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2015年5月31日 (日)

Absence makes the heart grow fonder.

英語の諺『Absence makes the heart grow fonder.』の話です。

直訳すれば、『存在しないものが心を一層欲しがらせる』ということになり、日本語らしく訳せば『ないと分かると一層欲しくなる』『ないものねだりをしたくなる』ということでしょう。

私たちの『脳』は、実に奇妙にできていて、世の中のことをほとんど知らずに生きているくせに、あるとき、ひょんなことから『気になること』を意識し始めると、なんとしてもそのことについて知りたくなったり、不安になったりします。

健康な時は、朗らかに過ごせますが、どこか体調に異常を感ずると、『これは、悪質な病気の前兆ではないか』と気になり始め、心は陰鬱になります。『知らぬが仏』とは、実に見事に『人』の習性を言い当てています。

些細なことが気になり始めると、それにばかり心がとらわれるようになるのは、誰もが体験していることです。その時点で、客観的にはもっと重要なことがあるにもかかわらず、些細なことにだけこだわってしまいます。『喜劇』はこれをうまく利用し、他人のこととなると私たちは、自分を棚にあげてそれを笑いの対象にします。

この習性をうまく利用されてしまうと、私たちは『マインド・コントロール』されてしまいます。『広告』は、消費者のこの心理を利用しようとしますし、為政者や社会のリーダーも、都合の悪いことから国民の眼を逸(そ)らすために、常套手段としてこれを利用します。中国や韓国の為政者が『反日発言』をするのは、よほど自国内に国民の眼を逸らしたい事柄を抱えているからなのでしょう。

日本のテレビは、視聴率を稼ぐために、『悪質な殺人事件』や『有名人の麻薬汚染』などを、朝から晩まで報道し続けたり、他愛のないバラエティ番組を流し続けたりします。視聴者は、それ以外のことに眼を向けなくなってしまいます。『大宅壮一』氏は、テレビの普及期に、これを『一億総白痴化』と呼びましたが現在もその状態は変わっていません。

『気になること』は『脳』にとっては不安ストレス(脅迫観念)となり、なんとかそれに対応しようと『脳』はそのことだけに集中してしまうのは、コンピュータで云うなら『優先度処理』ということになり、処理能力に限界があるために、避けがたいことです。『脳』は総合的にすばらしい能力を秘めていますが、それでも処理能力は有限であることの証です。

時折我に帰って、『今重要なことは他にあるのではないか』と自省しようとすれば、『理性』に頼るしかありません。

英語圏の人たちは、『Absence makes the heart grow fonder.』という諺を、『Absinthe makes the fart grow stronger.』という韻を踏んだダジャレ(ジョーク)に変えて、言葉遊びをしています。『アブサン(酒)を飲むと大きなおならがでる』という下品な内容ですが、笑えます。

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2015年5月30日 (土)

三島由紀夫の自決(4)

『人』は肉体的にも、精神的にも『個性的』であり、勿論その能力にも違いがあります。『生物進化』の過程で偶然獲得した、子孫を残すしくみ(生殖のしくみ)がそのようにできているからで、『個性』や『能力の違い』は宿命的なものです。『神が違いを授けて下さった』わけではありません。

『平等』は、個性的な『個』を束ねなければならない『人間社会』に必要なものとして、『人』が考え出した『抽象概念』であって、同じく『抽象概念』である『基本的人権』を成立させるための条件に過ぎません。

実態としては『差』があるものを、『差』がないように扱うという難しい話ですから、スッキリ割り切れない問題が常に残ります。『人種差別』『男女不平等』は怪しからんと言いながら、入試で合否を決める仕組みや、高値でスポーツ選手を『売り買い(Trade)』することは是認しています。

『人』は、個性的であって、しかも能力発揮は多面的な様相を呈します。一人の『人』が、観方によって色々に見えるということになります。『十人十色』であると同時に『一人十色』でもあるという話です。

英語には、『Something(できる奴:大物)』『Nothing(ダメな奴:役立たず)』という表現があり、誰もが『Something』になりたいと望みます。『アメリカン・ドリーム』の実現者は『Something』ということになります。

前述の『一人十色』のことを考えると、一人の『人』の中に、『Something』と『Nothing』の両方の側面があるのは当然のことと考えられます。どこから観ても『Something』というような人は、そうそういません。世間では『立派な男』と評される人が、家庭では『グータラ亭主』と奥さんから評されたりするのはそのためです。

著名やスポーツ選手、芸術家、芸能人は、その分野で『Something』で、周囲がチヤホヤしますから、自分が『人』としてどこから観ても『Something』であると思いこんでしまうことがないとは言えません。

『三島由紀夫』は文学者として『Something』であることは、疑いの無いことですが、自分の考え出す『虚構』が、日本の社会を変えるまでの価値と意味があると信じていたように見えるのは、『Something』の言動とは思えません。

自分の肉体改造で『劣等意識』を克服できたということが、自分の言動で日本も変えることができるという盲信に発展していったのでしょうか。

日本社会は、当時『三島由紀夫』の価値観では許容できない風潮へ変容していたかもしれませんが、変容を決める要因は『政治』『経済』『外交』『自然環境』など多様です。『民主主義』『自由経済資本主義』は多くの長所があると同時に、自分中心、物欲重視の心の貧しい人達を多く輩出する弊害も内包しています。『天皇中心の社会へ戻す』ことで、問題が解決できるという単純な話ではありません。

一人の人間の主張は無力とは言いませんが、社会を変えるほどの主張は、『自然』『人間』『社会』に関する、学際的な深い洞察でなければなりません。『心の貧しい人』が増える風潮は、『宗教』『道徳教育』『イデオロギー』だけでも解決できません。『人』の脳神経細胞ネットワークが形成される一番重要な幼児期に、適切な『情育』を行うことが、肝要と梅爺は考えています。周囲から愛されずに育った子供は、愛することができない大人になる可能性が高いからです。

NHKの番組の中で、元首相の『中曽根康弘』氏が、『三島由紀夫の自決事件』を多くの日本人が冷静に受け止めたことは、『日本が健全な国家である証拠』というようなことをコメントしていました。『健全』という表現がふさわしいかどうかは別にしても、成熟した社会へ向かっているとは言えそうな気がします。

『三島由紀夫』の『文学』における突出した能力には大いに敬意を表しますが、それ故に『全ての言動に、凡人には理解できない深い意味があるのではないか』と忖度(そんたく)したり、 全てを『Something』として崇拝したりする必要はないように、梅爺は思います。

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2015年5月29日 (金)

三島由紀夫の自決(3)

『三島由紀夫』は、幼い頃から『劣等意識』であった『ひ弱な肉体』を、『ボディビル』で鍛え、一転して得意げに裸体写真を雑誌に掲載していますから、『物質世界』の『摂理(鍛えれば筋肉が増えるという因果関係)』と自分の『精神世界』との間に、何らかの関係があることは認識していたことになります。

しかし、もっと根源的に、『物質世界』の変容のなかで、『宇宙』『地球』『生命体』が出現し、その延長で『ヒト』が現れて、脳の進化で『精神世界』を獲得し、肉体的にも精神的にも個性を備えた『人』になり、自分はその一人として存在しているという客観的な観方で、自分を捉えているようには見えません。このような『摂理』に興味を持ったり、その意味を評価する謙虚な姿勢は、あまり言動の中に見えません。

『三島由紀夫』は、自分の『精神世界』の中で『虚構』を創り出す能力や、それを『日本語』として表現する能力に長けていて、『作品』は世の中に受け容れられ、『ノーベル文学賞の候補者』などともてはやされました。

この結果、『虚構は虚構にすぎない』という醒めた観方ではなく、自分が創り出す『虚構』は、現実の世の中にも影響力を持つ『実態』になりうると言う、妄想にとり憑かれていったように梅爺には見えます。やがて、周囲は愚昧(ぐまい)な凡人ばかりで、自分は特別な能力の持ち主として、周囲を啓蒙できると信じるようになっていったのではないでしょうか。

梅爺の誤解かもしれませんが、『三島由紀夫』の文学作品の奥に、独創的な洞察に裏付けられた思想があるようには見えません。『仮面の告白』『宴のあと』『金閣寺』などは、自分、著名な政治家、吃音性(きつおんしょう:どもり)の若い僧をモデルにして、『劣等意識が精神世界を蝕(むしば)む』ことや『理性的な男と、男に尽くす情熱的な女の間に生ずる齟齬、葛藤』などを背景に、見事な『虚構』を作り上げていますが、『劣等意識が精神を蝕む』『理性的な人間と情熱的な人間の間の葛藤』などというテーマ事態は、昔から取り上げられてきたもので、『三島由紀夫』の深い洞察が生み出したものとは言えません。テーマは独創的でなくても、肉付けする虚構やその表現で、文学作品は高度なものになります。鎮魂というテーマはありきたりでも、作曲家はそれぞれ見事な『レクイレム』を作り上げるのと同じです。

『三島由紀夫』の最後の大作となった『豊穣の海(三部作)』も、背景は『輪廻転生』であり、これも宗教的に伝承されてきたもので、目新しいテーマではありません。自決の前に叫んだ『天皇中心の日本社会』も、表面的には既存の思想です。

『三島由紀夫』は、文学的な『虚構』の創出や表現において天才的とは言えても、自然界や人間社会の本質を独創的に洞察する点においては、意外なことに借り物の思想レベルに止まっているように見えます。つまり偉大な『文学者』であるとは言えても、偉大な『哲学者』とは言えないような気がします。その理由は、自分の『精神世界』の価値観だけに頼り、それ以外の価値観を受け容れる姿勢に乏しいことにあるような気がします。梅爺流に言えば、発想の幅が意外に狭く『学際的』ではありません。

『文学作品』が世の中や、世界中から評価されたことは、ある側面の能力が評価されたことを意味しますが、そのことで、『自分の考えは、全て特別のもので、現実世界でも意味を持つ』という誤解に陥り、最後の自決へと向かうことになったのではないかと推察できます。文学者として、もし成功していなければ、平凡な人生を送ったのではないでしょうか。

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2015年5月28日 (木)

三島由紀夫の自決(2)

『三島由紀夫』のような知的レベルが高いと思われている人を、梅爺ごときが評論するのは、不遜な行為と叱られることを覚悟で、梅爺には『三島由紀夫』がどう見えるかを書いてみたいと思います。 

『三島由紀夫』は、自分の『精神世界』で自らが創り出した『虚構』と、それに伴う価値観を重視し、最後はそれに殉じて自決までに至ったように、梅爺には見えます。 

人間は、誰もが自分の『精神世界』の価値観を基準に、周囲を判断する習性をもっていますから、『三島由紀夫』も例外ではないと言えば、そのとおりですが、知的レベルが高い人が、何故この世を支配する『価値観』は、『自分の個人的な価値観』ばかりではないと言うことを認めたり、受け容れなかっただろうかということが、梅爺には単純な疑問として残ります。 

この世を支配する『価値観』は、以下の三つであることは、梅爺のような凡人でも気付きます。 

(1)個人の『精神世界』が、『情』と『理』を駆使して創りだす価値観
(2)コミュニティ(人間社会)が、共有する価値観(常識、約束事)
(3)『物質世界』を支配する『摂理』による真偽の判定基準

明らかに『真偽(正しい、間違い)』を客観的、普遍的に判定できるのは、(3)と、(1)の中の『理』だけをもちいた『論理』判断の対象になるものだけです。この場合の『真偽』は『善悪』とは異なった判断であることを認識しておく必要があります。個人とコミュニティには『個性』があり、従って(1)と(2)の価値観の大半は、個性的であって、『善悪』の判断の多くのも相対的なものです。

『地球は太陽の惑星の一つである』という命題表現は、(3)で判断して『真』ですし、『Aが生物学的にBの親であれば、Bは生物学的にAの親になることはない』という命題表現は、(3)と(1)の論理判断で『真』とすることが可能です。

