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2015年2月24日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『絶対と相対』(3)

私たちは、日常あまり深く考えずに『絶対』『相対』という言葉を多用しています。サッカーの日本代表チームが、ワールドカップやオリンピックへの出場権をかけて戦う試合の前に、中継放送するテレビ局は『絶対に負けられない試合がそこにはある』と視聴者を煽りたてます。

対戦相手国も同じく『絶対負けられない試合』と叫んでみても、勝敗はつくことになりますから、どちらかが『絶対負けられない試合』に『負ける』という論理矛盾が露呈することになります。

サッカーの話は、稚拙な論理の例として、テレビ局の品位の問題で済ますことができますが、『これは絶対に負けられない戦いである』と、為政者が国民を鼓舞して戦争へ駆り立てることになると、笑い話では済まされません。

梅爺も自分が確信していることには、会話の中で『絶対正しい』『絶対間違っている』などと、つい迂闊に発言してしまいますから、偉そうなことは言えません。『梅爺閑話』ではそのような過ちを犯さないように十分配慮しているつもりです。

英語圏の人達も、相手の主張に強く『同意』する時には『absolutely』と相槌を打ちます。日本語にすれば『全くおっしゃる通り』ですから、深く論理のことなどを考えずに『絶対(absolute)』が使われていることが分かります。

『ウンベルト・エーコ』のエッセイの中に、イタリアで、『ウォッカ』の宣伝に、『Absolute Vocdka』という表現が使われ、この『ウォッカ』が良く売れていると皮肉を込めた例が紹介されています。『絶対』という言葉は、心理的に『本物』という連想を人々に引き起こすからなのでしょう。

とにかく、日常、誰かが『絶対』という言葉を使ったら、『疑ってみる』必要がありそうです。

単に『強調』するだけならまだしも、心理的に他人を騙す手段としてこの言葉が使われないとは限らないからです。

『絶対』は、『決して移ろうことがないもの』『どういう視点で観ても価値が変らないもの』『それを越えるものがないもの』などと『精神世界』では定義が可能ですが、『物質世界』に『絶対なるもの』が本当に存在するかどうかは、簡単には証明ができません。

昨日も書いたように、『物質世界』を支配する『摂理の全貌』が『絶対』の定義に一番近いもののように思えますが、これも人間の眼に見えるものではありません。

『絶対』は、『無限』『永遠』『理想』『平和』などと同じく、人間の『精神世界』の中でのみ『想定』可能な『抽象概念』ではないだろうかと、梅爺の理性は、梅爺に囁きかけます。もしそうなら、これらの言葉は人間だけに意味があるもので、『物質世界』では無縁なものということになります。

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