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2015年9月30日 (水)

パーヴォ・ヤルヴィがN響にやってくる(1)

『パ-ヴォ・ヤルヴィがN響にやってくる』というタイトルで、梅爺が何を書こうとしているかを直ぐに推測される方は、かなりの『クラシック音楽オタク』です。

『パ-ヴォ・ヤルヴィ』はエストニア出身の『オーケストラ指揮者』で、世界の名オーケストラから指揮依頼が多い、人気の高い多忙な指揮者の一人です。

『N響』は『NHK交響楽団』の略称で、世界のオーケストラ大国日本で、最高水準のオーケストラのひとつです。『オーケストラ大国日本』という表現に、多くの方は『まさか』と思われるかもしれません。明治維新の後、初めて『西洋音楽』に接した日本は、西洋音楽に関しては後進国であると、想像しておられるからでしょう。しかし、日本はプロのオーケストラの数においては勿論のこと、アマチュアのオーケストラの数を加えれば、日本は間違いなく比類なき世界の『大国』なのです。

『オーケストラ』だけではなく、管楽器を主体とする『ブラスバンド』、人の声を楽器とする『合唱』の分野でも、日本は世界で飛び抜けた『大国』です。一部の工業製品や、アニメーション映画などの分野で、日本が『大国』であることは誇らしいことですが、『音楽』という芸術文化の分野で『大国』であることは、もっと誇らしいと梅爺は感じています。『音楽』は世界の人の共通感性を喚起する『絆』となることはあっても、それが戦争の原因になるようなことはないからです。

明治の先人が、『知育』『体育』『情育(音楽、図画工作)』を、『人』に必要な基本要素として初等義務教育に組み込み、全ての国民を教育の対象とした慧眼(けいがん)に感謝するばかりです。現在でも、世界のすべての国が『情育』を義務教育としているわけではありません。『音楽』は時に『国威発揚』『商業主義』に利用される面もありますが、基本的には『人』の『情感』を育む素晴らしい手段です。

『クラシック音楽』を他人に『好きになりなさい』と強いることは、やってはいけないことですが、それでも多くの日本人が『クラシック音楽は高尚過ぎて私にはわからない』と『食わず嫌い』に尻込みされておられることを、梅爺は残念に感じています。『音楽』は、その中に身をおいてただ自分勝手に『感ずる』ことで十分すから、『分かる』ことや『高尚になる』ことは副次的なことで、それを目的とする必要はありません。他人の意見や評論などを気にする必要もありません。

2015年9月から、『NHK交響楽団』の主席指揮者に『パーヴォ・ヤルブィ』が就任するというニュースに接して、梅爺は『ハリルホジィッチ』監督の就任で日本のサッカー・ナショナルチームがどう変わるのかと期待するのと同様に、『パーヴォ・ヤルヴィ』が『NHK交響楽団』から何を引き出すのかと期待を膨らませています。

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2015年9月29日 (火)

野見山暁治の精神世界(2)

『野見山 暁治』氏の『精神世界』は、人生の全ての体験が関与して、積み重ねられ形成されてきたものです。『人』の『精神世界』は、年齢とともに変り、その時置かれている状況や体調によっても異なります。

『精神世界』は、『人』が『生きる』過程で、『肉体』同様絶え間ない『変容』を続けるものであるという認識が重要です。その時々に『精神世界』をどのように保つかを考えれば良いのであって、自分のあるべき『精神世界』はこうだと決めつけて、それに固執することは、不自然で窮屈であるように思えます。梅爺も、若い頃と今では、周囲の事象を観ての感じ方、考え方は、まるで別人のように違います。

『野見山 暁治』氏も、若い時の画業修行、戦争体験(兵卒として満州へ赴き、死直前の大病を患う)、約10年間のパリ留学、2度の妻との死別(最初の妻はパリ時代に、再婚した妻は野見山 暁治氏が80歳の時に他界)などが、全てその後の『精神世界』を『変容』させていく要因になっているに違いありません。

若い頃の画風は、『具象画』ですが、現在の画風は、『抽象画』に変っています。

芸大の教授(現在は退任)を務め、絵やエッセイが売れ、文化勲章も受章されていますから、金銭的に困ることがないもとと思われます。生活の束縛(収入や名声を得るためというような)なしに、心の赴くままに絵やエッセイに打ち込めるという状況は、恵まれた芸術家であると言えます。

『美しいだけのものは現象に過ぎない。その奥にある魔性を描きたい』
『人間や生物はうごめいているだけで、成すべきものがない』
『行き暮れている(現在の自分の心境)』

等の表現をみると、事象を表面的にとらえず、内部に思いもよらない本質が秘められていると『感じて』おられるように見えます。私たちは、『物質世界』の一員としては、冷酷な『摂理』に支配されていますから、『精神世界』が求める、『美』や『幸せ』といった願望の裏側には、『破壊』や『死』といったむごい現実があることを、時折思い知らされます。

『東日本大震災』などは、その顕著な体験でした。『野見山 暁治』も早速被災地へ赴き、デッサンをして、何かを感じ取ろうとされました。

デッサンは、見事な具象表現でしたが、後日その印象を作品として描いた時には、全くの『抽象画』に変っていました。

一度自分の『精神世界』へ取り込み、咀嚼(そしゃく)して、個性的な表現に変えるプロセスを梅爺は大変興味深く感じました。

そう思って『野見山 暁治』氏の文章を読むと、同じプロセスで表現しているのではないかと気付きました。『客観』を『主観』に変えて表現する能力に、長けておられると観れば、絵も文章も似ていると言えないことはありません。

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2015年9月28日 (月)

野見山暁治の精神世界(1)

NHK地上波教育チャンネルで、放映される『日曜美術館』で、2014年に文化勲章を授与された日本を代表する現代画家『野見山 暁治(のみやまぎょうじ)』が紹介され、梅爺は、魅せられ、驚かされ、考えさせられ、励まされました。

『野見山 暁治』氏は、1920年生まれですから現在95歳ですが、毎日欠かさず絵を描き、更にエッセイを執筆されておられます。74歳の梅爺が、いっぱしの爺さん気どりで、『梅爺閑話』を書いていることが恥ずかしくなりました。20年後の自分は想像することはさえ難しいことですが、『理想像』として受け止め、励まされました。

『野見山 暁治』氏は、画家であると同時に、著名なエッセイストで、『400字のデッサン』という著作で、日本エッセイスト賞を受賞し、現在も『アトリエ日記』シリーズが次々に刊行されています。

同じ人物の中で、『絵で表現する』『文字で表現する』という能力が、ともに高いレベルで共存していることに、『この人の精神世界は一体どうなっているのだろう』と魅せられ、考えさせられました。

勿論、昔から『文武両道』に秀でた人や、何をやっても天才の『レオナルド・ダ・ヴィンチ』のような人はいました。作曲家でエッセイスト(パイプのけむりシリーズ)の『團伊玖磨』や、科学者でエッセイストの『寺田寅彦』もいました。

しかし、『野見山 暁治』氏の場合は、絵の画風が『抽象画』でありながら、エッセイの文章は『分かりやすい美しい日本語』であるという、異なった分野の表現のギャップに梅爺は強い興味を覚えました。

『野見山 暁治』氏ご自身も、周囲の人から『あなたの文章は分かり易いのに、どうして絵は分かり難い(抽象表現)なのか』と尋ねられるとみえて、以下のように答えています。

『よほど描き残したいものがあるのか、どんなに遠ざかっても繰り返し繰り返し現れる形、その奥の何かを(描き残したいのか)』

『自分の中に自分を突き動かす何かがあり、それは欲望なのか、探究心なのか自分でも分からない』と、率直に述べておられるように見えます。

『芸術』は、『精神世界』の『情』が深く関与する分野ですから、『理』で整然と説明できないのが当然とも言えます。『芸術』は『理』で理解するものではなく、『情』で感ずるものであるからです。

『理』だけでは理解できない表現を、『創作者』と『鑑賞者』が共有し、何かを感じて『絆』を確認するということが、『芸術』の真髄なのでしょう。

『芸術』は『お腹は満たさない』が『心は満たす』と言われるのはそのためです。『人』は、肉体的にも、精神的にも、どちらも満たされて(安泰が保証されて)、始めて『健全に生きている』といえる、特殊な生物です。

『生物進化』の途方もない数の偶然の蓄積結果が、このような特殊な生物を作り上げたことになります。『精神世界』の表現が豊かな人は、魅力的な人です。

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2015年9月27日 (日)

史上空前の論文捏造事件(4)

考えてみると、権威ある研究機関は、もっとも『不正』が起きにくい環境であるはずです。衆人環視のなかで、宝石を盗むあるセーヌ・ルパンの行為のようなものであるからです。 

従って『周囲も見て見ぬふりをしていた』『周囲も加担していた』『周囲も功名のおすそ分けをコッソリ望んでいた』のではないかと疑われることになります。 

『ヤン・ヘンドリック・シェーン』『小保方晴子』の両事件とも、『杜撰な管理体制』が明るみに出ましたが、上記のような『周囲の思惑』も垣間見えます。 

『ベル研究所』は当時親会社の『ルーセント』の業績が芳しくなく、研究所の資金調達に難儀していましたので、『ヤン・ヘンドリック・シェーン』のような『スーパー研究者』を、注目を集める上で必要としていました。『自由経済・資本主義』は、競争で生き残るためには、手段を選ばない弊害があります。『倫理』などはちっぽけな要因としてかすんでしまう恐れを秘めています。『戦争』と同様に、人類はこの愚を繰り返さない知恵を持ち合わせていません。 

研究所で不正が発覚すると、『研究の指導者』『研究の同僚』は何をしていたのかと、追及されます。 

『ヤン・ヘンドリック・シェーン』『小保方晴子』の事件ともに、特に『研究の指導者』は鋭い追及の対象になりました。発覚以前の晴れがましい成果発表の席には、『研究の指導者』は同席し、にこやかに、自慢げに振る舞っていますから、『私は知りませんでした』では世間の常識では済まされません。 

『ヤン・ヘンドリック・シェーン』の指導者『バートラム・バトログ』は、『自分は関与していない』という姿勢を貫き、現在でもスイスの著名な工科大学の教授を務めています。一方『小保方晴子』の指導者『笹井芳樹』は、自殺という手段で、責任を間接的に認めた形になりました。『小保方晴子』との私生活上の関係なども噂になっていましたが、それにしても、精神文化の違い、個人的な倫理観の違いは顕著です。勿論、世間的な常識は『バートラム・バトログ』を『白』と認めているわけではありません。

