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2016年7月31日 (日)

過剰カップリング(3)

人間以外の生物も、子孫を残すためという『目的』のために、『カップリング』を利用しています。遺伝で継承された『本能』のような機能が背景にありますから、『カップリング』は偶然の出来事とはいえません。

しかし、生命活動以外の『物質世界』の事象には、『目的』のための『カップリング』は存在しません。一見『カップリング』にみえる事象があったとしても、それは偶然の結びつきに過ぎません。

『物質世界』は絶え間なく『変容』していますが、この『変容』には『目的』『あるべき姿』『理想』などはありません。『物質世界』に存在する『不均質(ムラ、歪)』を『均質』に変えようとする『摂理』で『変容』が生じているだけです。

理論的には、『不均一』がなくなり、全てが『均一』になったときに、『物質世界』の『変容』は止まり、『死』が訪れます。『宇宙』にも『死』もありうるという話です。『生命活動』は、『変容』を利用した営みですから、『物質世界』が『死』を迎えれば、維持できなくなります。

しかし、『物質世界』の『変容』は、現状では衰えを見せずに活発に続いており、『死』を心配する必要などはありません。『太陽』の燃焼活動は、あと40億年は続くと考えられています。138億年の『宇宙』の歴史に対し、『現生人類(ホモ・サピエンス)』の歴史はたった20万年であるということの意味を私たちは知るべきです。極めて幸運な事象が偶然につながって、生命が誕生し、気も遠くなるような試行錯誤の生物進化の過程を経て、『現生人類』は出現しました。しかし『現生人類』は、『宇宙』の歴史の最後の最後の一瞬に登場した生物の一種に過ぎません。私たちは『自然』なしには生きていけませんが、『自然』は私たちの存在とは無関係に『変容』を継続します。

『神が六日間で天地とともに人間を創ってくださった』という話は、『精神世界』が考えた『虚構』であり、科学が解明した事実とは異なります。『虚構』は『虚構』であると、認識している分には問題がありませんが、これを『事実』と主張するとややこしい話になります。『天地創造』とともに人間が存在していたと考えるのは人間の思い上がりです。

『カップリング』の話が、大きく逸れてしまって恐縮です。

梅爺の『精神世界』が、『カップリング』という言葉を引き金にして、色々なことを連想して考えるという事例としてご容赦ください。

『精神世界』を創りだす『脳』も、脳神経細胞の『カップリング』を基盤として機能しています。

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2016年7月30日 (土)

過剰カップリング(2)

『カップリング』に関しても、梅爺は、『物質世界』と『精神世界』に分けて考えてみたくなります。

人間の『精神世界』が関与する『カップリング』は、『思惑』『目的』『意図』があって起こることが大半です。偶然出会った男女が恋に落ちるなどというのは、一見偶然な『カップリング』に見えますが、『一目惚れ』という『精神世界』が関与していますから、出会いは偶然出会っても、恋に落ちたのは、『思惑』が働いたとみる方が妥当です。私たちは、日常的に知らない人に沢山遭遇していますが、その誰とでも恋に落ちるわけではありません。

私たちが、パーソナル・コンピュータやスマート・フォンを利用して、『インターネット』の世界に入り込むのは、『自分』と『インターネットの世界』の『カップリング』と言え、『自分』と『インターネットの世界』は相互に影響を及ぼします。勿論『自分』の『思惑』『目的』『意図』が関与してこの『カップリング』は成立します。

『人』と『人以外のもの(例えばインターネット)』の『カップリング』は、『人』が主体性を持っている限り、『人』によって『カップリング』の成立や解除(デカップリング)が行われます。いつでも解除できるわけですから、いわば『あとくされの無いカップリング』になります。

ところが、『人』と『人』とが『カップリング』で一度結びつくと、両者の『思惑』が関与するために、簡単に解除(デカップリング)できなくなります。恋人同士の別れ話、夫婦の離婚など面倒な話になります。『人』の『精神世界』が個性的であることに原因があります。

恋人同士、夫婦も、『物質世界』の視点で『ヒト』として観れば、『他人同士』であり、『精神世界』は同じではないということを理解することが大切です。

『愛の絆』などというのは、相互に『違い』を認めて、それを受け容れない限り成立しません。

離婚の理由に『性格の不一致』などがよくあげられますが、『性格の不一致』は厳密にいえばどの夫婦にもあることですから、『性格の不一致が許容できないから』というのが適切な表現になります。

『おしどり夫婦』にみえる『カップル』は、夫婦のどちらかか両方が『賢い人』で、『違い』を鷹揚に受け容れる度量の持ち主であるから成り立っている関係です。『長所』を『欠点』より大切にするという考え方が『賢い』といえます。

梅爺は『離婚はいけない』『誰もがおしどり夫婦であるべきだ』などと言いたいのではありません。人間である以上、全てを間違いなく見通すことなどできませんから、人生で『思惑』がはずれることに遭遇するのは避けられません。ただ人と人が形成する『カップル』では、相互の『思惑』が絡むので、一層ことが複雑であると申し上げたいだけです。

自分が願うように『愛の絆』が築けないのは『相手が悪い』となじる人は、いつまでたっても『愛の絆』などを手に入れることはできません。『愛の絆』は、個性的な二人の人間が、互いに違いを認め、時にその違いを尊敬して受け容れることでしか生まれません。

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2016年7月29日 (金)

過剰カップリング(1)

『What should we be worried about?(我々が懸念すべきこと)』という、オムニバス・エッセイ集の25番目の話題は『Too much coupling(過剰カップリング)』で、著者は、アメリカのコーネル大学応用数学教授で作家でもある『Steven Strogazt』です。

『カップル(Couple)』は、対(つい)となる二つのものがうまく結合した状態を示す言葉で、日本では男女の仲を『お似合いのカップル』などと表現する時に用います。

対(つい)となる二つのものは、もともと独立した存在で、『カップル』となった後も相手からの影響を受けながらも、元々の個性は基本的に維持されるという前提です。『男女のカップル』などを想像いただければ、この関係は御理解いただけるでしょう。

もし、両者が完全に元の個性を失って、一つの新しいものとして融合してしまい、元の状態へ戻すことができなくなったような状態は、もはや『カップル』ではなくなります。『インテグレーション(Integration)』などという言葉が該当するのではないでしょうか。

このエッセイで、著者が懸念していることは、『インターネット』上で、コンピュータやユーザーが、無数の『カップル』を形成した時に、何かの拍子に、全ての『カップル』が、同じように振る舞ったりすると、システム全体は麻痺したり、暴走したりすることです。

すぐに思い当たる例は、国際金融取引で起きるパニック状態です。金融取引はトレーダーという人が判断するものの他に、ある条件を検出したら、すぐに自動的にコンピュータが『売り』『買い』を行う方式が採用されています。一瞬でもタイミングを逸すれば、『大儲け』をするはずが『大損』になったりしますから、コンピュータによる取引は、人間の対応ではとても困難な、いわば『瞬時』で行われます。

コンピュータに仕込まれている『自動取引を行うプログラム(アルゴリズム)』は、どれも似たようなものになりますから、どのコンピュータも同じように振る舞うと、一瞬にして特定の株が、高騰したり、暴落したりします。ある国へ投資されていた資金が、一瞬に引き上げられてしまって、一国の経済が麻痺するといったことまで起こります。

『情報通信処理技術(IT)』が、現在ほど利用されていなかった時代は、情報が伝わるのに時間差があり、その情報に基づいた判断も人間が行っていましたから、上記のような不具合は起きませんでした。

『情報通信処理技術』が、当たり前に身の周りに存在する現代は、人類が今まで経験したことが無い環境であることが分かります。

『情報通信処理技術』を、人間が道具として主体性をもって利用している間は問題がありませんが、主客転倒して、道具であるはずの『情報通信処理技術』が私たちを支配する懸念が現実のものとなっています。

この著者が懸念していることの本質は、『人間』と『道具』のどちらが主体性をもって振る舞うかということです。『人間』の主体性は『考えること』ですから、これを放棄することがもっとも危険なことになります。

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2016年7月28日 (木)

松尾芭蕉と日本の精神文化(6)

『松尾芭蕉』が晩年に到達した『死生観』は、『より豊かに生きるために全てを捨てる』という心境で、これを実行に移しました。家や財産を売り払い、『旅』に身を置きました。『奥の細道』は、この『旅』から生まれました。

現代の日本に似て、『享楽』『物欲』を求める風潮が支配的であった、元禄時代の江戸の人達にとって、『全てを捨てる』という『生き方』は、脳天をハンマーで叩かれるような衝撃を人々に与えたのではないでしょうか。

しかし、厳密にいえば、生物としての『ヒト』は、『全てを捨て』ては生きていけません。『煩悩解脱』を目指す雲水(うんすい)でも、『生きる』ための最小限のものは必要とします。『衣服足りて礼節を知る』という諺があるとおり、深い精神性を追求できるのは、最低限の生きる環境が整っていての話になります。梅爺が能天気にブログを書き続けられるのは『年金』で生活ができているからです。

『豊かに生きる』ことは、『モノの豊かさ』ではなく『心の豊かさ』に重きを置くことという『価値観』が、『松尾芭蕉』の行き着いた『死生観』であったのでしょう。

この考え方は、別に新しいものではなく、『宗教』の聖人などに共通したものです。『国民総幸福量』を高める国策を掲げる『ブータン』などは、国政の中心にこの考え方があります。

江戸の人々は、昔の『聖人』ではなく、当時『俳諧』の宗匠として有名人であった『松尾芭蕉』が、保証されていた生活をすて、家財を売り払って『旅』に出たことに驚き、自分にとっても『生きる』こととは何なのだろうかと考えさせられたのではないでしょうか。

『雅(みやび)の世界』の『和歌』でも、『みちのく』は題材(歌枕)として多く詠われてきました。『松尾芭蕉』の『奥の細道』は、その『歌枕』を訪ね、『俳諧』で『和歌』にも劣らない『美』や『感動』が表現できることを実証しようとした試みでもありました。

『ありのままの自然や人間のみつめ、そこに美や感動を見つけることが、豊かな心の基盤になる』ことを、『松尾芭蕉』は実践して見せてくれました。

これがその後の『日本の精神文化』に与えた影響は計り知れないものがあります。政治や経済で、大きな功績を残した歴史上の偉人に劣らない、大きな功績といえるのではないでしょうか。

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2016年7月27日 (水)

松尾芭蕉と日本の精神文化(5)

『俳諧』の『連歌』では、異なった詠者が、前の人の『句』に啓発されて、自分の『精神世界』を表現することになります。啓発されることも『個性』で異なりますから、次々に『思いもよらない世界』が展開されていきます。

