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2016年6月30日 (木)

私たちが存在するのは木星のお陰?(2)

138億年前に、私たちの感覚で云うなら、時間も空間もない『無』の場に、『ビッグ・バン』で忽然と『宇宙』が出現し、それ以降『宇宙』は膨張を続けているとういうのが『科学』の定説です。 

『無』の場というのは、誤解を招きやすい表現で、そこには『振動する莫大なエネルギー』が存在していたと考えられています。『量子物理学』の世界は、私たちの感覚とは異なっています。 

『宇宙』に存在する全ての物質は、『ビッグ・バン』と同時に出現した、『素粒子』を素材として創られています。『素粒子』の一つである『電子』は、19世紀末には発見されていましたが、『量子物理学』が、『素粒子』の体系を明らかにしたのは、20世紀の半ば以降のことです。現在では、17種の『素粒子』が見つかっています。ごく最近17番目の『ヒッグス粒子』の存在が確定し話題になりました。 

『素粒子』の概念が確立する前は、『原子核』が物質の究極の単位であると考えられていました。しかし、『原子核』は条件に依っては分解することが判明し、この時発生するエネルギーを利用する『原子力利用』が始まりました。『アメリカ』はヒトラーが先に『原子爆弾』を完成させることを恐れて、『マンハッタン計画』で悪魔の兵器『原子爆弾』を実用化しました。

その後、ヒトラーは『原子爆弾』の開発を手掛けていなかったことが判明しましたが、『日本』を降伏させるという大義名分で、『ヒロシマ』『ナガサキ』に投下しました。どんなに弁明しても『非道な行為』として歴史に刻まれることには変わりがありません。

45億年前に、『太陽系』が誕生し、太陽に近い順で『水星』『金星』『地球』『火星』『木星』『土星』『天王星』『海王星』等の惑星が出現したと学校で教えられ、知識として丸暗記してきました。

『太陽系』や『地球』が誕生してから現在に至るまで、どのような歴史をたどってきたのかなどという説明は、学校では受けたことがありませんので、番組で天文学者が、どのような疑問を持っているのかを知り、『そう云う話を先にしてくれたら学校の授業は、丸暗記の苦痛ではなく楽しかったのに』と恨めしくなりました。

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2016年6月29日 (水)

私たちが存在するのは木星のおかげ?(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映される宇宙科学番組『コズミックフロントNext』で、太陽系の成立に惑星『木星』が果たした役割に関する解説があり、惑星『地球』が現在のような『ハビタブル・ゾーン(生命体が存在できる宇宙環境)』に位置するようになったのは、『木星』のお陰であるらしいことを知りました。 

『宇宙』は、梅爺が『物質世界』と呼ぶ典型的な『場』で、ここに存在する全てのモノは、『科学』が『摂理』として解明を続けている法則だけに支配されて『変容』を続けています。法則の多くは、『数式で表記できる』という驚くべき特性を持っています。 

従って『物質世界』の事象の因果関係は、『摂理』で普遍的に説明ができ、『真偽』の判定も可能です。人類は、『摂理』の全てを把握してはいませんが、科学者は、『物質世界は摂理のみに支配されている』という『命題』は『真』であるという前提で、研究探索を続けています。今まで、その様に考えることに『矛盾』する事例に遭遇していないからです。 

『物質世界』には、科学者が『謎』として興味を持つ事象はまだ沢山ありますが、科学者はそれを『摩訶不思議』『奇跡』として、追及を止めることはありません。 

現状において科学者が『謎』と考える最たるものは、『何故物質世界に摂理が存在するのか』ということでしょう。『ニュートン』も『アインシュタイン』も、『摂理』の一部を発見しましたが、何故『摂理』が存在するのかは説明できませんでした。現状では解明する手掛かりさえも見つかっていません。 

『摂理』こそが『万物の創造主』で、『神』ではないかと主張する方もおられますが、残念ながら『摂理』は、文字通り『理』であって、『愛』とか『心の安らぎ』とか『罪の救済』などという『概念』とは無縁ですから、宗教の『神』とダブらせることには無理があります。 

『摂理』は時に、人間には『非情』とも思える、天災を引き起こす要因でもあり、天災は善良な人間の命を、容赦なく奪いますから、『人間を特別に愛して下さる』存在であるとはとても思えません。 

『木星』のお陰で私たちが現在存在しているという表現は、『風が吹けば桶屋が儲かる』という因果関係ほどこじつけではなく、『なるほど、そういうことか』と梅爺は納得できました。

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2016年6月28日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『科学、技術そして魔術』(6)

『ウンベルト・エーコ』は、梅爺のように『物質世界』と『精神世界』の違いを明示して、議論を進めてはいませんが、世の中の事象の多くは、『原因』と『結果』の間に、複雑な『因果関係』の連鎖が介在することを、私たちが理解すべきであることを説いています。

『技術』や『魔術』が、手っ取り早く『結果』だけを提示するために、私たちは何事も『因果関係』を短絡して、結論や欲しいモノが手に入ると誤解したり、すぐに手に入らないと、イライラしたりすることを諫(いさ)めています。

これを是正するために、学校教育で『科学は、原因と結果の間に介在する複雑な因果関係の連鎖を、地道に解明していく行為である』ことを教えるべきと述べています。

梅爺は、この主張に異論はありませんが、こういう主張が通るのは、『物質世界』の『摂理』の解明を行う『科学』の世界に限定されるという前提を明示することも重要であるような気がします。

『精神世界』が関与する事象の多くは、どんなに議論しても、どんなに熟考しても、『普遍的に正しい答』などは見つかりません。『モーツァルトはベートーベンより優れている』などということにはなりません。昨日も述べたように、『精神世界』は基本的に個性的であり、価値観は同じではないからです。『国民の合意を得るために、十分な議論を尽くしたい』などという政治家の主張は、詭弁に過ぎません。議論は、幸運にも合意を形成するのに役立つこともありますが、むしろ違いを確認するための手段として有効なのではないでしょうか。

『精神世界』が関与する事象の『因果関係』に『正しい、間違い』といった価値観を付与することには慎重であるべきです。

『生きていく』ためには、『正しい、間違い』が判断できないといって立ち止まっているわけにはいきませんので、『人』は『信ずる』という行為を駆使します。

『信ずる』ということは、あくまで個性的な価値観であって、それが普遍的な『正しい、間違い』を論ずる手段にはなり得ません。『科学』の世界では、『仮説の提示』は許されますが、『正しいと信ずる』という表現は意味をもちません。『精神世界』が関与する事象において、『正しいと信ずる』という個人的な主張は許されますが、相対的な価値判断としてとどめておくべきです。『正しいと信ずる。だから正しい。あなたも正しいと信じなさい』と云いだすと、人間関係は成立しなくなります。

世の中の事象は、複雑な因果関係の連鎖が背後に介在しているなどということは、『ウンベルト・エーコ』に言われなくとも、日本人は知っています。『風が吹けば桶屋が儲かる』という見事な諧謔的表現で、それを知恵として継承してきたからです。

『技術』を利用して『結果』だけを手っ取り早く手に入れる利便性を非難の対象にする必要はありませんが、それに慣れてしまって、物事の本質を洞察しようとしなくなることは、注意を要します。

物事の本質にたどり着くには、複雑な因果関係の連鎖を解き明かしていく必要があります。私たちは、折角素晴らしい脳を与えられているのですから、大いに『洞察』を楽しむべきです。『洞察』を楽しめるのは『生きている』からこその特権なのですから。

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2016年6月27日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『科学、技術そして魔術』(5)

『精神世界』を分かり難くしている要因の一つが、『個性的』であるということです。何故『個性的』であるかも『生物進化』が関与しています。生物として『両性生殖』の仕組みを子孫を残すために採用したために、受胎時に、その『ヒト』の遺伝子は、両親の遺伝子の偶発的な組み合わせて決まることになり、『ヒト』の遺伝子構造(DNA構造)は、個々に異なったものになる様宿命づけられました。

更に、複雑なことに、『ヒト』の脳神経細胞ネットワークのパターンは、生まれつきの遺伝子情報と、生後の環境対応で得られる経験、体験との両方が関与して出来上がっていきます。つまり、一人一人異なったパターンを保有するようにこれも宿命付けられています。

この結果、『ヒト』は、周囲の事象を、一人一人異なったように、受け止めることになります。勿論、統計的にみれば、多くの人が『同じように受け止めている』ように見えることはありますが、厳密には『考え方』『感じ方』は個性的であるということになります。

この『ヒト』が個性的であることは、外見の容貌の違い、指紋の違いなどですぐに分かりますが、『精神世界』も個性的であることは、眼には見えませんから、気づかないことになりがちで、このことが人間関係で厄介な問題を起こす要因になります。

つまり、私たちは、『自分の考え方、感じ方が正常である』『他人も自分と同じように、考え、感じているにちがいない』と勘違いしがちです。そして他人が『自分とは同じように考えたり、感じたりしていない』ことに気付くと、『あなたは間違っている』と非難したり、『けしからん』と怒ったりします。ひどい時には、相手を殺したりします。

国際情勢や、日々起きている忌まわしい諍いの事件などは、『考え方、感じ方』の違いで起きていることは、ご理解いただけると思います。

更に厄介なことは、『ヒト』が生き延びる確率を高めるために、『群』をつくって生活する方法を『生物進化』の中で採用したことです。

『群(社会、コミュニティ)』には、秩序を保つための約束事が必要になりますが、メンバーは一人一人個性的な『考え方、感じ方』を保有しているわけですから、個性的な『個』が、非個性的で一律な『群』の約束事に従う必要が生じるという矛盾に遭遇することになります。

この矛盾を解決するための普遍的な知恵を、人類は見出していません。

『為政者や独裁者の命令』『その社会の法、道徳、倫理』『宗教が信者に求める規律』などが、自分の『考え方、感じ方、価値観』と異なっていた時に、個人がどのように振る舞うかは、難しい問題になります。

『殺される、抹殺される、村八分にされる』ことを覚悟で、自分を主張するか、身の安全を重視し、我慢して従うかは、『どちらが正しい』などと軽々に論評できません。

『精神世界』が個性的であるということが、人間社会を維持する上で、如何に厄介な大問題であるかが、お分かりいただけたでしょうか。

『個性の違いを認める』などということは、口でいうのは簡単ですが、『生きていく』ためには、対応が極めて難しい問題なのです。

お互いが、違いを認めて共存していくためには、『寛容』と『忍耐』以外の知恵を梅爺は思いつきません。双方とも『寛容』と『忍耐』の意味を理解している場合に限り、人間関係は健全に保たれることになります。

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2016年6月26日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『科学、技術そして魔術』(4)

