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2015年3月31日 (火)

ダン・ブラウンの歴史ミステリー小説『Inferno』(6)

主人公や、国連保健機構(WHO)は、犯行予告日の前日に、なんとか『犯人』が仕掛けた場所をつきとめ、大惨事は回避できたかに見えましたが、最後の『ドンデンガエシ』が用意されていて、空気感染する新型のウィルスが、既に1週間前に大気中へ放散されていたことが判明します。 

強い感染能力をもつこのウィルスは、たちまち世界中へ広まり、ほとんどの現代人が感染してしまうという結末になります。 

ところが、直ぐに発病したり、死んだりする人は現れず、このウィルスの正体は、人間の細胞の遺伝子の配列を変え、1/3の確率で、感染した人間を『不妊症』の体質に変えてしまうものであることが判明します。 

つまり、『犯人』は、陰惨な殺人に相当する手段ではなく、『時間をかけて』人口が自然に減少する方法を選んだということになります。『人口の異常な増加がもたらす人類の危機』を真剣に憂えた、天才的な遺伝子工学の学者が、誰も具体的な救済策をこうじようとしない現状に絶望して、自分が『手を下す』決断をしたという設定ですから、『ダン・ブラウン』も『犯人』をただの偏執的な殺人狂としては描いていません。『死に至る疫病』というおどろおどろしい方法ではなく、ある意味で『理』にかなった手段を採用していることで、評価を読者に委ねています。

しかし、このような新種の『ウィルス』は、現存しませんし、遺伝子工学の基礎知識を持たない梅爺でも、このような『ウィルス』が人工的につくられ、近い将来出現するとも思えません。人間を『不妊症』の体質に変えると言っても、男女でメカニズムは同じではなく、それに都合よく1/3だけ発症するという確率を制御することは至難の業であろうと推測できます。

現代を舞台に進行していた、物語が結末で急に『SF小説』のように変ることに、違和感を覚えますが、こういうアッケラカンとした話を臆面もなく提示するところが『ダン・ブラウン』の真骨頂ともいえないことはありません。小説ですから、『何でもあり』と言われればそれまでです。

新種の『ウィルス』に感染してしまった人類は、ある意味で全員『地獄(Inferno)』に身を置くことになったということですが、今後これに人類がどう対応していくかについて、『対抗ウィルス』を開発することも含め、色々な可能性を示唆するだけで、この本は終わっています。

『ダン・ブラウン』が提示している問題は、誰もが見て見ぬふりをしている『地球規模の人口増加』の深刻な現状を、『あなたはどう思うか』と読者に問いかけ、同時に『目的のためならあらゆる手段が許される』として、自然の摂理が創り上げた遺伝子配列のしくみに、人間が手を加えることの良し悪しの判断も読者に求めていることです。

勿論、だれも正しい解答は提示できませんが、一人一人が考えて自分の意見を持とうとする努力を放棄して、判断を他人任(ひとまか)せにすることは、非常に危険であると梅爺は感じました。

大衆娯楽小説としては、総合的にレベルの高い本であると言えそうです

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2015年3月30日 (月)

ダン・ブラウンの歴史ミステリー小説『Inferno』(5)

サービス精神旺盛な『ダン・ブラウン』は、人類を破滅に導きかねない現代の『人口問題』の他に、『ダンテ』とその作品『神曲』、小説の舞台となる歴史、観光都市『フィレンツェ』『ベネチィア』『イスタンブール』に関して、色々蘊蓄(うんちく)を傾けるわけですから、梅爺のような野次馬根性の旺盛な読者の性向を熟知して、それを計算しつくした小説を提供していることになります。

『ダン・ブラウン』や『スティーブ・ベリー』の『歴史ミステリー小説』は、有名な史実と、いってみれば『007シリーズ』のような、荒唐無稽な冒険活劇を組み合わせたようなもので、大の大人がよくもまあこんな『虚構』作りに真剣に取り組むものだと、感心しないでもありません。チマチマした『虚構』では、失笑のタネになりかねませんが、ここまで『大虚構』を繰り広げられると『畏れ入りました』ということになります。どうせやるならトコトンやるという、アメリカ人らしい『ハリウッド活劇映画』『ディズニーランド』『ラスベガス』と同様の発想です。二人のアメリカ人作家は、新しい大衆娯楽小説の新分野を切り開き、ベストセラーを連発することで、自分たちは『アメリカンドリーム』を実現したことにもなります。 

梅爺が、今まで訪れた海外の都市で、魅力的な所を挙げろと言われれば、迷わずこの小説の舞台である『フィレンツェ』『ベネツィア』『イスタンブール』を候補にあげると思います。人類が創り上げた都市として、それぞれに魅力的な歴史背景があり、その遺産が現在まで継承されているからです。 

この小説では、三つの都市の以下の文化遺産が、小説の舞台として登場します。まるで観光ガイドの説明をきいているようで、梅爺は訪ねた折のことを懐かしく思い出しながら楽しみました。 

『フレンツェ』 「ドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ:花の聖母教会)」「サン・ジョバンニ礼拝堂」「ヴェッキオ宮殿」「ウフィッツェ美術館」「ピッティ宮殿」「ヴァザーリの回廊」「ヴェッキオ橋」「アカデミア美術館」「サン・マルコ美術館」「ボーボリ庭園」「シニョリーア広場」「ダンテの生家」 

『ベネツィア』 「サン・マルコ寺院」「ドゥカーレ宮殿」

『イスタンブール』 「アヤ・ソフィア(東ローマ帝国時代のキリスト教大聖堂、その後イスラーム・モスクに改装され現在は博物館)」「地下宮殿(東ローマ帝国時代に建設された人工の地下貯水地)」 

人類は歴史の中で、自然災害と並んで疫病の流行に悩まされてきました。『黒死病(ペスト)』が有名で、14世紀のヨーロッパでは人口の1/3が命を落としました。累々たる死体の山は、『Inferno(地獄)』の光景そのものです。19世紀の中国、インドでも1200万人が亡くなりました。現在も人類は『エボラ出血熱』やその他の新種ウィルスの攻撃に怯えています。

この小説では、『人類を救う方策は、新種の感染ウィルスをばらまいて、人口を劇的に減らすしかない』と考えた狂信的な科学者が、犯行日を予告し、犯行方法は謎めいた『詩』で表現して、実行前に自分は自殺してしまいます。

この犯行を予知した『国連保険機構(WHO)』が、大惨事を回避するために活動に乗り出し、美術史、記号学者の主人公『ロバート・ラングトン』も謎解きのために加わります。

『ダンテ』や『神曲』が、謎の主体ではなく、犯人が仕掛けた『現代の地獄』を示唆するための狂言回しの材料として利用されているだけです。それでも、野次馬の梅爺には、ミステリー小説を楽しみながら『ダンテ』の生涯や時代背景、『神曲』の知識を得られるわけですから、ありがたい話です。

次から次へと『ドンデンガエシ』があって、読者はそれに翻弄されながら、読み進むことになります。好奇心旺盛な方にはお薦めできる本です。

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2015年3月29日 (日)

ダン・ブラウンの歴史ミステリー小説『Inferno』(4)

地球上の人口が70億人で、やがて100億人に達するという事態が、いかに異常であるかは、19世紀の初頭の総人口が10億人程度であったことを考えれば分かります。たった200年程度の間に、7~10倍に膨らんだことになります。

人類が『生きる』ために必要とする地球資源は有限ですから、再生可能な資源を最大限に利用しても、地球が養える人口は、本来40億人程度が限界であるという試算もあります。

現在の人口の15%程度が、『先進国』に住む人たちで、日本人もこれに含まれます。この人たちは、基本的に、好きなものを腹いっぱい食べ、最新の社会インフラを便利に利用し、インフラを維持するためのエネルギーも必要なだけ消費しています。

一方、逆に人口の15%程度に相当する人達は、飢餓状態に近い極貧の生活を送り、保健、医療、教育などの社会支援もほとんどありません。

残りの60%に人達は、多くの我慢を強いられながら『貧困』の生活を送っています。

つまり、70億人の生活は、『極貧層(15%)』『貧困層(60%)』『富裕層(15%)』の構成で、『格差』があるからこそ、成り立っていることになります。全員が『富裕層』並みの生活を送れば、地球の資源はたちまち枯渇します。『格差』を無くそうとすれば資源の奪い合いになり、紛争の機会が多くなる危険性を秘めています。

これほど『人口問題』は、人類にとって重大事態であるにもかかわらず、『地球温暖化問題』のように、『危機』を叫ぶ、政治リーダーや宗教リーダーはあまり出現しません。唯一、中国共産党だけが、自国内で『一人っ子政策』を断行しました。国民の生活レベルを上げようと思えば、背に腹が代えられない手段と考えたわけですが、先進国からは、基本的な人権の蹂躙として、白い眼で見られました。

政治リーダーや宗教リーダーが、この問題に深入りしないのは、『命』は倫理上の聖域で、この『数』を、人間の意思でコントロールすることに対する罪悪感が伴うからではないでしょうか。『子孫を残す』という基本的な人間の行為を強制的に禁止することは、誰も手をつけたがりません。精々、『国連保険機構(WHO)』やNPOが、『避妊知識の普及』や『避妊具の配布』などを行ったり、政府が税で優遇したり(日本の少子化対策とは逆の政策)して、強制ではなく当事者の意図で避妊が行われることを期待しています。カトリックにいたっては『避妊は罪』という姿勢を変えていません。

『Inferno』という小説では、『ウィルス』感染で一気に地球の人口を1/3程度に減らし、人類を絶滅の危機から救おうと言う、狂信的な考えの遺伝子工学分野の科学者が『犯人』として登場します。『犯人』に金で雇われた、謎の民間『よろず引き受け組織』や、『犯人』と恋愛関係がある、頭脳明晰、美貌の若い女性も登場し、話が複雑に展開します。

この『犯人』は、『ダンテ』にも傾倒していて、『神曲』『ダンテのデスマスク』『ボッテチェリの地獄図』などを利用して、犯行を謎めかした予告をします。中世の『黒死病(ペスト)』のような大惨事を想定して、密かに国連保険機構(WHO)の特殊部隊が動き出します。

一方、主人公の『ロバート・ラングトン』は、自分でもわけがわからない状態で事件に巻き込めれ、『犯人』が提示した謎を解き明かしながら、『犯行』を阻止する努力をします。

表面的には、『謎解き』が、色々なドンデン返しとともに進行し、すんでのところで『犯行』を阻止されると思ったとたん、実は更に思いもかけない事態が待ち受けていたという物語の展開で、背景に地球の『人口問題』を配置して、読者の関心を引こうという、『ダン・ブラウン』らしい作品になっています。

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2015年3月28日 (土)

ダン・ブラウンの歴史ミステリー小説『Inferno』(3)

この小説の背景に、『世界の人口問題』があります。現在地球上に存在する『人類』は『現生人類(ホモ・サピエンス)』だけで、70億人を突破しました。

3万年前位までは、『ネアンデルタール』など、『ホモ・サピエンス』と異なった人類種が地球上に存在していたことが分かっています。

『ネアンデルタール』など、既に絶滅してしまった人類種は他にも約20種あり、それらを全て含めた『人類種』の歴史は、500~800万年程度と考えられています。つまり、500~800万年前に、『チンパンジー』と『人類』の祖先が、生物進化で枝分かれしたことを意味します。

『現生人類(ホモ・サピエンス)』の祖先が、アフリカ中部に出現したのは、17万年前と推測されていますので、生物種としての『現生人類』は、地球にとって極めて新参者であることになります。

『天地創造』の初めから、『人間』は『神』に似せて創られ、地球上の生物の頂点に君臨し続けてきたように、うぬぼれがちですが、それは全くの勘違いです。138億年の『宇宙』の歴史の中で、『人類種』は、高々800万年、私たち『ホモ・サピエンス』に至っては高々20万年の歴史しか保有していません。

このことから、梅爺は、『神は137億年以上の間、愛する人間が出現するのを我慢強く待っていた』と考えるより、『人間が存在しない世界には神は存在しない(神と言う概念は人間が創ったもの)』と考える方が、より自然と考えるようになりました。

