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2015年2月25日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『絶対と相対』(4)

一神教文化の中では、『絶対なるもの』という言葉は『神』を想起させます。聖書の中で『神』は、『I am who I am.(我なるものが我なり)』と、誇らしげにのたまいます。

梅爺も『I am who I am.(私なるものだけが私と呼べるものだ)』と言えますが、『神』の発言は重みが違います。『唯一無二』という意味が強調されるからです。

古代の人類は、『身の回りの摩訶不思議な目に見えない力』の正体を『神』と考えましたから、多種多様な『神々』が出現しました。

しかし、歴史的に異民族に虐げられていたユダヤ民族が、逆境で民族のアイデンテティを確認し合うために『自分たちだけを守ってくれる一つの神』という概念を考え出したのが一神教の始まりではないかと梅爺は推測しています。異民族が信奉する『神々』は、邪教の『神々』で、本物の『神』は自分たちだけのものだという優越感をそそる主張です。『神国日本は、いざという時神風が助けてくれる』というような発想と似ています。

この一神教の考え方が、その後『キリスト教』『イスラーム』にも継承され、宗教とは別に『精神世界』の論理思考で考え出された『絶対』『全知全能』『真理』『愛』『善』『無限』『贖罪』などという抽象概念を、『神』はブラックホールのように、全て呑みこみ(実際は人間が具体的に定義できないものを全て『神』の属性に委ねた)、古代人が想定した『神々』とは似ても似つかぬものに変貌しました。

この新しい『神』ほど、その後の人類の精神文化に大きな影響を与えたものはありません。

梅爺は、畏れ多くも『神』は、上記のようなプロセスで人類が考え出した『抽象概念』の傑作のひとつと推測しています。勿論、この『神』の概念のお陰で多くの信仰者が『心の安らぎ』を得てきましたから、無意味な抽象概念ではありませんが、『聖戦による異教徒の抹殺』などという負の側面も創り出してきたことも、忘れてはいけません。

梅爺のように、『神』は人間が考え出した概念で、人間が存在しない世界には『神』も存在しないと考える人は少なく、多くの方は、『神』の存在を前提に、全ての事を考えようとされます。これらの方々にとっては、『神』の存在は、議論の余地のない確信ですので、『神』が存在する以上『絶対』があるのは当然という主張になります。

『ウンベルト・エーコ』も、著名な聖職者が、『神を相対視するのはまちがい。神は絶対であり真理である』と主張していることを紹介しています。

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