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2016年8月31日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『マスメディアのポピュリズム』(7)

『ポピュリスト』は最初に書いたように、『広告』に似た手法を使います。私たちが知らず知らずに脳に刻み込んでしまうようにするため『繰り返し』の手法で迫ってきます。『広告』の場合は、商品名や企業名を繰り返す、『コマーシャルソング』を、つい口ずさんだりしてしまいます。また、『親近感を抱かせる』『強迫観念を抱かせる』『商品を購入すればどんな良い状態になるかを想起させる』『買わないと損だと思わせる』など、あの手この手でその気にさせようとします。

つまり、『ウソ』とは言えないにしても、『ホント』でもない表現で心理的に『騙そう』とします。

『広告』や『ポピュリズム』のこのような裏側を、ある程度梅爺は理解しているつもりですので、『広告』『政治家の発言』『新聞やテレビの論評』に接した時に、『なるほど、そう云う手できましたか。でもホンネは見え見えですから騙されませんよ』と身構えることにしています。それでも、度々『騙され』ますから、イタチゴッコのようなものです。

『広告』や『ポピュリズム』が全て『悪意』に基づいているとは言えませんが、明らかに『悪意』に基づいたものや品位を書いたものがありますから、注意が必要です。人は自分の周囲に、自分に都合の良い状態を創りだそうとしますから、誰もが時と場合によっては『広告主』『ポピュリスト』のように振舞おうとします。梅爺も仕事の現役の時代には、顧客に『商品』『システム』を購入していただくために、色々な手を考えました。『悪意』や『ウソ』で騙そうということが無いように、配慮したつもりですが、観方に依っては『スレスレ』の行為もあったかもしれません。

『ポピュリズム』を考える時に、自分は騙される方の『大衆』に属するという前提で、『ポピュリズムは怪しからん』と叫びたくなりますが、程度の差はあれ自分も日常的に、『ポピュリスト』のような言動を周囲に対して行っていることも自覚すべきです。

『自分に都合の良いことを最優先する(安泰を希求する)』ことが、人間の本性である以上、人間社会から『広告』『ポピュリズム』は無くなりません。『ポピュリズム』の善し悪しを論ずることと、『ポピュリズム』が何故出現するかを考えることは別です。『戦争』『格差』『いじめ』も同じことです。

善し悪しを論ずる方々は多いのですが、何故出現するのか、『人間』の本質とどのように関わっているのかを論ずる方が少ないのは残念なことです。

『ウンベルト・エーコ』もこのエッセイの中で、『ポピュリズム』の好ましくない側面を沢山指摘していますが、『人間』の避けがたい習性という見かたは提示していません。

梅爺は、いつもの持論である人間の『安泰を希求する本能』が『ポピュリズム』の根底にあると考え、そう考えることで矛盾は少ないと感じています。勿論、これは梅爺の『仮説』ですから、普遍的に『正しい』と主張しているわけではありません。

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2016年8月30日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『マスメディアのポピュリズム』(6)

『政治』や『経営』への対応は、私たちの『健康』『病気』への対応と似ています。

(1)当面の『病気』を、最優先で治癒する。
(2)『病気』にかからないための予防処置をする。
(3)『健康』維持、増強や長寿達成のための努力を続ける。

(1)は放置すれば『命取り』になりますから、出費も覚悟で、『手術』『投薬』を行うことになります。『痛み』や『苦い薬』も受け容れなければなりません。

(2)は、予測できる悪い事態を、事前に推測して回避する対応です。本当に悪い事態になってしまった時の出費に比べれば、少ない費用で済みます。しかし、悪い事態はそう簡単には起きないと考えれば、当面は放置して何も出費せずに済ますこともできます。

(3)は現状を将来まで継続させるための対応や出費になります。何もせずに現状は継続できると考えれば、必要が無いようにも見えます。

(1)にあたる『緊急事態』に対応する政治家や経営者の能力と、(2)や(3)の将来への布石へ対応する政治家や経営者の能力はことなります。『戦時に強いリーダー』と『平時に強いリーダー』は異なるということです。

『ヒトラー』との妥協は、結局『命取り』になるとして、徹底抗戦で対応したイギリス首相『チャーチル』は、国民に多大の犠牲を強いましたが、勝利をおさめたことで『ヒーロー』になりました。しかし、戦後の復興を託す『首相』として国民は『チャーチル』を選びませんでした。『チャーチル』は『戦時のリーダー』であり、『平時のリーダー』の能力は無いと国民が判断したからです。このことから、世界で最も『民主主義』が高いレベルにある国が『イギリス』であると言われています。『賢い国民』が存在しているように見えるからです。たしかに、『日本』や『アメリカ』で、国民が『イギリス』のような冷静な判断を下せるかどうかはおぼつきません。『ヒーロー』はどのような時でも『ヒーロー』であると誤認してしまうからです。

『戦時』であれ『平時』であれ、選挙で『リーダー』に選ばれることが先決ということになると、『選挙に勝つ』ことが最優先になり、『政策』などはそっちのけの本末転倒な話になります。『愚かな国民』を騙しても選挙に勝てばよいということになり、『大衆迎合』の『ポピュリズム』が介入してきます。

悪質な『リーダー』は、選挙の時だけその場しのぎの『耳に心地よい話』を繰り返し、『リーダー』になってしまえば、前に云ったことの責任など取ろうとしません。『愚かな国民』の多くは、前に聞いたことを忘れてしまいますから、『リーダー』の思うつぼになります。

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2016年8月29日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『マスメディアのポピュリズム』(5)

『ポピュリズム』を論じようとすると、どうしても『大衆は賢いのか、愚かなのか』という問題へ帰着します。『ポピュリズム』によって『大衆』が操作されてしまうということを肯定すれば『大衆』は『賢い』とは言えなくなります。

荒っぽく云ってしまうと『個人』には『賢い人』と『愚かな人』がいます。先天的、後天的な要因が絡んで『個人』は『個性的』であるからです。勿論、ここで『賢い』というのは、学校で成績が良い人という意味ではなく、『自らの理性で物事の本質や因果関係を洞察できること』で、『愚か』は『刹那的に情感や浅薄な理性で利己的な判断をしてしまうこと』です。

『賢い人』を含む『個人』が集まって『大衆』となった時に、『大衆』は『愚か』になってしまうということは、『個人』とは異なった『大衆』独特の習性があるのではないかということになります。

本来『個性的』で、ベクトルが異なっている『個人』が集まって『大衆』になると、『大衆』は一つの同じ方向へ向いてしまうことがあるということで、これには『大衆心理』が関与しているらしいと推測できます。多分『赤信号皆で渡れば怖くない』という『大衆』独特の『安泰希求心理』が働くからではないでしょうか。『9.11』直後のアメリカは、『打倒テロリストの愛国心一色』になりました。

『大衆心理』を操作して、『大衆』を一つの方向へ誘う手段として『ポピュリズム』が利用されることになります。陰で『ポピュリズム』を操る『ずるがしこいリーダー(ポピュリスト)』がいて、『マスメディア』がこれと癒着しているという構図が最悪です。

前にも書きましたが、『民主主義』は、『賢いリ-ダー(奉仕者)』と『賢い大衆』、それに健全な批判精神を発揮できる『マスメディア』が存在して成り立つ仕組みです。『民主主義』を自称する国家は沢山ありますが、上記の三つの要素を満たす国家はなかなか見当たりません。

『愚かなリーダー(権力者、独裁者)』『愚かな大衆』『批判精神より保身に傾きやすいメスメディア』の問題を、少なからずどの国家も抱えています。残念ながら『日本』も例外ではありません。

『民主主義』を金科玉条のごとく唱える方々も、先ず『民主主義』が成り立つ条件について一度考えてみていただきたいと願います。『民主主義』は、現実とはかけ離れた条件が満たされて実現するものですから、『目指す』ことはできても『達成』は難しいことが分かります。『大衆の愚かさ』につけ込んでくる『ポピュリズム』の問題は、『ポピュリズム反対』と唱えても解決はできません。『平和を守れ』『戦争反対』と叫んでも、『平和』や『戦争』の問題は解決できないのと同じです。

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2016年8月28日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『マスメディアのポピュリズム』(4)

『ウンベルト・エーコ』は『ポピュリズム(大衆迎合)』を演出する人を『ポピュリスト』と表現しています。『ポピュリズム』を利用して、世の中を自分の都合の良い状態に変えようという目論みを持つ人は、人間社会には必ずと言っていいほど出現します。

『ポピュリズム』を演出する媒体として、『マスメディア』ほど有効なものはありませんから、『ポピュリスト』は『マスメディア』を利用します。

『マスメディア』の代表である新聞社、放送局も、何らかの経済基盤で運営されていますから、その基盤が脅かされることには敏感で、発信する情報の内容に手心を加えることが無いとは言えません。

『独裁国家』『一党独裁国家』では、独裁者や独裁党によって『マスメディア』も支配されますから、都合の良い情報だけが発信されます。独裁者や独裁党にとって、『国民の批判』が一番恐ろしいことですから、『恐怖政治』で批判は、徹底弾圧、粛清されます。民主主義の視点で観ると『国営の放送局』『国営の新聞社』などの存在は、『思想を統制するぞ』と言っているようなもので、実にいかがわしいものです。

国の政治リーダーや権力者と『マスメディア』が癒着することは、『ポピュリズム』の温床となります。民主主義国家のイタリアで、首相の『ベルルスコ-ニ』が、一方で有力な新聞社、放送局のオーナーであるという事態は、『ウンベルト・エーコ』でなくても『それはないでしょ』と云いたくなります。

イタリアの国民だけが、『ポピュリズム』に洗脳され易い習性を持っているわけではありませんから、私たちも警戒を怠ってはいけません。『ウンベルト・エーコ』も、他人や他国のことは批判の対象にするのに、自分や自国で不都合なことが起きていることには気づかないものだと書いています。

どんなに警戒しても『ポピュリズム』は実に巧妙に、私たちの心理を操作しようとします。小さな事を大きく見せたり、おおきな事を小さなこととして無視するように仕向けたりします。

『内閣支持率』などは、設問の設定でかなり操作できます。それなのに私たちは『内閣支持率』の数字だけでを見て、内閣が有能か無能かを判断したりします。日本の将来のために、現在はつらいことも我慢しようという政策を推し進めれば『内閣支持率』は下がるに決まっていますが、その内閣が無能とはいえません。

民主主義の『選挙』は、『ポピュリズム』によって結果が決まり易い側面があり、そのために『不適切な人物』が『政治リーダー』になったりします。『民主的な選挙』にも意外な落とし穴があることが分かります。政治家としての資質が怪しい芸能人やスポーツ選手が、知名人であるだけで『選挙』に当選したりします。

『マスメディア』は文明社会では効率の良い情報伝達手段として必要ですが、知らず知らずにこれが『ポピュリズム』の温床となって、私たちの心理を操作し、『ポピュリスト』の思うつぼの判断をしてしまうという厄介な話です。

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2016年8月27日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『マスメディアのポピュリズム』(3)