アメリカでは、138億年の『宇宙の歴史』を参照しながら『人類の歴史』を教える、『ビッグ・ヒストリー』という教育手法が注目されていますが、梅爺は、この考え方が好きです。『宇宙』や『地球』の歴史の中で人間がどのような位置づけにあるのかを教えないと、良い意味でも、悪い意味でも『ホモ・サピエンス』が、特殊な生物である実態が、はっきり認識できないからです。

ほとんどの『科学知識』は、過去200年程度の短期間で、『ホモ・サピエンス』が獲得したものですから、『ホモ・サピエンス』は更に特殊な生物種に現在変貌しています。『釈迦』や『キリスト』の時代の『人間』と、現在の『人間』は、基本的な身体能力、脳の機能はほぼ同じと言えますが、保有している『科学知識』の量は、圧倒的に私たちが優っていますので、『総合的能力』では、異なった人種とも言えるレベルへ変貌しています。

『過去の考え方』で色あせないものは勿論ありますが、現在の知恵で、修正すべきものも沢山あります。修正して過去と決別することは、不安の種にもなりかねませんが、そうして前へ進むことが、適切な将来への対応になるのではないでしょうか。

やがて50年以内に100億人を突破すると予想される『ホモ・サピエンス』の『人口』が、私たちにもたらすものは何かというのが、『Inferno』という小説の背景にある基本的な問いかけです。

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2015年3月27日 (金)

ダン・ブラウンの歴史ミステリー小説『Inferno』(2)

私たちは、幼いころから西欧(キリスト教文化)の『天国と地獄』、仏教の『極楽と地獄』の話や絵図に接してきて、その様な世界が本当にあると信ずるかどうかは別にしても、その『概念』は知っています。

しかし、私たちが知っている『概念』が、当たり前なものとしてどの時代にも存在していたのかどうかを梅爺は知りません。時代や文化の違いで存在しない場合もあったのではないでしょうか。そうならば、この『概念』は、人間が考え出したものであるという間接的な証拠になります。

死後、肉体と霊が分離し、肉体は朽ち果てるが、霊は存続し、『霊界』に属するという考え方は、かなり原始社会から確立していた考え方のような気がします。

『アミニズム』では、自然界の万物にも『霊』が宿り、死者の『霊』も含めて、現世に生きる人間に色々な影響を及ぼすと考え、『霊』を祀り、現世の人間に悪い影響(祟り)が及ばないようにと加持祈祷を行いました。『霊界』と交流できる特別の能力を持つ人間は、呪術者として、コミュニティの指導者として重要な役割を果たしました。

仏教の影響を強く受けた日本でも、上記の土着的な宗教観が今なお色濃く残っていることは明白です。

『霊界』にも『良い場所』と『悪い場所』があるという区分は、古代エジプトの死者が『霊界』で受ける『審判』や、ギリシャ神話の冥府の区分(天国と地獄)を考えると、古い時代から存在していたことが分かります。

しかし、『ユダヤ教』や、そこから派生した『キリスト教』の初期の時代に、どのように考えられていたのかに関して、梅爺は知識を持ち合わせていません。

『死後、神の支配する世界へ魂が召される』という考え方は、既に存在していたように思いますが、生前の行いの良し悪しで、罪を多く背負う魂は、『天国』へは行けずに『地獄』へ落とされる、という考え方が、『ユダヤ教』や原始『キリスト教』で明確に存在していたようには見えません。キリスト教の『地獄』という概念は、後のローマンカトリックが創りだしたものではないでしょうか。浅学の梅爺の推測ですので間違っているかもしれません。

この世の罪を、生きている間は『教会』『聖職者』を介して許しを乞い、死後『天国』へ受け容れてもらいたいと備えるしくみは、『教会』や『聖職者』の権威を保つために大きく貢献したことは事実でしょう。ひねくれた観方をすれば、死後『地獄』へ落とされる恐ろしさを利用して、布教が行われ、教会の基盤を確固たるものとしてきたとも言えます。

『ダンテ』は、『地獄』『煉獄』『天国』の存在を信じていたと推測されますが、彼が想像で書き残した『詳細な描写記述』が、その後キリスト教世界の『地獄観』として定着していきました。ルネッサンスの、ボッテチェリの『地獄図』や、ミケランジョロで『最後の審判』の『地獄』の光景は全て『ダンテ』の『神曲』を具体的に表現したものです。『ロダン』の彫刻『地獄の門』などもそうです。

『ダンテ』はその意味で、西欧の精神文化の形成へ大きく貢献していることは間違いありません。一人の人間の『精神世界』の『想像』が、後に『仮想事実』となって人間社会で共有され、定着していった一つの例です。私たちの周囲にはこのような『仮想事実』が沢山あり、時にそれを実態のある『事実』と混同します。『仮想事実』なのか実態のある『事実』なのかを区分するには、かなりの『理性』を必要とします。

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2015年3月26日 (木)

ダン・ブラウンの歴史ミステリー小説『Inferno』(1)

アメリカの歴史ミステリー作家『Dan Brown』の新作『Inferno(地獄)』の英語版ペーパーバックを購入して読みました。 

『Dan Brown』は、『ダ・ヴィンチ・コード』で一躍有名になった作家で、『Inferno』は6作目です。ハーバード大学の美術学・記号学教授『ロバート・ラングドン』を主人公とする小説としては4作目です。 

『歴史』と『現代科学(近未来科学)』とを素材として取り込み、現在を舞台に、財力、頭脳力を兼ね備えた犯人が企てる、世界を揺るがすような大『陰謀』に、主人公が立ち向かう、ハラハラドキドキの筋書きは、今回も同じです。 

『いくらなんでも、それは無いだろう』などと呟きながら、梅爺も最後まで読まされてしまいますから、娯楽小説作家としての腕前は大したものです。 

同類のアメリカの作家に『Steve Berry』がいて、『Dan Brown』と双璧です。梅爺はどちらかと言えば『Steve Berry』が好みです。

今回の作品『Inferno』は、13世紀から14世紀に活躍したイタリアの詩人、哲学者、政治家の『ダンテ(ダンテ・アギリエーリ)』の叙事詩『神曲』の中の『Inferno(地獄)』を題材にしています。『神曲』は、『Inferno(地獄)』『Purgatory(煉獄)』『Paradise(天国)』の三部で構成されていて、『ダンテ』が古代ローマ詩人『ウェルギリウス』を伴って、三つの世界を仮想的に旅する形式になっています。

『煉獄』は、日本人には馴染みが薄い言葉ですが、死者の霊が火によって罪を浄化されると信じられている場所で、地獄と天国の中間に存在します。『キリスト』が『教え』の中で『煉獄』の試練などについては語っていませんから、後の世の人たちが考えついたものに違いありません。

現代人のどのくらいの人達が、『天国』『煉獄』『地獄』の存在を『本当に』信じているのかどうか梅爺は分かりませんが、当時のカトリック文化の下では、ほとんどの人たちが『本当に』信じていたという前提で歴史を顧みる必要があります。

現生の『安泰』だけでなく、あの世の『安泰』も願う、人間の強い本能が考え出した概念であろうと梅爺は推測しています。どの宗教にも『天国(極楽)』『地獄』などという概念があるところをみると、人間は必ず『神(仏)』『あの世』の概念を思いつき、更に『あの世』を、分類するようになるのは興味深いことです。

『神曲』の原題は、『La Divina Commedia(英語Devine Comedy)』で、直訳すれば『神の喜劇』となり、内容に即さないということで日本では『神曲』とされたのでしょう。

『ダンテ』は『あの世』を茶化すために『Comedy』と言ったのではなく、この叙事詩がラテン語ではなく、トスカーナ地方の俗語(イタリア語)で書かれていることを意味しています。俗語で書かれたものを一般に『Comedy』と称していたと考えられます。

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2015年3月25日 (水)

高度で複雑なシステムの脆弱さ(4)

『システム』は一般に、複雑、高度になれば、総合的な性能は遅くなり、弱点の数も増え、構築に要する費用も高額になります。 

『そんなことはないだろう、大型車並みの乗り心地で小型車の価格の自動車が出現したり、最新の高性能パソコンが昔より安く買えることもあるではないか』と反論があるかもしれませんが、それは、商品の『コモデティ』化による量産(コストダウン)という経済のしくみが絡んでのことで、次元の異なった比較をしているだけのことですから、『システム』に関する一般原則の反証にはなりません。 

人生を永く生きてくると、物事には必ず『陽』と『陰』が表裏一体で存在することを、沢山体験し、見聞きしますから、『美味しい話』だけを聞かされても、即座に納得しない、習性が強まります。

テレビ通販の『サプリメント』の広告で、既に利用している人が画面に登場し、『これを服用してから、朝の目覚めがスッキリするようになりました』などとコメントすると、画面の端に、読めないほど小さな文字で『個人的な感想です』などと言い訳がましい説明が挿入されますので、梅爺は笑ってしまいます。

広告主は、伝えたいメッセージを、個人の利用者に言わせて、これは、『個人的な感想で、販売者が保証するものではない』と弁解して、『誇大広告』としての訴追や、『効用が無い』というクレームがあった時に備えているのは見え見えです。

『システム』は、『物質世界』の『摂理』を利用して作動していますから、『摂理』が利用できない条件が出現すると、停止、麻痺し、または破壊されます。どんな強風環境でも安全に飛べる飛行機はありません。

従って、どのような条件が出現した時に、『システム』が停止、麻痺、破壊されるのかを、事前に予測し、その様な条件を回避することが、『安全』確保の対応策になります。

しかし、人間の予測能力には限度があったり、予測できたとしても『そのようなことが起きる確率は小さい』と判断した結果、不幸な事故が起きることがあります。

『システム』の『脆弱性』だけを誇張して、ことさらに不安を煽る必要はありませんが、どのような『システム』も、機能できなくなることは『ある』ということを現代人の共通認識としておく必要はあります。『人間』という『システム』も必ず死を迎えるのも同様な話です。

『原発は絶対安全と聞かされて、信じていたのに騙された』と、自分の無知を棚に上げて、他人を批判してもはじまりません。

『安全性が高いシステム』は存在しますが、『絶対安全なシステム』は、存在しません。

『システム』を利用して、現代社会で『便利』『快適さ』を享受しながら生きていくには、必ずリスクが潜んでいることを覚悟しなければなりません。

『リスクがない世界』は『平和な世界』『天国』同様に、『精神世界』の願望対象であって、『物質世界』に見出すことは困難です。

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2015年3月24日 (火)

高度で複雑なシステムの脆弱さ(3)

三番目の論者『Randoiph Nesse』は、アメリカの心理学の教授です。『複雑なシステムの脆弱性』という主張では、1859年に起きた『太陽風』の影響で配電網、通信網が大打撃を受けた事例などを紹介して、もし、今同じような事態が起きれば、『インターネット』『GPS(衛星を利用した位置情報検出システム)』は壊滅的なことになると予想しています。複雑なシステムの度合いは、昔とは比較になりませんから、現代社会が受けるダメージは甚大であることは確かです。復興に要する費用も、世界経済に大きな影響を与えるほどの高額になります。

強い『太陽風』は、500年周期で起きると考えられていますので、いつかは必ず遭遇する事態であると覚悟が必要です。

ただこの論者は、結局、科学者や関係者が、現代の複雑なシステムの弱点を検証して、対応策を考えておくべきであるという主張に止まっていて、具体的な対応策は述べていません。

テレビによく登場する『評論家』や『司会者』と同じで、『問題をキチンと整理して、対策を練るべきだ』といっているだけですから、梅爺は『そのようなコメントなら、私でもできる』と不遜に呟(つぶや)きたくなります。日本語で『キチンと整理』『しっかり議論』などと誰かが言った時には、梅爺は大体疑うことにしています。特に『政治家』は『キチンと』『しっかり』を多用する人種です。

『インターネット』に関しては、日々『ウィルスをしかける』など、不都合な行為が多数発覚し、そのたびに『対症療法』的な対応がなされています。またその対症療法を商売として提供する会社も存在します。