へそ曲がりな梅爺は、『不正内容の詳細』を知ることよりも、『人は何故不正を行うのか』に興味を惹かれます。人の『精神世界』が深く関与しているであろうと想像するからで、決して他人事(ひとごと)ではないと考えてしまいます。

『ヤン・ヘンドリック・シェーン』は『ベル研究所』を解雇され、今はドイツでひっそりサラリーマン生活を送っています。彼も『小保方晴子』も、再び晴れ舞台で脚光を浴びることはないでしょう。

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2015年9月26日 (土)

史上空前の論文捏造事件(3)

『論文捏造』は勿論、科学者、研究者自身の『倫理観』が引き金になって起こりますが、『事件』が大きくなっていく背景には、他の要因も関与します。

『ヤン・ヘンドリック・シェーン』の場合は、世界的に高い評価と実績を重ねてきた『ベル研究所』が、『小保方晴子』の場合は、日本で最も高いレベルの研究を誇ってきた『理化学研究所』が舞台でした。

世の中の人は勿論、科学者仲間も、『ベル研究所』『理化学研究所』が関与し、発表した論文の内容は、『信頼がおける』と先入観をもって受け止め、不正が発覚するのが遅れることになります。逆に、不正が明確になった時には、凡人は『権威の失墜』を見るのは大好きですから、鬼の首をとったように、騒ぎ立てます。

『ヤン・ヘンドリック・シェーン』の論文内容は、権威ある科学誌の査読をパスし、世界の一流科学者も、すぐには矛盾や不正を見抜けないほどの論理で構築されていたわけですから、高い『知性』や専門知識がないと書けません。『小保方晴子』についても、能力のレベルには差があるにせよ、同様のことが言えます。分かり易く云ってしまえば、現在の梅爺には、そのような論文を書く能力はありません。

要は『一芸に秀でている人は必ずしも立派な人とは言えない』という話です。『立派な人』の定義は難しいのですが、ここでは『理性で煩悩を抑制できる温厚柔和な人』ということにしておきましょう。しかし、『一芸に秀でるための厳しいプロセスの中で、人は立派になっていく』とも言えますので、この関係は微妙です。『実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな』というのは、日本の庶民が見抜いた『人』の『理想像』で、見事な比喩です。『実るほど頭を挙げる人』が多い現実を諧謔で笑い飛ばしています。

『高学歴』『高い地位』『名声(スポーツや、芸能、芸術など)』を得た人は『立派な人』であると、私たちは勘違いしがちです。

このようなチグハグが起きる原因は、単純です。それは『精神世界』は個性的であり、倫理観、道徳観をきめる『価値観』が人に依って異なるからです。普通の人より高い『知能指数』の持ち主が、普通の人よりすぐれた倫理観を保有しているとは限らないという話です。

アメリカの犯罪心理学の研究では、犯罪者の『知能指数』は、世の中の平均値より高いという指摘がなされています。『頭が良い人は立派な人』と思い込むと、とんだしっぺ返しを受けることになるかもしれません。倫理観に疎い『頭の良い人』は最悪です。

『頭が良い人』が、『この程度の嘘や不正は、凡人には見抜けない』と『うぬぼれた』時に、落とし穴が待ち受けています。『天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏らさず』とはよく言ったものです。しかし、一瞬にして人生を棒に振る愚挙を見抜けなかったわけですから『頭が良い』とは言えないかもしれません。

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2015年9月25日 (金)

史上空前の論文捏造事件(2)

『超電導』は、『絶対零度』の環境になると、金属の電気抵抗が急激に『ゼロ』になるという物理現象で、電気抵抗が『ゼロ』ならば、熱エネルギー損失なしに、多量の送電ができることを意味しますから、画期的な世界が広がることになります。それに比べると、現状の送電システムは、熱エネルギー損失の大きな、効率の悪いシステムということになります。

しかし、『絶対零度』を人工的に創りだすことは、易しくなく、そのために多量の電力を使うことになって、結果的にエネルギー消費を抑えることにはなりませんので、できるだけ『常温』に近い現実的な低温で『超電導』現象が起きる『物質』の研究が世界的に行われています。

『ヤン・ヘンドリック・シェーン』は、『有機物質の表面を薄いアルミ箔で覆うと、現実的な低温で超電導が起こる』ことを、実験データで論証する論文を発表し、一躍世界から注目されました。

しかし、日本を含め、多くの研究所で科学者が、『再現実験』を試みましたが、誰も成功する人は現れませんでした。『薄いアルミ箔で覆う』ことが至難のことでした。この『再現実験』のために費やされた研究費は莫大な額に上ります。

『ヤン・ヘンドリック・シェーン』の論文は、『ベル研究所』の研究グループリーダー『バートラム・バドログ博士』や同僚と共著の形式をとっていましたが、実際は、『ヤン・ヘンドリック・シェーン』が独りで実験を行い、実験データを採取していたことになります。

不審におもった同僚が、実験に使ったサンプルを見せて欲しいと頼むと、『ヤン・ヘンドリック・シェーン』は、実験や実験データの採取は、母校であるドイツの『コンスタンツ大学』の実験室で行ったもので、ここ(ベル研究所)にはないと答えています。

信じられないような杜撰(ずさん)な監査体制ですが、権威ある科学論文誌も査読をして、見破ることができなかったわけですから、よほど巧妙で、高度な内容であったのでしょう。細分化された現代科学の先端は、全貌を把握できる人が極めて少ないという『危険性』を秘めています。

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2015年9月24日 (木)

史上空前の論文捏造事件(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映された『史上空前の論文捏造(ねつぞう)』というドキュメンタリー番組を録画して観ました。

2002年に、アメリカの『ベル研究所』の物理学研究員『ヤン・ヘンドリック・シェーン(ドイツ人)』の研究論文捏造が発覚し、世界の科学者を震撼させた事件を扱った番組です。

2014年に、日本の『理化学研究所』の研究員『小保方晴子』の『STAP細胞』に関する論文内容疑惑事件が表沙汰になり、日本中が大騒ぎになった事件と、極めて似ていることに興味を覚えました。

『ヤン・ヘンドリック・シェーン』は、『超電導』に関する画期的な研究成果を、矢継ぎ早に権威ある科学論文誌(Nature、Sciennce)に発表し、数々の学術賞を受賞して、ノーベル賞受賞間違いなしと、科学界で褒めたたえられていた『時代の寵児(ちょうじ)』でしたので、『小保方晴子』事件よりは、大事件とは言えますが、本質は類似しています。何故、先行したこのような事件を『理化学研究所』は教訓と出来なかったのかと残念に思いました。

『人』の功名心や欲得を求める心は、時に倫理観を麻痺させるといってしまえばそれまでですが、世間から一目を置かれている『政治家』『経営者』『科学者』『芸術家』によるその様な事態が後を絶たないところをみると、『煩悩の解脱』などは、夢のまた夢のような気がしてきます。

目の前に『人参』をぶら下げられれば、馬は間違った方向へ走ってしまうというような話で、梅爺も、その様な事態に遭遇すれば、冷静に身を律することができるかどうか不安になります。

『脳』が創りだす『精神世界』では、『安泰(自分に都合がよい状態)を希求する本能(情)』が進化の過程で先に出現し、後で獲得した『倫理観、道徳観(理)』よりも強く働くことを端的に示してるように思います。

普段『理性による判断』の訓練を怠らないようにしていないと、誰もが『功名心』や『欲得』に身をゆだねてしまう危険を帯びているという自戒を胸に、『論文捏造事件』を観る必要があります。

事件を起こした人達が、『自分は悪いことをしていない』と言い張るのなら論外ですが、『功名心をつい優先してしまった』と悔いているのなら、自分と同じ『人間の弱さ』を持つ人として最低限度の同情することはできます。

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2015年9月23日 (水)

知らず知らず虜になる(4)

ジャーナリズムは中立であるべきという主張は『そのとおり』ですが、現実には誰もが複雑な社会要素のバランスの中で生きていることと、何よりも個人の『精神世界』が個性的であることに由来して、『偏り(バイアス)』や『主観』を完全には排除できません。

『朝日新聞』は『左寄り』、『読売新聞』は『右寄り』などと、一般に批判されますが、もし、そうだとしても、これは経営幹部の資質が反映しているためで、そこで働く人たちがすべて最初から『左より』『右寄り』であるはずはありません。生活の糧をえるために、微妙に『経営方針』に合わせる行為が行われ、『知らず知らず虜』になっていきます。

読者も、自分の好みに合っているからという理由で、特定の新聞だけを読んでいれば、こちらも『知らず知らず虜』になっていきます。

『ウォータゲート事件』や『ロッキード事件』で、大統領や首相が辞任に追いやられたのは、ジャーナリズムの摘発が引き金で、ジャーナリズムは『白馬の騎士』のように見えますが、あらゆる場合にこのようにはいきません。

新聞や民間放送の収入源は、『広告収入』ですから、大スポンサーの企業の不適切な行為を摘発、公表することに及び腰になりかねません。

アメリカの作家『ジョン・グリシャム』の小説には、大企業の悪質な行為の犠牲になる庶民の話が沢山登場します。アメリカ南部が舞台ですので、これに『人種差別』問題が絡んで複雑な展開になります。庶民のために立ち上がる善良な弁護士と、企業を弁護する金儲け目当ての悪徳弁護士が、法廷で熾烈な論争を繰り広げるといったストーリーが読者を魅了します。

『ジョン・グリシャム』の小説が、アメリカの現実を反映しているとしたら、アメリカは、金儲けのためなら何でもありの、なんとひどい国なのだろうと梅爺は思ってしまいます。

しかし、『人』は、誰もが程度の差はあれ、置かれた立場で『知らず知らずに虜になっている』とすれば、裁判官、検察官、弁護士、被告、陪審員といえども、ある種の『偏り(バイアス)』から逃れられません。

