« 2015年7月 | トップページ | 2015年9月 »

2015年8月31日 (月)

映画『The Lady アウンサンスーチーの引き裂かれた愛』(3)

『アウンサンスーチー』は看護していた母親が亡くなった後も、英国の家族のもとへ戻ることはせず、ミャンマーに滞在し続けます。軍事政権側は、なんども英国へもどるよう説得しますが、それはミャンマーへの再入国を拒むための『罠』であることを知っている『アウンサンスーチー』は拒否し続けます。ノーベル平和賞の授賞式のためにもミャンマーを離れることはありませんでした。 

無名の民主化運動家ならば、軍事政権はすぐに拘束、または処刑したに違いありませんが、『建国の父の娘』を処刑したとなると、国民は一気に反軍事政権のために結束蜂起する可能性があり、国際世論の厳しい批判にさらされることは歴然としていますので、さすがの軍事政権もそれを計算して、『アウンサンスーチー』を自宅軟禁として行動を制限しました。 

英国の夫や息子たちは、何度かミャンマーへの入国は許され、『家族対面』を果たしますが、すぐに軍事政権から国外退去を命じられました。 

夫は前立腺がんで、死期が近いことを悟り、何度もビザ申請をしますが、軍事政権は許可せず、『アウンサンスーチー』は夫と最後の別れを交わすことはできませんでした。映画はこの『引き裂かれた愛』を強調しています。 

『アウンサンスーチー』の心の中に、『祖国の民主化へ身を捧げる』か『妻、母親として家族と一緒の生活を選ぶ』かの葛藤があったに違いありませんが、覚悟して前者を選んだことになります。非情な決断をしたわけですから、第三者が『引き裂かれた愛』などと感傷的な面を強調してみても、なにかチグハグは感じを梅爺は受けます。 

人は生きるために非常な決断を迫られることがあります。『アウンサンスーチー』ほどのことではないにせよ、男性は『仕事か家庭か』、女性は『結婚か仕事か』の選択をしなければならないことがあります。『男はつらいよ』『女もつらいよ』が人生です。『優先度を決める』『両立させる努力をする』など色々な対応策がありますが、覚悟して自分で決めるしかありません。

軍事政権は、『国によって民主化の事情は異なる』と主張して、欧米が求める民主化を拒否しています。中国なども同じです。しかし、『権力を手放したくない』という保身のホンネが見え隠れします。中国の権力には、汚職が付きまとい、ミャンマーの軍事政権の裏側にも悪徳政商が暗躍し、賄賂が日常化してしるにちがいありません。

国際的に孤立化したミャンマーには、『中国』や『北朝鮮』が甘い言葉で近づこうとします。ミャンマーをとりこんで、何らかの利権を得ようとするだけのことで、ミャンマーの国民にとっては民主化が遠のく迷惑な話です。

民族的には60%が『ビルマ人』で、宗教的には『仏教』が主流とはいえ、ミャンマーは『多民族国家』であり、『多宗教』が共存する連邦ですから、民主化には、数々の難題が控えています。

『アウンサンスーチー』が国家のリーダーになれば、たちどころに問題が解決するというような単純な話ではありません。

| | コメント (0)

2015年8月30日 (日)

映画『The Lady アウンサンスーチーの引き裂かれた愛』(2)

『アウンサンスーチー』は、ビルマの『建国の父』と呼ばれている『アウンサン将軍』の娘として生まれました。『アウンサン将軍』はイギリスの植民地時代に、『ビルマ独立義勇軍』を率いて日本の支援も得てイギリスと戦い、1943年に『ビルマ国』を建国しました。この時の『ビルマ国』は日本の傀儡(かいらい)政権でもあったわけです。

しかし、1944年第二次世界大戦における日本の敗色が濃厚になると、『アウンサン将軍』はビルマ国軍を率いてクーデターを起こします。つまりイギリス側へ寝返って、今度は日本軍と戦いました。

第二次世界大戦で日本が敗北し、ビルマは連合軍によって解放されますが、イギリスは独立を許さず、再びイギリスの統治下に置かれました。

その後1948年に、イギリス連邦から離脱し、『ビルマ連邦(現ミャンマー連邦)』として独立しますが、その前年の1947年に、ビルマ内部の権力闘争の中で『アウンサン将軍』は暗殺されてしまいます。

独立は、非常に複雑な政治派閥の間の権力闘争が関与して実現したこと、『ビルマ連邦(ミャンマー連邦)』の名が示すように、他民族国家であることが、その後ミャンマーに『強権的な軍事政権』を根付かせる要因になったのではないかと梅爺は推察します。皮肉なことに権力闘争の繰り返しを阻止するための政権が、今度は権力を強大化させ、恐怖政治を行うようになります。さらに皮肉なことにこの政権内部も、権力闘争明け暮れるようになります。『スターリン』時代のソ連、現在の中国、北朝鮮などがその典型例です。

『アウンサン将軍』がもし生きていて、独立後の『ビルマ連邦』のリーダーとなったら、軍事政権ではない、民主主義国家が実現したかどうかは、想像するしかありません。

『アウンサンスーチー』の母親(将軍夫人)は、その後ミャンマーのインド大使として活躍しています。

『アウンサンスーチー』は、インドで高等教育を受け、イギリスのオックスフォード大学で、哲学、政治学、経済学を学び、卒業後は、大学で研究員として、また国連の書記官補として勤務しています。1985年~1986年には、京都大学の研究員として来日しています。

1972年に、オックスフォード大学の後輩である『マイケル・アリス博士(チベット研究者)』と結婚し、二人の男児の母親になりました。

西欧文化の中で教育を受け、その一員となり、民主主義がどのようなものであるかも知っているという点で、『アウンサンスーチー』は貴重なミャンマー人であるといえます。このまま、英国で暮らしていたら、平穏な人生であったにちがいありませんが、病気で倒れた母親の看護のために、1988年にミャンマーへ帰国したことから、人生は大きく変わることになりました。

民主化を求める学生のデモを、軍事政権が弾圧するなど、騒然とした中に帰国したことになり、やがて民主化推進運動のリーダーとなっていきます。母親の看護目的が、いつの時点で政治活動目的へと変わっていったのか興味深いところです。『家庭』と『祖国』の二者択一を迫られ、結果的に『祖国』を選んだことになります。

民主化推進グループとしては、『建国の父アウンサン将軍の娘』という称号は、結束の象徴としてこれ以上のものはありませんから、両者が結びついたのは当然のことなのかもしれません。

| | コメント (0)

2015年8月29日 (土)

映画『The Lady アウンサンスーチー引き裂かれた愛』(1)

テレビで放映された映画『The Lady アウンサンスーチー引き裂かれた愛』を録画して観ました。 

ミャンマーの政治指導者『アウンサンスーチー』の人生を、主として夫婦愛で描いた映画(リュック・ベッソン監督、2011年公開、フランス映画)です。 

『アウンサンスーチー』を演じた女優の『ミシェル・ヨー』、夫『マイケル・アリス博士』を演じた『デヴィット・ショーリス』の演技も見事で、そう云う意味では上出来の映画と感じました。 

存命で実在のノーベル平和賞受賞者の『アウンサンスーチー』の人生を映画化したものですから、概(おおむ)ねが『事実に即した内容』であろうと思いますが、ここまで『勧善懲悪』で、『善人(アウンサンスーチーとその家族、反政府運動の仲間)』と『悪人(軍事政権のリーダーたち)』の対立構図で描かれると、疑い深い梅爺は、『映画の趣旨から美化したいお気持ちは分かりますが・・』と呟きたくなります。悪い癖です。

梅爺は浅学にして『ミャンマー(ビルマ)の歴史』『現状の背景(他民族構成、宗教、経済、外国の影響力など)』『アウンサンスーチーの言動の詳細』などを詳しく理解しているわけではありませんが、実態は複雑で、単純な『勧善懲悪』で律することが難しいのではないかと想像することはできます。

勿論、『アウンサンスーチー』が尊敬に値しない人物であるなどと、考えているわけではありません。しかし、『軍事政権』さえ排除すれば、『ミャンマー』が即刻『民主主義国家』へ変貌するなどと単純な話ではなかろうと推察しています。

日本が第二次世界大戦で敗戦国になり、一気に『民主主義国家』へ変貌できたのは、ほぼ単一民族国家で、高い教育レベルや工業技術レベルを既に保持していたことに起因しています。世界の中で、むしろ珍しいケースであることは、多くの国家で日本のような変貌が起こらないことを観てもわかります。イラクは『サダム・フセイン』を排除して観ても、『民主国家』にはなりませんでした。

『民主主義』は人類が考え出した叡智の一つではありますが、『国民の平均的な教育レベルが高いこと』『違いを認めながら合意点を探る忍耐を必要とすること』などの条件がなければ成立しません。特定のイデオロギーや宗教のように、『私だけが正しく、他は間違い』と断ずる勢力が支配する国家は、『民主主義国家』にはなりえません。

この映画を観て、『俗悪非道な軍事政権』が、民主化を望むミャンマー人民を抑圧しており、『アウンサンスーチー』はその中で、家族と一緒の生活を阻まれ、家族との絆(愛)が引き裂かれた悲劇のヒロインであると受け止めるのは、間違いではないにしても、皮相な理解であると梅爺は感じました。

| | コメント (0)

2015年8月28日 (金)

梅爺創作落語『お初の縁談』(7)

辰三郎は大家に言われたとおりに赤坂山王(さんのう)の日枝神社へ出向き、おみくじを引きました。

最初のおみくじは『吉』、次は『大吉』で、すっかり自信を失いましたが、意を決して念じながら、エイッとばからに3回目のおみくじを引きますってぃと、これが何と『大凶』でございました。

急いで『運勢』の項を読んでみますと、『何事も高望(たかのぞみ)は禁物。身の程に合わせ、謹んで行動すべし』とあり、更に『縁談』の項を読みますと、『急に持ち込まれる縁談は災いのもと、避けるべし』と、実に都合のよい文言(もんごん)が並んでおります。辰三郎は、意気揚々と大家のところへ報告に参りました。

(辰三郎)『大家さん、おみくじを引いてまいりました。これが大凶のおみくじ札でございます』
(大家)『おー、どれどれ、ふんふん、なるほど、期待以上のお告げの内容じゃないかい。辰っつぁん、やりましたな。神様に、ここまで言われたんじゃ、酒田屋も無理押しは、難しいでしょうなぁ』
(辰三郎)『大家さんのお知恵のお陰です。早速明日、このおみくじ札をもって、酒田屋へ出向き、お初の件はお断りして参ります』
(大家)『いいかい、辰っつぁん、大切なことは、お前さんが、とても信心深い人で、日ごろ大切なことを決める折には、必ず山王(さんのう)の日枝様に、お伺いを立て、そのお告げに従うことで、今までなにもかもうまくいってきた、という前口上を述べることだよ。分かっているだろうね』
(辰三郎)『へぃ、その前口上の後で、おもむろにこのおみくじ札を証拠に持ち出して、神様の御意向には背けません。折角のお話ですが、お受けできません、とこう言えばよいんでございますね』
(大家)『上々の首尾を期待していますよ』

翌日、辰三郎は日本橋の酒田屋へ出向き、大番頭に会って、昨日大家に言われたとおりに、前置きを述べた上で、おみくじ札を示し、縁談を断りました。

(大番頭)『縁談が災いのもととは、神様もきついお告げをなさるものですな。私どもも商売家業ですから災いは大層困ります。今回お断りに来られたのは、辰三郎殿やお初殿のお考えと言うより、神様のお告げがあったからということでございますね』
(辰三郎)『へい、恐縮ながらその通りでございます』
(大番頭)『辰三郎殿を、お疑いするようで、なんですが、断りに都合のよいおみくじ札を引くために、あちこちの神社へ出向き、4度も5度もおみくじを引いて、ついにこの証拠のお札を引き当てたというようなことは無いんでございましょうな』
(辰三郎)『いえ、決してあちこちに出かけたり、4度や5度もおみくじをひいたりなんぞはしていません。お告げをいただいたのは山王(三度)だけでございます』