しかし、このような対症療法ではなく、抜本的な脆弱性を正す計画が、どの程度進行しているのか、梅爺は浅学にしてしりません。

抜本的な対策は、現在の『インターネット』の改良で可能なのか、『次世代インターネット網』の新規に再構築が必要なのかも分かっていません。

話が逸れますが、NHK地上波教育チャンネルで放映されている『スーパー・プレゼンテーション』という番組で、イギリスの統計学者が、ある指標で世界各国の『幸福度』を計算すると、中米の『コスタリカ』が世界一であると述べていました。その他の中米諸国が上位を占め、日本は75位ということでした。

この指標には、『地球資源への依存度』が使われていて、科学の成果を多く利用する先進国は、その分エネルギーの消費量が多くなって、この学者の比較の上では、不利になります。ある前提で比較すると『コスタリカ』が世界一幸福な国になるだけで、本当に『コスタリカ』が世界一幸福な国であると思いこむ必要はありません。

科学技術に依存した便利な生活が、人間の『幸福』とどのように関連するのかは難しい問題です。また『幸福』を指標で計る普遍的な尺度などあろうはずがありません。

『インターネット』のような高度で複雑なシステムの上に実現されている『便利さ』は、システムが機能しなくなった時に、一瞬にして無に帰す危惧があることは確かです。『便利さ』を『幸福』と思っていると、突然不幸のどん底に突き落とされることになります。

『便利さ』の代償が何なのかも、特定することは易しくありません。現代の『便利さ』は際どい綱渡りのようなものの上に構築されていることを、少なくとも知っておく必要があるのではないでしょうか。東日本大震災の原発事故などは、その例証です。

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2015年3月23日 (月)

高度で複雑なシステムの脆弱さ(2)

二番目の論者『George Dyson』は、科学史の著作家で、『インターネット』が使えなくなった時のことを考え、昔の『テレックス網』のような、高度な技術とは言えないまでも頑強なシステムを常に準備し、いざという時に使えるように点検をしておくべきだと主張しています。

サーカスの『命綱』『ライフネット』のような考えで、無意味とは思いませんが、あまり説得性のある画期的な提言とは思えません。停電には『懐中電灯』『ろうそく』を準備しておけというような話で、『灯り』の一部は補えますが、その他の電気に依存していたシステム機能は、すべて使えないのと同様に、『テレックス』は『通信』の一部を補いますが、『インターネット』のバックアップにはなりません。

『インターネット』は、人類が『科学知識』を応用して実現したものとしては、『傑作』のひとつと言えます。基本的に『超自律分散処理』と呼べるようなシステムで、独立機能をもつ『サブシステム』が、ネットワークで連結されて『全体』が出来上がっています。しかし、『全体』を集中制御する機能はどこにもありません。

網の目のように、増殖が可能なネットワークで、形態が『蜘蛛の巣』に似ていることから『インターネット』のネットワークは『Web(蜘蛛の巣)』と呼ばれています。

『サブシステム』は固有の『所番地』をもつという『約束事』があるために、現実には無限の増殖というわけにはいかない制約がありますが、人間の感覚では無限とも言える『サブシステム』の数を許容できるように配慮されています。

網の目になっていますから、道路網と同じで、どこかが不通になったら、迂回すればよいということで、到達にはいつもより遅れるだけで、目的は達することができるようになっています。集中管理されている『新幹線』も便利ですが、自分で車を運転して好きな場所へ行ける『インターネット』も別な便利さがあります。『集中処理』と『分散処理』の違いです。

また、高速道路の渋滞と同じで、混雑した時は動きが鈍くなりますが、乗り入れは拒否されませんから、譲り合いなら進むことになります。幹線道路は混みますから、『インターネット』では、幹線にあたる部分に、最先端の高度通信システムが応用されています。

『インターネット』は、部分的に障害が起きても、全体がダウンすることがない、優れたシステムです。原則的に、誰にでも利用ができるように、門戸開放していることも素晴らしい点です。

中国のように、国民の情報を監視したい国には、『インターネット』は厄介なシステムです。現実には、中国と外国を結ぶ幹線の数を制約し、ここを『関所』として、行きかう情報を監視しています。また国内でも、国家に不都合な言論が流れないように、膨大な数の監視システムが働いています。『プライバシーの侵害』などという綺麗事は通用しません。

『インターネット』の長所を、悪用して、ものすごい数のダミーの車を道路に乗り入れさせ、道路網を完全に麻痺させるなどといった、『サイバー・テロ』ともいえる攻撃をうける可能性を『インターネット』は秘めています。

『インターネット網』と『テレックス網』は、大きな違いがありますので、『テレックス網』を『インターネット網』の安全モードと呼ぶのは、無理があるように感じます。

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2015年3月22日 (日)

高度で複雑なシステムの脆弱さ(1)

『What should we be worried about ?(我々が真に危惧すべきことは何か)』という本の、4番目、5番目、6番目の話題は、『高度で複雑なシステムの脆弱さ』に関するものです。まとめてご紹介したいと思います。 

『Living Without the Internet for a Couple of Weeks (インターネット無しでの数週間の生活)』 論者 Daniel C. Dennet  

『Safe Mode for the Intenet(インターネットの安全モード)』論者 George Dyson  

『The Fragility of Complex Systems(複雑なシステムの脆弱性)』 論者 Rndolph Nesse 

最初の『インターネット無しでの数週間の生活』は、『たまには、テレビ、新聞、インターネットの無い所へ出掛けて、のんびり心身をリフレッシュしたらどうですか』というような暢気(のんき)な話ではありません。本当に、停電のように、インターネットそのものが数週間使えなくなったら、どういうことになるかという話です。 

『しかたがないから、その間私は我慢します』というだけで済まされないことを警告しています。先進国の社会システム、社会インフラは、『インターネット』に複雑に依存していますから、通信、流通そしてひょっとすると電気、水道といった生活の動脈までもが麻痺する可能性を示唆しています。病院の運営も困難ということになると、命を脅かす事態になります。 

論者の『Daniel C. Dennet』は、哲学専攻の大学教授で、1980年代は、『Digital Divide(情報格差)』が、世界の情勢を悪化させると危惧し、活動しましたが、その後『インターネット』の登場で、この危惧は薄らいだと書いてあります。 

2000年の、『九州沖縄サミット』の時に、日本の外務省から、世界の民間企業の有志が、『情報格差に関するIT(Information Technology)政策提言』をレポートにまとめ、サミットの司会者である日本の森首相に事前に提出するように頼まれ、『WEF(World Economic Forum):ダボス会議の主催元』が事務局となって作業をしました。この時、梅爺が勤務していた会社も討議に加わることになり、梅爺が実質的会社の代表者として参加し、アメリカやヨーロッパへ頻繁に出張するはめになりました。

このことは、2000年当時も『情報格差』が、世界の重要課題として認識されていたことを示しています。お陰で、梅爺は『情報格差』について、多くを学ぶ結果になりました。

ここで得た知識をもとに、『梅爺閑話』を書き始めた最初の頃に『ITの本質』について私見を述べました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_b0d8.html

レポートを受け取るにあたって、森首相が『IT(イット)とは何のことか?』と側近に尋ねたと言う話が、面白おかしく報じられました。真偽のほどは定かではありませんが、先進国の政治リーダーが、『科学』に関してこの程度の認識であるとすれば、笑いごとでは済まされない由々しきことです。

貧しい国のテロリストの若者が、『核兵器』を自製する可能性は低いにしても、『インターネット』を破壊する工作をする可能性は低くはないのではと論者は案じています。そして自分は哲学者ですから、専門家に、この問題に関する意見を求めています。

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2015年3月21日 (土)

Better one house spoiled than two.

英語の諺『Better one house spoiled than two.』の話です。

『Better A than B.』という表現は、英語のことわざでは多用される構文様式で、『BよりはAがまし』という意味になります。

『AもBも本当はどちらも好ましくはないが、どちらかと言えばAの方がまだ我慢できる』というようなニュアンスで使われます。日本語では『次善の策』などという表現があります。

上記の諺を直訳すれば、『二軒の家がダメになるより一軒の方がまだまし』ということになり、火災が類焼に及ばず、被害が一軒に止まったのは、不幸中の幸いというような意味かと想像しますが、英語圏の人達は、この諺に接した時に、違うことを思い浮かべてニヤリとするらしいのです。

直ぐに揉め事を起こす性格の男女が、結婚して夫婦になれば、この家は夫婦喧嘩が絶えず、家庭は『Sweet Home』とはいえない状態になってしまいます。もし、この男女が、それぞれ別の相手と結婚していたら、揉め事は二軒で起こることになりますから、そうならなくて良かったという意味でこの諺は使われます。

被害の数が最少に止まったのは幸いと言うような、数で比較する論理の話ではなく、『他人の不幸をみて内心喜ぶ』という、『人』の心に巣食う邪心がこの諺には関与しているように梅爺は感じます。邪心と言う表現がすこし過激すぎるとすれば、『類が自分に及ばずホッとする』という自己中心的な安堵の気持ちと言い換えることができます。

『自分さえよければ、他人はどうでもよい』という自己中心的な考え方は、『善くない』と、親や先生や聖職者から、教えられて私たちは育ちますから、まともな大人なら、こういう考えを持つ自分に戸惑ったり、特に真面目な人は、自分に罪悪感を抱いたりします。罪悪感に悩む人は『懺悔(ざんげ)をして悔い改めれば、神は赦して下さる』などという話に飛びつき易くなります。これで心の重荷をおろし、安らぎが得られれば、これに越したことはありませんから、『宗教』は、実に効果的な『精神安定剤』と言えます。

西欧では、心の重荷は『神』に頼る話ではなさそうだと、理性で薄々感ずる人達が増えたと見えて、『聖職者』ではなく『サイコセラピスト(精神療法士)』に頼る風潮が強まっています。『サイコセラピスト』は、『神の赦し』ではなく、『脳神経科学』『心理学』『薬学』の最新知識を駆使して、心の重荷の正体へ迫ろうとします。

『精神世界』を『科学』で究明しようとする研究は、リアルタイムに脳の働きを測定する技術の急速な発達で、目覚ましい成果を挙げつつあります。

やがては、すべて『科学』で解決できる時がくるかどうかは、梅爺には分かりませんが、それに頼る比重が高まることはたしかでしょう。現状では『宗教』と『科学』が、異なった対応方法で同じ問題に対処しているのだと梅爺は認識しています。科学知識が無かった時代には『宗教』だけが頼りの綱であったのは当然のことです。

『自分の都合を最優先する本能』は、多くの場合『無意識』に作用しますから、理性では戸惑うことになりますが、これは生物として宿命的に誰もが持っているものと明るく認めた上で、『理性』を含めた総合判断で対応する術を学んでいくことが必要です。

『精神世界』の事象は、『矛盾』だらけに見えますが、それは、無意識な『情』の反応と、意識的な『理』の判断に齟齬(そご)があることに起因しています。

最終判断は、理性を絡ませ、理性で考える必要がありますから、『理性』を磨くことが人間として生きていく上で、重要な課題になります。

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2015年3月20日 (金)

100年インタビュー『澤地久枝』(4)

ミッドウェイ海戦で亡くなった兵士の遺族にインタビューするという行為も、そう簡単な話ではありません。古傷に触れられるようないたみがあり、そっとしておいて欲しいという気持ちがあるからです。 

特にアメリカ側の遺族は、戦争相手であった日本から、インタビューに来るということに抵抗があったに違いありません。しかし、『澤地』さんは、自分の中に『個人をないがしろにした国家への憤り』があることを正直に伝え、多くの遺族たちがこのことで胸襟を開いてくれたと述べています。『熱意』がコミュニケーションで重要な要因であることが分かります。 

アメリカで取材していて『澤地』さんは、日米の大きな違いに気付きます。それは、アメリカ側のミッドウェイ海戦犠牲者の親族には、その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争で戦死した人がいるということでした。当然のことながら、日本はその後戦争に巻き込まれていませんので、日本側の親族には、その後一人の戦死者もいません。なんでもないことのようですが、この事実が意味することの大切さを『澤地』さんは感じ取ったことになります。 

『澤地』さんは、『自ら戦争を起こす国家にならない』ことを宣言した新『日本国憲法』の意義を高く評価しています。そして、『九条の会』に属して、『日本国憲法』を擁護する活動に参加しています。 

