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2015年12月31日 (木)

『ピーター・ドラッカー』と日本美術(4)

『人』は自分が生まれ育った『精神文化』を中心に、周囲の価値を判断します。一般には、『キリスト教文化とその世界観』で生まれ育った西欧人が、日本の『精神文化』の本質を理解し、それに魅了されるということは、起こり難い話です。

私たちが、『インドのヒンドゥー文化』や『イスラーム文化』の本質を理解し、魅了されることが起こり難いことを考えれば、それは肯けます。異文化は、その存在は認めることができても、その本質に迫ることは至難の業です。異文化は多くの場合『自分たちより劣っている、遅れている』と受け取りがちです。アメリカのドキュメンタリー番組で、キリスト教原理主義の女性が、『イスラームは劣っている』と自信たっぷりに語っているのを観たことがあります。。

『ピーター・ドラッカー』や『ドナルド・キーン』などという人達は、如何に西欧人として稀有な才能の持ち主であるかが分かります。これらの人達の『日本評論』は、日本人が気付かなかった『日本文化』の一面をも指摘してくれますので、貴重です。

『ピーター・ドラッカー』は室町時代は、日本の『ルネサンス』であると論じています。勿論、西欧の『ルネサンス』よりは時代的に先行しています。また日本の絵師は、西欧の印象派より早く、『光を描く』ことに挑戦しているとも指摘しています。

西欧の『ルネサンス』が、『キリスト教的な世界観』から『人間中心の世界観』への移行であり、『宗教のための芸術』から『人間の精神世界の表現手段としての芸術』への移行でしたが、日本の場合は、宗教的な束縛からの解放と言うより、『自分を自然と一体化した存在として認識する』という『死生観』の確立とみるべきではないでしょうか。『自然と一体化した自分』という考え方は、神道や仏教の考えと矛盾はしておらず、むしろ教えに沿うものです。

『仏心』は誰の中にもあり、『人は仏になりうる資質をもっている』と説く仏教の教えと、『神は神、人は人』と説く一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教)の教えは決定的に違います。『自分の中の仏心を重視し、自然と一体化する』ことを目指そうとする日本人の心を、一神教の人達に理解してもらうのは、至難のことです。『ピーター・ドラッカー』や『ドナルド・キーン』が如何に稀有な西欧人であるかがあらためて分かります。

『日本人は、主体性を待たない国民』と世界からは見られ、その裏返しで『一枚岩(ホモジニアス)のように同じように振る舞う』ことを恐れ、警戒されますが、日本人をその様に理解するのは皮相的であると『ピーター・ドラッカー』は指摘しています。

『ピーター・ドラッカー』が魅了される、日本の絵師たちは、一人一人が強い個性の持ち主で、これらの個性を受け容れる日本の『精神文化』はホモジニアスでなどあり得ないという指摘です。

明治維新以降『富国強兵』策で、日本国民は表面的に『ホモジニアス』であることを強いられ、それが世界の人たちを強く印象付けたかもしれませんが、日本人は本来個性的であることをむしろ柔軟に受け入れる民族であったと考えるべきではないでしょうか。『新しいもの好き、珍しいもの好き』の習性が強いように思います。

『織部焼』の斬新なデザイン、『円空』の斬新な木彫り仏などを、愛して受け容れた日本人は、個性を忌避する民族であったとは思えません。現代の私たちも、外国の文化を部分的に日本的に同化させてしまう柔軟さを保持しています。

『個性的』であることと、『一様』であることを、現実的にもっとうまく使い分ける日本人でありたいと梅爺も思います。時と場合で、両方ともに必要であるからです。

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2015年12月30日 (水)

『ピーター・ドラッカー』と日本美術(3)

西欧の印象派の画家たちが、日本の『浮世絵』に魅了されたことは有名です。『浮世絵』は江戸の庶民を顧客対象に売られたものですから、洗練された『美』の様式の追求という点では優れたものですが、『深い精神世界』を表現したとはいえません。表現テクニックや構図などが、西欧の画家達を啓発したとは思いますが、直接的な『視覚美』や『通俗美』が特徴です。

『ピーター・ドラッカー』が最初に魅了されたのは、室町時代の『宋画』であり、その後江戸時代の『文人画』『禅画』に興味の対象が広がっていきます。これらに共通することは、専門の絵師が描いたというより、教養人(文人)、僧侶が自らの『精神世界』を反映させて描いた作品であるということです。『ピーター・ドラッカー』はほとんど『浮世絵』には興味を示していません。

後に、江戸時代の専門の絵師である『伊藤若冲』『曾我蕭白 』の作品も蒐集に加えていますが、両者とも云わば『異端の絵師』と呼ばれ、日本でも評価が確立したのは最近のことです。これらの絵師も『精神世界』を反映した『具象美』と『抽象美』のバランスが特徴です。

『ピーター・ドラッカー』の興味の対象が、表面的な『具象美』よりも、深い『精神世界』を表現した云わば『抽象美』と言えるものに集中していることが分かります。

独学で、日本の歴史、仏教の禅宗の思想、画家の生涯を学び、『精神世界』が何に由来するのかも洞察の対象にしています。

日本で、蒐集のために来日にた時は、日本の優れた美術商の助言も聞いていますが、最後は、奥さんと相談して『この絵は自分の精神世界を豊かにしてくれるかどうか』を購入の判定基準にしています。自分の感性をよりどころにするという姿勢は、芸術に接する時には大切なことです。専門家や評論家の意見は、参考にはなりますが、最後のよりどころにはなりません。

アメリカの大学で、『経営学』の他に『日本美術』の講座も担当するほどの広範な知識を獲得していましたが、生徒たちには、自分の蒐集した作品を見せるだけで、『この絵はこのように鑑賞すべきである』というような解説はしなかったと言われています。芸術の本質を理解すれば、そう振る舞うのは当然です。

日本の絵画美術は、当然、元は中国、朝鮮半島を経由して伝えられたもので、室町時代の『雪舟(僧侶)』も中国へ渡って絵の勉強をしています。

しかし、その後『日本人の絵』として、独自の進化を遂げることになります。これは、『日本の仏教』がたどった歴史と似ています。

絵ばかりではなく、茶道、華道、能、建築、庭園などの極めて日本的な『精神世界』の様式表現の原点は、室町時代にあるように思われます。

自分の『精神世界』を深く探求しようという姿勢は、ヨーロッパの『ルネサンス』に似ていますが、日本の方が50年~100年先行していると『ピーター・ドラッカー』は指摘しています。

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2015年12月29日 (火)

『ピーター・ドラッカー』と日本美術(2)

『ピーター・ドラッカー』は、オーストリア出身で新聞記者でしたが、『ナチ』の支配をのがれてイギリスへわたり、その後アメリカへ渡ってアメリカ国籍を得た人です。才能ある学者や芸術家が、故国を離れてアメリカで活躍する例は、沢山ありますから、アメリカは包容力があり、才能を発揮しやすい社会であると言えます。『個人』を尊重するという基本原則に徹するあまり、非常に優秀な人と、一方であきれるほどに低俗な人が、どちらも自己主張しながら混在している社会ですので、観方に依って『素晴らしい国』であり、別の視点で観れば『ヒドイ国』であるように見えます。日本人には、分かり難い『異文化』の社会です。

『ピーター・ドラッカー』はイギリスにいた時に、日本政府主催の日本美術展示会で、最初に日本美術(日本画)を観て、その魅力にとりつかれます。その後、アメリカでは政府の仕事に従事してワシントンにいた時に、昼休みは日本美術のコレクションで有名な『フリーア美術館』へ通い、更に見識を深めていきます。

『日本美術への恋文』という一文で、『私は突然日本美術と恋に落ちた。男女の恋と異なり、この恋は45年間続いている』というようなことを書いています。

『経営学者』と『日本美術』は、一見畑違いの取り合わせのように見えますが、『精神世界』の『情』と『理』を駆使して、ものごとの本質を『洞察』するという点では、同じ能力が基盤として必要になります。

『日本美術』の『奥深さ』を一瞬にして感知し、更に『理性』で本質を明らかにするというプロセスになります。『ピーター・ドラッカー』の日本美術に関する文章は、私たち日本人でも及ばない『洞察』に満ちています。『精神世界』は個性的であり、一人一人異なった『感じ方』『考え方』をすることは、分かっていても、これほど高度な『精神世界』の持ち主が提示する『洞察』に接すると圧倒されます。

勿論『芸術』に関しては、『科学』のような『真偽』を判定する基準はありませんから、『ピーター・ドラッカー』の見識が『正しい』とする必要はありません。しかし、新しい視点の『見識(洞察)』は、梅爺の拙い『精神世界』をも啓発する力があり、それを参照しながら自分の『精神世界』を高めることができます。このようなプロセスで文化は拡散し、進化していきます。

世界がその才能を認める『ピーター・ドラッカー』が、『日本美術』に関心を寄せてくれたことは、誇らしいことです。日本人が、外国の人から『日本美術』の本質を指摘してもらうという点は、少し残念な気もしますが、偉大な能力は、人種とは無関係に出現するものです。

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2015年12月28日 (月)

『ピーター・ドラッカー』と日本美術(1)

地上波NHK教育チャンネルで、日曜日に放映される『日曜美術館』は、梅爺のお気に入り番組で、欠かさず観ています。

経営学者で著名な『ピーター・ドラッカー(1909-2005年)』は、日本美術の愛好家で、その蒐集品を日本で展示する催しを番組で紹介していました。

『碩学(せきがく)』と呼ばれる天才的な頭脳の学者は、沢山いますが『ピーター・ドラッカー』は間違いなくその一人でしょう。

梅爺が仕事の現役時代は、『経営者』にとって、『ピーター・ドラッカー』の著作は、必読の教科書とされていました。『マネジメント(経営)』に新しい観点で息吹を与えたことが最大の功績でしょう。当時仕事で付き合いがあったアメリカ人から、『これを是非読みなさい』とハード・カバーの立派な本が梅爺に送られてきて、安価なペーパー・バックの本にしか馴染みが無かった梅爺は、『なるほど、本と言うのは本来こういうものか』と変なところに感心したことを覚えています。

1969年に出版された『断絶の時代』は、一般の人にも読まれる大ベストセラーになりました。社会と文明が、『継続の時代』から『断絶の時代』に移行すること、つまり知識社会の到来を予言した内容でした。

『ピーター・ドラッカー』は、大学で教える先生でもあり、一方米国の大企業のコンサルタントでもあったことから『経営学者』『未来学者』の印象が強いのですが、本人は『社会生態学者』と名乗っていました。

『人』はどうあるべきかを突き詰めようとすれば、『個人としての人間』か、『コミュニティの中における人間』のどちらかに焦点を絞ることになります。『ピーター・ドラッカー』は後者を選んだことになります。

梅爺が何回もブログに書いてきたように、『人』は『個人』としては、『自分の都合を最優先する本能』に従って行動しようとします。しかも、一人一人異なった『精神世界』を保有するように、生物学的に運命づけられていますから、同じ事象に遭遇しても、同じ『考え方』『感じ方』をするとは限りません。

