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2015年6月30日 (火)

『ことば』の起源(3)

『ヒト』は『ことば』を、『じわじわと永い時間をかけて獲得した』のか、突然何らかの要因で『一気に獲得した』のかについても、学者は議論しています。梅爺は、なめらかに進化したというより、階段を上るような進化を繰り返したのではないかと推測しますが論証能力がありませんので『仮説』にすぎません。

『生物進化』と、情報の世代伝達で行われる『社会進化』の両方の影響を『ことば』は受けますから、特に後者によって、突然の飛躍が起こると想像しています。

動物の『コミニュケーション』を観察すると、仲間に情報伝達するために、『発声』『ジェスチュア』『化学物質の分泌(蟻など)』様々な手段が採られていることが分かります。『チンパンジー』は、『手のジェスチュア(手話)』を用いることが分かっています。

入力手段と出力手段の組み合わせは、『聴覚(耳)と口(喉)を使った発声』『視覚とジェスチュア』『嗅覚と化学物質の分泌』などがあり、『ヒト』も『コミュニケーション』のためには、この全てを利用していることが分かりますから、生物として進化してきたことが肯けます。

『ヒト』の『ことば』は、これらの中で『聴覚と発声』を特に進化させたものであると言えます。

『コミニュケーション』の原点は、『相手に自分の要求を伝える』『仲間に危険を知らせる』などであると想像できます。勿論『コミニュケーション』は生物の『種の存続』の可能性を高めるために、生物が獲得した手段です。

『相手に自分の要求を伝える』行為の原点は、生殖行為に関る『求愛』ではないかと考えられます。多くの動物では『オス』が『メス』の気をひくための行為が見受けられますが、『オス』『メス』双方が『好み』を対等に表現する動物の場合は、『メス』からの働きかけも観られます。『ヒト』の場合は、この『オス』『メス』双方からの意思表示が重要であったために、それが『ことば』の出現に深く関係していると主張する学者もいます。

『鳥の囀(さえず)り』を『コミニュケーション』手段として研究している学者は、いくつかの発声要素を組み合わせて、『オス』が『メス』に情報を送っていることをつきとめました。このことから類推して、『ヒト』の『ことば』の原点は、『求愛の歌』ではないかと主張しています。

勿論この『歌』は、現在のような洗練されたものではありませんが、『歌』を『自分を他より魅力的にみせる手段として多様な表現を試みた』という説には一理があります。

『男が、女がいるバルコニーへ向かって愛の歌を捧げる』などという光景は、最も典型的な求愛の場面として、今でもドラマで使われます。

『ことば』があって『歌』ができたと、一般には考えられますが、『歌』から『ことば』ができたという説は面白いと感じます。もしそうなら、人類の最も古い芸術表現は『歌』であったということになり、『絵画』と『音楽』のどちらが先かとう論争に終止符がうたれることになります。

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2015年6月29日 (月)

『ことば』の起源(2)

人間が『ことば』を使う能力を獲得してきたプロセスを知るには、幼児が『ことば』をどのように身につけるかを観察すれば良いと思いたくなりますが、必ずしも適切な方法ではないように思います。 

幼児が『ことば』を身につけるプロセスには、既に高いレベルで『ことば』を使いこなしている周囲の大人たちが関与しているからです。

既に『ことば』を保有する社会では、『親(周囲の大人)から子への伝授(教授)』と『子自身の潜在能力による学習』の相乗効果で、子(幼児)は『ことば』を身につけていきます。親(周囲の大人)は、断片的な対応をしているだけであるにもかかわらず、子(幼児)は、『ことば』に込められた論理体系(文法)を理解し、身につけていきます。『赤い』という形容詞の概念を覚えれば、色々な名詞と組み合わせて『赤い花』『赤い洋服』『赤い車』と、自ら多様な表現ができるようになります。親は文法などを意識せずに対応しているにもかかわらず、子は文法の論理構造を自然に身につけていくわけですから、驚きです。人間の脳には、『ことば』を論理構造として把握する潜在能力があると考えるしかありません。

しかし、これらの事象は、『あるレベルまでに脳が進化した人類』の社会で起きていることで、『脳が現在ほどに進化していない人類』の原始社会で、最初にどのように『ことば』が出現したのかを類推するモデルとしては適しません。

『ことば』は『コミニュケーション』の手段で、人間以外の動物も、色々な手段で『コミニュケーション』を行っていますから、これらを観察すれば、人間の『ことば』獲得の謎が解けるのではないかと多くの科学者が挑んでいます。『ヒト』に最も近い霊長類の『チンパンジー』の研究も盛んです。

たしかに『チンパンジー』は、限定された数の抽象概念(単語)を覚えることができますが、それらを組み合わせて『ヒト』のように『過去や未来のことも含め、森羅万象を表現する』ことはできません。『昔は楽しかった』『来年は大変な年になるだろう』などという文脈は理解できません。複雑な単語を発音で区別するための、身体的な機能(頭蓋、喉、舌や口の周りの筋肉)も備わっていません。逆にいえば、『ヒト』は、より効率の良い『ことば』のシステムを身につけるために、身体的な機能やそれを制御する脳も進化させてきたことになります。

『ヒト』の『ことば』の出現と進展は、生物進化だけで説明できるのか、そうではない要因が強いのかについては、学者の間で議論が続いていますが、『ことば』を話すことに関しては、明らかに身体的な構造や機能の進化を必要としますから、進化と無関係とは言えないような気がします

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2015年6月28日 (日)

『ことば』の起源(1)

娘夫婦に産まれた男児の孫が、1歳の誕生日を過ぎた頃から、明らかに声で意思表示をしようとする行為が顕著になってきたのを観て、梅爺はあらためて人間の『ことば』の起源と、それがどのような進化を遂げて今日に至ったのかを知りたくなりました。 

人類が『ことば』を操る能力を獲得、進化させたことが、文明を創り出す土台になったことは反論の余地がありませんが、最初の『ことば』に関する機能がどのように形成されていったのかは、現代科学で十分な検証ができていません。別の云い方をすれば科学的には『仮説』の状態を脱していないことになります。 

私たちは、日常、誰もが洗練された『ことば』を駆使して、『生きている』にもかかわらず、その起源は誰ひとり『分かっていない』という、大変不思議な話です。 

何故このようなことになるのかと言えば、『ことば』は人間の『脳』の機能であり、『脳』そのもののが詳細に解明ができていないことに由来します。140億個と言われる人間の『脳神経細胞』は、『ネットワーク』で機能しており、その『ネットワーク』の『パターン』の詳細には『個人差』があることが分かっていますので、複雑さに加え、『個人差』を加味して『普遍的に論ずる』ことが難しくなります。 

『脳の謎』の解明は『宇宙の謎』の解明より難しいと言われる所以(ゆえん)です。 

『犬がことばを話す』『鳥が歌を歌う』などという表現は、文学的には許されますが、科学的な議論をしようとすれば『ことば』『歌』を定義することから始めなければなりません。 

たとえば『ことば』の定義は、『象徴機能をもつ記号(単語)を、限定された順番(文法)で結合して、森羅万象と対応をつけるシステム』ということになり、『歌』の定義は『ことばを、音の特性であるリズム、メロディを用いて表現するシステム』ということになりますので、科学的な厳密さで云えば『犬がことばを話す』こともl『鳥が歌を歌う』ことも『ありえない』ことになります。上記の定義に該当する『ことば』は人間だけが保有しているように思えるからです。 

犬や鳥は、『コミュニケーション』の手段として『吠えたり』『囀(さえず)ったり』していることになります。『ことば』は『コミニュケーション』の一つの手段ですが、『ことば』と『コミニュケーション』は同義ではありません。『コミニュケーション』を一言で表現する日本語を無理に探せば『相互理解』というようなことになるのでしょうか。

このようなことを書くと、『なんとお前は、夢のない味気ない人間なのだ』と言われそうですが、このブログに関しては『ことば』を『人間だけが保有するシステム』として論じたいと思います。和語の『ことば』に対して漢語の『言語』という表現もありますが、梅爺の好みで『ことば』に徹します。

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2015年6月27日 (土)

キトラ古墳の被葬者は誰か?(4)

『キトラ古墳』の被葬者は、皇族である『高市皇子(たけちのみこ)』ではなく、豪族の『阿倍御主人(あべのみうし)』であると押す人は、『阿倍一族』の他の人の墓の石組と『キトラ古墳』が類似していることなどを挙げています。隙間のない精巧な石組や、表面の研磨秘術は、中国または朝鮮半島から渡来した技術者の手にかかるものか、その技術を継承した技術者によるもので、そのような職人集団を掌握支配していたのは、外国との交流の前面に立っていた豪族であると言う主張です。壁画や天井画も、中国の『先進情報、先進技術』を保有している証拠ということになります。更に『キトラ古墳』が見つかった場所は昔から『阿倍山』と呼ばれていることも、強い証拠として指摘しています。

しかし、『キトラ古墳』も『高松塚古墳』も、現状では被葬者は特定できていません。

『高松塚古墳』は、『四神』の壁画、天井の天体図(星座)などは『キトラ古墳』と類似していますが、古墳の規模と、人物像の壁画もふくめ、描写の精細さ、華麗さで、『キトラ古墳』を凌いでいます。残されていた人骨破片や歯から、『高松塚古墳』の被葬者も、『40歳以上の男性』と推定されています。更に副葬品として、中国の唐で鋳造されたと考えられる『銅鏡』が見つかっていることから、被葬者は、かなりの権力者、実力者であったと思われます。

二つの『古墳』は、極めて形式が類似していることから、被葬者同士も、関連があるにちがいありません。『どちらが先に造られたのか』『何故規模や豪華さに違いがあるのか』も判明すれば、謎が解けるかもしれません。

いずれにしても、両古墳が造られたのは、『白村江の戦い(663年)』で、ヤマト王権国家(倭国:天智天皇)と百済との連合軍が、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した後、『壬申の乱(672年)』で、『大海人皇子(天智天皇の弟で、後の天武天皇)』が『大友皇子(天智天皇の子)』勝利した後のことと考えられますので、被葬者は、『天武天皇』『持統天皇(天武天皇の妻)』につながる勝者側の皇族か、勝利に貢献した豪族であろうと考えられます。

被葬者が仮に『皇族』ではないとすると、当時の豪族の実質的な力は、『天皇』も無視できない規模であったことになり、当時の政治体制に関する私たちの理解も変わってきます。

一般には、『天武天皇』『持統天皇』が、『天皇家』の『実質支配』を日本史上、最初に実現した人物と考えられていますので、そうであれば、両天皇が亡くなった直後にあたる時期に造営された可能性が高い、『高松塚古墳』『キトラ古墳』の被葬者は、天皇に近い『皇族』であろうということになります。

いずれにしても、当時の日本は、『聖徳太子』の時代から約100年が経っていて、私たちが想像する以上に、中国大陸、朝鮮半島との関連が深くなっており、当然中国の新しい政治体制、文化内容を熟知していたことになります。

710年には、『平城京』への遷都が行われ、日本の国家体制は強化されていきます。『キトラ古墳』は、その遷都の直前に造られたものと推定されますから、当時としては高い技術や思想が反映しているのは当然のことです。

