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2016年1月31日 (日)

技術革新抑制の是非(1)

『What should we be worried about ?(私たちが懸念すべきことは何か)』というオムニ・エッセイ集の18番目の話題は、技術革新とそれに対応する人間の能力とのギャップを懸念対象にした内容です。著者は『David Pizarro』というアメリカコーネル大学の心理学教授です。

新しい事態に遭遇した時、『人』は心理的、肉体的、能力的に『適応』するのに、ある程度の時間を要します。『適応』することが個人ばかりではなく、社会に及ぼす影響も、最初から全て見通すことは困難ですから、個人にとっては満足が得られたとしても、社会にとっては不都合なことが後に露呈することもあります。

新しい事態は、『人』にとって都合の良いものとばかりは言えませんから、『困難』や『逆境』に『適応』することは、時に命がけの難事であり、『適応』できる遺伝子を偶然獲得した者の子孫だけが生き残り、辛うじて『種』の継承がなされることもあります。これが『生物進化』の本質で、必ずしも以前の環境で強者であったものが生き残るとは限らず、偶然『適応』能力の高い遺伝子を獲得したものが、次の時代の勝者になってきました。

数百万年に及ぶ『人類』の歴史は、『困難』や『逆境』の連続で、そうであったが故に『生物進化』が促進され、現在私たちが『ホモ・サピエンス』として唯一生き残ることができたという事実は厳粛です。『人』は『精神世界』で『安泰』を希求しますが、『安泰』な環境だけでは、『進化』が促進されないという矛盾を理解する必要があります。『艱難辛苦汝を玉にす』と、昔の日本人は既に本質を見抜いていました。

『心の安らぎ』や『平安』を、私たちは神仏に祈り、願い、それは本能的な欲求ですから当然のことなのですが、『生きる』ことは『平安』の中に身を置くことではなく、『安泰を脅かすストレスとの戦い』であるという現実も、直視せざるをえません。皮肉なことに、『ストレスとの戦い』で私たちは『生きている』という実感を得ているのではないでしょうか。

『人』の適応能力をはるかに超えた速さで、科学技術が進歩していることを憂いる人は、この筆者が初めてではありません。

10年以上前に、アメリカの『ビル・ジョイ』は、『ロボット工学』『遺伝子工学』『ナノ工学』の応用を抑制すべきと主張しました。まかり間違うと、これらの技術応用は、人類を滅亡に追いやる危険を孕んでいるという主張です。

人類が実現した輝かしい『科学』成果の応用で自らを滅ぼしかねないという予言は、『核兵器』『生物兵器』などの存在をみると、あながち『悲観的すぎる』と一笑にはふせません。

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2016年1月30日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『啓蒙と常識』(4)

『神』は、『人』の『精神世界』が考え出した(創りだした)『抽象概念』であると考え、何故その様な概念を『人』が必要としたかも、『摩訶不思議』に見える周囲の事象を全て『神が関わる行為(神の恵み、神の怒りなど)』と考えることで、その『因果関係』に納得した(安泰を得た)からであろうと梅爺は推定しています。

従って、『神』という抽象概念を私たちが共有していることも、その意義も理解していますが、『物質世界』も『神』が支配しているという主張には疑問を持っています。平たく言えば『天にまします父なる神』というような、『実態』としての『神』の存在には疑問を持っています。

しかし、これは梅爺の拙い『啓蒙的思考』の帰結であって、この推定が『正しく』、『実態』としての『神』の存在を『信じて』おららる方は『間違い』と主張しているわけではありません。梅爺は、『実態』としての『神』は、『物質世界』やそれを『変容』させている『摂理』では説明できない(『物質世界』には、神秘、奇跡は本質的に存在しないという前提)という理由で『疑って』いるわけですが、『実態』としての『神』が存在しないことを論理的に『証明』できる能力を持ち合わせていないからです。

『ウンベルト・エーコ』は、『神の議論は軽々しく行うべきではない。神殿は文化的な事象なので、神殿そのものは議論や批判の対象とすることもかまわないが、何故人間は神殿を創ったのかという理由については、尊敬の念をもって深い洞察を行うべきものだ』というようなことを書いて云います。

『神』という概念は、『人』の『精神世界』に深くかかわる事柄で、十分そのことを理解して議論すべきである、ということなのでしょう。『神』は『人』の『精神世界』を知る上で重要な意味を有する概念であるという主張であるならば、梅爺も異論がありません。

『啓蒙』は、上位の人が下位の人を『説諭』することというより、誰もが自分に対して行うべき行為であるという主張と、『常識』と言われているものの多くは、あるコミュニティにおける『合意』に過ぎず、真に『常識』と呼べるものは、そう沢山は存在しないという主張にも異論がありません。

『啓蒙』や『常識』の意味を『広辞苑』で引いて、『はい、分かりました』と満足する方には、『ウンベルト・エーコ』のエッセイは『難しく、チンプンカンプン』ということになるのでしょうが、子供のように『どうして?』を連発する梅爺のような人間には、たまらなくスリリングで『面白い』ものです。

『ウンベルト・エーコ』の『啓蒙的思考』が、梅爺の『啓蒙的思考』を連鎖的に誘発するからです。

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2016年1月29日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『啓蒙と常識』(3)

『ウンベルト・エーコ』は、人一倍『理性を駆使した思考』を重視し、それを楽しんでいるように見えますが、コチコチの『無神論者』ではないように見えます。特にヨーロッパ文化の基盤となっている『キリスト教(カトリック)』には、寛容です。『寛容』であるというのは、必ずしも『カトリック』にとって理想的な信者でもないという意味でもあります。 

ですから、『カトリック』が歴史的に行った非人道的な『異端尋問』の愚を認めたりはしませんし、聖書に書かれている『科学知識』に矛盾する事象まで肯定したりはしませんが、『キリストの教え』には、『人』を『啓蒙する』重要な意味が込められていることを深く受け止めています。 

例えば、『キリスト』の『汝の隣人を愛せよ』というような『教え』は、『キリスト』が『啓蒙的思考者』であることの証であると好意的に受け止めています。 

『啓蒙』というのは、『結局世の中はその方向へ向かう』ことを示唆する能力のことであると述べています。梅爺の拙い『啓蒙的思考』でも、独裁者や一党独裁が支配する社会は、やがて崩壊すると予測できます。もし当たれば、梅爺の『啓蒙的思考能力』は、まあまあのものだと言えるのかもしれません。 

ものごとを鵜呑みにして『信ずる』ことは、危険であり愚かな行為と言えますが、『啓蒙的思考』を駆使した後にも、最後にはどうしても『信ずる』ことが必要になるという『人』の『性(さが)』を『ウンベルト・エーコ』は見抜いているのではないかと思います。ただ『信ずる』前に、自分でできる限り『啓蒙的思考』をするべきであると言いたいのでしょう。これには梅爺も同感です。 

私たちが承知していなければならないのは、『啓蒙的思考』をしたからといって、必ず正しい『解答』がえられるわけではないというでしょう。そもそも普遍的で正しい『解答』など無い場合が多いと割り切った方が現実的であるようにも思います。それならば『啓蒙的思考』など意味が無いかというと、そのような単純な議論にはなりません。 

適切な例ではないので恐縮ですが、『人生における判断は、競馬の馬券を買うようなもの』といえます。あらゆる条件を総合判断して熟考したのちに馬券を買っても、当たることも、外れることもあります。一方、あまり深く考えずに馬券を買っても、当たることも、外れることもあります。 

それでも、人生で『啓蒙的思考』で熟考することが大切なのは、その時点で、自分の『精神世界』が『因果関係』を推定して納得し、欲求が満たされる(安泰が得られる)からです。 

馬券が、当たることも、外れることもあるというのは、別の話で、どのような結果であろうとも責任は自分にあるということに過ぎません。もしかしていないかもしれない『青い鳥』を求めて旅をし、その結果を受け容れる(責任を持つ)というのが、『人』や『人間社会』に求められることなのでしょう。 

完全な予見能力を持たない『人』が、生きていくためには、『啓蒙的思考』をした後に『信ずる』という行為を大切にする以外、対応方法が見当たりません。 

手っ取り早く、『正しい解答』を得る方法など、人生にはありませんし、何事にも『正しい解答』があるわけでもありません。『有識者』『専門家』『評論家』の意見は尊重には値しますが、それを受け容れるかどうかは自分の『啓蒙的思考』に頼るしかありません。

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2016年1月28日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『啓蒙と常識』(2)

『ウンベルト・エーコ』は、西欧伝統の厳密な論理を重視しますから、日本人の梅爺が、『そこまで厳密さを求めるのか』といいたくなるような議論を展開します。 

例えば『太陽は東から昇り、西へ沈む』という表現は、誰もが認める『常識』とは言い難く、『太陽はある方向から昇り、その逆の方向へ沈む』という表現で初めて『常識』となると書いています。『東』『西』という概念は、人間社会の約束事として名付けられた名前であり、その約束事が通用しない人間社会(現実には論理の世界でのみ存在する社会かもしれない)では、通用しないという厳密な論理を重視していることになります。 

人間の誰もが頷ける『表現』を『常識』とするという『ウンベルト・エーコ』のこのような主張に従えば、私たちが日常的に弄(もてあそ)んでいる『常識』の大半は、実は『常識』とは言えないことになります。ある限定されたコミュニティの中で通用する『合意事項』か、『常識』とは程遠い『迷信』を、『常識』であると勘違いしている事になります。『イスラム国』で通用する『常識』は、『日本』では『常識』とは言えません。したがって『そんな常識さえあなたは知らないのか』といって、相手をなじることは、最もレベルの低い説得法で、慎まなければならないことになります。 

『ヒト』が『個』として『生き続ける』、『種』として『生き延びる(子孫を残す)』ということが、『安泰』確保するための大きな要因であるために、それに必要な『欲求』を本能として獲得、保有していると梅爺は推定しています。これも、梅爺が『何故』という疑問に『因果関係』を用いて、自分を納得させようとしている行為です。『安泰を希求する本能』が強い遺伝子を偶然獲得した『ヒト』の子孫が、生物進化の過程で生き残り、今日の『現生人類(ホモ・サピエンス)』として存在していると考えると、梅爺は納得できるからです。生物の中で、相対的に『ヒト』が高い知性を有するのは、『神に似せて人間が創られたから』『神が特別に愛して付与したものであるから』という説明より、梅爺にとっては理性で受け容れ易いからです。

昨日紹介した『ウンベルト・エーコ』の人間の5つの基本欲求も、すべてこの推定で説明がつきます。基本欲求の基盤は、『安泰を希求する本能』一つに収斂(しゅうれん)します。『宗教』『芸術』『科学』などの高度な精神活動も、『人間社会』を維持する『法』『道徳』『倫理』や『経済の仕組み』なども、すべて、大本をたどれば『安泰を希求する本能』に帰着すると梅爺は考えています。