多くの日本人にとって『ウンベルト・エーコ』がとり付きにくいと感ずるのは、西欧の伝統的な『論理思考』を重視する人物であるからです。こういう人は『理屈っぽ過ぎて頭が痛くなる』と敬遠されがちです。多くの日本人は『理』よりも『情』の判断を重視し、かなり深遠な『情』の表現でも『難しくて分からない』などと忌避せずに、受け容れます。『ワビ』『サビ』などを、すんなり理解する日本人は、逆に西欧人には異質に見えるのではないでしょうか。

梅爺は、昔から『理屈っぽい』と自分でも感じていましたが、ブログを書いてみて、その性向をあらためて思い知りました。『梅爺閑話』が『理屈っぽい』『難しい』『面白くない』と言われるのは、日本人の平均的な嗜好から、かなりズレているためなのでしょう。ですから『梅爺閑話』を『面白い』と感じてくださる方は、失礼ながら梅爺同様、ズレている日本人なのかもしれません。

梅爺は一層頑(かたく)なになり『一人くらいこのようなブログを書く変な爺さんが日本にいてもいいだろう』と居直っています。『分かりやすい』『面白い』と云って下さるブログ書こうと、内容や文体を変えることは考えていません。

『多くの方の嗜好に合わせる』ことで、個性を抑制して『安泰』を得るという生きかたは、今回のテーマの『ポピュリズム(大衆への迎合)』にも関連することです。しかし、個性こそが人の生きる基盤であると考えると、ストレスを覚悟で個性的に振る舞いたくなります。人間の『精神世界』は、実に複雑です。

『国民は構成する一人一人が均質ではないから、実態は存在しない』という『ウンベルト・エーコ』の表現の真意を直ぐに理解される人は、『論理思考』ができる方です。多くの方は、『バカを云いなさい。日本人と言う国民は現に存在するではないか』などと、『自分の理解』で反論します。『ウンベルト・エーコ』も『イタリア人』という国民が存在することは知っていますが、『イタリア人は○○だ』と、均質なもののように扱うことの非論理性を指摘しているのです。

『バラバラなものの寄せ集めてみても、全体は均質にはならない』というのが『ウンベルト・エーコ』の主張です。『ポピュリズム』は、『均質でないものを、あたかも均質であると錯覚させる手段』であるが故に『いかがわしい』という論理展開になります。

『どうも気に入らない』などと『情』ではなく、『理』で『ウンベルト・エーコ』の『理』に対処する必要があります。『科学』の世界では、『理』だけで対応することが当然ですが、人間社会のことを『理』で論ずることは、『科学』のように『真偽』を判定することではなく、自分にとって受け容れ易い矛盾の少ない『関係』を模索することです。したがって他人が自分とは異なった『関係』にたどりつく可能性も認めなければなりません。『何が正しいかは誰にもわからないけれども、自分はこう考えてこちらを選択する』という主張は意味があります。深い洞察の基盤は『教養』ですから、私たちは日々『学び続ける』必要があります。

梅爺は、自分とは異なった奥深い『理』で考える他人に興味を抱きます。それに接して自分も啓蒙されるからです。『ウンベルト・エーコ』が興味の対象であるのはそのためです。どちらの『理』に矛盾が少ないかを検証したくなりますが、どちらが『正しい』と決めつけることはしないようにしています。『ウンベルト・エーコ』は、梅爺の及ばぬ能力の持ち主と尊敬しますが、何から何まで『正しい』などとは思いません。

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2016年8月26日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『マスメディアのポピュリズム』(2)

『ベルルスコーニ』は、選挙に勝ってイタリア首相になった時に、彼のいかがわしい行為を告発したり裁こうとする検事や裁判官を『彼らにはその資格がない』と批判したと『ウンベルト・エーコ』は書いて、呆れています。

『ベルルスコーニ』の論理は、『私は国民から選ばれた。だから、私の全てが国民から支持されている。特定の専門職に過ぎない人達が私を非難する資格はない』という乱暴なものです。日本の『ボクチャン首相』でも、これにはびっくりするにちがいありません。

『ウンベルト・エーコ』は、もしこのような論理が通用するなら、『誰も医者から手術をしてもらいたいと思わなくなり、子供を学校へ通わせたいと思わなくなるだろう』と皮肉っています。『医者』や『学校の先生』は、国民から選ばれ、支持されている職業の人達ではないから『あてにならない』ということになってしまうからです。

『ベルルスコーニ』に限らず、政治家は『国民』という言葉を、物事をあいまいにする手段として利用します。『ウンベルト・エーコ』も、『同じ思想、情感をもち、道徳や歴史を共有する国民(people)という実態は存在しない、存在するのは考え方の異なった人々の集合体である市民(citizennry)である』と書いています。

このことについては、梅爺は『人間の精神世界は個性的である』と度々その意味の重要さをブログに書いてきましたから、『ウンベルト・エーコ』に賛同します。

政治家が『国民の合意』『国民の審判』などと発言すると、私たちは『国民』という同じ資質を持つ人々の集合体が実態として存在すると勘違いします。

『バラバラな考え方の人達の集合体』であることを認め、それを前提として社会をどのように運営していくかを考えるのが、民主主義です。したがって民主主義は効率の良いシステムではありません。

『一つの考え方しか認めない(国民を一色に染める)』という『独裁者による政治』『一党独裁による政治』は、効率が良いのは当然ですが、人間の宿命的な資質である『個性』を認めないという、人間にとってもっとも耐えがたい状況を強いられることになります。『独裁』は、いつか必ず破綻するというのが歴史の教訓です。

『国民』という言葉の本質的な意味を考えたこともなく、その様なことに興味がない人物が、国家のリーダーになってしまうというのは、『国民』の側にも責任があります。国民が、『権力者』ではなく『奉仕者』の資質が高い人物や、『発想』『表現』『実行』に優れた人物を選挙で選ぶならば、問題は起きにくくなります。しかし『権力者の粗野な言動』が明らかな場合は怪しいと気付きますが、『権力者が奉仕者を装う』場合は、なかなか見抜けません。

『夜郎自大』なリーダーと『能天気』な国民が、形ばかりの『民主主義』で社会を運営すれば、どのようなことになるかは、先が見えています。

しかし、多くの『民主主義』国家で、このような事態が現実に起きていないとは言えません。勿論日本を含めての話です。

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2016年8月25日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『マスメディアのポピュリズム』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の14番目の話題は、『On Mass Media Populizm(マスメディアのポピュリズムについて)』で、テレビ、新聞などマスメディアの『大衆迎合傾向』を危惧し、論じています。

既に、以前に紹介したこのエッセイ集の他の話題同様、『ウンベルト・エーコ』は執筆当時(2001年頃)のイタリア首相『ベルルスコーニ』を、これでもかとばかりこきおろしています。教養人の『ウンベルト・エーコ』にとって、下劣な『夜郎自大』な人物にみえる『ベルルスコーニ』は、なんとしても我慢できない人物であったのでしょう。『夜郎自大』というのは、『自分のレベルの低さをわきまえず、偉そうに、尊大に振る舞う人物』のことです。

『夜郎自大』の人物が、首相や会社の社長などのリーダーになった場合、『独裁政治』『恐怖政治』につながり易いことは、多くの歴史事例が示しています。本当に無能な人物が『偉そうに振る舞う』のは、落語のネタにもなるような滑稽な話で、社会の『鼻つまみ』として退けられ易いのですが、一番厄介なのは、『ある程度の教養や常識を身につけている人物(必ずしも無能とは言えない人物)』が『夜郎自大』に変っていく事例です。

『ヒトラー』『ムッソリーニ』『スターリン』などが頭に浮かびますが、『プーチン』『キムジョンウン(金正恩)』も梅爺の目には怪しげな人物に映ります。現在の世界でも、中南米、アフリカなどに、梅爺が知らない『夜郎自大』な政治リーダーが沢山いるのではないでしょうか。

『民主主義』の先進国家では、『夜郎自大』のリーダーは、一般に出現し難いと考えられますが、2001年当時の『イタリアのベルルスコーニ』や、最近の『アメリカの共和党大統領候補トランプ』を観ていると、『民主主義』だから大丈夫とは言えないような気がしてきます。

日本でも、少し前に『ボクチャン』が首相になって、国民は振り回されそうになりましたから、他人事(ひとごと)ではありません。

国民がしっかりしていれば、問題はありませんが、国民はマスメディアに洗脳され易いとすると、マスメディアが『道を誤る』と大変なことになります。

マスメディアは、国民の『代弁』役なのか、『啓蒙』役なのかも気がかりな事項です。レベルの高い『リーダー』『マスメディア』『国民』がそろっていればよいのですが、そのような社会は地球上どこにもないのかもしれません。

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2016年8月24日 (水)

精神障害への診断、対応は世界共通で良いのか(4)

ある人の言動をビデオで撮って、それをアメリカとイギリスの精神科医たちに見せたところ、アメリカの精神科医の方が、『この人は精神障害患者である』と診断する確率が圧倒的に高いと、このエッセイは述べています。

うがった見方をすれば、患者の数が多いほど、精神科医、製薬会社にとって有利であるという『商業主義』が垣間見えるような気がします。レベルの差はあれ、誰でも『精神障害』の要因は保有しているともいえるからです。

『精神障害』は、多くの場合その資質を保有してしまった人の『責任』ではありません。しかし、その言動が社会の安泰を脅かすということになると、『拘束』『隔離』する必要が生じます。『伝染病患者』と同じです。ここで、『個人の権利』を優先するか、『社会の秩序』を優先するかと言った、難しい問題に直面します。特に『民主主義国家』では難しい問題になります。

これも何度もブログに書いてきたように、『個人の自己主張(自由)』と『社会秩序の強制的な適用』のどちらを優先すべきかということに関して、人類は普遍的な判断尺度を保有していません。

しかし、現実には何らかの対応をしないといけませんから、『国家』や『社会』は、『法』などの『約束事』を決めて適用しています。云いかえれば、『国家』や『社会』によって、判断基準が異なっています。

こう考えてくると、『アメリカ』の『精神障害』の規定、定義と、それに対応する処方基準を、他の国へそのまま適用することは、適切でないことが分かります。このエッセイの著者の危惧には、同意できます。

『脳』は科学的にも解明が遅れている分野です。『宇宙』が未だ謎だらけのように、『脳』もまた謎だらけです。

総合的な理解が難しい以上、『精神科医』や『脳科学者』といった専門家のの見解といえども、『確か』とは言えないような気がします。

そのような『不確か』なことを、『人間社会』の『約束事』と絡めて扱おうということになると、問題は更にややこしくなります。

残念ながら、解決策は見えませんが、この著者の指摘は、洞察力に富んでいるといってよいのではないでしょうか。

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2016年8月23日 (火)

精神障害への診断や対応は世界共通で良いのか(3)

『民主主義国家』の原則は、『個人が個性的であることを、基本的人権として認める』ことを原則としています。『言論の自由』『信条の自由』などは、その原則に沿っています。

しかし、その原則は、あらゆる場合に守られるわけではありません。『民主主義国家』であったとしても、『公序良俗』を逸脱したものは、規制の対象になります。問題は、昨日も書いたように、どのレベルを『公序良俗の逸脱』とするかの規範が、定かではないことです。国によって、時代によって、『宗教』によって『公序良俗』の考え方は変ります。