『句』が内包する抽象的な『余白』が、次の詠者の『感性』を呼び起こすことになりますから、『俳諧』では『余白』が重要な役割を果たします。この精神は『俳句』にも継承されています。意図的に『余白』を残し、周囲の人の新たな情感を喚起するのが日本の『精神文化』です。『ドナルド・キーン』はこれを『曖昧さ、余情』として、日本文化の特徴の一つに挙げています。『理』の世界では『曖昧さ』は好ましいことではなく『白黒をつける』ことが求められますが、『情』の世界では『曖昧さ』が重要な役割を果たします。しかし『情』における日本文化の長所は、『理』において短所になりがちです。

『俳諧』において、複数の人が、それぞれ自分を主張しながら、共同作業で『全体』を作り上げていく『創作』の様式は、芸術の視点で観ても、世界に類を見ません。

最終的に『何が出現するか予想もできない』などという芸術様式を、個人の芸術家が手法として採用することはありますが、複数の人の共同で作り上げるという話は聞いたことがありません。

芸術は、個性の表現であり、異なった『価値観』を共存させる表現は、欧米人は思いつかなかったのでしょう。『俳諧』は『民主的な表現様式』として、特筆されるものです。相互に啓発しながら、『思いもよらない世界』へ到達するという見事な発想です。

『松尾芭蕉』が、日本の『精神世界』の変革者であると評価されるのは、平安時代から続いてきた、『雅(みやび)の表現』を尊重する貴族的な文化に対して、庶民を含めた日常的な『俗』の中にも『美』や『感動』があることを『俳諧』を通して表現して見せたことです。

『古池や蛙飛びこむ水の音』などという『句』は、江戸時代の人にとっては、驚天動地の表現であったということです。『雅の世界』の『和歌』では、『蛙』は『鳴き声』だけが表現の対象として認められるという制約がありましたから、『飛びこむ水の音』などという表現は、御法度であったということです。

『俗の世界』でも『雅の世界』に匹敵する、『美』や『感動』が表現できることを率先して示そうとしたことに、『変革』の基盤があります。

『雅』は人間が求める一つの理想ですが、『雅』だけでは『生きて』いけません。清濁併せ飲む『俗』が、人間の実態です。これを直視する『松尾芭蕉』の姿勢が庶民の共感を呼び、現在の日本人にまで継承されてきています。。

『松尾芭蕉』は、『古人の跡を求めず。古人の求めし所を求めよ』と云っています。『日常の俗の世界』にも、『美』や『感動』があることを示したことで、それ以後の日本人の『感性』に大きな影響を与えました。

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2016年7月26日 (火)

松尾芭蕉と日本の精神文化(4)

昨今、欧米でも『日本文化』が興味の対象になり始め、『俳句(HAIKU)』もそのひとつです。英語やフランス語の『HAIKU』が詠まれています。 

勿論、外国語で日本語の『俳句』の様式を踏襲することはできませんので、『シラブル』の数を限定した『短詩』形式を模倣することが行われています。 

日本人にとって『俳句』は、視覚や聴覚を総合駆使し、言葉の意味、言葉の組み合わせの妙、リズム(語感)をとらえて、『精神世界』の中に、新しい認識や美意識を創成することですから、『日本語』あっての『俳句』であり、『HAIKU』は『俳句』とは似て非なるものになるのは仕方がありません。 

しかし『精神世界』を表現するには、『多くの言葉が必要』と考えていた欧米人にとって、『限定された言葉』の方が反って広大な『精神世界』を提示できるという考え方は斬新であり、『HAIKU』に惹かれる人達が出現することになったのでしょう。彼らにとって『異文化』である『日本文化』の中に、自分達にはなかったものを見出してもらえるのは、『相互理解』が深まることでもあり、歓迎すべきことです。 

『語らないことが多くを語る』という『余白』の本質的な意味に、欧米人の一部が気づいたことも重要なことです。日本人にとって、毎日『I love you』を口にすることは、むしろ軽薄に見える行為で、『言わずもがな』の関係の中に深い『愛』があると感じ取ります。

『価値観』の問題ですから、どちらが『正しい』という議論にはなりません。ただ、日本人が欧米文化に接する時には、『もっと多くを口にする』必要があり、欧米人が日本文化と接する時には、『余白』の心を理解する必要があるということに他なりません。

『民主主義』などという概念を知らなかった江戸時代の日本人が、『句会』で採用している方式は、『民主主義』の本質ともいえるもので、それを知った現代の欧米人が驚くことになりました。

『句会』では、匿名で自分の『句』を発表し、参加者は、誰もが自由に批評できると同時に、無記名投票で『共感』できるかどうかの度合を決めます。社会的な『肩書き』『年齢』などを問わない『平等』が確保されていると同時に、個人の『個性』を相互に認め合うことが基本になっています。他人の批評で、自分が啓発され、あたらしい高みへ向かう満足感もえられます。人間の本質を理解していないと、このような方式は生まれません。『句会』の方式を考え出した、昔の日本人の資質は、誇りうるものです。

『個性的な違いを認める』『多くの人が共感できるかどうかを投票で決める』ということは、『多様性を認めた上で、共感できる度合を確認し、共存の方向を探る』ということに他ならず、『民主主義』が理想とする形態に近いものです。

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2016年7月25日 (月)

松尾芭蕉と日本の精神文化(3)

番組で指摘されて、梅爺は『俳諧』が世界に類をみない『創作様式』であることに気づき、その本質的な意味を知って、眼から鱗が落ちました。

『俳諧』は、『五・七・五』『七・七』と参加者が、『句』を紡ぎだし、それを繰り返してつないでいく『連歌(れんが)』の様式が採られます。

『五・七・五・七・七』の『和歌』から派生したものと考えられますが、独りの創作ではなく、複数の人達の共同創作であることが決定的に違います。

明治以降、最初の『五・七・五』の『発句(ほっく)』だけが独立し、『俳句』になりました。ただし、句会で自分の『俳句』を披露し、皆で批評したり、評価したりする『俳諧』の形式は継承されています。

『日本語』は、単音の組み合わせで『言葉』が構成できる言語であるが故に、『五・七・五・七・七』の表現が可能になります。何故、この言葉のリズムを日本人が好み、美意識の基盤にするのかは、『脳』に関与することと思いますが梅爺には説明できません。西欧の言語では、この様式は真似できません。

『五・七・五』や『七・七』は、短い言葉で構成される『句』ですから、巧拙を問わなければ、日本人なら誰でも創作に参加できます。小学生でも『俳句』は創れます。この『始める』にあたってのハードルの低さが、素晴らしさの一つです。江戸時代には、驚くべきことに農村や漁村にも『俳諧』は普及していました。日本人の誇るべき資質です。『言葉遊び』として『川柳』や『狂歌』へと派生し、レベルの高い『諧謔』精神も育まれました。

誰もが基本的に平等な立場で『共同創作』に参加できるという『俳諧』の様式は、『絆で安堵を得る』という人間の基本的な精神の欲求を満たします。更に、異なった個性の表現の組み合わせで、全体としては『思いもよらない』世界へ発展していくことに、誰もが好奇心をかきたてられます。

複数の人が、平等な立場で『共同創作』するなどという、芸術様式は世界中どこにもありません。身分制度が厳格であった江戸時代に、理想的な民主主義ともいえる様式が存在していたことになります。

明治維新後、日本各地で、有志の人達が集まり、『憲法草案』を起草したなどという驚くべきことも、『俳諧』文化の基盤があったからかもしれません。

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2016年7月24日 (日)

松尾芭蕉と日本の精神文化(2)

いくらなんでも、『松尾芭蕉』独りの価値観が、突然白紙の状態から『日本の精神文化』をある色に染めてしまったというようなことはありません。

当時の『日本(江戸の元禄時代)』の世相が、『松尾芭蕉』の価値観を、受け容れ易い状態になっていたということが言えます。

歴史によくある巡りあわせですが、丁度機が熟した時に、適切な人物やヒーローが出現するという話です。100年前の戦国時代に『松尾芭蕉』が現れても、同じ功績は残せなかったでしょう。

『松尾芭蕉』を受け容れた、元禄時代の世相の特徴は、以下のようにまとめることができます。

(1)約100年戦乱の無い時代が続いて、町人文化を中心に『享楽的』な人生観がはびこるようになっていた。それまでの『如何に死ぬか』ではなく、『如何に生きるか』が人々の問題意識に変っていた。70年戦争がなく、物質的な豊かさを優先して追い求めている現代の『日本』とある意味で似ている。
(2)木版刷りの技術が高度になり、『出版物』が多く普及し、人々の識字率も高まって、武士ばかりではなく、多くの町民や農民、漁師の中に『古典』を求めて読む人が増え、知識が『教養』として根付くようになった。この日本人の資質は、誇りうるものではないだろうか。
(3)色々な『趣味』を楽しむ気風も普及し、複数の人が集まって『言葉遊び』を楽しむ『俳諧(連歌)』の愛好家が、江戸ばかりではなく地方にまで広まっていた。『俳諧』とは関係が無いが、難しい数学問題を創作しては解く『和算』の愛好家も全国に存在していた。この分野では『関孝和』が有名。

特筆すべきことは、身分を問わず愛好家が集まって、『俳諧(連歌)』を楽しむ風潮が当たり前になっていて、有名な宗匠の下に、多くの人が弟子入りし、その受講料で宗匠の生活が成り立っていたということです。『松尾芭蕉』は、江戸でも指折りの有名な『俳諧』の宗匠でした。

『俳諧』好きの大名や裕福な商人の催す会にも招かれ、その一人の商人から住む家さえ提供されていたらしいと言われていますが、やがて江戸深川に自分の家を持ったことが分かっています。深川に移り住むようになった理由や、妻帯していたかどうかなどは、梅爺は分かっていません。ただ、生活に困窮するような状態ではなかったこと、孤高を望み、人づきあいを嫌う人ではなかったであろうことは想像できます。

『松尾芭蕉』のすごい所は、『俳諧』を単なる言葉遊びの領域から、日本の『古典』とも言える『和歌』に対抗できる新しい『文芸』様式にまで高めたことと、晩年『全てを捨てて旅に出る』という『死生観』を実行したことです。

『享楽』が蔓延する世で、『全てを捨てる』という『価値観』は、大きなインパクトを人々に与えたに違いありません。現代の日本人にも、迫ってくる『価値観』です。人生は『旅』であり、最後に人が求めるものは『富』や『地位』ではなく、『心』や『絆』といった精神世界の豊かさであることを死示唆しています。

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2016年7月23日 (土)

松尾芭蕉と日本の精神文化(1)

NHKBSプレミアムチャンネルに、ある話題に関して過去に放映されたいくつかの番組をまとめて紹介する『プレミアム・カフェ』というを特集番組があり、『俳句』が3夜連続で紹介されました。

第1夜目は、『松尾芭蕉』の人物論を数人の有識者が語り合う番組と、『奥の細道』の主要部分の朗読を背景(有名な句も挿入される)に、その場所を映像でたどる紀行番組で構成されていました。

梅爺は、『俳句』や『松尾芭蕉』に関して『知っている』と思っていたことが、いかに底の浅いものであったかを認識し、『なるほど、そう云うことか』と一気に理解が深まったことに満足しました。

