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2014年10月31日 (金)

ヒンドゥー教の『解脱』再び(4)

『釈迦』は『生きることは、煩悩がもたらす苦しみと同居すること』と考えたが故に、『生きていながら苦しみを克服する手段』として『煩悩からの解脱』に思い至ったのでしょう。それならば『死』はどのようにとらえていたのでしょう。 

梅爺の誤解があるかもしれませんが、少なくとも『釈迦』は、『あの世(極楽、地獄)』の話を重視しているようには思えません。『釈迦』の思考の対象は『生き方』であり、『解脱』は『生きている間に求める境地』です。従って『釈迦』は、『死』を自然の摂理の一つと考えていただけではないかと思います。もしかすると『一切の苦しみからの解放されるできごと』ととらえていたかもしれません。 

現在の『仏教』で、『あの世』の話が幅を聴かせるのは、各地の土着宗教と結びついたためで、『ヒンドゥー教』の影響も強く受けています。『釈迦』のような哲学的な思考傾向が強い人には『死』より『生』への関心が優りますが、庶民にとっては『死の不安への対応』が重大事で、『死後極楽へ行ける』と保証してもらうことが、何よりの『安堵』であったと考えられます。どの宗教も『天国』『極楽』をちらつかせて信者を惹きつけようとします。 

『仏教』の『解脱』が、生きている間に求めるべき理想の境地であるのに対して、『ヒンドゥー教』の『解脱』は、『輪廻を断ちきって、霊魂が永久に天国で至福の時間を過ごすこと』であるとすると、『あの世』で実現する事柄になります。同じ『解脱』という言葉で、生半可な理解をすると、誤解が生じます。 

『キリスト教』では、『神の恩寵で、安らぎを得る』ことが『仏教』の『解脱』に似ています。『安らぎ』は『不安が無い状態』ですから、『死』への不安や恐怖もなくなります。『死』への不安、恐怖は、『仏教』で云えば、『煩悩』の最たるものですから、『解脱』で、『心頭滅却すれば火もまた涼し』という境地になるのでしょう。 

人間は『死によって全てが無に帰す』という事実を、色々な理屈を考えて回避しようとしてきました。中国の皇帝は、『死後』も生前と同じような生活ができるようにと、墓は巨大な地下宮殿の様式にしました。 

しかし、現代科学が解明し提示する知識は、『死によって全てが無に帰す』ことをさし示しています。『脳』が『死』で活動を停止すれば、パソコンの電源が落ちたように、『精神世界』は全て消滅すると考えるのが自然です。

『霊魂』やそれにまつわる『超自然現象』の存在は、『神』の存在と同様『無い』と論理的に証明できませんので、『ある』と信ずる方がおられてもおかしくありません。

梅爺は、『霊魂』『神』は、人間の『精神世界』が考え出した『抽象概念』であると考え、そう考えることで多くのことが矛盾なく得心できますので、気に入っています。

『仏教』の『解脱』には興味がありますが、禅僧のような厳しい修行には耐えられないと逃げ腰になりますから、『理屈』だけの軟弱な爺さんに過ぎません。

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2014年10月30日 (木)

ヒンドゥー教の『解脱』再び(3)

人類は、文明のかなり初期の段階で、『神』『あの世』という概念を思いついたであろうと推察できます。地球上の現生人類は、民族を問わず必ずこの概念保有しているように見えます。勿論、『神』『あの世』の詳細定義内容は、民族によって異なります。 

人類は、論理構造を持つ『言語』を、コミニュケーションの手段として保有し、『抽象概念』も『言語』のなかで表現、共有する能力も身につけるようになりました。 

生物進化の過程で、人間が『脳』を用いた『言語』『推論能力』『抽象概念処理能力』を獲得したことが、生き残りの可能性を高め、『文明』という人間にしか成し得ない世界を構築する原動力になっています。 

周囲の『自然』がもたらす恵みや脅威は、人間にとって『得体の知れない、圧倒的な存在』であったはずですから、これを『神』という抽象概念でとらえ、『神』に人間にとって都合のよいことをして欲しいと、または都合の悪いことは控えて欲しいと祈りを捧げたにちがいありません。宗教の原点がこれであろうと梅爺は推測しています。 

『自然』同様、『生誕』『死』も人間にとって不思議な事象でしたので、これにも『神』が関与していると想像し、特に『死』に関して『死後の世界(あの世)』も思いついたのではないでしょうか。 

古代インドの人たちは、『生誕』『死』を、『輪廻』という連鎖で理解しようとしたのでしょう。推論の中から産まれた知恵と言えます。

人間の『精神世界』は、『脳』という『物質世界』の『摂理』で機能する基盤を利用しながら、『物質世界』とは異次元の『仮想世界』の構築を可能にしています。

この『仮想世界』は、『物質世界』の『摂理』に縛られない、自由な発想が許容される世界です。『神話』や『お伽噺』はその典型例で、『ドラゴン』『不死鳥』『麒麟』などという仮想の生物は勿論のこと、『神』『悪魔』『天使』『霊魂』『天国』『地獄』などの登場も可能になります。『物質世界』の『摂理』に縛られませんから、それらがどのような素材でできているのか、どのようなエネルギーを活動源としているか、などと問う必要がありません。

科学知識が増えて、現代人は、これらは『想像上のもので、実際には存在しない』と考えるようになりましたが、今だに、多くの人たちが『神』『悪魔』『天国』『地獄』は、『本当に存在する』と受け止めています。宗教の影響が社会生活の中で、強い慣性として働いているからです。

梅爺のように、すべては『抽象概念』であると割り切っている人は少数派ですが、梅爺はこう割り切って考えることで、色々なことが矛盾なく理解できるようになりました。

梅爺の興味の対象は、何故人間は『仮想の抽象概念』を必要とするのか、ということです。無意味なものを、偶然思いついたのではないと考えるからです。

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2014年10月29日 (水)

ヒンドゥー教の『解脱』再び(2)

死者の霊魂は、『あの世』へ移行するという考え方が、ほとんどの宗教で共通です。しかし、『あの世』の存在を『理』で確認する手段は見つかりませんので、『信ずる』ことが宗教の基本になります。『疑う』こと、『理』で真偽を確認することを基本とする科学とは、決定的に異なります。

私たちが『この世』で生きていく上で遭遇する事象の大半は、『理』で真偽を確認できないことですから、『信ずる』ことをベースに決断しないと、先へ進めません。従って『信ずる』ことは、宗教だけではなく、人間が『生きる』ために必要な行為と言えます。

『信ずる』『疑う』は、それ自体が目的ではなく、『安泰を得る』ための手段であると認識すべきです。

宗教では、『あの世の存在』『神の慈悲』を『信ずる』ことで、『心の安らぎ』を得ることが目的であり、科学では、『疑う』ことを起点として、真偽を確認し、不安を解消して『安堵する』ことが目的です。人間が『生きる』原動力となる共通の本能は、『安堵を得る』ことであろうと梅爺は推測しています。

人は誰でも、『信ずる』『疑う』を多用しながら生きていますが、人によって『何を信ずるか』『何を疑うか』は異なります。『脳神経細胞ネットワークのパターン』や『精神世界』に個性があるからです。更に生まれ育った環境も『信ずる』『疑う』に影響を及ぼします。従って、自分が『信ずる』ことが『正しい』という論法は、多くの場合成り立ちません。しかし私たちの周囲には、『正しいと信ずる』がいつの間にか『絶対正しい』に転ずる議論が横行しています。

『ヒンドゥー教』世界で生まれ育った人達の多くは、『輪廻転生』を『信じて疑わない』ことになります。しかし、『輪廻転生』をどこかで断ち切って、『あの世』で永遠の安堵を得る『解脱』は、実現が難しそうだと多くの人は感じているらしく、『解脱』を重要視するのは少数派のようです。

次に生まれ変わる時に『幸運の業(カルマ)』に恵まれるように、現世では徳を積み、善行を施すことへの執着が強いと『ヒンドゥー教』という本には書いてありました。

『仏教』や『キリスト教』では、『この世』で罪深い生活をしていると、『あの世』で『地獄』へ落とされると教えますから、善良でありたいと信者は努力をします。『この世』で、『悲しい』『苦しい』ことに悩まされた末に、『あの世』でも、ひょっとすると『地獄』が待ち受けているかもしれないということですから、なんともおぞましい話です。

徳を積み、善行を施し、善良であることは、いかなる社会でも結構な話ですが、『ヒンドゥー教』の場合、動機が『輪廻転生』にある点が、日本人からみると異文化ということになります。

