« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »

2016年3月31日 (木)

スペイン、ポルトガルの国営ホテル

今回のツアでは、スペインとポルトガルの『国営ホテル』に、それぞれ1泊しました。『国営ホテル』に宿泊できる、というのがツアの呼び物の一つです。ディナーなどに、『ドレス・コード』は特にありませんが、『それなりの配慮をしてください』と事前に添乗員さんから連絡があり、『それなりの準備』をして出かけました。

『国営ホテル』は、スペインでは『パラドール』、ポルトガルでは『ポサーダ』と呼ばれています。

両国が『国営ホテル』を保有している事情の背景は、『観光』が外貨獲得の主要産業になっているからです。

『国営ホテル』には、国が眺望が良い場所に最新設備のホテルを建設したものと、歴史遺産ともいえる昔の著名な建造物を、ホテルに改造して再利用しているものの二種類があります。観光収入になるなら、何でも利用してしまおうというのが、ホンネなのではないでしょうか。

歴史的建造物の再利用の場合は、豪華さや快適さで最新ホテルに及びませんが、えも言われぬ『歴史的雰囲気』はここでしか味わえませんから、観光客には人気で、予約するのも大変と聴きました。

スペインで宿泊した『パラドール』は、『サンチャゴ・デ・コンポステラ』の『レイエスカタリコス』で、『イザベラ女王』が、16世紀の初めに、巡礼者の救護施設として大聖堂広場に面して建築した建物を再利用したものです。堅牢な石造りで、噴水のある中庭回廊などが当時の風情を残しています。

Dscn6087
パラドールの入り口
Dscn4758

風情あるダイニング・ルーム

ポルトガルで宿泊した『ポサーダ』は、『ヴィアナドカステロ』の『ポサーダ・デ・ヴィアナドカステロ』で、こちらは、有名な『サンタルチア教会』越しに大西洋が眺望できる丘の上に比較的新しく建設されたホテルで、施設は最新式で整っています。
Dscn4858

ポサーダ

梅爺は、『パラドール』『ポサーダ』に泊まる目的で、自分で旅行を計画するようなことはないと思いますので、『パッケージ・ツア』のお陰で新しい体験ができました。

| | コメント (0)

ファティマの奇跡(4)

Dscn4954
ファティマの広場に建つ近代的なキリストの十字架像モニュメント

『ファティマ』で当時何が起きたのかの真相を、梅爺は知る術をもちません。それでも、因果関係を『こういうことではないか』と推測したくなる衝動に駆られます。推測することで、自分なりの安堵が得られるからです。
 

『バチカン(法王庁)』が、『ファティマ』の出来事を公認するまでに、数十年かかっていますから、『バチカン』内部にも戸惑いや意見の違いがあったのでしょう。修道尼になっていた『ルシア(体験者の一人)』に、神学者などが事情聴取を行い公認となりましたが、時を経れば経るほど、否定し難い事態になっていたからではないでしょうか。ただの寒村であった『ファティマ』は、世界中から敬虔な信者が押し寄せる巡礼地に変っていたからです。『バチカン』にとっては、『公認せざるを得ない』『公認した方が万事都合がよい』事態になっていたと考えられます。 

現在の『ファティマ』は、広大な広場、数々の礼拝施設があり、周辺には巡礼者、観光客目当てのホテルや店が立ち並んでいます。『バチカン』や地域社会に投資を上回る経済効果をもたらしているにちがいありません。『信仰』も人間の行為である以上、『政治』『経済』『科学』から無縁ではありえません。『お布施』『浄財』『献金』などと、それらしい呼び名が用いられますが、要するに『収入』がなけらば、宗教団体の維持はできません。 

このようなことを書くと、『信仰を貶(おとし)める』怪しからん発言と顰蹙(ひんしゅく)を買いかねませんが、梅爺の申し上げたいことは、『精神は清らかでありたい』と願う人間も、人間である以上『生きる』ためには自然の摂理や社会の仕組みの支配から逃れられないということで、そちらは必ずしも『清らか』とは云いかねる要因が多いということです。このギャップを『罪』『煩悩』と宗教は『何かとても悪いこと』のように教えて『神の赦し』『解脱』を求めますが、梅爺は生物としての人間が抱えている『宿命的な業(ごう』考え、理性でこの『業』とどう付き合うかを一人一人が自分で考えることの方が健全な『生き方』ではないかと思っています。『清らかな精神』を貶めるつもりなどは、さらさらありません。 

『ファティマ』の出来事は、三人の子供が見聞きしたことが基盤になっています。『子供だけで思いつくレベルの話ではない』から『奇跡』であるという推定になるのでしょうが、逆に『聖母マリア』のお告げにしては、その内容は、当時の普通の大人でも考え付くようなものに見え、とても『神の御意志の代弁』とは思えないように梅爺は感じます。『毎月13日にこの場所にきなさい』などという話は、『聖母マリア』の印象から程遠い世俗的な要求に思えます。 

従って、この出来事の裏には、意図的であるかどうかは別にして、何らかの『大人の関与』があったのではないかと、推察したくなります。 

一方、10歳程度の子供たちの『精神世界』が関与していることは確かで、大人よりは豊かな想像力、空想力に満ちていることも配慮すべきでしょう。梅爺の娘や孫も、幼児の頃『自分には眼に見えないともだちが一緒にいる』と云って、語りかけたり、自分の行いの弁明に使ったりしていました。 

勿論周囲の大人の話も影響を与えます。少なくとも『現れた女性』が『マリア様』と認識できる知識は保有していたことになります。『マリア様』を知らない子供には『マリア様』は現れるはずがありません。 

なにはともあれ、『ファティマ』が現在、一大聖地、観光地になっていることは確かなことです。これを作り上げたのも、全て『人間』で、人間の『精神世界』が関与しています。『虚構』を『事実』に変え、『事実』を可視化するために、膨大なエネルギーと資力が投じられたことであろうと、ひねくれものの梅爺は感じました。

| | コメント (0)

2016年3月30日 (水)

ファティマの奇跡(3)

Dscn4962
ファティマの教会。祭壇近くの床に、『マリアの降臨』に遭遇した3人の墓が作られている。

『ファティマの奇跡』を本当に『奇跡』ではないかと人々が『信じたくなる』のには、二つの要因があります。

一つは、『マリアの降臨』を体験した3人の子供のうち『ルシア(当時10歳の女の子)』が、2000年まで生存し(93歳で死去)、最近まで体験談の聴取が可能であったことです。ただし、『ルシア』は生涯、修道尼として過ごしていて、このことに意味があるように梅爺は感じます。貧しい寒村の少女を、修道尼になるよう導いたのは誰かということで、バチカンの思惑が関与しているのではないでしょうか。大人になって勝手な証言をされたのではバチカンとしては都合が悪いからというのが、梅爺の『下司の勘繰り』です。一躍『時の人』になった『ルシア』は修道尼になるしかなかったのかもしれません。『マリア』に遭遇し、一生信仰を全うしたという話は、誰もが尊敬し納得するからです。

『ルシア』以外の2人の子供(フランシスコとジャシンタ)は、『マリアの降臨』の数年後に亡くなっています。『マリア』が選んで祝福の対象にしたはずの子供たちが夭折(ようせつ)してしまうのは、何故なのかと、これまた少々意地のわるい疑問を呈したくなります。

『ファティマの奇跡』を人々が『信じたくなる』要因の二つ目は、1917年10月13日の『マリアの最後の降臨』の時に、集まった群衆(7万人)が目撃したと言われる『太陽の異常なジグザグの動き』です。この事象は新聞でも報じられ、『信ずる』人にとっては、これこそが『奇跡』の動かぬ証拠であるようにみえるからです。

『太陽の異常な動き』は、『ファティマ』を中心として周囲50Kmの範囲で目撃されたと報じられているだけで、その他の場所では、当日『太陽の異常な動き』は観測されていません。科学知識を持っている人なら、『太陽が突然異常な動きをする』ことを想定するのは困難な話です。『摂理』で説明がつかないからです。『太陽』は『物質世界』に存在する実態であって、厳然と『摂理』に則って(宇宙の他の物体との重力バランスを保ちながら)運行しているだけです。

7万人が全て『幻』を観たというのは無理な話ですから、流れる雲が偶然レンズのような機能をはたして、『太陽が揺れ動いて見えた』のではないかと、梅爺は味気ない推測をしました。『神は妄想である』という本で無神論者として有名なイギリスの生物学者『リチャード・ドーキンス』は、『蜃気楼(しんきろう)』のような現象であったのではないかと言っています。

いずれにしても、7万人の群衆には『降臨したマリア』は見えなかったわけですから、『太陽の異常な動き』を、『マリア降臨』の奇跡と結びつけるのは、『精神世界』が創造した因果関係に過ぎないように思います。

『物質世界』の事象を、『精神世界』の事象と結びつければ、どんな因果関係でも主張できることになりますから、慎重であるべきです。『東日本大震災』の時に『おごれる人間への天罰だ』などと口走ったはしたない政治家がいましたが、亡くなった方々へ大変失礼な話です。

| | コメント (0)

2016年3月29日 (火)

ファティマの奇跡(2)

Fatima
ファティマの巡礼者用に用意されている祭壇のマリア像

『ファティマの奇跡』の真偽については、結論の出ない議論が今も続けられています。
 

『ファティマへ降臨したマリア』のお告げの内容概要は以下です。 

1)罪を犯し続けた人は、死後地獄へ行き、地獄からは出られない。だから、悔い改めよ。
(2)第一次大戦はやがて終結するが、人々が悔い改めないと、再び大戦が起こり、多くの人が地獄へ行く。特にロシアが戦争のきっかけとならないよう、回心を求めよ。
(3)教皇(法王)が暗殺される事件が起こる。(この予告は1960年までは公開しないことという条件付き。実際にバチカンによって公開されたのは2000年)
 

(1)はともかくとして、(2)(3)は『マリア』のお告げにしては、『生々しい』話すぎるように梅爺は感じます。 

当時、(3)の内容はバチカンによって秘匿されましたので、多くの人がその内容を憶測したり、公開をバチカンに迫ったりしました。 

梅爺が読んだ『Steve Berry』の『The Third Secret(第三の秘密)』も、内容をフィクションで創造し、その内容を知って『法王が自殺する』という破天荒なストーリーになっています。バチカンやカソリック信者は、眉をひそめる内容ですが、ベストセラーのためなら何でもありというアメリカの娯楽小説出版界ならではの話です。ヨーロッパの作家は、仮にこのようなストーリーを思いついても、作品として書くことは躊躇するのではないでしょうか。 

梅爺の拙い『理性』でも、『ファティマの奇跡』内容は、とても『はい、そうですか』と受け容れることは困難です。以下のような素朴な疑問を呈したくなります。 

(1)何故降臨するのは『マリア』だけで、降臨する相手はいつも教育が行きとどいていないような寒村の『子供たち』なのか。
(2)人類にとって重要なお告げがあるなら、何故直接法王(または聖職者)のもとに降臨しないのか。ロシアに戦争を起こさないように伝えよ、などと何故まわりくどい話を子供たちにするのか。
(3)『マリア降臨』が大人たちには見えないのは何故なのか。

世の中の事象を、『物質世界』と『精神世界』に分けて考えてみるという、梅爺のいつもの対応方法で観ると、『ファティマの奇跡』は『こういうことではないか』と推測することはできますが、あくまでも『仮説』の一つであって、それが『真相』であるなどと断ずることはできません。

人間は『分からない』ことを『分からない』ままに放置することは、『不安』のストレスになり(実際には脳にストレスのもととなるホルモンが分泌される)ますから、『精神世界』を駆使して因果関係を推測し、自分なりに納得(安堵)しようとします。危険から身を守り、『生き残りの確率を高める』ために、生物として継承してきた本能が背景にあると梅爺は考えています。

『自分に都合の良い理屈や弁明を考える』という習性がそのひとつで、誰に教わらなくても幼児でさえもこの習性を使い始めます。やたらに『屁理屈』を述べる梅爺は、この習性が強い遺伝子をもって生まれてきたに違いありません。

人生の多くのことは、『分からない』では済まされませんから、人は『決断』して前へ進みます。進学、就職、結婚などは、これで行われます。そしてその『決断』の結果には責任が生じます。

この時にとる『行為』が、『信ずる』という対応方法になります。人は『信ずる』ことを拒否しては『生きていけない』ことになります。人類に『神仏を信ずる』という習性が継承されているのは、それが『心の安らぎ』という安堵をもたらすことを、多くの人達が実感できるからではないでしょうか。

しかし、『何を信ずるか』は、個人の『精神世界』によって大きく異なることをわきまえておくことが大切です。

『天空のどこかに実態としての神が存在する』『昇天した聖母マリアが再び地上へ降臨する』という事象を、『信ずる』か『信じない』かは、人に依って分かれますが、両者が『自分の方が正しい』と主張しても水掛け論になるだけです。