何事も、表面的な『知識』に止まっていては、それ以上の進展がありませんが、『本質』を自分で納得した途端に、全く別の世界が見えてきます。他のこととの関わり合いも見えてきます。『本質』を自分で納得するという思考行為が如何に大切であるかが分かります。

どうして、今まで誰も、『俳句』や『松尾芭蕉』の『本質』を梅爺に示唆してくれなかったのかと恨めしくもなりますが、遅まきながらこの番組に遭遇して、梅爺の理解は、幅と奥行きが一気に増しました。

『俳句』と言う言葉は明治以降に使われるようになった呼び名で、江戸時代は『俳諧』と呼ばれていました。『短歌』も同様で、昔ながらの呼び名は『和歌』でした。

現代の日本人に共通して流れている『精神文化の価値観』の基盤に、『俳諧』や『松尾芭蕉』が大きく関与しているというのが、番組が示唆していることです。少し大袈裟に云えば、『俳諧』や『松尾芭蕉』が存在しなかったら、日本の近世における近代化も遅れていたかもしれないというような話です。

一国の『精神文化の価値観』を変えてしまうほどの影響力とは何かが、『本質』から見えてきます。実にスリリングです。

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2016年7月22日 (金)

第9回東京六大学OB合唱連盟演奏会

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7月18日の午後、池袋『東京芸術劇場』コンサートホールで、『第9回東京六大学OB合唱連盟演奏会』が開催され、梅爺は東京大学男声合唱団『コール・アカデミー』のOB合唱団『アカデミカ・コール』の一員として、舞台で歌いました。
 

『東京六大学OB合唱連盟』は全て『男声合唱団』です。明治以降、大学が主として男性のための勉学の場であったことにも由来しますから、『東京六大学野球』と性格が似ていないことはありません。 

ただし、現在の日本の大学の多くは、男女を区別しない勉学の場になっていて、それでも『男声合唱』『男性メンバーによる野球』が存続しているわけですから、『男尊女卑』の考え方の名残とばかりは言えません。 

『男声合唱』は、『混声合唱』『女声合唱』『少年(児童)合唱』などと同じく、『合唱』の一つのジャンルであり、それぞれのジャンル同様に『特徴』を有しています。『合唱』として『男声合唱』だけが優れているとは言えませんが、他の合唱形式では表現できない『特徴』があります。この特徴に魅せられた人達が活動に参加し、同じくその魅力に魅せられた方々が、演奏会を聴きに来て下さいます。 

人間の声としては低い部類に属する『男声』だけで『和音(ハーモニー)』を創りだすと、物理的に高い『倍音』が生みだされ、聴衆の耳に届きます。この『肉声』と『倍音』の組み合わせが、『男声合唱』独特の重厚さの要因です。演奏会の最後に、各校の『校歌、エール』の合同演奏が行われましたが、300人規模の『男声合唱』は圧巻でした。 

残念ながら最近の日本の男子大学生で、『男性合唱』に興味を持つ人が少なくなり、『男声合唱団』の継承が難しくなっている大学が増えています。東京六大学の中では、『法政大学』が一番危機的な状況になっています。

『東京大学』も、数年前までは入部する人が減る状況が続いたため、OBが種々の援助を行い、現在では危機を脱出しました。新たに『女声合唱団』も新設し、『合唱』に必要な、人員(量)と質(基礎トレーニング)が確保できるようになりました。『合唱』のレベルはその国の文化レベルの象徴でもありますので、多くの若い人達が『合唱』に参加する国であってほしいと願います。

今回、『アカデミカ・コール』は、『藤原義久』先生の作編曲による、『法華懴法(ほっけせんぽう)』を演奏しました。、『法華懴法』は、天台宗総本山園城寺(通称三井寺)の声明(しょうみょう)を男声合唱として採用したもので、1969年に『コール・アカデミー』の委嘱で創られた作品です。当時の『コール・アカデミー』はこの曲をドイツ演奏旅行でも演奏しています。

音楽の形式は『西洋音楽』ですが、表現する内容は『仏教の教義』『日本的な感性(文化)』ですから、大変難しいことに挑戦することになりました。

カトリック信者で宗教全般にに造詣が深い『三澤洋史』先生の、指揮、指導で、なんとか歌うことができました。梅爺は『キリスト教』の祈りと、『仏教』の祈りの共通点、相違点などの理解が少し深まったような気がしています。

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2016年7月21日 (木)

エイリアンの攻撃(2)

梅爺も、この著者と同じく、『エイリアンの攻撃』を、現時点で私たちが高い優先度で懸念する必要はないと考えています。

勿論、宇宙や生命に関する科学知識と確率論とを併用して推測すれば、宇宙のどこかに『高い知性を保有するエイリアン』が存在する確率はゼロではなく、したがってその『エイリアン』が地球を攻撃してくる可能性もゼロではないと言えます。

仮に『エイリアン』が私たちよりは圧倒的に進んだ『エネルギー操作技術』『空間瞬間移動技術』を保有し、地球人類が保有している文明や言語の全てを理解する能力をもっていたとしても、彼らが『地球は攻撃に値する』と考えるかどうかは極めて不明です。彼らにとっては、自分たちが快適に生活できる『星』を持っているという前提での話です。したがって、手間暇かけて『地球を攻撃する』ためにやってくるとは思えません。それよりは、『知性的生命体』同士の友好的な交流をするために、好奇心に駆られてやってくる確率の方が高いように思います。

いずれにしても『エイリアンの攻撃』を受ける確率は、地球人類が絶滅するほどの他の危機、『地球温度の上昇』『小天体と地球の衝突』『巨大太陽風の発生』『世界規模の核戦争の勃発』などの発生確率よりは、はるかに低いと梅爺は推測します。『可能性はゼロではないが、それは無いものと想定して行動する』ということになりますから、『飛行機が墜落して死ぬ確率はゼロではないが、それは起きないものと想定して旅行に出かける』という判断と似ています。

私たちは、地球上で、電波を放送・通信目的や探査目的で日常的に利用しています。それらの多くは、宇宙へ向けて発信する目的ではありませんが、電離層から宇宙へ漏れだしていますから、高い知性の『エイリアン』ならば、それを補足、分析していると考えてもおかしくありません。つまり『エイリアン』はとっくの昔に私たちの存在を知っているに違いないという推測になります。

しかし、『エイリアン』の住む星が、太陽系外の恒星を周回する惑星であるとする(恒星自体は生命体が棲める環境ではないという前提)と、地球からは少なくとも数光年以上離れていますから、地球の電波を補足するには、地球人類が現在実現している『巨大直径のアンテナを利用した電波望遠鏡』レベルの技術では無理ですので、例えば『重力レンズ効果』を利用した私たちがまだ知らない装置を実用化して保有しているのかもしれないと、このエッセイに書いてありました。

『エイリアン』は好戦的であれ、友好的であれ、その存在は、『理』だけで推測できるもので、これは『空想による虚構の存在』とは異なります。

『エイリアン』は、『神』『悪魔』『お化け』『麒麟』『不死鳥』と同列なものではなく、科学者が大真面目に研究対象としています。

しかし、『エイリアンの攻撃』だけをとりあげて、深刻に心配する必要はないという著者の主張には、梅爺も賛成です。

私たちは、すぐにでも対処しなければならない深刻な懸念事項を、沢山既に抱え込んでいるのですから。

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2016年7月20日 (水)

エイリアンの攻撃(1)

『What should we be worried about?(我々は何を懸念すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の23番目の話題は『The danger from Aliens(エイリアンの攻撃)』です。著者はアメリカにある『地球外知性的生命体探査研究所(SETI)』の天文学者『Seth Shostak』です。

宇宙のどこかに、地球人類より知性が優れ、高度な文明、技術を保有する生命体(エイリアン)存在するのかどうかという疑問は、私たちの好奇心の対象です。

アメリカに『地球外知性的生命体探査研究所』があるのは、好奇心に応えるためだけではなく、国家防衛上の現実的な目的があるのでしょう。

広大な宇宙のどこかに、『生命体』が存在する確率は高いことを多くの科学者が認めています。更に地球人類より知性が優れた『生命体』となると、確率は下がりますが、それでも『いないとは言えない』というのが多くの学者の見解です。科学者にとって宇宙は、『神』よりも『エイリアン』の存在確率が高いと考える場所なのです。

『地球生命体』と『地球外生命体』は、『生命』を構成するしくみ、維持するしくみが同じとは限りません。ただし『知性的』であるとすれば、『感覚器官』『脳』『手足』に相当するものは機能として保有しているのと推測するのが妥当ではないでしょうか。

『地球外生命体』が地球人類より高度な『知性』を保有しているということは、宇宙の『摂理』について、我々より理解が進んでおり、それを利用する技術も進んでいるという推定になります。つまり『科学』の分野で私たちより先行していることになります。『摂理』は宇宙の全てに共通に働き、たとえ『生命体』が存在しない世界でも厳然と存在します。

知性的な『地球外生命体』は、地球人類の『情感』にあたるものを保有しているのか、政治や経済と言った『社会システム』が存在するのか、『芸術』や『宗教』といったものに類する価値観をもっているのかどうかは、想像の域をでません。

『地球外知性的生命体探査研究所』では、宇宙から発信される、規則的な電波信号をとらえて、それが『エイリアン』からのものかどうかを調べたり、逆に特定の天体に対して、地球から信号電波を送り、それに返答が返ってくるかどうかを調べています。

宇宙からの規則的な電波信号のキャッチに成功し、『すわ!エイリアン』と色めきたったことはありますが、いずれも宇宙の物理現象(中性子星の回転など)が要因と判明していて、公式には『エイリアン』の信号をとらえたという報告は現状ではありません。

特定の天体に対し、信号電波を送ることは、わざわざ『私はここにいます』と『エイリアン』に教えるような行為で、悪意の『エイリアン』が攻めてくるきっかけを作っているのではないかと、真剣に危惧する科学者たちもいます。

著者は、地球人類が自分たちの文明のために、電波を利用することは、止めるわけにいかず、有能な『エイリアン』がいるとすれば、とっくにこれらを補足しているので、今更騒いでも手おくれだと、開き直っています。『エイリアン』の攻撃の可能性と、私たちの実利を比較すれば、実利優先が当然だという主張です。

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2016年7月19日 (火)

Augmented Reality(4)

現代社会は、主に『情報通信技術(IT)』によって、人間が五感を利用し、周囲の自然環境から得られる情報以上の多量な『現実』に関する情報を取得できる環境であることを、著者は『Augmented Reality』という言葉で表現しています。

『Augmented Reality』がもたらす影響は、『社会への影響』と『個人への影響』に区別できるような気がします。

情報が満ち溢れていて、誰もがそれを習得できる『社会』は、そうでない『社会』にくらべて、特異な様相を呈することは容易に想像できます。

何事も『長短は表裏一体』ですから、情報量が多いことは『社会』へ良い影響と悪い影響を与えます。情報量だけが幾何級数的に増え、『社会』の対応能力が旧態依然であると、従来にはなかった問題が生じます。