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2014年10月28日 (火)

ヒンドゥー教の『解脱』再び(1)

『ヒンドゥー教(森本達雄著)』という本を読んで、『ヒンドゥー教』の基本的な考え方の一つが、『業(ごう:カルマ)』と『輪廻(りんね)』であるらしいことを知りました。 

世の中には、生まれつき健康、頭の良さ、美貌などに恵まれ、何をやってもうまくいくような『幸運』な人生を送る人と、反対に、病弱で、頭も悪く、美貌にも恵まれず、何をやってもうまくいかない『不運』な人生を送る人がいます。 

何故人生にはこのような不平等が存在するのか、という疑問に答えるために、『ヒンドゥー教』は、次のような巧妙な論理を提示しています。 

人間は死ぬと霊魂が天国へ行き、しばし至福の時をすごすが、やがて果報が尽きると、再び新たな命に変り『業(ごう)』を携えてこの世に出現することになる。これが『輪廻』として繰り返される。前世に徳や善行を積んだ人は『幸運な業』を携えて生まれ変わるが、そうでない人は『不運な業』を携えて生まれ変わることになる。 

つまり、前世の行いが、現世の『業』を決める要因である、ということになります。現世が『不運』であるとしたら、前世の自分の行いのせいであるという話になり、誰かを恨んでも始まらないと、観念して受け容れるしかありません。前世の自分がどのようなものであったかは、知る由もないわけですから、お手上げです。古代のインド人は、実に巧妙な『論理』を考えついたことになります。 

死とともに、肉体も精神も『無に帰す』というのが、現代科学が示唆していることです。梅爺も『理』で考えると『それしか答が無い』と観念して受け容れていますが、多くの方々は、『全て無に帰す』という考え方を、そうすんなりとは受け入れません。『情』が、『空しい』『寂しい』『面白くない』と主張するからです。そこで『死んでも霊魂は不滅である』という、『論理』を受け容れ、『死ぬのはしかたがないが、霊魂が不滅なら少し安心できる』とホッとすることになります。 

霊魂が霊界にいつまでも存在する、という考え方は、洋の東西や宗教のいかんを問わず、ほぼ共通です。人間は、いかに『自分が無に帰す』ことを恐れ、嫌い、そうでないことを強く『願う』存在であるかが分かります。

『霊魂不滅』『輪廻転生』などは、人間が『精神世界』で考えついた仮想の論理であろうと梅爺は考えています。『神/悪魔』『天国/地獄』などという概念も同類でしょう。『死んで全てが無に帰す』と考えるのを拒むために、懸命に知恵を絞った結果ではないでしょうか。

『輪廻転生』を思いついたインドの人達も、『終わりのない繰り返し』ではさすがに疲れると考えたらしく、どこかで『輪廻』を断ちきって、霊魂が天国で永遠に安泰であって欲しいと願うようになります。

『ヒンドゥー教』における『解脱』は、この『輪廻を断ちきる』ということらしいことを知りました。『仏教』の『解脱』は『煩悩を捨てる』ことですから、同じ『解脱』でも全く意味が異なります。

『仏教』の方が、人間の『精神世界』を深く洞察していて、哲学的でもあり、現代人をも啓発する要素を持っていると梅爺は感じます。

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2014年10月27日 (月)

ペン・ジレット著『God, No!』(6)

この著者は、『信ずる、信じない』という行為より、『理性で納得しようとする』行為を重視しています。梅爺も、どちらかというとその傾向の強い人間です。

従って、著者は『理性で納得する努力をせずに信じてしまう人』に対して批判的で、『宗教』を信ずる人にもその対象としているのでしょう。

しかし、『理性』には限界があり、誰にも『分からない』部分はどうしても残りますから、生きるために、その先は『信ずる』ことが必要になります。理屈屋の梅爺も『信ずる』ことを多用しながら生きています。つまり、『信ずる、信じない』は程度の問題ですから、『自分は信じない』からといって『信ずる人』を非難はできません。『私は無神論者(不可知論者)です』と宣言する権利は誰にもありますが、『神』を信じている人に対して『あなたは間違っている』ということは慎重であるべきです。

多くの信仰者は、善良な方達であることは疑う余地がありませんが、一部の狂信者が『テロ』に走るという『宗教』が持つ負の側面を洞察して、『信仰』とは何かを信仰者自身で考えてほしいと梅爺は願います。『あの人たちは、間違った信仰の所有者です』と切り捨てるのでは、解決になりません。同じ『信ずる』という行為を入口にして、『善い信仰』と『危険な狂信』の違いは、何故生ずるかという問題です。『信ずる』先には思いもよらない陥穽(かんせい)』が待ち受けていることがあり、『良い結果』だけに終わるとは限らないという事実を容認いただきたいと梅爺は願っています。

この著者は、『奇術師』ですから、『奇術』には『理性』で納得できる『トリック(タネ)』があることを承知しています。『トリック』は公開しないまでも、『トリックはない』などとごまかしません。『奇術師』と『観衆』は、『騙す、騙される』ことを承知の上で関係が成り立っています。

それ故に、著者は、『自分は本物の心霊術師である』と称して世間を騙そうとする人に対して非常に厳しい糾弾をしようとします。自分の著作の中で、その類の人物は実名を挙げて糾弾の対象にし、時に相手から『名誉棄損』で訴えられそうになりますが、裁判も辞さないという毅然たる態度で反撃しています。この本では、多くの場合、『怪しげな心霊術師』の方が、訴えを取り下げる結果になっています。

この本は『無神論者』を自認する人が書いたものですが、『無神論』としては底が浅く、梅爺にはあまり啓発的ではありませんでした。

乗り掛かった船で、最後まで読みとおしましたが、同じ著者が『続編』を出版しても、購入して読むことはないと思います。

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2014年10月26日 (日)

ペン・ジレット著『God, No!』(5)

日本では、禅宗の僧侶が厳しい戒律を守る生活をすることで知られていますが、宗教的な戒律を厳守している社会的なコミュニティはあまり見当たりません。『オーム真理教』のようなカルト集団が、出現したりしますが、日本社会では例外的な事象です。 

これに対して、アメリカは、『モルモン教』一色の都市(ソルトレイク・シティ)があったり、現在でも電気や自動車を排除した生活を守るキリスト教徒の村があったりします。『ユダヤ教』徒の一部は、厳格な戒律を守って生活しています。 

『宗教』の戒律を厳格に守る人、教義を信じて疑わない人と、『無神論者』の対比が日本より際立つのはこのためなのでしょう。

著者は、ラジオのトーク番組などを通じて、『無神論者』の考え方を話し、これに啓発されて、著者を訪ねてくる視聴者の例がいくつかこの本には書かれています。厳格な『ユダヤ教』の戒律を守ってきた人が、『無神論者』への転向を希望して訪ねてきた時には、まず『豚肉製のベーコン』を食べさせて、戒律の縛りから解き放つといった、他愛の無い儀式のようなことを行っています。

多くの『宗教』には、タブーとされる『食材』があります。『ヒンズー教』は『牛』は聖なる動物で食べませんし、『イスラーム』は『豚』は穢れているとして食べません。『ユダヤ教』は、どういうわけか『蹄(ひづめ)が割れていて、反芻しない動物』は食べてはいけないことになっていますので、『豚』や『馬』は食べません。『キリスト教』は例外的に食材に制約のない宗教です。

『食材』のタブーを破ることは、信仰者にとって『神へ背く』ことになりますから、『ユダヤ教徒』が『豚肉のベーコン』を食べることは、大変決断を要することで、この本には、ためらった末に食べて、『美味しい!』とつぶやく様子が面白おかしく紹介されています。

しかし、『食材』のタブーは、『宗教』だけではなく、社会習慣としても存在しますから、『宗教』の偏見だけをやり玉に挙げて、悦に入るのも偏見と言えないことはありません。

人間の『精神世界』は、個性的で価値観は各人が異なっており、人間社会も必ずと言って良いほどに、『タブー』や『偏見』を作りだし、それを代々継承したりします。『宗教』に『タブー』や『偏見』が含められるのは、その一例に過ぎません。

従って、人間の『精神世界』は、何故『タブー』や『偏見』を作りだすのか、といった問題の方が本質です。多分、『安泰を希求する本能』が、その根源にあるのであろうと梅爺は推測しています。