しかし、『善人は死後天国へいける』『神は人間を愛していて下さる』『民主主義が最も優れた政治システムである』『一人の命は地球より重い』という表現は、(2)や(1)に属する価値観で、論理命題として、判断すれば『真』とは言えません。

つまり、前述のように個人の『精神世界』や、コミュニティが共有する価値観は、ほとんどの場合、『真偽(正しい、間違い)』を判定する絶対基準にはなりえません。そして、私たちが日常、あまり深く考えずに『善い、悪い』『美しい、醜い』と判断していることの大半は、相対的な判断であることに気づきます。

特に『コミュニティ』は、『政治』『経済』『宗教』『自然環境』『他のコミュニティとの関係』『リーダーの資質』などの多くの要因が複雑に絡み合って『変貌(変容)』し続けるもので、『宇宙』が、動的に新しい平衡をもとめて『変容』するのと極めて似ています。従って『コミュニティ』の変貌の一面だけを取り上げて、誰かが『気に入らない』と叫んでも、おいそれと修正できるようなものではありません。

『三島由紀夫』の死にいたる言動を観ていると、『日本』という『コミュニティ』が、『三島由紀夫』の『精神世界』の価値観で判断すると、『由々しき状況へ変貌しつつつある』ということになり、それは『断じて許容できない』ということらしいことがわかります。

そして、『刹那的な利益や快楽だけを追い求める国で良いのか、トランジスターだけを売る経済大国であればよいのか』と糾弾し、『天皇中心の日本社会へ戻るべきだ』と主張しています。

梅爺には、これらの糾弾や主張のレベルの表現、洞察が、失礼ながら大変皮相的であって、『ドンキホーテ』が槍で風車へ戦いを挑むようなものであるようにしか思えません。『コミュニティ』はこの程度の糾弾や、主張で方向転換するほど単純なものではありません。何故天才的な文学者と言われる人の『精神世界』が、このことに限っては、このように浅いレベルなのかを是非考えてみたくなります。

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2015年5月27日 (水)

三島由紀夫の自決(1)

NHK地上波教育チャンネルで、『日本人は何をめざしてきたのか?』というシリーズの特集番組があり、その一つで『三島由紀夫』が取り上げられ、梅爺は録画して観ました。 

『三島由紀夫』が、『盾の会』の仲間と、市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地へ押しかけ、総監を人質にとって、自衛隊員を集めさせ、バルコニーから演説をした後に、総監室で割腹自決をしたのは、1970年のことです。 

今から45年前のことで、当時梅爺は、30歳前の若造で、仕事先でこのニュースに接し、衝撃を受けると言うより戸惑いを覚えました。 

勿論梅爺は『三島由紀夫』という作家の存在は知っていましたが、彼の文学作品を熱心に読むような愛読者ではなく、ただ、彼が、貧相な肉体をボディビルで鍛えて、裸体を雑誌に掲載したり、とても上手いとは言えない芝居で、映画に主演したりする行動は知っていましたから、肉体的な劣等感の裏返しとしての『自己顕示欲』が強い人であろうと、勝手に想像し、それ以上の興味は抱いていませんでした。 

それにしても、天才と称賛される文学者が、怪しげな軍服を着て、演説で日本の将来を憂い、天皇中心の国を理想とする主張を行い、同様な内容の『檄文』を残して、割腹自決(介錯で落首)するという、異様な行動は、『自己顕示欲』という一言で片づけられない『何か』がありそうだと感じたものの、その『何か』が思い当たらず当時の梅爺は戸惑ったことになります。 

人間には『個性』があり、考え方や感じ方に違いがあることは、梅爺も理解していましたが、その違いは、ある程度相互に理解できる範囲にあるのだろうと、たかをくくっていました。しかし、『三島由紀夫』の行動は、梅爺の理解の範囲を越え、ただただおぞましい事件として目に映りました。 

梅爺は、今でも『三島由紀夫』の文学作品を、批評する能力はありません。ただ、凡人では書けない日本語表現ができる才能は評価しています。

『三島由紀夫』の文学の研究者は多く、『三島由紀夫』の言動を含めた人物研究も多くの方々が既に行っていますので、これから述べる梅爺の分析は、非常に、主観的で誤認に満ちていることを承知で、『自決』という異常な行動を梅爺なりに考えてみたいと思います。

勿論、『物質世界と精神世界の違い』『情と理で構成される精神世界』『安泰を希求する人間の根源的な本能』といういつもの梅爺の判断基準で考えを進めることになります。人間に関る事象の全てを、この規範で考えてみると言う癖がすっかり身についてしまっているからです。

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2015年5月26日 (火)

爺さん御一行神戸、有馬温泉、姫路に遊ぶ(4)

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平成の大修理が終わった姫路城

『理研』見学の後、『阪神・淡路大震災(1995年)』の記念として開設された『人と防災未来センター』を見学しました。大震災を教訓として、将来へ備えるという意図は分からないではありませんが、広島の『原爆記念館』を模倣したような『展示内容』『展示方法』に梅爺は疑問を抱きました。地震発生時の状況を、大画面映像、大音響で体感させる趣向などは、テーマパークの『恐怖の館』のようなもので、防災の重要性を認識させる目的に適っているとは思えません。それに、被害を実際に体験された方のトラウマを呼び起こすことに配慮しようと誰も考えなかったのでしょうか。
 

『人と防災未来センター』という命名は、どなたが決めたのか知れませんが、日本語表現として、『意図』不明で支離滅裂です。『防災を心がければ人の未来は明るい』と言いたいのなら、『嘘おっしゃい』と言いたくなります。曖昧な日本語で、ことを美化するのは日本人の好ましくない習性です。『敗戦』を『終戦』などと言いかえるのと同じですし、『誰もが安心して暮らせる格差のの無い社会』などのスローガンもいただけません。 

自然の大災害は『原爆』とは異なり、『人』の力では避けられません。被害は避けられませんから、被害の拡大を避ける知恵程度が関の山です。個人ができる防災などは限度があり、本来防災は政治政策の課題です。『全ての建築物は耐震、耐火構造にする』『沿海部では海抜15メートル以下の居住は禁止する』などと決めてみても、実行が難しいのは目に見えています。できることには限度があり、さらにそれさえも実行は易しくないという話です。『人と防災未来センター』があれば安心とはいきません。 

2日目は、午前中いっぱいを使って、修理が終わった『姫路城』を見学しました。梅爺は、城の内部へ入るのは初めてで、改めて日本人の美意識、木造建築技術のレベルの高さに感嘆しました。

『姫路城』は、『黒田官兵衛』『豊臣秀吉』が居城としたことや、第2代徳川幕府将軍、秀忠の長女で、波乱万丈の人生を送った『千姫』が『本多忠刻』の妻として済んだ城としても有名です。

現在の城の原型は、藩主『池田輝政』時代に築かれたもので、『平成の大修理』が今年の3月末に完了したばかりです。今回は平日でもあり、並ばずに入城できました。それでも内部は渋滞するほどの混雑でした。

『同級会』の往復に、『新幹線』を利用しましたが、大半の客が外国人で、それも西欧人が多いことに驚きました。明らかに時代は変わっています。

多くの外国人が日本文化や日本人の気質に触れることは、日本の将来のために好ましいことです。その分、日本人にはストレスになりますが、『相手を知って共存する』以外に『異文化』と接する方策はないことを、日本人も受け容れなければなりません。

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2015年5月25日 (月)

爺さん御一行神戸、有馬温泉、姫路に遊ぶ(3)

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スーパーコンピュータ『京(けい)』の説明を伊藤氏から受ける

スーパーコンピュータ『京』は、4ケのCPU(中央演算ユニット)が搭載されたボード、24枚のボードで構成されるラック、864台にラックで全体の演算システムが構成されています。この演算システムは、建物の3階にある、50mX60mの無柱空間のスペースに置かれています。CPUの総数は88128ケになります。外部記憶装置を用いたファイル・システムは建物の1階にまとめて収容されています。CPU間は、『トーラス結合』と呼ばれる新しいアイデアで結ばれていて、全体運用効率を上げると同時に、一つのCPUに不具合が生じても、全体はダウンしないように配慮されています。耐震性を持つ建物、専用の空冷、水冷システムなども最先端です。

2011年に、『京』は世界最速を実現したものの、その後、中国、アメリカの後塵を拝することになっています。コンピュータの世界は10年で10倍の速さへと変わっていきますから、これはある程度やむを得ない話です。しかし、品質の安定度など総合的に観て『京』は現在でも世界トップレベルであることは間違いありません。日本では、『京』より更に100倍速い新しいコンピュータの開発プロジェクトが、既に開始されています。

『京』は、日本の広範囲な裾野技術が総合的に取り入れられていますが、何から何まで純国産とは言えません。例えば『スカラ型』と呼ばれるCPUの基本アーキテクチャ(構造)は、アメリカのサンマイクロシステムズが開発した『SPARC64』を富士通が技術導入し、製造したものです。

梅爺は、仕事の現役時代に、サンマイクロシステムズの『SPARC64』開発センターを見学したことがありますが、その壮大な規模に圧倒されました。また、そこで働く開発者の大半が、インド人、中国人であることにも驚きました。当時のシリコン・バレーは『IC(India,China)』でもっていると揶揄されていました。

このようなことから、インドや中国が日本のライバルになることは当時から予想できました。しかし、『製品』を実現するには、基本技術と裾野技術の総合力の勝負になります。日本の強みはここにあり、現在も有意な条件です。

現在『京』の利用は、一般にも公開されていて、『生命科学』『創薬』『新物質・エネルギーの創成』『地球変動(防災、減災)』『次世代の物づくり』『宇宙解明』などのシミュレーションに活躍しています。

漢詩をつくる趣味を持つ仲間のT氏が、『人の情を知り、詩語を組み合わせて、やがてコンピュータは詩を詠むようになるのだろうか』という内容の漢詩を後の宴会の席で披露されました。

『杜甫』や『李白』の特徴を教え込めば、それらしい『漢詩』をコンピュータは編みだせるとは思いますが、個性があり、時々刻々変容している『人』の『精神世界』の『情』を、コンピュータが、理解したり、模倣したりすることは当分の間は望めないというのが、梅爺の推測です。何よりも人の脳の仕組みを解明することが先決ですが、これは現時点で人類が抱えている最大の難問のひとつです。

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2015年5月24日 (日)

爺さん御一行神戸、有馬温泉、姫路に遊ぶ(2)

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神戸市にある『理研:計算科学研究機構』の外観

神戸にある『理研(独立行政法人理化学研究所)』の『計算科学研究機構』を訪問し、日本が世界に誇るスーパー・コンピュータ『京(けい)』を見学しました。永年『理研』に奉職した仲間のM氏のはからいで特別に丁重な説明を拝聴できました。

『理研』は、国内外に研究拠点を保有し、日本の『科学技術』全般の推進基盤の役割を果たしています。先ごろ『STAP細胞』で、不祥事件を起こし、世間の注目と非難を受けましたが、これだけで『理研』の全てを否定するのは、賢明ではないと梅爺は考えています。

研究といえども『人間』の行為である以上、『間違い』や『不正』が起こる可能性を秘めていますが、少なくとも故意の『不正』の発生は『命取り』になりかねません。特に『科学』は、人間が関与する事象の中で、唯一絶対尺度で『真偽』が判定できる分野ですから、『予測間違い』は情状酌量の余地があるとしても、故意の『偽』の混入は許されません。先ごろの事件は、この『許されない』部類に属しますが、それでも『理研』が日本のために果たしている貢献を考えると、『理研』全体の否定は、国益上得策ではないという判断です。

今後、同じような『不祥事件』が起きないように、研究管理の仕組みを強化した上で、研究者は誇りをもって、邁進(まいしん)していただきたいものです。

私たち同級生の中には、現職中『コンピュータ』の分野を専門とした人が多く、不肖梅爺もその一人です。そのため、『京』の見学時には、70歳半ばの爺さんの団体とは思えないような専門的な質問がいくつか飛び出し、説明して下さった『理研』の『伊藤聡』氏も、時折緊張されたご様子でした。