梅爺の場合は、『ファティマのマリア降臨』が『物質世界』の事象として起きたということは『信ずる』対象にはなりません。関係者の『精神世界』が創りだした幻想に基づく『虚構』が、いつの間にか『物質世界』で起きた事象であるかのごとく転じて云ったものであろうと推測します。『信ずる』内容が、いつの間にか『事実』であるかのような『確信』に変っていくのも、人間の脳の特性の一つです。

| | コメント (0)

2016年3月28日 (月)

ファティマの奇跡(1)

200pxchildrensoffatima
『マリア降臨』に遭遇したファティマの3人の子供たち、左端がルシア(10歳)、1917年の撮影。ルシアは修道尼となり2005年まで生存。

今回の『ポルトガル』ツアを、地図上でわかりやすく表現すれば、スペイン国境に近い北の港町『ヴィアナ・デ・カステロ』から、首都『リスボン』までの約300Kmを、専用バスで移動し、途中の名所を観光したことになります。実際には、『ポルト』に先ず入り、一度北スペインの『サンチャゴ・デ・コンポステラ』へ向かい、その後『ポルトガル』へ再入国していますので、この部分の経路は単純な一直線移動ではありません。『ポルトガル』の訪問地を北から南へ列記すると以下のようになります。
 

『ヴィアナ・デ・カステロ』 サンタ・ルチィア教会 国営ホテル(ポサーダ)
『ギマランイス』 ポルトガルの発祥の地
『ポルト』 ポルトガルで2番目に大きな都市 ポルトワインで有名
『アヴェイロ』 港町
『コインブラ』 リスボン以前には首都 大学が有名
『ファティマ』 マリア降臨の奇跡で有名 
『ナザレ』 港町 別荘地
『オビドス』 谷間の真珠とよばれる城塞に囲まれた観光都市
『シントラ』 王宮 ラガレーラ宮殿
『リスボン』 首都
 

梅爺が、ツア前に名前を知っていた場所は、『ポルト』『ファティマ』『リスボン』だけですから、沢山の新しい知識を得たことになります。『ポルトガル』の地図と訪問場所の位置関係も大雑把に頭に入りました。 

『ファティマ』を前から知っていたのは、アメリカの歴史ミステリー作家『Steve Berry』の小説『The Third Secret(第三の秘密)』を読んだことがあり、これが『ファティマのマリア降臨奇跡』を題材にしたものであったからです。 

この本の感想は、前にブログで紹介しました。 

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/steve-berrythe-.html 

ヨーロッパには、地上に降臨した『聖母マリア』に出会ったという体験が語り継がれている話は多いのですが、比較的近世に有名になった所が『ルルド(フランス1858年)』『ファティマ(ポルトガル1916年)』『メジュゴリエ(ボスニア・ヘルツェゴビナ1981年)』です。共通する点は、いずれも村の子供たちの前に『マリア』が出現していることです。 

中世以前の話ならば、『根拠のない作り話』として片付けることができますが、19世紀、20世紀の出来事となると、ある程度信頼のおける聴き取り調査、裏付け調査ができたと言えますから、『嘘でしょう』と簡単には言えません。

『ファティマのマリア降臨奇跡』の概要は、以下です。

1916年の春、『ポルトガル』の寒村『ファティマ』の3人の子供たち、『ルシア(女児、10歳)』『フランシスコ(男児、9歳)』『ジャコンタ(女児、9歳)』の前に天使(14-15歳程度の男の若者)と称するものが何度も現れ、『祈りの言葉』『祈りの作法』を教えた。
1917年5月13日に、3人の子供たちは『降臨したマリア』に遭遇する。
マリアは、毎月13日に、同じ場所に来るように子供たちに命じ、その後、毎月13日に、子供たちの前に現れ、色々な『お告げ』を語った。
この話が有名になり、多くの大人たちが見守ったが、大人たちにはマリアの姿は見えなかった。
10月13日に、大群衆(7万人)が押し掛けた中で、突然太陽が異常な動きをする現象が起き、群衆はそれを目撃した。しかしマリアの姿は群衆には見えなかった。

バチカン(法王庁)は、独自の調査を行い、1967年に5月13日を『ファティマの記念日』として公認し、『ファティマへの巡礼者』は免罪されると発表しました。現在の『ファティマ』には、広大な広場を持つ教会が建立されていて、多くの巡礼者や観光客が訪れています。

| | コメント (0)

2016年3月27日 (日)

ポルトガルの歴史(6)

Dscn5178
リスボンの観光名所、ジェロニモス修道院。『大航海時代』の富をつぎ込んで建築。エマニュエル様式(建築装飾)が有名。

『ポルトガルの歴史』というタイトルで、ブログを書きながら、梅爺は少々恥ずかしい気持ちになっています。

たった1週間程度、『ポルトガル』を旅したからと言って、『ポルトガルの歴史』を我知り顔で論ずることなどできるはずがないからです。

今回のツアで梅爺は『現在のポルトガル』の一部を肌で感じ、有名な歴史遺産、遺跡を断片的に観光してまわったに過ぎません。

勿論、個々の歴史遺産、遺跡が出現した当時の時代背景を断片的に知ることはできますが、それらをつなぎ合わせ、現在の『ポルトガル』にも共通する『何か』を感じ取ろうと思っても難しいことです。

外国人が、1週間、奈良と京都の歴史遺産を見て回っても、現在の『日本』を含め、『日本』を理解したとは言えないのと同じ話です。

梅爺は、日本人として『日本』を自画自賛するのは慎みたいと思いますが、それでも、個人が向上するために費やすエネルギー、そしてその達成された高いレベルの評価を皆で共有して、社会の文化レベルを高めていく姿勢は、誇りたくなります。

この日本人の資質は、明治維新以降、西欧文化に追いつこうとして出来上がったものではなく、奈良、平安時代、鎌倉、室町時代、戦国時代、江戸時代にも共通して観ることができます。

芸術、工芸、芸能、作法(茶道、華道、剣道、柔道、弓道)、建築、造園、料理はもとより、農業、漁業、林業などにもこの特徴がみられます。洗練された高いレベルを皆が目指す姿勢は見事で、ひいき目かもしれませんが、外国で同じようなエネルギーを感ずることは余りありません。このエネルギーが誤って『軍国主義』へ向けられた苦い過去の経験はありますが、今後そのように道を誤ることがなければ、これこそが『日本』の強さの源ではないでしょうか。

現在の『日本』からも、世界が認める芸術家、スポーツ選手、科学者、技術者が現れ、産業も高いレベルを維持しています。天才が時折出現することはどの国にもありますが、継続的に人材を輩出するには、高いレベルを認め、評価する社会の共通意識が無ければ可能になりません。

『ポルトガル』は現在『観光』が最大の収入源ですから、過去のレベルを継承して『高望みせずに生きていく』という姿勢になるのは当然なのかもしれませんが、日本で感ずる社会全体が向上しようとするエネルギーのようなものは感じ取れませんでした。しかし、これは『ポルトガル』の人達の生き方の選択ですから、『日本』の方が良いというつもりはありません。

『ポルトガル』は、周囲から侵略支配される危機(スペイン・ハプスブルグ家、ナポレオン、英国の支配)を歴史的に経験し、王政を廃止して共和制にしてみても、独裁者が現れたりしてうまくいかず、過去に折角入手した植民地も次々の手放す羽目になって、向上心や栄光などより、現在の安泰を最優先する気持ちが強まったのかもしれません。少なくとも『EU』の中で、国力全般で優等生とは言えないレベルですが、それをなんとか跳ね返そうとするエネルギーのようなものは感じられませんでした。

『大航海時代』の『ポルトガル』から、『日本』は多くのことを吸収しましたが、現在の『ポルトガル』から『日本』が学ぶことはあまりありそうにありません。

逆に、現在の『ポルトガル』人が、現在の『日本』を旅して、何を感ずるのだろうと想像してしまいました。

| | コメント (0)

2016年3月26日 (土)

ポルトガルの歴史(5)

Dscn5155
リスボンの『発見のモニュメント』公園の地面にある『日本』地図。1541年に到達(発見)したことを示している。

『大航海時代』の『ポルトガル』が日本の歴史に与えた影響の大きさを、今回のツアであらためて再確認することになりました。歴史の『変容』は、自然界同様に『動的な平衡移行』で、ある原因(要因)が思わぬ結果をもたらします。

16世紀の半ばに、種子島へ伝来した『鉄砲(火縄銃)』は、その後の戦の様式を一変させました。すぐに、堺で国産の『火縄銃』が量産されるようになり、『鉄砲』の保有数で当時日本は世界一になりました。外国の文化や技術に柔軟に対応する日本人の習性は、この頃から面目躍如たるものがあります。

『フランシスコ・ザビエル』による、『キリスト教』の布教(1549年)も、大きな出来事になりました。9世紀の遣唐留学僧の『空海』は、中国で『天主教(キリスト教)』『回教(イスラム教)』の知識に接していましたから、16世紀の日本人の一部は『キリスト教』の存在を知識として既に知っていたのかもしれませんが、『日本人を対象とした具体的な布教』は初めてのことであり、『一神教』の概念に本格的に接することになりました。

『フランシスコ・ザビエル』が賢明であったのは、日本の当時の統治体制を直ぐに理解し、『大名たち』に低姿勢で謁見を願い出、領内での布教許可を先ず求めたことです。『西欧の珍しい土産物の献上』『南蛮交易の利権提示』などの現実的な見返りをちらつかせたのは当然のことです。『フランシスコ・ザビエル』に続いて来日した『ポルトガル』の宣教師たちもこの様式を踏襲しました。

『大名たち』やその家族にも、先ず『キリスト教』の教義を説き、それに感銘を受けて信者に転向した者もいましたが、中には『南蛮交易』で有利な利益を得るために、信者になった者もいたに違いありません。

『キリシタン大名』の中には、徳による治世を行い、領民に慕われる者も現れ、領民へも『キリシタン信仰』が浸透していきます。勿論、領民へ改宗を強いた大名や、領内の寺社を弾圧する大名も現れました。『一神教』を日本人が具体的に体験したことになります。

『豊臣秀吉』が、『バテレン追放令』を発したのは1587年のことで、『フランシスコ・ザビエル』が来日してから約40年後のことですが、この間に『キリシタン』に改宗した大名やその家族、武将の数は想像以上に多く、少なくとも50名以上にのぼります。逆にいえば『宣教』が効率よく進行したことを示しています。

『豊臣秀吉』は、庶民が『キリシタン』になることを、反抗的な『一向宗』のイメージとダブらせて危険視したこともありますが、大名の『キリシタン』化が天下統一を妨げるものと危惧したのではないでしょうか。それに『南蛮貿易』の利権を『キリシタン大名』に奪われることを阻止するという現実的な目的があったのでしょう。

『バテレン追放令』で、『キリシタン大名』は国外追放されたり、処刑されたりして存在しなくなりました。勿論ポルトガル宣教師も迫害の対象になりました。因みに『バテレン』は、『ポストがル語』の『Padre(神父)』がなまったものです。

しかし、庶民に浸透した『キリシタン信仰』は、その後の徳川幕府の過酷な弾圧にも耐え、明治政府が、『信教の自由』を認めるまで、『隠れキリシタン』として脈々と継承されました。明治になって名乗り出た『キリシタン』の存在は、世界の大ニュースになりました。300年以上、庶民だけで(聖職者なしに)信仰が受け継がれてきたことが判明したからです。

| | コメント (0)

2016年3月25日 (金)

ポルトガルの歴史(4)

Dscn5158
リスボンにある『大航海時代』を讃える『発見のモニュメント』。先頭の人物が『エンリケ航海王子』。

地球上の未知なる土地を我先に発見し、我がものにすることが『大航海時代』をもたらしました。主に覇(は)を競ったのは『スペイン』『ポルトガル』『イギリス』『オランダ』です。

『ポルトガル』は『アヴィス王朝』の創始者『ジョアン1世』の息子の『エンリケ航海王子』が、『大航海』を支援し、繁栄の基礎を築きましたので、歴史的ヒーローとして銅像が残っています。現代流に云えば『国家プロジェクト・リーダー』ということでしょうか。

ただし、『エンリケ航海王子』自身は、船酔い癖が強く、『大航海』に自ら乗り出したわけではないとガイドさんが教えてくれました。

『ポルトガル』の『大航海時代』の大きな成果は以下です。

バーソロミュー・ディアスによる『喜望峰』の発見(1488年)
バスコダ・ガマによる『喜望峰』まわりインド航路の発見(1497年)
カブレラによる大西洋横断ブラジルの発見(1500年)

イタリア人『コロンブス』は、大西洋を西回りに横断してインドにいたる『大航海』を計画し、『ポルトガル』に資金援助を求めましたが断られ、結局『スペイン(イサベラ女王)』の支援で北米(正しくは中米)を発見し、『スペイン』に大きな利益をもたらしました。『ポルトガル』が断っていなければ、世界史は少し変っていたかもしれません。