更に『安泰を希求する本能』を有意義に機能させているのは、『物質世界』が『摂理』で絶え間なく『変容』する現象の一つである『生物進化』が関与しているからと考えれば更に納得がいきます。

『宇宙の出現』『太陽系、地球の出現』『生命の出現』『ヒトの出現』『ヒトによる文明の出現』など壮大なプロセスが、これで一貫した説明が可能になりますから、梅爺は大いに満足しています。『宇宙の出現』『生命の出現』は、科学的にも完全には解明できていませんが、必ず合理的に説明できる『因果関係』が背景にあると推測しています。『神仏』という概念は、『ヒト』が『脳』の進化で獲得した『精神世界』が思いついた抽象概念であり、『ヒト』が存在しない世界では成り立ちませんから、上記の壮大なプロセス全てに関与させることはできません。つまり『神による天地創造』は、これまた『精神世界』が創りだした『虚構』であるという推定になります。

誤解がないように申し上げれば、『精神世界』が創りだす『抽象概念』や『虚構』の全てが、『人』にとって無意味であるとは考えていません。個人や人間社会の『安泰』に関わるものとして考え出されたものですから、むしろ大いに意味があると考えています。ただ『精神世界』を保有する『人』にのみ、意味があるものであり、『物質世界(自然界)』の『変容』を論ずる時には、無意味であることを区別して理解すべきであると申し上げたいだけです。

『ヒト』が存在しようがしまいが、『物質世界』の『変容』は続いていきます。

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2016年1月27日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『啓蒙と常識』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時を遡る)』の6番目のエッセイは『Enlightenment and Common Sense(啓蒙と常識)』です。 

日本語で『啓蒙』というと、『知っている人が知らない人に教える』『聖職者が信徒に教えを垂れる』『国家が無知な国民を教育する』などと、『既知』と『無知』の対立関係を思い浮かべますが、『ウンベルト・エーコ』は、自分自らを『無知から既知の状態に変える』ことも含めており、むしろこれを重視しています。 

つまり、『自分自身を自らの思考で啓蒙する』という行為を重視し、そういう思考方法ができる人を『啓蒙的思考者』と呼んでいます。 

このエッセイの中で『ウンベルト・エーコ』は、人間は5つの基本的な欲求を持っていると仮定し、これ以上は思いつかないと書いています。 

その5つとは『食べる』『眠る』『愛する(性愛を含む)』『遊ぶ(楽しさを求める)』と『何故だろうと疑問を抱く』です。

どれも、人間ばかりではなく他の動物とも共通する欲求ですが、特に5つ目の『何故だろうと疑問を抱く』は、人間が突出しています。『文明』はこの欲求を基盤に進展したきたと言えます。幼児は物心がつくと同時に自然に『どうして?』という質問を連発するようになることからも、この欲求の重要性が分かります。

『どうして?』という質問へは、『因果関係を合理的に説明する』ことが解答になりますが、誰もが肯ける解答を得られることは、むしろ稀で、多くの事象は『仮説』に止まります。唯一、普遍的な解答が得られるのは、『科学』の領域だけで、その『科学』の領域でさえも、未だ説明ができない事象が沢山あります。ただし科学者は、そのような未知の事象も、『やがて因果関係を合理的に説明できるはずである』という前提で、究明を続けています。

しかし、あまりに摩訶不思議な事象に遭遇すると、究明は不可能と考えたくなることも当然起こり、その場合でも放置することは『不安』と感じますから、『人』は『安泰を希求する本能』で、必ずしも合理的とは言えない説明の方法を思いつき、それで自分を納得させようとします。

『人智を越えた神秘(奇跡)がある』というのも、一つの説明ですが、『神がそのように支配している』というのも、代表的な考え方です。

このように、『神秘(奇跡)』や『神』を前提として、合理的な思考究明をそこでやめてしまうことを科学者は嫌います。『宗教』と『科学』が対立する基本要因はこの点にあります。云い方を変えると、『何を持って安泰とするか』の違いです。『宗教』は、合理的な思考を放棄して『信ずる』ことで、『心の安らぎ』が手っ取り早く得られますが、科学者は、合理的な思考を放棄することでは、真の『安泰』へは到達できないと考える(感じている)人達です。

このような、差異は、『人』の『精神世界』が個性的であることから生じます。『信ずる』人に『信ずるな』といっても、『信じない』人に『信じろ』と言ってみても議論はかみ合いません。『価値観』に個性があるからです。

梅爺は、どちらかと言えば、全てを『疑う』性格に生まれついていますので、科学者の立場に違和感を覚えません。他人の意見を聞き、書物を読んで獲得した知識も安易に鵜呑みにせず、自分でそれを得心できるかどうか、考えようとします。『知識』を得ることは『目的』ではなく、『自分で考えるための手段』であると考えています。これが『屁理屈爺さん』と呼ばれる原因になっていることはよく承知していますが、生まれつきの性格ですから変えられません。

梅爺は『ウンベルト・エーコ』の『啓蒙的思考者』とは程遠い人間ですが、『そうありたい』と願います。

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2016年1月26日 (火)

A contented mind is a perpetual feast.

英語の諺『A contented mind is a perpetual feast.』の話です。

直訳すると『満足した心は、いつまでも続く祝宴である』ということで、『心が満たされれば高揚感がいつまでも続く』という意味になります。

全ての諺がそうであるように、この表現を『論理命題』として検証すれば、『真』であるとは言えません。『そうである』ことが比較的多いとしても、『必ずそうだ』とは言えないからです。諺を参考にして、自分を自省してみることは意味がありますが、真理であるかのごとく盲信するのは危険です。

この諺は、『物質的な満足』よりも『精神的な満足』の方が長続きするということで、暗に『精神的な満足』の方が高尚であると言っているようにも受け取れます。信仰心の厚い方は、即座に共感されるのではないでしょうか。

梅爺は、ブログを書き続けて、『人間』に関する事象を観るときの、いくつかの尺度を思いつきました。以下のようなものです。

(1)人間は生物としての『ヒト』と、『精神世界』を保有する『人』の両面がある。
(2)人間の行動(肉体的、精神的)の基盤は『安泰を優先する本能』である。
(3)『精神世界』は、『理』と『情』で構成され、咄嗟の判断では『情』が先行する。更に『精神世界』は刻々変容している。

この尺度で、上記の諺を検証してみると、『物質的な満足』は『欲望が満たされる』ことで得られる『安泰』であるということになります。厄介なことに人間は、ある状態が続くと、それに慣れ、更に上の状態を望むようになります。『欲望』は限りなく肥大する習性があり、これに歯止めをかけられるのは『理性』だけということになります。『物質的な満足』が長続きしない理由がここにあります。

一方、『精神的な満足』は、『情』が関与する『憂い』『悲しみ』『苦しみ』などの『安泰』を脅かす要因から解放された時に得られるもので、『心の安らぎ』とも呼ばれます。『心の安らぎ』は、究極な状態で、それ以上を求める必要がありませんから長続きすることになります。宗教は、この『心の安らぎ』を得るための方法として、人類が考え出したものであろうと梅爺は考えています。『心の安らぎ』は宗教でしか得られないものではありませんが、宗教が効果的であることは人類の歴史が示しています。

人間は、生きてくために『物質的な満足』と『精神的な満足』の双方を必要とします。『ヒト』であって『人』であるからです。前者が下賤で、後者が高尚であるとは必ずしも言えません。

ただ『物質的な満足』は、欲望の肥大で、下賤とみなされてもしかたがない様相を呈することがあり得ます。生きるための必要な満足でとどめようとする『理性』が求められるのはそのためです。

年金暮らしの梅爺は、『大金持ち』や『社会的な高い地位』などとは、無縁ですので、『精神的な満足』の方が高尚だといって自分の立場を肯定し、『安泰』を得ようとしたい気持ちが無いとはいえません。つまり、『煩悩の解脱』からは程遠い爺さんであるということです。

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2016年1月25日 (月)

Smart(4)

科学知識を応用すれば、どのような問題も解決できるという過信は危険です。科学知識を応用することは、人間にとって『道具』であるという基本認識が必要ではないでしょうか。『道具』には、適用できることに限界があること、『道具』の特性を理解するのと、しないのでは結果に大きな差が生ずることををわきまえておくことが重要です。包丁は、利器にも凶器にもなり得ます。『道具』が『Smart』なのではなく、それを適切に使いこなす人間が『Smart』なのです。 

科学技術に人間が支配されるという関係は、『道具』と『主人』の主客顛倒です。 

『人』の『精神世界(脳)』には、『確信バイアス』という特徴があることが、心理学、脳科学の研究で分かっています。 

一度信じたり、日常的に当たり前の習慣としていることは、『正しい』と判定する強固な評価基準が出来上がってしまい、それを覆すことは難しくなります。『思い込み』や『慣れ』は人の判断基準の偏りをもたらします。 

私たちは、この偏った評価基準で、周囲の事象を判定しますから、人は誰でもバイアスがかかった自分の基準でものを観ているということになります。その人が育った文化環境が『確信バイアス』をつくりだしますから、中国や韓国の人たちは、日本を悪く云い、日本人は、中国や韓国は『変な国』だと考えます。『日本が嫌いだ』と思い込んでいる韓国の女性大統領は、『日本のやることなすこと全て気に入らない』という主張になります。人間である以上『公正な立場』『客観的な立場』で判断するなどということは容易なことではないことが分かります。 

この判定基準のために、人はで都合の良い事象には、強く反応しますが、都合が悪いことは知らず知らずに無視する態度をとります。信仰の深い人は、信仰厚いエピソードに強く共感しますが、神に懐疑的な人の話には耳を貸そうとはしません。 

『Smart』と言うエッセイは、科学技術が多くの分野に応用されるようになって、人は、問題の本質を考えなくなり、盲目的になりつつあることが心配だと論じて、便利な技術は『Smart』とは言えても『Pretty』とはいえないと結論付けています。しかし、科学技術を悪者にするのは筋違いで、本当の問題は人の『確信バイアス』にあります。

『信じたり』『慣れたり』して、そのことをそれ以上『疑う』ことなく思考を停止させれば、一見楽な状態になりますが、ある時突然それが『不都合』となって襲ってきた時に、戸惑ったり、パニックになったりします。

そうかと言って、何から何まで『疑って』いても、不安がつのるばかりです。

人は『信ずる』ことと『疑う』ことを併用しないと生きていけないように宿命付けられています。どのようにバランスをとるかは、その人の『教養』『理性』が関与します。つまり『学ぶこと』『考えること』がその人の『器』を形成します。

大きく偏らないバランスが取れる人が、『Smart』なのではないでしょうか。

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2016年1月24日 (日)

Smart(3)

