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2015年4月30日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『天国にEmbryoはいない』(5)

『トマス・アクィナス』は、私たちから観れば、直ぐに『正しくない』と指摘できることを、涙ぐましいほど熱心に、『あーだ、こーだ』と論じています。 

『トマス・アクィナス』と私たちの違いは、保有する『科学知識』の量です。『科学知識』の有無は、私たちの『精神世界』の判断基準に大きく影響します。『科学知識』の詳細はともかく、その本質を『知っているか、知らないか』でその人の『生き方』が変ります。国家の政策にも影響しますので、リーダーは『科学知識』の本質を理解できる人でなければなりません。その点、現在の日本の状況は、少々心もとない気がしています。 

100年後の日本人は、『21世紀の始めの日本人(私たち)は、こんなことを本気で信じていたらしい』と笑ったり、『梅爺閑話』を読んで、私たちが『トマス・アクィナス』を読んでそう感じるように、明らかに『正しくない』ことを、『なんと涙ぐましく論じているのか』と呆れたりするに違いありません。 

『科学知識』が増えることは、人間を『幸せ』にするかどうかは、別の議論ですが、『精神世界』の判断基準が変容していくことだけは確かでしょう。 

『トマス・アクィナス』は、『生物進化論』『遺伝のしくみ』をまだ知らない時代の人ですが、『生殖行為』が人間を産みだす原点であることや、植物や動物など、色々な『命』の形が存在していることは知っていました。勿論『神』による『天地創造』は、『神』の『完全性』、人間の宿命的な『原罪』などは、『正しいこと』という前提で疑わずに受け容れています。 

人間の『魂』は、形が見えないもので、従って特定の『物質』でつくられるものではないと考えながら、『魂』の『資質』はどの様に継承されるのか、その継承にかかわる『物質』はないのかと考えをめぐらしています。男性の『精液』が、この『資質』の継承に関っているかどうかなどを、大真面目に論じています。死後も『魂』は存続し、『神』の審判の対象になるということも、『正しいこと』と信じて、全ての議論がなされています。 

『トマス・アクィナス』は、植物より動物、動物より人間が『完全』に近いと考え、当然人間の『魂』は、植物や動物の『魂』より『完全』に近いと考えています。そして『もっとも完全なるもの』が『神』であるという認識です。 

梅爺は『完全』『神』は、人間の『精神世界』が創り出した抽象概念であると考えています。しかし人間にとって単なる思い付きではなく、『完全』『神』という概念で、多くの因果関係が説明できると考えたからにちがいありません。『分からない』ことは『精神世界』にとっては不安というストレスになりますから、何としても因果関係を考え出して、『安泰』を得ようとしたとことになります。それらの概念は生きている人間の『精神世界』でのみ共有されるもので、『物質世界』には存在しないと推測しています。つまり地球上から人類がいなくなれば、『完全』『神』も消滅するという考えです。

『生物進化』は、『完全へ向かう』という『目的』があっての事象ではありません。『動的平衡』により、より複雑に『変容』しているだけです。『祈る』『願う』『信ずる』はすべて、安泰を希求する『精神世界』の本能が関与する行為で、『物質世界』には通用しません。『物質世界』は人間には時に『冷酷』にもみえる『摂理』で、絶えず『変容』しているだけです。私たちの『老い』や『死』は、この『変容』によってもたらされるものです。

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2015年4月29日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『天国にEmbryoはいない』(4)

『トマス・アクィナス』は、人間の『魂』は、『植物が持つ魂』『人間以外の動物が持つ魂』そして『人間だけが持つ魂』の三つで構成されていると考えました。そして出産前の『Embryo(胚嚢)』の時点で『植物と動物の魂』が付与され、『Fetus(胎児)』に変る時点で、始めて『人間だけが持つ魂』が付与されると考え、『Embryo』の段階はまだ『人間』ではないと結論付けました。

『三種の魂で構成される』『Fetusの時点で人間の魂が付与される』などの前提は、いずれも根拠のない『仮説』ですから、最後の結論を『真』とすることはできません。

『トマス・アクィナス』が、このような論理を展開したのは、『キリスト教』の『教義』を絶対の『真』として、世の中の事象をこれと『矛盾』がないように『解釈』しようとしたからです。しかし、『教義』だけは『理』を排除して疑うことなく信じ、それ以外のことは『理』で説明しようとすることに無理があります。

個性が異なった個人が集まって形成されるコミュニティ(人間社会)を、運営していくために、共通の『規律』『規範』が必要になると言う『矛盾』については前に書きました。

人間社会に『法』『道徳』『倫理』が出現するのはそのためですが、もう一つ人類が考え出した対応策は、『絶対的な真』として『神』の概念を導入したことです。

人間同士が、勝手な価値観で対立することを避けるために、『絶対的な真(神)』を想定し、水戸黄門の『印籠』のように、これをかざせば誰もが平伏するという、実に効果的な方法を考え出したことになります。

『絶対的な真』という考え方を基本的に継承してきた西欧文化と、『陰陽思想』のように、全てが『矛盾』で構成されていると考える東洋文化に大きな違いが生ずることになります。西欧の哲学、科学などのように『絶対的な真』の存在を前提にした思想の方が、『分かりやすい』側面もありますが、『天衣無縫』などと、全てを寛容に受け容れる東洋の思想の方が、複雑ではありますが、実は実質の洞察としては、的を射ているように梅爺は感じています。

中世のヨーロッパ文化を論ずる『ウンベルト・エーコ』に匹敵する、東洋や日本の文化を論ずる博識の教養人が、日本にも出現して欲しいと梅爺は期待しています。

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2015年4月28日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『天国にEmbryoはいない』(3)

古代の人達も、人間は一人一人姿かたちが異なっていると同様に、考え方、感じ方、価値観が異なっていることを、薄々感じていたに違いありません。 

現代の私たちは、『生物進化』『遺伝子』『生殖による遺伝のカラクリ』を科学知識として知っていますので、生物の『個』は、宿命的に『個性』を保有するようにできていることを知っていますが、古代の人達には、不思議であり、そのことから生ずる不都合へ、どう対応するかが問題になったはずです。 

もっとも、現代人でも『人間は生物として個性的であることを運命づけられている』という事実を正しく理解していない人達が多く、『自分を基準に判断』して、相手を『怪しからん』『間違っている』と非難する要因になっています。 

『私は、そうは考えない』『私は、そうは感じない』と表明する権利は誰にもあり、従って『好き、嫌い』を言葉にすることまでは許されますが、『その様に考えること、感じることは間違っている』と断ずることは慎重であるべきです。 

このような事態が起きるのは、個人が『個性』を持つことと、コミュニティの運営には誰もが受け容れなければならない『規律(一様のルール)』を必要とすることに『矛盾』があるからです。つまり『判断基準が異なっている個人が、同じ判断基準に従って行動しなければならない』という『矛盾』です。 

実は、現在に至るまで人類は、この『矛盾』を克服する決定的な対応策を見出していません。世界中で、紛争や戦争が絶えないのはそのためです。

人間の『魂』と呼ばれるものは、脳の活動が生み出す『精神世界』の活動の一側面であると梅爺は考えています。『心』『根性』なども同じように『精神世界』の活動の一側面ではないでしょうか。

心理学者は、『心』は『他人の視点でものごとを観る能力』と定義していますが、これは一つの『定義』であって、他の定義もありうるはずです。梅爺は『情と理の絡み合いが紡ぎだす仮想世界』と表現してきました。

『魂』や『心』は、人間に脳の機能が備わった時点から、活動が始まり、後に成長の過程で、『生まれつきの資質(遺伝子で継承された)』と、『外部環境から得た経験要因』を基盤に、個性的なものとして形成されていきます。具体的には、『脳神経細胞のネットワークパターン』が個性的に創り出されていきます。言い換えれば『魂』や『心』も『物質世界』の『摂理』とは無関係では存在しえません。

出産前の『Embryo(胚嚢)』や『Fetus(胎児)』のどの段階から、『魂』や『心』の活動が開始されるのかは、判定が困難です。

13世紀の神学者、哲学者であった『トマス・アクィナス』は、『Embryo』の時点では、まだ人間の『魂』が付与されていないので、『人間とは言えない』と主張しました。

勿論、『理』で、ある種の『前提』を考え、その様な結論を導き出しました。現在の科学知識で判定すれば、その『前提』は『真』とは言えませんので、『トマス・アクィナス』はこれに関しては『正しい』とは言えません。しかし、当時の状況で、そのような論理に挑戦した『トマス・アクィナス』に、梅爺は尊敬の念を抱きます。

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2015年4月27日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『天国にEmbryoはいない』(2)

このエッセイを読むと、中世の『聖オーガスチン』や『トマス・アクィナス』といったキリスト教神学者(思想家)が、『人間の魂の正体』について、『キリスト教』の『教義』と矛盾しない解釈を見つけようと、悪戦苦闘していることが分かります。 

『信仰は信ずることである』とはいうものの、それだけでは『理性で疑う人』を説得できず、何よりも神学者自身は誰よりも『理性』が強い人達ですから、曖昧に放置していては不安が増すばかりということで、四苦八苦することになるのでしょう。古代ギリシャ以来西欧に受け継がれてきた『理性で考える』習性が、強く反映しているように思います。『矛盾』をありのまま受け容れようとする東洋の思想(陰陽思想など)とここが違います。

神学者が一番苦労しているのは、人間が誰でも保有するとされる『原罪』を魂と関連付けてどのように説明するかという点です。

『人間は生まれながらにして罪深い存在である』とする『原罪』は、一概に間違いとは言えません。梅爺の考え方は、『人間は生物進化の過程で、安泰を最優先する本能を継承してきた。それが時に自分本位の言動を喚起する』ということで、『自分本位の言動』の原因を『邪心』『原罪(神に背を向ける行為)』と呼ぶなら、確かに誰もが宿命的に保有していると言えるからです。『釈迦』の教えの中の『煩悩』もこれに該当します。

梅爺は『自分の邪心を抑制できるのは、それを邪心と認識できる自分の理性しかない』と考えていますので、責任は自分で負うべきということになり、『神に赦しを乞えば解決できる』ものではないと思っています。

梅爺のように、『生物進化』や『脳』に関する科学知識を保有していなかった中世の神学者が、『魂』と『原罪』の関係の説明に苦慮したのは、当然のことかもしれません。

神学者が困ったのは、新しく生まれてきた子供が、何故『原罪』を帯びているかということで、『魂』は『神』から付与されたとすると、『神は原罪を人間に与えておいて、洗礼でそれを洗い流してくださる』というような、ややこしい話になり、そうではなく、『魂』は親から受け継がれたとすると、どのような手段で受け渡されたのかを説明しなければならなくなりこれも面倒なことになります。

そこで、神学者たちは大まじめに、『生殖時の父親の精液が媒体ではないか』と議論しています。一見滑稽ですが、現代科学の知識でみれば、それほど滑稽な話ではありません。子供の資質の大半は、生殖による両親の遺伝子(精子と卵子の遺伝子)を利用した『遺伝子組み換え』で決まるからです。

