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2015年2月28日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『絶対と相対』(7)

人間の素晴らしい所は、『精神世界』を表現する手段として、高度で論理的な『言語』を利用する能力を保有していることです。生物として、より原始的な表現としては『しぐさ』『顔の表情』もあり、逆に『言語』だけでは伝えきれないものを表現するために、『音楽』『絵画』などの芸術的な表現も利用します。

このような表現手段は、お互いに『考えていること』『感じていること』を確認することが、群をなしていきていく上で必要であったからです。裏を返すと、人間の『精神世界』は『個性的』で、『考えていること』『感じていること』が、同じであるとは限らないからこそ、このような多彩な表現手段を必要としたとも言えます。もし、『精神世界』が個性的ではなく、一様なら、『言語』などは要りません。

何故遺伝子継承で命をつないでいく生物の『個』が『個性的』であるのかは、生殖のしくみとしてそのような方式をを進化の過程で偶然獲得したからで、『個性的』である方が『種』としての生き残りの確率が高いからです。つまり、ある環境に適応できる『個性』をもった『個』だけが、生き残るということで、『個性』がないと『種』は一気に絶滅しやすくなります。

私たちは、『個性的』であることを宿命として生まれてきた存在であることを知り、それに対応する能力を持つことが重要です。厳密に言えば、他人は自分と同じようには『考えていない』『感じていない』と相互に認め合うことが、健全な人間関係を築く基盤になります。『私は正しい、あなたは間違い』とだけ言い張る個人もコミュニティ(社会、国家)も、『他』と健全な関係は築けません。

『精神世界』を表現するために、人間は多くの『抽象概念』を『言葉』として創出してきました。『善悪』『美醜』『喜怒哀楽』などが代表的なものですが、判断に『情感』が絡むものは、『普遍的な判定尺度』が無いことが特徴です。つまり『相対的な価値判断しかできない』ということを意味しています。

何となくそれを感じた人類は、『絶対、相対』という『抽象概念』でそのことを表現しようとしたのではないでしょうか。『絶対』は論理的にだけ想定できる状態で、現実には全て『相対』的な判定尺度の対象になるものしか存在しないのかもしれません。

私たちは、『美味しい』『楽しい』『感動した』『愛している』とお互いに『言葉』に出して、同じ『情感』を共有していると考えようとしますが、厳密には『感動』も『愛』も、内容や程度は同じではあるとは限りません。共有していると錯覚することが『絆』確認のために必要ですが、時に『愛』の認識が異なっていることが露呈して人間関係が破たんしたりします。

『普遍的な判定基準』がなくては、人間社会は混乱しますので、『憲法』『法』『倫理』などの約束事が決められ運用されます。人間同士が決めて容認する約束事ですから、これも『普遍的な判定基準』とは言えません。

人間は『個性的』であり、各々『自分中心の価値観』を保有していると、認めた上で、相克を乗り越える方法をお互いに考えるしかないのではないでしょうか。

『日本人のあるべき姿』は、『一様な姿』ではなく、『多様性を認める姿』であると思います。幼児からの『教育システム』も含めて、必ずしもそうなっていないような気がします。未だに『一様な姿(型にはめる教育)』が望ましいと考えておられる方が多いように感じます。

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2015年2月27日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『絶対と相対』(6)

『絶対』に類似した抽象概念に『真実』があり、『ウンベルト・エーコ』は『真実』についても述べています。

最近日本では、『課題』と言う意味で『命題』という表現が使われますが、本来『命題』は、論理的に真偽検証の対象となる文章表現の内容のことです。

『ウンベルト・エーコ』は以下の『命題』を真偽検証のための例文として挙げています。皆さまも『頭の体操』として『真偽』を判定してみてください。

(1)私はおなかが痛い。
(2)昨夜夢にマザー・テレサが現れた。
(3)明日はきっと雨だろう。
(4)世界は2536年に終わりを迎える。
(5)死後の霊は存在する。
(6)三角形の内角の総和は180度である。
(7)水は100度(C)で沸騰する。
(8)リンゴは被子植物である。
(9)ナポレオンは1821年5月5日に死んだ。
(10)太陽の軌道(東から西へ)を参照しながら進んで、航海者は海岸(陸地)へ到達した。
(11)キリストは神の子である。
(12)聖書の正しい解釈は教会が行う。
(13)胎児は既に人間であり精神を持つ。

梅爺流に『物質世界』の『摂理(科学法則など)』に関連するもののみ『真』と言えるとすれば、(6)(7)(8)が対象になりますが、上記の表現だけでは『真』とは言い切れません。(6)はユークリッド幾何学の範囲でのみ『真』であり、(7)は気圧の条件によっては『真』とはならず、(8)は人間が決めた植物学の約束事の区分に該当しているだけですから『真』とは言い切れません。

その他の『命題』は、『精神世界』が創り出す『虚構』『想定』表現が絡んでいたり、確認の手段によっては異なった結果が得られるかもしれない事象ですから、到底論理的に『真』とは言えません。

このように考えると、私たちが日常何気なく交わしている『会話』の大半は、『真』とは程遠いものであることが分かります。

しかし、発言している本人は、『正しい』と『信じて』いたり、相手の発言を『間違い』と『感じ』たりして、大真面目に論争しているつもりでいるわけですから、滑稽ということになります。

勿論、日常生活のすべてで、このような厳密性を追求していては、とてもやっていけませんが、発言内容は脆弱であることを知っておく必要があります。

特に、政治リーダーなどの発言は、慎重にチェックする必要があります。『誰もが幸せに暮らせる社会』『格差のない社会』などと言われても、そのような『社会』はとても想像できませんし、『テロリストに正義の鉄槌を下す』などと言う表現も、テロリストと最後まで戦うぞという意志は分かりますが、自分の行為を『正義』と美化するのは抵抗を感じます。

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2015年2月26日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『絶対と相対』(5)

人間の『精神世界』は、あらゆることを自由に『虚構』として想起でき、それに『名前』をつけ、時には、具象的な姿までも創出できます。

『フェニックス(不死鳥)』『ドラゴン(龍)』『お化け』『妖怪』『地獄』など、一度具象化されると、同じイメージを全員が共有することにもなります。

これが『桃太郎』や『かぐや姫』のように、『虚構』であるという共通認識にとどまれば問題がありませんが、だれかが、『本当に存在する』と主張し始めると、それを『信ずる』人が増え、『虚構』と『実態』の垣根がなくなって、『信ずる人』と『信じない人』の間で、不毛な論争が始まります。

『仏』という概念を具象化したものが『仏像』ですが、やがて『信ずる人達』は、『仏像』を『仏』と一体化して受け容れるようになります。

『十字架上のキリスト像』『聖母マリア像』も『神』と一体化して信仰の対象になります。

優れた仏像や、ミケランジェロの彫刻『ピエタ』には、信仰の無い人達の『精神世界』をも揺さぶる『何か』がありますから、人間には『感知できるもの』とそれによって想起される『情感』と関連付ける能力が秘められていることが分かります。日の出を観て感動したり、かすかな鳥のさえずりが聞こえる森の中、繰り返す波の音だけが聴こえる浜辺、虫の音がすだく秋の夜、などを『やすらぎ』と感じたりするのもその例です。本来このような情感は信仰とは関係がありません。

『感知したものを情感にかえる』能力を、何故人間が保有しているかは、『安泰を優先希求する本能』が関与していると梅爺は推測しています。

宗教は、この本能を逆にうまく利用してきたのではないかと、推測しています。『日の出』は『神』の化身として神々しいのではなく、『日の出』が想起する情感を後に神の属性と主張する人達が現れ、多くの人がそれを受け容れてきたのではないかという推測です。

『ウンベルト・エーコ』は、『絶対』と関連して、『真理』『無限』などの概念についても、人類がどのような議論を繰り返してきたのかを、豊富な引用で提示しています。

『科学』が提示する『摂理』以外のことは、『真偽』の判定基準がほとんど存在しないと梅爺は考えていますが、それを実証するような『表現事例』が沢山紹介されています。

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2015年2月25日 (水)

ウンベルト・エーコのエッセイ『絶対と相対』(4)

一神教文化の中では、『絶対なるもの』という言葉は『神』を想起させます。聖書の中で『神』は、『I am who I am.(我なるものが我なり)』と、誇らしげにのたまいます。

梅爺も『I am who I am.(私なるものだけが私と呼べるものだ)』と言えますが、『神』の発言は重みが違います。『唯一無二』という意味が強調されるからです。

古代の人類は、『身の回りの摩訶不思議な目に見えない力』の正体を『神』と考えましたから、多種多様な『神々』が出現しました。

しかし、歴史的に異民族に虐げられていたユダヤ民族が、逆境で民族のアイデンテティを確認し合うために『自分たちだけを守ってくれる一つの神』という概念を考え出したのが一神教の始まりではないかと梅爺は推測しています。異民族が信奉する『神々』は、邪教の『神々』で、本物の『神』は自分たちだけのものだという優越感をそそる主張です。『神国日本は、いざという時神風が助けてくれる』というような発想と似ています。

この一神教の考え方が、その後『キリスト教』『イスラーム』にも継承され、宗教とは別に『精神世界』の論理思考で考え出された『絶対』『全知全能』『真理』『愛』『善』『無限』『贖罪』などという抽象概念を、『神』はブラックホールのように、全て呑みこみ(実際は人間が具体的に定義できないものを全て『神』の属性に委ねた)、古代人が想定した『神々』とは似ても似つかぬものに変貌しました。

この新しい『神』ほど、その後の人類の精神文化に大きな影響を与えたものはありません。

梅爺は、畏れ多くも『神』は、上記のようなプロセスで人類が考え出した『抽象概念』の傑作のひとつと推測しています。勿論、この『神』の概念のお陰で多くの信仰者が『心の安らぎ』を得てきましたから、無意味な抽象概念ではありませんが、『聖戦による異教徒の抹殺』などという負の側面も創り出してきたことも、忘れてはいけません。

梅爺のように、『神』は人間が考え出した概念で、人間が存在しない世界には『神』も存在しないと考える人は少なく、多くの方は、『神』の存在を前提に、全ての事を考えようとされます。これらの方々にとっては、『神』の存在は、議論の余地のない確信ですので、『神』が存在する以上『絶対』があるのは当然という主張になります。