少し強引な推論をすれば、『タブー』や『偏見』から逃れられない『宗教』は、これまた『精神世界』の産物、人間が考え出したものであろうと言うことになります。

何度も書いてきたように、もし人間がこの世からいなくなれば、『神』『宗教』『タブー』『偏見』という概念は全て消滅するという推測になります。

『物質世界』では、それらの概念は意味をもたないからです。

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2014年10月25日 (土)

ペン・ジレット著『God, No!』(4)

この著者の言動(特に性に関する)は、奔放に見えますが、実は、『自分に正直な性格』が根底にあるように感じました。奔放な言動の内容をここで紹介することは慎みます

私たちは、子供のころから、『これが正しい、これは間違い』と大人や社会の価値観を教え込まれ、『何故正しいのか、何故間違いなのか』を自分で考えずに従う大人になりがちです。

そうであっても、社会を維持していく上では、ほとんどの場合問題が生じませんが、ある種の『宗教観』『道徳観』は、反って弊害になることがありますので、実に厄介です。自分の理性がまだ発達していない子供に、『どこまでを教え込んで良いのか、どこからは控えるべきか』は一般論のない難しい判断になります。

著者は、ごく平凡な『宗教観』『道徳観』の家庭で育ったとこの本には書いてありますから、大人になってから、自分の理性で判断して、自分の『宗教観』『道徳観』を身に付けたのでしょう。梅爺も、自分の両親の『宗教観』『道徳観』とは、異なった考え方に変っていますから、著者の生き方に共鳴できます。

著者は、自分が理解できないことは『分からない』と表明する勇気を持っています。多くの大人は、『分からない』ということを恥じて、『分かった振り』をして、周囲に迎合します。その様にした方が無難であり、周囲との軋轢も生じないからです。

著者が『無神論者』を表明し、常識的な『性道徳』を逸脱した行動をするのは、『自分に正直』であるからと、梅爺が想像するのは、上記のような考え方によります。

著者は、同じく『無神論者』の女性と結婚し、二人の子供に恵まれ、家族を誰よりも愛しています。また、自分の両親や姉に対しても、限りない愛情で接しています。社会の暴力やテロを認めない考え方を貫いています。

これらの姿勢と、普段の奔放な生活は、私たちには矛盾しているように思えますが、本人は矛盾を感じていないのでしょう。『精神世界』の多様性の典型的な例です。梅爺の『精神世界』は著者と異なりますが、著者の生き方を全面的に否定するつもりにはなりません。

ただ、著者が、『テロの根源に信仰があるから、信仰は諸悪の根源』と主張していることには、必ずしも同意できません。何事にも表裏があるように『信仰』にも、一歩間違うと『信仰』が、社会的に好ましくない行為を生み出す根源になることがあるということは認めますが、一方『信仰』は、何よりも効果的に『心の安らぎ』を獲得することができる手段であるという一面も周知の事実ですから、『信仰』の全てを否定するのは行き過ぎのように思います。大変難しいことと承知の上で、『信仰』深い人に、ご自分の『信仰』の負の一面も是非認めてほしいとお願いするしかありません。簡単に言ってしまえば、『信仰』にも好ましい面と好ましくない面があるという認識です。

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2014年10月24日 (金)

ペン・ジレット著『God, No!』(3)

『リチャード・ドーキンス』や『スティーヴン・ホーキング』といった、生物進化論や宇宙物理学の泰斗(たいと)が、『神は存在しないと思う』と主張すると、私たちは無視できずに一目置かざるを得なくなります。当代きっての頭脳の持ち主の一人がそう言うならば、検討するに値するかもしれないと思うからです。『有神論者』や信仰深い人も、手ごわい相手が登場したと構えるに違いありません。

しかし、性道徳に、少々ルーズな著者が『私は無神論者である』と宣言しても、信仰深い方は、眉をひそめるだけで、『あんなだらしがない人に、神を論ずる資格が無い』と、まず品性を問題にして、否定してしまうのではないでしょうか。そして『無神論者になると、あのような人になりますよ』と更に論理が飛躍することになりかねません。したがって、『God, No!』という本が、『無神論』の普及に大きく貢献したとは思えません。ベストセラーになったのは、単に奔放(特に性的に)な行動が読者の野次馬的覗き見主義を刺激したからなのでしょう。

私たちは『宗教』と『道徳』を対(つい)にして考えがちです。『神を信じない社会は、道徳もない社会』と言われることがありますが、梅爺は人間の『精神世界』は、『神』とは無関係に、それ自身で『道徳概念』を創りだせると考えています。

『精神世界』の基盤は『安泰を希求する本能』であろうと梅爺は推測しています。生物として生き残るために、『自分に都合が良いこと(安泰)』を『自分に都合が悪いこと(不安、心配、恐怖など)』を判別し、やがて『人間社会』に都合が良いことと悪いことを、『善悪』という抽象概念でグループ分けして共有したものと思います。

これとは別に、『得体の知れない事象を司っているもの』を『神、悪魔』という抽象概念で共有しますが、後に『神、悪魔』と『善悪』を結びつけて、『神』を『善』の象徴として考えるようになったのではないでしょうか。いずれも人間が考え出した概念であろうと思います。

『神』が『道徳』を生み出したのではなく、『神』『道徳』という別概念を、人間が結びつけただけであろうと思います。したがって、論理的には『神』が無くても『道徳』は存在しうるという結論になります。

この著者が、真面目な人達からは『眉をしかめたくなる言動が多い人』にみえることと、この著者が一方で『無神論者』であることは、本来一緒に議論すべき対象ではありません。

しかし、この著者の論理が、『生物進化論を正しいと認める』『したがって人間は神が創造したものではない』『故に神は存在しない』というような、よくありがちな皮相な論理に終始しているのは、梅爺にはいただけません。

『神』を本当に論ずるためには、人間の『精神世界』の洞察を深める必要があります。『安泰を希求する本能』、つまり『心の安らぎ』を求める本能と『神』という抽象概念が関与していることの本質を見極める必要があります。これに言及しない『無神論』は、梅爺にとっては啓発的でありません。

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2014年10月23日 (木)

ペン・ジレット著『God, No!』(2)

著者が『無神論者』になったのは、『処女マリアから神の子イエスが生まれた』『イエスは、私たちの罪を贖(あがな)うために、十字架にかけられた』というキリスト教の教義を、論理的に理性で受け容れることができないことが第一ですが、『リチャード・ドーキンス』の著作に強く影響を受けています。

この本の中には、何度も『リチャード・ドーキンス』の名前が登場します。『リチャード・ドーキンス』はイギリスの生物学者で、『生物進化論』が専門です。彼の著書『地上最大のショー』については、前に梅爺もブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-c03c.html

一方『リチャード・ドーキンス』は『無神論者』としても有名で、これを論じた『The God Delusion(神は妄想)』という著書についても前に紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/the_god_delusio.html

梅爺も『リチャード・ドーキンス』によって啓発を受けていますが、梅爺の場合は、世の中の事象を『物質世界』と『精神世界』に分けて考えるようになって、『神は精神世界の中にのみ存在する抽象概念である』という考え方が強まりました。

『リチャード・ドーキンス』は、梅爺のように『物質世界』と『精神世界』を対比した論理を展開していませんが、『自然の摂理には、あるべき姿や目的があるわけではない』と主張していますから、梅爺の『物質世界』の考え方と、その点では同じです。

梅爺の論旨は以下の通りです。

(1)『宇宙』は『物質世界』である。
(2)『物質世界』は、『摂理』に支配されている。その『摂理』は、形式的数学の世界で論理的に表現ができる(できるはずである)。
(3)『摂理』がもたらす事象は、『絶えまない変容』に見える。この『変容』は、部分的な不均一が原因で起こる『平衡状態の移行(動的平衡による変容)』である。
(4)『物質世界』の『変容』によって、『宇宙』に『地球』が誕生し、地球上に『生命』が誕生し、『生命』は『進化』して『人間』が出現し、『人間の脳』に『精神世界(仮想世界)』が出現した。これらは、全て偶然によるものである。『動的平衡による変容』には、『あるべき姿』や『目的』はない。
(5)『精神世界』は『理』と『情』で構成されていて、『安泰を希求する本能』で支配されている。
(6)『精神世界』は、人間だけが共有する『抽象概念』を沢山創りだした。『神』『愛』『正義』『平和』などが全て抽象概念である。
(7)『精神世界』だけに存在する抽象概念や価値観(情が関与することが多い)の多くは、『物質世界』には適用ができない。