お後がよろしいようで。

| | コメント (0)

2015年8月27日 (木)

梅爺創作落語『お初の縁談』(6)

(大家)『ところで、辰っつぁん、いよいよお前さん酒田屋へ出向いて、断りをいれる必要がありますな。どんな風に話すつもりでおいでだい』
(辰三郎)『どんな風にたって、本当の話をするだけでござんしょ』
(大家)『それで、ことが収まればいいんだが、酒田屋にとっては、面目のない話なので、ちょいと気になりますな』
(辰三郎)『この話は、酒田屋のほうから勝手に持ち込んできた話なんですから、酒田屋の面目などこちとらどうでも構いませんがね』
(大家)『理屈はそうなんだが、世間には思わぬ落とし穴があったりしますからな。辰っつぁんには言いにくい話だが、酒田屋は、長屋住まいの職人のお前さんに比べて、自分のほうが格が上だと、そう思い込んでいるに違いがありませんな。いってみれば玉の輿の話を酒田屋から持ちかけてやったという態度でしょうから、喜んで承諾されることはあってお、すげなく断られるなんてことは予想もしていないんじゃないかね』
(辰三郎)『犬や猫に美味(うま)い餌を与えれば、食べないはずがないと言うような話で、腹が立つ話ですな。貧乏職人にも、それなりの面目がありますからな』
(大家)『しかし、この縁談がすげなく断られたなんぞという噂が広まれば、酒田屋の暖簾(のれん)に疵がつき、それでなくても周囲の噂になっている若旦那の身持ちの悪さを一層世間が知ることになって、嫁さがしが難しくなるでしょうな。それに考えたくはありませんが、そうなれば酒田屋も裏で手をまわして、辰っつぁんや仙吉さんの仕事を邪魔したり、お初坊に嫌がらせをしたりしないともかぎらないでしょう』
(辰三郎)『自業自得とはいえ、そいつはたしかに酒田屋にとっても、こちらにとってもまずいことになりますな。でも、酒田屋の面目を保つうまい断り方なんてものがあるんですかい』
(大家)『うーん、困った時の神頼みということがあるから、ここはひとつ神様のせいにするしかありませんな。お前さん、何かの折に、願い事をしに出向く神様がおありだろう。どちらの神様だい』
(辰三郎)『へぇ、あっしは、仕事がうまくいきますように、家内安全でありますようにと日頃は、赤坂山王(さんのう)の日枝神社に祈願しております』
(大家)『そうかい、それならば、早速日枝様に出向いて、凶か大凶のおみくじを引きあてるんだな』
(辰三郎)『ちょっとまってくださいよ、おみくじなんていうものは、吉か大吉を願って引くもんでしょう。第一、凶や大凶を都合よく引きあてるとは限らないじゃありませんか』
(大家)『お前さんも頭が固いね。凶か大凶がでるまで、何べんでもおみくじを引けばいいんだよ。そうすれば、縁談の項には、「持ち込まれた縁談は良縁に非ず避けるべし」なんぞと書いてあるおみくじが手に入るだろう。それを酒田屋に持参して、辰っつぁんが日ごろから信心深い人間であることをまず申し述べ、神様に念のためにお伺いをたてたら、こういうことでした、折角のよいお話で大変恐縮ですがと更に前置きして、丁重に断ればいいんじゃないかい』
(辰三郎)『なるほど、酒田屋も神様のお告げとなれば、抗しようもないということですな。でもそのように神様をだしにして罰があたりませんかね』
(大家)『ことを丸く収めようって話ですから、神様にだって承知していただけるにちがいありませんよ』

| | コメント (0)

2015年8月26日 (水)

梅爺創作落語『お初の縁談』(5)

辰三郎は大喜びで長屋へ戻ってまいりました。 

(辰三郎)『お初、喜べ、仙吉はお前を嫁にもらいたいと話がついたぞ』
(お初)『おとっつぁん、本当なの。でもまさか仙さんに無理強いしたじゃないでしょうね』
(辰三郎)『馬鹿をお言いでないよ。なんと仙吉も、密かにお前に想いを寄せていたってぃことが分かったんだよ。なんとも、お前たちはどちらも手間がかかるじれったい奴らだな。好きなら好きと早く言っちまえばいいものを。まぁ、なにはともあれ、話がまとまって、おとっつぁんはこんな嬉しいことはないよ。あれっ、誰か訪ねてきたようだね。どなたか見ておいで』
(お初)『おとっつぁん、大家さんがお見えですよ』
 

(辰三郎)『大家さん、昼間っから何かご用ですか。店賃(たなちん)なら一日(ついたち)にお支払いしましたよ』
(大家)『お前さんのように、きちんきちんと店賃を支払ってくれる人ばかりなら、大家としてわしも苦労がないんだがね。いつも感謝していますよ。今日お尋ねしたのは、ほかでもない酒田屋さんの一件のことでね。お節介と思いましたが、ちょいと気になったもんですからね』
(辰三郎)『大家さんのお耳にも入りましたか。どうもご心配かけてすみません』
(大家)『何も、辰っつぁんが誤ることなんかありませんよ。昨日から長屋中、この話でもちきりでね、特に長屋のかみさんたちは、お前さんが酒田屋の大番頭に、即答しなかったことが不満のようで、寄るとさわると、「辰っつぁんは、一体何を考えているんだろう」と姦(かしま)しいったらありゃしないんですよ』
(辰三郎)『どうせ、娘のまたとない玉の輿を、断る親がどこにいるんだろうっていな話なんでしょうな』
(大家)『女てぃものは、とかく目先の利や、表向きの体裁が大切という厄介なところがあるからね。お初坊が、酒田屋の若女将(わかおかみ)になれば、自分たちのような苦労をしないですむと、そう短兵急(たんぺいきゅう)に考えちまうんでしょうな。ところでお初坊の気持ちはどうなんだい』
(辰三郎)『それが、酒田屋へ嫁入りなんぞしたくないの一点張りなもんで、よくよく問いただしてみたら、どうも想いを寄せる男がいると白状したんですよ』
(大家)『おやおや、そいつはちょいとことだね。お初坊に気にいられた果報者は一体誰なんだい。辰っつぁんの知っている男かい』
(辰三郎)『知るも知らねぃも、この前までここで修行弟子だった仙吉だってぃんで、びっくりしちまいましたよ』
(大家)『知らぬは、親ばかりなりってい話ですな』
(辰三郎)『どうも、面目のない話でして。仙吉はなかなか骨のある、あっしが見込んだ男ですから、早速さっき仙吉を訪ねて、仙吉の気持ちも確かめてきたところなんです。ありがたいことに相思相愛であることが分かりましたんで、二人を夫婦(めおと)にしようと、あっしはそう決めました』
(大家)『そいつはおめでたい話ですな。実は辰っつぁんに話そうか、話すまいかと迷うことを小耳にはさみましてな、でも話がそうときまっているなら、話しやすくなりました』
(辰三郎)『一体、どんな話でござんしょう』
(大家)『日本橋の三河屋へ奉公に出ている甥が、今朝がた近所まで仕事で来たついでに私のところへ顔をだしてくれましてな、こいつはいい機会だと酒田屋のことを聞いてみたんですよ』
(辰三郎)『大家さんの、その顔つきじゃ、あまりいい話では無さそうですな』
(大家)『そうなんだよ。酒田屋の若旦那てぃのが、仕事そっちのけの遊び人で、吉原なんぞへ入り浸って、大旦那の頭痛の種らしいんですよ』
(辰三郎)『ほぉ、仙吉とは男の格が大分ちがいますな』
(大家)『大旦那としては、若旦那がお初坊に惚れちまったという話を聞いて、嫁でも貰えば、少しは身持ちが良くなるだろうと、これ幸いと話を急がせているんじゃないかと、甥っ子は言っていました』
(辰三郎)『どうも、貴重なお話ありがとうございます。お初は仙吉の嫁にと決めた今となっては、それでどうこうということはございませんな』

| | コメント (0)

2015年8月25日 (火)

梅爺創作落語『お初の縁談』(4)

せっかちな辰三郎は、直ぐに仙吉を訪ねました。

(辰三郎)『よぉ、仙さん、息災(そくさい)かい』
(仙吉)『あれ、親方、急にどうなさいました。あっしなら、お陰さまでなんとかやっております』
(辰三郎)『実は、ちょいとお前さんに頼みたいことがあってな』
(仙吉)『急にあらたまって何のことでしょう。あっしにできることなら、何なりとおっしゃってください』
(辰三郎)『お前さん、まだ独り身だよな。そろそろ所帯を持とうってな気にはならないかい』
(仙吉)『まだまだ職人としてあっしは未熟でございますので、腕をあげることに精一杯で、所帯なんんざ、先のことと考えております』
(辰三郎)『しかし、お前さん、所帯をもてば、落ち着いて一層仕事にも打ち込めることにもなりはしないかい』
(仙吉)『親方、何ですかい、あっしに所帯を持てというためにわざわざお越しになったんですか。それとも頼みごととは一体なんでござんしょう』
(辰三郎)『所帯を持つのは先とはいえ、誰か嫁にしたいと思う娘がもういるんじゃないのかい』
(仙吉)『あっしも、男でござんすから、今まで密かに想いを寄せた女(ひと)がいなかったわけではありませんが、どう考えても高嶺(たかね)の花で、あっしには、不釣り合いと心にしまってあきらめました。その後は、どうもその気になるような女(ひと)は現れません。親方、あっしのつまらない話なんぞどうでもよござんすから、用向きを早くおっしゃってくださいな』
(辰三郎)『そうか、やっぱりお前さん、惚れた娘がいたんだね。でも、お前さんも男なら、そう簡単にあきらめちゃいけないんじゃないかい。生涯後悔することになるともかぎらないからな。そうと分かったら、話が云いだし辛(つら)くなっちまったな』
(仙吉)『親方、水臭いじゃありませんか。用向きをおっしゃってくださいな』
(辰三郎)『実は、仙さん、ちょいとお恥ずかしい話なんだが、うちのお初を嫁にもらってはくれまいかと、お前さんに頼もうと思って出向いた次第でな。でもお前さんには惚れた女(ひと)がいると聞いて、あきらめがついたよ。どうか親ばかと笑って、忘れておくれな』
(仙吉)『ちょ、ちょっと待っておくんなさいな親方、何ですかい、するってぃと、お初さんと所帯を持てと言いにこられたんですか。あっしは、驚いて腰が抜けそうですよ。あっしが、密かに想いを寄せた女(ひと)というのはお初さんなんでございますよ』
(辰三郎)『おいおい、本当かい。お前さんこそ水臭いじゃないか。どうしてわしにそれを言わなかったんだい』
(仙吉)『修行中の弟子が、親方の娘さんを嫁に欲しいなどと、そんな身勝手なことが言えるはずがないじゃありませんか』
(辰三郎)『実は、お初に、誰か意中の男(ひと)はいないのかと問いただしたら、恥ずかしそうに、仙さんだというじゃないかい。それで、急いでここへやってきたというわけでね。いやー、よかったよかった。お前さんの都合が良い時に、お初を嫁に迎えて欲しいと、それが頼みごとだったというわけさ』
(仙吉)『まるで、夢をみているようでござんすよ。あっしには異存がございません。大層なことは言えませんが、お初さんに不幸な思いはさせないとお約束します』

| | コメント (0)

2015年8月24日 (月)

梅爺創作落語『お初の縁談』(3)

