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2015年11月30日 (月)

ネアンデルタール人の絶滅(1)

梅爺の興味の対象は、『宇宙』『生命』と『人間』です。自分がその全てと関わっていながら、『よく知らずに生きている』ということ奇妙な関係に魅せられるからです。

『人間』に関しては、特にその『脳』が紡ぎだす『精神世界』が興味の対象で、そこから派生する『文明』はもとより、『宗教』『哲学』『芸術』も気になる分野です。

『梅爺閑話』をお読みいただいている方は、これらを対象に、毎日飽きもせず屁理屈が繰り返されていることをご存知のはずです。

11月28日に、東大本郷キャンパスで、『ネアンデタール・ミッション』という、公開講演会(午後1時~5時)があり、聴きに出かけました。この公開講演会の存在は、梅婆の知人の方から教えていただきました。

『ネアンデタール・ミッション』というのは、日本人研究者による、西アジアや中央アジアを中心とした、旧人遺跡遺跡調査(考古学のフィールド・ワーク)のことで、『木村賛(たすく):東大名誉教授』『赤澤威(たける):高知工科大学名誉教授』『西秋良宏(よしひろ):東大教授』の3人の講師から、調査の概要、考察などを拝聴することができました。

これらの考古学調査は、文部科学省の助成金つまり税金が使われているために、このような公開講演会(無料)の開催が義務付けられているのではないかと思いました。日本が、ある程度裕福な文明国で、形式的とはいえ国民の理解のもとで実現できていることは、結構なことと思いました。

『ネアンデルタール人』は、私たち『現生人類(ホモ・サピエンス)』が、アフリカから世界各地へ拡散していった時に、ヨーロッパ中心に既に生活圏を持っていた人類種で、『何らかの理由』で、2万数千年ほど前に『絶滅』したとというのが通説です。

上記の公開講演会は、『ネアンデルタール人』から『現生人類』への交代劇が何故起きたのかにも迫るもので、梅爺と同じような興味を抱いておられる150人ほどの人達が聴衆でした。他人(ひと)のことは言えませんが、聴衆の大半が老人に属する人達で、女性も多く見受けられました。健康で好奇心旺盛な年寄りは、幸せな話です。

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2015年11月29日 (日)

静嘉堂文庫美術館(3)

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国宝『曜変天目』茶碗

『静嘉堂文庫美術館』の展示の目玉は、『曜変天目(国宝)』『油滴天目(重要文化財)』という、中国の南宋時代(12~13世紀)の陶器茶碗でした。
 

天目茶碗というのは、鉄の成分を含む釉(うわぐすり)を用いた陶器で、窯の中の焼き具合で、偶然、表面に銀色、虹色の斑紋が現れたものです。 

『曜変』は、怪しく輝くという意味でもありますが、もとは『窯変』『容変』であったのではないでしょうか。 

『千利休』の茶道における美意識と、戦国武将の茶道のたしなみが結びつき、中国からもたらされた『天目茶碗』は、珍重されました。 

『織田信長』が、『茶器』を収集し、それらを『論功行賞』の道具として家臣たちへ下賜した話は有名です。当時は、茶碗一個の価値が、城一つに匹敵すると言われるほどの価値がありました。『静嘉堂文庫美術館』が所有する『曜変天目』茶碗も、徳川将軍家の所有であったものですから、元をたどれば、『織田信長』『豊臣秀吉』の所有物であったのかもしれません。

『曜変天目』茶碗は、世界中に3つしか現存しておらず、それは全て日本にあって、3つとも国宝です。本家本元の中国には現存せず、日本に残されているのは、『千利休』や『織田信長』のお陰です。

現在の日本人が歴史的に継承してきた美意識や死生観の大半は、鎌倉時代、室町時代、戦国時代に源泉があり、江戸時代に庶民へも普及して成熟したように思えます。

日本人の『精神世界』は、多民族より優れているとは一概に言えませんが、ユニークであり、誇りうるものであると言ってよいでしょう。『ドナルド・キーン』さんが、日本文化を世界へ紹介する伝道師となってくださっていることはありがたいことですが、日本人のなかから『岡倉天心』のような人がもっと沢山出てきてほしいと願います。日本人が日本文化をより深く理解するためには、外国の文化を学ぶ努力が必要です。外国へ留学する若者が激減しているのは、大変気がかりなことです。外から自分を客観視する努力を怠り、『引きこもり症』を安易な『安泰』と勘違いすることは危険です。

日本文化を外国の人に理解してもらい、尊敬してもらうことが、『集団的自衛権』などよりも、強固な『国防策』であることを知る必要があります。

『サンフラワーの会』で、偶然その存在を知った『静嘉堂文庫美術館』で、梅爺は沢山学び、考えることができました。

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2015年11月28日 (土)

静嘉堂文庫美術館(2)

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俵屋宗達の『源氏物語関屋澪標(みおつくし)図屏風(国宝)』

現在『静嘉堂文庫美術館』で開催されている企画展『金銀の系譜』は、いわゆる『琳派の系譜』を一堂に展示しています。日本画の歴史に興味のある方には、こたえられない内容です。
 

江戸後期に『江戸琳派』の名前を確立したのは『酒井抱一(ほういつ):1761年~1828年』ですが、『酒井抱一』は江戸中期の『尾形光琳:1658年~1716年』の画風に私淑し、その『尾形光琳』は江戸初期の『俵屋宗達(生没年月日不詳)』の画風に強い影響を受けています。

つまり、3人は江戸期の異なった時期に生きながら、画風を継承していったという珍しい関係から、まとめて『尾形光琳』の『琳』の字をとって『琳派』と呼ばれています。『俵屋宗達』から『酒井抱一』までは100年以上の隔たりがあります。西洋音楽に例えれば『モーツァルト』『ベートーベン』『ブラームス』が影響を受けながら伝統を継承していったという話に似ています。いずれも『狩野派』のような、将軍家お抱えの絵師ではなく、市井(しせい)の絵師で、『俵屋宗達』『尾形光琳』は商人の子供として生まれ京都中心に、『酒井抱一』は大名家の子供として生まれ江戸中心に活躍しました。

『俵屋宗達』は、なんといっても国宝の『風神雷神の屏風絵(京都建仁寺所蔵)』が有名で、京都の『俵屋』という扇を商売にする店の絵師であったことが分かっています。当時としては有名な茶人、教養人でもあり、『本阿弥光悦』などとの交友もありました。絵師としても名声が高く、大名家や皇室からも絵の注文も受けています。余白をうまく利用する大胆でダイナミックな構図は、後の日本画、浮世絵や、日本人の美意識にまで大きな影響を与えています。この余白は、『余要(意味のある空間)』と表現されることを、最近新聞のコラムで読んでしりました。日本人の『精神世界』では『余要』は重要な感性です。『俵屋宗達』は『鬼才』『天才』と称してもよい日本を代表する画家です。

『尾形光琳』は京都の裕福な呉服商『雁金屋』の息子として生まれ、遊び人で、財産を湯水のように使ったと言われています。弟の『尾形乾山(けんざん)』は、斬新な陶器のデザインを産み出した人として有名です。

『尾形光琳』の代表作は、『紅白梅図(国宝:MOA美術館)』『燕子花(かきつばた)図(国宝:根津美術館)』『八橋図(国宝:メトロポリタン美術館)』等です。大胆な構図は『俵屋宗達』の画風を継承しています。

『酒井抱一』の代表作としては、『秋草鶉図(重要文化財:山種美術館)』などがあります。

今回、『静嘉堂文庫美術館』では、『俵屋宗達』の『源氏物語関屋澪標(みおつくし)図屏風(国宝)』、『尾形光琳』の『鶴鹿図屏風』、『酒井抱一』の『波図屏風』などを観ることができました。特に『波図屏風』は、繊細な画風の『酒井抱一』としては珍しく、銀箔の背景に、墨一色で大胆に描いた図柄で、印象的でした。

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2015年11月27日 (金)

静嘉堂文庫美術館(1)

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静嘉堂文庫美術館

11月25日に、『サンフラワーの会』が二子玉川で開催され、梅爺夫婦も参加しました。『サンフラワーの会』は、20年前に仕事で関連があった同業他社(コンピュータ業界)4社の関係者が夫婦同伴(8組)で、イタリア、スペインへ旅行したことを記念し、その後時折、国内外への旅行や、食事会などを開催し続けてきたものです。

20年前は、全員バリバリの『猛烈サラリーマン』でしたが、現在は『年寄り』になりましたので、曲がりなりにも全員『健康』である内に、『サンフラワーの会』は終わりにしようということになりました。したがって、今回は恒例の集まりとしては最後ということになります。ただし20年間培ってきた『絆』は強固ですので、誰かの呼びかけで都合に良い人だけがその都度気楽に集まる会合は、今後も継続されるでしょう。

今回は、幹事役のMさんの企画で、二子玉川界隈で、食事会(『ガウディの舌』という洒落たスペイン料理屋で昼食会)、『静嘉堂文庫美術館』『旧小坂邸』の見学などを行い、夕刻散会となりました。

二子玉川駅周辺が、高級なイメージの商業地区に変貌していることは、知っていましたが、久しぶりに訪れてみて、想像以上であることが分かりました。東京には、このような洗練されたショッピング施設、レストランが集うエリアが、いくつもあるわけですから、文字通り、世界一の都市と言えます。外国からの観光客が目をみはるのは当然のことです。

昼食の後訪れた、『静嘉堂文庫美術館』は、浅学にして予備知識を持たなかった梅爺には驚きでした。お恥ずかしい次第です。

名前からして、古美術商が私的に開設したこじんまりとした『美術館』と勘違いしていましたが、実は、明治の『三菱財閥』が、収集した日本や東洋の古美術品6500点(内国宝7点)、古書籍20万冊を収蔵する『文庫(収蔵庫)』と併設されている展示のための堂々たる『美術館』であることを知りました。

三菱2代目社長『岩崎彌之助(初代岩崎彌太郎の弟)』とその子で4代目社長の『岩崎子彌太』が収集した日本、東洋美術品、古書籍の一部を公開展示する美術館です。

『岩崎子彌太』が、この地に広大な土地を買い求め、『岩崎家の霊廟(静嘉堂)』を建立し、そのそばに『文庫』と『美術館』を併設したものです。

土佐の極貧の地下浪人の子として生まれた『岩崎彌太郎』が、明治維新の動乱に乗じて一代で築き上げた『三菱財閥』が、どれほどの財力を保有していたかがうかがい知れますが、文化財を収集保護するという活動を行ったことはさすがです。明治初期の混乱に乗じて、日本の美術品、仏像などが沢山海外へ流失しましたが、その一部をくいとめた功績は称賛に値します。

今回は、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一のいわゆる『琳派』の絵画を一堂に展示する『金銀の系譜』という企画展示が行われており、梅爺は堪能することができました。

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2015年11月26日 (木)

Of two evils choose the less.