梅爺は『物質世界(自然界)』の事象と、『人』の『精神世界』が関与する事象とを分けて考えるようになって、今までモヤモヤしていたことが一気に『なんだ、そういうことか』と得心できるようになりました。 

『物質世界』は、『不均一』を『均一』にしようとする現象で、絶え間なく『変容』しています。『変容』は『動的な平衡移行』と表現することができます。『変容』は『神のデザイン(目的)』に従って起きているとは思えません。何故なら人間の願いや祈りとは無関係に『変容』は進行しているからです。人間にとって都合の悪い天災も、『変容』の一つに過ぎません。強いて『最終目的』を挙げれば、全てが『均一』になって、『変容』が停止する状態であり、それは『宇宙の死』を意味します。科学者は、『宇宙の死』を論理的に予測しています。しかし、138億年前の『宇宙の誕生(ビッグバン)』以降、『宇宙』は膨張(変容)し続けており、いずれは『宇宙の死』があるにせよ、それは遠い遠い先の話になります。 

『物質世界』は『ビッグバン』で出現した素材(素粒子、量子、元素)だけで構成されていて、『変容』は『摂理(法則)』にのみ支配されていると考えられます。この考え方のに矛盾する事象は、『物質世界』では見つかりませんから、科学者にとっては『定説』です。 

『物質世界』の最大の特徴は、『摂理』は普遍的であり、事象の『真偽』もまた普遍的に特定できることです。『摂理』は人間の理性によって、その一部が発見の対象になってきましたが、人間が創ったり、変えたりはできません。つまり、人間の願いや祈りとは無関係なものです。分かり易く云ってしまえば、人間が存在しようがしまいが、『摂理』は厳然と存在し、『物質世界』の『変容』は続いていくということです。 

このことを、理解するには、『宇宙』の歴史(138億年)と人間の歴史(高々数100万年、文明の歴史にいたっては5~6000年)を、一連のものとして俯瞰する必要があります。『天地創造』と同時に人間は存在したわけではなく、永い『宇宙』の歴史のなかでは、ごく最近の『つかの間』に存在している生物種なのです。勿論、生物種として『ヒト』は、『宇宙』の素材だけで構成されていて、生死は『摂理』の支配下にあります。 

ここからは、『物質世界』の話ではなく、『精神世界』の話に移ります。 

『精神世界』は『ヒト』の脳が創りだす、『仮想世界』です。何故『ヒト』が『精神世界』を保有するようになったか知るのは、脳を何故保有しているかを考えてみる必要があります。脳は、『ヒト』が『個』として『生きる』ために必要なものとして『生物進化』の過程で獲得したものです。勿論脳は、『物質世界』の視点で観れば、『宇宙』に存在する素材で構成されていて、その活動そのものは『摂理』に支配されています。ミクロに観れば、脳は『物理法則』『化学法則』で維持されています。

従って、『精神世界』も、『ヒト』が『個』として『生きる』ために必要なものとして出現したと考えるのが妥当です。『精神世界』は、『理』と『情』、『意識』と『無意識』が複雑に絡み合って機能する『仮想世界』であり、基本的には『安泰を希求する(生き延びる)本能』が根底にあると想定すると、これまた、モヤモヤしていたことが、霧が晴れるように見えてきます。

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2016年6月25日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『科学、技術そして魔術』(3)

『技術』そのものを利用して新しいモノや事象を実現する『技術者』は『技術』を詳細に理解する必要がありますが、実現されたモノや事象を利用する『利用者』にとっては、多くの場合『技術』は『ブラックボックス』であって、使われている『技術』そのものを理解する必要はありません。

『利用者』にとっては、『こうすれば、ああなる』という『因果関係』がもたらす『利便性』『経済性』などが関心事であり、『技術』そのものは興味の対象でなくなってしまう傾向が強まります。つまり、『こうすれば、ああなる』という現象だけを知っていればよく、何故『こうすると、ああなるのか』という仕組みについては、知らなくとも事がすみます。

現代の日本では幼児でさえも、器用に指先で『スマホ』や『タブレット端末』を操作して、目的のゲームや動画を楽しんでいます。幼児は、背後に高度で複雑な『技術』が使われていることなど、知るはずがありません。大半の『大人』も幼児同様のレベルで『技術』が提供するモノや事象を利用しています。

『ウンベルト・エーコ』は高度で複雑な『技術』の詳細を誰もが知っていなければならないなどとは主張していませんが、『技術』を利用すれば、『原因(こうする)』と『結果(ああなる)』とを短絡させることができるという誤解を与えかねないことを懸念しています。

『因果関係』の短絡になれっこになってしまうと、電源を入れてからパソコンがすぐに立ち上がらないことや、インターネットの検索結果が画面に現れるまでに時間がかかったりすると、私たちはイライラしたり、毒づいたりすることになります。

現代人が、無条件に『技術』を信じてしまうことと、中世の人々が『魔術』を本当に信じていたこととは、同じではないかと『ウンベルト・エーコ』は論じています。

『魔術』は、人々が当たり前と思っている『因果関係』に反する事象を起こしてみせるもので、『因果関係』を確認してみせる『技術』とは異なりますが、『分からないことを、結果だけで信じさせる』という点では類似していると言いたいのでしょう。

現代人は、『奇跡』や『神秘』を『存在するかもしれない』と一方では『信じ』ながら、『自然界の摂理には、奇跡や神秘は存在しない』という『科学』の主張も理性で受け容れるようになって、他方では『奇跡』や『神秘』の存在を『疑う』ようになっています。

困った時には現代人も『神頼み』に走りますが、理性では『加持祈祷』で、疫病の流行や、天災の発生を阻止できないと薄々感じています。この自分の中の矛盾は、『人』の『精神世界』が関与していると梅爺は考えています。『神』が存在するから『神頼み』をするのではなく、『神頼み』という安泰を求めた行為のために『神』という概念を必要とし、創りだしたと推測しています。生物として生き残りの確率を高めるために、私たちは『安泰を希求する本能』を継承しており、これが『精神世界』を動かす大きな要因になっているという推測です。この本能が『宗教』や『芸術』を産み出したとも考えています。その証拠に人間がいない世界、つまり『精神世界』が存在しない世界には『宗教』も『芸術』も存在しません。

現代人にとっては、『魔術』は『手品』同様、『裏側に自分が知らないタネや仕掛けがある』と言う前提で、むしろ『騙されている』ことを楽しむ対象に変わりました。中世に比べれば、健全さが増したことになります。

『技術』は一見『因果関係』を短絡しているように見せることがあり、この結果人々が、世の中の事象は全て『因果関係』は短絡できると勘違いしたり、楽をして答や結果を得ようとするようになるのは困ったことだと『ウンベルト・エーコ』は懸念していますから、これに関しては梅爺も同感です。

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2016年6月24日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『科学、技術そして魔術』(2)

『技術』は、『科学』が解明した『摂理』を利用して、誰かにとって意味のある『モノ』や『事象』を作り出す手段です。

まわりくどい表現をしていますが、『誰かにとって意味のある』と言う表現が重要で、『誰か』とは誰なのか、『意味』とはどのような価値なのかが、『技術』においては問題になります。

分かり易く云ってしまえば『将軍様のために核兵器をつくる』のには『技術』が関与するということで、『技術』そのものは、『良い目的』にも『悪い目的』にも使われます。

『科学』『技術』そのものには責任がありませんが、『科学の応用』『技術の適用』が、『人間』や『人間社会』に及ぼす影響を『科学者』や『技術者』は事前に洞察し、一般の人に分かり易くその功罪について説明する責任があります。つまり、『科学』『技術』に関わる人達には、ある種の洞察力、倫理観が要求されます。時に『研究開発』行為を、自己抑制する必要も生じます。

しかし、現実には、『権力者の命令』『軍事目的』『教義やイデオロギーの目的達成』『商業主義(金儲け)』などが『研究開発』の動機として横行していますので、『科学』『技術』そのものが胡散(うさん)臭いもののように誤解されます。胡散臭いのは関係者の『精神世界』の価値観であることを私たちは承知しておくべきです。問題は『技術』にあるのではなく『人』にあるということです。

『人間』や『人間社会』に及ぼす影響を洞察することも容易ではありません。『一台の自動車』は便利な道具ですが、『多量な自動車』は、エネルギー資源の枯渇、道路の渋滞などの好ましくない事象を引き起こします。『iPS細胞』を利用した『臓器再生医療』は、難病に苦しむ患者には朗報ですが、老化臓器の再生などにも一般的に適用されれば、社会の長寿化が極端に進み、政治や経済のバランスが変わってきます。

予め『最善策』を策定し、誰もがそれに合意して従うというようなことは、人間社会では不可能に近いことで、結局弊害が目立つようになった時に、試行錯誤で修正する羽目になります。しかし、それでは効率が悪すぎますから、洞察力に優れ、説得能力のあるリーダーの重要性が高まります。この場合もリーダーが『独裁者』に変貌してしまうリスクがあります。

『人間は何故こんなに愚かなのか』といつの時代も多くの人が嘆いてきましたが、いっこうに『賢明になる』兆しはありません。『人』は個性的であるように宿命付けられていて、異なった価値観を保有していることが原因ですから、自分の価値観と異なった他人を『愚か者』と呼ぶ以上、全員が『賢く』なるなどと言う事態は望めません。

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2016年6月23日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『科学、技術そして魔術』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning back the clock(時を遡る)』の11番目の話題は『Science,Technology and Magic(科学、技術そして魔術)』です。

『現代は科学の時代だ』という表現に、異論を差し挟む人は少ないでしょう。しかし、『科学と技術の違い』『科学、技術と魔術の違い』を本当に理解している人もまた少なく、それが不幸を招くことになりかねないと『ウンベルト・エーコ』はこのエッセイの中で警鐘を鳴らしています。

『ウンベルト・エーコ』は『科学』を遂行するプロセスは、『長い因果関係の連鎖を地道に解き明かしていくこと』と表現しています。『因果関係』の『真偽』を繰り返し検証することで、普遍的な法則を見つけ出す作業です。『科学』の世界で『仮説』を提唱することは比較的容易にできますが、その『仮説』を『真』と断定するには、多くの時間、費用、能力、労力を必要とするのが一般的です。

梅爺の『科学』の定義は、『ウンベルト・エーコ』と結局同じことをいっているのですが、以下のように表現が少し異なります。

『科学』は『物質世界』の『摂理』を解き明かす作業領域で、『摂理』は関連する事象の『真偽』を明確にすることができる。

この考え方の裏側にある前提は、『物質世界』は『摂理』のみに支配されているということで、論理的に『物質世界』には『神秘』『奇跡』は存在しないということです。

勿論、『物質世界』の事象には、未だ私たちが因果関係を説明できないものが沢山ありますが、それは『未知』なのであって、いつの日にか『既知』に変わる可能性があるという考え方です。『未知』を『既知』に変える努力が『科学』です。『科学』は『神秘』『奇跡』を肯定して、そこで思考を停止することをしません。

