軍様の異母兄の想定)』も、昔気持ちが疎遠になった愛人を捨てるために『強制労働収容所』へ送り込んだことになっています。この時愛人は身ごもっていて、収容所で女児を出産します。女児も収容所で育ちますが、後に『キムヨンジン』が自分の実子であることに気付き、女児だけ収容所から出所させます。

『キムヨンジン』は、北朝鮮のリーダーになるレースから外され、マカオへ逃避しますが、このとき、収容所から救いだした娘だけは、同行させます。『キムヨンジン』のモデルは、実在の『金正男』でその妻やその他の子供たちは、将軍様の怒りに触れないように密かに北朝鮮で暮らしているのでしょう。

この小説で、『キムヨンジン』と、愛人との間で生まれた娘が行動を共にしますが、最後の最後に娘は、本心をあらわにして母(愛人)を収容所で見殺しにした父(キムヨンジン)に復讐しようとし、逆に『キムヨンジン』に殺されてしまいます。

『キムヨンジン』もアメリカの秘密工作員に射殺されます。アメリカ人で『疑惑』を最初に提示した人、秘密書類やコピーを盗み出した人も、全て抗争の中で殺され、アメリカの大統領をはじめとする数人の要人と秘密工作員以外の関係者は全て『いなくなった』ことになります。

盗み出された秘密書類やコピー、および暗号解読で発見された『メロン』の秘匿した書類もすべて、焼却され、事件は『もみ消されて』終わります。

作者は、疑惑だけを題材にして、最後は疑惑を追及できる手段を全て消失させるという巧妙なプロットを用いています。読者は疑惑に共鳴しても、追及手段は残されていません。

国を守るためには少々の不正や『もみ消し』はやむを得ないという話ですから、『絶対に不正は許せない』という真面目な方には、後味が悪い小説かもしれません。

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2016年9月13日 (火)

歴史ミステリー小説『愛国者の脅し』(7)

現代のアメリカ人の大半が、『北朝鮮』に関してどれだけの知識を有し、どのような認識をしているのかは推測するしかありませんが、東アジアの『時代から取り残された非人道的な独裁国家』と言う程度の漠然とした認識ではないでしょうか。 

『朝鮮戦争』に従軍した、年老いた退役軍人などは、もっと具体的に『朝鮮』の記憶があるのかもしれません。ただし、最近になって『北朝鮮』が、アメリカの東海岸にまで届く『長距離ミサイル』や『核弾頭』の開発に成功したと豪語し、『ワシントンを火の海にするぞ』と幼稚なコンピュータ・グラフィックで制作した動画まで用いて、『アメリカ』を威嚇するようになると、無関心ではいられなくなり、反撥も高まっているに違いありません。 

『北朝鮮』が、実用化された『核爆弾』を何発保有しているのか、『長距離ミサイル』を標的地へ正確に誘導する技術を保有しているのかなど、分からないことは沢山ありますが、過小評価しない方が良いでしょう。日本国内にある米軍基地なども標的の候補ですから、『日本』も無関係ではありません。 

しかし、部分的な『強み』をいくら強調してみても、『北朝鮮』はアメリカやその同盟国を相手に、『戦争』を継続する体力はないことは確かです。兵力の技術レベルや国力差を考えれば、非常に短期間に大勢は決してしまうことは、確かでしょう。特に、『中国』が中立的な態度で、支援しない限り『北朝鮮』は孤立無援になります。 

『北朝鮮』は現体制の崩壊が、独裁政権を支える人達にとって、一番避けたいことで、必死に『核兵器』をちらつかせてアメリカや同盟国を威嚇しているわけですから、『戦争』になれば、自分たちも壊滅し独裁者も生き残れないこと承知しているはずです。自ら自殺行為の『攻撃』をしかけることはないと考えるのが普通ですが、独裁者の精神状態が読み取れないところが不気味です。 

21世紀国際社会で、『北朝鮮』のような『独裁国家』がいつまでも存続できないであろうことは、梅爺でも予測できます。最後を迎えるきっかけが、『内部のクーデターや内紛』『経済の行き詰まり(エネルギーや食糧の不足)』『外部からの軍事的な制圧』などが考えられますが、問題は、現体制を『終わらせる』ことではなく、『終わった後の対応策』にあります。 

『中国』は多量の難民流入を一番警戒していますし、『韓国』は朝鮮統一後の経済政策を遂行できる体力が無いことを自覚しています。『西ドイツ』が『東ドイツ』を併合した時に起きたことを考えれば、経済不況にあえぐ『韓国』はとうてい『北朝鮮併合』に耐えられません。 

『北朝鮮』が仮に崩壊し、『秘密警察』の資料が明るみに出ると、家族内の密告事実などが判明し、人心は荒廃することになります。東ドイツや東ヨーロッパ諸国で、『ベルリンの壁』崩壊後に起きた、一番大きな悲劇はこのことでした。『絆』の崩壊が、人間には最も耐えがたいことであるからです。 