特に『狂信的な、脅迫、暴行、殺人行為』は、法の厳しい規制対象になります。しかし、これも『事件』が起きる前に、『狂信的で危険』と判定することは、非常に難しいのが現実です。

『ストーカー殺人事件』が発生してしまってから、『あれほど被害者が警察へ助けを求めていたのに、対応しなかったのは怪しからん』と世の中は大騒ぎになりますが、『おかしな言動』だけで、拘束、逮捕には踏みきれないのも、『民主主義国家』の弱点といえるかもしれません。

逆説的な表現をすれば、『独裁者』『一党独裁のイデオロギー』『絶対的な宗教指導者』が統率する『国家』は、『社会統率が効率よく行われる』といえるかもしれません。『独裁者が気に入らない者』『党紀に反する者』『教義に反する者』は、『反逆者』『違反者』『異端者』のレッテルを貼られて容赦なく拘束され、処刑されてしまうからです。

『民主主義』は『個人が個性的であることを基本的に認める』ことを原則としている故に、社会の統率や約束事の策定には、極めて効率の悪いシステムであることを承知しておく必要があります。

人の『精神世界』は『個性的』であるように宿命付けられているからこそ、『民主主義』が重要な意味を持ちます。『個性的であってはいけない』と規制されることは、人間にとって『耐え難い苦痛』であるからです。梅爺は『日本』が現在『民主主義国家』であることに深く感謝しています。敗戦で『アメリカ』から押し付けられた『民主主義』であろうがなかろうが、今となっては梅爺にはどうでもよいことです。『梅爺閑話』で好き勝手なことを論じていられる『自由』は、なんとしても手放したくありません。

社会統率の効率が良いという理由で、梅爺は『耐え難い苦痛』を受け容れるわけにはいきません。

それでも、繰り返しになりますが、『自己主張する』ことは、『他人をないがしろにする(最悪の場合抹殺する)』ことへと変貌してしまう危険性を孕んでいるということも承知しておくべきです。

『自己主張する』からには『他人の主張も認める』という原則を受け容れなければなりません。しかし、これは『云うは易く、行うは難し』です。偉そうなことを云いながら、梅爺もつい『それはおかしい』などと他人を非難してしまうことがよくあり、事後に自己嫌悪に陥っています。

今日の議論は、主として『健常者』を対象とした議論です。『民主主義国家』で『精神異常者』をどう扱うべきかは、いかに難しい問題であるかは、想像に難くありません。

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2016年8月22日 (月)

精神障害への診断や対応は世界共通で良いのか(2)

『精神世界』は『個性的』であると、梅爺は何度もブログに書いてきました。『個性的』になる理由には『先天的(遺伝子継承)影響』と『後天的(生まれ育った環境)影響』の二つがあります。 

生まれつき『才色兼備』な人が、必ずしも人生の勝者になるとは限らないのは、『後天的影響』も、人生を決定づける可能性を秘めているからです。しかし、努力を重ねれば、人生の勝者に必ずなれるとも限りません。もっとも、何をもって人生の勝者とするかも判然としませんから、『精神世界』と人生の関係は、実に厄介です。 

『精神世界』は、何をもって『正常』『異常』と区分けするのかの尺度が判然としません。『科学』では、このような事象を扱う時に、『統計手法』が用いられ、有効です。したがって『精神世界』を『統計手法』を用いて観れば、なるほどそう云うことかと少し実態が見えてきます。

例えば、『非常に無鉄砲な性格の人』と『非常に慎重な性格の人』は、『正規分布』の両端(りょうはじ)に分布する『少数派』で、中央部には圧倒的多数の『どちらとも言えない中間層に属する人』が存在すると推測できます。

多くの場合、この『中間層』が『正常』で『標準的』とされます。社会の約束事も『中間層』の『考え方』が反映して決まります。この約束事に従えば『無難』であるとも言えますが、後々、それが『不適切』であると判明することもあります。『強引なリーダー』が出現して、社会を混乱に陥れることもありますが、後々それが『適切』であったと判明することもあります。『革新』は、最初は少数派の『考え方』から始って遂行されることが多いからです。

『精神障害』も同じことで、どこからが『正常』、どこからが『異常』と区分けすることは至難の業です。一見『正常』に見える人でも、ある程度の『異常』な資質を保有しているとも言えます。梅爺も、『うつ病』とは診断されなくとも、気が晴れない日や、やる気が起きない日があります。

誰もが『不眠症』『何かに強くこだわること』『悩みごと』『トラウマ』を抱えていますから、『精神科医』の診断を受けて、『睡眠剤』『精神安定剤』が処方されれば、服用を始めることになります。

『アメリカ』の人口の20%が『精神障害患者』であるという事実は別に驚くべきことではなく、悩みごとを訴える人を『患者』としてしまえば、すぐにそのレベルに達してしまうことを示しているのではないでしょうか。『個人主義』が強い『アメリカ』社会はストレスが大きいことも、勿論背景の原因であろうと思います。

『日本』では、『精神障害』を抱えることは『恥ずかしい』とする社会風潮があり、我慢をして『精神科医』のところを訪ねる人の比率が少ないだけのことではないでしょうか。

『癌』や『心臓疾患』に関しては、診察基準、医用対応が、世界的に『同じ』であるのは当然ですが、『精神障害』に関しても『同じ』とするのは『不適切』ではないかと危惧する著者の懸念には、同意できます。

『精神世界』のことは、まだよく分かっていないと考えた方が適切で、『精神世界』のことは分かっていると勘違いする方が危険です。

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2016年8月21日 (日)

精神障害への診断や対応は世界共通で良いのか(1)

『What Should We be Worried about ?(我々は何を危惧すべきか?)』というオムニバス・エッセイ集の27番目の話題は、『Are We Homogenizing the Global View of a Normal Mind?』です。『精神障害への診断や対応は世界共通で良いのか』と、梅爺は仮に訳しました。

著者は、アメリカのデューク大学精神病学の教授『P.Muralidoraiswany』です。

生物学者は、地球上に150万から500万種の『菌類』が存在すると予測していますが、現在学術的に識別されているのは、その中のたった5%程度に過ぎません。

『菌類』は、人類を滅ぼしかねない要因にもなりますが、一方人類の救世主にもある可能性を秘めています。学者や製薬会社は、有効利用できる新種の『菌類』の発見に没頭しています。

『腸内フローラ』のように、『ヒト』の体内には300種に及ぶ『友好菌類』が住み着いていて、私たちの『生命維持』をサポートしてくれています。その数は600兆個とも言われていますので、『ヒト』の細胞数の10倍にものぼります。

この事実は、40億年にもわたる『生物進化』で、何が起きていたのかの一端を示しています。どの生物種も、生き残るために『共生』という手段を活用してきたということです。私たちの細胞の中にある『ミトコンドリア(小容体)』は、元々独立した単細胞生物であったものが、細胞の先祖であるこれまた別の単細胞生物に呑みこまれ、内部で『共生』を開始したと考えられています。『ヒト』と『友好菌類』は、対等に利用しあう手段を見出したのであって、『神が愛するヒトに、友好菌類を授けた』のではありません。

『生態系』が何故『ヒト』にも必要なのかは、説明を要しません。『ヒト』は『ヒト』だけでは生きていけないように宿命付けられているからです。

『アメリカ』で『精神障害』として病名が与えられている病気の数は、『菌類』ほど多様ではありません。それでも、1952年には106種であったものが、1968年には182種、1980年には265種、1994年には297種と増え続けています。

『アメリカ』には、400万人の『精神障害患者』がいると推定されていて、これは人口の20%にも相当します。1975年には、患者の25%が、処方された薬を飲んでいましたが、現在では患者のほぼ全員が、処方薬を飲んでいます。

製薬会社にとって、これは膨大な市場で、何やら病気の種類を増やし、処方薬の消費を促す、裏工作があるのではないかと疑いたくなります。

問題は、『アメリカ』の『精神障害』区分けとその処方薬投与のマニュアルが翻訳され、世界中の『精神障害』対応で用いられていることだと、著者は危惧しています。

『精神障害』は当然『精神世界(脳)』で起きることで、その人の『遺伝環境』ばかりでなく、『生活環境』『文化環境』『風習』などから受ける『ストレス』が関与しますから、『アメリカ』を基準にすることは、不都合を生ずる可能性があるということでしょう。

『精神世界』とは何かを論じてきた梅爺は、異論なく同意できます。

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2016年8月20日 (土)

球状星団(4)

『星』は宇宙のガス密度が高い場所で誕生します。『球状星団』のように沢山の『星』が密集しているということは、非常にガス密度が高い場所が存在したことを示唆しています。

この『非情にガス密度が高い場所』は、二つの『銀河』が衝突した時に、双方のガスが一か所に引き寄せられてできたと、科学者は推測しています。ある科学者はこの場所を『爆竹分子雲』と呼んでいます。爆竹がはじけるように内部で『星』が誕生するからです。

誕生直後の宇宙は、現在の宇宙より『小さかった』ことで、『銀河』の衝突は頻繁に起こっていたと考えられています。

『球状星団』は、『銀河』の衝突時に生まれたというのが有力な仮説になります。『星』と『星』の間隔が近いことで、お互いの重力が作用し、遠ざかることができずに『球状』が保たれていると考えられます。

『球状星団』はマクロに観れば質量をもった『天体』となり、質量の小さなものは『銀河』内に吸収されバラバラになり、質量の大きなものが形態を保って『銀河』のそとへはじき出されたという推測になります。

『球状星団』が『銀河』の外側の『ハロー』と呼ばれる領域に存在するのはこのためと考えられます。ところが、よく観察すると『球状星団』には、『古い』ものと『新しい』ものがあり、これが科学者を悩ませました。『銀河』の衝突時に出来たのならば、同じ年代でなければならないからです。これは、『銀河』のそばにある『伴銀河』が関係しているのであろうというのが有力な仮説です。

私たちが属する『天の川銀河』には、『大マゼラン星雲』『小マゼラン星雲』などといった『伴銀河』があります。『銀河』からはじき出された『球状星団』が『古い』もので、『伴銀河』からはじき出された『球状星団』が『新しい』ものと考えれば、辻褄が合います。

科学者は『球状星団』を観察していて、奇妙なことに気付きました。青く輝く特別に『若い星(青色はぐれ星)』が少量存在しているからです。『球状星団』の内部の星は、ほぼ同年齢であるはずです。『青色はぐれ星』は、『球状星団』の内部で星の衝突が起こり、質量が大きくなったり、ガスを吸収したりして『星』が若返ったような状態に変化したためと推測されています。

宇宙(物質世界)の事象は、全て『摂理』を用いて『理』で因果関係が説明できます。矛盾がなければ『仮説』として受け容れられます。『球状星団』に関しても、矛盾がない『仮説』で説明ができているということになります。人間にとって厄介な『情』が入り込んできませんから、『理』の純粋思考が好きな科学者にとっては快適な思考対象です。

梅爺も『理』だけでこのブログを書いていますから、ある意味で快適です。ただし『知識の受け売り』になっていて、梅爺独自の思考内容が加味されていないことに後ろめたさを感じています。このスタイルならばいくらでもブログが書けるからです。

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2016年8月19日 (金)