『ウンベルト・エーコ』も、著名な聖職者が、『神を相対視するのはまちがい。神は絶対であり真理である』と主張していることを紹介しています。

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2015年2月24日 (火)

ウンベルト・エーコのエッセイ『絶対と相対』(3)

私たちは、日常あまり深く考えずに『絶対』『相対』という言葉を多用しています。サッカーの日本代表チームが、ワールドカップやオリンピックへの出場権をかけて戦う試合の前に、中継放送するテレビ局は『絶対に負けられない試合がそこにはある』と視聴者を煽りたてます。

対戦相手国も同じく『絶対負けられない試合』と叫んでみても、勝敗はつくことになりますから、どちらかが『絶対負けられない試合』に『負ける』という論理矛盾が露呈することになります。

サッカーの話は、稚拙な論理の例として、テレビ局の品位の問題で済ますことができますが、『これは絶対に負けられない戦いである』と、為政者が国民を鼓舞して戦争へ駆り立てることになると、笑い話では済まされません。

梅爺も自分が確信していることには、会話の中で『絶対正しい』『絶対間違っている』などと、つい迂闊に発言してしまいますから、偉そうなことは言えません。『梅爺閑話』ではそのような過ちを犯さないように十分配慮しているつもりです。

英語圏の人達も、相手の主張に強く『同意』する時には『absolutely』と相槌を打ちます。日本語にすれば『全くおっしゃる通り』ですから、深く論理のことなどを考えずに『絶対(absolute)』が使われていることが分かります。

『ウンベルト・エーコ』のエッセイの中に、イタリアで、『ウォッカ』の宣伝に、『Absolute Vocdka』という表現が使われ、この『ウォッカ』が良く売れていると皮肉を込めた例が紹介されています。『絶対』という言葉は、心理的に『本物』という連想を人々に引き起こすからなのでしょう。

とにかく、日常、誰かが『絶対』という言葉を使ったら、『疑ってみる』必要がありそうです。

単に『強調』するだけならまだしも、心理的に他人を騙す手段としてこの言葉が使われないとは限らないからです。

『絶対』は、『決して移ろうことがないもの』『どういう視点で観ても価値が変らないもの』『それを越えるものがないもの』などと『精神世界』では定義が可能ですが、『物質世界』に『絶対なるもの』が本当に存在するかどうかは、簡単には証明ができません。

昨日も書いたように、『物質世界』を支配する『摂理の全貌』が『絶対』の定義に一番近いもののように思えますが、これも人間の眼に見えるものではありません。

『絶対』は、『無限』『永遠』『理想』『平和』などと同じく、人間の『精神世界』の中でのみ『想定』可能な『抽象概念』ではないだろうかと、梅爺の理性は、梅爺に囁きかけます。もしそうなら、これらの言葉は人間だけに意味があるもので、『物質世界』では無縁なものということになります。

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2015年2月23日 (月)

ウンベルト・エーコにエッセイ『絶対と相対』(2)

『ウンベルト・エーコ』はこのエッセイの中で、古代から現代にいたるまで、『絶対と相対』に関する議論がどのようになされてきたか、豊富な引用で、読者が考えるヒントを提示しています。

聖職者や神学者は、『絶対なるものとして神の存在を肯定する』という立場ですから、『神』が存在する以上『絶対』も存在するという主張になります。

一方、哲学者や論理学者の一部は、『絶対』や『相対』は、人間が論理思考で考え出した『抽象概念』であるという立場ですから、『絶対』は論理的な仮想存在であって、実態としては存在しないという主張になります。

『ウンベルト・エーコ』は、この二つの主張を公平に紹介し、自らがどちらに加担するかの直接的な表明は避けています。梅爺のような凡庸な読者は、『それで、あなたはどちらを支持するのですか』と性急に問いただしたくなりますが、『ウンベルト・エーコ』としては、この議論は、どちらも証明できない仮定の上に成り立っていますから『水掛け論』であることが分かっていて、例え心情的にどちらかを重く観ることがあっても、『個人的な立場の表明』は、あまり意味のないことだと考えた上での賢い対応なのでしょう。

梅爺は、自分のブログに何回も書いてきたように、『絶対や神は、人間が考え出した抽象概念で、精神世界にのみ論理的に存在する』という後者の立場を個人的に支持しています。こう考えた方が、身の周りの色々な事象を矛盾なく理解できると感じているからです。

しかし、この梅爺の考え方にも問題があります。それは『物質世界』の変容を支配している『摂理』をどのように受け止めるかという問題です。

『摂理』は、目に見える実態ではありませんが、明らかにそれに従って全ての変容が起きていることから存在は間接的、論理的に推測できます。『摂理』の一部は人間が『発見』したものですが、人間がいない時代にも存在していたことになりますから、人間の『精神世界』が創りだした抽象概念ではないことが分かります。

『摂理の全貌』はまだ見つかっていませんが、それこそが『真理』と呼べるもので、『絶対』という表現がふさわしいもののように見えます。

『摂理の全貌』が存在するとすれば、その中に『何故摂理が存在するか』を説明する要因も含まれていなければなりません。そうしないと、『因果関係』が『堂々巡り』になり、『摂理の全貌』も『絶対』とは言えなくなるからです。

その『摂理の全貌』こそが『神』ではないかという意見に、梅爺は異論がありません。しかし、この場合の『神』は、冷厳な『摂理』に過ぎず、『人間と姿かたちが似ている』ことも『人間を特別に愛してくれる』こともありません。人間の『願い』や『祈り』とも無関係な存在になります。これを『神』と呼ぶことは、宗教関係者自身がむしろ反対するのではないでしょうか。

人間が『精神世界』で考え出した『絶対』という抽象概念に、最も近いものがあるとすれば、それは『摂理の全貌』であろうという、梅爺の論理的な推定になります。いうまでもなく『摂理の全貌』の存在そのものが重要であって、それが『絶対』に近い属性を有していることは、副次的なことです。

『絶対』という抽象概念がなくても、『摂理の全貌』は存在しうると考えれば良いという話になります。

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2015年2月22日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『絶対と相対』(1)

ウンベルト・エーコのエッセイ集『Inventing the enemy(敵を創りだす)』の二つ目の話題は『Absolute and Relative(絶対と相対)』です。

『梅爺閑話』をお読みいただいている方から、『次から次へと、よく話題が尽きませんね』と言われることがあります。良くとれば『好奇心旺盛』で、悪くとれば『野次馬ぶりが目に余る』というご指摘です。しかし『梅爺さんは博識ですね』と言われることには抵抗があります。梅爺は博識になりたいと思ったことも、自分が博識であると感じたこともありません。博識は、多くのことを『知っている』ことを意味しますが、梅爺は『知らない』からこそ、野次馬根性が旺盛なのです。

もっと正確に言えば、梅爺は『正しい知識を得る』ことには限界があると考えています。『物質世界』の摂理に関する議論や、数学の論理の世界などには、『正しい知識(法則など)』は存在し、自分でそれを見つける能力をもたない梅爺は、本やインターネットや他人(多くの場合専門の学者)から、教えてもらって、『知識』を取得します。こうして得た『知識』を『梅爺閑話』で紹介することもありますが、少々恥ずかしさを感じています。本来既に存在していた事実で、今まで自分が知らなかったに過ぎません。梅爺にとっては新しい事態ですが、『私はこんなことを知っている』とことさら言いふらすことには、あまり意味がないからです。

しかし、人間の『精神世界』が絡む、行為や事象には、『個性的な価値観』が付きまといますから、普遍的に『正しい』と言えることはほとんどありません。多くの人は『自分が正しいと信じたこと』が『普遍的に正しい』と勝手に勘違いして、人間関係やコミュニティ同士の関係に、齟齬(そご)が生じます。

身の周りの事象のほとんどは、普遍的な『真偽』の判定はできないと、梅爺は承知していますが、それでもそれを放置しておくことは、ストレスになるために、『他人はともあれ、自分はどう考えるか』だけは、明らかにしておきたいと、なけなしの『理性』を総動員して『因果関係』を『想定』しようとします。梅爺にとっては、『この自分なりの因果関係を想定する(考える)プロセス』が愉しみであり、興味の対象なのです。梅爺にとっては『知る』ことより『自分で考えるプロセス』が重要なのです。

『梅爺閑話』の話題が多岐にわたるとすれば、梅爺の身の周りに『自分なりの因果関係を想定したくなる』事象が沢山あるからにほかなりません。『梅爺閑話』では、『自分なりの想定』を臆面もなく披露しているだけですから、『披露した内容が正しい』などとは少しも考えていません。『私はこの爺さんの様には考えない』という方が沢山おられて当然です。

梅爺のような人間にとって、同じように『自分なりの因果関係を想定して披露する他人』は尊敬の対象になります。『なるほど、そんなことまで考える対象にしたのですか、そしてそんな風に考えたのですか』と大変参考になるからです。

梅爺とは能力のレベルも、表現のレベルも比較にはならない高さのイタリアの作家『ウンベルト・エーコ』ですが、野次馬である本質には共感します。

今回は、3000年以上哲学者が問い続けてきた『絶対と相対』が思考対象です。こういう問題にまったく興味のない方とは違って、梅爺は『待ってました』とばかりに飛びつきました。

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2015年2月21日 (土)

脳の『閃き』とは何だろう?(6)

『情感』の多くは、私たちが意識して得られるものではなく、突如襲ってきます。『感動する』などがその最たるものですが、『嬉しい』『悲しい』なども皆そうです。後で、何故『嬉しく』『悲しく』感じたのかを、『理』で推論することはできますが、最初の情感は、『理』によってもたらされたものではありません。 

感覚器官で取得した『情報』は、先ず脳の『扁桃体』で、最初の処理がなされると考えられています。この最初の処理(判断)は、『自分にとってその状況が都合が良いか、悪いか』を即座に判断するもの(直感)に違いありません。生物進化の過程で、生き残りを優先するために必要な機能として、獲得した機能ですから、この直感的な判断機能は、多くの生物に共通しています。人間の脳では、この処理(判断)は『無意識』に行われます。そして、この結果各種のホルモンが分泌され、それに応じて私たちは『情感』を体験します。突然襲ってくる『情感』の背後で、このようなプロセスが繰り広げられていることになります。 