『情報化社会は更に進化してユビキタス社会になる』という議論が、10年ほど前に盛んに行われました。 

総務省が主宰する『ユビキタス社会を検討する委員会』に、梅爺も勤務していた会社の代表の委員として参画したことを覚えています。 

座長を、単純な楽観論で取り仕切る大学の教授が務めることになり、梅爺は辟易して少々批判がましい発言をし、顰蹙をかったことも覚えています。 

『ユビキタス(Ubiquitous)』という言葉は、『あまねく存在する』という意味ですから、『ユビキタス社会』は『情報処理、通信の技術環境が、空気のように存在し、誰もが、いつでも、どこでもそれを利用することができる社会』ということになります。

現在では、『ユビキタス社会』という言葉は、それほど使われなくなりましたが、『携帯電話』『スマートフォン』が普及し、ある意味で『ユビキタス社会』が実現してしまったからかもしれません。

しかし、10年前に、総務省委員会の座長の大学教授が、『予測』していた以下のような事例は、いずれも実現はしていません。

『ある人が、AとBの二種類の薬を飲もうとすると、その二つの薬は併用すると害があるという警告が、携帯端末に送られてくる』
『ある人が、スーパーマーケットの前にさしかかると、自宅の冷蔵庫の缶ビールの残りが少なくなっていますよというメッセージが携帯端末へ送られてくる』

これらは、『ある人が、今どこにいるかを特定できる』、薬瓶や缶ビール、冷蔵庫にセンサーチップが埋め込まれていて、『それらのものの現状が正しく把握できている』という条件が成立しているという前提です。

『ある人の居場所』は、その人が自分のGPS機能付き無線端末を正しく保持していて、無線機能が働いている場合は、『特定』できる状態に現状はなっています。

しかし、薬瓶や缶ビールにまでIDチップが埋め込まれていて、どこでもそれが監視できるセンサーが配置されている状態は実現していません。

座長の大学教授は、『論理的な可能性』を『実現できる』と勘違いしていることになります。『全ての日本人が、今どこにいて、何をしようとしているかを、リアルタイムで監視する情報システム』は、仮に実現可能であったとしても、インフラ整備、やシステム開発、運用に膨大なコストを要します。誤認識が起きた場合の責任も明確にしておかねばなりません。

そのコストは誰が負担するのか、つまり、『システムは経済的に成り立つのか』を検証しないと、全ては『絵に描いた餅』になってしまいます。

現在の日本の『ユビキタス環境』は、民間の業者が、利益をあげられるという前提の内容が実現できているだけです。ビジネスとして成り立つサービスは、黙っていても民間業者が提供します。

しかし、山村の独り住まいの老人の、挙動、健康状態を監視する『システム』を民間業者は、無償で提供したりはしません。

国家が費用負担してでも開発すべきサービスは何であり、そのための国民の税負担はどの規模になるのかを、先ず検証する必要があるのではありませんかと梅爺は委員会で発言し、顰蹙を買いました。

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2016年1月23日 (土)

Smart(2)

このエッセイを読むと、筆者は『人間』および『人間社会』にある程度の理解レベルを保有していますが、更に深い本質について洞察できているとはいえないように梅爺は感じました。

それは、『例え話』として、科学技術を駆使して『犯罪の無い社会』がもし実現されたら、どういうことになるかというような問いかけを読者に行っていることに表れています。

筆者は、『科学技術を駆使して実現された犯罪の無い社会』というものに、何やら『胡散(うさん)臭さ』を感じているとみえて、このような社会を私たちが受け容れるべきか、それとも『犯罪の発生はある程度やむを得ない』として、『司法』や『警察』を維持する現状のような社会を継続するべきかと問いかけています。

『胡散臭さ』の正体を、読者に説明しないと、読者は選択を迫られても戸惑うだけになってしまいます。

『科学技術で戦争を抑止する国際社会』を目指すのか、『国際紛争は根絶できないので軍事力を保持して対応するか』といったような議論と似ています。

多くの人達は『科学技術で戦争を抑止する国際社会』などというものは『胡散臭い』と感じるはずですが、そうであれば何故『胡散臭い』のかを突き詰める必要があります。『戦争反対』『あのような悲惨な体験を繰り返すのは嫌だ』と叫んでも、戦争がなくならないのは、何故かということと問題の根源は同じです。

『犯罪』は、『冷静に計画された犯罪』であれ、『突発的に激情に駆られた犯罪』であれ、『人』の『精神世界(脳)』が犯行を生みだす要因になっています。

『人』の『精神世界』は、生物進化の過程で獲得した機能ですが、『個性的』であるように宿命付けられています。つまり、同じ外部の事象に対して、どのように考えるか、どのように感ずるかは個人ごとに異なっています。しかもややこしいことに『精神世界』は時々刻々変容しています。

特に『抽象概念』を言葉で表現する時が曲者で、同じ『美しい』『正しい』という言葉を用いながら、各人が考えていること、感じていることはレベルが異なっていることになります。言葉で情感を共有することは、厳密な意味では無理なこととなります。

『脳』の仕組みがまだ解明されていないことが多く、更に『個性的』で『変容』し続けている個人の『精神世界』の先行きを、予測することはほとんど不可能です。つまり、『犯罪者候補生』を事前に特定して、犯罪を防ぐことなど、現状では不可能です。

『科学技術を駆使した犯罪の無い社会』と言う例えは、『科学技術万能』という前提が垣間見える故に『胡散臭い』ことになります。

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2016年1月22日 (金)

Smart(1)

『What should we be worried about ?(我々が懸念すべきこと)』というオムニバス・エッセイ集の17番目の話題は『Smart』です。 

筆者は、コラムニストでノンフィクション作家の『Evgeny Morozov』です。 

この筆者は、科学技術が豊富に利用されるようになって、色々なことが『Smart』に処理されるようになった分、人間は、本来何が重要な問題であるかを考えなくなってしまったのではないかということを懸念しています。

科学技術を利用する手法や道具は『Smart』であるけれども、盲目的にそれに依存してしまう人間は『Smart』でなくなってしまったという、皮肉をこめてこの『Smart』というエッセイのタイトルを採用したのでしょう。

『手際良い』という意味でも、『思慮深い』という意味でも『Smart』という単語は使われますので、このタイトルを迂闊(うかつ)に日本語へ翻訳すると誤解が生じかねません。このブログでは『Smart』のままで紹介することにしました。

『問題を解決する』ために科学技術は利用されますが、よくよく考えてみると『問題を解決する』ということは、それほど単純なことではありません。

『数学の問題を解く』というような場合のみ、『問題を解決する』は明快と言えますが、人間の価値観が関与する事象に関しては、『ある視点でみれば、都合の良い状況が起きても、異なった視点で観ると、むしろ不都合なことが生ずる』というようなことになるのが一般的です。

『自動車は便利な乗り物』ですが、世界中の人達が自動車を利用すると、地球のエネルギー資源を枯渇させてしまうことになりかねませんから、『自動車』が普遍的な『問題解決』にはなっているとは言えません。

『自動車を利用する』という習慣が身についてしまうと、行き先の遠近を問わず、『自動車で外出する』ことになりかねません。

大きなメリットがあるのか、些細なメリットしかないのか、はたまたメリットなど無いのかを深く考えずに、科学技術を利用した対応手段を盲目的に使う癖がついてしまった人間は『Smart(思慮深い)』とは言えないという、筆者の主張は一理があります。

しかし、『科学技術』を盲目的に受け容れると、人は思慮深さを失いかねないという論法には、梅爺は少々抵抗を感じます。

人が思慮深さを失う原因は、『科学技術の応用』だけではなく、『一見当たり前なこととして受け容れたことには、それ以上の疑念を抱かなくなる』という『人』の『脳』の特性に依存していると考えるからです。

『科学技術』は確かに人の思慮深さを奪う傾向が強いとは言えても、それだけを悪者にすると、本当の原因が見えなくなってしまいます。

『愛』『信仰』や時に『正義』が、『人』を盲目的にするというここと、『科学技術』が『人』を盲目的にするという議論は、同じことを論じているのではないでしょうか。

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2016年1月21日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『狼と羊』(8)

何故人間社会には『狼(権力者、独裁者)』が出現し、何故多くの人達は『羊(おとなしい恭順者)』になってしまうのか、という問題が本質であって、『狼が羊をどのようなレトリックで脅すのか』を論ずることは、無意味ではないにせよ、副次的な問題のように思います。

この問題を考える時の『キーワード』は、『人の精神世界は個性的である』ということと、『人の精神世界の奥に安泰を希求する本能が潜んでいる』という二つではないかと梅爺は考えています。

『欲望を満たすことが、安泰を得る最優先事項』と考える『価値観』が極端に強い人の中から『独裁者』が出現します。

一方『欲望を抑制することが、真の安泰を得るための最優先事項』と考える『価値観』が極端に強い人の中から、『釈迦』『キリスト』『アッシジの聖フランシスコ』のような『無私の愛を説く聖人』が出現します。

多くの庶民は、その中間の『価値観』で、『欲望を満たすこと』と『欲望を抑制すること』の間で、右往左往しています。そういうどっちつかずの状態より、極端な『価値観』の方が分かりやすいことからその影響を受けやすいという習性も有しています。

『独裁者』も『聖人』も、人類の歴史に大きな影響を及ぼしてきましたが、『独裁者』は多くの人に心身の苦痛をもたらすことが多く、人間社会は『独裁者』の出現を避ける知恵も工夫してきました。リーダーを公正な選挙で選ぶなどという方法がそれで、古代ギリシャには既に存在していた仕組みです。『民主主義』『三権分立』などの考え方もこれに当たります。

しかし、現代でさえ、地球上には、『独裁者』『独裁的なイデオロギー』『独裁的な宗教教義』が支配する人間社会は数多く存在します。多様な個性を認めるより、一律のほうが分かり易く効率が良いという考え方が背景にあるのかもしれません。

個性的な『価値観』を持ち、その『価値観』で『安泰を希求する』というのが『人』を理解する上で重要な『キーワード』であると考えると、地球上で起きている色々な事象を『理解』することができます。

ここでいう『理解する』は、『正当化して受け容れる』ことではありません。『イスラム国』や『宗教的原理主義』が何故存在するかは『理解』できますが、梅爺はそれを『受け容れる』ことはできません。

梅爺の個性的な『価値観』が、『受け容れない』からです。このように自分の『考え』を主張できる現状の『日本』という国は、素晴らしいと感謝しています。

梅爺が『国家反逆罪』『思想犯』『宗教的異端者』として、裁かれたり、投獄されたり、処刑されたりすることが無いからです。

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2016年1月20日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『狼と羊』(7)

平等な立場にある『自分』と『他人』の間で、『レトリック』を用いた『説得』が行われる場合は、大きな問題は生じません。『説得内容』を受け容れるかどうかは、個人の自由な判断に任されるからです。