偶然、『伊藤聡』氏は、以前梅爺が働いていた会社に勤務されていた経歴があり、梅爺のことは『入社時に、特許の発想法、書き方について講義をうけたことは覚えています』と御挨拶があり、恐縮しました。梅爺よりは20歳近い若い方ですから、当時の受講者の顔とお名前を当方は全て記憶しているわけではなく、恐縮の上塗りになってしまいました。しかし、このような偶然の出会いが、旅の醍醐味の一つです。

専門的な話になりますが、『京』は、『浮動小数点演算』を1秒間に『1京(けい)回』こなす能力(10ペタ・フロップスと呼ばれる)があり、完成時の2011年には、世界のスーパー・コンピュータの速さで第一位になりました。『京(けい)』は数の万進法の単位で、10の16乗(10ペタ)に相当するために、公募で『京(けい)』というロゴが採用されました。『京』という漢字には『門』という意味もあり、新しい科学分野を拓くと言う意味や、日本の研究者に門戸を開くと言う意味も込められているようです。

『理研』は『社会知(理研の造語)創生』をモットーにしていますから、『京』はその典型的な手段になります。

民主党が政権をとった時に、『世界の一番になる必要がありますか、二番ではいけないのですか』と、国費節減のために得意げに質問した女性の政治家がいましたが、単なる順位の話ではなく、最高峰を目指すことが、日本の科学技術レベルの多くの分野を総合的に高めることになるという、『科学』の本質を理解していないことを露呈することにもなりました。

国費節減は勿論重要ですが、それだけにこだわって日本が痩せ細っていくのは馬鹿げたことです。『科学技術』には『実現時期(市場先行が圧倒的に有利)』『総費用』『予想創出価値』などが関与し、『周到な議論』よりは『決断して実行』することを優先すべき時もあります。事後に『京』のある面を取りあげて、批判の対象にすることは容易なことです。このような『科学』の本質を理解していない政治家が、『科学技術大国』を目指すなどと発言しても迫力がありません。政治家に問われる資質も時代とともに変わります。旧態依然の『永田町』は、なんとも心もとない限りです。

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2015年5月23日 (土)

爺さん御一行神戸、有馬温泉、姫路に遊ぶ(1)

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神戸の観光地『うろこの館』(異人館)

昭和39年に東京大学工学部精密機械工学科を学士卒業した同級生『24門の大砲クラブ』の恒例の同級会が、5月19日から20日にかけて、神戸、有馬温泉(懇親宴会)、姫路で開催されました。

『24門の大砲クラブ』というような、物騒な同級会の名称は、少々品を欠く『男性顕示』を、ギリギリのユーモアで補っているもので、平和愛好家の真面目な方々や、貞淑な女性の方々からは顰蹙(ひんしゅく)を買いかねませんが、当人たちは、内心気に入っています。『精密機械工学科』は戦前は『造兵学科』と呼ばれていたことが『大砲』という言葉を選んだ背景にあります。

文字通り、24名の男性だけのクラスでしたが、その後2名が鬼門に入り、現在のメンバーは22名です。今回は、私的な事情や健康上の理由で3名が欠席し、参加者は19名でした。70歳半ばの『同級会』で、これだけの出席率をほぼ毎年維持しているのは、考えてみれば驚異的なことです。

お互いがお互いを知り尽くしている間柄ですから、ストレスなく付き合えることが永続きしている第一の要因ですが、まとめ役で『級長』と仲間から尊敬をもって呼ばれているI氏の貢献も多大です。

1泊2日の行程が、恒例化しており、今年は、神戸(異人館、理研コンピュータセンター、防災センター、六甲山展望台)、有馬温泉(懇親宴会:ザ・グラン・リゾートプリンセス有馬)、姫路(姫路城)を訪れました。

観光、修学見学、懇親宴会をバランスよく組み込むよう幹事(O氏、H氏)が苦労され、理研見学には、理研に奉職し、現在も特別顧問のM氏が、移動のマイクロバス手配には、現地に詳しいI氏(級長)やH氏が協力されました。

梅爺にとっては、幹事のご指示に従うだけの気楽な旅で、全てを満喫できました。

宴会の席では、各人の近況報告があり、この年齢になると、どうしても『健康』に関する話題が多くなるのはいたしかたがないことです。『認知症で周囲を煩わすことなく、健康寿命を楽しんでポックリいきたい』というのが共通の願いであることが良く分かりました。

しかし、『生物分子学(特に光合成に関する話題)』、『重力波の存在確認』などの先端科学を話題にする人、『漢詩』や『和歌』の創作に打ち込む人、『囲碁』を楽しむ人、楽器演奏(フルート)や合唱を趣味とする人、老人の健康寿命を延ばすための研究にコミットしようとする人などの話を聞いていると、とても『枯れた爺さんたち』とは言えないことが分かります。老齢化が進む日本では、『元気な老人たち』は、社会的に重要な意味を持つのではないでしょうか。

来年の幹事T氏、M氏の選出と、北陸新幹線を利用した『能登』での同級会開催が、めでたく決まりました。

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2015年5月22日 (金)

千利休と古田織部(2)

梅爺は、『茶道』を習ったこともなく、『茶道』の真髄を会得しているわけでもありませんから、『千利休』や『古田織部』を詳しく論ずる能力がありません。

しかし、『岡倉天心』が、西欧人の皮相な『日本観』を啓蒙するために『茶の本』を英語で書いたのは、適切な手段であったと感じます。『茶の本』の中で、天心は、『日本が独自の技芸を深めていた時、日本は(西欧から)野蛮国と呼ばれ、満州で戦争を起こし、大量殺戮をするようのなると文明国と呼ばれるようになった』と皮肉り、『西欧の特徴は「理性」で「自慢」することであるが、日本の特徴は「内省」することである』と、『精神世界』の価値観の違いの本質を表現しています。見事な洞察です。

最も深い『心の解放』は、全ての制約を廃したときに得られるのではなく、逆に非常に制約された環境で得られるという、一見すると矛盾する考え方が、日本の『精神文化』の根底にあるように梅爺は感じます。

『和歌』『俳句』『茶道』『華道』『能』『狂言』などの『美意識』は、厳格な『作法』に縛られたなかに、『真に解放されたもの』として存在するという考え方です。『解放は、制約を排除することで得られる』と『理』で考えている西欧人には、理解が難しいかもしれません。

『千利休』は、『習いの無きを極(きわみ)とする』と『茶道』の真髄を語っています。ただ『作法』を習得しただけでは、『茶道』を会得したことにならないという教えです。

『古田織部』は『千利休』の弟子として、この真髄に迫った第一人者です。『古田織部』が好んだ『茶碗』の形と絵柄や『茶室』の様式は、『千利休』の好んだ『茶碗』や『茶室』とは異なります。しかし、『師』は『弟子』を認めています。『習いの無きを極(きわみ)とする』を、自由奔放な『古田織部』の表現が体現しているからです。

『古田織部』の『茶碗』の形、絵柄のデザインは、現在の私たちが観ても、違和感のないもので、現代アートと比較しても、ひけをとりません。しかも美術品にとどまることなく、茶の道具として『用』の機能も満たしているわけですから、感嘆してしまいます。

400年前に、このような斬新なデザインは、『あまりにも風変わり』と理解されなかったのかというとそうではなく、たちまち『織部好み』として、当時茶人の間で大流行したところをみると、既に当時の日本人の『美意識』の琴線に触れるものであったことが分かります。

『自由』は、制約を解き放つことではなく、制約の中にこそ存在するという考え方は、『芸術』や『人間の生き方』にも適用できるものです。

日本人に継承されてきた『美意識』や『人生観』は、深い『内省』から生まれたもので、世界に誇りうるものであるように梅爺は感じます。

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2015年5月21日 (木)

千利休と古田織部(1)

地上波NHK教育チャンネルで、放映される『日曜美術館』は、梅爺の好きな番組の一つです。

『古田織部』と彼が考案したと伝えれている焼物『織部焼』が紹介されるのを観て、日本人の『美意識』とは何なのだろうと、あらためて考えさせられました。

『古田織部』は戦国武将の一人で、信長、秀吉、家康に仕えていますから、一見『世渡り上手』に見えます。『茶道』に関しては『千利休』を師とし、相互に敬愛する師弟関係を全うしています。

『千利休』も、堺の町人の出身ながら、『茶道』で認められ、信長、秀吉に仕えています。こちらも『世渡りの才覚』があったと想像できます。

『権力者』の側へ近付き、その庇護で、自分の名声も得るという処世術は、一歩誤ると、『権力者』の不興を買い、身の破滅を招く危険をはらんでいます。これはいつの時代でも人間社会に起きることです。

『千利休』は、『秀吉』の不興を買い、『古田織部』は家康の不興を買って、両者とも『切腹』の死を遂げています。それぞれの不興の原因は、必ずしもはっきり分かっていませんが、『千利休』は秀吉に対する不敬の態度、『古田織部』は家康に仕えながら、豊臣方と密通した疑いが取りざたされています。

権力とは最も無縁なはずの『風流人』が、『権力者』に近づこうとする態度に、人間の『精神世界』の一筋縄ではいかない、矛盾や多様性が窺え、興味深いのですが、『古田織部』は更に『武人』であって『風流人』であるということになりますから、一層謎めいた人物に見えてきます。

『風流人』と『世渡りの才覚』の関係は、現代の『芸術家』の『処世術』に通ずるものがあり、面白いテーマですが、今回は『美意識』についてのみ、考えていきたいと思います。

『千利休』『古田織部』は、突出した『美意識』の持ち主であったことは、間違いなく、400年後の私たちも、『共鳴』できることがその証拠です。

日本人の『美意識』の潮流は、歴史や風土の中で育まれてきましたが、時に突出した『美意識』のリーダーが出現し、その影響を強く受けてきたことも事実でしょう。『和歌』『俳句』『茶道』『華道』『能・狂言』『歌舞伎』『音曲』『絵画』『彫刻(仏像)』『建築(内装、外装)』など全てにそのことが言えます。『武道』までも『美意識』の対象になりました。

日本人の『美意識』の根底に、『雅(みやび)』『侘び、寂び』『粋』という、世界に誇りうる共有概念がありますが、『茶道』の『美意識』の確立に『千利休』『古田織部』が深く関与しています。

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2015年5月20日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『検閲と沈黙』(4)

『人』は静かな環境では、大声で静寂を破ることを憚ります。一方、喧騒の中では、重要な音(情報)を聞き逃してしまいます。そして、同じ情報に繰り返し接していると、それが『真実』であると『信ずる』ようにもなります。 

『ウンベルト・エーコ』は、『本当に重要なことを口にすると周囲から問題にされるが、些細なことで相手の上げ足を取って貶(おとし)めようとしても問題にはされない』と皮肉をこめて述べています。そう言われれば、国会の質疑応答などは、この見本市のような気がしてきます。 

これらの、『脳』や『精神世界』の習性や能力限界をうまく利用して、私達は日常的に、知らず知らず『検閲』されているのではないか、というのが『ウンベルト・エーコ』の洞察です。 

為政者や指導者が、あからさまに『言論弾圧』『思想弾圧』することだけが、『検閲』ではないという話ですから、『そう言われれば思い当たることがある』と自信を喪失してしまいます。

『人』の『精神世界』は、『個性的』であり、『安泰(自分にとって都合のよいこと)を希求する本能』に支配されており、『自然の摂理に縛られない自由な発想』が可能であるという特性を先ず頭に入れておく必要があります。

一方、『人』は群をなして生きていくことを選んだ生物ですから、群(社会:コミュニティ)の約束事を遵守しなけれなりません。

一人一人が、個性的で、本来異なった考え方、感じ方をしている『人』が集まった『群(社会:コミュニティ)』では、同じ価値観で行動することを強いられるという『矛盾』が存在することを直視しないと、『検閲』の問題の本質は見えてきません。