『お前は、なんと狂信的な科学信奉主義者なのか』とご批判を受けそうですが、梅爺は能天気に『科学が物質世界の事象を全て解き明かす日がもうすぐやってくる』などとは考えていません。

何故ならば、『物質世界』で一つのことが『既知』になると、更にそれによってもっと沢山の『未知』が出現することになるからです。『科学』は終わりのない『モグラたたき』のようなもので、『これでお終い』ということにはなかなかなりません。何といっても最大の『未知』は、『何故物質世界を支配する摂理が存在するのか』という疑問でしょう。

『ニュートン』も『アインシュタイン』も、画期的な『摂理』を解き明かしましたが、『何故摂理が存在するのか』を解明はしていません。

『ほらみろ、それこそが人智を越えた神の御業(みわざ)ではないか』というご指摘は一理ありますが、『摂理』は冷厳な法則であって、そこには『愛』やら『正義』やら『罪の許し』の匂いが一切ありませんから、宗教的な説明の『神』と物質世界の『摂理』を結びつけることには無理があります。

『科学は、終わりのない旅路を歩むこと』かもしれませんが、それでも科学者は『一歩先へ進もうとする』のではないでしょうか。

『好奇心』は『安泰を希求する人間の性(さが)』に起因するもので、ある種の人達は『神秘』や『奇跡』を信じて思考を止(や)めろといっても、云う事を聴かずに『何故だろう』とう疑問を、理性に依る因果関係で解き明かそうとするからです。

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2016年6月22日 (水)

猜疑心(4)

人の『精神世界』には、何故『疑う心』と『信ずる心』という矛盾したものが共存しているのかという理由について、梅爺の『仮説』を述べてきました。どちらも『生きる』ために必要な行為ですが、どちらかだけに大きく偏ると問題を生ずるという考え方です。『疑う心』は悪いもの、『信ずる心』は善いものとは考えていません。

『生物進化』の過程の中にその答があるという主張ですから、『生物進化』という科学知識を梅爺が保有していなかったら、『仮説』を思いつくことができなかったはずです。

『釈迦』や『キリスト』は、梅爺と同じ科学知識を持ち合わせていませんでしたから、『疑う心』『信ずる心』の正体に関して、梅爺とは異なった推測をするか、正体には言及せずに、対応方法を述べています。

『キリスト』は、『疑う心』は『悪魔の誘惑』ととらえ、これに打ち勝つために『神への帰依』を説いています。その延長で『汝の敵を愛せよ』などという崇高な思想を、対応方法として述べています。

『釈迦』は、『疑う心』の正体については言及していませんが、それを『煩悩』と定義し、『煩悩』を断ちきって『仏心』だけに近づきなさいと、これまた崇高な思想を対応方法として述べています。

梅爺は、自分の方が『釈迦』や『キリスト』より優れているなどと不遜に考えているわけではありません。ただ、現代人の特権である『最新の科学知識の保有量』を利用して、自分が理性で得心できる『因果関係』を推測しただけに過ぎません。将来、脳科学などの分野の解明が進めば、更に得心のゆく説明が出現するに違いありません。文明の進展の中で、『宗教』や『哲学』だけが、そのまま旧態依然を維持できるとは思いません。勿論『宗教』や『哲学』の中に『普遍的な真理』が含まれていれば、その部分は継承されていくと考えています。

『宗教』は今まで、時代の変化に対応して生き抜いてきましたが、『科学知識』に満ちた現代文明社会で更に生き残るためには、従来とはケタ違いの試練に遭遇するのではないでしょうか。過激な『原理主義』への回帰などは、試練への反動的な対応ですが、長続きするとは思えません。

昔の人は、『生きる』ことの全てに神仏が関与していましたが、現代人の多くは、日常的には神仏を意識せず、都合のよい時だけ形式的に頼ろうとする姿勢に変ってしまっています。昔の人は『正しく』、現代人は『間違っている』というような単純な説明では済まされません。

『心の安らぎ』は神仏を信ずることで効果的に得られることは、分かっていますが、一方『心の安らぎ』は脳内に分泌されるホルモン『オキシトシン』が正体であると、科学は突き止めました。何故このホルモンを人は必要とするのか、このホルモンを制御する方法はあるのか、などが解明されていくと、『神仏を信ずること』だけがその手段ではないことが明らかになっていく可能性があります。

結果的に、何故人類は『神仏』という概念を必要としてきたかも判明するかもしれません。

誤解が無いように申し上げれば、『神仏』の存在を『疑う』ことが梅爺の目的ではなく、知りたいと願うのは『何故人は心の安らぎ(安泰)』を希求するのかという理由です。生き残りを優先した『生物進化』のプロセス以外に、これを説明する方法を思いつきません。

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2016年6月21日 (火)

猜疑心(3)

『疑り深い人』『すぐに信じてしまう人』と、人の『個性』は色々です。誰もが、色々なレベルはありますが『疑う』『信ずる』の両方を駆使しながら生きています。『生きる』ために、それが必要である理由を昨日書きました。

『科学者』は『物質世界』の因果関係が明確でない事象に『何故だろう』と疑問を抱き、絶対的な法則を見出そうとします。この『何故だろう』と疑問を持つ『好奇心』も一種の『疑う心』です。因果関係が分からないという状況が、脳においては『不安』というストレスにり、因果関係を解明して『安泰』を得ようとするからであろうと思います。

このように『科学』の世界は、『信ずる』という行為を用いずに、『安泰』が得られる可能性を秘めた特殊な世界です。逆に『科学』の世界では『信ずる』という行為は御法度(ごはっと)です。科学者が、『私はこの仮説は正しいと信ずる』などと発言すれば、もの笑いになるだけです。

『科学が対象とする分野でのみ、絶対的な真偽の判定が可能である』ということの意味を、梅爺は何度もブログに書いてきました。

人の『精神世界』が関与する世の中の事象の大半は、『科学』が対象とする事象のように、『絶対的な真偽の判定』ができないという裏返しの表現になります。

これも何度も書いてきたように、『精神世界』は『個性的』であり、『価値観』は相対的であることに由来します。『宗教』『芸術』を例にとれば分かりやすいのではないでしょうか。『キリスト教はイスラム教より優れている』『モーツァルトはベートーベンより優れている』などという主張は一般的に成り立ちません。

『精神世界』が関与する事象は、あくまでも『私はこれが良いと思う』という個人的な意見だけは許されても、『これが絶対正しい』という主張をすることには極めて慎重であるべきことを知っておくことが重要です。

しかし、『物質世界』の事象の議論と、『精神世界』が関与する事象の議論を区別しておられる方は少なく、混同、勘違いの議論が横行しているように梅爺には見受けられます。

『精神世界』が関与する事象に関しても、『必ず正しい答があるはずだ』と考え、『自分が答を知らないだけで、誰かが正しい答を知っているに違いない』と思い込み、『専門家に聞いてみる』『答が書いてある本を探す』に頼ろうとします。

『池上彰のニュース解説』は、知らない知識の補給には意味がありますが、その解説内容が『正しい(真)』とは言えません。もちろん、『私は池上氏の意見に賛成だ』という発言ならば問題がありません。

『正しい答が無いとしたら途方に暮れるだけではないか』というご質問があろうと思います。『どうしてよいか分からないから信ずるのです』というのが一つの回答であり、『皆が自分の意見を述べた上で、話し合い、妥協点を探るしかありません』というのがもう一つの回答です。『民主主義』は、このように、きわめて時間と労力がかかる効率の悪いシステムです。しかし『独裁者の価値観』『特定イデオロギーによる価値観』『特定宗教の教義による価値観』で効率よく決するより、『不適切なことが起こる可能性が低い』という人類が長年かけて考え出した『知恵』なのです。

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2016年6月20日 (月)

猜疑心(2)

『個性的』であることを考える上で、厄介なのは、『個性』は『遺伝子』で決まった生まれつきの資質だけではなく、生後の生育環境からも影響を受けるということです。 

このことは、『肉体』『精神』の両方にあてはまります。更に生後の生育環境の影響も、自分の意志や意図が関与するものと、そうでないものに分かれます。『ボディビルディング』で筋肉質な肉体を作るなどというのは、自分の意志が関与したものです。幼児期に不幸にも愛情の薄い環境で育つと、他人への思いやりを欠く大人になる可能性が高いと言われています。この場合は、自分の意志とは関係なく性格が形成されてしまったことになります。 

現在の自分の『個性』は、『生まれつきの資質』『環境に対応してできた資質』『意図的に自分で創りだした資質』などが入り混じっていることを認識することが重要になります。 

『生まれつきの資質』が、無視できないことは確かですが、そうであるからといって『どうせ私は頭が悪い』『どうせ私は美人ではない』などと、全てそのせいにするのは適切とはいえません。人間はそのような単純な存在ではないからです。『努力は天才に優る』という表現は、必ずしも『真』とはいえないにしても、『偽』とも言えません。 

『猜疑心』というと何やら悪い印象を与えますが、『疑う心』が基盤になります。その対極が『信ずる心』で、人は誰もが、この二つの矛盾する『心』を保有しています。どちらの傾向が強いかが『個性』で決まります。 

何故、この二つの矛盾した『心』を持っているのかも、『生物進化』に由来します。つまり『生きる』ために、この二つの『心』はいずれも『必要』となるからです。 

生物は、周囲の事象が、『自分にとって都合のよいものか、都合の悪いものか』を判定して対応しようとします。『生き残りの確率を上げる』ために、それが重要であるからです。高度に進化した脳を持つ『人間』も基本的にはこの習性を本能として継承しています。 

『都合が悪い』と判断した場合は、脳内に『危険』『不安』『嫌悪』『憤怒』をストレスとして知らせるホルモンが分泌され、それがトリガーになって次なる対応に移ります。具体的には、『逃げる』『拒絶する』『戦う』『無視する』などの行動をとります。 

『都合が悪いような気もするがよくわからない』などと『迷い続ける』ことは、判断を遅らせることにもなり、ときには後手を踏むことにもなりかねませんから、人は、その状況を脱するために、『信ずる』という対応策を用います。『危険はない』『問題はない』と『信ずる』ことで、自分を『安堵』させようとします。 

『危険』や『不安』が、一転して消え失せ『安堵』が得られるというのが『信ずる』行為がもたらす効果です。『宗教』のもたらす『心の安らぎ』は代表的な例です。

『信ずる』という行為にも、色々なレベルがあり、因果関係を自分で論理的に推論して『信ずる』というものから、信頼のおける他人の言葉であるから『信ずる』、新聞に書いてあったから『信ずる』、そして何の根拠も無しに『信ずる』というものまであります。