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2015年6月26日 (金)

キトラ古墳の被葬者は誰か?(3)

『キトラ』という名称は、場所に関る地名『北浦』が訛ったものという説や、『四神』の『亀』と『虎』を『キトラ』と呼んだという説などがありますが、梅爺にはどうもピンときません。『亀』は音読み、『虎』は訓読みという組み合わせは、造語とはいえ日本語としては不自然です。わざわざ『カタカナ』で表記したことに、何か意味がありそうな気がします。発見時の当事者も未だ残っているのですから、『真相』を知りたいものです。

『キトラ古墳』の石室に、副葬品が残っていれば、被葬者を特定できる可能性が高まりますが、残念なことに、盗掘(鎌倉時代か?)された痕跡があり、副葬品は何もありませんでした。しかし、丹念に床を調査した結果、人骨の一部と、ほぼ完全な数の歯が見つかりました。

この骨の一部と、歯(特に奥歯の摩耗状態から)、被葬者は『40歳から60歳程度の大柄で骨太の男性』と推定されました。科学知識と考古学の結びつきの成果です。

『キトラ古墳』が作られたのは、7世紀の後半から8世紀の始めと推定して、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』などの文献から、被葬者として可能性のある人物を洗い出すと、天皇を含む皇族7名(内2名は女性)、豪族4名、渡来人(百済王)1名の計12名になります。

『キトラ古墳』は大規模古墳ではないことから、646年に発令された『薄葬令(大規模古墳の造営は民への負担が多いとして禁止)』の後であること、『天皇』の古墳形状『八角』とは異なっていること、『持統天皇』の頃から『天皇』は土葬ではなく火葬されるようになっていたこと(この二つのことから被葬者は天皇ではない)、上記の『死亡時40歳から60歳の男性』であることを、全てあてはめて考えると、被葬者候補は、皇族『高市皇子(たけちのみこ)』と、豪族『阿倍御主人(あべのみうし)』の二人に絞られると番組は伝えていました。

『高市皇子(たけちのみこ)』は、『壬申の乱(672年)』で勝利した『大海人皇子(後の天武天皇)』の子で、死亡時期は696年、死亡時年齢は42歳です。一方、『阿倍御主人(あべのみうし)』は、死亡時期は703年、死亡時年齢は68歳です。

『高市皇子(たけちのみこ)』ならば、『天武天皇』『持統天皇(天武天皇の妻)』につながる皇族としてありそうな話で、この説を推す人は、飛鳥宮の南に『キトラ古墳』が位置することや、『天武天皇』『持統天皇』の『稜』との位置関係で、『北斗七星』の形を形成していると、うがった意見を述べています。『キトラ古墳』の天井に描かれた星座の中心は『北斗七星』で、これは『変らぬ天皇支配の象徴』であるという主張です。

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2015年6月25日 (木)

キトラ古墳の被葬者は誰か?(2)

NHKBSプレミアムチャンネルで、『キトラ古墳』の被葬者を推定する番組があり、梅爺は明日香村を訪ねた時のことを思い出しながら興味深く観ました。 

『キトラ古墳』は1983年に、地元の素人歴史愛好家によって発見されました。『高松塚古墳』が発見されたのは1972年ですから、それから約10年後のことです。『高松塚古墳』も『キトラ古墳』も、円墳の中心部に石室を埋めた形式で、両古墳とも、石室内の壁に、『四神』が描かれていたこと、天井に星座の天体図が描かれていたこと共通しています。 

『四神』は、『朱雀(南、夏、赤)』『玄武(北、冬、黒)』『青龍(東、春、緑)』『白虎(西、秋、白)』を指し、これらは中国に古代から伝えられた『神話』の動物で、天文、占星とも関連して重要な意味を持つものです。『玄武』は『亀』です。 

石室の東西南北の壁に『四神』が描かれているのは、『邪気』の侵入を防ぐ『魔除け』の目的と考えられています。『キトラ古墳』の石室内には、守り神として『十二支』を示す人物像も描かれています。 

更に『キトラ古墳』の石室天井には、朱書きの二重丸(内規、外規)の中に、『星座』が描かれていて、太陽(金箔)、月(銀箔)も描かれています。『内規』内の星座は、四季を問わず見ることができるもの、『外規』内の星座は、季節によっては見ることができないものと区別されていますから、『天体観測』による知識であることが分かります。しかし、この天体図は、その星座の配置から飛鳥で観測されたものではなく、もっと緯度の高い場所が観測場所(中国、朝鮮半島?)であろうと指摘されています。中国の知識がそのまま持ち込まれていると考えれば納得できます。 

『四神』『十二支』『星座』は、中国で紀元前5世紀ころには、存在していた『陰陽五行』思想が、7世紀の日本のリーダー達の間では重要な『考え方』として定着していたことを示しています。現代の私たちから観ると、根拠が明白ではない『迷信』のようにも見えますが、当時の日本人には最先端の『学問知識』に相当するものであったに違いありません。何よりも、日本と中国の交流の深さを示しています。 

この中国思想は、『暦』『星座』『方位』『季節』『色』など情報を緻密に組み合わせた体系でできていて、今でも『占い』の基盤として用いられ、信ずる人が多いわけですから、当時の日本人が、『生活習慣』『政治決定』『死後の世界への対応』の規範(指針)として尊重したのは当然のことでしょう。『占い』は、『法』であり、『宗教』であり、『学問』でもあって、これに長じた人物は、社会の重要人物、現在ならば『有識者』であったことになります。 

飛鳥時代の豪族『阿倍氏』が、朝廷の高官であり、中国事情にも精通していて、『最新知識』を握ってたと考えられ、平安時代の著名な『陰陽師:安倍晴明』は、この一族の子孫であると言う説もあります。

最新情報、最新知識を握るものが、どの時代でも実質的な権力や富を手中にしますから、飛鳥時代の日本では、『中国の情報』を握った人物が、権力を有していたという推定がなりたちます。その人物は、『天皇』なのか、その『側近』なのかということになりますが、梅爺は『側近』であるような気がします。情報を武器に暗躍するのは、いつの時代も『黒幕(側近)』であるケースが多いからです。

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2015年6月24日 (水)

キトラ古墳の被葬者は誰か?(1)

2012年の10月に、梅爺夫婦は、当時奈良に住んでおられた友人Nさんご夫婦を訪ね、一緒に、飛鳥(明日香村)、奈良をゆっくり観て廻りました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-edd0.html

日本の古代史が、私たちを惹きつけるのは、未だに多くのことが謎に包まれているからです。飛鳥、奈良時代は、後(8世紀)に編纂された『古事記』『日本書紀』『続日本紀』などで検証可能な史跡の量が、急に増える時代ですが、その分それ以前の『卑弥呼の時代(3世紀)』『古墳時代』『ヤマト王権成立時期(4世紀?)』との関連について、私たちが『知りたいこと(謎)』の数も増える時代でもあります。

勿論、飛鳥、奈良時代は、『日本の歴史の曙の時代』ではありません。『日本人の歴史』を、『ビッグ・ヒストリー』と同じ手法で眺めてみると、以下のようになります。

(1) 『現生人類(ホモ・サピエンス)』が最初に『日本』へ到達した時期(今から2万年位前)
(2) 『縄文時代』(BC50世紀~BC10世紀頃)
(3) 『弥生時代』(BC10世紀~AC2世紀)
(4) 『古墳時代とヤマト王権成立時期』(AC2世紀~AC4世紀)

今回このブログで取り上げようとしている『キトラ古墳』が作られたのは、7世紀の後半と推定できますので、今から1300年程度前の話であり、2万年以上に及ぶ『日本人の歴史』の中では、相対的に『それほど昔の出来事ではない』ことになります。

話が少し逸れてしまっていますが、私たちは『歴史』を考える時には、『全体』を俯瞰して、どの時代を論じているのかを常に意識しておく必要があります。『飛鳥時代』は分からないことが多いので、『遠い遠い昔』のように感じてしまいがちですが、日本の歴史全体のなかでは、『遠い昔』とは言えません。

日本人を読み解く多くの鍵は、『原始人類時代』『縄文時代』『弥生時代』『古墳時代』という1万5千年以上の永い『歴史』の中にあると、梅爺は感じています。この間『日本』は孤立したわけではなく、アジアや朝鮮半島と交流があったことも忘れてはいけません。私たち『日本人』は、アジア各地から渡来した人種の『混血』が繰り返された結果出来上がった人種であり、決して純粋で優れた『ヤマト民族』などではないということを理解する必要もあります。

現在『日本』『中国』『韓国』が対立する要因は、『人種』の違いと言うより、『歴史と、歴史が育んできた文化(価値観)』の違いに起因するものです。『文化』の違いを『人種』の違いと勘違いすると、トンチンカンな誹謗(ひぼう)合戦になりかねません。

2012年に明日香村を訪ねた時に、『高松塚古墳』『キトラ古墳』は見学しませんでした。しかし『キトラ』という言葉は何を意味するのだろうかと、その時から気になっていました。

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2015年6月23日 (火)

パウロ・コエーリョの小説『Aleph』(6)

この小説は、『霊界の存在』と、『霊の生まれ変わり』を作者が体感することが主題になっています。『霊の生まれ変わり』という考え方は、『キリスト教』では重視されません。『キリスト教』は『イスラーム』と同様『ユダヤ教』から派生した宗教ですから、大元の『ユダヤ教』にそのような考え方がないからではないでしょうか。

しかし、世界の多くの土着宗教で、『霊の生まれ変わり』という考え方は継承されています。『ヒンドゥー教』『仏教』では『輪廻転生』は重要な概念です。

生前善い行いをすれば(功徳を積めば)、次も『立派な人間』の霊としてこの世へ再帰還するという教えを信じて、人々はこの世で善行を積もうとします。『お布施』を献じたり、托鉢僧に食べ物を供したりするのは、具体的な『善行』として認められます。

この世で『悪行』を続けると、『不幸な人間』として生まれ変わるどころか、人間以外の生物に生まれ変わると教える宗教もあって、人々は恐れおののきます。

信仰の薄い人間には、死後『地獄へ堕ちる』『不幸な人間や下等な生物に生まれ変わる』という、だれも検証しようのない『虚構』を、宗教は利用しているようにも思えます。それにしても、『恐怖』『不安』を利用した巧妙な考えを編みだしたものだと、梅爺は感心します。

この小説では、『霊』は、何度も何度も生まれ変わるという話になっていて、作者は『Aleph(トランス状態)』で、17世紀のフランスで行われた『魔女異端尋問裁判』の補佐役であった『私』を体感します。8人の娘が『魔女』の嫌疑で捕えられ、全て『魔女』の判決を受けて火あぶりの刑が執行されますが、その中の一人の娘が、尋問中に『私』への愛を告白します。『私』は『魔女』と関って自分も異端とされることを恐れて、この告白を無視しますが、その行為が『罪』の意識となって、現在の『私』にも継承されていることを知ります。そして驚くことに、ロシア横断の旅で偶然出会った不思議な娘は、火あぶりで殺された『魔女』の『生まれ変わり』であることも知ります。