『憲法』といえども、人間社会の約束事ですから、時代や情勢に合わせて見直す行為そのものは、理に適っていて、『金科玉条』のように現在の『憲法』に固執する必要はないと、梅爺は理性で論理的に考えています。 

しかし、『国家は国民のためにある』という大前提を軽んずる改定には、勿論反対です。『国家』が『国益優先』を拡大解釈して、国民の自由を不当に奪うことや、海外における日本の軍隊の戦闘行為を是認することは、あってはならないと思います。 

『澤地』さんは、『誰もが天寿を全うして死ぬ、殺さない、殺されない社会』が『平和』な社会であると述べておられます。また『何でもない人(普通の人)が自覚した時に国は変わる』とも述べておられます。梅爺はこれに異論はありません。 

100年後の日本人への『メッセージ』として、『日本の母親は、2歳から5歳までのわが子に、経験を伝えて欲しい。日本の女性に希望を託したい』と述べておられます。

日本の母親が、愛情深くわが子に接し、子供が愛情の大切さを体感し、日本人が男性も女性も、理性で議論する、自分の考えを述べることが許される社会に変われば、間違いなく日本は健全な国家基盤を強くできると、梅爺も期待しています。ある主張だけが『正しい』と言う考え方は、人間の習性からすると不自然なことなのです。効率が悪いように見えても、人間社会では、考え方感じ方に違いが生ずるのは自然なことなのです。

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2015年3月19日 (木)

100年インタビュー『澤地久枝』(3)

『澤地』さんが、ノンフィクションの作品を書くにあたって、事前に行う徹底調査のお話をうかがっていて、梅爺は、『自分はノンフィクション作家には到底なれない』と思い知りました。

ミッドウェイ海戦を題材にした『滄海よ眠れ』『記録 ミッドウェー海戦』では、この海戦で亡くなった日米双方の兵士の数を『3419人(内アメリカ人362人)』と、個人的調査で特定しています。

特に、日本政府側に、これに関するまとまった資料が保管されておらず、また調査をしようという意図もないことを知って、『澤地』さんは義憤を感じます。

国家が戦争を推進し、国家のために国民(兵士)に死を強いておきながら、国民個人の尊厳には意を払わず、責任も取ろうとしない姿勢に接して憤り、この問題を自らの手で明らかにしようと立ちあがります。

日米双方の犠牲者の遺族を訪ね、詳細なインタビュー記録を集めていきます。調査協力者を4~5人雇い、何回も渡米するという作業も含まれますから、一時借金は9000万円に達したと述べておられます。

いくら使命感を感じても、梅爺ならば、ここまでは徹底できず、適当なところでお茶を濁して、お終いにしてしまうに違いありません。『澤地』さんの能力と情熱は誰もがまねできるものではありません。

この調査の副産物として、現存しないと言われていた、日本海軍による戦闘詳細記録の写しが発見され、日本側の稚拙な予測や、大敗を招いた兵器装着の戦術ミスの内容が明るみに出ました。

戦争は人災ですから、『日本はなすすべもなく大きな津波のようなものに呑みこまれてしまった』と評するわけにはいきません。戦争に突入していくプロセスは、多様で複雑な要因がからんでいますから、単純に『あれが間違っていた』『誰が間違っていた』と断定は難しくなります。

しかし、『国民のために国家がある』という基本認識ではなく、『国家のために国民がある』という思想のもとに、体制が作られ、国民は教育され、男は国のために命をささげ、女は『皇国婦人会』で陣後を守り、子供は『軍国少年』『軍国少女』となるように、洗脳されたのは確かですが、洗脳されたことに問題があるというより、人間は洗脳されやすいものであるということに『恐ろしさ』が潜んでいます。本当のことを言うと『非国民』として弾圧され、命の危険があるので黙っていたのではなく、多くの人が『滅私報国』が『正しい』と『信じていた』ことを直視しなければなりません。英米人と会ったこともない人たちが『鬼畜米英』と唱えていたことになります。

現在の日本は、民主国家であり、『洗脳』されることはない、などと考えるのは能天気な話です。私たちの周囲に群がる情報は、知らず知らずに私たちの『価値観』を規制しようとしています。

『軍国主義』『イデオロギーに依る独裁』『独裁者による恐怖政治』『狂信的宗教』だけが、私たちを洗脳するわけではありません。

私たちが、『信ずる』ことと『疑う』ことのバランスを欠いた時に、容易に洗脳されることになります。自分の理性を磨いて、自ら考えて判断する努力を怠ると、いつでも不幸は忍び寄ってきます。教育は、知識を得ることではなく、考えて判断する能力を養うためのものであってほしいと願っています。

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2015年3月18日 (水)

100年インタビュー『澤地久枝』(2)

『澤地』さんのお話をうかがっていると、生まれつきの高い能力(知性)と努力ばかりではなく、幸運が垣間見えます。これは、人生で成功を治めた方々に共通することなのでしょう。

『澤地』さん一家は、満州で終戦を迎え、ソ連軍の進駐の脅威や周囲の中国人の冷たい視線の中を生き延び、命からがら日本へ帰国します。

『軍国少女』であった『澤地』さんは、『日本が負ける』ことなど想像もしておらず、頭の整理ができなかったと述べておられます。ただ、北朝鮮で終戦を迎えた叔父さん一家(4人)が自決に追いやられたことを後に知り、初めて『この戦争は一体何だったのか』と疑念を抱くようになります。

東京の高校を卒業した『澤地』さんは、『中央公論社』の経理担当事務員として採用されます。これが、後のノンフィクション作家『澤地久枝』の出発点になりますが、当時は『生きていくための就職』であったにちがいありません。

夜は、早稲田大学の第二文学部で勉強を続けますが、会社では雑誌『婦人公論』の編集者へ抜擢されます。

当時の日本の情勢からして、この『抜擢』は異例のことのように梅爺には思えます。『中央公論社』といえば、大学の文系を卒業した優秀な男子社員が沢山いる職場で、誰もが『編集部』へ抜擢されることを願っていたはずで、『よほどの理由』がないかぎり、高卒の経理事務員の女性が、それを押しのけて選ばれるということは、現在の日本ならまだしも、考えにくいことのように思われます。

『澤地』さんの潜在能力を見抜いた慧眼(けいがん)の持ち主の上司がいたということなのでしょうが、これは幸運です。それでも周囲の男性の視線は冷ややかであったに違いありませんが、それを黙らせてしまうだけの能力を『澤地』さんが発揮したということなのでしょう。

『編集者』になった『澤地』さんは、若き日の『五味川純平』『松本清張』『大江健三郎』などの作家と付き合うことになり、それがまた『澤地』さんの文芸才能を開花させていくことにつながります。環境がその人の潜在能力を引き出すということにほかなりませんが、一方作家の『有馬頼義』氏と恋愛関係に陥ることにもなっていきます。『文学才能』イコール『尊敬すべき男性』ということになってしまったのは、頷けますが、これでは周囲の大抵の男は『凡夫』に見えてしまうだろうと、『凡夫』の梅爺は同情してしまいます。

『編集長になるのは間違いなし』と言われながら、『編集次長』の時に、『中央公論社』を退職します。恋愛事件などが関与したのかもしれません。

結局恋愛事件は破局に終わり、夫とも離婚して、『澤地』さんの独立生活が始まります。作家『五味川純平』氏の助手になり、10年かけて、『2.26事件』で処刑された青年将校たちの妻の記録を調査し、昭和47年(1972年)に『妻たちの2.26事件』で、ノンフィクション作家としてデビューします。

事件後35年間、ほぼ封印されていた事実を、丹念に明るみに出し、事件の裏側で沈黙を強いられた人たちで、歴史をあぶりだすノンフィクション手法が確立されていきます。

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2015年3月17日 (火)

100年インタビュー『澤地久枝』(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映された、インタビュー番組『100年インタビュー澤地久枝』を録画して観ました。 

各界の著名人にインタビューして、その半生を顧み、人生訓を聞き出そうという趣旨の番組で、最後に『100年後の日本人へのメッセージ』が述べられます。 

『100年後の日本人へのメッセージ』というタイトルならまだしも、『100年インタビュー』というタイトルは、視聴者の興味を喚起するためとはいえ、少々NHKとしてはお粗末な非論理的な日本語表現ではないかと、梅爺はいつもこの番組に感じます。『100年続くインタビュー』とは何のことかと最初は勘違いしてしまいます。 

今回は、女流ノンフィクション作家(ジャーナリスト)の『澤地久枝』さんが登場しました。 

『澤地』さんは、1930年のお生まれですから、現在85歳ですが、テレビのお姿は、若々しく、話しぶりも淀みなく、驚かされました。心臓病の持病(僧帽弁)があり、3度の手術を経験されておられますが、そののような気配は少しも感じませんでした。 

『人間澤地久枝』を総合的に理解しようとすれば、生まれ育った環境、恋愛、結婚(離婚)、仕事の環境、業績などを全て取り上げて、多面的に分析すべきですが、今回のインタビューでは、『恋愛、結婚、離婚』の部分が、欠落していました。インタビューを受け容れるにあたって、その話題は『避ける』ことが、契約条件であったのではないかという印象を受けました。 

今回語られませんでしたが、学生時代に知り合った男性と結婚、作家『有馬頼義』氏との恋愛、『中央公論社』退社、有馬氏との関係破綻、夫との離婚という人生が『澤地』さんにはありました。 

『公の業績(仕事)』と『私生活』は無関係という考えたのか、『私生活』に触れることは他人への迷惑になると配慮したのか、単に自分にとって触れられたくないプライベイトな過去を封印したかったのか、梅爺には分かりませんが、少々話が『きれいごと』に終始した感も受けました。 

勿論、そのような配慮で『澤地』さんの、素晴らしい業績の紹介に支障があるわけではありませんが、『澤地』さんの魅力は、『精神世界』の多面性にあるはずですから、単に『覗き見趣味』ではなく、人物の全貌を知りたいという期待を梅爺が勝手に抱いただけに過ぎません。

父親は大工さんで、文字が読めない祖母は貝の行商で生計を立てていて、幼いころの思い出は『貧しさ』が付きまとい、今でも自分の中にある『貧しさの血』を大切にしていると述べておられました。

その後父親は、『南満州鉄道』の社員として採用され、一家は満州へ移住します。国の植民地政策の一環で、当時27万人に日本人が満州へ移住しています。しかし、少女時代の『澤地』さんは、日本の不当な搾取へ自分が加担しているなどという意識はなく、自分の身を国へ捧げるささげることが当然と考える『軍国少女』であったとも述べておられます。

むしろ、『南満州鉄道』の下級社員として採用された父親のために、上級社員の日本人やその家族から差別をうけた印象が強く残っているということでした。中国人に対する差別ではなく、日本人同士の中にある差別の方が強い印象として残っていることに、梅爺は人間の習性の一端を垣間見たような気がしました。

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2015年3月16日 (月)

精神世界の本質(4)

『精神世界』は、『脳』が創り出す、いわば『仮想空間』です。外から『脳』を観察しても、『物質世界』に属してその摂理で機能している『物体』にしか見えません。

『仮想空間』を創り出している主役は、140億個の『脳神経細胞』が張り巡らせている『ネットワーク』です。この『ネットワーク』は、固定的なものではなく、常時、部分的には消滅したり、強化されたり流動的に変化しています。この変化そのものは『物質世界』の摂理に従っています。味気ない言い方をすれば、外部環境とインタラクティブ(相互関係的に)に、物理反応、化学反応を行っているだけです。『脳神経細胞ネットワーク』は、『物質世界』のありきたり素材で構成されていますし、活動にエネルギーを要することもありきたりの話です。

『物質世界』が構成する『脳神経細胞ネットワーク』の中に、『仮想空間』である『精神世界』が存在している『しくみ』の全ては、未だ科学的に解明されていません。ただ、『脳神経細胞ネットワーク』が機能停止すれば、その人の『精神世界』は消滅すると考えるのが妥当ではないでしょうか。電源を抜かれたパソコンが機能しないのと同じです。『肉体は朽ちても、霊は永遠に存在し続ける』という考え方は、人類が『そうあって欲しい』と願って、『精神世界』で作りだした話(虚構)ではないでしょうか。『霊が存在する』と考えると、今度はその居場所が必要になりますから、『あの世』『天国(極楽)、煉獄、地獄』などという概念も『精神世界』で付けたされることになります。