英語の諺『Of two evils choose the less.』の話です。

直訳すると『二つの邪悪のうち、より邪悪で無い方を選べ』ということですから、『選択肢が二つしかなく、どちらも好ましくない場合は、精々ましな方を選びなさい』という意味になります。

『そのようなことは、云われなくても分かっている』と言いたくなりますが、実際の事例を想定して考えて見ると、選択の行為は、そう簡単ではないことが分かります。

『好ましい選択肢が二つあったら、より好ましい方を選びなさい』という、反対の表現も同じことです。

人生では、進学、就職、結婚など大きな選択をしなければならないことがあり、日常的にも、買い物や外食をする時には、『どちらにしようか』と小さな選択を繰り返し行っています。そう考えると『人生は選択である』『生きることは選択である』と言えないことはありません。結果的に良い選択をする確率の高い人は賢明と言えますが、いつも期待通りの結果が得られるなどということは現実にはありませんから、『一喜一憂の連続が人生である』という事になります。

『良い結果』を喜ぶことは誰にもできますが、『悪い結果』に打ちのめされても、すぐに次の対応の『選択』をし、行動を開始する人は強靭な精神力の持ち主で、これが本当の賢い人なのかもしれません。そう考えると、梅爺は自分の『賢さ』に全く自信が持てません。

この諺の背景に、西欧の合理的な考え方があるように感じます。つまり、ものごとの『真偽』『優劣』を合理的に見極めることができるという前提が暗黙の合意となっているようにみえます。

しかし、『科学』が研究対象とする事象を除いて、『人』が関与する事象の大半は、評価の絶対尺度がありません。『人』の『精神世界』が創りだした抽象概念は特にそうで、『善悪』『美醜』は勿論のこと『正義』『邪悪』『平和』『幸福』なども主観的な判断しかできません。同じ事象をある人は『正義』とみなし、ある人は『邪悪』とみなします。『人』の『精神世界』の『価値観』は個性的であるという前提で考えないと、『人』も『人間社会』も本質は洞察できません。

そもそも、『どうしようか』『どっちにしようか』と迷っているのは、複雑な要因が絡んでいて、一概に『優劣』を決めかねているということですから、『よりましな方を選べ』と言われても、対応できません。絶対尺度による判定ができないから迷っているわけですから、『選べ』と言われても困ります。選べるくらいなら、そもそも迷わないということになります。

従ってこの諺は『論理明解、対応困難』であるという事になります。

私たちは、『生きる』ためには前へ進まなければなりませんから、客観的に優劣を判断できないことを、無理矢理主観的に判断し、行動することになります。その結果、幸運、不運もあって、色々な結果が生じますが、全て自分で責任を負わなければなりません。

『山本五十六』のように、個人的には『アメリカとの戦争反対』を主張しながら、国家のために『戦争の前線司令官』の職務を引き受けた人もいます。多くの『選択』は『どちらがましかわからない』状況で行われると覚悟する必要があります。『男はつらいよ』は、『山本五十六』の心境を一言で表現しています。

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2015年11月25日 (水)

劇作家『長田育恵』(4)

文学座が公演した『終の楽園』は、『高級介護付き老人ホーム』の中でも最高級の最上階部屋に住む老人を巡る人間関係を題材にしています。何しろ入居に2億円はかかるという施設で、最新技術を駆使した異常事態監視体制で、この老人の生活は管理されています。

梅爺などには、望みえない羨ましい環境で、『終の楽園』のように見えますが、この老人の遺産相続をめぐる家族との関係は、とても『楽園』などではなく、醜い人間の一面が次々に劇中で展開します。

老人には法律上4人の『子供』がいますが、それぞれの出自は複雑です。長男は最初の妻との間にできた子供ですが、この妻は聖職者と駆け落ちしてしまいます。長女は2番目の妻の連れ子で、次男はこの妻との間でできた子供です。2番目の妻との間も夫婦仲はよくなく、やがて夫は妾を囲って、そこへ入り浸り三男が生まれます。これが原因で、2番目の妻は精神の病を患い死んでしまいます。

引退前は、土地運用で資産を作った老人には、多額の相続財産を保有していると考える子供たちは、老人の生前に、財産分与の考え方を明確にしたいと、老人と話し合いをしようとしますが、老人はのらりくらりとかわして、埒(らち)が明きません。

やがて、老人のところに『絵の描き方』を教える女性教師が毎週通うようになり、この女性には老人は心を開くようになっていきます。4人の子供たちは、老人が女性教師を遺産相続人とする遺言を書いたら大変と、疑心暗鬼になり、ドラマは醜い様相になっていきます。

老人、4人の子供とその家族、女性絵画教師とその夫、老人ホームの職員、このホームに入居する別の老人を訪ねてくる息子、などが登場人物で、それぞれの抱える事情や人間関係が劇の進行と同時に明らかになっていきます。

アガサ・クリスティの小説同様、プロットのために必要な、人物の過去や人間関係が精緻に構成されていて、これは『現実には偶然過ぎる』と感じますが、『劇』は必ずしもリアルである必要はありませんから、私たちはそれを『虚構』と承知して受け容れます。

『終の楽園』は、最後に老人が自らの希望で命を断ち、それを絵画教師だけが見届けるところで終わります。老人がどれほどの遺産を残したのか、その行くへがどうなったのかは観客には示されません。

人の『精神世界』は、単純に善悪などで律することができない、複雑な価値観で支配されていて、それは直視し、受け入れなければならないということを、『長田育恵』は理解しているように見えます。人の醜い側面を暴きだしながら、それを嫌悪で切り捨てようとしたりしていません。そこが梅爺の好みです。

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2015年11月24日 (火)

劇作家『長田育恵』(3)

梅爺は、テレビで録画した『汽水域』と『終の楽園』という二つの舞台劇しか観ていませんので、『長田育恵』の全てを語る資格はありませんが、それでも才能の一端は垣間見ることができました。

『汽水域』は、海水と淡水がまじりあった領域のことで、一般には、川の河口付近に出現します。『汽水域』が、堰きとめられて『汽水湖』になることもあります。日本では『浜名湖』『宍道(しんじ)湖』などが有名です。

『長田育恵』は、人種、文化、宗教などがまじりあって共存する現代社会を『汽水域』になぞらえてタイトルにしたのでしょう。このタイトルだけで、色々なことを想像してしまいますから、秀逸な発想です。

舞台劇『汽水域』は、フィリピンの汽水域河口に、戦争や災害で住む場所を失った難民が自然発生的に集まってできた、極貧の村が舞台です。フィリピン政府は、ここに最新の貿易港施設をつくることを計画し、住民に強制立ち退きを迫ってきます。

村の立ち退き反対のリーダーは、日系二世のフィリピン人で、妻(フィリピン人)も夫を支援しています。二人の息子の内、兄は父親の方針に『未来がない』と反対し、日本へ渡って仕事を見つけ自分の将来を築こうとしますが、弟は、家族の絆を重視し、父親に従います。

村民も、最初は立ち退き反対に賛同しながら、政府が示す『補償金』やら職業訓練施策などに魅力を感じ、一人また一人と運動から脱落していきます。

この村で、『ウナギの稚魚』が捕獲できるというので、反対運動で揺れ動いている村に、日本人のバイヤーがやってきて、村民が抱えている問題などはそっちのけで、札束で買いたたこうとしたりします。

一方不法入国で日本へ渡った兄は、仲介した日本人の悪者に操られ、建設工事現場で低賃金で働かされるますが、借金は増える一方の惨めな生活を強いられます。ついには、借金を返済する代わりに、『殺人』を行うように、日本人の悪者から強要されます。『生命保険』詐欺で悪者は大金をせしめようという魂胆です。

日本で知り合ったのは悪者ばかりではなく、社会の底辺で悩み苦しみを抱えながら懸命に生きている日本人たちもいましたが、兄は『日本は、フィリピンで思い描いていたような将来を築ける場所ではない』ことを思い知らされます。宿命的に個性的な人間が『コミュニティ』をつくるのですから、どこも『汽水域』になるのは避けられません。

フィリピンの村も、ついには強制立ち退き執行の日を迎え、劇は終わります。

『長田育恵』は、『汽水域』である現代社会の中で、『人が生きる』ということはどういうことなのか、絶望的な状況で、人が最後にすがろうとするものは何なのかを、この劇を通して私たちに問いかけています。つまり、『個人』と『コミュニティ』の折り合いの付け方の問題ですが、普遍的な解答はありませんので、これを題材にすれば、ドラマはいくつでも創作できるとも言えます。

多くの人が最後にすがるものは、『物質的な豊かさ(金銭など)』ではなく、『ふるさと』『家族の絆(愛)』といった単純なものであると、この劇は示唆しているようにも受け取れますが、明示しているわけではありません。

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2015年11月23日 (月)

劇作家『長田育恵』(2)

『演劇』は、人類の芸能分野としては、歴史が古いもので、古代ギリシャの『悲喜劇』は有名です。 

『演劇』が洗練された様式になるには、王侯貴族の『娯楽』というより、市民の『娯楽』として定着し、やがて『娯楽要素』に加えて『芸術要素』も加味されていくというプロセスを踏むように見えます。日本の『歌舞伎』などが、その典型です。『低俗性』だけには飽き足らないという多くの人の共通意識は、何に由来するのかは興味深いところですが、『人』の『精神世界』の本質が関わっていることは間違いなしでしょう。『芸術』を論ずるときは、これを洞察する必要があります。 

『娯楽要素』を求めるか、『芸術要素』を求めるかは、二者択一の問題ではなく、創作者も観客も、自分の『個性』に合わせて、そのバランスを選択できることが理想的です。周囲に色々な芸能形態があり、自分の好みでそれに対応できる環境と言う意味では、日本は先進国の中でも高いレベルにあります。為政者やイデオロギーで、芸能形態が制約される国家では、そうはいきません。 

日本では、『映画館』へ通う人の数より、『劇場』『演芸場』『コンサート・ホール』へ直接出向く人の数は少ないに違いありません。それでも、特定の『ファン』でこれらの芸能が成り立っています。勿論新しい『ファン』を獲得するための努力が地道に行われていることもあります。『本当に興味が無い』のか、それとも『その面白さに気付いていない』のかは個人ごとに事情が異なっているからです。