『原罪』『邪心』を、『生物進化』と関連付けて説明することはできますが、『神』との関連で説明することには無理があるように思います。

神学者は、『神の存在』を前提に矛盾の無い理論構築をしなければならないところが足かせです。梅爺のように気楽に『神の存在』に対して疑念を呈することはできない立場であるからです。

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2015年4月26日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『天国にEmbryoはいない』(1)

ウンベルト・エーコのエッセイ集『Inventing the Enemy(敵を創る)』の6番目の話題は『No Embryos in Paradise(天国にEmbryoはいない)』です。 

『Embryo』は厳密には受胎後8週間程度までの人間の胎児のことで、『胚嚢』とよばれる段階です。その後の人間に似た形になった胎児は『Fetus』と区別されます。堕胎行為は、殺人にあたるのかどうかは、今でも色々な意見があり、現代の『カトリック』の解釈では『罪』となります。しかし、中世の神学者『トマス・アクィナス』は、『Embryo』は『まだ人間になっていない』と解釈していました。 

もしそうなら、『Embryo』には『魂(霊)』は無いので、『天国のどこを探しても胎児(Embryo)はいない』ことになる、というユーモアに富んだ皮肉がエッセイタイトル『No Embryos in Paradise』に込められています。 

ウンベルト・エーコは、最初に『教義の解釈に関する真偽を追求するつもりはない、ただ時代により、ひとにより解釈が変わることに興味がある』というようなことを述べていますが、文章の端々から、『限定された条件のなかで、人間は色々な因果関係を考え出すこと』を楽しんでいるように見えます。ウンベルト・エーコは、そこに提示されている因果関係が『偽』であることは百も承知しています。

ウンベルト・エーコは大人ですから、梅爺のように『精神世界が考え出した抽象概念や虚構に関しては、真偽を判定する基準がない』などと断言して、周囲の顰蹙を買うことを回避しているのでしょう。

『旧約聖書』では『神が泥をこねて人間(アダム)の肉体をつくり、息を吹き込んで魂(心)をつくった』と書いてあります。これは『虚構』ですが、『人間は肉体と魂(心)で構成されている』ことを、つまり肉体と魂を別なものと示唆していることは重要です。

人間の肉体は、泥ではないにせよ、ありきたりの物質(元素)で構成されているにもかかわらず、その人間が別世界とも言える魂(心、精神世界)を有することの不思議さを、昔の人達も本能的に感じていたのでしょう。

『キリスト』の言葉だけを列記した『トマスによる福音書(カトリックでは異端の書として新約聖書には採用されていない)』の中で、『キリスト』は、『賤(いや)しい肉体を持つ人間が、何故高貴な魂を持つのか不思議だ』というようなことを述べています。これは『自分は神の子ではない(分からないことがある)』と告白しているようなものですが、梅爺はその正直な意見に共感を覚えます。

梅爺にとっても、『物質世界』の『摂理』に支配されている『肉体』と、必ずしも『摂理』には支配されない『精神世界(心)』の関連は、最大の関心事で、『梅爺閑話』の大半は、この考察に費やされています。

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2015年4月25日 (土)

驚異の細胞(8)

私たちの身体の『免疫機能』も、『細胞』によるものです。『骨髄』の中で創られる『T細胞(免疫細胞)』が、身体に入ってきたものが『異物』かどうかを判断し、『異物』と判断されると、『マクロファージ(白血球の一種:これも細胞)』に攻撃命令がだされ、『マクロファージ』が、病原体などを捕食して、健康が取り戻されるしくみです。『T細胞』には種類があり、それぞれが異なった『異物』の判断にあたります。

『免疫細胞』の数は、加齢とともに減少したり、『T細胞』の感度も鈍ってきたりして、老人は、ちょっとした病気にかかっても死にいたったりするはそのためです。若い時には、直ぐに治った『風邪』が、なかなか抜けないなどというのも、このためです。

『免疫機能』が、正常に働かなかったり、暴走したりすると、私たちの身体は健康を維持できなくなります。『癌』『アレルギー』『感染症』などは、『免疫機能』が深くかかわっています。

イタリアの『サルディーナ島』は、長寿者が多いということで、研究がおこなわれ、高齢者の『T細胞』の数が、平均より多いことが分かりました。食生活の習慣や、遺伝体質など、原因の究明がなされていますが、決定的な因果関係は見つかっていないようです。

日本では、『iPS細胞(万能細胞)』を利用して、『人工T細胞』の研究が進められていることを番組は伝えていました。

研究に従事している医師は、『できるだけ健康で、老人が天寿を全うすることが望ましい』というようなコメントをしていましたが、疑い深い梅爺は、『本当にそんなにうまい話なのだろうか』と気になりました。

『人工T細胞』を適用しようとしまいと、寿命は同じというなら、死の間際までピンピンしていて、コロリと死ぬということで、文字通り『ピンコロ』で望ましいことですが、実際は、『人工T細胞』は、寿命を延ばすことになるのではないでしょうか。

前にも書いたとおり、個人としては『長生き』は望ましいことですが、全員が長寿になると、人間社会のバランスは変り、若い人への負担が重くなったり、全員が不幸になることもないとは言えません。日本が長寿の国として、世界の上位にあることは、誇らしいことです。社会インフラ(安全な水道など)、医療体制、国民の教育レベルなどが高いことが背景にあるからです。

しかし、人工的に、一気に、長寿を実現し、例えば平均寿命が100歳をこえるというようなことになると話は違ってきます。慎重な議論が先行すべきです。

『人工T細胞』は、生まれながらに『免疫機能』に問題がある、難病の救済に利用を限定して、先ず応用を開始すべきと思いました。

とにかく、自分の中で、60兆個もの『細胞』が、人類が解明できていない機能も含め、黙々と働いているお陰で、『自分が生かされている』と考えると、人生観も少し変るような気がします。少なくとも『自分の力や、意志で生きている』などという傲慢さは無くなります。

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2015年4月24日 (金)

驚異の細胞(7)

『物質世界』では、『精神世界』の『情感』は意味のないものであろうと、梅爺は何度も書いてきました。『物質世界』の『変容』の一部は、『人間』にとって『都合のよいもの』と『都合の悪いもの』ですが、『物質世界』には、『愛』や『憎しみ』が背景にあるわけではありません。同じ『雨』でも、『恵みの雨』であったり『災害の雨』であったりするのは、『人間』の『精神世界』の価値観で区分しているだけです。

『情感』は『人間』の『精神世界』の価値観による表現で、『好き』『愛する』は、自分にとって都合が良い事象、『嫌い』『憎む』は、自分にとって都合の悪い事象を対象として区分けしたものです。『善』と『悪』、『楽しい』と『悲しい』、『美しい』と『醜い』も同じことです。

『精神世界』の価値観は、一人一人『個性的』であり、特に、『親や先生の教え』『宗教の教え』『育った社会習慣』などにも強く影響をうけます。

従って『情感』には絶対的な比較尺度がないことになり、時には、同じ対象がある人には『善』、ある人には『悪』となります。

『サダム・フセイン』は『ブッシュ』にとって『邪悪』であり、逆に『ブッシュ』は『サダム・フセイン』にとって『邪悪』ということになります。

他人は自分とは同じように『考えたり』『感じたり』はしていない、ということを承知していれば、人間関係のイザコザの大半はなくなります。ただし、お互いに『違い』を認めることが前提です。

この番組では、『精神世界』の抽象概念である『愛』は、『オキシトシン』という『ホルモン』が関与していることを解説していました。

『オキシトシン』は、妊婦の陣痛を引き起こす『ホルモン』でもありますが、一般に脳の『扁桃体』に作用すると、『警戒心を解き』、『側座核』に作用すると『快感』を引き起こすことが分かっています。出産後母親が赤ん坊を特に愛しく思うのは、つまり『母性愛』が発現するのは『オキシトシン』によるものということになります。これは人間以外の動物でも同じです。

『大切な人を支えたい』と思う心や『絆』は『オキシトシン』が関与しているといことになりますから、この『ホルモン』の分泌が活発な人ばかりなら、人間社会は『思いやり』にあふれたものになるにちがいありません。

『物質世界』があって『精神世界』が成り立つという関係が、この『オキシトシン』の例で理解できます。しかし、『物質世界』から『精神世界』への道は一方通行であり、『精神世界』の『愛』は、『物質世界』では意味をもたないということも分かります。

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2015年4月23日 (木)

驚異の細胞(6)

『人間』の身体の中には、見えない『時計』『カレンダー』が仕組まれていて、あるタイミングである機能が発現するようにスケジュールされているように見えます。

ある機能にかかわる『ホルモン分泌細胞』が、あるタイミングで『ホルモン』を分泌し、その信号を受けて他の細胞が反応するという、しくみであろうことは想像できますが、何がきっかけで、どういう条件で『ホルモン』が分泌せれるのかといった詳細は、現代科学(医学)でも分かっていません。

勿論『万能細胞』が、目的別『細胞』へ枝分かれして増えていき、しかも全体としてのバランスがとれたところで、増加が抑制されるというようなプロセスに関するしくみも、分かっていません。

一つ一つの『細胞』は、自律的に機能していますが、一方他の『細胞』に影響を与えながら、自分も他の『細胞』の影響を受けて、相互にあるバランス(平衡状態)を保っているように見えます。梅爺が『超自律分散システム』と呼びたくなるのはこのためです。生物分子学の『福岡伸一』先生は、これを『命は動的平衡で支えられている』と表現されています。

『動的平衡』で変容している最たるものが『宇宙』ですから、『人間』も『物質世界』の『摂理』で『生きている』ことが分かります。

哲学者は、『自分はいったい何者なのか』『どこから来て、どこへ行くのか』『生きる目的は何か』などと、『精神世界』を保有しているが故に悩みますが、『物質世界』だけの視点で観れば、『個は、種を継続するために生まれ、子孫を残して死ぬ』という単純な目的を優先しているように思えます。

『お前は何と味気ない人生観をもっているのか』とご批判があることは承知で、梅爺も『個』としての人生の意義は『子孫を残して死ぬことだけ』などと思いたくはありませんが、60兆個の『細胞』が繰り広げている『生きるための機能』を冷静に観るかぎり、『種の継承のために生まれてきて死ぬ』ということが優先されていると考えざるをえません。

『精神世界』が創りだした『哲学』『宗教』『芸術』などは、『物質世界』があってからこそ出現したものですが、『物質世界』とは別の価値観が存在する『別世界』であり、この『別世界』が『人間』を、豊かな存在にしています。

しかし、くどいようですが、『人間』は『物質世界』では生物の一種で、その視点だけで観れば『種の存続のために個が生まれ、死ぬ』という冷酷なしくみに支配されているということも直視すべきであると申し上げたいだけです。

『物質世界』の冷酷なしくみと、『精神世界』が創り出す崇高とも言える価値観の、2重構造の支配の中で、私たちは『生きている』『生かされている』と言えるのではないでしょうか。これが『人間』という生物の特徴なのです。

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2015年4月22日 (水)

驚異の細胞(5)

近世になって人類の『科学知識』の量は、飛躍的に増えました。そして『科学知識』を応用した商品も同時に飛躍的に増え、私たちの生活は『便利』『快適』になりました。多くの人たちは、商品の使い方は知っていますが『科学知識』を保有しているわけではありません。梅爺が小学生の頃には、『パーソナル・コンピュータ』『インターネット』『高精細デジタルテレビ』『スマートフォン』などは存在せず、想像することもできませんでした。