『精神世界』で重要な意味を持つ『情感』を、『物質世界』のプロセスとして観れば上記のような説明になります。味気ない表現ですが、脳の中で、エネルギーを消費しながら行われる物理反応、化学反応の集合体ですから、『物質世界』の『摂理』そのものを利用しているだけと言えます。 

『精神世界といえども物質世界が無いと成り立たない。影響も無視できない』ということが分かりますが、驚くことにこの『精神世界』では、『物質世界』の『摂理』には存在しない別の『価値観』を人間は創り出し、共有しています。 

『善悪』『美醜』などの『価値観』がその代表です。『物質世界』の『摂理』では、『善悪』『美醜』という『価値観』は意味を持ちません。しかし、私たちは『物質世界』の事象も『精神世界』の『価値観』で論じようとする習性を継承してきましたので、時々トンチンカンなことを言いだすことがあり、天災や病気を『神の怒り』『悪霊の祟り』などと主張する人が出現します。 

少し話が逸れました。『閃き』の正体は、現状では十分解明されていないために『神秘』に見えますが、基本には、必ずしも『神秘』とは言えない『物質世界』の事象が必ず介入していると梅爺は想像していることを申し上げたかっただけです。 

『閃き』は、上記の『情感』だけではなく、『理性』による思考が関与しているものと推察できます。『理性』は更に、『脳神経細胞ネットワーク』のダイナミックな動きが関与する『推論』『記憶』などとも深い関係を持ちますので、『閃き』は、脳全体が創り出す総合的な事象の顕著な側面であり、単純な一つの事象では説明できないものであることも、やがて詳しく解明されるのではないでしょうか。

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2015年2月20日 (金)

脳の『閃き』とは何だろう?(5)

『閃き』を誘発する最初の要因(トリガー)は、感覚器官が取得した外部情報であることが多いと推察できます。

映画やテレビを観て、本や新聞を読んで、他人の話を聴いて、それまで自分の頭の中でが曖昧であった事柄の『因果関係』が見えてきて、『なんだ、そういうことか』と得心することが良くあります。一種の『閃き』です。脳の中では、『脳神経細胞ネットワーク』の新しい接続様式が出来上がったことに対応するのでしょう。この『因果関係』は『知識』として記憶され、その後、似たような外部の事象に接した時に、その『知識』が応用できるかどうかを判断するために利用されることがあります。この『知識』の応用は『知恵』ということになります。

一般に、多くの『知識』の保有者は、『知恵』をだす確率が高いといえますが、それよりも常に『脳神経細胞ネットワーク』をダイナミックに使う訓練をしている人が『知恵』を出す確率が高いのではないでしょうか。『知識』をいくら沢山貯め込んでも、利用しなければ『宝の持ち腐れ』です。『知識を貯め込む』ことは『記憶』であり、『知識を応用する(知恵)』ことは『思考』に相当します。

日本の教育の基本は、『思考』よりも『記憶』を優先してきたことに問題があると梅爺は感じています。その結果多くの人が『知る』ことには興味を示しますが、『考える』ことは面倒だと避けようとするようになってしまっています。世の中の複雑な事象に対応するには、自分で『考える』しかありませんから、『考える』ことを放棄してはやっていけません。

『考える』ことの訓練で効果的なのは、文章を『書く』ことです。『読む』は『知る』レベルで止まる可能性が高い行為です。梅爺は、ブログを書き始めて『考える』ことが増え、面倒というより愉しくなりました。

人間の脳の素晴らしい所は、外部からの刺激を遮断し、『思考』のトリガーを外部ではなく、内部で自ら発生できるように見えることです。『瞑想』などがこれにあたります。自らある『疑問』を想定し、その『疑問』を解くための『因果関係』を見出そうとします。『疑問』が『閃く』ことを誘発することになります。つまり、『疑問』を沢山思いつける人は、沢山『思考』できることになります。『信じる』ことでそれ以上の『思考』を放棄する方が、安易に『心の安らぎ』を得やすいとも言えますが、本当の『安らぎ(満足)』は、『疑う』こと(疑問を想定する)から始めて、自分なりの得心を『思考』で見いだすことではないかと梅爺は考えています。

大天才の『閃き』だけが、『閃き』ではなく、私たちは小さな『閃き』を繰り返しながら『生きて』います。『考える』ことも『閃く』ことも、生きていて初めて体験できることですから、これを自ら放棄するのはもったいない話です。

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2015年2月19日 (木)

脳の『閃き』とは何だろう?(4)

アインシュタインもモーツァルトも『天才』と呼ばれていますが、アインシュタインの『閃き』とモーツァルトの『閃き』は、脳の同じ機能に由来しているかどうか、現状では分かりません。多分同じ『カラクリ』ではないのでしょう。

アインシュタインは、脳の中の『仮想論理世界』で、『法則』を見出す過程で『閃いた』ことになりますので、『理』が主役であることは間違いありませんが、いくつかの発想(仮説)は『なんとなくしっくりこない』と『感じて』排除したとすれば、『情』が全く関与していないとは言えません。

一方モーツァルトは、『作曲』の領域で『閃いた』ことになりますので、こちらは『情』が主役であることは間違いありませんが、『作曲』は多くの『しきたり』『常識』が関与しますから、『理』の関与なしには成り立ちません。そもそも、時間的な音の経過を、楽譜(コード)として記述するなどという行為は、まさしく『理』の行為です。

モーツァルトの場合は、楽譜として表現する前に、頭の中に『新しい楽曲の全貌』が構成されていたように見えるのが『天才』と呼ばれる所以(ゆえん)です。作曲の時の直筆の楽譜をみても、ほとんど修正、添削の跡がないことからそのことが分かります。凡人には『神業』にしか見えません。

『外部情報』の刺激が『閃き』のもとになる場合と、『外部情報』がむしろ『閃き』の阻害要因になる場合とが両方あるように思います。四六時中思いつめていると、突然『閃く』こともありますが、逆に、脳をリラックスさせた時や、別のことをしている時に『閃く』こともあります。

『精神世界』で『心の安らぎ』を得る方法として『瞑想』は重要な手段ですが、『瞑想』と『閃き』の関係も判然とはしていません。

こう考えてくると、脳の多様な働きを、総称して『閃き』と呼んでいるような気がしてきます。

『物質世界』の『摂理』と関連付けて『閃き』を究明しようとすれば、先ず『閃き』を厳密に定義しなければなりませんが、これはなかなか大変です。

『大天才』ではないにしろ、私たちは日常それなりの『閃き』を利用して生きています。『閃き』は『精神世界』の重要な要素で、梅爺も『閃き』なしには、『梅爺閑話』は書けません。『閃き』は『生きている証左』でもあります。

それほど、日常『閃き』の恩恵を受けていながら、『閃き』の実態は、分かっていないことに戸惑います。哲学者が『自分とは何か』と問いたくなる気持ちがわかるような気がします。

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2015年2月18日 (水)

脳の『閃き』とは何だろう?(3)

アメリカの女性作家、エリザベス・ギルバートの、主張内容は以下です。

ルネッサンス以前のヨーロッパの人たちは、ギリシャ、ローマ帝国の時代から、『人間が才能を発揮するのは、才能を司る精霊、妖精のようなものがその人にとりついているため』と考えていた。つまり『閃かない』のは、自分のせいではなく、精霊、妖精が離れてしまったためと考えていた。私(エリザベス・ギルバート)もそう考えて気が楽になった。

確かにこのように考えれば、『才能不足』で自分を責める必要はありませんから、忍耐強く精霊や妖精が再び訪れてくれるのを待てばよいことになります。

古代の人たちが、とても人間業(わざ)とは思えないパフォーマンスをする人を見て、『神がとりついた』と考えたのはもっともなことです。不思議なものは全て『神』と関連付けたに違いないからです。呪術師や巫女(みこ)が、一心不乱に踊ったり、祈祷したりしてトランス(神がかり)状態になり、神や霊のお告げを口にするという現象は、今でも世界中に残っています。

北アフリカのイスラーム信仰のムーア人が、イベリア半島をほぼ征圧し、『神がかりなパフォーマンス』に対して『アッラー(神)』と叫んだ風習が、『オーレ』になまって、現在でもスペインで継承されていると、エリザベス・ギルバートは説明していました。確かに、フラメンコ、闘牛、サッカー等で素晴らしいパフォーマンスがあると、スペインの人たちは『オーレ』と叫びます。

『才能の閃き』を、『神』『精霊』『妖精』のせいにすれば、悩みは軽減しますが、これは『神仏を信仰して心の安らぎを得る』と同じことで、『心の安らぎ』を得ることには、秀逸な方法ですが、科学的な根拠は希薄になります。

エリザベス・ギルバートも、本心『才能の閃き』は、『神』『精霊』『妖精』によるものとは考えていないのでしょう。ただ、恐怖や苦悩に苛まれるよりは、『妖精さんがただいまご不在です』といって、自分を笑い飛ばす方が『健全な対応』でしょうとユーモアで述べているのであろうと梅爺は思いました。『精神世界』では『気の持ちよう』が重要な効果を発揮します。徳川家康の『不自由を常と思えば不足なし』などという遺訓はその典型です。

エリザベス・ギルバートは、『脳の閃き』を、『精神世界』の事象として話しているわけですから、『神』『精霊』『妖精』の登場に目くじらをたてる必要はありませんが、この事象を『物質世界』の『摂理』と関連付けて究明する時には、『神』『精霊』『妖精』は役に立ちません。

私たちは、知らず知らずのうちに『精神世界』の話と『物質世界』の話とを混同してしまいそうになりますが、現代人は、この弊害から逃れる努力を、そろそろ開始すべきではないかと梅爺は考えています。

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2015年2月17日 (火)

脳の『閃き』とは何だろう?(2)

『芸術家が思うように創作できなくなり苦悩する』という様子は、多くのドラマ、映画、小説などで描かれてきました。無精ひげを生やし、度の強い丸メガネをかけた小説家が、タバコをくわえ、頭をかきむしり、くしゃくしゃに丸めた書き損じの原稿用紙が沢山周囲に散らばっているというような光景が、ステレオタイプに登場します。 

芸術家にとっては、『創作』が生きることのすべてであり、これに行き詰まりや限界を感じた時の絶望は、想像できます。特に、一度華やかな成功を収め、名声を博した人が、前作に匹敵する、または超える作品を生みだせないと感じた時の絶望感は、なまじ成功の味を知っているだけに深刻なものになりがちです。 