いずれの場合も『信じて』いたことが、後々『偽』と判明することは当然あり、この場合は、『裏切られた』と感じて『安泰』は消滅し、前より一層『猜疑心(疑心暗鬼)』の度が増します。

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2016年6月19日 (日)

猜疑心(1)

『猜疑心の強い人』は、周囲の事柄が自分に不利益に作用するのではないかと先ず受け止める傾向が強い人のことで、『人間関係』を気まずくしますから、世の中では敬遠されがちです。

周囲の事柄を『楽観的に信用して受け容れる人』は、逆に周囲から好感をもたれることがありますが、『騙されやすく損をする』ことにもなりかねません。

それならば、『猜疑心の強い人』は騙されないかと云えば、必ずしもそうとも言えません。巧妙な詐欺師は、相手の猜疑心を弱めるために何度か安心させておいて、警戒レベルを下げ、最後に大きく騙すというような手口を使います。

『人間関係』は、『疑う心』『信ずる心』『善意』『悪意』など複雑な要因が絡む相互作用ですから、一律的に『どうあるべき』などという単純な判断は下せません。

同じ人間でありながら、これほど異なっているのは、『人間は個性的である』という事実に由来します。

私たちは、『人間が個性的である』という事実を、日常生活の中で体験していますから、表面的には認識していますが、『個性的』であることが、『人間』や『人間社会』に及ぼす本質的な意味を理解しているとは言えないように梅爺は感じています。想像以上に大きな影響力を及ぼしていますから、その本質的な意味を学校教育でしっかり教えるべきと考えています。

『個性的』であるが故の『違い』が、ストレスの原因になって、人は行動をおこします。文明の進化などは、これに依るものですが、一方、争いが絶えないのもこれに起因します。

『人間』や『人間社会』の魅力もおぞましさも、『個性的』であることに起因すると言って過言ではないでしょう。

人が『個性的』であるのは、『神』がそのようにデザインしたからではありません。『個性的』である理由は『生物進化』を理解すれば見えてきます。

生物が『遺伝子』を利用して、子孫を残していくしくみを、『生物進化』のプロセスで、偶然採用したことが『個性的』であることの真因です。

『単細胞生物』のように、細胞の単純分裂で増殖する生物では、『子』は『親』のコピーですから当然変異が無い限り『違い』が現れませんが、『真核細胞生物(多細胞生物)』へ進化して、子孫を残すために『両性生殖』の仕組みを採用したとたんに、『個性』が出現するようになりました。

両親の異なった遺伝子の、偶然の組み合わせで子供の遺伝子構造が決まるように変ったからです。

『人間』も生物の一種として、この仕組みを継承していますから、『個性的』であることから宿命的に逃れることができません。

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2016年6月18日 (土)

出口の無い罠にかかったネズミ(4)

このエッセイの著者は、一つの特殊な例を引用して、全体を論じてしまうところがあります。このような『帰納』的な思考は、注意を要します。

例えば、『アメリカの民間企業(ロケット打ち上げ会社)が、国際宇宙ステーションへ貨物を届ける仕事を請け負って既に成功しているから、宇宙はビジネスの対象になる』というような主張です。

勿論いつの日にか、宇宙はビジネスの広範な対象になり、観光会社、旅行会社などがこぞって参入する時が来るかもしれませんが、現時点では、非常に限定された条件や能力が関与する、特殊な事業領域です。誰もかれもが参入できるビジネス領域とは単純に言えません。

この著者の、宇宙開発、宇宙移住のシナリオは、更に単純です。『核燃料(原子力)ロケット』と『宇宙で働くロボット』の組み合わせの相乗効果が、最も有効だと決めつけています。

この組み合わせで、宇宙資源(レアメタルなど)を採取したり、宇宙基地の建設を行い、基地の規模や環境が、人間を受け容れるように整備されたら、移住すればよいというような論調です。

梅爺は、専門の科学者ではありませんが、『核燃料ロケット』や『宇宙ロボット』の実現可能性、安全性、有効性について、沢山の疑問を提示することはできます。

人類が生き延びるために、地球環境に加えて宇宙環境も利用範囲にすべきという一般論はもちろん肯けます。既に衛星通信、GPSなどの恩恵を受けているからです。しかし、宇宙環境を『資源採取』『エネルギー採取』『人間の居住空間としての利用』の対象にするには、克服しなければならない難しい課題がまだまだ沢山あり、すぐにでも実現できるような話ではありません。

近未来に、地球環境が、人類の住めない場所になったとしたら、一部の人達が宇宙のどこかに新居住場所を創り、移住して生き残るというシナリオの実現性は極めて低いと梅爺は予想します。

『ヒト』は、地球環境で生きられるように、進化してきた生物なのです。大気の酸素濃度、気圧、重力、水の補給、少ない紫外線、宇宙線の量など、当たり前の条件としていますが、これらの条件が一つ変わっても、大きな影響を受けることは明白です。『サイエンス・フィクション』と『現実』違いを、科学者でああれば、冷静に論じてほしいと感じました。

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2016年6月17日 (金)

出口の無い罠にかかったネズミ(3)

1997年に打ち上げられたアメリカの宇宙探査機『ヴォイジャー1号』が1990年に60億キロメートル離れた宇宙から『地球』を撮影した写真が送られてきて、私たちは『淡青の点』にすぎない『地球』を現実に観て、あらためて自分たちが『ちっぽけな存在』であることを思い知りました。 

138億年前の『ビッグバン』で、エネルギーの振動だけがある『無』の世界から『宇宙』は誕生し、それ以降膨張を続けています。『宇宙』には2000億個以上の『銀河』が存在し、一つの『銀河』にはこれまた2000億個以上の『星』で構成されていると言われています。『太陽』は、銀河のひとつである『天の川銀河』に属する『恒星』の一つで、『地球』はその『太陽』の周りを回る『惑星』の一つに過ぎません。『宇宙』は『物質世界』の『摂理』だけに支配されて、『変容』をし続けているように見えます。この『変容』は予めデザインされたものではなく、部分的な歪が引き起こす、偶発的、動的な平衡移行ですから、科学者の多くは、天地が神のデザインであるという考え方を、理性では受け容れていません。『摂理』こそが神ではないかという主張も一理ありますが、この『摂理』は冷酷な『法則』に過ぎず、『愛』とか『罪の赦し』とかいった宗教にとって重要な概念とは無縁です。 

これらの『物質世界』に関する科学知識から、『地球』は広大な砂浜の一つの砂粒にも満たない存在であることは、『理』で想像できていましたが、『ヴォイジャー1号』の写真を実際に観て、『情』も絡んで人々は感慨にふけることになりました。 

『ヴォイジャー1号』は、現在も飛行を続け、ようやく『太陽系』の辺境を抜けて、人類の人工物として初めて、『太陽系』の外へ出ようとしています。人類の偉大な業績ですが、『宇宙』全体からみれば、『太陽系』もまた『ちっぽけな存在』に過ぎませんから、飛行距離も相対的には微々たるものです。

人間を知るひとつの手掛かりは、『物質世界』の『摂理』によって、『生かされ』『子孫を残している』生物としての『ヒト』が、一方では『精神世界』という広大な『仮想世界』を保有した『人』であるということを知ることにあります。

『物質世界』に属する『ヒト』は、上記のような『宇宙』の視点で考えれば、『とるのいたらないちっぽけな存在』ですが、広大な仮想世界である『精神世界』を保有しているという視点で考えると、とても『ちっぽけな存在』などと片付けることができない『大きな存在』であるとも言えます。

この『ちっぽけでもあり、大きくもある』という『自分』を正しく認識することが大切です。ただ、『精神世界』は、摂理で生かされている『ヒト』にだけ付与される特権ですから、『大きな自分』を享受できるのは、『生きている間』だけということになります。自分や他人の『命』を大切にする必要があるのはこのためです。『一つの命は地球より重い』などと言われますが、上記の矛盾した対比を理解しないと、真意は伝わりません。

梅爺の老後の生きがいは、『広大な自分の精神世界を探索して愉しむ』ことになっています。日々驚きに遭遇できるからですが、『摂理』で生かされているからこその愉しみであり、死とともに『精神世界』は消滅すると覚悟していますから、生かされていることに深く感謝しています。

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2016年6月16日 (木)

出口の無い罠にかかったネズミ(2)

『出口の無い罠にかかったネズミ』というタイトルは、限りある資源を奪い合いながら地球上で生きている人類の様子を例えたもので、宇宙に眼を転ずれば、罠から解放されるという考え方を示唆したかったのでしょう。

しかし、昨日も書いたように、『地球で生きている限り罠からは解放されない。宇宙環境を利用すれば罠から解放される』という比喩は、あまりにも楽観的でもあり、また誤解を与えかねないものであるように思います。人類は、地球以外の環境でも『生きていける』という暗黙の前提でもないかぎり、このような表現は適切ではありません。

地球上の生物は、約40億年の時間をかけて、地球環境で生存可能なように、生命の仕組みを創り上げてきました。『人類』の歴史は、高々数100万年程度で、私たち現生人類(ホモサピエンス)にいたっては、歴史は20万年にも満ちません。この間、地球環境の変化は、人類の『生存』を許容する範囲であったというだけのことです。人類は、地球の資源を消費したり、再利用したりして生きていますが、基本的には、現状の地球環境が、今後も極端に変わらないという前提で、『生存』が保証されています。『地球温暖化の急激な変化』『小宇宙物体と地球の衝突』『巨大太陽風の発生』などが起これば、『生存』そのものが脅かされます。言い換えると、私たちは偶然の幸運で『生存』していると観ることができます。誕生時の地球は灼熱の天体でしたから、生物が棲める環境ではありませんでした。

地球環境には、生物の生態系も含まれます。『人類』も地球の生態系とは無縁に『生存』できません。動植物を食料として利用しているほか、私たちの体内には、600兆個と言われる友好的な微生物が共存していて、私たちの命の営みを支えています。これらの生態系依存関係が、地球外環境でも保証されるとは思えません。

疑似的に地球に似た環境を科学の力で宇宙に設置するというのなら、これまた『可能性』だけではなく、具体的な『実現』の手段を提示する必要があります。

現状の地球環境でさえ、自分たちに都合よく制御することができない人類が、宇宙に都合のよい環境を人工的に創ることができるという話は、梅爺には途方もない話に聞こえます。

短期間、限定された数の人類が宇宙に滞在できるという話と、人類が宇宙へ移住するという話は同じではありません。

宇宙と人類の関係を考え、未来を見据えることは必要ですが、当面は、今住んでいる地球とどのように付き合うかの方が、優先度の高い懸念事項であるように思います。

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2016年6月15日 (水)

出口の無い罠にかかったネズミ(1)