小説は『精神世界』が創り出す奔放な『虚構』ですから、内容について、とやかくいっても始まりませんが、『パウロ・コエーリョ』は『大人のためのお伽噺』を書いたのではなく、『精神世界』の『神秘』を表現したかったのであろうと梅爺は思いました。

『カトリック』が『異端』とした『霊界との関り方(自然との一体感に浸る)』の方が、人間の『精神世界』が本来求めているものではないかという、問いかけがこの小説には込められているのかもしれません。

『音楽』や『絵画』と同じく、『小説』も作者の『精神世界』の奔放な表現(虚構)であると思えば、表現されていることを『実態あるものか』『事実か』などと追及する意味はありません。鑑賞者は、自分の『精神世界』の反応を楽しめば良いだけのことであるからです。

仮に『理性』でこの『小説』の『霊体験』を批判すれば、梅爺でも沢山の矛盾や問題点を挙げることができます。しかし『虚構』と考えれば、一切の批判は必要なくなります。

読者は皆梅爺のようにひねくれていませんから、この小説を読んで、『霊界』や『生まれ変わり』を『信ずる』人が増えるかもしれないとも思いました。

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2015年6月22日 (月)

パウロ・コエーリョの小説『Aleph』(5)

古代の人達が、人間に起きる『トランス状態』を神秘と考え、この時に体感するものが『霊や霊界』であると推論したことは、ある意味でもっともなことです。

『脳』の存在と、その役割について人間が理解するようになったのは、ずっと後世のことで、古代エジプトでは、『心』は『心臓』にあるとも考えられていました。

梅爺は『トランス状態』の存在は勿論認めますが、これは『脳』の『乱調』であり、この時体感するものは実態のない『幻想(虚構)』で、『霊や霊界』とは無縁なものと考えています。睡眠中の『夢』に、亡くなった人が登場することを梅爺も体験しますが、これは梅爺の『脳』にある『記憶』が関与し、不随意に観る『幻想』であって、『霊や霊界』とは無縁なものと考えています。

梅爺がその様に考える背景には、『科学知識』があり、そのように考える方が、論理矛盾が少ないからです。『トランス状態』や『夢』の正体についても、やがて科学は今よりも詳細に解明し、その神秘性は薄らぐようになると思います。

梅爺の『科学知識』と理性で推論する限り、実態があるものの全ては『物質世界』の『摂理』の支配されており例外はありません。『ビッグバン』が創り出した有限の素材で必ず構成され、『摂理(法則)』に従わない活動はできません。人間の身体も、『宇宙』が創り出した元素だけを利用して構成されています。『宇宙』にも、現状で科学が解明できていない『ダークマター』『ダークエネルギー』という目に見えない存在がありますが、これらは『摂理』から論理矛盾なく推量されるもので、『霊や霊界』とは異なります。

『霊や霊界』が、天空のどこかに存在するというのであれば、その素材はなんであり、その活動エネルギーはどのように得ているのかを知りたくなりますが、それに関する説明を聴いたことがありません。『霊』が『千の風になる』という表現はロマンティックですが、論理的な説得にはなりません。

人間の素晴らしいことの一つは、『精神世界』で、『物質世界』の『摂理』に支配されない『虚構』を自由自在に考え出し、仲間で共有できることです。人間にとって何らかの必要があって、そのような『虚構』が生まれますから、無意味とは言い切れませんが、『虚構』はあくまで『虚構』であり、これを『実態』と勘違いしないように注意しなければなりません。『フェニックス』や『ドラゴン』は『実態』としては存在しません。

『霊や霊界』『神仏』『天国、地獄』など、すべて人間の『精神世界』が生み出した『虚構』の概念であると考えると、『摂理』との関連などを問いただす必要がなくなりますから、『そういうことか』と得心がいきます。少なくとも、そう考えて梅爺は納得しました。

『虚構』を『虚構』と認めれば、何故そのような『虚構』を人間は必要としてきたかの方が興味の対象になります。分からないことの因果関係を何としても見出したい、死の恐怖から逃れたい、心の安らぎを得たいというような、人間の『安泰を希求する本能』が背景にあると言うのが梅爺の推測です。

『霊や霊界』の存在を前提とした『パウロ・コエーリョ』の小説『Aleph』を、梅爺は上記のような不届きなことを考えながら読みました。

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2015年6月21日 (日)

パウロ・コエーリョの小説『Aleph』(4)

古代人が、『自分たちの生死に関る不思議な力が自然界にある』『万物には霊があり、この世とは別の霊が住む霊界がある』『人間は死ぬと身体は滅び、霊は霊界へ行く』と考えたのは決して滑稽ではありません。科学知識が少ない時代に、人間の『精神世界』が、感性、想像、推論を駆使して作り上げた、むしろ素晴らしい『仮説』と言うこともできます。同じ状況に梅爺が置かれたら、同じように考え、信じたかもしれません。

これらの『仮説』をベースに『宗教』が出現したのも、肯けます。『釈迦』や『キリスト』の出現で、『宗教』は高度な思想に進化しましたが、『宗教』の原点は、『アミニズム(自然の中の霊を祀る)』『シャーマニズム(霊との交流)』であろうと梅爺は考えています。特に『シャーマン』が霊と交流する手段として『トランス状態』を利用するのは、原始宗教に共通しています。『トランス状態』を誘引する手段として、『音楽(単調なリズムの繰り返し)』『ダンス』『火(灯)』『酒』『麻薬』が用いられるのも共通しています。

現代の宗教でも、これらの手段が有効に使われていて、その名残を観ることができます。蝋燭(ろうそく)の灯やかがり火、木魚の響き、身体を動かしながら歌うゴスペルソング、聖堂に鳴り響くパイプオルガンの音、香のかおり、などは私たちを軽い『トランス状態』へ導き、なんとなく敬虔な気持ちにさせます。声明(しょうみょう)を唱える、讃美歌を歌うなども、仲間や神仏との一体感(絆)をうみだすのに有効な手段です。

『卑弥呼』は『シャーマン』であったというのが日本の歴史の定説ですし、今でも恐山の巫女は、『神がかり(トランス状態)』で、亡くなった人の霊の言葉を代弁したりしますから、『シャーマン』です。

金儲けのために演技で『神がかり』を演ずる怪しげな『シャーマン』もいないとは限りませんが、人間が『トランス状態』になることは『事実』ですから、この正体をどう考えるかで、『宗教』に対する考え方が異なってきます。

『パウロ・コエーリョ』は、『トランス状態』に深遠な意味が込められていると『信じて』いるように見えますが、梅爺は味気なくも、これは『人間の脳におこる症状の一つ』にすぎないと『信じて』います。『コンピュータ』でいえば、プログラムに異常がおきて、暴走するのと同じと考えています。

ただし、梅爺も『自分の生死にかかわる不思議な力が自然界(物質世界)にある』ことは実感し、『信じて』いますし、『感謝』もしています。

この『不思議な力』を、梅爺は物質世界を支配する『摂理』と呼んでいます。この『摂理』を『神』と呼ぶのであれば、梅爺は『神』の存在を信じているともいえます。

ただし、何回もブログに書いてきたように、『摂理』を『神』とした場合は、宗教が説く『神仏』とは似て非なるものになります。『摂理』は冷厳に存在するだけで、『愛』や『慈悲』などとは無縁です。梅爺は天災に巻き込まれれば、一瞬にして命を失うかもしれませんが、天災は冷厳な『摂理』が引き起こす『変容』にしか過ぎませんから、梅爺に天罰をあたえようなどという意図が含まれているわけではありません。いわんや、梅爺が天災に会わないように『神』に願ったり、祈ったりしても叶うはずがありません。『摂理』は、梅爺が一方的に感謝をする対象であって、それ以外のものではありません。

このように冷徹な『摂理』を『神』と呼ぶことは、信仰深い人には耐えられないことかもしれませんから、梅爺は『冷徹な無神論者』とみなされてしまいます。そこまではしかたがないと認めますが、『無神論者』は『情が薄い人間』と論理が飛躍するのには閉口しています。『精神世界』の『情』の発露は、『神』の存在を信ずるかどうかとは関係がありません。

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2015年6月20日 (土)

パウロ・コエーリョの小説『Aleph』(3)

この小説の中で『パウロ・コエーリョ』は『Aleph』を、人類の精神史の中に位置づけて、解説しています。その部分を梅爺の拙い抄訳で、箇条書きにして紹介します。 

(1)原始的な人類社会では、『部族』の中に重要な人物が二人いた。一人は権力闘争を勝ち抜いた『強さ』と『賢さ』を兼ね備えた男性の『リーダー』で、『部族』を危険から守る責任を帯びていた。やがてこの『リーダー』が実質的適任者ではない『世襲』で継承されたりするようになった。『王』『皇帝』『独裁者』はこのようにして誕生した。
(2)『リーダー』と並んで、『部族』で重要なもう一人の人物は『シャーマン』であった。原始人も『生と死に関る偉大で不思議な力が自然界にある』ことを既に感じていて、最初の『シャーマン』は、命を産みだすことができる女性であった。女性は、狩猟などには出かけないこともあり、『不思議な力』との交流に専念した。『シャーマン』は、独り隔離された生活をおくり、多くの場合『処女』が選ばれた。『シャーマン』は、『精神世界』の力と、『物質世界』の力のバランスをはかる役目を果たした。
(3)『シャーマン』が『不思議な力との交流』を実現する様式は、古今東西ほぼ同じである。『音楽(多くはパーカッション)』で『トランス状態』になり、自然界で見つけた特殊な『飲み物』『薬(ポーション)』を摂取して、『万物の霊(全ての動植物、死んだ人、生きている人)が同時に存在する異次元の霊界』へ『シャーマン』の魂だけが移行する。この、『この世』とは別の『異次元の霊界』を『Aleph』『気』と呼ぶ。
(4)『シャーマン』は『異次元の霊界』との交流で、病気を治し、雨を降らせ、平安をもたらし、自然がもたらすシンボルを解読し、『霊界』を汚そうとするものを罰した。原始社会は狩猟中心の遊牧生活であり、特定の場所に神殿は築けなかったために、『シャーマン』の『子宮』は『霊界』の象徴であった。
(5)やがて人類は、農耕生活に移行し、『シャーマン』の様式が形式化し『宗教』が誕生した。
(6)人間社会が高度化し、『文明』が発達すると、男性中心の支配が優勢となり、『宗教』も例外ではなく、女性の『シャーマニズム』は衰退することになった。しかし、男性中心社会は『争い』が絶えず、『調和』や『安らぎ』を求める女性による『シャーマン』信仰復活を求める動きは、絶えることなく今日まで継承されている。

梅爺は、『パウロ・コエーリョ』の人類の歴史に関する上記の認識には、概(おおむ)ね同意できます。しかし同意するということは、この認識が『正しい』と主張することとはちがいます。

昨日も書いたように、梅爺は『異次元の霊界』という考え方は、人間の『精神世界』が考え出した『虚構』であり、実態としては存在しないと推察していますが、『パウロ・コエーリョ』は、『異次元の霊界』は存在すると推察しているところが、決定的に異なります。