精神を病んだり、酒やドラッグに身をゆだねて、終(つい)には、自らの命を絶つというような悲劇も多く報じられてきました。 

梅爺は、6年以上『梅爺閑話』を書き続けてきて、『ネタ切れ』で絶望に陥っていないのは、内容レベルが極めて低いか、能天気の性格であるか、どちらかなのでしょう。『梅爺閑話』は、文筆業ではない世界で生計を立てて人生を送ってきた一人の爺さん(現在は年金暮らし)の、老後の『問わず語り』のようなものですから、そもそも、成功や名声とは無縁で、深刻な事態にならないのは当然なことかもしれません。

NHK地上波E(教育)チャンネルで、水曜日の夜放映される『スーパー・プレゼンテーション』という番組で、米国の女性作家エリザベス・ギルバートが、創作能力枯渇の恐れにどのように対処するかをユーモアたっぷりにスピーチしていました。タイトルは『Your elusive creative genius(逃げて行ってしまいがちな創作才能)』でした。彼女の『Eat Pray Love(食べて、祈って、恋をして)』という著作が、女性たちにうけて世界的なベストセラーになっているということでした。

彼女は、『創作の閃き不足』を、自分のせいだけにしなければよいという、『発想の転換』を提唱していました。何らかの目に見えない外の力が作用していると考えれば良いという話ですが、本心でそう思っているというより、『気の持ち様でストレスを軽減できる』ということなのだろうと梅爺は想像しました。

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2015年2月16日 (月)

脳の『閃き』とは何だろう?(1)

脳が『閃(ひらめ)いて』、科学者は『自然の摂理』に関する大発見をし、芸術家は新しい『美』を創造し、スポーツ選手は見事なパフォーマンスを披露し、宗教家が『神』や『仏』のお告げを口にした、というような話を私たちは沢山耳にしてきました。 

『脳の閃き』は、特殊な人だけが持つ能力なのか、誰もがその能力は持っているものの、能力差があったり、『閃き』を認知する能力で劣っていたりして、凡人では発現する機会が少ないだけということなのでしょうか。 

科学者の『閃き』は、『理の閃き』であり、芸術家の『閃き』は『情の閃き』であるように見えますが、両者は基本的に同じ『脳』のはたらきによるものか、それとも全く異なったものなのでしょうか。 

そもそも、『閃き』は、意欲や努力と関係しているものなのでしょうか。

『閃き』は、人間の『精神世界』の事象であり、観方を変えれば『物質世界』に属する肉体的な『脳』で起きている事象とも言えます。

脳科学者や心理学者が、この『謎』を解明しようとしていますが、関連する表面的な事象の説明はともかくとして、本質的な『カラクリ』は説明しきれていません。『脳』は『宇宙』『生命』と並ぶ『謎』の宝庫です。

人間の『脳』の優れた能力の一つが『推論能力』ですが、これは『因果関係』を分からないままに放置しておくことを『不安』と感ずる本能が起点になっているのではないかと梅爺は考えています。当たっているかどうかは別としても、これも梅爺の『推論』です。『不安』は『安泰』を脅かすもので、『怖ろしい』『悲しい』『寂しい』等の情感は、全てストレスとなって『脳』に作用します。

生物としては『生き残り』の確率を高めることが最優先事項ですから、『安泰』を脅かす要因(ストレス)に対しては、無意識に、または意識的に懸命な防御策を講じようとします。その結果『逃げる』『戦う』『対抗策を打つ』などを選択し、対応を試みます。病気や怪我をある程度自ら治癒する能力を私たちの肉体は備えているのと同様に、脳もストレスに対してある程度の防御を自ら行おうとするのではないでしょうか。しかし、対応能力には限界があり、生命活動を維持できないほどのダメージを受けることもあります。

『精神世界』で崇高な意味を持つと私たちは考えている、『愛』『正義』『平和』『信仰』などの概念も、元をただせば、『安泰を希求する本能』に由来するものであろうというのが、梅爺の『推論』です。『楽しい』『美しい』などの概念は、『安泰』を強化するものであり、『苦しい』『悲しい』『醜い』などは『安泰』を脅かすものとなります。

広大、深遠に進化を遂げた『精神世界』は、『安泰を希求する本能』という単純な要因から派生したものではないかということを申し上げたいだけで、『精神世界』の価値を否定するつもりはありません。『物質世界』に属する肉体の生命活動と、『精神世界』は密接に結びついていて、『精神世界』が健全さを失うと、人は『生きる』ことに支障が生じます。『病は気から』『生きる意欲を失う』などの表現が、この重要な『関連』を示唆しています。

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2015年2月15日 (日)

ウンベルト・エーコのエッセイ『敵を創る』(4)

『人類』の祖先は、地球規模の気候変動で、樹上生活では食料の確保が困難になり、地上に降りて『二足歩行』を開始したと考えられています。このことで、獰猛な肉食獣の餌食になるリスクは増えました。しかし、手と、手の指が自由に使えるようになったことで、『道具』を創りだす可能性が増え、武器(こん棒、槍、弓、吹き矢など)や防具、身に纏う衣、履物(はきもの)も発明しました。

人間の脳が、何故進化したのかは、因果関係がはっきり分かっていませんが、『二足歩行』『指の利用』が関与しているという説が有力です。

『脳の進化』は、多様な『精神世界』を創りだし、『言語』を発達させ、やがて『宗教』『芸術』のもととなる抽象概念も見出しました。『群の生活様式高度化』『草食(木の実)から雑食(肉食)への移行』も進化と深く関係しています。『化粧をする』『装身具で飾る』など、人間だけの行為の本質も、実は重要な意味を秘めているのではないでしょうか。

『進化』を推進した一つの原動力が『安泰を希求する本能』であったというのが、梅爺の仮説です。『都合が悪いことを排除する』『都合が良い状態を推量し、それを実現しようとする』という両方があいまって、高度な進化が実現したと考えています。

『敵』は『自分に危害を及ぼす危険な人達』『自分の価値観と異なったことなった異質の人達』『自分の願望実現の障害になる人達』で、『強い相手』だけではなく、時には『弱い相手』も『敵』とみなします。

歴史的には、中世の『異端尋問』『魔女裁判』『らい病患者への差別』などがありますが、近世でも『ナチのユダヤ人迫害』があり、現代も、いわれのない『人種差別』が根強く残っています。

『自分に都合が良いことを最優先させる』という本能が背後にありますから、このような『差別』を根絶することは難しいことになりますが、唯一これを抑制する方法は『理性』を育むことです。

最も重要なことは、人間は、肉体的にも、『精神世界』の面でも、『個性』的であるという宿命を帯びている『生物』であることを『知る(教える)』ことです。更に、『精神世界』が創り出す価値観の大半には、絶対評価尺度がないということも『知る(教える)』べきです。この二つを『知れば』、『自分と同じように考えない、感じない相手は抹殺する』などという残虐な行為は減るはずです。

『宗教』『イデオロギー』は、良い面もありますが、『自分の価値観を絶対視する』という悪い面もあります。つまり、人間にとっては『信ずる』ことも必要ですが、同時に『疑ってみる』ことも同様に必要であるということになります。

人間は、そもそも一人一人が『異質』なのですから、その事実を許容した社会以外は、永続きできません。『一党独裁』『将軍様崇拝』の国家の永続には無理があります。

個性があるからこそ、『自己主張』はすべきですが、他人の主張も尊重すべきです。『寛容と忍耐』『妥協』は、『敗北』ではなく、人間社会では、重要な『知恵』なのです。

『ウンベルト・エーコ』の『敵を創る』を読んで、梅爺は色々考えをまとめることができました。

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2015年2月14日 (土)

ウンベルト・エーコのエッセイ『敵を創る』(3)

『ウンベルト・エーコ』は、博識の限りをつくして、歴史的事実、文献を沢山参照し、『人間および、人間社会は、必ず敵を見出そうとし、時には意図的に敵を創る』習性をもっていることを、示そうとしています。

この緻密で論理的な追求作業は、到底梅爺がまねできるものではありませんので、敬意を表しますが、残念なことに、『何故人間および人間社会がその様な習性を持つのか』については、言及がありません。

文学者は『文学』の領域だけで、哲学者が『哲学』の領域だけで、『考える』ことには限界があることを示しているように梅爺は感じます。現在人類が抱える『問題』の大半は、『人文科学』と『自然科学』の両面から『学際』的な追及をしないと、本質は見えてこないのでないでしょうか。

『人間および、人間社会は、必ず敵を見出そうとし、時には意図的に敵を創る』習性は、『生物進化論』『脳科学』を含めて考えてみると、新しい視点が見えてくるように思います。

いつもの論法で恐縮ですが、梅爺は『学際』的な追及を、『物質世界(摂理が支配し、虚構は存在しない世界)』と『精神世界(一部虚構の存在が可能な世界)』の関連を尺度として行うことにしています。

梅爺流に考えを進めると、以下のようになります。

1)生物は、『個』や『種』が生き残るために、『自分にとって都合のよいことを最優先に選択する本能』を、遺伝子情報として継承してきている。人間も例外ではない。これは『安泰を希求する本能』と言いかえることもできる。
(2)生物は、周囲に『自分にとって都合が悪いことや事態(気候、障害、敵)』が、必ず存在するという環境で生き延びてきた。したがって、これを監視し、察知する能力と、それに対応する能力も高めてきた。
(3)人間の場合、『安泰を希求する本能』は、脳の進化とともに、複雑、多様な世界を生みだすことになった。『言語』『芸術』『宗教』『法』『倫理』『科学』など、全ての根源は『安泰を希求する本能』であると考えると得心し易い。
(4)人間の『精神世界(脳)』は、『安泰』を脅かす要因(障害、敵)を感知し、または『推論』で想定すると、ストレスとしてそれを受け止め、危険を知らせるホルモンが脳内に分泌され、肉体的、精神的に対応をしようとする。『推論機能』が高度化したために、『障害や敵がいない状態』が、反って『不安』を生みだすことにもなる。ある程度のストレスがあるのが、常態であるため、ストレスがないことがストレスになるという、ややこしいことになっている。