本来『個性的』な『人』が、生き残りの確率を高めるために『群(コミュニティ)』で生活することを選択したために、人類は、『矛盾』を抱え込み、その『矛盾』に今も翻弄されています。『群(コミュニティ)』の秩序を守るために、一律の約束事(法、道徳、倫理)が必要になりますから、本来『個性的』で多様な価値観の持ち主である個人が、『群』のなかでは一律の価値観に従わなければならないという矛盾です。『誰もが満足する社会』は論理的には存在しません。『群』のなかでは『寛容と忍耐』が個人に求められることになります。

『コミュニティ』の規模が大きくなればなるほど、この『矛盾』は顕著になります。国家間の紛争や、宗教間の紛争が絶えないのは、このためです。人間同士の殺し合いが絶えないことに、『人間は何故こんなに愚かなのか』と多くの人が嘆きますが、『愚かさ』は、上記の矛盾に対応する解決策(知恵)を保有していないことに起因します。『戦争反対』と唱えることは簡単ですが、上記の矛盾が『戦争』の引き金になっている以上、それだけでは解決策にはなりません。

『企業』という『コミュニティ』を対象に、『ピーター・ドラッカー』は、『コミュニティの秩序(経営指針)』や、その中における『人』の行動について、洞察を深めていきました。『企業』は『社会』にくらべれば『コミュニティ』の規模は小さく、比較的全員が同じ価値観を保有しやすい環境ですが、それでも『矛盾』をはらんでいるのは同じことです。

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2015年12月27日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『アメリカが好きだからもの申す』(6)

『アメリカ』の『イラク侵攻』政策に『フランス』が反対したことを受けて、『アメリカ』の新聞が、一面に『第二次世界大戦』で『フランス』解放のために、戦死したアメリカ兵士たちの墓地の写真を載せ、『あの恩義を忘れたのか』と『フランス』を非難した記事を載せたことは、残念なことだと『ウンベルト・エーコ』は書いています。ことの本質を差し置いて『恩義の貸し借り』で対応する、『アメリカ』の『短慮』は、大人の対応とは言えません。

『ウンベルト・エーコ』は、このエッセイの最後に、『イラク侵攻』に関して『ヨーロッパ』のいくつかの国が、『間違いである』と反論したのは、『アメリカ』を裏切るためではなく、『アメリカ』のことを真に心配しているからだ、と述べています。『こんなことをわざわざ云わないと、あなたは分からないですか』と皮肉っているようにも感じられます。

『イスラム圏』と歴史的に永く関わってきた『ヨーロッパ』の国々は、『イスラム』を『異文化』として理解していて、戦闘で『サダム・フセイン』の軍隊を打ち破ってみても、『イラク国民』が『アメリカ』に感謝をして、『民主国家』がすぐに出現するなどということは起きずに、宗派や部族が入り乱れた泥沼に化すことは、目に見えていたに違いありません。

現実は、『イスラム原理主義』のグループが、イラクの混乱に乗じて侵入し、『ヨーロッパ』が危惧した以上の最悪の事態になっていることはご承知の通りです。

『サダム・フセインとアルカイダと関係は立証できなかった』『大量殺戮兵器が存在した証拠が見つからなかった』から、『ブッシュ大統領』の判断は間違いであったなどという、『アメリカ』国内の追及や反省は、皮相すぎます。

『サダム・フセイン』や『ビン・ラディン』の殺害に成功しても、『アメリカ』は一層『イスラム圏』の人達から嫌われる国家になってしまいました。『テロ』との戦いが終焉したようにも見えません。

個人も国家も『異文化に疎い』と、とんでもない間違いを犯しかねないということでしょう。

梅爺は、仕事で、アメリカ人とも中国人とも付き合いましたから、アメリカにも中国にも個人的に尊敬すべき人達がいることを承知しています。しかし、国家としての『アメリカ』や『中国』には、『私が正しい、あなたは間違い』と『短慮』で判断する大きな欠点が見受けられます。

『日本』は両国に対して、『大人の深慮』で対応できる国家でなければなりません。『日本』も『短慮』で振る舞うと、子供の喧嘩のようなレベルの低い罵り合いになるだけで、何も益するものは得られません。

しかし、永田町の与野党の『短慮』な罵り合いを観ていると、国家として他国に『大人の深慮』を期待することが、少し心もとなくなります。

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2015年12月26日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『アメリカが好きだからもの申す』(5)

ものごとの決断をする前に、『熟慮』の方が『短慮』より好ましいというのは一般論です。しかし、悲しいことに私たちは、複雑な要因が絡み合う事象の先行きを、間違いなく見通すことはできません。時には、重要な要因を身落としてしまうこともあります。『熟慮』すれば必ず『正しい道筋が見つかる』とは限らないことを承知の上で、それでも私たちは『熟慮』をすべきであるということになります。議論を深めれば、立場の違いがより鮮明になることはあっても、必ず合意が見つかる保証などありません。自説やそれを説得する能力を持たない政治家が軽々しく『国民の合意が得られるように議論を深める』などと発言したときは、自らを無能であること自白しているようなものです。

世の中は、『熟慮』してうまくいかない場合もあれば、『短慮』で行動してうまくいく場合もあるということですから、厄介な話です。

『9.11』以後の『アメリカ』の『イラク侵攻』は、『短慮』の失敗であり、『ヒトラー』の台頭をチェックできると考えていた当時の『イギリス』は『熟慮』の末の失敗であると『ウンベルト・エーコ』は述べています。しかし、これも事後の評論ですから、事前の洞察とは言えません。

『正義』『邪悪』などという概念は、『人』の『精神世界』が考え出した抽象概念であり、絶対的な判定基準が存在しません。これを、あたかも絶対的な判定基準が存在し、自分は『正義』であると主張するリーダーや、その主張に易々と洗脳されてしまう国民が多い国家は、『短慮』に毒されている国家です。その様な国家にも、勿論理性で『熟慮』ができる人はいますが、その意見は『短慮』にかき消されてしまいます。

残念なことに、現在の世界を見渡してみても、『短慮』な国家だらけです。『権力の座』が『短慮』をつくりだしているように見えます。『アメリカ』『中国』『ロシア』を観れば、大国が『熟慮』の国とは言えないことがわかります。独裁者が支配する国は、云うまでもなく『短慮』の国家です。

国民の間で『熟慮』が尊重され、『人』や『人間社会』の習性を理解できる洞察力に富んだリーダーを保有する国家は、真の文明国家です。

国民の資質が、リーダーの資質に反映することを考えると、私たちは胸を張って『日本は熟慮が大勢を占める国』とは未だ云えないような気がします。少し前に浅慮な『ボクチャン』が首相になって、私たちは困惑しましたが、このような状態では、『日本は中学生程度か』とつい自嘲気味に書きたくなってしまいます。

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2015年12月25日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『アメリカが好きだからもの申す』(4)

『アメリカ』は子供に例えれば『天真爛漫』で、率直な反応は『愛すべき資質』といえますが、自分を『善』の立場に置いて、単純な『勧善懲悪』に走りがちな所は、他国から顰蹙(ひんしゅく)を買うことになります。

『ラスベガス』『ディズニーランド』『ハリウッドの娯楽映画』などは、単純に極端を目指し、『アメリカン・ドリーム』と肯定してしまう典型的な例です。

若々しくエネルギーに満ちた『アメリカ』の一面は、世界の若者のあこがれにもなり、他国の『アメリカ化』を促進します。日本は戦後特にその影響が顕著です。世界の多くの国で『コカ・コーラ』が売られ、『マクドナルド』のハンバガーが好まれることになりました。しかし、『アメリカ化』を『グローバル化』と言い換えて肯定する風潮に対して、世界の警戒心が高まることにもなりました。

『9.11』は、『アメリカ化』を邪悪と断定する人達の存在を浮き彫りにしました。世界から『愛されている』と思い込んでいた多くの単純な『アメリカ人』にとっては、これほどショッキングなことはなく、『何故アメリカがこんなに憎しみの対象になっているか』の理由も想像できずに途方にくれました。そして、またしても自分を『善』の立場に置く『勧善懲悪(復讐)』に突き進みました。

対立する両陣営が、『自分を正義、相手を邪悪』と叫んだ途端に、『解決策』は『果てしない殺し合い』しかなくなります。

『犠牲に対する悲しみ』『理不尽な行為に対する怒り』『威厳を傷つけられたショック』の中から、『復讐』を誓うのは、『人』の習性ではありますが、それでも『自分は正義、相手は邪悪』と叫んで、『果てしない殺し合い』に走る愚を避ける『理性』を、『アメリカ』の指導者、国民が欠いたことに、『ウンベルト・エーコ』は苦言を呈しています。

仮に『ヨーロッパ』を対象とした、同じような悲惨な『テロ』が起きても、『ヨーロッパ』の対応は『アメリカ』とは異なるだろうと述べています。しかしパリのテロ事件に対してフランスの採った対応は『イスラム国』の報復空爆ですから、アメリカと似ています。

『愛すべき子供(アメリカ)』と、人生の辛苦をなめ尽くしてきた『大人(ヨーロッパ)』の差ということなのでしょう。『日本』は、とても『老獪(ろうかい)な大人』とは言えませんから、中間の『中学生』程度かと、梅爺は自己判定しました。

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2015年12月24日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『アメリカが好きだからもの申す』(3)

『9.11』の後、『アメリカ』は『イラク侵攻』を強行しました。これに先立つ国際議論の中で、『イギリス』は賛同し、『フランス』『ドイツ』は反対しました。『EU』は、必ずしも一枚岩ではないことが計らずも露呈しました。 

『アメリカ』に『NO』と言えない『日本』は、『アメリカ』を支持し大金を支払い、自衛隊の一部を、復興支援の名目で派兵し、体裁を繕いました。派遣された自衛隊が、実際の戦闘に巻き込まれなかったのは、幸いなことでした。泥縄の法制で、しかも行動を制約され、危険地帯へ派兵された自衛隊にとっては、ひどい話です。 

国際的な紛争が起きた時に、『日本は無関係』では済まされないケースがあることをこの事例は示しています。これを持って『集団的自衛権』を認めるということではなく、戦後70年経って、世界情勢、日本の立場には変化があり、日本も時と場合によって国際的な責務を果たす必要があると国民の多数が同意するならば、『現行憲法改定』の議論が先ず行われるべきと梅爺は考えます。 

『憲法』や『法』といえども、社会の『約束事』ですから、実状にそぐわないと多数が考えた場合は、『改定』の対象になります。多くの法学者が、『集団的自衛権は違憲』と主張しているのは、『憲法を勝手に解釈するな』と言っているのか、『集団的自衛権』を保有することは『好ましくない』と言っているのかが、梅爺にはもう一つ釈然としません。 

たとえ時間がかかろうが『集団的自衛権を保有するために憲法を改定しよう』というまっとうな議論が行われるべきではないでしょうか。『憲法』はあくまでも『憲法』なのですから、解釈を自由に行うことは慎重であるべきです。どのような結論になろうとも、それが日本人の『知恵』ですから、責任を持つべきです。現行『憲法』のお陰で70年間日本は安泰であったとは言えますが、今後も安泰が保証されるかどうかは、誰にもわかりません。分からないことを判断して、進み結果に責任を持つということは、国家も個人も変わりがありません。『憲法改定』すれば、『日本の軍国主義復活』と中国や韓国から非難されるでしょうが、毅然と対応する覚悟で臨めばよいだけのことです。 

