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2015年2月26日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『絶対と相対』(5)

人間の『精神世界』は、あらゆることを自由に『虚構』として想起でき、それに『名前』をつけ、時には、具象的な姿までも創出できます。

『フェニックス(不死鳥)』『ドラゴン(龍)』『お化け』『妖怪』『地獄』など、一度具象化されると、同じイメージを全員が共有することにもなります。

これが『桃太郎』や『かぐや姫』のように、『虚構』であるという共通認識にとどまれば問題がありませんが、だれかが、『本当に存在する』と主張し始めると、それを『信ずる』人が増え、『虚構』と『実態』の垣根がなくなって、『信ずる人』と『信じない人』の間で、不毛な論争が始まります。

『仏』という概念を具象化したものが『仏像』ですが、やがて『信ずる人達』は、『仏像』を『仏』と一体化して受け容れるようになります。

『十字架上のキリスト像』『聖母マリア像』も『神』と一体化して信仰の対象になります。

優れた仏像や、ミケランジェロの彫刻『ピエタ』には、信仰の無い人達の『精神世界』をも揺さぶる『何か』がありますから、人間には『感知できるもの』とそれによって想起される『情感』と関連付ける能力が秘められていることが分かります。日の出を観て感動したり、かすかな鳥のさえずりが聞こえる森の中、繰り返す波の音だけが聴こえる浜辺、虫の音がすだく秋の夜、などを『やすらぎ』と感じたりするのもその例です。本来このような情感は信仰とは関係がありません。

『感知したものを情感にかえる』能力を、何故人間が保有しているかは、『安泰を優先希求する本能』が関与していると梅爺は推測しています。

宗教は、この本能を逆にうまく利用してきたのではないかと、推測しています。『日の出』は『神』の化身として神々しいのではなく、『日の出』が想起する情感を後に神の属性と主張する人達が現れ、多くの人がそれを受け容れてきたのではないかという推測です。

『ウンベルト・エーコ』は、『絶対』と関連して、『真理』『無限』などの概念についても、人類がどのような議論を繰り返してきたのかを、豊富な引用で提示しています。

『科学』が提示する『摂理』以外のことは、『真偽』の判定基準がほとんど存在しないと梅爺は考えていますが、それを実証するような『表現事例』が沢山紹介されています。

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