『オーケストラなどの演奏』『オペラ』『歌舞伎』『現代演劇』『能・狂言』『古典落語』などの『ファン』に、日本人の全てがなることなどは考えられませんが、少なくとも一度は関心を持って、自分の『好み』を見直して欲しいと梅爺は願っています。そのような多様性が、日本の文化レベルの指標になるからです。

『映画』や『テレビ』がない時代には、『演劇』が唯一『ドラマ(虚構の物語)』を見せる手段でした。限定された舞台空間での表現には、種々の制約がありますが、可能な限りの演出や装置を駆使して、様式が進化してきました。

『映画』や『テレビ』の出現で、『舞台演劇』は劣勢に立たされましたが、やがて、『制約環境』を逆手にとった『面白さ』に観客も気づき、特定の『ファン』を獲得するようになりました。

劇作家は、これらの事情を全て熟知したうえで、『舞台演劇』ならではの『面白さ』を創造表現する能力を必要とします。

『現代舞台演劇』では、『人間』の多様な側面、矛盾や、それらがつくりだす複雑な『人間関係』を際立たせ、観客の『精神世界』を刺激します。

単純な『勧善懲悪』や『道徳的なお説教』を押し付けるのではなく、観客に『あなたはどう思いますか、どう感じますか』と問いかけることを主眼にしているように見えます。

『長田育恵』は、斬新な『場』の設定、人間関係の設定、巧みな『科白(せりふ)表現』で、その作品が観客の『精神世界』に迫ってきます。

2時間以上の公演時間が、短く感じられるほど、梅爺は惹きつけられました。

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2015年11月22日 (日)

劇作家『長田育恵』(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映された『プレミアム・ステージ』で、劇作家『長田育恵(おさだいくえ)』が脚本を担当した二つの舞台劇『汽水域(2014年劇団てがみ座公演)』『終の楽園(2014年文学座アトリエ公演)』を録画して観ました。

日本の現代演劇について、必ずしも知識を持たない梅爺は、『長田育恵』『劇団てがみ座』の存在を初めて知りました。そして『長田育恵』の類まれなる才能を知り、大発見をしたように嬉しくなりました。

調べてみると『長田育恵』は、未だ年齢は30歳代ですが、劇作家としては既に何度も『岸田國士戯曲賞』『鶴屋南北戯曲賞』にノミネートされている、この分野では著名な方であると分かりました。

梅爺も大好きな劇作家『井上ひさし』に師事し、薫陶を受けていることも分かりました。『人の精神世界への深い洞察』『適切な日本語表現』など、共通の才能をうかがい知ることができ、この師弟関係は『さもあらん』と納得がいきました。良い師は磁石のように良い弟子を引き寄せ、共に啓発されて高いレベルへ向かうということなのでしょう。

『汽水域』も『終の楽園』も、ある意味で眼を背けたくなるような『どす黒い人の本性』をあぶりだしながら、それでも懸命に『生きる意味を考えよう』としたり、『自分を肯定しよう』としたりする人の習性を、見事に表現しています。

観客は、最初は登場人物の馬鹿げた言動を『他人事(ひとごと)』として観ていますが、やがて、自分の価値観に固執して、それに振り回されているという点では、自分も同類であることに気付き、深く自省させられます。

人は自分が『善意の持ち主』であると同時に『悪意の持ち主』であるという、矛盾を客観視することが難しく、更に『自分の価値観は正しいものとして通用する』と勘違いするために、さまざまな人間関係の悲喜劇が生じます。人は『生物進化』の過程で、『都合の良いこと(安泰)を優先する本能』を獲得し、その本能に従って行動するために、結果的に『善意』『悪意』に基づくように行動が分類されるに過ぎません。『エデンの園』を追われたために、罪を背負ったわけではありません。『悪意』を保有することは仕方がないことですが、それを『理性』で抑制することは大切です。

現実の世界も、この悲喜劇で満ち溢れていますが、『演劇』はそれを凝縮して、効果的にみせるところに真髄があります。

若い女性の『長田育恵』が、よくここまで、『世の中』や『人の精神世界』を洞察できるなと感心すると同時に、登場人物にさりげなく『宗教』や『科学』に関することをしゃべらせていることから、深い教養の持ち主であることも分かります。

日本は、どのような分野にも、秀いでた方がおられますが、その存在を知ると梅爺は一層嬉しくなります。劇作家『長田育恵』は注目すべき方です。

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2015年11月21日 (土)

10代の脳(2)

この著者の懸念事項は、まとめれば以下のようになります。

(1)10代の脳は成長を続け、この結果が成人になった時までも影響する。したがって、10代の人達に対する『適切な対応(教育)』について強い関心を持つべきである。
(2)世界には、青少年期に『適切な教育』を受けられない人達が沢山いる。このことを人類は懸念すべきである。

『情に対する脳の機能発育は10代まで続く』という主張が、比較的目新しいことですが、人類の幸せは、煎じつめれば『教育』に帰する、という主張は特段新しくはありません。ここでいう『教育』は、『個性を自覚し、自立判断ができ、他と協調できる人』を育てるための『教育』を指します。

世界で行われている『教育』には、『独裁体制に従順を強いる教育』『イデオロギー、宗教教義の色彩が強い教育』などが多くありますから、『教育が一番大切』という主張だけを受け容れるわけにはいきません。『教育』でさえも『両刃の剣』であるということです。

一方、この著者は、『どのようなことが、10代の脳に、どのような影響を及ぼすのかはまだ分かっていない』と認めていますから、正直な学者であることは分かりますが、『懸念』だけ表明して、対応策は『分かっていない』『脳科学の研究を一層推進すべきである』ということでは、何とも迫力を欠きます。

『学者』『評論家』と呼ばれる方に多く見受けられる傾向で、特に目新しくない『懸念』を、さも自分が見つけたかのようにもっともらしく述べ、対応策は提示せずに、『しっかり、議論すべきである』などと締めくくるのを聴くと、梅爺はイライラします。このエッセイも失礼ながら、それに近いものと感じました。

現代の『脳神経科学』は飛躍的な進歩を遂げていますが、それでも『断片的に分かってきた』段階で、『人』の『脳』の総合的な理解には、未だ遠い状況です。つまり、『脳』に関する『多くの疑問』を発することはできますが、ほとんど『現状では答えられない』と言った方が適切であろうと梅爺は受け止めています。

テレビに『脳科学』の先生が登場して、『分かっている』かのごとき発言をしたときには、梅爺は、失礼ながら『疑う』ことにしています。

『精神世界』を、マクロに洞察することは梅爺でもある程度できますが、それらの事象を、『物質世界の摂理(生命科学、分子生物学、脳神経科学、遺伝子科学)』『生物進化』と関連付けて、系統だった論理的な説明をすることは、現時点では誰にもできません。

従って『10代まで脳の成長が続く』という説も、『仮説』の一つとして梅爺は受け止めました。梅爺が最近涙もろくなったのは、老齢でも脳が成長して『情』が深くなったのか、単に肉体的に涙腺がゆるくなってしまったのか、分かりません。つまり『脳は生涯成長する』という他の仮説も捨てきれません。

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2015年11月20日 (金)

10代の脳(1)

『What should we be worried about?(我々は何を懸念すべきか)』というオムニバス・エッセイ集の14番目の話題は『The Tennage Brain(10代の脳)』で、著者はロンドン大学の脳神経学者『Sarah-Jayne Blakemore』です。

人間の脳は、生後3年程度で、ほぼ完成すると従来考えられてきましたが、最近の研究では、10代においても脳は成長し、それがその人のその後の人生に大きな影響を及ぼすことが分かってきました。

ここで議論の対象になるのは、主として『不随意の脳反応』に関するもので、健全に脳が成長した人なら自然に『感動』する状況で、健全に成長しなかった人は『感動』しない無表情な大人になってしまうというようなことを意味しているのでしょう。他人との付き合いができず、『ひきこもり』になるというようなことも起こります。つまり『情』に関わる脳の機能が、普通の人並みに発育しないという問題です。

一方、『随意の脳反応』に関しては、10代どころか、高齢の老人まで、その気になれば、進歩の度合は若いころの様でなくても、記憶力、判断力などを向上させることができます。60歳後半からブログを書き始めた梅爺も、これは強く実感しています。つまり『理(知)』に関する脳の機能は、生涯成長が期待できるということになります。

『人』の『精神世界』は、生物学的には原始機能に属する『情』の機能と、後に進化の過程で獲得した『理』に関する機能の、双方で構成されていて、これらは多くの場合、相互に関与しながら働きます。『情』の多くは、自分の意思でコントロールできませんから、突然『感動する』『悲しくなる』『寂しくなる』『愉快になる』などという状態が起こり、当人でさえも、戸惑います。これを梅爺は『不随意の機能』と呼んでいます。

脳の『前頭葉』『側頭葉』が主に担当する『理』の機能については、論理思考がその中心ですから、自分の意思でコントロールできる側面があります。『英単語の意味を覚えようと決め記憶する』などの行為です。梅爺はこれを『随意の機能』と呼んでいます。

成人の『精神世界』も、『情』と『理』の組み合わせで構成されていて、そのうち『情』に関しては、ほぼ10代までに出来上がっているという説が正しければ、成人にとって、10代の過ごし方が、重要であることになります。

著者は、10代までの主として『情』に関する脳の基本機能の成長が阻害される状況を強く懸念しています。

そして、地球上の4割の10代の人達が、特に女性が『教育』の場から疎外されていることを、『人類の問題』として懸念しています。

しかし、10代にどのような『教育』を受ければ、平均的に健全な『人(成人)』になるのか、どのような『経験』が、10代の脳の生育に有害なのかは、まだ分かっていないことも著者は認めています。

『脳』は『宇宙』より謎に満ちていると科学者は云いますが、その様な『脳』を私たちは保有し、生きていることになります。ほとんど自分の中で起きていることを理解できずに生きているという奇妙な話です。『自分の中に、自分が理解しえない違う自分がいる』ということで、しかも『理解しえない違う自分』がもたらす行為に対しても社会的責任を負わなければならないことになります。ですから『自分のことは自分が一番分かっている』などという主張はあてになりません。

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2015年11月19日 (木)

反物質(4)