世界の多くの人達が『北朝鮮』の体制は好ましくないと思っていますが、現実に崩壊した後の責任を回避して、やむなく現状を黙認していることになります。 

しかし、それでも、何かが起こり、『北朝鮮』の現体制は維持できなくなるでしょう。独裁者の『価値観』だけを『正しい』とする体制は、個性的な『精神世界』を持つ個人にとって、受け容れることが何よりも苦痛であるからです。

小説を読みながら、梅爺は余計なことを心配することになりました。

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2016年9月12日 (月)

歴史ミステリー小説『愛国者の脅し』(6)

『メロン(元財務長官)』が『ルーズベルト大統領』へ送った謎の書簡には、暗号の数字だけが記載されていて、これを解読すると、『憲法修正第16条』の批准プロセスに不正があることを判明してしまう証拠書類の秘匿場所が分かるという筋書きになっています。勿論秘匿を画策したのは『メロン』という設定ですが、少なくとも謎の書簡はフィクションです。

『メロン』は、自分を脱税容疑で告発した『ルーズベルト』に、『アメリカの財務破綻を避けるために、敢えて禁断の手段を講じた自分こそが真の愛国者なのだ』ということを知らしめようとしたという話です。

しかし、『ルーズベルト』は間もなく亡くなってしまい、この謎の書簡だけが、機密書類として保管されていましたが、これが『憲法修正第16条』は正当に批准されていないことを告発しようとする財務省職員によって盗み出され、更に海外へ持ち出されて、北朝鮮関係者の手に渡ってしまうというプロットになっています。

ここで登場する北朝鮮関係者は、『キムヨンジン』という名前になっていますが、明らかに『将軍様キムジョンウン(金正恩)』の異母兄『金正男(キムジョンナム)』がモデルになっている人物として描かれています。

『金正男』は、2003年家族と一緒に偽名で日本のディズニーランドを訪れ、帰国時に発覚して日本で拘束されました。これがマスコミに漏れ、世界中に配信されてしまいましたので、日本政府は『不正入国者』として強制送還せざるを得ないことになりました。もし極秘裏に拘束したのであれば、人質として『北朝鮮による拉致被害者』との交換を外交折衝できたのではないかと、梅爺は当時妄想しましたが、真面目な日本外務省にとっては、そのような『汚い手』は論外なのかもしれません。

結果的に、北朝鮮は国際的に『恥をさらした』ことになり、『金正男』は『金正日』の後継者レースから脱落し、その後マカオで、賭博三昧の日々を送っていると報じられています。これらのエピソードがそのままこの小説では採用されています。

ただし、この小説に登場する『キムヨンジン』は、表向きバカを装っているだけで、アメリカを財政破綻へ追い込み、その実績で異母弟『将軍様』を追い落としてトップの座を奪還しようと画策している危険な人物ということになっています。小説のなかでは、愛人に産ませた実の娘と行動を共にしていて、手段のためには冷酷な殺人を繰り返す冷酷なキャラクタになっています。

アメリカの極秘書類をめぐる、『キムヨンジン』と娘、アメリカの秘密工作員(財務省の工作員と司法省の工作員)の攻防が、イタリア、クロアチアを舞台に繰り広げられます。『キムヨンジン』は北朝鮮の現体制からも好ましくない人物ですから、暗殺使命を帯びた北朝鮮の秘密工作員も現地へ送り込まれてきます。同時にアメリカでは、大統領、財務長官、司法省特務機関のトップが関わり、『メロン』が秘匿した秘密文書の秘匿場所を発見する努力が行われます。

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2016年9月11日 (日)

歴史ミステリー小説『愛国者の脅し』(5)

この小説では、『アメリカ合衆国憲法修正第16条(所得税の徴収権限を合衆国政府へ与える内容)』の『批准(3/4以上の州で批准される必要がある)』のプロセスに、曖昧、不正な点があり、『批准』は無効であるという前提で物語が展開します。実態は昨日も書いたように、最高裁判所で『批准は合憲』という判決が下されています。 

小説は、『虚構』なのですから『何でもあり』といえば、それまでですが、アメリカ人読者の『好奇心』を煽るには、もってこいのお膳立てと言えます。こういう着眼点が作者の才能です。 

1921年~1932年まで、アメリカの財務長官を務めた『アンドリュー・メロン』が、『憲法修正第16条』の『批准』に不正があることに気付き、証拠となる書類を密かに集めて秘匿したという筋立てになっています。 

『アンドリュー・メロン』は、『ハーディング』『クーリッジ』『フーヴァー』と3人の大統領のもとで財務長官を歴任しています。 

愛国者精神で、上記の『批准不正』の発覚を阻止し、その事実を大統領への一種の『脅し』として利用し、長期に財務長官の座を維持した、というのがこの小説のプロットです。『愛国者の脅し』というタイトルはそれを示唆しています。 