『平和憲法死守』『子供たちを戦場へ送るな』などという、心情的な主張が先行するのは分からないでもありませんが、『日本の安泰』は、心情で保証されるものではないような気がします。『日本』は世界の中の『日本』であり、隔離された別世界ではないからです。 

『イラク侵攻』に関して各国の対応に違いがあり、その背景には複雑な事情があるのでしょう。 

フランス人の多くは、『アメリカ文化を軽薄』と観ている節があり、アメリカ人の多くも『フランス人はお高くとまっている』とやり返しているように見えます。 

『フランス』が『イラク侵攻』に反対したために、アメリカ国内でフランス人を『Frog』と蔑称する機運が高まったと『ウンベルト・エーコ』は書いています。『Fr』の語呂合わせと、『蛙野郎(蛙を食べる奴)』の意味が込められています。日本人を『Jap』と蔑称するのと同じです。国家の対立は、人種差別の弊害を助長します。

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2015年12月23日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『アメリカが好きだからもの申す』(2)

自分に都合の悪いものは排除する、または抹殺するという行為は、生物として、『安泰を希求する本能』をもつ『人』に避けられない習性です。 

『嫌いな食材は食べない』『ジャズやロックはうるさいだけだから聴かない』などという行為は、その人の嗜好範囲ですから、未だ許容されますが、『自分の地位を脅かす優秀な部下を左遷する』『自分の信条に反する相手を殺害する』などということになると、他人の運命や生命を脅かす行為ですから、人間社会では『悪徳』とみなされます。『人は肉体的にも精神的にも個性的であるように宿命付けられている』という事実を無視しては、人間社会は成り立ちません。『自分と違う』という理由で他人を抹殺すれば、論理的には自分しか残らず、人間社会は消滅するからです。その意味で『テロ』は『悪徳』です。 

北朝鮮では『将軍様』の逆鱗に触れた幹部は即座に処刑され、中国では権力者が、権力闘争の相手を不当な裁判で有罪にしてしまいます。権力者が、勝手な『正義』を振りかざして実質『悪徳』を行っていることになります。梅爺の個人的な直感で申し上げれば、『ロシア』の『プーチン大統領』とその腰巾着のような『メドヴェージェフ首相』のコンビの、風采や振舞いは、とても『有徳の政治リーダー』には見えません。権力の座が、人を『悪徳』に向かわせた事例は、枚挙にいとまがありません。こういう批判は権力の座からは遠い存在である梅爺の、やっかみなのかもしれません。観覧席にいる人は、競技場で実際に競技をしている選手を、自分を棚に上げて自由に批判できるからです。

『テロ』は『悪徳』であると同時に、『テロ』の攻撃を受けた人達やその社会に、次なる『悪徳』を肯定する『空気』を芽生えさせます。これは、最初の『テロ』を行った人達の狙いでもあり、『ウンベルト・エーコ』はここに真に深刻な問題があると論じています。『悪徳が悪徳を呼ぶ』『邪悪が邪悪を創りだす』という悪循環を、断ち切りがたい人間の習性を問題視しています。

この顕著な例を『9.11』直後の『アメリカ』の対応に見ることができます。『アメリカ』社会に恐怖と不安と怒りが充満し、一気に『愛国心』が高まって、『テロリスト』とそれを支援する(または支援していると推察できる)国家に報復すべしという世論が大勢を占めました。

『目には目を』『歯には歯を』は、『邪悪を排除するのが正義』という論理になり、これを実行しないリーダーは『弱腰』と非難される状況になりました。

『ブッシュ大統領(息子)』の側近であった『ネオコン』と呼ばれるグループや、産軍複合体にとっては、絶好な機会が到来し、『ビン・ラディン(アルカイダ)を支援しているサダム・フセイン』『大量殺りく兵器を所有するサダム・フセイン』という虚構のレッテルを口実に、イラク侵攻を実施しました。

これらの『アメリカ』の反応を、『ウンベルト・エーコ』は暗に『幼稚な対応』と批判しています。『アメリカ』のイラク侵攻に、『ヨーロッパ』の『ドイツ』と『フランス』は『反対』を唱えました。『ドイツ』や『フランス』は、自国の軍隊を戦場へ送り込みたくないという本音の外に、苦い歴史体験から、『悪徳が悪徳を呼ぶ』ことは、結果的にもっと大きな弊害を人類へもたらすことを、知っていたからに違いがありません。

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2015年12月22日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『アメリカが好きだからもの申す』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Turning Back the Clock(時代を逆行する)』の2番目の話題は、『Love America and March for Peace』で、『アメリカとその平和へ向かう姿勢を愛しましょう』というタイトルからは、アメリカ礼賛の内容かと勘違いしがちですが、実は、チクリとアメリカの『幼稚な分別』を皮肉っています。 

『9.11』直後に、『アメリカ』政府や『アメリカ』国民の大半が示した、過剰な反応や、イラク侵攻を決めた政策が、このエッセイでは批判の対象になっています。 

このエッセイが書かれたのは、『9.11』の直後で、現在は『アメリカのイラク侵攻』が、結果的に何をもたらしたかを私たちは知っていますから、当時と現在を俯瞰(ふかん)しながら、このエッセイを読むことができ、『ウンベルト・エーコ』の洞察力を客観評価することができます。 

厳しく永い歴史を耐え抜いてきた『ヨーロッパ』の精神文化は『大人の分別』で、歴史の浅い『アメリカ』の精神文化は『幼稚な分別』と表現するのは、勿論相対的な観方で、どちらが『正しい』かの議論の対象にはなりません。 

しかし、梅爺の『精神世界』は、『ウンベルト・エーコ』の主張の方が『自分にとって納得がいくものだ』と受け容れることができます。勿論梅爺の理性がその判断に関わっていますが、好き嫌いという情感も大きく関与しています。『モーツァルトが好き』『ゴヤが好き』というのと同じで、『ウンベルト・エーコが好き』ということに他なりません。 

『私はこの考え方が好きだ。だからこの考え方は正しい』という論理飛躍は慎むべきものと梅爺は考えています。世の中は、この不合理な論理飛躍で満ち溢れています。中国の『愛国正義』などというスローガンは、典型的です。 

『梅爺はウンベルト・エーコの洞察内容が好きだ』と言っているだけですから、ブログをお読みななる方は、ご自分の『好き嫌い』を自由にお決めになってくださって結構です。『好き嫌い』『信ずる信じない』は誰もが表明する権利がありますが、それを他人に強いることは慎重であって欲しいと申し上げているだけです。『人』の『精神世界』は個性的であり、『考え方』『感じ方』は同じではないということが重要な意味を持っていると考えているからでもあります。 

『なんとしても真実を知りたい』と思う方は『科学者』になるべきです。『科学』の領域では、『真偽』を明確にすることが目的であるからです。 

しかし『精神世界』が関わる『科学』以外の領域は、『真偽』の判定手段がありませんから、万巻の書を読んでも、他人にいくら尋ね回っても、『正しい答え』は見つかりません。自らの『精神世界』で、考え、感じて、責任を持って判断するしかありません。

『知識を得る』こと自体が目的ではなく、『知識を材料として自ら考える』ことが重要です。『ウンベルト・エーコ』は考える材料を沢山提示してくれます。

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2015年12月21日 (月)

Labour is light where love does pay.

英語の諺『Labour is light where love does pay.』の話です。 

『愛が報いられるのなら、労苦は軽い』ということですから、『人』が同じ労苦を体験しても、『何のためか』という『価値観』の認識次第で、その労苦は、重くも、軽くも感じられるという意味になります。 

『楽しい時間』は、速く経過すると感じ、『嫌な時間(楽しくない時間)』は、経過が遅く感じられるということにも相通ずることがあるように思えます。 

いつもの梅爺の持論で恐縮ですが、これは『人』の『精神世界』の『心理的な事象』で、背景に『安泰を希求する本能』があると考えると、説明ができるように思えます。 

『物質世界』では、条件が同じなら、『摂理』によって物体の重さは一定ですし、時間も一定ですから、このようなことは起きません。 

『精神世界』の『心理』は、『物質世界』の『摂理』の制約を受けない、自由奔放な『虚構の案出』や、『絶対的評価尺度を持たない価値認識』を可能にすると考えると、この違いは整然と理解できます。 

つまり、周囲の事象を、『摂理がもたらす事象』なのか『心理がもたらす事象』なのかを峻別する必要があります。混同すると混乱が生じます。 

『神/悪魔』『天国/地獄』などは、『精神世界』が考え出した『虚構(抽象概念)』であり、『美醜』『善悪』などは、同じく『精神世界』が考え出した『絶対的評価基準を持たない価値認識(抽象概念)』であると、梅爺は考えています。 

勿論、これらの『抽象概念』は、『安泰を希求する本能』が、必要なものとして考え出したものですから、『人』にとっては無意味なものではありません。ただし、あくまでも『人にとって意味がある』だけであり、『物質世界』を論ずる時には通用しません。

『美しい山』『美しい花』は、『人』にとっては重要な存在ですが、『自然界(物質世界)』には、ただ『山』『花』が存在するだけという話です。『恵みの雨』『災害をもたらす雨』は、『人』にとって重要な区分ですが、『物質世界』の『雨』は、『摂理』が作り出す『変容(現象)』に過ぎません。

『精神世界』にだけ存在する『事象』や『価値判断基準』が、『物質世界』にも適用できると多くの方が『推測(誤解)』し、反って周囲のことを分かりにくくしているように梅爺は感じています。『理性』で考えれば、混同は容易に避けることができるとも考えています。

『Labour is light where love does pay.』は、西欧の『理』による説教口調の表現ですが、日本人がこれを表現すると、『惚れて通えば千里も一里』 『我が物と思えば軽し笠の雪』などと、『諧謔』『滑稽』を重んずる表現になります。梅爺はこの日本の伝統的な『精神世界』の表現方法が大好きです。

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2015年12月20日 (日)

天才ジャズピアニスト小曽根真(4)

人生は、『決まりを守る』ことと、『決まりを破る』ことの微妙なバランスを配慮する必要があります。『保守』と『革新』という言葉で表現されることもありますが、時と場合で、どちらが『正しい』という断言することはできません。『保守』と『革新』の政党が角突き合わせ、『お前は間違っている』と罵り合うのは、そもそも滑稽で、それに振り回される選挙民も、一層滑稽です。

梅爺は、臆病ですので、比較的に『保守的』であると言えますが、時に他人が驚くほど『革新的』な言動に走ることが無いわけではありません。全て、個性的である梅爺の『精神世界』が判断していることで、『結果』に対しては自分で責任を負うしかありません。この歳になれば、世の中には『誰にも適応できる正しい生き方のマニュアル』などは存在しないことは分かりますし、何故存在しないかの理由も理解しています。生物として、各人の『精神世界』は『個性的』であるように、宿命付けられているからです。

『芸術』も、『決まりを守る』ことと『決まりを破る』ことの、せめぎ合いの世界です。『スポーツ』も同じです。

基本的なことは『決まりを守る』必要があり、そのためには厳しい訓練、練習が必要になります。しかし、最終的な表現をするための判断では、『決まり』の呪縛から解放されなければならないケースが大半です。