一見無関係に見える人間の『好奇心』『優越意識』なども、元をただせば『安泰を希求する本能』に行き着くと梅爺は考えています。知らないことを放置しておくことは不安であり、自分の方が他人より優っていると考えて安堵できるからです。

こう考えれば、人間が『敵』の存在を利用して、自分の存在を確認しようとする習性や、『敵』を創りだしてまでも、仲間の結束を強固にしようとする習性の本質が見えてきます。

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2015年2月13日 (金)

ウンベルト・エーコのエッセイ『敵を創る』(2)

『人間社会』が、『敵を必ず見出し、時に必要なものとして敵を創りだす』習性を帯びていることは、『ウンベルト・エーコ』が提示する沢山の事例で分かります。

『平和が望ましく、戦争は良くない』と単純に思い込んでいる人達に、『人間は、そんなに単純ではありませんよ。あなた自身の中にも矛盾があるのですよ』と『ウンベルト・エーコ』は述べていることになります。

原始社会で、コミュニティの単位が『家族』『部族』程度と小さいときは、『敵』は外部に存在しますが、文明が進みコミュニティの単位が『国家』『帝国』『連邦』と大きくなると、社会の内部に、『異質な人達(敵)』を見出すことになります。

『人間は、自分の価値観で周囲を観る』習性がありますから、民族、宗教、言葉、風習などが自分と異なっている人達は『異質な人達』ととらえて、多くの場合、自分たちより劣っていると差別し、時に迫害したりします。

日本人は、初めて西欧の人種に接した時に、その異様な容貌に驚き、『南蛮人』と呼びました。明治維新で、アジアの中ではいち早く独立国家を形成し、資源や領土を求めてアジアに進出した時には、現地の人達を自分たちより『劣る人達』と勝手に思い込みました。現在でも、その名残が日本人の中に垣間見えます。

世界中のどの民族も、初めて『異民族』に接した時には、『臭い、醜い、知性で劣る』と評しています。北アフリカからスペインを侵略した、ムーア人のイスラム教徒は、スペインの白人キリスト教(カトリック)徒を『遅れた人達』とみなしています。確かに、建築技術、医療技術、科学知識など、圧倒的にイスラム教徒が進んでいました。

アメリカの白人は、建国以来、奴隷としてアフリカから連れて来られた人達およびその子孫を、『醜い、知性で劣る』と差別し、アメリカに戦争を仕掛けた日本人は、『ジャップ、黄色い猿』と蔑みました。アメリカ国内の白人社会にも『差別』はあり、多数派の『アングロ・サクソン』は、イタリア人を『イタ公』と蔑み、ユダヤ人は異教徒として嫌われる傾向があります。

国際サッカー協会が、『差別撲滅』をスローガンに掲げるのは、現在でも根強い『差別』が存在するからです。

『差別』は多くの場合『偏見』から生じます。根拠のない『差別』を無くそうとすれば、私たち一人一人が、『理性』で、『自分の考え方や立場は相対的なものであるかもしれない』と自らを疑ってみることが大切になります。

しかし、『精神世界』の奥底にある、『自分を最優先したい』と言う本能を、生物進化の後のプロセスで獲得した『理性』で、抑圧することはそう簡単ではありません。

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2015年2月12日 (木)

ウンベルト・エーコのエッセイ『敵を創る』(1)

イタリアの作家(大学教授、評論家)の『ウンベルト・エーコ』は、小説『薔薇の名前』を読んで以来梅爺のお気に入りです。 

彼のエッセイ集『Inventing the enemy(敵を創りだす)』(英語版ペーパーバック)を購入し、読みました。14編のエッセイが収められています。 

『ウンベルト・エーコ』自身は、『時に応じて書きためたもの(Occaisional Writings)』というタイトルを考えていた様ですが、これではインパクトがなくて注目が集まらず、本は売れないと出版社が考え、最初のエッセイとして収められている『Inventing the enemy』を本のタイトルとして採用したと『序』に書いてあります。『教養』や『芸術』も『商業主義』を無視できないのが、人間社会の特性です。 

『Occasional Writings』は、作家が自ら思いついた対象ではなく、周囲からの要請や、その時々遭遇した『世事』に触発されて書き始めたもので、作家にとっては、思いもかけない発見があったりして、それなりに意味があると『ウンベルト・エーコ』は書いています。『梅爺閑話』も、読んだ本、映画、テレビ番組などに触発されて、考えを書いている内に新しい発見をすることがありますので、この気持ちは分かります。 

この本の最初のエッセイは『Inventing the enemy(敵を創りだす)』で、確かにこれは一体何が言いたいのだろうと興味がわきます。 

『ウンベルト・エーコ』がニューヨークを訪ねた折に、乗ったタクシーの運転手(パキスタン人)から、『どこから来たのか?』と尋ねられ『イタリア』と答えると、『イタリアの敵は誰か?』と次に質問され、『ここ、数十年イタリアには敵がいない』と答えると運転手は怪訝な顔をしたというエピソードから、このエッセイは始まります。

タクシーを降りてから、『ウンベルト・エーコ』は、そっけない答をしてしまったことを反省し、『人間社会』にとって、『敵』とは何か、時に『敵』を必要として、それを創りだすのは何故かを徹底的に考えて、このエッセイを書きました。こういう『知的好奇心』から探索を開始するところが、梅爺に似ていて大好きです。勿論『ウンベルト・エーコ』の『教養』の度合いは、梅爺のはるか及ばないものですから、比較するのはおこがましい話ですが。

『ウンベルト・エーコ』は、『人間社会』が、自分たちと容姿、文化、言葉、宗教が異なる人達を、『異質』として差別し、時に『敵』とみなして蔑視したり迫害したりしてきた、歴史事例を、過去の事件や文献を、これでもかとばかり、提示します。全てごもっともなのですが、こういう西欧文化特有の『執拗さ』は、梅爺は少々辟易(へきえき)しないでもありません。

『敵』というと『戦争』を連想し、殺し合いの悲惨な状況を思い浮かべますが、『競争相手(ライバル)』と言えば、切磋琢磨してお互いに向上するという良い面があることも理解できます。

巨人軍の原監督は、チーム内に非情とも言える徹底した『競い合い』を求め、誰ひとり特別扱いすることなく、これがチームの強さの源泉になっています。チームが勝つことを最優先し、個々の選手の『自尊心』などは、時に優先度が低く扱われますから、選手のストレスは大変なものでしょう。意図的にチーム内に『敵を創る』ことが、チームが勝つために必要という論理が実践されていることが分かります。

『真珠湾攻撃』『9.11事件』で、アメリカ国民の『愛国心』に火がつき、現在の中国や韓国の政治首脳者が、国内政治に関する国民の不満を逸らすために、意図的に『反日』で日本を敵視しているように見えることから、『国家』にとっては、『敵』は意味のあるもので、時に意図的に『創り出す』必要があることも、なんとなく理解できます。

『平和』であって欲しいと言いながら、『敵』を必要とするという矛盾を『人間社会』は本質的に抱えていることになります。

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2015年2月11日 (水)

Self-preservation is the first law of nature.

英語の諺『Self-preservation is the first law of nature.』の話です。 

直訳すれば、『自己保存は自然の第一の法則である』ということですから、梅爺は百万の味方を得たように嬉しくなりました。 

『梅爺閑話』で、何度も何度も書いてきたことと、同じ内容をであると理解したからです。

くどいようですが、再度梅爺流に解説すると以下のようになります。 

『生物が基本的に共有している本能は、生物進化の過程で生き残りの確率をたかめるために獲得した自分にとって都合のよいことを最優先で選択する習性で、人間も例外ではない』 

梅爺はこれを『安泰を希求する本能』と呼んできました。人間は、『精神世界』という『脳』が創り出す広大で深遠な『仮想世界』を保有するまでに進化しましたので、原始的な『安泰を希求する本能』が残っていることを、見落としがちになりますが、この本能を根強く保有しているという前提で『精神世界』を眺めると、『なんだ、そういうことか』と多くのことが、霧が晴れるように見えてきます。どうして、今まで誰もそのことを教えてくれなかったのかと不思議にさえ思います。 

『安泰を希求する本能』は、『安泰を脅かす状況を忌避する』ことでもあり、人間は『安泰を脅かす要因』を常に監視していて、発見した時は『ストレス』として危険信号を『脳』は発信し(対応するホルモンを分泌し)、身体も、心も、自分で『ストレス』を解消するように反応します。体内に入った異物は、『免疫』で排除しようとしたり、どんな悲しみも、時とともにすこしづつ癒えていくのはこのためです。 

人間は、『群をつくって生きていく』ことを選択しましたので、『孤独』は最大の『ストレス』として感じます。更に『個人の安泰』と『群の安泰』が時に矛盾することに遭遇し、『理性』でこれを調整する能力も獲得しました。 

『道徳』『倫理』『法』などは、『個人の安泰』と『群の安泰』の矛盾を解消するための知恵として考え出されたものです。『利他の心』『博愛主義』などもこれに属します。 

『宗教』は、『心の安らぎ』や『御利益(ごりやく)』を得るために考え出された手段で、『芸術』も『仲間との絆を確認する手段』として考え出されたものと梅爺は推測しています。いずれも『安泰を希求する本能』が背後にあります。 

『煩悩』は、『自分の都合を最優先する』本能そのものであり、私たちは自分の中に『菩薩(善心)』と『悪魔(邪心)』が共存すると感ずるのはそのためです。

『物質世界』に出現した、生物、人間に『安泰を希求する本能』が宿命的に備わっていることを直視し、それだけで振る舞うことが、むしろ『不都合』を生じると気付いた場合は、『理性』で抑制する必要があります。

私たちが『理性』を磨く努力をしなければならないのは、そのためで、『理性』を備えた人が多い社会が、真に文明度の高い社会と言えるのではないでしょうか。

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2015年2月10日 (火)

謎が謎を生む(6)

『宇宙』が始まる時点で存在していた『真空エネルギー』は、『宇宙のタネ』を産みだし、倍々ゲームで『宇宙』を膨張させる要因になると同時に、『宇宙』空間が広がれば広がるほど、広げようとするエネルギー量が増えるという『仮説』も登場しました。