著者は、これを『マルサスの惨事』と表現しています。『マルサス』は18~19世紀のイギリスの経済学者で、『世界の人口が幾何級数てきに増加し、資源が一定または穏やかな増加なら、貧困が拡大する』と『人口論』の中で主張しました。

このエッセイの著者が心配するように、情報が社会パニックを生んだり、情報を悪用する人達が出現したりと、問題が生ずることは間違いありません。

しかし、どのような時代でも、変化が先行し、問題が明確になると、人類はそれを是正するように集団行動する習性も持ち合わせていますから、楽観的に云えば、それを待つことで良いようにも思えます。人間社会も自然界同様に『動的平衡移行』が行われるということです。そのような悠長なことを云っていたら、人類が滅亡してしまうというような問題かどうかがポイントになりますが、『Augmented Reality』の問題は、それほどの緊急事態とは思えません。

もう一つの側面は『個人』への影響です。『人(個人)』の情報処理能力は無限ではなく、限界がありますから、ある限度を越すと、情報が存在しても、それは無視され処理の対象にはならなくなります。

従って、膨大な情報が存在していても、存在していないのと同じことで、あまり意味が無いことになりますから、大きな影響はないと云えなくはありません。

しかし『人』は情報が増え、『選択肢』が増えると、反って決断ができなくなるという心理的な反応を示します。『味噌ラーメン』『醤油ラーメン』『塩ラーメン』から一つ選ぶのは簡単でも、多様な中華料理メニューを提示されると、迷ってしまうというような話です。

これが嵩(こう)ずると、『人』は決断することをあきらめてしまうことになり、自分を放棄してしまうことになりかねません。

多量な情報の中に身を置いて、『どうせ自分には判断できない』とあきらめる人が増えることは、その人にとっても、社会にとっても良いこととは言えません。日本は元々『寡黙が美徳』とされてきましたので、自己主張放棄を『美徳』と勘違いしてしまうのは問題です。

本当に重要な情報が何かを選び、それに基づいて自分の考え、好みを主張する訓練を現代人はする必要があるのかも知れません。

情報が多いというのは、贅沢な環境ですから、現代人はその特権を活かして自分を高める努力をすべきではないかと思います。

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2016年7月18日 (月)

Augmented Reality(3)

話がどんどん執拗になって恐縮ですが、ついでに申し上げれば、『仮想(虚構)』に対しても『バイアスがかかった仮想(虚構)』が出現します。 

『神』は『仮想(虚構)』と梅爺は推測しますが、『慈悲の神』『邪悪な神』となると、『バイアスがかかった仮想(虚構)』ということになります。 

このように、『人』の『精神世界』は、元をただせば『安泰を希求する本能』が基盤にありますが、今や『現実の認識(理に依る推論を含む)』『仮想(虚構)の創出』とそれを形容する多様な抽象概念の組み合わせで構成される広大な世界に発展していて、まるで万華鏡をのぞき見るような様相になっています。 

その『精神世界』も、『物質世界』に支配される脳を基盤に出現したものですから、やがて脳科学は、『精神世界』を『摂理』と関連付けてもっと整然と説明してくれることになるでしょう。その時、現在とは異なった『宗教』『芸術』などの理解がえられるのではないでしょうか。 

話を『Augmented Reality』に戻したいと思いますが、その前に『Virtual Reality』についても触れておきたいと思います。

『Virtual Reality(仮想現実)』という言葉は、コンピュータ・グラフィックス(CG)が創りだす、映画やゲームの動画(立体動画を含む)で、よく使われています。

体験する人に『現実』かと思わせる迫力があることから、『仮想現実』と表現されますが、実態はあくまでも『仮想(虚構)』です。飛行機パイロットを訓練するシュミレータも基本的には『仮想現実』と言えますが、『現実』環境とほぼ同じ状況を体験できるわけですから、ここまでくると『仮想』と『現実』は紙一重に接近することになります。

さて、いよいよ『Augmented Reality』になりますが、このエッセイの著者は、私たちが周囲の『現実』を認識するために利用できる情報の量が、主として『情報通信技術(IT)』の普及で、幾何級数的に増えていることを、この言葉で表現しようとしています。多分この著者の造語なのでしょう。

人間は、自分の五感で、周囲の発する情報を感知し、その情報を脳で処理して、対応を決めています。これは、人間ばかりではなく、動物に共通する習性で、『ヒト』が地球上に出現して以来、基本的には変わっていません。

人間が他の動物と異なっているのは、周囲の『物質世界』から得られる情報に加えて、『過去の体験記憶』『先人から継承された知識、知恵』なども情報として利用することにあります。『文字』の発明が、『先人から継承された知識、知恵』の量を格段に増やしました。

更に、現代人は、この100年間で急速に増えた『科学知識』を利用できるほか、『情報通信技術』がリアルタイムに創りだす膨大な量の『リアルタイム・データ』を利用することも可能になりました。現在地点の計測地理情報、天気予報情報、脈拍や血圧などの健康情報、株価や為替値などの経済情報など数え上げればきりがありません。

聖徳太子の時代の日本人、200年前の江戸時代の日本人と、私たちがどれだけ異なった環境で『生きている』かは容易に想像できるはずですが、多くの方は『昔の人も現代と同じように生きていた』と自分を標準に考えてしまいがちです。歴史を学ぶ時には、その時代がどのような環境であったのかを推測することが大切です。

『釈迦』や『キリスト』は類まれな賢人ではありましたが、私たちが当たり前に知っている『科学知識』を知らなかったことも確かなことです。

私たちの方が『釈迦』や『キリスト』より賢いなどと言うつもりはありませんが、2000年程度前に書かれた『経典』や『聖書』を読むときには、当時の事情を斟酌(しんしゃく)する必要があります。『経典』や『聖書』には、現代でも通用する『教え』が含まれていますが、書かれていることが全て『真』とするのは、少し無理があります。

現代人の特権である知り得たあやゆる知識を総合的に活用して、人間や人間社会の本質を探るべきです。『宗教』や『哲学』の限定された世界で『人間とは何か』『人はどう生きるべきか』など苦吟する時代から、そろそろ決別してもよいのではないでしょうか。『憂い、悲しみ』『心の安らぎ』の正体は、脳内で分泌されるホルモンが関与していることを知れば、ものの観方が変わります。このような思考は、人間の啓蒙であって、神仏への冒涜行為であるとは、梅爺は思いません。

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2016年7月17日 (日)

Augmented Reality(2)

昨日は、『現実』と『バイアスがかかった現実』について、少々しつこく論じました。人間の本質を理解する上で、極めて重要と考えるからです。

『富士山』は『現実』ですが、『霊峰富士』という表現になると『バイアスがかかった現実』に変わります。この論法を推し進めると『美人』『賢者』なども『バイアスがかかった現実』であることになります。『美しい』『賢い』という抽象概念の表現には、絶対的な評価尺度がないからです。

『現実』の反対の言葉は『仮想(虚構)』ということになります。『人』の『精神世界』の大きな特徴の一つは、自由に『仮想(虚構)』を創りだすことができることです。『物質世界(自然界)』の事象は、『物質世界』に存在する素材と、『物質世界』を支配する『摂理(法則)』の制約から逃れられませんが、『精神世界』が創りだす『仮想(虚構)』は、このような制約を受けません。

『現実』と『バイアスがかかった現実』の区別が難しいように、『現実』と『仮想(虚構)』の区別も易しくありません。

『桃太郎』はおとぎ話の主人公と教えられますから、『仮想(虚構)』であると多くの人が区別できますが、『神仏』となると話はややこしくなります。

梅爺は、自分の理性を駆使した推論で、『神仏』は『精神世界』が創りだした『仮想(虚構)』であろうと考えています。そう考えると自分の中の矛盾がなくなるからです。仮に『神仏』は『現実(の存在)』であるとすると、それを構成する素材や、行動のエネルギー源などを明らかにしなければならなくなります。しかし、『仮想(虚構)』なら『なんでもあり』ですから、その必要はなくなります。

梅爺は、自分の仮説に今のところ矛盾が見つからないために、得心していますが、『桃太郎と神仏を同列に扱うのは不敬である』とお叱りをうけることにもなります。

誤解が無いように申し上げたいことは、梅爺は『神仏』は『仮想(虚構)』であるが故に無意味な概念であるとは思っていないということです。『精神世界』が『仮想(虚構)』を創りだすのは、『安泰を希求する本能』を満たすためのもので、『心の安らぎ』を得る手段として、『神仏』という見事な仮想概念が考え出されたと考えています。

梅爺の推定が『真』であると梅爺は証明できませんが、仮に『真』であるとすると、『神仏』は人間や人間社会だけで意味のある概念で、人間が居ない世界では意味を失うことになり、『精神世界』が創りだした抽象概念である『愛』『正義』『平和』もまた意味を失うことになります。

『ビッグバン』以後、大半の時代宇宙には人間は存在していませんでしたし、今後人類が絶滅して、また人間がいない時代がくるかもしれません。その時代は、『現実』だけが存在する時代であり、人間が考え出した『仮想(虚構)』は意味を失うと考えることに、梅爺は矛盾をみいだせません。

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2016年7月16日 (土)

Augmented Reality(1)

『What should we be worried about?(我々が危惧すべきこと)』というオムニバス・エッセイ集の24番目の話題は『Augmented Reality』で、著者は、ジャーナリスト、作家の『William Poundstone』です。

梅爺は、このタイトルを日本語に訳そうとして、逡巡し、結局訳さないことにしました。適切な日本語が思い浮かばなかったからです。『膨れ上がった現実』などと訳しても、ブログを読んでくださる方は、何のことか見当もつかないにちがいありません。

著者が『Augmented Reality』で、懸念していることは、情報社会が進展して、私たちが個人的に常時対応を必要とする情報の量が、幾何級数的に増えている一方、社会の破壊を誘発しかねない要因を規制する手段は、昔のままのレベルか精々算術的比例のレベルの増加に止まっていると、その格差がやがて、社会を破局へ追い込むことになりはしないかということです。

従って、この議論の本質を理解するためには、『Realty』『Virtual Reality』『Augmented Reality』という英語の表現の意味するところを考えてみる必要がありそうです。

『Reality』は、単純に訳すと『現実』ということになります。『ありのままの状態』ということですが、『人』の『精神世界』が関与した場合のことを考えると、少々複雑な話になります。『精神世界』は個性的な価値判断基準を保有しているからです。

分かり易く云えば、『物質世界(自然界)』の事象である『日の出』は『現実』ですが、『美しい日の出』という表現になった時には、『日の出』を観ている人の価値観が付け加えられていますから、『バイアスがかかった現実』に変わります。