クラシック音楽は、比較的に『決まり』に制約されることが多く、個性的な感性の表現は『決まり』の中で行われますが、ジャズは、クラシック音楽に比べると、『決まり』の制約は緩く、その部分を即興的な独創能力で補う必要があります。

与えられた素材で料理をするか、自前の素材で料理をするかの差に似ています。

『小曽根真』は、そのどちらをも、難なくこなしてしまうところが、『天才』の所以(ゆえん)です。勿論、厳しい訓練、練習が基盤にあるのでしょうが、少なくとも、どんな難しいことでも、涼しい顔でこなしてしまっているように見えます。

世界の一流のジャズメンが、『小曽根真』に一目置き、尊敬しているわけですから、プロも認める『天才』と言えそうです。

機会があったら『小曽根真』の語る内容に耳を傾け、彼の演奏を聴いてみられることをお薦めします。間違いなく世界に通用する日本人です。

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2015年12月19日 (土)

天才ジャズピアニスト小曽根真(3)

番組で、二つ目に紹介されたのが、『小曽根真』が編曲した『モーツァルトのピアノ協奏曲第二番』で、スコットランドのビッグ・ジャズバンドとの共演でした。会場は、エジンバラ(スコットランド)のコンサートホールです。世界中を活躍の場にしている姿が伝わってきます。

『モーツァルト』の『ピアノ協奏曲』は27曲残されている他に、断片的な楽章のみの楽譜がいくつか伝えられています。第一番から第四番までは、他人の編曲が加えられていて、全てが『モーツァルト』のオリジナルではないと言われています。

しかし、『小曽根真』は、第二番の第二楽章は、『モーツァルト』の父親に対する複雑な心の葛藤を表現していると感じ取っています。表面は明るく振る舞いながら、心では慟哭(どうこく)しているようだと表現しています。

『小曽根真』は、この編曲の構想に数年をかけ、実際の作業は短期間で終えたと語っています。天才が数年の間、何を反芻(はんすう)しながら考えていたのか知りたくなります。

曲の構成は、原曲と同じに三つの楽章ですが、全体の印象は勿論『ジャズ』です。

演奏の前に、『小曽根真』は、『一言(ひとこと)よろしいですか』とマイクを持ち、聴衆に『皆さんの中で、モーツァルトのピアノ協奏曲第二番を聴いたことがある方は、挙手をお願いします』と問いただしたうえで、『これからの演奏を聴き終わって皆さまは大笑いされるでしょう。それを期待しています』と流ちょうな英語で語りかけました。

『ジャズ』らしく、色々な楽器の『即興演奏』がふんだんにちりばめられているのですが、『小曽根真』のピアノが聴かせる場面では、むしろ原曲に忠実に、クラシックの演奏技法が披露されました。『小曽根真』のエスプリが伝わってきます。

演奏後、会場は大喝采に包まれました。『モーツアルト』が生きててこれを聞いたら、『いい加減にしろ』と怒ったのか、大笑いして『小曽根真』をハグで讃えたのかは、想像するしかありませんが、梅爺が会場にいたら、間違いなくッスタンディング・オベーションに加わったと思います。

『小曽根真』は、音楽には色々なジャンルがあっても、その本質は同じであると感じ取って、演奏でそれを実践していることが分かります。

言葉だけでは表現し尽くせない『人』の『精神世界』を、『音楽』や『絵画・彫刻』などが補って表現するのが芸術です。芸術は空腹を満たしませんが、『精神世界』を豊かに満たします。芸術に無関心な人生は、折角生きて体験できることの多くを放棄していることになるのかもしれません。

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2015年12月18日 (金)

天才ジャズピアニスト小曽根真(2)

『小曽根真』は、1961年神戸で産まれました。父は、ピアノ、ハモンドオルガン奏者の『小曽根実』です。5歳からピアノ、ハモンドオルガンを習い始め、12歳の時に『オスカー・ピーターソン』のピアノ(ジャズ)をレコードで聴き、魅了され、ジャズピアニストになることを決意し、15歳でプロデビューしています。

高校卒業後、アメリカの『バークリー音楽大学(ボストン)』へ留学し、ジャズの作曲・編曲科を首席で卒業しています。卒業の年に、『カーネギー・ホール(ニューヨーク)』で、ジャズ・ピアノ・リサイタルを行い、聴きに来た『クインシー・ジョーンズ』に認められ、メジャーレコード会社の専属となり、本場アメリカで、華々しい活躍を開始し、今日にいたっています。

超一流ジャズメンとの交流も多く、特にジャズ・ビブラホン奏者として名高い『ゲーリー・バートン』との『Duo(デュオ)』は、全米で喝采を浴びました。

ジャズは、黒人霊歌などの黒人音楽から進化した音楽形式で、『スウィング』と呼ばれる独特のリズム感覚が特徴ですが、なんといっても『即興演奏』が魅力です。

それでも、バンド演奏の時は、全て『即興演奏』というわけにはいきませんから、楽譜に従って演奏することもありますが、制約を最小限度にするために、『コード(和音)進行』と『演奏長さ』だけを指定して、メンバーが自由に演奏することもよく行われます。

まさしく『一期一会の妙』が真髄で、二度と同じ演奏には遭遇しないことになります。

『即興表現』で聴衆の感性に迫るのがジャズで、作曲家の残した楽譜を、徹底咀嚼(そしゃく)した演奏者(指揮者)が『形式表現』で聴衆の感性に迫るのがクラシック音楽と言えます。

『小曽根真』は、日本でもいくつかのオーケストラと『ラプソデー・イン・ブルー』を演奏していますが、ある時指揮者の『尾高忠明』に頼まれて『札幌交響楽団』と『モーツァルトのピアノ協奏曲』を共演することになります。

ジャズピアニストが、クラシックピアノの演奏に挑んだことになります。勿論大役を見事に果たすのですが、本人は、その後あらためてクラシックピアノを習いなおし、クラシック音楽の世界にも魅了されていきます。

ジャズピアノとクラシックピアノをこれほど見事に両立させるピアニストは、世界的にみても『小曽根真』が最高峰ではないでしょうか。『即興表現』と『形式表現』を理解して、両者を難なく結び付けてしまう才能は、途方もつかないものです。

アメリカを拠点に活動してきましたので、『小曽根真』は英語も流暢です。個人の能力で、世界をうならせてしまう日本人の『天才』に、梅爺は驚嘆するばかりです。

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2015年12月17日 (木)

天才ジャズピアニスト小曽根真(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放送される『プレミアム・シアター』は、世界の著名なオーケストラの演奏、オペラ、バレーなど、いわゆる『クラシック』音楽主体の番組で、梅爺のお気に入りです。

この番組としては珍しく、日本のジャズピアニストの『小曽根真』が登場し、圧巻の演奏を披露しました。勿論、専門のジャズ演奏ではなく、『クラシック』と『ジャズ』の橋渡しをする演奏内容でした。

一つは、『ニューヨーク・フィルハーモニック』の本拠地『エイヴリー・フィッシャー・ホール(ニューヨーク)』で、同オーケストラと共演した『ラプソデー・イン・ブルー(ガーシュイン)』でした。

『ラプソデー・イン・ブルー』は、クラシック音楽にジャズの色彩を持ちこんだ作品で、アメリカの文化風土が必然的に生みだしたともいえる新しい音楽形式です。

音楽には色々なジャンルがあり、それぞれに伝統的な特徴がありますが、それぞれ、文化や科学の進展とともに、変容、進化をつづけています。音楽全体には、規制や枠組みはありませんから、無限な表現の可能性が秘められています。『小曽根真』は、無限な可能性を秘めた目に見えない世界である『音楽』を『神に似た存在』と表現しています。『人』が『音楽』を極め尽くすことはありません。

『音楽』は、『人』が『精神世界』を表現するために考え出した手段の一つで、『言語』と似た役割を果たしていますが、直接『情』を表現したり、訴えたりすることでは、抽象性において『言語』に優る特徴を持っています。『人』が『精神世界』を表現したいという欲望を持つのは、仲間との『絆』を確認して安堵したと欲するからであろうと、梅爺は考えています。生物として原始的な『安泰を希求する本能』が、『芸術』や『宗教』や『科学』などの高度な分野を推進する原動力にもなっていると推測しています。

『精神世界』を介して、『音楽』の無限の領域の一部に接することができるのは、『脳』が機能して自分が『生きている』からで、そうであるからこそ『生きている』ことが大切になります。残念ながら、『死』とともに、その人の『精神世界』は、消滅し『無』に帰すことになるのであろうと梅爺は推測し、覚悟しています。『霊魂不滅』などという『願い』は、同じく『安泰を希求する本能』が創りだすことは分かりますが、その実態(カラクリ)を、理性では思いつきませんから、『願い』にすぎないと考えています。『精神世界』には、『願い』や『祈り』の対象は沢山ありますが、実態が『この世(物質世界)』に存在することを実証することは困難です。

『ラプソデー・イン・ブルー』は、ピアノのソロの部分で、演奏者の『即興演奏』が認められていて、ここが演奏者の能力の見せ所になります。『全体との調和を配慮した上での自由表現』が求められます。『即興演奏』は『ジャズ』の特徴でもあります。

ジャズピアニストの『小曽根真』は、クラシックピアニストには無い感性で『即興演奏』を行い、オーケストラのメンバーや、聴衆を魅了する演奏をしました。

あるオーケストラ団員は、『彼は365日演奏会を行えば、365通りの異なった即興演奏をするに違いない』と語っていました。梅爺には想像さえできない天才的な才能の持ち主です。

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2015年12月16日 (水)

東京大学音楽部(男声合唱団、女声合唱団)合同定期演奏会

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12月13日(日)に、東京大学音楽部男声合唱団『コールアカデミー』と女性合唱団『コーロ・レティツィア』の合同定期演奏会が『赤羽会館(東京都北区)』で開催され、梅爺が所属するOB男声合唱団『アカデミカコール』が賛助出演して現役の『コールアカデミー』と一緒に、『三つのイタリア語の祈り』を演奏しました。

『コールアカデミー』は、東大の伝統ある男声合唱団として続いてきたものですが、10年位前に入団部員の数が激減して、存続の危機に陥りました。この危機を乗り切るために、『OB会』による資金援助がおこなわれ、『女声合唱団』を新設するというテコ入れが行われました。

その甲斐があり、学生たちの努力もあって、今では、男声合唱団は40名を、女声合唱団は20名を越す、立派な『合唱団』に育っています。勿論、演奏能力も高いレベルにあります。

支援をしてきた梅爺たち爺さんたちにとっても嬉しいことで、『世の中結局カネ(資金援助)とオンナ(女声合唱団新設)だね』などと、少しばかり品の無いジョークを云い交わしています。

今回梅爺たちが演奏した『三つのイタリア語の祈り』は、指揮をしてくださった『三澤洋史(ひろふみ)』先生ご自身の作曲作品で、『主の祈り』『聖フランシスコの祈り』『アベマリア』で構成されています。梅爺たちがこの曲の演奏をするのは今回が2回目です。ピアノと室内楽構成の弦楽器アンサンブルが伴奏を担当しますが、宗教曲には珍しくアコーディオンがそれに加わっています。特に『アベマリア』は、我々爺さん合唱団のために作曲されたものです。宗教曲にアコーディオンの伴奏、爺さん合唱団のための『アベマリア』などに、三澤先生のエスプリが込められています。『アベマリア』は普通、少年合唱団や女声合唱団が静謐(せいひつ)に歌うものですから。