球状星団(3)

誕生直後の宇宙には素粒子だけが存在していましたが、『摂理』が働いて、先ず素粒子を素材として最も単純な構造の元素『水素』が出現しました。つまり初期の宇宙に存在する元素は『水素』だけであったことになります。

『水素ガス』が互いの重力で引き寄せられ、最初の星『ファースト・スター』が宇宙に出現しました。この『ファースト・スター』は質量が太陽の40倍程度で、誕生は『ビッグ・バン』から40万年後であったと科学者は、観測や『摂理』を用いたシミュレーションから推測しています。

高音、高圧の『星』の内部では、これまた『摂理』が作用して『核融合』が起こり、『水素』を素材として、上位の複雑構造の『元素』が創られたと考えられています。『鉄』までの上位元素はこのプロセスで創られました。

太陽の8倍以上の質量の『星』は、やがて寿命がくると『超新星爆発』を起こし、芯の部分は『ブラックホール』となり、その他は、ガスや塵となって宇宙空間へばらまかれます。『超新星爆発』の超高温、超高圧環境で、『鉄』以上に重い『元素』が出現したと考えられています。放出されたガスや塵は、実際には色々な『元素』や異なった『元素』が組み合わされた『物質』です。『金』『銀』『プラチナ』などという貴金属も含まれていたことになります。

『ファースト・スター』は『超新星爆発』を起こし、宇宙空間に初めて『水素』以外の『元素』で構成された『物質』が出現したことになります。

この『物質(ガスと塵)』が再び、重力で引き寄せられて『セカンド・スター』が出現し、その一部がまた『超新星爆発』を起こすことになります。このプロセスを繰り返して、宇宙には『星』が増えていったことになります。『太陽系』『地球』もこのプロセスで、45億年前に出現しました。『地球』に出現した『生命体』が、色々な『元素』でできているのはこのためです。私たちが存在し、ある時間だけ『生きていることができる』のも、『宇宙(物質世界)』の『変容』があってのことということが良く分かります。全てが『理』による『因果関係』で説明できますから、『神による天地創造』とは、大きく異なった説明になります。

やがて、『星』の集団が『銀河』になったと推定されていますが、『銀河』がどのようにできたのかは、必ずしも明解に分かっていません。『銀河』の中心には巨大な『ブラック・ホール』があることが分かっていますが、これがどのように出現したのかはまだ多くの『謎』に包まれています。

先ず『星』ができ、その後『銀河』が誕生したのではなく、宇宙誕生の直後に、『星』と『銀河』はほぼ同時に出現したのではないかという説もあります。つまり、宇宙に関してはこのように分かっていないこと(現時点では特定できないこと)が沢山あります。

正体が良く分かっていない『ダーク・マター』や『ダーク・エネルギー』の解明が進むと、『ビッグ・バン』以後の宇宙の『変容』は、現在とは異なった形で説明できるようになるのかもしれません。

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2016年8月18日 (木)

球状星団(2)

梅爺の好奇心の対象は、大雑把に云えば『宇宙』『生命』『人間』です。『科学』はこれらについて、多くのことを明らかにしてきましたが、まだ『分かっていない』ことも沢山あります。特に『宇宙の始まり』『生命の始まり』などの基本的なことが分かっていません。

自分が『知らない』のは、自分が『無知』であるためで、必ず世の中には『知っている人(専門家)』がいると想像しがちですが、そうとも限りません。『自分だけが知らない』のか『誰も知らない』のかを見極めるのは、易しくありませんが、区別することが大切です。

『球状星団』は『宇宙』に属する事象ですから、まずそのことに梅爺は興味を抱きました。そして『球状星団』について、『梅爺が分かっていないこと』と『誰も分かっていないこと』を見極めたいと思いました。

『球状星団』は、その名の通り多くの星が、球状に密集して存在する天体のことです。なんと100億年以上存在し続けていることも分かっています。地上の天体望遠鏡でも、ある程度観測できますが、人工衛星を利用した天体望遠鏡(ハッブル天体望遠鏡)ではより鮮明に観測できます。無数の宝石でできているボールに見えますから圧巻です。観測によって『球状星団』内部の星々は、バラバラに動いていることも分かっています。速送りで画像をみると、まるで無数の蛍が球体の中で飛び交っているように見えます。

通常の宇宙環境では、恒星と隣の恒星とは4光年くらい離れています。太陽(恒星)も隣の恒星とこの程度離れています。ところが、『球状星団』では4光年の距離の中に1000ケ以上の星が密集して存在しています。

『球状星団』は『銀河』の外側の『ハロー』と呼ばれる領域に存在しています。私たちが属している『天の川銀河』の『ハロー』の直径は30万光年ですが、この中に約150ケの『球状星団』が存在し、その中で一番大きいのは『オメガ球状星団』で、1000万ケ星が含まれています。通常の『球状星団』は100万ケ程度の星で構成されています。

宇宙には2000億ケの『銀河』があると言われていますから、私たちが知らない『球状星団』も無数にあるはずです。

天文学者が『球状星団』に興味を示すのは、『いつどのようにできたのか』『何故100億年以上も存在しているのか』『何故球状を維持できるのか』『何故銀河の外側に存在するのか』『最後はどうなるのか』などの疑問を解明しようとするためで、これらが判明すれば『宇宙進化のしくみ』がより明らかになると考えるからです。

『球状星団』は、『物質世界』の事象ですから、『摂理』による動的平衡移動プロセスの中の『変容』として解明できるはずです。云いかえれば『理』だけで因果関係が特定でき、『真偽』の判定も可能です。

番組では、スーパー・コンピュータを駆使した、シミュレーションで『球状星団』の誕生や進化を再現して見せてくれましたが、これらは、全て『摂理』が数式表現できることで可能になることです。『理』だけで『白黒をはっきりさせることができる』のは『物質世界』の特徴です。

一方、人間社会の事象の多くは、人間の『精神世界』の『情』が絡む価値判断が関与しますから、ほとんどのことが普遍的に『正しい、間違い』『善い、悪い』の判定ができません。

この決定的な違いを、理解すれば、周囲のことが異なって観えてきます。そして自分の相対的な価値観で『正しい、間違い』『善い、悪い』と言っていることに気づきます。

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2016年8月17日 (水)

球状星団(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映される、宇宙科学番組『コズミック・フロントNext』を録画して観て、『球状星団』の存在を初めて知りました。 

梅爺が『知った』ことを、より鮮明に記憶にとどめる目的で、このブログを書いていますが、この種のブログを書くときに、いつも後ろめたい気持ちになります。 

『球状星団』という新しい『物質世界』に関する『情報』に接して、梅爺の『精神世界』が強く反応し、『情報』を『理』で整理して、脳へ鮮明にとどめるために、ブログを書くという行為は、梅爺にとっては極めて重要な意味を持ちますが、ブログを読んでくださる方々にとっては、単なる『知識の受け売り』に過ぎないからです。 

『梅爺閑話』は、単なる『知識の受け売り』を避けて、梅爺の個性的な『精神世界』が紡ぎだす『心情』をブログに書くことをモットーにしています。 

このことが時に誤解を招き、『お前は自己主張が強い。他人に自分の考えを押し付けようとする態度は鼻持ちならぬ』と顰蹙(ひんしゅく)を買いますが、梅爺にはそのような気持ちは豪(ごう)もありません。 

私たちは、人間である以上宿命的に、個性的な『精神世界』を保有しています。『精神世界』は先天的(遺伝子)と後天的(生後の環境での体験)の二つの要因の影響を受けるために『個性的』なのですが、更に厄介なことに変動し続けています。梅爺の『精神世界』はいつも同じというわけではありません。 

異なった『精神世界』の持ち主同士が、『絆』を築いて人間関係を構成するわけですから、お互いに『違い』を認識することが極めて重要になります。そのためには『精神世界』を『表現』する必要があります。 

『芸術』になぞらえるのは少々おこがましいことですが、『心情』を書いている『梅爺閑話』は、『芸術』と同じで、『精神世界』の『自己表現』です。 

『自己表現』と『自己主張』は異なります。『自己主張』という言葉には『自分が正しいという前提で相手を説得する』というニュアンスが込められていますが、『自己表現』は『心情の吐露(とろ)』に過ぎません。『芸術』は芸術家の『心情の吐露』です。 

『梅爺閑話』を読んでくださって、『世の中には、このようなことに興味を示し、それについて、このように考え、このように感ずる人がいるのか』とご自分との『違い』を認めてくだされば良いだけのことです。勿論『私は、興味が無い、そうは思わない』と距離を置いて下さるのも結構ですし、『私なら、更にこう考えたい』と考えを膨らませていただいても結構です。このようの人間の『精神世界』は相互に刺激を受けながら、高いレベルへ向かいます。これが、人間社会の『文化』や『文明』の基盤になります。多様性を認めない社会では、豊かな『文化』は醸成されません。

『球状星団』は、純然たる『物質世界』の事象ですから、このブログには、『梅爺閑話』では常連の『宗教』や『神』や『情』は登場しません。

勿論、『球状星団』には、まだ解明されていない『謎』がありますが、それは『神秘』や『奇跡』とは無縁なものです。『理』だけが『謎』を解明する手段であるからです。このように『情』と無縁なことが『物質世界』の重要な特徴です。

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2016年8月16日 (火)

人類を一色に染めることの功罪(6)

面白いことに、人間社会の事象は、『均一化』が進行すると同時に、『枝分かれ(細分化)』が起こります。 

これも『宗教』を例に挙げれば、分かり易くなります。『キリスト教』『イスラム教』『仏教』といっても、教祖や教義の根幹を共有しているだけで、実際には、枝分かれした複数の『宗派』で維持されています。中には『イスラム教』の『シーア派』『スンニ派』のように、深刻な政治的対立に及んでいるものまであります。 

『キリスト教』は、『選ばれし民』であるユダヤ民族だけの『神』を信奉する『ユダヤ教』から、『全ての人達』のための『神』へ、『神』を格上げすることで、どの民族にも対応する世界宗教に変りました。『キリスト教』をこのような世界宗教に変えたのは『使徒パウロ』の功績です。『釈迦』にしても『キリスト』にしても、自分が属する社会の人達に教えを説いただけで、世界宗教を意識していたわけではありません。後世の関係者の努力で世界宗教へと発展していったことになります。教義に多くの人々を惹きつける要素があったからです。 

政治統治も、『ソ連邦』『ユーゴスラビア連邦』が成立(均一化)したり、崩壊したり(細分化)したりしています。『アレキサンダー大王の帝国』『ローマ帝国』『チンギスハン(モンゴル)帝国』も、歴史的には崩壊しました。他民族国家である現在の『中国』も、やがて細分化する可能性を秘めています。

何故、人間社会の事象は、『均一化』へ向かったり、また『細分化』へ向かったりするのかの理由は、『個』と『全体』の価値観が同じではない矛盾に帰結します。『個』は自分の都合を優先したいという本能を持ちながら、一人では生きていけないために『全体』の一員となって、『全体』の約束事である規律を守る必要があるという矛盾です。