このように、私たちは、よほど意識して区別しないかぎり、自分の『精神世界』という『色眼鏡』で周囲の事象を認識していますから、『現実』と『バイアスがかかった現実』を混同してしまいます。

『物質世界』と『精神世界』の関連、違いを先ず正しく理解することが重要と、梅爺はブログに度々書いてきましたが、これはとりもなおさず『現実』と『バイアスがかかった現実』を区別して欲しいということに他なりません。

『イスラム国』が存在することは『現実』ですが、『邪悪なイスラム国』と表現した時には、梅爺の『色眼鏡』でみた『バイアスがかかった現実』ということになります。

従って、『イスラム国にどう対応するか』という議論と、『邪悪なイスラム国にどう対応するか』という議論では、ニュアンスが異なってきます。前者は『違いを認めて共存の可能性を模索する』ことになり、後者は『邪悪を排除する(徹底攻撃絶滅する)』ことになる可能性がたかまります。

冷静に考えれば、梅爺が『イスラム国』を邪悪と判断すると同様に、『イスラム国』の信奉者は梅爺のような価値観を持っている人間を『邪悪』と判断しているに違いないことに気づきます。

『精神世界』が抽象概念として創りだした言葉の大半は、『邪悪』を含め、相対的な価値基準であることを知ることが、人間を理解する上で重要なこととなります。

『現実』と『バイアスがかかった現実』を、理性で区別できる人、つまり自分の『色眼鏡』をはずして見ることができる人が真の『大人』です。幼児や子供や大人になりきれていない大人にとっては、周囲は全て『バイアスのかかった現実』であるからです。

誤解のないように申し上げれば、自分の『色眼鏡』を卑下する必要はありません。それこそが自分の存在意義をしめす個性なのですから。慎重であるべきは、自分の『色眼鏡』が絶対正しいと主張することです。

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2016年7月15日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『誰がために鐘は鳴る』(4)

『ウンベルト・エーコ』はエッセイの中で、『投票者(大衆)』を『動機を持った投票者(Motivated Electorate)』と『催眠にかかった投票者(Mesmerized Electorate)』に分けています。

『動機を持った投票者』は、動機が高尚であれ低俗であれ、自分の『考え(理の思考)』で政策や立候補者の資質を評価し、投票しようとする人ですが、『催眠にかかった投票者』は、立候補者の知名度や風貌で投票してしまうような、理の思考が欠如している人のことです。

現代社会で『催眠にかかった投票者』を産み出してる元凶は『テレビ』で、『大衆』の大半が『催眠にかかった投票者』になってしまっていることを『ウンベルト・エーコ』は憂いています。

『テレビ』の無い時代は、『新聞(文字)』や『ラジオ(音声)』で情報を得ていました。人々は実際の状況を頭の中で思い描く必要がありましたから、その変換を行うために少なくとも『脳』の『推量機能』を駆使する必要がありました。

一方『テレビ』は、実際の状況を、視聴覚情報として直接伝えますので、人々は直感的に『理解できた』と思いこみ、それ以上深く『考える』ことをしなくなる傾向が強まりました。コメンテータの意見を鵜呑みにして信ずるのもこれに類します。新聞や本を読むことが『面倒』になり、『文字離れ』の人達が増えることになります。

深く考えずに済む、表面的に『面白い』『楽しい』番組が人気を博するようになり、テレビ局も広告収入との関係で、軽薄な番組を優先するようになります。そこに登場する軽薄な人達のレベルを、『大衆』の平均レベルと視聴者は勘違いし、共感する自分に安堵することになります。『お馬鹿キャラ』『オチャラカ芸人』が有名人として受け容れられます。

『テレビ』が登場した時に、『大宅壮一』が『国民総白痴化』とその本質を喝破したのは見事な洞察です。

『テレビ』そのものが悪いわけではなく、その利用の仕方に問題があるわけですが、意図的に『テレビ』を悪用する人達も登場します。

イタリアの政治家『ベルルスコーニ』は、主要テレビネットワークの経営オーナーでもありますので、『テレビ』を利用して『大衆』を操作しやすい立場の人物です。都合よく自分を演出して見せることで、『知名度』をあげることは勿論のこと、自分の言動を肯定するイメージも創りだせます。

言動にやや下劣な面があっても、『大衆』は『お馬鹿キャラ』を受け容れるようにそれも許容し、『ベルルスコーニ』は長期にわたり政界に君臨しました。

これは極端な話に見えますが、日本を含め全ての先進国が、程度の差はあれ同じ問題を抱えていることになります。選挙の時に政党が流す自党のコマーシャルなどは、『この程度のことで洗脳されませんぞ』と、梅爺は疑い深く観ることにしています。

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2016年7月14日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『誰がために鐘は鳴る』(3)

『ウンベルト・エーコ』はこのエッセイの中で、『de facto regime』という言葉を使って、社会が知らず知らずに『ある考え方』をあたかも『当たり前』のこととして受け容れてしまう弊害に警鐘を鳴らしています。

『独裁者』が恐怖政治で『自分の考え方』を、社会の『当たり前』にしてしまうという話は分かりやすいのですが、『民主主義体制』のもとで『de facto regime』が形成され、それが好ましくないことであることを理解するには、人間や人間社会の習性を深く洞察する能力が求められます。

この問題は、『リーダー』と『大衆』の関係について考えることでもあります。『リーダー』『大衆』ともに『賢い』場合は、問題が起きません。双方とも『愚か』な場合は、悲惨なことになります。

歴史上『リーダー』の資質はよく取り上げられます。賞賛される人と、批難される人に分かれます。一端賞賛されると何から何まで素晴らしかったという伝説になり、『聖徳太子』のようなイメージになります。逆に、批難されると全てのイメージが悪くなり『大悪人』にされてしまいます。しかし、一人の人間を『善人』と『悪人』に単純に区分けするのは本来適切ではありません。

『賢いリーダー』の定義も難しいのですが、『好ましいリーダー』と云いかえれば、『奉仕精神』を優先する『リーダー』と言えるのではないでしょうか。経営学でも『Servant Leader』という言葉が使われます。『奉仕』を優先する『リーダー』にとっては、上から支配するという姿勢はありませんから、『大衆』が『賢い』か『愚か』かは、大きな問題ではありません。賢ければ賢いなりに、愚かなら愚かなりに対応(奉仕)しようとするからです。

『好ましくないリーダー』は、自分を高い場所に置いて『大衆』を支配、制御しようとします。多くの場合『大衆』は『愚か』であるという前提になりますから、云う事を聞かない愚かものは排除、粛清すればよいということになります。

それでは、『大衆』は本来『賢い』のでしょうか、それとも『愚か』なのでしょうか。残念ながら、多くの事例は『大衆』は『愚か』であることを示しています。

『愚か』の典型例は、自分で深く考えることなしに、何かを『当たり前』として受け容れることです。本来個性的である個人の『個性』は消え失せ、『大衆』はあたかも『一色』に染まったようになります。これを『ウンベルト・エーコ』は『de facto regime』と呼んで警鐘をならしていることになります。

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2016年7月13日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『誰がために鐘は鳴る』(2)

『思慮を欠いた発言』『倫理観の欠如した振舞い』で国民の顰蹙(ひんしゅく)を買う政治家は、どこの国にもいますが、イタリアの『ベルルスコーニ』が特異なのは、多角的な企業のオーナーであり、テレビや新聞などの『メディア』もそれに含まれていることです。勿論大富豪でもあります。

本田圭佑選手が所属する、有名なサッカーチーム『ACミラン』のオーナーも『ベルルスコーニ』です。

イタリアの6大テレビネットワークのうち、三つのオーナーが『ベルルスコーニ』であり、新聞や雑誌の経営も含まれていますから、イタリアの『メディア王』と呼ばれる存在です。

『ウンベルト・エーコ』は、『ある日目覚めたら国中のテレビ、新聞、雑誌が一人の同じ経営者に支配されていたなどということになってほしくない』と、皮肉をこめて書いています。『オーナーを非難するするテレビや新聞』の話は聞いたことが無いからです。

『メディアのオーナー』が『その国のリーダー』になるという組み合わせは、確かに異常です。仮に日本でこのような事態が起きたら、現在の日本人はどのように反応するのでしょう。

1992年に、イタリアでは政界汚職事件が明るみに出て、政界編成がおこなわれ、この機に乗じて『ベルルスコーニ』は政界へデビューしました。支配下の『メディア』を使って、国民へ『好印象』を演出し、汚職事件に飽き飽きしていた国民が『大金持ちなので、今度は汚職はしないだろう』と単純に受け容れた節があります。

『ウンベルト・エーコ』は、『たしかに、みみっちい賄賂などは受けとらないだろうが、巨額の脱税(タックシ・ヘブン利用)や、政治的買収が国民の眼をかすめて行われている』と慨嘆しています。

世の中に、完全無欠な人物などいませんから、『少々の難点はしかたがない、相対的に彼(または彼女)以上の人物はいない』とリーダーとして受け容れる風潮はどこの国にもあります。

『ベルルスコーニ』を受け容れるか、受け容れないかはイタリア国民が決めることで、梅爺がとやかくいうことではありませんが、『ウンベルト・エーコ』が慨嘆するのはごもっともと共感しました。一言で云えば『品格を欠いている』ということになります。

国や国民のためというより『自分の権力の座を維持する』ことが最優先で、権謀術数を弄することに後ろめたさを感じていないようにみえるのは、梅爺にも『下賤な人物』に映ります。

『選挙』は国民の『倫理観』を問われる場でもあるので、『下賤な人物』は追放しようと『ウンベルト・エーコ』は呼びかけています。『誰がため』ではなく『我がため』に『鐘を鳴らそう』という呼びかけです。

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2016年7月12日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『誰がために鐘は鳴る』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の12番目の話題は、2001年当時のイタリア総選挙に関連する内容です。『誰がために鐘は鳴る』というタイトルになっていますが、『投票で国民の倫理的な審判を下そう』と檄(げき)を飛ばす内容で、ヘミングウェイの小説の評論ではありません。

梅爺は、2001年当時、イタリアの政治情勢がどのようなものであったかを知るというより、民主主義体制のもとで行われる『選挙』と呼ばれる政治イベントが内包する『問題点』を考える材料として、興味深く読みました。

民主主義は、個人の基本権利を守ることを前提とした『望ましい政治体制』であり、そこで行われる『民主的な選挙』は、国民の総意を反映するこれまた『望ましい手段』であると、多くの方が単純に考えがちですが、『現実的にもたらされる結果』をみると、『どうしてこのような人がリーダーになってしまうのだろう』『どうして好ましくない事態が起きてしまうのだろう』と首をかしげたくなります。最近ではイギリスがEUから脱退するかどうかを決める国民投票で、『脱退派』が僅差で勝利するという事態が生じました。

2001年当時、イタリアの政権を握っていたのは右寄りの『ベルルスコーニ』でした。彼は世界的な富豪の一人で、財力で政界進出を果たした人物です。権力の座を守るためならいかなる『権謀術数』をも駆使し、思慮を欠いたような言動や女性問題のスキャンダルが絶えない人物でしたから、極めつけの『教養人』である『ウンベルト・エーコ』にとっては、『耐えがたい下賤な人物』に見えていたのでしょう。エッセイからその憤懣やるかたない様子が伝わってきます。アメリカの共和党大統領候補で大金持ち『トランプ』のはしたない言動にアメリカの知識人、教養人が眉をしかめているのと同じです。

国家のリーダーとして、どのような人物が好ましいかを考えると、私利私欲のためではなく、国や国民の現在と将来に関してビジョンを持ち、その実現のための果敢な決断に必要な深い知識、洞察力、外交力を持っている高潔な人物ということになります。

現実の世界では、このようなリーダーが出現することは稀なことです。何故ならば『リーダーになりたい人』が立候補して選挙が行われるからです。『リーダーになりたい人』の資質は、『リーダーになってほしい人』の資質とは異なります。残念ながら『リーダーになってほしい人』は、選挙に立候補したりしません。

このエッセイで、『ウンベルト・エーコ』はイタリアの状況を嘆いていますが、多くのことは、現在の日本にも当てはまることです。

配慮を欠いた言動や、政治資金や女性関係などのスキャンダルで辞任に追い込まれるレベルの低い政治家が後を絶ちません。

『民主的な選挙』には、根本的に改善すべき欠陥があるのかもしれないと考えたくなりますが、『ウンベルト・エーコ』は、『お粗末な政治家が出現するのは、国民の意識がお粗末であるからだ』とまっとうな発言をしています。

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2016年7月11日 (月)

Raise no more devils than you are able to lay.