三澤先生自身が敬虔なカトリック信者であることもあり、そして最近の世界的な『テロ事件』の影響も受けて、練習時から三澤先生の熱い思いが語られました。特にパリは三澤先生にとっては、思い入れが多い都市であることもあったのでしょう。『祈り』を構成するイタリア語の言葉の本来の意味も懇切に教えていただいたこともあり、今回の演奏は『祈り』でありながら、エネルギーや思いを聴衆へ届けることができたように感じます。

特にアッシジの『聖フランシスコ』が『平和のために私を道具としてお使いください』と神に祈った2曲目は、カトリックの宗教曲とは思えない、情熱やエネルギーに満ちています。

『祈り』が狂信的なテロリストの行動を変えることには、直接つながりませんが、それでもテロリストとは異なった価値観を持つ人達が、地球上に沢山いることを示すことに大きな意味があります。

異文化をお互いに認め合って、殺し合いせず共存することが、唯一残された手段です。しかし、『狂信』は異文化を認めない立場ですから、これに立ち向かう知恵を人類は、残念ながら保有していません。報復空爆すれば『徹底殲滅(せんめつ)できる』という考え方も『狂信』ですから、『狂信』と『狂信』の戦いがどこへ向かうのか予測ができません。

誰もが理性で異文化の存在を認めるようになってほしいと願いますが、『祈る』しかないという現状は、もどかしさを感じます。そもそも、『神』などという概念を人間が思いつかなければ、こんなことにはならなかったのにと、畏れ多い愚痴めいた妄想を抱きたくなります。

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2015年12月15日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『戦争と平和の考察』(6)

『争い』が『ヒト』に生物的進化をもたらし、『争い』が『人』の文明を高度に発展させてきたことを考えると、『争い』は避けられないことになりますが、『争い』の一つである『戦争』は、人々の生活や命を奪うことになり、これだけは何としても避けたいと、多くの人が考えています。

しかし、この考えも現代人の考えであり、『自軍の兵士の死』をある程度覚悟して『戦争』するのが、従来の価値観でした。『国家の勝利』の代償はやむを得ないという価値観です。それでも、さすがに後ろめたさがあり、『国に身をささげた英雄』としてその死を褒めたたえました。

『個』を優先するか、『全体』を優先するかは、人間、人間社会が抱え込んでいる最大の矛盾です。個性的な『ヒト』が、安泰に生きるために『群で生きる』方法を選んだ時から、この矛盾は始まり、今も続いています。

この矛盾に対応する、一般的な方法は存在しません。

何も国家と国民の関係ばかりではなく、『会社』『スポーツのチーム』『オーケストラ』など全ての『群』の中で、この『個』と『全体』のバランスをとる現実的な努力が繰り返されています。しかし、普遍的な解決方法は存在しません。

『戦争が無い状態を平和と呼ぶ』なら、『平和』はある期間維持することはできます。敗戦後70年間、日本は『平和』でした。

しかし、『誰もが自由に、安心して生きていける状態を平和と呼ぶ』なら、戦後70年間、全ての日本人にとって日本は『平和』であったとは言い切れません。

『ウンベルト・エーコ』は、梅爺同様人間の本質にとって『争い』は避けがたいことと考えているらしく、『戦争の無い世界』『平和な世界』は、そう簡単には実現できないと、本心では思っている風情が文章に表れています。

それでも無理を承知で、『戦争』を減らす方策を挙げれば、先ず『小さな戦争』を回避する知恵を見つけることだと述べています。その知恵は『大きな戦争』の回避にも使えるだろうという論理です。

そのくせ、人は『理想』のためには『ウソ』も云わなければならないと、弁解していますので、上記の論理が、問題解決の決め手とはならないことを、示唆しています。頭の良い教養人とお付き合いするのは、容易ではありません。

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2015年12月14日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『戦争と平和の考察』(5)

『戦争』や『平和』は、言葉とその概念は、誰もが知っています。しかし、厳密に考えると『戦争とは何か』『平和とは何か』は、曖昧であり、分かり難いことになります。 

人文科学で『戦争』と『平和』を論じた著作は多数ありますが、『物質世界』の『摂理』だけで『戦争』と『平和』を考察した著作はありません。つまり『戦争』と『平和』は『科学』の研究対象にはなり難いことを示しています。これは当然のことで、『戦争』と『平和』は、人間の『精神世界』が深く関与する事象であり、『情』が強く働く『精神世界』は未だ『科学』では解明できていないからです。『科学』は原則として『理』を対象とした世界です。『ウンベルト・エーコ』も『平和の科学は存在しない』と指摘しています。 

白馬にまたがった正義の騎士気取りで『戦争絶対反対』『世界に平和を』と叫ぶ人達は多く、それは『間違い』とは言えませんが、『それで事足りる』話でもないことにも、思い当たって欲しいと梅爺は願います。本質を洞察せずに、皮相な価値観で主張をすることは容易ですが、それは解決には程遠い話です。 

人類は、『戦争を回避する方法』『平和を維持する方法』について、普遍的な手段を未だ獲得していません。

『東西冷戦』が終わり、ベルリンの壁が崩壊した直後に、『フランシス・フクヤマ(日経3世アメリカ人)』は、『The End of History and The First Man(歴史の終わり)』という著作を発表し、世界でベストセラーになりました。

『公平な選挙で成り立つ民主主義』『自由経済を基調とする資本主義』は、人類が試行錯誤と経験則で終に獲得した『最上の制度』であり、ここから人類のあたらしい歴史がはじまると、高らかに宣言した内容でした。言葉を換えれば、『アメリカ型の政治・経済体制が最上』と自画自賛していることになります。

強大に見えたソ連邦が、あっけなく崩壊するのを目の当たりにした人々は、『歴史の終わり』を読んで、これで世界から紛争は無くなり、恒久平和が訪れると錯覚しました。

『ウンベルト・エーコ』も皮肉を込めて、『歴史の終わり』どころか『歴史は昔通りに繰り返している』と述べています。

人間も、人間社会も『個性的』であるように宿命付けられていて、異なった価値観で周囲の事象へ対応すること、自分にとって都合の良いことを優先して選択しようとすることが避けられないとすれば、この世から人間や国家の『争い』はなくなることが無いという論理帰結になります。

世界中の人達が、『同じ価値観を共有する』ことが『平和』の条件とすれば、それは、人間の最大の特徴である『個性的である』ことを放棄するという矛盾に遭遇します。

一方、『人間の素晴らしさの根源』は『個性的』であることに由来していますので、『争い』を減らす方法は、唯一誰もが『寛容と忍耐』の意味を理性で理解し、受け容れるしかないように思えます。自分にとっても、これは至難の業ですから、限りなく理想論であることを、梅爺は承知しています。

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2015年12月13日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『戦争と平和の考察』(4)

『新しい戦争』の特徴としては他に、『必ずしも国と国との戦い』ではないという側面があります。『国際的なテロ組織』と『アメリカ』との戦いでは、『テロ組織』が立てこもる本拠地が、『アメリカ』の攻撃の対象になり、それが『アフガニスタン』であるというだけで、『アメリカ』と『アフガニスタン』という国同士が戦争をしているわけではありません。その地に元々住んでいた、『テロ』とは無関係の『アフガニスタン』の人達の生活や命が、理不尽に蹂躙(じゅうりん)されます。 

『新しい戦争』では、何を持って勝敗を決するかも定かではありません。『サダム・フセイン』を捕縛して処刑してみても、『イラク』は一向に平穏な国家にはならず、『ビン・ラデンン』の殺害に成功したとオバマ大統領が誇らしげに宣言してみても、『9.11』に対する『報復』の面子が立ったという自己満足に過ぎず、国際的な『テロ組織』は一向に弱体化しません。『テロ組織』や『イスラム国』には、世界中の若者が志願して参加しますので、無国籍集団であり、従来の『国家』という概念は通用しません。 

『新しい戦争』で使われている『兵器』の大半は、外国の軍需産業が製造したもので、『テロ組織』と戦っている連合国の兵士が使用している『兵器』と、『テロ組織』の兵士が使っている『兵器』は、同じものである可能性さえあります。『国家』の思惑と軍需産業企業の思惑は、同じではないという、非常に複雑な、国際的な経済利害関係が『戦争』に絡んできます。 

ベトナムの観光旅行をした時に、サイゴン陥落時に乗り込んできた北ベトナム軍の戦車が、記念品として広場に展示してありました。勿論当時のソ連製戦車ですが、その部分だけが、最新技術を駆使した工業製品であることに、梅爺は違和感を覚えました。当時の北ベトナムには、この工業製品を自製する力は無かったからです。 

第二次世界大戦では、『日本製兵器』と『アメリカ製兵器』の戦いであったことを考えると、『新しい戦争』は、全く様相が違います。 

要約すると、『新しい戦争』では、『誰と誰が戦っているのか』『どういう状況で勝敗の判定ができるのか』『戦争で利益を得ている第三者はいないのか』など判然としない複雑な要素が絡み、結局戦争当事者は、双方とも『得をすることはない』結果になる可能性が大きいと『ウンベルト・エーコ』は論じています。

この結果、『新しい戦争』は、比較的『短期戦』『局地戦』になりま。 

しかし、中国が台頭して、世界の覇者になろうとすると『新しい戦争』は、これらの分析だけでは済まされない『更に新しい戦争』へと変容する危険性を秘めています。

中国が世界を敵に回して『戦争』をする愚は犯さないとは思いますが、覇権姿勢は、緊張を増す要因にはなります。『ウンベルト・エーコ』は『ヨーロッパ連合』の弱体化が進み、結局立場を強める『中国』と、相対的に立場が弱まる『アメリカ』の関係が、世界の『戦争と平和』に大きく影響するようになると予測しています。

このような情勢の中で、『日本』の立場は、重要であり、微妙でもあります。アメリカと運命を共にするのか、それとの中立的な立場へ転向していくのかの選択を迫られるからです。

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2015年12月12日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『戦争と平和の考察』(3)

『東西冷戦』以降の『新しい戦争』は、以前の『古い戦争』とくらべると、大きな違いがあります。 

『科学』の最新成果を利用した高性能新兵器、無人兵器の登場は当然のこととして、インターネットや衛星通信て、『戦争』に関わる情報に、交戦国の当事者ばかりではなく、世界中の人達が接することができるようになりました。いわば『衆人環視』の中の『戦争』となりました。 

『大本営発表』のような、一方的な情報ではなく、人々は、交戦している双方や、中立的なジャーナリストが発する情報に接して、『何が真実に近いか』についてある程度客観的に自分なりの判断を下せるようになりました。 

勿論交戦している側は、国際世論に訴えるために、『自分の正当性』『相手の残虐性(一般市民への無差別爆撃)』を強調した情報を発信します。お互いに情報の効果を最大限に利用する戦術を駆使しますから、『新しい戦争』は『情報戦争』とも言えます。『イスラム国』の残忍な拘束者処刑シーンの公開は、世界中の人達を震撼させると同時に、大きな反感を買うことにもなります。情報の利用の方法を誤ると、自分の首を絞めることになることも承知しながら、両陣営は虚々実々の駆け引きをしていることになります。情報を仲間内の結束のために利用しようとしても、反って内からの反発を創りだす要因にもなることもあります。 