『全体』の効率を優先すれば『均一化』は進み、『個』の多様で個性的な価値観を優先すれば『細分化』になるということです。

『均一化』と『細分化』が行ったり来たり揺れ動くのは、人類は、『個』と『全体』の価値観の矛盾を、普遍的に解決する知恵を未だ保有していないことを示しています。

人間社会で起きている大半の厄介な問題は、『個』を優先するか、『全体』を優先するかに帰着します。どちらが『正しい』という単純な議論や決着にはなりません。『個』も『全体』も、どのバランスならまあ許容できるかという現実解を求めるしかありません。『個』の場合は、『個』自身が更に個性的であるために、共通のバランス点になかなかたどりつきません。

日本が直面する『貿易(TPP)』、『防衛(集団的自政権)』、『憲法改定』など全てこの種の問題です。どちらだけが『正しい』と言い張る議論は梅爺の好みにありません。世界が抱えている『独裁(権力者、イデオロギー)国家』『宗教支配国家』の問題も、外側からの圧力だけで解決できるほど単純ではありません。日本が敗戦後、外からもたらされた『民主主義』に対応できたのは、日本の特性(文化、教育)などが機能したからで、世界中のどの国にも適応できる話ではありません。

『人間は、肉体的にも精神的にも個性をもって産まれてくる生物である』という本質に全てが帰着することが分かります。その様な生物になったのは、『物質世界』の『摂理』が偶発的な創りだした『変容(生物進化)』のためです。『神が神に似せて人間を創った』などという説明からは縁遠い話です。

人類は、今後も効率重視の『均一化』と、多様な価値観を認める『細分化(多様化)』の間を揺れ動いていくに違いありません。

『政治』『経済』『宗教』『スポーツ』などは、『均一化』の効用が大きいので、そちらに向かう傾向が強いのですが、それでも『細分化』はなくなりません。

『科学』だけは、『真偽』の判定が、『個』の価値観に依存しませんから、全人類のとって『均一』な世界になります。科学技術を利用することが、世界を『均一化』に向かわせるのはそのためで、現代はこの影響が顕著な時代であることは確かです。

このエッセイの著者は、『均一化』がもたらす問題に懸念を示していますが、『多様化』ならば問題が無いわけでもありません。自分はどのバランスを望むかと、各人が考える以外に対応の方法は見当たりません。

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2016年8月15日 (月)

人類を一色に染めることの功罪(5)

7万年前に、『現生人類』の文化は、爆発的な『多様化』を開始しましたが、その後、文化は、全体的には『均一化』に、部分的には『細分化』の動きを呈していると観ることができます。

典型的な事例は『宗教』にみることができます。当初、雨後のタケノコのように、出現した『神』や『神々』は、有力な『神』や『神々』にとって代わられたり同化したりして淘汰され、現代では、世界の3大宗教は『キリスト教』『イスラム教』『仏教』ということになっています。『均一化』へ向かったということです。

勿論、『ユダヤ教』『ヒンドゥー教』『道教』『神道』などは、完全に消滅したわけではなく、地域的や人種的な信仰の対象として継承されています。

日本の『神道』を例にとればわかるように、当初部族ごと、地域ごとに出現した土着の『神々』信仰が、『神道』という名のもとに統合されたと観れば、日本と言う地域の中で『多様化』から『均一化』へ向かったということができます。『アミニズム(自然信仰)』『死者の霊を祀る(鎮める)』といった多様な土着の宗教を、形式的に全て認めて束ねたわけですから、『どの神が強い』といった争いは少なく、うまくいったのでしょう。このため、日本人の大半は『八百万(やおよろず)の神』という概念に違和感を覚えません。日本へもたらされた『キリスト教』が、衝撃的であったのは、『一神教』の思想であったからで、権力者が『弾圧』に向かったのは自分の地位を脅かす危険を感じたからでしょう。一方、『キリスト教』側の布教は、日本の庶民へのショックを和らげるために、『マリア信仰』をうまく利用しています。『マリア』を『観音』にみたてることで庶民は受け容れ易かったからです。

明治以降、形式的に『キリスト教』は認められ、『西欧文化、思想』は日本より『優れている』と感じた有能な若者たちを虜にしました。しかし、『天皇より神を上に考える』といった事を明言すれば、思想弾圧の対象になりました。

現代は、日本を含め、世界中で人間社会への『宗教』の影響が全体としては、薄らぎつつある傾向にあるように感じます。『政治』『経済』『科学』の影響の方が圧倒的に強まっています。『宗教』は『個人の心の安らぎ』の領域に限定されつつあります。古代から中世にかけて、人間の生活の全てに『宗教』が関わっていたことを考えると大きな違いです。逆に、私たちが古代や中世の歴史を考える時には、『宗教』支配の視点は欠かせません。

『イスラム国』『イスラム原理主義グループ』の狂信的な行動は、上記の世界の傾向に対する、反動的な抵抗であるとみることができます。『産業革命』の時に『ラッダイト(機械打ちこわし)運動』が起こったのと似ています。

人間社会の『変容』は、『物質世界』の『変容』と外観は似ていて、『動的な平衡移動』です。『進行』『反動』で揺れ動きます。違いは、『人』の『精神世界』の価値観が要素として関与するか否かということです。

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2016年8月14日 (日)

人類を一色に染めることの功罪(4)

著者は、7万年前に『現生人類』の文化的な多様化が爆発(Bang)的に始まったと書いています。 

『それぞれの群』が『それぞれの言語』を編みだしました。その後言語を利用して具象概念ばかりではなく抽象概念にも名前を付けて、共有するようになりました。勿論、行為にも名前を付けて、過去、現在、未来の時制を含めた文脈表現が可能になるというような進化を遂げていきます。特に、脳の予測機能で、将来を予測する能力を保有したことは重要な意味を持ちます。動物も『近い将来』は予測して行動しますが、『人』の場合は、『遠い将来』や複雑な要因を総合判断する知性による予測に秀でていることが特徴です。宗教における『予言者』の出現などが典型例です。 

特に『それぞれの群』が、『それぞれの神(神々)』を抽象概念として考え出し、『神(神々)と交流するための儀式』を様式化していくことになりました。『人』にとって周囲は『摩訶不思議』としか思えない事象で満ち溢れていたわけですから、自分たちが『生きている』根源に『何者かの力』を感じ、これを『神』『神の所業』と推測したのは当然のことです。 

現代人の私たちは、科学知識を保有した結果『摩訶不思議』の多くは、『摂理』を利用した『因果関係』として理解できるようになりましたが、それでも『摩訶不思議』が無くなったわけではありません。これらを『神のみわざ(奇跡、神秘)』『悪霊の祟り』であると考えたくなりますが、梅爺は、単純に科学の解明が実現できていないだけと考えるようにしています。つまり『物質世界』には奇跡や神秘は存在しないと考えています。ただし『精神世界』では、奇跡や神秘の事象をいくらでも考えだせると考えています。『物質世界』の『摂理』に支配されない事象を、自由に空想できることが『精神世界』の大きな特徴の一つであるからです。『物質世界』では『空飛ぶ象』は存在しないにしても、『精神世界』で『ダンボ』のような『空飛ぶ小象』は虚構として存在できます。 

『物質世界』には実態としての『神』は存在しないと推測できますが、『精神世界』に『神』という抽象概念は存在しうると梅爺は考えています。 

梅爺がこのように発言をすると、『なんだ、お前は無神論者かと思っていたら、神の存在は認めるのか』などと質問を受けることがあり戸惑います。 

梅爺のように、『物質世界』と『精神世界』の事象を分けて考えることに慣れておられない方には、ごもっともな勘違いかもしれません。 

梅爺の『精神世界』に存在する抽象概念としての『神』は、宗教を信じておられる方の『神』とは似て非なるものです。梅爺が死ねば、梅爺の『精神世界』も脳が機能停止することで消滅しますから、『神』も消滅してしまいます。つまり、人間が存在しない世界には抽象概念の『神』は存在しないという論理帰結になります。人間が存在しない世界には『ダンボ』も存在しないということと同じです。これは、梅爺の理性が考える『ものの観方』で、梅爺自身は矛盾が無いと判断し気に入っていますが、普遍的に正しいなどと主張するつもりはありません。

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2016年8月13日 (土)

人類を一色に染めることの功罪(3)

著者は人類学者ですので、私たち『現生人類(ホモ・サピエンス)』が出現するまでの過程も解説しています。

『ネアンデルタール』と『現生人類』の共通祖先が、先行していた人類種『ホモ・エレクタス(直立原人)』から、生物進化で枝分かれしたのが、50万年前、『現生人類』が『ネアンデルタール』から枝分かれしたのが20万年前と書いてあります。

『チンパンジー』と『人類種』の最初の枝分かれは、500~800万年前と考えられていて、この時出現した『人類種』が、人類の最初の先祖です。その後の人類種は全てアフリカで出現したとも考えられています。以降、『現生人類』が出現するまでに、『人類種』は20種ほど出現しましたが、私たち『現生人類』を除いて、すべて絶滅してしまっています。

『サル』や『ヒヒ』が、現在でも複数種地球上に現存しているのに、『人類種』だけが『現生人種』だけに絞られたのは何故かという疑問が残ります。

『精神世界』という高い知性を獲得した人類は、『自分たちの群』の安泰を保持するために『自分たち以外の群』を『敵』とみなし、徹底攻撃排除する性向が強く、そのための知恵も秀でていたからではないでしょうか。『現生人類』は『ネアンデルタール』が別種の人類種であると認識して攻撃したのではなく、『自分たち以外の群』とみなして、攻撃したのではないでしょうか。結果的に『ネアンデルタール』を絶滅させることになったと推察されます。しかし、この過程で『ネアンデルタール』と『現生人種』の交雑も起きたと考えられますので、『現生人種』の中に『ネアンデルタール』の遺伝子の一部が継承されたと推測されます。最近の研究でそれが実証されつつあります。したがって、『ネアンデルタール』が完全絶滅したという表現は、必ずしも適切でないのかもしれません。

『自分たち以外の群』を『敵』とみなし、『差別』『排除』『攻撃』する性向は、『現生人類』の中にも受け継がれていて、これが『人種差別』『民族対立』『宗教対立』といった問題の根源ではないでしょうか。

『自分たちが優っている』『自分たち以外は劣っている』と『精神世界』が根拠なく推測するのは、『自分の都合を最優先して安堵したいという本能』が、生物進化の過程で継承されているからというのが梅爺の『仮説』です。

ライバル企業同士の経済的な争い、スポーツという形式を利用した争いは、好ましい争いとして是認されますが、元はと言えば同じ本能に立脚しているもので、『殺し合い』という手段をルールで排除する気のきいた知恵が働いただけのものではないでしょうか。

『人種差別』『民族対立』『宗教対立』を『理』で好ましくないと考えようとしても、本能的な『情』の支配の強さが上回るという、『精神世界』の厄介な性向が邪魔をします。『理性』で『情』を抑制する人達が増えることが、望ましいことですが、世界中の人がその様に変えることは、現実的には至難の業です。

『世界平和』は『祈り』では実現しませんから、上記の『理性的な人の数を増やす』政策や教育を具体化する必要があるという、一般論に止まるのは残念なことです。

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2016年8月12日 (金)

人類を一色にそめることの功罪(2)