翌日、お初が親戚の家から戻って参りましたので、辰三郎は早速娘の気持ちを確かめました。 

(辰三郎)『お初、これこれこういう次第で、お前を是非嫁に欲しいと、向こう様はおっしゃっておられんだ。どうだい、お前お受けするかい』
(お初)『おとっつぁん、こんな私を是非にとおっしゃって下さる方がおられるのは、身に余ることと思いますが、私はとんと気が進みません。その話はお断りしてくださいな』
(辰三郎)『しかし、それほど急(せ)いて決めることも無いんじゃないのかい。ここはひとつ色々思案してみたらどうだい』
(お初)『私にとっては、おとっつぁんとの今の二人暮らしが一番幸せなんです。それに死んだおっかさんが、最後に「お初、おとっつぁんと幸せに暮らしな」といった言葉が、今も耳を離れません。私は、そうするとおっかさんと約束したんです』
(辰三郎)『しかし、おっかさんが死んだのは、10年も前の話で、その頃のお前は未だ十(とお)にも満たない女の子だったんだから、おっかさんは当座の話としてそう言ったんじゃないのかい。たしかに、おとっつぁんも、一人娘の
お前に身の回りのことを何もかも頼んで、仕事に打ち込める今の暮らしは、有難いと、ついついお前に甘えてきて申し訳ないと思っているんだよ。でも、いつまでもこのままというわけにはいかないんだし、お前には是非、よい相手と所帯を持ってもらいたいと、そう願っているんだがな』
(お初)『私ももう大人だから、おとっつぁんが私を誰よりも大切に思い、先々のことまで案じてくれていることはよく承知しています。でも、今おとっつぁんを一人にして、ここを出ていく気にはどうしてもなれません』
(辰三郎)『そう云うお前の気持ちはありがたいが、おとっつぁんなら、一人でもなんとかやっていけるから、お前は自分のことを一番に考えてくれればいいんだよ。酒田屋さんのお話に気が進まない、何か他の理由(わけ)があるんじゃないのかい』
(お初)『人には身の程というものがあるというのが、おとっつぁんの口癖でしょ。身の丈以上のことを望んでもうまくいかないことは、私もよく承知しています。そりゃ、日本橋の大店(おおたな)に嫁入りすれば、暮らしの心配をすることもなく、綺麗な着物を着て、美味しいものを食べ、辛い仕事もする必要が無いかもしれないけれど、それが私の幸せとは到底思えません。若旦那と言う方にも確かに一度お目にかかっていますが、本当に私が一番大切だと思う他人を思いやる心がある方かどうか分かりません。第一、長屋育ちで大店のしきたりなどを一切知らない私が、急にそんな世界に入っても、お店の人皆が、快く迎えてくれるとは思いません。私は、苦労はいといませんが、どうせなら私を心から認めてくれる人と苦労をともにしていきたいんです』
(辰三郎)『するっていと、お前には、この人となら添い遂げたいと心で思う男が誰かいるのかい』
(お初)『私は、一生心の中だけにしまっておこうと思っていましたが、おとっつぁんがそう言うなら、恥ずかしいけど一度だけ言います。仙さんです』
(辰三郎)『仙さんて、あの最近まで通い弟子としてここで働いていた仙吉のことかい。仙吉なら立派な腕をもつ職人で、今じゃ独り立ちしているが、なにせ口数が少ない男で、どうも、二人がそんな仲とはおとっつぁんも一向に気がつかなかったな。それで、仙吉とはもう夫婦(めおと)の約束でもできているのかい』
(お初)『おとっつぁん、嫌ですよ。私が勝手に想いを寄せただけで、仙さんはきっと私なんか眼中にありませんよ』
(辰三郎)『仙吉なら信頼ができる男で、おとっつぁんも大好きだよ。仙吉が相手なら、おとっつぁんは大賛成だ。よしこのことはおとっつぁんに任せろ。そうと分かっていたら、昨日は酒田屋の大番頭に生半可な返事をせずに、きっぱり断ったのに、ちょいと残念だな』

| | コメント (0)

2015年8月23日 (日)

梅爺創作落語『お初の縁談』(2)

(大家)『お初を見染めた酒田屋の若旦那というのは、それにしても意気地(いくじ)がない裏なり瓢箪のような男なのかい』
(八五郎)『一体どうして、そう云うことになるんですかい』
(大家)『だってそうじゃないか。男が女に惚れたら、自分で乗り込んで、「一緒にさせて欲しい」と男らしく頼むのが筋というもんだろう。大番頭を代りに遣わすなんざ、どうも情けない男のように見えるがね』
(八五郎)『そりゃ、あっしらの世界では、大家さんのいうとおりでしょうが、日本橋の大店(おおたな)ともなれば、あっしらのしきたりとは違った、伝来の格式てぇものがあるんじゃございませんか。お店のことは何事も先ず大番頭が出向いて取り仕切るということなんじゃないんですかね』
(大家)『ほぉ、そんなものかね。金持ちには一度くらいは是非なってみたいもんだが、堅苦しい格式はまっぴらご免だね。ところで、その若旦那てぃのはどこでお初を見染めたんだい』
(八五郎)『へぇ、それが湯島天神の梅まつりの折に、偶然出くわしたらしいんですな。お初は、長屋の幼馴染のお福と連れだってでかけ、茶屋の縁台に腰掛けて休んでいたらしんですが、丁度そこへ、丁稚(でっち)を一人お供に連れた若旦那が通りかかり、運の悪いことに草履の鼻緒がプツンと切れちまったらしいんですな。するとお初が、すかさず立ち上がって、若旦那のところへ近づき、ものも言わずに自分の手ぬぐいを切り裂き、鼻緒をすげ替えて、「これは仮の鼻緒ですから、後で草履屋さんにもう一度正式にすげ直してもらってくださいな」と、あの可愛らしい声で言ったんですな』
(大家)『なぁーるほど、そんなことをされたら若旦那でなくとも、男なら誰でもころりと惚れちまうのは当然だな。そこで若旦那は、お初に、お礼をしたいとかなんとこ口実をつくって、名前と住んでいる所を聞き出そうとしたってわけかい』
(八五郎)『お初は身持ちのよい娘(こ)ですから、そのような手には乗るはずはありりゃしませんよ』
(大家)『するっていと、どうして酒田屋は、この長屋を突き止めたんだい』
(八五郎)『体(てい)よく断られた若旦那が、丁稚に命じて、お初の後をつけさせたってわけですよ』
(大家)『なるほどね。それにしても、なんで八っつぁんがそんな細かい事情を承知しているんだい』
(八五郎)『そりゃ、辰っつぁんの隣は熊公の家で、熊公のかみさんは、地獄耳のお米さんですから、薄い仕切り壁に耳を押し付けて、大番頭と辰っつぁんの話の一部始終を片ことも逃さず聴きとり、長屋中に言いふらしたってぃ次第ですよ』
(大家)『どうも、この長屋じゃ、何事も筒抜けで隠しごとはできませんな。それで、辰っつぁんは、大番頭になんと返答をしたんだい』
(八五郎)『それがどうも、即答を避けて、2,3日思案させて欲しいと返答したらしいですよ。お米さんの話では、辰っつあぁんと酒田屋の大番頭のやり取りはこんな風であったらしいんでござんすよ・・・』

(大番頭)『どうも本日は突然に押しかけ、しかも愛娘(まなむすめ)のお初殿を、酒田屋の若女将(わかおかみ)としてお迎えしたいなどと、無理なお願いを申しあげ、大変恐縮至極でございます』
(辰三郎)『こちらこそ、このようなむさくるしい貧乏長屋まで、お越しいただき、その上、お初を大店(おおたな)の嫁にと、御所望いただき、大変光栄に存じます』
(大番頭)『それでは、なんとか御思案いただけますでしょうか』
(辰三郎)『わかりましたと申し上げたいところですが、当のお初の気持ちを確かめた上で、ご返答申し上げたいと思います』
(大番頭)『至極ごもっともなお話ですな』
(辰三郎)『あいにく、お初は夕べから、ちょいと手伝い事がありました、親戚へ泊まりがけで出かけて不在ですので、帰ってからのことになります。2,3日したら、あっしの方からご返事をもって酒田屋さんへ出向きます』
(大番頭)『いやいや、それでは失礼になりますから、私の方から再度うかがいます』
(辰三郎)『普段あっしらには日本橋の大店などは、とんと無縁でございますので、このような機会にぜひ一度お尋ねしたいと思います』
(大番頭)『さようなことなら、承知いたしました。良いお返事を期待しております』

| | コメント (0)

2015年8月22日 (土)

梅爺創作落語『お初の縁談』(1)

(大家)『八っつぁん、朝から長屋がなんとなく騒々しいようですが、何かあったのかい』
(八五郎)『へぇ、今朝がた、辰っつぁんのところへ、日本橋の酒田屋の大番頭と言うお人が突然訪ねてきましてね。その話で長屋はもちきりなんでございますよ』
(大家)『日本橋の酒田屋といえば、江戸でも指折りの海鮮問屋の大店(おおだな)で、一方、辰っつぁんといえば、ちょいと名の売れた腕利きの木彫り細工師の親方じゃありませんか。どうも私には話の経緯(いきさつ)が見えませんな。なにかい、酒田屋が座敷の模様替えをはじめて、客間の鴨居に鶴と亀のめでたい透かし彫りかなんかが必要になったんてんで、辰っつぁんのところへ注文にきたというわけかい』
(八五郎)『どうも想像だけで話を前へ進めてしまうのは大家さんの悪い癖ですな。実は、辰っつぁんの一人娘のお初坊を是非嫁にもらいたいと言う話なんでございますよ』
(大家)『ほぉー、そうかい。お初といえば、この長屋で長屋小町といわれる器量よしで、気立てもよいときているから、嫁にもらいたいという男が現れるのも無理がありませんな。それでなにかい、酒田屋の大番頭がお初を嫁にもらいたいという話なのかい』
(八五郎)『いくらなんでも、それじゃお初が可哀そうですよ』
(大家)『するっていとなにかい、大番頭はへちゃむくれの醜男(ぶおとこ)で、お初の器量とは釣り合わないということかい』
(八五郎)『いえいえ、大番頭は大層恰幅(かっぷく)も良く、様子の良い方でございますよ。でも鬢(びん)に白いものが混ざっているような、言ってみれば大家さんと同じ年配の方でしてね』
(大家)『ほぉ、そうかい。年寄りは枯れ木も同然で、色恋とは無縁ということかい』
(八五郎)『なにも、大家さんがそれほどむくれることはないでしょう。それともなんですかい、大家さんも今からおかみさんを追い出して、若い娘と一緒になろうなどと、こっそり思案しているんじゃないでしょうね』
(大家)『馬鹿なことをお言いでないよ。ところで、お初を嫁にもらいたいというのは、一体誰なんだい』
(八五郎)『へぇ、それが酒田屋の若旦那が、お初を見染めたという話なんでございますよ』

| | コメント (0)

2015年8月21日 (金)

ジョン・ハーシー『ヒロシマ』(4)

『ジョン・ハーシー』の『ヒロシマ』は、原爆投下直後の惨状を、自らも被爆しながら人々の救助に奔走した人達の証言を集めたものですが、明らかに、どのような理由があるにせよ『人が人に対して行う行為』としては、常軌を逸しているというメッセージがこめられており、当時のアメリカ政府にとっては、国民の反政府感情が高まったり、国際世論でアメリカが非難されたりすることを懸念せざるをえない状況に追い込まれました。

このため、アメリカ政府は、内外へ向けて『原爆投下を正当化する主張』を大々的に展開し、多くのアメリカ人は『正当性論理』を受け容れました。『ジョン・ハーシー』にも『非愛国者』として批難があったであろうことは、『ヒロシマ』についてその後沈黙を守っていることからも想像できます。安泰が脅かされると、人や国家は、自分に都合の良い論理を使って、自分の正当性を主張するものです。怪しげな論理を見破るためには、私たち個人が、自分で判断する能力を身につけて防御するしかありません。私たちの周囲には、常に『怪しげな論理』『怪しげな教え』『怪しげな常識』『怪しげな広告』がはびこっています。『へそ曲がりの嫌な爺さんだ』と言われようと梅爺はそう感じます。人生で何度も騙され続けてきたからです。