『偏り』をもった人達が集まって、『公正』の結論を得ようとする『裁判』そのものが、次善の策とは言えても完全なシステムではないことが分かります。

『民主主義』『裁判』『選挙』『入学試験』などは全て、人間が現実的に考えだした方法であり、理想的な『公正』を実現する手段ではないことが分かります。

そもそも『公正』『正義』などという『抽象概念』には絶対的な評価尺度がありませんから、理想的な『公正』などは、『絵に描いた餅』ということになります。

私たちは、自分が『知らず知らず虜になる』ことを懸念するなら、時折自分を『理性』で客観視するしかありません。しかし、これは、かなり至難の技で、梅爺は自信がありません。

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2015年9月22日 (火)

知らず知らず虜になる(3)

『人』が個性的であることを認め、『コミュニティ』の約束事は遵守すると言う条件で、基本的に個性を表現する権利を認め、『コミュニティ』の約束事は、メンバーの話し合いで決するというのが『民主主義』の原則です。

『一人一人は個性的である』『コミュニティの秩序は必要である』という、一見『矛盾』する要件を、人類は『生物進化』の過程で抱え込んでしまっていますので、上記の『民主主義』は、人類の知恵が考え出した現実的な対応策です。

ご存知のように、『民主主義』が定着するまでに、人類は永い時間を要し、その間多くの人命が紛争や戦争で失われました。日本の『民主主義』はいつから始まったかを特定することは難しいのですが、アメリカ流『民主主義』を受け容れたのは、70年前に過ぎません。そのアメリカも160年前には、『奴隷』が存在する社会でした。

梅爺は、人生の大半を、『民主主義』社会で過ごしてきました。現在の日本に生を受けたことは、極めて幸運であると考えています。違う時代、違う国に産まれていたら、梅爺の人生は全く異なったものになったに違いないからです。

現在、地球上のすべての人達が『民主主義』を受け容れているわけではありません。

『コミュニティ』の約束事を決めるのは、『独裁者』『独裁的な政党』『神の教え』であって、メンバーの話し合い(協議)ではない国家が存在します。

メンバーの話し合いで『コミュニティ』の約束事を決めるというプロセスは時間を要し、なかなか結論にいたらないこともありますから、非常に効率が悪いように見えます。

それよりも『独裁者』『独裁的なイデオロギー』の命令や『神の教え』を約束事の基盤としてしまった方が効率が良いように思えますが、『恐怖政治による抑圧』『陰湿な権力闘争』『異端者の処刑』などの弊害が露呈したり、何よりもメンバーの個性の自由な表現が抑圧される問題を抱えます。多くの国は、試行錯誤と犠牲を繰り返して、『民主主義』にたどり着いたことになります。

『民主主義』にも欠点がありますから、現実的に許容できる最善策であるとは言えても、完全なシステムであるとは言えません。基本的に現在『民主主義』を採用していない『国家』の国民が、将来どのような選択をしていくかは、その国民に委ねられています。

『民主主義』は良いものですよと意見を述べることはできますが、『民主主義』を押し付ける権利は私たちにはありません。

梅爺は、『独裁国家』『一党独裁国家』『特定の宗教至上主義国家』は、いつまでも存続できないだろうと、予想しますが、それはあくまでも梅爺の個人的な予測に過ぎません。

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2015年9月21日 (月)

知らず知らず虜になる(2)

国家が規制を強化し、企業、団体、国民がそれを遵守(じゅんしゅ)すれば、その国の社会はより良いものになるかというと、そう単純な話にはなりません。 

ラグビーのチームのように、『All for one, one for all.』と叫べば、いつもうまくいくとは限りません。吉田松陰の『至誠は必ず通ずる』という信念も残念ながらあらゆる状況で通用するとはいえません。『信ずれば救われる』という宗教の教えとて同じです。 

へそ曲がりな梅爺は、一つの『スローガン』『諺』『教え』を、『金科玉条』であるかのように得意然と押し付けようとする人に反発する悪い癖があり、周囲から『可愛くない奴』と敬遠されることがしばしばあります。

勿論、梅爺も『スローガン』『諺』『教え』を無意味なものと蔑んでいるわけではありません。ただ、人と人の関係で構築される『コミュニティ』は、異なった利害関係や多様な価値観が複雑に絡み合って微妙なバランスで成り立っていますから、単純に律することには無理があると申し上げたいだけです。『スローガン』『諺』『教え』は、『一面の真理』を述べていると受け止める方が現実的です。そして、暗黙のうちに前提となっていることや、主張している人の意図を、自分で洞察してみることが大切です。

何度もブログに書いてきたように、『生物』として『ヒト』は、『個性』を保有するように生物進化の過程で宿命付けられていて、従って『精神世界』の価値観も個性的ですが、一方『コミュニティ』の一員としては、『コミュニティ』の価値観や約束事を優先して振る舞う必要があるという一種の『矛盾』が、問題の根源にあります。『コミュニティ』を利用して種の生き残りの確率を高める方策も、生物進化の過程で獲得した習性です。『遺伝子の偶発的な組み合わせで子孫を残す仕組み(個性の源)を選択』と『種の生き残り確率を高めるために群をなして生きる手段の選択』という、二つの『選択』が『ヒト』の進化を支えていますが、このために『個と全体のどちらの価値観を優先すべきか』という難しい問題を抱え込んだことになります。

官僚が、国民の利害より、自分の所轄領域の利害を優先してしまうことを『Capture』として、このエッセイでは懸念視していますが、何故このようなことが起きるのかは、上記のような『個と全体の価値観の矛盾』に起因しています。誰もが日常遭遇している『矛盾』ですから、悪徳官僚の糾弾という単純な主張では片がつきません。

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2015年9月20日 (日)

知らず知らず虜になる(1)

『What should we be worried about?(我々が真に懸念すべきことは何か)』というエッセイ集の11番目の話題は『Capture』です。 

『Capture』は『捕獲されること』ですが、このエッセイの主旨は、『相手の思うつぼにはまってしまう』ということですので、『知らず知らず虜になる』と意訳しました。 

著者はニューヨーク大学のジャーナリズム科教授で、科学分野のジャーナリストでもある『Charles Seife』です。 

2010年の4月に、アメリカのウェスト・バージニア州の鉱山で、スパーク引火による坑内爆発が起こり、27人が犠牲になりました。これは、アメリカではここ40年間で最大の鉱山事故でした。更にその2週間後、メキシコ湾内の原油採掘現場で事故が起こり、11人が犠牲になり、アメリカ史上最大の原油による海洋汚染を誘発してしまいました。 

これらの惨事は、業界を監督する連邦省庁の規制が適切に行われていれば、本来防げたものではないかと、国民の非難が集中しました。 

日本でも、東日本大震災時に起きた原発事故に対し、同じような非難が沸き起こりました。電力会社と国に、国民が騙されたという批難です。 

しかし、筆者は、これらの人災は、知らず知らずのうちに、『規制する側の人間(行政)』が『規制される側の人間(産業界)』の都合に合わせて、本来の任務をおろそかにしてしまった結果ではないかと指摘しています。 

行政が、国民のためではなく、産業界の都合に合わせて行動してしまう悪弊を『Capture』と表現しています。 

この『Capture』は、官僚が賄賂をもらって『お手盛りをする』というような、誰が見てもおかしい話であったり、意図的な悪意で行われている行為ではなく、人間社会が複雑な要因が絡み合った利害関係で成り立っていることで生ずる『落とし穴』のようなものであり、そうであるが故に『怖ろしい』と筆者は、主張しています。つまり『人』は、自分で判断を下していると思いながら『知らず知らずのうちに相手の都合に合わせてしまう習性』を持っているという指摘です。 

業界を監督する省庁の本来の目的は、その業界を保護育成することや、国際的な競争力を高めたりすることであるために、過度の規制は、業界体質を弱めてしまうとつい斟酌(しんしゃく)してしまい、それが不幸な大事故につながってしまうということなのでしょう。 

大事故ばかりではなく、一部の資本家の私腹を肥やすことに、国が加担してしまうということも起こり得ます。 

『Capture』の問題は、煎じつめれば、『個(国民)』と『全体(国家)』とどちらを優先するのかという話へ帰着します。 

『個』が全員身勝手に振る舞えば『全体』の秩序は成り立たず、逆に『全体』のルールに従わなければ『個』は生きていけないという『矛盾』を解決する抜本的な知恵を、人類はまだ見つけていません。 

『自由に生きることが望ましい』『プライバシーの保護は重要』などの主張は、『個』の視点を重視した価値観で、『全体』重視の価値観に立てば、手放しでは認められないことになります。

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2015年9月19日 (土)

実態の有無(6)

『人』の『精神世界』は、『実態』のないものを言葉として表現し、情報処理の対象にすることができます。『情感』などがこの例で、『楽しさ』『悲しさ』『美しさ』は抽象的な概念であり、『物質世界』に『楽しさ』という『実態』はありません。

『美しい花』と言う表現は、『人』の『精神世界』が主観的に関与した表現で、『物質世界』にはただ『花』が存在するだけです。更に、同じ『花』を必ずしも『美しい』と感じない『人』もいますから、『美しい』という抽象概念を表現した形容詞には、絶対的な価値尺度が無いことが分かります。

このように『精神世界』は、個性的であり、多くの抽象概念には、絶対的な価値尺度がないことを理解することが大切です。

日常私たちが、何気なく使う『正しい』という表現は、もっとも誤解を生じやすい言葉です。『真偽』を判別できるのは、『物質世界』の『摂理(法則や論理判定の適用)』を用いた場合のみで、『精神世界』の大半の事象は、絶対的な価値尺度で『正しい』と証明することはできません。

多くの人が、『正しい』という抽象概念に、絶対的な価値尺度があると勘違いし、つまり『自分は正しい』と思いこむために、人間社会の諍(いさか)いや国家間、宗教間の紛争、戦争が絶えません。『私は、正しいと思う(信ずる)』という主観的な表現は許されますが、『私だけがが本当に正しい』と断ずることは、慎重を要します。

『精神世界』で、もう一つ特筆すべきことは、前にも書きましたが『物質世界』に『実態』がない事象を『虚構』として自由に考え出すことができることです。

『虚構』ですから、『物質世界』の『摂理』に縛られることもなく、『桃の中から桃太郎が生まれる』ことにもなります。更にややこしいことに『人』は、『精神世界』の『虚構』や『抽象概念』を、『実態』であるかの如く、文字、絵、彫刻、音で表現します。

