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2016年2月29日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『プライバシーの消滅』(7)

『ウンベルト・エーコ』がこのエッセイの中で、慨嘆しているのは、テレビやインターネットに登場する、自らプライバシーを放棄した『露出狂』や『お馬鹿キャラ』のような人達と、それを受け容れる社会の風潮です。

『プライバシー』の問題は、今や法的な問題ではなく、道徳的、社会的問題になっていると断じています。

昔は、村人(むらびと)が認める『バカ』が村の居酒屋に現れれば、周囲は彼に酒をおごり、『バカ』の言動が目に余るものになれば、家族が連れ戻しにきたものだとこのエッセイには書いてあります。『バカ』と村人の関係は、その村に限定される暗黙の了解事項であったということです。

一方『テレビ村に現れたバカ』は、『露出』や『バカな振舞い』を売り物にし、周囲もそれを受け容れて、批難されるどころか国中が知る『有名人』に祭上げられていきます。テレビ会社が視聴率を上げるためなら、何でもするというしたたかな計算があり、『バカ』も周囲もすっかりそれに踊らされているということに気づきません。

『醜いこと』を秘匿せずに、露出することで『美しいこと』に変えてしまっていると『ウンベルト・エーコ』は嘆いています。

梅爺も、保守的な人間ですから、『露出狂』や『お馬鹿キャラ』が、テレビやインターネットを利用して跋扈(ばっこ)する風潮は、『好ましい』こととは個人的には思いませんが、『ウンベルト・エーコ』のように、『露出狂』や『お馬鹿キャラ』を『社会の癌』とまで断ずる気にはなりません。

そのような優柔不断のことを云っていたら、世の中はどんどん悪くなっていくではないかとご批判を受けそうですが、梅爺はそうは考えていません。現在の風潮が行き過ぎであると多くの人が感ずれば、やがて抑制がかかり、新しいバランス点へ向かうことになるだろうと楽観視するからです。時間がかかるかもしれませんが、それが人類の知恵ではないかと思うからです。万が一抑制がかからず、現在の風潮が、『当たり前』のこととして定着すれば、それはそれで人類の知恵とはその程度のものとして受け容れるだけです。

前述の、村の『バカ』と村人との関係も、永い時間をかけて形成されてきた暗黙の関係(知恵)であると言えるのではないでしょうか。

『昔は良かった』『現代はおかしい』と言いたくなる気持ちを抑えて、『人の習性』と『環境条件の変化』が、どのような相互作用で新たな『変容』を引き起こすのかを、『情』を排除して観察してみる必要があるのではないでしょうか。

判断の最終段階で『情』が絡むことは仕方が無いとしても、それ以前の思考は、『理』で行いたいと梅爺は考えます。

『(情で)気に入らないから間違っている』という論法は、ギリギリ避けたいと思うからです。

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2016年2月28日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『プライバシーの消滅』(6)

『プライバシー』が個人的な権利として保護されるべきという考え方は、社会が個性的で多様な個人の集合体であることを認める『民主主義』が確立して以降のことです。

しかし昨日も書いたように、『個』と『全体』の利害は一致しませんから、『民主主義』国家においても、『個』の『プライバシー』の全てが保護されるわけではありません。したがって、一般論として『プライバシー』の保護の是非を議論するのではなく、『どういう場合、どのような情報は保護の対象になるのか』を具体的に論ずることが必要になります。

『正体』や『秘密』を秘匿することは、個人の基本権利として認めることが『プライバシー』の保護です。

しかし秘匿されると知りたくなるのが『人』の習性で、周囲は、『あいつにはこういう意外な一面がある』とか『あいつには他人(ひと)に言えないこんな秘密がある』とか、陰で囁き合うことで、優越感や時に同情を確認しあいます。これが『ゴシップ』といわれるもので、『ウンベルト・エーコ』は、『ゴシップは社会の安全弁のようなものであった』と表現しています。

『新聞』『テレビ』『インターネット』の普及で、『ゴシップ』の意味合いが大きく変わってしまったと『ウンベルト・エーコ』は指摘しています。『ゴシップ』の量は、その人の『知名度』に比例することを逆に利用して、映画俳優、芸人、政治家が自ら声高に『正体』や『秘密』をバラし、『ゴシップ』を自分で創りだしているという話です。

『有名人になろうとする』ことも、優越を『安泰』として求める行為ですから、何を『安泰』の対象とするかで、『秘匿する』『露出する』かが分かれることになります。『プライバシー』は神聖なものではないことが分かります。

このような『人』の本質を考えずに、『プライバシー侵害絶対反対』と叫ぶのは、『戦争絶対反対』と叫ぶのと同様に皮相的すぎます。誤解が無いように申し上げれば、梅爺は『プライバシー侵害』や『戦争』を是認しているわけではありません。もっと深く、人間の本質を思考した上で議論してほしいと願っているだけです。

『新聞』や『テレビ』が、経営利益を求め、発行部数や視聴率の増加のために、本来『ニュース』にならないようなことを、『ニュース』にしたててしまうことも、『ゴシップ』を故意に創りだすことと似た行為として『ウンベルト・エーコ』は指摘しています。

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2016年2月27日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『プライバシーの消滅』(5)

オーウェルの小説『1984』に、『ビッグ・ブラザー』という国家権力の中枢にあるものが国民の言動を徹底監視するストーリーが登場します。勿論、国家にとって不都合な言動を行う者を排除するためです。

『スターリン』時代のソ連、世襲の『将軍さま』が独裁統治する北朝鮮、共産党一党独裁の中国などは、『ビッグ・ブラザー』の存在を彷彿(ほうふつ)させます。

為政者が『インターネット』を用いて、国民を監視するということも行われますが、『インターネット』の普及で、『グローバル経済』というしくみが、国境を越えて世界の人々を監視するという新しい事態が生じました。『Microsoft』『Google』『Yahoo』『Amazon』などが、『インターネット』を利用する梅爺の行動を分析しながら、梅爺を監視しています。勿論『梅爺閑話』の読者の皆様も監視されています。『ウンベルト・エーコ』はこれを『顔を持たない力(Faceless Power)に依る監視』と表現しています。

この新しい監視体制は、情報を活用して『経済活動(金儲け)』を目論むものですから、『ビッグ・ブラザー』のような思想信条の監視とは異なります。しかし、利用目的を変えれば思想信条の監視も可能になりますから、アメリカでは国家が『Google』『Yahoo』の情報へアクセスできるかどうかが議論の対象になっています。テロや犯罪を未然に防ぐためという理由は、一理ありますが、それは口実で、国家が国民の『プライバシー』に介入することに他ならないと反対者は叫んでいます。

自分の『安泰』を最優先する個人は、『プライバシー』を守る権利があると主張し、国家などの『コミュニティ』は、全体の『安泰』を維持するために、個人の『プライバシー』に介入する必要があると主張します。納税のために個人の所得を国家は把握しようとします。

『個』と『全体』の『安泰』に関する価値観が矛盾していることが本質的な問題です。何度もブログに書いてきたように、この矛盾の普遍的な解決策を人類は未だ保有していません。

現実的には、『全体』の『情報利用目的』や、『個』の『公開を認める情報範囲』について、民主的なプロセスで『合意』が成り立ち、その約束が遵守されることが重要になります。日本の『マイナンンバー制度』『確定申告制度』などはこれに該当します。

人間関係が絡む事象については、『現実的な妥協点を求めて合意する』という以外に妙案がありません。『価値観が異なることを認めた上で話しあい、暴力的な手段は使わない』ということですから、『人』に関する深い洞察、高い知性、理性が求められます。

しかも、いったん合意した内容も、後々不都合であることが判明し、再度話し合いが必要になることも当然起こります。民主的なプロセスで『合意』を見つける作業は、時間と忍耐強い努力を必要とします。

独裁者や独裁的政権、宗教的原理主義者は、このような忍耐強い対応を好まず、性急に力で解決しようとし、時に暴力に訴えます。一律の価値観だけを認め、表面的な『統治』や『支配』だけを問題としますから、『一人一人異なる個の特性、価値観』などは、無視されます。

『個』と『全体』の価値観の違いを認め、現実的なバランスを模索しようとしない体制は、いつか崩壊します。

『周囲を一律の価値観に染めようとする人』に遭遇したら、為政者であれ、経営者であれ、頑固おやじであれ梅爺は警戒する事にしています。そして自分がそうならないように絶えず自戒することにしています。

『宗教』は『心の安らぎ』をもたらすという大きなメリットがあります。そのためには一律的に教義を信ずるよう信者に強いることになりますが、極端な『原理主義』に傾くと、『イスラム国』のような事態を引き起こします。日本では問題になりませんが、世界には『ユダヤ教』『キリスト教』の『原理主義者』も存在します。『一神教』の宗教に『原理主義者』が登場するのは、何か偶然ではない理由があるように感じます。『絶対的な神を信ずること』と『自分の価値観が絶対的に正しいと信ずること』の区別がつかなくなるからではないでしょうか。

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2016年2月26日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『プライバシーの消滅』(4)

『人』の『価値観』が絡む、世の中の事象の大半は、普遍的な尺度で、『真偽』や『多寡(たか)』を計ることができないと梅爺が主張すると、多くの方が不満げな顔をされます。

『殺すなかれ』『盗むなかれ』などは、『普遍的で正しい価値観』ではないかというような反論があります。確かに、これらは多くの人で共有できる価値観ですが、必ずしも『普遍的』とは言えません。『死刑』『戦争』『テロ』などは、人が人を殺すことを肯定した『価値観』ですし、『植民地主義』では略奪は当然のこととして行われました。つまり『人』は、自分の都合を優先させたい時には『殺す』『盗む』ことさえ肯定してしまうことになります。

古代の人々も、世の中の大半の事象には、絶対的な判断規範がないらしいことを薄々感じ、これは『不安』のストレスの原因になりますから、思案の末にこれを一気に解決する妙案を思いつきました。それが『神(絶対者)』という概念なのではないでしょうか。『自分たちには分からないことでも、神は何が正しいかご存知である。したがって、神の言葉に従い、神の振舞いを認めれば良い』ということになります。『神』を想定し、『信ずる』ことで『不安(悩み、苦しみ、憂い)』が『安堵(心の安らぎ)』に変わるという『宗教』の本質がここにあります。

しかし、現代人の私たちは、現実的に『世の中の大半の事象には、真偽を計る普遍的な尺度が無い』という『事実』を認めた上で、どのように対応するかを考えなければなりません。