中立的なジャーナリストが、命がけで現地へ潜入し、リアルタイムで情報を送世界へ発信するなどという状況も『古い戦争』では考えられないことでした。 

アメリカが『サダム・フセイン』のイラクを攻撃した時に、バグダッドのホテルに滞在してレポートを送り続けたCNNの記者がいました。

『ボスニア紛争』でNATO軍がセルビアを空爆した時に、セルビア国内から中立的なレポートを世界へ発信し続けた、セルビア人のジャーナリストがいました。

アメリカの敵は『サダム・フセイン』とそれに従う『イラク軍』であり、一般イラク国民ではない、NATOの敵は、セルビアの政治リーダーとその指示で動くセルビア軍であって、セルビアの一般国民ではないという認識が、『新しい戦争』では、国際的な世論となっています。

これは、ナチのロンドン空爆、イギリスのドレスデン空爆が、戦争の一部としてやむを得ない手段として、受け容れられた『第二次世界大戦』とは決定的に異なります。

『新しい戦争』では、『ヒロシマ』『ナガサキ』のようの行為を行う国は、世界の人々を敵に回すことになり、徹底糾弾されることになります。

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2015年12月11日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『戦争と平和の考察』(2)

『個人の死』は悲しい出来事ですが、生物としての『人類種』が、常に活力をもって継承維持されていくには、『世代交代』が必須の要件になります。

このミクロな視点とマクロな視点での価値観の矛盾を、『ウンベルト・エーコ』は『戦争』においても指摘しています。

『ウンベルト・エーコ』は勿論『戦争肯定論者』ではありませんが、人類社会が活力をもって継承維持されるために、『争いごと』は避けられない要因であることを指摘しています。『争いごと』の最たるものが『戦争』です。

日本は、現状で『戦争』には巻き込まれていませんが、日本社会を維持するために『入学試験』『選挙』が行われ、企業は生き抜くためにライバルとの『競争』に明け暮れています。『戦争』は『殺し合い』をするからいけないという主張を除けば、『争いごと』そのものを肯定せざるを得ない状況であることがわかります。

『争いごと』で自分が勝者であったり、自分に都合の良い状況である時は、『人』は不平を口にしませんが、敗者になったり、つらい状況に置かれると『格差の無い社会』『平和な社会』を求めて叫ぶようになります。

社会が『争いごと』で成り立っている以上、『格差の無い社会』『平和な社会』は決して実現することのない『夢』に過ぎません。そうであるが故に『人』の『精神世界』は『安泰』を求めて、『願う』『祈る』という行為を行います。

生物としての『ヒト』は、生き残りを賭けた『争いごと』の中で進化し、複雑な『精神世界』を保有した『人』は、『争いごと』を利用して文明を発展させてきたという視点は、冷酷に聴こえますが、現実です。私たちは、他の生物(動物、植物)の命を奪うことなしに、自分の命は維持できない現実が、如実にそれを物語っています。

『ウンベルト・エーコ』のように、現実を直視して、『人間』を洞察しようとする言動は、思慮の浅い人達の誤解を招きかねませんが、梅爺は思慮深いとは言えないまでも違和感を覚えません。

『ウンベルト・エーコ』の主張に従えば、人間は、『格差』を解消するために『戦争』を起こしてきたのではなく、自分に有利な『格差』を創りだすために『戦争』をしてきたことになります。

『東西冷戦』の時代は、米ソ間の大『戦争』こそ抑制されていましたが、アフリカ、中近東、アジア、中年米で小規模な『戦争』は後を絶ちませんでした。これら周辺の小規模な『戦争』があったからこそ、『東西冷戦』が保たれていたと『ウンベルト・エーコ』は述べていますが、この因果関係は梅爺には正直理解できません。

『東西冷戦』が終わった後の、世界の『戦争』は、大きく以前の『戦争』とは異なった様相を呈していることは確かです。これを『ウンベルト・エーコ』は『新しい戦争』と呼んでいます。

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2015年12月10日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『戦争と平和の考察』(1)

梅爺は、イタリヤの文学者『ウンベルト・エーコ』にはまっています。

今度はエッセイ集『Turning Back The Clock(時を遡る)』を読み始めました。約40編のエッセイが、7つの章に分類されていて、どのエッセイのタイトルも、梅爺のような野次馬の気をそそるものです。

読み終えたエッセイから、順次感想をブログに書いていきたいと思います。かなり長丁場になりそうな気がします。梅爺同様、野次馬を自称される方はお付き合いください。

これらのエッセイは、全て2000年から2005年に書かれたものです。したがって10年後の現在の視点では、修正しなければならないこともあるかもしれませんが、梅爺が気づいたものは、付言します。

21世紀の幕開け時期に書かれたエッセイで、『新しい時代がくる』と期待したら、どうも世の中は『逆戻りしているように見える』ということで、本のタイトル『Turning Back The Clock』になっています。20世紀の末に、冷戦が終わり、『ソビエト連邦』『ユーゴスラビア連邦』が分解して、昔の名前で沢山の国々が独立したことなどは、たしかに『逆戻り』に見えます。

しかし、世の中は、進んだり、戻ったりを繰り返しながら、結果的には新しい様相に変わっていくものですから、ある部分だけを観れば『逆戻り』があることは当然のように思います。

『Hot Wars and Media Populism』というサブタイトルが本についていますから、当時の戦争と、メディアの大衆迎合傾向を論ずるエッセイが多く含まれています。

第一章は、戦争と平和に関するエッセイを収めたもので、最初のエッセイが『Some Reflections on War and Peace(戦争と平和の考察)』です。

人類の歴史は、『戦争』の歴史でもありますが、『ウンベルト・エーコ』は、『古代、中世の戦争』『世界大戦』『冷戦』『冷戦以降の戦争』では、『戦争』の内容が大きく異なっていることを指摘し、その特徴を分析しています。

日本では『集団的自衛権』が議論されていますが、政治家や日本国民が想定している『戦争』は、『昔のタイプの戦争』なのではないかと気になります。

今後、不幸にも日本が『戦争』に巻き込まれるとすれば、『新しい時代の戦争』であるはずです。当事国同士の軍隊が、前線で交戦するといった、イメージとは全く異なった『戦争』に巻き込まれることの可能性が高いのではないでしょうか。

思いもよらないような手段を用いた『テロ(サイバー・テロを含む)』などの攻撃を受けた時に、『アメリカ軍が同盟で守ってくれるから安心』などという話は、無意味になってしまうのではないでしょうか。前線に兵士が赴いて戦う『戦争』ではないからです。『戦争』で死ぬのは兵士とは限らず、『普通の人』が巻き込まれるということです。

『これからの戦争は、今までの戦争とは異なる』という当たり前の議論が、日本では抜け落ちているように感じます。

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2015年12月 9日 (水)

野卑な言葉は何故いけないのか(4)

人間社会で『野卑』が疎まれるのは、宗教が教える『罪』や『穢れ』が関与していて善悪の問題と受けとめられることもありますが、本質は『社会の約束事を守らない個人の身勝手な言動を排除すること』にあると、梅爺は推察しています。

『人』は、一人一人異なった『精神世界』を保有するように、宿命付けられています。生物進化の過程で獲得した、両性生殖のしくみで受胎時に子供の遺伝子が偶然決定するからです。指紋や、遺伝子が一人一人異なっているように、『精神世界』も異なっています。

一方、『人』はコミュニティを作って生き残りの確率を高める方法を選択しました。つまり、『群をなして生きる』手段を選んだということです。

個性的な個人の『価値観』と、、群(コミュニティ)の秩序を維持するための一律の『約束事(一種の価値観)』は矛盾します。人類の歴史は、この矛盾にどう対応するかの試行錯誤を繰り返してきました。『民主主義』は一つの対応策ですが、これも矛盾を全て解消するものではありません。解決策はありませんが、矛盾事態の存在を自覚することが、個人にとっては大切なことです。この大切さを、論理だって梅爺に教えてくれる人は今までいませんでした。若いころから理解していれば、梅爺の人生は大きく変わったにちがいありません。国家間の価値観の対立、宗教間の価値観の対立など、現状でも解決するための知恵は見つかっていません。

何を持って『野卑』な言葉とするか、『野卑』な言葉を、青少年の耳に届かないように規制するかどうかは、その『社会』が約束事として決めればよい話で、梅爺は、このことが人類の最優先懸念事項とは思いません。勿論、できれば『民主主義』的な議論で、約束事を決めるのが好ましいと思います。

ただ、このエッセイの著者の『野卑な言葉は青少年に悪影響を及ぼすという根拠は見当たらない』という主張には、同意します。

幼児の成長を観ていれば分かるように、幼児は『情』をストレートに表現します。最初に話しだす言葉の中には、大人が『好ましくない』と思うものが沢山あり、大人が『いけません』と云えば云うほど、面白がって使います。それが楽しい体験であるからです。

幼児の時は、豊かな情感を育むようにすべきで、上品でおとなしい幼児を『良い子』とするのは、大人の価値観です。

やがて幼児は、青少年期に理性の大切さも学び、情感と理性のバランスがとれる成人になっていきます。

『野卑』な言葉が人生に与える影響などは、ごく一部の皮相な問題に過ぎません。それよりは、幼児から成人まで『精神世界』はどのように成長するのか、個性と成長はどのような関係があるのか、成長に最も影響を与える要因はなにかというような基本研究が進展することを望みます。

『脳』や『精神世界』は、これほど、未だ分かっていない領域なのです。

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2015年12月 8日 (火)

野卑な言葉は何故いけないのか(3)

『野卑』は、『人』の『精神世界』が考え付いた『抽象概念』の一つです。『野卑』を構成する『野蛮』『卑しい』という言葉も同じく『抽象概念』です。

これらの『抽象概念』の大半に共通することは、『物質世界では通用しない』ということと、『普遍的な比較評価尺度がない』ということです。

『物質世界(自然界)』には『山河』はありますが『美しい山河』はありません。『美しい』というのは『人』の『情』を表現した『抽象概念』ですから、『人』がいなければ『美しい』という概念も存在しなくなるからです。しかも、『情』には個人差があり、同じものを観ても『美しい』と感じない人もいますので、『精神世界』でさえも、必ず共有される概念でもありません。。

一方『物質世界』に共通することは、『共通素材で構成される実態』とその『実態』を『変容』させる原因となる眼には見えない『摂理(法則)』で構成されていて、あらゆる事象は『摂理』で『真偽』の判別がつくということです。更に重要なことは、『物質世界』の『変容』には、『目的』『あるべき姿』はないということです。全て偶発的に『変容』は進行します。人類は、『科学』で、多くの『摂理』を発見してきましたが、何故『摂理』が存在するのかは、分かっていません。多分これは『科学』にとって究極の『謎』です。