少々舌足らずで分かりにくいと思いますが、これらの結論として、『物質世界』には『神』という実態は存在しないだろうという推量になります。

分かり易く言ってしまえば、『物質世界』から『人間』がいなくなれば、『神』『愛』『正義』『平和』などという概念も無くなると言う推測です。『物質世界』はただ変容しているだけですから、『恵みの雨』とか『災害をもたらす雨』というような区別はありません。

しかし重要なことは、『人間』や『人間社会』に必要であるが故に、『精神世界』で『神』『愛』『正義』『平和』などという抽象概念が考え出されたということです。『物質世界』には、これらの概念は通用しないということで、抽象概念の意義を排除するのは、浅慮と言わざるをえません。『精神世界』と『物質世界』を区別せずに論ずると、誤認が生じますが、『精神世界』そのものを洞察することは重要なことではないでしょうか。

世の中の多くの『無神論者』が、こういう視点で物事を考えないことに、梅爺は不満を感じています。

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2014年10月22日 (水)

ペン・ジレット著『God, No!』(1)

新宿のタイムズ・スクエアにある紀伊国屋書店の洋書コーナーで、『God,No!(Penn Jillette)』というノンフィクションの本をみつけ購入し、読みました。

『God,No!』は、日本語に訳せば『神様?そんなものはいませんよ!』というような挑発的なものですから、信仰深い方には、タイトルだけで顰蹙(ひんしゅく)を買いそうです。
表紙に『ニューヨーク・タイムズ・ベストセラー』とあったのと、『宗教なんてどれも同じという人には心が無く、無神論者には情が無い、などという人はこの本を読む必要がある。無神論者のペン・ジレット(著者)は両方を持ち合わせている』という書評が裏表紙に掲載されているのをみて、内容や著者に関する予備知識なしに、つい買ってしまいました。
著者の『ペン・ジレット』は、『ペン&テラー』という二人組の奇術師の一人で、ラス・ベガスなどを中心に興行する、アメリカでは比較的有名な芸能人であることが分かりました。
読み始めてすぐに『これは、とんでもない本を買ってしまった』と気づきました。英語の文体の品格をうんぬんする能力が無い梅爺でさえも分かるほど、淫猥なスラングのオンパレードで、自分の体験談として語られる逸話のいくつかは、ポルノ小説も赤面するほどの内容であったからです。性倫理は時代や社会によって異なりますが、それにしても著者の振る舞いは現代のアメリカの性倫理の標準をも越えていると感じました。芸能人としての人気を保つために、わざと『淫猥さ』を売り物にしているのかとも思いましたが、読み進むうちに、そうではなく単に『自分を飾ろうとしない、憎めないおじさん』のように思えてきました。
著者は、勿論『無神論者』であることを積極的に標榜し、これはアメリカ社会では大変勇気ある行動です。アメリカは、『最も信用できない人は誰ですか』という問いに対して、『無神論者』と答える人が最も多い国です。『あなたの息子か娘の結婚相手が無神論者であったらどうしますか』という問いに対しても、大多数の人が『反対する』と答えています。つまり『無神論者』は『人でなし』『人非人』『冷血漢』と同じような意味でとらえられていることになります。『無神論者』を標榜すれば、本人はもとより家族までもが脅迫の対象になる可能性があります。
著者の『ペン・ジレット』は、破天荒な言動で有名な芸能人なので、『あいつなら、そのようなことは云いかねない』と、大目に見てもらえるところがあるのかもしれません。
日本で『無神論者』を標榜しても、アメリカほどの攻撃は受けませんが、それでも『あいつは変わり者だ』とみられることはある程度覚悟しなければなりません。
梅爺は、人間の『精神世界』の中に、抽象概念として『慈悲深い神』が存在することは理解できますが、『物質世界(宇宙のどこか)』に『神』という『実態』が存在することは、極めて疑わしいと考えています。しかし、『物質世界』をくまなく探索しても『神』は存在しないであろうと想像はできますが、絶対に存在しないとは実証する能力がありませんから、『分からない(不可知である)』というのが正直な答えです。言動は『無神論者』に近いと思いますが、厳密には『不可知論者』です。
著者の『ペン・ジレット』も、基本的には『自分には分からない(理解できない)』から『神は存在するとは思えない』という主張をしています。その点は梅爺に似ていますが、梅爺よりは『直感的に神を否定』しています。梅爺は『精神世界』における『信仰』という行為は、ある意味をもつと認めていますが、この本の著者は『信仰』が、人間を好ましくない方向へ導くとして、これを排除すべきと唱えています。人間の『精神世界』の洞察という視点では、梅爺がこの本から新しい啓発を受けることはありませんでした。

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2014年10月21日 (火)

That one will not, another will.

英語の諺『That one will not, another will.』の話です。

直訳すれば、『ある人が欲しないことを、他の人は欲することがある』ということで、日本でも『捨てる神あれば拾う神あり』『縁は異なもの味なもの』『蓼喰う虫も好き好き』と、英語の諺より、ずっと洒落た表現で色々言い古されてきたことですから、洋の東西を問わず、人は『人間の特性』として、『人には個性があり、同じように感じたり、考えたりしないものだ』と感じていたことが分かります。

それにしても、英語文化圏の人達と、日本人の『精神文化』の違いが、これほど如実に表現の違いに現れていることに、面白いと感じます。

『That one will not, another will.』は、味もそっけもない『論理』表現で、解釈に齟齬をきたさないように『理』が重視されていますが、『捨てる神あれば拾う神あり』となると、『人』ばかりか『神』も含めて、本当は深刻な話を、『諧謔』で笑い飛ばしてしまおうとする姿勢が垣間見えて、つい笑ってしまいます。

こういう、日本人庶民の『諧謔』精神に魅せられて、梅爺は『江戸いろはカルタ』『上方いろはカルタ』の全てについて、前にブログで感想を書きました。

勿論、梅爺は日本人なので、この精神は大好きで、この文化に誇りを感じます。

『人間』の『精神世界』が、宿命的に『個性的』であるのは何故かという理由について、梅爺は何度もブログに書いてきました。

受胎の瞬間に、両親の遺伝子が、偶然に組み合わされ、個人の遺伝子構造が決まります。人間の遺伝子の数は3万個の要素で構成されていますから、組み合わされた子供の遺伝子構成は、両親に似る可能性が高いことは事実ですが、厳密には個性的な構成になります。

『精神世界』の基となる脳神経細胞ネットワークのパターンも、遺伝子構成で決まる部分と、生後の生活体験で決まる部分がありますから、個人は全て異なったパターンを保有することになります。

『物質世界』では『真偽』の判定は、普遍的に可能ですが、個性をベースとした『精神世界』の価値観には、絶対的な判定尺度がありませんから、同じ事象に遭遇しても、私たちは、厳密には『同じように感じ、同じように考えている』わけではありません。

このような個性的な個人が集まってできる『人間社会』を運営することが、何故難しいのかは、容易に想像できます。『自分と同じように考えないとは怪しからん』という主張が蔓延し、人間社会に、争いが絶えないのはこのためです。

『他人の個性は、自分の個性とは異なっている』ことを認めて、私たちは生きていかなければなりません。『自分を主張する』ことは大切ですが、同時に『他人の主張に耳を傾ける』ことも同じく重要です。『寛容』と『忍耐』、それに『理性』的な判断が、賢く生きるときの決め手になります。

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2014年10月20日 (月)

インドの土着宗教と『仏教』(4)

日本へ最初に『仏教』が伝わったのは、6世紀ごろ朝鮮半島(百済)経由であったというのが定説です。 

その後、日本は『仏教』の最新情報を中国大陸に求めました。中国の高僧『鑑真』の招聘、『空海』『最澄』などの著名な日本人留学僧たちの活躍があって、日本の『仏教』は隆盛へ向かいます。 

『釈迦』の純粋な『教え』を、『原始仏教』とすれば、中国へもたらされた『仏教』は既に『ヒンドゥー教』などと融合した内容に『変容』しており、更に経典はサンスクリット語から中国語へ翻訳されることで、『漢字文化』のニュアンスが加わり、『道教』などの中国の土着宗教の影響も受けていたことになります。 

つまり日本の『仏教』は、『原始仏教』から『変容』した『中国仏教』をお手本に開始され、その後更に日本の土着宗教の影響を受けて『日本仏教』へ『変容』していったことになります。『修験道』などが典型例です。梅爺は浅学で理解できていませんが、『もう一度、原始仏教へ立ち戻ろう』という考え方が『仏教』界にはないのでしょうか。 