誰かに教えを乞うたり、他人の意見を参照したりしてみても、それも一つの『価値観』ですから、結局は自分の『精神世界』を駆使して自分なりの『価値観』で判断するしかありません。自分の考えを披歴する権利は誰にもありますが、それが『絶対正しい』考えであるとして、他人に強要することは慎重であるべきです。

しかし、私たちは『本当のことは分からない』などといって立ち止まっていては前へ進めません。『生きる』ために、個人も社会も『決断』することになりますが、少なくとも絶対正しい『決断』をすることは、『人』の特性を考えると無理があることを覚悟しておく必要があります。後々、『決断』が適切ではなかったことが判明することは多々ありますが、それを認めることも含め、責任を負うしかありません。『男はつらいよ』とはそのことを指します。

話が『プライバシー』から大分逸れてしまいましたが、『プライバシー』に関しても、『どうあるべきか』という『正しい規範』などないということを申し上げたかったからです。

『ウンベルト・エーコ』はこのエッセイのなかで、『インターネット』『テレビ』の出現で、社会の『プライバシー』に関する『価値観』が以前とは異なったものに『変容』している事例を、やや批判気味に紹介しています。

新しい環境に合わせて、社会が動的に『変容』するのは、『物質世界』が時々刻々動的な『変容』をしているのと似ています。『物質世界』には『あるべき姿』はありませんが、人間社会では『あるべき姿』も論争の対象になりますので、『プライバシー』もこれに絡めて議論がされます。くどいようですが『あるべき姿』も『プライバシー』も絶対的な判断規範がない議論であることを承知しておく必要があります。

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2016年2月25日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『プライバシーの消失』(3)

『境界線』は、多くの場合コミュニティの領域を明確にするために設定されます。人類の『文明』は、異なったコミュニティ同士の争いや、コミュニティ内部の営みを円滑にする努力で進化してきました。

『文明』の進化は、『生物進化』と同様に、『争い』や『矛盾』を引き金に起こります。『逆境』や『危機』で大きく変わるということは、そう云う場合こそ『安泰を希求する本能』が強く作用するからであろうと梅爺は推測します。『平和であって欲しい』と誰もが願いますが、『平和』の中では進化し難いという『ヒト』や『人間社会』の一見矛盾した特性も理解する必要があります。『艱難辛苦汝を玉にす』とは、よく云ったものです。『ホモ・サピエンス(現生人類)』は、生物種として幾多の『逆境』に耐えた証として今日存在しています。

人類は、『コミュニティ同士の争いを無くす』『コミュニティ内部の営みを円滑にする』ための努力を重ねてきましたが、いずれも『決定的な知恵(合意)』を見出していません。

戦争、テロ、凶悪犯罪が絶えない世の中を、『人間はなんと愚かなのか』と嘆く方が沢山おられますが、『愚か』という単純な言葉で片付けては本質が見えてきません。

『愚か』に見える真因は、生物種としての『ヒト』も、『精神世界』を保有するにいたった『人』も、『個性的』であるように宿命付けられていることにあります。『生物進化』の過程で、『両性生殖』という仕組みを採用し、両親の遺伝子の偶発的ともいえる組み合わせで、子供の遺伝子が決まるからです。

外見や容貌が異なるのは当然として、『精神世界』の考え方、感じ方もそれぞれ異なります。このため、各人が異なった『価値観』を持つことになりますが、厄介なことに『自分の価値観が正しい』と勘違いする人達が後を絶ちません。

『真偽』が客観的に判定できるのは、『科学』が探究する『物質世界』の事象に限定され、『精神世界』の判断が絡む人間社会の事象の大半は、『真偽』の客観的な判定はできないという、『事実』を教えられていないからです。少なくとも梅爺はそのような教育を明確に受けたことがありません。多くの方々は、『ものごとには、必ず正しい答がある』と思い込んでおられるように見受けられます。

『価値観』が共有できれば、それに越したことはありあせんが、それは難しいとなれば、『お互いの違いを認め合う』ことが次善の策になります。

『親』『先生』『上司』『聖職者』『為政者』の言葉に従いなさいというのは、『価値観』を押し付けることで必ずしも賢明な策ではありません。『自分の価値観が他人と異なるのは当然のことです。自分の価値観を尊重するなら、他人の価値観も尊重しなさい。そして自分の価値観に問題が無いか絶えず自分に問い続けなさい』と教えることが最も重要なのではないでしょうか。

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2016年2月24日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『プライバシーの消失』(2)

『内』と『外』という抽象概念は、 『人』の『精神世界』が考え出したものです。動物も『縄張り』を主張しますから、この発想の原点は、生物進化の過程で『ヒト』にも継承されてきたものと推定できます。 

当然『内』は『安泰(掌握できる)』、『外』は『危険(掌握できない)』という感覚と関連していますから、元をただせば『安泰を希求する本能』が基盤にあると考えられます。 

日本人は、特にこの『内』と『外』の概念を柔軟に使い分けるということが、指摘されてきました。同じ一人の人が、『同級会』『県人会』『同期(入社)会』などと異なったグループに属し、その都度『内なる仲間意識』を確認します。 

更に、木と紙でできた障子戸で隔てただけで、『内』なる領域を設定し、安堵するというようなことも行います。外敵の攻撃には、ほとんど役立たない障子戸で、安堵を得ようとする文化は、外国人には『異文化』に見えます。 

日本人のこの資質が、どのように培われてきたのかは、興味深いことですが、『コミュニティの仲間は性善説で信用する』ということですので、『農耕共同社会』に由来しているのかもしれません。 

『内』と『外』とを隔てる『境界線』と言う概念も重要になります。人類は歴史上、多くの人為的な『境界線』を創ってきました。『万里の長城』『ハドリアヌスの城壁』『ベルリンの壁』など枚挙にいとまがありません。 

中世以前、『境界線』の外は、『野蛮人』の世界という認識が一般的であり、『言葉』が野蛮人かどうかを決める判断基準であったと『ウンベルト・エーコ』は指摘してています。相手を『野蛮人』と決めつけるのは、裏返しに『自分たちは優れている』と勝手に思い込む事でもあり、この風潮は、現代でも見受けられます。自分たちが理解できること、慣れ親しんだことは『優れている』と思いたくなるのは、自分の優位性を思い浮かべて、『安泰』を確認することに他なりません。西欧のキリスト教文化で育った人達の多くは、『イスラム教』は劣った宗教であると考えがちです。

江戸時代『薩摩藩』は、『薩摩弁』を『内』と『外』とを区別する手段として活用し、江戸幕府から送り込まれてくる『スパイ(薩摩飛脚)』を阻止しようとしました。

独裁者や独裁的な政権は『境界線』を『外』からの敵の侵入を阻止するばかりか、都合の悪い情報の流入も阻止する防波堤にしようとします。当然、秘密にしておきたい『内』の情報や都合の悪い『内』の情報も外部へ漏れないようにし、『為政者』にとって都合のよい情報だけを『内』に流布します。

『インターネット』が、独裁者や独裁的な政権にとって、いかに『頭痛のタネ』であるかは、歴然です。『外』の情報が筒抜けで『内』へ入ってきてしまうからです。中国が、インターネットの監視にかけている労力と費用は想像を絶するものであるはずです。

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2016年2月23日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『プライバシーの消滅』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning back the clock(時を遡る)』の8番目の話題は『プライバシーの消滅』です。

『インターネット』が私たちに及ぼした影響の一つを論じたものですが、さすがに当代きっての論客である『ウンベルト・エーコ』は、人間の習性や、歴史を参照しながら、問題の本質をあぶりだしていきます。

『境界線』という概念は、『人』が『内』と『外』を区別する時に設定するもので、自分が属する『内』やその価値観を、『外』からの攻撃や侵攻から守るために、また貴重な『内』の財産や技術を『外』へ流出させないために必要とします。『国境』や『城壁』のように、物理的に確認できるものもありますが、中には『道徳の壁』『プライバシーの壁』などといった眼には見えない抽象的な『境界線』も存在します。男女が『一線を越える』などというのも、微妙な『境界線』の話です。

『物質世界』における地層の境目なども『境界線』の一種に見えますが、これは自然の『摂理』による『変容』が偶然創りだしたもので、人間が人為的に創りだした『境界線』とは区別して論ずる必要があります。『ウンベルト・エーコ』が論じている『境界線』は、当然人為的な『境界線』です。人為的な『境界線』ですから、時代や文化や価値観で『境界線』は変わっていきます。

『インターネット』の出現で、『国境』の概念が脅かされているのは、典型的な例です。単なる『情報処理技術(IT)』の一つである『インターネット』が、人間社会へ与える影響を考えれば、『政治』『経済』といえども『科学』『技術』の影響を強く受けることが分かります。『人』や『人間社会』を洞察しようとすれば、科学知識も加えた『学際的なアプローチ』が必要になる時代になったと梅爺が感じるのは、そのためです。『宗教』や『哲学』が、その領域だけに止まろうとしても、無理があります。

『境界線』を設定するのは人間ばかりではありません。多くの動物が、排泄行為による『マーキング』などで、『境界線』を設定し『縄張り』を主張します。『外』からこの『縄張り』へ侵入しようとする『敵』も、『境界線』の存在を感知し、退くか、意を決して侵入するかを判断します。

人間が歴史上繰り返してきた、『境界線』をめぐる争いも、動物の『縄張り』闘争と、基本的には変わりません。生物進化の過程で、受けついできた習性であるからです。

動物も人も、基本部分で『己の安泰を最優先する(希求する)本能』に支配されているという梅爺の考え方に矛盾していません。

具体的に、または抽象的に『境界線』を引き、『内(縄張り)』を守ろうとするのは、この本能に強く支配されているからです。『縄張り争い』が起きるのは、動物や人が『個性的』であるという、もう一つの重要な要素に起因しています。『自分の境界線』と『他人の境界線』は、同じであるとは限らないからです。

中国が、南シナ海の『南沙諸島』は『自分のものだ』と言い出し、他国が『けしからん』と反論するのも、『縄張り争い』の典型例です。

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2016年2月22日 (月)

パーヴォ・ヤルヴィがやってきた(4)

『パーヴォ・ヤルヴィ』の出身国『エストニア』は、『バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)』に属し、地理的にはロシア、フィンランドに近い北に位置する国です。人口は132万人程度の、日本に比べると小国ですが、梅爺は数年前に観光で訪れて、『バルト三国』のなかでは、最も活気のある魅力的な国であると感じました。