『宇宙』をいくら観測しても、多量な『反物質』は見つからず、『現実』は『物質』だけでできているようにみえますから、科学者は頭を抱えることになりました。『宇宙』のどこかに、鏡に映る虚像のような『反地球』『反梅爺』が存在するというSFまがいの想像は、成り立たないと覚悟せざるをえない状況になったわけです。『摂理』の一つとして発見された『ディラックの方程式』が示す『反物質』との関連をどのように説明するかが次なる課題になりました。

この問題に、一つの『仮説』を提示したのが、ソ連の科学者『アンドレィ・サハロフ』です。『アンドレィ・サハロフ』は、ソ連の『水爆の父』と呼ばれる天才的な科学者ですが、その後『核兵器』に反対する平和活動家になりました。

『アンドレィ・サハロフ』が提示した『仮説』は以下です。

『ビッグバンの時に、巨大なエネルギー環境で、物質と反物質は対となって、同時に多数出現した。これは「対生成」と呼ばれる事象である。多くの物質と反物質は完全な対称特性を有するために、再度衝突することで「対消滅」を起こし両方存在しなくなった。ことろが、ごく稀に物質と反物質に変化が起こり、完全な対称性が失われたために、物質の特性が少しだけ上回り、宇宙には物質だけが残るようになった』

番組では、この事象を説明するために、『物質』と『反物質』が、5枚のトランプ・カードで構成されているというモデルで説明していました。普通は『物質』は1から5までのプラスの数のカードで、逆に『反物質』は1から5までのマイナスの数のカードで構成されていると、双方が衝突すれば『対消滅』で両方とも存在しなくなります。ところが、何らかの要因で『反物質』のカードは1から4まではマイナスの数でも、5だけがプラスに『変化』したとすれば、プラス5同士は衝突しても消滅せずに『物質』だけが残るということになります。

『アンドレイ・サハロフ』は、このような事象が、10億ケに一つの確率で起こり、永い時間をかけて『宇宙』は『物質』だけの世界になったと推測しています。

この説が『正しい』かどうかを検証する実験が、現在日本で進行しています。東海村から発射した『ニュー・トリノ』と『反ニュー・トリノ』という人工的な素粒子を岐阜県神岡の『カミオカンデ』で検出し、両者が変化する確率に違いがあるかどうかを確かめようとしています。微小な違いがあれば、『アンドレィ・サハロフ』の仮説に矛盾がないことが分かります。

人間は、『反物質』の一部(反水素、反ニュー・トリノなど)を人工的に創りだすことに成功し、『反物質』が想像だけのものではないことは証明されましたが、『宇宙』が『物質』だけでできている理由をまだ解明しきっていないという話です。

『物質』だけが残ったために、私たちが存在しているわけですから、この究明は私たちとは無縁な話ではありません。科学がもたらす真相を心待ちにしたくなります。

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2015年11月18日 (水)

反物質(3)

『反惑星』は見つからないにしても、宇宙のどこかで『物質』と『反物質』の衝突『対消滅』が起きているとすれば、巨大なエネルギーの発散と同時に『ガンマー線(宇宙線)』が発せられているはずだと科学者は考え、宇宙から地球にもたらされる『ガンマー線』を検出、計測する試みがなされました。これを、間接的に『反物質』が存在する証拠としようという話です。 

カルフォルニア工科大学(カルテック)で、『霧箱』と呼ばれる宇宙線の観察装置を用いて調査が行われ、『宇宙のあらゆる方向からガンマー線が地球へ降り注いでいる』ことが判明しました。 

これが、『物質』と『反物質』の衝突である『対消滅』によって発生した『ガンマー線』であるとすれば、宇宙にはまんべんなく『反物質』が存在することの間接的な証拠になるというわけです。 

カルテックの『カール・アンダーソン』は、この『対消滅』は、宇宙の『オルトの海』と呼ばれている場所で起きていると推測しました。 

『オルトの海』は、『太陽系』の最辺境に存在する、氷を主体とする無数の『小天体』で構成される場所のことです。『宇宙』に約45億年(従来は46億年とされてきたが最近の研究では44.7億年と推定)前に『太陽系』が出現した時に、中心の『太陽』から最も遠い場所まで吹き飛ばされたからガスや塵でできあがったリング状の『氷の小天体の集合体』です。

『オルトの海』で、『物質』と『反物質』の『氷の小天体』同士が衝突して『対消滅』が起きているとすれば、『地球』へまんべんなく『ガンマー線』が降り注ぐ理由としてもっともらしい話になります。

しかし、その後、『地球』へ降り注いでいる『ガンマー線』は、『宇宙』で起きている『超新星爆発』に依るものと、科学的に証明され、『オルトの海』説は否定されました。

余談になりますが、地球から観測できる『彗星』の正体は、『オルトの海』から『太陽』へ向かって移動してきた『氷の小天体』であることも分かっています。

また、『地球』に多量の『水』が存在するのも、『地球』の出現(45億年前)以降に、『オルトの海』から、『太陽』へ向かって逆戻りしてきた、多くの『氷の小天体』が『地球』と衝突してもたらされたという説があります。

生物にとって『命の水』とされる『水』が、何故『地球』に多量に存在するのかという単純な疑問も、必ずしも解明できていないという話です。『地球』は出現時、『灼熱の惑星』であったはずですから、何故その後『海』が出現したのかは、謎なのです

『物質世界』の『摂理』が偶然もたらした、生物にとって極めて幸運な『変容』で、私たちは今『生きている』ということになります。この幸運は、あくまでも偶然な幸運であって、『神が愛する人間のためにデザインしてくださった環境』とは言えません。その証拠に、不運な『変容』といえる天災が起きると、容赦なく私たちの命は奪われます。『物質世界』には、『あるべき姿』『目的』『デザイン』という概念は存在しないというのが『理性』による推論がもたらす結論です。

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2015年11月17日 (火)

反物質(2)

『物質』の一つである『水素原子』は、プラスの電荷を持つ一個の『陽子』とマイナスの電荷を持つ一個の『電子』で構成されています。したがって『反物質』の『水素原子』は、マイナスの電荷を持つ一個の『陽子』とプラスの電荷を持つ一個の『電子』で構成されているということになります。

最も軽い『元素』である『水素原子』の例で説明しましたが、これは他の『元素』にも当てはまります。

このことから、『物質』と『反物質』は、実像と鏡に映った虚像の関係のようなものだと説明されてきました。

『反物質』の存在を予言したのは、イギリスの理論物理学者『ポール・ディラック』で、20世紀の前半のことでした。

『ポール・ディラック』は、それまで相性が悪いと考えられていた『アインシュタイン』の『一般相対性理論』と、『ハイゼンベルグ』の『量子力学理論』を統合して説明できる統一理論を導き出しました。これが有名な『ディラックの方程式』です。

この『ディラックの方程式』は、理論的に『物質』以外に『反物質』も存在しうることを示唆していたために、『ポール・ディラック』は、『反物質』の存在を予言しました。

『ディラックの方程式』を導き出した業績で、『ポール・ディラック』はノーベル賞を受賞し、その授与式の講演で、『宇宙には反物質が存在するはずです。地球と正反対の特性をもつ惑星や、我々と正反対な特性をもつ生物がいてもおかしくありません』と誇らしげに語りました。

宇宙のどこかに、梅爺を鏡に映したような『反梅爺』がいるかもしれないという話ですから、ロマンチックでもあり、おどろおどろしくもあります。

宇宙のどこかに『神』が存在するという話と同様に、『反梅爺』が存在するという話も即座には信じがたい話ですが、理論物理の統一理論がそれを『理』で示していると言われると、反論のしようがありません。『神』は『科学』が『理』で導き出した存在ではありませんが、『反梅爺』は『科学』が『理』で推量した存在であるという大きな違いがあります。

それ以降、世界の天文学者が、懸命に『反物質』の特性をもつ『惑星』の発見を試みましたが、それらしい『惑星』は見つかりませんでした。

『物質』とその『反物質』が衝突すると、巨大なエネルギーが発生し、『物質』と『反物質』は共に消滅すると考えられています。この現象を『対消滅』と呼ばれています。『梅爺』と『反梅爺』が仮に出会ったりすれば、巨大な核爆発のようなエネルギーを発して、両者とも消滅するということですから、とてもロマンチックな出会いとは言えません。

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2015年11月16日 (月)

反物質(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映される『コズミックフロントNext』という科学啓蒙番組で、『反物質』を究明する科学者の姿が紹介され、録画して観ました。

『反物質』というのは、『宇宙』に存在する『物質』の正反対の特性をもつもののことで、20世紀の前半に科学者がその存在を理論的に予言し、最近では人工的に『反物質(反水素)』を創りだすことにも成功しています。

しかし現実の『宇宙』の大半は『反物質』ではなく『物質』で構成されているのは何故かという疑問に現代科学も明解に答えることができていません。

梅爺の身体は、『物質』だけで構成されていて、何故『反物質』は使われていないのかは分かっていないという話です。『そのようなことはどうでもよいではないか』とおっしゃる方もおられる思いますが、この疑問が晴れないかぎり『自分はなぜ存在するのか』は究明されませんので、科学者や野次馬癖の強い梅爺のような人間は、こだわることになります。

『宇宙』や私たちの周囲に存在する『自然界』を、梅爺は『物質世界』と呼び、その本質が意味することで自分が知り得たことを度々ブログで紹介してきました。

『物質世界』は、『ビッグバン』とその後の『宇宙』の『変容』がもたらした素材のみで構成されています。例外はありません。『物質世界』の『変容』は、『摂理』と呼ばれる法則だけが作用して起きます。これも例外はありません。限定された素材、『摂理』が創りだす『変容』の二つが『物質世界』の本質です。

人間が生きていく上で、必要とするのは『物質世界』だけではなく、『脳』が創りだす仮想の『精神世界』も必要とします。『精神世界』の大きな特徴の一つは、『摂理』に拘束されない自由な『虚構』を考え出すことができることです。『神(仏)』や『天国(極楽)』は、『精神世界』が考え付いた『虚構』であろうというのが、梅爺の推測です。勿論人間にとって意味があるからこそ『虚構』を思いついたのであって、『虚構』は無意味と言うつもりはありません。

『脳』は『物質世界』の『摂理』によって機能していますが、死とともにその機能の全てが停止し、その人の『精神世界』も消滅します。したがって、人間が一人も存在しない世界には、『神』も『天国』も存在しないという論理帰結になります。

『宇宙』が出現してから、大半の期間、人間は存在していなかったことになりますから、その期間『神』も『天国』もなかったという推測になります。

『反物質』の話が逸れましたが、『物質世界』を理解しないと、『反物質』の本質も理解できませんので、敢えて脱線しました。

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2015年11月15日 (日)