しかし、『強い権力、権威をもつ者(狼)』が『弱い立場の者(羊)』を『レトリック』で『説得』しようとする時には、ややこしい問題が入り込んできます。

『羊』は『狼』の云うことが『おかしい』と感じても、『仲間外れにされる』『迫害される』『殺される』という恐怖を同時に感ずるために、現実には『従わざるを得ない状況』に追い込まれるからです。そのような不条理は良識がゆるさないはずだ、などという主張は、甘すぎます。『ヒトラー』『スターリン』の恐怖政治は、歴史上明白な事実ですし、現在も世界には、同種の恐怖政治、恐怖経営を行う『独裁者』の出現は後を絶ちません。『独裁者』の出現を阻止しようと、試行錯誤の末に『民主主義』という仕組みを人類は考え出しましたが、それでも『カリスマ的な人気を持つリーダー』が『独裁者』に変貌してしまう危険は、完全に排除できていません。

『ウンベルト・エーコ』は『狼』が『羊』を『説得する』ときに用いる『レトリック』を分類して解説しています。基本的には、外部に『自分たちを無きものにしようという陰謀』があると主張し、『羊』に『結束、決起』を求めるというパターンです。勿論『正義』は自分たちにあり、『陰謀』を企む相手は『邪悪』であるという根拠のない決めつけが行われます。この結果、『羊』は、外部の『陰謀』ではなく、『狼』の『陰謀』に加担させられる事になります。

『宗教』でも、高位の『聖職者』が、信者たちに『説教』するというパターンが利用されますから、ある意味で『狼と羊』の『レトリック』に類似しています。『説教』を受け入れない者は仲間外れにされ、迫害され、殺されるという事態は、歴史上過去に沢山あり、現在でも『原理主義集団』『カルト集団』では、行われています。

『良識的で温厚柔和な信者』にとって、『宗教』の一面がこのように論じられることは、心外であることはよく承知していますが、何事にも長所と短所があり、短所を例に挙げただけで、長所を否定するつもりはありません。

『ウンベルト・エーコ』のエッセイの中に、『2001年、サウジアラビア政府は、子供向けアニメのポケモンを禁止した』という話が掲載されていて驚きました。『ポケモン』は日本の世界中を席巻した人気アニメの主人公です。

理由は、『イスラム教』の解釈に影響力を持つ人が、『ポケモンが戦いを通して強いものへ変身していくのは、生物進化論を肯定する意図が込められている』『コーランは、実在しない動物を具象化することを禁じている』『ユダヤを象徴するシンボル(上向き下向きの二個の三角形を組み合わせた模様)が使われている』などと主張したためと書かれています。

日本人には思いもよらないことですが、『ポケモン』は『イスラム社会』を切り崩そうとする外部勢力(西欧やユダヤ主義者)の『陰謀』であるという主張であることが分かりました。

どんなものでも、その気になれば『自分たちへ向けた陰謀である』という批難対象になることが分かります。

『中国』や『韓国』が、『日本の歴史認識の裏側に、日本の軍国主義復活の陰謀が潜んでいる』と言わんばかりに非難するのは、この種のパターンと観れば『そういうことか』と分かります。『日本』を非難する材料が『歴史認識』しかないということですから、『ご苦労なことだ』と同情したくもなります。相手が『悪い』と主張することで、相対的に自分を正当化するという、『安泰を希求する本能』の幼稚な発露ですから、次々に『難癖』をつけてくることになります。そう云うレベルの国家でも隣国ですから、『日本』は賢く対応するしかありません。

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2016年1月19日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『狼と羊』(6)

生物は、周囲環境を常に注視し、危険要因を察知したら、対応策を講ずる本能を進化させてきました。正確に云えば、偶然その様な能力を発揮できる遺伝子を獲得した『個』の子孫が、生き残ってきたということになります。『生物進化』というプロセスのそれが本質です。生き残った者の裏側に多数の絶滅した者がいるという過酷なプロセスでもあります。『安泰(自分に都合の良い事)』を優先する本能は、このようにして継承されてきました。

『ヒト』も生物として、この本能を利用してきましたが、更に『脳』を駆使した『精神世界』を保有する『人』へと進化し、『因果関係』を推論する能力を利用して、危険察知能力は、格段に高度化しました。

しかし、『推論』には『誤認』という落とし穴があり、存在しない、または存在が確認できない事柄も、『安泰を脅かす要因』と推量し、悩みや心配事として抱え込んでしまう弊害も生ずるようになりました。『心配性』の人は、どんなことでも『心配のタネ』にしてしまいます。楽観的な人と、悲観的な人の違いは、『人』の『精神世界』が個性的であることから生じます。どちらが得な性格かは一概には言えません。

『人』は『物質世界(自然界)』に存在する、色々な形、色、音などをパターンとして認識し、それが自分にとって『何か自分と関係ある意味を含んでいるのではないか』と推論を働かせます。『星の配置』『雲の形』『板の木目』『壁のシミ』など何でも推論の対象にしてしまいます。元はと言えばこれは『安泰を希求する本能』が関与しています。これらを体系化して『手相占い』『星占い』『カード占い』なども継承されてきました。『信じたくなる心』と『疑いたくなる心』が交錯しますから、庶民は『当たるも八卦、当たらぬも八卦』などと、『占い』の本質を茶化す知恵も備えていました。

『永年の経験が蓄積されて占いが完成したので、占いは当たる』という主張は、もっともらしく聞こえますが、『人』が『真偽』を普遍的に判断できるのは、『物質世界』の事象を『摂理(法則)』に従って判断する時だけで、それ以外のほとんどの事象に関しては『真偽』が特定できませんから、『占い』も例外ではありません。

『人』が考え出す『因果関係』の大半は、『真偽』の判定ができませんが、それが代々継承されて、多くの人が『昔からそう言われている』として『事実(真)』のように受け止められることが起こります。『迷信』の多くはこのように出来上がります。

『黒いカラス』『黒猫』は縁起が悪いなどという言い伝えも、『黒』が、『闇』『夜』の連想から『不気味』と考えられたのかもしれませんが『迷信』です。

『宗教』の世界では、『迷信』と判断されては権威が保てませんので、多くのことが『奇跡』などと云い方を変えて継承されてきました。聖職者が信者を説得するときにも一種の『レトリック』が用いられます。『神は創造主で絶対的な真である』というような前提で、説得が行われます。

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2016年1月18日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『狼と羊』(5)

国の政治リーダーが、自国の深刻な問題から国民の目を逸らすために、『外』の問題を取り上げ、『脅威』『外圧』『陰謀』『我慢ならぬ言動』があるとして、国民へ団結を促し、自分への支持を固めようとするのは、よくある話です。

『中国』『韓国』『北朝鮮』が、日本の『歴史認識』にこだわり、『悪いのはお前で、被害をこうむったのは自分だ』と言い続けるのは、よほど自国内に、深刻な問題を抱えている裏返しですから、これで『日本』が右往左往することはありません。

現在の日本人でも『過去の日本の行為』を正当化する人は少なく、『あのような国には二度となるまい』と決意して、70年間努力してきたことを誰もが実感していますから、『日本は歴史認識を変えず、再び軍国主義へ戻ろうとしている』などという批難には、当の日本人が一番当惑してしまいます。

日本人は冷静に『中国』『韓国』『北朝鮮』が抱えている問題の本質を洞察して、それが表面化した時の『日本』への影響を予測しておく必要がありますが、『あなたの抱える本当の問題はこれでしょう』などと、本当のことを指摘するのは得策ではありません。相手は『内政干渉』であると逆上し、自国民へ対する『日本敵視』感情を更に煽ることになるのは目に見えているからです。

『過去の行為』について日本は、心からお詫びする姿勢を続け、『現在の日本』は、『過去の日本』とは異なることを、政治的、経済的、文化的の圧倒的な存在感で示す努力をすればよいと思います。『謝罪の姿勢を孫子の代まで継承したくない。この辺で打ち切りたい』などと、『日本』の都合を述べれば、また相手は『本当に反省していない』と難癖をつけますので、これも、口にするのは得策ではありません。『日本』は泰然自若として居れば良いのであって、本当に『日本』の安泰を脅かす行為には断固立ち向かい、それ以外の『挑発のための挑発』は、軽く受け流すくらいの大人の対応が必要です。

『中国』『北朝鮮』は、現状の体制がそのまま維持できない事態に、追い込まれ時がくる可能性は高く、『韓国』も、『日本との敵対関係より友好関係が得策』という考え方に変わる可能性が高いと思います。いずれにしても、『日本』は泰然自若で対応すべきです。

『独裁者』は、実際には存在しない自国に対する外の『陰謀』をでっち上げ、国民へ『一致団結』を呼びかけます。しかし、これは『独裁者』だけの手法ではなく、外交の世界では、常套的に用いられていることが分かります。

『日本に対する批判』が生じた時に、政府も、国民も、メディアも冷静に背景を洞察すべきです。必ずしも、すぐに『畏れ入る』必要はないように思います。他人は他人の価値観でこちらを観ているという事実を知っていればよいのであって、他人の価値観が『正しい』と早とちりしないのが『大人(たいじん)』の対応です。

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2016年1月17日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『狼と羊』(4)

ギリシャの寓話『狼と羊』の話の概要は次のようなものです。

狼と羊が、水辺に水を飲みにやってきて、狼は上流に、羊は下流に場所をとります。狼は羊に『何故お前は私の呑む水を汚すのだ』と非難します。『あなたのところを通過した水を私は飲んでいるので、あなたの水を私が汚すなどということはありません』と羊は答えます。狼は話題を変え『半年前にお前は私の悪口を云っていたそうだな』と羊を責めます。羊は『半年前は私は未だ産まれていません』と答えると、『しかし、お前の父親は私の悪口を云っていたではないか』といって、狼は羊を殺してしまいます。

狼は『独裁者』、羊は支配されてい『国民』と考えると、『独裁者』が『抑圧』のために用いる『レトリック』の典型例がこの寓話に込められています。

なんといっても可笑(おか)しいのは、圧倒的に力の強い狼は、有無を言わせず羊を殺すことができるにもかかわらず、色々な『難癖』をつけて、『自分は被害者、お前は加害者であるからお前が悪い』と責めていることです。狼も、自分なりに自分を正当化して、『安泰の念』を得ようとしていることです。

『難癖』の内容は、勿論根拠や証拠などはありません。狼にとっては『難癖』をつけることで、自分が『安泰の念』を得ることが目的ですから、因果関係を『理』で考えるようなことは興味の対象ではありません。つまり『自分勝手な論理』を臆面もなく使います。

『狼と羊』の寓話を読めば、理性的な人でも、あまりの不条理をむしろ笑いの対象にして、『寓話であって現実の話ではない』と考えますが、ユダヤ人を大量虐殺した『ヒトラー』、エチオピアに難癖をつけて侵攻した『ムッソリーニ』、それにイラク侵攻を強行した『ブッシュ(息子)』などの言動はこの『寓話』に類似していると『ウンベルト・エーコ』は論じています。