『霊界』を信ずる人は、人間が『トランス状態』で体験するものを証拠として挙げますが、梅爺は『トランス状態』は、『脳がある状態になった時に人間に起きる症状(物理・化学現象)』であって、『トランス状態』で体験したこととを、『霊界』と関連付けることには困難であると考えています。

眠っている時に観る『夢』と同様『トランス状態』は、脳のカラクリとしては科学的に解明されておらず、真因は現状『未知』ですが、『幻想』『幻覚』であることには違いがなかろうと推察しています。『麻薬』による『幻覚』は『霊界』とは無関係であるのと同じです。『麻薬』は、例外なく誰にでも似たような症状を引き起こすことがその証左です。

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2015年6月19日 (金)

パウロ・コエーリョの小説『Aleph』(2)

この小説の主人公『私(多分パウロ・コエーリョ自身)』は、『人間を含め万物には霊があり、その霊が存在する異次元の別世界がある』と信じています。『人間の霊』は、死ぬとその異次元の世界へ移行しますが、やがて、肉体をもった別人としてこの世へ現れるという『生まれ変わり(輪廻転生)』の説も信じています。

この論法に従えば、過去に何度も『私』は存在したことになり、将来もまた『私』が出現することになります。屁理屈屋の梅爺は『それなら、最初の霊はどの様に出現したのですか』と問いただしたくなりますが、『パウロ・コエーリョ』はその様なことに悩んだりはしていないようにみえます。

『パウロ・コエーリョ』が信じている『万物の霊が存在する異次元の世界(あの世、冥界など)』や『霊による生まれ変わり(輪廻転生)』は、人類の『宗教』の原点のようなもので、多くの民族が、このような考え方を継承してきています。特に『輪廻転生』は、『ヒンドゥー教』の基本的な考え方で、『仏教』にも影響を与えています。

この小説のタイトル『Aleph』は、生きている人間が『異次元の霊界』との交流を体験できる『状態』のことを指します。日本でも、インド、中国から伝わった『気』という表現があり、『Aleph』と似ています。『殺気、霊気を感じる』などと私たちはこれを日常の言葉として使っています。『ヨガ』『合気道』なども『気』と関連を持つ修行法です。

人間が『トランス状態(恍惚状態)』になると、『魂が肉体を離れ、別世界を垣間見たように感ずる』のは、誰もが少なからず体験できることです。『酒に酔う』『性のオーガズムを体験する』などの状態は浅い『トランス状態』で、『麻薬の摂取』や『宗教的儀式』を介して特殊な人達が到達するのは深い『トランス状態』といえるものかもしれません。

『トランス状態』を、単に『ある条件で脳に起こる事象(あくまでも、脳内に限定される事象))』とみるか、『異次元の世界が本当に存在し、人間にはそれを感じ取る能力があるからこそ起こる状態』とみるか、で認識が大きく異なります。

梅爺は前者、『パウロ・コエーリョ』は後者を信じていることになります。『トランス状態』で体験した内容が、あまりに神秘的であったために、昔の人は『神秘的な別世界』が存在すると確信し、その考えが継承されてきたものと梅爺は考えています。

梅爺は『トランス状態』やそこで体験する『幻覚』『幻聴』『幻想』の関係は、やがて『脳神経科学』が、『物質世界』の『摂理』に基づいて解明することになるであろうと『信じて』います。科学知識を獲得した現代人は、『太陽』を古代人のように神秘的なもの(神)と考えなくなったように、『脳』に関する科学知識が増えれば、多くの『神秘』は、『神秘』でなく無くなるであろうという推測です。

梅爺も『パウロ・コエーリョ』も、別の考え方ながら、現状では『信じて』いるというレベルではおなじですから、これ以上の議論は無益です。『信ずる』は、『精神世界』が必要とする行為ですが、『物質世界』の『摂理』を探求する『科学』の議論には利用できません。

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2015年6月18日 (木)

パウロ・コエーリョの小説『Aleph』(1)

梅爺が好きな『パウロ・コエーリョ(ブラジル人作家)』の小説『Aleph(アレフ)』を、ペーパーバック英語翻訳版で読みました。

主人公『私(パウロ・コエーリョ)』が、モスクワからウラジオストックまで、ロシアをシベリア鉄道で旅をし、行く先々で、彼の作品の愛読者と交流する体験を背景に、偶然出会った『ヒラル』という、トルコ生まれの若い娘(21歳、バイオリニスト)と、不思議な霊体験をする話です。

『パウロ・コエーリョ』は、『霊の力』に興味をもち、過去にスペインの巡礼の道を歩いたりしていますが、日常生活に流されがちの自分を再度見直す機会として、ロシア横断の列車旅行を利用しようとします。見知らぬ土地へ出かける旅では、思わぬ体験があり、マンネリ化した日常がリフレッシュされるという体験は、誰もが経験するものです。勿論、出版社やエージェントが、彼の本を拡販するために、愛読者との交流を利用しようとする企画が背景にあります。

『パウロ・コエーリョ』は、全世界に愛読者を持つ、売れっ子作家で、ロシアでも、行く先々で多くのファンが待ち受けています。

『パウロ・コエーリョ』の小説をいくつか読んでみて、『パウロ・コエーリョ』が求めている霊的世界は、人類の宗教の原点とも言える『自然に対する畏怖』『自然との一体感で得られる心の安らぎ』ではないかと梅爺は推測しています。

勿論生まれ育ったブラジルの『カトリック』の影響もあり、聖書を引用するなど、これを否定したりはしていませんが、むしろ『究極の自然との一体感』を得るための、修行や修行の手法に強い興味を示します。『カトリック』の教義や修道僧の修行とは、微妙に異なりますから、中世ならば『異端』と糾弾されたかもしれません。その体験の根底に、彼の『善意』や『愛』が示されますので、世界中の読者は、それに魅了されるのでしょう。

梅爺夫婦は、2006年の年末に、当時息子一家が住んでいた、アメリカの『アトランタ(ジョージア州)』を訪問し、ショッピング・モールの書店で偶然『パウロ・コエーリョ』の代表作『アルケミスト(錬金術師)』をみつけ、読んで以来、梅爺は『パウロ・コエーリョ』の小説にはまっています。それまで梅爺は『パウロ・コエーリョ』の存在も作品も知りませんでした。

ただし、『パウロ・コエーリョ』と梅爺では、『神』『霊』などの関する認識は、水と油ほど異なっています。『パウロ・コエーリョ』は基本的に、『神』『霊』の存在を『信じて』いるのに対し、梅爺は『疑って』います。

梅爺は、自分と異なった『精神世界』を持つ『パウロ・コエーリョ』が、何をどのように考え、受け止めようとしているのかに興味があります。自分と違うからこそ、興味がわきます。

『精神世界』は個性的なものであり、どれが『正しい』、どれが『間違い』などと『科学』のように割りきれませんから、『私はそうは思いませんが、あなたはそう考えるのですね』と、相手を全否定しないことが重要なのではないでしょうか。

『パウロ・コエーリョ』が梅爺の『考え方』を知ったとしても、多分同じことをいうのではないかと思います。

自分と同じように考えたり、感じたりしない他人を、『怪しからん』と忌避すると、人間関係はこじれますし、自分も孤立していきます。違いを許容するには、『寛容』と『忍耐』が必要になりますが、これを支えるのが『理性』です。

『理性』は、『学ぶ』ことと『自分で考える』努力で得られます。何よりも、人間が『精神世界』で考え出した『抽象概念』のほとんどが『真偽』『善悪』の判定基準をもたないものであると知れば、『なーんだ、そういうことか』と、受け容れ易くなります。

日本人は、自分を主張することは『仲間はずれ』になると恐れて、抑制することを美徳と考える傾向があります。これは、日本人の長所であり、同時に短所でもあります。『野球』や『サッカー』にもこの影響が現れます。『自分を主張する』ことと『相手も認める』ことの両方に意を払える日本人が増えて欲しいと梅爺は願っています。

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2015年6月17日 (水)

Liberty is not licence.

英語の諺『Liberty is not licence.』の話です。 

『自由は認可された権利ではない』ということで、『果報は寝て待て』と受け身で待っていても、『自由』は手に入りませんよということらしいことが分かります。 

『Li』で始まる単語を選んで、韻を踏んでいるところが洒落ています。 

『Liberty(自由)』にしても『Licence(認可)』にしても、人間社会だけで意味を持つ『抽象概念』で、『摂理』によって絶え間なく『変容』している『物質世界(自然界)』には通用しない言葉です。 

『抽象概念』は、なんとなくわかった気になるところが曲者で、『自由』にしても『認可』にしても、『ちゃんと定義をしてごらんなさい』と言われると、困ります。『広辞林』を引いて、そこに書かれていることを暗記しても、理解したとは言えません。理性を駆使して、本質を推量し、自分なりに得心することが『理解』といえる行為です。 

『自由』は、『愛』『正義』『平和』『幸福』などと同じく、『抽象概念』のなかでも厄介な言葉です。

『何かに拘束されることなしに、行為が可能となる状態』と仮に定義してみると、『物質世界』ならば、物体が障害物に阻まれることなしに、移動可能な状態を『自由』の典型例として思いつきますが、『物質世界』のいかなる『変容』も、実は複数の要因が相互に影響し合って新しい平衡状態へと移行するプロセスですので、『物質世界』には、『自由』は実質的に存在しないことになります。

しかし、『言論(表現)の自由』『信教の自由』『恋愛の自由』などという表現になってくると、『人』の『精神世界』の行為にかかわる少々ややこしい話になり、更に『自由を、さもなくば死を』などという主張に接すると、『自由』は『人』にとって、かけがえのないものらしいと分かります。

『精神世界』は、本能的に『規制されること』を嫌うが故に、結果的に『自由』を求めるのであろうと推察できます。つまり、本質は、何故『精神世界』は『規制』を嫌うのか、という問いに行き着きます。

この問いに対する梅爺の答(仮説)は簡単で、『精神世界は基本的に安泰を希求する本能に支配されているからである』ということになります。生物にとっては、生き残りのために都合がよいことを最優先する習性こそが、進化のために重要であり、『ヒト』もその習性を遺伝子情報として受け継いでいるという想定です。

肉体的にも、精神的にも『人』は規制されることは『苦痛』であり、ストレスになって、脳内にある種のホルモンが危険信号として分泌されます。『人』は安泰に生きるためには『自由』が必要であるということになります。

ここまでは、分かりやすい話ですが、厄介なことは、『ヒト』は『群』をなして生きる動物であるということで発生します。個人が、全て『自由』を主張すると『群』は統制できない混乱状態になります。

従って『群』の秩序を保つためには、個人の『自由』は制約しなければならないという矛盾に遭遇します。

私たちは、軽々しく『自由』を口にしますが、『個人』と『群』の間で、『自由』と『規制』は、どのようなバランスであるべきかという問題の抜本的な解決策を人類は見出していません。日常的にこのことが原因で、悲喜劇が起きています。

『Liberty is not licennce.』は、『自由』のある側面を説明していますが、どうすればよいかの解決策は提示していません。解決策はないのですから、しかたがありません。

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2015年6月16日 (火)