この結果、南米の陣取り合戦は、中米拠点で進出した『スペイン』が大半を握り、『ポルトガル』は『ブラジル』だけに限定されることになります。現在の南米の言葉が、『ブラジル』以外は『スペイン語』で占められているのがその名残です。この南米陣取り合戦(支配地域確定)の『仲介役』は、バチカン(法王庁)でした。カソリック国である『スペイン』『ポルトガル』は、もめごとの度(たび)に仲裁をバチカンへ持ち込んでいたことになります。逆に、当時のバチカンの支配力をうかがうことができます。

南米からもたらされた貴金属『金』を利用して、『スペイン』のカソリック教会の祭壇は豪華な金箔装飾になりましたが、『ポルトガル』の場合は、教会内部の装飾に木彫り彫刻の上に、『金泥』を塗りつける金泥(きんでい)装飾が用いられ、この様式の教会が沢山残されています。

『富』『権力』『宗教』が一体であったことが分かります。

『植民地支配』と『宗教布教』が一体化していた『ポルトガル』が、日本の歴史には大きな影響を及ぼすことになります。

『交易』と『宗教布教(カソリック)』を一体化して行おうとしたために『ポルトガル』は、結局日本から排斥され、宗教を前面に出さないプロテスタント国の『オランダ』が、日本の交易権を握ることになっていきました。

| | コメント (0)

2016年3月24日 (木)

ポルトガルの歴史(3)

Dscn4866
大航海時代ポルトガルの出港地の一つであったヴィアナドカステロ(リマ川の河口の街)。丘の上のホテルから『サンタ・ルチア教会』と大西洋を望む。

『アヴィス王朝時代(1385-1580年)』の『ポルトガル』は、ヨーロッパの国として最も輝いていた時代と言えます。

この時期、大西洋岸(北海岸)に港を持つヨーロッパの国々のいくつか(スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダなど)が、それまで未開拓であった遠洋航路に挑戦し、アフリカ南部、オセアニア、インド、東南アジア、極東アジア、北米、中米、南米に到達し、新しい貿易利権の獲得、植民地の獲得を激しく争うようになりました。『早い者勝ちの陣取り合戦』ともいえるもので、勝者になるためには何でもするという考え方が当たり前に蔓延していました。勿論、造船技術、航海技術など新しい技術の出現が背景にあります。

『スペイン』の中南米における現地人大虐殺や、『奴隷貿易』の開始などもこの時代のことです。

いわゆる『大航海時代』になったということですが、前向きで冒険心にあふれるこの言葉で、非道な行為を肯定するのは危険です。人間の行為の大半は功罪の両面を持っていることをわきまえて歴史を観る必要があります。現代の言葉で云えば『ハイリスク・ハイリターン』が『大航海時代』の背景で、それに果敢に、ある意味では野蛮に挑んだ国々が隆盛になったということです。『ポルトガル』はそのひとつです。

『植民地主義』『奴隷制度』を否定する考え方が人類の共通価値観になったのは、比較的最近のことで、そうなるまでに多くの悲劇が繰り返されました。日本は、近世におけるこの価値の転換期に、植民地支配に乗り出し、結果的に大きな代償を払うことになりました。『みんながやっているから、自分もやって何が悪い』と考えて始めたら、よってたかって『お前のやったことは悪い』と言われるように時代が変ってしまったとも言えます。梅爺は『日本の植民地支配政策』を肯定するつもりは、さらさらありませんが、当時の世界の価値観も考慮しながら歴史を評価することは意味があると考えています。日本人全体が洞察力を欠いていたことは反省すべきことです。

古代から中世にかけての『ヨーロッパ』は、地中海を仲介媒体とする文化圏として発展してきましたが、『大航海時代』になって、大西洋、太平洋、インド洋などが仲介媒体の主役に変ったことになります。それまで、繁栄を誇っていたジェノア、ベネチアなどの港都市が急速に凋落していくことになりました。

当時のヨーロッパでは、インド産の香辛料が高価な交易物資で、シルクロードでイスタンブールへ運ばれ、そこから地中海経由でジェノア、ベネチアなどへ輸送されていました。ジェノア、ベネチアが莫大な利益を得て繁栄していたのはそのためです。

しかし、『大航海時代』になると、インドの香辛料は、海路で多量に『ポルトガル』『スペイン』『イギリス』へ運ぶことが可能になり、香辛料の価格は下がりましたが、それでも貿易国は大儲けをすることになりました。

『ポルトガル』が『大航海時代』に繁栄したことが、極東の『日本』の歴史に大きな影響を与えました。今も昔も『世界はつながっている』ということです。

| | コメント (0)

2016年3月23日 (水)

ポルトガルの歴史(2)

Dscn4921
見事な図書館で有名な『コインブラ大学』(世界遺産)

『ポルトガル王国』の建国は、12世紀にフランス・ブルゴーニュ家出身の『アフォンソ・エンリケス』によって行われました。これが『ブルゴーニュ王朝』です。

以後、『ポルトガル』は以下のような歴史をたどります。

『ブルゴーニュ王朝時代』(1143-1385年)
『アヴィス王朝時代』(1385-1580年)
『ハプスブルグ(スペイン)家の同君連合時代』(1580-1640年)
『ブラガンサ王朝時代』(1640-1910年)
『第一共和政時代』(1910-1928年)
『サラザール独裁体制時代』(1928-1974年)
『第三共和政時代』(1974年-)

20世紀の初頭まで、『王国』は維持されていますが、日本のような『万世一系の天皇』が君臨し続けたわけではなく、権力闘争の勝者が『王』として擁立され、異なった『王朝』がとって代わるという構図になっています。日本人は外国の『王朝』を、日本と同じように一貫した継承と勘違いしがちです。

『ハプスブルグ(スペイン)家の同君連合時代』は、『スペイン』の『フェリペ2世』が『ポルトガル王』を兼ねた時代ですから、国家が脅かされた時代で、次の『ブラサンカ王朝』への移行がなければ、現在の『ポルトガル』はなく、イベリア半島は『スペイン』一国になっていた可能性があります。

『ブラガンサ王朝』時代にも、ナポレオンの侵攻があったり、イギリスの支配時代があったりして、『ポルトガル』の主権維持は脅かされています。

『ポルトガル』は1910年に王政を廃止していますから、現在『国王』はいません。隣国『スペイン』とここが異なります。

『ポルトガル』の興隆期は『ブルゴーニュ王朝時代』で、この時代にこの領域での『レコンキスタ(イスラム勢力の排除)』に成功し、都も『ギマランイス』から『コインブラ』『リスボン』へと遷都しています。『コインブラ』にはこの時代に設立した大学が残されていて、特にその図書館は世界遺産として観光の目玉になっています。

『リスボン』を制圧するのに、十字軍の『テンプラー騎士団』の力を借りており、初期の『ポルトガル』は『テンプラー騎士団』の軍事力、経済力(莫大な資金力の源泉は何であったのか、現在でも謎が多い)の影響を受けています。14世紀の初めに、バチカン(法王庁)は『テンプラー騎士団』を『異端』とし、中央ヨーロッパでは徹底弾圧し、『ポルトガル』にも弾圧を求めましたが、『ポルトガル』はこれを拒否し、『キリスト騎士団』と改名して擁護しています。いざという時には、宗教より資金を優先するという現実が垣間見えます。バチカンに絶対服従していたわけではなく、都合よく利用するということで、今も昔も政治の『権謀術数』は世界中どこでも同じです。

『ブルゴーニュ王朝時代』に、現在の『ポルトガル語』の基盤ができました。『ラテン語』から派生したものという意味では、『イタリア語』『フランス語』『スペイン語』と姉妹言語です。現在ブラジルが『ポルトガル語』を使っているのは、後の『大航海時代(アヴィス王朝時代)』に、ブラジルが『ポルトガル』の植民地となったからです。

『ブルゴーニュ王朝時代』には、ヨーロッパ全土を襲った『黒死病(ペスト)』の流行が『ポルトガル』にもおよび、人口の1/3が死んだという悲劇もありました。やがて王位継承のごたごたで、『ブルゴーニュ王朝』は終わり、『アヴィス王朝時代』に代って、『ポルトガル』は最大の『繁栄期』を迎えます。

『大航海時代』の到来です。

| | コメント (0)

2016年3月22日 (火)

ポルトガルの歴史(1)

Dscn4692
ギマランイスに残る、『ポルトガル王国』最初の王『アフォンソ・エンリケス』の居城廃墟(12世紀)。ここが『ポルトガル』発祥の地。

Dscn4714
現在のギマランイスの街の広場

梅爺は、見知らぬ土地へ旅する時に、事前に予備知識を習得しておく努力をあまりしません。無精癖のなせるわざですが、現地で得られる新鮮な情報を基に、従来持っていた断片的な情報も加えて『考え』をつなぎ合わせた方が、全体像が鮮明になり、脳にも刻み込まれて後々まで残ると勝手に思い込んでいるところがあるからです。

勿論、帰った後に、ブログに感想を書こうとすると、裏付けのための調べが必要になりますが、そうして得た全体像は、ただ机上でまとめた知識より強固なものとして残ります。今回の『ポルトガル』ツアも、その姿勢で臨みました。

『ポルトガル』は、イベリア半島の西側の一部を占める国ですが、大西洋岸を除いて、周囲を全て『スペイン』に囲まれています。言語は、同じラテン語からの派生したもので類似性が高いとはいえ、『ポルトガル語』と『スペイン語』に分かれています。宗教は双方とも圧倒的に『カソリック(キリスト教)』が強く、人種も歴史的に大きく異なっているわけではないとすると、一体何が両国を分けているのだろうと先ず知りたくなります。

この答は『歴史』にあることは明白ですので、ツアの先々で見聞したことを基に、『ポルトガル』の『歴史』を大雑把に理解することにしました。

現在地球上に住んでいる『人類』は、全て同じ先祖から派生した『ホモ・サピエンス』だけです。17万年前に『ホモ・サピエンス』の先祖は、中央アフリカのサバンナ地帯に出現し、7から8万年前に、一部がアフリカから世界各地へ進出していったとと考えられています。

最初の進出先は『アラビア半島』で、そこから、ヨーロッパ、北アフリカ、アジア、オセアニア、南北アメリカへと移って行ったというのが定説です。北アフリカは、サハラ砂漠が隔てているために、中央アフリカから直接の進出はなかったと考えられています。

イベリア半島への進出は、中央ヨーロッパ経由と北アフリカ経由が考えられ、多分双方が入り混じって、最初のイベリア半島の人種が構成されたのでしょう。『ホモ・サピエンス』は、進出先の気候や生活環境で、それぞれ異なった進化を遂げ、それがまた混じり合ったりして、現状のように、地域に依って容貌の異なる『亜種(ネグロイド、コーカソイド、モンゴロイド)』の混在常態になっていきました。

こう考えると、世界中どこにも純粋な『ホモ・サピエンス』などは存在せず、どの人種も混血、雑種であるということになります。『日本人』も例外ではありません。『人種差別』『人種対立』などは、ある意味で滑稽な話になります。

先史時代のイベリア半島には、勿論『ポルトガル』『スペイン』の区別は当然ありませんでした。その後、イベリア半島は、『ローマ帝国』『西ゴート王国(ゲルマン)』『アフリカから侵攻してきたムーア人のイスラム王朝』に政治的に支配されることになります。この間も、先住民と侵攻してきた支配民族との間に、混血化が進んだに違いありません。

『イスラム王朝(ムーア人)』のために、イベリア半島の北部辺境に追い詰められたキリスト教(カソリック)の人々が、8世紀からイスラム勢力を徐々に南へ押し戻す『レコンキスタ(再征服運動)』を開始し、15世紀末に、最後のイスラム勢力をグラナダで打ち負かし、『レコンキスタ』が成就しました。

『レコンキスタ』の間、イベリア半島は、複数の王や貴族が分割支配する地域でしたが、その中の一つが、1143年に『ポルトガル王国』として独立しました。勿論周囲との抗争を制し、最終的にはバチカン(法王)への服従を条件に法王の了承を取り付けてのことです。この頃、イベリア半島のキリスト教の王や貴族は、共通の敵ムーア人と戦いながら、自分たち相互の勢力争いも同時に行うという複雑な情勢にあったことになります。

『ポルトガル王国』の初代の王は『アフォンソ・エンリケス』で、フランス・ブルゴーニュ家の血統をひいた人物です。王国の最初の拠点は、『ポルト』の北にある『ギマランイス』という都市で、この時の居城が現在廃墟となって残っています。

| | コメント (0)

2016年3月21日 (月)

サンチャゴ・デ・コンポステラ(6)

Dscn4759_2
イザベラ女王が寄進して建てた『貧民救護施設』が、現在では改装され国営ホテル(パラドール)になっている。その中庭回廊。

カソリックの『ミサ』に、最初から最後まで参列する経験は、梅爺にとって今回が初めてでした。 

梅爺は、男声合唱団の一員として、何度も『レクイエム』『ミサ』をラテン語で歌ってきましたし、現在属している合唱団の指揮者『三澤洋史(ひろふみ)』先生は敬虔なカソリック信者ですから、『歌詞の意味』や『儀式の流れ』について解説をしていただいています。 