『ドラゴン』の絵を観て、私たちはそれが『ドラゴン』の『実態』であると勘違いしますし、『地獄図』を観て、それが『地獄』の『実態』であると恐れます。

『精神世界』の特徴は、『個性的である』『絶対的な判断尺度に乏しい』『自由に虚構を創出する』だけでなく、『時々刻々変容している』ことです。

梅爺の『精神世界』は、若い頃と現在では大きく異なっています。ブログを書き始める前と現在でも異なっています。

私たちは、このように厄介な『精神世界』を駆使しながら生きています。対応を誤るとおぞましいことになりますが、適切に付き合えば、人生を豊かなものにしてくれます。『畏るべきもの、それは精神世界』です。

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2015年9月18日 (金)

実態の有無(5)

『脳』は、『物質世界』に属するもので、当然『実態』がありますが、これをいくら詳細に外部から観察しても、『精神世界』は見えてきません。つまり『精神世界』は『実態』としてとらえることができない『仮想世界』ということになります。

『精神世界』では、当然『物質世界』に属する具象物(実態がある)にも『名前』をつけて情報として処理対象にしています。『精神世界』の中で、『富士山』という名前で処理される情報そのものは、『精神世界』では『実態』のない(眼で観ることができない)概念ですが、『物質世界』に『実態』として存在する『富士山』に対応しています。

このことが、私たちを惑わせることになります。つまり『精神世界』で『名前』が付いている概念は、必ず『物質世界』に『実態』として対応するものが存在していると勘違いしやすいことになります。

『精神世界』で使っている言葉(名前)が、具象物を対象とした名前なのか、抽象概念に付与した名前なのかを、留意しながら対応すれば、勘違いは減りますが、そのように区別するように教えられたり、訓練されたりしていませんから、梅爺を始め誰もが、咄嗟の判断では誤りを犯しかねません。

『桃太郎』『かぐや姫』は、作り話で『実態』のない『虚構』と判断する人でも、『神』『天国』は『虚構』と即座には切り捨てたりはしません。地球上の90%の人が、何らかの『神』の存在を信じていると言われています。

更に『愛』『正義』『名誉』『平和』『理想』『自由』『希望』などという『抽象概念』になると、そのためには『命』さえも賭する人が出現します。

『人』にとっては、『実態』の有無などよりは、その概念そのものが生きるための優先度の高い価値を持っていると判断していることになります。

一見深遠な意味を持つ『抽象概念』も、実は『安泰を希求する本能』から派生したものであろうと梅爺は推測しています。

『正義』や『自由』を求めて、命をかけて戦うのは、『ヒト』と言う生物の崇高な特徴のように見えますが、他の動物が『安泰』のために、命をかけて戦う行為と、実は根底では通じていると考えています。

『実態』があろうが、なかろうが、『安泰』を保証してくれるもの、または脅かすものに『人』は敏感であるということが分かります。しかし、自分の『安泰』を優先するということは他人の『安泰』を脅かすことになりかねません。よほど理性で抑制しないと、身勝手でいかがわしい行為に走ることになってしまいます。

多くの人が『神仏』にすがるのは、それが『安泰(心の安らぎ)』をもたらすと『信じている』からです。皮肉な云い方をすれば、『神仏が本当に存在するかどうか』などという議論は、どうでもよい話なのではないでしょうか。昔の日本人は『鰯の頭も信心から』と、この本質を鋭く見抜いています。

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2015年9月17日 (木)

実態の有無(4)

『人』の『精神世界』は、『抽象概念』と『抽象論理』で構成される『仮想世界』です。言葉を換えれば、『物質世界』のような『実態』の存在を前提にしていません。

分かり易く云えば、どのような『空想』も可能であり、『摂理』を無視した『虚構』を創造することができます。『桃太郎』『かぐや姫』などが典型例です。

何故『精神世界』がこのようにできているかは、生物進化の過程で何が求められたかを考えれば推定ができます。

元々『精神世界』の原点は、『周囲の状況を認識して、自分に不都合な事態を避ける(安泰を求める)』ことにあったはずです。生き残りのためにそれが最重要であったからです。過去の体験と照合するために『記憶』の機能も同時に進化しました。効率よく照合するためにパターン化した分類法が脳では採用されています。姿かたちが少々異なっていても『犬』は『犬』と即座に認識するのはこのためです。

『人』が持つポジティブな情感『楽しい』『嬉しい』『美しい』などは、『安泰』を確認するホルモンが脳内に分泌されて起こり、反対にネガティブな情感『寂しい』『悲しい』『汚い』などは『安泰』を阻害する『不安』『危険』を感じて、対応するホルモンが分泌されて起こります。

生物として『ヒト』は群をなして生きることで、生き残りの確率を高めようとしましたから、仲間内で『情感』を確認しあう必要がありました。そのために、『情感』を表現する言葉を、『抽象概念』としてつくりだし、共有するようになりました。『喜怒哀楽』『好き嫌い』の表現がその典型例です。

一方、認識をしようとしても難しい、『摩訶不思議』と思える周囲の事象に遭遇すると、それを『摩訶不思議』のままで放置することは、『不安』で『安泰』が阻害されるために、懸命に『理』で、因果関係を想定しようとしました。『神仏』『霊』『天国、地獄』などの『抽象概念』はこのように考えだされたものであろうと梅爺は推定しています。

更に『理性』が進化するにつれ、『愛』『正義』『平和』『理想』『希望』などという高度な『抽象概念』も考え出し、共有するようになったものと思います。全て原点は『安泰を希求する本能』によるものと考えれば合点がいきます。

『人』はやがて、『精神世界』を駆使して、『科学』『宗教』『芸術』などの分野を創りだしました。『科学』は『理』だけを利用する特殊な領域ですが、『宗教』『芸術』では『理』と『情』が複雑に絡み合って機能している領域です。

『精神世界』で使われる『抽象概念』は、『情』から発生したものと、『理』から発生したものに分類すると分かり易くなります。

脳という『物質世界』に属するものを利用して『精神世界』が出現し(ホルモンの分泌などが如実にその関係を示唆しています)、その『精神世界』では『物質世界』の『摂理』に縛られることなく、自由な空想、虚構の構築が可能であると言うややこしい関係を先ず理解する必要があります。ここまで理解ができれば、世の中が違って見えてくるはずです。

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2015年9月16日 (水)

実態の有無(3)

『人』の『精神世界』が作り出した多くの『抽象概念』は、『精神世界』でのみ意味があり、『物質世界』とは無関係なものであるという想定を肯定して観ると、『眼から鱗が落ちた』ように、今まで釈然としなかったことが理解できますので、梅爺は気に入っています。 

昨日も書いたように、『神(仏)』ばかりではなく、『愛』『正義』『平和』『理想』『希望』なども、『精神世界』でのみ意味のある『抽象概念』であるという考え方に、多くの方は、一瞬戸惑ったような顔をされます。『神が天地を創造された』と信じておられる方に対しては、『人が神と言う抽象概念を創造した』と逆のことを云っているわけですから当然です。 

梅爺は自分の想定が『正しい』などと主張するつもりはありませんが、少なくとも梅爺は、大震災で、多くの人命が失われる悲しい出来事に遭遇しても、『神は何故善良な人達にこのような試練を課すのか』などと、問うことはなくなりました。

地震や津波は、『物質世界』が『摂理』に則って『変容』して起こる事象であり、『人』の『精神世界』の、『願い』や『祈り』とは残念ながら無縁です。『物質世界』の『変容』には、『目的』や『意図』などはありません。複雑な条件が絡み合って、平衡状態が動的に移行しているだけです。『悪意』や『天罰』で善良の人達の命を奪ったりしているわけではありません。

『精神世界』を保有する『人』は、崇高な存在価値があるとして、『命は地球より重い』などと表現されることがありますが、生物としての『ヒト』の肉体は、『物質世界』に属し、その『摂理』で機能が維持されているだけですから、『摂理』が働く条件が無くなれば、機能は停止し、最悪死にいたります。善良な人であれ、邪悪な人であれ『摂理』は区別なく働きます。

『人』は、『摂理』を見出し、利用することはできますが、『摂理』を新しく作りだしたり、都合よく変えたりはできません。

『人は自然の前に無力である』と言われますが、これは『摂理』には逆らえないということを云っていることになります。

このように考えると、『摂理』によって生かされていることに感謝の念が湧いてきます。そして生かされている間は、大切に生きようと思うようになります。

信仰心の薄い梅爺でも、理性で『物質世界』と『精神世界』の関係を洞察すれば、このように『宗教』の『教え』と同じ境地へ達することができます。信仰心が薄い人は、自分勝手で傲慢な人だと、思われがちですが、そのようなことはありません。ただ、梅爺は『神仏への祈願』は、所詮かなわぬもので、自分への気休めに過ぎないと考えますから、日常形式的な対応までは避けたりはしませんが、本気であてにしたりはしません。『摂理』に対する一方的な感謝で十分と考えています。

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2015年9月15日 (火)

実態の有無(2)

『精神世界』にくらべると、『宇宙』や『自然界』が属する『物質世界』は、原則として『実態』が存在する分かりやすい世界です。原則としてといったのは、『物質世界』の『変容』を支配している『摂理』は、『数式などで表現される論理概念(法則)』ですから、これを『実態』と呼ぶかどうかは議論を要すると感じたからです。

『物質世界』は、『実態』をともなう物質と『摂理』で構成され、『摂理』によって絶え間ない『変容(動的に平衡状態を変えていく)』が続いている世界と表現できます。

しかし、『変容』は『摂理』によって起きていますから、『摂理』の存在は間接的に確認ができます。『摂理』は『空想』や『虚構』の産物ではなく、『理』だけで導き出された『論理概念(法則)』です。『物質世界』は、『摂理』だけに支配されていますから、事象は全て『理』に適ったものです。一見、『ダークマター』や『ダークエネルギー』のように、『摩訶不思議』に見える事象もないとは言えませんが、それはまだ人類が、『理』で説明する方法を見出していないだけのことです。したがって、『物質世界』には、『精神世界』では重要な役割を果たす『情(情感)』の入り込む余地はありません。

このように考えると、『天空のどこかに神が存在する』という『命題』を『真』と考えることが困難になります。『実態』として存在すると仮定すると、『神』は『宇宙』に存在する素材で構成され、『摂理』に支配され、『変容』しているという奇妙な話になってしまいます。『神』の活動を支えるエネルギーは何かなどという質問にも答えなくてはならなくなります。