広島の原爆を題材にした日本映画『黒い雨』の中に、以下のような会話があったことを思い出しました。少々うろ覚えですので、正確ではないにせよ、主旨はまちがっていないと思います。『ようわからんのぉ』が全てを表現しています。

(男1)『どうして、広島だったんだろうのぉ』
(男2)『ようわからんのぉ。戦争を終わらせるために必要じゃったということらしいのぉ』
(男1)『そんなら、どうして東京へ落とさなかったのかのぉ』
(男2)『ようわからんのぉ』

広島の原爆死没者慰霊碑に『安らかに眠ってください。過ちは二度とくりかえしませんから』と書かれているのをみて、生き残った私たち日本人の心情を表現したものとは理解しながらも、梅爺は違和感を覚えました。

『戦争』が起きる要因は、『過ち』などという言葉で特定できるほど単純ではありません。死者の霊に『二度と繰り返さない』と、きれいごとの約束をするのは、無責任のように感じました。

広島、長崎の惨状を語り継いで、人々の『記憶』として絶やさないことは、勿論戦争抑止の一助とするための重要な行為ですが、『平和への祈り』『戦争反対の叫び』と同様、それで『戦争』が完全に抑止できるわけではありません。

『人』は、生物として『生きる』ために『争う』習性を宿命的に帯びているという本質を直視しない限り、『戦争』は回避できません。それが、いかに難しいかは、現に世界で『戦争』が絶えないことをみれば分かります。

『アメリカ軍の軍事行動に巻き込まれて、自衛隊の若者が死ぬことになってもよいのか』などという主張で、したりげに『戦争反対』を叫んでいるつもりの政治家をみると、梅爺はうんざりします。

『いざという時に安泰を守るための軍事的な備え』と同時に、『安泰を脅かされ難い国家に日本がなるための戦略』を議論する必要があります。

後者は、『高度な外交能力(情報分析能力、折衝能力)』『高い教育水準(異文化を理解する能力)』『高い文化水準(国際交流能力)』『互恵的な経済関係』『高い学術、技術水準』を維持することで、『軍事的な備え』より、こちらの方が本質です。一言でいえば『他国が無視できない高い品格を維持した国家になる』ということで、『日本を攻撃しても得なことはなく、自分が損をする』と相手国に思わせる高度な戦略が重要なのです

| | コメント (0)

2015年8月20日 (木)

ジョン・ハーシー『ヒロシマ』(3)

GHQの情報統制下で、『ジョン・ハーシー』がどうして広島へ入り、取材できたのかは、よく分かっていませんが、『ジョン・ハーシー』の妻が富豪の娘で、アメリカの政財界、軍部と人脈があり、GHQ高官のコネを利用したのではないかと考えられています。

何よりも、英語が堪能な『谷本清牧師』を、ルポルタージュの取材対象として選択したことが、成功のカギとなりました。キリスト教文化のアメリカ人読者は、キリスト教徒の証言を『偽りなし』と受け止め、キリスト教徒にひどいことをしたことに良心の呵責を感じたに違いないからです。

今回の番組では、『ジョン・ハーシー』の孫の『キャノン・ハーシー』が広島を訪れ、祖父が取材した『谷本清牧師』の息子(牧師)、娘(平和運動家)や、『クラインゾルゲ神父(ドイツ人、日本へ帰化、日本名高倉神父)』を知る人達に会い、原爆の悲惨さを再確認していくという内容になっています。

『谷本清牧師』の息子(牧師)、娘も英語が堪能で、通訳なしに、『キャノン・ハーシー』と会話できることが、この番組の取材を容易にしているように見えました。

特に娘さんは、アメリカ留学の経験者で、アメリカ人と婚約にまでいたりましたが、『原爆被爆者』であることを理由に、フィアンセの両親の反対に会い、破談になったという悲しい出来事があり、それ以降『原爆被爆者』である事実を隠して生きていこうと決意したと話していました。

しかし、人類がこの悲惨な記憶を継承することが、将来の悲劇を抑止する最大の要因と考えを改め、現在は、広島を訪れる外国人観光客に、体験を語る仕事を続けています。外国人が、涙を流しながら話を聞く様子が番組でも紹介され印象的でした。

梅爺は仕事の現役時代に、中国大連で『抗日記念博物館』を見学したいと云いましたら、仕事仲間の中国人から『身に危険が及ぶかもしれないのでやめなさい』と制されました。

一方、広島や長崎には、多数のアメリカ人観光客が訪れ、『原爆記念館』を『身に危険が及ぶことなく』見学しています。日本人は『原爆投下を指示したアメリカ人』と『現在の観光客であるアメリカ人』を区別できる『理性』を保有していることになります。これは素晴らしい日本人の資質です。梅爺は、できるだけ多くのアメリカ人や、世界の政治指導者が広島、長崎を訪れてくれるように願います。

中国や韓国の、『反日感情』は、政治的な意図で醸成されているにせよ、『植民地政策を推進した日本人』と『現在の日本人』の違いを『理性』で区別してもらえないのは、寂しい話です。対立を深めてみても、どちらも将来的にも有益なことは何もないからです。

| | コメント (0)

2015年8月19日 (水)

ジョン・ハーシー『ヒロシマ』(2)

アメリカ政府は『原爆投下』に関する情報を、当時アメリカ国民に秘匿しようとしました。良心の『後ろめたさ』を感じていたというより、『非道な行為』に対する国民の反感(反政府運動)が高まることを恐れたのでしょう。勿論、国際世論の批判も恐れていたのでしょう。政治は極限に置いて『権謀術数』であり、ひどい話です。

『ジョン・ハーシー』は大衆雑誌『タイム』に所属するジャーナリストでしたが、政府に協力する『タイム』では、ルポルタージュ『ヒロシマ』の発表は無理と判断し、『タイム』のライバル誌『ニューヨーカー』に原稿を持ち込みました。

『ニューヨーカー』の経営者、編集長は、政府からの圧力を覚悟の上で、『ヒロシマ』の公表を決断します。当初4ヶ月の連載を考えましたが、その場合は、途中で発行禁止などの処分を受ける可能性があると判断し、『ヒロシマ』だけの特集で一挙公開に踏み切りました。

『真実の公表』という、ジャーナリストの信念が背景にあるとも言えますが、実態はライバル誌『タイム』の鼻を明かして、発行部数を稼ごうという商業主義の計算も働いていたのでしょう。

『きれいごと』として説明される裏に、政治の『権謀術数』、メディアを含む企業の『商業主義』が隠されていることを見抜けないと、大衆は踊らされることになります。アメリカは特にそれが顕著な国ですが、現代の日本も程度の差はあれ同じです。

結果的に、『ニューヨーカー』の『ヒロシマ』公開は、大反響を呼び、その後単行本になって、世界で300万部売れました。

『アインシュタイン』は、『ヒロシマ』を読んで、『原爆開発を政府へ進言したのは間違いであった』と認め、『ニューヨーカー』誌を1000部自費購入し、知人の科学者たちへ贈ったと言われています。正直な対応とはいえますが、これで、過去が許されることにはなりません。科学による真理追求は制約される必要がありませんが、『摂理』の応用には『倫理』の適用が必要であるということです。この教訓を必要とする事例は、今後増える一方です。『科学』が何をもたらすのかを洞察できないと、人類は滅亡する恐れがあります。

『ヒロシマ』が公表されて、政府批判が強まり、政府は『原爆投下は戦争を終わらせるために必要であった』というキャンペーンを繰り広げます。アメリカ軍が日本上陸作戦を決行すれば、100万人の兵士が死ぬことになった、という過大ながら、確かめようのない予測数字が正当化の根拠でした。確かに米軍は占領した沖縄を拠点にして九州上陸作戦を考えていました。このようなことになれば、日本全土が沖縄と同じことになり、日米共に犠牲者が増えたことは間違いがありません。しかし、原爆投下が、これを抑止したという論理は、推定の話で確認しようがありません。

この結果、アメリカ人の7割以上の人達が、『原爆投下は戦争を終わらせるために必要であった』という主張を受け入れることになりました。因果関係を『理』で判断する行為ですが、梅爺の『情』はこの『理』を受け容れません。現在でも、『原爆投下は必要であった』という主張はアメリカ国民に根強く残っています。その人達が『ヒロシマ』『ナガサキ』を訪れても主張が変わらないのかどうかを是非知りたいものです。

『谷本清牧師』は、全米を講演して回り、『原爆投下という行為だけは、なんとしても赦せない』と語りました。『赦す』ことを重視するキリスト教の聖職者の言葉ですから、重みがあります。善良なキリスト教徒で、良識的なアメリカ人の胸に突き刺さる言葉であったに違いありません。

| | コメント (0)

2015年8月18日 (火)

ジョン・ハーシー『ヒロシマ』(1)

毎年8月の始めになると、『ヒロシマ』『ナガサキ』に関するテレビ番組が放映されます。人類の歴史の中で、『人が行った最も非道な行為』の一つが、原爆投下で、それを正当化しようとするいかなる主張、論理も、梅爺の『情』は受け容れを拒否します。

原爆投下の1年後に、アメリカの『ニューヨーカー誌(雑誌)』に、アメリカのジャーナリスト『ジョン・ハーシー』のルポルタージュ『ヒロシマ』が掲載され、原爆投下についてほとんど何も知らされていなかったアメリカの多くの国民に衝撃を与えました。

『ジョン・ハーシー』は、直接『ヒロシマ』に入り、証言者6人を選び、原爆投下直後の悲惨な状況を聴取した内容をルポルタージュにまとめ、発表しました。証言者に『プロテスタント牧師谷本清』『ドイツ人カトリック神父クラインゾルゲ(後に日本へ帰化した高倉神父)』が含まれていたことも、多くのアメリカ人にとっては衝撃であったのではないせしょうか。

『黄色い野蛮人の国』と思っていた日本に、『クリスチャン』がいて、その『クリスチャン』へ向けて『原爆投下』を行ったということ、つまり、無価値な野蛮人ではなく、自分と同じ『信仰者』を含む『人間』を大量殺戮したという事実を認識したに違いないからです。『ジョン・ハーシー』がどのような思惑で、キリスト教関係者を証言者に選んだのかは想像するしかありませんが、結果的には大きな効果を産んだことになります。

証言者の一人『谷本牧師』は、アメリカのエモリー大学の修士課程を修めた秀才で、英語が堪能であり、英文のメモや手紙をスラスラ書ける方でしたので、『ジョン・ハーシー』にとっては取材し易かったことも背景にあると梅爺は推測しました。『谷本牧師』は、原爆症で一時生死の境をさまよいますが、回復し、アメリカへ渡って全米で講演を行い、有名になります。エモリー大学から『名誉神学博士号』を授与され、その式典にはカーター大統領も列席しています。

GHQは、『原爆』に関する情報を抑制しましたので、当時の日本ではアメリカにおける『谷本牧師』の活動は知られていませんでした。

NHKBS1チャンネルで、『ジョン・ハーシー』の孫の写真アーチスト『キャノン・ハーシー』が、広島を訪ねて、祖父を偲ぶドキュメンタリー番組が、二夜に渡って放映され、梅爺は録画して観ました。

| | コメント (0)

2015年8月17日 (月)

Kindness will creep where it cannot go.