『What should we be worried about?(我々は何を懸念すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の22番目の話題は、『Rats in a spherical trap(球状の罠にかかったネズミ)』で、地球の資源を使い果たした人類が、唯一生き残る方法は、『宇宙資源の開発利用』と『宇宙への移住』であるという主張です。

著者は『Gregory Benford』というカリフォルニア大学アーヴァイン校の宇宙物理の教授で、彼はサイエンス・フィクションの作家でもあります。

梅爺は、この著者を知りませんが、このエッセイを読む限り、『人間』『人間社会』『文明』に深い洞察力をもった人物とは到底思えません。

増大する地球規模の人口、地球の資源枯渇、地球温暖化がもたらす環境悪化など、今や誰もが知っている事象や、他人の言葉、断片的な歴史事実を引用し、解決策は『宇宙資源の開発利用』と『宇宙への移住』であると単純に結論付けていることに、驚くというより失礼ながら正直あきれました。

宇宙物理学の分野で、どのような能力をお持ちなのかは知りませんが、『人類の未来』を論ずるには、あまりにも洞察が浅く、むしろ読者に誤解を与えはしないかと心配になりました。少なくとも梅爺は『安心しました。人類の未来は明るいのですね』と納得はできませんでした。

勿論、『宇宙資源の開発利用』や『宇宙への移住』は、科学や技術でいつの日にか実現できる可能性があることを梅爺も認めますが、それが『人類の救済』になると、一足飛びに結論付ける論理思考に抵抗を感じます。

仮に『宇宙資源』が利用可能になり、『宇宙移住』が可能になったとしても、それは特定の国家や特定の人物が独占的に保有する権利に止まり、決して『人類全体の救済』などといった楽観的な話にはならないと想像できるからです。現在地球資源を奪い合う醜い国家間の争いがあるように、宇宙の資源や移住をめぐっても、更なる『人類間の闘争』が繰り広げられるのではないでしょうか。

科学的に云っても、『宇宙資源の利用』と『宇宙移住』は、『可能性』と『実現』の間に、未知の問題がまだ沢山あるはずです。『人間社会』の経済的行為として、それがペイするのかどうかも定かではありません。『宇宙』の権利に関する国際的な法整備が可能かどうかも検証しなければなりません。

能天気なハリウッド映画ならいざ知らず、科学者も科学以外の事象を論ずる時は、学際的であって欲しいと思います。人類の未来は、科学だけで議論できるものではありません。

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2016年6月14日 (火)

考える程に『教育問題』は難しい(6)

『教育』は無意味なことではないと誰もが『感じ』ますが、それでは何のために『教育』は行われる必要があるのかについて、誰も明解に即答できません。 

ここに『教育問題』の難しさがあります。 

しかし、突き詰めれば『個人のため』か『国家(社会)のため』かという二つに収斂(しゅうれん)するように思います。そして二者択一ではなく、両方をバランスよく行うことが現実的な対応になるのではないでしょうか。 

『自分の都合(安泰)を最優先する本能』に支配される『個人』が、国家、社会の一員としては『国家、社会の都合を最優先するしくみ(約束事)』に従う必要があるという、『個』と『全体』の価値観の矛盾に対応する普遍的な『知恵』を人類はまだ見つけていません。『個の主張』と『個の抑制』のバランスは、理性で人間の本質を理解しない限り実現できません。 

強いて『知恵』と言えるものは、『全体』の価値観に従った方が、『個』も自分の価値観に従うより、より『安泰』であると『理』で納得することでしょう。これを少しカッコヨク云えば、『絆』を確認することで、『安泰』を獲得するということに他なりません。『絆』より自分の『身勝手』を優先する『生徒』『教師』『親』が増えると、教育の場や社会に『暴力』や『いじめ』がはびこることになります。

国家や社会に『法』『道徳』『倫理』といった『約束事』が存在するのは、国家や社会を効率よく秩序だって運営するためです。つまり『国家、社会のため』に存在します。無人島で暮らす『ロビンソン・クルーソー』には必要ありません。『法』『道徳』『倫理』は『約束事』ですから、絶対的な『金科玉条』ではなく、社会事情や時代に依って変わることがあることも承知しておく必要があります。現行の『日本憲法』も、論理的には『金科玉条』ではありません。どのように『改正』すべきか、『改正』すべきでないかは大いに議論すべきですが、『改正』を議論する行為そのものを『悪い行為』と決めつけるの『約束事』の原則に反します。

『教育』の目的が多様である以上、『教育』の効果も、一元的には計れません。『個人』の『教育効果』は、『学力テスト』で測定できますが、これは表面的なことで、本当はその人が人生で、『教育』のお陰で『自己実現』できたことを評価の対象にすべきです。しかし、これも具体的な評価の方法がありません。

『教育』の目的を『国家、社会のため』としても、その『効果』を計る手立てがありません。マクロ社会経済学の視点で、『教育』の『投資効果』を測定したくなりますが、これも具体的な手法を欠きます。『落ちこぼれ』は問題ですが、これを『やむなしと切り捨てる』のか『徹底救済する』のかを、測定手法が無い限り判断は難しくなします。『教師』の質の向上も『投資効果』を見極める方法が無いので、簡単な対応方法は指摘できません。

現時点の日本の『教育』にとって、優先度の高い問題は、『教育』が社会の貧困格差を更に増幅する要因となってしまっていることと、『必ず正しい答がある設問でテストする様式』を重視し過ぎていることのように思います。

勿論、梅爺も『読み、書き、ソロバン(計算)』の基礎知識は重要と思いますが、『人』としては、『自分で自分を啓蒙する思考能力(自分を納得させる思考)』が一番大切であると思います。更に『自分の考え』がある以上『他人の考え』もあることを理性と感性で受け止めることも重要です。

『理性で自分を啓蒙する』『理性と感性で他人の立場を思いやる』人間を増やす手段が『教育』であると考えますが、具体的にどのような仕組みやプロセスであるべきかは、とても提言できる能力はありません。

日本は、明治維新以降、色々な『教育』を行ってきました。このような激しい変化を体験してきたことは、『教育』を『進化』させるには、幸運なことと言えるのではないでしょうか。環境の厳しい変化が無ければ生物も社会も文明も『進化』しないのですから。

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2016年6月13日 (月)

考える程に『教育問題』は難しい(5)

NHKの番組は、戦後70年間に、日本の教育環境がどのように変遷してきたかを報じ、これからどのようにしていったら良いかを問う内容でした。

『皇国史観』『軍国主義』から、『民主主義』『基本的人権の尊重』の思想に変換する時の混乱がいかに大きなものであったか、当時の当事者の証言で語られました。なにしろ『考え方』の変更を迫られたものの、具体的な方法論は、提示されなかったわけですから、教材づくりなどを含め手探りの試行錯誤であったことが分かります。

『国家一律の教育』から『地方特性を加味した教育』の導入なども試みられました。

文部省も教育現場も、新しい環境に懸命に対応しようと、四苦八苦しました。それでも、教育理念を国家として確認するための『教育基本法』の制定や、教師のための『指導要綱』の策定が行われました。

『知識の習得』を重視するか、『考える力の会得』を重視するかといった議論が、行われ、一時は教材の量を削減して、『考える力』を重視した『ゆとり教育』の方針が採用されましたが、今度は、それでは『学力低下』が目立つようになり、再度『知識習得』重視へと舵を切りなおす羽目になりました。

世界の学童の『学力テスト』が同じ基準で行われ、日本は芳しくない成績になって、これでは大変ということになり、何よりも、大学生の多くが、まともな日本語の文章が書けなかったり、簡単な分数の計算ができなかったりという状態になって、大騒ぎになりました。

日本が朝鮮戦争の特需などがあって、戦後の経済復興を果たし、更に高度経済成長時代に突入して、経済大国へと変貌する中で、今度は経済を支える人材の育成が教育の目標として考えられるようになりました。戦前の『軍国兵士』ではなく、世界で戦える『ビジネス戦士』の育成が重視されるようになりました。『国家のために身を捧げる』という点では似たような話です。

『知識』か『考える力』かという議論と同様、教育は『個人の自己実現』のためか、『国家、社会、会社のための人材育成』のためかという議論が繰り返され、現在も考え方は定まっていないことになります。

高度経済成長時代には、高学歴で、高級官僚や大企業の一員になることが、人生で幸せを得る最善の策と考えられ、受験に合格することが教育の目的となりました。梅爺もこのような時代に翻弄された一人です。良い学校へ入るためには、『塾』へ通うことが必要と言う考え方が、現在でも日本では定着しています。

教育で競争原理が強く働くと、その被害者として『落ちこぼれ』の問題が浮上することになります。人間の能力の個人的な差が、『落ちこぼれ』を生み、これはどの時代にもありましたが、現在では、『家庭の経済力格差』が『落ちこぼれ』を生む要因として顕著になって、深刻な社会問題になりつつあります。現在日本の学童の6人に1人は、『貧困家庭』の一員で、『教育機会格差』が次の世代の『貧困家庭』を生む要因になっていると報じられています。つまり社会の『貧困格差』を増幅する要因に教育が関与しているという悩ましい話です。

戦後の教育環境の中で、一部の教師の権威が失墜し、生徒が教師の価値観の押しつけに反抗して教師に暴力をふるう事件が顕著になりました。また、生徒間の陰湿な『いじめ』問題も社会問題となっています。

『人間形成』を目的とした教育の場で、『暴力』や『いじめ』が社会問題になるというのは、極めて皮肉な話です。『人間』は個性的であることが宿命付けられているので、『相手の立場を思いやる』『価値観の違いを受け容れる』ことなしでは、社会で生きていけないという、一番本質的なことを『教育』が教えていないからではないでしょうか。上辺だけの『道徳』をただ押し付けるのではなく、何故『道徳』が必要なのかを論理的に教えるべきです。

これらの問題は、『先生が悪い』『親が悪い』と責任をなすり合っても解決しません。『好ましくない生徒』ばかりではなく『好ましくない先生』『好ましくない親』が増える要因は、『人間とは何か』と言う理解の欠如と、社会体制と個人との価値観が相互に相反することが多いという事実に関する理解の欠如が根本にあると考える必要があります。

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2016年6月12日 (日)

考える程に『教育問題』は難しい(4)

明治政府の『富国強兵』政策は、やがて『西欧列強』のアジア植民地化陣取り合戦は看過できないという名目で、実質的には利権を求めて日本もアジアへ進出を試みるようになりました。『日本はあなたたちの餌食にはならないぞ』という防衛意識と、『あなたたちがやっていることを私がやって何が悪い』という自己正当化意識が根底にあったのでしょう。 