唯一『摂理』を『神』と呼ぶ可能性だけが残りますが、この場合の『神』は、『愛』や『罪の救済』などとは無縁なものになり、『宗教』にとって最も重要な『神』の資質が失われます。

『物質世界』には『実態』としての『神』は存在しないであろうと、梅爺は推測しています。

ここからが、少しややこしい話になるのですが、『人』の『精神世界』に限って考えると、『神』という『抽象概念』は存在可能で、人々はその『抽象概念』を共有することができます。更に、『精神世界』の『信ずる』という重要な行為で、『神』は『心の安らぎ』をもたらしてくれる要因になることも分かっています。つまり、『信ずる人にとって、神は無意味な概念ではない』ということになります。

『信ずる』行為は、その人の選択に任されていますから、『信じない』人がとやかくいうことではありません。ただ、お互いに『信ずる』『信じない』のどちらが『正しい』かを議論することは不毛です。しかし『先が見えないことを推測し、その推測内容を信じて前へ進む』ことを『生きる』ために余儀なくされますので、『信じる』と言う行為は、『人』にとっては重要な意味を持ちます。

この世から『人』がいなくなれば、『神』という『概念』も消滅するであろうと、梅爺は推測しています。『神』だけでなく、『愛』『正義』『平和』『希望』『理想』などの『抽象概念』も消滅し、世界は『理』だけが支配する場になるにちがいありません。『ヒト』が地球に出現する以前の『物質世界』はまさしくそのような世界で、地球の歴史の46億年のほとんどすべてはその様な世界でした。

46億年にくらべれば、『ヒト』の出現などは、ほんの最近の出来事なのです。『人』の『精神世界』の歴史は、高々数100万年程度のものです。『精神世界』が創り上げた『文明』にいたっては、数千年の歴史しかありません。

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2015年9月14日 (月)

実態の有無(1)

梅爺の究極の関心事は『人』です。『人』のある側面を理解するためには、『宇宙』や『生命』『生物進化』に関する科学知識を必要としますので、これに関して知り得た内容をブログにも書いてきましたが、これらの科学知識は、梅爺が考え出したものではありません。有能な科学者たちの努力で明らかになった、またはなりつつある知識を、受け売りしているだけですから、全く自慢にはなりません。

ところが『人』の『脳』がつくりだす『精神世界』については、現状の科学知識だけでは全貌を把握できていません。本当は、現状の科学知識だけでも把握できるのかもしれませんが、少なくともその様な体系的な説明にお目にかかったことがありません。

そこで、梅爺のような科学者でもない凡人が、知り得た科学知識と、自らの拙い『推論』で、より体系的に『精神世界』を論ずる機会が生じます。何よりも自分自身が『人』ですから、格好の観察対象になります。誰も説明してくれないので、自分で説明しようと言う無謀な試みですが、老人の『知的冒険』としては、ボケ防止にも役立ちます。

梅爺が、世事、世相をほとんどブログの対象にしないことについて、『どうしてか』とよく質問を受けます。好奇心旺盛で野次馬の梅爺ですから、関心が無いわけではありませんが、世事、世相は『人』や『社会(人の集団)』が絡んでいて、結局『人の本質理解』ができていないと、世事、世相の本質も理解できないのではないかと考えています。

それに、世事、世相に関するブログは、既に多くの方が書いておられますから、今更梅爺が参加することもないとも考えています。

『人』や『精神世界』の本質を論ずるブログは、数が少ないので、『梅爺閑話』は、ここに存在意義を見出そうと言う魂胆です。しかし、この分野の話は、多くの方が、『難しい、面白くない、興味が無い』と敬遠されますので、読者も、梅爺と似た野次馬精神旺盛な方に限定されます。

梅爺が文筆活動で生計を立てるプロの作家であれば、読者の数を増やすために、『易しい、面白い』内容に変えるかもしれませんが、有難いことに年金で生活できていますので、『自分の関心事に関する書きたいこと』だけに頑固に固執しています。他人がなんと言おうと画風を変えない画家のような心境です。

タイトルを『実態の有無』としたのは、『精神世界』は、実態を伴わない『情報(真実と虚構で構成される)だけの仮想世界』ととらえると分かりやすいのではないかと思いついたからです。

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2015年9月13日 (日)

Rancour sticks long by the ribs.

英語の諺『Rancour sticks long by the ribs.』の話です。

直訳すれば『恨みは永くあばら骨にこびりついて離れない』ということですから、『恨む気持ちはなかなかおさまらない』という意味になります。日本には『恨み骨髄に達する』という似た表現があります。

『人』は『肉体』も『脳(精神世界の基盤)』も、『危険』や『不安』を避けて、『安泰』を保つ方向へバランスをとろうとするようにできています。

『生き残り』のためには、『安泰』が決め手であるからで、『生物進化』の永いプロセスで、この本能とも言える性質を獲得、継承してきました。

肉体的には『免疫(体内に侵入した異物の排斥)』『自己治癒(傷口の修復など)』が、『脳』においては、ネガティブな情感を、時間とともにやわらげていく機能がこれに当たります。

勿論、この機能が対応できないほどの大きな痛手を受けた時には、『人』は肉体的にも精神的にも、健康を失ったり、最悪の場合命を失ったりすることになります。

『脳』が周囲の状況を認識し、『自分にとって不都合』『危険』『不安』と感じた時には、即座に対応するホルモンを分泌して、『怒り』『悲しさ』『寂しさ』といったネガティブな『情感』が起こります。『脳』は化学物質(ホルモン)を用いて情報伝達をしていることが分かります。言い換えると『情感』さへも、『物質世界』の『摂理』を利用した反応です。

ネガティブな『情感』がいつまでも滞留することが無いように、『脳』はポジティブな『情感』を誘起するホルモンを分泌して、ネガティブな『情感』を和らげようとします。耐えがたい悲しみや、寂しさも『時が癒してくれる』のは、このためです。

心理学者は、『怒り』を感じた時には30秒間我慢せよ、と言っています。この間に『怒り』のホルモンは軽減するということなのでしょう。

この諺のように、ネガティブな『情感』の中で『恨み』が一番消えにくいかどうかは、梅爺は分かりませんが、あえて推測すれば、『恨み』は、因果関係を特定してある特定の他人または集団へ向けられることになりますので、『情』に『理』の判断が絡む故に、他のネガティブな『情感』より強固であるのかもしれません。韓国の過去の日本の行為に対する『恨み』は、いつまでも政治問題として続いています。

脳科学の解明が進めば、『情』や『理』のカラクリはもっと分かってくると思いますが、今のところ、『脳』の事象は、推測の域をでないものが大半です。『自分のことは自分が一番分かっている』などという主張は怪しいものです。

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2015年9月12日 (土)

小説『People of the book』(10)

古書『Haggadah』が辿りついた2番目の都市『ベネツィア』も、ユダヤ人にとっては、安泰の地ではありませんでした。元々海の上に人工的に創った都市で、土地が十分ありませんから、ユダヤ人『ゲットー(居住区)』も狭く、屋上屋を重ねるように部屋を増築するにしても収用人員には限界がありました。

『ベネツィア共和国』は、宗教的には『カトリック』でしたが、政治的には『ドージェ(Doge:総督)』と呼ばれる市民から選ばれたリーダーが統治する『国家』でした。『バチカン』の言いなりにはならない自主性がありましたが、それでも『異端尋問』を厳しくするように圧力があり、このため『ユダヤ人』には住みにくい場所になっていきます。

古書『Haggadah』は、ユダヤ人の所有者と一緒に次なる場所『サラエボ』へ移ることになります。『サラエボ』は、15世紀の中ごろから、17世紀の終わりごろまで『オスマントルコ』の支配下にあり、現在でもその影響で『イスラム教徒』の多い都市です。

旧『ユーゴスラビア』崩壊して、『ボスニア・ヘルツェゴビナ』が独立しようとした時に、独立を阻止し、自国の領土にしようとする『セルビア』の攻撃をうけることになります。『サラエボ』はその主戦場となり、一般市民も犠牲になりました。背景には、『イスラム教』と『セルビア正教』の対立があります。民族、宗教、言語が交錯するバルカン半島の歴史は、梅爺の頭では、なかなか整理できません。

『Haggadah』がこの地で売りに出されたのは1894年ですから、そのころ『サラエボ』は『オーストリア・ハンガリー帝国』の支配下にあり、学術的な鑑定は『ウィーン』で行われました。

その後、『サラエボ』の博物館の所有品としてもどされましたが、今度は『ナチスドイツ』が攻め込んできて、ユダヤ人弾圧がおこなわれるとともに、『Haggadah』も見つかれば焼却される危機に瀕しました。この時、『イスラム教徒』の良識的な博物館職員が、命がけで、『Haggadah』を持ち出し、『イスラム教』のモスクに秘匿しました。『イスラム教徒』が『ユダヤ教』の宗教書を守ったと言う話です。

『People of the book』という小説は、このように古書『Haggadah』を、人類の文化遺産として命がけで守り継いだ人達の壮大なストーリーです。

主人公(女性)と母親、恋人、恩師などとの確執、主人公の出生の秘密、などもちりばめられ、登場人物の個性や情感が、現在の話も、過去の話もリアルな人間ドラマとして実感できるレベルで、見事に描かれています。

歴史、宗教、文学、人間に深い洞察力をもつ人でないと、このような小説は書けません。ミステリー小説というジャンルでくくるには、もったいない小説です。

難しい英語の表現、語彙には、少し手こずりましたが、梅爺は大いに満足して読み終わりました。

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2015年9月11日 (金)

小説『People of the book』(9)

『ヨーロッパはキリスト教文化を基盤にしている』という表現は、間違いとはいえませんが、『キリスト教』の宗派でみると、多様です。『新世界』のアメリカにいたっては、キリスト教宗派の坩堝(るつぼ)と言えるほどです。『キリスト教』に限らず、『宗教』が何故宗派に分かれるのかは、梅爺の素朴な疑問です。説得力のある説明を聴いたことがありません。

『神』が全能であれば、その教えは絶対であり、全能でない『人』が、自分の思惑で教えの解釈を変えることなど許されるはずがないという論理推測になりますが、現実に宗派が分かれていくところをみると、ひょっとすると元々『宗教』は『人』が創出したものであるのかもしれないという畏れ多い考えが頭をよぎります。『人』の『精神世界』は『個性的』であることが特徴ですから、『私はあなたの考え方とは違う』という『人』が次々に現れるのは、むしろ自然で、説得力のある説明になるからです。