英語の諺『Kindness will creep where it cannot go.』の話です。

直訳すると『親切心は、本来入り込むことができない所へ這ってでも入り込むだろう』ということになり、何を云いたいのかすぐには分かりかねます。

これは、スコットランドの昔からのこと諺であるらしいのですが、『シェークスピア』の戯曲の科白に『Love will creep where it cannot go.』という極めて似た表現があり、どちらが原型なのか、梅爺は分かりません。

『本来愛情の対象とは考えにくいものでも、対象にすることができる』と解釈すれば、『愛は卑小なものではなく、全てに及ぶ』ともとれます。人間は、自分で愛情の対象を限定してしまいがちですが、実は愛情はそのようなものではありませんよという教えなのかもしれません。

『キリスト』の『汝の敵を愛せよ』という教えを想起してしまいます。

従って、『Kindness will creep where it cannot go.』は、意訳すれば『優しさは、それとなく示す方法だってありますよ』ということになり、もっとうがって考えれば『あからさまな優しさより、それとなく示した優しさの方が良い結果をもたらす』というような意味とも受け取れます。

英語圏の人達の、『精神世界』の表現様式は、日本人の梅爺には、まさしく異文化で、理解が難しいことをあらためて痛感します。

梅爺にとっては、『優しさ』は、『人』の行為がもたらすもので、『人』があっての『優しさ』と無意識に考えてしまいから、このように、『優しさ(主語)』が独立した『生き物』のように、どんなところへも入り込んでいく(Creep:自動詞)という表現に、戸惑うことになります。

つまり、『人』とは別の独立したものとして『優しさ』が存在するような表現が、すぐにはピンとこないことになります。

逆に、英語圏の人達には、『惻隠(そくいん)の情』などというニュアンスは、分かり難いのかもしれません。

私たちは、自分が生まれ育った、コミュニティの『考え方』を、『精神世界』の基準として生きているということに他なりません。

『人間みな兄弟』『話せばわかる』などと言われても、即座には同意しがたいと、へそ曲がりな梅爺は考え込んでしまいます。

| | コメント (0)

2015年8月16日 (日)

日本のオーケストラ(6)

日本には、プロの『オーケストラ』の外にも沢山の『オーケストラ』が存在します。高校、大学や職場にも『オーケストラ』が存在します。これ以外にも、プロ、アマの『吹奏楽団(ブラスバンド)』、『合唱団』が数え切れないほどに存在します。

これらの団体が、演奏を披露する場所(ホール)も沢山あり、そこに聴衆が集まることを考えると、『日本』は世界でトップレベルの音楽文化が根付いている国と言えます。『おもてなし』ばかりではなく、音楽を愛する国であることも、もっと世界へ向かって発信すべきではないでしょうか。音楽を愛する国は、平和を愛する国でもあるとも言えるからです。自由が抑圧されている国では、音楽さえも検閲、抑圧の対象になります。

『日本』では、幼いころから、声楽や楽器のレッスンを受ける子供たちが多く、指導体制が整っていて、楽器の入手も比較的容易であることは、国全体が『豊か』であることの間接的な証です。今日食べるものに事欠く環境では、レッスンや楽器の入手などは夢のまた夢であるからです。

指揮者の『佐渡裕』が指導する、『スーパー・キッズ・オーケストラ』は、全国から才能のある小学生、中学生、高校生を選抜した英才『オーケストラ』で、突出したレベルの高さは、内外から認められています。このような『オーケストラ』は世界に類をみません。

幅広いすそ野のを持つピラミッド状の音楽活動体制の頂点に、プロの『オーケストラ』が存在しています。『少年野球』『少年サッカー』の頂点に『プロ・リーグ』があるのと同じです。

音楽の目的は、楽譜に記された記号を、歌声や楽器の音に変換することではありません。勿論、そのような変換が、正しく行われるための基礎技術の習得は、必須であり、つらい練習も求められますが、真の目的は、作曲家が意図した『精神世界』の表現を、演奏者自身が、洞察して、自分の『精神世界』の表現に変えて提示することです。

聴衆は、更に自分の『精神世界』で受け止め、感性が触発されます。つまり、音楽は、『作曲家』『演奏家』『聴衆』の『精神世界』が次々に触発されていくプロセス(絆)が真髄なのです。『絆』を確認して『精神世界』の安堵を得ようとするのは、人間の本性であるからです。触発される感性は、個々に個性的であって少しも構いません。『理性』で、誰もが同じ認識を得るといった『科学』のような世界とは異なります。『理性』で『音楽』を正しく『認識』しようとして、『難しい』などと尻込みする人が多いのは残念なことです。

尻込みする人は、騙されたと思って、一度目を閉じて、静かに、『ショパン』の遺作のピアノ曲『ノクターン(夜想曲)』や、『ベートベン』のヴァイオリン協奏曲の第二楽章、『チャイコフスキー』の交響曲『悲愴』などを聴いてみたらいかがでしょう。心が洗われ、揺さぶられると感じたら、更に『バッハ』『モーツァルト』『ブラーム』にも挑戦してみることをお薦めします。感傷だけではなく、なにか精神性の深さを感じることができたら、あなたはもう『音楽ファン』で、次には好きな『音楽』を自分で探すようになるでしょう。

梅爺は、幸いなことに、人生を『音楽』に支えられて生きてきました。『音楽』なしの人生は考えられません。

| | コメント (0)

2015年8月15日 (土)

日本のオーケストラ(5)

日本のオーケストラの多くは、外国人演奏家メンバーも、オーデションで採用していますが、『NHK交響楽団』は、みたところほとんどが日本人で、『純血主義』を貫いているようにうかがえます。

そのような暗黙のルールがあるのかどうか知りませんが、『NHK交響楽団』は、世界に通用する日本のオーケストラを目指した初期の経緯があり、このような方針が今でも根付いているのかもしれません。またオーディションを受ける日本人演奏家の質が高く、外国人には垣根が高いのかもしれません。

そのかわり、『NHK交響楽団』は、『音楽監督』『専任指揮者』『常任指揮者』『名誉指揮者』として西欧の有名な指揮者を招聘してきました。日本人の指揮者も『正指揮者』と言う呼び名で存在します。『正指揮者』としては過去に『岩城宏之』氏が有名で、現在は『外山雄三』『尾高忠明』の両氏が務めています。2015年の9月からは、『パーヴォ・ヤルヴィ(エストニア出身:世界的に評価が高い指揮者)』氏を『首席指揮者』として迎えることになっています。

これ以外に、定期演奏会には、国内外の有名指揮者が『客演』しますから、言ってみれば、『NHK交響楽団』は、毎回『監督』が変るサッカーチームのようなものです。どのような『指揮者』の方針にも、柔軟に対応するためには、メンバーの高い技術力、音楽理解力が問われることになります。

最近では、指揮者『ロジャー・ノリントン(イギリス)』の、弦楽器が『ビブラート奏法』をもちいない『Pure Tone奏法』にも対応しています。一人くらい、ついいつもの癖で、『ビブラート奏法』をするメンバーがいるのではないかと、梅爺は意地悪に観ましたが、見当たりませんでした。プロは大したものだと改めて感心しました。

『九州交響楽団』の音楽監督・指揮者『小泉和裕』氏、『札幌交響楽団』の首席客演指揮者『ラドミル・エリシュカ(チェコ)』のように、比較的一人の『指揮者』の音楽性を深く追求する場合もあり、『オーケストラ』としてどちらが良いかは、一概に判断できません。

一般的には、『オーケストラ』は、『自分らしさ』をまず作り上げて、その上で『柔軟な対応力』や『見識』を深めるために、外部の『指揮者』を、招聘することになります。

この方針は、日本の『オーケストラ』だけではなく、外国の著名な『オーケストラ』も同じです。『佐渡裕』氏が、『ベルリン・フィルハーモニー』で客演指揮したのもこれにあたります。

| | コメント (0)

2015年8月14日 (金)

日本のオーケストラ(4)

梅爺は、日曜日の夜、地上波NHK教育チャンネルで放映される『クラシック音楽館』という番組と、同じく日曜日の深夜NHKBSプレミアムチャンネルで放映される『プレミアム・シアター』という番組は、欠かさず録画して観て(聴いて)います。

『クラシック音楽館』は、主として『NHK交響楽団』の定期演奏会で、『プレミアム・シアター』は、海外の主要音楽祭や有名演奏会場で演奏された、『オーケストラ演奏』や『オペラ』が放映内容です。

『音楽』は、演奏会場まで足を運んで、生の演奏を聴くのが最上であることは百も承知していますが、文明の利器である、『大画面ハイビジョンテレビ』を我が家で独占し(我が家では、梅爺と梅婆のテレビ視聴録画環境は、完全に分けてある)、高画質、高音質で臨場感あふれる演奏を聴けることに満足しています。我が家が突然『NHKホール』『サントリーホール』『フィルハーモニー(ベルリンフィル専用のコンサートホール:ベルリン)』『スカラ座(ミラノ)』『メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)』に変貌するわけですから、夢のような話で、年金老人に、これ以上の贅沢はありません。

演奏会場で生の演奏を客席から聴くのと異なり、テレビでは、指揮者やソリストやオーケストラ・メンバーの、表情や身のこなしなどを、アップで観ることができる特典もあります。スポーツ中継をテレビで観るのと同じです。

このお陰で、梅爺は、『NHK交響楽団』や海外の主要『オーケストラ』の、メンバーの顔まで観知るようになり、実際には面識のない方々であるにもかかわらず、親近感を覚えるまでになりました。

『NHK交響楽団』は、日本で最初のプロ・オーケストラ(1926年)で初代の指揮者は『近衛秀麿』です。『NHK』というバックボーンがあり、『NHKホール』を利用できるなど、日本のオーケストラの中では、一番財政的にも恵まれているのではないでしょうか。『定期会員』『年間会員』などでチケットを入手する多くの常連の聴衆(N響ファン)にも支えられています。

『NHK交響楽団』メンバーの数も豊富で、マーラーの交響曲のような大編成オーケストラから、モーツァルトの交響曲のような、比較的小ぶりな編成まで、自由に対応することができます。特に主要管楽器は、2チーム編成も可能で、『定期演奏会』ごとにどちらかのチームが担当する様子がうかがえます。云ってみれば『NHK交響楽団』は2チーム保有しているようなもので、コンサート・マスターも二人が交代で務めています。

『オーデション』で採用されたメンバーの力量は、折り紙つきで、海外から客演する著名な指揮者も、一様に『非常にレベルが高いオーケストラ』と賞賛しています。

| | コメント (0)

2015年8月13日 (木)

日本のオーケストラ(3)

『オーケストラ』の資質は、個々のメンバーの『楽器演奏の技術レベル』『音楽への共通理解(認識)』『創作への協調意識』が揃っていて、始めて得られるものです。

『指揮者』の能力は、『音楽への共通理解』『創作への協調意識』へ深く関ります。これは、スポーツの『集団球技』における、『監督』『コーチ』の役割と似ています。もっと敷衍(ふえん)すれば、『会社』の『経営トップ』、『人間社会』の『リーダー』の役割も同じことです。

逆に言えば、『オーケストラ』は、『人間社会』を単純に様式化した形態とみれば分かり易くなります。人間が集団で行動する時に、『リーダー』を必ず必要とする習性に本質的に行きつきます。『個性』を持つメンバーで構成される『集団』を束ねるために『リーダー』を必要とするのは、当然のようにみえますが、実は『異なった個性』を束ねる普遍的な方法は見つかっていません。

人間社会の『悲喜劇』は、この『リーダーの資質』と『集団メンバーの個々の資質』のせめぎ合いの中で生まれます。『リーダー』も個人としての『個性』を保有していますから、話はややこしくなります。

よくみられる『リーダー』のパターンは、『強権的リーダー』で、カリスマ的に振舞い、自分の考え方をメンバーに強いるタイプです。よほどの『名君』でない限り、この様式を維持することは難しく、『独裁政治』『恐怖政治』となって、やがてメンバーの不満が鬱積、爆発することになりかねません。

一方、『メンバーの個々の考え方、感じ方』を尊重しようとすると、一歩間違えば『統率』を欠くことになりかねません。

人類の歴史の中で、『リーダー』は沢山出現しましたが、必ずしも万人が認める『理想のリーダー』が見つからないのは、『個性的なメンバーを束ねる理想の方法論』をみつけることができていないからです。論理的には、『理想の方法論』などは存在しないとみるのが妥当な様な気がします。