今回の『ミサ』は、原則としてスペイン語で行われましたので、細かい理解はできませんでしたが、今どの部分が進行しているのかは推測できました。尼僧の先導で、信者が『歌(讃美歌)』を斉唱するのも、楽しめました。『ミサ』の途中で、信者が隣席の人と握手を交わす場面があり、梅爺も前後左右の外国人と握手をしました。周囲の日本人観光客は、突然のことで戸惑った様子でしたが、梅爺は合唱をやっていたお陰で、『平安を共に祝す』というところにさしかかったのだろうと理解できました。信者達が、前へ進み出て司祭から、『聖体拝受(パンをキリストの体としてを口に入れてもらう)』の儀式も理解できました。 

勿論呼び物の『振り香炉』儀式を見学することが目的でしたが、約1時間の『ミサ』全体も、興味深く体験でしました。 

9世紀に、『聖ヤコブ』の墓がこの地で発見され、最初の聖堂が建てられましたが、現在の大聖堂は、12世紀から建築が始まり、17世紀ごろまで、増築や改築が行われたものです。正面の『栄光の入り口』部分は、損傷の度合が大きいために現在補修中でした。 

1492年に、最後のイスラム勢力をグラナダで滅ぼし、『レコンキスタ(再征服運動)』を終わらせた『イザベラ女王』は、守護神『聖ヤコブ』への感謝から、戦勝記念の『貧民救護施設』を、『サンチャゴ・デ・コンポステラ』大聖堂の広場に隣接して建設しました。中世の巡礼者は、貧しく、病気になったりして目的地へ到達していたからでしょう。 

『イザベラ(イサベル)女王』については、前にブログに書きました。 

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-1d8f.html 

この『貧民救護施設』が、現在では改装され、スペインの五つ星国営ホテル(パラドール)となっており、梅爺達はここに宿泊しました。『イザベラ女王』も600年後に日本の能天気な爺さんが、ここに泊まるようになるとは想像もしていなかったことでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月20日 (日)

サンチャゴ・デ・コンポステラ(5)

Dscn6100
ミサの終盤で行われる『振り香炉』の儀式、大聖堂内が乳香の香りに包まれる。

今回のツアでは、金曜日(3月4日)の午後、『サンチャゴ・デ・コンポステラ』へ到着したため、大聖堂で行われる夜の『ミサ』を体験できる幸運に恵まれました。
 

毎週金曜日の夜に『ミサ』が行われ、『ミサ』の終盤にこの大聖堂を有名にしている『振り香炉』の儀式があり、観光客の多くは、祈りを捧げるためではなく、これを見たさに『ミサ』に参列することになります。 

時には、『信者以外の参列お断り』となり、観光客が大聖堂に入れないこともあるようですが、この日は幸いそのようなお達しはなく、満席状態で『ミサ』が行われました。 

『カソリック』の教会、大聖堂の建築物は、上から鳥瞰すると『十字架』の形をしていて、『十字架』の頭の部分(聖壇がある部分)が東の方角(エルサレムの方角)へ向けられています。建築を開始する時も、東の部分から始めます。完成まで何百年も要することがありますが、初期の建築様式の名残を東の部分で観ることができるのが一般的です。 

『サンチャゴ・デ・コンポステラ』の大聖堂では、建物の天井(建物の形状で、十字架が交差する部分)から、太いロープで『香炉』がつりさげられていて、『ミサ』の終盤にこの『香炉』が、祭壇に向かって左右方向(十字架状の建物の横木方向)に大きく天上にぶつかりそうななるまで振られ、大聖堂内が、『香炉』の煙(乳香の香り)に包まれます。 

『香炉』はロープも合わせると130Kgもの重さになりますから、『振り香炉』の儀式は、8人の司祭達が補助のロープを操って行います。現代人にも壮観ですが、昔の巡礼者にとっては驚きで、巡礼達成の喜びが倍増したのではないでしょうか。 

穢(けが)れを洗い清めることが目的ですが、昔は、巡礼者の身体や衣服から発せられる異臭を消すためであったと言われています。今回は梅爺の『加齢臭』を消すことになりました。 

ガイドさんの説明によると、毎週金曜日の夜の『ミサ』の『振り香炉』のスポンサーは、地元の商店街の経営者達で、400ユーロ(日本円で5万円程度)が献金されるのだそうです。誰か個人が400ユーロを支払えば、いつでも『振り香炉』の儀式だけはやってもらえるとのことでした。大聖堂の維持や聖職者の生活も、俗世間とは無関係に成り立たないという話に他なりません。 

精神の清らかさを求めるあまり、肉体的な行為や俗世間のしきたりを『罪』や『穢れ』とみなすことになり、私たちも『懺悔(ざんげ)』なしには生きられないことになりがちですが、生物としての『人間』が生きるためには、『精神』と『肉体』の双方を維持する必要がありますから、どちらだけを極端に重視することは不自然なような気がします。 

生物としての『業(ごう)』を認め、『精神』と『肉体』の健全なバランスを、自分で見つけようとするのが、『理性』をもった人間の果たすべき義務なのではないでしょうか。肉体的な行為や俗世間のしきたりは、極端な場合は『罪』や『穢れ』と言えますが、全てをネガティブに否定することは、『きれいごと』のような気がします。

| | コメント (0)

2016年3月19日 (土)

サンチャゴ・デ・コンポステラ(4)

Dscn6085
『歓喜の丘』。ついに目的地『サンチャゴ・デ・コンポステラ大聖堂』の塔が見える丘にたどり着き歓喜する巡礼者の銅像がたっている。

以前から『サンチャゴ・デ・コンポステラ』が梅爺の興味の対象であったのは、『巡礼』を紹介するテレビの旅番組やドキュメンタリー番組を観てのこともありますが、何よりもブラジル人作家『パウロ・コエーリョ』の小説『The Pilgrimage(巡礼)』を読んだ影響によるものです。
 

感想は、ブログにも書きました。 

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/the-pilgrimage-.html 

作者自身の『サンチャゴ・デ・コンポステラ』への『巡礼』体験を題材にしていますが、『カソリック』信者としての『巡礼』ではなく、『深い精神的思考を追求するオカルト的な団体』に入会し、この団体が修行として認める『巡礼』を体験する内容になっています。この団体は、『キリスト教』の教義を基盤として受け容れていますが、『神とは何か』『邪悪とは何か』などといった深遠な問いに自らの思考や体験で答を得ようとする姿勢を重んじています。仏教の禅宗を彷彿(ほうふつ)させます。『パウロ・コエーリョ』が宗教の様式より、『自らの思考や体験』で得られるものに強く惹かれる様子に、梅爺は共感を覚えます。彼は別の小説で『神を疑って格闘しなければ、真の信仰は得られない』とも述べています。 

『The Pilgrimage』と言う小説は、読者を幻想的な世界へ誘う不思議な魅力を秘めた小説です。どこまでが現実で、どこからが『思考の世界』なのかが判然としない所があるからです。 

どの宗教にも聖地への『巡礼』という様式があるのは何故なのでしょう。『聖なる所』『聖なるモノ』に自ら触れてみたいという信者の素朴な願望が基盤であることがわかりますが、宗教団体側にも、『布教PR』『献金、お布施の集金』などの現実的な狙いがあるのかもしれません。『サンチャゴ・デ・コンポステラ』は、『巡礼』も含めて一大観光地にもなっていますから、地域社会の経済にも寄与していると言えないこともありません。

『ただひたすら歩く』という行為は、自分の内面をみつめる機会ともなり、見失っていた本当に大切なものに気付くことになるのかもしれません。また、周囲の自然と一体感を味わい、『何かに生かされている』に強い感謝の念を抱くことにもなるのではないでしょうか。『宗教』という概念を抜きにしても、『豊かな精神的満足(安堵)』を得るための効果的な手段なのかもしれません。松尾芭蕉にとって『奥の細道』は人生の集大成であったように感じます。

『サンチャゴ・デ・コンポステラ』への『巡礼』路は沢山ありますが、フランスからピレネー山脈を越えて北スペインへ入るルートが有名です。

巡礼者は、『聖ヤコブ』のシンボルである『帆立て貝』の貝殻をぶら下げた木の杖をついて歩き続けます。ついに大聖堂広場に到着した巡礼者は、正面の『栄光の門』へ向かって腹這いになって手を差し伸べ、感謝の祈りをささげます。『巡礼完遂証明書』も発行されるしくみになっています。

『コンポステラ』の意味は、色々な説があるようです。『ステラ』は『星』ですから、『星に導かれた』という故事に由来するのかと梅爺は想像しましたが、他にも『墓』や『良い場所』というような意味もあるのだそうです。

『帆立て貝』が何故シンボルなのかも諸説あるようですが、昔の巡礼者が、水を呑むためのコップや食事の皿として使ったという説が有力とのことでした。

| | コメント (0)

2016年3月18日 (金)

サンチャゴ・デ・コンポステラ(3)

Dscn4804
サンチャゴ・デ・コンポステラ大聖堂南側入り口

『ダ・ヴィンチ』の『最後の晩餐』などで、私たちは『キリストと12人の弟子』という関係を知っていますが、必ずしも『12人』が個々に特定されているわけでもありません。4大福音書や使徒行伝の中でも記述は一定していません。

ユダヤは元々12の部族の集まりでできたとされており、『12人』という表現もこれを踏襲しているとする説があります。しかし、『ペテロ(岩)』とイエスから呼ばれた『シモン』や『ヤコブ』は、最初の弟子とされていますから実在の人物の可能性は高いと言ってよいのでしょう。

『イエス』の頃の『世界』は『ローマ帝国』であり、『イエス』の『世界観』も『ローマ帝国』であったものと思われます。残念ながら『イエス』は『日本』の存在などはご存知なかったのでしょう。当時『ユダヤ』も『イベリア半島』も『ローマ帝国』の属州でした。『イエス』の死後、『ペテロ(シモン)』は『ローマ帝国』の本拠地『ローマ』の布教を担当し、『ヤコブ』は『イベリア半島』の布教を担当したということなのでしょう。一気に広域に布教しようとした熱意には驚かされます。ただし、原則としてその地に住む『ユダヤ人社会(ディアスポーラ)』が布教の対象であったと考えられます。『イエス』の教えは、革新的とはいえ『ユダヤ教』の域を越えるものではなかったからです。

ユダヤ人以外の民族も布教の対象にしたのは、『パウロ(サウロ)』の業績で、ここで初めて世界宗教『キリスト教』に変貌を遂げました。『神』は『ユダヤ人の神』から『世界人類の神』へ格上げされたことになります。当然『ユダヤ教』から『パウロ』は異端視、迫害されました。

『ユダヤ教』から『キリスト教』に切り替えた矛盾を、現在の『キリスト教』は宿命的に負っているように梅爺は感じます。『ユダヤ教』の教典を『旧約聖書』として採用していることがその代表例です。『旧約聖書』に現れる『神』は、『キリスト教』の『弱い者にも寄り添う愛の神』の印象とは異なります。また、『キリスト』は、『ダビデ王』の血統を継承しているなどと、無理な説明を余儀なくされることにもなっています。『神の子』としながら、一方で何故人間の血統を持ちだすのか、梅爺には理解が難しい話です。

偉大な思想家としての『キリスト』の教えと、後の人達が『キリスト』を権威づけるために創りあげた『虚構』を、梅爺は区別して受け容れるようにしています。『処女懐胎』『キリストが布教の過程で行った奇跡の数々』『死後の蘇り』などは、『キリスト』の深遠な『教え』にとって不可欠のものとは思えません。しかし、このように都合の良い受け入れ方は、信仰の厚い方からは顰蹙(ひんしゅく)をかうものであることは承知しています。

スペインやポルトガルを旅すれば、圧倒的に様式化した『カソリック』の『マリア信仰』『聖人信仰』に触れることになりますが、現代や将来の人類の『心の救済』は様式だけでは対応できなくなるのではないかと感じます。『キリスト』の教えの本質へ立ち戻る努力が要るのではないでしょうか。これはあらゆる宗教が直面している問題です。

| | コメント (0)

2016年3月17日 (木)

サンチャゴ・デ・コンポステラ(2)

Dscn4790
『サンチャゴ・デ・コンポステラ』の大聖堂前広場から街へ向かう道の向こうに見えた虹

『サンチャゴ・デ・コンポステラ』に『聖ヤコブ』が祀られているのは、言い伝えによれば以下のような経緯(いきさつ)になります。

イエスの生前の指示に従い、イエスの死後使徒たちは、各地に散って布教活動を行った。『ヤコブ』が担当したのはイベリア半島であったが、布教は思うようにいかず、エルサレムへ戻ったが、そこで危険人物としてヘロデ王にとらえられ、斬首刑に処せられた。弟子の2人がこっそり『ヤコブ』の遺体を盗み出し、船で逃走した。星の導きでたどり着いたところが、イベリア半島の西岸で、その地に『ヤコブ』は葬られた(1世紀の頃の話)。9世紀の初めに、羊飼いが星の導きでこの墓を発見し、そこに聖堂が創られた。これが『サンチャゴ・デコンポステラ』の起源である。