私たちが『個性的』に創られているのは、生物進化の過程で、『生き残る確率が高い子孫の残し方』として『両性生殖』が、採用されたからです。両親の遺伝子の偶然の組み合わせが子供に継承され、『個性的』な子供が生まれます。『ヒト』の遺伝子は3万種程度と言われていますので、組み合わせの結果は、必然的に『個性的』になります。同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも、容貌、性格が異なるのはこのことに起因しています。

勿論、この生殖方法は、進化の過程で『人類』に先行した先祖の動物から受け継いだものですから、現在でも動物の多くは『両性生殖』を継承しており、子供は『個性的』です。

『ヒト』の『両性生殖』が、代々繰り返されたことで、男性の『Y染色体』が劣化している事実が分かっています。突然変異の劣化が蓄積継承されてきたからです。『X染色体』を二個保有する女性の場合は、仮に一つの『X染色体』が劣化しても、健全な方の『X染色体』を利用して細胞内で補修できますから、母親の『X染色体』は劣化し難いのに対し、父親の『Y染色体』は、一個しかなく補修のしようが無いからです。今日明日、子供ができなくなるということではありませんが、男性が理由(健全な精子の数が減少)で『不妊』となる確率が確実に高まっていることが指摘されています。

『両性生殖』にこのような『落とし穴』が潜んでいたことを、科学は最近になって明らかにしました。『アダム』と『イヴ』を創った時に、全知全能の神は、このことを承知しておられたのかと、愚痴をこぼしたくなります。

『人』の個性は、必ずしも生まれつきの遺伝子だけに依存しません。生後の経験、体験も影響します。しかし、遺伝子に依る部分も無視できないほどの割合であるということは確かなことです。

梅爺は、親や学校の先生から、『個性を大切にしなさい』と教わり、『個性的』であることは『良いこと』と思い込んでいました。しかし、『人』が『個性的』であることが、一方において人間社会が抱える深刻な問題の基本的要因であるという重要な事実を誰も教えてくれませんでした。残念なことです。

生物種として『ヒト』も、高度な『精神世界』を保有する『人』も、本来『個性的』であることから逃れられませんが、『人間社会』の中では、『個性的』であることを抑制しなければ生きていけません。

この矛盾に対応する方法を誰も教えてくれないとすれば、自分で考える他ありません。『個性』だけで生きようとしても幸せにはなれず、『個性』を完全に否定しても幸せにはなれないという難問に自分だけで立ち向かわなければならないという厄介な話です。

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2016年8月11日 (木)

人類を一色に染めることの功罪(1)

『What should we be worried about ?(我々が危惧すべきこと)』というオムニバス・エッセイ集の26番目の話題は『Homogenaization of the human experience(人類の経験の均一化)』で著者はアメリカアメリカの科学研究センターの人類学者である『Scott Atran』です。 

この著者の主張を忖度(そんたく)して、ブログのタイトルは『人類を一色に染めることの功罪』と意訳しました。 

著者が危惧しているのは、『グローバル経済』『科学技術(特に情報通信処理技術)』がもたらした、世界中を一様にしようとする動きが、実は人類を滅亡させかねない危い要素を秘めているのではないかという指摘です。 

この問題は、人類が現在抱えている問題の本質の一つであることに梅爺も同意します。 

『生物種』として『多様』であれば、厳しい試練に遭遇しても、誰かが生き残る可能性がありますが、『一様』なら、一つの試練で皆が死んでしまうという危険性をこの著者は示唆しています。一部が生き残れば、『種』の存続は果たされるという冷酷な事実を述べていることを先ず理解する必要があります。『生物進化』は、『皆が無事に生き延びる』ことはできず、『環境に適応できる資質を有しているる者だけが生き延びる』ことを示しているからです。 

博愛を説く人道主義者や、『全ての人の救済』を説く宗教関係者には、暴論のように聞こえるかもしれない話ですが、科学を含めて『学際的』に、人間や人間社会を洞察すれば、無視はできない議論になります。

地球の人口が100億人に達した時に、全ての人が快適で健やかに生き延びる方法を梅爺は思いつきません。しかもそれは遠い先の話ではありません。 

『願い』や『祈り』といった、『精神世界』の『情』に起因する行為は、『情』が関与しない『摂理』だけに支配されている『物質世界』では通用しません。残念ながら『加持祈祷』で、天災や疫病は回避できません。肉体的に『ヒト』は、『摂理』に支配されて『生きている』存在であるという事実を除外して議論はできません。『食べ物』『空気』『水』が無い世界では生きていけません。 

梅爺は『皆が無事に生き延びる』方法など無いと断定しているわけではありません。あるとすれば、それは『願い』や『祈り』を強めることではなく、冷酷な『摂理』を回避する科学的な解決方法を見出すことですが、経済的に考えても極めて難題であるように感じます。 

何度もブログに書いてきたように、『人』や『人間社会』を複雑にしている最大の要因の一つが『ヒト、人は個性的に創られている』ということです。 

このことが、難しい問題を引き起こす要因になっていますが、逆に考えると『個性的』であるが故に、『ヒト、人は生き延びてくることができた』とも言えます。

『個性的』であることは、人類にとって『両刃(もろは)の剣』であるということです。

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2016年8月10日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『政治的スローガン』(4)

『商業広告』と『政治スローガン』は、『相手の関心を惹く』『相手の価値観を自分に都合よく変える』という目的は同じで、用いられる手法も『人間の精神世界の習性を利用する』という点でも同じです。人間の『精神世界』は個性的であり、一人一人が異なった価値観を有しているからこそ『広告』や『スローガン』という手法が考え出されました。全員の価値観が同じなら、『広告』や『スローガン』は必要ありません。 

『理で説得する』『情に訴え共感を誘う』のが一般的ですが、『洗脳する』『騙(だま)す』という魂胆も隠れていますから、用心しなければなりません。 

『政治スローガン』は、政党や政府が、選挙民や国民に『到達すべき常態』『進むべき方向』を示す『自己主張』として提示されます。『到達すべき常態』は実際には『到達不可能な状態』であるからこそ、理想像として提示されることが多いことも承知しておかなければなりません。 

従って『スローガン』は観方に依っては『絵に描いた餅』であることが多く、梅爺は吹き出しそうになることもあります。 

『誰もが安心して暮らせる社会』『格差の無い社会』『戦争の無い平和な世界』を恒久的に実現した歴史事例はありません。

勿論『あるべき姿』を提示することは無意味ではありませんが、『スローガン』を提示して事足りるわけではありません。『進むべき方向』の現実的な具体策とその実行が政治に求められる課題です。

政策実行は、有限の財源、資源、人員を用いて、優先順序の中でおこなわれますから、『実行できる』ことと同時に『実行できない』ことが存在することも明らかにしなければなりません。すぐに効果が現れないことでも『教育』『基礎科学研究』のような将来への投資として優先しなければならないこともありますから、この意義も国民に理解してもらう努力が必要になります。

『ウンベルト・エーコ』は、一昔前の『ブルジョア』と『プロレタリアート』の対立というような構造で社会が把握できない時代に変っていることを、『政党』や『政府』が認識せず、昔の『スローガン』の『同工異曲』を繰り返していることを批判しています。

人間や人間社会の本質を深く洞察した『スローガン』は少なく、皮相的な『大衆迎合(ポピュリズム)』や、『きれいごと』の『スローガン』が多いのは確かなことですので、大衆側も自分で考えて、批判能力を高めて対応する必要があります。

日本で最も多く使われる『頑張ろう』は、『情』を基盤とする連帯意識の表現で『何を具体的に行う』のかの議論がおろそかになりがちです。『頑張る』は中国語では『加油』、英語では『Let's go!,Come on!』、イタリア語では『Forza!』などと表現され、『火勢を強める』『前へ進む』『力を強める』などと具体的な『行為』を示唆しています。日本人の情的な抽象表現を好む習性の特異性が分かります。『頑張ろう』と言っただけで、なんとなく通じてしまう『曖昧性』は、他国の人から観れば異文化かもしれません。

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2016年8月 9日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『政治的スローガン』(3)

『政治スローガン』も『広告』の変形で、『大衆の支持獲得』『選挙での投票誘導』が目的になります。基本的には『広告』で使われるあの手この手が同様に駆使されます。

『ウンベルト・エーコ』は、昔の『イタリア共産党』と、1968年に顕著であった『反政府運動』推進者の『政治スローガン』を例に挙げて、本質を論じています。

これらの『政治スローガン』では、物事を単純な因果関係として断じ、ライバルを徹底して『悪者』に仕立てます。『世界の貧困は、資本帝国主義が原因』『NATOは戦争好きな右翼』『イタリア政府はアメリカへの盲従者』『警察は政府の犬』などとなります。そして労働争議などに理解を示す官僚は『善い官僚』、批判的な官僚は『悪い官僚』と区別します。まるで、『ハリウッド映画の西部劇』『水戸黄門のテレビドラマ』のように、『善い人』と『悪い人』が一目でわかる構図を強調します。

大衆は『西部劇』『水戸黄門ドラマ』を、『分かりやすい』『勧善懲悪で胸がすっとする』と受け容れますが、その延長で『政治スローガン』も単純に受け容れかねません。

しかし、人間社会の事象は、多くの場合複雑な要因が絡み合って成り立っていますから、単純な因果関係で論ずることは、一般にはできません。『善い』『悪い』も相対的な尺度でしか論ずることができません。『祖国を守るために兵役に就く』ことと、『戦争反対で兵役を拒否する』ことのどちらが『善い』『悪い』は一概に決められません。

『資本帝国主義』は確かに、地域的な格差を助長し、『貧困』を産み出す一つの要因ではありますが、『貧困』を産み出す原因は他にも多数あります。

2001年のイタリア選挙のおける『ベルルスコーニ』の戦術は、昔の『イタリア共産党』『反政府運動推進グループ』と基本的には同じで、自分に都合の悪い相手は、単純な因果関係で『悪者』として断じていると『ウンベルト・エーコ』は論じています。『ベルルスコーニ』が、テレビ局や新聞社の経営者であるが故に、昔よりは巧妙に行われていることが悪質であるという批難です。

これらの議論は、イタリアに限ったことではなく、先進国、民主主義国と言われるどの国でも、選挙となると、『単純な因果関係』が横行し、『私が正しい、あなたは間違い』という非難合戦になるのはどうしてなのでしょう。

政治は、非常に複雑な要因が絡む世界ですから、複雑であるからこそ本質を分かり易く提示することが重要で、この努力は、『単純な因果関係』として断ずることとは異なります。『洞察力』『表現力(説得力)』に富んだ、真の政治リーダーの出現が待たれますが、世界中が逆に『単純な因果関係』を求め、それに迎合するリーダーがむしろ多くなっていることが梅爺の懸念です。

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2016年8月 8日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『政治的スローガン』(2)

広告の基本的戦術の一つが、『分かりやすいシンボル』や『単純なメッセージ』を繰り返し発信することです。 

やがて、その『シンボル』や『メッセージ』は、『勝者』の象徴になります。『ウンベルト・エーコ』は『マイクロソフト』の『Windows マーク』を例に挙げています。パソコンを立ち上げる度に、嫌でも目にすることになり、利用者は、潜在意識の中で『必須の商品』として受け容れてしまうということなのでしょう。 