このように、『精神世界』は『仮想世界』ですから、どのような『概念』も『お話』も自由に創り出せます。『素材は何か』『活動のエネルギー源は何か』などと検証不要ですから、『桃から生まれた桃太郎』『竹から生まれたかぐや姫』など発想は自由自在に許されます。

しかし、『精神世界』が創り出した『概念』や『お話』のいくつかは、語り継がれていくうちに、『仮想』ではなくもっともらしい『実態』を伴うものであるとして、人間社会に定着するようになったのではないかと、梅爺は推測しています。イタリアの作家『ウンベルト・エーコ』はこれを『仮想現実』と呼んでいます。

何が『精神世界』の抽象概念、作り話で、何が『物質世界』と関与する実態のある存在であるかを、冷静に見極めれば、神秘、不思議と考えられることの大半は、『なんだ、そういうことか』と理解できます。その上で『精神世界』が、『人間』にとっては重要であることを再確認すれば良いのではないでしょうか。

梅爺は、自由奔放な『精神世界』の素晴らしさを堪能して生きていきたいと思います。梅爺の『精神世界』は、梅爺にとって生きている間だけしか享受できないものであるからです。しかし、『精神世界』の抽象概念を『物質世界』の実態として、『信じなさい』と強要されると、恐縮ですがへそを曲げたくなります。

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2015年3月15日 (日)

精神世界の本質(3)

『精神世界』は、『脳』で『理』と『情』の機能が織り成す世界であると、梅爺は考えています。自分の『精神世界』は、全て自分で掌握できるかというとそうはいかず、多くの部分は制御不能であるが故に戸惑います。 

これは、『脳』の機能の基本部分が、『理性』からみて、『不随意』であるからです。特に『情』はほとんど『不随意』ですから、私たちは、突然感動したり、泣いたり、笑ったりすることになります。眠っている時に見る夢の内容も、意図して制御することはできません。後々、『何故自分は感動したのだろうか』『何故このような夢を見たのか』と『理』で分析はできますが、少なくとも最初の反応は『不随意』で起こります。 

このように、『自分で掌握できない自分が自分の中に存在する』ということを、冷静に認めることも『精神世界』を理解する上では重要なことになります。梅爺は、あきらめて『不思議な自分の正体』を探ることを楽しもうと開き直っています。どんな推理小説より、エキサイティングです。 

『生物進化』の過程で『脳』が、どのように変化してきたかを考えれば、『理』と『情』が存在する理由が納得できます。初期の脳は、周囲の状況が、自分にとって都合が良いか悪いかを直感的に判断するために機能していたと考えられますから、この機能が『情』として継承されています。『好き、嫌い』『危険、安全』『きれい、汚い』『美味しい、不味い』『心地よい、心地悪い』などの最初の判断は、今でも『情』が担当しています。 

更に、『人間』は、『因果関係』を推論することで、『自分にとって都合の良し悪し』を『随意』に判断する能力を獲得します。将来を予測するなどの高度な能力ですが、これが『理』の基盤となっています。 

『脳』は進化の過程で、家屋を増築するように大きくなってきましたので、遅れて獲得した『理』に関与する部位は、最後に増築された『脳』の表面近くの大脳皮質で処理されます。

『自分にとって都合が良いか悪いか』を瞬時に判断することが生き残りのために大切ですから、感覚器官で感知した外部情報の処理は、先ず『情』で行われます。この処理は、ほとんど無意識(不随意)な対応です。やがて、『理』が必要に応じて次段階の判断に参加することになります。『情』と『理』を結ぶ『脳』内の連絡路は、思いのほか『細い』と言われています。『理』の判断に時間がかかるのはこのためです。

『理(理性)』で自分を律することこそ『人間らしい行為』と言われますが、現実には、強力なマグマのように、表面に噴出しようとする『情』を、『理』で抑え込むことは、至難の業になります。『煩悩を解脱(げだつ)する』ことは、凡人には難しいということですが、それでも、努力をして『理』で自分を律しようと努力する人は素晴らしい人です。赤ん坊は純真無垢で天使のようだと言われますが、『理』の機能が未だ備わっていないために、『情』だけで行動しているだけに過ぎません。

『私利私欲』を『理』で抑制して外に見せない人はいますが、人間である以上誰も『私利私欲』と無縁とは言い切れません。

『精神世界』をこのように理解することで、梅爺は一層『人間』が好きになりました。どう見ても、『人間』は理路整然とした存在ではないからです。そして、自分の『精神世界』と格闘することこそが、『生きている証』なのだと考えるようになりました。

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2015年3月14日 (土)

精神世界の本質(2)

『精神世界』は、高度な進化をしてきたために、崇高、深遠に見えますが、実は『自分にとって都合のよい状態を優先しようとする』本能が根底にあると梅爺は考えています。これを『安泰希求の本能』と呼ぶことにしています。

『失礼なことを言うな。私はそんな利己的な人間ではない』とお叱りを受けそうですが、『自分は利己的な人間ではない』、『そうあって欲しい』という願望や、『身勝手はいけないことです』と教えられてきた社会規範がつくりだしている価値観ではないでしょうか。

『生物進化』は、『種』として『安泰優先の資質を継承する』ことでした。生き残りの確率を高める重要な資質ですから、『人間』も『安泰希求の本能』を根底で継承していると考える方が自然です。

しかし、『人間』の『精神世界』は、やがて厄介な問題に遭遇します。『個』の『安泰』は、『群』の『非安泰』になることがあるという『矛盾』です。『種』の生き残りには『群』の『安泰』も重要ですから、『個』は『群』のために、自分の都合を抑制する必要にも迫られます。

『個』だけなら、『欲望のままに』『やりたい放題』になりますが、『群』の安泰を考えると、『それはまずい』ことになりますから、やがて『人間』は、『群』の安泰を確保するために、『法』『倫理』『道徳』の概念をつくりだし、『群』として『善いこと』『悪いこと』という判別基準を『約束事』として共有して、代々継承することになります。『食べ物は仲間で分ける』方が『独り占めする』より、『群の安泰』になり、ひいては自分の『安泰』にもなると理解します。この価値観はやがて『思いやり』というような高度な抽象概念となり継承されます。このように『人間』は『精神世界』の中で、『善悪』の概念を考え出しました。野蛮な『人間』に、『神』が『善悪』を教えてくださったのではなく、『人間』だけで『善悪』の概念は考えだせると梅爺は考えています。しかし、この『善悪』は、『精神世界』の『約束事』であって、『物質世界』の摂理のように『真偽』を絶対的に判別するものではありません。

『精神世界』の『善悪』を、『物質世界』の『真偽』と同じと混同する議論が、世の中には多いように梅爺は感じています。『神の正義を実現するために、異教徒を殺す』などという行為が、今でも地球上で繰り返されています。このような極端な話でなくても、人間関係の日常の悲喜劇の大半は、この混同で生じています。

『人間の中に、菩薩(仏心)と悪魔(邪心)が共存する』などという表現をよく耳にしますが、何故そのように見えるかは単純な理由で、もともと『安泰希求の本能』だけが根底にあり、それが実際の言動となって表面化する時に、人間社会の『約束事』として、『善いこと』『悪いこと』に分かれるに過ぎないのではないでしょうか。自分だけの『安泰希求の本能』は『罪』である、という宗教の教えも『約束事』ですから、むしろ自分の中に『安泰希求の本能』があることを冷静に認めて、『さて、自分はどう対応するか』と『自分で考える』ことのほうが、現実的ではないかと梅爺は考えています。

『仏心、邪心を共有する人間』という矛盾した存在は、『神』の意図が関与しているのではなく、『生物進化』の偶然の選択がもたらした結果であろうと、畏れ多くも考えています。

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2015年3月13日 (金)

精神世界の本質(1)

梅爺が『梅爺閑話』を書き始めて、人間の『精神世界』の深遠さに魅せられ、生物としての『脳』の進化が創り出した『理』と『情』が織り成す世界の本質を自分なりに考えるようになりました。 

『精神世界』は、『自然界(物質世界)』とは別世界であるように見えますが、『人間』や『脳』は、『物質世界』の摂理でもたらされ、機能していることは明らかですから、両者は無縁ではありません。 

『物質世界』との関連も含めて、一見神秘に見える『精神世界』の本質を理解しようと言うのが、梅爺の基本姿勢です。『精神世界』の事象を、『精神世界』だけで論ずると、不思議さ、神秘さだけが増すことになります。『宗教』『哲学』『芸術』を、手に負えない難解な世界と多くに人が感じてしまうのは、このためではないでしょうか。『物質世界』に関連付けて『精神世界』を理解することは、『精神世界』の尊厳を軽視することではないと、梅爺は考えています。 

『脳』の科学的な研究が進めば、『精神世界』の本質が徐々に見えてくると思いますが、梅爺にはその専門知識が希薄ですので、自分で知りうる知識の中で、『精神世界』の本質を考えてきました。 

梅爺が気付いた本質の一つは、『精神世界は個性的で、普遍的な価値観では支配されていない』ということです。人間は、一人一人異なった『精神世界』を保有しています。勿論、類似する『精神世界』で、他人同士が共通点を見いだすことはできますが、本質的には異なっています。そう云う意味では、親子、兄弟も他人です。 

『精神世界』が個性的になるのは、『物質世界』の摂理が作りだした両性生殖のしくみが、両親の遺伝子(3万個ほどの基本機能の集合体)を素材として、子供の遺伝子をつくりだすためです。この遺伝子組み換えは、受精の瞬間に偶然とも言える確率で実行されます。更に、産まれた赤ん坊の『脳神経細胞ネットワーク』は、遺伝子(生まれつきの要素)と、生後の環境対応経験(体験による要素)に影響されて出来上がっていきますから、『精神世界』が個性的になるのは当然のことです。一卵性双生児でも、『精神世界』は厳密には異なっていきます。現在地球上に生きている人の数だけ、現時点で活動している『精神世界』が存在することになりますから、『指紋』のようなものです。『指紋』と異なるのは、『精神世界』は常にダイナミックに変容していることで、個人の『精神世界』もある状態で止まっているわけではありません。梅爺の『精神世界』も、『梅爺閑話』を執筆し始める前と現在では、大きく異なっています。 

故人にも、生前は『精神世界』があったはずですが、それも時とともに変容していたわけですから、全容を窺い知ることは不可能に近い話です。芸術家や哲学者が残した作品や著作から、そのごく一部を垣間見ることはできますが、全容とは程遠いものです。 

更に、群をなして生きていくことで、生き残りの確率を高めようとしてきた『人間』は、『コミュニティ(社会)』を形成して、『考え方』『感じ方』を共有する必要に迫られました。本来個性的な個人が集まって、共通な社会を作ると言う、矛盾をどのように克服するかで人類は四苦八苦してきました。今でも、この基本的な矛盾は、克服されていません。『考え方』『感じ方』で、『私が正しい、あなたは間違い』という主張が横行することになります。身近に起こる人間関係の悲喜劇も、全てこれに起因しています。 

『考え方』『感じ方』を共有するために、多くの『抽象概念』を人類は考え出しました。『神仏』『愛』『正義』『善悪』『美』『醜』『悲』『寂』『苦』などがそれにあたると梅爺は考えています。これらの『抽象概念』は、すべて定性的な表現で、科学ルールのように、『多寡(たか)』『強弱』『真偽』を定量的に判別する普遍的な尺度はありません。

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2015年3月12日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『炎の美』(6)

『ウンベルト・エーコ』のスタイルは、これでもかとばかりに、執拗に多数の文献をや史実を読者に提示しますが、意外なことに『私はこう思う』という表現は控えめです。読者に判断を任せるという、サービス精神が背景にあるのか、旗色(きしょく)を鮮明にしないことで、身の安全を計ろうとしたり、より自分を魅力的に保とうとているのかどうかはわかりませんが、梅爺は読んでいてもどかしく感じる時があります。 