『科学』は『物質世界』の『摂理』を解明する学問分野で、上記の高度な科学知識応用商品は、すべて『摂理』を利用しています。商品が提供する機能の多くは、人間が『発明』したものですが、その機能を有効にしている『摂理』は人間が『発見』したもので、『摂理』そのものを人間が『変える』ことはできません。

『摂理』を利用し、『摂理』に反しない範囲で、自然界には存在しない『モノ』を人間は創り出すことができますが、人間が創りだした『モノ』が、『人類を不幸にする』『人類を絶滅に追いやる』可能性を秘めていないは言えませんので、その限度を見極め、皆でそれを遵守する必要性が求められる時代になってきています。

『核エネルギー』『細胞』『遺伝子』などの科学知識を利用して、どのような『モノ』をつくることまでが許容できるのかを決めることは易しくありません。

私たちが危惧すべきことは、これら『核エネルギー』『細胞』『遺伝子』などの科学知識は極めて高度、複雑であり、詳細まで理解できる科学者の数が限られていることです。政治家や経営者は、『科学』を知らず、科学者は政治や経済に疎いということになると、人類の将来は極めて危ういことになりかねません。

梅爺のような凡人は、『政治』『経済』『科学』を、専門家に任せ、結果だけを享受したいという怠惰な気持ちになりますが、専門家は良い結果だけをもたらしてくれるとは限りませんから、各分野の詳細知識はともかく、『本質』だけは理解して、『怪しい』『危ない』と思うことを自ら判断しなければなりません。

一握りの専門家に人類の将来を託すのではなく、できるだけ多くの人が、精一杯知識を吸収して、自分で考え、自分の意見を述べることが重要な時代になってきています。幸い『インターネット』はその目的には利用できます。

『細胞』に関しても、『万能細胞ができたから、若返りが可能になり、難病が克服できる』などと皮相な理解をしていると、とんでもないしっぺ返しをうけないとは限りません。

『万能細胞』を利用して、人類の平均寿命が現在の倍になったとしたら、それに見合う社会秩序を構築しなければなりません。そのような事態が人類へどのようなインパクトを与えるかは、軽々しくは判断できません。例えば、総人口の抑制をする必要に迫られたとして、民族、宗教、政治体制をこえて、人類が協力できるという保証はありません。

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2015年4月21日 (火)

驚異の細胞(4)

梅爺は、人間を理解するためには、『物質世界』と『精神世界』の違いを理解する必要があると何度も書いてきました。

『精神世界』では、どのような空想、妄想も可能ですが、『物質世界』では、それを支配する『摂理』に反する事象は存在しえません。

『かぐや姫』は『精神世界』の中だけで『虚構』として存在しますが、『物質世界』の『実態』としては存在しません。

梅爺は畏れ多くも、『神』も人間の『精神世界』が考え出した『虚構』であり、『かぐや姫』同様に、『物質世界』の『実態』としては存在しないのではないかと述べてきました。梅爺の推測が当たっていれば、人間がいない世界には、『神』や『かぐや姫』という概念さえも存在しなくなります。

誤解がないように申し上げれば、梅爺は『神』は『虚構』であるが故に無意味な概念であるとは考えていません。生物として『安泰を希求する(心も安らぎを願う)本能』をもつ『人間』が、切実な思いで考え出した概念であると考えています。『愛』『正義』『平和』『平等』などいう抽象概念も、同じようなプロセスで考え出されたものであろうと思います。これらが、『人間』や『人間社会』にとって極めて重要な意味をもっていることは承知しています。

くどいようですが、これらの抽象概念は、人間だけに意味があるもので、『物質世界』とは無縁であると申し上げたいだけです。人間がこの世からいなくなれば、全ての抽象概念も消滅します。

『物質世界』は、『摂理』に従って『変容』を続けていて、その結果が時に天災となって私たちを襲います。それに巻き込まれて、『善良』な人達が多く命を落とすことになり、私たちは『むごい』『悲しい』と嘆きます。

しかし、『善良』『むごい』『悲しい』は、人間の『精神世界』が共有してきた価値観(抽象概念を用いた価値観の表現)で、『物質世界』の『変容』には、『善良』『むごい』『悲しい』などという意味合いは込められていません。いわんや、天災は『神の怒り』などとは無縁です。

(1)『物質世界』があって、『精神世界』が出現した。
(2)『精神世界』だけで(人間にのみ)通用する価値観がある。
(3)『精神世界』がなくとも『物質世界』は存在する。

この三つの関係を理解すると、色々なことが判然と見えてくるように梅爺は感じています。

ただ、『物質世界』がどのように『精神世界』を創りだすことに関与しているのかを、梅爺は詳細に理解できていません。

『細胞』の解説を聞いていて、その手掛かりの一つが見えてきそうだと感じました。『細胞』が分泌する『ホルモン』が、『精神世界』の『情感』の基盤になっていることが理解できたからです。化学的組成をもった物質『ホルモン』が、私たちの『楽しさ』『悲しさ』『優しさ』などという『情感』を創り出しています。実態がないように見える『抽象概念』の背景に、『ホルモン』という物質が関与していることになります。勿論『ホルモン』は『物質世界』の『摂理』だけに支配されています。

『物質世界』の『細胞』や『ホルモン』が、『愛』などという崇高な抽象概念を『精神世界』へ生み出す要因になっているという話です。

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2015年4月20日 (月)

驚異の細胞(3)

『癌(ガン)』は人類が抱えている難病の一つです。世界中の研究者が、『癌』を克服するための研究をしていますが、対症療法は色々見つかったものの、まだ『癌細胞』に関する基本的な解明には至っていません。 

『ある細胞が突然変異で癌細胞に変り、勝手に増殖を重ねる』と教えられ、梅爺は『癌予防の努力』など所詮空しいとあきらめの気持ちが強くなりました。 

何しろ60兆個もある『細胞』の一つが、何らかの理由で『突然変異』することを『避ける』ことなど、とてもできないと思ったからです。禁煙をしてみても、排気ガスを吸い込んだり、紫外線や宇宙線に晒されているわけですから、『突然変異』の要因を避けては生きていけません。 

しかし、よく考えてみると、運悪くごく稀に『癌細胞』が発生するのではなく、常時いくつかの『細胞』が『癌細胞』に変るものの、何らかの理由で抑制され、大事に至っていないと考える方が自然ではないかと気がつきました。60兆個という母数で確率的に考えると、そう云う結論になります。 

不幸にも、抑制できなかった『癌細胞』だけが、増殖するということではないかということです。逆に言えば、梅爺はかなり高い確率で『癌』になっては治るというプロセスを常時繰り返しているのではないかということになります。抑制する要因が分かっていませんが、体調、体質などが関与していて、体質は遺伝子の影響を受けているとすると、遺伝的に『癌』になり易い人がいるという話は裏付けがあることになります。 

最近は、この梅爺の考え方と同じことを示唆する研究も発表されています。

NHK地上波教育放送で放映されている『スーパー・プレゼンテーション』と言う番組に、イラン出身の女性科学者『Mina Bissell(アメリカ、ローレンスバークレー国立研究所)』が登場し、『細胞をとりまく微小環境』の研究成果について語りました。

彼女は、『細胞』だけではなく、『細胞と微小環境の関係』に着目して研究を進めていて、『癌細胞』が『微小環境』との間で、メチャクチャな情報交換をしていることを見つけ、この情報環境を断ちきると、『癌細胞』は正常な『細胞』に戻ることを突き止めました。

この研究成果を応用する具体的な方法が見つかれば、『癌細胞』を治癒することができるかもしれないと、世界中が注目しています。

『細胞』は独立しているのではなく、周囲の『微小環境』との関係で機能しているという、考えてみれば当たり前なことに、何故今まで気付かなかったのかが不思議なくらいです。

その関係は、煎じつめれば、ミクロな世界の化学反応、物理反応ですから、60兆個の『細胞』が、『物質世界』の『摂理』で機能していることになります。

梅爺の中で、無数とも言える『細胞』が、梅爺を生かし続けるために、黙々と働いているという光景を想像しただけで、感激してしまいます。そして梅爺の『精神世界』も、これらの活動が背景にあることになりますから、『精神世界』と『物質世界』は無縁ではないことが分かります。

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2015年4月19日 (日)

驚異の細胞(2)

成人『人間』の身体は60兆から70兆個の『細胞』でできていて、『細胞』は約200種あることが分かっています。臓器、筋肉、骨、歯、爪、神経、脊髄、脳、血液、血管、皮膚、毛髪など全て『細胞』から成り立っています。しかも、どの『細胞』にも、その人の属性である同じ『遺伝子情報』が組み込まれています。

全ての『細胞』に同じ『遺伝子情報』が組み込まれているのは、細胞分裂時に、コピー情報が受け渡されるという、『単細胞生物』以来の原始的な『しくみ』が継承されていることによるものですが、『情報処理システム』の視点で観ると、遺伝子情報は、プログラム機能に関与していますから、『人間』の身体は、60兆個の『細胞』という『サブシステム』で構成された『分散処理システム』であるとも言えます。

しかも、各『細胞』は、『ミトコンドリア』という『細胞』内に含まれる小器官を利用して、エネルギー源を創りだし(酸素を利用)ていますから、『サブシステム』としては自家発電装置を備えていることになります。ややこしいことに『ミトコンドリア』は独自の遺伝子情報を持っています。太古の時代『ミトコンドリア』は独立した『生命体(単細胞)』であったものが、他の『生命体(単細胞)』の中に取り込まれ、以降共存してきたと考えられています。大半の植物細胞の中にある『葉緑体(光合成に必要なもの)』も、昔独立した生命体であったものが、別の『細胞』に取り込まれ共生していると考えられたいます。『ミトコンドリア』は、生殖や老化などという生命活動にも関与していると考えられていますが、全てが解明されているわけではありません。

『細胞』は外部情報や、自分の中にある遺伝子情報を参照しながら、情報処理を行い、その行為が『人間』の『生命活動』の基盤になっています。

60兆個の、自家発電機能をもつコンピュータ(情報処理装置)が寄り集まって、全体システムが構築されていることになりますから、『超自律分散処理システム』と呼ぶことができます。

『人間』が創り上げた『インターネット』も、『超自律分散システム』の一種と言えますが、『人間』の60兆個の『サブシステム』連動には遠く及びません。

一個の『卵子』が『精子』と結びついて、細胞分裂が始まり、『人間』の身体になっていきます。『卵子』も『精子』も、生殖目的の『細胞』です。

『卵子』という共通な『細胞(万能細胞)』から、何故200種の目的別『細胞』が枝分かれして出現するのか、詳細なカラクリは分かっていません。

『細胞』自身が、外部情報(他の細胞が分泌したホルモンなど)と内部情報(遺伝子情報)を参照して、あるタイミングである機能を発揮するようになるわけですが、このしくみを解明する学問が『エピ・ジェネティックス』として注目されています。何故あるタイミングで『思春期』が発現するのかなどという疑問が研究対象です。