英語の諺『Raise no more devils than you are able to lay.』の話です。

直訳すると『寝かせておける悪魔以上の悪魔を起こすな』ということで、『悪魔はできるだけ目覚めさせるな』ということですから、日本流に云えば『触らぬ神に祟りなし』ということでしょう。

興味深いのは、キリスト教文化では、『神』は独りで、『全知全能』『万物の創造主』『慈愛に満ち人々を罪から救済する』と考えるのに対して、日本では『神が時に祟る』と考え、恐れの対象でもあることです。『触らぬ神に祟りなし』という諺から受ける印象は、『神』は独りではなく、色々な『神』がいそうだということです。

『一神教』と『多神教』では、決定的な精神風土の違いを産み出すことが分かります。

もっとも、『キリスト教』の元となった『ユダヤ教』の聖典(キリスト教では旧約聖書として継承)の中の『神』は、『独り』という点ではキリスト教と同じですが、『ユダヤ人だけの神』という条件がついていて、『神』に従う者(神の視点で善人)には優しく、従わない者(神の視点で悪人、罪人)には、厳しく対応しています。怒った『神』が、人や町を滅ぼすなどと言う話がよく登場します。異民族から迫害を受け続けたユダヤ人は、『自分たちだけを守ってくれる神』を必要とし、それを信仰の対象にすることで『民族の絆』を確認しようとしたのでしょう。人類の原始宗教は『多神教』が主流であったのに対し、本格的な『一神教』の考え方がユダヤ人に依って確立したと梅爺は推察しています。

『慈愛の神』という考え方は、『キリスト教』の初期布教に尽力した『使徒パウロ』の考え方が強く影響しています。勿論『キリスト教』の『神』は、『ユダヤ人だけの神』ではなくなりました。

キリスト教文化の世界にも、『悪魔(Devil)』と言う概念があり、しかも『Devils』と複数表現されていることに、梅爺は興味を抱きます。

『全知全能』の『神』が、何故好ましくない『悪魔たち』を野放しにしておくのかという基本的な疑問が残りますが、それよりも、『神』も『悪魔たち』も、『人間』の外側に存在するものであるとしている所が、仏教文化と決定的に異なります。

仏教では、『仏心』『邪心』は人間の中に共存するもので、『邪心』を排除すれば人は『仏』になれると説いています。キリスト教文化では、人は『神』にはなれません。

従って、『悪魔にとりつかれる』『悪魔に誘惑される』ことが悪の根源と、ひとのせいにしているところが、『自分の中の邪心が煩悩の源泉』とする仏教の考え方と大きく異なることになります。

梅爺は、個人的には仏教の方が、人間の『精神世界』の本質(安泰を希求する本能に支配されている)を的確に捉えていると感じています。

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2016年7月10日 (日)

ジョン・グリシャムの小説『Sycamore Row』(8)

自殺した老人の息子、娘は、裁判で裁判で明らかになった、自分たちの祖父の黒人達への不当な仕打ちに愕然としますが、それでも、自分たちの法的な相続権理を主張して、上級裁判所へ控訴することになると、事態はさらにこじれたり、決着に時間がかかったりするおそれがあるために、この地方裁判所の判事(裁判官)は、以下のような、調停案(示談)を提示します。遺産総額は20億円程度になりますが、相続税を支払うと実質12億円になるという前提です。

(1)0.5億円を老人の弟へ、0.5憶円を教会へ贈る。
(2)5億円を、リンチで殺された黒人の子孫たちの子弟の教育基金として信託基金にし、『ジェイク・ブリガンス』が管理する。育英以外の目的での利用は禁ずる。
(3)老人の息子、娘、黒人家政婦へ、それぞれ2億円を分配する。ただし黒人家政婦には、祖父が失った土地も相続される。

この調停案は、黒人家政婦の望みは、高額な金額を手にすることではなく、自分の土地を持ち、自分の家を建てて、そこでゆったり暮らしたいということであることを判事が聴取して提示されたものです。

ここで小説は終わっていて、その後この調停案が採用されたかどうかは、読者は想像するしかありません。

自殺した老人が一生背負ってきた罪の意識が『遺書』に反映されていることは十分理解できても、この内容は、現実的に考えると少し偏っていると感じていた読者は、判事の調停案に、少しほっとします。そういう心理を見抜いて、『ジョン・グリシャム』が心憎いばかりのエンディングを用意したということでしょう。

『人種差別』は、今でもアメリカ社会が抱え続けている深刻な問題です。この小説のように、白人によるリンチで死亡した黒人は、過去に数10万人に上ると言われています。

この小説の舞台になっているミシシッピ州では、最も多くの悲劇が過去にありました。

『ジョン・グリシャム』のこの小説には、アメリカ人が自国の歴史を直視して、『人種差別』を理性で排除していく努力をしてほしいというメッセージが込められています。

『A Time to Kill』の続編として、満を持して書かれた『Sycamore Row』は、さすがに素晴らしい出来栄えです。

この小説を読んでいる間、梅爺はミシシッピ州クラントンに身を置いているような気になりました。小説は『仮想の旅』も提供してくれます。

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2016年7月 9日 (土)

ジョン・グリシャムの小説『Sycamore Row』(7)

自殺した老人の弟が、偽名を使ってアラスカの田舎町に住んでいることを突き止めた『ジェイク・ブリガンス』は、補佐役を現地へ送って、接触を試み、苦労の末に、『本人』であることを認めさせ、驚くべき『過去の出来事』についての供述をビデオに収録することに成功します。 

明るみに出た驚くべき『過去の出来事』は以下の内容です。 

(1)自殺した老人と弟は、子供の頃、農業を営む粗暴な父、その暴力に耐える母と4人家族でミシシッピ州クラントンに住んでいた。
(2)一家に隣接する農地は、黒人一家が所有していた。
(3)父は、『黒人迫害の白人グループ』に属していて、このグループは隣の黒人一家の夫に難癖をつけ、リンチで黒人の夫の首に縄をかけ、『Sycamore(プラタナス)』に吊るして殺害してしまった。偶然兄弟(自殺した老人と弟)は、このリンチを垣間見てしまい、恐怖に慄(おのの)いたが、生涯目にしたことを秘密にすることを誓い合った。
(4)父は、殺した黒人の妻も脅し、タダ同然の契約条件で、黒人一家が所有していた隣接農地を奪ってしまった。
(5)リンチで殺された黒人の妻には幼い一人娘がいた。この母子を含め、関連する黒人一族は、白人による迫害を受け、クラントンを立ち退かざるを得ない状況に追い込まれた。
(6)兄(自殺した老人)はクラントンに残ったが、弟はこの地に住むことを忌避して、家を飛び出し、以降、一度もクラントンへは帰らず、兄とも没交渉になっていた。
 

この『過去の出来事』が明るみに出ると、自殺した老人の『遺書』の持つ意味がガラリと変わってしまうことになります。 

遺産の90%を贈与すると指定した、家政婦の黒人女性は、ただの黒人女性ではなく、老人の父がリンチで殺した黒人農夫の孫娘であることが、調査の結果判明したからです。 

老人は、意図的に黒人家政婦を雇い、自分の死を覚悟した時に、財産をこの家政婦へ贈与することを決め、自分は父親の大罪を償うために、父親たちがリンチで使った同じ『Sycamore(プラタナス)』の木で、首つり自殺をしたのだという背景が初めて明らかになります。 

この弟の供実ビデオが、裁判の参考証拠品として採用され、これを目にした『陪審員』は、全員一致で、老人が残した『遺書』は、本物であり、老人自身が、正常な精神状態で書いたものであることを『認める』判決を下します。

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2016年7月 8日 (金)

ジョン・グリシャムの小説『Sycamore Row』(6)

多額の『相続遺産』分配にかかわる裁判ですので、自殺した老人の息子や娘が正当な相続権理を主張するのは肯ける話ですが、この裁判には他に色々な関係者やいかがわしい人間が、金儲け目当て関与しようとします。

息子や娘の弁護を引き受けたやり手弁護士は、多額の成功報酬を得ることが契約条件です。

老人の『遺書』の正当性を主張する弁護士『ジェイク・ブリガンス』の裁判にかかる費用や、勝訴した時の報償額は、裁判官の査定で決定することを、この小説を読んで知りました。『ジェイク・ブリガンス』は、勝訴、敗訴にかかわらず裁判にかかった費用は、『遺産』の中から裁判官査定で支払われるという仕組みです。

老人の『遺書』の正当性が認められれば、黒人家政婦は、一気にミシシッピ州屈指の黒人資産家になるという話ですから、町の黒人達の間には、支持と同時にやっかみが生じ、白人たちの間には心情的に『とんでもない』と反発が生じます。

『ジェイク・ブリガンス』は最初の弁論で、『陪審員』に『これは、誰の手に遺産が渡るかを決める裁判ではありません。残された遺書が故人の意思で理性的に書かれた正当なものであるかどうかだけを決める裁判です』と念を押します。

『遺書』の正当性が認められれば、結果的に黒人家政婦に多額の遺産が贈与されることは推測できますが、『遺書』の正当性の判断にその推測に基づく『好ましい』『好ましくない』という『情』は反映させてはならないという、人間にとっては難しい要求です。特に、日本人は一般に、このような『情』を排除した『理』だけの判断というのは、不得手です。自分にとって『好ましくない』ことは『間違っている』と主張しがちです。