脳神経科学はどこまで究明できるのか(4)

番組で紹介されたのは『幻覚』の症状の一種でした。患者は、盲目(生まれつきの盲目ではない)の90歳の女性で、『東洋の衣装を着た人達が階段を上り下りしている』『三角形や四角形の図形が見える』と訴え、まるで無声映画をみているようであるとコメントしています。患者は、自分がおかしくなってしまったのではないかと不安を感じますが、『オリバー・サックス』は、『幻覚』以外は極めて正常であることから、この『幻覚』を『シャルボネ症候群』と診断します。

18世紀のフランスの精神科医『シャルボネ』が、盲目の祖父が体験した『幻覚』について報告していることから、この病名がついています。

この『シャルボネ症候群』の『幻覚』は、その人の『思考能力』『感覚能力』『行動能力』とは無関係で、『脳』が引き起こす異常現象ではありますが、総合的にその患者が『異常』ではないという事例に相当します。

『幻覚』は、『視覚』でとらえた外部情報ではなく、『脳』が自ら創り出すイマジネーションで、視覚障害を持つ人の10%が、『幻覚』を観、聴覚障害を持つ人の10%が『幻聴』を聴くのだそうです。

原因は、本来視覚器官、聴覚器官が送り込む外部情報を処理していた『脳』の部分が、情報が途絶えてしまうと、自分でその不足を補おうとして『仮想情報』を創りだすのではないかと推測されています。人間は、自分の身体や脳に異常を感知すると、それを正常へ戻そうとする能力があり、これが『幻覚』『幻聴』を引き起こすという説明ですから、むしろ人間の素晴らしい能力が、裏目に出た事例とも言えます。外からバイ菌が入れば、免疫力がこれを撃退し、怪我をしても自分で治癒し、不安のストレスも、時間をかけて減らすように私たちの身体や脳はできています。これらは『生物』としての、『安泰優先』の本能が背景にあって、意志とは無関係に(無意識に)作用する能力です。

『シャルボネ症候群』の『幻覚』に、何故過去の実体験とは関係のない『東洋人』や、『図形』が出現するのかは、本当の理由が分かっていません。ただ『幻覚』が起きている人の脳を『MR(磁気共鳴医学装置)』でリアルタイムで観測はできますから、脳のどの部分が働いているかは分かります。

『幻覚』には、『シャルボネ症候群』以外のものもありますから、全てにこの番組の解説が当てはまるわけではありません。眠っている時に観る『夢』も、全く違う事象です。

『オリバー・サックス』は、近い将来、『脳神経科学』は、多くのことを明らかにするだろうと楽観的に語っていました。

『宗教』では、聖人や特定の人に、『神』『マリヤ』『天使』が現れて、『お告げ』があったり、呪術師が、トランス状態で、亡くなった人の霊と交流するなどということが、重要な意味を持つとされますが、これも単に脳がある状態で引き起こす『幻覚』『幻聴』であることが判明する時が来るかもしれません。

人間の『精神世界』には、『神秘』『摩訶不思議』『奇跡』は存在しても、『物質世界』には『未知な事象』はあっても、『神秘』『摩訶不思議』『奇跡』は存在しないと言うのが、梅爺の推測です。何とも味気ない、夢もロマンもない爺さんであると、敬遠されますが、『夢』も『ロマン』も、『精神世界』だけの概念であると、更に頑固に言い張りますから、まったく手に負えません。

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2015年6月15日 (月)

脳神経科学はどこまで究明できるのか(3)

『脳』は、生物として『生きる』ための制御機能や、『情』に関する機能が集中している『脳幹』の部分と、『情報処理』や主として『理』に関する機能を担当する『大脳皮質』の部分に大きく区分できます。前者は、生物として初期段階から存在し、進化してきた『脳』としては古い『層』で、比較的内部にあり、後者は『ヒト』の知的機能が発達する段階で進化、獲得してきたものですから、『脳』としては新しい『層』で、表面近くにあります。『脳』は進化の過程で増築されてきた家屋のようなものであることが分かります。  

しかし、両者は、相互に独立した機能ではなく、密接に関連していることが、『脳』全貌の解明を難しくしています。基本的な『生命維持活動』と『情報処理』、『情』と『理』は複雑に絡み合いながら機能しています。 

特に『大脳皮質』の『膨大な数の脳神経細胞で形成されたネットワーク』の『パターン』は、一人一人異なっていて、しかも厄介なことに刻々と変わっていますから、『回路パターン』が、常時一律のコンピュータのように、問題を同じ手法で特定できません。 

つまり、『脳』には『個性』があるということになりますから、何を『標準』として『正常』『異常』を判定するかをが、極めて難しいことが分かります。『イスラム原理主義』を信奉する『テロリスト』は厄介な人達ですが、『正常』に属する『脳』の持ち主でも、『偏った考えに取りつかれることがある』という一つの例ならば、誰にでも起きそうな話で、他人事(ひとごと)ではなくなります。『狂信する』『強迫観念に駆られて行動する』ことは、誰にでも起こりうる事態です。 

死んだ人の『脳』を解剖、観察することは無益ではありませんが、分かることは限られます。生きている人の『脳』をリアルタイムで観察することは難しいことですが、それでも昨今は、最新技術を駆使して、色々なことが観察できるようになりました。人間が、どのような状態にある時に、『脳』のどの部位が主に活動しているかを観察できるようになってきたという話です。勿論、『脳』の活動部位や活動量に個人差があることも分かるようになりました。 

この番組で脳神経科医の『オリバー・サックス』は、『幻覚』についての考察を語りました。『幻覚』は『脳』が引き起こす事象の一つですから、この考察は『脳』のごく一部を垣間見たに過ぎず、これで『脳』の全貌が解明できるわけではありません。 

このように科学者は、『群盲象をなでる』ような手法で、色々な『脳』の側面を明らかにしつつありますが、全貌が見えてきたと言うにはまだまだ程遠い段階です。 

私たちは誰もが自分の『脳』を保有していて、それを活用して『生きている』にもかかわらず、誰ひとり『脳』の全貌は分かっていないという実に奇妙な話です。『命』『脳』という未知なる自分と一緒に『生きている』ことを容認すれば、人間は少し謙虚になれるのではないでしょうか。

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2015年6月14日 (日)

脳神経科学はどこまで究明できるのか(2)

地上波NHK教育チャンネルで、放映されている『スーパー・プレゼンテーション』と言う番組で、米国の脳神経科医の『オリバー・サックス』が、『幻覚が明かす人間の精神世界(What hallucination reveals about our minds)』というタイトルの『プレゼンテーション』が放映され、梅爺は録画して興味深く観ました。 

1990年のアメリカ映画『レナードの朝(Awakenings:目覚め)』は、この『オリバー・サックス』の執筆したノンフィクション(実話)をベースにしたものです。 

梅爺は、テレビで放映された『レナードの朝』を前に観て、医師役の『ロビン・ウィリアムズ』と患者役の『ロバート・デ・ニーロ』という二人の名優の演技に魅せられましたが、なによりもその驚くべき内容に、『こんなことが、本当に起こるのだろうか、きっと映画用に誇張された話だろう』と少し疑ったりしました。しかし、実話らしいのです。 

『レナードの朝』では、『嗜眠性(しみんせい)脳炎』という、肉体的には目覚めていても、脳が周囲の刺激に反応しない容態が何十年も続いている難病の患者に、『パーキンソン病』に効果がある薬を、多量に投与すると、突如永い眠りから覚めたかのように、健常者へ戻り、病気になる前の自分の記憶も取り戻すという驚くべき内容が紹介されます。しかし、この状態は長続きせず、やがて薬を投与しても効かなくなり、元の病状へ戻ってしまうところで映画は終わります。最初、車いすに座ったまま、目も虚(うつ)ろで話しかけても全く反応しない患者が、どういうわけか、眼の前を落下する小さな物体には即座に反応し、それを手で受け止めることを、脳神経科の担当医が発見します。担当医は、『脳の機能が全て失われているわけではないを』と希望を抱き、患者の家族の了解をとって、上記のように『パーキンソン病』に有効とされる薬を、実験的に投与してみるという筋書きになっています。

映画では、同じ病院に入院していた『嗜眠性脳炎』の複数の患者が、同様の投薬で一時的に健常者に戻ります。原作の『オリバー・サックス』のノンフィクションでは、20名の患者で同じことが起きたと報告されているようです。

『嗜眠性脳炎』は、第一次世界大戦のころ流行った『脳炎』で、ウィルスによる感染と考えられていますが、どういうわけか、最近では、世界中でほとんど発症例が報告されない病気のようです。 

従って、『嗜眠性脳炎』については、発病の真因、メカニズムが解明されておらず、当然何故『パーキンソン病』の薬が、一時回復には役立つものの、継続的には効かない理由もわかっていないことになります。

ただ現象的に、一時的にせよ患者が、ほぼ回復したような状態になったのは確かな事実ですから、今後全てが明らかになる日が来るかもしれないという期待は残ります。

『スーパー・プレゼンテーション』では、上記の『嗜眠性脳炎』の話ではなく、一部の『幻覚』症状は、『思考』『感覚』『行動判断』が正常な人にも起こりうるものであるという内容の話でした。

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2015年6月13日 (土)

脳神経科学はどこまで究明できるのか(1)

人類が『科学』で究明対象としているものは沢山ありますが、『宇宙』『生命』『人間の脳』は、横綱格です。 

これらに共通して言えることは、『多くのことが分かってきたが、全体は未だ掌握できていない』ということです。一つの謎が解けると、それに関連した多くの謎が浮上しますので、『ほぼ掌握できた』と感ずる時が来るのかどうかさえ、不明です。 

しかし、『宇宙』『生命』『人間の脳』に関して、梅爺が高校や大学で学んでいた頃の科学知識は、今やほとんど役に立たず、現代の科学知識は、量、質ともに大幅に更新されています。 

この間梅爺は、まともな勉強を怠っていたわけですから、本来『宇宙』『生命』『人間の脳』に関しては、全くの門外漢に近く、口出しできる能力を持ちませんが、生来の野次馬根性から、断片的に得た乏しい知識で、勝手な推測をブログに沢山書いてきました。勿論梅爺にできることは、知識をつなぎ合わせて『マクロな洞察』をすることに限られています。 

専門家が観れば、笑止千万のことばかりとは思いますが、千に一つ、万に一つくらいは、意外に的を射た洞察をしているのかもしれないと、ほのかな期待をしているだけです。梅爺の元々の目的は、『自分を得心させる』ことですから、人類に貢献できる新説を発表しようなどという大それたことは考えていません。 

『究明を続けても、なかなか本質が見えてこない』という状況を、『宗教』は『神秘』という言葉で表現し、『人間が分からないのは当然。それは神が統(す)べている領域であるからだ』と主張します。一方科学者は、『未知』は認めますが『神秘』として追求を放棄したりはしません。 