『細胞』がどのように『生命活動』に関与しているのかという、基本的なことが、最新科学をもってしても、『分かっていない』ことになります。

これらが『分かって』くると、『老化防止』『難病(ガンなど)の克服』などに画期的な前進があると期待されますが、それ以外に『人間』の『精神世界』の事象として『神秘』にみえていた事象の正体も、科学的に解明される可能性があります。

『人間』は、何故宗教や芸術を必要とするのかなどと言う本質が、意外なことに『細胞』の研究から明らかになるかもしれないという話です。

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2015年4月18日 (土)

驚異の細胞(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで、人間の『細胞』をドラマ仕立てで解説する番組が2回にわたって放映され、録画して観ました。

人間の身体は60~70兆個の細胞で構成されているというのが、『科学』の定説です。『宇宙』には地球から観測可能な『銀河』が数千億個(一説では7.3兆個)あり、一つの『銀河』は平均2000億個以上の『星』で構成されているという話同様、凡人の梅爺には眼もくらむような数値です。

『宇宙』の中では、私たちは限りなく無に近い微小な存在であると同時に、『細胞』の視点で観れば、逆に私たちは巨大な存在であるという相対的な感覚が、梅爺を戸惑わせます。

『細胞』に関する知識は、多くの『科学者』が解明してきたたことであり、梅爺が考え出した内容ではありません。このような話題を『梅爺閑話』で取り上げるときには、気楽であると同時に、後ろめたさ感じています。下手をすると『他人の知識』を転記するだけになってしまうからです。

『梅爺閑話』は、梅爺の個性的な心象を書くことを目的としていますので、このような純然たる『理』の世界である『科学』知識を書くときでも、それに接して、梅爺が何を考え、何を感じたかを紹介する努力は欠かさないようにしたいと心がけています。

梅爺の拙い心象が、お読みいただいた方の心象を更に呼び起こすことになれば、望外の喜びです。そのような連鎖が人の『絆』の本質であると思うからです。

地球上のすべての生物は、40億年ほど前に地球に突如出現した、『単細胞生命体』を先祖としています。この最初の『生命体』が、どのように出現したのかは、最新科学でも解明できていません。

『生命体』を構成するには、有機化合物の素材が必要であり、有機化合物は、元素等の無機物質を素材として必要とします。

138億年前の、『ビッグ・バン』で、『超弦(ひも)』から『素粒子』が創られ、その後の『宇宙』の変遷(膨張)の中で、『素粒子』から『元素』が創られたと考えられていますので、地球上に出現した『単細胞生命体』も、『ビッグ・バン』が無ければ出現しなかったことになります。人間の身体の中では、70種以上の『元素』が『生きる』目的で使われています。

最初の『単細胞生物』が、『人間』という『多細胞生物』に進化するまでには、これまた眼もくらむような『生物進化』のプロセスが絡みます。

『人類種』という生物が地球上に登場したのは、500万年から800万年前と考えられています。『宇宙』や『地球』や『生物進化』の歴史を考えると、相対的にはごく最近登場した生物であることになります。『天地創造』とほぼ同時に『人間』が『神』によって創られたという話とは大きな乖離(かいり)があります。

『ビッグ・バン』から『人類種』の登場まで、全てのプロセスが科学的に解明できてはいませんが、あらゆる事象は、『物質世界』が『摂理』で変容し続けた中で、出現したものとして『理』による因果関係の説明が可能です。

ただ変容は、ある目的へ向かって起きたものではありませんので、どこかで要因が少しでも変っていたら、私たちは存在していなかったかもしれません。

途方もない数の偶然が重なって、私たちは存在していることになります。そう考えると、限られた期間とはいえ、自分に『命』が与えられ、それが『摂理』によって維持されていることに改めて感謝の念がつのります。

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2015年4月17日 (金)

堀口大學とマリー・ローランサンの恋(4)

『堀口大學』の人生は、33歳を境にして、前半と後半ではかなり異なっているように思います。

前半の少年期、青年期、海外での生活時期は、天下の大秀才であった父親『堀口九萬一』の期待(息子を外交官または高級官僚にすること)に沿えない後ろめたさ(または劣等感)と、一方俳句、短歌、詩へ強く惹かれる止み難い気持ちの板挟みで悩み、更に結核を発病して、一層気持ちが沈んでいたのではないでしょうか。

当時の日本人としては異例の海外生活体験も、自分の意志ではなく、外交官である父親の庇護があってのことですので、手放しで満喫するといったものではなかったのでしょう。父親に反発して独立する勇気もなく、庇護に甘んじながら、期待には沿えない青年『堀口大學』の心中は察するに余りあります。

ただ、この海外体験が、外国語習得、外国文学との接触に役立ち、後のフランス文学者、詩人『堀口大學』を産む土壌になっています。

33歳で日本へ帰国した後(人生の後半)で、フランス文学の教授職、フランス文学の翻訳家、随筆家、詩人として世に認められ、初めて父親の呪縛から解き放たれ、自立した人生を獲得したことになります。生きる充実感が全く違ったのではないでしょうか。

人生の前半と後半で、『堀口大學』の『精神世界』が、大きく異なっていることを理解する必要があるように思います。後半で、文学者として認められ自立できるということは、前半では予想できていなかったことが、青年期の『堀口大學』を理解する上で重要な鍵になります。勿論前半の青年期に、既に詩作や翻訳活動を行っていますが、その内容は、上記の『精神世界』を理解しないと読み解けません。

青年期の処女詩集『月光とピエロ』は、『マリー・ローランサン』のかつての恋人『アポリネール』の死を『堀口大學』が悼んで創ったものとも、『堀口大學』の『マリー・ローランサン』への想いが込められているとも言われています。

『月光とピエロ』の五つの詩(1、月夜 2、秋のピエロ 3、ピエロ 4、ピエロの嘆き 5、月光とピエロとピエレットの唐草模様)は、『清水脩』が男声合唱曲として作曲し、日本で男声合唱を経験したことがある人なら、必ず一度は歌っている定番中の定番です。

勿論梅爺も、学生時代から今日まで、何度も歌ってきましたが、この詩に、『アポリネール』『マリー・ローランサン』が関与しているなどとは考えもみませんでした。

ただ、父親の期待に応えることができない、青年の屈折した心情を表現していると言われれば、そうかもしれないと納得がいきます。

泣き笑いして 我がピエロ
秋じゃ 秋じゃ と歌ふなり
O(オー)の形の口をして
秋じゃ 秋じゃ と歌ふなり

月のようなる おしろいの
顔が涙を ながすなり
身過ぎ世過ぎの ぜひもなく
おどけたれども 我がピエロ

秋はしみじみ 身にしみて
真実 涙を 流すなり

(秋のピエロ:堀口大學詩)

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2015年4月16日 (木)

堀口大學とマリー・ローランサンの恋(3)

第一次世界大戦直前のパリに『堀口大學』は滞在していましたが、フランスとドイツとの関係が悪化し、戦火に巻き込まれる危険が高まっていましたので、外交官の父親『堀口九萬一』は、息子『堀口大學』を比較的安全なスペインへ移り住まわせます。

このスペインの日本公使館で、『堀口大學』は、フランスの女流画家『マリー・ローランサン』と出会い、二人の間柄は仲睦まじくなっていったと言われています。

『マリー・ローランサン』は、20世紀の初頭、エコール・ド・パリの新進画家として有名になっていました。美術評論家で詩人の『ギョーム・アポリネール』と恋仲になりますが、『マリー・ローランサン』の気持ちが冷めて、二人は別れます。それでも『アポリネール』は『マリー・ローランサン』への想い断ちがたく、この気持ちを『ミラボー橋』という詩で表現しています。

『マリー・ローランサン』は、後にパリに滞在していたドイツ人男爵と結婚しますが、第一次世界大戦になり、夫婦はスペインへ亡命します。敵国ドイツの男爵と結婚したということで、パリには住めなくなったためです。

後に『マリー・ローランサン』は夫の男爵と離婚し、パリへ戻りました。この男爵は、『真面目で善良な人』と云われていますが、元々芸術家で多感な『マリー・ローランサン』との結婚は無理があったのではないでしょうか。

『マリー・ローランサン』にとっては、私生活で微妙な問題を抱えている時代に、マドリッドで『堀口大學』と巡り合ったことになります。

夫のドイツ人男爵とは全く異なり、芸術への造詣が深く、当時のフランスの文学や詩を熱く語る『堀口大學』に、心惹かれていったであろうことは容易に想像できます。『マリー・ローランサン』を通じて、『堀口大學』は『アポリネール』のことを知り、後に『アポリネール』を日本へ紹介することになりました。

二人は、プラド美術館などを訪ね、ゴヤの『裸のマハ』の前で、『堀口大學』は、『女性の眼でこの絵を観てみたい』と言い、『マリー・ローランサン』は、『私は男性の眼でこの絵を観てみたい』などと洒落た会話を交わしています。

当時の二人が、本当はどのような間柄であったのかは、今となっては分かりません。『堀口大學』は、亡くなるまでこの話題は明言を避けています。ただ、随筆や詩の内容から間接的に私たちは憶測するしかありません。

詩人『堀口大學』にとって、『エロティシズム』は、一種の『言葉遊び』で、『遠く、かすかな、心の通い』といえるものではないかと番組では紹介していました。

ただ、『堀口大學』は、1925年に日本へ帰国して以来、今度は一切外国へ出向くことはなくなりました。これに関しては偶然とは考えにくく、『堀口大學』の心に意図的な回避の気持ちがあったものと思います。

昔の体験のままで、記憶の中で浄化し、封印したかったのかもしれません。そのことに『マリー・ローランサン』との恋が含まれているのかどうかも、分かりません。

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2015年4月15日 (水)

堀口大學とマリー・ローランサンの恋(2)

『堀口大學』は、長岡中学(後の長岡高校)在学中から、俳句に傾倒し、同級生に後に作家になる『松岡譲』がいました。『松岡譲』は、『夏目漱石』の門下生で、同じく門下生の『久米正雄』と、『夏目漱石』の娘筆子をめぐって恋敵(こいがたき)になりますが、筆子を射止めたのは『松岡譲』でした。『久米正雄』は失恋の経緯を『破船』という小説で発表し、世間は久米に同情し、『松岡譲』が友情を破った悪い男のように受け止めました。

『松岡譲』の方が『久米正雄』より容姿が優れていて、筆子が『松岡譲』を選んだという説もあります。どちらかと云えば小説家としては『久米正雄』の後に有名になりましたので、人生は分からないものです。

大秀才であった父親『堀口九満一』は、息子『堀口大學』を外交官やエリート官僚にしようと期待していました。しかし、『堀口大學』は、一校への受験に失敗し、慶応予科へ進みました。そして、与謝野晶子や永井荷風と知己を得、短歌や文学に傾倒していきます。それでも、『フランス語』の成績は、芳(かんば)しくなかったと言われています。後の業績(フランス近代詩の翻訳)を考えると不思議に思えますが、俳句、短歌で日本語の感性を磨いたことが翻訳にも役立っているのではないでしょうか。