『精神世界』が『個性的』であることを、当然として受け容れているのが『芸術』の分野です。『ベートーベン以外の音楽は異端である』などと誰も言いません。

『ローマ帝国』の国教になった『キリスト教(カトリック)』が、その後『正教』『イギリス国教』『プロテスタント』と分かれて行った背景には、それぞれ異なった事情がありますが、いずれも『人』がその事情に関与しています。『イギリス国教』のように王様(ヘンリー8世)が、王妃と離婚して愛人と再婚したいというだけの理由で、離婚を認めない『バチカン(カトリック)』に腹をたて、新宗派(イギリス国教)を創設したなどという、単純で横暴な例もあります。

ある宗派は、自分の正当性を主張し、新宗派の枝分かれを阻止しようとしたり、異端として弾圧しようとしたりして骨肉の争いになります。中世における『カトリック』の『異端尋問』は悪名高いものですが、現在でも『アイルランド』では、『カトリック』と『プロテスタント』の殺戮をともなう紛争が続いています。

異なった宗教間の争いばかりではなく、同じ系統の宗教の宗派間でも、対立が起こるのは、『人』の本性を洞察しなければ理解できないのでないでしょうか。『人』の『精神世界』は何故、『個性的』であり、何故『矛盾』を抱え込んでいるのかということへの洞察が梅爺の関心事です。

『イザベラ女王』は、『カトリック』だけが正しいと信じて、イベリア半島から、『ユダヤ教信徒』『イスラム教信徒』を追放しました。梅爺は、スペイン旅行で、ゴルドバにある観光地『ユダヤ人街』を訪ねましたが、今はだれもユダヤ人は住んでいませんでした。

この小説の古書『Haggadah』は、ユダヤ人が住んでいた頃のイベリア半島で創られ、やがてユダヤ人の運命と一緒に、『ベネツィア』へ移ったという話は、梅爺の宗教の歴史に関する知識や、ゴルドバで見聞きしたことと重ね合わせてみて、違和感なく受け容れることができました。

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2015年9月10日 (木)

小説『People of the book』(8)

人類が『国家』と『宗教』を区分けして考えるようになったのは、多くは近世になってからのことです。お互いに干渉しないという条件で、『宗教』は存続を認められ、税制などでも優遇されています。そのような『国家』では、国民は『信教の自由』が基本的な権利として認められています。

しかし『宗教』が『法』を犯せば、『国家』は『宗教』に介入し、法的に罰則を科します。日本の『オーム真理教』の事件などがこの例にあたります。『国家』と『宗教』は対等ではなく、『国家』の法による管理下に『宗教』があるということになります。

しかし、『国家』と『宗教』の関係は微妙で、それほど単純ではありません。アメリカ大統領は、就任時に『聖書』に手を置いて、公正を誓いますし、選挙においては『宗教グループ』は無視できない票田になります。日本においても、『公明党』の基盤は『創価学会』であることは誰もが承知しています。『宗教』は必ずしも『国家』より弱い立場にあるとは言えません。

現在、『宗教』がむしろ『国家』を支配するほどの関係にあるのが『イスラム教』諸国です。『アタチュルク』のリーダーシップで、『世俗化』を進めた『トルコ』が、最も『政教分離』が実現されている『国家』ですが、それでも、『世俗化』の是非は、今でも政治論争の的になっています。全ての中心に『宗教』を置くと言う発想は、日本の実情とは大きく異なる異文化です。

歴史的に『国家』は、領土獲得のための侵略戦争を繰り返してきましたが、戦う相手が『異教徒』である場合は、『宗教戦争』の様相も呈することになります。

しかし、一旦征服した後に、その地の『宗教』を必ずしも排除しないという政策を採った支配者がいなかったわけではありません。『キリスト教』を国教とする前の『ローマ帝国』や、イベリア半島を一時ほとんど征圧したムーア人の『イスラム王朝』は、権力者に従順であるかぎり『異教徒』の存在を認めていました。

イベリア半島の『イスラム王朝』の下では、『イスラム教』『ユダヤ教』『キリスト教(カトリック)』の信徒達が、共存して暮らしていました。面白いことに、この時代『イスラム教徒』が、最も学問的(天文学、建築学)にも進んでいて『カトリック教徒』は、遅れている人達とみなされていました。『ユダヤ教徒』は、医学などの面で優れた知識や技術をもち、社会での存在価値が認められていました。

この小説では、『セビリア』の『イスラム王朝』で、王妃(カトリックの家族に育った娘が美貌故に王の目にとまり略奪された)のお抱え絵師であった、ムーア人の若い娘が、『セビリア』がカトリック軍に攻められ陥落する直前に、宮殿に出入りしていたユダヤ人医師の家族に引き取られて、その家族のために『Haggadah』の挿絵を描いたというストーリーになっています。家族の中に精神障害の子供がいて、その子でも分かるようにと挿絵を書いたという筋書きです。一般に『ユダヤ教』は偶像廃止ですが、この『Haggadah』だけに挿絵がある理由がこれで判明します。

やがて、イベリア半島は『イザベラ女王』によって、完全に『カトリック』の支配下になり、『ユダヤ教信徒(ユダヤ人)』は国外追放になりました。

『Haggadah』をその時、『ベネツィア(イタリア)』の『ゲットー(ユダヤ人居住区)』へ移り住んだユダヤ人と一緒に、その地へ移ったという想定になっています。

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2015年9月 9日 (水)

小説『People of the book』(7)

宗教の違いによる、民族、国家の対立は、人類の歴史に沢山の悲劇を残してきました。今でもそれは続いています。原則として、宗教は排他的で、他の宗教を支配地域から排除しようとします。 

中でも排他色が強い『ユダヤ教』を信ずるユダヤ民族が、紀元前1世紀の『ローマ帝国属州』を皮きりに『東ローマ帝国』『イスラム教の諸国(オスマントルコを含む)』『イギリスによる委任統治』の支配下に20世紀半ばまで置かれていたことになります。この間、実質的に国土をもたない『流浪の民族』の状態が続きました。1948年の『イスラエル建国』で、念願の『国土』を入手しましたが、その強引なやりかたと、イスラム教徒に対する排他的な統治が、紛争の種になり続けていることは御承知の通りです。一方歴史的な『ユダヤ人迫害』の背景に『ユダヤ教』自身の排他性があるという複雑な話です。 

2000年間、パレスチナ地域は色々な変容を遂げてきていましたから、一気に歴史を2000年巻き戻そうとしてしても、軋轢があるのは当然のことです。 

『流浪の民』であった間、『ユダヤ人』は、世界各地の、少なくとも共存を認めてくれる地域へ、分散進出せざるをえなかったことになります。多くの地域で『ユダヤ人』たちは、ひっそり自分たちのコミュニティを構築し、『シナゴーグ』に集まって『ユダヤ教』を継承してきました。宗教的な姿勢はあくまでも排他的であるように他の民族の目に映りましたから、疎(うと)まれることがなかったわけではなく、地域によっては『ユダヤ人居住区(ゲットー)』を限定する所もありました。 

この小説の歴史的な最初の舞台は、イベリア半島の『セビリア』ですが、13世紀の半ばに、『カスティーリャ(カトリック)』に征圧されるまでは、『イスラム教徒の王朝』の支配下にありました。『イスラム』の支配下では、『イスラム教徒』『ユダヤ教徒』『キリスト教徒(カトリック)』の共存が認められていました。この小説の古書『Haggadah』は、『セビリア』が征圧される直前に、そこに住んでいたユダヤ人家族によって創られたという想定になっています。 

イベリア半島は、8世紀の初めに、ジブラルタル海峡を越えて、アフリカのムーア人(イスラム教)の侵攻を受け、一時はイベリア半島の北部にまで『カトリック勢力』は後退せざるをえませんでした。 

その時点から『カトリック勢力』は、イベリア半島の『再征服(レコンキスタ)』を開始し、約800年かけて、『イスラム王朝(ウマイヤ朝)』の最後の拠点『グラナダ』を陥落させ(1492年)ました。この時の『カトリック勢力』のリーダーが『イザベラ女王』です。 

『イザベラ女王』は、『イスラム教徒』と『ユダヤ教徒』に、『カトリックに改宗しなければ国外追放』という厳しい政策で迫りました。

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2015年9月 8日 (火)

小説『People of the book』(6)

この小説では、古書『Sarajevo Haggadah』を、国際的な協力で学術的に鑑定するため、オーストラリア生まれで、現在はアメリカで活動する主人公の鑑定専門家(独身女性)が、旧ユーゴスラビア崩壊直後(1996年)の、『サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)』へ送り込まれます。

『ボスニア・ヘルツェゴビナ』は1992年に、旧ユーゴスラビア体制からの独立を宣言しましたが、『セルビア』との内戦が1995年まで続き、首都『サラエボ』は爆撃破壊で荒れ果てて治安の悪い街になっており、国連軍の監視下(セルビアとの平和条約が遵守されているかどうかの監視)にありました。

主人公は、国連軍のエスコートで、『サラエボ博物館』が、銀行の金庫内に保管している『Sarajevo Haggadah』を鑑定します。

そして、鑑定で発見した『白い毛(後にペルシャ猫の毛と判明)』『塩の結晶』『ワインと血の染み』『留め金の痕跡』『蝶の羽』などをその後科学的に調査することで、13世紀~15世紀の『セルビヤ(スペイン)』、17世紀の『ベネツィア(イタリア)』、19世紀の『ウィーン(オーストリア)』、20世紀の『サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)』で古書がたどった数奇な運命を、推定していきます。そして、信仰厚い人達、文化遺産を守ろうとする人達が、命がけでこの古書を守りぬいてきたお陰で、今日この古書が存在することを知ります。

旧『ユーゴスラビア(社会主義連邦共和国)』は、1943年に『チトー』が政治的リーダーシップを発揮して、統合を果たした国家でした。

この地域は、バルカン半島に属し、古代から現在に至るまで、『バルカンの火薬庫』と言われるように、紛争が絶えない地域です。隣接する『ギリシャ』『ローマ帝国』『オスマントルコ』『ハプスブルグ帝国』『ロシア・ソ連』『ナチドイツ』が、歴史的に侵攻、征圧を繰り返してきたために、民族、宗教、言語が複雑、多様に入り混じった地域になっているからです。