そう言われてみると、現在も世界には沢山の『狼』がいて、『自分勝手な論理』を臆面もなく主張していることが分かります。

『北朝鮮』『シリア』の『独裁者』は云うまでもなく、『ロシア』『中国』などの政治リーダーの言動も、権力の座を守るために『つっぱっている狼』に見えてきます。『歴史認識』をいつまでも振りかざし、日本を責める『韓国』の大統領も、賢明なリーダーには見えません。『日本憎し』のあまり『中国』の経済力を頼りに共同戦線を張ったものの、頼りの綱の『中国』の経済が失速し始めて、『韓国』の大統領は、苦境に陥っています。『独裁者』ではなくとも、国のリーダーの見識が、国民に苦難を強いることになるのは、よくある話です。

『リーダーになりたい人』がリーダーになるのではなく、『リーダーにふさわしい人』を洞察して選ぶ国民の能力が足りないと、ずるずる苦難へ向かうことになりかねません。『日本』にとっても『他人事(ひとごと)』ではありません。賢明なリーダーは『狼のレトリック』などを用いたりしません。

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2016年1月16日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『狼と羊』(3)

『レトリック』は『説得』を目的とした話術ですから、『説得』を必要とするコミュニティでのみ、必要とされます。それは、多数の人の合意が、最も力(パワー)となるコミュニティですので、いいかえれば『民主主義』を基盤とする社会ということになります。

『独裁者』や『一党独裁』が支配する国家では、論理的に『レトリック』は必要ではないはずです。『独裁者の考え』や『党の裁定』で全てが決まるわけですから、『議論』や『説得』は不要です。

ところが、ものごとはそれほど単純ではないと『ウンベルト・エーコ』は、このエッセイの中で述べています。そして、『ヒトラー』の著作『わが闘争』や、『ムッソリーニ』の『演説』を例に挙げて、『独裁者』が、『自分を正当化するために駆使するレトリック』を論じています。『独裁者』も人間ですから、自分を正当化して『精神世界』の『安泰』を得たいと願うからなのでしょう。

『独裁者』といえども、『ウムを云わせず国民をねじ伏せる』だけでは、自分の権威が維持できないことを、薄々感じていて、『もっともらしい話』で国民の心を一つにすることを重視していたことが分かります。

本来一人一人が個性的で、全員が『一色に染まる』ことは、人間社会では最も起きにくいことのように考えられますが、『人』の『集団』は、簡単に『一色に染まってしまう』事態が容易に出来(しゅったい)することを、歴史は示しています。『もっともらしい話』が、そのために利用されます。第二次世界大戦に臨む『日本』は、『鬼畜米英』などというスローガンで『一色』に染まりました。

『個性的』な『人』が、群をなして行動する時には容易に『一色』になる習性を持っている背景を、脳科学者、心理学者に読み解いてもらいたいものと梅爺は期待します。不自然に思えること(一色に染まること)が、何故簡単に起こるのか、そのからくりを知りたいからです。

『一色』に染まった『グループ』は、通常以上の能力を発揮するという長所もありますが、同時にその『グループ』は、最大の危機に瀕しているという短所も秘めているのではないでしょうか。『一色』を支えていたものが、突如『幻影』であると分かった時に、『グループ』は一気に崩壊するからです。

『ウンベルト・エーコ』は、古代ギリシャの『寓話:狼と羊』を例に挙げて、『独裁者』の駆使する『レトリック』を種明かししていきます。

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2016年1月15日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『狼と羊』(2)

『レトリック(修辞学)』は、古代ギリシャの『アリストテレス』『プラトン』などが、研修に務めた『他人を説得するための言葉表現手法』です。

説得者が他人の価値観を、説得者の価値観と同じものに変える行為が『説得』ですから、『冗長な表現』や『大袈裟な表現』が『レトリック』ではありません。

何故人間社会に『レトリック』が必要になるのかについて、『ウンベルト・エーコ』は、いつも梅爺がブログに書いていることと同じことを述べています。

つまり、『物質世界』の『摂理』を追求する『科学』の世界では、普遍的な『真偽』を判定することができますが、『人』が関わる世の中の事象の大半には、普遍的な『真偽』を決める尺度がないということです。『ピタゴラスの定理』は、誰にとっても『ピタゴラスの定理』で、議論の余地がありませんし、説得の必要はありません。逆の云い方をすれば、『真偽』を判定できるのは『科学』の世界だけとも言えます。

生物学的に進化の過程で『個性的』であることを宿命付けられている『人』が、『精神世界』で保有する『価値観』もまた『個性的』であるという単純な理由に依るものです。特に、『精神世界』が考え出した『抽象概念』には、絶対的な評価尺度がありません。『善悪』『美醜』など、いずれも相対的、個性的な判断しか下せないものです。

梅爺はブログを書き続けることで、このような考え方に行き着き、この観方で観ると、世の中の事象は、『なんだそういうことか』と理解できて、大いに気に入っています。逆に、世の中の多くの方が、『どのようなことも、正しい、間違いの区別ができる』と勘違いして、答を探し求めたり、悩んだり、言い争ったりしているのをみると、『ちょいと、観方を変えてみてはいかがですか』とお節介を云いたくなってしまいます。『物質世界の事象』と『精神世界の事象』を混同すると、どのようなことにも『正しい答え』があるという、勘違いが生じます。

もっとも、欧米の合理主義が、『何事にも正しい答がある』と勘違いするようになったきっかけは、『神』を『全知全能』『絶対的な真』と定義したことが関与しているように梅爺は感じます。

『正しい答え』を知らないのは、人間が『全知全能』ではないからで、分からない時には『神』の裁定に従えば良い、という巧妙な論理ですりかえたことになります。『神』を疑うことは、全ての論理基準を失うことになりますので、多くの方々が『神』を『信ずる』立場を肯定、維持し、現在にいたっています。

『ウンベルト・エーコ』は、梅爺のように、『物質世界』『精神世界』の区別を論じてはいませんが、世の中の事象の大半は、『真偽の判定はできない』と述べています。『人』の『考え方』『感じ方』が異なる以上、自分に『同意してほしい』と『願う』のは当然のことで、『説得』が必要になるという話です。『説得』は『自分に同意してほしい』という主張で、『自分の方が正しい』と主張していることにはなりません。しかし、多くの方々は『説得』は『自分が正しい』と主張することだと勘違いしておられるように見えます。

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2016年1月14日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『狼と羊』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning back the clock((時を遡る)』の中の『The Wolf and the Lamb; The Rhetoric of Oppression(狼と羊;抑圧の表現方法)』に関する読後感想です。感想ですから梅爺の強い主観であって、『ウンベルト・エーコ』の真意とは異なっているかもしれません。『本を読む』ということには、そういう側面があっても善いだろうと勝手に考えました。 

『強い立場の人(人達)』が『弱い立場の人(人達)』を、『脅しつける』時の常套表現手法について論じたものです。 

『ウンベルト・エーコ』は、聴衆を前に講演する時の『切り出し方』の例について、以下のような異なった例を挙げて、聴衆に与える心理的な効果の違いを比較しています。 

(1)『ものごとを理解できない沢山の無能な人達に、私の考えを述べてみても意味が無いように思います』
(2)『沢山の無能な人達に、私の考えを述べても意味が無いと思いますが、ここにお集まりの方々の中に、2~3人そうではない(無能ではない)方がいらっしゃいます』
(3)『皆さまのような見識の高い方々の前でお話しできるのは光栄です』
(4)『これは、あなたからお教えいただいたことですが・・・』
 

(1)は聴衆の心を逆なでしますから、聴衆を全て敵に回すことになります。意図的にその様な状況を創りだす時以外は、もちろんあまり使われない手法です。 

(2)は、聴衆のほとんどが、自分は『2~3人の無能でない部類に属する』と思い、講演者に賛同し、無能な人達を非難する心理になります。講演者にとっては、聴衆を味方につける巧妙な仕掛けとなります。 

(3)は、一般によくつかわれる常套表現ですが、聴衆は、『自分が持ちあげられている』ことに、一瞬心地よさを感じますが、やがて『皮肉が込められている』と薄々気づきます。いわゆる『慇懃無礼』ともいえる表現であるからです。

(4)は、聴衆が、『以前自分はどのようなことをこの講演者に教えたのか』と好奇心を煽られ、講演者が話す内容は、本当は講演者の『創作』であるにもかかわらず、『自分が教えたのかもしれない』と思いこんだりします。つまり、これも講演者が、巧みに聴衆の心をつかむ手法です。

『聴衆を魅了する話し手』は、このような巧妙な手段で迫ってくるということですから、『頭の良い人』の心理操作は『油断も隙もない』ということになります。

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2016年1月13日 (水)

技術信奉と技術懐疑(4)

新しい『技術』が、次々の登場し、生活様式が急速に変わっていく環境に遭遇し、『得体の知れない力に支配されている』と『不安』になり、『技術』への対応が懐疑的になる人と、一方非常に楽観的に『技術』を信奉して、率先して対応する人に分かれている現象は、確かなことです。『技術』は『お化け屋敷』のように、興味をそそられるが怖そうでもあるという話です。 

『技術』に理解がある人でも、そのリスクや対費用効果を配慮して、対応に慎重な人もいます。程度の差はあれ、多くの人はこの姿勢ではないでしょうか。 

梅爺は、仕事の現役時代は『コンピュータ』関連のビジネスに従事していましたから、比較的には『技術』を知る人間ですが、どちらかと言うと懐疑派で、『うまい話』は疑ってかかることにしています。『スマホ』の時代に『ガラケー』で過ごしています。

『技術信奉』派と『技術懐疑』派に人々が分かれたり、どちらにつくかで戸惑う人が増えていることは、このエッセイの著者が懸念するほど、大問題ではないと梅爺は感じています。『技術』ばかりではなく、人類の歴史では、新しい『宗教の教義』、新しい『イデオロギー』に遭遇した時も、対応は二分し、どちらにつくかで戸惑う人達がいたことを考えれば、同じこととの繰り返しに見えるからです。

懸念すべきことは、『技術』の本質に対する教育や説明が不足していることです。文明の進化は、『技術』への依存度が一層増すことで、これには逆らえないとしたら、私たちは『技術』の本質を理解して対応しないと、人々を豊かにするはずの『技術』が、牙をむいて人々に襲い掛かり、人類を滅亡へと追い込みかねません。『技術』の詳細を理解することは難しくても、本質は洞察できますから、リスクや副作用を推察する姿勢が重要になります。

いたずらに、『技術』を怖がる必要はありませんが、無条件に鵜呑みにすることは避けるべきです。

『行き先をインプットすれば、自動運転で目的地へ連れて行ってくれる自動車』の実現は近いと、ニュースは伝えますが、すぐにでも実用化するとは、梅爺は思いません。安全性を確認するためには、まだまだ数々のテストをクリアしなければなりませんし、万が一、誤動作で事故が発生した時に、『誰が責任を負うか』などの法整備も必要です。

一方、どれほど慎重に洞察しても、人間の能力は有限であり、『目測を誤る』リスクも避けられません。

繰り返しになりますが、『目測を誤る』リスクを避けられない人間が、本来リスクを内包する『技術』を利用しているという危うい関係を、少なくともわきまえておく必要があります。