何といっても親近感をもったのは、『エストニア』は『合唱』が盛んな国であったからです。首都『タリン』には、数万人を収容できる野外劇場付きの公園があり、『ソ連』の支配下時代でも、ここで『合唱祭』が開催されていました。集会が、『反ソ運動』に変貌しないようにソ連兵が当時は監視していたと言われています。民族の歌を、民族の言葉で合唱することで、国民は『絆』を確認し、間接的に『ソ連支配』に反撥の意を表明していたのでしょう。

梅爺が訪問した時も『タリン』の中央広場の仮設舞台で、合唱祭がおこなわれていて、民族衣装のオバーチャン達が、見事なハーモニーを披露していました。

現在の『エストニア』は、文化レベル、教育レベルの高い国で、特に『IT』関連の起業をする若者が多いことでも知られています。インターネットの動画電話で有名な『Skype』も、『エストニア』が発祥の地です。

中世、『タリン』は、ハンザ同盟の商人たちが居を構え、交易の中心として繁栄した所で、そのような新しいことへ挑戦する伝統が今も息づいているのかもしれません。

クラシック音楽の世界では、指揮者として『ネーメ・ヤルヴィ』『パーヴォ・ヤルヴィ』親子が世界的に有名ですが、非常に精神性の高い作風で有名な、作曲家『アルヴォ・ペルト』も世界が注目している一人です。『エストニア』は梅爺にとっても、関心が高い国です。

『N響』の指揮者に就任してからの『パーヴォ・ヤルヴィ』の言動に、梅爺は共感するだけで何の違和感も覚えません。音楽性ばかりではなく人間性も、期待通りの人物であると感じられるからです。

『パーヴォ・ヤルヴィ』は、『Twitter』や『Facebook』を用いて、日常の体験を自分で発信しています。日本文化を吸収しようとする態度も貪欲で、一人で街を出歩いたり、日本の各分野で活躍する若者を集めて、座談会を行ったりしています。

『クラシック音楽が特別に高尚な音楽であるという考えは間違い』『指揮者が特別に偉い人間であるというのも間違い』『大衆に理解されるようにと芸術のレベルを落とすのは間違い』『伝統は時に危険なものになる(進化を阻みかねない)』などと発言しています。いずれの意見にも梅爺は異論ありません。

人と人との相互啓発で、自分を高め、芸術も高めていく基本姿勢が伝わってきます。『N響』との相互啓発、日本文化の吸収と理解が、『パーヴォ・ヤルヴィ』を今後どのように変えていくのか、愉しみです。

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2016年2月21日 (日)

パーヴォ・ヤルヴィがやってきた(3)

西欧の人達は、日本の音楽レベルが高いことは、『小澤征爾』などの指揮者、国際コンクールで上位入賞をはたす、ピアノ、バイオリン、チェロなどのソリストの存在で認識していると思いますが、多数の演奏者で構成される『オーケストラ』のレベルについては、西洋音楽の後進国として『未だ遅れている』と想像しているのではないでしょうか。確かに、日本の西洋音楽の歴史は、たった200年程度のものであることは事実なのですから。

『オーケストラ』の実力レベルを何を持って評価するかは難しいところですが、梅爺の個人的な感覚では、日本の『オーケストラ』のレベルは西欧の『オーケストラ』と比較しても遜色がありません。特に、日本の中で比較的恵まれた経営基盤に支えられている『N響』のレベルは、むしろ世界の中でも上位に入る実力であると感じています。

『パーヴォ・ヤルヴィ』は、『N響首席指揮者』に就任後、インタビューで『N響』の実力について以下のようなコメントをしています。

『個々の演奏者の技術、音楽理解度が高く、しかも全員が高いレベルにある。こういうオーケストラは世界にそうはない。しかも、更に高いレベルを目指そうとするメンバーが情熱を持っている』

父親の『ネーメ・ヤルヴィ』も『N響』で客演指揮をしたことがあり、その時の感想を『情熱のあるオーケストラだ。東洋のベルリン・フィルといってもよい』と息子に語ったというエピソードもインタビューで語っています。

『パーヴォ・ヤルヴィ』は自分が過去に客演指揮した時の体験、父親の感想などを総合して、『N響』のオファーを快諾したのではないでしょうか。

『N響』とならば、自分の目指す『音楽』を創造するのに、効率よく対応できると感じたにちがいありません。

サッカーに例えれば、既に『高度な基礎技術や能力、意欲を保持している選手たち』が存在するチームの監督に就任するようなもので、『基礎練習』につきあうことなく、即座に『高度な戦術の創造』に専心できるからです。

『パーヴォ・ヤルヴィ』は、『N響』と欧米の『オーケストラ』の違いを、『リハーサル』への取り組み姿勢を例に挙げて説明しています。『N響』の場合は、前置きなしに『リハーサル』を開始しても、すぐに濃密な演奏ができますが、欧米の『オーケストラ』では、全員の集中力が高まってくるまでに時間がかかるというのです。

プロの姿勢として、『N響』の効率の良さは、自分の考え方とも合っていると語っています。

『パーヴォ・ヤルヴィ』に率いられ、『N響』が今後欧米へ演奏旅行する機会が増えれば、欧米の人達の『日本のオーケストラ』に対する評価や考え方は一変するのではないでしょうか。

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2016年2月20日 (土)

パーヴォ・ヤルヴィがやってきた(2)

『パーヴォ・ヤルヴィ』はバルト三国の一つである『エストニア』の出身です。彼が生まれた時『エストニア』は、現在のような独立国ではなく、『ソ連邦』に属していました。彼の父親もまた世界的な指揮者『ネーメ・ヤルヴィ』ですが、『ソ連邦』は芸術家にとって、息苦しい場所で、芸術は政治の管制下にありました。

偉大なソ連の作曲家『ショスタコーヴィッチ』も、『スターリン』の芸術批判にさらされ、不遇な時期がありました。独裁者の価値観で、芸術の評価が決まるなどと言うことは、『個性的である人間の尊厳』に対する基本的な冒涜で、野蛮な話です。

多くの人の共感を得る芸術作品は、時代を経て普遍的で良質な作品として残っていきます。不幸にして日の眼を観ない良質な作品はあるかもしれませんが、劣質な作品は、やがて必ず忘れられていき、生き延びることはありません。芸術は、更なる高みへ、良質なものへ進化しようとします。これが『人間』と『芸術』の関係の本質で、素晴らしさの根源です。

『パーヴォ・ヤルヴィ』の父親『ネーメ・ヤルヴィ』は、『ソ連』の体制下で苦悩した人で、同じく苦悩する『シュスタコーヴィッチ』との交流がありました。『パーヴォ・ヤルヴィ』は子供の頃、『ショスタコーヴィッチ』が彼の家を訪ねてきた時のことを覚えています。

やがて『ヤルヴィ』一家は、祖国を離れアメリカへ移住し、『パーヴォ・ヤルヴィ』は『カーティス音楽院』で指揮を学びました。巨匠『バーンシュタイン』の指導を受けたりしています。

『パーヴォ・ヤルヴィ』の才能はすぐに認められ、アメリカ(シンシナチ交響楽団)、ドイツ(フランクフルト放送交響楽団、ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン)、フランス(パリ管弦楽団)の音楽監督、芸術監督を務めることになり、今回『N響』の首席指揮者として招へいにつながりました。

『ソ連』時代の父親の苦悩、自由ながら実力主義のアメリカ、伝統が残る西欧を体験して、今度は異文化である日本文化へ触れることになります。

現在でも素晴らしい『パーヴォ・ヤルヴィ』の、人間や文明への洞察力が、更に日本を体験して深まっていくに違いありません。

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2016年2月19日 (金)

パーヴォ・ヤルヴィがやって来た(1)

前に『パーヴォ・ヤルヴィがN響にやってくる』というブログを書きました。 

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-ad15.html 

2015年9月に、『パーヴォ・ヤルヴィ』が『NHK交響楽団(N響)』の首席指揮者に就任することへの期待を述べました。 

梅爺がファンである『N響』の首席指揮者を世界的に注目を集める『パーヴォ・ヤルヴィ(エストニア出身)』が快く引き受けてくれたことへの驚き、喜び、期待をどうしても書きたかったからです。 

『N響』と『パーヴォ・ヤルヴィ』の組み合わせ演奏は初めてではありませんが、今度は客演指揮者でなく首席指揮者ですから、どのような結果をもたらすのだろうと、期待が高まる一方、『N響』の世界的評価もこれで更に高まることだろうと、こちらも期待が膨らみました。『N響』にとって『首席指揮者』という名称は初めてのポストです。『ハリルホジッチ』の監督就任で、日本のサッカーがどのように変わるのかといった期待と似ています。 

『N響』は、歴史的に、内外の有能、高名な指揮者を、正指揮者、常任指揮者、客演指揮者として多数迎え、その影響を受けて素晴らしいオーケストラとしての地位を維持してきましたから、『パーヴォ・ヤルヴィ』の『首席指揮者』就任も、その延長の出来事といえないことはありませんが、梅爺にとっては、大好きな『N響』と大好きな『パ-ヴォ・ヤルヴィ』の組み合わせは、特別なことなのです。 

少しでも音楽にかかわったことがある方なら、ご存知のように『指揮者』の音楽理解能力、それを表現する人間性は、オーケストラや合唱団の演奏を一変させてしまうほどの影響力を持つものなのです。 

昨今、世界的に、中南米出身の若手有能指揮者が登場して話題になっています。ヴェネゼラ出身の『グスターボ・ドゥダメル(35歳)』や、コロンビア出身の『アンドレス・オロスコ・エストラーダ(39歳)』などです。勿論その才能を梅爺は高く評価しますが、『指揮者』が成熟期を迎えるには、それ相応の音楽や人生の経験が必要であり、『パーヴォ・ヤルヴィ(54歳)』は円熟期と言えます。 

そして、ついに『パーヴォ・ヤルヴィ』がやってきて、『N響』との協演が始まりました。その演奏は梅爺の期待を裏切らないものでした。

首席指揮者としてのお披露目公演は、マーラーの『交響曲第二番(復活)』でしたが、その後フランス作曲家(ドビュッシー、ラベル、ベルリオーズ)の作品、リヒャルト・ッシュトラウスの作品、20世紀の作曲家(トゥール、ショスタコーヴィッチ、バルトーク)の作品をプログラムに組んで、幅広い可能性を予感させてくれる船出となりました。

勿論、日本の年末行事であるベートーベンの『交響曲第九番(合唱付き)』も、大編成オーケストラ、合唱団(国立音楽大学)で演奏されました。

今まで何度も『第九』を演奏してきた、『N響』の首席オーボエ奏者が、『演奏時間をがこんなに短く感じたことはない。新しい体験が楽しかった』と述べていますから、『パーヴォ・ヤルヴィ』効果が、始まっていることが分かります。

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2016年2月18日 (木)

Blessed is he who expects nothing, for he shall never be disappointed.