現在も『宇宙』は加速度的に膨張していることが、アメリカの天体学者『ハッブル』の観測で分かっています。この膨張は『ダーク・エネルギー』と呼ばれるものによって引き起こされているという『仮説』が有力ですので、『真空エネルギー』と『ダーク・エネルギー』は深い関連があると、梅爺は推測しました。間違っているかもしれません。

いずれにしても『真空エネルギー』『ダーク・エネルギー』の正体は不明で、現時点では『合理的、普遍的な説明』ができていません。やがて、『素粒子物理学』『天体物理学』等の世界で、『物質世界』の『摂理』に新しい発見、見直しがなされ、『空間が広がれば、ある種のエネルギー量が増す』などという、想像を絶した現象が何故起きるのかを解明する日が来るかもしれません。『科学者』は『神』を導入して、思考を停止させることを嫌い、むしろ『謎が謎を呼ぶ』環境に情熱を燃やしています。『謎があるからこそ、この世は楽しい』ということなのでしょう。

『真空エネルギー』が『宇宙』を膨張させたという『インフレーション理論』が仮に正しいとすると、今度は『宇宙のタネ』はどうして出現したのか、という『謎』にぶち当たります。

これに関してはアメリカの『ビレンキン博士』が、当方もない『仮説』を提唱しています。梅爺はその理論を理解できていませんが、結論を言ってしまえば、『発泡ワイン』の液体の中に、小さな気泡が突然現れるように、エネルギーの壁をすり抜けて、突然『宇宙のタネ』が出現することはあり得るという主張です。私たちの『常識』では、『無から有は生じない』と考えていますが、『宇宙のタネ』に限っては、その『常識』は通用しないことになります。

『ビレンキン博士』の説の途方もない点は、『宇宙のタネ』は、ワインの気泡のように無数に出現するということです。ということは、私たちが属している『宇宙』の他にも無数の『宇宙』が存在することを示唆しています。

他の『宇宙』も、同じカラクリで膨張しているのか、『宇宙』同士の干渉は生じないのか、他の『宇宙』の存在を確認する方法はあるのか、などまたまた『謎が謎を呼ぶ』ことになります。

ちっぽけな『人間』が、『脳』の機能だけで、広大な宇宙の『謎』に迫るという話ですから、何となく、楽しい、嬉しい気分になります。

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2015年2月 9日 (月)

謎が謎を呼ぶ(5)

『科学』がある『真理』を見つけると、またその奥に『謎』が現れるという『謎が謎を生む』という現象が続くことを考えると、人間は『謎』を解明しつくすことはできないのではないかという推量にもなります。

どうせそうなら、ある時点で『謎』の究明はあきらめ、それは『神の御業(みわざ)、神の思し召し』として、信ずるしかないという主張も一理あります。このように『物質世界』の『摂理の究極』は、『神』に辿りつくという主張は昔からあり、梅爺も『そうかもしれない』と受け容れることができますが、この『神』は、『宗教』が教義で示す『神』とは似て非なるものになります。つまり、『物質世界』には『情』を持ち込めませんので、『神』の『愛(人を愛して下さる)』は期待できなくなり、教義が成り立たなくなるからです。

『物質世界』の『真理』の源を『神』とすると、『真理』は『物質世界』の『変容』の全てに関与することになり、『変容』は人間にとって都合の良いこと、悪いことを全て包含しますので、『神は、人間を特別視してくださる』という論理がなりたたなくなります。逆に言えば『人間の願い事』などとは無縁な存在になります。

『宗教』の『神』は、人間の『精神世界』の中でのみ、『意味のある概念』であり、『物質世界』へ持ち出して適用しようとすると、途端に矛盾に遭遇することになります。『神』も『物質世界』の摂理に矛盾するものであってはならないことになり、『神を構成している素材は何か』『神は何をエネルギー源として活動しているのか』などと、または『神』はどのような数式で記述できるのかなどと言う味気ない質問に答えなければならなくなります。『宗教』の『神』は、『精神世界』の『抽象概念』であるからこそ、『精神世界』の中では、だれも『神を構成する素材』『神を動かすエネルギー』などを問題にしません。『神は全知全能である』という定義も『精神世界』であるからこそ成立する話です。『抽象概念』は『空想の産物』で、自由自在に創出できますから、『神』だけでなく『悪魔』『天使』『妖精』『霊』『フェニックス』『ドラゴン』『不老不死の妙薬』も存在可能で、だれも『素材』や『エネルギー』を問いただしたりはしません。『桃太郎』は『桃から生まれた子供』であってもかまいません。『精神世界』を華やかに、豊かにしているのは『抽象概念』なのです。

『物質世界』の現象である『ビッグ・バン』を、『謎』として解明しようとすると、次々に新しい『謎』に遭遇します。『ビッグ・バン』が起きてから以降の事象は、現代科学で、ほとんど合理的に説明ができますので、『ビッグ・バン』は『定説』になっていますが、『最初に何が起きたのか』は、『仮説』の領域を出ていません。

一つの『仮説』は、『真空エネルギーだけの世界に、突然宇宙のタネが出現し、真空エネルギーによって、倍々ゲームのようにタネは拡大(膨張)を開始した』という大阪大学の佐藤勝彦教授が提唱する『インフレーション理論』です。この理論を適用すれば、138億年後に、現在の『宇宙』になることは説明できますので、『インフレーション理論』は、国際的にも受け容れる学者が増えつつあります。

しかし、梅爺のような素人でも、『真空エネルギーだけの世界』とは何で、何故最初に存在していたのか、『真空エネルギー』とは物質を膨張させる『ダーク・エネルギー』のことなのか、『まるで手品のように、無の世界に宇宙のタネが出現すると言う現象はどう説明できるのか』、『宇宙のタネ』とは、『超ひも理論』の、『超ひも』にことなのかと、次々に子供じみた疑問が湧いてきます。

『インフレーション理論』が正しいとすると、『ビッグ・バン』の最初には更に肉薄しますが、『真空エネルギー』や『無から宇宙のタネが出現するカラクリ』は依然謎として残ります。

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2015年2月 8日 (日)

謎が謎を呼ぶ(4)

『ビッグ・バン』や『生物進化』は、『科学』の『定説』になっていますが、『ビッグ・バンはどのように始まったのか』『地球上の最初の生命体はどのようにして出現したのか』は、『定説』にはなっていません。科学の場合、一つの『謎』が解明されると、その先にまた新しい『謎』が出現します。つまり『謎が謎を生む』ことになります。

『科学』は、『宇宙の始まり』『地球上の生命体の始まり』について、かなり『真理』近くまで追い詰めていますが、最後の『謎』は解明されていません。

『科学』の『真理』は、『普遍的で合理的な説明が可能』であることを条件としますので、『真理』追求のプロセスに『望む』『期待する』『信ずる』という『精神世界』の『情』に根ざした行為の介入は許されません。強いて『精神世界』の行為として有効なのは『疑う』という行為だけです。

この科学者の姿勢が、『宗教』関係者の目には非常に不遜に写ります。何故ならば『宗教』は『信ずる』ことを基盤に成り立っているからで、『疑う』行為は、『神を疑う』ことにつながり、『神を冒涜する』ことにもなりかねません。キリスト教の礼拝では、教義の根幹にかかわる事柄(使徒信条)を並べて、『私はこれを信じます』と宣誓する儀式が毎回行われます。

『願う』『祈る』『信ずる』という行為は、『物質世界』の真理(摂理)を探求する『科学』の世界では直接的な意味を持ちませんが、人間の『精神世界』の中では、極めて重要な意味を持ちます。それらは『安泰を希求する』という本能に根ざした行為であるからです。『安泰を希求する』のは、私たちが生きている環境が、『安泰を阻害するもの』と『感じられる』ことで満ちていて、『精神世界』はそれを『不安』『痛み』『悲しみ』『寂しさ』『醜さ』『恐れ』として更に『感じ取る』からです。『願う』『祈る』『信ずる』ことで、『精神世界』は『心の安らぎ(安泰)』を得ることができる可能性が高まりますから『宗教』の効用は絶大です。

つまり『宗教』は、人間の『精神世界』で避けられない精神の葛藤から生ずるストレスを軽減する手段として、人類の歴史ではその役目を果たしてきたことになります。本来『物質世界』の『真理』を追求する手段として存在し続けてきたわけではありません。

1000年以上前に、『宗教』が大議論の末に確立した『教義』の内容で、『物質世界』の『真理(摂理)』に関ることを説明しようとしても、現代では歯が立ちません。『天地は神が創造した』という説明は、『ビッグ・バン』の前では滑稽な説明となってしまいます。

そこで『科学』が、『宗教』の教義の一部を、『合理的で普遍的な説明になっていない』と糾弾しても、『宗教』の存在意義を全て否定することにはなりません。『科学』は『心の安らぎ』の正体を未だ解明できておらず、『宗教』に代ってそれを提供する役割を果たせないからです。現在『科学』が提供できるのは、『精神安定剤』や精神医による『コンサルタント』のような対処療法だけです。『科学』が、『精神世界』の葛藤の原因、『脳』のからくりを解明し『心の安らぎ』に関して『合理的普遍的な説明』を行い、対応方法も明らかにした時に、初めて『科学』は『宗教』を掌中に収めたことになります。

『科学』と『宗教』は、現時点では、それぞれすれ違っていますが、将来は『科学』が『宗教』を見極める可能性を秘めていると梅爺は思います。逆に『宗教』は教義だけにこだわる限り『科学』をカバーできません。しかし、『科学』が人間の『脳』が紡ぎだす『精神世界』を解明するには、かなりの時間を要すると思います。それでも、例えば100年後に、『昔の人々は神を信ずることで心の安らぎを得ていた』という共通認識が多数派になっているかもしれません。そう云う時代が来るかもしれないと『宗教』は心構えをしておく必要があるのではないでしょうか。『信ずる』『疑う』は『精神世界』の根幹をなす矛盾した機能ですが、人間はどちらかに徹することができないようにできてると梅爺は考えています。

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2015年2月 7日 (土)

謎が謎を生む(3)

『事実は小説より奇なり』などという表現がありますが、『ビッグ・バン』ほど私たちを戸惑わせる『定説』はありません。『生物進化』も、戸惑いの対象ですが、『ビッグ・バン』はその比ではありません。 