つまり『絶対安全』『絶対安心』などということは、論理的にあり得ませんから、自分で判断するしかありません。他人に『安全』『安心』を保証するように迫っても意味がありません。人の宿命として、自分も判断できないように、他人も判断できないのですから。世の中に自分より賢人は沢山いますが、何でも分かっている人などはいません。答が書いてある本が必ずあるわけでもありません。このような不安を解消するために人類は『神(全知全能)』という概念を思いついたのではないでしょうか。

従って、最後は自分で判断し、その判断に責任を持つ以外に方法はありません。

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2016年1月12日 (火)

技術信奉と技術懐疑(3)

『技術』は、昨日も書いたように、条件に依っては目的とした機能が実現できずに、むしろ不都合な結果が生ずるリスクを帯びています。多くの場合、『因果関係』は『1対1』ですが、中には、同時に複数の結果をもたらす『技術』もあります。そして、その結果が全て、好都合なものではない場合もあります。

その中の一つの結果が、極めて好都合であることを優先して、その他の結果が少々不都合でも我慢して採用することもあります。

多くの『薬』には、目的効果を発揮する他に、少々不都合な『副作用』があるのは、この例です。

『技術』は正常に機能しない時に起きる弊害のほかに、正常に機能していても、同時に発生している不都合があり得るということです。

人類が抱えている『技術』に関する最大の問題は、その『技術』を利用する目的を規制する国際的なルールが確立していないことです。特に『兵器』のための新技術開発には、歯止めがありません。『戦いに勝つ』ことが『戦争』の目的として是認されますので、金にいとめをつけずに新『技術』の開発が行われます。新『技術』が勝利を確実なものにするためです。ビジネス分野では、対費用効果を考えて、新『技術』の開発を断念することがありますが、『戦争』だけは例外です。

皮肉なことに、戦争目的で開発した新『技術』が、一般目的にも転用され、生活を豊かにすることがあります。第二次世界大戦で敗戦国になった日本が、比較的早く復興できたのは、朝鮮戦争を利用した好況のお陰もありますが、戦争中に培っていた軍需産業関連の『技術』を、一般産業目的にすぐに転用できたからです。不幸中の幸いと言える話です。

『科学』や『技術』そのものが『悪い』ということはありませんが、それを利用する人間の対応には、深遠な『知恵』が必要になります。

文明社会は、大きく『技術』に依存せざるをえないわけですから、新時代の政治リーダーは、『科学』『技術』を洞察する能力が必要になります。

先進国の政治リーダーの多くは、旧態依然の『経済』『外交』への対応が主で、『技術』への対応能力が乏しいことが、大いに気になります。

『サイバー・テロ』や『ドローン(無人飛行機)』などの問題が起きると、とってつけたような対処療法で対応することになるのは、お粗末です。逆に『日本は技術大国である』などと、経済目的だけの『技術』をもてはやすのも、浅薄です。

『技術』には、日本人を豊かにする要素と、日本人を不幸にする要素が混在していることを、見抜いて、適切な政策を先行して打ちだす政治リーダーが今こそ必要です。

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2016年1月11日 (月)

技術信奉と技術懐疑(2)

『技術』は多くの場合、『物質世界』の『摂理』を応用して、目的の機能を実現するものです。『このように働きかければ、このような結果が得られる』という『因果関係』が明白であることが原則ですが、多くの場合、『このような状態が守られていれば』という条件がついていて、この条件が守られないと、予定した結果が得られないこともあります。 

何やら難しい表現をしていますが、福島原発の事故は、異常な地震や津波が、安定に稼働できない条件を生みだしたために起きたことです。もし、天災に見舞われなければ、今でも『原発は安全』という神話が続いていたことでしょう。高速道路を走行中に、突然ブレーキが利かなくなれば、安全運転で定評のあるドライバーでも、事故を起こしかねません。この場合は、突然のブレーキ故障が、安定した運転を阻む条件となります。 

このような『技術』の本質を知っている人は、ある種の『懐疑』を常に抱いていますから、『技術』を100%信奉することはありません。『絶対安全です』などと言われて、鵜呑みにすることはありません。 

福島原発の事故が起きた時に、多くの人が『政府や電力会社は絶対に安全と言っていたではないか、騙された』と憤りました。お気持ちは分かりますが、『技術の本質に無知であった』ということで、自慢できる話ではありません。 

条件が損なわれる事態が発生する確率をどのように想定するかということが、『技術』を利用する時に常に問われます。『技術』を利用したときの恩恵と、ある確率で起きる不具合のバランスを考えて、利用するかどうかを決めることになります。つまり、『技術』には、マイナスのリスクが必ずあることを覚悟しなければなりません。 

『飛行機に乗る』『車を運転する』などは、当然リスクをはらんでいます。梅爺は、このようなことを覚悟して、利用しています。『絶対墜落しない飛行機』も『絶対壊れない自動車』もあるはずがありません。

『技術』に多くを依存している現代社会は、その分脆弱であることも知っておく必要があります。電気エネルギーの供給が止まれば、パニックに近い状況になります。強い『太陽風』が発生して、無線通信がマヒすれば、同じくパニックになります。

それでは、『技術』依存をやめたり、依存していなかった昔へ社会を戻すことが可能かと言うと、これも現実には困難です。

リスクを分散させたり、リスクを減らす方策を現代社会は模索しようとします。しかし、これも『技術』を必要としますから、私たちは、麻薬患者のように更に『技術』依存症に陥っていきます。

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2016年1月10日 (日)

技術信奉と技術懐疑(1)

『What should we be worried about?(我々は何を危惧すべきか)』という、オム二・エッセイ集の16番目の話題は、『The Contest Between Engineers and Druids』で、このエッセイでは『Engineers』は『技術信奉主義者』、『Druids』は『技術懐疑主義者』の意味で使われていますので、感想を述べるこのブログのタイトルは『技術信奉と技術懐疑』にしました。『Druids』は、キリスト教伝来以前に、ケルト族で信奉されていた宗教の信者または僧のことで、転じて『古いものを信奉する人達』という意味になります。 

西欧のキリスト教文化圏では、『キリスト教』は洗練された宗教、それ以前の原始宗教は、愚昧な宗教という、決めつけた価値観があります。『カトリック』が正当で正しく、『カトリック』が異端とした学者や宗派は、間違っていると単純に信ずる人も沢山います。『ガリレオ』もつい最近まで異端の学者でした。 

自分を安全な高い場所に置き、相手を低い場所に置いて見下し、相対的に『安泰』を得ようという人間の習性は、本能的で強固ですから、必ず『差別』や『いじめ』が発生します。相手の悪口を云って、自分を正当化するのもこの習性で、中国や韓国の『反日教育』も、理性的な議論というよりは、国民感情を煽るため、または内政の問題から眼を背けさせるための政治手段として利用されています。 

このエッセイの著者は、『Paul Saffo』で、スタンフォード大学のテクノロジーの趨勢を研究する部門の教授です。 

著者は、『世の中には、2種類の愚者がいる。一方は、古いから良いという人達、もう一方は、新しいからより良いという人達である』と最初に指摘しています。つまり『Druids』だけに加担するのも、『Engineers』だけに加担するのも愚者であるということになります。 

『技術の歴史』に限らず、人類の歴史は、『古いものを信奉する』人達と、『新しいものを信奉する』人達のせめぎ合いであると観ることができます。

現実には、中間の『落とし所』を知恵を駆使して見つけることが好ましいことですが、科学技術の進展が、『幾何級数的』な割合で急速に起きている現状において、中間の『落とし所』を冷静に探ることが非常に難しくなっていて、後悔を残す選択をしてしまう確率が高いことを、著者は懸念していることになります。

人類の歴史の中で、これほど急速の科学技術進展を経験するのは初めてですから、著者の懸念は『ごもっとも』です。

現状では、将来を間違いなく見通せる能力をもった人は、誰もいないわけですから、危険な綱渡りをしているといってよいと思います。

どこを探しても、『正しい対応策』は無いのですから、一人一人が、自分で考え、他人の意見にも耳を傾けるしかありません。『きっと誰か賢者が解決してくれる』という『あなたまかせ』の姿勢は、妄想に過ぎず危険です。

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2016年1月 9日 (土)

映画『おとなのけんか』(4)

この映画では、4人の登場人物の人物設定が、実に巧みに行われていて、それが『けんか』の誘因になるように仕組まれています。 

『子供のけんか』の加害者の少年の父親は、悪徳企業も強引に弁護するやり手の弁護士で、『おとなのけんか』の最中も絶えず、携帯電話で仕事を継続し、周囲をイラつかせます。典型的な仕事一途の夫で、家庭を顧みないことが、妻(投資コンサルタントを仕事にしている)の不満のタネです。 

一方被害者の少年の父親は、平凡な金物商で、出世や大金を儲けるようなことに意欲的でありません。この『何事にも事なかれ主義で、人生に挑戦しない態度』は、美術を愛し、アフリカの貧困救済などに関心を示す妻にとっては不満のタネです。 

『子供のけんか』の後始末を話し合うはずであったのが、些細な話題のずれから、だんだん『おとなのけんか』は、手のつけられない醜い様相を呈していきます。時には、夫同士が結託して妻たちを非難し、逆に妻同士も結託して夫たちをへの不満を爆発させます。 

昔の梅爺なら、この映画をみて、『どうして、こんなことになるのだろう』と頭が混乱したに違いありませんが、ブログを書いて『人』の『精神世界』の本質を自分なりに理解できている現在は、『起こるべきことが起きている』と冷静に観ることができました。 

『人の精神世界は、個性的で一人一人の考え方や感じ方は同じではない(生物学的にそうなるように宿命付けられている)』『人の精神世界は、情と理の二つの異なった機能の組み合わせで営まれていて、最初は情が無意識に働く。次の瞬間、情をありのままに表現することが自分にとって得策ではないと理が気づいた時に、理は情を抑えようとする。しかし、理で情が抑えきれない場合が多い』『人の精神世界は、時とともに変容する。したがって同じ人のものごとへの対応はいつも同じとは限らない』という考え方が現状の梅爺の理解です。このように観ればこの映画は『起こるべくして送っている事象』です。

この映画のエンディングは、公園で少年同士はあっさり仲直りしてしまっているらしい様子が遠景で写され、『おとなのけんか』の空しさが一層際立ちます。

これほど、人間を洞察できる監督の『ロマン・ポランスキー』が、実生活では『少女淫行』の嫌疑がかけられている人物でもあります。

人は誰もが、些細なことで醜さを露呈してしまう存在であることを、痛感させられる映画です。人間社会には、理論的に『平和』などあり得ず、穏やかな状態に保つためには『寛容』と『忍耐』が求められることを改めて知ります。『夫婦』『家族』『親友同士』なども、個性的な『精神世界』で構成されていることは同じですから、例外ではありません。相互に違いを認めようとしなければ『けんか』は避けられません。

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2016年1月 8日 (金)

映画『おとなのけんか』(3)

