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2015年2月28日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『絶対と相対』(7)

人間の素晴らしい所は、『精神世界』を表現する手段として、高度で論理的な『言語』を利用する能力を保有していることです。生物として、より原始的な表現としては『しぐさ』『顔の表情』もあり、逆に『言語』だけでは伝えきれないものを表現するために、『音楽』『絵画』などの芸術的な表現も利用します。

このような表現手段は、お互いに『考えていること』『感じていること』を確認することが、群をなしていきていく上で必要であったからです。裏を返すと、人間の『精神世界』は『個性的』で、『考えていること』『感じていること』が、同じであるとは限らないからこそ、このような多彩な表現手段を必要としたとも言えます。もし、『精神世界』が個性的ではなく、一様なら、『言語』などは要りません。

何故遺伝子継承で命をつないでいく生物の『個』が『個性的』であるのかは、生殖のしくみとしてそのような方式をを進化の過程で偶然獲得したからで、『個性的』である方が『種』としての生き残りの確率が高いからです。つまり、ある環境に適応できる『個性』をもった『個』だけが、生き残るということで、『個性』がないと『種』は一気に絶滅しやすくなります。

私たちは、『個性的』であることを宿命として生まれてきた存在であることを知り、それに対応する能力を持つことが重要です。厳密に言えば、他人は自分と同じようには『考えていない』『感じていない』と相互に認め合うことが、健全な人間関係を築く基盤になります。『私は正しい、あなたは間違い』とだけ言い張る個人もコミュニティ(社会、国家)も、『他』と健全な関係は築けません。

『精神世界』を表現するために、人間は多くの『抽象概念』を『言葉』として創出してきました。『善悪』『美醜』『喜怒哀楽』などが代表的なものですが、判断に『情感』が絡むものは、『普遍的な判定尺度』が無いことが特徴です。つまり『相対的な価値判断しかできない』ということを意味しています。

何となくそれを感じた人類は、『絶対、相対』という『抽象概念』でそのことを表現しようとしたのではないでしょうか。『絶対』は論理的にだけ想定できる状態で、現実には全て『相対』的な判定尺度の対象になるものしか存在しないのかもしれません。

私たちは、『美味しい』『楽しい』『感動した』『愛している』とお互いに『言葉』に出して、同じ『情感』を共有していると考えようとしますが、厳密には『感動』も『愛』も、内容や程度は同じではあるとは限りません。共有していると錯覚することが『絆』確認のために必要ですが、時に『愛』の認識が異なっていることが露呈して人間関係が破たんしたりします。

『普遍的な判定基準』がなくては、人間社会は混乱しますので、『憲法』『法』『倫理』などの約束事が決められ運用されます。人間同士が決めて容認する約束事ですから、これも『普遍的な判定基準』とは言えません。

人間は『個性的』であり、各々『自分中心の価値観』を保有していると、認めた上で、相克を乗り越える方法をお互いに考えるしかないのではないでしょうか。

『日本人のあるべき姿』は、『一様な姿』ではなく、『多様性を認める姿』であると思います。幼児からの『教育システム』も含めて、必ずしもそうなっていないような気がします。未だに『一様な姿(型にはめる教育)』が望ましいと考えておられる方が多いように感じます。

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