現在でも、『独裁者』『カリスマ的権力者』の出現が後を絶たないのは、このためです。

当然のことながら、『オーケストラ』の『指揮者』は、色々なタイプの『リーダー』が存在します。『カラヤン』などは、やや『カリスマ的リーダー』に属します。

『指揮者』は、『頑固』であって『寛容』であり、『冷酷』であって『柔和』であり、『理論的』であって『情緒的』であらねばなりません。つまり人間の持つ『矛盾』をどこでバランスさせるかで、資質が決まります。

『指揮者』の資質を一番うかがい知ることができるのは、『リハーサル(練習)』の時です。演奏会における最終演奏よりも、この『リハーサル』の様子の方が興味深いのですが、残念ながらこれに普段接する機会は、そうはありません。

演奏会の中継番組も有難いのですが、『リハーサル』を中継する番組もあって欲しいと梅爺は願います。しかし、無理な注文かもしれません。

| | コメント (0)

2015年8月12日 (水)

日本のオーケストラ(2)

日本の『オーケストラ』は、『NHK交響楽団』のように、比較的経営上恵まれた環境にあるものを除いては、いずれも、財政的には苦しい経営を強いられているのではないでしょうか。

サッカーのプロチーム運営も、地方都市を拠点としているチームは、厳しいところがありますが、『サポーターの組織化』『ボランティアの支援』『ファンサービスの徹底』などで、乗り越えようと努力しています。試合を観に来てくれる人の数が最終的に決め手となるからです。

地方都市を本拠地とする『オーケストラ』も同じことで、クラシック音楽の愛好家の数を増やし、『おらが町のオーケストラ』として愛される存在になろうと、努力をしているに違いありません。

多くの団員は、『オーケストラ』収入だけでは生活できずに、個人レッスンなどの副業で生計を支えているのではないでしょうか。音楽への情熱がエネルギーなのでしょう。。

人口に占めるクラシック音楽愛好家の数は、日本はまだまだヨーロッパに及ばないことは確かでしょう。既存の愛好家を奪い合うだけではなく、新しい愛好家を増やす努力が何としても求められます。

多くの日本人に共通する偏見は、『クラシック音楽は難しすぎて私には理解できない』というものです。この『理解しなければならないもの』という考え方がある限り、これが邪魔をして、尻込みしたくなるのは当然のことです。『理解する』は『精神世界』の『理』主体の行為です。

しかし、『音楽』に限らず『芸術』は、『理解するもの』ではなく『感じる』ものであると考えを変えれば、呪縛から放たれます。『感じる』は『精神世界』の『情』主体の行為です。

私たちは、深い静かな森の中に身を置いて、木々をそよがす風の音、微かに響く鳥の囀(さえず)りを目を閉じて体験すれば、何かを『感じ』ます。この時何かを『理解』しようなどとは思いません。『音楽』への接し方は、これと同じで良いのです。

自分の『精神世界』を豊かにしてくれる何かを『感じ』ることができれば、それを好きになればよいことだけのです。逆に好きになれないものは、受け容れる必要はありません。他人の批評を参考にしても構いませんが、他人の好みに合わせることもありません。

『バロック音楽』『古典派音楽』『ロマン派音楽』『現代音楽』の区別、『作曲家に関する知識』、『和声』『対位法』などの理論、楽器の特徴、などを知りたければ、後で調べればよいのであって、『感じる』ためには特に知る必要もありません。

クラシック音楽は、確かに西欧が発祥地ですが、人間の『精神世界』を表現する一種の汎用言語のようなものです。白色人種だけの特権言語ではありません。

逆に日本の古典音楽は、日本発祥の『精神世界』表現の汎用言語です。日本人には受け容れ易いものですが、それでも日本人だけの特権言語ではありません。『津軽三味線』や『尺八』の音色に、西欧人が魅了されるのはそのためです。

『精神世界』を表現するのはクラシック音楽だけではありませんが、洗練された様式のために、クラシック音楽が世界中の人に共通の言語になっていると思えば、それでよいのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2015年8月11日 (火)

日本のオーケストラ(1)

国の文化指標の一つとして、特に『音楽』の分野では、『プロのオーケストラの数』が挙げられると思います。先ずは以下の比較表をご覧ください。

日本      39(東京だけで 11)
韓国      11
中国      10
アメリカ    37
ドイツ     38
イギリス    18
フランス    12
イタリア     7
オーストリア  7
ロシア     11

梅爺の少々の数え間違いがあったとしても、『日本』『アメリカ』『ドイツ』が突出した国であることが分かります。

しかもこれらの『オーケストラ』は、西洋音楽を演奏の主対象にしていることを考えると、明治維新で西欧文化に接した『日本』が、約120年で、数の上では世界のトップクラスに君臨するに至ったことは特筆すべきことです。西洋音楽の本拠地であるヨーロッパ諸国に勝っているわけですから。

この結果を観て、ヨーロッパの人たちは『オーケストラは数ではなく、質ですよ』と負け惜しみを言うかもしれません。確かに、『ベルリン・フィル』『ウィーン・フィル』などの伝統的な音色や感性について、梅爺も否定するつもりはありませんが、『そういうあなたは、どれだけ日本のオーケストラの演奏を聴いたことがおありですか』と反論したくなります。

『芸術』の分野で、優劣をつけることは難しいのですが、それでも日本の『オーケストラ』のレベルが低いとはとても思えません。

『世界のオーケストラ・ランキング』というのがあって、上位20位までは、全て欧米の『オーケストラ』で占められています。誰がどのような評価基準で決めているのか梅爺は知りませんが、『知名度』『CDの売上』『収益性』『集客率』などを加えれば、こういうことになるのかもしれません。

あくまでも梅爺の個人的な感覚で申し上げれば、日本の『オーケストラ』の音楽的な質が低いとは思えません。少々うがった見方をすれば『黄色人種に西欧音楽が理解できるはずがない』という白色人種の偏見があるようにも感じます。

数年前に、『NHK交響楽団』が『ザルツブルグ音楽祭』に招待されて、好評を博しましたが、このような機会が増え、ヨーロッパ人の認識が変っていくことを梅爺は期待しています。

梅爺は、『何でもかんでも日本は世界一であるべき』などと主張するつもりはありませんが、日本の『オーケストラ』の実力が正当に評価される日が来ることを願っています。勿論、それに見合う努力も継続されなければなりません。

| | コメント (0)

2015年8月10日 (月)

技術的特異点:Technological Singularity(4)

人類が『物質世界』の『摂理』を、ほぼ『知り尽くして』、『技術的特異点』と呼ばれる域に達するかどうかは別にしても、更に深く知る(発見する)ようになっていくことは間違いないことでしょう。 

獲得した『知識』で、『摂理』を利用し、人工的な事象を『物質世界』で起こすことも更に多くなるでしょう。 

しかし、勘違いしてはいけないことは、人類が『摂理』そのものを変えたり、創造することはできないということです。お釈迦様の掌(摂理)の中で、限定された自由(応用)が可能になっているに過ぎません。 

人類が対応できる人工的事象には、限度があることは、地震や津波の前に、私たちがほとんど無力であることからも明白です。地震や津波が何故起こるかや、鉄以上の重金属元素が、どのような宇宙環境で創りだされるかは、『摂理』に関する知識で『分かって』いますが、知識を応用して地震や津波を止めたり、金銀を自由に創りだしたりすることはできません。 

『人』が人工的な進化で『新しい人』になり、何にでも自由に対応できるようになるというのは、大いなる幻想です。『新しい人』も『摂理』には従うほかなく、新しい難題に直面して、かえって絶滅が早まるかもしれません。 

『人』の肉体や脳を対象とした人工的改造や、生物を対象とした人工改造て、病気を克服したり、食糧不足を解消したりできたとしても、自然界に手を加えることによって生ずる、『人間社会のバランス』や『生態系バランス』の変化の影響も配慮しなければなりません。『正』の効果だけでなく、思いもかけない『負』の効果に悩まされることにもなりかねません。長寿は個人的には幸せなことですが、全員長寿となると、社会のバランスは崩れます。 

『科学』が『摂理』を追求することにを制限する必要はありませんが、獲得した知識を応用することには無制限とはいきません。 

この節度に関する、人類の共通認識が形成できるかどうか、そしてそれを遵守(じゅんしゅ)できるかがカギを握りますが、単純な倫理さえも共通認識を形成できない『イスラム国』のような事例をみていると、難しそうだと分かります。

『摂理』の解明で得た関連技術が画期的であればあるほど、人間社会へのインパクトは大きくなります。『技術的特異点』の到来を案ずる前に、私たちは、新しい科学技術への対応について、『個』や『全体(人間社会、自然界)』に与える、影響やバランスについて洞察しなければなりません。これは科学者だけが考えることではありません。『人』の持てるあらゆる『知恵』を総動員しなければならないからです。

特に、『個性的である』という『人』にとって特徴的な属性を、放棄してまで『新しい人(Superhuman)』になることを選ぶかどうかは慎重であるべきです。

| | コメント (0)

2015年8月 9日 (日)

技術的特異点:Technological Singularity(3)

『What should we be worried about?(我々が懸念すべきことは何か?)』という本の、9番目の論者『Max Tegwark』は、『人』が『人』を人工的に改造することの恐ろしさを多くの人が懸念していないことが、最大の懸念である、と述べています。

『人類は、宇宙船地球号の同乗者である』と言われながら、この宇宙船には『船長』がいないとも嘆いています。『脳』に『人工脳』が組み込まれるなどということは、簡単には実現しないとは述べながら、仮にそのような『新しい人』が出現した時に、それは『私たちの子孫』と呼べるのか、それとも『私たちの征服者』なのかと案じています。

折角ここまで洞察したのであれば、最大の問題は、現状の個性的な『人』が、個性を失った『新しい人』に変わるかもしれないことだと、何故喝破してくれないのかと歯がゆくなります。『科学者』といえども、『人間』への洞察が必要な時代になっています。

一方、10番目の論者『Bruce Sterling』は、『技術的特異点が来る』という予言がなされて10年以上経ったけれど、そのような兆候は何もない、とただ否定しています。たしかに『新しい人』が『人』にとって代わるというようなことは、起きていませんが、遺伝子や細胞を操作して、『人』が『人』を改造する挑戦は始まっていますから、全く懸念がないとは言えません。こちらももっと『人間』への洞察を深めてほしいものだと思いました。ただ『新しい人』に関しては、ビジネス・モデルが考えにくく、既存の企業はその様なものに投資しないと述べていて、いかにもアメリカ人らしい考えとは言え、これはそれなりに面白い視点です。

『人』の肉体や、『精神世界』を創りだす『脳』は、ミクロに観れば、『細胞』の集合活動であることが分かっていて、一つ一つの『細胞』は、『物質世界』の『摂理』にしたがった、物理反応、化学反応を行っていることも分かっています。

正しく機能しなくなった『細胞』を、新しい『細胞』か、『細胞』を代替する人工物で置き換えるという考え方は、論理的には可能ですから、近い将来かどうかは別にしても、人類はその可能性へ挑戦し続けるに違いありません。

眼が見えなかった人が見えるようになり、耳が聴こえなかった人が聴こえるようになり、不治の難病と言われていた病気が、健全な『細胞』を利用して治癒されたり、失われた臓器や肉体の部位を人工物で補完したりというようなことは、実現できれば朗報です。『iPS細胞』の研究に期待が集まるのももっともなことです。

『認知症』などの、『脳』の病気も、委縮した『脳細胞』を再生させることで、健常者に戻ることができれば、これもどれだけ多くの人を救うことになるかはかり知れませんが、『脳』は膨大な数の『脳神経細胞』のネットワークで、全体の機能が実現されていますので、特定の『細胞』を入れ替える、再生させるといった単純な話にはならないことも容易に想像できます。