何やら難しい話とお思いでしょうが、例えば『地球』は、極めて偶発的な『宇宙』の『変容』の中で出現したもので、現在生物が命を維持できる環境であるのも、偶然そのようなバランスになっているだけの話で、いつか必ずこのバランスは『変容』で崩れ、生物は命を維持できなくなることは、まちがいなく起こります。例えば『太陽』は、あと40~50億年で燃え尽き『白色矮星』に『変容』しますから、その時『地球』は現在のままでは存在できません。それが、人間の時間感覚では、今日明日の問題ではないというだけのことです。

偶然『物質世界』がもたらした都合の良い環境の中で、私たちの命も『摂理』で維持されています。命のシステムも、バランスが移行すれば現状は維持できなくなり、『変容』します。『老い』や『死』は、『物質世界』の視点で観れば『変容』に過ぎません。ただし、『人』にとっては『精神世界』が維持できていることは、都合の良い状態ですので、梅爺は『生かされている』ことに感謝しています。その『感謝』も『精神世界』の行為です。

話が脱線していますが、『野卑』は、『相対的な評価基準しかもたない抽象概念である』と申し上げたかっただけです。

つまり、何を『野卑』とするかは、時代や個人によっても異なるということです。あたかも『絶対的な評価基準』があるかのごとき口調で『野卑な言動は慎みなさい』と説教されると、梅爺が反発するのはそのためです。

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2015年12月 7日 (月)

野卑な言葉は何故いけないのか(2)

『野卑な言動は慎みなさい(お行儀よくしなさい)』というのが、文明社会における通念です。何故そう振る舞うことが『善い』のか、深く考えることなく、多くの人はその教えを受け容れ、またその教えを次の世代へ受け継いできました。

しかし、梅爺のようなへそ曲がりは、何故『野卑な言動はいけない』のかを問いただしたくなります。そして『そんな当たり前なことを聞くな』と周囲の顰蹙(ひんしゅく)をかいます。

何を持って『野卑』と定義するのかにもよりますが、人間は誰もが内に『野卑』を宿命的に抱え込んでえいると考えた方が、あらゆることが辻褄だって見えてきます。

『人』は生物学的には『ヒト』であり、『ヒト』は『他の命(動植物)を犠牲にしてそれを食し』『子孫を残すために生殖行為を行い』『生命維持のために排泄行為を行う』ことを基本習性としています。これは『野卑』かもしれませんが、『野卑』でなければ『ヒト』は生きていけません。

『生殖行為』や『排泄行為』を『隠れて』行おうとするのは、『無防備』な状態で襲われることを本能的に避けようとしたためとも考えられます。

後に『ヒト』は、高度な『精神世界』を保有する『人』になり、宗教的な価値観を共有するようになって、『生殖行為』や『排泄行為』を、『罪』『穢(けが)れ』という概念で受け止めるようになり、『羞恥』の概念に分類するようになったのではないでしょうか。

『生殖行為』や『排泄行為』を『羞恥』と結びつけて受け止めるのは、生物の中で『人』だけのように見受けられます。他の生物では『排泄』を、縄張り主張のマーキングとして利用するものはありますが、『羞恥』としているようには見えません。

人間は『ヒト』であって『人(高度な精神世界を保有する生物)』であるということを肯定すれば、繰り返しになりますが、私たちは『野卑』を排除しては生きていけません。

このことを、認めた上で、それでも『野卑な言動は慎みなさい』というなら、あとは『慎む』必要性を明らかにすればよい話になります。

しかし、自分の中には『野卑』の習性は無い、またはあったとしてもそれは邪悪なもので排除すべきであると『信じて』いる方から、『野卑な言動は慎みなさい』と言われれば、梅爺のようなへそ曲がりは野卑な例えで『頭隠して尻隠さず』ではありませんかと反論したくなります。

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2015年12月 6日 (日)

野卑な言葉は何故いけないのか(1)

『What should we be worried about?(我々は何を懸念すべきか)』という、オムニバス・エッセイ集の15番目の話題は『Who's Afraid of The Big Bad Words?』です。直訳すれば『とんでもない悪い言葉を恐れるのは誰か?』ということになりますが、梅爺は『野卑な言葉は何故いけないのか?』と意訳しました。著者は『Benjamin Bergen』という、UC San Diego校の『認識科学』の教授です。 

アメリカの現代小説や映画の会話の中に、『Fuck』『Fucking』『Fuck You!』『Shit!』『Ass hole』『Hell』『Sonobabitch(Son of a bitch)』などという、上品とは言えない言葉が頻出します。 

教養のない下層階級の人達だけが使っているのかというと、そうではなく、社会的に高い地位にある紳士や、うら若き女性までが平然と使いますので、日本人の梅爺がお節介にも『ちょいと度がすぎませんか』と言いたくなる時もあります。現代のアメリカ人は、これらの『スラング』を多用して偽悪的に振る舞うことが、むしろ『カッコイイ』と受け止めているようにも見えます。

確かに『人』は、『清く、正しく、美しく』ありたいと願う一方、実態としてそうばかりは云っておられないという矛盾をはらんだ存在ですから、場合によって、偽悪的に振舞った方が実態に即していて、ストレスにならないことがあるのかもしれません。

上記のような単語の、元々の意味は、『性行為』『排泄』『邪悪』に関連していて、大きな声で口にするのは、社会道徳上、宗教道徳上憚るべきと言う共通認識が継承されてきたに違いありません。 

しかし、人間は『あまのじゃく』のところがあり、『いけない』といわれると、反ってそれに興味を抱き、明るい所へ引き出そうとします。

やがて、これらの言葉は、本来の意味合いが薄れ、『強く強調する』『滑稽味を利用して、仲間意識、親密感を強める』『絶妙な比喩として用いる』などという表現法に変わっていきます。

日本語でも、『今日はクソ暑い』『縮みあがる』『屁っぴり腰』『屁のつっかいにもならない』『屁をひって尻つぼめ』などと、元々は上品とは言えない語源や状態を、『強調』や『絶妙な比喩』として用いています。

アメリカでは、1973年に、ニューヨークのラジオ局で、コメディアンが話の中でスラングを使い、これに対して当局はラジオ局に制裁をくだしました。更にその3年後、最高裁判所もこの制裁内容を支持する判決をしました。『青少年に悪影響を及ぼしかねない』というのがその理由です。

40年後の現在のアメリカでは、日常会話の中では『スラング』が当たり前に横行していますが、放送や新聞などの公共報道機関では、上記の判決が規範となっているのでしょう。

エッセイの著者は、『青少年に悪影響を及ぼす』というのは、何の証拠もないと反論し、本来『青少年』は、その言葉に特別のストレスなど感じていないのに、大人が自分たちの価値観で規制すると、反ってその言葉に興味を持ち、ストレスになり逆効果であると主張しています。

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2015年12月 5日 (土)

ネアンデルタール人の絶滅(6)

『ネアンデルタール人』と『ホモ・サピエンス』の関係は、『ホモ・サピエンス』が優勢な結果に終わったことは確かなことです。

脳の容量では大きな差異がなく、体格はむしろ『ネアンデルタール人』の方が優っていた(特に男性成人の平均で)という報告もありますから、『ホモ・サピエンス』が劣勢であってもおかしくない話ですので、一体何が運命を分けたのかについて色々な仮説が提示されています。

『学習能力』『言語表現能力(コミュニケーション能力)』『抽象概念の理解力』などの差が、運命を分けたという仮説が代表的ですが、いずれも推測の域をでません。中には『ホモ・サピエンス』が『犬を家畜化することに成功した』ことが『ネアンデルタール人』絶滅の原因であるなどという説もあります。

『ネアンデルタール人』は、咽喉(いんこう)の肉体的構造上、『ホモサピエンス』のように微妙な言葉の表現(発声)ができなかったという説が流布していますが、今回の講演では『根拠が無い』と否定的な見解が示されました。

埋葬されたと思われる幼児の人骨が出土したことから、『死者を葬る』習慣があったこと、石器を使う能力があったこと、火を使うことも知っていたであろうことなど断片的に分かっていますが、『ネアンデルタール人』については、『分からないことが多い』ことを、講演を聞いて確認できました。

『ネアンデルタール人』を知る一つの手掛かりは『遺伝子構造解析』です。『ホモ・サピエンス』を対象とした『ヒト』の『遺伝子構造解析』は、世界中が協力して完了していますが、『ネアンデルタール人』については、進行中のようです。

『ネアンデルタール人』の『遺伝子構造』が明らかになり、『ホモ・サピエンス』との違いが明白になれば、能力差について、決定的なことが云えるようになるかもしれません。

また、『ホモ・サピエンス』の中に『ネアンデルタール人』の遺伝子の痕跡が継承されていることが更に明確になれば、人種間の『交雑』があったことの決定的な証拠になります。

『自分は一体何者なのか』という問いは、哲学だけで論じていても埒(らち)があきません。『宇宙』『生命』『脳(精神世界)』といった科学の領域の解明の中に真の答があるからです。同様に『神』の問題も、科学が踏み込めない聖域とは言えない時がくると梅爺は考えています。

今回の講演の中で、講師の『赤澤』先生が、『将来私たちホモ・サピエンスが誰かにとって代わられる交代劇はあるのでしょうか』と問題提起をされました。

交代劇というより、自分たちが創りだした要因か、外からもたらされた要因で、人類や人類が形成してきた文明が全て消滅する論理的な可能性の方が高いと思いますが、この議論は別の機会に譲りたいと思います。

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2015年12月 4日 (金)

ネアンデルタール人の絶滅(5)

従来『ネアンデルタール人』が住んでいた土地に、『ホモ・サピエンス』が新たに入り込んできて、『ネアンデルタール人』は『ホモ・サピエンス』によって、駆逐されついには絶滅に追いやられた、というのが、ヨーロッパの人類学者の主張で、私たちもこの説を受け容れ、この『交代劇』は何故起きたのか、『ホモ・サピエンス』の優位性は何であったのかを疑問視してきました。

今回の講演会を拝聴して、梅爺は、『交代劇』は上記のような単純なパターンではないと感じました。『強者に依る弱者の駆逐、殲滅』も現実に起きたであろう一つのパターンですが、それ以外に、『強者による弱者の支配』『争いを避けた共存』といったパターンも考えられ、この場合は『交雑』が行われて、やがて『強者』が主体になっていった、つまり『弱者』は『強者』の社会へ同化していったということになります。

『人類学』の中で、この『交雑に依る同化』の重要性があまり強調されてこなかったのは何故かと、むしろ不思議に感じます。多分、人は自分が『○○人』であるという地勢的、文化的なアイデンテティを神聖視する習性が強く、『○○人』が純粋な血統であるように勘違いしてしまうからではないでしょうか。『○○人』を重視するのは、『人』の『精神世界(特に情感)』が関与しているからで、生物学的に『ヒト』の歴史を科学的に追及する場合には排除する必要があります。

冷静に考えてみれば、地球上の全ての人類は、それぞれが複雑な経緯を経て現状に至った『雑種』であるということになります。『○○人』というのは、コミュニティを運用するための人為的な区分け名に過ぎません。『あなたは雑種である』と言われると『○○人の尊厳が傷つけられた』と心情的に感じて面白くないために、『交雑による同化』が強調されないのではないでしょうか。

『ネアンデルタール人』も『ホモ・サピエンス』も、生活環境、自然環境の中で枝分かれして色々な『亜種』が出現し、その『亜種』間で『争い(殲滅)』や『交雑に依る同化』が起きて、時にはまた新しい『亜種』が出現するという複雑なプロセスで、人類は子孫を残し、現状に至っているとみるのが自然ではないでしょうか。