英語の諺『Blessed is he who expects nothing, for he shall never be disappointed.』の話です。

『何も望まない人は幸いである。決して失望することがないからである』という訳になり、論理的な表現としては肯けます。

この表現から、すぐに想起できるのは、キリストの有名な『山上の垂訓(マタイ伝第5章)』で、8つの『○○なるものはさいわいである』で構成されています。いわばキリストの教えの真髄、集大成とも言えるものです。『弱い人間に寄り添う神』という考えかたが伝わってきます。

(1) こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
(2) 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
(3) 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
(4) 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
(5) あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
(6) 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
(7) 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
(8) 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

上記の諺『Blessed is he who expects nothing, for he shall never be disappointed』は、18世紀の英国の詩人『アレキサンダー・ポープ』が、9番目の『山上の垂訓』に擬して作成した一文とされています。

キリストの『山上の垂訓』や、この諺からは、梅爺は『釈迦』の説く『煩悩の解脱』を想起してしまいます。キリストも釈迦も、死後の『天国(神の国)』『極楽』を保証するためではなく、『人間はどう生きるべきか』という『生きる』時の姿勢を説いているように感じます。

キリストは、『こうすれば神に祝福される』として『神』を救済者としていますが、釈迦は、『人間の中にある仏心と邪心(煩悩)のうち、邪心を抑制して仏心に近づきなさい』と説いています。つまり釈迦の場合は、第三者的な『神』ではなく、誰の中にもある『仏心』を重視しています。完全に煩悩を解脱(げだつ)して『仏心』だけの存在になった者が『仏』ということになります。

『Blessed is he who expects nothing, for he shall never be disappointed』は、一種の『煩悩の解脱』の境地を説いていることになります。

しかし、へそ曲がりな梅爺は、『煩悩』があることが、『人』が生きている証拠と考えています。『煩悩』だけを野放しにすることは慎まなければならないとしても、『煩悩』と付き合い、笑ったり、泣いたりすることが『生きる』ことなのではないかと考えています。

この諺のように、『失望しないために期待するな』ではなく、『失望することを覚悟して期待せよ』と言いたくなります。何しろ『煩悩』と付き合えるのは、生きている間だけなのですから。

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2016年2月17日 (水)

知性の拒絶と文明の終焉(4)

『文明は必ず衰退する。歴史的に衰退しなかった文明はない。しかし、過去においては、進歩の松明(たいまつ)は必ず他の地域へ継承されてきた。ところが、現在は、世界が一つの文明であるために、継承先が存在しない。このような事態は人類にとって初めてのことだ(現在の文明が滅びたら、人類の文明は終焉を迎える)』

このエッセイの著者は、最後に上記のように述べています。いかにもアメリカ人らしい、『自己中心』の考え方で、梅爺は、特に後段の論理は賛同できません。『アメリカの文明が現在世界を共通に支配していて、これが滅びたら人類の文明は滅びる』という論理であるからです。『文明』の定義にもよりますが、『現在の文明は一つ』という主張には無理があるように思います。政治、経済の大国の文明が、最も高度な文明であるとは限りません。

このように能天気な『自己認識』をするアメリカ人が多いために、アメリカは他国の顰蹙(ひんしゅく)を買うことになります。

経済的に、『アメリカ』は『No.1大国』の座をやがて『中国』へ渡すことになり、相対的に『アメリカ』の国力は衰退することはあろうと思いますが、それで世界の文明が終焉するなどということはありません。文明は色々な形態で、世界の各地で進化を続けるのではないでしょうか。

『人』や『人間社会』の本質を知るには、『科学知識』が必要であるというこの著者の論理には賛成ですが、『アメリカ』が大国でなくなると、世界の文明は滅びると言わんばかりの主張には、賛同できません。

科学知識を利用している度合が高ければ、文明のレベルが高いという観方も一面的すぎます。勿論それも文明の尺度の一つであるとは思いますが、多くの人が、個性を尊重しながら、肉体的、精神的に健全に生きていける社会の仕組みこそが、高度な文明社会なのではないでしょうか。

煎じつめれば、『個性的な個』と、『共通規律を必要とする全体』という避けがたい矛盾に、どのように対応するかという知恵の度合が文明のレベルを決めるのではないでしょうか。『民主主義』はこの知恵の一つです。

経済力で世界一の大国に『中国』がなっても、一党独裁で『党の都合を共通規律』として『個』に押し付ける仕組みが続く限り、高い文明国家の評価は得られないでしょう。『個の犠牲の上に全体を構築する』という対応は、一見効率よく見えますが、やがて、個の不満や、それ自体機能不全に陥ることで『崩壊』の運命をたどることは、歴史の先例が示しています。『欲しがりません勝つまでは』などと唱えて、『富国強兵』に邁進した『日本』も、沢山の人命を失い、国土を荒廃させる『敗戦』という高い代償を払うことになりました。品格を欠く『独裁者』が支配する社会などは、どう考えても長続きするはずがありません。

『日本』は文明のレベルで云えば、どの位置にあるのか、今後どのようにしていくのかを考えるのも、私たち『個(国民)』の責任です。洞察力に欠けた人がリーダーになってしまうという弊害は、色々な要素がありますが、選挙民の洞察力不足が大きな原因の一つです。その国の『政治リーダー』の資質は、その国の文明レベルを反映しているとも言えます。与野党の間の稚拙な議論を観ていると、『日本』は未だ文明の高い国と誇れるレベルではないように思えます。残念なことです。

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2016年2月16日 (火)

知性の拒絶と文明の終焉(3)

『物質世界』の『摂理』をもっと深く追求しようとすれば、細分化された『自然科学』の専門家同士が親密に交流する必要があることは、現代の常識になりつつあります。つまり『学際化』が求められています。 

『摂理』は、論理形式化された『数式』で表現できるということが現時点では矛盾なく分かっているために、究極の『摂理』を表現した『数式(神の数式と呼ばれる)』を確定しようと努力がなされています。『ニュートン』や『アインシュタイン』が見つけた『摂理』の一部を全て包含した『数式』を見つけようという試みです。 

『数学』『物理学(力学、熱力学、電磁気学、量子物理学)』『化学』『分子生物学』『天文学』『医学』『脳科学』などを総動員しないと、『ビッグ・バン』や『宇宙』は理解できませんし、『生命』や『脳』それに『ヒト』そのものも理解できません。 

問題は、現時点で各専門分野の先端知識が高度化しているために、他の専門分野を理解できる科学者が限定されるということです。勿論、梅爺のような凡人は、一つの専門分野さえも詳細に理解する能力を持ち合わせていません。『学際化』は言葉でいうのは簡単ですが、天才的な頭脳の持ち主でないと推進できないということが問題です。人類の将来に大きな影響を持つ『摂理』の解明に従事できる『人』は、70億人の人口の中の、一握りの人達であるということです。 

この一握りの優秀な科学者には、人間社会における『倫理観』の持ち主であると同時に、『先端科学の本質』を凡人にも分かるように噛み砕いて説明できる啓蒙者でもあるという資質が求められます。 

なぜならば、『政治』や『経済』は、『人』や『人で構成される人間社会』の特性が深く関与する分野ですから、『物質世界』の『摂理』に関する本質理解がどうしても必要になるからです。例えば、『摂理』が示唆する『ヒトは生物として宿命的に個性的にできている(同じ状況に遭遇しても、同じように考え、感じ、行動するとは限らない)』という本質を理解しなければ、『個性同士の確執が当然存在する社会』を『政治』や『経済』で治めることなどできないからです。 

このエッセイの著者が、『科学知識の必要性を認識しない政治家や国民は文明の進展を阻害し、暗黒時代へ逆戻りする危惧がある』と主張するのは、少し極端すぎるとは思いますが、『科学知識』の本質を知ろうとしない姿勢は、危険をはらんでいるということには、梅爺も賛成です。 

『人の本質は何か』『人間社会の本質は何か』を『科学知識』も含めて考えることができない人が、社会のリーダー、企業のリーダーになることは、不幸を招きかねません。 

今や、『政治』『経済』ばかりではなく、『宗教』『哲学』『芸術』さえも、『科学知識』とは無縁に存在できない時代になっているということではないでしょうか。 

哲学者が、『哲学』の分野だけに閉じこもって『自分は何故存在するのか』などと考えてみても、体系的な説明は期待できません。 

『物質世界』の『摂理』に支配されて『生かされている』生物としての『ヒト』が、脳の進化でやがて、必ずしも『摂理』に支配されることなく、自由な発想が可能な『精神世界(仮想世界)』を獲得した『人』になり、その『精神世界』の産物として、『政治』『経済』『科学』『宗教』『哲学』『芸術』『スポーツ』『娯楽』の仕組みを産みだしたと梅爺は考えています。『科学知識』を含めた『学際的』な思考ができないと、どの分野も深い理解ができないのではないでしょうか。

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2016年2月15日 (月)

知性の拒絶と文明の終焉(2)

『人』は自分の能力でしか判断できませんから、自分の理解を越えた事象に遭遇すると、『いかがわしいもの』と考えて拒絶しようとしたり、『見て見ぬふり』をして無視しようとしたり、理由もなく蔑(さげす)んだりします。 

『賢い人』には、これは『下司(げす)のツッパリ』と滑稽に見えますが、当人は自分の言動が滑稽であることさえ気づきません。賢い読者には、『梅爺閑話』は『下司のツッパリ』に見えているのかもしれません。 

このようなことが起こるのは、『自分が理解不足の劣った存在』であることを認めることは、『面白くない(不安)』と脳がストレスを感ずるからです。『人』は他人も自分と同じ程度であると思い込みがちです。自分は『Nothing(取るに足らない者)』ではなく『Something(ひとかどの者)』であると思っているからです。 

自分の理解を越えた事象に遭遇した場合、もう一つの対応方法は『信ずる』という行為です。『信ずる』ことで、『疑う』ことで生ずるストレスを取り去りますから、『安泰』を得ることができます。梅爺も自説を『信じて』得心します。『宗教』が『心の安らぎ』を提供するのは、このプロセスです。 