西欧を真似ることで、近代国家創りを目指してきた日本は、西欧の『植民地陣取り合戦』の行為までも真似てしまったということです。それが、その後日本へもたらした悲劇を考えれば、愚かなことと言えますが、西欧の植民地主義が横行していた当時の世界情勢の中で、日本人の多くは、『小さく資源も乏しい島国の日本が列強に伍していくためには領土の拡大、資源の確保が当然必要』と考えていたのではないでしょうか。ホンネとして『皆がやっていることを、自分だけ指をくわえて見ているのはあほらしい』と考えていたであろうと推察できます。 

歴史を考える時には、過去を現在の視点と当時の視点で観ることの両方が必要です。自分が当時の環境に身を置いたら、どのように考えたか、行動したかを想像してみると、あまり偉そうなことは云えないような気になります。人間社会は環境も価値観も変容し続けているということで、普遍的な価値観で律することは難しいように思えます。 

日本の教育環境は、上記のような情勢の変化に伴って、『富国強兵』が更に『皇国史観による軍国主義』へと変わっていきます。『国民は天皇の赤子(せきし)であり、天皇のために身を捧げる忠義が肝要』という洗脳が行われるようになっていきます。 

『○○のために身を捧げる』ということを崇高な徳とする習性は、人間に共通していますが、特に日本では、儒教の影響で、『武士の忠義』『目上の人には従順に服従』が徳と考えられてきましたので、『天皇の赤子』という考え方に染まっていくことになりました。 

現代の日本人は、北朝鮮の『将軍様崇拝』や、イスラム原理主義者の『異教徒を殺すことはアッラーに身を捧げること』という思想には強い違和感を覚えますが、70年から100年前の日本人は『天皇陛下万歳』『鬼畜米英』を唱えていたことを思い起こす必要があります。

しかし、日本は敗戦で、今度は『皇国史観』から『民主主義』へGHQから思想転換を迫られました。この大転換が、教育の現場にいた教師や、生徒たちをどれだけ混乱させたかは、想像を絶するものであったに違いありません。昨日まで絶対と信じていたものを、今日からは否定せよという話ですから、『精神世界』が混乱するのは当然です。『精神世界』の価値観は慣性があり、『信ずる』ことから『疑う』ことへ転換するのは容易ではないからです。『精神世界』を健全に保つには、『信じながら疑い、疑いながら信ずる』ことが必要ではないでしょうか。

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2016年6月11日 (土)

考える程に『教育問題』は難しい(3)

明治維新で、国家が『教育』を国策として取り上げ、身分、貧富の隔てなく、全ての『少国民』に、均一の『基礎教育』を施すようになったことは、その後の『日本』にとって重要な意味をもちます。

明治政府は、西欧を進んだ文明と認め、それをお手本にして、短期間に『国力』や『国家の地位』を向上させようとしました。西欧方式の本質を考えるというより、それが優れていると信じて、先ず『形式的に真似る』ことを手っ取り早く採用したことになります。『教育』も例外ではありませんでした。

本質をうんぬんする前に、先ず『型』から入るという習性は、日本の伝統芸能や武術の分野でも従来から、『知恵』『経験則』として踏襲されてきたことで、明治政府が『先ず西欧に真似る』方針を採ったことに、国民は特別の違和感はなかったのかもしれません。

しかし、『西欧に対するコンプレックス』や『先ず真似る』という習性が、現代の日本人にも受け継がれているようにみえ、本質を自ら考えようとする姿勢が乏しいようにも見えるのは残念なことです。『先ず真似る』は効率の良い方法として無意味ではありませんが、時に本質を理解してから行動する方が、急がば回れで効率が良いこともありますから、バランスが必要です。『論より証拠』でもあり『証拠より論』でもあるということです。

英単語の意味や発音をむやみに暗記しても、英文は読み解けませんが、先ず英文法の基本を理解することが、英文を効率よく理解するためには有効です。英文法の理解と、知っている語彙の数が、英語を効率よく理解するためには両方重要です。

『真似た』とはいえ、明治政府が少国民の『教育』に、『知育』だけではなく『体育』『情操教育(音楽、図工)』も取り入れたことは結果として見事な選択でした。

ただ、明治政府の思惑は、『日本の国力を担う次世代国民の育成』が主で、個人の基本的人権としての『教育を受ける権利、自己実現を求める権利』という視点は乏しかったのではないでしょうか。つまり『国家目的』が『教育』の基盤であったということです。この傾向は、現代の独裁国家、一党独裁国家、宗教支配国家でも同じです。『教育』は国家のためのものか、個人のためのものかは、社会体制で価値観が異なり、人類の共通認識とはなっていません。

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2016年6月10日 (金)

考える程に『教育問題』は難しい(2)

今回番組を観て新たに加えた問題意識を含め、『教育』を考える時に思い浮かぶ設問は以下のようになります。 

(1)人間は何故『教育』を必要とするのか。
(2)『教育』は個人の脳の成長にどのような影響を及ぼすのか。
(3)『教育』における『基礎知識の習得』と『考える力の育成』のバランスはどう考えればよいのか。何を『基礎知識』とするか。
(4)『教育』は、『知育』『体育』『情育』の分野をどのように網羅すべきなのか。
(5)『教育』は個人の自己実現の手段なのか、社会が求める人材を創出するための手段なのか。
(6)個人の能力差に、『教育』はどう対応すべきなのか。その時の評価基準は何にするのか。
(7)社会全体の『教育』の効果と、投資総額の関係はどのように評価するのか。
(8)優れた『教育システム』、良い『教師』を育成するしくみは何か。『教師』の評価はどうあるべきなのか。
(9)『教育』内容は全国一律であるべきなのか、地域特性を加味すべきなのか。
(10)道徳、倫理、宗教の教義、戒律は、どこまで『教育』の対象にすべきか。

これらに、総合的で矛盾の少ない『答』を出すことが、極めて難しいことは、容易に想像できます。番組の中で、教育の専門家でさえも、明解な『答』を提示できずに、苦渋している様に見受けられたのはそのためでしょう。

平和を乱す要因は、誰でもいくつか指摘できますが、平和をもたらす方法を明確に指摘できないのと似ています。『戦争反対』と主張することは無意味ではありませんが、そう唱えてみても戦争はなくならない理由を洞察することは容易ではありません。

『身勝手で他人を思いやらない人が増えている』『青少年の凶悪犯罪が増えている』『子供を虐待する親が増えている』のは『問題である』と主張することは比較的容易ですが、何故増えているのかを洞察することは同じく容易ではありません。『道徳教育』を強化すべきというような対応策は、本質的な『答』とは云いかねます。

『自然の摂理に支配されて生き、生き残り確率を高めるために群(コミュニティ)を形成して生活する方策を選択した生物としてのヒト』『精神世界を駆使し、個人と群の価値観の違い(矛盾)を調整しながら生きる人』という、梅爺が主張する『人間』に関する理解をベースに、上記の個々の問題を考えることはできますが、『総合的で矛盾が少ない答』を見出すことは、至難の業です。

『教育は大切』と唱えるのは、『戦争反対』と唱えるのと同程度に浅薄であるように感じます。

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2016年6月 9日 (木)

考える程に『教育問題』は難しい(1)

NHK地上波教育テレビで、戦後70年『私たちはどこへ向かうのか?』という特集が、毎回テーマを変えて複数回放映されていて、その一つである『教育』を扱った番組を録画して観ました。

勿論表題の『私たち』は『日本人』のことですから、『日本』はどこへ向かうのかという問題提起です。

『教育』という言葉や概念は、よく耳にするもので、『平和』『幸福』『正義』などという抽象性が高い言葉よりは、定義は易しく、理解も容易であろうと、梅爺は今まで少々軽く考えていました。

その証拠に、今まで何回か、『教育』についても『こう思う』と意見を開陳してきました。

曰く、『思いやりがある大人の割合が高い、高度な文明国家を目指すなら、生後3歳までの「情育」のシステムを国策として採用すべし』

曰く、『知識詰め込み型の教育ではなく、自らの理性で自らの考えを導く訓練をする教育を重視すべきである(この教育では北欧が進んでいる)』

これらの主張は、梅爺のいつもの思考規範である『物質世界の摂理で、生物として生かされているヒト』『高度な脳で、個性的な精神世界を駆使して生きる人』『個人と社会の価値基準の違いを克服する普遍的な知恵を持たない人類』などを基盤として、『教育はこうあるべき』と考えた内容ですから、断片的な主張であることは確かですが、そう的外れではないと今でも思います。

しかし、今回番組を観て、『教育と社会経済の関係』『落ちこぼれとエリートへの対応』等の視点が、従来の思考では抜けおちていたことを悟りました。

従来の思考規範に、これらの新しい視点を組み込んで考えると、『教育とは何か』『教育はどうあるべきか』は、考えれば考えるほど難解な問題であることになります。

『国家を支えるのは人材で、人材を作るのが教育である』などという程度の理解では、本当の問題を理解しているとは言えません。

この番組に登場した、多くの教育専門家(文科省の官僚、学校の教師)、社会教育学者の誰ひとりとして、『こうあるべきだ』と断言できずに、苦悩している様子を観て、逆説的な表現で恐縮ですが、『日本は健全である』と梅爺は感じました。このような難しい問題に、一律な答えなどあるはずが無いと思うからです。

独裁国家や独裁イデオロギーが支配する国家では、『教育はこうあるべきだ』という答が簡単に存在し、それに反論すれば思想犯として刑罰を受けるに違いないからです。

日本は、この一律の答がない問題に、そうは云っても現実には対応して前へ進まなければなりません。どうすればよいのでしょう。

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2016年6月 8日 (水)

Valour cannot harbour in base minds.