つまり、『脳』へ人工的な手を加えることは、その『人』の、『理性』『感性』に影響を与える可能性があり、極端にいえば、その人の個性的であった『精神世界』を変えることになるかもしれない問題をはらんでします。

少なくとも、『脳』の全体像はまだ解明されていませんので、この解明が先決です。『脳』と『人工脳』の連携などという話は、いつの日にか実現するようになるにせよ最も慎重であるべき領域です。

ただ、梅爺は、『ダ・ヴィンチ』『モーツァルト』『アインシュタイン』と同等の『脳』が欲しいなどとは願いません。少々頭が悪くとも、自分の『個性』や『能力』を唯一のよりどころとして生きていきたいと願っています。それが梅爺の尊厳であるからです。

| | コメント (0)

2015年8月 8日 (土)

技術的特異点:Technological Singularity(2)

『科学』による『摂理』究明と、そこで得た知識、技術の総合的な応用で、『技術的特異点(Singularity)』へ仮に人類が到達した時、私たちは一体どういう影響を受けるのでしょう。 

論者たちの主張や、『Ray Kurzweil』の著書(ノンフィクション)を読んで、梅爺が集約すると以下のようになります。 

『人』の中に、本来保有していた『生物的能力』に加えて『人工的能力』が埋め込まれ、『人』は『人(human)』とは別物の『新しい人(superhuman)』に変わる。

つまり、従来の自然環境における『進化』に加えて、人工的な『進化』を実現しようという話にみえます。よく言われる『神の領域』への介入ということになります。 

現在私たちは、『人工的能力』を道具として利用するレベルには達しています。『PC』や『Smart Phone』を駆使して、情報検索や交信を行い、車や飛行機で移動し、テレビで仮想体験を享受しています。言い換えると、現時点では、『人』の主体性が維持されていて、厭なら道具を使わないという選択肢が残されています。唯一微妙な問題は、『薬の服用』で、一度薬が体内へ入ると、後は『薬任せ』になってしまい、服用者の望まない副作用が発現したりします。しかし、論理的には『薬を拒否する』という選択肢がまだ『人』に残されています。 

『技術的特異点』の示唆する『恐ろしさ』は、『新しい人』の主体性が、現在私たちが当たり前に確保している主体性と同じであると言う保証がないことです。 

私たちの現在の『精神世界』は、『理性(理)』と『感性(情)』で構成されていて、何よりも重要なことは、各人が個性的な『精神世界』を保有していることにあります。したがって主体性も個性的です。 

『人』は個性的であるという前提で、人類は永い時間をかけ、『文明』や『社会秩序』を構築してきました。 

『生物的能力』と『人工的能力』が、相互補完して今までにない能力を発揮すると言われると、『サイボーグ人間』のような、進化した姿だけを想起しますが、問題はそれほど単純ではありません。

『精神世界』で行われている『認識+判断』の領域まで、『人工的能力』が関与するとなると、考えただけでもおぞましい事態が出現しないとは限りません。つまり、誰もが高い『能力』を獲得したとしても、『考えること』『感じること』までが、同じになってしまう恐れがあるからです。

従来の文明や社会秩序は、無意味なものになり、『人』の歴史は終止符がうたれ、『新しい人』の歴史がそこから始まることを意味しています。

この重大な事態を、だれも詳細に指摘せずに、ただ不安がったり、逆に期待したり、そのようなことは起こらないと理由なしに否定したりする議論になっていることに、梅爺は大いに不満を感じました。

| | コメント (0)

2015年8月 7日 (金)

技術的特異点:Technological Singularity(1)

『what should we be worried about?(我々が懸念すべきことは何か?)』という論文集の9番目と10番目の話題は、『Technological Singularity(技術的特異点)』に関するものです。

9番目の論文は『Will there be Singularity within our life?(私たちは生きている間に特異点を体験するのか?)』で、著者はMITの物理学者『Max Tegmark』です。

10番目の論文は『"Sigularity":There's no there there.(”特異点”:そんなものはどこにも見当たらない』で、著者は未来学者、SF作家、ジャーナリストの『Bluce Sterling』です。

『技術的特異点(Technological Sigularity)』という言葉は、私たちには馴染みが薄いものですが、アメリカの数学家、SF作家の『Verner Vinge(ヴァーナー・ヴィンジ)』が1993年に発表した論文で使った言葉です。

2005年に同じくアメリカの、未来学者の『Ray Kurzweil(レイ・カーズウェイル)』が、『The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology(特異点は間近:人類は生物の限界を超える)』というノン・フィクションを出版し、2007年に梅爺は、この本を読んで、ブログに感想を書いています。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_d9ea.html

いま読み返してみると、この時期は、ブログを丁度書きはじめたばかりの頃で、さも、自信のない様子で、オズオズと感想を述べています。現在の梅爺ならば、もう少しましなコメントができのにと、残念に思いました。観方を変えれば、ブログを書きながら梅爺の判断能力は、変化(進歩?)していることになりますので、ブログの効用は絶大です。

『技術的特異点』を一言で説明するのは易しくないのですが、人類の『科学』による『摂理』追及が、加速度的に進み、その『学際的成果』を応用することで、『人類』は生物の限界を超えた存在になるというような意味になります。

『Ray Kurzweil』は、2045年に、人類はこの『特異点』に到達すると予測しています。

| | コメント (0)

2015年8月 6日 (木)

日本語発声、発音の難しさ(4)

梅爺が所属している男声合唱団『アカデミカ・コール』では、ボイストレーナーをテノール系は『大島博』先生、バリトン、バス系は『成田真』先生にお願いしています。両先生とも、プロのソリストとして活躍しておられる方々ですから、飛びきりの美声の持ち主ですが、『呼吸法』『姿勢』『発声法』など基本を教えてくださいます。

『アカデミカ・コール』の専属指揮者は『三澤洋史』先生で、三澤先生は新国立劇場の専属合唱指揮者でもありますから、普段はプロの合唱団の指導をされておられます。三澤先生ご自身も美声の持ち主ですが、特に『歌詞(日本語、外国語を問わず)』を大切にされ、『フレージング』による表現を私たちに強く求められます。『フレージング』は、個々の音というより、歌詞をセンテンス(文章)としてとらえ、曲想を表現することです。

『からたちの花がさいたよ』という歌を『か・ら・た・ち・の・は・な・が・さ・い・た・よ』と一音づつ均等に歌うのではなく、文章の流れに抑揚をつけて表現することが求められます。楽譜はそのようなニュアンスをすべて記述していませんから、指揮者や演奏家の情感を優先することになります。形式的に音楽をコンピュータで作りだすことは可能ですが、情感のニュアンス、『フレージング』のニュアンスを忠実に再現することは至難の業です。つまり『歌』をロボットに歌わせることは、現時点では不可能に近い難事です。言い換えると『歌』は人間の『精神世界』と直結しているということになります。

日本語を、聴く人に『正しく、美しく』伝える必要があるのは、『歌』ばかりではありません。『演劇』『映画』『テレビドラマ』も同じ課題を抱えているはずです。勿論、放送局のアナウンサーはそれが仕事ですから、基礎訓練を必要とするはずです。

NHKBSプレミアムチャンネルで放映された、劇団四季の『この命誰のもの』というステージ公演を録画して観ていて、登場する役者の『発声法』が統一されていることに気付きました。日常の話し方としては、不自然とも言える話し方なのですが、確かに、何を話しているかは、はっきり伝わってきます。調べてみて、これは劇団代表の『浅利慶太』氏の持論である『発声法、発音法』で統一されていることを知りました。『劇団四季メソッド、美しい日本語の話し方』という本も発刊されているようです。浅利氏は、これを普及させて、日本文化の継承に貢献したいと考えておられます。

梅爺は、男声合唱を続けていて、贅沢なくらい素晴らしい先生方から、指導を受けていますが、教えていただけばいただくほど、日本語の『発声』『発音』はもとより、内容を『正しく、美しく』伝えることの難しさを痛感しています。逆に『美しい日本語』を話す方、歌う方に魅了されます。

| | コメント (0)

2015年8月 5日 (水)

日本語発声、発音の難しさ(3)

西洋音楽の独唱、合唱では、『正しい音程で歌う』ことは、基本的な条件ですが、歌詞を正しく発音すると同時に、その内容にふさわしい『情感』を伝える『声質』で発声しなければなりません。これはプロの声楽家にとっても容易なことではありません。

『宗教曲』と『恋愛曲』では、異なった表現でなければなりません。『荘厳』『清冽』『情熱』『苦悩』などのニュアンスを歌い分けなければならないからです。

荘厳な聖堂で、ステンドグラスから漏れる柔らかで多彩な光の中に、『ウィーン少年合唱団』の歌声が響きわたれば、『天使の歌声』に聴こえ、神の国を体験した気持ちになります。宗教は、実にうまく音楽の情感を、布教の目的に流用してきたことが分かります。これは、キリスト教だけでなく、イスラームの『アザーン』、仏教の『読経』も同じです。

クラシックに限らず、西欧では『歌』は、『成人の男』『成人の女』が、成熟した大人の声質で歌うことが好まれます。『美しい声』とは限らず、『魅力的な声』が好まれることもありますが、基本は『大人の声』と言うことになります。『ルイ・アームストロング』のだみ声も、『大人の声』に属します。

一方、日本の歌謡曲などでは、クラシックの唱法では一般的に『生声』と言われ『品を欠く』と言われる声質が好まれます。男は、『なよなよとした声』や『甲高い声』に『小節(こぶし)』が加わって『五木ひろし』や『氷川きよし』のような歌い方になります。女も『都はるみ』『石川さゆり』のようになります。

一方若者ポップスの世界では、『AKB48』のように、少女の『生声』で歌うことが『カワイイ』としてもてはやされます。

この『西欧』と『日本』の声質に関する好みの文化的な違いが、何に由来するのかは興味深いことですが、梅爺には理由が良く分かりません。多分、民謡や俗曲で受け継がれてきた歌唱法が、日本の風土の背景を表現するのに適しているのでしょう。

しかし、西洋音楽の独唱、合唱を日本で行うには、『五木ひろし』『氷川きよし』『都はるみ』『石川さゆり』『AKB48』では通用しません。特に合唱では『生声』『ビブラート』『小節』は厳禁です。

梅爺は歌謡曲や若者ポップスの、音楽のレベルが低いと言っているわけではありません。ただ、西洋音楽の求める標準と異なっているということを申し上げたいだけです。

これも一種の『異文化』ですから、どちらが優れているかなどという議論はあまり意味が無く、相互の違いを認めることが重要になります。どちらが好きかは、その人の『精神世界』がきめることですから、マチマチであってかまいません。

| | コメント (0)

2015年8月 4日 (火)

日本語発声、発音の難しさ(2)

西洋音楽のクラシック唱法は、マイクなどの人工的な拡声技術がない時代に、肉声で聴衆に歌を届ける必要があったためもあり、『豊かな声量、美しい響き』を両立させる方法が追求されてきました。声は原則的に声帯の振動で生じますが、身体全体を楽器として『共鳴』させる技法が追求されました。豊満な肉体の歌手が多いのは、そのためかもしれません。

日本でも『歌舞伎』などでは、同様のことが求められ、独特の発声法が受け継がれてきているように見えます。7、5調の科白(せりふ)のリズムや、比較的ゆっくり話す話法は、『正しく、美しく言葉を伝える』目的に適っています。

西洋音楽の伝統的な唱法は、日本でも求められますから、日本語で独唱、合唱を行う場合には、『唱法と日本語』を両立させなければなりません。これがなかなか難しいのです。日常の会話の発声と、歌う時の発声とでは対応が異なり、切り替えなければなりません。