『アンドリュー・メロン』は、『メロン財閥』の創始者で、銀行家、実業家、慈善家、美術収集家として一般には知られています。『カーネギー・メロン大学』の創立、ワシントンDCの『ナショナル・アート・ギャラリー』の寄贈など、良いイメージがある一方、脱税疑惑で後に『フランクリン・ルーズベルト』大統領から告発され、裁判になっています。『金持ちの慈善家』には、何やら怪しげな裏があると、金持ちでない梅爺も確かに疑いたくなります。この裁判は、証拠不十分で『アンドリュー・メロン』の勝訴となっていますが、『ルーズベルト』と『メロン』の確執は残りました。 

この小説では、『メロン』が死の間際に、『ルーズベルト』に謎の書簡を送り、ここに書かれた謎を解明すれば、『憲法修正第16条』の『不正批准』の証拠書類の秘匿場所がわかるように仕向け、『メロン』は自分こそが『愛国者』なのだと、『ルーズベルト』のわからせようとした、つまり復讐しようとしたという筋書きになっています。話としては『面白い』のですが、あまりにもまわりくどい復讐で、やや現実味が薄いように梅爺は感じました。

最近になって『メロン』の『憲法修正第16条』の『批准不正』の証拠秘匿をインターネットで告発するアメリカ人が出現し、更にその告発を裏付ける歴史文書を見つけコピーして持ち出す外務省役人も出現するという設定になっています。一方これをもみ消そうとする財務省の工作員や、このコピーを入手して『アメリカ』を窮地に陥れようとする北朝鮮の関係者が入り乱れて、イタリア、クロアチアを舞台に、大活劇、死闘が展開されるという筋書きになっています。

よくもまあこのような荒唐無稽な話を思いつくものだと、梅爺は感心しながら、それでも乗せられて読み続けました。

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2016年9月10日 (土)

歴史ミステリー小説『愛国者の脅し』(4)

この小説で扱われる『歴史の謎』は、アメリカの国家財政に関わる『不正疑惑』です。

一つは、南北戦争の折、『北軍(アメリカ合衆国)』の戦費が枯渇し、ユダヤ系移民の富豪『ハイム・サロモン』から多額の借金(当時の金額で80万ドル)をしておきながら、その後国家として『返済していない』という疑惑です。これを現在の価値に変換して利子も含め返済するとなると、アメリカの国家財政が破たんするほどの額になります。『ハイム・サロモン』が愛国精神で、自ら資金提供を申し出たのか、純然たるビジネス行為として、返済義務を明示した契約を行ったのか不明です。多分前者なのではないでしょうか。

『ハイム・サロモン』の子孫からの返済要請があり、歴史的には何度か議会で議論されてはいますが、多分『法的な根拠』が明確ではない等の理由で、返済が行われていないのは確かな事実です。なんとなく国家権力に依る『あれは寄付に類するものである』という強弁で、『サロモン』家は『泣き寝入り』を余儀なくされている風情を感じますが、それ以上のことは梅爺には分かりません。

二つ目の『疑惑』は、1913年に、アメリカ各州により『批准』された、『アメリカが合衆国憲法修正第16条』に関するものです。この憲法修正の内容は、『合衆国政府』に、所得税課税、徴収のための強い権限を付与するものです。3/4以上の州の『批准』を必要とした手続きにおいて、曖昧な所があり、『批准』は無効ではないかというのが『疑惑』です。当時の記録が紛失してしまっているなど、『何かおかしい』ことがあるのも確かなようです。当時の国務長官は、『批准された』ではなく、『批准は有効である』と曖昧に宣言しているのも『疑惑』を呼ぶことになっています。

経済音痴の梅爺は、国家財政の基幹である『所得税』に関する重要な決定が20世紀の初めのアメリカで行われていることを知って驚きました。国家による所得税徴収は、もっと古い時代から『当たり前』に行われていたと想像していたからです。

仮に『憲法修正第16条』の『批准』が不正であったとしたら、それ以降の国家に依る『所得税徴収』は『違憲』ということになり、これもアメリカの国家財政を破綻させるほどの大問題になります。

勿論、議会でこの『疑惑』が取り上げられたことがありますが、アメリカの最高裁判所は、『憲法修正第16条』の『批准』は、『合憲』と云う判決を下しています。

作者の『スティーブ・ベリー』は、『国家権力が正しい』と判定したことにも、『実は怪しげな裏がある』ことを匂わせて、これを小説の題材にしています。

『事実』と『虚構』を微妙に組み合わせた小説は、『虚構』だけの小説より『面白い』のは間違いがありませんから、『スティーブ・ベリー』はこの手法を駆使して人気作家の地位を確立しています。

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2016年9月 9日 (金)

歴史ミステリー小説『愛国者の脅し』(3)

人間は宿命的に『個性的』であることが社会問題を起こす一因になります。『能力』『感性』などの違いは、多分統計学の正規分布のようなグラフで表現できるのではないでしょうか。つまり、大半の人は『平均値』近辺の偏差以内に入りますから、違いは特段問題にならず、『他人は自分と同じように考え、感じているにちがいない』と言う前提で、人間関係が維持されます。大きな違いではないので『ほぼ同じ』とみなして支障はないとも言えますが、厳密には『異なっている』という事実を念頭に置いておく必要があります。