英語の諺『Valour cannot harbour in base minds.』の話です。 

『base』は、ここでは『基地』などを意味する名詞ではなく、『利己的な、卑劣な、さもしい、下劣な』などを意味する形容詞です。 

したがって、直訳すれば『勇敢さは、下劣な精神には宿り得ない』ということになり、もう少しましな日本語へ訳せば『徳を欠いた勇猛は、蛮行に過ぎない』ということになるのでしょうか。 

英語で良く使われる『対語』、『Virtue(徳)』と『Vice(不徳)』がこの諺の背景にあるように感じます。 

『品性下劣な人は、いくら気取って取り繕ってみても、下劣さが表に出てしまう』という話で、『うんうん、そう言われれば世の中にそう云う人が居るな』などと肯きたくなりますが、『高潔』とか『下劣』とかいう概念は、相対的なものであり、ひょっとすると、レベルの高い人から観れば、自分も『下劣』とみなされているのかもしれないと気付いて、冷や汗をかくことになります。 

『自分はSomething(ひとかどの人物)であると思っている人に、Somethingはいない』『威張り散らす人に偉い人はいない』というように、自分は高いレベルにあると思い込んでしまうことが、問題の始まりです。 

しかし、『自分はNothing(ダメ人間)である』と全否定しては、生きる意欲を失ってしまいます。『安泰を希求する本能』が満たされず、『不満、不安』がつのって『心の安らぎ』が得られないからです。

『自分はSomethingであると思ってのぼせあがったり、いややはりNothingだと落ち込んだりする』ことの繰り返しが、大半の『人』の習性なのではないでしょうか。自分をいつも客観評価できる人は器の大きい人で、世の中にそうは沢山おられません。

『Virtue』『Vice』は、『仏心』『邪心』と云いかえることができます。この一見矛盾する『心』が、『人』の中に共存するのは、両方とも『自分の安泰、都合を最優先する本能』に根ざしていると、梅爺は何度もブログに書いてきました。『利他』を優先すれば『仏心』に、『利己』を優先すれば『邪心』になります。『群の一員』として生きる必要のある『人』には、『利他』が求められるからです。

『仏心』『邪心』は、『神仏』から教えられた概念ではなく、『人』の『精神世界』が自ら考えだせる抽象概念であると、梅爺は考えています。

『利他心』『利己心』は、生物進化してきた『人』が宿命的に保有する『心』であり、『神仏』『悪魔』や『信仰』とは論理的には無縁な概念であろうと考えています。

従って『信仰の薄い人は邪悪な心の持ち主』と断ずることは、適切ではないとも考えています。

『利他的』であることを『美徳』とするのは、群をなしていきる『コミュニティ』あっての話で、無人島に生きる『ロビンソン・クルーソー』には求められません。

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2016年6月 7日 (火)

ダークマターの正体(6)

『ダークマター』は、『暗黒恒星』でも『ニュートリノ(素粒子の一つ)』でもないということが判明し、『ダークマター』の正体探しは、ふりだしへ戻ってしまった感があります。

人類にとって『既知の物質』の中に、『ダークマター』は無いとすれば、『未知の物質』を探さなければなりません。

『物質世界』に『未知の物質』『未知の摂理』がまだ残されていることを、科学者は認めていますが、それを『摩訶不思議』『神秘』『奇跡』などとして、追求を断念することはありません。『物質世界』には『未知』はあっても『神秘』は無い、という基本的な考え方です。

一方『人』の『精神世界』では、昨日も書いたように、『摂理』にとらわれない自由な発想(虚構の創出)が可能ですから、『摩訶不思議』『神秘』『奇跡』と言われる事象は、いくらでも存在します。くどいようですが、これは『精神世界』だけで存在できる事象であると区別すべきです。『宗教』や『芸術』は、『精神世界』の産物であると云いかえることができます。こう考えることは『宗教』や『芸術』の『人』にとっての意義を貶(おとし)めることにはなりません。

『村山斉』(東大教授、バークレー校客員教授)は、『ダークマター』の正体は、『SIMP(Strongly Interacting Massive Particle)』と推定し、『パイ中間子』と似た性質をもつ『未知の粒子』であるという『仮説』を提唱しています。『SIMP』は『素粒子』ではなく、『素粒子が組み合わされてできる上位の粒子』という想定です。『WIMP』が『素粒子』と考えられたのとは異なっています。『相互作用力が強い質量を持つ粒子』というところがポイントです。

今後理論的な根拠が、科学者仲間で肯定され、実際にその『粒子』の存在が確認できれば、『ダークマター』の正体が判明したことになりますが、現時点では『仮説』に止まっています。将来『仮説』が『定説』になれば、ノーベル賞の有力な候補になることは間違いありません。

これとは別に、『CERN(ヨーロッパ原子物理学研究機構)』では、『ダークマター』の正体として、『未知の素粒子』の発見努力が進められています。『CERN』が誇る巨大加速器を利用し、二個の『陽子』を加速して衝突させ、人工的なミニ『ビッグバン』のような状況を創りだし、未知なる新種の『素粒子』が出現するのを観測しようと考えています。『宇宙』の全ての素材は『ビッグバン』で出現したと考えられていますので、ミニ『ビッグバン』で再現しようという試みです。

発見を想定しているのは、質量を持つ『超対称性素粒子』で、『素粒子』に対する『反素粒子』ともいえる物質です。これも、理論的な裏付けと、現物の確認が行われて初めて『定説』となります。現時点では『仮説』です。

いずれにしても、『未知の物質』が既知になり、『未知の摂理』が既知になる日がやがて訪れるかもしれません。

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2016年6月 6日 (月)

ダークマターの正体(5)

人類が現在知り得た『摂理』を動員して、『ダークマター』が存在しなければ現在の『宇宙』の構造は説明できないと『科学』は推定しています。ここでは『理』だけが使われていて、因果関係が特定できない『予想』『予言』『ご託宣』は排除されます。

『精神世界』における空想行為が『情』と『理』を織り交ぜて創りだす『虚構』と、『科学』の推定は異なるものであることを私たちは理解する必要があります。『ダークマター』は科学者が突然のひらめきで思いついたものではありません。純粋な『理』による推論で導き出されたものです。『精神世界』の空想では、『摂理』の支配をうける必要はありませんので、『空飛ぶ象』も可能になりますが、『科学』ではこれが『摂理』で可能であるかどうかの証明が求められます。

『虚構』を、『物質世界』の事象とすり替えることはできませんが、人間にとっては、必ずしも無意味なものとは言えません。『科学で証明できないものは馬鹿げている』と切り捨てるのは皮相な議論です。『人』は生きるプロセスの中で、何故『虚構』を必要とするのかを考えてみることの方が重要です。『安泰を希求する(最優先する)本能』が根底にあるというのが梅爺の仮説です。

『宗教』や『芸術』は、『虚構』が大きな役割を演じていると梅爺は考えています。『人』の『精神世界』にとっては、これは無意味とは言えません。『心の安らぎ』『絆の共有』などをもたらすからです。ただ、この意味は『精神世界』に限定されることも理解すべきです。

天空のどこかに『父なる神が存在する』、西方に『極楽浄土がある』などと『物質世界』と関連付けて主張したとたんに、『摂理』の検証の対象になり、科学者からは『荒唐無稽』と非難されることになります。繰り返しで恐縮ですが、『精神世界』の『虚構』は、『人』にとって必要なものとして創出されたもので、『精神世界』の中でのみ意味を持つということを理解すべきです。換言すれば、『虚構』を必要とするのは『人』が『生きている』証です。『死』とともに『精神世界』は消滅すると考えられるからです。

人間が存在しない世界でも『摂理』は存在しますが、『宗教』や『芸術』は通用しなくなることを考えれば、この区別の意味や重要性がわかるのではないでしょうか。

『ダークマター』と同じように、『ダークエネルギー』という未知なる存在が『科学』では想定されています。『真空のエネルギー』とも呼ばれる『ダークエネルギー』は、もし存在しなければ『宇宙』の膨張が説明できないからです。『ダークマター』は、宇宙空間で物体を引き寄せる重力の源泉であり、『ダークエネルギー』は『宇宙』を膨張させる力の源であるという話です。

『ダークマター』の正体や、それを可能にする新しい『摂理』が発見された時に、『ダークエネルギー』も同時に解明できるのか、別の謎として更なる究明の対象になるのかは分かりませんが、これらが解明された時に、人類は新しい『科学知識』を手に入れることになるのは間違いないことです。そしてその新しい『科学知識』も加えて、『人間とは何か』を考え直す必要が生じます。『学際的な人間理解』の時代になっているという梅爺の主張は、このことを意味しています。

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2016年6月 5日 (日)

ダークマターの正体(4)

『ダークマター』の存在が予測された時に、天体学者は『その正体はすぐに解明できる』と楽観視していました。

『暗黒の恒星』が先ず候補に挙がり、世界中でそれを発見しようとする天体観測が始まりました。『暗黒の恒星』は光を発しない『死の星』のようなものと考えられたのでしょう。確かに、いくつかの『暗黒の恒星』は見つかりましたが、数は少なく、その質量を累算しても、とても想定される『ダークマター』の総質量には及ばないことが判明し、『暗黒の恒星』説は早々に候補から除外されることになりました。

次に天体学者は、『ダークマター』の正体は未発見の『謎の粒子』ではないかと考え、これを『WIMP(Weakly Interacting Massive Particles)』と名付けました。電磁気に反応しないため、電波による観測はできないと考えました。

『WIMP』の候補として、素粒子の『ニュートリノ』が挙がりました。『素粒子』文字通り『宇宙』の諸現象を構成する究極の素材で、現在17種の存在が確認されています。『クォーク』『電子』『ニュートリノ』や最近確認された『ヒッグス粒子』などが含まれます。『ビッグバン』の時に全ての『素粒子』が出現し、やがて『素粒子』を素材として他の上位『物質』が創られたと考えられています。

『ビッグバン』を含む『物質世界』のあらゆる事象(変容)は、『摂理』に支配されています。人類は『摂理』の全てを掌握しているわけではありませんが、近世になって『科学』は急速に発展し、『摂理』の理解度も深まりました。しかし、『何故物質世界は摂理に支配されているのか』『摂理そのものはどうして出現したのか』は説明できていません。人類にとって究極の謎ではないでしょうか。

『摂理』は、『形式的に数式で表現できる』ことも驚きです。『摂理こそが神である』『摂理は神が創造したものである』と主張する人も現れ、これを『神は数学者である』と茶化す人まで現れます。『摂理』は、厳然たる『法則』ですから、『人』の『精神世界』にとって重要な意味を持つ『情』が介入する余地がありません。『慈悲』『愛』『罪の許し』『天国への誘い』などは『摂理』に期待できませんから、宗教的な『神』と『摂理』を関連付けることは無理があると梅爺は感じます。

『ニュートリノ』は『宇宙』に多量に存在し、飛来した無数の『ニュートリノ』は私たちの身体や『地球』をも貫通しています。東大が岐阜県神岡に設置した地下観測所『カミオカンデ』で、世界で初めて『ニュートリノ振動』と言われる現象が発見され、このことから『ニュートリノ』にも質量があることが判明しました。『小柴教授』『梶田教授』がノーベル賞を受賞したのも、これらの発見に依るものです。しかし、『ニュートリノ』の質量は小さく、累算しても『ダークマター』の総質量には遠く及ばないことが判明しました。

これで、『ダークマター』の正体は『ニュートリノ』でもないことが判明しました。『科学』はこのような、『否定』『失敗』を成果と考えます。真相が絞られてきたと言えるからです。

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2016年6月 4日 (土)

ダークマターの正体(3)

『宇宙』に存在する『力』の一つが『重力』で、リンゴの実が落下するのを観てその存在に『ニュートン』が気づいたという逸話は有名です。しかし、何故『重力』が発生するのかということは、『ニュートン』も説明はできませんでした。