『個人』と『群』が、相互に妥協できる価値観を見いだせるかどうかがカギとなりますが、現実には、そう簡単な話ではありません。人類はこの問題に適切な回答を未だ見出していません。友情は破綻し、夫婦は離婚し、親子さえも仲違(たが)えをすることが起きます。国家や民族といった『群』と『群』の間でも、同じ問題を抱えていて、これの解決策も見出していません。

私たちは『個人』の特性、『群』の特性を理解し、その間に存在する『矛盾』も受け容れた上で『自分はどう考え、どう行動するか』を決めなければなりません。

そのために生涯『学ぶ』姿勢を継続し、理性を研ぎ澄ます努力が必要になります。

たとえそうしたとしても、私たちの『精神世界』は、他からの『検閲』ばかりではなく、自分で自分を『検閲』してしまう、危うい存在であるというのが、『ウンベルト・エーコ』の警告であると感じました。

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2015年5月19日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『検閲と沈黙』(3)

20世紀のオーストリアの哲学者『ヴィトゲンシュタイン』は、『語りえぬものは、沈黙しなければならない』という有名な言葉を残していますが、一方『語りえぬようにするためには、沢山語らねばならない』と、矛盾する言葉も残していることを『ウンベルト・エーコ』は紹介しています。

『ウンベルト・エーコ』の主張は、『検閲は、沈黙を強いるものと、喧騒(ノイズ)で牽制するものの2種類がある』という洞察です。

『沈黙』を強いる『検閲』は、直接的なもの(異端尋問など)と、間接的なもの(盗聴などによる身辺調査)があります。『検閲』と呼ぶかどうかは別にしてもインターネット環境では、誰もが動向を監視されています。いずれにしても『検閲』は陰険な手段で行われます。

身の危険や、拷問、処刑まで覚悟して『沈黙』を破ることを多くの人は避けるため、ある程度『検閲』は効果を発揮します。『人』の『安泰を最優先する本能』を悪用した、ずる賢い手段です。しかし、死を賭して『沈黙』を破る勇気ある人の出現を、くい止めることもまた難しいことです。

ノーベル平和賞を受賞した、アフガニスタンの少女『マララ』さんの例のように、彼女を支持する世界中の人たちの『絆』が、『検閲』者を追い詰める力に変わっていきます。人類の歴史は、『検閲』を強化する人達と、『検閲』をはねのけようとする人達の、闘争の歴史であるとも言えます。『人』や『体制』が『都合のよいことを優先しようとする』以上、この闘争は絶えません。『宗教』さえも例外ではありません。

『ウンベルト・エーコ』が主張する、もう一つの『喧騒(ノイズ)で牽制する検閲』の方が、実はもっとずる賢いものかもしれません。

『ヴィトゲンシュタイン』の『語りえぬようにするために、沢山語らねばならない』という主張を実践することが、これに相当します。

『ウンベルト・エーコ』は、イタリアの国営テレビ局が、ニュース番組のトップに、『交通事故』や『殺人事件』を持ってくることを例に挙げています。それ自体は、深刻な話ですが、視聴者は、『身の回りで起きている最も懸念すべきこと』が報道された事故や事件だけであると思い込み、それ以上の思考を停止してしまいます。別の言い方をすれば、重要なことから眼をそらすように仕向けられていることになります。『喧騒(ノイズ)で牽制する』とはこのことです。これは、イタリアだけの話ではありません。

『ウンベルト・エーコ』はまた、イタリアの首相が、自分の政策に反対する司法判事を貶(おとしめ)るために、首相寄りの新聞を使って、司法判事の日常の些細な行動を報道し続け、読者に『司法判事は、大した人物ではない』という疑惑を持たせようとした例を挙げています。

この他にも、『人』は、繰り返し同じような話を聞かされ続けると、それが一番重要なことと勘違いして信じてしまう習性があります。ナチの宣伝省『ゲッベルス』や、あまり申し上げたくはありませんが『反日』を煽るための、中国や韓国の指導者の言動も同類のような気がします。

些細な『事実』と『最も懸念すべき事実』とを区分けすることは、『人』にとって非常に難しいことなのです。

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2015年5月18日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『検閲と沈黙』(2)

『検閲』の単純な方法は、権力者や権力体制にとって都合の悪いことを、書いたり読んだり話したりしてはいけないと『沈黙』を強いることと、既に発表されてしまった内容を、隠ぺい、削除することです。

歴史を観れば、極度の『検閲』は、反って人々の反撥を招き、権力者や権力体制が覆すことになる事例で溢れていますが、現在『検閲』を行っている人たちは、そのことを内心恐れるが故に、『自分達の体制は覆ることはない』と自分に言い聞かせ、陰湿な方法を更に強化することになります。『中国』『北朝鮮』『イスラム国』で、現在の日本人の常識とはかけ離れた『検閲』が行われ、人々が『沈黙』を強いられていることは、容易に想像がつきます。

戦前の日本で『特高』とよばれる秘密警察が、どのように思想弾圧を行ったかを思い起こせば、日本人がいつの時代も賢明であったとは言えません。数百万人の命を犠牲にし、国土を焦土にして得た『民主主義』は、これ以上の貴重なものは無いのかもしれません。自分が生き残った側の人間であることに、感謝と後ろめたさを感じます。

『物質世界』に属する『ヒト』も、『精神世界』を保有する『人』も、進化の過程で継承してきた属性として『個性的』であるということを、多くの人が理解せずに、人間社会には混乱が生じていると梅爺は感じています。

一人一人が、『厳密にいえば、異なったように考え、異なったように感じている』という宿命的な『事実』を直視し、その違いをお互いにどのように克服するかを、暴力行為ではなく議論で対応する必要があります。人間関係が自分の希望する通りに展開しないのは、当然のことであると受け容れるのは覚悟と勇気を要します。

『人』が『個性的』であることを認めないと、『自分の考え方、感じ方だけが正しい』と主張することになり、そう考えたり、感じたりしない人を、『間違い』と断じて、『異端者』『非国民』などのレッテルを貼って、弾圧することになります。

『民主主義』は、時間をかけても『話し合い』で、妥協点を見つけて合意しようというシステムですから、非常に効率の悪いシステムです。これにくらべれば、『一党独裁』『独裁』は、一見効率の良いシステムです。中国が経済力や軍事力で、短期間に急成長出来るのは、この効率のお陰ですが、その分、危険な歪(ひずみ)を社会が抱え込むことになります。地震と同じく、この歪をいつまでも抑え込み続けることは不可能です。

『人』が個性的である宿命から逃れられない限り、効率の悪い『民主主義』に行き着くしかないように思います。いくら洗脳しても、全ての人を『非個性的』に変えることはできません。『非個性的』であることは、『人』が『人』であることを否定することであるからです。

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2015年5月17日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『検閲と沈黙』(1)

ウンベルト・エーコのエッセイ集『Inventing the enemy(敵を創る)』の7番目のテーマは、19世紀のフランスの文豪『ヴィクトル・ユーゴー』の類まれな文才、虚構創造能力を分析したものです。 

イタリア人の『ウンベルト・エーコ』が、フランス文学を論ずるわけですから、多分原語(フランス語)にも精通しているのでしょう。ヨーロッパの『教養人』の深い素養が垣間見えます。 

『ウンベルト・エーコ』は、『彼(ユーゴー)は自分がヴィクトル・ユーゴーであると強く信じていた狂人である』と述べています。いかにも『ウンベルト・エーコ』らしいユーモアと皮肉が込められている表現ですが、梅爺流に言いなおせば、『自分の文才に酔いしれる自信家であった』ということなのでしょう。時に醒めた目で自分を観る『ウンベルト・エーコ』にとっては、いかなる時も疑いなく自分の能力を信ずる『ユーゴー』が羨ましいということなのかもしれません。 

『ヴィクトル・ユーゴー』の『浪漫小説』は、以下の要素の寄せ集めであると分析しています。こういう手法も『ウンベルト・エーコ』的です。 

『純粋な情熱』『罪の意識と、一方罪に魅惑を感ずる相反する意識』『極貧の身から宮廷の要人への劇的な運命の急転換設定』『不正に対する圧倒的正義感』『恋人の死や主人公の最終的自殺といった、全てを失う状況もいとわず真実を明らかにしようとする英雄的な証言』 

『レ・ミゼラブル』や『ノートルダムのせむし男』などの筋書きを、梅爺は子供の頃日本語に抄訳された『世界少年文学全集』で読み、最近では映画、ミュージカルで知っていますが、とうてい『ヴィクトル・ユーゴー』の『文学的才能』を論ずるほどの能力は持ち合わせていませんので、このエッセイに関してこれ以上感想を書くのはやめにしたいと思います。 

8番目のエッセイは『検閲と沈黙』で、『精神世界』の自由な発想、表現が外部要因で規制される問題を論じたものです。

『検閲と沈黙』と言うタイトルを観れば、私たちはすぐに『独裁者』や『独裁体制』による『言論弾圧』を思い浮かべますが、『ウンベルト・エーコ』の思索対象は、そのようなありきたりなものではありません。

言論の自由が、基本的人権として保証されている民主国家でも、実に巧妙なしかけで、私たちの自由は奪われ、私たちは目隠し状態に置かれていることを、論じています。

『広告宣伝』のように、『仕掛ける側』に、『仕掛けられる側』を『操ってやろう』という意図がある場合と、『仕掛ける側』も『仕掛けられる側』も、『当たり前のこと』として悪意や意図を感じないで対応していることが、結果的に『仕掛けられた側』を盲目状態に追いやったり、その価値観を規制したりすることがあるという話ですから、厄介です。

何故このようなことが起きるのかの原因は、それほど難しい話ではありません。いつもの論法で恐縮ですが、『人間の精神世界を支配しているものの一つが、安泰を希求する本能である』という梅爺の仮説で原因の一部は説明ができるように思います。

もう一つは、『人間の精神世界を創りだしている脳の活動には、能力や容量に物理的な限度がある』という、『物質世界』の『摂理』が関与する宿命的な話で説明がつきます。

『人』の行動は、『物質世界』の『摂理』と、『精神世界』の習性に基づく価値観で規制されていて、頭の中で思い描く理想像にくらべると、ズレている場合があるということを、『そういうものだ』と受け容れるほうが、気楽に生きていけます。

梅爺は、『聖人君子』や『温厚柔和な好々爺』から、自分がズレていることを自覚しています。勿論そのことで居直るつもりはありません。

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2015年5月16日 (土)

地球の変容と『ヒト』の進化(10)

『人』の『進化』を考えるときに、『生物学的な進化』と、獲得した知識とその応用方法を、共有、継承することで、『人』や人間社会が変わる『人為的な進化』とに分ける必要があります。

前者は、地球の変容を引き金に、数十万年という永い時間をかけて起きてきた事象ですが、後者は、数年から数十年といった短い期間で起こる事象です。特に『科学知識』を沢山獲得した直近の200年での『人為的進化』は目覚ましいものがあります。『自動車』『飛行機』『ラジオ・テレビ』『コンピュータ』『インターネット』『無線通信(携帯電話、スマートフォン)』が、私たちの生きる環境を短期間に変えた実感は、誰もが知っています。私たちは別人になったようにも見えます。

『生物学的な進化』では、『弱者』は淘汰されていきますが、現代社会では、『弱者』も『強者』も共存させるという考え方が一般的ですので、『生物学的な進化』が『起きにくい』環境になっています。有体(ありてい)に云ってしまえば、『好ましい遺伝子も、好ましくない遺伝子も子孫へ継承される環境』になっているということです。このため、日常的に『生物学的な進化』が話題にあがることはほとんどありません。

『生物進化』の著名な科学者『リチャード・ドーキンス(イギリス)』は、『人為的な進化』を実現できるようになったのは、『人』が『言葉』を獲得したからと指摘しています。