この云い伝えは、『事実』と『虚構』の組み合わせであるように梅爺は感じます。『事実』と考えてもよいのは、『ヤコブがイベリア半島での布教を担当したが、うまくいかずエルサレムへ戻った時にヘロデ王にとらわれ処刑された』という話で、それ以外は全て後世の人が創りだした『虚構』ではないかと思います。『イエス』や弟子の『ヤコブ』が、『ローマ帝国属州』のユダヤ王『ヘロデ』から危険思想の持ち主と『処刑』されたのは、体制にとって都合の悪い人物であったからです。

エルサレムから、地中海を横断し、ジブラルタル海峡を通過して、イベリア半島の西岸を北上し、『サンチャゴ・デ・コンポステラ』へ到着するのは、当時では大航海であり、『遺骨』ならともかく、『遺体』を運んだというのは非現実的な話です。それに、航海や墓の発見が『星の導き』などというのも、創作の臭いがします。『イエスの生誕時に、星に導かれ東方の3博士が訪れた』などという話も『虚構』であろうと思いますが、『聖ヤコブ』伝説ではこれを真似たのではないでしょうか。800年前の墓を発見して、それが誰の墓であったかを特定することも易しくはありません。

『イベリア半島の布教』がうまくいかず、失意の中で処刑された『ヤコブ』の思いを、後世の人が忖度(そんたく)し、このような『虚構』を創り上げたのではないでしょうか。

もう一つ、重要なことは、『イエス』の死の直後の話と、墓が発見されたとされる9世紀の話では、事情が異なることも知っておくべきでしょう。

『イエス』の生前と死の直後には、腐敗した既存の『ユダヤ教』を糺(ただ)すための、云ってみれば『ユダヤ教』の新宗派であった『イエス』の教えが、9世紀には、世界宗教の『キリスト教』に変貌していたという事情の違いです。

『サンチャゴ』伝説は、『キリスト教(カソリック)』にとって必要なものとして創作されたものであろうと梅爺は推測します。

9世紀当時、イベリア半島では、侵攻してきたイスラム教ムーア人と戦うために『聖ヤコブ』はカソリックの守護聖人とされ、戦いの最前線に、『馬にまたがり、槍を携えた聖ヤコブ』が出現したと云い伝えられています。カソリックの兵士の士気を高揚するために『聖ヤコブ』が必要であったということでしょう。日本の戦国大名が『不動明王』に戦勝祈願したのと同じです。

| | コメント (0)

2016年3月16日 (水)

サンチャゴ・デ・コンポステラ(1)

Dscn4723
サンチャゴ・デ・コンポステラの大聖堂(一部修復中)

北スペインの都市『サンチャゴ・デ・コンポステラ』は、一度は訪ねてみたいと前から思っていました。

『ローマ(バチカン)』『エルサレム』と並んで『サンチャゴ・デ・コンポステラ』はカソリックの3大巡礼地といわれている場所であることが、梅爺を惹きつける要因です。

スペインの主要都市(マドリッド、セゴビア、バルセロナなど)や、南のアンダルシア地方(セビリア、ゴルドバ、グラナダなど)は、前に訪れていますが、北スペインを訪れる機会はありませんでした。

『エルサレム』はキリストの殉教地(ゴルゴダの丘での十字架刑)であり、『ローマ(バチカン)』は、12使徒の筆頭である『ペテロ(シモン)』の殉教地であるとされていますから、カソリック信者の巡礼地となるのは、分かりますが、『サンチャゴ・デ・コンポステラ』が何故それに準ずる巡礼地になるのかは、どう考えても不自然だと梅爺は感じていました。地理的に関連性が薄いからです。

『サンチャゴ』は12使徒の一人『ヤコブ』の聖人名で、『聖ヤコブ』のことです。『ヤコブ』は筆頭弟子『ペテロ(シモン)』と同様、ガリラヤ湖の漁師で、弟の『ヨハネ』と共に、早い時期に『イエス』の弟子になったと伝えられています。

『イエス』の頃のユダヤでは、人は名前だけで呼ばれていて、『姓』の概念はありませんでした。男の名前は『ヨセフ』『ヨハネ』『ヤコブ』『シモン』『マタイ』『トマス』『アンデレ』『フィリポ』『ユダ』『イエス』など、女の名前は『マリア』『デボラ』『サラ』『レア』などが多く使われました。

このため、同じ名前の人が多く、区別するために、『マグダラのマリヤ』『ゼベタイの子ヤコブ』『徴税人のマタイ』など、地名、親の名、職業などを冠して呼ばれました。

『イエス』の育ての父親は『ナザレのヨセフ』であり、母親はキリスト教では『聖母マリア』と特別に呼ばれています。『イエス』も生前は『ナザレのイエス』と呼ばれていたのではないでしょうか。『洗礼者ヨハネ(イエスに洗礼を施した人)』『イスカリオテのユダ(裏切り者)』などが、聖書では有名です。『洗礼者ヨハネ』と、12使徒の一人の『ヨハネ』それに4大福音書のひとつ『ヨハネ伝』の執筆者『ヨハネ』は別人です。

『サンチャゴ・デ・コンポステラ』の『サンチャゴ』は、上記のように、12使徒の一人の『ゼベタイの子ヤコブ』を指すことになります。

当時の『エルサレム』からみて、辺境とも言えるイベリア半島の西の地に、何故12使徒の一人『ヤコブ』の墓があるのかが、梅爺の頭の中では結びつかずに、不思議に感じていました。

| | コメント (0)

2016年3月15日 (火)

北スペイン、ポルトガルの旅(2)

Dscn5296
ポルトガルの首都リスボンの旧市街地

今回のツアの印象を、ブログで紹介していきたいと思いますが、『いつどこで、何を観ました』『いつどこで、何を食べました』といった、日記風の紀行文を書くつもりはありませんので、阪急交通社のこのツアの詳細を知る目的にはあまり役立ちません。その種の添乗員レポートは、阪急交通社のホームページに沢山掲載されています。
 

旅は、旅する人が『非日常』を体験することが最大のポイントで、新しい情報に接して『精神世界』が刺激を受け、好奇心が満たされたり、または新しい疑問がわいてきたりして、『精神世界』が活性化することが醍醐味です。 

『人』の『精神世界』は、何度もブログに書いてきたように、『個性的』ですから、ツアの印象を綴ることは、梅爺の『精神世界』を披露することに他なりません。勿論このツアで初めて知った『知識』は沢山ありますが、『知識』は『考えるための素材』ですから、新しい『知識』をきっかけに、『何を感じたか』『何を考えたか』を主に書いていきます。 

テーマごとにブログを書くつもりですが、テーマは沢山思いつきますから、全体としては、かなり長い連載ブログになりそうです。 

このツアで一番強く感じたことは、人間が『争い』『宗教』『富の獲得』のために費やすエネルギーは膨大なものであるということです。

人間は個人としてできることには限界がありますが、集団が作り出すエネルギーは大変なものであることをあらためて痛感しました。

『争い』『宗教』『富の獲得』で成功者、勝利者になるためには、最新の『知識』や『技術』が決め手になることも忘れてはなりません。

現代社会で、『知識』や『技術』の果たす役割の比重は歴然ですが、人間の歴史はどの時代も、同じことが言えます。この視点で歴史を観ることが大切です。『大聖堂』や『城塞』は、『知識』『技術』があって初めて実現できるものであるからです。『技術』を提供したのは、職人や庶民であり、権力者ではありません。『法隆寺』建造を具体化したのは『聖徳太子』ではなく無名の職人達です。

8世紀に、ジブラルタル海峡を渡って、北アフリカからイベリア半島に侵攻してきたイスラム教のムーア人は、イベリア半島に住んでいたキリスト教の人達より、圧倒的に高い『科学知識(天文学、医学、数学)』『技術(建築)』を保有していましたが、結局ヨーロッパのキリスト教徒(カソリック)に敗北したのは、吸収した『知識』や『技術』を学問的に体系化し、総合利用することではヨーロッパ人が優っていたためです。

明治維新で、西欧の知識、技術を吸収し、私たちも現代の日本へ変貌しました。『ある時点で劣っている』ことは、それを自覚することで、変身する原動力になります。『自分が劣っている』ことを認識し、克服努力をする人や集団が、勝者になるということに他なりません。

『自分は優っている』とうぬぼれた時に、敗者への転落が始まることになります。『自分が弱いことを知っている人』が一番『強い人』であるというパラドックスのような話です。

| | コメント (0)

2016年3月14日 (月)

北スペイン、ポルトガルの旅(1)

Dscn4639
北ポルトガルの都市ポルト、ドロア川にかかるドン・ルイス橋

3月2日から10日までの9日間、梅爺と梅婆は、阪急交通社のパッケージ・ツア(クリスタル・ハーツ)『時を紡ぐ北スペインとポルトガル9日間』に参加しました。
 

このツアを選んだのは、北スペインのカソリック巡礼の目的地『サンチャゴ・デ・コンポステラ』と、今まで訪れたことが無かった『ポルトガル』の主要観光地が要領よく組み込まれていたからです。 

羽田発のルフトハンザ機で、フランクフルト(ドイツ)経由でポルトガルの北の都市『ポルト』へ飛び、そこからは専用バスで、北スペインの『サンチャゴ・デ・コンポステラ』へ向かい、再び専用バスで、ポルトガルへ戻り、有名な観光地を巡りながら南下し、帰路はポルトガルの南の都市『リスボン』からフランクフルト経由で羽田へ戻るというルートでした。 

他の旅行会社の同種のツアは、先ず『リスボン』へ入り、再び『リスボン』へ戻って帰国するというルートが多いのですが、それに比べ今回のツアはごく一部を除き、原則として北から南へ移動するという無駄の少ない旅程が組まれていることも選んだ理由の一つです。

原則として、朝ホテルをゆっくり出発し、夕刻ホテルには早めに到着するというスケジュールも、年寄りには有難い配慮でした。 

イベリア半島は現在『スペイン』(半島面積の85%)と『ポルトガル』(半島面積の15%)に2分されていますが、両国とも、現状の政治体制が確立するのは比較的最近のことです。 

民族、宗教、権力者抗争が入り乱れるヨーロッパの歴史は、日本人には理解が難しいのですが、イベリア半島も例外ではありません。 

大雑把に区分すれば、以下のようになります。 

諸民族が移住、地中海沿岸都市国家の植民地時代(BC5000-BC700)
ローマ帝国の属領時代(BC218-AD376)
西ゴート王国の支配(ゲルマン民族の第移動 AD470-AD711)
ムーア人のイスラム教王朝時代(AD711-)
カトリック教徒による再征服運動(レコンキスタ)の時代(AD900-)
カトリック教徒諸王国の支配時代(AD900-AD1492)
スペイン王国、ポルトガル王国への集約(AD1479)
ポルトガルが共和制へ移行(王政廃止 AD1910)

他の中央ヨーロッパ地域と異なるのは、イスラム王朝の支配下に永らくあったことで、『レコンキスタ(カトリック勢力による再征服運動)』で、宗教的には、イスラム教、ユダヤ教を排除(国外追放)したものの、今でも文化面の影響が色濃く残っていることです。

『スペイン王国』『ポルトガル王国』時代に、航海技術(大航海時代)によるアジア、南米との交易で、一躍ベネチアなどの地中海諸国より優勢になり、世界に君臨することもありましたが、今ではEUの中で、低い地位を余儀なくされています。

このツアでは、過去と現在を体験できましたから、文字通り『時を紡ぐ旅』になりました。

| | コメント (0)

2016年3月13日 (日)

梅爺創作落語『ハッケヨイ』(6)

(徳三)『評判の良い易者とそうでない易者の一番の違いは、評判の良い易者は、占いを頼みに来た人が、本心どういう占い結果を望んでいるのかを見抜いて、それをないがしろにしないようそっと斟酌(しんしゃく)して卦を伝えるんですな』

(大家)『ちょいとお待ちよ。それじゃ易者は、太鼓持(たいこもち)のように、相手が気に入るようなおべんちゃらを云っているのかい』

(徳三)『そこんところは、ちょいと違うんですな。人間てーものは、何か悩み事を抱え込んじまうと、どんどん悪いことばかり考えるようになっちまって、他の見かたができなくなってしまうんですな。ひどい時には、本当に身体をこわして病になっちまうことだってあるんですよ』