このエッセイの著者は、『下司のツッパリ』を恥じない人が社会のリーダーになったり、社会の多数派を占めた時の不幸な状態を危惧して、『アメリカ』の現状を憂いています。

人類の歴史を観れば、『下司のツッパリ』が幅を利かせた例は枚挙にいとまがありませんし、現在でも『北朝鮮』を例に挙げるまでもなく、そのような国家は多数存在します。

著者は、『キリスト教』を国教とした後の『ローマ帝国』における非キリスト教徒への弾圧、アレキサンドリアで起きたキリスト教徒による哲学者、数学者の処刑事件などを例に挙げています。文明は、外部の野蛮人の侵攻で滅びるのではなく、内部の『下司のツッパリ』の横行に依って滅びると論じています。

著者は『宗教』の持つ『メリット』より『デメリット』を危惧しているように感じました。現在の『アメリカ』の、自分たちは『善良なクリスチャン』であると思っている人達が、『知性の拒絶』の要因になっているという主張に見えるからです。アメリカ人の40%は『生物進化論』をうけいれることを拒否しているなどという話を聞くと、この危惧は思いすごしではないようにも感じます。

私たちが『学ぶ』のは、そこで得た知識を基に、判断のレベルを高めるためです。知識を増やすことは『学ぶ』目的ではなく、『考える』幅を広げる手段です。『福沢諭吉』が『学問のススメ』を著わしたのは、遠回りであるように見えて、それが『日本』を一流の国家にするための最善の策であると考えたからです。『高度な判断ができる国民を増やす』ことを最優先に考えました。知性を研ぎ澄ますことは、安易な理解で止まったり、考えることを怠って簡単に信じたりしないために必要なことであるからです。

自分は『下司のツッパリ』をしていないかと、自分を冷静に眺めることができる人は、大人(たいじん)です。梅爺は自信がないまでも、そうありたいと願っています。

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2016年2月14日 (日)

知性の拒絶と文明の終焉(1)

『What Should we be worried anout?(我々は何を懸念すべきか)』というオムニ・エッセイ集の19番目の話題は『The rise of anti-intellectualism and the end of progress(反知性主義の台頭と進歩の終焉)』です。

著者は、アメリカのメディア関連企業のCEOである『Tim O'reily』です。

科学技術が急速に進み、やがて人類は、SF小説のような『サイボーグ(脳や肉体を科学の力で人工的に強化した存在)』となって『新人類』の時代がやってくるという『Singularity(特異点を越える)』の説までは信じなくても、現代の多くの『テクノ・エリート』達は、科学や経済は、限りなく成長を続けるという考え方を、当然のように受け止めている、と著者は書いています。

梅爺は、『テクノ・エリート』ではありませんが、『物質世界』の『摂理』を究明する科学は、進歩を続けると予想しています。しかし、経済がいつまでも右肩上がりで成長するかどうかについては懐疑的です。

経済成長が社会を活性化させる要因であることは過去の歴史がそれを物語っていますが、70億人を越えた地球の人口が生き残るためには、経済成長のない世界で生きる知恵を新たに見つけなければならないように感じています。

日本でも『里山経済主義』などといった、自給自足の環境を評価する主張がありますが、一理ある主張と思います。経済大国の夢を捨てろというのは、日本人には過酷なことかもしれませんが、老齢化と人口減少は容赦なく襲いかかってきます。豊かな精神生活は保持しながらつつましい暮らしをするのが賢いのではないでしょうか。

技術革新は続いているとはいえ、地球規模の『気候変動』『資源枯渇』『エネルギー不足』『食料不足』『飲料水不足』などを、たちどころに解決する方法は未だ見つかっていませんから、人々が『生きる』ためにさらされるストレスが増大し、多くの人が反動として、『科学や知性』に反感を抱くようになり、1000年続いてきた西欧の文明は終焉し、新しい『暗黒時代』へ移行するのではないかというのが著者の懸念事項です。

私たちが現在直面している問題に、『科学知識と知性』で正面から取り組むという意志や予測能力に欠けてはいないかという問題提起です。

中世の暗黒時代は、確かに『知性』を拒否し、『宗教的原理主義』が支配した時代でした。『教義』に反するものは全て『異端』として、排除、処刑されました。

もっとも、現在でも中国や北朝鮮では、権力闘争のなかで『異端』摘発、排除、処刑が白昼堂々と行われていますので、中世だけが問題ではありません。

著者は、中国や北朝鮮ではなく、アメリカのような先進国の『反知性主義』の台頭を問題にしています。

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2016年2月13日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『遊びとカーニバル』(6)

『宗教』はもともと『祀り(祭)』と密接な関係がありますから、『カーニバライゼーション』の色彩が強くなるのは当然のことです。

壮大で絢爛豪華なヨーロッパの大聖堂で、これまた豪華な衣装の枢機卿やら大司教がとり行う、形式ばった儀式(ミサ)を観れば、『ルター』や『カルヴァン』でなくても、『これが本当にキリストやパウロが求めたことなのか』と疑問を呈したくなります。

大聖堂内の空間は、庶民にとって『非日常体験』であり、圧倒的な『権威』を感じ、相対的に自分の『小さな存在』を思い知ることにはなりますが、『神との関係』を築くのに、このような人工的な環境がふさわしいとは思えません。むしろ、『アボリジニ』や『アメリカン・インデアン』のように、大自然の中で『神と一体』となろうとする儀式の方が、人間の本性に近いように梅爺は感じます。

『神への祈願』『神を鎮める』ための『祀り』は、やがて、人々を日常のストレスから解放する『祭』へと変容を遂げました。しかし人々は『祭はいつまでも続かない』ことを知っており、『祭の後』の空しさを味わいますが、それでも、『次の祭』を期待し、胸に思い描いて日常へ立ち戻っていきます。

何故人間社会から『遊び』や『祭(カーニバル)』がなくならないのかを考えると、それが人間の本性に深く根ざしていることが見えてきます。

『理性』だけで考えると、エネルギーや金の無駄にみえる『遊び』や『祭』を現実には必要とするということは、『理性』だけで『人』は論じられないことを示唆しています。

『人』は『日常』を維持継続することが『安泰』と感じ、変化を忌避する保守的な習性があると同時に、『非日常』の中にもっと大きな『安泰』があるのではないかと好奇心をもつ習性も持ち合わせています。

『空想癖が強い人』『無鉄砲な冒険に身を投ずる人』と極端な人も中にはいますが、多くの人は、『変化を好まない』『変化を望む』という矛盾の間を右往左往しながら、綱渡りのように生きています。『安泰を希求する』本質は同じですが、『変化が無い』方が『安泰』なのか、『変化を受け容れた』方がより『安泰』なのか、『分からない(即座に判断できない)』からです。

世の中の事象で、『真偽』の判別ができるのは、『科学』が対象とする事象だけで、多くは『どちらが正しい』『どちらが有利』と客観的な判断はできません。

『人』が『精神世界』で考え出した『正しい』『美しい』などという抽象概念は、相対的な判断しかできないことを理解する必要があります。つまり『普遍的に正しい答』は存在しないと覚悟する必要がありますが、『物事には必ず正しい答がある』と思い込んでおられる方が多いように梅爺は感じています。

また生物としての『ヒト』は、生きていくために適度な『ストレス』を必要とするという原則も理解する必要があります。『遊び』や『祭』は、適度なストレスのバランスを取るために必要な行為とみれば、その存在意義が見えてきます。

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2016年2月12日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『遊びとカーニバル』(5)

『スポーツ』が『祭』と結びついて、『商業主義』の対象になっていることは、誰の目にも明らかで、背後に多くの『利権』が関与します。時に、国際サッカー連盟のような『賄賂』事件が発覚したりします。

観客は、身の安全が保障されている観客席やテレビの前に陣取り、他人の『闘いと勝負の行方』を好奇心で身守ります。『安泰』と『好奇心』が同時に満たされるわけですから、人々が飛びつかないわけはありません。『スポーツ』は、人間の習性をうまく利用するビジネスとしては、最適な条件を備えています。

古代ローマの為政者は、闘技場をつくって、『闘い』を見世物として市民へ提供しました。為政者は、人々に『パン(小麦粉)とサーカス(闘技場での見世物)』を与えておけば、従順な市民になることを洞察していたからです。

『ウンベルト・エーコ』の指摘をまつまでもなく、『プロ・スポーツ』は『商業主義』で『カーニバライゼーション』そのものの様相を呈しています。『サポーター』は自分の意思で贔屓(ひいき)のチームの応援に参加していると思っているのでしょうが、客観的には『商業主義』に踊らされているようにも見えます。日本のプロ野球で、ホームチームの7階の裏の攻撃時に、無数のゴム風船が宙に舞う光景などは異様ですが、商業主義はこれをちゃっかり『当たり前』のことに変えてしまっています。

『政治』の分野にも『カーニバライゼーション』は忍び込みます。独裁者が、権力を示すために、軍事パレードを行い、バルコニーから手を振って民衆の歓呼に応えるなどという光景が典型的です。

アメリカの大統領選挙の時に開催される、民主党、共和党の党大会などは、どうみても『お祭り』そのものです。

テレビで国会の様子や、党首討論会が中継放映されるようになると、『見世物』の様相が強まり、討論の中身より、外見や振舞いを視聴者は評価の対象にしたりするようになります。『ウンベルト・エーコ』は、『首相は首相らしい衣装を身につけることで、首相と認められる日が来る』と皮肉っています。

首相の背後には、『スタイリスト』や『演説原稿代筆者』がいて、立ち居振る舞いから話す内容まで『指導』しているわけですから、私たちにとって首相の実像を見抜くことは易しくありません。『カーニバライゼーション』によって、かぶっている仮面の下の素顔が分かりにくくなったということです。

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2016年2月11日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『遊びとカーニバル』(4)

人間社会のあらゆる側面に、『遊び』『祭(ウンベルト・エーコの造語に依ればカーニバライゼーション)』の要素が入り込んでくる背景は、ストレス解放の目的で、多くの人がそれを潜在意識で求めるからというのが、梅爺の推測です。

現代は、周囲に情報が満ち溢れ、変化の速度が増し、競争激化の時代ですから、昔に比べて格段にストレスを多く、その分『遊び』への逃避を求める度合が高まっていると言ってよいでしょう。『里山でのゆったりした生活』は昔は常態でしたが、今はむしろ珍しい生活様式の一つになり、ストレスから逃れようとする人の逃避希望先になっています。