『不正直』に関する正直な真実(6)

『好ましくない嘘』や『不誠実な行為』を誘発するのは、当然『脳(精神世界)』の働きが関与しています。『人』である以上、誰もがその可能性を秘めていますが、『理性』で『実行』を抑制できるかどうかも『脳(精神世界)』がカギを握ります。

『脳(精神世界)』は、『情』と『理』が複雑に絡んだ総合行為であり、自分では制御できない『不随意』の要素が加わった上に、時間とともに動的に変わりますから、いつも同じ判断や反応をするとは限りません。『精神世界』に限っては、梅爺はいつも同じ梅爺ではないという厄介な話です。

『脳』は『物質世界』の視点で観れば、『宇宙』に存在するありきたりの素材(元素)でできていて、機能も『物質世界』の『摂理』に支配されています。ミクロには、『物理反応』『化学反応』で、情報の伝達、処理が行われています。具体的には『電気信号』『ホルモン』などが、その役割を果たしています。

『物質世界』のお陰で『精神世界』が成り立っており、その『精神世界』では『物質世界』の制約を受けない『虚構』の存在が許される、という関係を理解すれば、多くのことが、『なーんだ、そういうことか』と得心できます。『桃太郎』や『かぐや姫』は『物質世界』には存在しませんが、『精神世界』には存在し、人々はその概念を共有することができます。梅爺は、この考えの延長で『神』や『天国』も、『精神世界』でのみ存在、共有できる『虚構(抽象概念)』であると、畏れ多くも考えるようになりました。『心の安らぎ』を得るために考え出されたものですから、『虚構』であるから無意味であるとは言えないことは承知しています。『芸術』も『虚構』の表現ですが、『人』にとって無意味でないのと同じです。くどいようですが『宗教』も『芸術』も、『人』にとって意味を持つもので、『人』が存在しないまたは関与しない世界では、意味を持たないと推察しています。

『精神世界』は、その時の『体調』『気分』『周囲環境』などに影響を受けますから、『好ましくない嘘』や『不誠実な行為』の発現も、いつも同じとは限りません。この本では、色々な心理状態に変化を与える条件で『実験』を行い、『嘘』が発生する確率を定量的に測定していて、統計的に『差』が現れることを実証しています。

『人』は『嘘をつく』可能性を秘めているということを実証する実験結果を知るより、『何故嘘をつくのか』の方に梅爺の興味はあり、色々考えてしまいました。この本は、梅爺が考えるきっかけを作ってくれたことになります。

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2015年11月14日 (土)

『不正直』に関する正直な真実(5)

この本には、『好ましくない嘘』や『不誠実な行為』に、社会的な『集団心理』、法の『実刑判決』、宗教の『教え』がどれほど影響を与えるかについても、『実験』を行っています。

『昔から、その程度のことは習慣的に行われてきて、今でも多くの人が行っている』というような『行為』は、『理』では『好ましくない』と分かっていても、『あの人たちが摘発されないなら、自分も摘発されない』と判断して、行われる確率が高まります。高官への『賄賂』が、特権として当たり前になっている国家は世界中に沢山あり、中国は『汚職撲滅』を国家の重要政策に挙げています。見せしめに『死刑』などを課しても、なかなか『汚職』がなくならないのですから、『根強い悪弊』がはびこっていることが分かります。更に『汚職摘発』という名目で、権力闘争の相手を貶(おとし)めているようなところもあり、なんともおぞましい話です。

日本を含む先進国の人達は『清廉(せいれん)』かといえば、そうとも言えません。『汚職』や『賄賂』は、人間の社会である以上、発生する確率はゼロではありません。相対的に発生確率が低く抑えられているのは、『社会の透明性』『メディアの監視能力』『歴史的な文化風土』『教育の水準』などが総合的に機能しているからで、日本が現状のレベルに達するには、それなりの時間や努力が費やされてきています。

日本の会社でも、『交際費の私的流用』『出張旅費の水増し請求』などが無いわけではなく、特に『上司がそうしているから私も』という弁明が横行しています。NHKの会長が、休日のゴルフで利用したハイヤーの料金を、NHKの経費で処理したとして国会で問題になりましたが、これは公共料金で運営されるNHKであるが故に摘発されただけで、この会長が前に働いていた民間会社では、当たり前に会社の経費で処理されていたのではないでしょうか。

法による『刑罰』を重くすれば、『犯罪』は減るかというと、両者の関係はそう簡単ではありません。『死刑廃止』の是非に関する議論が難しいのはこのためです。

宗教の『教え』が、『好ましくない嘘』や『不誠実な行為』を抑制するかどうかに関する『実験』では、『心理的抑制効果がある期間持続する』とこの本には書いてあります。

著者は、定期的に教会の礼拝に出席するような行為が、有効であるとして『宗教』の重要性を評価しています。

多くの日本人は、時折、神社仏閣で参拝するだけですから、この程度の信仰では、『好ましくない嘘』や『不誠実な行為』の抑制になるとは思えません。

『神頼み』ではなく、『人』の『精神世界』の本質を教育で教え、一人一人が自分で考え、判断して行動する訓練をすることが、遠回りのようでも最も効果的のように思います。『好ましくない嘘』を思いつくのは『情』が背後にあり、ある程度は仕方がないことですが、それを口にすることを抑制できるかどうかは『理(理性)』に頼るしかありません。

そうはいっても、理性で『身勝手な都合』や『欲望』を抑制することは、至難のことです。それほど、『安泰を希求する本能(自分に都合がよいことを最優先しようとする本能)』は、『人』にとっては手ごわい代物(しろもの)なのです。

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2015年11月13日 (金)

『不正直』に関する正直な真実(4)

『虚構』を『精神世界』で考え出し、それを『実態(事実)』であるかのように主張する(表現する)ことが『嘘をつく』という行為です。 

『虚構』を考え出す能力こそが、『人』の『精神世界』の特徴であり、これが人間社会を豊かにしたり、時に大きな弊害を生んだりします。昨日も書いたように、『安泰を希求する本能』が背後に働いていますから、『不安』や『不都合』を緩和しようとして行われる行為で、『虚構』を考え出すこと自体を『いけないこと』とは一概に言えませんし、誰もがこの行為とは無関係では生きていいけません。つまり、生きる上で必要であるからこそ、『虚構』を考え出すとも言えます。 

『芸術』の多くは、『虚構』の表現ですし、『宗教』の『教義』も、『人』が『心の安らぎ』を得るための壮大な『虚構』であるといえないことはありません。このような場合は『虚構』は、『人』にとってもっと重要なことをもたらす手段ですから、多くの人は『嘘はいけない』などと非難しません。『処女マリアが天使のお告げで懐胎し、イエスを産んだ』『キリストが十字架の死の三日後に蘇り、更に昇天した』『56億7000万年後に弥勒菩薩が再来し、人々を救う』など『宗教』は『虚構』らしきもので満ちています。 

因みに、『科学知識』は、50億年から70億年後に『太陽』の寿命が尽きて『白色矮星(わいせい)』になり、『地球』環境は激変して、生命体が生き残れないと予測しています。『弥勒菩薩』は救うべき『人々』が存在しないことに戸惑われるのではないでしょうか。 

この本には、以下のような老夫婦の会話の例が掲載されていて、夫の対応を『白い嘘(White Lie)』として、人間関係を円滑にするために許容されるものとしています。 

妻『このドレスどうかしら』
夫『とてもよく似合っているよ』
 

夫の本心は、『年齢の割にそれでは派手すぎるよ』であっても、そうは言わないところが思いやりで『白い嘘』ということになります。患者に『がんを告知しない』などという判断も、一種の『白い嘘』です。

『嘘』には『好ましい嘘』と『好ましくない嘘』があるということになりますが、その境界は定かではありません。明らかに保身のための『嘘』、悪意で他人を騙すことを目的とする『嘘』が糾弾の対象になります。

『嘘』は、『虚構』が背景にあり、『虚構』は、『安泰を希求する本能』で支配されている『精神世界』が作り出す、『願い』『期待』『夢』『人間関係に対する思いやり』や、勿論『身勝手な欲望』が関与しているという関係を理解すれば、『嘘』だけを悪者にして切り捨てるわけにはいかないことが分かります。

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2015年11月12日 (木)

『不正直』に関する正直な真実(3)

『正直』とは何かを議論するには、先ず『正直』を定義する必要があります。 

『自分の考え方、感じ方をありのままに表現すること』と定義すれば、幼児の『天真爛漫』な振舞いは『正直』の典型例になります。幼児の『天真爛漫』を大人は『いかにも子供らしく可愛い』と受け容れますが、大の大人が『天真爛漫』に振る舞えば、必ずしも賞賛されるとは限らず、多くの場合周囲から顰蹙を買います。 

このことから、『正直は良いこと』という表現を、論理命題として検証すれば、『真』とは言えないことがすぐに分かります。『正直者は損をする』という、シニカルな表現は、『正直』が単純な概念ではないことを示唆しています。勿論『非正直者は得をする』という論理命題も『真』とは言えません。現実には、時と場合で『正直』と『不(非)正直』を使い分けなければならないことが分かります。 

更に、『正直』は、『自分の行為をありのままに認める』という定義もできそうです。『告白する』『懺悔する』のは『正直』を実践していることになります。 

また、『事実をありのままに受け容れる』ことも時に『正直』な態度となります。『病人にガンを宣告する』などが『正直』な振舞いになります。 

『考え方(価値観)』『感じ方(情感)』『(過去の)行為』『事実』などを『ありのままに、受け容れたり、表現すること』が『正直』であり、そうしない時の手段が『嘘』をつくことであると分かります。

何故『人』は『嘘』をつくのかは、『精神世界』の特性を考えれば、説明がつきます。『ありのままを認めること』が『自分には不都合と判断』したからにすぎません。『精神世界』は、『安泰を希求する本能』が奥底にあり、『自分に都合の良いことを最優先選択』しようとするからです。『不都合』は安泰を脅かす要因であり、肉体的にはストレスとなって、脳内に危険信号を知らせるホルモンが分泌されます。生物進化の過程で、『ヒト』が獲得してきた基本機能です。誰もが『嘘』をつく可能性を秘めています。