このような経緯がありますから、日本人が『仏教』に関連した事柄として認識していることの多くは、『原始仏教』にはなかったもので、インドの土着宗教や『ヒンドゥー教』からとりいれられたものです。『如来』『菩薩』『天』『明王』など、数え切れないほどの『仏』が存在するのはそのためです。 

仏像の座像の姿や、手や指の表現である『印相』は、インドに古くから伝わる宗教修行の様式『ヨーガ』の、瞑想の姿勢と一致します。『ヨーガ』は、『体位』『調気(呼吸法)』『印相』『三昧(精神統一)』のプロセスを踏んで、『解脱』へ達しようとする経験則や知恵から産まれた『手段』です。現代の日本人は、『心身の健康』を得るための手段として、『ヨーガ』を受け容れています。

『仏教』の知識が乏しかった若いころの梅爺は、『何故仏教には沢山の種類の仏が存在するのだろう』と素朴な疑問を抱いていました。『仏』は『釈迦』だけで十分ではないかという、西欧的な合理性になじんでしまったためなのでしょう。

しかし、土着宗教の多様性を受け容れて『変容』してしまっている『仏教』に一貫した合理性など求めても始まらないことを知りました。そもそも人間の『精神世界』は、『理』では律しきれない『情』に強く支配されていますから、一貫した合理性などで説明がつかないものであることを考えると、『宗教』は『神秘』『摩訶不思議』『曖昧』などのレベルにとどめていた方が、『精神世界』は安心してつきあえるのかもしれません。『芸術』も同様なことが言えます。

一方『科学』は、『精神世界』が『一貫した合理性』で対応できる、特殊な領域であることになります。『真偽』を判定できる普遍的な尺度が存在する、唯一の世界です。

この『宗教』『芸術』と『科学』の世界の違いを、正しく理解せず混同すると、トンチンカンな議論が横行することになります。『宗教』や『芸術』の領域には『真偽』が判定できる普遍的な尺度など存在しないと、考えれば、色々なことが『なんだ、そういうことか』と見えてきます。

『自分にとって都合のよいこと、重要と思うこと』を個人として表明する権利は誰にもありますが、そらが『普遍的に正しいこと』と主張することには慎重であるべきです。『ピカソ』を評価する人と、評価しない人がいるのは当然ですが、どちらが『正しい』かなどと議論することは意味がありません。

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2014年10月19日 (日)

インドの土着宗教と『仏教』(3)

現代人が『宗教』離れしていく理由の一つが、『教え』と『出来事』『戒律』とが一体となって『教義』が構成されていることによるのではないでしょうか。つまり『出来事』『戒律』を現代の科学知識で受け容れることが困難になりつつあることを示唆しています。

『教え』は、『神仏との関係で、人はどう生きるべきか』という内容を説いたもので、『何かによって生かされている』と感ずる人間にとっては、示唆に富み、傾聴すべきものが含まれています。科学知識が増えた現代では、一層『何かによって生かされている』と感ずる度合いが高まりつつありますから、『教え』は輝きを失うことはありません。『死生観』に十分影響を与える潜在力を持っています。

一方『出来事』は、教祖の生涯に起きた出来事や、宗教が成立する前提で起きた出来事などを、『事実』として信者に『信ずる』ように求める事柄です。

『キリスト教』を例に挙げれば、『神による天地創造』『キリストの生誕(処女懐妊)』『キリストが行った奇跡的行為』『キリストの死後復活』などがそれにあたります。いずれも現代人が保有する科学知識では説明がつきません。『だからこそ奇跡なのだ。世の中には理で説明できないことがあるのだ』と宗教関係者は主張しますが、理性を重んずる現代人を説得することにはなりません。

『戒律』にいたっては、一層『教え』との直接的な関係は曖昧なものになります。『ユダヤ教の割礼』『イスラームの豚肉忌避』などが端的な例ですが、生活習慣として、なんらかの『知恵』が背景にあるとしても、少なくとも『教え』にとって不可欠な要因であることを理性的に説得することはできません。

梅爺でも気付くようなこのような事柄に、賢い宗教関係者が気付かぬはずはありませんから、多くの聖人や神学者が、『出来事』や『戒律』を正当化する『論理』を歴史的に構築してきました。そして『出来事』こそが、『教義』の真髄で、『教え』を本当に理解するには『出来事』を信ずる必要があるという、逆転の『論理』を作り上げました。『キリストの十字架の死は、あらゆる人の罪を身代わりに背負われるためのものであった』というような『論理』で、『十字架の死には、特別深い意味が込められている』という説明になります。

それでも『なるほどそうか』という考えと、『でも理性では受け容れがたい』という思いが交錯しますまら、『信ずれば救われる』というだけの説得だけでは済まされない時代になりつつあります。

インドの土着宗教や、各地の土着宗教と融合してきた『仏教』にも当然、『教え』とは直接関係があるとは思えない、『出来事』『戒律』などが沢山あります。『釈迦』の教えは比較的純粋な哲学的な思想のように、梅爺は思いますが、その後の『仏教』は、土着の宗教と結びつき『神秘性』が増したために、理性による理解からは遠ざかることになっています。

庶民にとっては、この『神秘性』が『ありがたさ』を感ずる要素になっていますが、高僧の説教の大半は『釈迦』の『教え』を対象としますので、『仏教』の原点は『釈迦』の『教え』であるという認識が強いのかもしれません。

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2014年10月18日 (土)

インドの土着宗教と『仏教』(2)

『バラモン教』の宗教慣習、思想を背景に行動して、新しい思想へと到達した『釈迦』と、『ユダヤ教』の慣習、思想を背景に行動して、新しい思想へと到達した『キリスト』は、行動パターンが類似しています。

『仏教』『キリスト教』として独立した体系にしたのは後の人たちで、『釈迦』も『キリスト』もご本人は新宗教を立ち上げようと思ってはいなかったのではないでしょうか。つまり『バラモン教』『ユダヤ教』を背景に、あたらしい『考え方』を述べるという認識であったと思います。

『厳しい修行などに耐えた特定の人だけが、神や仏の救済の対象になる』のか『普通の人でも、神仏を信ずる心をもって、最低限度の約束事を果たせば救済の対象になる』のかは、どの宗教も直面する問題です。

宗教の権威を示すには、前者の考え方が有利ですが、『普通の人』は『私には無理だ』とあきらめますから、大規模な布教にはなりません。一方、後者は『普通の人』には歓迎すべき話で、布教も容易になります。有体(ありてい)に言ってしまえば、宗教組織を保つための経済基盤も、後者のほうが有利です。『御布施』や『献金』が集めやすいからです。

『普通の人』が神仏を『畏れ入って』崇めるように仕向けるため、『大伽藍』『大聖堂』が作られ、きらびやかな聖職者の服装、荘厳さを醸し出す『儀式様式』に工夫が凝らされるようになります。それが当たり前のこととして継承されてきましたので、『神仏は、本当にこんなことを人間に望んでいるの?』などと疑問を投げかけること自体が『罰当たりな行為』になってしまいます。

宗教の本質は、人間の『精神世界』が、『心の安らぎ』を求めることへの対応であるとすれば、『修行』や『儀式』は、目的を達する手段の一つでありえても、『壮大な権威』などは必要条件であるとは梅爺には思えません。

多くの宗教は、『特定な人だけが救済される』『誰もが救済される』の区別を曖昧にして、『どちらともとれる』様式になっているように梅爺には見えます。『特別の修行をした人』を『行者』『聖人』『聖職者』として、この人たちの仲介で『普通の人』が救済されるという論法になります。『普通の人』は仲介者を敬うのは当然の義務で、仲介者は『神仏をないがしろにすると、死後あなたは裁かれて地獄へ落ちますよ』と『普通の人』に説教をします。それでも反抗してこのような『罰当たり』なブログを書く梅爺には、まちがいなく『地獄』しか準備されていないという論法になりますから、覚悟はするものの、気持ちが滅入ってしまいます。

『仏教』には『小乗仏教』『大乗仏教』がありますが、日本はありがたいことに『大乗仏教』が主流です。つまり『誰もが救済される』という考え方ですが、現代の日本人の多くは、『葬式』や『法事』で『仏教』に接するだけで、本当に『心の安らぎ』を『仏教』に求める人は多いようには見えません。日本の仏教界が抱える大きな問題であるように思えます。

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2014年10月17日 (金)