 (大家)『そう云ゃ、病(やまい)は気からと言いますな』

(徳三)『そこで易者は、このままだとどんどん事態は悪くなるなどと、本当のことを云わずに、見かたを変えれば、そんな悩みは、些細なことだと伝えるんですな。するってぃと、嘘のように気持ちが晴れて、そこからものごとが良い方向へ転ずるってわけです』

(大家)『なるほど、人は己の了見の狭さに気づいて、見かたをちょいと変えるだけで悩みも消え失せるてぃわけですな。しかし、いつもいつもそううまくいくとは限りますまい。うまくいった時は、あの易者はたいしたものだと評判が立つとしても、うまくいかなかった時は、あの易者はとんでもないへぼだてぃ噂が立っちまうじゃないのかい』

(徳三)『ご隠居さんもご存知のように、世間はうまくしたもので、八卦に関しちゃ当たるも八卦、当たらぬも八卦てぃことになっていますから、誰もが当たらないことがあるだろうと薄々感じているんですな。しかし、当たらなかった時は、確かに易者のせいにしますから、頭が回る易者は、そうならないように、ちょいと予め釘をさしておくんですな』

(大家)『なんだいその釘をさしておくというのは』

(徳三)『よい結果になりますよと伝える時に、例えば、ただし、あなたの神仏を敬う心が少しでもおろそかになると、そうはなりませんよなどと、釘をさすんですな』

(大家)『神仏を敬う心なんぞは、強さの程度は測れないので、うまくいかなかった時に、これは易者が悪いんじゃなく自分の信心が足りなかったと思っちまうわけですな。他人(ひと)の落ち度にしちまうなんぞは、どうも易者てぃのは狡猾で喰えないお人ですな』

(徳三)『易者ばかりじゃなく、人間てぃものは大概狡猾なもんでござんすよ』

(大家)『そう言われてしまえば身も蓋もありませんな。要は、評判の良い易者てぃのは、良い八卦と悪い八卦があった時には、良い八卦の方を残して、うまくそいつを利用するというわけですな』

(徳三)『へぇ、その通りで。だからそういうでしょう「ハッケヨイノコッタ(八卦良い、残った)」と』

お後がよろしいようで。

| | コメント (0)

2016年3月12日 (土)

梅爺創作落語『ハッケヨイ』(5)

(徳三)『どうも、易者には先を見通す能力などはないと疑っておられるようですな』

(大家)『さすがに、鋭い観察力ですな。正直にいえばその通りで、神仏でもない人に、先を正しく見通す能力などありはしないと疑っているんですよ。大変失礼な話で恐縮ですが、もし易者がご自分の先行きを正しく見通せるなら、都合がよいように振る舞って、自分だけ大出世をしたり、大金持ちになればよいじゃありませんか。このごろのお前さんは別として、多くの易者が他人様(ひとさま)の占いで細々生計を立てているのは割に合わない話にみえますな』

(徳三)『御隠居さんなので、本当のことを申し上げれば、易者といえども先を正しく見通す能力などありはしませんよ。でも、あてずっぽうで勝手な話をしているわけではなく、易の作法を習得して、その教えに従ったみたてを口にしているというわけですな』

(大家)『するっていと、お前さんもその作法を習得なさったんですな』

(徳三)『勿論でございますよ。師匠に弟子入りして2年ばかり厳しい修行にはげみました。元々易というのは、大昔に唐国(からくに)で考え出された学問の一種でして、先行きを正しく見通している神の真意を知る方法として用いられたものなんですな』

(大家)『大昔の人も、先行きを正しく見通せるのは神仏だけと知っていたわけですな』

(徳三)『先行きのことは知りたい、でも自分にはそれを見通す能力が無いというのが人の性(さが)でござんしょう。易が重宝されるのは、そのためですな。ただ、唐国で考え出された易の作法は、大変込み入ったものでして、ありとあらゆるものをみたてに利用しておりましてな、例えば星の動き、月の満ち欠け、太陽の動き、雲の動き、夕焼けの色、風の向き、方位、年のめぐり(干支)、人の生年月日、人相、手相、亀の甲羅の焼け具合、土器の欠け具合、筮竹(ぜいちく)の模様の組み合わせなどでござんすから、とても普通の人には判断ができないこともあって、専門の知識を会得した易者が登場することになったんでございますな』

(大家)『なるほど。てーことは、私も修行を積めば易者になれるということですな』

(徳三)『なにしろ、込み入った作法を会得するのは容易じゃございませんが、ご隠居が易者になれないという話にはなりませんな』

(大家)『しかし、それならば易者のいうことは誰でも同じということになるはずですが、世の中には、評判の良い易者と、評判が芳しくない易者がいるのは、一体どうしてなんだい』

(徳三)『そりゃ、世の中に評判の良い医者と、評判の悪い医者がいるのと同じことでござんすな。同じように学問を習得しても、必ず違いが現れますからな』

(大家)『その違いは、いったいどこから来るんだい』

| | コメント (4)

2016年3月11日 (金)

梅爺創作落語『ハッケヨイ』(4)

(徳三)『若君がすぐに世継ぎになられた場合は、大殿やご正室さまのご意向にも沿い、よろしいのですが、なにせ未だ8歳であらせられますから、成人されて正式な藩主になられるまで、実質的に藩を切り盛りする後見人が必要になります』

(江戸家老)『それは、当面国元家老の役目になろうのう。この場合も何か不都合があるのか』

(徳三)『へぇ、こちらの方も少々心配ごとの卦がでておりやす』

(江戸家老)『どういうことじゃ』

(徳三)『大変申し上げにくいのですが、後見人がその職柄を乱用して、勝手が過ぎるというご批判が藩内に募るやもしれぬという懸念でございます』

(江戸家老)『国元家老のお人柄はよく存じておるが、そのような振舞いをされるお方とは思えぬがのう。して、藩内に反対の批判が高まるとしてその急先鋒は誰になるという卦がでておるのじゃ』

(徳三)『卦には、それがあなた様とでております』

(江戸家老)『何、藩のご政道をめぐって、国元家老と拙者がいがみ合い、藩に内紛が起こるやもしれぬと申すのか。聞き捨てならぬ失敬な話じゃな』

(徳三)『お怒りはごもっともでございます。このような事態も予測できましたから、最初にこのような占いはしたくないと申し上げました』

(江戸家老)『頼んでおいて、お主を咎(とが)めるようなことを云うてあいすまぬ。要は、世継ぎをどなたにするかということが問題ではなく、どちらにしても、権力の座を利用しようとしたりするものが出てこぬように、また権力の座をめぐって藩内に諍(いさか)いが起きるようなことがないように、十分な配慮をせという忠告と受け止め申した。見事な卦と感服いたした。お主を見たてたそれがしの眼に狂いはなかったことになるのぉ。大義であった。些少ながら礼をつかわそう』

(大家)『お前さんも、偉いお武家を相手に、大層思い切ったことを云ったものだねぇ。それで、この話は結局どうなったんだい』

(徳三)『世継ぎは若君とし、国元家老と江戸家老が腹を割って話しあった結果、諍いのもとを藩内につくらぬよう、何事も二人で合議のうえ後見人を務めるということになったと聞いておりやす』

(大家)『おまえさんのみたてどおりで、何もかもめでたしということですな』

(徳三)『その節相談相手となってくださったお侍をわざわざ長屋までお遣かわしになり、再度江戸家老様からの丁重な礼をいただきました。その上、大名屋敷に出入りする御用商人などに、「下町の長屋に、鋭いみたてをする易者がいる」と紹介をいただいたおかげで、あっしの易者稼業が評判になり、多くのお客さんが長屋を訪ねてくるようになったという次第です』

(大家)『それで、お前さんの暮らしぶりが変わったいきさつは分かりました。ところで、徳さんに、前々から是非聞きたいことがもう一つありましてね』

(徳三)『へぇ、なんでございましょう』

(大家)『それは、易者てぇ人は、本当に先のことを見通す能力(ちから)を持っているいるのかどうかってことですよ』

| | コメント (0)

2016年3月10日 (木)

梅爺創作落語『ハッケヨイ』(3)

(徳三)『あっしの八卦でことを決めないと仰っていただけるのは、大変ありがたいことではござんすが、いくらなんでもこれは無理難題でございます。大体占いと言うのは、易者が占ってもらいたいご本人と直接向き合って、悩み事を聞き出したり、人相や手相なども見ながら行うものでございます。全く面識がない、若君さまや、弟君さまのことを占うなどという畏れ多いことはあっしにはできません』

(江戸家老)『お主の云い分はもっともながら、そうかといってお主をお二人にお目通りさせるというわけにはまいらぬな。そうだな、お二人をよく存(ぞん)しておる者をお主の相談相手として侍(はべ)らせる故、必要なことは何なりと聞き出してもらうということでいかがかな。お主の八卦がまとまるまで、2、3日当屋敷に逗留できるようにも手配いたそう』

(徳三)『そ、そんな藪から棒なことをおっしゃられても、あっしも全くの手ぶらで参じておりますので・・・』

(江戸家老)『それならば、一度帰宅して、易に使うのに必要なものを持参して出直したらよかろう』 

(大家)『それで、徳さん、大名屋敷へ逗留することになったのかい』

(徳三)『そうなんでござんすよ。全く強引なご家老さまでしてね。仕方なしに、あっしも腹を決めることにいたしやした』

(大家)『大名屋敷の居心地というのは、どうなんだい』

(徳三)『そりゃ、何から何まで初めてのことで、驚きましたな。何しろ食事は、お女中の上げ膳据え膳で、普段お目にかかったことがないような料理が並ぶ上、夕餉には酒まで振る舞われましてな。布団も、普段のせんべい布団とはちがって、ふかふかで、反って寝つかれずに、苦労いたしやした』

(大家)『肝心な八卦の方はどうなったんだい』

(徳三)『若君と弟君の人柄や生年月日など詳しいことを相談相手のお侍が親切に教えてくれましたので、それを頼りになんとか占いをいたしやした』

(江戸家老)『お主の八卦の結果を聞こうではないか。正直に申してみよ』

(徳三)『へぇ、それが少々申し上げにくいことでございますが、お家にとって心配なことが起こるやもしれぬという卦(け)でございやして』

(江戸家老)『どういうことじゃ、詳しく申してみよ』

(徳三)『まず、当面弟君が家督を継ぎ、若君が元服でもなされた時に、再度家督を譲るということについて占ってみました』

(江戸家老)『誰もが思いつく対応方法で、もっともに思えるが、何か不都合でもあるのか』

(徳三)『弟君が、名君ぶりを発揮すればするほど、そのうちにこれを支持されるご家臣も増えて、若君が成人になられた時に、家督相続が思うほどすんなり進まないという懸念でございます。つまり、その時点での家督相続に関してご家中の意見が二つに分かれて、お家の内紛になるやもしれぬという卦がでております』

(江戸家老)『考えたくはないが、そのようなことが無いとはいえないな。それならば、若君がすぐに世継ぎとなられるとしたら、どうなるのじゃ』

| | コメント (0)

2016年3月 9日 (水)

梅爺創作落語『ハッケヨイ』(2)

(徳三)『内密にと念をおされておりますから、あまり詳しいお話は出来かねますが、訪ねたのは御徒町のさる大きな大名屋敷でございます』

(大家)『ふんふん、御徒町の大きな大名屋敷といえば、大方見当がつきますな。それでどうなったんだい』

(徳三)『足軽風情の門番のお侍に、前の日にお武家から頂いた書きつけの紙を見せて、この方にお目通りしたいと申しますと、急に相手の態度が変わりましてね。更に取次のお侍が表れて、立派なお庭に面したお座敷へあっしは通されたんでございますよ。大名屋敷なんぞは、初めてのことですから、すっかりコチコチになっておりやすと、取次のお侍が「江戸家老様へのお目通り暫時ここにて待たれよ」というじゃありませんか』

(大家)『するっていと、お前さんが前の晩に出会ったお武家と言うのは、江戸家老のご重職ってことかい。驚いたねこれは』

(徳三)『あっしも、コチコチの上に更に腰を抜かさんばかりに驚きました』 

(徳三)『知らぬこととはいえ、昨晩はとんだ失礼をいたしました。どうかお許しください』
(江戸家老)『これこれ、そのように平伏することはない。面(おもて)をあげよ。お主は確か徳三とかもうしたな。八卦には自信があるというそちの言い分が気に入った故、一つ占ってもらいたいことがある』

(徳三)『へー、どんなことでござんしょう』

(江戸家老)『これから話すことは、我が藩の重大事故、他言はまかりならんぞ。実は国元の大殿のご体調がこの半年ばかり芳しくなく、後殿医も力を尽くしておるのだが、残念ながらご容体は快方へ向かう様子がござらん。家臣としては万が一に備えて、お世継ぎを決めておく必要があり、内密に合議を重ねておるが、意見が割れてなかなか結論がでず、それがしも甚だ難渋しておる次第でな』