正規分布ですから、『平均値』から遠くはずれた両端に、『極端に異なった個性の人』が存在することになり、『素晴らしい天才』や『凶悪な犯罪者』が必ず出現します。どの国家もこの事情は同じです。

ただし『生まれつきの違い』は、生後の社会体験で矯正できる部分があります。『どのような教育を受けるか』『どのような文化基盤の中で生きるか』で、『凶悪な犯者』『家庭内暴力』『校内いじめ』などの発生比率を下げることが可能になります。ある犯罪に遭遇したら、それが残念ながら避けがたい極端な事例なのか、社会の仕組みによっては回避できる可能性を秘めたものなのかを区別して議論する必要があります。

『どのような教育を受けるか』『どのような文化基盤の中で生きるか』ということで比べると、『日本』と『アメリカ』にはかなりの違いがあると梅爺は感じています。

『いくらなんでもそれははしたない』と日本人なら避けるであろう言動を、アメリカ人は『言論の自由、表現の自由』を振りかざして実行するところがあります。ヨーロッパの歴史文化の中で生きている人達からは、『アメリカの幼稚な単純主義』と揶揄されたりします。

アメリカの『映画』や『娯楽小説』に、それが顕著に現れます。2014年に問題になったアメリカ映画『ザ・インタビュー』や、今回梅爺が読んだ小説『愛国者の脅し』がその例です。

『ザ・インタビュー』は北朝鮮の『キムジョンウン(金正恩)』の暗殺をテーマにした映画で、『愛国者の脅し』は、明らかに北朝鮮の『キムジョンナム(金正男):キムジョンウンの異母兄』をモデルにした人物を冷酷な犯罪者にしたてた小説です。

北朝鮮やそのリーダー一族は、『好ましくない』と思っているのは日本もアメリカも同じであろうと思いますが、いくら虚構とはいえ、このようなあからさまな表現は、日本の映画会社、日本の出版社ならば企画時点でボツになるのではないでしょうか。

『ザ・インタビュー』は、公開前から国際問題になり、映画配給会社が北朝鮮からの『サイバー攻撃』を受け、映画館爆破予告もあって、一時公開が中止になりましたが、その後公開され多大の興行収益をあげました。

小説『愛国者の脅し』は、国際問題になったという話は聞きませんが、映画ほどの知名度が無いためかもしれません。しかし、非人道的な北朝鮮の『強制労働収容所』なども小説に登場しますから、北朝鮮にとっては、はなはだ『不愉快』な小説であることはまちがいありません。

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2016年9月 8日 (木)

歴史ミステリー小説『愛国者の脅し』(2)

この小説は、作家『スティーブ・ベリー(Steve Berry)』の『コットン・マロン』を主人公にしたシリーズものの一つです。

『コットン・マロン』は、中年のアメリカ人独身男性(離婚歴あり、元妻との間に息子がいる)で、普段はデンマークのコペンハーゲンで『古本屋』を営んでいるという想定です。

彼は、アメリカ海兵隊あがりで、あらゆる戦闘に必要な技能を身につけ、その上身体強健、運動神経抜群、頭脳明晰ということになっていますから、絵に描いたような冒険活劇のスーパー・ヒーローで、シリーズでは毎回不死身の活躍をすることになっています。

退役後、アメリカ司法省の特務機関の工作員を務めていたことがあり、現在でもそのボス(中年女性)の依頼で、『雇われ仕事』を請け負うという設定になっています。この特務機関は、アトランタに本部があることになっていますが、多分『スティーブ・ベリー』の創作で、実在しないのではないでしょうか。

梅爺は、『コットン・マロン』シリーズを読み続けてきましたので、主人公の履歴や過去の逸話を良く知っていて、親近感を覚える程になっています。云いかえれば、作家の術中にはまってしまっているということです。

『スティーブ・ベリー』という作家は、古今東西の『歴史の謎』と言われている事柄を題材にして、ミステリー活劇小説を次から次へと世に出す才人で、『歴史の謎』は梅爺の野次馬心をかきたてますから、すっかり虜(とりこ)になってしまっています。

梅爺が今まで読んだ本の紹介は、『梅爺閑話』の左側の『カテゴリー』欄の『Steve Berry』で参照いただくことができます。

物語の舞台は現代で、ミステリーは『歴史の謎』という組み合わせがいつものパターンで、今回もそれを踏襲しています。

今回の舞台(現代)は、『イタリア(ベネチア)』『クロアチア』『アメリカ(アトランタ、ワシントンDC)』で、北朝鮮、中国、アメリカが物語に関与します。

『歴史の謎』は、アメリカの建国時と20世紀初頭の二つの『財務問題』で、アメリカ政府が『債務返済不履行』『違法の課税(所得税)』を行ったのではないかと言う『疑惑』を題材にしています。

史実とフィクションを組み合わせて、呆れるくらいの『荒唐無稽』な話を創りあげるのが『スティーブ・ベリー』の特徴です。

今回は、名前は変えてありますが、明らかに北朝鮮の将軍様『金正恩(キムジョンウン)』の異母兄『金正男(キムジョンナム)』と分かる人物を、非情な殺人犯に仕立てて登場させています。いくらフィクションといっても、これでは北朝鮮の報復の対象になるのではないかと心配になります。