この映画は、『人』の『精神世界』が持つ、極めて現実的な側面、つまり、あまり直視はしたくない『見苦しい』一面を、暴いて見せています。

映画の中には、『愛』『思いやり』『信頼』『献身』などに命までも捧げる『ヒューマン・ドラマ』もあり、観終わった後で、私たちは『人間はなんと崇高で、素晴らしいものだろう』と、『暖かい心』の余韻に浸ります。

『おとなのけんか』と言う映画は、つまらないことにこだわって、言い争いを大きくし、やがて普段抑えていた不満までも爆発させて、罵り合う大人たちを描き、やり場のない状態で終わりますから、観終わって『人間はなんと身勝手で、心が狭く、見苦しいのだろう』と『寒々とした気持ち』になります。

『人間』は、本来『崇高で素晴らしい』ものなのか、はたまた『狭心で見苦しい』ものなのか、などと白黒をはっきりさせたくなりますが、その議論は無益であり、『崇高で素晴らしくもあり、狭心で見苦しいものでもある』と、矛盾をそのまま受け入れる方が現実的であると梅爺は考えています。

勿論、自分は『崇高で素晴らしい』存在でありたいと『理性』で願いますが、自分の中に『狭心で見苦しい』側面が『ない』と勘違いすると、自分も周囲も、不幸にしてしまうおそれがあります。『狭心で見苦しい』自分を、どれだけ抑制できるかが『理性』や真の『教養』にかかっています。

『釈迦』は2500年前に既に、『人には、仏心と邪心がある。邪心は煩悩による。煩悩をできるだけ排除して仏心を大切にしなさい』と『人』の本質を洞察しています。『仏教』の『邪心』と、『キリスト教』の『原罪』は、共に宿命的に『人』が抱える『負の側面』を示唆していますが、微妙に意味が異なるように梅爺は感じます。

一見矛盾する『仏心』『邪心』も、実は『安泰を希求する本能』がもたらすもので、根は一つと梅爺は推測しています。『他』を配慮した安泰か、『他』を無視した安泰かで、『善い(思いやりのある)行い』『悪い(身勝手な)行い』に分かれるだけのことです。

梅爺も、この世においとまする時期が近付いていますので、最後は温厚柔和な『好々爺』で終わりたいと思いますが、なかなか『皮肉屋の意地悪じいさん』から解脱(げだつ)できません。

その上『自分は好々爺であるなどと強弁せず、意地悪じいさんであると認めているのだから、まだましではないか』などと居直ったりしますので、手に負えません。

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2016年1月 7日 (木)

映画『おとなのけんか』(2)

この映画の監督の『ロマン・ポランスキー』の人生には、悲劇や猟奇的な事件が沢山付きまといます。

父親がユダヤ系であったために、『ナチ』により、家族は強制収容所へ送られますが、父親は穴を掘って息子の『ロマン・ポランスキー』を脱出させます。その後、父親は強制労働に耐えて戦後まで生き延びましたが、母親は強制収容所で亡くなっています。

戦後ポーランドで俳優として映画に関わっていましたが、やがて自由を求めてフランスへ渡り、『水の中のナイフ』で映画監督としてデビューします。

監督として名声を得た『ロマン・ポランスキー』は、アメリカへ渡り、女優の『シャロン・テート』と結婚しますが、妊娠中の『シャロン・テート』は『ロマン・ポランスキー』の自宅で、カルト教団によって、猟奇的に殺されてしまいます。背景に何があるのか梅爺は分かりませんが、単なる殺人事件ではない、複雑な人間関係を想像してしまいます。

その後、別の『少女への淫行』容疑で、アメリカの司法当局から追及され、アメリカを脱出してヨーロッパへ渡ります。本人は無実を主張していますが、今でも容疑は晴れていませんので、アメリカへの入国はできないため、この映画はニューヨークが舞台であるにもかかわらず、フランスで撮影されました。

アメリカへ渡る以前のヨーロッパ時代にも、自分の映画に出演した15歳の女優とも性的関係があったと言われています。

これだけの、悲劇、事件が身に起きれば、普通の人間ならば精神的に参ってしまうのではないかと思いますが、映画製作に意欲を燃やし続けるタフな生き方には驚きます。常識を逸脱した性倫理の持ち主であるようにも見えます。

しかし、『ロマン・ポランスキー』の映画だけをみれば、『人間を鋭く洞察』した作品であったり、『ヒューマニズム』溢れる作品であったりしますから、監督の人間像と、作品の間のギャップに梅爺は興味をそそられます。

『ロマン・ポランスキー』は、温厚な教養人というより、名声を求める野心家で、どういう映画が大衆に受けるかを、察知し、計算づくで創り上げることができる、ビジネスセンスも備えた才人なのではないでしょうか。

『ロマン・ポランスキー』の計算通りに、私たちは、彼の映画を観て、泣いたり、笑ったり、感動したりしているのかもしれません。

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2016年1月 6日 (水)

映画『おとなのけんか』(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映された映画『おとなのけんか(2011年、フランス、ポーランド、ドイツ、スペイン合作)』を録画して観ました。 

久しぶりに『梅爺好み』の映画に遭遇し、大いに堪能できました。 

監督は、『ローズマリーの赤ちゃん』『戦場のピアニスト』など話題作を沢山手がけている『ロマン・ポランスキー(ポーランド)』です。 

この映画は、『ヤスミナ・レナ』の舞台劇脚本(God of Carnage:殺戮の神)を、ポランスキーが映画向きに脚色したものです。 

最初から、最後まで、ニューヨーク・マンハッタンのアパートの一室を中心にして、ドラマは展開されます。出演者も、中年の夫婦2組(4人)だけです。 

2組の夫婦の息子(11歳)同士が、公園でけんかをし、一方が木の枝を振って相手の顔面を打ち、唇を傷つけ、歯を2本折るという事件があり、被害者の息子のアパートを加害者の息子の両親が訪れ、2組の夫婦が、『後始末』をどうするか話し合いをする様子だけが描かれます。 

子供のけんかの後始末のために、大人が冷静に話し合うはずでしたが、4人が、些細な表現の食い違いや、気に入らない相手の行動に我慢できなくなり、徐々に『理性』を失い、本性をむき出しにした罵(ののし)り合いに発展していく様子が丹念に描写されます。 

『12人の怒れる男たち』と同様、一室だけでドラマが展開されるという設定が、『梅爺好み』です。登場人物の個性(本性)が、『言葉』遣いやその内容で、次第に表にあらわれてくるところが、何とも興味をそそります。ニューヨークが舞台ですから、言語は英語です。 

『おとなのけんか』は、実に入念に仕込まれた脚本が見事で、何気ない小道具(部屋に飾られたチューリップの花束、ペットのハムスター、携帯電話、固定電話機、美術画集など)が、話の展開で重要な役割を演じます。4人の俳優の演技も見事です。

原題は『Carnage(殺戮)』ですから、『言葉での殺し合い』という皮肉が込められています。『けんか』というようななまやさしい意味ではありません。

傍観者の観客には、『喜劇』ですが、やがて自分もその立場に追い込まれたら、同じように振る舞うかもしれないという懸念を持ちますから、単純な『喜劇』ではありません。

『12人の怒れる男たち』は、『理性』で、ハッピーエンドを迎えますが、この映画はドロドロの状態で終わります。

『人』の『精神世界』は、個性的で、『理』と『情』の絡み合いで構成されているという、梅爺の主張を、文字通り表現した映画と受け止めました。

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2016年1月 5日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ヨーロッパの行方』(4)

『ウンベルト・エーコ』は大局的には、『ヨーロッパ』の立場は『アメリカ』や『アジア』に比べて弱体化することを認め、対応のためには更なる『大同団結』『共同防衛軍備の拡充』『共通の外交姿勢』が必要と述べていますが、よくエッセイを読むと、『個が欲望を捨てて大同団結に徹する』ことは、現実には難しいというニュアンスがちりばめられています。

つまり『理』がみちびく『解決策』は、一見強固な論理に見えても、『精神世界』の『情(欲望)』が絡むと、現実の『解決策』として機能しないことを、鋭く感じ取っているからでしょう。

これは、私たちが『人は誰もが死ぬ』という事実を『理』では認めても、『自分の死』については『不安』『寂しさ』を感ずるのと似ています。『精神世界』は『理』と『情』の複雑な絡み合いで機能しているという事実を知れば、『そういうことか』と納得がいきます。『自分の中に矛盾がある』『自分は弱い人間だ』などと悩む必要はありません。生物進化のプロセスで出現した『精神世界』とは、そういうものなのです。

『ウンベルト・エーコ』の本心を推察することは易しくありませんが、単純な解決策が存在するとは思っていないのではないでしょうか。

梅爺のような凡人は、『そんなことは分かるはずがない』とすぐに云ってしまいますが、頭の良い人は、なんだかんだと理屈をこねますので、何か良策でもあるのかと思ってしまいます。お付き合いするのが大変です。

『ヨーロッパの行方』は、複雑な要因が絡む『動的平衡』で、何らかの変容を遂げていくことは確かですが、その詳細を言い当てることは誰にもできません。人間社会の営み、特に政治、経済はそのように変容していきます。『物質世界』の変容と表向きは似ています。

政治、経済の『動的平衡による変容』と、『物質世界』の『動的平衡による変容』の違いは、前者は『人』の『精神世界』がトリガーになっているということです。『独裁政治家』『イデオロギーや宗教への執着』『自分の都合を最優先する国家』などが、『変容』を起こします。

世界中の人達が『寛容と忍耐』の重要さを認め、自分と他人の違いを認めた上で、譲り合いながら生きていけば、不幸な『変容』は回避できますが、人間の歴史を眺めると、そのような状態は見当たりませんから、これも梅爺が『理』で考え出した対応策で、『釈迦』が『煩悩を無くせ』といったことと同じく、現実には『夢のまた夢』であることが分かります。

個人的な『心の安らぎ』をもとめることはともかく、『世界の平安』を『祈り』の対象にしていることの空しさを感じます。

『人間は何故これほど愚かなのか』と嘆く方がおられますが、強固な本能で、しかも個性的である『煩悩』を継承してきた宿命から逃れられないことが『愚かさの要因』ですので、自分に出来ることは『自分は愚かである』と自分に言い聞かせるくらいのことしか思い当たりません。真に立派な人は、自分が愚かであることを知っている人ではないでしょうか。

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2016年1月 4日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ヨーロッパの行方』(3)

『EU(ヨーロッパ連合)』は、『バラバラであるよりまとまった方が、全体としても個としても有利』という合意で成立しました。これは、『アメリカ』『日本』や急成長している『中国』などに、経済の領域で、バラバラでは太刀打ちできないという危機感があったからです。つまり『強者の攻め』ではなく『弱者の守り』の考え方が働いています。『共通意識』が希薄なアジアでは、同様の『AU(アジア連合)』が結成される可能性は低いように思います。 