慶応予科を中退し、外交官である父親の赴任先であるメキシコへ赴き、その後も、父の赴任先に関連して、スペイン、フランス(パリ)、スイス、ルーマニア、ブラジルで暮らしています。メキシコ時代に、結核を発病し、後にスイスで療養生活を送ったりもしています。父親の後妻がベルギー人の女性であったこともあり、メキシコ時代から『フランス語』の本格的な習得努力が始まったといわれています。

この間も父親は、『堀口大學』を外交官、日本銀行員などにしようと、色々画策し、『堀口大學』もある程度努力をしていますが、結果的には父親の夢はかないませんでした。息子にとっては、大秀才の父親などは迷惑な話です。

『堀口大學』は、20歳ごろから、30歳前半まで、10年以上『外国暮らし』でフランス語を中心に『外国語』の世界で過ごしていたことを、番組をみて梅爺は初めて知りました。

それにも関らず、帰国してから亡くなるまで、約55年間、今度は一度も日本を離れていません。このことに、『マリー・ローランサン』との恋の秘密が隠されているのかもしれないというのが、番組の推測でした。

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2015年4月14日 (火)

堀口大學とマリー・ローランサンの恋(1)

詩人で、フランス近代詩を翻訳して日本へ紹介した功績でも有名な『堀口大學』と、フランスの女流画家『マリー・ローランサン』が恋仲であったのではないかということを追求する、NHKBSプレミアム・チャンネルのドキュメンタリー番組を録画して観ました。

梅爺は、子供の頃『音楽』は好きでしたが、『詩』や『文学』にあまり興味を抱かずにすごしました。『理』を尊ぶ性格が強かったのか、『詩』や『文学』は、『女々(めめ)しい』ものと思い込む環境に育ったのか判然としませんが、今となっては惜しいことをしたと悔やまれます。

『人』の『精神世界』を、『音』『絵』『造形』『言葉』で表現することの意義と重要性を、ブログを書く内に、自分なりに理解できるようになったのは最近のことです。『芸術は、理ではなく情で接すべきものである』ということを悟ったのも最近です。もっと、若い頃に『物質世界』と『精神世界』の関係、それぞれの世界の特徴について気付いていたら、また誰かに教わっていたら、梅爺の人生は大きく変っていたかもしれません。

巷に雨の降る如く
われの心に涙ふる
かくも心に滲(にじ)み入る
この悲しみは何ならん?
(ヴェルレーヌ:堀口大學訳)

今の梅爺は、このような詩を、『感傷的で女々しい』などと評することはありません。

『詩』に疎かった若い頃の梅爺でも、『堀口大學』のことはある程度知っていました。『堀口大學』は、梅爺が卒業した新潟県立長岡高等学校の『先輩』で、長岡高校が輩出した有名人の一人として、教え込まれていたからです。『第二校歌』の作詞は『堀口大學』です。

長岡高校は、戊申戦争で敗北した長岡藩に、友藩から緊急支援で贈られた『米百俵』を、食べずに我慢し金に換え、将来の人材を育成するために『長岡洋学校』を設立したという逸話で始まった(明治5年)歴史ある学校です。

『米百俵』は山本有三の戯曲で有名になり、小泉元首相も、将来のために、今我慢をするという姿勢を国民に説くために引用しました。長岡では、『司馬遼太郎』の『峠』で全国的に有名になった家老『河井継之助』とともに、『米百俵』を学校に換えた藩士『小林虎三郎』も偉人として讃えられています。

その様な伝統を誇る学校なので、有名人を沢山輩出してきたことも自慢の種で、『(日本の)総理大臣以外は全て輩出している』と豪語しています。確かに、大臣までは何人も輩出しており、東大総長(小野塚喜平次)、元帥(山本五十六)など含まれています。文学者『堀口大學』もその一人です。

『堀口大學』の父『堀口九萬一(くまいち)』は、長岡藩士の息子で、一校、帝大を成績優秀で卒業し、日本で最初の外交官試験に合格した一人という大秀才でした。父が帝大生であったころ、『堀口大學』は赤門近くで生まれたこともあり、『大學』と名付けられたと言われています。

『堀口九萬一』は、梅爺の祖父が京都大学法学部の教授であったころ、祖父の家の書生であったことがあり、幼い『堀口大學』も祖父の家に出入りしていて『大ちゃん』と呼ばれていた、という話を無くなった梅爺の母から、聞いた記憶があります。『堀口大學』と梅爺の母親が幼馴染なのかと、梅爺は勝手に勘違いしていましたが、『堀口大學』の方が、梅爺の母親より10歳も年上ですので、母親が家人から聞いていた話ということなのでしょう。

母が亡くなっている今となっては、話の真偽を確かめようがありません。

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2015年4月13日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『Fermented Delights』(4)

宗教上の信念や、強い倫理観、それに健康に良いと言う思い込みから、『動物性たんぱく質』を口にしない人達がいます。

『精進料理』や、『ベジタリアン料理』がそれですが、梅爺は浅学にして、本当に『動物性たんぱく質』を摂取しないで、人間の身体は維持できるのかどうか分かっていません。『動物性たんぱく質』であれ『植物性たんぱく質』であれ、人間の身体に入れば、消化によって種々の『アミノ酸』に分解され、再度人間に必要な『タンパク質』が合成されるわけですが、中には、人間の体内では作れない『アミノ酸』があり、これは『必須アミノ酸』として外部から摂取しないといけないことになります。人間の『必須アミノ酸』は9種あるとされています。『必須アミノ酸』が全て植物由来のタンパク質から得られるのであれば、『ベジタリアン』でも健康が維持できることになります。

宗教的、倫理的な考えで『動物を殺したくない』というお気持ちは分かりますが、植物を食べる時にも命を奪って食べているわけですから、動物の命だけにこだわるのは、いかがなものかと屁理屈を申し上げたくなります。

他の命を犠牲にしなければ、『人間』は生きていけない宿命であることを、認めるのであれば、日本人がそうしてきたように感謝して他の命を『いただく』しかありません。

『カンポレージ』は、中世に、野菜だけ、果物だけ、牛乳だけで、食卓の全ての料理をつくってしまう技術がすでにあったことも書いています。見かけは、肉や魚を食べていると錯覚させる技術で、類似の技術は、日本の『精進料理』や、健康を標榜する『中国料理』にもあります。

『精進料理』や『中華料理』では、大豆を加工した豆腐や湯葉をもちいて、鶏肉やウナギ(蒲焼)の味や外観を表現しています。

ここまで偽装しようとするのは、『やっぱり鶏やウナギを食べたいというホンネがおありなからでしょう』と、減らず口をたたきたくなります。

人間の身体を物理的に維持するしくみは、『科学』が解明しますから、必要なら、痩我慢せずに動物や植物をたべることを認めるしかありません。

これ以外に、中世には、徹底した『女性蔑視』の価値観が定着していたことを、『カンポレージ』は文献を引用しながら紹介しています。考えられるあらゆる女性に関する悪口雑言のリストが掲載されていますから、現代の女性が読めば、激昂するでしょう。勿論、これを書いたのは中世の男性です。

『カンポレージ』は、面白半分でこれらを紹介しているのではなく、人間は、時代や、受け継いでいる文化、獲得している科学知識で、異なった『価値観』を創りだし、共有する習性を本質的に持っていることを示そうとしています。

現代にも現代の『価値観』があり、これを中世の人達が知れば腰を抜かすかもしれません。数世代後の将来の人達は、また違った『価値観』を共有するのでしょう。厄介なことに、『社会の価値観』にも違いがあり、その上『個人の価値観』も一様ではないのが、『精神世界』は一筋縄ではいきません。

政治家が安請け合いする『皆が安心して暮らせる社会』などは、この視点でみれば『夢のまた夢』です。『精神世界』は必ず『不満』を醸成するからです。『一党独裁』『独裁』は、『恐怖政治』で見掛け上人々の『不満』を抑圧しているだけで、いつかは必ず爆発します。

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2015年4月12日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『Fermented Delights』(3)

エッセイの中で、『カンポレージ』の『チーズ』に関する考察文章が引用されています。牛乳から造られるあの『発酵食品』の『チーズ』で、タイトルの『Fermented Delights(醸し出された喜び)』は、これに関連する『遊び心』の表現になっています。

『チーズ』は現代人にとっては、美食の食材で、含まれている栄養素の分析内容も判明していますから、安心して食することができますが、中世の人達は、永い間これを、下層の労働者などが食べる『下等でいかがわしい食べ物』と考えていたことが、『カンポレージ』の文章から分かります。

同じ牛乳から造られる『バター』は、『上品な食べ物』と考えられていて、この違いは、『臭い』にあります。

中世の人たちは、『チーズ』の『臭い』を『腐敗臭』と感じ、『嫌な体臭』『老廃物』『排泄物』『死臭』を連想して『上品ではない』と判じたことになります。『味覚』同様『嗅覚』は、食べ物が安全かどうかを判定する重要な能力です。生物進化の過程で、『生き残りの確率を高めるため(毒物を本能的に避けるために)進化させてきた能力』です。『チーズ』に関しては、慣れてしまえば、実は美味であるということが社会に定着するまでに時間を要したのでしょう。

日本でも、『納豆』や『くさや(干物)』が、『実は美味である』ことが定着するまでには、時間を要したのではないでしょうか。

梅爺の母親は、生涯『石鹸を食べる様で嫌だ』といって『チーズ』は口にしませんでした。息子の梅爺は、最初に出会った『チーズ』が、比較的『臭い』の少ない『チェダー・チーズ』のようなものでしたので、『世の中には、こんな美味いものがあるのか』と偏見なく受け容れることができました。

しかし、最初に『ブルー・チーズ(ゴルゴンゾーラ)』に遭遇した時は、少々たじろぎましたし、スイスで『本場のフォンデュー(外国人観光客向けの臭いの少ないフォンデューとは異なる)』を食べに行った時には、部屋中に充満している強烈な『臭い』に閉口しました。

今では『ブルー・チーズ』も含め、『チーズ』は好物です。

『カンポレージ』は、中世の有名な修道女が、自伝の中に『チーズを食べるくらいなら、信仰も捨てると、自殺を考えるくらい悩んだ』と書いているエピソードを紹介しています。信仰のためなら、数々の辛い試練に耐えて、『キリストの聖なる御心』を体感した聖女として有名な彼女が、『チーズ』だけは『自分を汚らわしくする』として我慢できず、信仰さえもに捨てようとしたという『取り合わせ』は、現代人には滑稽ですが、本人には深刻な問題であったのでしょう。

梅爺の母親や、この聖女の話でも分かるように、人間が『精神世界』で創り上げた『価値観』は、強固であり、なかなか変えられないものであることが分かります。『イスラーム』の信徒や、『ユダヤ教』信徒が、『豚肉を食べない』という『価値観』も強固です。私たちは、誰もが、知らず知らずに自分の『価値観』に縛られて生きています。

『価値観』は、自分で考え出したもの、小さい頃から教え込まれたもの、社会の風習として慣れ親しんできたものと種々ありますが、いずれも人間の判断や行動を規制します。梅爺も、他人の『価値観』、『異文化』の考え方を尊重し、柔軟に対処しようと『理』では考えますが、それでも自分の『価値観』に強く縛られて生きています。