それでも、『ウンベルト・エーコ』の考え方はこうにちがいないと、推測はできます。決して、キリスト教の教義を批判したりしませんが、そうかといって信仰心の厚い人であるとも思えません。基本的には、『精神世界』を理性で客観的に洞察する教養人で、オカルト的な世界へ自らのめり込んでいく『パウロ・コエーリョ』のような作家とは違います。 

梅爺は短慮のために、すぐに『私はこう思う』といってしまい、顰蹙(ひんしゅく)を買うことが多いのですが、それが梅爺の個性なのだと、開き直ることにしています。 

『火』ばかりではなく、人間は、あらゆる事象の中に、特別の意味が込められているのではないかと考える習性を持っています。吉凶を予知して、備えるという本能の成せる技ではないでしょうか。他人の微妙な顔の表情やしぐさから、その人の心情を察するなどというのも、これに類することです。昔飼っていた犬も、梅爺の眼を観て、こちらの意図を判断しているようにみえましたので、基本的には動物に共通の習性が、人間の場合高度に進化したものと思われます。

テレビに登場した政治家が、口先では言い逃れをしても、視聴者はその表情から、嘘であると感じとったりします。

雲の形や、夕焼けの色から、天気を予測するなどという行為は、経験則から自然の摂理を推測することで、単なる『虚構』とは言い難いものですが、亀の甲羅や、動物の骨を焼いて、亀裂のでき具合から運勢を占うなどという行為になると、『虚構』の度合いが深まります。

太陽が朝東から昇り、夜は西へ沈むという繰り返しを、古代の人は『生死』『命の再生』の象徴と考えました。太陽は、昼は『現世』、夜は『黄泉(よみ)の世界(冥界)』を運行すると、エジプトやメキシコの古代人は信じていました。

暗闇の中に揺らめく蝋燭の炎は、闇と光の対比で、『精神世界』は『神秘』を感じ取り、精神の集中、心の安らぎをえたりします。宗教的儀式に『火』が用いられるのは、実に巧妙なしかけであることがわかります。

不遇な死を遂げた人の霊が『祟(たた)る』という類推は、昔の人達の共通認識で、日本の場合、多くの神社は『鎮魂』目的で建立されました。

人間は、事象の中にシンボル的な意味が内在すると考えると同時に、逆にシンボルを自分たちで創りだし、それをコミュニティの共通認識を確認する手段としてきました。

『国旗』などがその典型例ですが、二つの勾玉(まがたま)を組み合わせたような『陰陽』の記号や、上下二つの三角を組み合わせたユダヤの星型マークなどは、単なる思い付きの記号ではなく、物事の本質を理解しようとする古代の人達の知恵が反映されています。

『ウンベルト・エーコ』は、読者の『精神世界』を啓発する、すばらしい作家です。

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2015年3月11日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『炎の美』(5)

人間の脳が、周囲の事象を認知、認識する仕組みは、最新科学でも詳細には分かっていませんが、『パターン認識』であろうと推察されています。視覚情報の場合、その『パターン』は、単なる二次元の模様ではなく、特徴要素を『重み』をもって抽出し、処理されるしくみになっているものと思われます。取得した『パターン』は、脳のなかで幾層かの『パターン・フィルター』を通過して、最終判断にいたると考えられています。『パターン・フィルター』は、過去に取得した『パターン』を、分析、分類して形成され、記憶しているものです。 

簡単に言ってしまえば、私たちが、今まで見たこともない容姿、大きさ、色の『犬』に出会っても、『猫』ではなく『犬』であろうと判断するしくみの話です。これが、ほぼ瞬時に行われるわけですから、脳の処理能力がいかに素晴らしいものであるかが分かります。しかも、次々に押し寄せる外部情報を休みなく手早く処理し続けていることになります。梅爺のような凡人にも、この能力が付与されているのですから、ただただ感謝したくなります。梅爺は、この能力を駆使して、周囲を観察し、テレビを観、本を読んでいます。 

周囲の情報を認識すると、先ず自分にとって『都合の悪いもの』『安泰を脅かすもの』ではないかどうかを、直感的に区分けします。生物として『生き残り』を最優先としてきた『人間』が継承している当然の本能で、この判断は『情』によるものです。自分の『意志』とは無関係に機能しますから、『突然不安になる』などの事態が起きます。『突然悲しくなる』『突然感動がこみ上げてくる』なども、同じ事態です。このレベルの『好き、嫌い』『美しい、醜い』の判定には、理屈はありません。勿論判断には個人差がありますから、誰もが同じ判定をするとは限りません。 

しかし、人間の脳が複雑であるのは、この後に、おもむろに『理』が機能を開始して、最初の『情』による判断の検証を行おうとします。時間差があるのは、『理』は生物進化の過程で、『情』より後に獲得した能力であるからです。『子供のように泣き叫ぶのは恥ずかしい』『自分の都合だけを優先して行動してはいけない』などという次なる次元の判断に至ります。

喜怒哀楽を『情』の赴くままに表現する子供が、喜怒哀楽を『理』で抑制する大人に変っていくことから、『理』には後天的な要因も絡んでいることが分かります。健全な『理性』を養うことが、人間にとってはいかに重要なことであることも分かります。『理性』にも個人差がありますが、理性的な大人が多い国が、真の文明国家であると言えます。

『理』は、ある『パターン』に接した時に、その中に、自分にとって意味のある何らかのメッセージが込められているのではないかと、推察します。ある事象を『シンボル』として理解しようとします。これも自分にとって都合のよいメッセージか、都合の悪いメッセージかを予知して、安泰を確保しようという本能が背景にあるように、梅爺は感じます。

現代人にとって『火』は、物理現象として理解できますが、昔の人々は、『火』の中に色々な『シンボル』を推量し、それを共有してきたと『ウンベルト・エーコ』は指摘しています。

『神に関る聖なる火』『地獄の火』『錬金術における神秘な火』『恍惚に導く火』『殺戮の火』などと、『火』の中に多様な『シンボル』を見出してきたことが分かります。しかもそれを当時の人たちは本当に『信じていた』ことになります。

『物質世界』では『火』は『火』に過ぎませんが、『精神世界』が関与すると、これほど多様な価値が出現するという典型例です。『精神世界』では、自由な推量が可能ですから、たとえ相互に矛盾していても多様な表現が出現してもかまいません。『精神世界』の『虚構』と、『物質世界』の実態の違いを理解すれば、なんでもないことなのですが、多くの場合、混同されておかしな議論になりがちです。

人間が主催するオリンピックにとって『聖火』は重要な意味をもちますが、『物質世界』には『聖火』は存在しないという話を区別できるかどうかということです。言うまでもなく『聖火』には、人間の『精神世界(脳)』が『聖なるもの』というシンボルの対象として『火』を捉えた結果の表現様式ですから、『虚構』の一種です。その証拠に、人間がいない世界には『聖火』は存在しません。くどいようで恐縮ですが、梅爺はこの『虚構』が人間の『精神世界』でのみ有意義であることを認めていますので、コチコチの唯物論者ではないと自認しています。

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2015年3月10日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『炎の美』(4)

古代ギリシャや古代インドの賢人は、この世のモノはすべて『火』『水』『空気』『土』で構成されていると推量しました。また、物質は細分化していくと、それ以上細分化できない要素に至るとも想像していました。ギリシャとインドで、期せずして同じ考え方を思いついたのか、相互に何らかの影響を受けていたのかは、浅学にして梅爺は知りません。

古代中国では、物質の根源要素は『五行思想(水、木、火、土、金)』で、自然現象は『天・流水・火・雷・風・水・山・地』の8つの基本に帰すと考えられていました。これ以外に、全てのことに表と裏があるという『陰陽思想(おんようしそう)』が組み合わされて、周囲の事象をを複雑な体系として把握していました。

現在の『科学知識』で観れば、これらは『真』であるとは言えませんが、2500年~3000年前に、当時の賢者が『理性』を駆使して、因果関係を推量しているところに、人間の共通した本質を垣間見ることができます。つまり、『自然のしくみを知りたいという欲求』が強く働いています。

『好奇心』は、『安泰を希求する本能』の一つの側面であろうと梅爺は想像しています。『知らない』ことは『不安』のストレスを生み、なんとか『因果関係』を推量して、自分で納得(安泰を求める)しようとします。

この習性は、古代人であろうが現代人であろうが、共通です。何故人間が『宗教』『哲学』『芸術』『科学』を追求するのかは、全て『安泰を希求する本能』に帰結すると梅爺は考えています。勿論、この本能は、試行錯誤を前提とした『生物進化』の過程で、生き残りに有利な資質をもった子孫のみが、生き延びてきたという、気も遠くなるようなプロセス(変容)の中で、結果として獲得した資質であり、そのような本能を持つことを『目的』として獲得したものではありません。多分、この本能は人間ばかりではなく多くの生物の遺伝子の中にプログラムとして組み込まれているものと推定できます。

『安泰を希求する本能』は、言い換えれば『自分に都合のよいことを最優先する心』『利己心』となります。人間である以上、誰もこの習性を持つ宿命から逃れられません。梅爺は、これを『罪』と後ろめたく受け止めずに、『そういうものだ』と覚悟して対応する方が健全であるように感じています。勿論『利己心』は、好ましくない側面もありますから、その場合は『理性』で抑制する必要に迫られます。このバランスがその人の『品格』を創り上げていきます。

現代の『科学』は、人間には『利己心』と同時に『利他心』という相反する本能が備わっていることを明らかにしつつあります。ホルモンがこれらの本能を司っているという話です。

もしそうなら、『利他心』『絆』『愛』などと、崇高な概念として理解していることも、ホルモンを利用した物質作用(物理反応、化学反応)があってのこととなり、人間も根源的には『物質世界』の『摂理』に則(のっと)って生きている(生かされている)ことになります。

古代、ギリシャ、インド、中国の賢人が、人間を含めて、同じ『自然のしくみ』に支配されていると洞察していたことは、必ずしも不適切ではないことが分かります。

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2015年3月 9日 (月)

ウンベルト・エーコのエッセイ『炎の美』(3)

昨日も書いたように、人類が相対的に、体系だった『科学知識』を獲得してから、100年程度しか経っていません。『ホモ・サピエンス』の20万年の歴史に比べるとそれは一瞬のように短い時間です。私たちは、『ホモ・サピエンス』の中でも極めて特殊な部類に属する『人類』なのです。

現代人の知識で判断すれば、少し前までの『ホモ・サピエンス』が、なけなしの知識と空想を駆使して、物事の因果関係を『理』で推量した内容の大半は、『適切ではない』ことになります。

当代きっての教養人である『ウンベルト・エーコ』は、それを承知で、昔の人たちの推量内容に興味を示すのは、内容の『真偽』とは別に、その思考プロセスの中に、人間の『精神世界』の本質が潜んでいるからと感じているからではないでしょうか。梅爺もこの点では同様です。

『天地創造』『アダムとイヴのエデン追放』などの話は、『真偽』の視点で観れば『真』と言えないのは当然ですが、何故人間は、その様な『虚構』を創りだしたのか、何故創りだす必要があったのかは、一笑にふすわけにはいきません。

多くの『無神論者』が、皮相な『真偽』だけをあげつらって、鬼の首をとったように、『神』や『宗教』を否定しようとする態度は、梅爺は賛成しかねます。

梅爺も、信仰心の薄い人間ですが、何故人間は『神』という概念を必要とするのかということは興味の対象です。『神』『愛』『正義』『平和』などは、実態があるかどうかの議論よりは、何故人間はそのような概念を必要とするのかが重要で、人間を理解する上で本質的なことなのです。梅爺の仮説は、『安泰を最優先する精神世界の本能が、それらの抽象概念を必要としている』というもので、人間が存在しない世界では無意味なものと考えています。当然、宇宙に代表される『物質世界』は、『摂理』に従って『変容』を続けているだけで、そこは『神』『愛』『正義』『平和』などの概念を適用する対象ではありません。『物質世界』の『変容』には、『目的』や『意図』がありません。『変容』の一部は人間にとって都合が悪いものであり、一部は都合が良いものですが、それはあくまでも『人間にとって』であると理解すべきではないでしょうか。