しかし、裁判が進むにつれて、『ジェイク・ブリガンス』の立場はどんどん不利になっていきます。

『遺書』で、5%の遺産相続が約束されている『昔別れたままになっている自殺した老人の弟』の存在を捜査していて、『ジェイク・ブリガンス』はこの弟が存命で、偽名を使って、アラスカの小さな町に住んでいることを突き止めます。

弟は若いころミシシッピ州を飛び出して、軍隊に入隊し、除隊後は船乗りとして世界の各地を巡り、現在は、アラスカの小さな町で、バーテンダーとして生計を立てていますが、『ジェイク・ブリガンス』が存在を突き止めたときには、障害事件に巻き込まれて、頭に重傷をおって入院していました。その上、麻薬売買に関与したとして警察の追求を受けていることも判明しました。

『ジェイク・ブリガンス』の命を受けて調査のためにアラスカへ飛んだ補佐役が、なんとか弟に接触を試みますが、最初は、自分が自殺した老人の弟本心であることを認めようとしませんでした。

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2016年7月 7日 (木)

ジョン・グリシャムの小説『Sycamore Row』(5)

自殺した老人の、息子、娘、孫たちは、残された『遺書』には正当性がないと裁判で主張します。やり手の弁護士を雇って、裁判では以下のような主張を展開します。

(1)老人が服用していた末期がんの痛み止めの薬は、正常な理性判断ができなくなるほどの倦怠感を起こす副作用を伴う(従って遺書は正常な理性の判断のもとに書かれたものではない)。
(2)老人と、息子、娘の親子関係は良好であった(正当な相続権を奪われる理由はない)。
(3)老人は女癖が悪く、過去に自分の会社で働いていた黒人女性との間で性的嫌がらせの問題を起こしている(最後に雇っていた家政婦の黒人中年女性とも性的な関係があったことを匂わせる主張)。
(4)黒人家政婦は、性的な関係を逆手にとって、自分に財産の大半が贈与されるように、『遺書』の作成に間接的な影響を及ばした疑いがある。
(5)黒人家政婦は、過去にも別の雇われ先で、雇い主の白人女性に、自分に有利な内容の『遺書』を書かせた疑いがある。

老人の『遺書』は正統性を欠くとする上記の主張は、全て間接的な『推測』ともいえるようなもので、立証は難しいように見えますが、やり手の弁護士は、その主張を裏書きするような強力な『証人』達を探し出してきて、『陪審員』の心をつかんでいきます。

例えば、(1)の薬物の副作用については、西海岸の著名大学病院の医師を証人として召喚します。『陪審員』はミシシッピ州の片田舎の住人達ですから、『著名な大学』の名前だけで信用してしまうという心理効果を利用しています。

何しろ、20億円を越える『相続財産』を巡る裁判ですから、老人の遺書の正当性を否定する訴えに勝訴すれば、弁護士にも多大な報償が支払われることになりますので、担当するやり手弁護士は、裏で『証人』に金を払って、有利な『証言』をするように操作していきます。

『陪審員』の選定も、本来公正中立に行われなければならないはずですが、やり手弁護士は、『陪審員選定コンサルタント』に多額の金を払って、『陪審員候補者』の素性を事前に調査し、自分に有利な『陪審員』が選定されるように裏工作します。

金で『証人』を呼ぶ、『陪審員選定コンサルタント』を使って、違法、または違法スレスレの裏工作をする、というようなことは、アメリカの裁判では、当たり前に行われているのかもしれません。

老人の『遺書』の正当性を主張する側の弁護士『ジェイク・ブリガンス』はどんどん不利な立場に追いやられていきます。

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2016年7月 6日 (水)

ジョン・グリシャムの小説『Sycamore Row』(4)

『Sycamore Row』の物語は、『A Time to Kill』の裁判の数年後に、同じミシシッピ州フォード郡クラントンという田舎町で起きた事件という想定になっています。

主人公は、前作と同じく白人弁護士の『ジェイク・ブリガンス』で、彼は『A Time to Kill』の裁判の時に、黒人を弁護したということで町の『KKK(白人による黒人排斥秘密組織)』から放火され家を失いましたので、今は妻と幼い娘と一緒に、狭いアパートに住んでいます。

ただし、裁判所の近くに、先輩弁護士から譲り受けた『法律事務所』を所有していて、主として民事訴訟の弁護で生計をたてています。

『A Time to Kill』では、黒人被告を弁護して『勝訴』を勝ち取り、弁護士としての名声はあがりましたが、暮らし向きが豊かになったわけではありません。それでも、町の黒人住民からは信頼され、黒人の警官とも友達付きあいをしています。

この町の住民で、独り暮らしの71歳の白人老人が、『癌』で余命が無いことを知り、『Sycamore(プラタナスの木)』で首つり自殺をすることから物語は始まります。

この老人は、過去に二度の離婚歴があり、二度目の離婚でほとんど財産を失いますが、その後10年をかけ製材(木材)業で成功をおさめ、20億円以上の遺産を残します。

この老人には、既に成人になり独立している息子と娘がいますが、普段は老人とはほとんど没交渉で、老人が自殺するまで約3年間、老人の身の周りは通いの中年黒人家政婦が面倒をみていました。

老人は、死の直前、『弁護士への手紙』と『遺書』を自筆でしたため、これをそれまで会ったこともない弁護士の『ジェイク・ブリガンス』へ送りつけてきます。何故『ジェイク・ブリガンス』を選んだのかは、物語の最後に真相が明らかになります。奴隷解放後もミシシッピ州で繰り広げられた、悲惨な黒人迫害の歴史が関与しています。

この『遺書』の内容は、驚愕すべきものでした。この『遺書』の以前に作られた全ての他の『遺書』は無効とするとした上で、離婚した過去の妻、息子、娘、孫たちには、一切の遺産相続は行わないこと、遺産総額の5%は昔別れたきりになっている弟へ、5%は教会へ(寄付)、そして残りの90%は、3年間世話をしてくれた黒人家政婦へ分配することと記載されていたからです。

『ジェイク・ブリガンス』は、手紙で依頼された通りに、『遺言執行の見届け人』として活動を開始します。

先ず、裁判所へこの『遺書』が、法的な効力を持つことを認められるような手続きを行います。

老人の息子や娘は、この『遺書』の内容を知らされ、腰を抜かさんばかりに驚き、それぞれの弁護士をたてて、この『遺書』の正当性を認めない訴えを裁判所に起こします。

『遺書の正当性』を巡る裁判が始まり、『陪審員』による判決が下るまでの経緯が『Sycamore Row』という小説の内容になります。

多分50人以上の主要人物が物語に登場し、非常に込み入った話が展開しますが、さすが『ジョン・グリシャム』は、一人一人を生き生きと描き、読者にそれが現実の話であるかのような印象を与えます。

『松本清張』の推理小説を読むと、『いくらフィクションだからといっても、その想定は少し無理があるのではないの』と言いたくなる様な部分がありますが、『ジョン・グリシャム』のこの小説には、そのような部分は一切ありません。『リアリティに富んだフィクション』を創りだす『ジョン・グリシャム』の能力にはあらためて感心させられます。

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2016年7月 5日 (火)

ジョン・グリシャムの小説『Sycamore Row』(3)

アメリカの裁判所では、検察側、弁護側の弁護士が、『guilty』『not guilty』を巡って裁判官のガイドに従って討論を交わし、最後は12人の『陪審員』が『全員一致』を条件に、『guilty』か『not guilty』かの判決を下します。 

この『guilty』『not guilty』を日本語の『有罪』『無罪』と訳してしまうと、アメリカの裁判の本質を誤解することになりかねません。 

日本人は『黒白(こくびゃく)をつける』ことにこだわり、『有罪(黒)』『無罪(白)』もこのように受け取ります。 

しかし、『guilty』『not guilty』は、『やましい(灰色である)』『やましいとは言えない(灰色とさえ断定できない)』という意味であり、検事側が立証できないかぎり、たとえ被告が犯罪を犯していたとしても、『not guilty』の判決を受けることはありえるという前提の制度です。

西欧の『論理重視』『(社会)契約重視』の文化では、ある『論理』を社会の約束事と認めたら、『論理』が導き出した『結果』を最重視します。12人の『陪審員』が全員一致で、『not guilty』と決めたのなら、その『結果』が最重要視されます。つまり、本当は犯罪を犯した被告であってもで、『not guilty』になることもがあってもしかたがないという『暗黙の了解』が社会にあるということになります。

多くの日本人は、このような『考え方』は釈然としないと受け止めます。『真実』をなんとしてでも暴きだして、『黒白をつけるべきである』と考えるからです。

日本の裁判制度は、ある程度出来上がっていた外国の制度を、当時の『お上(明治政府)』導入したもので、与えられた国民は、『裁判は間違いなく真実を導き出せる方法』であると、勘違いしがちです。

一方、西欧の民主主義国家は、『残念ながら、間違いなく真実を導き出す方法は人智では望みえない。それならば、国民が合意できる次善の方法論は何か』を考えた末に導入したのが現行の裁判制度ということになります。『国民に依る選挙制度』『議会制度』なども、発想は同じです。国民が試行錯誤の末に考え出した『次善の策』であって、『お上』から付与された仕組みではありません。『次善の策』ですから『完璧な策』ではないことは、国民が承知しています。

日本の『民主主義』の基本的な弱点は、ここにあります。与えられたものであるが故に、最初から『この制度は正しい』と思い込んでしまっていることです。悪戦苦闘して、自分たちが導き出し合意した制度ではないということです。

話が逸れましたが、『A Time to Kill』という小説で、主人公の弁護士『ジェイク・ブリガンス』が、復讐殺人を現に行った被告(レイプされた少女の父親、黒人)を、弁護によって『not guilty』へ導いたことを理解するために必要な背景として、くどくど申し上げました。

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2016年7月 4日 (月)

ジョン・グリシャムの小説『Sycamore Row』(2)

『Sycamore Row』のあとがきとして添えられている『Author's Note』を読んで、処女作『A Time to Kill』が最初からベストセラーになったのではない経緯を知りました。 

最初は、アメリカ南部の小さな出版会社から、初版5000部で売り出したものの、ほとんど売れず、地元の地方新聞の書評欄でも、酷評されたり、無視されたりしました。 

ところが、5年後に、大手出版社から再出版されると、たちまち全米のNo.1ベストセラーになり、他の作品も軒並みベストセラーになって、『ジョン・グリシャム』は一躍大人気作家に変貌しました。 

今では、アメリカ以外でも翻訳本が売られ、原作が映画化されたものもありますから、印税やら著作料で、今では大富豪のひとりではないでしょうか。アメリカン・ドリームの典型例です。

無名の作家や芸術家の作品が、世の中に認められるかどうかは、実力はもちろん必要ですが、幸運も関与します。優れた作品を残しながら、生前も死後も無名の人達は沢山いるにちがいありません。梅爺は、作者が誰かを問題とせず、作品のみでその素晴らしさを認識できる能力を持ち合わせているかと問われれば、自信がありません。 