『アインシュタイン』は『空間の歪み』という斬新で天才的な発想を提示し、これが『重力』を創りだすと考えました。『質量が存在するとその周囲の空間が歪む』という我々凡人には想像できないような話ですが、種々の事象の観察と矛盾しないことから、今では『アインシュタイン』の説は『定説』になっています。

余談ですが、『アインシュタイン』は、『超新星爆発』が起きた時に、『重力波』が発生し、宇宙空間へさざ波のように広がっていくと論理的に予測しましたが、現時点では世界の誰もこの『重力波』の観測に成功していません。『重力波』は非常に波長が長いために、物理的な観測が難しいとされています。東大の研究チームが、岐阜県神岡の鉱山跡地(地下)に、巨大な実験装置を設置し、世界初の『重力波検出』に挑もうとしています。レーザーから発した光を、同じ長さの二つの異なった経路を通過させ、観測点への到達時間に差があるかどうかを調べようという話です。『重力波』があるところでは、論理的に微妙な時間差が生ずる(光が曲げられる)ことになるからです。

『重力』が存在するところは『空間に歪み』が生じ、そこを通過する『光』は歪みにそって進行方向が曲げられることが天体観測で確認されていて、これは『重力レンズ』効果と呼ばれています。逆にいえば『アインシュタイン』の説に矛盾が無いことの証明にもなっています。

宇宙空間に眼に見えない『ダークマター』が存在すれば、その大きな質量で『重力レンズ』現象が生じますので、光が曲げられていることを観測して、間接的に『ダークマター』の存在を立証する方法が採用されています。

これとは別に、『銀河』の回転を観測することからも、間接的に『ダークマター』の存在が確認されています。

『宇宙』には数千億個の『銀河』があり、その一つが太陽系が存在する私たちの『天の川銀河』です。『銀河』の中心には巨大な『ブラックホール』があり、『銀河』の中の恒星は、これを中心に周回しています。

奇妙なことに、中心の『ブラックホール』に近い恒星も、遠い恒星も同じ『回転角速度』で周回していることが観測で分かりました。これは『銀河』の中に『ダークマター』が存在し、その『重力』で遠い恒星を中心へ向かって『引き寄せている』と考えれば説明がつきます。見えない紐(ひも)で遠い恒星が中心とつながっていると考えると理解できます。

このように『ダークマター』の存在は、立証できますが、その『正体』は現時点では科学的に説明できていません。

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2016年6月 3日 (金)

ダークマターの正体(2)

『宇宙』や『自然界』を総称して、梅爺は『物質世界』と呼んでいます。『ヒト』の『脳』が創りだす仮想世界の『精神世界』と区分けするためです。

『ヒト』の肉体や『脳』は、『物質世界』に属し、『物質世界』は『摂理(法則)』のみに支配されています。『命の営み』もミクロに観れば『摂理(物理現象、化学現象)』で成り立っています。

『物質世界』では生物の一種に過ぎない『ヒト』が、『脳』を駆使した『精神世界』を保有する『人』に進化したと梅爺は考えています。できるだけ『ヒト』と『人』を区分けして表現することにしています。

重要なことは、『精神世界』は、『物質世界』を土台として、副次的に出現した世界であり、土台が消滅した時には一緒に消滅するであろうということです。『人』の死は、『命』がシステムとして機能しなくなったことを意味し、肉体的には、それを構成していた物質素材だけが残ることになります。何とも味気ない話ですが、それ以上の説明を梅爺は思いつきません。『霊は不滅』などという考えは、『人』が願いとして考え出した『虚構』であろうと梅爺が推察する所以です。

『ダークマター』は、眼には見えませんが、マクロに考えると『宇宙』においては巨大な質量を保有していると想定されています。『宇宙』のバランスを考えると、眼で見える全物質の5倍の質量を『ダークマター』は保有しているはずだというのですから驚きです。人類がこの科学知識を獲得したのは、たった40年前のことであるというのも興味深い話です。

私たち『ホモ・サピエンス(現生人類)』の歴史は17万年程度ですが、ほとんどの時代誰も『ダークマター』のことなど知らずに『生きていた』ことになります。梅爺が子供の頃は誰ひとり『ダークマター』のことなど知りませんでした。しかし、『宇宙』に『ダークマター』が無ければ、現在のような『宇宙』は出現せず、従って地球も生物も存在していないと想定されますから、私たちは『ダークマター』と無縁な存在ではありません。

梅爺にとって『人間』は好奇心の対称ですが、『人間』を理解するには、最新の科学知識も含めて、学際的に迫る必要があると考えています。『宗教』『哲学』『芸術』など『精神世界』が創りあげてきた領域も含めて学際的に考えるということです。『宗教』『哲学』だけで、『人間』を論じても、ある種の限界があるように感ずるからです。『自分は何者で、どこからきてどこへ行くのか』などという問いに、科学知識なしに対応するのは、無謀なような気がします。『物質世界』の視点でとらえた『ヒト』と、『精神世界』を保有する『人』とを、区分しながら総合的に『人間』を理解することが重要であり、それが可能な時代になりつつあると考えています。

『ダークマター』の特徴は、①眼に見えない、②非常に重い、③広範囲に存在する、ということです。

眼に見えないばかりか、電磁力にも反応しませんので、直接観測する方法が見つかりません。現在『宇宙』のどこに、どの程度の密度の『ダークマター』が存在するかというマクロなマップは、間接的な観測と、コンピュータに依る理論計算で分かっています。

しかし、肝心な『ダークマター』の正体は、詳細には分かっていません。現在までに人類が獲得してきた『摂理』で説明しようとしても無理なのではないかという考え方が強くなってきてます。『ダークマター』の詳細を説明できた時に、人類はそれを可能にする新しい『摂理』を手に入れることになるかもしれないという話です。

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2016年6月 2日 (木)

ダークマターの正体(1)

NHKBSプレミアムチャンネルの『コスミックフロントNext』という宇宙に関する科学啓蒙番組で、『ダークマター(暗黒物質)』が特集され、梅爺は録画して観ました。

『ダークマター』については、以前にもブログに取り上げたことがあり、重複することになることもあろうと思いますが、自分の頭を再整理してみたいと思いました。

『ダークマター』は、天体物理学者によって、40年前にその存在が指摘されました。文字通り眼に見えない『暗黒物質』ですから、間接的な論理的因果関係で、その存在が確認できるというものです。

『ほれみろ、世の中には眼には見えなくても存在するものがあるんじゃないか。神や霊だって存在しないとは言えないだろう』という主張は当たりません。『神』や『霊』はその存在を証明する論理的因果関係が無いからです。つまり『神』や『霊』は、『人』の『精神世界』が考え出した『虚構』であり、人間が存在しない世界では存在しないと梅爺は推察しています。『精神世界』は、生きている『ヒト』の『脳』が創りだす仮想空間で、『ヒト』の死とともに消滅すると考えているからです。『精神世界』の特徴の一つは、自由気ままに『虚構』を思い描くことができることです。『虚構』ですから、実態が存在しないものや、自然の摂理に反する事象も創出できます。『芸術』はその最たるものです。

『精神世界』が創出した『虚構(抽象概念)』に関して、『物質世界』にも『実態』として存在するはずだと云いだすと、話はややこしくなります。『宗教』ではこの種の主張が多くなります。『神』『悪魔』『天国(極楽)』『地獄』などがこれにあたると梅爺は考えています。論理的因果関係で証明できませんから、『信ずる』という行為が求められることになります。

『ダークマター』は、人間の眼には見えないだけで、『物質世界』に『実態』として存在することが証明されています。『摂理(物理法則)』に適っている事象を間接的な証拠として、『ダークマター』の存在が指摘(推察)されたという表現が適切かもしれません。『物質世界』の事象ですので、人間が存在しない世界にも『ダークマター』は存在します。勿論『人』の『願い』『祈り』など『情』とは無関係に、厳然と『実態』として存在しているだけです。科学者は『ビッグバン』と同時に『ダークマター』は出現し、その後の宇宙形成に大きな役割を果たしたと考えています。

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2016年6月 1日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『私学について』(8)

『ウンベルト・エーコ』の『私学について』と言うエッセイに触発されて、梅爺はこのブログを書きながら、エッセイの内容紹介と言うより、自分の『教育』に関する『考え』を整理しながら書いてきました。他人の『精神世界』によって、自分の『精神世界』が触発され、それがまた他人の『精神世界』を触発するという、連鎖こそが『絆』ですから、『ウンベルト・エーコ』も『それで良い』と言ってくれるのではないでしょうか。 

今回のブログで、整理できた視点は、繰り返しで恐縮ですが以下の点です。 

(1)学習は『能動的学習(意識的または無意識に行う自習行為)』と『受動的学習(外部環境、外部手段で提供される学習)』で構成される。この二つの学習形態は両輪で効果を高める。『人』は生きている間学習を継続する。言い換えると学習することは生きていることの証で、生きている『人』だけが享受できる特権である(死後の霊も学習し続ける必要があるなどという主張は聴いたことが無い)。 

(2)学習は『精神世界』の行為であるが、『脳』の『脳神経細胞ネットワーク』の構成や機能に『変容』をもたらすという点では、『物質世界』とつながっている。『脳神経細胞ネットワーク』が『変容』するのも、生きている証である。 

(3)『受動的学習』は、コミュニティが提供する『教育システム(学校)』が関与するのが一般的である。『学校』は、コミュニティ自身が設立運営する『公立学校』と、個人または私的組織が設立運営する『私立学校』に分かれる。当然、運営母体の『思惑(どのような人材を期待するか)』が、『教育』内容に反映する。この型にはめようとする『教育』の是非は検証する必要がある(宗教の原理主義者は、この型にはまった教育の典型例である)。 

(4)『人』がコミュニティの一員として生きていくために、あるレベルの知識、技量を必要とし、それを『学校』は効率よく教える。この『基礎レベル教育』内容は誰にも平等一律である。『リテラシー(読み、書き、ソロバン)』はこれに該当する。 

(5)『基礎レベル教育』以上の『高等レベル教育』になると、個人の個性や能力を配慮する必要が生じ、それを認めれば教育に『格差』が必然的に生ずることを肯定せざるをえなくなる。『エリート教育』の是非もこれに関連する。『高等レベル教育』の真の目的は、『型にはまった人材』ではなく『型にはまらない個性的な人材』を育成することである(この価値観は、梅爺の主観にもとずく判断)。

『個性的に創られているヒト』が、コミュニティの一員としては『個性を抑制してコミュニティのルールや教えを優先しなければならない』という『矛盾』と、『学習』や『教育』が深くかかわっていることを再確認することになりました。

どこにバランス点を置くかも、コミュニティの合意事項です。個性を尊重する比重の高いコミュニティが健全で強靭であると梅爺は考えますが、これも主観的な判断です。皆さまはどうお考えでしょうか。

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