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2016年9月 7日 (水)

歴史ミステリー小説『愛国者の脅し』(1)

アメリカの歴史ミステリー作家『Steve Berry』の小説『The Patriot Threat(愛国者の脅し)』を、電子書籍リーダーにダウンロード(英語版)して読みました。 

『電子書籍リーダーは、なかなかの優れもの』という息子の薦めがあり、『Amazon Kindle Paper White』をインターネットで購入し、最初に読んだ小説がこの『The Patriot Threat』です。 

『Kindle』の無線利用環境には、『3G(携帯電話無線の方式の一つ)』と『WiFi(無線インターネット通信方式)』の二つがあり、通常は『WiFi』を利用するのが主流なのですが、『スマホ』や『タブレット端末』を利用していない我が家には、私設『WiFi』環境が設置してありませんので、『3G』と『WiFi』の併用ができるタイプの『Kindle』を購入しました。 

『3G』は、Amazonが無償提供しています。『WiFi』は無償サービス提供がある場所へ行けば(事前登録手続きが必要なものが多い)、無料で利用できますので、時折『スターバックス(カフェ)』などで利用しています。 

ただし、『Kindle』をUSB端子を利用してPCへ接続すれば、『WiFi』同等のサービスを受けることができますので、『電子書籍購入』はこれで実質的に対応しています。通常の電子書籍コンテンツは『3G』でダウンロードできますが、『辞書』などの大容量コンテンツは、『WiFi』または『PC接続』でないとダウンロードできません。

『WiFi』環境を当たり前のものとしている、息子や娘の一家が我が家を訪れると、『WiFi』環境が準備されていないことにあきれていますが、梅爺も梅婆も『ガラ携(スマホではない通常の携帯電話)』で満足していますので、今のところ『前時代的環境』に固執しています。しかし、そのうちに時代の流れに抗しきれなくなるのかもしれません。

『電子書籍』は、『紙の本』より、購入価格が少し安かったり、著作権の有効期間が過ぎているものは無償でダウンロードできますから、経済的であるとは言えます。

『電子書籍』は、スクリーンの明るさや文字の大きさを変えることができ、老人にとっては助かります。英語の単語を辞書とリンクして、簡単に意味を確認できるのも便利です。

ただし、『紙の本』とは、微妙に読書感覚が異なりますので、どちらが良いかは一概には決められません。

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2016年9月 6日 (火)

100年インタビュー『酒井田柿右衛門』(4)

『余白』が、『柿右衛門様式』の特徴の一つです。『濁手(にごしで)』と言われる特徴的な乳白色の素地に、絵柄を染めつける時、絵柄を必要最小限の配置にとどめて、素地と絵柄のバランスを絶妙に保つ表現法を指します。

14代は、祖父の『酒井田柿右衛門』から、これを『白を描く』と教えられたと語っていました。『白を残す』という表現でない所が深遠です。

絵柄で埋め尽くすより、『余白』が観る人に、より広大な『美』の情感を喚起するという考え方は、中国の水墨画などに原点があるのであろうと思いますが、日本人の美意識として深く定着しているように思います。

『ワビ』『サビ』とは違う、華やかなニュアンスの美意識で、江戸の『粋(イキ)』の中にも見受けられます。

『カラバッチョ』や『レンブラント』の、漆黒の闇を背景にして、光を当てた対象物を際立たせて見せるという洋画の技法は、『精神世界』を一点に集中させるという意味で効果的ですが、『余白』は、『精神世界』を解放するという逆の効果をもたらします。『黒の素地に描く』『白の素地に描く』といった単なる色の違いではありません。日本人は『ウツクシイ』という情感を『心を遊ばせる』事と関連付けているのではないでしょうか。

究極の美を、『完全無欠』なものの中に求めようとする西欧の合理的な思考とは異なり、『足りないものがあることを自覚しながら、つつましく存在しているもの』に日本人は、共感する習性が強いように感じます。人間は誰もがそもそも『足りない存在』であると感じ取っているからではないでしょうか。

『完全無欠』な一神教の『神』と同じ対象を、日本人が歴史上自ら発想することがなかったのは、『気がつかなかった』からではなく、『完全無欠』なものの存在を疑う心が根底にあったのではないでしょうか。

『完全無欠』なものを前にすれば、私たちはただ『畏れ入る』ばかりですが、『足りない』ものを認めた時には、共感し、自ら『足りない』ものを埋めようと自覚します。『神の前にひれ伏す』のと『己の中の邪心を抑制し、仏心に近づこうとする』のとでは、大きな違いがあります。『心の安らぎ』を求めて、どちらを選ぶかは、その人の『精神世界』が決めることですから、どちらが『好ましい』などと断ずる必要はありません。