『ウンベルト・エーコ』は昔の人達が、『火』や『炎』を、『精神世界』でどのようにとらえたかの考察を深めていきます。『火』や『炎』は、『太陽』を連想させ、従って『畏怖』の対象であり、時には『穢れを焼き払う火』であり、時には『怖ろしい怒りの火』でもありました。燃料を補給しないと燃え尽きますから、『火が消える』ことは『命の死』を連想させ、また摩擦で発火することから、性行為との関連で『命の誕生』も連想したにちがいないと『ウンベルト・エーコ』は述べています。想像力貧困な梅爺は、ただただ畏れ入るばかりです。

あらゆる『驚異』の源に『火』があると、人々が考えたことは納得がいきます。それは、『聖なる火』であったり、『邪悪な火』であったり、矛盾することがあるのも、『精神世界』が必ず陰陽の両面で抽象概念を創りだすことを考えると、当然のような気がします。『神、悪魔』『天国、地獄』『善悪』『愛憎』『美醜』など、ほとんどの抽象概念は『対(つい)』になっています。あくまでも『人間にとって』という条件がついた概念です。

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2015年3月 8日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『炎の美』(2)

500万年~800万年前に、同じ先祖からチンパンジーと『人類』は、生物進化で枝分かれしたというのが、『科学』の定説です。最初の『人類』は、樹上生活から地上生活に生活パターンを変え、『二足歩行』を開始したことが特徴です。しかし、外見、容貌は限りなく『猿』に近いものでした。

その後、20種程度の『人類種』が、生物進化の枝分かれで出現し、約20万年前に、私たち『現生人類(ホモ・サピエンス)』の先祖がアフリカ中部に登場しました。現時点で『現生人類』以外の『人類種』は全て絶滅していることが判明しています。

2万年~3万年前まで、ヨーロッパには、『ホモ・サピエンス』以外に『ネアンデルタール人』が共存していましたが、これも絶滅しています。

『ホモ・サピエンス』だけが、何故生き残ってきたのかの理由は、解明されていません。肉体的な能力ではなく、『脳』の能力が決め手であろうと推測されます。

現在地球を支配しているかに見える『ホモ・サピエンス』は、宇宙の歴史(138億年)、地球の歴史(46億年)、生命の歴史(40億年)を考えれば、極々新参者の『生物種』であることがわかります。更に『文明』『宗教』の歴史は約3000年から5000年、『科学(体系的な知識保有)』に至っては約100年から200年の歴史しかありません。私たちは『自分』の存在を、この時間軸、『ビッグ・ヒストリー』の中で考える必要があります。『人間』は『天地創造』と同時に出現したわけではありません。

最初に地球に出現した『人類種』も、『火』は、落雷、噴火などによる山火事として体験したものと思いますが、他の『生物』と同様に、『火』は怖ろしいもので、逃げるだけの対象であったに違いありません。

『人類種』は数100万年前に、『石器』などの『道具』を使い始め、数10万年前に『火』を『道具』として使い始めたと、推測できますが、時期の詳細な特定は困難です。

恐怖の対象であった『火』を、一転して『道具』として利用し始めたことは、『人類種』にとっていかに画期的なことであるかは容易に想像できます。肉食獣から身を守る手段、料理の手段、灯りの手段、暖房の手段と多様に利用することで、生活のパターンや、生活できる環境にも変化が生じたに違いありません。

『現生人類(ホモ・サピエンス)』は登場と同時に、『火』を道具として利用する術を知っていたのでないでしょうか。その後、居住の地として寒冷地へも進出していきますが、『火』が無ければ、不可能なことです。

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2015年3月 7日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『炎の美』(1)

ウンベルト・エーコのエッセイ集『Inventing the Enemy(敵を創りだす)』の三つ目の話題は『The Beauty of Flame(炎の美)』です。

文学者が、『炎の美』を賛美したり、畏怖したりして詩的に表現する例は沢山ありそうですが、『火』や『炎』を、哲学的思索の対象にしてしまうところが『ウンベルト・エーコ』ならではの面白さです。『考える愉しみ』を追い求める人にとっては、私たちが、何気なく見落としている当たり前のものが深い思考の対象になるという典型で、梅爺が『ウンベルト・エーコ』に魅せられる理由でもあります。

人間の『火』や『炎』に接する考え方は、近世以前と近世以後では、大きく異なっています。近世以降、『火』や『炎』の正体は、科学的に解明され、少なくとも『理性』にとって、『火』や『炎』は、『摩訶不思議』の対象ではなくなりました。

しかし、そのような現代人でさえ、時と場合によって『火』や『炎』から、『感性』で『何かのメッセージ』を受け取ります。聖堂や伽藍(がらん)に灯された蝋燭(ろうそく)の炎の前で祈りをささげることは、『心の安らぎ』『神仏との一体感』などを得るために絶大な効果を発揮します。オリンピックの『聖火』に異議を唱える人はあまりいません。

また、『霊』を迎える儀式では、『迎え火』『送り火』が欠かせません。『ゾロアスター教』のように『火』を『神』とする宗教ばかりではなく、どの宗教も儀式で『火』を利用しています。

中世までに、伝統として確立された『火』との関係が、現代まで継承されているという説明では、説明しきれない『何か』がそこにあるからなのでしょう。

『ウンベルト・エーコ』は、子供たちが10~12歳の時に、暖炉付きの家を購入し、暖炉で薪(まき)を燃やした時の、子供たちの反応を、このエッセイで紹介しています。子供たちの興味の対象は、一瞬にしてテレビから暖炉の火に移り、テレビへの関心が消滅したと書いてあります。人間が創り出すテレビ番組より、自然が創り出す千変万化の『炎』の形に、子供たちが魅せられるということは、『火』や『炎』には、人間の『精神世界』の『感性』へ本能的に訴える本質的な『何か』があるに違いありません。

『ウンベルト・エーコ』は、『科学知識』をもたなかった頃の人間の『火』への対応を主として考察しながら、現代人も含め、人間にとって『火』や『炎』は何なのかを洞察していきます。

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2015年3月 6日 (金)

元素万歳(4)

私たちの身体の中で、78種もの元素が、それぞれ『生きる』ために必要な何らかの貢献をしていると考えただけでも、驚きです。 

私たちの体重の1%は『リン(元素番号15)』で占められています。骨、細胞膜、DNAなどで『リン』は重要な役割を果たしています。生物の先祖は、海中の微生物であったと考えられていますが、海中には『リン』はほとんど存在しません。 

この謎を解くには、地球の気候変動を考えなければなりません。地球は過去に、少なくとも2回、『全球凍結(スノーボール)』という全て氷に覆われた時代があったと推測されています。最後の『全球凍結』は6億年前の『カンブリア紀』の前で、その後火山の噴火で氷が解け始め、氷河が地層を削ってミネラル分を多量に含む泥を海水中に流し込んだと言う推測になります。この中に『リン』も含まれ、これを利用して、一気に生物進化が促進され、大型動物が出現したことになります。これが『カンブリア大爆発』と言われる現象です。勿論この時代には、『人類』は影も形も存在していません。地球の歴史で人類が登場するのは、相対的な時間軸で考えれば、極々最近のことなのです。 

『リン』は、私たちだけでなく、多くの生物が必要としている『元素』ですが、地球上に存在する総量には限度があります。この量以上に生物は存在できないわけですから、『リン』は、地球の生物の総量(バイオマス)を規制する要因でもあります。 

私たちの血液の中の『鉄(元素番号26)』が、身体の隅々まで酸素を供給する重要な役目を果たしていることは良く知られています。 

『セレン(元素番号34)』は、地球上では『レアメタル』の一種で貴重な『元素』ですが、魚類、哺乳類、鳥類は、『セレン』を含む『セレノシステイン(アミノ酸)』を、有害な『活性酸素』を抑制する『抗酸化システム』として利用しています。動物は、『酸素呼吸』で、エネルギー源を体内で作っていますが、一方酸素は、猛毒(活性酸素)でもあるという、際どいバランスの中で生きています。『セレン』が無ければこのバランスは保てません。 

遺伝子を継承するための手段は、2重螺旋(らせん)構造の『DNA』ですが、『DNA』は、もともと1重螺旋構造の『RNA』から進化したものと考えられています。この2重構造(結合)を実現するのは『リボース(糖の一種)』で、これには『モリブデン(元素番号42)』が使われています。 

これ以外にも『硫黄(元素番号16)』や『亜鉛(元素番号30)』なども、代謝、免疫、などで重要な役割を果たしています。 

結果として出来上がっている人体という見事なシステムを観ると、このようなものが気も遠くなるような偶然の試行錯誤の繰り返しで実現したとは考えられないという印象になりますが、数10億年かけた『生物進化』しか、これを『理』で説明する方法がありません。 

『量子物理学』『天文物理学』などが解き明かそうとしている『宇宙の歴史』『地球の歴史』と、『生物進化論』は、矛盾なく共存できます。このような『学際的』な解明をすれば、『神によるデザイン』などという、検証不可能な『精神世界』の『想定』を持ち出す必要がなくなります。 

人類が『真理』を追究し続ければ、最後はどうしても分からない『神の仕業』に行き着くのかもしれませんが、今のところ『科学』は、追求をやめてはいません。多くの科学者も『何故真理(摂理)が存在するのか』は解明できないかもしれないと感じていますから、全ての科学者が『科学は万能』と傲岸になっているわけではありません。 

種々の分野の『知識』を豊富に保有する現代人であるからこそできることが、『学際的』な事象の検証です。違った視点で観ると、今まで『不思議』『神秘』の思えていたことが、突然『理』で理解できることがあります。 

『宇宙の出現』『元素の出現』『生命の出現』『生命の進化』は、一緒に俯瞰すれば、新しい知識が得られます。『元素』はこれらをつなぐ要素として重要な役割を果たしています。逆に生物としての『ヒト』は、『物質世界』の一員であることが再確認できます。 

こういう解明が、『人間の尊厳』を損なう行為であるとは、梅爺は思いません。むしろ『摂理』によって生きている(生かされている)ことへの感謝がつのるばかりです。私たちは、『摂理』の大半を未だ知らないにもかかわらず、『摂理』で生かされていることは実感できます。『摂理』に感謝しない人、圧倒されない人は、失礼ながら理性を欠いていると言わざるをえません。

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2015年3月 5日 (木)

元素万歳(3)

中世の『錬金術師』は、ありきたりの『金属』から高価な『金(きん)』を創りだそうとあらゆる努力をしましたが徒労に終わりました。人間が作り出せる環境での『物理反応』『化学反応』を利用して『ある元素』を『異なった元素』へ変えることはできないという『知識』を得るのに、多大な労力を費やしたことになります。『宇宙』で重金属を創りだしているのは、ある特殊な環境であるという『仮説』が科学知識として提示されています(後述)。 

『ビッグ・バン』で『超弦(ひも)』から何種類かの『素粒子』ができ、一部の『素粒子』から、『陽子』『中性子』ができ、『陽子』『中性子』から『元素』ができたというのが、最新科学の『定説』です。 

最初の宇宙に存在した『元素』は、『水素(陽子1ケ)』と『ヘリューム(陽子2ケ)』であったと考えられています。何故二種の『元素』だけしかできなかったのか、梅爺は理解できていません。勿論、陽子の数が少ない元素から出現したということは、一般論として常識的に理解はできます。 

ただ『宇宙』の『星』を、分光計で観測し構成する『元素』を特定すると、極端に『金属』を含まない『低金属星』と呼ばれるものが見つかることから、『宇宙』の初期段階には、『水素』と『ヘリューム』しかなかったことが裏付けられています。『低金属星』は、『ビッグ・バン』の数億年後に出現した初期の『星』で、この『星』からは『惑星』は誕生しないと考えられています。 

これらの初期の『星』が集まって『銀河』ができ、『星』の一部は『超新星爆発』で『死』を迎えました。この『超新星爆発』のプロセスで、『核融合反応』が起こり、『鉄(元素番号26)』までの『元素』が創られたと考えられています。 