『神秘』とすると、その『神秘』に関する自由奔放な『虚構』を人間の『精神世界』は思いつきます。この『虚構』は、『物質世界』を支配している『摂理(科学法則など)』に縛られることがありません。『霊が存在する別次元の世界が存在する』などという発想はそれにあたります。『虚構』ですから、『竜宮城』や『鬼が島』と同じく、誰もそのような『別次元の世界』の存在を証明できません。人間の『精神世界』のややこしいところは、『虚構』を『信じて』、『虚構ではない』と主張する場合があることです。『霊が存在する別次元の世界(あの世など)』を存在を『信じている』現代人は沢山います。 

一方『未知』とすると、『理』で因果関係が説明できる『科学的論理(法則)』を見出そうとすることになります。梅爺の学生時代より、現代の『科学知識』が増えているということは、『当時は説明できなかった(未知であった)ことの多くが、科学的な論理で説明できるようになった』ことを意味しています。

『人間』は、最新の科学知識を理解しなくても『生きて』いけます。従って『科学知識』は自分に『関係ない』と軽視しがちですが、自分が今まで『信じて』いたことの土台が知らないうちに崩れ去っているかもしれないわけですから、『関係ない』どころの話ではありません。

『ビッグバン』『遺伝子科学』『脳神経科学』の知識が無かった頃の梅爺と、現在の梅爺では、別人のように、周囲を観る目と、認識する能力が違っています。

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2015年6月12日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『諺重視の生活』(4)

『人』が『脳』の進化の過程で、『高度な言語表現能力』を獲得したことが、『人』を特筆すべき生物へ変えました。

『言語』は『コミュニケーション』の手段ですが、『コミュニケーション』の手段と言う意味では、『人』だけが保有しているわけではありません。一般に他の動物の『コミュニケーション』手段は、顔の表情、しぐさなど『視覚』を利用するもの、鳴き声など『聴覚』を利用するもの、化学物質を分泌して『嗅覚』を利用するものなど多様を極めます。

他の生物の『コミュニケーション』が、『今を生きる』ために必要な情報を交換しているのに対し、『人』は、過去や未来までも対象として情報交換を行います。

『時制』を含めた複雑な論理構造を言語で表現できることに加え、『抽象概念』も共有できることが、『人』を特別な存在にしています。『情』を表現するには『抽象概念』は欠かせません。『論理表現』と『抽象概念』を組み合わせて、『精神世界』では、自由自在に『仮想世界』を創りだすことができるようになりました。しかし、一方このことが『仮想世界』と『現実世界』とを取り違えるという混乱をもたらしました。『自分が信ずる神のために異教徒を抹殺する』などという行為(狂信)がその最たるものです。

『人』は、自分の『精神世界』を何としても表現したいという本能ともいえる欲求を保有しています。『言語』は代表的な表現手段ですが、『音楽』『絵画、彫刻』なども有力な手段であり、それが『芸術』を産みだしました。

『精神世界』を表現したいという欲求は、『自分の存在を他人に認めてもらって安堵したい』という本能に根ざすものと梅爺は推測しています。

『人』は、他人は必ずしも自分と同じように考えていない、感じていないらしいというと本能的に察知し、何としても『自分を分かっもらう』ことが重要になり、『言語』をはじめとする『コミュニケーション』手段を高度なものへと進化させたのではないでしょうか。

『諺』は、『人』が色々な事象に対応するための『知恵』として言語で表現し、代々『コミュニティ』の中で共有してきたもので、『コミュニティ』の重要な財産であると言えます。

しかし、『諺』を論理検証の『命題』としてみると、大半は『真』とは言えないことが分かります。『花より団子』『論より証拠』は、『団子より花』『証拠より論』と逆の『命題』に置き換えることができ、どちらが『正しい』とは言えません。

その人が置かれている立場、状況で『花より団子』を採用した方が、自分の言動を弁明できると判断した時に、私たちは『花より団子』を後生大事に持ち出します。

『諺』を介して、私たちは『人』の『精神世界』の価値観の多様性を垣間見ることができますが、『諺』を、『科学』の『摂理』と同等に扱い、『真(正しい)』であることを表現しようとして利用することには慎重であるべきです。

『諺』を用いて、したり顔に『正しい』と主張する人を、梅爺は警戒することにしています。しかし、自分の言動の滑稽さを『諺』で笑い飛ばす人には好感を抱きます。

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2015年6月11日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『諺重視の生活』(3)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイの中で紹介されている『幸福共和国』は、『諺』を法律のように信奉するコミュニティです。建国者が描いた理想とは裏腹に、このコミュニティは数年で社会秩序が維持できなくなり、崩壊します。

頑(かたく)なに『諺』に頼るあまり、社会が崩壊していく様を、『ウンベルト・エーコ』は、微に入り細に入り紹介しています。とても全てはここでは紹介できませんので、一部を紹介するにとどめます。

『猟犬が見つからなければ、猫を代わりにするしかない』を信じた猟師が、猫を連れて狩りに行きますが、獲物は得られません。『眠っていては魚は釣れない』を信じた漁師が、覚醒剤を飲み続け、早死にしてしまいます。『梨は熟れれば自然に落ちる』を信じた農夫は、自分で収穫することを止めてしまいます。

『古い道を捨てて新しい道を見つけようとしても、結局古い道の大切さを知るだけだ』を重視して道路は作られなくなり、『いったん始めたら引き返すことはできない』ということで、Uターンはできなくなります。『色々な方策を試せば、危険は増えるばかりだ』ということで、交差点はなくなり、『ゆっくり着実に進む者が最後に勝つ』ということで、車は使われなくなります。

人々は口数が少なくなり、暴力がはびこるようになります。『沈黙は金なり』『賢者は多くを語らない』『語ることは己を弱め、語らないことは己を強くする』などを信奉した結果です。

『思いやりは全ての扉を開けるカギとなる』ということで、誰もが施錠しなくなり、その結果盗難が増え、『悪い人と一緒より独りが良い』ということで、人々は結婚しなくなり、『優しい愛撫は、罪の意識の裏返し表現だ』ということで、誰も性愛行為を避けるようになります。

宗教も危機に瀕します。『着衣は人を決めるものではない』ということで、聖職者は権威を示すものを失い、『神は寡黙な人に語りかける』ということで、多くの人が祈りを口にしなくなります。

ここまで、滑稽な話を提示されて、ようやく『ウンベルト・エーコ』が云いたいことが見えてきます。つまり、『人』は、『信条』や『信念』を大切にしないと生きていけない半面、特定の『信条』や『信念』だけでは、御しきれない複雑で矛盾に満ちた存在であるということです。

梅爺流にいえば、『人』は『理』と『情』が複雑に絡む『精神世界』の持ち主で、しかも『情』の大半は、自分の『意思』とは無関係に発現するという厄介な代物です。しかも『精神世界』は、一人一人個性的で、時々刻々変容し続けています。

このようなものを、杓子定規の『信条』や『信念』で律することはできないのは、眼に見えています。

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2015年6月10日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『諺重視の生活』(2)

梅爺は、『諺』に強い関心を持つ人間です。『梅爺閑話』の記念すべき第一回のタイトルは『犬も歩けば棒にあたる』です。以降、『江戸いろはカルタ』『上方いろはカルタ』の全てを、ブログの題材にとりあげました。『人』の中にある矛盾を、明るくとらえ、『諧謔』で笑い飛ばしてしまう先人の精神を、『お見事』と賞賛したくなったからです。日本文化が、最近は外国人に『カッコヨイ(Cool!)』と受け止められていますが、『いろはカルタ』などは、その最たるものではないでしょうか。梅爺はこのような文化を継承してきた日本人であることを誇らしく思います。

日本の『いろはカルタ』は、『人』は、賢くもあり愚かでもある、他人に親切であり自分に身勝手でもある、寛大でもあり狭心でもある、崇高でもありおどろおどろしくもあるということを、ひっくるめて受け容れています。このような『矛盾』を受け容れて表現するには『諧謔』はうってつけの手段です。

『いろはカルタ』からは、『お説教』がましい印象を受けません。しかし、自分の言動が『愚かしい』『身勝手』『おどろおどろしい』と気付いた時には、『こいつはちょいといけませんな』と自らを諭す手段にはなります。しかし、『いろはカルタ』を、金科玉条の『信条』として、頑(かたく)なに守ろうなどとは思いません。

梅爺は、その後『英語の諺』を時折、『梅爺閑話』の話題として取り上げることを始め、今も続けています。

『英語の諺』を取りあげてみて、『理で説得しようとしている印象』を強く受けます。欧米人の精神文化が、古代ギリシャの『理性』重視の思想を受け継いでいるためなのでしょうか。その結果、『諺』は『お説教』『訓示』の印象が強くなります。もちろん、『ユーモア』で表現したものもありますが、『ユーモア』と『諧謔』は似て非なるもののように梅爺は感じます。『諧謔』という言葉を、外国語に翻訳するのは難しいような気がします。

西欧人も民族によって、精神文化が異なり、謹厳実直なドイツ人、エスプリを好むフランス人などの違いがあります。ベートーベン、ブラームスとラヴェル、ドビュッシーの音楽の違いが、それを如実に表現しています。エンジニアが緻密に構築したような印象の、『理』を基盤にする音楽と、繊細な『情』表現を優先した音楽の違いのように感じます。

フランスの『エスプリ』は、教養をベースとした表現ですが、日本の『諧謔』は、庶民の市井(しせい)の知恵をベースにしています。そのため『屁をひって尻つぼめ』などと一見品の無い表現になることもありますが、梅爺は気取った『エスプリ』より、『諧謔』が好きです。『背に腹は代えられない』などという絶妙な比喩は、『教養』などではなかなか生みだせないのではないでしょうか。

『人』の『精神世界』の本質を、矛盾をひっくるめて総合的に感知しているからこそ、『諧謔』はすばらしいのではないでしょうか。日本の『諧謔』は、『理』ばかりではなく『情』が強く関与しています。『いろはカルタ』からは、偉い人の『お説教』を聴かされている感じは受けません。『八っつぁん』『熊さん』から、『おいらもお前さんも、一皮むけば同じじゃないのかい』と話しかけられているように感じます。

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2015年6月 9日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『諺重視の生活』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Inventing the enemy(敵を創る)』に掲載されている10番目の話題は『諺重視の生活(Living by Proverbs)』です。

このエッセイは、アメリカのフィラデルフィアで印刷されたらしい、著者匿名、発行年月日不明の一冊のパンフレット『新しいユートピアについて』について論じたものです。

『諺は人類の知恵であるばかりか、神の言葉でもある』と信じた法律制定者が、その信念に基づいて『幸福共和国』を立ち上げますが、この建国は数年でうまくいかないことが判明し、失敗に終るという顛末がパンフレットに書かれているらしいのです。

何故『諺』を基盤とした『幸福共和国』が、失敗に終わったかを、『ウンベルト・エーコ』は、これでもかとばかりに、執拗に沢山の事例をパンフレットから引用して紹介しています。

梅爺は、大真面目に紹介されている事例の一つ一つを、まるで落語を聴いているような『滑稽』を感じながら読みました。賢明な『ウンベルト・エーコ』もこれを『滑稽』と受け止めないはずはありませんから、『何故これが滑稽であるか』を読者に考えてもらう素材として提示しているのであろうと分かります。