インドの土着宗教と『仏教』(1) 

『ヒンドゥー教(森本達雄著:中公新書)』を読んで、『仏教』は、マジシャンがシルクハットからウサギを取り出すとりだすように、『釈迦』が突然唱え始めたものとは必ずしも言えないことを確認できました。『釈迦』や『キリスト』の出現した時代背景や宗教事情を知ることは、『仏教』や『キリスト教』を知る上で重要なことであるはずですが、あまり語られないのは、どういうことなのでしょう。

『釈迦』の教えは言うまでもなく『釈迦』あってのものですから、『仏教』は『釈迦』によって始められたことは間違いありませんが、『釈迦』が教えを生み出した背景に、その当時のインドの宗教慣習が存在し、強く影響を与えているのは当然のことと思います。

梅爺はインドの歴史に詳しくありませんから、誤認があるかもしれませんが、アフリカ中部をから世界各地へ進出を開始した『現生人類』が、インド大陸へ到達したのは、4~5万年前頃ではないでしょうか。因みに日本への到達は、1万2千年位前と推察できます。

最初にインドへ到達した『現生人類』を祖先とする『ドラヴィダ人』が、古代インダス文明を築いたのは、紀元前5000年から紀元前2500年頃であると考えられます。日本の『縄文時代』に相当します。インドではこの間に、土着宗教が存在し、既に宗教的な慣習、思想が醸成されていたに違いありません。

その後、紀元前13世紀に、インドは『アーリア人』に侵攻され、『アーリア人』がインドの支配者になりました。ヨーロッパ系白人種に近いとされる『アーリア人』と、オーストラリアの『アボリジニ』に近いような黒人種の『ドラヴィダ人』の混血が現在のインド人であると考えると、容貌や肌の色に大きな差がある人達が共存している謎が解けます。

『アーリア人』と『ドラヴィダ人』の関係は、日本の『弥生人』と『縄文人』の関係と似ています。日本でも遅れて移住してきた『弥生人』が支配者となりましたが、現在の日本人は『弥生人』と『縄文人』の混血で成り立っています。

『アーリア人』が持ち込んだ土着宗教を主体として『バラモン教』が産まれましたが、当然『バラモン教』は『ドラヴィダ人』の土着宗教の影響も受けています。

やがて『バラモン教』から枝分かれして、『ヒンドゥー教』『仏教』『ジャイナ教』が生まれることになります。更に『仏教』は『ヒンドゥー教』や中国の『道教』など各地の土着宗教と融合し、現在に至っています。日本でも『神仏習合』で、日本的な『仏教』へと変貌しています。『ユダヤ教』から枝分かれして『キリスト教』『イスラーム』が生まれたのと似ています。

『釈迦』は、『バラモン教』の宗教慣習、思想が支配する時代の人(諸説あるが紀元前6~5世紀ごろ)ですから、当然この影響を受けています。

『釈迦』は王家の一門の人ですが、29歳で家族や全てを捨てて出家し、6年間の苦行を行います。この出家、苦行というプロセスは、『バラモン教』の慣習に従ったもののように見えます。

苦行で、身体が死に近いほど衰弱しますが、『何も得るものがない、無駄である』と悟り、苦行をやめて、体力を回復させ瞑想を行い『悟り』の境地へ達します。

『釈迦』は、極端な快楽主義と極端な苦行主義の双方を非難し、『中道』の重要性を説きます。これがやがて『仏教』が『バラモン教』から枝分かれする一つに原因になりました。

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2014年10月16日 (木)

ストレスは悪者か(4)

結論的に言ってしまえば、『ストレス』は悪者であって、悪者でないということになります。幼児の教育も、『優しさ』で接することは重要ですが、度が過ぎれば『甘やかし』となり、そうかといって『厳しさ』だけでは、『いじけ』の要因になるということと似ています。世の中の大半のことは、『過ぎたるは及ばざるがごとし』の側面があることを弁えておく必要があります。

古代中国の『陰陽思想』は、物事がもつ相反する性質を見抜いていたことになります。大体、『人間』そのものが『善良』であり『邪悪』であるという矛盾が共存する存在ですから、『陰陽思想』は卓見と言えます。

梅爺は、少々ひねくれていて、物事の両面を、ありのままに受け容れることの方が、実態に即していると感ずる性格が強いので、『一方的な主張』に出会うと、つい反抗したくなります。『宝塚』のモットーが『清く、正しく、美しく』であると聞くと、失礼ながらクスッと笑ってしまいます。『清く、正しく、美しく』ありたいと願うことは大切なことですが、このモットーを繰り返している内に、自分は、『清く、正しく、美しい』と心底思いこんでしまうと、周囲は閉口することになりかねません。

『私は、人さまに迷惑を一切かけずに、正しい人生を歩んできた』などと、真顔でいう主張する方とは、お付き合いは遠慮したくなります。

自分をことさら悪者にする必要はありませんが、『お陰さまで』という日本の精神風習は、素晴らしいと感じます。英語にも『~のお陰で(Thanks for)』という表現がありますが、これは特定なことを指して使う言葉で、日本語の漠然と全てに『お陰さまで』という表現とは異なります。日本語の『お陰さまで』は、周囲によって自分が生かされているという感謝がこめられています。

普段から、他人に思いやりをもって接する人は、愛情ホルモン『オキシトシン』の分泌が旺盛で、こういう人は『ストレス』に遭遇しても、克服できる可能性が高い、というのが『スーパー・プレゼンテーション』のスピーカーの主張でした。

『ストレス』に強くなりたければ、普段から優しく他人に接しなさい、という単純な論法で、すこし単純すぎると梅爺は感じましたが、他人に優しい人は、いざという時に、今度は他人が優しく接してくれる可能性が高いことは確かですので、結果的に『ストレス』を克服できることになるということかもしれません。

『ストレス』に耐える、『ストレス』に立ち向かうことは、生きる上で必要なことですが、『ストレス』を発散する、『ストレス』を当たり前のものとして受け容れるなどの行為や姿勢も、大切なことです。

心を穏やかに保っていても、病魔や災害に見舞われることがありますが、一般論としては、心を穏やかに保てば、身体にも良い影響が及ぶ、という主張には異論がありません。『人間』が『宗教』や『芸術』を必要とする意味が、少し分かったような気になりました。

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2014年10月15日 (水)

ストレスは悪者か(3)

『ストレス』を感じた時に脳内に分泌される『オキシトシン』は、本来『愛情』『絆』など『大切な人を支えたい』と感じた時に分泌されるホルモンです。『ストレス』緩和のために分泌されるのであろうと推察できます。

怪我の治癒・再生能力、病気の免疫能力など、人間は『不都合な状態』を排除しようとする能力をある程度保有しています。『脳』にも、『ストレス』という『不都合な状態』を緩和しようとする自己対抗策が備わっているとしてもおかしくありません。全て、『生き残る確率を高める』ために、進化の過程で試行錯誤の末獲得した能力です。『物質世界』の事象として観れば、これらの能力は、遺伝子でプログラムされて代々継承されてきたものです。能力に『個人差』があるのは、遺伝子情報に『個人差』があるためです。

『人間』が他の生物に優っているのは、高度で複雑な『精神世界』を保有し、この世界で獲得した『知識(情報)』を、記述情報(文字、言葉、絵、図、表など)として次世代に残し、共有利用してきたことに由来します。

他の動物でも、子供が親の行動を見習うことで、『知識』が代々継承されていくことはありますが、『人間』の『記述情報』で『知識』を継承していくしくみには遠く及びません。

『現生人類』は、過去500年位の短期間に、『記述情報継承』の量を、飛躍的に増加させました。これには『科学』が大きく貢献しています。私たちは『人類』の中で、非常に特殊な時代を生きていることになります。

『科学的な記述情報』は、『真偽が明確』であるという点で、非常に説得力があり、万人に適用できることが特徴です。

『天地は神が創造した』『太陽と月は神である』という『記述情報』と、『宇宙はビッグバンで膨張を開始した』『太陽は恒星で、月は地球の衛星である』という『記述情報』の違いは歴然です。前者は、真偽を問うことが難しい『人間が想像で創り上げた話』ですが、後者は『人間が発見した事実』です。

どちらも、『人間』の『精神世界』が関与する『記述情報』ですが、『精神世界』の中だけで意味を持つ情報か、『物質世界』の『摂理』の一端を論理的に検証して(発見して)記述したものであるかで、性質が大きく異なります。