それでは、『鉄』以上に重い『金(元素番号79)』や『プラチナ(元素番号78)』などは、どのように創られたのでしょう。 

重金属元素が誕生するには、『ラピッド(r)プロセス』という状態が存在する必要があると考えられています。 

『陽子』『中性子』が複数寄り集まり、『中性子』の一部は更に『陽子』に変って『元素』の『原子核』が構成されますが、『原子核』の『陽子』の数が増えると、プラス電荷が作用して、それ以上『陽子』を外部から『原子核』へ取り込めなくなります。 

『重金属』が出現するには、『中性子』が『陽子』に変る前に、一気に多数の『中性子』を寄せ集める条件が必要になります。この条件が『ラピッド・プロセス』です。 

『ラピッド・プロセス』は、『二つの中性子星が合体するときに起きる』『異常に速い回転をしている特殊な超新星で起きる』などの諸説がありますが、定説としては確立していません。 

46億年前に、『太陽系(地球を含む)』が誕生したころの『宇宙』には、現在自然界に存在する『元素』の全てが出そろっていたお陰で、それらを利用して私たちが出現できたことになります。 

『光合成』には『マンガン』という『元素』が重要な役割で関与しています。『マンガン』があったからこそ、『光合成』を行う生物が活動し、地球環境に『酸素』が増えて、オゾン層ができて紫外線を遮断し、私たちのような『酸素呼吸』する『生物』の棲息も可能になりました。『元素』の存在が、『地球』環境を変える要因になっていることが分かります。

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2015年3月 4日 (水)

元素万歳(2)

『元素は原子核が保有する陽子の数で特性が決まる』という本質を人類が知ったのは、近世になってからです。外見上異なっている物質が、実は『原子核の陽子の数』で順番に並べてみると、『周期表』の形になることを、19世紀の後半にロシアの『ドミトリー・メンデレーエフ』が発見し、彼は、未だ見つかっていない『元素』の存在も、『周期表』の欠落部分から予言しました。 

このような『周期表』のルールがあるなどとは露知らず、古代から人々は地球上に存在する鉱物資源(元素)を発見し、それを精錬加工することで、道具や武器を創ってきました。『鉄』の精錬と加工に成功した『ヒッタイト』が、古代において優勢を極めた歴史は著名です。 

全く別物に見える物質が、『原子核の陽子の数の違い』だけで出来上がっているという『事実』を知ったときに、人々は驚き戸惑ったはずですが、『ダーウィン』が『生物進化』を発表した時のような、宗教界からの反発は無かったように見えます。 

『元素』は、同じ素材(陽子、中性子、電子)からできているという話は、『モノ』の由来として許容できても、『ヒトとサルの先祖は同じ』などという話は、到底受け入れられないと糾弾の的になりました。『ヒトは神が神に似せて特別に創った存在』という『聖書の教え』に反するものであったからです。

『人間は、神が特別に目をかけてくださる特別な存在』という『想定』は、人間の『精神世界』が創りだしたものであろうと梅爺は思います。『そうあって欲しい』『そうであれば安心だ』という、『都合が良いことを優先する』『安泰を希求する』本能が背景にあると考えれば納得できます。

『ビッグ・バン』で『宇宙』が出現し、『宇宙』の中の同じ素材から各種の『元素』ができ、『元素』を利用して『星』ができ、その中のある『星(地球)』に『生命体』が出現し、『生命体』が種々に進化して『ヒト』が出現した、という『物質世界』の事象やプロセスの中に、『ヒトだけを特別に愛する神』などという概念を差し込むことは無理があり、差し込む必要もありません。

『物質世界』の歴史の中で観れば、『ヒト』は『遅れてやってきた多細胞生物』ですが、本質的には何ら特別な存在ではありません。

『人間は尊厳のある特別な存在』と『想定』するのは、『脳』が創り出す『精神世界』という、『物質世界』から遊離した『仮想世界』を人間が保有するようになったからです。

自由奔放な『想定』が可能な『精神世界』と、『摂理』にガッチリ支配されている『物質世界』を分けて、『ヒト』を観ないと、『ヒトの本質』は見えてきません。

『長生きしたい』と『願う』のは、『精神世界』の事象ですが、いつか厳然たる死を迎えるのは『物質世界』の『摂理』がもたらす事象です。

『物質世界』は、『精神世界』では重要な『願う』『祈る』『信ずる』などという行為が通用しない領域なのです。

『元素』は、当然『物質世界』の話です。

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2015年3月 3日 (火)

元素万歳(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映された『コズミック・フロント』で、宇宙で『元素』がどのように創りだされたかを解説する番組があり、梅爺は啓発されました。

『物質世界(宇宙、自然界)』の始まりは138億年前の『ビッグ・バン』です。『物質世界』を理解するためには、『マクロな世界(私たちが体感できる4次元の世界の視点)』と『ミクロな世界(10または11次元と言われる量子物理学の視点)』とに分けて考える必要があります。

『マクロな世界』で『ビッグ・バン』を観ると、まるで『無から有が生ずる』手品のような現象ですから、『マクロな世界』の常識に照らして、私たちは驚いたり、トンチンカンな議論をしがちです。私たちは全ての事象を自分の能力の範囲で判断しようとし、自分の能力に限界があることを時に忘れる習性があります。

『ビッグ・バン』は『ミクロな世界』を支配する摂理を利用しないと解明できないと考えられていて、既に有力な『仮説』が提示されていますが、全容が解明されているわけではありません。

『マクロな世界』は、私たちが体感できる4次元の世界として見えますので、ある程度理解することができますが、『ミクロな世界』は文字通り『異次元の世界』ですので、量子物理学の深い素養をもった人でないと、真髄を理解することはできません。眼で見えない世界ですから、純粋な論理思考が追求の手段になります。

量子力学は、数式を用いた極めて高度で論理的な推論の世界であり、梅爺の能力では、とてもついていけません。東大の村山斉先生のような、本質だけを分かり易く解説して下さる方の説明を頼りに、生半可な理解で止まっています。教えていただいて『信ずる』という対応ですから、いわば『宗教』に近い話です。

『マクロな世界』の摂理も、『ミクロな世界』の摂理も、本質は『数式』で表現されると科学者は考え、今や、両世界の摂理を一つの『数式』で表現しようとする努力も行われています。この一つの『数式』で、『マクロな世界』『ミクロな世界』に存在する4種の『力』を統一的に表現してしまおうという試みです。この『数式』は『神の数式』と呼ばれています。何故『物質世界』に、このような見事なルールが存在するのかを説明する手立てが今のところ見つからないからです。

従って、この『数式』を『神』と呼ぶことはできますが、この場合の『神』は、『理』一辺倒で、宗教が教える『神』のように『愛』『慈悲』といった『情』とは無関係です。

『ビッグ・バン』の後、『宇宙』では、『元素』が創られ、その『元素』を利用して、色々な『モノ』が出来上がりました。私たち『ヒト』も例外ではなく、体内から78種の元素が検出されています。天然に自然界に存在する『元素』は92種ですが、その大半を『ヒト』は『自分を構成する』ために必要としていることになります。

『ビッグ・バン』が無ければ私たちは存在しないという説明が、『風が吹けば桶屋が儲かる』という論理の遊びではなく、驚きの実感で迫ってきます。

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2015年3月 2日 (月)

Vanity will prove vexation.

英語の諺『Vanity will prove vexation.』の話です。 

『Vanity』は『虚栄』『虚飾』などの意味ですが、『Vexation』は『腹立ち』『苛(いら)立ち』など『心が平静さを失った時に起こる事象』を示す単語で、日本語へ訳すのが難しい言葉です。 

強引に訳すと、『虚栄は、苛立ちによるものだとわかる』などということになり、何を言いたいのか見当もつきません。 

調べてみると、これは『旧約聖書』の中の『伝道の書』を引用しているらしいことが分かりました。従って、この諺の意味を連想できる人は、英語圏の人でも、かなりの教養人なのではないでしょうか。 

『旧約聖書』では、『王の金銀財宝などは、心の(Vanity)と(Vexation)がもたらす空しいものに過ぎない』というような表現で引用されています。つまり『Vanity』も『Vexation』も、平静で穏やかな『心』の対極にある好ましくないもので、真の『信仰者』なら、このようなものに煩わされてはいけないという教えであることが分かります。『Vanity and Vexation of Spirit』は、『釈迦』の言葉ならまさしく『煩悩』ということになります。 

ここまで分かれば、『Vanity will prove vexation.』の意味がぼんやり分かってきますから、『虚栄心は、冷静さを失った心の証』などと訳せることになり、日本語として何となくそれらしい意味になります。

このような諺を、英会話の中で何気なく使われても、梅爺の能力では、途方に暮れるだけで、とてもついていけません。

日本人が日本語の会話の中で『人間万事塞翁(さいおう)が馬』などという諺を引用しても、多くの外国人が理解できないのと同じような話です。

『言葉』は、『文化』やそのコミュニティの共通理解に立脚していますから、同じ理解のレベルに達するのは容易なことではありません。 

『Vanity will prove vexation.』という諺では、『vex』という英語の動詞を理解することがポイントですが、英語の辞書を引いて『苛立たせる』『立腹させる』などと理解しても不十分で、元の語源がラテン語の『vex:心を揺り動かす、心の平静さを失わせる』であることまでを理解しなければなりません。

西欧の人達が『vex』という言葉で感ずるニュアンスは、『信仰に必要な穏やかな心を阻害する行為』であると理解して、始めて諺の意味が分かるという話で、大変な努力を要しますが、到達する結果には大いに満足することになります。

こういう学び方は、推理小説を読むような楽しさに通じます。

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2015年3月 1日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『絶対と相対』(8)

『ウンベルト・エーコ』が過去の文献から検証しようとするように、『絶対、相対』は『真理』と関係する概念ですが、更に『価値』とも関係します。

『誰から観ても同じ価値に見える』『時間や場所を変え、あらゆる角度から観ても同じ価値に見える』ものを人類は探し求めましたが、なかなかそう云うものは見つからず、唯一『科学や数学の法則』がそれらしきものと気付きました。つまり『真理』といえそうなものを見つけたことになります。

『宗教』の多くは『神仏』を信仰することで『御利益(ごりやく)』が得られるという考え方です。『御利益』は『自分にとって都合のよい状態、もの』であり、『健康』や『心の安らぎ』はその一部です。

更に『一神教』では、『神は絶対者である』『神は真理である』という『想定』に行き着きます。頭の良い聖職者や神学者が、『唯一の神』を論理的に突き詰めるとそうなるという話です。

『科学や数学の法則』と並んで『神』は、『絶対』『真理』といえるのかというと、そうはいきません。何故なら『神が存在する』という前提での『想定』であるからです。もし仮に『神は存在しない』とすれば、主張は消滅します。

『神は絶対者である』『神は真理である』という表現は『精神世界』の中だけでなら許されます。『精神世界』では、『物質世界』の『摂理』の制約を受けない自由な発想が可能であるからです。『象が空を飛んだ』『かぐや姫が月へ帰った』などという表現も可能です。

梅爺は、『神』は人間が考え出した『精神世界』の抽象概念であると、推測していますので、『神』にどのような属性が付与されようと、『神』の身辺でどのような奇跡がおころうと、驚きません。梅爺の推測で、梅爺が納得しているだけの話で、『神』は抽象概念などではなく、実態として本当に存在すると信じて(想定して)おられる方には、通用しない『想定』であることは承知しています。

多くの文学者や哲学者が、『神』や『絶対』を、有限な制約のある『言葉』で表現しようと悪戦苦闘してきました。中には、『言葉』での表現は不可能だと主張した人もいます。

驚くべきことに、日本人は、『制約』こそが、むしろ『精神世界』に広大な世界を想起させるという、逆転の発想を生みだし、『茶道』『華道』『俳句、和歌』『能』などの表現様式を共有継承してきました。『沈黙が最も多くのことを語る』ということも日本人なら即座に理解します。

『絶対』をなんとか表現しようと、言葉を尽くしてきた西欧文化とは異なり、日本人は『絶対』が興味の対象ではなく、『相対』的ながら多様で奥深い『ワビ』『サビ』などという『精神世界』を興味の対象として、更にそれが何と『制約』の中から生まれると見抜いていたことになります。梅爺は、『ウンベルト・エーコ』も好きですが『松尾芭蕉』はもっと好きです。日本の精神文化は世界に誇りうる日本人の資質と考えています。

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