このパンフレットは、実際にあったことを記述しているのではなく『大人のための寓話』として創作されたものではないかと感じました。ひょっとすると、このパンフレットそのものが『ウンベルト・エーコ』の創作ではないかと疑いたくなります。

『ウンベルト・エーコ』はエッセイの終わりに、『私は読んだ内容をただ紹介しただけです』と述べているだけで、一切自分の『考えや論評』らしいものを開陳していません。

これによって、読者は、『ウンベルト・エーコ』はこのエッセイで何を言いたかったのかと深く考えることになります。この手法は、『考え』を開陳するよりも、鮮明に『ウンベルト・エーコ』の意図を読者へ伝えているともいえる、心憎い手法です。諺の『沈黙は金』、『語らないことが最も雄弁』を実践しているとも言えます。

梅爺のような凡庸で小賢しい人間は、すぐに自説を開陳したがります。

従って、このブログでも、このパンフレットに書かれている事例を事細かに紹介することはできるだけ控え、『諺は私たちが生きることとどのように関わるのか』を梅爺流に考えていきたいと思います。

『ウンベルト・エーコ』が折角『考える』チャンスを提供してくれているのですから。

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2015年6月 8日 (月)

アメージング・グレース(4)

『アメージング・グレース』の作詞者は、『ジョン・ニュートン』と分かっていますが、作曲者は特定できていません。

ただ、アメリカのアパラチア山脈に近い土地に入植したアイルランド系移民のコミュニティで歌われていた讃美歌の中に、2曲『アメージング・グレース』とほぼ同じメロディの曲があり、これが、『ジョン・ニュートン』の歌詞と結ぶついたのであろうと考えられています。

余談になりますが、明治維新後、日本の初等教育に『西洋音楽』を導入することになり、文部省の役人が、アメリカで教科書に載せる曲探しをしましたが、日本人の感性に合う曲が少ないことが判明し、日本人の感性にぴったりの、スコットランド、アイルランドの民謡が導入されました。『蛍の光』『埴生の宿』『庭の千草』などがそれです。スコットランド、アイルランドの歌の音階は、明治維新以前から日本で使われていた音階と同じで、『47(よな)抜き』と言われています。『ドレミファソラシド』から『ファ(4)』と『シ(7)』を抜いた音階です。面白いlことに沖縄の音階は『ミラ抜き音階』で、日本の本土とは異なっています。

『47(よな)抜き音階』を用い、リズムよりもゆったりしたメロディを重視して作曲すると、哀愁を帯びた曲になります。『バグパイプ』の演奏がマッチするのはそのためです。『アメージング・グレース』は完璧に『47(よな)抜き音階』でできています。

遠く離れた、日本とスコットランド、アイルランドで、同じ音楽感性が偶然根付いていたことに興味がわきます。『精神世界』の『情』に働きかけると言う点では民族を越えて共通で、『アメージング・グレース』が世界中で歌われるのはそのためなのでしょう。

更に余談になりますが、アメリカの『カントリー・ウェスタン』と呼ばれる音楽形式は、アイルランド系移民の音楽の影響を受けいています。梅爺は、昔仕事でアイルランドへ出向いた時に、現地のパブで演奏される音楽を聴いて、それを実感しました。バンジョーとヴァイオリンで、演奏されるリズミカルな音楽は、『カントリー・ウェスタン』とそっくりです。

『音楽』は『人』の『精神世界』に訴えかけるために、いくつもの技法を駆使しています。『哀愁』を表現する時には、『短調(音階、和音)』『メロディ』が主に使われ、『勇壮』『快活』『楽しさ』を表現する時は『長調(音階、和音)』『リズム』が主に使われます。

短調と長調を同じ曲の中で巧みに併用する『ロシア民謡』は、日本人の好みにあっています。民族固有の文化の違いはありながら、『精神世界』では共通なことが多いために、『音楽』は人類の『共通語』の役割を果たしています。

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2015年6月 7日 (日)

アメージング・グレース(3)

『アメージング・グレース』の歌詞の作者は意外な人物であることを知りました。

『ジョン・ニュートン』という、イギリス人の『奴隷運搬船船長』が作詞者です。ある時奴隷運搬船が航海中嵐に遭遇し、『ジョン・ニュートン』は、『どうかお助けを』と神に祈ります。幸い船は難破を免れます。

神に感謝した『ジョン・ニュートン』は、これを機に職を辞し、一転して『牧師』になり、その後は宣教に努めました。『アメージング・グレース』はこうして作られました。

『奴隷運搬船船長』という、過去を悔いて、『私のようなひどい男(卑劣漢)でも、神は救ってくださった(That saved a wretch like me)』と表現したことになります。

多くの黒人達は、自分たちが心をこめて神に感謝を捧げる歌詞は、実は『奴隷運搬船船長』の作であるとは知らなかったに違いありません。少しばかり皮肉な話です。

黒人達は、『Wretch』という言葉を、『卑劣漢』というよりは、『哀れな人、心貧しい人』というような意味にとらえ、自分になぞらえたのでしょう。

キリスト教の教義では、誰もが『原罪』を背負っていて、それ故に神の救いを必要とするということになっていますから、自らを『Wretch』と呼ぶことに抵抗はなかったに違いありません。

梅爺の息子一家が、海外勤務でアメリカのアトランタ(ジョージア州)に住んでいた時に、梅爺夫婦は訪ね、昔の『プランテーション(綿花栽培農場)』が観光用に残されているのを見学しました。壮麗な白人の農場主の豪邸と奴隷たちのひどい掘立小屋とは対称的でした。

一部の農場主が、奴隷たちに礼拝用の小屋(教会)を提供し、礼拝や讃美歌を歌うことを奨励しました。奴隷として蔑んでおきながら、『人』として神の救いにあずかることを認めるという、矛盾が滑稽ですが、農場主たちのホンネは、信仰を『逆らわずに仕事に精を出す奴隷』にするための手段として利用したのではないでしょうか。

リンカーンが奴隷解放したのは、150年前ですが、その後も実質的な人種差別は公然と行われ、『公民権法』が成立したのは、たった50年前のことです。『自由の国アメリカ』などという宣伝文句は、一部の白人にしか当てはまらないのではと、皮肉を云いたくなります。

人種差別は今でも根強くアメリカ社会に残っています。『人』の『精神世界』は、時に厄介で、愚かしい事態を招来します。相対的に、自分を有利な立場において、安泰を得ようとする本能が、『差別』や『いじめ』を産み出すからです。『理』で『情』を制することは易しくありませんが、そうであるからこそ、私たちは『理性』を磨く努力を必要とします。

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2015年6月 6日 (土)

アメージング・グレース(2)

『アメージング・グレース』という讃美歌は、南北戦争前後の、アメリカ『ミシシッピ川』流域の黒人達の間で歌われ始めました。北軍が勝利して、『奴隷が解放された』と聞くと、それを境に黒人の生活が希望に満ちた新しいものに一変したように勘違いしますが、奴隷であった時も、解放された後も、貧しさ、苦しさは少しも変わりませんでした。『自由な身です』と言われても、行くあても、仕事も無かったからです。

どん底の環境で、黒人達に生きる希望となったのが、『信仰』であり、『黒人霊歌(讃美歌)』を歌うことでした。『歌は腹は満たさないが心は満たす』と言われますが、このことは『人』という生物の特性を端的に示唆しています。

身体(物質世界に属する)と心(精神世界)の双方が『安泰』であることが、『生きる』ために必要であるという特性です。更に心の『安泰』の大半は、他人との絆を確認することで得られますから、『孤独』ほど恐ろしいものはないことになります。生物進化の過程で『人』は群をなして生きる方法を選択し、継承してきたからです。

物質的に豊かであり、精神的にも豊かであれば、理想に近い社会が形成されますが、なかなかそういう社会は出現しません。どちらかに偏ったり、どちらかを失っても、社会は健全さを失います。世界中を見渡せば、北欧の国々が、バランスと言う点で最も進んでいると言えるかもしれません。

日本は、物質的には豊かですが、『孤独な老人の増加』『引きこもりの若者の増加』『学校における陰湿ないじめの増加』など、精神的な豊かさを阻害する問題を抱えています。物質的な豊かさと、精神的な豊かさを両立させる知恵を、日本人は自ら編みださなければなりません。日本と同じ条件で、モデルとなる国などは無いからです。

『歌』は、心の安らぎをもたらし、仲間と一緒に歌えば『絆』を確認する手段になります。『一緒に食べる』『一緒に歌う』『一緒に祈る』は、『人』が『安泰(絆)』を確認できる基本的な手段になります。

『宗教』は、この特性をうまく利用しています。『聖餐式(最後の晩餐に由来)』『讃美歌』『礼拝集会』などがそれにあたります。このことから逆に、『一緒に食べる』『一緒に歌う』は宗教的な行為と考えられますが、本来は『宗教』とは無関係な行為です。その証拠に、信仰心に薄い梅爺も、合唱にのめり込んでいます。

『アメージング・グレース』が、黒人だけではなく、『人』の琴線に触れるのは、秀逸な『メロディ』と『歌詞』の内容に依ります。

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2015年6月 5日 (金)

アメージング・グレース(1)

『黒人霊歌』の定番中の定番として、世界中で歌われている『アメージング・グレース(Amazing Grace)』という曲がが誕生し、普及した経緯をドキュメンタリーとして紹介するNHKBSプレミアムチャンネルの番組を録画して観ました。

信仰心の薄い梅爺でも、心が洗われると感じる名曲で、以下に英語の歌詞と梅爺の拙訳(意訳)を掲載します。

Amazing grace! How sweet the sound!
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now I am found;
Was blind, but now I see.

'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear!
The hour I first believed.

Through many dangers, toils, and snares,
I have already come;
'Tis grace hath brought me safe thus far,
And grace will lead me home.