(徳三)『ちょ、ちょっとお待ちください。そのような難しい事柄をまさかあっしに占えと仰るのではないんでございましょうな』

(江戸家老)『易者に八卦見以外のことを頼むはずがなかろう』

(徳三)『御冗談もほどほどにお願いいたします。あっしのような町人には、お武家さまやお殿様のことは、さっぱりでございますから』

(江戸家老)『八卦に町人も武士も差別はなかろう。まあ、云いたいことがあれば話を最後まで聴いてからにいたせ。お世継ぎとしては、候補がお二人おってな、一人はご正室様との間に生まれた若君なのだが、これが未だ8歳で、難題が多い我が藩を切り盛りするのはちと荷が重いことは目に見えておる。しかし、大殿も、特にご正室様も、この若君を世継ぎとされることを願っておられる。もう一人の候補は、大殿の弟君にあたるお方で、若いころに他藩へ養子に出られたのだが、そちらでは家督を継ぐ状況にはなく、今は22歳になっておられるが、奥方も娶(めと)らず部屋住みの御身分であられる。この弟君は、聡明ながら、少々潔癖すぎると周囲から疎まれることもあるご性格で、大殿もあまり好いてはおられない。この弟君なら藩の財政の立て直しなどには手腕を発揮されるものと期待はできるが、民の信望を集めることができるかどうか危ぶむ家臣も多い』

(徳三)『それで、どちらのお方がお世継ぎに適しているか、あっしに占えと仰るんですか』

(江戸家老)『そのとおりじゃ。しかし、お主の八卦でことを決めようというわけではない故安心いたせ。それがしの判断の参考にいたしたいだけじゃ』

| | コメント (0)

2016年3月 8日 (火)

梅爺創作落語『ハッケヨイ』(1)

(徳三)『これは大家の御隠居さん、朝早くから長屋の見まわりでござんすか。ご苦労さまでございますな。店賃(たなちん)でございましたら、あっしは月初めにキチンキチンとお納めしているつもりでござんすがね』

(大家)『お前さんが律義に店賃を納めてくださっていることは、よく承知していますよ。店子の皆さんが、皆お前さんのようなら、私も気づまりな督促などせずに済むんですがね。中には私と目が合わないように、すっと避けて通るご仁(じん)までおられましてな。こうなると大家なんてのは疫病神みたいなもんですな』

(徳三)『店賃のことでねぇとなると、大家さんからお小言(こごと)を頂戴するようなことは、ちょいと思いあたりませんがね』

(大家)『徳さん、年寄りをからかうのはよして下さいよ。私は別にいつもいつも小言ばかり云っているわけではありませんよ。実は、お前さんの仕事について、前々からちょいとお尋ねしたいと思っておりましてね』

(徳三)『あっしの仕事てぃことになりますと易者稼業のことでござんすか』

(大家)『お前さんの八卦(はっけ)はよく当たるというので、この界隈ばかりか近頃では江戸中にちょいと名の通った易者さんになられたとうかがいましてな。この長屋からその様な偉いご仁が出たというので、私も鼻が高うござんすよ。なんですってね、毎日何人もの客が、お前さんに占ってもらおうと、この長屋を訪ねてくるという話じゃありませんか。なるほど、入口には「徳占」と書いた暖簾(のれん)が下がっていますな。商売繁盛でなによりですな。ところで、大変失礼ながら、一年前までは、お前さんもそれほどの羽振りのよい易者さんではなかったように承知しているものですから、一体何があったのかとつい知りたくなりましてな』

(徳三)『あぁ、そのことでござんすか。たしかに、一年前はあっしも、とんとうだつが上がらない易者でございました。夜な夜な吉原の大門の前のお店(たな)の軒下をお借りして提灯をともし、これから吉原へ繰り出そうという通りがかりの客を相手に細々と占い家業を続けておリやした』

(大家)『それがどうして急に風向きが変わったのか、そこんとこを是非知りたいもんですな』

(徳三)『ある晩、あれは1年前の春のことでしたが、お伴に中間(ちゅうげん)を連れた立派な身なりのお武家さまが突然あっしの占い屋台に立ち寄られまして、これまた突然に「お主の八卦はあたるのか」とお尋ねになったんですよ』

(武士)『お主の八卦は当たるのか』

(徳三)『そいつはちょいと野暮なお尋ねございますな』

(武士)『武士に向かって野暮とは聞き捨てならぬな。何が野暮か申してみよ』

(徳三)『何って、そいつは蕎麦屋に向かって、お前のところの蕎麦はうまいかと尋ねるようなもんでござんしょう。あっしのところの蕎麦はまずうございますなどとこたえる蕎麦屋はおりませんでしょう』

(武士)『なるほど、面白いことを云う奴だな。八卦に自信があるから易者をやっている、とそう申したいのだな。気に入ったぞ』

(徳三)『ところで、何を占えば良いんでございますか』

(武士)『占ってもらいたいのは拙者ではない。実はちょいと込み入った内密の話でな。このような所で話すわけにはいかんので、明日お手数だが、お主の方から拙者を訪ねてもらいたい』

(徳三)『そう言うと、そのお武家が中間に命じて、次の日訪ねる場所と、お武家の名前を書き記した紙をあっしへ渡し、「この話は内密にしてもらいたい」と念を押すとすっと立ち去ってしまったんですよ』

(大家)『それで、お前さん、翌日そこへ出向いたと、そういうわけなんだね。一体どこのどなたなんだい。そのお武家は』

| | コメント (0)

2016年3月 7日 (月)

宇宙の果て(6)

私たちの『宇宙』は、138億年前に『ビッグ・バン』で出現し、その後膨張し続けていることが分かっています。そのため、現在では半径470億光年、さしわたし940億光年の球体になっていると、論理計算できます。

私たちの『宇宙』の外に、別の『宇宙』があるかどうかは別にしても、私たちの『宇宙』に『果て』があり、有限であることは確かです。

天体観測で観ている『星』や『銀河』の光は、『地球』へ届くまでに時間がかかっていますから、観ている光は、『昔の光』であるということになります。

138億年前の光の観測に成功すれば、それは『ビッグ・バン』の時に発せられた光ということになります。

日本の国立天文台が、ハワイ島に設置している天体望遠鏡『すばる』で、約130億年前の『銀河』の光の観測に成功していて、これが人類が観測できている『最古の光』の部類に属します。

『ビッグ・バン』の後8億年の光ということになります。この時代は、『宇宙』のガスは水素が主体で、水素原子が発する『ライマン・アルファー輝線(紫外線)』をとらえることになりますが、『地球』へ到達するまでに、ある周波数の赤外線に変わっていますので、この周波数だけを通過させる特殊フィルターを用いて『すばる』は観測に成功しました。この特殊なフィルターを創る技術は、日本の光学機器メーカーが開発したもので、日本の総合力が背景にあります。

『ビッグ・バン』の後のある時期に、『銀河』が一斉に出現したと考えられています。『すばる』が観測した初期の『銀河』は、私たちの『天の川銀河』の1/4程度の規模で、まだ渦巻の形状にもなっていません。

その後『宇宙』では、『銀河』が成長したり、他の『銀河』と合体したりして現在に至っています。

『天の川銀河』も、数10億年後には『アンドロメダ銀河』と接近することが分かっています。この時、太陽系や『地球』は、影響を受けますので、『生命体』が存続できる環境が維持できなくなる可能性があります。

それ以外でも、『太陽』は約50億年後には、燃え尽きて白色矮星に変わることもわかっていて、同じく『地球』も現状を維持できなくなります。

『宇宙』には『果て』があり、『宇宙』そのものも『変容』し続け、最後に『終わり』を迎えることが、『科学』で予測できています。

たった、数100万年の歴史しかもたない『ヒト』が、数10億年後の終末を、今怯える必要はありませんが、何事も、同じ状態は維持できないという『物質世界』の『摂理』は理解しておく必要があります。

梅爺は、『生かされている現状』に感謝しながら、残りの『命』を大切にしたいと思っています。すべて偶然の幸運のお陰であるからです。

| | コメント (4)

2016年3月 6日 (日)

宇宙の果て(5)

私たちの所属する『宇宙』以外にも、他に無数の『宇宙』が存在し、その中には私たちの『宇宙』に酷似した『宇宙』もあり、『地球』に似た惑星や、『ヒト』に似た知性を持つ生物が存在する可能性があると番組の中でアメリカの科学者が述べていました。

あくまでも、統計的な確率を含めた『推論』ですから、『可能性がある』という表現に止まるなら問題はありません。現状の私たちの能力では、他の『宇宙』の存在を直接探る手段を持ち合わせていませんので、間接的な『論理的な推論』だけが頼りです。

私たちの所属する『宇宙』にだけ話を戻しても、『果て』や『その外側』はどうなっているのか、『膨張』を続けて最後はどうなるのかなど、矛盾なく解明されているわけではありません。

『論理的な推測』で、私たちの『宇宙』にも『終焉』が訪れるであろうことは予測できますが、『ペンローズ』が主張するように、それは新たな『宇宙』の『始まり』につながるのかどうかも、一つの仮説に過ぎず分かっていません。

私たちにとって『確かなこと』は、私たちの所属する『宇宙』が存在し、『膨張を続けている』ということです。そして、私たちの『宇宙』が誕生しなければ、『地球』も『ヒト』も存在することにはならなかったということです。

『宇宙』や『生命』が、『物質世界』の『摂理』に支配されていると考えることに、梅爺は矛盾を感じません。『生命』が同じく『摂理』に支配されながら『進化』し、やがて『ヒト』の『脳』に『精神世界』が出現したというプロセスにも矛盾を感じません。

『物質世界』と『精神世界』の最大の違いは、『物質世界』では『摂理』に支配されない事象は存在しませんが、『精神世界』では摂理に支配されない『虚構』も想像で創りだすことが可能であるということと、『精神世界』でのみ通用する約束事の『価値基準(善い、美しいなど)』があるということです。

ややこしいことに、この『価値基準』は、『人』によって異なったり、その『人』が所属する『コミュニティ』によっても異なります。『日本人』と『中国人』は異なった『価値基準』をもつ可能性がありますし、『キリスト教徒』は『イスラム教徒』とは異なった『価値基準』をもつ可能性があります。

『虚構』を『真実』、『相対的な価値基準』を『絶対的な価値基準』と、勘違いすることで、人間関係や国際関係に諍(いさか)いが生じます。勘違いは『信ずる』ことで生じますが、一端『信じた』ことを強固に影響し続けますからやっかいです。

『宇宙の果て』の話が、どんどん脱線していますが、梅爺の申し上げたいことは、周囲の事象を観る時に『精神世界』だけで考えずに、それが『物質世界』と地続きであることも配慮して、考えていただきたいということです。『精神世界』は『物質世界』の基盤の上に成立しているのですから。

『哲学』『宗教』『芸術』も、『物質世界』やその『摂理』とは無関係ではないということです。『人』のいない世界では『精神世界』が存在しませんから『哲学』『宗教』『芸術』も消滅します。しかし、基盤である『物質世界』とそれを支配している『摂理』は存在し続けます。

『宇宙の果て』は、純粋に『物質世界』やその『摂理』だけで論ずることができる領域です。逆にいえば『神』『奇跡』などの登場を必要としません。

| | コメント (0)

2016年3月 5日 (土)

宇宙の果て(4)

『マルチ・バース(複数宇宙)』については、いくつかの『仮説』が番組で紹介されました。 

『インフレーション理論』の提唱者の一人である、『佐藤勝彦』氏は、『インフレーション』の中で、出現した『宇宙』は『細胞分裂』のような分裂を繰り返し、結果的に無数の『宇宙』が出現したと予測しています。 

アメリカの宇宙学者『ヴィレンキン』氏は、『インフレーション』の中で、まるでビールの泡のように、無数の『宇宙』が出現したと予測しています。一つの『宇宙』から分裂したのではなく、最初から無数の『宇宙』が出現したという推測です。 

いずれの推測も、無数の『宇宙』で構成される『大宇宙』を想定しているわけですから、その中の一つに過ぎない私たちの『宇宙』の『果て』などは、ちっぽけな概念のように思えてきます。しかし、それならば『大宇宙』の『果て』はどうなっているのかという新たな疑問が湧いてきます。 

このように、同時に無数の『宇宙』が共存するという推測ではなく、『宇宙』は誕生と死を繰り返していると考える科学者もいます。つまり、私たちは、偶然ある世代に属する『宇宙』の中で生きているということになります。

この説を唱える一人が、イギリスの著名な数学者、宇宙学者、理論物理学者の『ペンローズ』で、『宇宙』は、各『銀河』の中心にある『ブラックホール』に全ての物質が吸い込まれ、やがて『ブラックホール』だけの世界になり、その後『ブラックホール』は『光子』を放出して消滅し、『宇宙』は『光子』だけの世界に変わるという推測です。

『光子』は、素粒子の一つですが、『質量』を持たない特殊な存在です。この『光子』だけの世界で、再び『インフレーション』や『ビッグ・バン』が起きて、次世代の『宇宙』が誕生するという考え方です。