人間の中で、もっとも手に負えないのは、『自分の価値観』に疑念を抱かない人達です。『テロリスト』がその典型例ですが、なかには社会の高い地位にまで登り詰める人がいて、『傲岸さ』で周囲を辟易させることになります。こういう方とお付き合いするのは、梅爺は苦手です。

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2015年4月11日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『Fermented Delights』(2)

『ウンベルト・エーコ』は『ピエロ・カンポレージ』と食事を共にしたことはありませんが、『カンポレージ』が美食家であろうと推察しています。『カンポレージ』が上手な料理人であると、聞き及んでいるためでもありますが、何より『カンポレージ』が、その著作の中で、人間の肉体やそれに付随する事柄に、執拗な描写をしていることを理由に挙げています。こういう人は美食家に違いないと言う推察です。 

『カンポレージ』は、中世の埋もれていた文献から、当時の人達が、『何をどのように考えていたか』を見出し、それを執拗なまでにありのまま表現しています。例えば『人間の死体が腐敗していく様子の観察記録』などもあり、現代人が読むと、気分が悪くなり、吐き気を催したくなるようなものまであります。

従って『カンポレージ』の著作には、現代人が『猥雑』なものとして避けたくなるような表現や、世俗的な聖職者やいかがわしい人物などが登場します。勿論、当時の実態を直視しなければ、『人間』の本質は見えてこないと言う『カンポレージ』の考え方が反映しているのでしょう。現代人も中世の人達も同じ『人間』であるからです。『ウンベルト・エーコ』は、『クリームの中で泳ぐのと、糞尿の中で泳ぐことを同等に扱っている』というように評しています。日本流に言えば、汚い表現で恐縮ですが『味噌も糞も一緒』というような感覚なのでしょう。

文学的な表現で云えば、アイルランドの作家『ジェームス・ジョイス』の表現に似ていることになります。『ジョイス』は『言葉の芸術家』と言われますが、英語による『言葉による連想(遊び)』のような表現様式になります。そのため、『ジョイス』の作品は、他の言語への翻訳が至難の業になります。『言葉遊び』には『情感』が重要な要素になるからです。

梅爺は『ジョイス』を、原文でも日本語翻訳でも、読んだことがありません。『英語の言葉遊び』が理解できるほどの能力はありませんから、どちらを選んだとしても『ジョイス』の真髄を味わうことは困難であろうと、あきらめているからです。

日本では、『井上ひさし』が、『日本語の言葉遊び』を多用していますが、日本人が好きな諧謔や耳に心地よい表現が目的で、芝居の科白(せりふ)などを聴いていて、梅爺はクスリと笑ってしまいます。『ひょっこりひょうたん島』などという表現が代表的な例です。この例では『ひょ』がかけ言葉になっています。これを英語に翻訳しても、面白さは伝わりません。

人間は自分にとって理解できない『事象』に遭遇すると、『精神世界』を駆使して、『因果関係』を『虚構』として創造する習性をもっています。理解できないままで放置することは『安泰を脅かす』ストレスになるからです。

この習性は、古代人も中世人も現代人も同じです。ただ、現代人は、多くの『科学知識』を保有するようになりましたから、古代人や中世人の考え出した『因果関係』は『虚構』であり、論理的には『偽』であることを知っています。しかし、現代人も、現代人なりに『虚構』を創り続け、その『虚構』を信じたりしていますから、程度の差はあれ、『人間』の本質は変っていません。

『物質世界』の事象に関ることは、『真偽の判定』が科学の法則で可能ですが、『精神世界』だけで創造された『虚構』は、『真偽の判定』ができません。『神』『天国』などが、現代人でも信ずる対象になっているのは、そのためであろうと梅爺は考えています。『虚構』であれ何であれ、『安泰』を得るためには利用するのが『人間』なのです。

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2015年4月10日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『Fermented Delights』(1)

ウンベルト・エーコのエッセイ集『Inventing the Enemy(敵を創りだす)』に収められた5つ目の話題は、『Fermented Delights』です。 

タイトルを直訳すれば『醸(かも)し出される喜び』となり、なんのことだろうと興味がわきますが、内容を読んでみると、『チーズ』に関する話が含まれていますので、『発酵』のニュアンスを『かけ言葉』として表現したものであると分かりました。

しかし、エッセイの内容は『食べ物』ではなく、『ピエロ・カンポレージ(1926-1997)』というイタリアの、文学者、歴史学者、人類学者の著作内容と人物を『ウンベルト・エーコ』が評論したものです。『カンポレージ』はボローニャ大学のイタリア文学教授でした。

『ウンベルト・エーコ』は、彼の代表作である小説『薔薇の名前』や『前日島』を書くにあたって、『ピエロ・カンポレージ』の著作からヒントを得たことが紹介されています。二人は学者として交流があり、『カンポレージ』の著作(命の汁:血に関する評論)の序文を『ウンベルト・エーコ』が頼まれて書いたりしています。『前日島』については、前にブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/the-island-of-t.html

梅爺は、このエッセイを読むまでは、『ピエロ・カンポレージ』を知りませんでしたし、その著作を読んだこともありません。

ただ、このエッセイから窺(うかが)い知れることは、二人が中世ヨーロッパの歴史や社会に関して、並はずれた知識の持ち主であるということです。

このエッセイの中で、当たり前のように引用される、数々の著作者や著作物について、梅爺は全く知識を持ち合わせていませんので、知らない街で放り出されたような心細さを感じました。ある程度の、イタリアの教養人なら、『あぁ、あのことか』と思い当たるのでしょう。

逆に普通のイタリア人が、『親鸞』に関する『歎異抄(たんにしょう)』や、『道元』に関する『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』から引用されても、何のことかわからないはずですから、『おあいこ』だと、悔し紛れに考えました。異文化を理解することは、実に難しいことです。

『ピエロ・カンポレージ』は、埋もれている中世の文献を読み漁り、中世の『人間』が、『何をどのように考え、どのように理解していたのか』を現代人へ提示しようとしていることを知りました。徹底して当時の『人間』の視点で、先ず観てみるという姿勢で、梅爺は共鳴します。

『釈迦』も『キリスト』も、その時代の『人間』が、『何をどのように考え、どのように理解していたのか』を知らない限り、『教え』に関する本当の理解は難しいのではないでしょうか。『教え』の一部に普遍的な意味が込められているため、私たちは、『釈迦』や『キリスト』が、あたかも現代の隣人が話しかけてくれているかのように感じますが、『教え』は当時の社会情勢の中で、当時の人達に向けられて語られたものです。『釈迦』も『キリスト』も、『当時に属していた人間』であると、梅爺は考えています。哲学的な思索能力は飛びぬけていたとしても、現代人が常識として知っている科学知識は持ち合わせていなかったと想定しています。しかし、そのことで梅爺の方が優っているなどと言うつもりはありません。

当時の『人間』の視点で観ることは、当時の人と現代人の違いを知ることでもあり、また、変らぬ共通点を認識することでもあります。

『物質世界』に属する肉体やその能力で比べれば、中世人と現代人はほとんど変らないことになりますが、『精神世界』の中身は大きく異なります。中世人が想定していた多くの『常識』は、現代人では『常識』ではなくなっています。『魔女を異端尋問にかけて火あぶり刑にする』というようなことは無くなりました。

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2015年4月 9日 (木)

Comparisons are odious.

英語の諺『Comparisons are odious.』の話です。

直訳すれば『比較は、憎むべき行為である』ということで、『品定めは慎みなさい』ということらしいことは、何となく分かります。

調べてみると、16世紀の作家の著作が原点らしく、『シェークスピア』も作品の科白(せりふ)として引用していることが分かりました。

英語圏の人達が、どのように共通理解しているのかは、想像の域を出ませんが、『比較と言う行為が、人間関係で諍(いさか)いや憎しみの元となるので慎め』というようなことかと梅爺は考えました。

ブログを書き始める前の梅爺ならば、こういう『戒(いまし)め』に接すれば、直ぐに畏れ入り、『そう言えば、やたらに品定めしたがる自分は、なんと品性下劣な人間なのであろう』と、罪の意識に苛(さいな)まれたかもしれません。

しかし、現在は、『人』の脳が創り出す『精神世界』のしくみについて、自分なりの理解を保有していますので、この程度の『お説教』にはたじろぐことがなくなりました。

脳の基本機能は、『周囲の状況を判断する』ことで、『判断』には『比較』が伴いますから、『人』は『生きる』ために、意識的に、また無意識に常に『比較』を行っていることになります。それが生物として進化してきた『人』の宿命でもあります。

従って、『比較を行ってはいけない』と言われても、『炭酸ガスを排出するから呼吸をしてはいけない』といわれるのと同様、所詮無理な要求です。

私たちは、『生きる』ことを肯定する限り、『比較』すること自体に負い目を感じたり、罪の意識を持つ必要などありません。

ただ、この諺がまったく無意味かと言うとそうでもありません。なぜならば、脳(精神世界)の『比較』は、意識的であれ無意識であれ、その人の個性に由来する判断基準で行われることに『問題』があるからです。

つまり『精神世界』の『判断』『比較』の大半は、『科学』における『真偽判定の絶対的基準』のようなものがないにもかかわらず、判定を下していることになります。個性的、相対的な判定に過ぎないということです。

『比較』がいけないのではなく、自分が『比較』で下した判断に対して、『絶対的な価値(正しいなど)』があると勘違いすることがいけないということになります。

各人が、自分が『正しい』と主張すれば、人間関係がこじれるのは目に見えています。

無人島に生きる『ロビンソン・クルーソー』ならば、自分の判断を絶対視しても構いませんが、他人との『絆』も『安泰』を得る重要な手段として生きている私たちは、自分の『判断』を、ときに客観的に疑う必要があります。

自分を『信ずる』ことと、自分を『疑う』ことのバランスがとれない『人』は、自分も周囲も不幸にしがちです。そうは言っても『自信』をもって、『謙虚』に生きることは、易しいことではありません。この『バランス』のよりどころは『理性』ということになります。

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2015年4月 8日 (水)

科学知識の保有量(4)

自然界の事象は、全て『理』で説明がつくのであれば、自然界の一員として存在する『人間』も、その『脳』も、『脳が創り出す世界』も全て『理』に適ったものとして説明がつくはずです。つまり『真偽の判定』が可能であるはずです。

ところが、『人間の脳が創り出す世界』の事象(哲学、宗教、芸術など)に限っては、『真偽の判定』ができない(難しい)ように見えるのは何故なのでしょう。

それは、『人間の脳』の思考には、『理』だけではなく、『情』という要素が重要な役割を果たしているからではないかと梅爺は推測します。『情』は定量的な比較ができないものです。更に『人間の脳』は、『理』と『情』を駆使して、自由に『虚構』を創りだします。この『虚構』は科学の法則の制約を受けませんので、実際には存在しない『ドラゴン(龍)』や『フェニックス(不死鳥)』のようなものまで考えだします。『科学』は現在のところ『人間の脳』のカラクリの全てを解明できていません。

『情』は煎じつめれば、『好き(自分にとって都合がよいもの)』『嫌い(自分にとって都合が悪いもの)』を判別する本能に由来していると考えると、なんとなく理解でるような気がします。梅爺は『全ての豆類、特にピーナッツ』や『漬物』が好物ですが、『何故好きか』と問われても説明のしようがありません。梅爺のDNAの中に原因が潜んでいるらしいとしか言いようがありません。