『人』の『精神世界』は、『自分の都合を最優先する本能に支配されている』と同時に、『考え方、感じ方が個性的であり、一人一人異なっている』という特性を持っています。

一方、『ヒト』は、群(コミュニティ)を形成して生きる習性も、生物進化の中で継承してきましたので、『自分にとって都合がよいこと』は『相手にとっては都合が悪いこと』になるという矛盾がコミュニティには存在することに気づきます。この矛盾を根本的に解決する方策は見つかっていませんが、それでも『法』『道徳』『倫理』といったコミュニティ内での約束事にするという便法を考え出しました。約束事を見張る機構として『裁判所』『警察』なども出現しました。しかし、国家間の都合が生みだす矛盾は、強力な統制機能が働きませんので、紛争、戦争が絶えません。『中国』が、脅しや覇権で、自国を正当化しようとする弁明を行うのは、人類が基本的な解決策を見出していない顕著な例です。テレビを観ていると、『中国外務省のスポークスマン(ウーマン)』と称する、怖そうなオバサンが現れて、『中国は正しい、日本が間違っている』と言わんばかりの弁明をニコリともせず行いますので、梅爺は辟易します。

『安泰が脅かされた』と感じた時に、『人』は、『理』と『情』を駆使して、『精神世界』でストレスを解消するための『弁明』や『虚構』を作り上げます。『嘘』はそれを表現する行為です。

『嘘は好ましくない』という約束事の『道徳観念』が出来上がる前から、『嘘』をつく習性は『人』を支配しており、現在も変わらないということが分かります。『嘘も方便』ということも含め、私たちは『嘘』と冷静に付き合わなければならないような気がします。繰り返しになりますが『嘘は罪』といった単純な認識は浅薄です。

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2015年11月11日 (水)

『不正直』に関する正直な真実(2)

この本には『人が嘘をつく』ことを確認するために行われる実験(テスト)の内容が紹介されています。

複数の被験者をランダムに募り、教室のような部屋に集めて、問題と答案用紙をくばり、20問ほどの論理判断を求める『問題』を提示して、制限時間内に、何問解けるかを調べます。論理判断を求める『問題』にしてあるのは、世界中の色々な国でこの実験を行ったときに、文化や言語の影響が出にくくするためです。

制限時間が尽きた時に、試験官は、それぞれの『問題』の正解を示し、被験者に、『いくつ正解できたか』を自己申告してもらいます。

この基本的なプロセスに、いくつかの異なった前提条件を加えて、『正解申告数』に『嘘』が混入する確率を統計的に求めます。

(1)試験官が答案用紙をチェックし、『正解申告数』が正しいかどうかを調べる。
(2)テスト終了時に、答案用紙は各人にシュレッダーで破棄してもらい、『正解申告数』だけを受け付ける(試験官に依る突き合わせチェックは行われない)。
(3)『正解申告数』に応じて、報奨金を支払う。
(4)見ず知らずの他人の監視下で実験を行う。
(5)親しい人の監視下で実験を行う。

試験官が答案用紙をチェックする条件では、『嘘』はすぐにバレることが歴然としていますから、ほとんど『嘘』の申告はありませんが、答案用紙を破棄した後での申告では、『嘘(実際の正解数より多い数)』が混入します。

これに、報奨金を取得できるという条件を加えると、更に『嘘』の度合は大きくなります。

見ず知らずの他人の監視下でテストを行うと、『嘘』の申告は減り、親しい人の監視下では『嘘』の申告は増えます。他人の『眼』を意識する心理的な影響があることが分かります。

被験者は、大学生などを対象としていますので、教育レベルが高いことになります。教育レベルとは無関係に、『人』は誰でも『嘘』をつくという結果が実験から明らかになります。国や文化の違いに関係なく、結果はあまり変わらないことも判明します。

実験で『定量的』に『嘘』の確率を確認できることは、参考になりますが、どのような条件では、どのような傾向の結果があられるかを、梅爺が事前予測した内容と大きく異なることはありませんでした。つまり、梅爺には『驚きの結果』ではありませんでした。

『経済学』では、『人』の行動の裏には必ず『利害』を意識した動機(インセンティブ)があるとされ、これが『嘘』を生むという主張になりますが、『人』が『嘘』をつくのは、金銭的な『利害計算』だけではなく、『自尊心』などの要因もあるように思います。『利害計算』は『理』によるものですが、『自尊心』は『情』によるものです。『精神世界』の特質と『嘘』をつくメカニズムは関係していると考えれば納得がいきます。

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2015年11月10日 (火)

『不正直』に関する正直な真実(1)

『不正直に関する正直な真実(The Honest Truth about Dishonesty:Dan Ariely著)』というノンフィクションの本(英語版ペーペーバック)を読みました。

副題に『何故我々は他人に、特に自分に嘘をつくのか』とありました。

著者(Dan Ariely)は、アメリカのデューク大學の、心理学、行動経済学の教授で、種々の実験の統計的な結果から、『人は嘘をつく習性をもっている』ことを立証しようとしています。

著者は、ユダヤ系の人らしく、『ユダヤ教』文化の話がいくつか登場し、これは本論とは直接関係がありませんが、梅爺には興味深いことでした。

『人は誰も嘘つきだ』ということは、『あなたも嘘つきだ』と言われていることになりますから、真面目な方は自尊心を傷つけられ、不愉快になるかもしれません。何しろ私たちは、幼いころから『嘘をつく子はいけない子です』『嘘はドロボーの始まり』などと繰り返し教え込まれ、『嘘』は『罪』という意識が強いからです。

その結果、『自分は嘘つきではない』と、無意識に信じ込もうとし、やがて本当にそう思い込むようになるのではないでしょうか。

幸い、梅爺は『梅爺閑話』を書き続けてきたお陰で、『人』の『精神世界』の本質を自分なりに理解できるようになっていますので、少しも腹が立たず、『おっしゃる通り』と受け容れることができました。つまり、この本を読んで、『思いもしなかったことを知って驚いた』という感じは受けませんでした。

この本は、『人が嘘をつく』確率を、色々な条件を変えて実験し、明らかにしています。定量化して、立証するという『科学』の基本的な手法が用いられています。

『人が嘘をつく』という事実が、累々と述べられていますが、『何故人は嘘をつくのか』という本質がほとんど提示されていないことに、梅爺は少々不満を感じました。

梅爺は、『人が嘘をつく』のは、『安泰を希求する(最優先する)本能』が『精神世界』を支配しているからという因果関係で理解していますから、この『仮説』が正当なのか、それとも何か梅爺が気付いていない矛盾があるのか、もっと妥当な他の『仮説』があるのかを確認したいという期待があったからです。

梅爺は、『人が嘘をつく』という事実より、『何故人は嘘をつくのか』という原因の方に興味があります。『神』という概念そのものより、『何故人は神と言う概念を考え出す(必要とする)のか』と言うことの方に興味が傾くのと同じです。

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2015年11月 9日 (月)

地球の年齢(4)

『鉄』以上に重い金属元素は、『宇宙』のどこかで起きている『超新星爆発(ある質量以上の恒星が死を迎えた時に起こる)』の、高温、高圧力の環境でないと出現しないと考えられています。

云いかえると、『地球』に存在する重金属、貴金属は、『宇宙』のどこかで起きた『超新星爆発』でできた小天体が地球へ飛来し、衝突してもたらされたものという事になります。

アメリカの科学者が、現在地球に存在する貴金属元素『金(キン)』の埋蔵量に注目し、『地球』の誕生以来、貴金属を含む小天体が『地球』へ飛来した数を統計的に予測した結果、『地球の年齢』は44・7億年と算定しました。

また2013年にロシアに飛来した『隕石』に含まれる、微量なアルゴンガスやカリゥムガスを測定して、この『隕石』の元の小天体は、『ジャイアント・インパクト』で生じた塵で誕生したものと推定し、その時期は44.7億年前と算定しました。

『地球の年齢』を推定する手法として、これぞ決定版というものはありませんが、多くの追求結果が、44.7億年近辺の数値になっていることから、『地球の年齢』は約45億年ということになりました。

今後『科学』は、思いもよらない方法で、もっと正確に『地球の年齢』をはじき出すかもしれません。『科学』の定説は、このように柔軟に変わっていきます。『理性』で更なる『真実』に迫るのが、『科学』の基本姿勢であるからです。『独裁者』『権力者』『聖職者』の言葉だけが『正しい』などという事態は、『科学』では起こりません。

『人間社会』では、『ゆるぎない信念』は美徳とされますが、『科学』は、矛盾が少ない『因果関係』が見つかれば、『朝令暮改』であっても恥ずかしいことにはなりません。

梅爺は『人』の『精神世界』は、個性的であり、流動的でもあると考えていますので、頑なに『ゆるぎない信念』に必ずしもこだわることもなかろうと思うことがあります。『揺るぎない信念』は『人』の習性の本質を考えると、むしろ不自然であるからです。寛容に他人や自分の『変化』にも対応する努力を怠らない方が、『ゆるぎない信念』などと突っ張るより健全に生きていけるような気がします。

従来梅爺は、『地球の年齢』は46億年と書いてきましたが、これ以降は45億年に修正したいと思います。些細なことですが、これも『変化』に対する柔軟な対応の一種です。

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2015年11月 8日 (日)

地球の年齢(3)

『地球』が現在の姿になるまでに、微惑星との10回程度の衝突、少なくとも惑星との1回の衝突『ジャイアント・インパクト』がありました。

『地球』は誕生時および、その後の微惑星、惑星との衝突時に、灼熱環境になったはずですから、その後『生命体』などが出現することさえ予測困難な状態であったはずです。

『地球』の表面が冷却した時には、一転して海(水)が大半を覆う惑星に変貌していたことになります。この多量の水は一体どこからもたらされたのかも、必ずしも明確に分かっていません。太陽系の辺境から、氷の小天体が飛んできて地球と衝突したためという仮説もあります。

更に『生命体』に必須な『有機物質』も、同じく太陽系の辺境から飛んできた小天体が『地球』に衝突してもたらされたのではないかという仮説もあります。

『地球』が出現して最初の数億年の間に、何があったのかは、多くの謎に包まれています。はっきりしていることは、太陽系生成の全ての事柄が『地球』と関わっているということです。『地球』は単独に誕生し、存在しいるわけではありませんから当然のことです。

しかし、太陽系の平衡状態が安定期に入った頃には、『地球』は『太陽』との距離が、水が液体状態で存在しうる、いわゆる『ハビタル・ゾーン(生命体が存在可能なゾーン)』の範囲で落ち着きました。『地球』と『太陽』の質量の関係から、引力のバランスでこの距離が決まったわけですから、偶然結果的に『ハビタル・ゾーン』でおさまったことになります。私たちにとっては幸運であったとしか言いようがありません。『太陽』にもっと近ければ、水は水蒸気となり、もっと遠ければ水は氷となって、『生命体』の出現には不利な環境であったに違いないからです。