『ウンベルト・エーコ』はこのような因果関係を指摘すること無く、ただ『スポーツ』『政治』『宗教』に『カーニバライゼーション』がどのように組み込まれているかを、事象として紹介しています。ただ、これら過度の『カーニバライゼーション』は人間にとって必ずしも好ましくないというニュアンスが込められています。

過度の『カーニバライゼーション』が好ましくないのは、『日常』と『祭』の区別ができない人達が出現することでしょう。『毎日が祭』では、世の中は成り立ちません。昔の人は、『汗水流す日常』と『憂さ晴らし、無礼講の祭』とを区別していたからこそ、『祭』を『ハレの日』にできたのでしょう。

『祭が日常』と逆転してしまうと、『汗水流す労苦』に耐えられない人達が出現しかねません。昔の人は『労苦』と『遊び(祭)』の節度あるバランスをわきまえていて、生きることの主体は『労苦』であることを是認していたのではないでしょうか。

もう一つ過度の『カーニバライゼーション』が好ましくないのは、『カーニバライゼーション』が商業主義の手段として利用されることです。世の中には、抜け目のない人が沢山いて、『カーニバライゼーション』を煽って、大儲けをすることになります。何もない所に、需要を創りだし、巨大な市場を形成してしまうのですから、魔法のような手法です。

『クリスマスにはツリーを飾り、ケーキを食べ、プレゼントを交換する』『ハローウィンにはインテリアで飾り、仮装して街へ出る』『節分には恵方巻を食べる』のが当然と吹き込まれた人達は、『そうせざるを得ない』と思い込み、お金を使うことになります。

元々『商業主義』は人間の習性をうまく利用して、需要を喚起するものですが、『カーニバライゼーション』は、もっとも『商業主義』がつけ込みやすい分野かもしれません。だれも『騙された』とは思わず、『祭』へ参加できたことに満足するわけですから、実に巧妙な話です。疑い深い梅爺でさえも、度々『商業主義』に踊らされながら生きています。

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2016年2月10日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『遊びとカーニバル』(3)

幼児はもの心つくと同時に、周囲を好奇心で観るようになり、触ったりつかんだ入り、時にはかじってみたりします。大人には、『遊び』として見えるこれらの行為は、幼児にとっては、効率の良い『脳神経細胞ネットワーク』を形成していくための重要なプロセスであると、最近の脳科学は説明しています。この体験で、大人になった時に必要な能力や、運動神経の基礎を育んでいることになります。動物の子供が『じゃれる』のも同じことです。

幼児は全てを『遊び』の対象にしますから、玩具(おもちゃ)は必要不可欠ではありませんが、良い玩具は、非常に効果的であることは確かです。幼児の好奇心がいつまでも続くのが良い玩具で、積み木や『レゴ』などは、立体形状の認識、創造性などを育成するのに最適です。大人の判断で玩具を選んだり、多量な玩具を与えても、必ずしも良い成果にはつながりません。

幼児や、動物の子供のしぐさを観て、大人が『可愛い』と感ずるのは、何故なのでしょう。脳の中で、『快感、安らぎ』を呼び起こすホルモンで分泌されていることになりますが、多分ひ弱な幼児を、虐待せず大切に保護し育てるための本能を喚起するためではないでしょうか。『母性本能』なども、これと同じと脳科学は説明しています。『科学』はこのように、『母性本能』の正体を、ある種のホルモンと特定します。『精神世界』は、実は『物質世界』の基盤の上に成り立っていることを示す定型的な例です。

大人になると『遊び』の内容が、幼児とは少し変わってきます。勿論、好奇心を満たすための幼児と同様な体験も残りますが、それ以外に、『賭けごと』『勝負ごと』『おしゃれをすること』『非日常的な体験志向』などと『遊び』の幅が広がります。

『科学者』や『芸術家』は、ある意味で大人になっても幼児のような好奇心や感性を保持している人といえないことはありません。梅爺の野次馬精神もこれに属します。

大人の『遊び』は、日常的に『生きる』ことで蓄積されたストレスからの解放のために、脳が本能的に求める行為なのではないでしょうか。梅爺が何度もブログに書いてきた『安泰を希求する本能』が背景にあるように思います。

『旅』や『祭』は、『非日常的な体験志向』の代表で、ディズニー・ランドなどのアミューズメント・パークもこの目的で提供されています。

『理性』だけで考えると、『旅』『祭』『ディズニ・ーランド』は、時間と金の無駄ということになりますが、ストレスを開放し、新たに『生きる』ことへ立ち向かうために、これらは重要な役割を果たすことになります。

人々が『祭』に執着するのはこのためで、宗教的な行事としての意味が希薄になっても、魅力が失せないのは、このためと思われます。日本人が、『クリスマス』『ハローウィーン』などにも反応するのも、『非日常的な体験』ができれば、何でも良いということに他なりません。ストレスをうまく発散させることは、健全に『生きる』上で重要なことなのです。

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2016年2月 9日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『遊びとカーニバル』(2)

地球上のどの民族、部族にも、『祭』の風習があるのは興味深いことです。『祭』の大半は元々『宗教的な行事』に端を発していることも共通です。

つまり『祭』は『祀り』であるということです。『政治』を『まつりごと』というのも、元々人間社会を統率することは、『神の意図』をとり行うことであったことの名残です。古代においては『生きる』事の全てに、『神』が関与していたことを現代の私たちは理解しなければなりません。

古代の人々は、周囲の自然現象など自分たちではどうにもならない『大きな力』が支配していると体感し、その支配の根源を『神(神々)』という概念でとらえ、『神(神々)』が自分たちにとって不都合な振舞いをしないように、ご機嫌伺いするための行事として『祭(祀り)』を行いました。日本の古代社会では『鎮(しず)める』という言葉が使われました。

少々脇道に逸れますが、原始的な人間社会で『神々』は、『人間にとって、不都合なことも、都合の良いことも行う、得体の知れない怖ろしい存在』であったのではないでしょうか。

『ヒンドゥー教』の『神』は、『創造と破壊の神』ですから、この考え方は現代にまで踏襲されています。

『旧約聖書』に登場するユダヤ教の『神(ヤーヴェ)』も、しばしば『神』の意に反した『人間の振舞い』に『怒り』、懲罰のための殺戮を行ったりします。とても、『慈愛に満ち、救済してくださる神』という後世キリスト教が確立した『神』の概念とは、相容れないように見えます。キリスト教では『神』を善良の象徴としたために、邪悪の象徴の『悪魔』という概念が対極として必要になったのではないでしょうか。

大体、『神が人間を創造した』のなら、何故『神の意に反する行為を行う』ような人間を創ったのかという素朴な疑問が残ります。『従順な人間』として創っておけば、『神が怒る』ことなど必要ないからです。『キリスト』が人々の罪を一手に背負って十字架にかかる必要も無かったのにと、畏れ多いことを考えてしまいます。

どんなに『お願い』しても、天災が襲ってくる現実に人々は戸惑い、『神の意図に反した行いをする人間を罰するため』という因果関係を思いつき、その考えを踏襲してきました。『祟(たた)り』であるとして、人間側にその原因があるという論理になります。キリスト教の『原罪』などという高尚な概念も、基本的にはこの発想ではないでしょうか。『生きるためには罪深いことを繰り返さなければならない』『赦しや救いは神にお願いするしかない』という論理になります。

『祀り』は、『神々』に喜んでいただくために、供物(食べ物、酒)、歌、踊りを奉納する行事でした。人々は、ご相伴にあずかって、この時ばかりは、着飾って美味しいものを食べ、酒を飲み、歌い踊りに酔いしれたのでしょう。これが『祭』の原点なのでしょう。

自然現象は、『神々』の意図の反映ではないことが判明した現代でも、『祭』が多くの人々を惹きつけるのは何故かが次なる疑問です。『精神世界』にとって、『祭』は、宗教的な意味が無くても、必要とする要因が存在すると考えざるを得ません。

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2016年2月 8日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『遊びとカーニバル』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning back the clock(時を遡る)』の7番目の話題は、『From Play to Carnival』です。 

20世紀の中ごろ、哲学者『ホイジンガ』は、『人間』の本質を『ホモ・ルーベンス(遊ぶ人)』と表現しました。 

『ウンベルト・エーコ』も、『人間』の本質的習性は、『食べる』『寝る』『愛する』『知る(知識を求める)』それに『遊ぶ』であることは認めています。 

しかし、『遊ぶ』という行為を定義することは易しくありません。反対を意味する言葉は『働く』であるとしても、働かずに『怠(なま)ける』は必ずしも『遊ぶ』とは同じことを意味しないように思えます。『遊ぶ』は人間にとってポジティブな行為のような気がします。

地球上の、どの部族も、未開人種といわれる人達も、必ず何らかの『神』を意味する概念を保有していて、更に『祭』の風習も保有しています。

独裁者が支配する国でも、『祭』が禁止されることはあまりないところをみると、一気に人々のエネルギーやストレスを発散させる行事は、独裁者にとっても都合の良い事なのかもしれません。しかし、ちゃっかり独裁者を賛美するパレードを仕組んだりしますから、『祭』をしたたかに利用していることも確かです。

『祭』を『遊び』の一種とみなすかどうかは、議論がありそうですが、『ウンベルト・エーコ』は『カーニバル』を『遊び』としてこのエッセイを綴っていますので、ここでは、それを前提に感想を書きます。

『ウンベルト・エーコ』は、『カーニバル』を『遊び』の『様式化』ととらえ、『カーニバライゼーション(Carnivalization)』という造語で表現しています。

現代社会では、生活のあらゆる局面に『カーニバライゼーション』が取り込まれているというのが、エッセイの趣旨です。

家庭生活、職場生活、スポーツ、政治、そして宗教にさえも『カーニバライゼーション』が浸透していると評論しています。

そして『カーニバライゼーション』は、欲望を満たすためのものではなく、欲望を更に助長するものであると喝破しています。欲望には限界が無いという鋭い洞察です。

つまり『カーニバライゼーション』の浸透が続けば、どんどん人間社会は欲望だけを追い求めて、好ましくない状況になることを示唆し、あからさまではないにせよ『カーニバライゼーション』に批判的な態度がうかがえます。

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2016年2月 7日 (日)

神は弱さの中にある(4)