東西冷戦が終焉し、1991年から、旧『ユーゴスラビア』の崩壊が始まり、現在は『スロベニア』『クロアチア』『ボスニア・ヘルツェゴビナ』『セルビア』『マケドニア』『モンテネグロ』『コソボ』の7つの共和国が成立しています。『セルビア』は、自国中心の新国家体制を主張し、周辺国を軍事制圧しようと最後まで抵抗し、特に『クロアチア』『ボスニア・ヘルツェゴビナ』『コソボ』などとの内戦は、悲惨なものとなりました。

民族、言語が均一で、極東の島国であることも味方して、歴史的に他国から征服された経験がない日本人には、この地域のことを理解するのは、大変難しいことです。梅爺は2010年に、能天気な観光客として、『スロベニア』『クロアチア』『ボスニア・ヘルツェゴビナ』を旅して、それでも、厳しい過去の歴史を少しばかりは感じ取ることができました。のどかに見える人々の暮らしや、自然の中に戦火の爪痕が生々しく残っていたからです。

この小説の舞台である、『サラエボ』は、民族、宗教の坩堝(るつぼ)のような都会で、紛争が起きやすい都市です。1914年に、第一次世界大戦のきっかけになった、『オーストリア皇太子暗殺事件』が起きたのも『サラエボ』です。

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2015年9月 7日 (月)

小説『People of the book』(5)

この小説は、『Sarajevo Haggadah(サラエボ・ハガダー)』と呼ばれる、美術品としての歴史的価値が高いユダヤ教の宗教書にまつわる壮大な物語です。子羊の皮に、ヘブライ語で書かれたもので、ページ毎に細密で色鮮やかな挿絵が施されています。本来は、見事な金属装飾が施された表紙があったものと推察されていますが、表紙は発見時に失われていました。 

現物は、1894年に、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都『サラエボ』で、所有していたユダヤ人が売りに出したために、その存在が公(おおやけ)になったもので、学術的に注目を集めるようになり、『サラエボ』の博物館が所有するようになりました。 

当時『サラエボ』は、『オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルグ家)』に属していましたので、この古書は、『ウィーン』へ運ばれ、鑑定作業が行われて再び『サラエボ』の博物館へ戻されました。 

以上が、『事実』ですが、この本の作者は、これをベースに、壮大で見事な『物語(Fiction)』に仕立て上げています。 

『物語』では、古書は先ず、13世紀のイベリア半島の『セビリヤ』で創られ、その後イタリア半島の『ベネツィア』に移され、最後に『サラエボ』へ移されたことになっています。 

当然『Haggadah』は、ユダヤ人家族が所有するものですから、古書が各地を転々とした背景には、歴史的な『ユダヤ人迫害』が関っているという想定です。

中世から近世にかけての『ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の関係』『ユダヤ人迫害の歴史』『旧ユーゴスラビア崩壊の歴史』といった、梅爺にとっては興味津津(しんしん)の話題が満載で、その上『古書にまつわる謎』が次々に解明されていくと言うミステリー仕立てですから、梅爺にとってこの小説が『面白くない』わけがありません。

主人公(古書鑑定の女性専門家)の人間関係や周囲で起こる出来事、過去に『セビリヤ(スペイン)』『ベネツィア(イタリア)』『サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)』で起きた古書にまつわる出来事が、登場人物の個性描写も含めて、リアルに語られますので、自分がその場所にいるように惹きこまれます。

『ダン・ブラウン(Dan Brown)』や『スティーブ・ベリー(Steve Berry)』のような、不死身のスーパー・ヒーローが冒険活躍する歴史ミステリー小説とは異なり、読者がリアルと感ずる『人間ドラマ』がこの小説の特徴です。

著者『Geraldine Brooks』の人間、歴史への洞察力は見事ですが、その分、英語の表現は凝っていて、語彙も難しいものが多用されています。梅爺にとって英語圏の教養人と付き合うのは、易しいことではありません。

日本語を勉強した外国人が、『大江健三郎』の小説を原文で読めば、同じはずだと、負け惜しみを言いながら梅爺は読み進めました。

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2015年9月 6日 (日)

小説『People of the book』(4)

『キリスト』の出現を、『救世主』出現の預言が成就したものとして権威づけるために、キリスト教は、予言が書かれているユダヤ教の聖典(タルムート)をほぼそのまま『旧約聖書』として採用しました。

しかし、当然のことながらユダヤ教の聖典は、『キリスト教』のために書かれたものではなく、『ユダヤ民族とその神の約束事』として受け継がれてきたものですから、『キリスト教』にとっては、不都合な内容も多く、後のキリスト教聖職者、神学者の頭を悩ませることにもなりました。

『キリスト教』をユダヤ民族以外の民族へも普及するために、『ユダヤ民族だけの神』というイメージを変えることや、『割礼』などと言う風習を払拭(ふっしょく)しなければなりませんでした。これは『パウロ』の決断で行われました。しかし、信者の集会所の『シナゴーグ』は『教会』として、祈りの最後に全員で『アーメン』と唱える様式などは、ユダヤ教からキリスト教へそのまま踏襲されています。

『過ぎ越し』の故事も、キリスト教へ影響を及ぼしています。『キリスト』が生まれた時に、将来自分の地位を脅かす『真のユダヤの王』が生まれたと恐れた『ヘロデ王』が、1歳以内の男の子を全員殺戮するように命じたと、新約聖書には書いてありますが、これは、実際にあったことというより、『第一子』を皆殺しにする『過ぎ越し』の故事を新約聖書の作者が引用したもののように梅爺には思えます。『キリスト』は家族とともに危うくこの難を逃れ、幼少時はエジプトの『アレキサンドリア』で過ごしたことになっています。当時の『アレキサンドリア』は、世界一の図書館がある文化の中心地でしたので、その影響を『キリスト』がどのように受けたのか、公用語の『ギリシャ語』を習得する機会があったのかなどは梅爺の興味の対象ですが、『新約聖書』はそれにはあまり触れていません。後の『キリスト教』布教には『パウロ』の『ギリシャ語』能力が大きな力になっています。現存する『パウロの書簡』は『ギリシャ語』で書かれています。

『キリスト』が十字架で処刑されたのは、『過ぎ越し』行事の準備日に相当するとされています。また、『キリスト』は『子羊』で象徴され、十字架で流した『血』は、私たち罪びとの罪を贖(あがな)うためのものと言う話になっていますので、『子羊の血で描いた印』でユダヤ民族が『出エジプト』の時に救われた(神の災いの対象にならなかった)という『過ぎ越し』の故事を、より深い精神的な話へ昇華させ、関連付けているように見えます。

後の聖職者、神学者が知恵を絞って、『旧約聖書』と『キリスト』の関連を、できるだけ矛盾なく説明しようとしている努力をうかがうことができます。『カトリック』のミサの最後には『アニュース・デイ(神の子羊)』という曲がラテン語で歌われます。

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2015年9月 5日 (土)

小説『People of the book』(3)

この小説は、ユダヤ教の家族が、『過ぎ越しの祭(Passover)』の際に、宗教儀式で読み上げる聖典『Haggadah』として創られた、一冊の本に歴史的に関った人々の物語です。この一冊は、装丁や、見事な色彩で細密に描かれている挿絵の素晴らしさ故に、歴史的『美術工芸品』としての価値があり、現在は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの博物館が、『Sarajevo Haggadah』として所蔵しています。

ユダヤ教にとって『過ぎ越し』の行事は、極めて重要な意味を持っています。エジプトで奴隷となっていた『ユダヤの民』が、80歳のリーダー『モーゼ』に率いられ、集団でエジプトからパレスチナの地へ逃れたとされる故事『出エジプト(エクソダス)』に関連しています。

『ユダヤ人の神(ヤーヴェ)』は、『出エジプト』という難事業を達成するために、色々と『モーゼ』を支援していますが、その一つが、エジプト全土の家に災いをもたらし、その家の人間、家畜を問わず『初子(第一子)』を皆殺しにするというものです。ただし、『ユダヤ人』の家は、入り口の扉に、子羊の血で印を描いておけば、災いが及ばないと、『神』は『モーゼ』にこっそり教え、そのお陰でユダヤ人は災いの対象にはなりませんでした。神の災いが、ユダヤ人の家だけは『過ぎ越し』たことから、これを記念した『祭』が定着しました。

『全知全能の神』が、どうして『印』がないとエジプト人の家かユダヤ人の家か区別がつかないのか、などと梅爺は不敬なことをつい言いたくなります。

その後、『モーゼ』と『ユダヤの民』は、紅海の海岸まで逃げますが、エジプトのファラオの軍隊に追い詰められます。この時も『神』は『モーゼ』を助け、『紅海』を切り開いて逃げ道を作り、『ユダヤの民』は逃げ切りましたが、追いかけてきたファラオの軍隊は、海が元へ戻って、呑みこまれてしまいます。旧約聖書のなかでも有名な奇跡の一つである『紅海が割れて逃げ道ができる』エピソードです。

こうしてアラビア半島から、パレスチナへ至った『ユダヤ』の民は、シナイ山で『モーゼ』が『神』から『十戒』を授与され、パレスチナの地を『約束の地』として手に入れます。1948年に『ベン・グリオン』は、『ここは、神が我々に約束してくれた地』であると主張して、パレスチナに『イスラエル』を強引に建国しました。このような主張が通るとなると、国際法などは無意味です。最近では中国が、『ここは昔から中国の海であった』と、あちこちで主張しています。

奴隷であった『ユダヤの民』が、苦労をしてエジプトを脱出したという歴史的な事件が実際にあったのであろうと思いますが、その後伝承は美化され、創作が加えられていったのでしょう。日本の『神武東征』などの逸話に似ています。

このような一連のエピソードを眺めてみると、『ユダヤ人の神』は、実に依怙贔屓(えこひいき)が強く、『ユダヤ民族』のためなら多民族を平気で殺戮する怖ろしい神であることが分かります。その後『パウロ』が創り上げていくキリスト教の『神』とは全くイメージが異なります。

ユダヤ教の基盤であるユダヤの故事を、キリスト教は旧約聖書として受け容れてしまったために、『ユダヤ人だけに依怙贔屓する神』を、『全人類を愛する神』へ変貌させなければならないことになりました。そこで『パウロ』は、『ユダヤ人は神を間違って理解している』と宣言します。実に、論理的で勇気ある宣言ですが、旧約聖書をどう扱うかは、その後もキリスト教にとって、難しい問題であり続けています。