最大の難関は、5つの『母音』を、均等な声量になるように制御して歌うことです。『ア』は口を縦に開き、『イ』や『エ』は口を細く横に伸ばし、『ウ』や『オ』は比較的く口をすぼめて発声しますから、口内容積が異なることになり、使われる息の量や声の響きに差異が生じます。分かり易く言ってしまえば、注意を払わないと『ア』の『母音』と関連する音だけが、大きく聴こえてしまうということになります。

『東京景物詩』の第5曲『冬の夜の物語』の出だしは『女はやはらかにうちうなづき』なのですが、これを一つの『フレーズ』としてなめらかに歌うためには、最初の『女は』の『は』は、音量を控えめにする必要があります。無神経に歌うと、せっかくの北原白秋の詩が、『品のない』印象になってしまいます。音楽の感性以前に、日本語の『美』に関する感性を求められるわけですが、大勢の人間が協力して歌う合唱では、同じ感性を共有することが意外に難しく、指揮者から何度も注意を受けることになってしまいます。

歌謡曲などでは、ここまでの繊細な配慮がなされないことが多く、梅爺は『少し品が無い』と感ずることがありますが、『美空ひばり』などは、天性の才能で、自然に調整していますから、情感あふれる自然な日本語として私たちは聴きとることができます。

日本語の『子音』も、問題が無いわけではありません。『F』や『M』は、唇を一度閉じてから発声しますので、よほど意識をして発声しないと、聴いている人にが聴きとれないことになります。

『東京景物詩』の終曲(第6曲)『夜ふる雪』の出だしは『蛇目(じゃのめ)の傘にふる雪は』なのですが、『ふる雪』の最初の『子音F』を強調しないと、『うる雪』に聞こえてしまいます。

『お』と『を』は、文字として読めば区別できますが、歌う時には『を』は『WO』に近く発音する必要があります。特に『外を』というような表現は、『SOTOO』ではなく『SOTOWO』としないと自然に聞こえません。このように、『子音+母音』に『母音だけ』が続き、『母音』が同じ時(上の例では『オ』)に、日本語は聴きとり難くなります。『空はある』では、『そらわーる』になってしまいますから『空は』と『ある』の間に一瞬の静寂をつくり、更に『ある』の『あ』を強く発声する必要があります。

当然日常会話の中でも、この問題は起きます。日本語を話し言葉として『正しく、美しく』発声することが、そう易しくないことが分かります。

| | コメント (0)

2015年8月 3日 (月)

日本語発声、発音の難しさ(1)

梅爺は、2013年の10月に仙台東北大学構内の萩ホール、2014年1月にさいたま芸術劇場音楽ホールで、2回にわたり北原白秋作詞、多田武彦作曲の男声合唱組曲『東京景物詩』を、『アカデミカ・コール(東京大学OB男声合唱団)』の一員として演奏に参加しました。

『東京景物詩』は、1991年に、東京大学音楽部コールアカデミー(男声合唱団)のOB会から作曲家の多田武彦氏への委嘱で完成した作品で、私たちが大切に歌い継いできました。北原白秋の既存の詩から、6つを選び、組曲とした、無伴奏(アカペラ)の男声合唱曲です。

詩人(北原白秋)が、まるで日本語の手品師のように、梅爺では決して思いつかない語彙や、その組み合わせを鮮やかに紡ぎ合わせて表現する『妙』に、感服させられます。北原白秋の『精神世界(脳の中)』を覗いてみたいと思いますが、覗いてみたところで、梅爺のような凡人には何も見つけることができないのでしょう。

日本には伝統的な『和歌』や『俳句』の表現様式がありましたが、日本語で『近代詩』の領域を確立した功績は絶大です。

日本語は、『文字で表現されたものを読む』のと、『音声として表現されたものを耳で聴く』のとでは、大きな違いがあります。じつは『音声として表現されたものを耳で聴く』ことの方が種々の問題を孕(はら)んでいます。それは日本語の構成要素である『単音』が、『母音』『子音+母音』であることに起因しています。

『東京景物詩』だけではなく、日本語の詩を歌にした合唱曲を歌うたびに、梅爺はこの難しさを痛感してきました。歌を聴いて下さる方が、『正しい、美しい日本語』として詩の内容を受け止め、理解して下さるように『歌う』ことは、想像以上に難しいことなのです。

日本語の語彙は、外国語ほどではないにせよ、その語彙そのものの標準的なアクセントがあります。『アメ』はアクセント次第で『雨』にもなり『飴』にもなります。『箸』と『端』、『腿』と『桃』なども同様です。

作曲家が、これらの基本アクセントを意識して作曲してくだされば、問題無く歌で真意が伝わりますが、そうでない場合は一苦労します。『山田耕筰』などの歌曲は、この日本語のアクセントが歌の旋律でチグハグにならないような配慮がなされています。しかし、最近の若者ポップス等では、旋律やリズムに無理やり日本語をあてはめているようなものがありますから、耳で聴いても『何を言っているのかわからない』ものが沢山あります。

外国語の歌を日本語に訳して歌う時にも、この問題に遭遇します。

何を優先するかは、単純な話ではありませんが、原語のアクセントや響き(美的情感)を重視して『美』を創造しようとした作曲家の意図を重視すれば、歌は原語で歌うべきという話になります。オペラなどは、作曲時の原語を重視しますから、作品によって『イタリア語』『ドイツ語』『フランス語』『英語』『ロシア語』で上演されます。世界的なオペラ歌手は、これらを見事に使い分けます。

一方、聴衆に詩の内容を理解してもらうことを重視すれば、日本語訳で歌う方が良いということになります。

『東京景物詩』では、多田武彦氏が、日本語のアクセントを配慮して作曲してくださっていますので、この問題にそれほど多く悩むことはありませんでした。

| | コメント (0)

2015年8月 2日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『WikiLeaks考察』(4)

『秘密』は暴かれないから『秘密』なのであって、暴かれた途端に『秘密』ではなくなります。したがって本当の『秘密』は、いつまでも暴かれませんから、存在しないのに等しいと、『ウンベルト・エーコ』は書いています。

このように『論理』を弄(もてあそ)んで、高度なユーモアとしてしまうのが、西欧の教養人の常で、『理』より『情』を好む日本人が苦手とする所です。

『理』で自分の立場の正当性を主張し合う『ディベート(Debate)』を、日本人が苦手にするのはこのことに起因します。日本人の議論には、『好き、嫌い』『信ずる、信じない』などという『情』に関係する行為の表現が持ち込まれますので、議論は『水掛け論』になりがちです。『ピカソ』の絵を『好きだ』『嫌いだ』と言い合ったり、『神の存在』を『信ずる』『信じない』と言い合っても不毛です。

中国や韓国の『反日政策』も、『日本が嫌いであるから、日本は間違っている』と言っているようなところがあり、『歴史認識』について仮に日本が陳謝しても、今度は『本心から誤っているように見えない』と難癖をつけてくるような気がします。過去の歴史にどう立ち向かうかは、日本人の問題で、『歴史認識』について日本の中でもっと深い議論があってしかるべきという主張には梅爺は賛成です。

『透明な政府』『透明な会社経営』『透明な報道』が好ましいなどという主張は皮相です。現実には、何を公開するか、何を秘匿するかを決めて対応することになりますが、何故秘匿するのかの理由が重要になります。

秘匿の動機が『不純であってはならない』という一般論になりますが、今度は何を『不純』というかが難しい問題になります。

不純な動機で秘匿しようとしたのか、利益をまもる権利として秘匿したのかを判定することは難しいことになりますから、この問題にはスッキリした解決方法がありません。成熟した社会の中で、議論が行われ、その社会の規範として判断基準の合意が得られれば、それが好ましいということになります。

権力者が、秘匿するかどうかを独断で決めるというのが最悪のパターンです。

情報を誰もが取得でき、誰もが発信できる世の中になったからこそ、誰もが情報の扱いに責任があると考える必要があります。人類にとっては、このような体験は今までしたことがありませんから、過去に規範を求めることはできません。

インターネットは、これ以上ない便利な道具である一方、対応を誤ると、社会を毒するものにもなりかねません。どの道具にも、二面性があり、『両刃の剣』がこれを表現しています。

煎じつめると、情報の価値を自ら判断できない人達が多い社会は、成熟度が低いことになります。情報は、鵜呑みにせずに、自分で必ず咀嚼(そしゃく)をする訓練をすることが大切になります。

『知る』ことに止まらず、『知って、自ら考えて、判断する』ことが重要ですが、多くの方が、『知る』ことだけを興味の対象にされているように見受けられるのは残念なことです。『知る』ことは『学ぶ(考える)』ための手段に過ぎません。

| | コメント (0)

2015年8月 1日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『WikiLeaks考察』(3)

『各国の首脳』や『大使』が、こっそり会って内密の相談や交渉ができたのは、『第二次世界大戦』以前のことと、『ウンベルト・エーコ』は書いています。 

それ以降は、重要人物の行動は、常時『メディア』の監視対象になって、実質上『暗躍』『密談』は不可能になり、この役割は『スパイ』が担当することになりました。 

『敵国に関する極秘情報』などと外交上慎重に扱われる情報も、意外なことに、敵国内では庶民の誰もが承知していて、こっそり囁かれている内容に過ぎないことが多いと『ウンベルト・エーコ』は揶揄(やゆ)しています。 

相手国の『秘密』を握り、それを外交上の弱みとしてつけ込むというようなことが日常に行われていますから、これは『情報』を使った『戦争』であり、外交の分野では『戦争』は日常的な行為であるとも言えます。物理的な『殺し合い』だけが『戦争』ではないということに言及する『平和主義者』が少ないのはどういうことなのでしょう。『WikiLeaks』は、『舞台裏では、このような汚い手段や認識が横行しているのですよ』と、暴きだしたわけですから、『ジュリアン・アサンジ』こそが真の『平和主義者』であると言えないことはありません。 

しかし、『個人』や『コミュニティ(国家、会社、宗教団体など)』が、『秘密』『機密』とは無関係に存在できないのは何故かということを考えれば、『秘密』『機密』を暴くことだけが、適切な行為とは言えないという結論もありえますから、この視点で観れば『ジュリアン・アサンジ』は、英雄気取りの鼻持ちならぬ人物ということにもなりかねません。

何故『個人』や『コミュニティ』が、『秘密』『機密』を秘匿しようとするのかは、それが明るみ出て自分の『安泰』が脅かされることを避けようとする本能が働くからであろうと梅爺は推測しています。

何度もブログに書いてきたように、『精神世界』は『安泰を希求する強い本能』に支配されていて、『安泰』を阻害する要因は、なんとしても避けようとします。これは誰もが避けられない習性であるとすれば、『秘密』『機密』を秘匿する権利をある程度認めなければなりません。

しかし、『個人』や『コミュニティ』の秘匿行為が、他人や他のコミュニティの『安泰』を阻害することになると、話がややこしくなります。

これは『個』と『全体』の、優先価値基準が異なるという『矛盾』を意味し、公平に裁く手段を人類は未だ見出していません。唯一『法』『倫理』などの合意条件をつくって適用すると言う便法が用いられます。

『法』『倫理』は、『コミュニティ』の内部ではある程度の規制能力をもちますが、異なった『コミュニティ』には通用しませんから、これに依って生ずる諍(いさか)いは絶えることがありません。

『情報』を隠す権利と、『情報』の公開を迫る権利のどちらも認めるという『矛盾』を私たちは理解して対応するしかありません。

犯人逮捕の時、警察は『あなたには黙秘権がある』と通告しておきながら、尋問では、あの手この手の証拠を提示して『自白』を迫ります。これも『矛盾』の例ですが、犯人にも『良心の呵責』という弱点があり、秘匿しきれなくなる場合があります。すべて『精神世界』という厄介なものが関与します。

梅爺が『精神世界』に興味をいだく理由もここにあります。自分の『精神世界』を客観視するには、勇気と覚悟が必要ですが、これを避けると『人』を理解することは難しくなります。

| | コメント (0)

« 2015年7月 | トップページ | 2015年9月 »