『聖書』に紹介されている『キリスト』の言動の多くが、徹底して『弱い立場の人』に身を低くして寄り添おうとするものであることが、読む人に感銘をあたえます。『良きサマリア人』や『迷える子羊を探す羊飼い(100匹の羊の群れの中の1匹の子羊が迷った時に助けにいく羊飼いの話)』などの例え話も有名です。 

『十字架の死』は、人々の罪を一身に背負って、『神』の赦しを乞うための行為であったという解釈が、こうして生まれました。 

『釈迦』は『愛』さえも『煩悩』の一つとして断ちきることを求めましたが、『キリスト』は、『愛』を全てに及ぼすことの大切さを説きました。このことで『釈迦』は冷淡、『キリスト』は温厚などと表面的な判断を下すのは、皮相的にすぎます。 

『釈迦』は『己を愛する心』を煩悩(欲)としていさめているのに対し、『キリスト』は『多を愛する心』を重視していると考えれば、結局同じことを云おうとしているのではないかと気づきます。 

人間にとって『煩悩』から解脱する事も、周囲の全てを『愛する』ことも、現実には不可能です。『釈迦』も『キリスト』も、例外的にそれを可能としたという点で、究極の理想像として崇められ続けてきたことになります。

『理性』による抑制を少しでも怠れば、私たちは、『自己中心』になり、他人と自分を比較して、自分が優っていれば驕(おご)り、劣っていれば妬(ねた)むことになりかねません。『他人の不幸は蜜の味』などという表現は、おぞましいと思いながら、そのように感ずる自分に思い当たることもないわけではありません。

『神』という『絶対者』を想定して、『自分は罪深い存在』と畏れ入るのも、一つの生き方ですが、生物として生き残りのために『安泰を希求する本能』を基盤に進化してきた事実は、自分では曲げられません。

『精神世界』が『仏心』と『邪心』という矛盾したもので構成されているばかりでなく、肉体も命を維持するために、他の生物の『命』を奪うことを余儀なくされます。

『そのように創られているのであるからしかたがない』と居直ることは賢明ではありませんが、少なくても実状を認めて、謙虚になることは大切なような気がします。日本の文化では、『いろはカルタ』のように、自分を『諧謔』の対象にして、笑い飛ばしてしまうところがありますが、自分を客観視する方法として、うまい対応方法であると梅爺は気に入っています。

人間は、『自』と、周囲(集団)の『他』との兼ね合いを、どのように保つかということの、絶対的な規範を持ち合わせていません。これも、生物進化の過程で、一人一人が個性的であるようなしくみを採用してきたからです。個性的でありながら、集団で生きるという習性も採用したために、集団の約束事を守るためには、非個性的になる必要があるという、これまた大きな矛盾を抱えているからです。

この矛盾に対応する一つの方法が、『己の弱さを認め、それを正直に表現する』ことであるという主張に異論はありません。本来個性的な『個』と『個』が、いがみ合わずに『絆』を形成するには、よい知恵であるからです。『神は弱さの中にある』というより、『弱さを認めることは、人間関係を円滑にするための素晴らしい人間の知恵である』と梅爺は感じます。

なんとも罰当たりのようでもありますが、梅爺の個性的な『精神世界』がそのように『考える、感ずる』わけですから、ご容赦いただくしかありません。

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2016年2月 6日 (土)

神は弱さの中にあり(3)

『人』の『精神世界』は、生物進化の過程で高度化してきました。根底にあるものは『安泰を最優先する(希求する)本能』であろうと梅爺は推測しています。『安泰』が『生き残りの確率を高める』ことに重要な要素であり続けたからです。当然この本能が現在の私たちをも強く支配しています。

こう考えると、人間の中に何故『仏心と邪心』というような矛盾するように見えるものが存在するのかなどという哲学的、宗教的疑問もたちどころに氷解します。

『仏心と邪心』は、『安泰を最優先する』ための言動の表裏に過ぎません。つまり、自分の安泰を『利己』に求めれば『邪心』になりやすく、『利他』に求めれば『仏心』になりやすいということに他なりません。

『釈迦』は『邪心』を『煩悩』と表現し、『己の中に煩悩があることを認めた上で、それを排除(解脱)し、仏心だけの身になれるように努力(修行)しなさい』と説きました。そして『釈迦』自身は、煩悩を解脱することに成功したと伝えられています。言い換えると、人は誰でも『仏心』だけの存在(仏)になれる可能性を秘めているという教えになります。人の内に『仏』を肯定する仏教と、人の外に『神』を想定した一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)とは、決定的に異なります。一神教では、人は聖人や予言者になれても『神』にはなれません。『キリスト』は、例外的に『神が人の姿で現れたもの』という表現になります。

『釈迦』は『解脱に成功した』という点で例外であり、『キリスト』は『神が人間の形で現れた』という点で例外であるということになります。実在の人間で『如来』になったのは『釈迦』だけで、他の『如来』『菩薩』『明王』『天』も、元は実在の人間であったという話は聞いたことがありません。同じく、『キリスト』以外に『神』が人間になって現れた例は聞いたことがありません。最も、『自分は神の化身である』と自称した人間は、歴史上沢山いますが、それらはインチキであるという前提での話です。

この番組で、木原教授が説くように、『己の弱さを認め、それを正直に表現する』ことが、何故『相手の心を開く』ことになるのかは、相手の『精神世界』も『安泰を最優先する』からに他なりません。

つまり、強者が、強者の理論で、自分を支配しようとしていると『感じた』時に、人は『安泰が損なわれる』と判断し、警戒して、逃避するか、身を閉じて防御しようとすることになります。逆に『弱さ』を認め、それを正直に表現する他人に対しては、人は自分の『安泰』は危険にさらされていないと判断し、心を開いて対応しようとすることになります。自分を高みにおいて、相手を説き伏せようとしても逆効果になることがあるということに他なりません。

他人と心を開いて対応できる状況は『絆や愛の確認』ともなり、そこに『神』の恵みが宿ると感じ、感謝するというクリスチャンの説明に、梅爺は異論をはさむつもりはありませんが、『絆や愛の確認』は、人の『精神世界』の習性が関与する相互作用として、論理的に説明できるということを申しあげたかっただけです。

『弱さの中に神がある』ということを、畏れ多いと知りながら云いかえれば『弱さは時として神を必要とする』ということにになるのではないでしょうか。

『神』が『安泰(心の安らぎ)』を保証して下さるのではなく、『安泰(心の安らぎ)』を得るために、人は『神』を必要とするのではないかと、罰当たりの梅爺は考えています。

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2016年2月 5日 (金)

神は弱さの中にあり(2)

『己の弱さを自覚し、それを正直に表現する時、神は寄り添ってくださる』という木原教授のご主張は、当然ながらクリスチャンとしての発想です。 

『神』を『仏』に変えれば、仏教徒にも得心がいく表現になります。 

梅爺のように、信仰心が薄く、『人間』を、『物質世界に存在する生物として摂理に支配されるヒト』『進化した脳が創りだす精神世界を保有する人』というような理解でとらえようとする人間が、同じことを表現すれば、『己の弱さを自覚し、それを正直に表現すれば、他人もこころを開いてこちらへ近づいてきてくれることが多い』ということになります。 

つまり、『己の弱さを自覚し、それを正直に表現する』ことは、『人』が生きる上で、人間関係を円滑にするという重要な意味を持つという視点では、クリスチャンも仏教徒も、梅爺のような信仰心の薄い人間も、同じであるということです。 

その大切さは、特別に『神』や『仏』を持ちださなくとも、説明できるような気がします。梅爺は、クリスチャンや仏教徒である必要が無いと言っているのではありません。メッセージが持つ本質的な意義は、クリスチャンや仏教徒でなくとも、説明が可能で受け容れる事が出来ると申し上げたいだけです。勿論梅爺の解釈が『正しい』などと主張するつもりもありません。 

『精神世界』は個性的であり、人は異なった価値観を保有していることを認めた上で、それでも『本質の理解』を他人同士が共有できる可能性を秘めていると梅爺は考えています。これこそが人間の素晴らしさの一つと言えます。 

木原教授は、当然ながら全て周囲の事象を、『神』との関連で理解しようとなされます。梅爺は、同じ事象を、『生物としてのヒト』『進化した精神世界を保有する人』という視点で理解しようとします。折角人類が獲得した科学知識も総動員して、学際的に『人間』を理解する時代になったと考えるからです。従来のように、『哲学』『宗教』『芸術』だけの限られた範囲で『人間』を論ずるのとは、全く異なった理解が得られ、その方が理性で矛盾なく得心できると考えています。 

梅爺は、『神』は『宗教』が教えるような絶対的な存在ではなく、『人』の『精神世界』が必要と考えて創りだした『抽象概念』であると畏れ多くも推察しています。『愛』や『正義』も同様な『抽象概念』であると考えています。

木原教授は、ご自身の親子の対話、福祉の現場における福祉を必要とする弱い立場の方々との対話を例に挙げ、『己の弱さを自覚し、それを正直に表現した時』に、相手がこころを開いて自分を受け容れてくれる体験を話されました。そして、聖書の中に記された『キリスト』や『パウロ』の言動を引用し、『心が通う』ことの中に『神の愛』を痛感したと述べておられます。

確かに、『キリスト』の言動、『パウロ』の書簡の言葉は、『心の貧しい者』が、『神』の愛の対象になることを繰り返し教えています。人間の本質を洞察するという意味で、『キリスト』や『パウロ』が卓越した思想家であったことは間違いありません。当時の人達にとっては、科学知識は乏しいものでしたから、『人間』の複雑さは、『神』との関係で説明するのが、最も理解しやすいものであったのでしょう。強者を勝者とせず、弱者を真の勝者(神の愛を勝ち得る)とする逆説的な主張は、現代にも通ずる極めて哲学的なものです。

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2016年2月 4日 (木)

神は弱さの中にあり(1)

NHK地上波教育チャンネルで放映された、『こころの時代~宗教・人生~神は弱さの中にあり』を録画してみました。

偶然番組表のタイトルが目にとまり、好奇心で録画しましたから、事前の知識は全くありませんでした。

社会福祉を専門とされる、同志社大学の『木原活信』教授へのインタビューで番組は構成されていて、『弱さを自覚し、正直に表現する人に神は寄り添ってくださる』という趣旨の話が、何度も繰り返される内容でした。

木原教授は、敬虔なクリスチャンの両親を持つ家庭に育ち、同志社大学卒業(博士課程)後、カナダのトロント大学へ研究員留学された経歴の持ち主で、むろんご自身もクリスチャン(プロテスタント)です。