自分の『常識』を『信ずる』人には、『ビッグ・バン』も『生物進化』も受け容れがたく、『天地は神が創造したもの』という説明の方が、むしろ受け容れ易いくらいです。人間の『常識』は、何によって形成されるかが問題ですが、『自分の能力(知識、経験)だけに依存して判断する』『子供のころから、そう云うものだと教えられたことに依存する』ということなのでしょう。『異文化』の存在に気づくことは、『自分の常識』『他人の常識』の違いに気づくことです。『違い』を認めることと、『どちらの主張に分があるか』を判別することは、別のことであると区分けできる人は、器の大きな人です。

『ガリレオ』の『地動説』や、『ダーウィン』の『生物進化論』は、当時の人間社会が有していた『常識』に反するもので、『ガリレオ』はカトリックの『異端尋問』にかけられ、『ダーウィン』は、世間の反応を危惧して発表を永い間逡巡しました。『宗教』の『教義』が堅固に作り上げてきた『常識』は、いかに強大なものであるかが分かります。さすがに現代では『ビッグ・バン』は、『異端尋問』の対象になりませんが、それでも、『教義』を『常識』とする考え方は、『キリスト教文化』でも『イスラーム文化』でも根強い支配力を持っています。『死者は天国へ召される』『この世の罪は、あの世で裁かれる』などという表現、宗教教義に基づいた『常識』として根付いていますから、多くの人は違和感を抱かずに『信じて』います。

『宗教』ばかりではなく、中国の『一党独裁』、北朝鮮の『将軍様崇拝』も、コミュニティを『一様の常識』で縛ろうとします。『常識』に異を唱えることは死を覚悟した行為になります。それに比べて、日本は梅爺のような、風変わりで疑い深い爺さんが、身勝手な意見を開陳することが許されていますから、ありがたい話です。

異なった考え方に、比較的に柔軟に対応できると自負している梅爺でも、さすがに最初は、『ビッグ・バン』『生物進化』には、『本当かいな?』と戸惑いました。しかし、関連する事項を全て矛盾なく説明するには、これ以外の『説』は見当たらないことを徐々に知り(確認でき)、今では、『ビッグ・バン』も『生命進化』も受け容れています。

『ビッグ・バン』が起きて、1秒後に『宇宙は、リンゴくらいの大きさの灼熱の球体であった』などという話だけ聞けば、梅爺でなくてもあっけにとられるにちがいありません。人間にとっては無限にも見える広大な現在の『宇宙』が、リンゴ位の大きさであったというのですから。『事実は小説より奇なり』などという生易しい話ではありません。

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2015年2月 6日 (金)

謎が謎を生む(2)

『宇宙の誕生』にしても『最初の生命の誕生』にしても、私たちは50年前では考えられないほどの知識を保有し、『かなり真理へ肉薄できている』と実感できるに至っています。梅爺が高校生、大学生であった頃の知識では、とうてい考えられない領域にまで現代科学は歩を進めています。

『最初の生命の誕生』に関しては、『実験』で、人工的に『生命』を創り出すことに成功すれば、『真理』として実証されることになり、将来そのようなことが起こらないとは言えませんが、現状では実現できていません。『人工的な生命の創出』は、『倫理』的な議論の対象でもあり、一方それが『現生人類』を絶滅に追いやる脅威の源になる可能性も秘めていますから、どう対応していくかは人類自身の選択に懸ります。

『宇宙の誕生』に関しては、浅学な梅爺でも、『人工的に誕生を再現すること』は、不可能であろうと推測できます。膨大なエネルギー(真空エネルギー)、超高温高圧の環境を人間業では準備できないであろうと考えるからです。地震や台風を制御できないレベルで、『宇宙の誕生再現実験』など、できるはずがありません。加速器で二つの『陽子』を衝突させ、瞬間的に全てを『素粒子』に戻す実験が行われていますが、これは『宇宙の誕生』の極々一部の環境を模擬しているだけでにすぎません。

従って、『宇宙の誕生』にしても『最初の生命の誕生』にしても、科学者は『仮説』を提示し、その『仮説』に矛盾はないかどうかを検証して、矛盾が見つからなければ、『真相に近い』と合意する方式が採られています。まさしく『推論能力』を最大限に発揮していることになります。当然ながら、この論理思考プロセスには、『情』は関与する余地がありません。『こうあって欲しい(願望)』『こうであると信ずる(信念)』という発言は意味がありません。

しかし、厄介なことに『人間』は、自らが創出した『精神世界』で、『願望』や『信念』が『生きる支え』になるほどの意味を持つことを『実感』しています。『宗教』は『信ずる』ことを前提に『教義』を創り出し、『信仰』が『心の安らぎ』につながっています。この視点でみると『信ずる』ことを認めない『科学』は、『宗教』にとっては『困った存在』であり、一方『科学』からは『宗教』は『非論理的な存在』であることになります。『宗教』は『精神世界』をいつまでも神秘的な世界にとどめておきたいと考え、『科学』は『精神世界』のからくりを解き明かそうとします。無責任な予想をお許しいただければ、『生きる支え』や『心の安らぎ』は、必ずしも『宗教』に依存しなくても得られるものだと『科学』が明らかにする時が来るような気がします。『宗教』が否定されるというより、『宗教』は一つの有効な手段であることが鮮明になるのではないでしょうか。

『宇宙の誕生』に関する『ビッグ・バン(Big Bang)』説も、『仮説』として提示され、矛盾が見つからないということで『定説』になりました。興味深いことに、物質の究極の素材を扱う『素粒子の研究』が、『宇宙の誕生』を『定説』とすることに大きく寄与しています。現在では『素粒子の研究』が、『宇宙の誕生』を解明する決め手になることは『科学』の常識になりつつあります。

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2015年2月 5日 (木)

謎が謎を生む(1)

『直面した事態にどう対応するか』を判断することは、生物が生き残るための重要な資質になります。このため、『生物進化』の過程では、この判断に関る能力が最優先で強化され、子孫に継承されてきました。もちろん『事態に気付かない』で、不幸に巻き込まれることもありますが、『気付いた』としても、その事態が対応能力を越えたもので、同じく不幸な結果に終わることもあります。

6500万年前に、メキシコのユカタン半島に、小天体が落下(衝突)し、数億年続いた『恐竜』の歴史は幕を閉じました。もっとも、最近では、鳥類の先祖は恐竜の先祖と同じと考えられていますので、『恐竜の絶滅』という表現は慎重を要するのかもしれません。

私たち『現生人類(ホモ・サピエンス)』以前に存在していた、異なった人類種である『ネアンデルタール』も、『何らかの事態』に対応できずに、2~3万年前に絶滅しました。暗い未来を強調したくはありませんが、高々20万年の歴史しか持たない『現生人類』が、今後『対応できない事態』に遭遇しないとは言えません。『自ら招く事態(核戦争など)』、『巨大な天災(地球と小天体の衝突など)』、『新種の病原菌やウィルスの攻撃』など、色々な事態は考えられます。少なくとも現在の環境は、『当たり前』のものではなく、『幸運』の要素が強いものと感謝して、私たちは大切に『生きる』必要があります。

新しい事態に直面した時、『受け容れる』『排除する(戦う)』『無視する』『逃げる』などの行為を、生物は『判断』に基づいて選択します。この『判断』は生物の『本能』として継承されますが、やがて『人間の脳』のように、『先のことを推量する』という『推論機能』が加わることになります。

『人間』は、生物に共通な原始的な『本能』と、『脳の進化』がもたらした『推論機能』を駆使して、周囲の状況に対応をするようになりました。『人間』が霊長類のなかで、抜きんでた『文化』『文明』を築いてきたのは、この『現在ばかりか将来のことも想定して対応しようとする能力』に拠るのは明らかですし、その能力の基本は『推論能力』であると言えます。

従って『推論能力』は、人間の『精神世界』の根幹の一つで、私たちは、この能力を駆使しながら毎日を生きています。『推論能力』は、『因果関係を自分なりに納得する』ことですから、『因果関係』が直ぐには見えないことには、『どうしてだろう』と興味を抱きます。興味を抱くという表現はポジティブですが、ネガティブに表現すれば不安をいだくということになります。『判断できないことは、自分に危害を与えることかもしれない』と『本能』が囁くからです。

梅爺が『精神世界』の根幹は、他の生物と同じく『安泰を希求する本能』であると考えているのはこのためです。

『推論能力』には大きな個人差があり(自然の摂理がつくりだした遺伝の仕組みが、必然的に肉体や能力に個人差を付与するからです)、誰もが、同じことに同じように反応するわけではありません。人によって『浅読み』『深読み』の度合いが異なることになり、これが人間社会で悲喜劇を生むことにもなります。

『科学』の世界で、『因果関係』が特定できていない最大の『謎』は、『宇宙の誕生』『最初の生命の誕生』ですから、この解明のために、科学者は挑戦をし続けています。飛びきり頭の良い人たちが、私たちが理解できない領域にまで立ち入ろうとしていることになりますが、科学者の動機も『安泰を希求する本能(知って安堵したい)』であることには違いがありません。

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2015年2月 4日 (水)

怖ろしいのは天災ではなく人災(4)

起こる確率は極めて低いものの、起きてしまったら人類にとって壊滅的な事態になるというリスクは、なかなか政治的な優先課題にはなりません。どうしても起こる確率の高い課題が優先されるからです。 

『天災』は、科学的な予測能力を高めることが対応策になりますが、『人災』は、人間の行為が起点になりますから、『不都合な行為』や『一見好都合に見えて実は不都合を内包している行為』を監視する体制が必要になります。 

ここで難しい問題は、『不都合』『好都合』は、人間の『精神世界』の価値観がきめることで、『精神世界』が個性的である故に、絶対的な判断尺度がないことです。つまり、ある人は、他人には『不都合』なことを、自分では『好都合』と考えて行っていることが多いということです。これはコミュニティでも同じことで、『民族紛争』『宗教紛争』などは、コミュニティの価値観の違いで発生します。 

個人もコミュニティも、己が大切と信ずるものを保有することは、意味のあることですが、それが他人や他のコミュニティにとっては『不都合』なことかもしれないと認識するには、『知性』『理性』を必要とします。他人の視点(価値観)で自分を観るという行為であるからです。 