『ホモ・サピエンス(現生人類)』が出現するまでに、20種に近い『ヒト』の『種』が絶滅しています。最後まで『ホモ・サピエンス』と共存していた『ネアンデルタール』は、外見的な容姿や脳の容量も『ホモ・サピエンス』とほとんど変わらないといわれていますが、何故絶滅したのかは、分かっていません。

有力な仮説は、『言語能力』に大きな差があったというもので、『ネアンデルタール』は、『喉仏(のどぼとけ)』の位置が『ホモ・サピエンス』より高い所にあり、気道が短く、母音の発音がうまくできなかったと推定されています。また、『ホモ・サピエンス』だけが保有する『言語能力』に関する遺伝子も見つかったとも報告されています。

生物としての『ヒト』は、地球の変容をトリガにして『進化』してきましたが、『ホモ・サピエンス』はそれに加え、『人為的な進化』で、他の生物と一線を画す『人』という存在に変貌したと言えます。

梅爺は、この番組を観て、『人為的な進化』を可能にした、『脳』および『精神世界』への関心があらためて深まりました。

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2015年5月15日 (金)

地球の変容と『ヒト』の進化(9)

生物や『ヒト』の進化は、『物質世界』を支配する『摂理』の一つである、『熱力学の法則(第一法則:宇宙のエネルギーの総和は一定、第二法則:宇宙のエントロピーは常に極大へ向かう)』に矛盾する事象に一見するように見えます。

グラスの中の水に、一滴のインクをたらせば、やがてインクは水全体に一様に薄まります。インクの粒子を結合していた高い秩序が、粒子をバラバラにしてしまう低い秩序へ、つまりエントロピーが増加する方向へ状態として移行したことになります。自然現象では、逆に一様の低い濃度のインクが、グラスの中で集まって元の高い濃度のインクへ戻る現象は起こりません。

ところが、私たちの身体では、アミノ酸や塩基といった素材を集めて、維持するためには高秩序を必要とする高分子のタンパク質を生成しています。

『進化』も、『単細胞生物』から『多細胞生物』へと、より秩序を必要とする方向へ移行しています。

これらの『生命維持のためのタンパク質生成』『進化』は、低い秩序から高い秩序へ移行すると言う、自然界の法則に一見反するような事象です。

この謎は、『宇宙』全体の動向とは逆に、『地球』環境は、エントロピーが減少していると観れば解けます。つまり、『地球』は誕生以来、外部から得る熱よりも、内部から放射する熱の量が多いことに起因するというのが、『生命誕生(講談社現代新書)』の著者『中沢弘基』先生のご指摘です。

『生命出現』『生物進化』も、学際的でマクロな総合理解でないと、説明できないことの典型例のように思えます。宇宙のどこかに、一見『地球』と似た環境の惑星があったとしても、『地球』と同じように、熱放出が継続しなければ、『生命出現』『生物進化』は起こらないと言う話になります。

『命』は『崇高なるもの』と言う認識は、『人』の『精神世界』が考え出した価値観で、人間社会にとっては重要な認識として継承共有してきました。

一方『物質世界』での『命』は、他の事象と同様に、『摂理』に支配される事象の一つに過ぎません。『より高い秩序で維持されるもの』とは言えますが、『崇高なもの』とは言えません。『物質世界』には『崇高』という概念が無いからです。

私たちは、『命』に対する、『精神世界』と『物質世界』の異なった理解を両方受け容れる必要があります。大震災で、多くの命が一瞬にして失われる現実(物質世界の事象)と、それが人間社会にとって、『耐え難い心の痛み』である現実(精神世界の事象)は、このような背景理解がないと洞察できません。

大震災は『神』とは無関係に、『摂理』が関与する『地球』の変容がもたらすものですが、『耐えがたい心の痛み』は『神』にすがって癒されることが無いとは言えません。『神』や『信仰』は、『精神世界』においてのみ、意味を持つ『人』が考え出した概念であろうと梅爺は考えています。『精神世界』は『人』にとって意味があるからこそ存在しています。実態が無いから無意味と退けることはできません。しかし、あくまで『人にとって意味があり、人がいない世界には存在しない』という視点も忘れてはいけません。

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2015年5月14日 (木)

地球の変容と『ヒト』の進化(8)

私たちは『ヒト』は特別の生物と考えがちですが、ほとんどの機能は、『ヒト』になる前の先祖の生物から継承しています。特に、肉体的な基本的機能についてはそう言えます。

遺伝子を継承して、世代交代していく仕組みは、全ての生物に共通で、最初の単細胞生物時代から変わりません。肺を利用した酸素摂取、心臓を利用した血流循環、消化による栄養素の摂取と老廃物の排泄、など『ヒト』になる以前に獲得した機能です。

母親の子宮の中で胎児を育て、出産後は母乳を与えるというしくみも哺乳類生物に共通しています。『ヒト』は産まれてから思春期を迎え大人になるまでに、他の生物にくらべ、永い期間を必要とします。これは、種の存続には不利な条件ですが、高度な脳の機能を逆に有利な条件として選択した代償です。つまり大きな脳を持つために、出産の大変さや、成人になるまでの永い期間といったマイナス要因を抱え込んだことになります。高度な脳を種の繁栄の決め手として、優先度選択したかわりに、不都合も生じているわけですから、『ヒト』は、何から何まで理想的な仕組みで成り立っているとは言えません。『物質世界』には『理想』という概念は無く、種々の要因のバランス(平衡状態)で成り立っているだけです。

顔の全面に二つの眼を持つのも、哺乳類の一部が獲得した性質です。視角を犠牲にして、『立体視』機能を優先したためです。猛獣のハンティングや、霊長類の樹上生活(枝から枝へ移る)では、『立体視』が重要であったからです。一方草食哺乳類の多くの眼は、顔の側面にあり、視角の広さを重視しています。周囲の危険をいち早く察知するために重要であったからと考えられています。

『ヒト』の頭蓋には、眼球が揺れないように『眼窩後壁』があり、視細胞を集中させた網膜を保有して、必要な部分を『ハッキリ観る』ことが可能になっています。また、他の多くの生物が『二色型色覚』であるのに対して『三色型色覚』を保有しています。霊長類時代に果実や木の若葉を識別するために必要としたからでしょう。

『三色型色覚でハッキリ観る』という機能は、他人の表情を素早く読み取ることを可能とし、後に『ヒト』の『精神世界』を大きく進化させる要因の一つにもなりました。これも結果的にそのように利用されたという話です。

『ヒト』になってから、独自に進化させた最大の機能は、『脳』の総合的な情報処理能力ではないでしょうか。梅爺流に表現すれば、高度な『精神世界』を獲得したことで、ついに『ヒト』は『人』に変貌したことになります。

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2015年5月13日 (水)

地球の変容と『ヒト』の進化(7)

『地球』に多様な生物が棲息している事実は、『生物進化論』で説明するのがもっとも矛盾が少ないと考えられています。しかし、『進化』の過程で起きた全ての事象(いつ、どこで、何が、何故、どのようなプロセスで起きたのか)の詳細について、分かっているわけではありません。 

たとえば、『多細胞生物出現』『両性生殖出現』『哺乳類出現』など、『仮説』はあるものの、詳細のカラクリは分かっていません。 

5億4000万年前の『カンブリア(生物)大爆発』の後、『地球』は多様な生物の住処(すみか)になりますが、その後、生物は絶滅の大きな危機を2度経験しました。 

1回目は、2.5億年前の『シベリア大噴火』で、95%の生物種が絶滅したと言われています。それ以前の生物界の覇者は『哺乳類型爬虫類』であったと考えられていますが、これらはすべて絶滅しました。 

『シベリア大噴火』の後、生物界の覇者になったのは『恐竜』で、『恐竜』の時代は1.5億年間も続きました。しかし、6500万年前に、大隕石が『地球』と衝突し、『恐竜』を始め多くの生物が絶滅しました。これが2回目の危機です。現在の『鳥類』は、『恐竜』の一部が進化したものと考えられるようになり、『恐竜』が絶滅したという表現は必ずしも適切ではないという主張もあります。 

私たち『ヒト』は、『哺乳類』の祖先から派生したものですので、『哺乳類』はいつ出現したのかが気になります。少なくとも『シベリア大噴火』事件の後の、2億2500万年前には、『哺乳類』が存在したことを示す化石が見つかっています。 

その後の『恐竜』全盛時代も、『哺乳類』はひっそり生き延びました。この時代の『哺乳類』は、ネズミのような容姿で、せいぜい15センチメートルほどの大きさでした。 

そしてついに、『恐竜』がいなくなった『地球』で、それまで約2億年間、日蔭者として強者の餌食になることを恐れ、ひっそり生き延びてきた『哺乳類』がついに覇者になるチャンスがめぐってきます。 

アジア大陸で進化した『肉食哺乳類』の『ハイエナドント』が、ヨーロッパやアメリカ大陸で一時覇者になっていいた『大型肉食鳥類(飛べない)』の『ディアトリマ』との闘争に勝利し、『哺乳類』が覇者になりました。まさしく、『驕る平家は久しからず』というような覇者交代が生物の歴史です。それにしても、『地球』に大変動が無ければ、『ヒト』がその後出現したかどうかは分かりません。

この時代『ヒト』の先祖の霊長類は、同じ『哺乳類』の『大型肉食獣』の餌食になる存在でしたので、広葉樹の森の『樹冠』で、木の実を主食になんとか生き延びました。

5500万年前に、ヨーロッパとグリーンランドが分裂し、5000万年前に、インド大陸がアジア大陸と衝突するといった、『大陸移動』が起こり、『地球』は寒冷化、乾燥化の時代になって、アフリカ全土を覆っていた緑の森が激減し、アフリカ北部は砂漠になりました。

『ヒト』の先祖は、食べ物を求めて、ついに『樹冠』の樹上生活をあきらめ、地上(草原)へ降りて生活せざるをえなくなりました。『霊長類』の一部が、その後の『チンパンジー』と『ヒト』に枝分かれしたのはこの時期で、約700万年前と考えられています。

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2015年5月12日 (火)

地球の変容と『ヒト』の進化(6)

『ダーウィン』が『種の起源』を発表したのは、19世紀の後半ですから、それから未だ200年は経っていません。発表直後は、ほとんどの人たちの賛同は得られず、むしろ『神の冒涜者』といった誹謗(ひぼう)を浴びました。

『ダーウィン』は、一切の先入観念を排除し、自分で『観察した事実』だけを利用し、『理』で因果関係を辿って、『生物進化論』に達しました。模範的な『科学者』の姿勢といえます。

『ダーウィン』の『生物進化論』が、『科学』の世界で『定説』となったのは、1930年頃ですから、発表から約100年を要したことになります。私たちは『本当のことを知りたい』などと軽々しく口にしながら、『本当のこと』を提示されても、それを『本当のこと』として受け入れない頑迷なところがあります。

『人』の『精神世界』は、『正しいとして教え込まれた』ことに執着し、その上『安泰を希求する願望(本能)』が『情』として強く働きますので、『自分を疑ったり、自分を客観視すること』を嫌います。自分の『限られた能力』を、過剰評価して自分の判断が『正しい』と思ったり、『こうあって欲しい』ことが『正しい』と思ったりします。

『自分を客観視でき、柔軟に対応できる人』が、つまり『自分の器には限度がある』と知っている人が、実は『器の大きな人』であるというパラドックスのような話です。

『ダーウィン』の学説がすぐに受け容れられなかったのは、『聖書』の記述に背くということが一番ですが、『ヒトとサルの先祖は同じ』という表現に、自分の尊厳が貶(おとしめ)められたと『情(嫌悪感)』で反応したためではないでしょうか。