『酒井田柿右衛門14代目』が、100年後の日本人に残すメッセージは、『キレイ』なものではなく『ウツクシイ』ものを大切にする心を、持ち続けてほしいということでした。そして『ウツクシイ』ものは、『自然の恵み』の中にあり、『純粋なものの中に含まれる異質なもの』が決め手になるというような話をされました。

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2016年9月 5日 (月)

100年インタビュー『酒井田柿右衛門』(3)

『柿右衛門様式』の『赤絵』は、限定されている絵具の種類の中で、『赤』の彩色が全体として強い印象を与えることに由来します。特に『濁手(にごしで)』の乳白色の素地との対比で映えます。

14代を受け継ぐことになった時に、『柿右衛門様式』は制約が多い世界と覚悟して入ってみたら、それどころか、『沢山の可能性が残されている深い世界』であることに気づかされた、とインタビューで語っていました。

『様式による制約の中の自由』は、芸術ばかりではなく、私たちが日常に体験することです。『様式』が一律を強いるからこそ、『自由』の表現が『個性』として輝きます。

『法』『道徳』『倫理』で制約されている社会生活の中でも、私たちは『個性的』に生きようとします。ルールが存在するスポーツでも、名選手は『個性的』です。

『制約が無い状態を自由と呼ぶ』などという認識は、浅薄すぎるように思います。本当の『自由』は、『制約』との対比で議論されるべきものではないでしょうか。『自由』は他人から与えられるものではなく、自ら創造するものではないかと思います。したがって『自由』は普遍的なものではなく、『個性的』なものということになります。梅爺の『自由』は、他の人から観れば『自由』とは言えないことがあってもおかしくありません。梅爺は、リタイア後夜更かし、朝寝坊の野放図な生活を『自由』に楽しんでいますが、そのようなことより、『精神世界の中で奔放な思考や情感を独り楽しんでいる』時に一番の『自由』を感じます。

『制約』の本質を理解して、それを遵守(じゅんしゅ)しながら『自由』を表現するわけですから、『自由』には高い理性が求められます。

『自由な国アメリカ』『子供を自由に育てたい』『老後は自由に生きたい』などと、私たちは『自由』と言う言葉を気軽に使っています。そして『自由』は『好ましい状態』という先入観念で皮相に理解しています。同様に『平和』『正義』『理想』『幸福』などという抽象概念を現す言葉も気軽に使っています。しかし、これらの概念は『実現』を阻む対立概念があるからこそ、使われる言葉であることも理解する必要があります。人の『精神世界』が考え出した抽象概念の多くは、『安泰を希求する本能』が『願い』『期待』として考え出した一種の『虚構』であって、普遍的な判定基準もなく、『物質世界』の中に実態があるわけでもありません。『幸せの青い鳥』を自然界に探しても見つかりません。

『14代酒井田柿右衛門』が、『様式の制約があっても、奥深い自由な世界が残されている』と発言しているのは、『制約があるからこそ、自由が輝く』といっているのであろうと梅爺は受け取りました。

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2016年9月 4日 (日)

100年インタビュー『酒井田柿右衛門』(2)

陶磁器の技術は、元々は中国から朝鮮半島、日本へと伝わったものです。中国の『景徳鎮』で創られた陶磁器は、日本でも貴重品でした。

朝鮮半島では、主として表面に絵柄を描かない『白磁器』が主流でした。『有田焼』は、朝鮮半島の『白磁器』の技術に、絵柄を描く『染付磁器』として発展しました。最初は図柄は『景徳鎮』を真似ていましたが、やがて『有田焼』固有の技術が確立し、本場『景徳鎮』にも影響を与える程になりました。

『有田焼』は、ヨーロッパ諸侯の嗜好品として珍重され、日本の輸出品の花形になりました。何としてもヨーロッパ自製の『染付磁器』を完成させようと。悪戦苦闘してドイツの『マイセン焼』が出来上がりました。

『有田焼』の『柿右衛門様式』の特徴は、『濁手(にごしで)』『赤絵』『余白』と言われています。

『濁手』は、独特の乳白色の素地のことで、『純白』とは異なった日本の美意識の典型ともいえるものです。江戸時代の『柿右衛門』の特徴でしたが、生産性が悪い(焼成時、乾燥時の体積変化が大きく歩留まりが悪い)こと18世紀の半ば以降途絶えていました。20世紀になって、その復刻が試みられ、1953年に現代版の『濁手』が再現されました。

『濁手』は、産地の異なった複数の素材石を配合することで実現できるのですが、要は素材に含まれている微妙な『不純物』が決め手になっています。不純物を取り去って、『純白』の素地を創ることの方が簡単ですが、わざわざ苦労して不純物を利用していることになります。インタビューで、『酒井田柿右衛門14代目』は、この不純物を『自然の恵み』と表現しています。自然が永い年月をかけて素材石を作り上げ、そのプロセスで偶然含まれるようになった不純物という意味で、人間が頑張っても真似できないということです。

