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2015年2月22日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『絶対と相対』(1)

ウンベルト・エーコのエッセイ集『Inventing the enemy(敵を創りだす)』の二つ目の話題は『Absolute and Relative(絶対と相対)』です。

『梅爺閑話』をお読みいただいている方から、『次から次へと、よく話題が尽きませんね』と言われることがあります。良くとれば『好奇心旺盛』で、悪くとれば『野次馬ぶりが目に余る』というご指摘です。しかし『梅爺さんは博識ですね』と言われることには抵抗があります。梅爺は博識になりたいと思ったことも、自分が博識であると感じたこともありません。博識は、多くのことを『知っている』ことを意味しますが、梅爺は『知らない』からこそ、野次馬根性が旺盛なのです。

もっと正確に言えば、梅爺は『正しい知識を得る』ことには限界があると考えています。『物質世界』の摂理に関する議論や、数学の論理の世界などには、『正しい知識(法則など)』は存在し、自分でそれを見つける能力をもたない梅爺は、本やインターネットや他人(多くの場合専門の学者)から、教えてもらって、『知識』を取得します。こうして得た『知識』を『梅爺閑話』で紹介することもありますが、少々恥ずかしさを感じています。本来既に存在していた事実で、今まで自分が知らなかったに過ぎません。梅爺にとっては新しい事態ですが、『私はこんなことを知っている』とことさら言いふらすことには、あまり意味がないからです。

しかし、人間の『精神世界』が絡む、行為や事象には、『個性的な価値観』が付きまといますから、普遍的に『正しい』と言えることはほとんどありません。多くの人は『自分が正しいと信じたこと』が『普遍的に正しい』と勝手に勘違いして、人間関係やコミュニティ同士の関係に、齟齬(そご)が生じます。

身の周りの事象のほとんどは、普遍的な『真偽』の判定はできないと、梅爺は承知していますが、それでもそれを放置しておくことは、ストレスになるために、『他人はともあれ、自分はどう考えるか』だけは、明らかにしておきたいと、なけなしの『理性』を総動員して『因果関係』を『想定』しようとします。梅爺にとっては、『この自分なりの因果関係を想定する(考える)プロセス』が愉しみであり、興味の対象なのです。梅爺にとっては『知る』ことより『自分で考えるプロセス』が重要なのです。

『梅爺閑話』の話題が多岐にわたるとすれば、梅爺の身の周りに『自分なりの因果関係を想定したくなる』事象が沢山あるからにほかなりません。『梅爺閑話』では、『自分なりの想定』を臆面もなく披露しているだけですから、『披露した内容が正しい』などとは少しも考えていません。『私はこの爺さんの様には考えない』という方が沢山おられて当然です。

梅爺のような人間にとって、同じように『自分なりの因果関係を想定して披露する他人』は尊敬の対象になります。『なるほど、そんなことまで考える対象にしたのですか、そしてそんな風に考えたのですか』と大変参考になるからです。

梅爺とは能力のレベルも、表現のレベルも比較にはならない高さのイタリアの作家『ウンベルト・エーコ』ですが、野次馬である本質には共感します。

今回は、3000年以上哲学者が問い続けてきた『絶対と相対』が思考対象です。こういう問題にまったく興味のない方とは違って、梅爺は『待ってました』とばかりに飛びつきました。

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