更に、原始『地球』は、微惑星や惑星との衝突の度に、自転の地軸の傾きが変わり、最終的には現在の23.4度の傾きになりました。もしこの傾きが、0度や90度に近ければ、地球の大半は現在のような四季のある温暖な気候は期待できなくなり、『生命体』の存続には厳しい環境になっていたはずです。これも偶然結果的に23.4度になっただけのことですから、これまた幸運であったとしか言いようがありません。『日本』が温帯に属し、豊かな四季に恵まれていることも私たち日本人には幸運なことです。

『物質世界(宇宙や自然界)』は、『摂理』に従って、絶え間ない『変容』を続けているだけで、『あるべき姿』『目的』『設計図(デザイン)』を満たすために変化しているわけではないことが分かります。

『あるべき姿』『目的』『デザイン』という概念は、『人』の『精神世界』が考え出したもので、『人』や『人間社会』が『安泰』を得るために重要な意味を持ちますが、『物質世界』では通用しない概念であると梅爺が考えるのは、このためです。『天地は神がデザインした』という考え方は、梅爺の理性では受け容れがたいものになります。『ヒト』は『自然』を利用して生きていますが、『自然』は『ヒト』のためにデザインされたり、創りだされたりしたものではないと考える方が梅爺には得心がいく話です。

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2015年11月 7日 (土)

地球の年齢(2)

60年前に、カリフォルニア工科大学の科学者がウラン元素の半減期を利用して、『地球の年齢』を特定しました。ウラン元素には、同位体があり、ウラン238の半減期は約45億年、ウラン235の半減期は約7.4億年と異なります。

現在地球に、自然に存在するウラン238とウラン235の比率から、計算して『地球の年齢』を推定する方法で、結果は45.5億年(誤差プラス・マイナス0.7億年)でした。以降『地球の年齢』は約46億年というのが通説になりました。

この時の測定のサンプルは、アメリカ西海岸の海底の泥でしたが、これが必ずしも地球の平均サンプルとは言えないというのが弱点です。平均サンプルが特定できないために、この推定方法には限界があることになります。

その後、サハラ砂漠で見つかった隕石の組成を調べた結果、45.68億年前のものと推測されました。太陽系が誕生した直後に、多くの微惑星が合体して惑星が出来上がっていったころのものであろうという推定がなされました。

更に、アポロ11号(1969年)、アポロ15号(1971年)が月から持ち帰った『月の石』の年齢が測定され、それぞれ38億年、44~45億年と推定されました。38億年の年齢の石(玄武岩)は、『月』の誕生後に『月』でできたもの、44~45億年の年齢の石(白色岩石)は、『月』の誕生と同時できたものという推定です。

『月』は、初期の『地球』が出現して20万年後に、『火星』ほどの大きさの他の天体(惑星)が『地球』と衝突(接触?)し、その結果出来上がったものと考えられています。この衝突は『ジャイアント・インパクト』と呼ばれています。

このことを考えると、『月の石』の一部の年齢は、『地球の年齢』に極めて近いという事になります。

当然のことながら、『地球』は誕生直後から現在の形であったわけではありません。『宇宙』の塵とガスが集まって、『太陽』が誕生した時、その周辺では、同じく塵とガスが集まって多数の惑星や微惑星が誕生しました。

その時、惑星同士、惑星と微惑星、微惑星同士の衝突が頻繁に起こり、太陽系の平衡状態は『変容』しながら、現在にいたっています。現在は、当初にくらべて相対的に安定的な平衡状態になっているということに過ぎません。今後『地球』が微惑星と衝突する可能性はゼロではなく、その時、『地球』上の全ての生物が絶滅する可能性もゼロではありません。

『水星』『火星』は、微惑星との衝突経験を持たない原始惑星の姿を残した惑星で、『金星』『地球』は、それぞれ8ケ、10ケの微惑星との衝突を経験していると推測されています。『ジャイアント・インパクト』は『地球』が最後に経験した大きな衝突です。

このように、太陽系の惑星の中で『地球』は、特別に波乱万丈の『変容』を遂げてきたために、それが幸運に作用して『生命体』が出現する環境ができあがったのではないかと梅爺は考えたくなりました。『禍福はあざなえる縄のごとし』とはよく言ったものです。この波乱万丈は偶然の『変容』の連続であって、とても『神』の整然たるデザインであったとは思えません。

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2015年11月 6日 (金)

地球の年齢(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映される『コズミックフロントNext』という科学啓蒙番組で、『地球の年齢』に関する最近の研究内容が紹介され、梅爺は録画して観ました。

『宇宙』の年齢に関しては、従来『ビッグバン』は137億年前というのが定説でしたが、数年前に科学者たちが検証した結果138億年前と修正されました。

どちらであっても、私たちの日常生活に影響があるような話ではありませんが、『真偽』を重んずる『科学』のデータとしては、真実に近い方が良いにきまっていますので、梅爺は科学者の主張を『信じて』、以降138億年をブログで用いてきました。

『地球』の年齢に関しては、従来46億年というのが定説でしたが、この番組を観ると、44.7億年というのが信憑(しんぴょう)性の高い数値のようなので、今後は45億年をブログでは使いたいと思います。

いずれにせよ、『科学』の世界は、あらゆる側面から検証がなされて、より真実へ近いデータへ修正されていきます。何が『真実』であるか分からないという前提で、より矛盾の少ない『因果関係』を探して『真実』に近づこうとするわけですから、当然の話です。新しい説に置き換わっても、古い説の主張者の権威がないがしろにされるさけではありません。スポーツの世界の新記録保持者の交代と似ています。

一方『宗教』の世界では、『真実(神、聖書に書かれていること)』が最初に存在するという前提ですから、これを疑うことは『異端』とされ、原則として『教義』の内容は修正されることがありません。

『科学』と『宗教』が、相いれないのはこれが理由です。科学者は、矛盾の少ない『因果関係』を『理』で追及することで、心の『安泰(納得)』を得ようとし、『宗教』の信者は、『神』による『救い、慈悲、罪の許し、天国への誘い』などを『情』で『信じて』、心の『安泰(安らぎ)』を得ようとするわけですから、『安泰』の性質が異なっています。どちらの姿勢が『正しい』かなどという議論は意味がありません。『人』の『精神世界』は個性的であり、どのような『安泰』を重要視するかは一人一人異なるからです。

梅爺の性格は、科学者の姿勢に似ています。多分遺伝子でそのような性格を保有することになったのであろうと思います。生まれつきですから、今更変えようがありません。

『地球の年齢』を特定することは、意外にやさしいことではないことが、番組を観て理解できました。

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2015年11月 5日 (木)

我慢嫌悪症候群(4)

『人』の『精神世界』は、個性的で流動的であるという特性を、誰もが『理性』で理解していれば、人間社会のいざこざの多くは、回避できます。

自分の『精神世界』がその時優先する価値観も、体調や環境条件で変わります。つまり、自分でさえも、いつも同じように考え、感ずるとはいえない複雑な代物です。

更に他人にも同じことが言えますから、このような『人』が集まって構成されるコミュニティの運用は、気が遠くなるほど困難を極めることは容易に想像できます。

夫婦のどちらかの『虫が悪い時』には、普段は問題にならないような些細なことが原因で、深刻な夫婦喧嘩になったりします。

コミュニティには、コミュニティで通用する共通の『価値観』の設定が必要になり、『憲法』『法』『倫理』『道徳』などを保有するようになりました。これらの制定に、コミュニティ・メンバーの意見が反映できる仕組みが『民主主義』ですが、時には、『独裁者』や『独裁的なイデオロギー政党』が、『価値観』を制定し、メンバーに遵守を強制するコミュニティも出現します。

いずれにしても『コミュニティ』の『価値観』と、メンバー個人の『価値観』との間に食い違いが生ずるのは当然のことです。メンバーの多くが理不尽と感ずる『価値観』は、民主主義コミュニティでは、議論し改定できる可能性がありますが、根気と時間を必要とします。民主主義は、その点効率が悪いシステムですが、独裁的に『価値観』を押し付けるよりは、ましであるという知恵が働いてできた仕組みです。コミュニティの『価値観』を護るために、『裁判』『警察』などの仕組みが出現しました。

独裁的なコミュニティの『価値観』を護るための、『裁判』『警察』がどのような陰湿なものになるかは、多くの歴史が示しています。同じ『裁判』『警察』という言葉でも、内容は民主主義コミュニティとは全く異なります。

『宗教』のコミュニティでは、『教義』が『価値観』となり、メンバー(信者)は、『信ずる』ことでこの『価値観』を受け容れます。『信ずる』行為は見掛け上『価値観』を一つにする知恵です。

個人が、自分の『価値観』と他人の『価値観』の違いや、自分の『価値観』と自分が属するコミュニティの『価値観』の違いを認識し、『理性的に対応する』ことがもっとも理想的です。

『嫌々我慢をする』のと『理性で寛容に対応する』のとでは大きな違いがあります。

現代社会が人々を『せっかち』にし、『我慢』を嫌がるようになると、やがて『理性的な寛容の姿勢』さえも失うというなら、それは大いに懸念すべきことと梅爺も思います。

でも『パーソナル・コンピュータ』の反応が遅いからとイライラすることが、『理性的な寛容さ』までも阻害することにつながるという主張は、少々考え過ぎのような気がします。

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2015年11月 4日 (水)

我慢嫌悪症候群(3)

『IT(情報処理技術)』やその他の先端技術を取り込んだ文明社会は、あらゆる『ムダ』を排除して、効率を上げることを優先します。

このため、田舎から都会へ出てきた人は、都会の人々が、何かに追い立てられてでもいるように、せせこましく行動していることに戸惑ったりします。歩行者の歩く速度の違いにも驚きます。

逆に都会の生活のテンポに疲れた人は、ゆったりした時間が流れているように感じられる田舎にあこがれて、移住しようとしたりします。特に、仕事の現役を引退した老人は、『悠々自適』『晴耕雨読』などを求めて、田舎へ移り住むことを夢見たりします。

東京の郊外『青梅』に住んでいる梅爺は、仕事の現役時代、都心まで通勤するのは大変でしたが、引退後の生活環境としては気に入っています。我が家の狭い庭にも、季節になれば蝶や野鳥が飛んできます。必要な時だけ都心へ出ますが、今では人ごみや乗り物の混雑には、気が滅入ります。