驚きの恩寵(おんちょう)、何と優美な響きの言葉でしょう。
驚きの恩寵が、私のような卑劣な人間までも救ってくれました。
迷子であった私でしたが、今は導かれています。
盲目でしたが、今は見えています。

その恩寵が、私の心に恐れることを教えてくれました。
そして、恐れから救ってくれたのもその恩寵でした。
その恩寵は、なんとかけがえのないものに思えたことでしょう。
その時、私は初めて恩寵の存在を確信しました。

多くの危険、苦労、誘惑に身をさらして、私は生きてきました。
今まで私が安泰に過ごせたのはこの恩寵のおかげです。
そして、この恩寵が私を安息の地へと導いてくれるでしょう。

キリスト教文化の中では、『Grace』は、『神の恩寵』のことですから、この歌は『神』を讃えるもので、『讃美歌』に属します。

音楽としての特徴は、哀愁を帯びた『メロディ』にあり、これは、明らかにアフリカのリズムを特徴とする『黒人霊歌』とは異なっています。それに、この曲が『バグパイプ』で演奏され、その音色に合っているのは、何故だろうと梅爺は今まで漠然と疑問に感じていましたが、この番組を観て、『なるほど、そうだったのか』と得心がいきました。NHKの番組企画、制作能力は世界に誇りうるレベルです。

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2015年6月 4日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『想像の天文学』(4)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ『想像の天文学』では、中世以前の人たちが想像していた沢山の地図や天体図が参考資料として掲載されています。

『こんなことを大真面目に論じ、信じていたのか』と笑いだしてしまいそうになりますが、自分がその時代の人間であれば、このような想像さえできなかったかもしれないと思い、尊敬の念も湧いてきます。

共通していることは、自分たちが直に見聞きできる範囲と、その先の未知な領域をつなぎ合わせて『全体像』を作り上げようとしていることです。当然見聞きできる範囲は、『具体的』であり、事実を反映させようとしていますが、未知の領域は、突然壮大な『虚構』で説明しようとしていることです。

『重力』の存在を知らなかった人たちは、地球が『球体』であることを想像できず、想像したとしても、裏側の人は地上に立っていられないと簡単に推測できますから、多くの地球の地図は『平面』として推測されています。

しかし、『平面』の場合は、『地の果て』『海の果て』は、未知な領域になりますので、『平面』の『縁(ふち)』に関しては、『虚構』で補うしかありませんでした。『縁』は高い山々で構成され、海はそれでせき止められているなどという想像が成り立ちますが、その山々の先は、どうなっているのかは、想像さえできていません。

昔の人々を笑うだけでは済まされないのは、私たちも『既知』の領域と『未知』の領域を、『虚構』でつなぎ合わせて納得しようとしながら生きていることにあります。程度や内容の差はあれ、『人』としての習性は同じです。

『天地は神が創造した』という説明では、『天地』はある程度『既知』に属し、『神が創造した』という説明は『虚構』に属します。

『ウンベルト・エーコ』はこのエッセイの最後で、『科学者』と『SF(サイエンス・フィクション)作家』の関係を洞察しています。

『SF作家』は『科学』知識に啓発され、小説(虚構)を産みだし、一方『科学者』は『SF作家』の『虚構』に啓発されて、更なる『摂理』の究明に励むことがあるであろうと想像できます。

『人』の『精神世界』が、『摂理』の束縛無しに、自由に『虚構』を産みだすことができるからこそ、偉大な『芸術』が誕生し、『科学』も進歩するのではないでしょうか。つまり人類の文明・文化は、『精神世界』が産み出す『虚構』が原動力になっているといえないことはありません。

『虚構』は本質的に『偽』である可能性が高いので、排除すべしという論法は底が浅いことになります。一方『虚構』は、『人』を惑わす側面も持っていますから、無条件に『虚構』を信ずることは、慎重であるべきです。

周囲に沢山存在する『虚構』と、どのように対応していくかは、その人の『理性』が求められます。

『虚構』を楽しむ『感性』を大切にしながら、『虚構』を疑う『理性』も失わないという生き方は、理想的ですが、なかなか現実は単純な話にはなりません。しかし、この『葛藤』こそが生きている証(あかし)なのだと理解すれば、人生観も変わってきます。『安泰を求めるが故に葛藤する』という『矛盾』に立ち向かうことが『生きる』ことだと達観できるからです。

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2015年6月 3日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『想像の天文学』(3)

『人』の『精神世界』は、周囲の状況をパターンとして認識し、そのパターンには、『何らかの意味が込められているのではないか』と推察しようとします。 

周囲の状況が、自分にとって都合の良いものか、悪いものかを瞬時に判断して、生物として『生き残り確率』を高めようと言う本能が継承されているからです。この本能を梅爺は『安泰希求の本能』と呼んでいます。 

『月でウサギが餅つきしている』などという推察は、他愛のないものですが、多くの推察は、今後自分の身に起こるであろう事象を『占う』目的で利用されます。偶然『胸騒ぎ』が的中したりすれば、一層自分の『推察』能力を『信ずる』ようになります。 

『推察』は、『脳(精神世界)』が『理』で行う、『因果関係』を特定しようという行為です。『科学』もこの『推察』を利用して推進されますが、『科学』の場合は、一つ一つの『因果関係』の『真偽』が『摂理』に照らして検証され、『真』であると誰もが認める『事実』を積み重ねて次なる『推測』が進められることになります。前提に『偽』や、疑わしい事実がある場合には、その主張の全てが否定されます。

一般的な『推察』と、『科学』の『推察』のこの大きな違いを私たちは区別して認識する必要があります。『人』の『精神世界』は、『摂理』に束縛されない自由な発想で『因果関係』を表現できる特徴を有しています。したがって、一般的な『推測』では、『真偽』を曖昧にしたまま、『推測』が行われます。『真偽』を明確にするという行為の代わりに『信ずる』という行為が用いられます。

つまり、『信ずる』という行為を前提にすれば、いかなる『因果関係』も表現が可能になります。云い方を変えれば、いかなる『虚構』も表現できることになります。

そのようないかがわしい『虚構』は全て排除すればよいではないかということになりますが、そうはいきません。『人』の『精神世界』は、『虚構』を『信じて安泰を得る』という基本的な習性を保有しているからです。『宗教』や『芸術』がこの習性を利用して成り立っていることは明白です。ある種の『虚構』は、『人』にとって無意味とは言えない何らかの価値をもっていることになり、全ての『虚構』を排除すると、『人』は『人』らしく生きていけないことになりかねません。

しかし、全ての『虚構』を盲信せよということにもなりません。私たちは、時に応じて『理』で、周囲の『虚構』を冷静に批判する(疑う)必要もあります。何を信じ、何を疑うかは、その人の個性に委ねられます。信ずるだけでも、疑うだけでも『人』は生きていけません。『精神世界』を保有した『人』は、その様な生物であることを宿命付けられていると考えた方がよさそうです。

中世以前、『占星術』と『天文学』は一体でした。日本の平安時代でも『陰陽師(おんみょうじ)』が、政治の中心に存在していました。

現在では『占星術』と『天文学』は切り離されています。『ウンベルト・エーコ』は現在の『占星術師』を、『騙されている人』ではなく『騙す人』として、厳しく糾弾しています。温厚な『ウンベルト・エーコ』にしては、珍しく激しい表現ですが、深読みすれば、『占星術』を利用して『宗教』のある側面を糾弾しているようにも見えます。『虚構』を『事実』と強弁する姿勢は、善良な『人』の『信ずる』心を悪用する行為とも言えるからです。

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2015年6月 2日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『想像の天文学』(2)

太古の『ヒト』は、他の生物と同様に、『自分が生き続ける』『子孫を残す』ことを最優先に、行動していたに違いありません。

しかし、脳が進化し『精神世界』を獲得した『人』は、『生き続ける』『子孫を残す』ことに、得体の知れない何かの力が関与していることに気付きます。

『太陽の運行による昼と夜の周期的な繰り返し』『季節の周期的な変化』などの『周期』が存在していることを知り、その『周期』も得体の知れない何かの力が関与していると推測したに違いありません。

そして、得体の知れない力の元は、『神』または『神々』であると考え、そうすることに依ってあらゆる『因果関係』を『神(神々)』に帰すという、非常に賢い推論を行い、それを共通認識として継承し始めます。

この『得体の知れない力』イコール『神(神々)』という、『抽象概念』の創出とその継承が、その後の人類の歴史に大きな影響を及ぼしてきました。そして現在でもその影響は絶大です。

人々は、『神(神々)』との関係を良好に保つことが、『生きる』ために最も大切なことと考えるようになり、『信仰』が『生きる』ことの全ての基盤になりました。

勿論現代人にとっても『信仰』は重要な考え方ですが、科学知識が増えたために、現代人は『魂の救済』『善良柔和な生き方』などという精神的なことに『信仰』を限定するようになりました。多くの場合、『科学』による『摂理』の追求は、『信仰』とは切り離されて行われます。

しかし中世以前の人たちにとって、『信仰』は生活の全てを支配するものであったことを理解する必要があります。現在でも『イスラーム』の人たちは、政治、経済を含む生活の全てを『信仰』で考えようとします。したがって、『民主主義』などという『信仰』に基づかないイデオロギーを拒否しようとします。

中世以前の人たちが、天体を観測し、『周期』の存在を確認しようとしたのは、真実を知りたいと言う欲求が背景にまったくなかったとは言えないにしても、『信仰』に基づく行為であったというのが、『ウンベルト・エーコ』の観方です。

『天地は神によって創造された』という、動かし難い考え方を大前提として、『神の御業(みわざ)』や『神のご意思』をうかがい知ろうとする、『信仰』に基づく行為が天体の観測であったということになります。

しかし、全体を体系立てて理解するには、あまりにも知識を欠いていたために、壮大な『想像』で、補った結果が『想像の天文学』になりました。

『人』の『精神世界』が作り出す、見事な『虚構』に感嘆したくなります。

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2015年6月 1日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『想像の天文学』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Inventing the enemy(敵を創る)』の9番目の話題は、『想像の天文学(Imaginary Astronomies)』で、近世に人類が『宇宙や地球』のしくみを科学的に理解するようになる以前に、人々が『宇宙や地球』をどのようなものと想定(想像)していたかを詳しく論じたものです。 

いずれの『想像内容』も、現在の科学的知識で真偽を判定すれば、『偽』ということになります。 

『偽』と分かっていることを、今更取り上げる価値は無い、昔の人たちはこの程度の理解しかできない愚かな人達であったと、素っ気なく扱いたくなる方もおられるでしょうが、『ウンベルト・エーコ』はそうではありません。『ウンベルト・エーコ』にとっては、『人』に共通する習性の本質を探ることが興味の対象であり、昔の『人』を理解することは、現在の『人』を理解することにつながると考えているに違いないからです。 

『人』は、経験や知識を総動員して、事象の『因果関係』を推測し納得しようとします。『分からない』ままに放置することは、『不安』というストレスを産み(ある種のホルモンが分秘され)、『脳』は『安泰が脅かされている』と認識するからです。『好奇心』も同じしくみの『脳』の反応です。自分が考え出した、または他人から教えられた『因果関係』で、『脳』は『安泰』を得ることになります。この習性は、中世以前の『人』も、現代の『人』も基本的には変わっていません。

『人』の総合能力は、数千年前と現在とで、変わっているとは思えません。変わっているのは知っている『科学知識』の量です。そしてその『科学知識』を利用した製品(道具)を使用している量が圧倒的に変わっているだけです。

『釈迦』や『キリスト』の時代の『人』を現在へタイムスリップさせて連れてきて、『科学知識』を学んでもらえば、私たちと同じように振舞うことができるに違いありません。しかし、当時の人たちは、私たちと同じ量の科学知識を持たず、したがって共有していた『認識』は私たちとは異なっていることを知った上で、彼らの言動を観る必要があります。歴史を学ぶ時に、これは重要な姿勢です。

一方私たちより数百年後の『人』は、私たちを調べてみて、『偽を真と勘違いしていた愚かな人達』とみなしてもおかしくありません。しかし、私たちが数百年後へタイムスリップし、その時代の知識を学べば、その時代の人たちとして遜色なく振舞えるに違いありません。

私たちは『天文学』を『科学』の一領域と考えていますが、中世以前の人たちにとって、『科学』という独立した『概念』は、共通認識としては存在していなかったと考えるべきでしょう。『ウンベルト・エーコ』もそのことを、『天文学は、当時の人たちにとっては信仰の領域に属することであった』と述べています。

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