本当は、中枢主要国だけの『連合』に留めておけば、結束の乱れは少なくて済んだはずですが、仲間外れにされた『ヨーロッパ』の国々から『ヨーロッパ内の格差を助長する身勝手な行為』と非難されることは必定で、『EU』と呼ぶには大義名分がみつからないこともあり、地理的、歴史的に『ヨーロッパ』とみなされる国々を仲間として認めたために、『EU』は難しい問題を抱えることになりました。

『全体も個も幸せ』のはずが、『EU』内の経済格差が反って顕著になり、『弱い個』の『強い個』への不満が増しました。『労働力の流動』は、『弱い個』の産業を空洞化させ、『強い個』の労働環境も悪化(自国労働者の失業、給与引き下げ、流入した他国労働者の人種差別への不満など)させました。

『経済活動』は元々『格差』を利用する行為でもありますから、『格差』を無くして経済力を強化するという発想に矛盾があるのかもしれません。

将来、権力主義、大国主義の志向が強い『ロシア』や、宗教的に『イスラーム』が主の『トルコ』などを、『EU』に加えようとすると、更に秩序を保つことは難しくなるに違いありません。『共通意識』が通用しなくなるからです。

『ギリシャ』のように財政破綻を抱えるメンバーの問題は、当面の課題ですが、『EU』には、暗い展望が多く、明るい展望は少ないように見えます。

『寛容と忍耐』で、全体が我慢を共有して安泰を得るという考え方は、極めて強い理性を必要とし、多くの場合、『個が自分の都合を最優先させる』という本能的な欲望(情感)を抑えきることは難しいことになります。

カトリックのミサで最後に歌われる『ドナ・ノービス・パーチェム(私たちに平安をお与えください)』という『祈り』は、崇高で究極の『祈り』とも言えますが、平安を乱す要因の多くは、意識的であれ、無意識であれ、『私たち』自身が創りだしていることを考えると、『解決』を『神』にお願いするのは、少々身勝手すぎるように思います。

『平安』をどのように定義するかによりますが、『憂いの元となる変容なしに時が流れる状態』とすれば、『物質世界(自然界)』には『平安』は存在しません。絶え間なく変容すること、『諸行無常』が常態であるからです。『平安』は『人』の『精神世界』が創りだした抽象概念なのです。『個人の心の安らぎ』は、相対的な価値観ですから、信仰で得られますが、『世界の平和』は『神』にお願いする対象ではないような気がします。

『平安』そのものではなく、『平安を実現する理性、勇気、能力を私たちに与えてください』と『祈る』のが、全(まっと)うなことのような気がします。

数百年『ドナ・ノービス・パーチェム』と歌い続けても、いっこうに『平安』が実現しない世界の現実を理性で受け容れて、対応を再考する時期に来ているのではないでしょうか。

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2016年1月 3日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ヨーロッパの行方』(2)

『ヨーロッパ』の各国間には、歴史がもたらした『共通意識』『アイデンテティ』が存在することは確かで、これは、アフリカ、アジア、南米などの地域と異なります。これらは『ヨーロッパ』が『西欧世界』とまとめて呼ばれる所以(ゆえん)でもあります。『ウンベルト・エーコ』は、この『共通意識』『アイデンテティ』を以下のように列記しています。

(1)古代ギリシャ文明(特に理性を重んずる思想)、ユダヤ教を起源とするキリスト教教義の継承。
(2)フランス革命に始まった、自由、平等の思想。
(3)コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、デカルト、フランシル・ベーコンなどに代表される現代科学へ通ずる遺産の継承。
(4)政教分離の国家体制。
(5)ローマ法典で始まった、法に対する共通認識。
(6)階級闘争で確立した正義に対する考え方。
(7)倫理思想からではなく、労働争議で獲得した福祉に関する共通認識。
(8)植民地政策の過ちと、帝国の崩壊を経験。
(9)独裁者に支配された経験。
(10))どの国も戦地になり、絶え間ない危険にさらされ続けた過去の経験。

しかし、上記のいくつかは、既に『ヨーロッパ』だけのものではなく、アメリカにも継承され、『欧米』という呼び方でまとめられる考え方になっています。

ただ、絶えず戦地になりつづけてきた経験や、独裁者のアジテーションに乗せられてしまった苦い経験は、同じことがおこる気配を察知する人々の感覚を鋭敏にしていると『ウンベルト・エーコ』は書いています。このことから、『9.11』のような事件が『ヨーロッパ』で起きても、人々は『アメリカ人』のようには対応(愛国心の高揚、復讐の肯定)しないであろうと述べています。たしかに『ヨーロッパ』の歴史に比べれば、『アメリカ』は幼い国です。それは『アメリカ』の長所でもあり、短所でもあります。

『日本』は明治維新以降、『西欧』を先進モデルとして、追い求めてきました。その結果、アジアの中では珍しい、『西欧』に基本的に違和感を持たない国家になっています。『西欧』が絶対的に『正しい』かどうかは分かりませんが、この選択は概ね『日本』を利すことになったと梅爺は思います。

ただ日本人は、アジア人の顔をした西欧人になる必要はありません。梅爺は国粋主義者ではありませんが、『日本』の『アイデンテティ』は失いたくないと願っています。

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2016年1月 2日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『ヨーロッパの行方』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時代を逆行する)』の3番目の話題は『ヨーロッパの行方(The Prospects for Europe)』に関するものです。

この一文は、『ウンベルト・エーコ』自身が主題を選んだものではなく、ヨーロッパのいくつかの国の主要紙(新聞)が、別々の知識人に、同じ主題で投稿してもらい、ほぼ同時に掲載するという企画の一環として寄稿を依頼されたものであると、最初にことわりが述べられています。

勿論、事前の打ち合わせや、執筆者同士の意見交換はありませんから、『異なった見解』がそもそも期待されていることになります。これらを参考にして、ヨーロッパの人達の中で『議論が深まる』ことが目的であったのでしょう。

このエッセイが書かれたのは、2003年のことですから、現在とは世界の政治、経済の情勢は異なっていることを配慮して読む必要がありますが、『ウンベルト・エーコ』の見解は、『世界の中でヨーロッパは一層弱い立場に追いやられていくであろう』という悲観的なものになっています。

近世文明の中心地であった『ヨーロッパ』の代表的な知識人として、『ヨーロッパはもう駄目だ』と自暴自棄になっているのではなく、冷静に分析すれば、世界の政治、経済の中心は、アジア(特に中国)へ移行し、アメリカの立場も相対的には弱体化するという洞察に基づいた見解です。あくまでも、政治、経済の強さで、アジア、アメリカの後塵を拝することになるといっているだけで、『ヨーロッパ』の価値、特に文化的な価値をも否定しているわけではありません。

政治、経済の中心が、アジアおよび太平洋間(アジアとアメリカ)へ移行し、大西洋間(ヨーロッパとアメリカの関係)は、相対的に弱体化するという見解です。アメリカの実質主要都市は、西海岸へ移り、ニューヨークは、イタリアで云えば『フィレンツェ』のような立場(文化を売り物にする都市)になると、予言しています。

アメリカ人の多くは、ハワイや日本のことはよく知っていても、『ヨーロッパ』のことはあまり知らないという時代がくるだろうとも書いてあります。

政治・経済で大国になった『中国』は、『ヨーロッパ』を利用(実質支配)しようとするにちがいないと予測しています。中国の拠点は、ポーランド、ジブラルタル、ヘルシンキ(フィンランド)、タリン(エストニア)になるであろうと書かれていますが、梅爺にはその理由が良く分かりません。

『ヨーロッパ』が将来、『中国』へ侵攻したり、『アメリカ』と戦争することは現実にはないと考えれば、『ヨーロッパ』は、現在以上に広域で結束し、共同の軍事防衛体制を強化して(現在のNATOでは能力不足)、共同の外交政策を打ち出す必要があると書いてあります。

2003年に書かれた一文ですから、『EU』の現状(ギリシャの財政破綻問題)、中国経済の失速などを考えると、『お見事な見解』と肯定しかねる面があります。

『中国』は確かに『大国』になるでしょうが、世界が信頼できる『大国』になるかどうかは疑問であり、超大国であった『アメリカ』が、その座を降りる時にどのように振る舞うのかも不明です。『中国』と『ロシア』の関係も、注視し続けなければなりません。『ヨーロッパ』も大同団結どころか、再度分解の危機を乗り越えられるかどうかの方が焦眉の急の課題に見えます。

『ウンベルト・エーコ』の見解も、当時と今では変わっているかどうか分かりませんが、当時の見解が、『全て見事に当たっていた』とは言えないように思えます。ただ、政治、経済の分野で『ヨーロッパ』が弱体化するという長期的な趨勢の見かたは当たっているのではないでしょうか。

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2016年1月 1日 (金)

梅爺詩集『老いの言の葉』(2)

新年を迎え、皆さまのご多幸を祈念します。拙い詩をおとどけします。

ふいに

ふいに、宇宙が現れました。
ふいに、太陽や地球が現れました。
ふいに、地球に命が現れました。
ふいに、命は更なる安泰を求めて進化し始めました。
ふいに、進化の途中で、姿かたちが一人づつ違うヒトが現れました。
ふいに、ヒトに心が備わって、独りづつ考え方や感じ方が違う人になりました。
ふいに、人は言葉を話し始めました。
ふいに、人は道具を使い始めました。
ふいに、人は絵を描き始め、歌を歌い始め、話を空想で創り出すようになりました。
ふいに、人は安泰を求めて群をつくり、群は大きくなり、仕事の分担や身分の違いが現れました。
ふいに、群には、掟や価値を比較するしくみが創られ、人は自分の価値観を殺して群の価値観に従うように強いられました。
ふいに、人は、見えないモノに名前をつけて、確認するようになり、『神』『愛』『正義』『平和』『名誉』『目的』が特別大切なものであると信ずるようになりました。
ふいに、人は宇宙に、正しい間違いが判別できる真理があることに気付き、自分は真理のお陰で、生まれてきて死ぬことを知りました。
ふいに、人は宇宙の真理を利用した便利な道具を沢山考え、使い始めました。
ふいに、人は心が創り出す空想の世界と、真理に支配される実態がある世界の違いに薄々気づきましたが、対応に戸惑うようになり、今も戸惑っています。
 

もし、多くの人が、人は一人一人違うように作られていることを認め、違いを尊重する努力を始め、
もし、多くの人が、心が思うがままに創り出す空想の世界に、宇宙の真理と同じような真偽を判定する物差しをもちこむことは、難しいことを認め、
もし、多くの人が、自分だけが正しいと思うことを謙虚に疑うようになれば、
 

醜い『憎み合い』『殺し合い』の多くは、なくなるでしょう。 

でも、多くの人は、いざという時には自分を優先する心から逃れることができません。生物として受け継いできた『安泰を希求する本能』の支配が強いからです。
賢くなったはずの人が、本当に賢くなれないのはこのためです。
利己的なヒトが、利他的な人になるには、理性で『寛容』の意味を理解するしかありません。

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