同志社大学が『新島襄』設立の大学であることは勿論、梅爺も知っていますが、キリスト教のどの宗派に属するのか詳しく調べようと、インターネット検索してみて、日本には、想像以上の『キリスト教主義』を掲げる大学が多いことに驚きました。大雑把にいえば、プロテスタント系で60校、カソリック系で30校があります。プロテスタント系が多いのは、そもそも宗派が多いことと、特に宗派が多いアメリカの援助で設立されたためと思われます。

明治維新で日本が開国した時に、欧米人は日本の文化レベルの高さに気付き、キリスト教宗派の各派が、こぞって伝道(ミッション)目的の拠点とするために学校を設立しようとしたことが背景にあるのではないでしょうか。

日本の多くの若者も、新しく触れたキリスト教を『先進の思想』として受け止め、これに傾倒していきました。

欧米のキリスト教各派にとっては、未開文明の地へ布教するのとは異なり、高度な異文化を既に保有している『日本』へ布教することは、新しい試みでもあり、前例のない経験であったのではないでしょうか。明治維新の直後、第二次世界大戦敗戦直後に、『日本』が示した反応は、極めて『日本』独特のものであり、同様な状況で他国が『日本』のように反応するとは限りません。

『サダム・フセイン』さえ排除すれば、『イラク』は民主国家へ変わると予想したブッシュ大統領のあては外れました。『イラク』と『日本』の違いが洞察できなかったブッシュ大統領は、お粗末以外のなにものでもありません。

『日本』の特質の一つが、平均的な教育レベルの高さ、民度の高さにあることを、私たち日本人は誇ってもよいのでないでしょうか。しかし、『日本』がその特質を活かすには、日本人自身がもっと『異文化』を理解する必要があります。外国人に『日本』の良さを見つけてもらうのではなく、日本人が自らそれを意識して提示できるようになることが好ましいからです。

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2016年2月 3日 (水)

技術革新抑制の是非(4)

このエッセイでは、自動運転機能つきの自動車が普及した場合を例に挙げています。自動運転機能付き自動車の開発は、各社がしのぎを削っており、現時点では、危険回避の機能が主流で実現しつつありますが、やがて行き先をインプットすれば、目的地まで人間は何もしなくて到達できるようになる日も近いと予測されています。

これが実現すれば、社会的には自動車による交通事故が激減することになりますが、一方『個人』は、自分の居場所が、外部のシステムに完全に掌握されていることに、つまり『プライバシー』を保てないことに、不満、不安を抱くことになり、交通事故に遭遇するリスクが高いことを承知の上で、人々はシステムを利用せずに自ら運転することを選択するかもしれないと筆者は予測しています。『個』の都合と『全体』の都合は矛盾するという典型例です。

『急速な技術革新は、人間にとって必ずしも良いこととは言えない。そのことを懸念する』と言いたいのは分かりますが、表面的な事象を例に挙げるに止まっていて、『人間』と『技術』の関係の本質の洞察が浅いと梅爺は感じました。

誰もが『戦争に巻き込まれることを懸念する』のは当然ですが、『戦争反対』と叫べば戦争が回避できるわけではないことと似ています。『フランス国歌』の歌詞は『市民よ、武器を持って立ち上がれ、汚れた侵略者の血を我らの畑に吸わせろ』などと、穏やかならぬ内容です。フランス国民も、もちろん『戦争反対』に違いありませんが、一方現実的に『侵略者とは戦わねばならないことがある』と是認しているように見えます。人間社会から犯罪者を無くすことができないように、人間社会から戦争を起こす人をなくす知恵を人類は獲得していません。現にお隣の『将軍様』は、ミサイルや核兵器の開発に熱心です。

従来技術を応用した『モノ』は、『人』にとって『道具』でした。つまり『人』が主人公で、主体性を維持して『道具』を用いていました。しかし、昨今の先端技術、とくに『情報通信技術』『ロボット技術』『遺伝子操作技術』『ナノ領域物質操作技術』などは、うかうかしていると、『人』の主体性を奪いかねないレベルにまでになっています。

『道具が便利だ』などと喜んでいて気がつくと、『道具』が『人』を支配する関係になってしまっている危険性があります。

『技術革新のスピードを抑制する』ことが懸念事項ではなく、『道具』のために『人』が主体性を知らず知らずに放棄しようとしていることが本当の懸念事項なのではないでしょうか。

『科学』や『技術』は、『人』の好奇心が原動力で進みますから、抑制は難しいと思います。問題は、『技術』に対応する時に、自分の主体性を放棄するかどうかを、一人一人が考える必要があるということです。自分を棚に上げて『科学』や『技術』を悪者にしてもはじまりません。

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2016年2月 2日 (火)

技術革新抑制の是非(3)

人間は『物質世界』の『摂理』の一部(物理法則、化学法則、数学法則)を発見し、その『摂理』を応用した『技術』で、自然界には、存在しない『モノ』『道具』を沢山創りだしてきました。

『モノ』『道具』は、利便性、作業効率を高め、生活は豊かになりました。しかし『モノ』『道具』を利用することは、必ずと言ってよいほど『好ましい結果』と『好ましくない結果』の両面があります。『兵器』のように、そもそも『破壊』『殺人』の目的で創られるものは論外として、『包丁』は料理には欠かせませんが、一方で殺人凶器にもなります。

文明社会では、職業の分業化が進み、『モノ』『道具』は専門家が提供するようになりました。当然『経済』のしくみが同時にできあがり、『生産者』『購買者(消費者)』の区分、『需要』と『供給』の関係が出現しました。

『生産者』は、有体(ありてい)に言ってしまえば、『金儲け』を目的に『モノ』『道具』を創り、提供するわけですから、『好ましい結果(都合の良い結果)』だけを喧伝する『広告』のテクニックも巧みになりました。

『マーケティング』などというとカッコイイ仕事のように聞こえますが、要は『いつどこで誰にどのように売れば金儲けできるか』を予測しているに過ぎません。

専門知識を持たない『購買者、消費者』は、『広告』の甘言に乗せられて、不要なもの、有害なものを買ってしまうことにもなりかねません。『広告倫理』などという社会の約束事はありますが、よほど注意しないと騙されます。

テレビショッピング広告で、有名人や消費者の代表が、『これは便利です。これは効きます』と笑顔で話しかけてくる画面の隅に、小さな字で『これは個人的な感想です』などと書いてあるのをみて、梅爺は笑ってしまいます。このコメントの掲載で広告主は『広告倫理』を遵守したと主張するわけですから。

技術革新がものすごいスピードで進み、更に沢山の『モノ』『道具』が提供されるようになりました。性質(たち)の悪い『生産者』が、悪質な『広告』で『粗悪品』を売り込もうとするケースや、仮に良心的な『モノ』『道具』であっても、使い方に依って思いもよらない『好ましくない結果』が生ずるケースも、当然増えることになりました。

このような状況では、賢い『購買者、消費者』は、『騙されないぞ』と身構えるようになるのも当然のことです。

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2016年2月 1日 (月)

技術革新抑制の是非(2)

このエッセイの中で、筆者は、『技術応用の行きすぎ』の体験談を紹介しています。

『電子メール』で、誰かと会う約束を交わすと、日時が近づいた時に、『メール・システム』から、『リマインド・メール(忘れていませんねという確認)』が送られてきて、更に約束の場所に遅刻せずに到達するには、いつ家を出発すべきかも、親切に知らせてくるという体験です。

システム提供者は『Google』と書いてありますので、『電子メール』は『Gメール』なのかもしれません。梅爺の使用している『電子メール』システムは『Gメール』ではありませんので、このような『親切まがいのお節介』が日本でも行われているのかどうか知りません。

日本でも無料ブログを利用していると、ブログ画面に、内容に合わせて『広告』が掲載されるというようなことは既に行われています。

これらのサービスは、コンピュータの中の『プログラム・アルゴリズム』が自動的に『メール』や『ブログ』の内容、文脈を解析し、自動的に創りだしているものですから、『メール』や『ブログ』の筆者の意図とは無関係なものです。システムの背後に、人間の『スパイ』『秘密警察』『検閲官』が実際にいるわけではありません。

しかし、『個人』は心理的に、常時自分が監視されていると感じ、『プライバシー』が侵害されていると、不安、不快感を抱きます。

人間が『個性的』であることを基本的に認める『民主社会』では、『プライバシー』は基本権利の一つとして保護されるべきものという、共通認識、合意が存在します。

しかし、『国家』の安全を守り、事前に脅威を排除しようとすると、『個人』に関する情報も、収集、解析の対象にしなければならないという矛盾に遭遇します。

『9・11』以降、アメリカは国家が個人の情報を収集、分析する能力を強化する方向に走り、現在では『いくらなんでもそれは行き過ぎだ』と『プライバシー保護』を求める市民運動との対立が激しくなっています。このように極端から極端へ走る習性が、アメリカにはあります。ヨーロッパの人達が、アメリカ人を、単純、幼児的と陰で笑い物にする所以(ゆえん)です。

日本でも、いたるところに設置されている監視カメラの映像を、迅速にコンピュータが処理、解析することで、犯罪捜査に役立っていることは、ニュース報道なので、私たちは知っています。

『情報社会』は『監視社会』にもなり易いことは明白で、日本も例外ではありません。『情報』を扱う人が、全員善意の人とは限らないという、現実も直視しなければなりません。

『個人のプライバシー保護』と『社会の安全確保』のどちらを優先すべきと言う普遍的な判定尺度を、人類は『合意事項』として保有していません。独裁国家、一党独裁国家では、当然『個人のプライバシー』などは、全く重視されません。

メリット、デメリットを同じ粗上にあげ、冷静に議論することなく、『プライバシー侵害反対』や逆に『国民をテロも脅威から守ること優先』と叫んでみても、不毛な議論です。

どちらが『正しい』かという議論ではなく、どこでバランスさせることが『許容』限度かを、議論し大半の個人の『合意』を形成する民主社会の手続きになります。

日本の『安保関連法案』の議論も同じことです。一方が『戦争反対』だけを叫び、他方が『国は国民の安全を守る責任がある』と大義名分を繰り返していても不毛な議論です。

存在しない『正しい解』を求めるのではなく、許容できる『現実解』を模索できる、大人の国民が増えることを梅爺は願っています。人間社会の事象の大半には、『科学』の世界のような『正しい解』は存在しないのですから。

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