広告におけるもう一つの基本的戦術は、『メッセージ』は必ずしも『真実』である必要が無いということです。大衆の『心理』を操作することが目的ですから、『耳に心地よい言葉』や『検証が難しい曖昧な表現』が使われます。 

最近では、『公正取引委員会』が、『悪質なメッセージ表現』を取り締まろうとしますから、『売上No.1』『顧客満足度No.1』などの表現は取り締まりの対象になりかねません。そこで広告主は、小さく『○○調査による』などと注釈を載せて弁明しようとします。『○○調査』というのが、どの程度権威のあるものかは、大衆には分かりません。中には『当社比』などという訳のわからない注釈もあります。 

サプリメントの広告では、『お酒を飲んだ次の朝も眼ざめ爽快』などという表現が使われますが、良く画面を見ると『これは個人的な感想です』などと云い訳の注釈が小さく表示されています。

広告は、『ブランド認知度の拡大』『購買意欲の喚起』などの目的で行われ、当然広告主は、広告出費以上の『価値』が得られることを目論みます。

『知ってもらう』『善い評価をしてもらう』『買ってもらう』という、云いかえれば『その気にさせる』ことが目的ですから、人間の『脳(精神世界)』の習性を研究して、あの手この手で迫ってきます。

梅爺の仕事の現役時代の経験で云えば、企業の経営者や広告担当で、広告の本質をわきまえ、自社の広告に込めるメッセージに、『自分の考え方』『強い信念』を持っている人は意外に少なく、広告会社の『提案』を鵜呑みにして採用していることが多いように感じました。『餅は餅屋』で広告会社が広告制作に長けていることは確かですが、広告主に判断力が乏しい時には、広告会社のいいなりの広告を打ってしまうことになりかねません。広告会社が悪徳商法を行っているというつもりはありませんが、大衆の習性ばかりではなく、広告依頼主の習性を見抜いてビジネスを行っていることは確かですので、うっかりすると鼻毛も抜かれてしまいます。

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2016年8月 7日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『政治的スローガン』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning back the clock(時を遡る)』の13番目のタイトルは『The 2001Electoral Campaign and Veteran Communist Strategy(2001年選挙キャンペインと昔の共産党の戦術)』で、内容はイタリア(2001年当時)の選挙に関するものですが、書かれていることは、現在世界中で行われている『選挙』や『政治キャンペイン』にも通じ、洞察力に富んでいますので、このブログのタイトルは『政治的スローガン』と意訳しました。 

当時、イタリアは『政界再編』で首相の座に就いた『ベルルスコーニ』が、第二次政権を目指す選挙中で、『ウンベルト・エーコ』は『ベルルスコーニ』の選挙戦術をこのエッセイで徹底批判しています。 

『ベルルスコーニ』は、新聞やテレビ局の経営を始め、多くのビジネスを手掛ける実業家から政治の世界へ転じた人で、『率直な発言』で国民の人気を勝ち取りましたが、私生活ではスキャンダルも多く、また政治的にも『権謀術数』を弄することから、司法の捜査対象にも度々なる『ダーティ』なイメージも付きまとう政治家です。 

教養人の『ウンベルト・エーコ』にとっては、『野卑にして夜郎自大(身の程をわきまえず、偉そうに振る舞う人)の人物』ということなのでしょう。このような人物が一国のリーダーであることに嫌悪を感じている様子がエッセイから伝わってきます。 

『ベルルスコーニ』のイメージは、梅爺にはアメリカの共和党大統領候補者『トランプ』とダブって見えます。そう云えば風貌も似ています。 

『ベルルスコーニ』は『Forza Italia!(ガンバレ、イタリア)』をスローガンにしましたが、『トランプ』も『強いアメリカを取り戻す』と叫んでいます。

梅爺も、時に自分を棚に上げて、リーダーであるべき政治家や経営者が『野卑で夜郎自大である』と眉をひそめることがありますが、一方『人間は誰もが野卑で夜郎自大な側面を有する』と理性では受け容れていますので、『他人(ひと)の振り見てわが振り直せ』と自戒するようにしています。『他人への畏敬の念』や『思いやり』を欠くことが『夜郎自大』だけの人を作り上げる要因ではないでしょうか。 

現在の選挙では『政治的スローガン』が、コマーシャルと同様にテレビで流されます。コマーシャルは、あらゆる手を尽くして視聴者の『心理』を操作しようとしますが、『政治的スローガン』もこの手法が使われます。

コマーシャルや『政治的スローガン』はそう云うものだと梅爺は理解していますので、『その手には乗りませんよ』と懐疑的に接しますが、『疑うことなく受け容れる』純真な方々は、発信者の『思うつぼ』にとりこまれてしまう恐れがあります。

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2016年8月 6日 (土)

Variety is the spice of life.

英語の諺『Variety is the spice of life.』の話です。

日本語で『バラエティ(Variety)』というと、テレビの『お笑い番組』の印象が強くなりますが、英語の元々の意味は『多様なこと、変化があること』という意味です。

従って、直訳すれば『多様性が人生の香辛料である』ということになります。

『多様性』は『色々な出来事』とも『色々な人々』ともとれます。

『色々な出来事』ととれば、『思いもよらぬ事態に遭遇することで、人生は影響を受る』ということになりますし、『色々な人々』ととれば、『様々な価値観の人達に遭遇して人生が変わる』といことになります。

『香辛料』で、『甘く』も『辛く』も味が変わることになりますから、『好ましくない結果』になることもあると受け止められますが、この諺からは、『人生は豊かになる』というような肯定的なニュアンスが感じられます。

『一寸先は闇』『神のみぞ知る』というように、先々のことを正確に予測することは難しいことです。『自然界(物質世界)』も、人間の思惑が絡む『世の中』も、将来起こるであろうことを予測するのが難しいのは、勿論人間の『予測能力』をはるかに超えているということもありますが、想像を絶した無数の要因が、相互に複雑に絡み合いながら『変容』が起きるからです。

『何が起きるか分からない』からこそ、『先のこと』を人は『恐れ』たり、時に『好奇心』の対象にします。『賭けごと』『スポーツ』『ゲーム』『冒険』に熱狂するのはそのためです。

『先のこと』が分かっていないのは自分だけで、誰かに頼れば『分かる(安泰が得られる)』と勘違いして、『専門家』『評論家』『占い師』に頼ろうとします。しかし、『世の中のことは先が誰にも分からない』と、潔く受け容れる方が、現実的であるような気がします。勿論『不安』は残りますが、これも自分で受け止めるしかありません。

『人』は『個性的』に創られていて、それが『人間社会』で大きな意味を持ち、『世の中』を『楽しい』ものにも『まがまがしい』ものにもする要因になっていると、何度もブログに書いてきました。『まがまがしい』ことの代表が『独裁』『戦争』『宗教対立』です。

他人は自分とは異なった『考え方』『感じ方』をしているという基本的なことを認めることが、『多様性』を認める原点で、認めて初めて『多様性は人生の香辛料』といえるのではないでしょうか。

しかし、『世の中』は、『自分の価値観以外は認めない』という人々で満ち溢れています。自分の安泰を優先する本能が、いかに強固なものであるかが逆に分かります。

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2016年8月 5日 (金)

ドキュメンタリー『君が僕の息子について教えてくれたこと』(4)

『自閉症』の専門医が『東田直樹』さんの『脳』をMRIで調べた結果、『脳』の『言語を理解する領域(ウェルニッケ野)』と『言語を話すことを制御する領域(ブローカ野)』を結ぶ『弓状束』が健常者のように発達していないことが分かりました。 

ところが、右脳の『他人の意図を読み取る領域』は、むしろ健常者より発達していることも判明しました。『脳』の素晴らしいところは、このように欠落した機能を補うために、他の領域を発達させることです。脳梗塞の後の『リハビリテーション』で、機能回復するのもこれによります。 

専門医は、『自閉症』患者の『マイナス面』だけを観ずに、『プラス面』にも注目すべきと述べていました。上記の内容は『東田直樹』さんの脳の診断結果で、他の『自閉症』の方では異なった結果になるはずです。『脳』は個性的であることが、解明を困難にしている要因です。医者は『風邪』の患者に対応するように『自閉症』へ対応することはできません。 

『人は個性的に創られている』ということの意味を正しく理解することが、『人間』や『人間社会』を理解する上で、大切なことです。『正義』と『邪悪』は、立場を変えれば逆転する概念であることを理解すれば、大半の諍(いさか)いはなくなるはずですが、多くの人は、『他人が自分のように考えたり、感じたりしないのは怪しからん』と主張して、喧嘩や紛争は後を絶ちません。

『人』は、『安泰』を取得するために、他人とコミュニケーションを利用しますが、『自閉症』の人は、それが思うようにできないために、代りに『自然と一体化した自分』を感ずることで『安泰』を得ようとするのではないでしょうか。

本能的に『飛び跳ねる』のは、『鳥のように自由に飛ぶ気持ちになるから』と『東田直樹』さんは書いています。『全てのものは美しさを待っていて、それを自分のことのように喜ぶことができる』とも書いています。

番組では、来日したアイルランドの作家『ディヴィッド・ミッチェル』との会見や、アメリカの『自閉症の子の親と精神科医のシンポジューム』へ招かれた時の様子が紹介されました。NHKが番組制作のために、演出したこともあろうと思いますが、番組が伝えたいことを明確にするための手段として、梅爺は違和感を覚えませんでした。

最後に、『東田直樹』さんの文章を紹介します。梅爺もこのように自分を日本語で表現できたらと羨ましくなります。

『成功から程遠いようにみえる人の瞳にも、きっと美しい山が映っています。僕は自分の言葉を世界の人に届けられる幸運に感謝し、さらに高い山の頂上を目指すつもりです』

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2016年8月 4日 (木)

ドキュメンタリー『君が僕の息子について教えてくれたこと』(3)

『東田直樹』さんが13歳の時に出版した『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』という小冊子が、偶然アイルランドで有名な作家『ディヴィッド・ミッチェル』の眼にとまり、英訳して『The Reason I Jump(僕が飛び跳ねる理由)』と言うタイトルで出版され、これが世界的な反響を呼ぶことになりました。 

『ディヴィッド・ミッチェル』氏は、過去に8年間日本に英語教師と滞在していたことで『日本語が読めた』ことと、自分の息子が『自閉症』であるという偶然が、この英語版の出版が実現するきっかけになっています。まさしく幸運ということになります。 

『自閉症』の親が誰でもそうであるように、『ディヴィッド・ミッチェル』も、息子が『自閉症』であることが判明した時に、絶望感に襲われ、不幸を呪い、悩み苦しみましたが、『東田直樹』さんの文章を読んで、初めて自分の息子が何を考え、何を感じているかを理解し、今までと異なった方法で息子と対応できるようになりました。一見奇行にみえる言動をたしなめたり、矯正しようとしたりせず、愛情を持って接することができるようになったと語っています。理解できない相手は『不安』を誘起する原因になりますが、理解できたと思った時には『安泰』を感ずることができるという『精神世界』のカラクリが背後で働いているからです。