元々『人』は、価値を認めないものに時間を費やすことを嫌う習性がありますから、文明社会で、テンポが速くなるのは、当然の結果とも言えます。

『効率=快適=安泰』も『人』が求める本能ですが、これだけが『安泰』のすべてではありません。時に『ゆったり、のんびり過ごす=安泰』を優先したくなる時もあります。『安泰を希求する本能』が『精神世界』を支配していますから、同じ人が『都会生活』と『田舎生活』の双方に惹かれるのは、矛盾とはいえません。時と場合で、『人』の『安泰』に対する優先度が変わるということに過ぎません。

繰り返しで恐縮ですが、『人』の『精神世界』は個性的ですから、何の価値を優先するかは、他人に決めてもらうことではありません。『クラシック音楽』の『交響曲』を聴くには約1時間の時間を必要としますし、『オペラ』を鑑賞するには3~5時間を必要とします。梅爺にとってはこの時間は『ムダ』ではなく、その間自分の中に去来する新鮮な感性を優先しようとします。しかし、これらに興味が無い人は、『ムダ』で苦痛な時間に過ぎません。他人に迷惑とならない限り、『精神世界』は『わがまま』であって差し支えありません。見榮をはることもありません。

『時は金なり』は、元々限られた人生の時間を、有効に使いなさいという教訓で、会社の社長が、社員に『ムダな時間を排除せよ』と叱咤するためにある諺ではありません。

現代社会は『人』を『せっかち』にする要素を有していますが、これで人間社会がおかしなことになると懸念する必要はないのではないでしょうか。『人』は必ず、『せっかちでない』ことに『安泰』の優先度をおいて、バランスをとろうとするに違いないからです。『人』は、想像以上にしたたかにできています。

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2015年11月 3日 (火)

我慢嫌悪症候群(2)

『パーソナル・コンピュータ』の画面の切り替わりに要する時間は、どのくらいなら我慢できますかというアンケート調査で、2006年には回答の平均値は『4秒』でしたが、それから数年後の同様の調査では、『1/4秒』に変わったとこのエッセイでは紹介しています。

『1/4秒』と言えば、瞬(まばた)き程度の時間ですから、人々がどんどん性急になっていくことが分かります。

『精神世界』の『理』で、『こうすれば、こうなる』という『因果関係』が分かっている事象に対して、『人』は、それに要する『時間』は『ムダ(不快)』と判断し、イライラするのでしょう。

逆に『因果関係』が分かっていない事象に対しては、『いったい次に何が起きるのだろう』と『期待』と『不安』をもって見守りますから、これに要する『時間』は別に『ムダ』とは感じず、むしろ永い方が『期待』や『不安』が高まったりします。

『デジタル機器』や『ネットワーク』の性能が向上して、『サクサク』動くようになると、人々はどんどん性急になり、我慢することを嫌うようになるという観方は表面的すぎます。

上述のように、『精神世界』の『理』が『因果関係』を理解している事象について、それに要する『時間』を『ムダ』と感ずる『人』の習性が本質で、この習性は昔も今も変わりがありません。『デジタル機器』や『ネットワーク』がたまたまそれを顕著にしただけですから、これらを『悪者』にする論法も皮相すぎます。

親方が弟子に『何をグズグズしているのだ』と怒鳴ったりするのは、親方にとって『こうすれば、こうなる』と分かっている(因果関係が明白である)行為を弟子がうまく対応できないからです。親が子供に『グズグズするな』と叱るのも同様です。このような事態は、『デジタル時代』とは無関係に、昔から繰り返されてきました。

弟子や子供も、親方や親と同じように『因果関係』を理解していれば、問題はありませんが、理解できていない時には、何故『怒鳴られている』のか『叱られている』のか、わからないわけですから、可哀そうな話になります。

『人』の『精神世界』は個性的であり、自分が『当然』と考えていることを他人は『当然』と考えていないと認識することが大切になります。しかし、私たちは往々にして『自分が考えている、感じているように相手も考えている、感じているに違いない』と勘違いしがちです。自分が知っていることを相手が知らないと、『そんなことも知らないの』と相手を見下したりします。

そして、『相手の考え方や感じ方が自分と異なっている』と気付いた時に、『お前は間違っている』と糾弾しがちです。

このエッセイの著者は、人々が性急になっていくことを懸念していますが、本質はそうではなく、世の中の事象の全てが、『インターネット』のページ切り替えのように、『因果関係』が明白であると勘違いすることを懸念すべきであると梅爺は思います。

世の中の事象の大半は、『因果関係』が明白ではなく、自分で『考えて』判断しなければなりません。科学知識に関する疑問は、答を他に求めることができる可能性がありますが、それ以外の多くの疑問には明白な答はどこにもありません。他人の意見を安易に自分の応えとすることは危険です。したがって自分で『考える』行為を放棄し、すぐに『結果』が出ないことにイライラするのであれば、それが問題です。『考える』ことは『時間』を要する行為であるからです。

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2015年11月 2日 (月)

我慢嫌悪症候群(1)

『What should we be worried about(我々が懸念すべきこと)』というエッセイ集の13番目の話題は『The Patience Deficit』で、その内容を分かりやすくするために梅爺は『我慢嫌悪症候群』と意訳しました。著者は、作家の『Nicholas G. Carr』です。 

『パーソナル・コンピュータ』や『スマート・フォン』の操作が快適である状態を日本の若者たちは『サクサク動く』と表現します。『さくさく』は、元々『軽快な連続音』を表現する日本語の言葉ですが、『デジタル』時代に、新しく蘇ったことになります。若者たちは逆に、『さくさく』の元の用法を知らないのではないでしょうか。時代とともに言葉も変容していく例の一つです。 

『物質世界』の『摂理』に深く関与する『時間』は、『アインシュタインの相対性理論』では一定ではありませんが、私たちの日常感覚では一定と考えて差し支えありません。

『宇宙』の誕生以来、138億年の『時間』が経過しています。『時間』という概念は、人類が『物質世界』の『説明』に必要なものとして発見したものですが、『時間』そのものは『人間』が存在しない世界でも存在します。『愛』『正義』『平和』などという、『人』の『精神世界』でだけで意味を持つ『抽象概念』とは決定的に異なります。

私たちは、時計を持たなくとも、ある程度『理性』と『経験』を用いて『時間』の経過量を推測できます。

ところが、『精神世界』の『情感』が強く作用している時には、『時間』の経過が『速く』感じられたり、『遅く』かんじられたりするようになります。具体的には、『いつまでもこの状態が続いて欲しい(安泰を体感している)』時には、感覚的に『時間』は速く過ぎ、『早くこの状態は終わってほしい(不安を体感している)』時には、『時間』はなかなか進まないように感じます。

素晴らしいサッカーの試合は、時間が短く感じられ、日本がサッカーで勝っているときの後半アディショナル・タイムは非常に永く感じます。

『精神世界』の背景にある『安泰を希求する本能』が、強く働いている証左です。

『デジタル』技術を応用した製品が、私たちの日常の生活に必需品として入り込んできました。『パーソナル・コンピュータ』や『スマート・フォン』を利用するようになって、機器やプログラム(アプリケーション)の起動待ち時間、画面の切り替わり時の待ち時間が、少しでも永く感じられると、イライラするようになり、その度合いがどんどんひどくなっているように感じられます。これは梅爺自身も体感していることです。

人間が、期待するものがすぐに実現しないことに、何事でもイライラするようになることは、人間社会にとって好ましくない現象ではないのかという懸念がこのエッセイの主旨です。

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2015年11月 1日 (日)

.Revenge is a dish best served cold.

英語の諺『Revenge is a dish best served cold.』の話です。 

『復讐は冷たい料理として提供するのが最もよい』という直訳になりますから、『じっくり時間をかけた復讐が、恨みを晴らすには最も効果的だ』というような意味に受け止められます。 

被害者が味わった苦悩を、数倍にして加害者にも味あわせようということですから、『恨みつらみ』はちょっとのことでは晴れないという、『人』の『精神世界』の陰湿な側面を表しています。 

英語の諺には『Revenge is sweet.』というのもあり、『復讐は甘美だ』ということで、被害者に感情移入した傍観者にとって、『復讐には快哉を叫びたくなる』というような、これまた『人』の『精神世界』の心理的な側面が表現されています。 

スポーツ選手が、負けた時に『この借りは必ず返す』などと発言し、私たちも『やられたらやり返す』という心理を、肯定的に是認します。 

一方、『テロへの復讐は、新たなテロを誘発する』ということで、負のサイクルを断ちきるために、感情的な復讐心は、理性で抑制すべきであるというような主張も行われます。 

『やられたらやり返す』という欲望を、誰もが共有する『情』として肯定しながら、時と場合によっては、その『情』は『理(理性)』で抑制すべきであると判断することもあるという、『精神世界』の複雑さを如実に表しています。

自分の身に起きた不条理なことには、『恨み』を持ち続け、他人の身に起きた不条理なことには、『いつまでもくよくよしなさんな』などと、したり顔で助言をする身勝手さを私たちは持ち合わせています。

何故このように『人』ができているかは、生物として原始的な『脳』を獲得し、その後過酷な環境を生き抜いてきた過程で進化させた『精神世界』の本質を理解する必要があります。つまり、『人』を知ろうとすれば、科学知識が必要になります。科学知識なしに『宗教』や『哲学』だけで『人』を論ずる時代は既に過去のものではないでしょうか。『科学』だけで論ずるのも、勿論適切ではありませんが、全てを『学際的な思考の対象にする』姿勢に変える時代になっているように思います。

『復讐』は『精神世界』の深淵が関与する欲望ですから、実行するかどうかは別として誰もが持ち合わせている情感です。『復讐』を野放しにすることは、群の秩序を乱しかねませんから『道徳』『倫理』『法』でこれを規制する『約束事』を、これまた『人』の『精神世界』が作り上げました。『法』による刑罰は、『社会』が『個人』に代って行う『報復』と言えます。

『恨みをいつまでも持ち続ける自分は罪深い人間だ』などと悩むよりも、『自分の精神世界はどのようにできているのか』を直視した上で、『さてどう対応すべきか』と理性を含めて考える必要があります。

『精神世界』の本質を考えずに、盲目的に『道徳』『倫理』『法』で身を律しようとすると、誰もが『罪深い人間』になってしまいます。『道徳』『倫理』『法』は人間が後々考え出した『約束事(知恵)』ですから、何故そのような『約束事』を人間社会が必要とするかを『考える』ことの方が大切です。

『道徳』『倫理』『法』を、『神』から授かった崇高な『知恵』であるかのように、得意げに振り回す人に梅爺は時折辟易することがあります。

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