『人間』は『自分に都合のよいもの』を本能的に求める(安泰を求める)ために、『こうあって欲しい』と『願い』『祈り』やがて『そうある』と『信ずる』ようになります。この思考プロセスには『理』も絡みますが、主役はやはり『情』です。そして『こうあって欲しい』ことを『虚構』として想像します。

『情』は個人差があること、絶対的な尺度では比較できないこと、『信ずる』という行為には『情』が絡んでいることを理解していれば問題は起きませんが、『人間』は、『自分が信じたことは正しい』と更に考えを飛躍させます。

そして、『自分が信じたことが正しい』は更に飛躍し、『そう考えない人は間違っている』となり、極端な場合は、『間違っている人間は邪悪で存在も認められない』という話にまでなります。皮肉なことに『宗教』が憎みあいの原因になるのは、このようなプロセスによります。

『科学』の本質を理解し、自分も含めた『人間』を客観視することができれば、このような弊害を減らすことができます。

『科学』そのものの責任ではありませんが、『科学』を利用して人間は何をやってもよいという尊大な考え方が根付き始めたことに梅爺は懸念を抱いています。そもそも人間は生物として『自然界のおこぼれ』だけで生きていくという枠組みの中で進化してきましたが、『科学』の応用で、『自然そのまでを変えられる』と勘違いし始めているように感じます。『科学知識』を増やすだけで、『科学の応用の本質』に思いを馳せないと人類は不幸な生き方をしてしまう可能性があるとも言えるのではないでしょうか。『科学』は素晴らしいものですが、バラ色の世界だけをもたらすものではありません。人間は自然に対してもっと謙虚であるべきです。

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2015年4月 7日 (火)

科学知識の保有量(3)

自然界の事象は、全て『理』に適っていると言う前提で『科学』の究明対象になります。言いかえれば自然界の事象は『真偽の判定が可能』なものとなります。しかし、『自然界には理で説明がつかない事象がある』と主張する人も後を絶ちません。『超自然現象』と呼ばれるものです。

確かに、現時点では、『理』で説明ができない事象が自然界には沢山ありますが、多くの科学者は、それは現時点の人類の能力が及ばないだけで、いつかは解明できると考え、『超自然現象』は存在しないと推定しています。

一方『超自然現象』の存在を信ずる人たちは、『超能力』や『奇跡』を例に挙げて科学者に反論します。

『超自然現象』は、以下のいずれかに分類できそうです。

(1) 本当に存在する。
(2) 現時点でそのように見えるものだけで、いつかは解明される。
(3) 誰かが創り出した『話(虚構)』か『トリック』にすぎない。

梅爺は(2)(3)であろうと考えていますが、『存在しない』ことを証明する能力は持ち合わせていません。

既にお気づきのことと思いますが、『宗教』には『超自然現象』が付きまといます。『神や仏の存在』『死者の霊の存在』『神仏や聖職者が関与した奇跡』が登場します。

昨日も書いたように、『宗教』は、人間の脳が作り出した『世界』であるとすれば、この『世界』を自然界と同様に『理』で説明しようとすることには無理があります。そもそも『宗教』は、『超自然現象』を肯定しようとして考え出されたものではなく、『御利益(ごりやく)』や『心のやすらぎ』を目的として考え出されたものと推定できますので、手段として利用されている『超自然現象』を否定することで、肝心な『目的』まで否定してしまうことは慎重を要します。

『科学』とは別の世界である『宗教』『芸術』は、人間の『世界』には、必要なものと梅爺は考えています。

『科学』と『宗教』はそもそも別世界と割り切れば済む話ですが、両者が自分の視点だけで相手を非難するために、不毛な議論が続いているように感じます。ただし、『人間が必ず神仏という抽象概念を思いつく』『神仏を信ずると心の安らぎが得られる』のは何故かという疑問を、『科学』が究明対象とすることを『宗教』は忌避するわけにはいきません。

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2015年4月 6日 (月)

科学知識の保有量(2)

科学分野は広汎にわたっているために、あらゆる分野の最先端知識を詳細に理解することは、既に個人の能力の限界を越えています。

勿論、梅爺も、多くを知ろうと努力はしていますが、知識はごく一部に限られており、また、どんなに努力をしても梅爺の能力では『理解できない』ことも沢山あります。

科学知識と接する時に、重要なことは、『詳細までを理解する』というより、『本質的な意味を理解する』ことではないでしょうか。『詳細に関する知識』は、多くの場合それを『知っている』レベルに止まりますが、『本質に関する知識』は、他の思考を触発したり、他の事象を判別する時にも広く応用が効いたりするからです。

たとえば、『科学の究明は、疑問を解明することであり、無条件に信ずる行為は受け容れられない』というようなことが本質的な理解の一つです。全ての疑問が解明はされているわけではありませんが、少なくとも今までに解明されたことは、誰もが『真』と認める、論理法則、物理法則、化学法則で矛盾なく説明ができるものですので、今後も同じような解明が続くであろうと科学者は推測します。科学の究明は、『真偽を明確にする』ことで、究明の対象は『真偽の判別が可能』であるものと考えられています。

『自然界にはあらかじめ設定されたグランド・デザインがない』『自然界は部分的な変化をきっかけとして、全体は新しい平衡状態を求めて変容することが際限なく切り返されている』などということも、『本質的な理解』に属することです。

一方、人間の脳が考え出す『世界』や、それに基づいた行為の『世界』は、『自然界』とは異なっていて、こちらもその『本質』を理解することが重要になります。『自然界』は科学が究明の対象とする『世界』であり、『宗教』『哲学』『芸術』『政治』『経済』等の分野は、人間の脳が考え出した『世界』であるとすると、この二つの異なった『世界』を同等に論ずることはできないことに気付きます。

たとえば、『自然界』には『グランド・デザイン』は存在しませんが、人間の脳の作り出す『世界』では、『グランド・デザイン』をあらかじめ設定することが重要な意味を持ちます。『自然界』の事象は、誰もが納得する基準で『真偽の判定』が可能ですが、人間の脳が作り出す『世界』では、ほとんどの場合絶対的な基準が見つからず誰もが納得する『真偽の判別』は不可能です。『善』や『美』という抽象概念も、万人が納得する絶対的な基準はありません。逆にいえば、人間の『世界(精神世界)』では、『相対的に異なっていること』が重要な意味を持つことが分かります。さらに面白いことに、人間の『世界』では、『科学の世界』では意味のない『信ずる』という行為が、極めて重要な意味を持ちます。

この区別がつかずに、人間の『世界』の事象でも全て『真偽の判別』は可能であると思いこんだり、『自然界』にも『グランド・デザイン』が存在すると『勘違い』している人が多く、このために、不毛な議論が世の中では多く行われているように梅爺は感じます。特に科学の『世界』のことを、『信ずる、信じない』で議論する人が多いことも気になっています。『科学』の世界では、『間違い』は論理的に証明することが求められ、『信じられないから間違い』という主張は意味がありません。

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2015年4月 5日 (日)

科学知識の保有量(1)

『宇宙の成り立ち』『生命に成り立ち』『生物進化』などについて、科学が何をどこまで解明できているのかに関する知識を少しばかり聞きかじり、梅爺は『梅爺閑話』にその感想を書き綴ってきました。

17万年近い現生人類(ホモ・サピエンス)の歴史の中で、自分が生きている『現在』ほど、人類が多くの科学知識を保有している時代はないという当たり前の事実を思い知って、梅爺は『自分はなんと幸運なのだろう』と嬉しくなりました。

現在私たちが保有している『科学知識』の大半は、高々ここ200年の間に人類が取得したものです。梅爺は自分が『釈迦』『キリスト』『ムハンマド』より優れた人間であるなどと言い張るつもりはさらさらありませんが、少なくとも『科学知識』の保有量に関しては、梅爺の方が圧倒的に有利な立場にいます。

『科学知識の保有量の多寡』が、人間の『思考』や『生き方』に与える影響は、小さいものとは言えません。昔は、『太陽は神である』と本当に信じていた人たちがいましたが、現代人の多くは信じません。梅爺が、引退後の生き甲斐の一つとしてブログを書き続けていられるのは、科学知識を応用した、『インターネット』『コンピュータ』が利用できるからで、70歳を越えて未だ生きているのは、科学知識を応用した医学や医薬のお陰かもしれません。

『科学知識を沢山持っている人』が、『人間として立派』であると単純に勘違いすることは禁物です。それは、200年以上前にも、梅爺が足元にも及ばない立派な『思想家、哲学者』『宗教家』『芸術家』が無数に存在していることからも明白です。人間の『総合価値』は、『科学知識の保有量の多寡』だけで決まるものではありません。しかし、『科学知識の保有量の多寡』は、全く影響しないわけではありません。もし200年以上前の立派な『思想家、哲学者』『宗教家』『芸術家』が、梅爺と同じ『科学知識』を保有していたら、違う発想や違う作品が産まれていたかもしれません。

『科学知識などを持たなくても生きていける』という主張は間違いとは言えませんが、『科学知識を利用すれば、考え方や生き方が変わる』という主張も間違いとは言えません。

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2015年4月 4日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『聖遺物探し』(4)

『キリスト教』では、『キリスト』が、『最後の晩餐』で弟子たちに、パンとワインを自分の肉体と血になぞらえて、後々、自分を記念する儀式でもちいるように命じたことから、『聖餐(せいさん)の儀式』において信者にパンとワインが振る舞われます。

たとえそれが『ヤマザキのパン』や『サントリーのポートワイン』であっても、『聖餐の儀式』では、キリストの肉体、血のシンボルに早変わりするわけですから、『人間』の『精神世界』が、いかに柔軟に『虚構』を受け容れる習性をもっているかが分かります。『シンボル』に価値を付与して仲間で共有できるのは、『人間』だけです。

『キリスト教』の関係者が、血眼(ちなまこ)になって探してきましたが、未だ見つかっていないものに『聖杯(Holy Grail)』があります。『聖杯』は『キリスト』が『最後の晩餐』でワインを飲んだとされる杯のことです。

『聖杯』を手にした者は、絶大な力を得ることができると、言い伝えられたことから、歴史上の権力者がこれを探し求めました。

中世の『テンプラー騎士団』が、短期間、急速にヨーロッパで勢力を伸ばしたのは、十字軍遠征で、『聖杯』を見つけこっそり持ち帰ったからであるという噂がまことしやかにささやかれ、今でも『ダン・ブラウン』の小説『ダ・ヴィンチ・コード』などにも登場します。『杯』が『絶大な力』を生みだすというような、『虚構』でも、人は信ずるわけですから、巧妙な詐欺師にかかれば、誰でも騙されるのもごもっともということになります。『信ずる』という行為は、『麻薬』のようなもので、効いている間は『うっとり』できますが、効き目がなくなると、落ち込むことになりかねません。

それでも、『人間』は、『信ずる』ことなしには、生きていけません。『真偽』が分からないことにも対応しなければ、前へ進めないからです。『理性』は『疑い深く信ずる』ことに役立ちます。しかし、『無条件に信じた』人の方が、人生では良い結果を得る場合もありますから、『生きる』ことと『信ずる』ことの関係は、実に厄介です。