梅爺も永らく『生物進化論』に疑いをもっていましたが、自分が勝手に思い込んでいる前提が『間違い』と気付いて、いまでは疑いが晴れました。

梅爺の『間違い』は、『より目的に適ったレベルへ変化する』ことを『進化』と勘違いしていたことにあります。

ブログを書いてみて、『物質世界』の本質を自分なりに理解するようになり、『物質世界』には『目的』という概念が存在しないことを知るようになりました。

『進化』は、『物質世界』の事象ですから、『目的』へ向かって変容する事象ではないとはじめて気付いたことになります。偶然突然変異で現出した機能の中で環境に適したものだけが結果的に『生き残ってきた』ということに過ぎません。『進化』は、無目的の試行錯誤の中の一部が残ると言う、極めて効率の悪い、時間を要するシステムです。累々たる『失敗者(絶滅)』の数の中から、ほんの一握りの『成功者』が生き残るというカラクリなのです。勿論、『進化』ばかりではなく、生物にとっては『変わらない』『退化する』も生き残るための選択肢に含まれます。

『成功者』がバトンタッチをして、生き残り続けた故に、私たち『ホモ・サピエンス』が存在しているということになります。世の中に、これ以上の『幸運』の例を探すことは難しい気がします。

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2015年5月11日 (月)

地球の変容と『ヒト』の進化(5)

何度も書いてきたように『地球』に最初の『生命体』が出現したプロセスは、完全な解明ができていません。ただこのプロセスにかかわったのは、『物質世界』の『摂理』だけで、それ以外の『未知なる要素』は関わっていないと梅爺は推測しています。あまりにも見事な『しくみ』が忽然と出現したように見えますが、ある条件で『摂理』が働けば『生命体』の出現は再現できるという論理的な推測で、多くの科学者もそのように考えています。

『生命体』のその後の進化は、順調に進んだのかといえば、そうではなく、『生物』は何度も『絶滅』の危機に遭遇しました。その危機の要因は全て『地球』の変容です。その危機を辛うじて乗り越えたからこそ、私たちは現在存在していることになります。『ホモ・サピエンス』を生みだすために、『生物』は進化してきたのではありません。その都度、危機を乗り越えるために偶然選んだ進化の内容が、結果的に『ホモ・サピエンス』をうみだすことになったと考えるべきでしょう。現実に『地球』上で次々に起きたことは、『神が、神に似せて人を創った』などという、単純で生易しい内容ではありません。

40億年前に出現した『生命体』は、『単細胞微生物』であり、この状態は、5億4000万年前までは、変わりませんでした。この35億年の間、地球環境は大きく『変容』を続けていて、『単細胞微生物』はそれぞれの過酷な環境下で、それなりの進化はありましたが、『単細胞生物』にとどまっていたことになります。

5億4000万年前に始まった『カンブリア紀』に、生物は一気に大進化を開始し、『多細胞生物』が出現し、その『多細胞生物』が多様に枝分かれしていきます。これを生物の歴史では『カンブリア爆発』と呼んでいます。『カンブリア紀』直前に、『地球』は『全球凍結』といって全体が氷に覆われていた時代がありましたが、火山の噴火で、『地球』は温暖化に移り、氷河と一緒に海へ流れ出した陸の豊富なミネラル類が『カンブリア爆発』の引き金になったと考えられています。ミネラルが無ければ、生物の脊椎(骨)や甲殻は生まれないからです。『地球』の変容が生物進化を促した典型的な事例です。

この時代、生物は海の浅瀬のサンゴ礁の森に棲息しており、『地球』は生物の楽園となりましたが、この時代もいつまでも続きませんでした。『地球』で大陸移動がはじまり、浅い海の面積が激減したからです。

生物間の生存競争は熾烈になり、生き残るために必要な機能を進化で獲得した生物だけが、絶滅を免れました。

一部の生物(動物、植物)は、生き残るために住みなれた海をはなれ、陸に活路を求めました。動物は、ヒレを手足に進化させ、陸上での酸素摂取を可能とするための肺の機能などを進化で獲得することになります。しかし、陸へ進出した『生物』にも次なる試練が次々に襲い掛かかります。2.5億年前(シベリアの大噴火)と6500万年前(巨大隕石の衝突)に、『地球』の生物は絶滅の危機に瀕しましたが、全滅は免れました。

私たちは動物の進化ばかりに目を向けがちですが、植物も生き残りのために、熾烈な進化を経験してきており、『地球』の気候変動に応じて、1.5億年前に針葉樹に加えて広葉樹(果実を持つ)が出現しました。

当然のことながら、植物の進化と動物の進化は、深く相互に関係しています。横に枝を伸ばし、果実を実らせる広葉樹の『樹冠世界(木の枝から木の枝へ渡り歩ける世界)』を利用して、『ヒト』の祖先の霊長類は生きる場を見つけました。野生のゴリラやチンパンジーは、今でも『樹冠世界』を生活の場にしています。

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2015年5月10日 (日)

地球の変容と『ヒト』の進化(4)

『釈迦』は、この世を支配する究極の真理を『縁起(えんぎ)』と洞察しました。全ての事象は、相互に依存関係にあるという考え方です。 

『物質世界』は、全ての事象が相互依存で、新しい平衡状態を求めて変容していく世界であることが、その後科学知識で判明しましたので、基本的に『釈迦』の『縁起』という考え方と矛盾しません。 

2500年前に、現在のような科学知識を持たない『釈迦』が、『精神世界』の純粋な推論行為だけで、『縁起』を洞察したことは驚くべきことです。 

しかし、『縁起』は、哲学的な概念にとどまらず、その後『輪廻転生(りんねてんしょう)』『極楽(浄土)、地獄』などの『虚構』がこの概念と結びつき、仏教の教義の大きな柱になっていきます。『輪廻転生』『極楽、地獄』は、『仏教』以前から存在していた『ヒンドゥー教』の考え方が、『仏教にとりこまれたのではないでしょうか。これらを『虚構』とするのは、梅爺の推測で、『虚構』ではなく『実存する事象』として『信じて』おられる方が沢山存在することは承知しています。 

『霊の不滅』『輪廻転生』『魂の生まれかわり』は、その他の『宗教』でも使われる概念ですが、梅爺の理性では納得できる説明が得られません。梅爺の死後、梅爺の肉体をを構成していた『炭素』や『カルシューム』が、新しく誕生する他の生物の素材として流用されることは当然あろうと思いますが、『炭素』や『カルシューム』は、あくまでも『炭素』や『カルシューム』であって、梅爺の属性が新しい生物によって受け継がれることはありません。つまりその生物は梅爺の『生まれかわり』とは呼べません。 

生前存在していた梅爺の『精神世界』は、電源を断たれたパソコンのソフトウェア同様、肉体(脳)の死とともに、機能しなくなりますので、消滅することになります。誰も『霊』の素材や、『霊』の活動エネルギー源について論じないのは、『霊』は『精神世界』が創造した『虚構』であるからではないでしょうか。『虚構』は、『物質世界』の『摂理』の支配を受けないからです。 

『梅爺閑話』のコピーは梅爺の死後も残りますが、これは生前に梅爺の『精神世界』のある局面を表現した記録に過ぎず、変容し続けていた梅爺の『精神世界』を再現することなどは、至難のことです。

『ヒトの進化』や『生物の進化』は、全て『地球の変容』と関連して起きた事象として説明できるということで、『地球の変容』そのものも、『物質世界』の変容が作り出した事象に過ぎません。つまり『縁起』の視点で観ないと、全容をマクロに理解することはできません。沢山の科学知識を獲得した現在であるからこそ、ものごとを『学際的』に観ることの重要性が増しています。

面白いことに、生物の歴史は、ある時期『強者』であったものが、その後進化した『弱者』によって、王座を奪われることの繰り返しのように見えます。恐竜の時代、弱者であった『哺乳類』から、やがて『霊長類』『ヒト』が出現し、『ホモ・サピエンス』が世界を支配する生物になりました。

『ヒト』は46億年の地球の歴史では、ごく最近に『弱者』として出現した生物であるということです。ついに『強者』になりましたが、今後も『強者』であり続ける保証は残念ながらありません。

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2015年5月 9日 (土)

地球の変容と『ヒト』の進化(3)

46億年前に誕生した『地球』に、約40億年前に最初の『生命体』が出現し、それは単細胞の微生物であったと考えられています。

深海の熱泉噴出口の近辺で、種々の稀なる好条件が重なって、『生命体』の先祖が生まれたという説が有力ですが、必ずしも定説としては認められていません。水中では、RNA,DNAといった遺伝子情報をもつ物質ができない(生成には有機素材の脱水反応を必要とする)という反論があります。生きるために水を必要とする生命体が、水のある環境では出現しないという矛盾が解けていません。満干(みちひ)を繰り返す干潟のような場所が生命出現の場ではないかという仮説があります。『地球』環境における『生命体』の出現は、現代の科学においても『最大の謎』の一つです。

『生命体』である以上、『個』としての生命活動が可能であると同時に、細胞分裂で、『個』のコピーを増やす(子孫を残す)機能、すなわち遺伝子情報を構成するDNA(核酸)のコピーも行って子孫へ伝えていく機能も保有していたことになります。現在『地球』上に存在している全ての『生物』に、この方式は継承されていて、『ヒト』も例外ではありません。生物種によって、遺伝子の数は異なっていますが、遺伝子を構成する素材(4種の塩基、アデニン、グアニン、シトシン、チミン)は全て共通です。生物種の異なった遺伝子を、人工的に組み換えて、自然界に存在しない新種の生物を創りだすことが可能なのはこれに依ります。

まるで『レゴ』を組み合わせるように、論理的には新種の生物を生みだせるまでの科学知識と、それを実現する方法(技術)を人類は獲得したことになります。これを無制限に応用することを『認める』かどうかは、『科学』ではなく人間社会が約束事として決めるべきことです。慎重の上にも慎重であるべきと梅爺は考えています。新種の生物は、自然界に存在する生態系に影響を与え、取り返しのつかない状態になる可能性を秘めているからです。

『生命体』を構成する素材、細胞が生命活動を維持するためのエネルギー摂取の仕組み、遺伝子をコピーして子孫へ伝えていく仕組みなど、多くのことが部分的に分かっています。当然のことながら、いずれも『物質世界(自然界)』に共通に存在する素材(元素)を利用したもので、生命活動に必要な物理反応、化学反応は、『物質世界』を支配している『摂理(法則)』を利用していますから、『生命体(命)』も基本的には『物質世界』に属するものと梅爺は定義しています。

『非生物』『生物』をひっくるめて『物質世界』に属すると言う定義に抵抗を感ずる方がおられるとみえ、『あなたは、命も石ころも同じと言うのですか』という質問をブログの読者から受けたことがあります。多分『命』はやがて『心』をもつ『生物』になっていったという考え方が根底にあり、『命と石ころを同等視する』などという考え方にはついていけないと感じられたのでしょう。

『生命体(命)』の出現は、科学でも解明できておらず、『非生物』の世界に突然見事な仕組みを持つ『生物(生命体)』が出現したことには、未だ人間が知らない何かの『神秘な力』『神秘な要因』によるものではないのかと、梅爺もはじめは考えましたが、どう考えてもその『神秘な力』『神秘な要因』も『摂理』以外のものとは考えられないという結論(推定)に行き着きました。『物質世界』に『生命体』が誕生したと言う事実が、それを端的に裏書きしているように思います。

『物質世界』という呼び方に抵抗があれば、『自然界』と呼んでもかまいませんが、『非生物』『生物』を問わず、その世界は同じ『摂理』に支配されていると同列に考えた方が納得できるというのが、梅爺の得た結論です。

『生物』の一部がやがて『脳』を獲得し、その副産物として『心』を保有するようになったという想定になりますので、『心』を包含する世界を梅爺は『精神世界』と定義しましまた。『精神世界』は、『物質世界』の『摂理』の影響も受けますが、『摂理』に支配されない『仮想世界』もつくりだす潜在能力を秘めています。この特性が決定的に違っています。

特に『人』の『精神世界』は、高度に進化した結果、『物質世界』には実態が存在しない『抽象概念』や『虚構』を創出したり共有したりできるようになりました。

梅爺は、『物質世界』と『精神世界』の特性を頭において、周囲の事象を観察するようになり、今まで不思議に思えていたことが、『なーんだ、そういうことか』と理解できるようになりました。したがって、この考え方が現時点では気に入っています。しかし、これ以上に論理矛盾のない考え方は存在しないなどと不遜に思っているわけではありません。