『人類学』では、『生物進化』の影響が強調されますが、それは全てではなく、むしろ『交雑による同化』が実は大きなカギを握っているのではないかと梅爺は考えるようになりました。『ホモ・サピエンス』が『ネグロイド(黒人種)』『モンゴロイド(黄色人種)』『コーカソイド(白人種)』に分かれた経緯も、『生物進化』だけで説明するのは無理があるように感じます。

私たちは、このような『人類史』の現実を理解した上で、『民族意識』とは何かを再考してみる必要があります。勿論、『民族意識』は無意味なものとはいえず、『拠り所を求めて安堵する』という『精神世界』が本能的に必要とするものであることは理解すべきです。しかし、一方理性で獲得した、『我々は誰もが雑種である』という『事実』もわきまえて、対応することも重要になります。

少なくとも『民族意識』を掲げて、殺し合うなどという行為は、馬鹿げています。

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2015年12月 3日 (木)

ネアンデルタール人の絶滅(4)

東大を中心とする日本の『人類考古学』研究者が、初めて『ネアンデルタール人』を研究の対象に選んだのは、1960年頃であることを知りました。

『ネアンデルタール人』はヨーロッパの先住人類という認識が当時主流で、ヨーロッパにおける研究が先行していましたから、日本がやるからには、新しい領域を開拓しようと、『西アジア(イスラエル、レバノン、シリア)』が発掘調査の対象に選ばれました。

『シリア』が政情不安になって、研究が続行できないため、現在は『中央アジア(ウズベキスタン)』に発掘対象が移っています。

この対象の絞り込みは、正解であり、日本が発掘に成功した『イスラエル(アムッド洞窟)』『シリア(デデリエ洞窟)』『ウズベキスタン(アンギラク洞窟)』で『ネアンデルタール人』の人骨化石が見つかって、少なくとも『西アジア』まで『ネアンデルタール人』の居住地は広がっていたことが判明しました。『ネアンデルタール人』の研究で、世界に貢献したことになります。

発掘調査に関しては、当然現地政府や現地の人々の協力が必要であり、この面でも『西アジア』『中央アジア』を選んだのは正解であったように思います。仮に日本の調査隊が、ヨーロッパへ出向いても、『今更日本人に何ができる』と、現地政府や現地の学者の協力は得難かったに違いありません。

従来、ヨーロッパにおける『人類考古学』は、『白人種が今も昔も一番優れている』という根拠のない先入観、優越感が根底にありました。『自分が一番優れている』と考えるのは、ヨーロッパ人ばかりではなく、『人』に共通する習性です。日本人にも、周囲の国々の人達を蔑視する傾向が無いとは言えません。『人』は相対的に自分を有利な立場に置いて、『安泰』を得たいとする本能を持ち合わせているからであろうと梅爺は推察しています。『差別』『いじめ』が絶えないのもこの本能が根底にあるからです。

『ミトコンドリアDNA』や『男性のY染色体』を系統的、科学的に調査して、『ホモ・サピエンス』の共通の先祖は、17万年前に、アフリカ中部に出現したと判明した時、ヨーロッパの考古人類学者はショックを受けました。『コーカソイイド(白人種)』の先祖は『ネグロイド(黒人種)』と同じという考え方を受け容れることに心情的な抵抗があったからです。

同じ心情で、現在のヨーロッパ人の中に、『ネアンデルタール人』の血が流れている(過去に交雑があった)ことも、認めようとしない傾向がありましたが、ヨーロッパ人の中に数%の『ネアンデルタール人』の遺伝子が継承されているという事実が判明し、渋々認めざるを得ない状況に追い込まれつつあります。

『ホモ・サピエンス』という新人類が、突然降った湧いたように出現したわけではなく、500万年にも及ぶ、人類種の盛衰の結果として出現したわけですから、理論的には、私たちは、誰もが古い人種の影響を受け継いだ『雑種』であると考えられます。『ネアンデルタール人』も『ホモ・サピエンス』も、そう呼ばれる『純粋種』が存在するわけではありません。共通特徴を多く持つというだけで、便宜上区分したものであると考えた方が、現実的なような気がします。

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2015年12月 2日 (水)

ネアンデルタール人の絶滅(3)

講演を聞いて、先ず梅爺が自分の知識の浅薄さを恥じたのは、『ネアンデルタール人といっても、単純に一種類ではない』という認識が従来薄かったことです。

『ネアンデルタール人はヨーロッパに存在した先住人類』と思い込んでいましたが、人骨化石の発掘調査で、実際は、中央アジアまでは確かに進出していたことが分かっていることを知りました。更に、人骨化石は見つかっていませんが、石器文化の様式を調べると、中国の『北京』近辺まで進出の可能性が広がることも知りました。

『日本』は『ネアンデルタール人』とは無縁と考えていましたが、ひょっとすると『全く無縁とは言えない』というようなことが将来判明するのかもしれません。

進出した先々で、『ネアンデルタール人』は、『異なった気候』『異なった動物』『異なった先住人類』と遭遇し、生活風習も異なっていったと考えるのが自然です。つまり『異なった進化』を遂げたであろうと推測できます。

このことは、私たち『ホモ・サピエンス』が、現在『ネグロイド(黒人種)』『モンゴロイド(黄色人種)』『コーカソイド(白人種)』に分かれ、容貌、骨格などが異なっていることを考えれば容易に想像できるはずのことでした。梅爺が、自分の洞察力の浅さを恥じたのはこの点です。

『ネアンデルタール人は、後から進出してきたホモ・サピエンスとの抗争に敗れ、絶滅した』と従来云われてきて、『何故ホモ・サピエンスが抗争に勝ったのか』が議論の主流でしたが、全てがそれで説明できるほど単純ではないと梅爺は講演を聞いて思うようになりました。

『対立に依る徹底駆逐、殺戮』ばかりではなく『征服支配』『共存』などの関係も無かったとは言えない以上、『交雑』が行われ、『ホモ・サピエンス』の中に『ネアンデルタール人』の遺伝子が継承されたと考えるのが自然のように思います。

日本において『縄文人』が姿を消したように、『ネアンデルタール人』も、歴史上姿を消しましたが、そのことを『絶滅』という言葉で表現するのは、必ずしも適切ではないように思います。『縄文人』が『弥生人』の中に同化したように、『ネアンデルタール人』は『ホモ・サピエンス』の中に同化したと考えるようになりました。

最近の遺伝子研究で、現在の『ホモ・サピエンス』の中に『ネアンデルタール人』の遺伝子が数%継承されているというような報告がありましたので、裏付けになります。北欧の人達の、金髪、白い肌などは『(ヨーロッパ系)ネアンデルタール人』の資質の継承と考えられなくもありません。

『ホモ・サピエンス』が、黒人種、黄色人種、白人種に枝分かれした原因は、『気候環境の違いに依る異なった進化』だけではなく、『先住人類』との『交雑』の影響も強いのではないかと、梅爺は推察しています。異なった進化が顕著になるのに、10万年程度の時間は短い過ぎるように感じるからですが、専門知識を欠いていますので、間違っているかもしれません。

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2015年12月 1日 (火)

ネアンデルタール人の絶滅(2)

講演会を拝聴して、先ず感じたことは、『考古学のフィールド・ワーク』と言う作業は、気が遠くなるほど大変なもので、広い砂浜の砂の中から1ケのダイアモンドを見つけ出すようなものであることを改めて認識しました。今回、講演でお話が聴けたイスラエル、シリア、ウズベキスタンなどの砂漠に近い気候の中で、日中は気温が40度を越すような場所での発掘調査がいかに大変なものかは容易に想像できます。 

化石(人骨、獣骨)や遺跡(石器、土器)といった、『現物』から『事実』を推論しようとする点では、天文学にも似ていますが、大きな違いは、天文学の場合は『理論物理』だけで、机上の推論が展開できる分野もあるという事です。 

考古学の場合も、机上の『仮説』を述べることはできますが、その『仮説』は『理論物理』が『理』だけで導き出す仮説とは異なり、脆弱です。『理論物理』の『仮説』は、高い専門能力をもった人でないと踏み込めない領域で、限られた才能を待つ学者でないと主張すらできません。逆に、考古学では、専門外の人でも『仮説』を主張できますので、多くの『仮説』が横行することにもなり、これが『専門家(学会に人達)』から心情的な反発を食らうことにもなります。梅爺もブログで、沢山勝手な想像を述べてきました。学者から観れば過酷な現場も体験せずに、机上の空論を弄ぶのは鼻持ちならんということなのでしょう。 

しかし、作家や素人考古学愛好家が書いた『仮説』が、ベストセラーになったりして独り歩きするのは皮肉な話です。大衆は、面白ければよいという単純で軽薄な受け止め方をするからです。大衆は、やがて『仮説』を『真実』と勘違いしがちですから、一層学者の軽蔑の対象になります。 

今回の講演でも、講師から『その様な主張は、専門外の方々がよくされることです』とやんわり釘をさされることがいくつかありました。 

専門家は、軽々しい結論や仮説を提示することに慎重で、一方素人は、勝手な空想を膨らませることができるという齟齬がこの分野には付きまといます。

梅爺も、従来『ネアンデルタール人の絶滅』に関して、深く考えもせずに『通説』を鵜呑みにしていたことを、今回の講演を聴いて反省させられました。

『ネアンデルタール人』は、20万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したというのが通説ですが、これが事実なら、500万年に及ぶ『人類史』のなかで、17万年前に出現し現在も繁栄している私たち『現生人類(ホモ・サピエンス)』と『共存』していたことになります。

『ネアンデルタール人』と『ホモ・サピエンス』以前には、約20種の異なった『人類』が存在し、現在では全て『絶滅』しているという事になっていますが、それらの『絶滅』の時期は必ずしも確定できていませんので、それらの末裔と、『ネアンデルタール人』や『ホモ・サピエンス』とが『遭遇、共存』していないという証拠もありません。現に、インドネシアのフローレンス島で見つかった、『ホモ・フローレシエンシス(小人族)』は、1万2千年前まで生存していたことが分かっていますから、明らかに『ホモ・サピエンス』と『共存』しています。

『人類』は生物種として『交雑(混血)』による子孫を残すことができますので、『A』が『B』の出現で『絶滅』したという単純な話ではなく、『A』はマクロにみれば『絶滅』したように見えても、『B』の中に遺伝子を残して『同化』したとみることもできます。

日本における『縄文人』『弥生人』の関係も、それに相当します。現在の日本人は、主として大陸、朝鮮半島からやってきた『弥生人』の遺伝子を継承していますが、平均して10%程度『縄文人』の遺伝子も継承しています。更に複雑なことに、『縄文人』は、北方から、朝鮮半島から、東南アジアからやってきた複数の民族の『混血』です。1万年以上続いた『縄文時代』に何があったのかは、詳細に分かっていません。分かっていることは、現在の『日本人』は、生物学的には、雑種(混血)であるということです。

『ネアンデルタール人』も、内部で枝分かれ進化した人種であり、他の人種との『交雑』があったと考えると、単純に『絶滅』したと断ずるのは、必ずしも正確な表現ではないことを認識できました。

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