私たちは、そろそろ、この二つを分けて考える対応を始める時期に来ているのではないでしょうか。『精神世界』だけで意味のある話と、『物質世界』の『真偽』が特定できる話とを混同して議論する方が、多すぎるように梅爺は感じています。

『宗教』や『芸術』は、『精神世界』の代表的な産物です。人間にとって非常に大きな意味を持ちますが、『人間がいない世界』では存在しませんし、意味も持ちません。一方『物質世界』の『摂理』は、人間の存在に大きな影響を及ぼしていますが、人間だけのために存在するものではありません。『人間のいない世界』でも厳然と存在し続けます。

人間は、遺伝子情報以外に、膨大な『記述情報』を継承し、それも利用して『進化』を加速させています。遺伝子情報だけでは進化は遅々たるものですが、『記述情報』の活用は、目を見張る速さで進化します。『スマホ(無線通信を利用した情報処理機器)』がどれだけ短期間で普及したかをみれば、そのすさまじさがわかります

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2014年10月14日 (火)

ストレスは悪者か(2)

過度の『ストレス』が心身の健康に良くない、という表現は一般論として肯定できる話です。

『人間』の行動の原点に、『安泰を希求する本能』があるとすると、私たちは、周囲に『安泰を脅かす要因』があるかどうかを常に監視していて、その『危険信号』が『ストレス』であるということになります。

『ストレス』を感知すると、脳内にそれを知らせるホルモンが分泌され、心身ともにこの『ストレス』を緩和する行為が無意識に行われます。心拍数や血圧が上昇したりするのもその現れです。

対応しきれない量の『ストレス』に遭遇すると、私たちは心身の健康を失いますが、適度な『ストレス』は、むしろ心身を活性化し、『生きている実感』を得る手段にもなります。しかし『ストレス』対応能力には個人差があります。年寄りは、『呆け防止』のために、『外出する』『他人と会話を交わす』など、ある程度『ストレス』のある生活をするように言われます。

悩み苦しみが多いこの世に生きているが故に、これから解放される『極楽』を夢みますが、現実に『極楽』の生活が続くと、私たちは今度は『退屈である』などと贅沢なことを言いだすのではないでしょうか。

酒も飲みすぎると健康を害しますが、適量はむしろ『百薬の長』と言われたりするように、『ストレス』も毒にも薬にもなるものであることが分かります。世の中の多くの事柄が、このように『長短所を合わせ持つ』と言えそうです。『長所は短所であり、短所は長所である』と達観すれば、色々なことへの対応が変ってきます。

この番組でスピーチを行った『Kelley McGonigal』も心理学者として、最初は『ストレスは身体に悪い』と一方的に考え、それを強調していましたが、ある時『必ずしもそうではない』ことに気付き、『ストレスとうまく付き合うこと』こそが、重要なのだと気付きました。

『ストレス』を感じた時に分泌されるホルモンは『アドレナリン』であることは知られていますが、これ以外にも『オキシトシン』も分泌されることが分かりました。これは『愛情』を感じた時に分泌されるホルモンでもあることが分かりました。多分『ストレス』を緩和する目的で分泌されるのでしょう。

『ストレス』は、人間の死亡率を43%高くすることが調査の結果判明しましたが、これは『ストレスは身体に悪い』と考えている人の場合で、『ストレスはむしろ歓迎すべきもの』と考えている人には適応されない数字であることも分かりました。同じ『ストレス』を受けても、『身体に悪い』と考えている人の血管は収縮して血圧が上がりますが、『むしろ歓迎すべきもの』と考えている人の血管は収縮がみられないという極端な違いがあることが分かりました。

これが本当なら、『病は気から』という表現は正しいことになります。梅爺流に言えば『精神世界』の『考え方、感じ方』が、『物質世界』の事象(この例では血管の収縮)に影響を与えることがあると言うことになります。元々、『物質世界』があって『精神世界』が出現したわけですから、両者が地続きであることは不思議なことではありません。

『神様が私たちを見守っていて下さる』と『信ずる』ことで、『心の安らぎ』が得られるように、『ストレスなんかこわくない』と『信ずる』ことで、『健康』が得られるという話です。『心の安らぎ』や『健康』を優先すれば、『神は存在するのか』とか『ストレスは本当にこわくないのか』などという議論は二の次になります。『科学』の世界では『信ずる』という行為は『無意味』ですが、『人間』が生きていく上で『信ずる』という行為が必ずしも『無意味』ではないことが少し分かってきました。

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2014年10月13日 (月)

ストレスは悪者か(1)

NHK地上波教育テレビ(Eテレ)の『スーパー・プレゼンテーション』で放映されたアメリカの女性心理学者『Kwlley McGonigal』の『ストレスと付き合う方法』というスピーチを視聴して、梅爺は大いに啓発されました。

『ストレス』というのは、外部から私たちの身体、精神へくわえられる刺激で、一般的には、『安堵、安泰を脅かす要因』の総称です。

肉体的には、『痛み』や『苦しさ』を伴うもので、精神的には『苦悩』『悲哀』『恐怖』『不安』『絶望』を引き起こす原因となります。

人間の根源的な本能の一つが『安泰を希求する本能』ではないかと、梅爺は度々ブログに書いてきました。『生き残りの確率を高める』ことを優先してきた『生物進化』の過程で獲得したものと推察できるからです。

『愛』『正義』『平和』などといった崇高な抽象概念も、元をただせば『安泰を希求する本能』に由来すると考えられます。『宗教』『芸術』『法』『道徳』『倫理』なども、単純なものが、崇高なものにまで進化した例と言えるでしょう。『心の安らぎを得る』『秩序で社会の安寧を保つ』は原点が『安泰を希求する本能』に遡ることができると考えられます。

『安泰を希求する』ということは、言いかえれば『自分に都合のよい状態を優先する』ということで、梅爺がこのように主張すると、『私はその様な利己的な人間ではない』と皆さまから反論があることは承知しています。

『人間は利己的であってはいけない』という価値観を私たちが共有するようになったのは、皆が『利己的』であっては『人間社会』は成り立たないからです。

『個人』は本質的に『利己的』ですが、人間が『群をなして生きていく』ことを必要とする生物である以上、『群の安泰』のためには、『個人は利己を抑制する必要がある』ことは必然となります。

『個人の安泰を優先するか』『群の安泰を優先するか』の選択の問題で、後者を優先すれば『利他的』という価値観や、『法』『道徳』『倫理』が登場するのは当然のことです。『私は利己的ではない』と主張する方は、そういう価値観を優先する社会を無意識に肯定している、そう云う風に教えられてきたということに過ぎません。

どんな人でも、いざという時には『利己』を優先する本能が、頭をもたげますから、自分の中の相克に悩むはずです。自分の中に悪魔と菩薩が同居しているなどと悩むのはそのためです。

『ストレス』は『安泰を脅かす要因』ですから、できれば、これを排除して生きる方が健全である、つまり『ストレスは悪者である』と私たちは一般に信じてきましたが、このスピーチは、『必ずしもそうではない』という内容でした。

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2014年10月12日 (日)

ヒンドゥー教の『解脱』(6)

私たちの『精神世界』が、『満足』を得るのは、以下の三つの場合に分類できます。

(1)肉体的な『欲望(食欲、性欲など)』が満たされた時
(2)精神的な『欲望(名声、権力、審美など)』が満たされた時
(3)全ての『欲望』を超越して『心の安らぎ(究極の安泰)』が得られた時

(1)(2)は『欲望』を追求する行為で、(3)は逆に『欲望』を放棄する行為ですから、『精神世界は何故このような矛盾を内包しているのだろうか』と梅爺は考え込んでしまいます。

『邪心』と『仏心』という矛盾した『心』が私たちの中に共存しているのは、上記の『欲望を満たそうとする心』と『欲望を排除しようとする心』という矛盾した『心』が共存しているためと、言い換えることが可能かもしれません。

『矛盾』の真因は、解明できているとは言えませんが、この『矛盾』を受け容れない限り『人間』は理解できません。『私は私利私欲などを考えたことがありません』などと言い張る人は、自分を冷静に見つめることができない人ですから、梅爺は敬遠したくなります。

幼児や子供を観察すれば、人間は生まれつき『欲望を排除しようとする心』を持ち合わせていないことが分かります。幼児や子供は、天真爛漫に(1)(2)の満足を追い求めます。こういう行為は『いやらしい下ごころ』とは無縁のように見えます。