もっと見事な考え方(論理体系)に接すれば、すぐに節を曲げることになるにちがいありません。

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2015年5月 8日 (金)

地球の変容と『ヒト』の進化(2)

この番組では、『地球』と『ヒト』との関連が、『天文(物理)学』『生物(進化)学』『考古学』『生物分子学(遺伝子、細胞など)』『脳科学』『気象学』『地質学』などを総動員して解説されます。 

アメリカで始まった歴史教育の手法『ビッグ・ヒストリー』と同じ視点です。『ビッグ・ヒストリー』については前に紹介しました。 

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-9704.html

各分野で獲得した『科学知識』を、このように学際的に利用して、全体をマクロに把握する重要性が増しています。日本でもこの教育手法が採用されることを期待します。 

『哲学』『宗教』『芸術』などの分野も、学際的な検証の対象にすべき時代になったと梅爺は考えています。『自分はいったい何者か』などと『哲学』だけで悩む前に、この番組を観れば、『哲学』でしか通用しない難解な専門用語などを導入する必要性の大半はなくなるのではないでしょうか。 

この番組には、『神のデザイン』『神による奇跡』などの表現は一切登場しません。全ての『因果関係』が『物質世界』の『摂理』だけをベースにして説明されます。勿論現時点の科学知識では説明できない事象はあり、それについては『仮説はあるが未だ分かっていない』という正直なコメントがありました。やがては解明される可能性があるという前提です。『宗教』に関わる方々も、一度この学際的な視点で外側から『宗教』を見つめなおしてみてはいかがでしょう。その行為は『宗教』の意義を否定することではなく、むしろその重要性を再発見することになるのではないかと梅爺は考えています。 

『哲学』や『宗教』の世界にだけ閉じこもって、『自然』や『人』を考える時代ではなくなりつつあるという話です。 

この番組を観て、再認識させられることは、46億年の『地球』の『変容』のスケールが、当方もなく大きいということです。私たち『ホモ・サピエンス(現生人類)』が出現して約17万年、初期の『文明』を築いてから5~6千年しか経過していません。この間、『地球』は、ほぼ現状に近い姿を継続してしますので、私たちは、『昔から地球は現在のようなものであった』と錯覚しがちです。

『灼熱の火の玉』であった時代、地表の温度が下がり『海と陸』が出現した時代、『陸が内部のマントルの対流の影響で離合集散を繰り返した(厳密には現在も繰り返している)』時代、『生命体が出現し、その繁殖の影響も受けて大気ガスの濃度が変化していく』時代、『種々の要因が重なって地球全体が氷で覆われた(全球凍結)』の時代、『温暖化と寒冷化が繰り返した』時代、など『地球』は、大規模な『変容』を続けて現在に至っています。当然、『地球』の寿命は『太陽』が燃え尽きるまでの100億年程度と推定でき、46億年経過した現在は、丁度中間に差し掛かった時点で、今後も大規模な『変容』は続いていくことになります。

『人』の時間感覚では、『地球』が同じ状態を保っているように見えているだけという話です。逆にいえば、種々の幸運が重なって、現在の地球環境は『人』が繁栄できる状態になっているということにもなります。

『地球』自転軸が傾いていなければ四季はなく、『太陽』と『地球』の距離が違ってたら現在の気温は維持できず、大気が無ければ、『太陽』からの紫外線の大半は遮断できず、大気の酸素濃度が減少すれば呼吸できず、内部マントルの対流が無ければ、『地球』には磁界がなく宇宙線を遮蔽できませんから、『人』は生きていけません。

これらの全てが現在『偶然』に、『人』にとって都合の良い状態であるために、私たちは現在『生きている』ことになります。一つでも条件が違っていたら、『生きていけない』わけですから、『幸運にも生かされている』という表現の方が妥当かもしれません。この幸運は『神』が定めてくださったものでも、『神』によって未来永劫保証されるものでないように思えます。

『人』の存在が、『地球』環境の『変容』を速めるようなことにならないように配慮することは当然ですが、『人』の欲望が『変容』に拍車をかけるという現象は強まるばかりで、この矛盾を克服する手立てはみつかっていません。

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2015年5月 7日 (木)

地球の変容と『ヒト』の進化(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで、2004年に放映された科学ドキュメンタリー番組『地球大進化』の再放送(3夜連続)があり、梅爺は録画して観ました。

46億年前に、太陽系の惑星として誕生した『地球』が、その後どのように『変容』し現在にいたっているかを解説し、『地球』に約40億年前に出現した単細胞微生物としての『生命』が、『地球』の変容との関係で、どのように現在の『人類(ホモ・サピエンス)』にまで進化したのかを合わせて解説する、すばらしい内容の番組です。

このシリーズ番組は、2005年に、『ジュール・ベルヌ映画祭(フランス)』で最優秀科学アドベンチャー賞を受賞しています。NHKは、物議を醸す会長の言動で、やり玉にあがったりしますが、放送会社としての総合資質は世界に誇りうるものです。国民の科学知識を啓蒙することの大切さは、視聴率の多寡などで、天秤にかけるべきものではありませんから、日本がNHKを保有していることは、大切にすべきことと梅爺は考えています。日本の民放各社では、商業主義が優先され、このような番組の企画は通らないうえに、通ったとしても失礼ながら実現できるスタッフ能力がないのではないでしょうか。

些細なことで恐縮ですが、この番組のタイトル『地球大進化』の『進化』という言葉の使い方には、少々抵抗を感じます。『進化』は『生命体』または『疑似生命体(人間社会、組織など)』に限定して使用した方が誤解を招き難いと思うからです。『進化』も『変容』に包含されますが、より高度なレベルへ変わるというニュアンスが込められています。勿論、『地球』を『疑似生命体』として観るということも可能ですが、最初の『地球』より現在の『地球』の方が高度なレベルに変わっているとは言えません。『地球』は『動的平衡遷移』で『変容』しているに過ぎません。

このように『地球』は『物質世界』に属する『モノ』と考えれば、『摂理』によって絶え間なく『変容』するものですから、このブログでは『地球の変容』という表現を採用します。

『地球』の『変容』は、人間にとって『都合のよい状態』『都合の悪い状態』に区分けできますが、諸条件が絡んだ新しい平衡状態への移行に過ぎません。現在は人間にとって比較的に『都合がよい状態』にありますが、これはある意味で幸運な偶然の産物です。太古の『都合が悪い状態』から、『良い状態』へ向かって『進化』したのではありません。『地球』はそもそも、人類の都合を配慮して『変容』などしていません。

『地球』が『変容』し続ける以上、いつまでも『現状』が維持されるとは限りません。

『人』が、『地球』の『変容』を促進する要因を産みだしているのではないかという議論と、『人』がいようといまいと『地球』は『変容』するという議論は分けて行うべきものです。

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2015年5月 6日 (水)

新種の生物を人工的に創る(4)

昨日も少し付言しましたが、自然環境で起きた『生物』のゆったりした『進化』と、人間が人為的に行った『疑似進化』では、スピードが格段に違います。 

人類は『科学知識』や生きる上での『知恵』を多く獲得し、その上『科学知識』を応用した便利な『道具』を使いこないす生活が当たり前になっています。 

たった、10年間位で、多くの日本人は『インターネット』『PC』『スマート・フォン』が使えるようになりました。『技量』や『知識』は、誰もが保有するようになり、次の世代の日本人にも受け継がれますから、短期間に、日本人は『進化』したように見えます。これが人為的な『疑似進化』です。 

ゆったりした自然環境での『進化』では、環境に適応できる強い資質をもった『個』の子孫が生き残ってきましたが、現在の先進国のような人間社会では、『誰もが平等』の思想が行き届いていますから、薬や医療技術で、弱い資質をもった人も救済され、子孫を残すことができます。この結果、自然『進化』は、一層起こり難くなっています。人為的に自然『進化』にブレーキをかけていることになります。『平等尊重』という『精神世界』の抽象概念が、『物質世界』の生物『進化』に影響を与えているということは興味深い話です。

『疑似進化』に『ついていける人(強者)』と『ついていけない人(弱者)』が出現し、社会的には『格差』が生じて強いストレスになりますが、生物学的には『ついていけない人』が『絶滅』に追いやられるわけではありません。

『科学』は、分子レベルの操作を行って、自然界に存在しない『素材』や、遺伝子操作を行って、自然界に存在しなかった『生物』を創りだせるレベルに達しています。

これによって人類は、大きな『恩恵』も得ますが、一方、人類を絶滅に追いやるかもしれない『弊害』があることを認識すべきと、論者の『Seirian Sumner』氏は警告しています。

新しく創り出された『素材』や『生物』が、自然界に解き放たれると、それら『新参者』を含めて、自然界は新たな『平衡』へ向かって『変容』するからです。自然界の万物は、独立して存在しうるのではなく、相互依存で成り立っています(釈迦が縁起として洞察した真理)。既に、大量に生産されたプラスチックの残骸が海を汚染し、生物の生態系に影響を及ぼしていると言われていますが、人間が創った『生物』が、自然界の中で自ら『進化』して、人類を絶滅に追いやるかもしれない危険な『生物』に変貌する可能性を懸念していることになります。

論者は、『自然界が、自ら非自然に変容することを懸念する(I worry about the natural world becoming naturally unnatural.)』と、教養人らしく込み入った英語のレトリックで、ユーモラスに表現しています。

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2015年5月 5日 (火)

新種の生物を人工的に創る(3)

『マイケル・クライトン』の小説を映画化した『ジュラシック・パーク』は、恐竜の『血』を吸った『蚊』が『琥珀(化石)』の中に閉じ込められていて、その『血』から恐竜の『DNA』を抽出して、生きた恐竜を再生させるというストーリーでした。

現実に、現在の『科学』レベルで、このようなことが実現できるかどうかは別にして、論理的には可能性があるということは言えそうです。

絶滅した生物を人工的に再生するという試みは、現実に行われていて、シベリアで氷の中からほぼ完全な姿でみつかった『マンモス象』の子供の『DNA』から、生きた『マンモス象』を蘇らせる努力が、ロシアと日本の共同で行われています。

手法は、『クローン羊』や『クローン犬』を実現させたのと同じもので、代理母となる『象』の子宮を借りて、『マンモス象』を産みだそうというものです。『ジェラシック・パーク』よりは、成功確率が高そうです。

この方法は、勿論『ヒト』にも適用できますから、論理的には、亡くなった人や、今生きている人の『DNA』さえ入手できれば、『クローン』は創りだせることを意味しています。

勿論梅爺は『梅爺のクローン』などは望みませんが、仮に『クローン梅爺』ができたとしても、それは極めて肉体的特徴が梅爺に似ている『ヒト』が出現するだけのことで、『クローン梅爺』は、出生後の環境で体験することを含め、梅爺とは異なった『精神世界』を獲得していきますから、『人』としては梅爺と『クローン梅爺』は全く別人です。つまり『人』としての総合的な個性は『クローン』には引き継がれないことになります。

梅爺が大切にしている、人生における家族や友人との絆や、人生の多くの体験、思い出などについて『クローン梅爺』は知りませんから、70歳近くになって、急に『梅爺閑話』を書きだすとは限りませんし、書いたとしても文体も、文章の内容も全く異なったものになるに違いありません。

外見だけ梅爺に似ている『クローン梅爺』の存在は、想像しただけで、ぞっとしますから、願い下げです。

『釈迦』や『キリスト』の『DNA』が採取できれば、同じく肉体的には『クローン』はできますが、『クローン』がその後獲得する『精神世界』のなかで、『釈迦』や『キリスト』と同じような思想を持ち、同じような行動をとるとは限りません。

ただし『アインシュタイン』の『クローン』に、『一般相対性理論』を教え込めば、その先の素晴らしい発見をする確立は高いのかもしれません。『論理思考』に秀でている資質は、遺伝子で継承されるかもしれないからです。