染付絵具も同様で、素材として『鉄(赤)』や『銅(緑)』が使われていますが、永年風雨にされされた『錆びた釘』や『錆びた銅板葺きの屋根板』には『自然の恵み』が含まれているため、歴史的な建築物が改修されるときにでる廃材を努力して、もらい受けるようにしていると言っていました。不純物のない素材から創った絵具で描いた絵は、『キレイ(綺麗)』ではあるが『ウツクシク(美しく)』ないと、14代目は表現しています。

同じく『純白』の素地は『キレイ』ではあるが、『濁手』のように『ウツクシク』ないと語っています。

この『キレイ』と『ウツクシイ』の違いを感じ取る能力が、日本の美意識の原点であり、この延長に『ワビ』『サビ』もあるとも語っていました。実に深遠な視点です。

梅爺流に解釈すれば、『キレイ』は『理』の価値観で、『ウツクシイ』は『情』の価値観であるように思います。

対称性を『美』とする西欧の美意識と、非対称性を『美』とする日本の美意識の違いが典型的です。『情』が作り出す、広大な精神空間を日本人は大切にします。簡素化され制約された様式が逆に広大な精神空間を産み出すという、パラドックスのような価値観を私たちは継承しています。西欧流の合理的であることの意味は勿論否定しませんが、『情』の広大な世界の方が深みがあると私たちは感じ取ります。

『能』『華道』『茶道』『俳諧』『禅の修行』などをみれば、それが分かります。『染付磁器』もこの文化を踏襲しています。

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2016年9月 3日 (土)

100年インタビュー『酒井田柿右衛門』(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映された『100年インタビュー 酒井田柿右衛門(14代目)』を録画して観ました。 

『酒井田柿右衛門』は、『有田焼』に属する『柿右衛門様式』の陶磁器創作を継承する家柄の当主が代々受け継いできた名前で現代は『15代目』です。 

この番組でインタビューを受けたのは『14代目』で、既に2013年に亡くなられていますから、以前放映されたものの再放送なのでしょう。梅爺は、以前に観た記憶がありませんので新鮮で興味深いものでした。 

『有田焼』は、佐賀県有田町近辺で製造される『陶磁器』の総称で、『鍋島様式』『伊万里様式』『柿右衛門様式』が代表的なものです。 

『有田焼』は17世紀の初めごろ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、鍋島藩が朝鮮半島から連行した陶工『李参平』が、有田に良質な磁器素材になる石材を産する『泉山』を発見し、創り始めたのが最初と言われています。有田には『李参平』を『陶祖』として祀る『陶山神社』があります。 

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、『日本』と『朝鮮』の両国に、傷跡だけを残す無意味な結果に終わりましたが、豊臣秀吉という人物とその権力の度合を知る上では興味深い歴史の出来事です。日本の制圧に成功した勢いで、こんどは朝鮮半島経由で中国まで攻め込み、アジアの覇者になろうとしたというような、単純な話なのか、経済的な実益などを計算していたのか、梅爺には分かりませんが、日本人としては壮大な発想ができる人物であったのでしょう。 

出兵させられた各藩の負担は大変なもので、ホンネは『いい加減にしてほしい』と面従腹背の態度であったのではないでしょうか。これでは士気があがりませんから、勝てるはずがありません。 

朝鮮出兵は全体としては暴挙でしたが、異文化が接触したことで、双方に副次的な影響が及んだことは歴史的に観ると大きな意味があります。 

朝鮮半島で『唐辛子』を使う食文化は、この時日本から『唐辛子』が持ち込まれて始まったと言われています。 

逆に、『朝鮮』の高い技術や、進んだ知識が『日本』へもたらされました。 

『鍋島藩』『薩摩藩』などは、『朝鮮』の進んだ技術者、専門家を『日本』へ強制連行してきて、この人達が色々な貢献をしています。勿論この人達の望郷の念は強かったと思いますが、日本での処遇も、それなりに敬意が払われたものであったのではないでしょうか。製陶の他にも、樟脳製造、養蜂、土木測量、医学、刺繍、瓦製造、木綿栽培等の技術、知識が伝わりました。歪んだ優越感ではなく、冷静に相手の優れた点を見定めて吸収しようとした九州各藩の見識は見事です。 

飛鳥、奈良時代の朝鮮半島からの帰化人によって、『日本』の文明レベルが飛躍的に向上しましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵も影響が大きかったことになります。鹿児島に現在まで継承されている陶工名『沈寿官』の初代も朝鮮半島から連行されてきた人です。

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2016年9月 2日 (金)

.Faults are thick where love is thin.