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2015年9月 4日 (金)

小説『People of the book』(2)

『People of the book』というタイトルから、梅爺は映画『華氏451』を思い出しました。『華氏451』は1966年にイギリスで作られたSF映画で、監督はフランス人の『フランソワ・トリフォー』です。

『華氏451』は、徹底された思想管理社会を描いた大人のお伽噺のような話で、不適切な書物は、『ファイアマン』という特殊部隊が出動、摘発して、すべて燃してしまうという話です。『華氏451度』は『摂氏233度』の温度を表し、紙が発火する温度をのことです。

この映画の主人公は、『ファイアマン』ですが、若い女性に出会って、その影響を受け『本』に興味を持つようになりますが、妻の密告で、当局から追われる身になり、若い女性の手引きで逃げた先で、『本の人々』が集団で暮らすコミュニティの存在を知ります。

『本の人々』というのは、一人一人が分担して、過去の『名著』を丸ごと『暗記』して継承している人達です。現実の書物の所有が認められない社会では、人間はここまでして文学を守り継ごうとするということを極端に表現することで、『精神世界』の自由な表現を束縛することが、人間の尊厳を冒涜する行為であることを訴えています。

しかし、人類の歴史を思い浮かべてみると、権力者や体制が、意に沿わない書物を、全て焼却するというような行為は何度も繰り返されてきました。『秦の始皇帝』による『焚書坑儒』、初期『カトリック』による異端書焼却、フィレンツェ『サヴォナローラ』びよる退廃芸術焼却、スペイン『イザベラ女王』のユダヤ教、イスラム教聖典の焼却、ソ連『スターリン』によるブルジョア芸術粛清、『ナチスドイツ』のユダヤ教聖典の焼却、戦前の日本における自由民権運動、左翼思想関連書物の摘発、中国『文化大革命』における文化財の破壊と枚挙のいとまがありません。

北朝鮮やイスラム教原理主義が支配する地域で、『精神世界』の自由な表現が抑圧されていますし、中国の『インターネット』検閲も、同類のことと言えます。自由な表現と言っても、『性』や『暴力』の表現などのように野放しにはできないものがあるという主張も一理がありますが、少なくともコミュティの民主的な合意で自粛をすることに止まるべきで、権力者や体制が決めて押し付けるものであってはならないと思います。

一時スターリンの粛清の対象になった作曲家『ショスタコービッチ』の、交響曲『レニングラード』が、『ナチスドイツ』の包囲で、死の瀬戸際まで追いつめられた『レニングラード』で演奏され、市民が涙を流して聴き入り、絆を確かめ合ったという話は有名です。スターリンにとっては皮肉な話ですが、人々が戦う手段は武器だけではないことを如実に示しています。

東日本大震災で打ちのめされた東北の人々の絆を確認する一つの手段が『音楽(歌)』であったことも、身近な例として思い浮かびます。

『人』は『生きる』ために、肉体的と同様に精神的な要件を必要とする『生物』なのです。

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2015年9月 3日 (木)

小説『People of the book』(1)

『People of the book(Geraldine Brooks著)』という小説を、英語版ペーパーバックで読みました。

この本の内容を斟酌(しんしゃく)すると、タイトルの『People of the book』は、『本を守り継いだ人々』というような訳が適切かと思います。梅爺が最近読んだ小説の中では出色の作品です。日本では『古書の来歴』という、少々堅苦しいタイトルの翻訳本として売られていて、翻訳ミステリー大賞を受賞しています。

著者の『Geraldine Brooks』は、1955年生まれの女性作家、ジャーナリストです。オーストラリア出身で、シドニー大学(オーストラリア)、ベツレヘム大学(イスラエル)、コロンビア大学(アメリカ)で学んだ後に、ジャーナリストとして戦地からのレポートなどを行っていましたが、その後作家へ転じました。フィクション部門で、『ピューリッツァー賞』も受賞しています。

『People of the book』の『The book』は、現在ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボにある博物館が所有しているユダヤ教の貴重な宗教書のことで、『Sarejevo Haggadah(サラエボ・ハッガダー)』と呼ばれているものです。

『Haggadah』は、ユダヤ教の家族が、『過ぎ越しの祭(Passover Seder)』の時に、先祖の『出エジプト』を偲び行う儀式にもちいる宗教書のことです。

ユダヤ教はイスラム教と同様に、『偶像崇拝』を禁じていますので、一般に宗教書には『挿絵』は描かれませんが、『Sarajevo Haggadah』は、見事な色彩で緻密な『挿絵』が描かれていることで有名です。

この小説は、古書鑑定の技術も持つ、主人公の古書研究者(女性)が、『Sarajevo Haggadah』に残されている手掛かりから、この『Haggadah』が、どこで、いつ創られ、どのような運命をたどって、サラエボへ到達したのかを解明しようとする現在の逸話と、本当はどのようなことが起きていたのかを示す過去の逸話が、交互に提示される、ミステリー形式で展開します。

現在の逸話、過去の逸話のいずれも、興味深いドラマで構成されていて、実によく描かれていますので、梅爺は久しぶりに『面白い本』を読んだと言う満足を得ました。

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2015年9月 2日 (水)

アカデミカ・コール演奏会2015

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月29日(土)に、梅爺が参加している『アカデミカ・コール(東京大学OB男声合唱団)』の演奏会が『めぐろパーシモンホール(大ホール)』で開催されました。

『アカデミカ・コール』の他に、『ジョーバニ(東京大学OB男声合唱団:平成年度卒業の若手グループ)』と『オーリアリオン(法政大学OB男声合唱団)』が賛助出しました。

『アカデミカ・コール』は、『愛唱曲集(5曲)』と『ミサ曲ヘ長調(ラインベルガー)』の二つのステージで歌いました。

『ラインベルガー(ドイツ)』は19世紀後半の作曲家で、オルガン奏者であったことから、オルガンの曲や宗教曲が有名です。

『ミサ曲ヘ長調』は、オルガン伴奏つきの男声合唱曲で、本来ならパイプオルガンが好ましいのでしょうが、今回は会場にエレクトリック・オルガンを持ちこみ、スピーカーの配置場所などを工夫して、『大聖堂に鳴り響くオルガンの音』を再現する努力をしました。オルガン演奏は、指揮の『三澤洋史』先生ご推薦の『坂戸真美』さんにお願いしました。『坂戸』さんは、フランスへ留学してオルガン演奏を勉強された方です。『三澤』先生も『坂戸』さんも熱心なカトリック信者ですので、『ミサ曲』を演奏するには『最強のコンビ』と言えます。

『ミサ曲』はカトリックの礼拝の様式に合わせて作られていますので、『キリエ』『グロリア』『クレド』『サンクトゥス』『ベネディクトゥス』『アニュスデイ』と進行に合わせて歌われます。元々はラテン語の決められた歌詞で歌われますが、最近では、その国の音楽家が作曲した『ミサ曲』を、その国の言葉で歌うようになっています。

今回『アカデミカ・コール』が演奏した『ミサ曲』はラテン語歌詞でしたので、『三澤先生』からラテン語の特訓を受けました。

特に『クレド』は、信者にとって最も重要な『教義の真髄』を『信じます』と告白する部分で、『ミサ』の中のハイライトと言える部分です。

音楽として演奏する場合も、その『精神世界』は表現しなければなりませんので、発声方法など細かい指導を受けましたが、何しろ世俗的に生きている爺さんが大半の合唱団ですから苦労しました。

『三澤先生』に、『年齢にふさわしく、もう少し悟りの境地に近づいたらどうですか』などとひやかされながら、とにかく歌いきることができました。

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2015年9月 1日 (火)

映画『The Lady アウンサンスーチーの引き裂かれた愛』(4)

『アウンサンスーチー』は2010年には自宅軟禁が解除され、『国民民主連盟(NDL)』のリーダーとして政治活動を行い、日本など外国訪問も行っています。2011年に大統領に就任した『テイン・セイン』は、軍籍ではない初の大統領であり、選挙、複数政党制の議会など、『民主化』は少しづつ進展しているように見えます。 

しかし、ミャンマー(ビルマ)の歴史は、複雑な権力闘争、他国特に中国の影響力、麻薬や兵器を扱う悪徳政商の暗躍、少数民族の自立意識(独自の民兵組織を持つなど)、宗教の対立などが絡み、梅爺にはすんなり理解できません。

日本の明治維新は、リーダーたちが国家を確立することを最優先に腐心しました。その後、敗戦と言う大きな代償を払って、日本人は『国家は国民のために存在する』という共通認識を獲得しました。現在の多くの日本人は、イデオロギーや宗教を個人が受け容れる自由は権利として認めてはいても、イデオロギーや宗教のために国家が存在し、国家のために国民が存在するというような考え方は、受け容れません。

経済的な発展は必要と考えていても、健康を損なう環境がそれによって出現するならば元も子もないという考え方で、日本は『環境権』を基本的な人権の一つとして認めるまでにいたっています。

このような日本の常識で観ると、ミャンマーはあまりにも諸条件が混とんとしていて、民主化への道のりはまだまだ遠い状況にあると言わざるをえません。

政党、軍部、民族、宗教、政商などが、自分たちの利権を最優先して有利な立場を得ようとしているようにみえ、各々がそのために『国家機構』を利用しようとしているようにも見えます。つまり『国民のために国家が存在する』などという常識は醸成されていません。

『アウンサンスーチー』を、南アフリカで『アパルトヘイト』を排除したマンデラ首相(長期に牢獄に収容されていた)になぞらえ『女マンデラ』と賞賛する人達がいる一方、最近の政治活動には、いかがわしさもあると批判する人達もいます。

批判の対象は、『国民民主連盟』も、政商から献金を受けている、少数派であるイスラム教徒への仏教徒(アウンサンスーチーの支持母体)の弾圧を看過している、などです。

梅爺は、複雑な環境のなかで、粘り強く民主化を推進していくには、きれいごとばかりではすまず、妥協や優先度をつけた対応も必要になるのではないかと、『アウンサンスンチー』へ同情したくなります。

勿論、『アウンサンスーチー』が、ただの『権力志向者』ではなく、最後の目的は『国民のための国家をつくること』という志の持ち主であるという前提です。

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