『ヒト』の『クローン』は、現在規制されていますが、必ず人類の『問題』として議論しなければならない時代がくることでしょう。自分の『クローン』はともかくとして、例えば、不幸な事故で亡くなった赤ん坊の命をもう一度取り戻したいと言う親の願いは強いからです。

更に、将来、人類の生殖能力が劣化して(現在も劣化し続けているという指摘が多い)出生率の低下が続き、人類の存亡が問題になった時に、『クローン』で対応しようと言うリーダーが現れないとも限りません。

そう云うややこしい時代になる前に、梅爺はこの世にお暇(いとま)ができそうなことは、幸せなことのように思えてきました。

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2015年5月 4日 (月)

新種の生物を人工的に創る(2)

『新種の生物を人工的に創る』ということだけに関して言えば、現代の科学者がそれを最初に始めたわけではありません。

少なくとも数千年以上前に、人類は、『交配』という技術で、『新種の生物を創る』方法を発見し、『猪』を『豚』に、『狼』を『犬』に、野生の『馬』『牛』『羊』『鶏』を、家畜として役に立つ『馬』『牛』『羊』『鶏』に変えてきました。

偶然発見した、人類の役に立つ食料源の植物も、『交配』による『品種改良』で、多量に栽培する方法も確立してきました。『麦』『米』『トウモロコシ』『イモ類』『豆類』などがそれにあたります。

これらの『交配』による『品種改良』も、遠まわしに『遺伝子の組み換え』のしくみを利用しているわけですが、昨今の『科学』が行っている『遺伝子の組み換え』は、生物の『細胞』の中にまで直接立ち入って、強引に遺伝子操作を行うことですので、手段が全く異なります。

『交配』による『品種改良』では、できることに限度がありましたが、昨今の『科学』的な手法は、理論的に限度が撤廃できるところに大きな違いがあります。

その結果『ヒトの遺伝子を組み込んだ花を咲かせる』『蛍の遺伝子を組み込んで、暗闇で蛍光を放つ花を咲かせる』などという、何やらおぞましいことまで可能になっています。このようなことは、『交配』による『品種改良』では起こりません。

約40億年の『生物』の歴史の中で、『遺伝子の突然変異』『環境に適した遺伝子の生き残り』『単細胞生物が他の単細胞生物を呑みこんで起こる共生』『自然環境における偶然の交配』など引き金になって、新種の『生物』を創り出してきました。新種の『生物』の出現は、もちろん『生態系』に影響をあたえ、『生態系』もこれによって変貌しましたが、多くの変貌は『ゆったりした時間』の中で進行したものでした。人類が行ってきた、『交配』による遠回しな『遺伝子の組み換え』も、自然界の変貌よりは速い速度ではありましたが、比較的『ゆっくり』進行であったと言えます。

どこまでが、許せる行為で、どこからが許せない行為と、人類自身が判断すかどうかは、人類の『叡智(えいち)』が試されることです。

現在、『科学』的な『遺伝子い組み換え操作』に関しては、各国が『倫理規定』のようなものを制定していますが、人類共通の『共通認識』になっているとは言い難い状態です。

『新種の生物』が、『実験室』内で管理されている間は、まだ安全ですが、これが自然環境に放たれた時に、『生態系』に与える影響は、予測が難しくなります。『生物』は『環境(自然界、他の生物との関係)』との関連のなかで『生きる』もので、全ては『釈迦』のいう『縁起』でつながっています。勿論『ヒト』も同じです。

結果的に、実験室では管理しきれずに、人類の存在を脅かすような事態が起こるのではないかと、この論文の筆者は『懸念』しています。

未来社会を描いたハリウッド映画の中には、この問題をあつかった、『人間が創った怪物やロボット』が『人間』を攻撃してくるストーリーが沢山ありますから、そう言われると、なんだか心配になってきます。

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2015年5月 3日 (日)

新種の生物を人工的に創る(1)

『What should we be worried about?(私たちが本当に懸念すべきことは何か)』と言う本の、7番目の論文は、『Seirian Sumner(英国ブリストル大学、生物学教授)』の『A Synthetic World(合成世界)』です。梅爺は、分かりやすくするために『新種の生物を人工的に創る』と意訳しました。

約60年前に、人類は『DNAの二重らせん構造』という、画期的な発見をしました。地球上のすべての生物の、『細胞』の中に、その生物の全ての基本的な資質を記述した『遺伝子情報』が、『DNAの二重らせん構造』という様式で存在することをつきとめたことになります。

更に驚くべきことに、情報を記述する最小単位(英語で言うならアルファベットに相当する記号)は、4種の『塩基(化学物質)』で、その『組み合わせ』と『連結、並び』で、『遺伝情報』が表現されているということです。しかも、この4種の『塩基』は、『ヒト』を含め全ての生物に共通です。『遺伝情報』は、コンピュータの『プログラム』を想起させ、『命』の基本に『情報処理』が存在することに驚くと同時に、『やっぱりそうか』と得心もいきます。

このことは、『ダーウィン』の『進化論』を一層強固に裏付けることになりました。この視点で観るかぎり、『人間だけは神から祝福された特別な生き物』という宗教の教えは、当たらないことになります。

非常に多様に見える地球上の生物種は、すべて基本的には、単純な同じルール(摂理)に支配されているということから、多様に見える『宇宙』も、基本的には極めて単純なルール(摂理)に支配されているに違いないと、想起させます。

梅爺が、非常に複雑に見える人間の『精神世界』も、基本的には『安泰を希求し、最優先する本能』であろうと推測するのは、そのことに触発されたからです。

全ての生物が、同じルールに支配されているということは、そのルールの中で条件を変えてやれば、いままで地球上に存在しなかった『新種の生物』を人工的に創りだせるということを意味します。つまり『遺伝子情報』を人工的に変えてやれば、それは可能になります。

子供がおもちゃの『レゴ(ブロック)』を組み合わせて、自由な造形をするように、私たちは『遺伝子』を操作して(組み合わせを変えて)、自由に新種の生物を作り出せる時代に生きていることになります。

当然、これは人間に恩恵をもたらすと同時に、弊害ももたらします。

論者の『Serian Sumner』氏は、この弊害が、『人類の脅威』になる可能性を強く懸念しています。

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2015年5月 2日 (土)

Fish and guests stink afer three days.

英語の諺『Fish and guests stink afer three days.』の話です。

『魚も客も、三日も経てば悪臭を放つ』という直訳になります。

勿論、『魚』と『客』では悪臭を放つ原因は違いますから、この諺が指摘したいのは『客』に関することで、『魚』は比較の妙として提示されていることになります。

『魚』が悪臭を放つのは、云うまでもなく『物質世界』の『摂理』が作用して、死んだ細胞が腐敗による分解を起こすからです。分解には微生物が関与しますから、微生物が働けないような低温に『冷凍』すれば、腐敗は免れます。

死んだ『魚』が、悪臭を放つようになるのは、『物質世界』の『摂理』が引き起こす事象であり、『魚』ばかりではなく『人』も含めた『死んだ生物』に共通に起こることでもあります。『生物』が観方によっては『物質世界』に属し、その『命』も基本的には『物質世界』の『摂理』の支配下にあることを如実に示しています。仮に『人』が存在しない世界であっても、『死』『腐敗(有機物質が無機物質へと分解する化学変化過程の事象)』は起こります。ただし『悪臭』は、『人』による感覚の表現ですから、『人』のいない世界では『ある特性を持ったガス』が存在するだけで、『悪臭』は存在しません。

『客』が放つ悪臭は、『物質』に関与した実態ある事象ではなく、『精神世界』の『比喩』による『抽象概念』の表現です。日本語で表現すれば『鼻につく』『嫌気がさす』『疎(うと)ましくなる』というような感覚です。

『人』の『精神世界』が、『理』と『情』が複雑に絡みで構成され、しかも『情』の大半は自分では制御できない『不随意』なものであるという厄介な特性を有するものであることを理解すれば、何故『客』が『悪臭を放つ』対象に変わっていくかが見えてきます。

最初に予測した『客』のイメージと、その後に実感した現実のイメージが異なっていることに徐々に気付く(アラが見えてくる)、自分の価値観と合わない『客』の言動が判明し、それがストレスになってくるなどの理由で、もてなそうという心より、疎ましさを感ずる心が強まるということになります。

これは、『客と主人』の関係ばかりではなく、『夫婦』『恋人同士』『親友同士』にも起こりえる話です。

『人』の『精神世界』は、時々刻々変容していくものであり、変容しないようにするには、かなりの理性の介入が必要であることが分かります。対象の評価は、認識の量や質の変化とともに、刻々と変わっていきます。

『愛がうつろう』ことを、嘆いたり、相手のせいにしたりするのは、心得違いであり、『愛がうつろわない』ようにするには、自分の責任において理性を介入させるしかないことも分かります。

『人』の『精神世界』は、『うつろう(変容する)』ように宿命付けられていると達観すれば、人生も変わるのではないでしょうか。

『天国』でさえも、三日もいれば飽きるのではないかと、梅爺は推測しています。『天国』に居続けるには、強い理性の介入が必要になるに違いありません。『天国では、思いわずらうことなく幸せに過ごせる』などという単純な説得は、へそ曲がりな梅爺には通用しません。

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2015年5月 1日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『天国にEmbryoはいない』(6)

『トマス・アクィナス』の『受胎後、Embryo(胚嚢)の間は人間の魂がまだ付与されていない(人間とは言えない)』という主張は、『カトリック』にとっては、不都合な問題を惹起することになります。

『キリスト』は人間の男女の『生殖行為』ではなく、『神の力でマリアが身ごもって産まれた』としても、マリアの体内では『Embryo(胚嚢)』『Fetus(胎児)』のプロセスを辿ったとすれば、『Embryo』の時には、『人間』でないばかりか『神』でもなかったという困った話になるからです。

『キリスト』は人間の『魂』に加えて、『神』の『魂』も保有しているとすれば、それらは、いつ『キリスト』に付与されたのかという疑問が生じ、『カトリック』は厄介な問題を抱えてしまうことになります。

『カトリック』は『トマス・アクィナス』の考え方の大半を、『教義』の正当な解釈として採用していますが、『Embryoは人間とは言えない』という主張だけは、距離をおいて受け容れていません。

従って、基本的に『避妊』や『堕胎』は、『罪』という考え方が踏襲されています。最貧国の人口増加を抑制するために、国連保健機構が『避妊』を広めようとする一方、このような国への『カトリック』の布教が行われ、現在でも『矛盾』が露呈しています。

『キリスト』は『人間の姿かたちをしているが神の化身(神の子)である』という『キリスト教』の主張は、人間の『精神世界』が考え出した『虚構』であるとすれば、『理』で議論する対象ではなくなりますが、『真実』であるということになると、『摂理』による論証ができないことになってしまいます。

『釈迦』も『ムハンマド』も、ユダヤ教の『預言者』も、『人間』とされますから、問題がありませんが『キリスト』だけが、特別な存在になります。因みに、『イスラーム』では『キリストは預言者の一人』とされています。梅爺は、『キリスト』が実在したとすれば、『優れた思想家』または『霊能者』『預言者』で、『人間』であったと推察しています。

『神によるマリアの受胎』『キリストの死後復活』などは、後世に創りだされた『虚構』であろうと、畏れ多くも考えています。

梅爺は、『物質世界』の『摂理』によって、自分が『生かされている』ことには感謝するばかりですが、この『摂理』は、宗教の説く『神』とは似て非なるものと考えています。『摂理』は観方によっては冷酷なもので、私たちの『祈り』『願い』とは無関係なものです。

私たちが『生きる』ために、『祈り』『願い』『信ずる』行為と無関係でいられないのは、『精神世界』ではそれが意味を持つためです。『安泰』を求める本能があるからです。生きている間、『願う』のはやむを得ないにしても、死後のことまで『願う』のは、少し欲張りすぎると控えることにしています。

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