英語の諺『Faults are thick where love is thin.』の話です。

『thick(厚い)』『thin(薄い)』という対語が使われている諺です。

『愛が薄いところでは、欠点が多く目立つようになる』という意味になります。熱烈な恋愛結婚をしたカップルでも、やがて関係に慣れっこになると、相手の欠点が気になり始めるというようなことですから、多くの方が少なからず思い当たることではないでしょうか。

真面目な方は、『愛が醒(さ)める』というようなことが自分の身に起こることを、『何と私は薄情な人間なのだろう』と悩んだりしたりするかもしれませんが、『脳』は同じ環境状態が続くとそれに慣れて、いままで刺激であったものが、刺激にならなくなるという習性を保有していますから、薄情と悩む必要はありません。『自分も含めて人間とはそういうものだ』と受け容れてしまう方が健全です。

『変らぬ愛』は『永久(とわ)の平和』と同じく、『精神世界』が理想として求める虚構の概念で、現実には実現ができないものということになります。

『結婚相手』を見つける時に、『理』で相手の性格、能力、容貌、家族、社会的地位、保有財産などを総合的に『値踏み』をし、欠点があったとしても、それは自分で許容できる範囲と考えて『決断する』方もおられるでしょう。一方、『情』による『一目ぼれ』で、前後の見境(みさかい)なく『決断してしまう』方もおられるでしょう。結果的に、どちらが『幸せな結婚』を手に入れるかは『分からない』ところが、人生の『妙』です。

『最善の決断』も、上記の『変らぬ愛』『永久の平和』と同様に、虚構の概念ですから、そのようなものを当てにしても仕方がありません。

誰もが自分の『精神世界』の『理』と『情』を駆使して、『決断』しますが、『うまくいかないことがある』ことは覚悟しなければなりません。

誰も、全てを見通すことはできず、誰も他人から似れば『欠点』を持っているということを承知して行動するほかありません。

相手の『欠点』だけを重視すれば耐えられなくなりますが、多くの場合『長所』を重視するように心がければ、『欠点』は許容できるものです。自分にも『欠点』があること認めればなおさらです。

どうしても許容できないとなれば、『失敗』を認めて、『やり直す』しかありません。『失敗』を認めないのも、認めるのもその人の人生で、普遍的に『どちらが正しい』かを判定する基準はどこにもありません。

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2016年9月 1日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『マスメディアのポピュリズム』(8)

『マスメディア』は、本来健全な批判精神で、『権力者』に対抗すること、弱者の味方であることが求められますが、『清く、正しく、美しく』だけでは現実に運営できないことから、時に保身のために『ポピュリズム』に走ることがあるということが問題の本質です。 

自分が『ポピュリズム』に傾いていると、自覚したり、問題意識を持ったりすれば、まだ『自浄作用』が働くことが期待できますが、そうではなく『権力者』の『御用機関』になり下がってしまった時は最悪です。 

『マスメディアは公平中立であるべきだ』という議論と、本当に『公平中立である』かどうかは別問題です。『旛色(きしょく)を鮮明にしない』ことが『公平中立』ということでもありません。 

『反対論』『賛成論』を併記すれば『公平中立』かというとそうでもありません。『ウンベルト・エーコ』は、このエッセイの中で『後だし有利』という心理効果を指摘しています。つまり『ポピュリズム』は一見公平を装って、賛否両論を提示しながら、自分に都合が良い意見を必ず『最後』に持ってくるというわけです。読者や視聴者は、『最後』に提示されたものが『正しい』と思いこみやすいからなのだそうです。この説が本当かどうか梅爺には分かりませんが、『ポピュリズム』は時に『詐欺』『手品』まがいの『心理効果』を利用することは確かでしょう。 

『ウンベルト・エーコ』はこのエッセイの最後に、読者が読み終わった時に『一体民主主義って何なのだ』と戸惑うのではないかと書いています。 

『強制』『暴力』によってではなく、『民意』でコミュニティの『リーダー』が選ばれ、『約束事』も決められるというのが『民主主義』であるとしても、『民意』は『ポピュリズム』によって操作され易い頼りなさがあるとすれば、『民主主義なら大丈夫』とはとても言えない事態が出来(しゅったい)することになるからです。 

2001年当時の『ベルルスコーニ』政権下の『イタリア』だけが特殊なのではなく、現在のどの先進民主国も、同じ問題を抱えているように見えます。勿論『日本』も例外ではありません。 

絶えず自己啓発を行い、高い理性で物事を判断する『賢い大衆』が存在することが『民主主義』を支える基盤になります。 

『大宅壮一』が案じたようにテレビは『一億総白痴化』に拍車をかけ、視聴率の高い『お笑い番組』『バラエティ番組』がプライム・タイムを独占し、そこに登場する芸能人が人気者となって、これが日本人の平均像であるかのごとく受け容れられるようになっています。

勿論、ストレス解消や息抜きの娯楽が罪深いとは言えませんが、それが全てと言うのであれば『賢い大衆』は望めません。新聞も読む人の数が減り、報道も、公平を装いながら、読者の微妙な心理操作を行うとしたら、一層『賢い大衆』は縁遠いものになっていきます。

政治家も、政策より、テレビ視聴者の『人気』獲得を目指すようになるのは、嘆かわしいと『ウンベルト・エーコ』は述べています。

何もかも、人間の本性に根ざしているので『しかたがない』と安易に許容するのは好ましくありませんが、『現実はそう云う側面を持っている』ということを認めることも必要ではないでしょうか。自分を棚に上げて他人を批判することは誰にもできることです。『理想』と『現実』のギャップを創りだしていることに、自分も関与していると自戒することも大切です。

『ポピュリズム』の問題は、そう云う事を考える良い材料であるような気がします。

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