最初南部で出版して売れなかったのは、大手出版社のような広告戦術が行きとどかなかったこともあろうかと思いますが、それよりも『A Time to Kill』のストーリー(内容)は、南部の人達があまり触れてもらいたくない『人種(黒人)差別』の問題が扱われていたからではないかと梅爺は推測しています。

『A Time to KIll』は、アメリカ南部の田舎町で起きた、まがまがしい事件とそれに絡む裁判の様子が展開します。主人公は、この街で法律事務所を営む若い白人弁護士『ジェイク・ブリガンス』です。

10歳の黒人少女が、二人組の白人若者にレイプされ、瀕死の重傷を負います。犯人達に対する裁判の準備が進められますが、『陪審員』の構成なども含め、白人である犯人達には、有利な状況になる気配が濃厚になります。これに憤慨した被害者(10歳の少女)の父親(黒人)は、銃を携えて裁判所に乱入し、犯人たち(白人若者)を射殺し、警備員にも重傷を負わせます。

主人公の白人若手弁護士『ジェイク・ブリガンス』は、この父親(黒人)の裁判で弁護を担当します。

この裁判を巡って、町の白人と黒人の対立が激しくなり、黒人を弁護しているということで、『ジェイク・ブリガンス』は、白人から脅迫され、狂信的なグループ『KKK』に家は放火され焼失してしまいます。

身の危険を感じ、妻や娘は妻の実家へ退避させ、それでも『ジェイク・ブリガンス』は、四面楚歌の中で孤軍奮闘弁護を続けます。

ついに裁判は最終段階になり、『ジェイク・ブリガンス』は最終弁述で、弁をふるい、『陪審員』は、黒人の父親(復讐殺人の実行犯)に有利な『判決』を下します。このような緊迫した法廷シーンが『ジョン・グリシャム』の小説の売り物です。

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2016年7月 3日 (日)

ジョン・グリシャムの小説『Sycamore Row』(1) 

アメリカの小説家『ジョン・グリシャム』の小説『Sycamore Row(邦題はプラタナスの木立)』を、英語版ペーパーバックで読みました。 

『ジョン・グリシャム』は、上梓すれば必ずベストセラーになるアメリカの売れっ子作家です。1994年の処女作の『A Time to Kill(邦題は評決のとき)』が500万部売れる大ヒットになって以来、現在までに30作以上を出版している、多作の作家でもあります。 

梅爺も『A Time to Kill』を読んで以来、『ジョン・グリシャム』のファンになり、大半の作品を読んできました。 

『ジョン・グリシャム』の作品の特徴は、アメリカ南部を舞台にしたものが多く、法廷シーンが登場することです。これは『ジョン・グリシャム』自身が、若いころ南部の田舎町の弁護士であったからです。 

梅爺は『ジョン・グリシャム』の小説を読み続けてきたお陰で、アメリカの裁判のしくみや、『陪審員』制度について、ある程度精通するようになりました。 

アメリカ南部が舞台ですから、今も社会に色濃く残る『人種問題』などが、作品のテーマになるケースが多いことも特徴です。 

ミステリー小説に属する作品が大半ですが、『ハード・ボイルド』スタイルではなく、現代アメリカの闇の部分とも言える、大企業、大保険会社、大法律事務所の『拝金主義』の犠牲になりそうになった庶民が、最終的に悪を暴(あば)いて、勝利するというような『ヒューマニズム』に富んだストーリーが大半です。日本で云えば『社会派推理小説』といったところです。 

逆に『ジョン・グリシャム』は、アメリカの闇ともいえる、『拝金主義』『人種差別』に警鐘を鳴らし、それに共鳴する良識的な読者もアメリカには多いともいえます。日本人の梅爺は、『拝金主義』『人種差別』のひどさの実態を知って、眉をしかめ日本人で良かったと胸を撫で下ろします。それほど、アメリカの闇はひどいものです。極端に優秀なものと、極端にひどいものが混在しているのがアメリカ社会の特徴です。日本人の常識的な感覚では、なかなかついていけません。

今回読んだ、『Sycamore Row』は、処女作の『A Time toKkill』と同じく、ミシシッピ州フォード郡のクラントンという小さな田舎町が舞台で、主人公の弁護士『ジェイク・ブリガンス』も、処女作で活躍した主人公と同じです。

つまり、主人公が同じで、異なった物語が展開する『続編』ともいえる作品です。

『ジョン・グリシャム』には、『テオドル・ブーン』という同じ主人公が登場するシリーズものがあるのですが、処女作の『A Time to Kill』があまりにも、ヒットしたため、『それを越える続編は難しい。多くの作家がこれに挑戦して失敗している』と奥さんに云われて、『A Time to Kill』の続編を書くことを、25年近く躊躇していたと、この本のあとがきで、『ジョン・グリシャム』は告白しています。

その分、十分時間をかけて熟成させたストーリーになっていて、梅爺は『ジョン・グリシャム』の小説の中では、一、二を争う傑作であると感じました。

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2016年7月 2日 (土)

私たちが存在するのは木星のお陰?(4)

『太陽系』が誕生した直後は、現在のような惑星の軌道配置ではなく、最初に誕生した惑星『木星』が、『太陽』から遠ざかる軌道へ移動したために、その後現在のような『太陽系』になったという『グランド・タック説』は、多くの謎の説明が合理的に可能になるという点で、説得力があります。

それでも『天王星』『海王星』の現在の位置は説明が難しいという謎が残り、元々『土星』と『天王星』の間に、もう一つ『惑星』があって、それは『木星』と『土星』の軌道共鳴のために、『太陽系』の外へ弾き飛ばされたとする説もあるようです。

いずれにしても、『太陽系』が現在のような、安定バランスを得るまでに、壮大なドラマがあったということは、十分納得できる話と梅爺は感じました。

この壮大なドラマは、全て『物質世界』の『摂理』による『変容』として遂行されたものです。無数の要因が、より安定した平衡状態を目指して、絡み合いながら移行したということに過ぎません。

このドラマに、予め筋書きを定めた『創造主(デザイナー)』の存在があったとは、梅爺には思えません。『物質世界』は、部分的に発生する『偏り』や『変化』が、トリガーになり、雪崩現象のように、『変容』が続いていく世界です。

現在の科学知識をもってしても、『地震』や『火山噴火』を正確に予知できないように、『物質世界』の『変容』の全貌は、人間の理解をはるかに超えています。

『全ての事象は、神の御意志で起こる』という説明は、人類の不安を和らげてくれる救済のように思えますが、梅爺は、『物質世界』には、『あるべき姿』『デザイン』は存在しないと考えた方が、全て得心できるような気がします。

梅爺の考え方が妥当であるとすれば、『地球』が現在のような『惑星』へと『変容』したのは、私たちにとって非常に幸運な偶然が積み重なってのことであるという話になります。その偶然に『木星』が大きく関与しているということに過ぎません。

何故現在の地球に、大量の『水』が存在し、大気の中に『酸素』が存在するのかも、全て私たちにとって幸運な偶然が関与しています。『生物進化』などは、ほとんど幸運な偶然で成り立っています。勿論、不運な偶然で沢山の生物が絶滅した中で、幸運に恵まれた者だけが生き残ったという話です。私たちはその幸運を継承した者の子孫であることに感謝すべきでしょう。

非常に永い眼で観れば、『太陽』も『地球』も、現在のままで永久に存在し続けることができません。『太陽』は40~50億年後に、水素が燃え尽きて、『矮星』へ『変容』することが推定されています。

しかし、たった17万年しか歴史のない『現生人類』や、余命短い梅爺が、気に病む話ではありません。

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2016年7月 1日 (金)

私たちが存在するのは木星のお陰?(3)

天文学者が、現在の『太陽系』に関して抱いている謎には、以下のようなものがあることを知りました。

①『火星』が『地球』より『小さい(地球の質量の1/10)』のは何故か。
②『火星』と『木星』の間に存在する『小惑星帯』に含まれる『小惑星』が、岩石タイプ、炭素タイプ、氷タイプと均等に入り混じっているは何故か。
③『天王星』『海王星』が、『大きい』のは何故か。

いずれも、梅爺の従来の知識では、何故謎なのかさえも、思い起こすことができないものですが、理由を聴いてみると、『なるほど、それは変だ』と納得できました。

これらの謎は、『太陽系』が誕生した直後から、『木星』がある役割を果たしたと仮定してみると、解明できるというのが、この番組の主旨でした。

『太陽』自身も『惑星』も、宇宙のガスと塵を寄せ集めて誕生しました。『太陽』から遠い軌道を周回する『惑星』ほど、周回コースに素材となるガスや塵が多量にあるはず(『太陽』から非常に遠い所ではこの説は成り立たない)ですから、『大きく』なると推定できます。確かに『水星』より『金星』が、『金星』より『地球』が『大きい』ことで、推定通りですが、『地球』より『太陽』に遠い『火星』が、『地球』より『小さい』のは、おかしな話になります。

『小惑星』が、『小惑星帯』に集中して存在するのも、何故なのか気になりますが、成分により質量が異なる『小惑星』が、均等に入り混じって存在するのは何故かも確かに謎です。普通に考えれば質量の大きい岩石タイプの『小惑星』が太陽に近い軌道に集まっているはずです。

『天王星』『海王星』も、最初から現在の軌道の位置を周回していたとすると、『太陽』から遠いため、周回コースのガスや塵の密度が薄くなり、45億年かけても現在の大きさにはならないというシュミレーション結果がでていますから、『大きさ』は謎になります。

これらの謎を一気に解決する『仮説(グランド・タック説)』が以下になります。

①『太陽系』で最初にできた『惑星』は『木星』で、次に外側軌道で『土星』『天王星』『海王星』ができた。
②『木星』『土星』は『太陽』に引き寄せられ、近づいた。
③しかし、『木星』と『土星』の軌道が接近して、『共鳴』が起こり、両方の『惑星』は今度は『太陽』から遠ざかって行った。
④遠ざかる過程で、周辺のガスや塵を奪っていった(後に『火星』ができた時に材料が少なくなっていたのはこのため)。同じく、現在より『太陽』に近い軌道で既に存在していた『天王星』『海王星』を、外の軌道へ押しやった。『小惑星帯』も影響を受けて、異なったタイプの『小惑星』が入り混じった。

梅爺には、この『仮説』を自ら検証する能力がありませんので、信用するとすれば、『謎とき成功』ということになります。『天王星』『海王星』は元は、もっと『太陽』に近い軌道の惑星であったとすれば『大きい』理由がわかります。

重要なことは、『地球』は『木星』より後に誕生したこと、『木星』や『土星』が、『太陽』から遠ざかっていったために、重力のバランスで、現在の軌道を得たこと、偶然その軌道が『ハビタル・ゾーン(生命体が存在できる環境)』であったこと、ということになります。

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