『東田直樹』さんの文章を読んだ世界中の『自閉症』の親の反応は、ほぼこれと同じです。特に『自閉症』の人の『情感』が、健常者と大きく異ならないことと、時に健常者より純粋で清純であることに気付いたからです。 

『自閉症』の親の感動ばかりではなく、普通の人もこの本を読めば、『人間の素晴らしさ』を再発見できるために、世界的な反響を呼び起こすことになりました。 

『東田直樹』さんは、すでに出版された本や絵本がありますが、更にプロの『作家』となるための努力を継続しています。毎日パーソナル・コンピュータに向かって文章を書き、雑誌から依頼された連載のエッセイ執筆などを行っています。

『東田直樹』さんは、自分の言動が健常者には突然の奇行にみえることも理解しています。しかし、それは『脳』の衝動的な反応ですので、自分では抑制できません。自分の行動を以下のような文意の文章で分析、推量しています(以下は梅爺の意訳表現です)。

『普通の人の記憶は、線のように関連してつながっているように思えますが、自分の記憶は、脈絡のないバラバラな点となって散在しているのではないかと思います。一つ一つの記憶は普通の人よりはむしろ鮮明で、突然ある記憶が衝動的に頭に浮かんできます』

これが、普通の人には突然脈絡が無いように見える言葉や行動を起こす原因と分析しています。本当にあたっているかどうかは別として、見事な推量です。

『一番怖いものは何ですか』という質問に、『東田直樹』さんは『刺すような他人の視線』と答えています。私たちが、故意ではないにせよ、迂闊に向けてしまう『興味本位の視線』や『憐みの視線』が、『自閉症』の方には、このように受け止められていることを知り、梅爺は申し訳ない気持ちになりました。

『一番幸せなことは何ですか』という質問に、『東田直樹』さんは、『昔は、自然と一体化したと感じた時、今は家族で笑って過ごす時と、自分の本を読んだ人から感想をいただいた時』と答えています。

『自分のつらさは自分で我慢できるが、自分が原因で両親や家族が犠牲になっていると感じた時は耐えられない』とも答えています。この表現を読んで、世界中の『自閉症』の親が、涙をながし、過去の対応を悔いて、子供との関係をやり直そうと決意した様子が番組で紹介されました。純粋な子供の気持ちを理解できず、悲しんだり怒ったりイライラしたりしてきたことが、最も子供を傷つけていたことを知ったからです。

梅爺も子供の頃姉が小児まひで、障害者でしたから、親や家族の気持ちも理解でき、涙を禁じ得ませんでした。笑顔で『東田直樹』さんと接する努力をしてこられたご両親や家族の方々の素晴らしさに、ただただ感動するばかりでした。

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2016年8月 3日 (水)

ドキュメンタリー『君が僕の息子について教えてくれたこと』(2)

『東田直樹』さんの『自閉症』は、『しゃべり言葉』をリアルタイムで利用した他人とのコミニュケーションが難しい『言語失行』と呼ばれる症状です。

外見的には、突然その場とは無関係に思える『言葉』を口にしたり、『奇行』にみえる行動に走ったりします。

『東田直樹』さんが、幼いころから『文字(書かれた記号)』には興味を示すことに母親が気づき、パーソナル・コンピュータのキーボードを用いた『ローマ字変換入力』を教えました。その結果、驚くべきことにパーソナル・コンピュータの文章入力ソフトを用いて、日本語の文章を表現できるようになりました。

即座に『しゃべり言葉』では対応できないにもかかわらず、時間をかけてゆっくり表現した『書き言葉』は、語彙も文法も見事な日本語の文章表現ができるようになりました。

この結果、紙に描いた、アルファベットの『キーボード配列図』を利用すると、それを指でなぞることで、たどたどしいながら『しゃべり言葉』での対応ができるようにもなりました。アルファベットの『キーボード配列』を仲介道具として利用する時のみ、『東田直樹』さんは、見事な日本語で、自分の『精神世界』を表現できるという能力を身に付けたことになります。『東田直樹』さんは、いつでも紙に描いた『キーボード配列図』を持ち歩いて利用しています。

『東田直樹』さんの文章は、『論理』表現も『情感』表現も、見事ですから、この文章を読んだだけでは、これが『自閉症』の人が書いたものとは分かりません。このようなことは、世界的にも稀なケースなのだそうです。

私たちは、『東田直樹』さんの文章を通して、『自閉症』の人の『精神世界』を知ることができるようになりました。驚くべきことに、『東田直樹』さんは、自分の『精神世界』と普通の健常者の『精神世界』の違いを、自ら分析、推量して文章にしています。

今まで私たちは『精神科医』の『自閉症』に関する説明を一方的に受け容れてきました。これは健常者による分析、推量でしたが、『東田直樹』さんの文章を読んで、初めて『自閉症』の人自らの説明に接したことになります。これは『脳科学』の進展に大きく貢献することになります。

梅爺も、『自閉症』の方と自分の『精神世界』の『違うところ』と『同じところ』を理解できました。そして、全体的に観れば、それほど大きな違いは無いことを知りました。外見的な言動で、『自閉症』の方は、私たちと大きく違っていると推量してしまいますが、それは偏見であると言わざるを得ません。そのことで梅爺は今までの自分を恥じました。

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2016年8月 2日 (火)

ドキュメンタリー『君が僕の息子について教えてくれたこと』(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで、2014年度の日本で制作された『ドキュメンタリー番組』優秀作品がまとめて紹介され、録画して観ました。特に大賞を受賞した『君が僕の息子について教えてくれたこと(NHK制作)』に感動しました。

自閉症の『東田直樹』さん(現在22歳)が執筆し、2007年に出版された『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』というエッセイが、英語に翻訳され、アイルランド、イギリス、アメリカで大反響を呼び、現在では世界22ケ国で、再翻訳され、出版される計画が進んでいることを知りました。

番組の中で、スウェーデンの出版関係者は、『スウェーデンで、東田直樹は三島由紀夫、村上春樹についで有名な日本人の作家だ』と話していました。

番組は、『東田直樹』さんの日常、執筆活動を紹介したもので、梅爺は感動で涙を禁じ得ませんでしたが、それと同時『自閉症』に関して、自分が今まで如何に無知で、偏見を持っていたかがわかり、恥じ入りました。

『自閉症』は、脳の先天的機能障害の一般的な総称ですから、『アスペルガー症候群』なども含めると、100人に一人がその可能性を秘めていると言われています。

『脳』に関しては、何を持って『健常』とし、何を持って『異常(障害)』とみなすかが非常に難しくなります。『脳』は、肉体的な生命活動を制御する基本機能に加え、精神活動の全てを制御していますが、『情』と『理』の機能で構成される『精神世界』は特に『健常』と『異常』の区別が難しい領域です。

『精神世界』は、140億ケと言われる脳神経細胞の複雑なネットワークが機能して紡ぎだされる世界です。このネットワークのパターンは、先天的な遺伝子情報と、生後に外部から受けた刺激(体験)の双方が作用して出来上がりますので、一人一人が異なっています。

『人』は、体格、容貌、知能、運動能力で一人一人が異なっていると同時に、『精神世界』で『考える』『感じる』ことが異なっています。これは『生物進化』の過程で獲得した、子孫を残すための生殖活動のしくみが関与するためで、『ヒト』や『人』を理解する上で最も重要な要素です。

個性的な(均一でない)『人』が集まって構成される『社会』は『共通性(均一性)』を必要とすると云う矛盾にどう対応するかが、人類の歴史の解けない難題として今でも私たちにのしかかってきています。『民主主義』は一つの解ですが、勿論完全な解ではありません。

『人』の脳は、個性的ですから、云ってみれば誰もが『ズレ(統計でいう偏差)』ているわけで、『ズレ』は先天的要因と後天的要因で決まります。先天的要因が大きく作用した『大きなズレ』が『自閉症』という事になりますが、どこからを『自閉症(障害)』とするかの判別は易しくありません。健常者と言われる人でも『怒りっぽい』『やる気が無い』『内気』などの『ズレ』を保有しています。梅爺も他人からは『ズレている』と言われます。

『自閉症』は、生殖時の遺伝子組み合わせで、ある確率で偶発的におきる話ですから、可能性としては誰にでも起こりうる話で、『親』や『本人』には、何の責任もありません。

しかしながら、残念なことに、多くの人が『自閉症』を『興味本位』や『白い眼』で観ますので、『自閉症』の方やご家族を苦しめることになります。

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2016年8月 1日 (月)

過剰カップリング(4)

『過剰カップリング』が人類社会へ弊害をもたらすかもしれないという著者の懸念は、それだけを過大視する必要があるのかどうか、梅爺は判断に迷います。 

『過剰な○○』は弊害の元、というのであれば、他にも色々事例を挙げることができます。『薬品投与』『炭酸ガスの排出』『人口増加』『少子高齢化』ときりがありません。 

何事にも、適度なバランスが必要であり『過剰』は好ましくない現象を生むことを、日本人の先人は『過ぎたるは及ばざるがごとし』と喝破しています。 

しかし、一般論はそうですが、現実にある事象に遭遇した時に、何が『適度なバランス』であるかの共通認識を弊害が起きる以前に形成することは容易ではありません。もっとはっきり言ってしまえば、『不可能』に近いということになります。いつも書いているように、個性的な個人の価値観を集めて、社会の共通価値観を作り上げる、普遍的な知恵を人類は持たないからです。

『民主主義があるではないか』という反論があろうかと思いますが、『民主主義』が機能しない事例は周囲に満ち溢れています。『民主主義』も一般論です。

個人とインターネットの『カップリング』は、情報の取得、情報の発信、リアルタイムな交信など、従来になかった新しい恩恵をもららしました。しかし『過剰なカップリング』や『悪意を持った利用』が弊害を生むことは確かなことです。

この著者は、エッセイの最後に、『私たちは、より快適であること、より便利であることを望む。そしてそれが弊害となって自分の身に襲い掛かってくる時まで続ける』というような主旨のことを書いています。

『いきあたりばったり』のようで、知恵の無い話に聞こえますが、複雑な事象が将来もたらすであろうことを、詳細に予測できない人間の能力に起因することです。

したがって、一人でも多くの人が、当たり前に見える事象の裏側に潜む『本質』を考え、その認識内容を発表し、それに啓発されてまた多くの人が、自分の認識を変えていくというプロセスを大切にしなければなりません。

それが健全に行われる社会が、成熟した文明社会です。

『本質』を洞察するには、知識も必要になりますから、『学ぶ』ことが大切になります。自分の中にある『疑問』を晴らすために、必要な知識を『学ぶ』わけですから、やみくもに『学ぶ』ことは効率の悪い話です。

『過剰カップリング』の『本質』に迫ろうとすれば、『インターネット』『情報通信処理技術』の『本質』を考えなければなりません。

そして、『個の価値観』と『全体の価値観』のバランスという、問題の『本質』へ到達し、最後は『精神世界の創りだす価値観』『脳の仕組み』などが基本的に関与していることを知ることになります。

『過剰カップリング』だけが、特別の問題であるのかどうか判断に迷うと梅爺が考えるのは、こういう思考プロセスを行っているためです。

何とも手に負えない『屁理屈爺さん』と、疎まれますが、これが梅爺の個性なのです。

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