『終わり』は『始まり』であるという考え方は、まるでオランダの『騙(だま)し絵』の画家『エッシャー』の描いた世界と同様で、理論的には無限の繰り返しであることになります。一世代の『宇宙』だけでも、誕生から死までは私たちの感覚では『悠久の時間』ですから、それが無限に繰り返すと考えると、文字通り気が遠くなります。

時系列的に次々に新しい『宇宙』が出現するという話ですから、これも一種の『マルチ・バース』と言えないことはありません。

梅爺は、検証能力を持ち合わせていませんので、好き、嫌いでしか評価できませんが、同時に複数(無数)の『宇宙』が存在するという考え方より、誕生と死を繰り返すという『ペンローズ』の考え方の方が、好みに合います。

全ての事象は関連し、変容しながらつながっていくという考え方は、『釈迦』の『縁起』という発想そのものであるからです。『終わり』と『始まり』、『起点』と『終点(果て)』は、『エッシャー』の絵のようにつながっているという発想は魅力的です。

| | コメント (0)

2016年3月 4日 (金)

宇宙の果て(3)

1929年に、アメリカの天文学者『ハッブル』が、地球から観ると、全ての『銀河』が『遠ざかり続けている』ことを発見し、『宇宙は膨張し続けている』ことが判明しました。そのようなことは『あり得ない』と考えていた『アインシュタイン』は、『ハッブル』を訪ね、その観測データを検証して、自分の『誤り』を『人生最大の誤り』として認めました。『科学』は『誤った考え方』を修正し続ける行為ですから、『誤り』を認めることは不名誉なことではありません。『教義』を絶対とする『宗教』と一番違うところです。

因みに、宇宙には数千億個の『銀河』が存在し、私たちが属する『天の川銀河』はその一つに過ぎません。宇宙の膨張の過程で、銀河同士の合体などや、『銀河』そのものの『変容』は起きていますが、ほとんどの『銀河』の初期形態は、宇宙の初期の段階に、ほぼ同時に出現したものと考えられています。『銀河』はそれぞれ数千億個の『星』で構成されていますから、全体の中で『地球』などは、いかにちっぽけな存在であるかがわかります。

『宇宙が膨張し続けている』ということは、時間を逆に遡れば、『宇宙はどんどん収縮していく』ことを意味し、138億年前の『ビッグ・バン』にたどり着きました。

138億年の前の事象は、誰も直接検証できませんので、『ビッグ・バン』は、『理論物理学』『量子力学』などを駆使した『論理推論』で導き出された『仮説』です。しかし、間接的に観測できる事象との間で、『ビッグ・バン』は矛盾が見つからないことから、ほとんどの科学者が『定説』として受け容れています。梅爺は、自分で検証する能力を持ち合わせていませんので、『ビッグ・バン』を『信じて』います。

しかし、『ビッグ・バン』が何故起きたかは、現代科学でも明確に分かっていません。

『エネルギーだけが存在し、時間も空間もない世界』に、突然『インフレーション』という急膨張現象が出現し、そのプロセスの中で『ビッグ・バン』が起きたというのが、現状の有力な『仮説』です。この『インフレーション理論』の最初の提唱者の一人が日本の『佐藤勝彦』氏です。『インフレーション理論』が、『定説』になれば、ノーベル賞は間違いないでしょう。

『インフレーション理論』は、論理物理学と数学を駆使して導き出された推論の世界ですが、この考え方を肯定すると、『宇宙』は一つ(ユニバース)ではなく、複数、それも無数に存在するという結論に達するらしいのです。そしてこの『マルチ・バース』についても、色々な形態が『仮説』として提唱されています。

私たちが属する『宇宙』だけでも、気の遠くなるような大きさなのに、他にも無数の『宇宙』が存在すると言われると、ただ唖然とするほかありません。しかし、冷静に考えれば、『一つしかない』というより、『沢山あるうちの一つ』という考え方の方が、『もっともらしく』思えてきます。

『宇宙の果て』を考える時には、この『マルチ・バース』も配慮する必要があるということになります。

| | コメント (0)

2016年3月 3日 (木)

宇宙の果て(2)

自分たちが五感で認識できる世界の『果て』は、一体どうなっているのだろうと、『脳(精神世界)』で『推論能力』を獲得した古代の人達は、当然疑問を抱いたはずです。

『地の果て』『海の果て』『空の果て』に関して、現在の科学知識では、『偽(虚構)』と判定される、沢山の『仮説』が生まれ、まことしやかに代々継承されていました。『人』の『精神世界』は、『摂理』に束縛されない事象も含めて自由な空想が可能であることが特徴です。それでも、あまりに突飛な空想で心配になると、『神の御業(みわざ)』故にそのような『神秘』『奇跡』もありうると考え、納得しようとしました。

『神による天地創造』なども、この『虚構』の一つと、梅爺は考えています。しかし、これは『宗教』の『教義』に関連するために、『偽(虚構)』ではなく、『真』であると『信じている』人達は、科学知識が普及した今日でも沢山おられます。『神のみわざ』にすれば、どのよな事象も『真』と主張できます。

『虚構』が『権威』と結びつき、人々に大きな影響力を持つようになるのは、『宗教』ばかりの話ではなく、『イデオロギー』などでも起きます。全てを見通す能力を持たない『人』は、どうしても『信じる』ことに頼らないと生きていけません(前へ進めません)から、『虚構』を『信じて』しまうのは、『人』の宿命的な弱点といえないことはありません。『この人となら幸せになれる』と『信じて』、人は結婚を決意します。

『科学』は、『虚構(偽)』を『信ずる』ことを認めない世界ですから、『真偽』を確かめないと気が済まない性格の人には、居心地の良い世界です。しかし、人間社会の全ての事象に関しても、『真偽』の判定が可能であると勘違いすると、おかしな議論が横行するようになります。『私は正しい、あなたは間違っている』という主張の大半は、絶対的な判断基準ではなく、『自分にとって都合の良いことを肯定しようとする』人間の習性(安泰を希求する精神世界の本能)に由来するものと梅爺は考えています。

アインシュタインは、『何も考えずに権威を敬うことは、真理の最大の敵である』と述べています。これは科学者としてもっともな発言ですが、『考えても分からないことが存在する』人間社会の事象に適用するには難点があります。梅爺は『モーツァルト』の音楽は好きですが、それが『正しい』判断かどうかは分かりません。

私たちは、『疑いながら信ずる、信じながら疑う』という柔軟な姿勢を採用するしか現実の対応策はないように思えます。『分からないことが存在することを認める』ことは、『精神世界』で『不安』を喚起し、無理にも白黒をつけたくなりますが、勇気をもって『分からない』ことを受け容れることも必要ではないでしょうか。

『私はこれが正しいと考える』という自己主張は、誰にも許されますが、『私と同じように考えないのは間違い』と他人を断ずることは、慎重であるべきです。

『精神世界』は個性的であり、一人一人が、時と場合で、違った『考え』『感情』を持つように宿命付けられている(生物進化のプロセスによって)からです。

| | コメント (0)

2016年3月 2日 (水)

宇宙の果て(1)

NHKBSプレミアム・チャンネルで放映されている『コズミック・フロントNext』という『宇宙』に関する啓蒙番組を観て、『宇宙の果て』に関する最新仮説のいくつかを知りました。

『宇宙』『生命』『脳(特に人の脳)』は、『科学』が挑む最大の謎の領域で、直近の50年~100年の間に、人類は、多くの重要な事実を発見し、謎の一部は解明しましたが、依然として全貌の理解には遠い状態にあります。

『宇宙』『生命』『脳』は、いずれも梅爺の分類では『物質世界』に属し、『摂理』だけで支配されている領域です。

『物質世界』には『未知の事象』は沢山ありますが、論理的には『摂理』で『因果関係』が説明できると科学者は推定しています。勿論、未だ発見されていない『摂理』もありうるという推定です。『摂理』は、『数式で記述できる』ことを前提としていますから、『宇宙は数式で表記できる世界』と表現する科学者もいます。

科学者は、『物質世界』の現状で『因果関係』を説明できない事象を、『神秘』『奇跡』として追求を止めることはしません。

『物質世界』が何故『摂理』に支配されているのか、何故『摂理』は存在するのかは、『科学』にとって究極の謎です。

『物質世界』は、有限の素材を構成要素とする『物質』と、その『物質』に作用する『摂理』だけで成り立っていて、その関係において絶え間なく『変容』が繰り広げられています。

人の『精神世界』では重要な意味を持つ、『目的』『あるべき姿(理想)』などという抽象概念や、情感が生みだす『善悪』『美醜』などの価値観は、『物質世界』の『変容』に入り込む余地がありません。

この『物質世界』と『精神世界』の違いを区別して『観る』ようになって、梅爺の周囲認識は、大きく変わりました。『宗教』『哲学』『芸術』を観る目も変わりました。『物質世界』とは無関係に『宗教』『哲学』『芸術』だけを独自に論ずることには限界があることを知りました。『物質世界』と『精神世界』を俯瞰して観る『学際的な視点』こそが重要と考えるようになりました。

『宇宙の果て』はどうなっているのかという現状における『謎』は、純粋に『物質世界』の事象に属します。

いくつかの驚くべき『仮説』があることを知りました。まだ『定説』ではありませんので、『宇宙の果て』は人類にとって今のところ『未知』ということになります。

『驚くべき』と表現したのは、梅爺の『精神世界』の価値観を反映したものです。『宇宙』の事象や変容は厳然と存在するだけで、客観的に観れば『驚くべき』ことは『物質世界』には存在しません。

同様に『忌まわしい天災』や『美しい山河』も、『物質世界』には存在しません。しかし、人間同士が『精神世界』を共有するためには、意味のある表現になります。この違いを御理解いただけたでしょうか。

| | コメント (2)

2016年3月 1日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『プライバシーの消滅』(8)

人類は、『環境の変化』に応じて進化してきました。『環境の変化』には『自然環境の変化』と『人工的な環境変化』があります。昔の『人工的な環境変化』といえば、『異民族の侵攻と支配』『政治体制の変化』『新しい宗教の出現』などでしたが、近世以降は『科学技術の応用による変化』が大きな比重を占めるようになりました。

どのように世の中が変ろうが、『人』の本質は変わらないという主張はその通りですが、その『人』の本質が、『新しい環境』に反応して創りだす事象は、以前の事象とは異なったものになります。

『テレビ』や『インターネット』が普及した環境では、『人』の振舞いが『変わる』のは当然のことです。問題は、『テレビ』や『インターネット』が無かった時代の振舞いの方が『好ましい』かどうかという価値判断です。

『好ましい』は『情』の判断ですから、誰もが好き嫌いを主張してかまいませんが、『ウンベルト・エーコ』のように『社会のガンである』などと断ずることには梅爺は同意できません。『好き嫌い』を越えて『正しい、間違い』という本来『理』が関与する判断へすり替えられているからです。昨日も書いたように、これは『私が嫌いだから間違っている』という無茶な主張です。

『ウンベルト・エーコ』や梅爺のように、『テレビ』や『インターネット』の無い時代も経験した人間は、両者の違いを体験しており、どちらが自分の好みに合うかを主張することができますが、『テレビ』や『インターネット』が当たり前に存在する環境で育った世代は、比較ができません。

年寄りが『昔は良かった』というのは、慣れ親しんだ価値観の方が『安泰』をもたらしてくれるからで、現在の若者も歳をとれば『昔は良かった』というに違いありません。

年寄りにとって、新しい事象に対応したり受け容れたりすることはストレスであり、昔を肯定した方が楽に決まっています。

梅爺は、時代とともに『変化』は避けられないものであるから、何でも無条件に受け入れろといっているのではありません。『変化』をどのように評価するかを、年寄りも若者も自分で『考え』、自分の考えを披歴しあい、徐々に新しい社会の価値観が決まっていけばそれでよいと考えています。

『伝統』や『年寄りの知恵』は、必ずしも古臭いものではなく、若者の将来にも役立つものがあるはずだと『信じて』梅爺は自分の価値観を述べています。『ドナルド・キーン』が日本人に求めているものも同じです。日本人が変わっていくのは当然として、日本人が自覚して『変えない』ものを見つけてほしいという願いです。

『テレビ』や『インターネット』の普及で、『プライバシー』の考え方が表面的に『変化』していることは、確かでしょう。昔の価値観に依る『プライバシー』は消滅しているように見えますが、それが『間違い』と即断することは避けるべきです。『プライバシー』とは何かを、一人一人が『考え』、新しい『プライバシー』の価値観が社会に醸成されれば、それでよいように思います。

『人』は軽薄を好む習性と、嫌う習性の両面を持ち合わせています。そしてその両面をバランスさせる見事な方法を見つけます。『チャップリンの喜劇』、日本の『歌舞伎』『落語』などの様式をみれば、それがよく分かります。人類も新しい『プライバシー』を見つけるのではないでしょうか。

| | コメント (0)

« 2016年2月 | トップページ | 2016年4月 »