『仏教』における『聖遺物』の最たるものは『仏舎利(釈迦の骨)』で、布教が及んだ世界各地に、『仏舎利』を保有すると主張する寺、寺院があります。『仏舎利全体を管理しているのは誰か』『世界中の仏舎利を集めたら一人の骨以上になってしまうのではないか』などと野暮な質問はしてはいけないのでしょう。しかし、初期の仏教では『釈迦の足跡』が信仰の対象でした。『足跡』を刻んだ石が『仏足石』として残っています。足の裏の模様が『釈迦』のシンボルとして用いられています。

『精神世界』の特徴を考えれば、人間が何故『聖遺物』を創りだし(考え出し)、何故『シンボル』をも信仰の対象とするのかは、それほど不思議な話ではありません。『虚構』は、人間の共通認識のなかでだけ意味を持つものであると梅爺は考えています。

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2015年4月 3日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『聖遺物探し』(3)

カトリックの『聖遺物』で一番多いのは、聖人の遺骨です。カトリックが聖人と認定した人は、沢山いますから、沢山の遺骨や遺骨の一部が『聖遺物』として、各地に存在します。例えば、ベネチィアの『聖マルコ寺院』は、『使徒マルコ』の遺骨を祀っています。

ただし『キリスト』や『聖母マリア』は、死後復活して昇天したことになっていますから、さすがに遺骨があっては、矛盾になりますので、梅爺の知る限り、この種の『聖遺物』はありません。

『聖遺物』ブームは、ローマ帝国が『キリスト教』を国教とした直後から始まったように見えます。国教を決めた『コンスタンチヌス1世』の母『ヘレナ』は、敬虔な『キリスト教』信者で、4世紀に聖地エルサレムにまで出向いて、『キリスト』を処刑した十字架の『木』や『釘』を見つけてローマへ持ち帰ったと言われています。

『キリスト』の死後300年位のことですので、『木』や『釘』が残っていなかったとは言えませんが、『誰がそのようなものを、隠し持っていたのか』を考えると不自然な話です。現代科学なら、素材の年代をある程度特定できるかもしれませんが、さすがに『十字架』の『木』『釘』であったことを証明することはできません。

11世紀以降の『十字軍遠征』で、兵士が色々な『聖遺物』を持ち帰り、一気にその数が増えます。現地の怪しげな商人に騙されたり、兵士自身も一攫千金を夢みたりしたのではないでしょうか。『信仰心』だけの成せる技とはとても思えません。

『十字架』の木片は、各地にありますので、『それらを全部合わせると家が建つ』などというジョークがあるほどです。とにかく、思いつく限りの『聖遺物』が出現することになりました。最後の晩餐の『テーブルクロス』、『洗礼者ヨハネ』の『歯』『サンダル』『腰紐』、『聖母マリア』の『ローブ』、『キリスト』が産まれた時に使った『かいば桶』、『キリスト』の処刑時に脇腹につき刺した『槍』など枚挙(まいきょ)にいとまがありません。

『聖遺物』の代表は、トリノ(イタリア)の『聖ヨハネ大聖堂』が所持する『聖骸布(せいがいふ)』で、十字架から下ろされた『キリスト』の遺体を包んだ布ということになっています。なにしろ、うっすらと『キリスト』の像が、しみのように浮き上がっている布で、真偽にかんする議論が現在も絶えません。科学調査で、『布』は、12世紀から13世紀のものと推定されましたが、反論する人達もいて、真偽は確定していません。

『ウンベルト・エーコ』は、沢山の『聖遺物』の例を挙げていますが、これらの人間の行為を嘲笑はしていません。ただ、『聖遺物が信仰を生みだすのではなく、信仰が聖遺物を生みだすのだ』と書いています。

『信仰』は人間の『精神世界』独特の行為で、『安泰を希求する本能』が背後にあると考えている梅爺には、同意できる表現です。

日本人は、『霊峰富士』をはじめ各地の山々を信仰し、『熊野古道』や『高千穂』の自然の中で幽玄を体感し、色々な神を神社に祀り、沢山の仏像を拝んできましたが、一方では『鰯(いわし)の頭も信心から』と、『信心』の本質を鋭く見抜いて、笑い飛ばしてもいます。こういう、矛盾を受け容れるバランス感覚が梅爺は大好きです。『精神世界』は観方によっては滑稽なものであることを承知の上で付き合う必要があります。深遠でもあり、滑稽でもあるのが『精神世界』です。

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2015年4月 2日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『聖遺物探し』(2)

有名人、偉人が残した『モノ』は、『遺物』になりますが、『神』『開祖』『聖人』が残した『モノ』は『聖遺物』になります。

一般に『聖遺物』は、宗教の権威を示し、布教の手段として利用されてきました。

『ユダヤ教』にとっては、モーゼがエジプトを出た後に、シナイ山に登って、持ち帰ったとされる『十戒』が刻まれた2枚の岩板は、『聖遺物』中の『聖遺物』です。何しろ、『神』が自ら『神の火』で『十戒』を刻んだことになっていますから、現物を観れば、『神』の筆跡が判明することになります。

この岩板は、『聖櫃(せいひつ:アーク)』に収められ、ユダヤの神殿の奥の奥に安置されていたとされますが、現在は行方不明になっています。エチオピアのキリスト教教会に、非公開で現存するという噂があり、言い伝えでは、ユダヤの『ソロモン王』とエチオピアの『シバの女王』の間に産まれた息子が、エチオピアへ運んだということになっています。誰も調査のために立ちいることは許されませんので、真偽のほどは確認できません。

仮に、現物が見つかれば、『神の火』による刻印の実態が判明したり、何よりも『神』が使用した『言語』が判明しますから、仮に『アラム語』であれば、ユダヤの人達は『ほれみろ、神は私たちだけの神だ』と納得しますが、他の言葉を使う人達は、『神様、私に語りかける時は、どうか私の言葉でお願いします』とお願いしなければならなくなります。『科学』の検証に耐えなくてはならない時代になって、『聖遺物』にとっては厄介な話になりつつあります。

『イスラーム』は、偶像崇拝廃止を掲げてきましたので、その分『聖遺物』に類するものが少ない宗教です。『神は具象の対象ではない』とした『イスラーム』の教えは、なかなか洞察に富んでいたと言えないことはありません。それでもエルサレムの『岩のドーム』は、教祖『ムハンマド』が、一夜の昇天(アッラーへの謁見)を体験した場所ということで聖地になっています。

エルサレムには、キリストの処刑地(ゴルゴダの丘)の跡に建てられた『聖墳墓教会』があり、こちらは『キリスト教』の聖地になっています。更にややこしいことに、エルサレムは『ユダヤ教』の神殿があった場所で、神殿はローマ帝国によって破壊されましたが、一部が『嘆きの壁』となって残っていて、『ユダヤ教』の聖地になっています。

『ユダヤ教』から、『キリスト教』『イスラーム』が派生したことを如実に示す場所がエルサレムであるという観方もできますが、その分、宗教間の抗争が起きやすい場所であり続けてきました。

余談になりますが『イスラーム』は、『キリスト』の神性は否定していますが、『預言者』の一人として存在は認めています。

『精神世界』は、特定の『モノ』や『場所』を、『聖遺物』『聖地』へと変えてしまうことがわかります。いうまでもなく『聖なる』という表現は、『精神世界』がつくりだした抽象的価値観で、『物質世界』には通用しません。『物質世界』には、ただ『モノ』や『場所』が存在するだけです。

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2015年4月 1日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『聖遺物探し』(1)

『ウンベルト・エーコ』のエッセイ集『Inventing the Enemy(敵を創る)』の4つ目の話題は『Treasure Hunting』です。直訳すれば『宝探し』ですが、内容は、『カトリック』の教会などに受け継がれている、『聖遺物』に関する話ですので、梅爺はタイトルを『聖遺物探し』と訳して、紹介します。 

歴史上の、有名人、偉人の遺物(所持品、愛用品など)は、記念館や博物館などに展示されていて、それを私たちは、単なる『メガネ』『万年筆』ではなく、特別の背景がある『メガネ』『万年筆』として観ます。オークションで売りに出されれば、途方もない値段で取引されることもあります。 

『梅爺閑話』をお読みいただいている方は、何故単なる『メガネ』が、特別で高価な価値をもつ『メガネ』に変るのかについて、カラクリは推量いただけるのではないでようか。

そうです『精神世界』が関与しているからです。『精神世界』が見えない価値を創出し、特定の人達の間でその価値を共有する習性を、人間が保有しているからです。『吉川英治』やその著作を知らない外国人にとっては、『これは吉川英治が生前愛用していたメガネです』と説明を受けても、『あぁ、そうですか』というだけで、特別高価な『メガネ』として受け容れるとは限りません。『特定の人達の間で』と書いたのは、そう云う意味です。言うまでもなく『物質世界』の視点で観れば、『メガネ』は『メガネ』に過ぎません。

梅爺も過去にヨーロッパを旅行し、いくつかの教会、大聖堂で、『聖遺物』の話を聞いたり、実際に見たりして、礼儀上は神妙に接しましたが、大変失礼ながら、内心では『よくもまぁ、こんなものを』と感じていました。

ブタペスト(ハンガリー)の『聖イシュトヴァーン大聖堂』には、聖人となった初代ハンガリー国王『イシュトヴァーン1世』のミイラ化した『右手首』が、『聖遺物』として飾られています。『イシュトヴァーン1世』は11世紀の初めの実在の王様ですから。この『右手首ミイラ』は、『本物』である可能性が高いとおもいますが、ブルージュ(ベルギー)の『聖血教会』で公開されている『キリストの血』を観た時には、不謹慎にも、首をかしげ、笑いを懸命にこらえたことを覚えています。

『キリストの血』は、白い綿か羊毛のようなものに、少量の『赤い色』が付着したもので、ガラス容器に納められていました。『十字架で流されたキリストの血』ということになっていますが、2000年も前の『血』が、今でも鮮やかな赤色を保っているのには驚きました。『神の子』の『血』なので変色しないということなのでしょうか。

聖書に記述されている『キリスト処刑の状況』から考えても、誰がどのようにこの『血』を採取したのかは、想像が難しいことで、いわんや、科学的に解析すれば、『血』かどうかも直ぐに判明してしまいそうなものですから、『聖遺物』のなかでも、これは特に『際物(きわもの)』の感があります。

DNA鑑定などをして、『神の子』にも『人間のDNA』があることなどが分かれば、大変なことになります。勿論『聖血教会』はその様な科学調査には協力するとは思えませんが。

11世紀の『第一回十字軍遠征』以降、主として小アジアから兵士が持ち帰った『聖遺物』と称するものを、ヨーロッパのカトリック教会が、競って保有し、礼拝の対象にしたことから、『聖遺物ブーム』が起こり、バチカンもそれを認定して『お墨付き』を与えたりしましたので、現在まで沢山の『聖遺物』が、継承されることになりました。

『ウンベルト・エーコ』は、例によって、『どの教会、聖堂に、どのような聖遺物が継承されている』のかについて、まるで『調査報告書』のリストのような味気ない内容を、これでもかとばかりに列記紹介しています。

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