『愛国無罪』などという勝手なスローガンがまかり通る中国、『偉大なロシア復興』を掲げて突っ張るプーチン率いるロシア、絵に描いたような独裁国家である北朝鮮は、他国の『不都合』などは、二の次ですから国際的に『人災』を引き起こす火種になりかねません。

最先端の『科学』が内包する危険を察知することは、『科学』の内容が高度化、複雑化しているだけに容易ではありません。科学者自身が倫理観を持つことは勿論重要ですが、一般の人でもその『科学』の本質を理解して、洞察に加わる必要があります。とくに政治リーダーには、この資質が求められます。

少なくとも、いかなる『科学』成果にも、『好都合』と『不都合』が抱き合わせで内包されていることを見抜き、『美味しい話』だけが喧伝されるときには、特に疑ってみる必要があります。

『怖ろしいのは天災ではなく人災』という論文を掲載した筆者の『Marin Rees』氏は、一般人を巻き込んだ国際的な監視網を『インターネット』に期待しています。

『インターネット』は確かに国際世論を形成する上で、有力な手段ですが、特定の思想を喧伝する手段にもなりうることを知っておく必要があります。『イスラム国』の『インターネット』を利用したリクルート作戦に応えて、西欧の若者がテロリスト集団へ参加する問題が報じられています。これらの若者が、再帰国して、西欧でテロ活動をする危険に先進国は怯えています。

『インターネット』も『好都合』と『不都合』が抱き合わせの手段であるということです。

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2015年2月 3日 (火)

怖ろしいのは天災ではなく人災(3)

『怖ろしいのは天災ではなく人災』という表現は一種のレトリックで、『天災は怖ろしくない』ということではありません。

『宇宙』や『地球』の歴史を考えれば、『物質世界』の変容は巨大な規模で継続しており、私たちの地球環境が現在のままであり続けることがないと推測する方が妥当です。

約50億年後には、『太陽』は燃え尽きますし、約40億年後には、『天の川銀河(私たちが存在する銀河)』と『アンドロメダ銀河』が衝突します。その時『地球』に何が起こるかを考えれば、人類が棲息できる環境が消失するという推測になります。

それほど先のことでなくとも、『小天体』が『地球』と衝突する危険は常に存在しています。もっと身近には、『日本』は、複数の地殻プレートが交錯する場所に存在しますから、大規模な地震はいつ発生してもおかしくない危険と隣り合わせです。

私たち『ホモ・サピエンス(現生人類)』の歴史は、高々20万年であり、『文明』の歴史は5000年程度です。私たちの時間感覚で、『地球環境がほぼ同じであった』だけで、『宇宙』や『地球』の歴史からみれば、瞬間の小康状態ともいえる時期に私たちが幸運にも遭遇しているということになります。『地球』は人類が存在しようがしまいが、変容していくことは同じです。私たちは自分の時間感覚で『当分は大丈夫』と予測しているに過ぎません。『宇宙』にとって数万年は一瞬ですが、私たちには永遠に近い時間であるという話です。

『天災も人災も怖ろしい。天災はしかたないとあきらめるとしても、人災は自殺行為でもあり馬鹿らしいから避けよう』というのが私たちのホンネになります。

『温暖化』のように、『人間の行為』が引き金になって起きているかもしれないといった『天災』もあり、実に複雑です。

『現在の地球環境』は、未来永劫ではないにしても、せめて人類が自ら変容を早めるようなことは避けようという話には異論がありません。

梅爺は、自然の摂理で『自分が幸運にも生かされている』と強く感じ、感謝していますが、人類も『幸運にも存在できている』という認識が必要なのではないでしょうか。少しでもながく『生きる』『存在する』ことは、個人や人間社会の『願望』であるのは、当然のことです。

しかし、『いつかは死にいたる』のは、残念ながら個人も人間社会も同じ宿命を帯びています。ただ、人間社会の『死』は、少なくとも数十万年以上先のことであって欲しいと願うばかりです。

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2015年2月 2日 (月)

怖ろしいのは天災ではなく人災(2)

『科学』で得た『知識』を、利便のために次々に応用するという能力は、生物の中で『人間』だけが保有するものです。文明の一部は『科学』に依存しています。 

『殺すなかれ』『盗むなかれ』と『法』や『倫理』で決めてみても、どのような社会でも必ずある比率で『犯罪者』が出現します。警察機構を必要としない国家は存在しません。『科学知識を悪用するな』と説いてみても、不届き者が出現しないという保証もありません。『科学知識』を利用するには、能力や資力が必要で、悪人の出現確率は、一般犯罪に比べると格段に低いと言えますが、それでもゼロではありません。テロリストが核兵器を盗むなどという可能性も排除できません。

人間が生物学的に『個性』をもつ存在であることが、このような犯罪者を生む宿命の原因です。善人が多い国家は作れますが、善人だけの国家を望むことは不可能です。

アメリカのクリントン大統領の科学政策諮問委員会の議長であった『ビル・ジョイ』は、個人的に『人類は、ロボット工学、遺伝子工学、ナノ工学の研究は控えるべきだ』と主張して脚光を浴びました。たとえ悪人が出現しなくとも、これらの成果が、予測不能の大惨事を人類へもたらす可能性を危惧すべきであるという考えに基づいています。

『ビル・ジョイ(天才的なソフトウェア技術者)』は、『スコット・マクネリ(経営者)』『アンディ・ベクトルシャイム(天才的なハードウェア技術者)』等と一緒に、米国で『サンマイクロシステムズ』というコンピュータ会社(現在はオラクルに買収されて存在しない)を創立した創業者の一人です。梅爺は、仕事の現役の頃『サンマイクロシステムズ』とアライアンスを担当する役目を負っていましたので、これら創業者とも付き合いがありました。

ある時、社長の『スコット・マクネリ』に、『ビル・ジョイがある領域の研究開発は控えるべきだと主張していることをどう思うか』と尋ねましたら、ニヤッと笑って『あいつは、悲観論者だ』と答えたことを覚えています。

『科学』は人類を幸せに導くと同時に、破滅へ追いやる危険性も秘めていることは確かですから、それを承知でどう対応するかを決断しなければなりません。『ビル・ジョイ』と『スコット・マクネリ』のどちらが正しいかなどという議論は、あまり意味がありません。

『科学』は、好奇心という人間の本能が背景にありますから、一部の研究開発を抑制しようとしても、『禁酒法』同様に結局遵守されないであろうと、梅爺は予測しています。

悪用されないように、人類がどのような監視体制を創り上げるかがポイントになると考えています。多くの人が、『科学』の詳細を知ることは難しくても、その『本質』を理解することは可能です。教育や啓蒙活動が重要であることは論を俟(ま)ちません。特に、社会のリーダー役を担う人達には、この能力が求められます。

『情報』『核エネルギー』『遺伝子』『ロボット』『ナノ工学』などが、特に『危険』を秘めていることは、『ビル・ジョイ』が指摘するまでもなく、梅爺でも理解できます。

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2015年2月 1日 (日)

怖ろしいのは天災ではなく人災(1)

『What should we be worried about(我々が真に危惧すべきこと)』という本の次なるテーマは、『We are in denial about catastrophic risks.(我々は、壊滅的な危険要因を気にかけていない)』で、論者はイギリスの天文学者『Martin Rees』です。書かれている内容を斟酌(しんしゃく)して、梅爺が『怖ろしいのは天災ではなく人災』と意訳をしました。 

『私たちが危惧すべきは、幸運にも今まで一度も起きていないだけで、一度起きたら取り返しがつかない危険要因である』と言う主張で、それは、天災ではなく、具体的には『情報処理工学』『生物(バイオ)工学』『ナノ工学』など、人間が近代になって急速に獲得した『科学』の成果であるという主張です。 

『科学』は現代社会にとって『両刃の剣』であることは、議論の余地がありません。『核エネルギー』を『兵器』として利用したことは、論外ですが、安価なエネルギー獲得手段というふれこみで開発された『原発』が、『スリーマイル』『チェルノブイリ』『福島』のような大惨事を引き起こしていることを観れば明白です。

『原子炉』がある程度安全であったとしても、『使用済み燃料』の『処理』『保管』に関する政策、技術が確立されていないことは、小泉元首相でなくても『おかしい』と感ずるのは当然のことです。関係者が『原子炉』の非軍事利用を安易な見切り発車で開始したことの『つけ』を、私たちは抱えていることになります。アメリカのような広大な国土を持つ国でさえも、住民の反対などで、『使用済み燃料』の保管場所は特定されれていません。地下520メートルまでトンネルを掘り、保管場所を確立したのは、世界で『オンカロ(フィンランド)』だけですが、これも予測通り10万年安全であるという保証はありません。いわんや地震国の日本では、場所、技術、政策を決めることは大変です。 

難病救済の救世主として期待されている『万能細胞』も、利用の仕方によっては、『クローン人間』『超長寿命人間』を創りだす可能性を秘めており、人間社会や文明の『平衡』を覆す、インパクトになりかねません。『長生きしたい』は個人の願望レベルとしては、ごもっともことですが、全員が『長生き』になると、人間社会のバランスは崩れて、それが『人類にとって望ましいことかどうか』は、別の議論になるからです。自然の『摂理』に従って、生と死が決まり、それで世代交代を繰り返すことが、人類を絶滅に追い込まない、『知恵』であるかもしれないという話です。証明されていませんが、人間の遺伝子には『平均80年程度生きるという前提のプログラム(時計)が仕込まれている』という仮説があります。本当なら、それが自然の摂理といえるのかもしれません。

『現代科学』の怖ろしい側面は、内容が、極めて高度で複雑化しているために、その真髄を理解できる人が、ごく少数の人達に限定されることです。大多数の人達は、内容を理解せずに、つまり盲目的にその便利な『成果』だけを享受していることになります。突然『不都合な側面』が噴出した時には、人間社会が壊滅状態に追い込まれないとは限らないという、綱渡りのような状態で社会が成り立っていることになります。

大袈裟に言えば、『一握りの人達』に、人類の将来を託しているということで、人類の歴史上このような状態は初めてです。昔も『狂気の独裁者』が存在しましたが、影響はある地域に限定され、人類全体が滅びると言う危険はありませんでした。

先進国の政策の中で、『科学政策』が如何に重要であるかが分かります。永田町の先生方が、どれほどの『科学の本質』に関する理解力があるのか、梅爺は知りませんが、その言動を観ていると、心配になります。

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