大人になって、(1)(2)の『満足』の獲得を体験したり、獲得できない挫折を体験したりを繰り返した後に、はじめて、(1)(2)の『満足』は『所詮空しいもの』と思い至り、『欲望を排除する』ことによって得られ『心の安らぎ』が究極の『満足』ではないかという、価値観が醸成されるように見えます。

特に、老境に入って『自分の死』を意識するようになると、『欲望は所詮空しい』という実感が強まります。『死』に対する恐れと同時に、『究極の安息』としてあこがれの気持ちも持つと言う複雑な心境になっていきます。

『精神世界』に『欲望を排除する』という価値観が生まれるのは、『人生経験』と無縁ではないことが分かります。『欲望は所詮空しい』などと発言する子供は想像し難いことですが、そう発言する老人は、珍しい存在ではありません。

『ヒンドゥー教』が、人生を4つのステージに分け、老境に入った『林住期』『遊行期』の段階で、『解脱』の行為を行うことを理想とするのは、極めて現実的な人間観察に基づいた『知恵』であるように梅爺は感じます。

幼児や子供が天真爛漫に振舞い、青年が夢や野心を追いかけ、老人になって『欲望は所詮空しい』と思い当たるのは、『人生』の自然なプロセスではないでしょうか。

幼児や子供や、夢多き青年に、『解脱』『悟りの境地』のお説教をしても、あまり意味がありません。

しかし、梅爺のような老人には、『解脱』『悟りの境地』は切実な問題なのです。

老人や『悩みを抱えた人』に、『宗教』が『救済』の手段となるのは当然ですが、子供の『天真爛漫』や、青年の『夢、野心』を抑制する手段にはならないでほしいと梅爺は願います。

梅爺は『所詮は空しい』などと言いながら、一方『美味いものを食べたい』『好きな音楽を聴きたい』『知らない土地を旅してみたい』、そして『そう云う事を実現するには最低限の金が要る』などと平気でうそぶいています。『解脱』は理想と考えながら、『解脱』できない自分も肯定してしまうのが、普通の人間の振舞いではないでしょうか。『矛盾』の中で生きている自分は、褒めた存在ではありませんが、そうかと言って『罪』を背負っていると深刻に悩む必要もないと考えています。我ながら実に御しがたい爺さんです。

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2014年10月11日 (土)

ヒンドゥー教の『解脱』(5)

梅爺は、『ヒンドゥー教の解脱』と『仏教の解脱』の違いを、明確に理解できていません。

『釈迦』が、インドに継承されていた『バラモン教(後のヒンドゥー教)』的な考え方に影響を受けて出家をし、修行の末に『悟り(仏)の境地』に達したのであろうと想像しました。『釈迦』は『何故生きることには、苦しみ、悲しみ、迷いが伴うのか』という疑問を哲学的ともいえる思考で追求し、『心の中にある煩悩』がその元凶であることを突き止めました。元凶が特定できれば、それを排除して『安らぎだけの境地(悟りの境地)』に到達できると考えるのは、当然の論理思考です。

『釈迦』は『煩悩を解脱した』と伝えられ、現代の禅僧も『煩悩を解脱しよう』と過酷な修行を積みます。『煩悩』を放置すると、『欲望』は限りなく肥大し、現状に満足しなくなるように人間はできています。競争における勝者も敗者も、心は荒廃し、『心の安らぎ』を望むべくもない状態になります。現代文明社会は、この『心の荒廃』の問題を克服できていません。

生物として進化してきた『ヒト』には、『安泰を希求する本能』が遺伝子として継承されていて、この本能が『煩悩』の基になっていると梅爺は推測しています。言い換えれば『煩悩』を完全に排除して『生きる』ことはできない宿命を帯びています。本来『生きる』ことと『心の安らぎ』を求めることは、矛盾していることになりますが、この矛盾を人間は幸いなことに『理性』で、最小限度に抑制することができます。

『煩悩』を抑制しなさいという、宗教的、道徳的な『命令』に盲目的に従うのではなく、抑制することが『自分の安泰を確保する上で大切なこと』と自ら『理性』で判断することが理想です。このように『自分のために、自分を抑制する』ことができる人達が増えることが、文明社会が新しい段階へ進む、望みにつながります。

出家した『釈迦』は、『この世の本質は何か』も哲学的に思考し、『縁起(全てがつながっている)』という概念に行き着きました。『仏教の解脱』はこのように、極めて『精神世界』における哲学的思考が特徴です。

一方『ヒンドゥー教の解脱』は、そのような深遠な哲学的思考というより、極めて世俗的な『慣習』『御利益(ごりやく)』『知恵』の様相を呈する行為のように梅爺には見えます。世俗的な生活から逃れて、死後天国へ向かう準備期間ということなのかもしれません。

『行者になると、霊能者、超能力者になることができる』といった考え方もあり、なにやらいかがわしい『超能力者』が、現在でも『ヒンドゥー教』社会には沢山出現します。

日本の『オーム真理教』は、『ヒンドゥー教』の影響を受けたものですが、信者が『教祖は超能力の持ち主で空中浮揚ができる』などと『信ずる』ことになるのもこのためです。

『解脱』は、行為がもたらす境地なのか、思索がもたらす境地なのかが、大雑把に言えば『ヒンドゥー教の解脱』と『仏教の解脱』の違いかもしれません。梅爺は、『仏教の解脱』の方により深い関心があります。

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2014年10月10日 (金)

ヒンドゥー教の『解脱』(4)

『ヒンドゥー教』の上位三つの『カースト(階級)』に属する男性は、『学生期』『家住期』『林住期』『遊行期』と人生を4つに区切って対応することを理想とします。

『学生期』『林住期』に入る前に、『通過儀式』が執り行われます。『学生期』への『通過儀式』は、『生まれ変わりの儀式』で、『林住期』への『通過儀式』は『死の儀式』ということになります。

『ヒンドゥー教』では、一般に人が死ぬと火葬にふし、遺骨は『聖なるガンジス河』へ流し、『墓』は作られません。遺体を焼くのは、『穢れ』を取り去るためで、煙とともに『霊』が天国へ登ると考えられています。『ヒンドゥー教』では、『死』と『血』を『穢れ』として極端に嫌います。月経時の女性は『穢れ』として、身を慎みます。日本でも同じような考え方が昔あったように思いますが、『ヒンドゥー教』の考え方が伝わったものではないでしょうか。

『林住期』への移行は、家族や財産などと決別して、『行者(世捨て人)』になることを意味します。『死の儀式』を通過しますので、『行者』が亡くなった時は、遺体は既に『穢れ』がないとして、土葬にしたり、『墓』のようなものを作ることもあるようです。

昔は、平均寿命が50歳程度でしたので、多くの男性は『家住期』で死を迎えることが大半で、誰もが『行者』になったわけではなさそうです。『仏教』の『出家』と同じく、信仰深い特定の志の人達が『行者』になったのでしょう。ただ『人生の理想』ですから、『行者』は一般の人たちから尊敬されることになります。

衣一枚で、樹の下で寝ても、凍え死ぬことがない、インドの気候ならではの習慣のようにも思えます。『宗教』の習慣は、気候、風土と無縁ではありません。

『行者』を意味するサンスクリット語の『サードゥ』が、中国では『三昧』と訳され、現在の日本では、『読書三昧』などと使われます。一見『行者』とは無縁のようですが、『あることだけに集中する』というような元の意味が継承されているのではないでしょうか。

『人間』は若いころは、夢や希望を持ち、野心的で『この世の幸せ』を追い求めますが、死期が近づいた老人は、『心の安らぎ』『あの世での幸せ』が優先事項に変ると言う、『人間』の本質に現実的に対応した考え方を、『ヒンドゥー教』は知恵として採用しているようにも思えます。野心的な若者はある意味魅力的ですが、野心的な爺さんは多くの場合敬遠されます。

『キリスト教』では『愛』は、至高の概念ですが、『ヒンドゥー教』や『仏教』では、『愛』は『煩悩』の一つとして、時に否定的な意味を持ちます。物事をどのような側面で観るかの違いですから、どちらが『正しい』ということはありません。

『家族との絆を断ち切って出家する、行者になる』という行為が、そのことを示しています。『解脱』は、自分の世界を最優先するわけですから、観方によっては非常に『エゴイスティック』な行為とも言えます。また観方によっては、老人の存在が若い世代への負担にならないように縁を切る『思いやり』の行為ともいえます。

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2014年10月 9日 (木)

ヒンドゥー教の『解脱』(3)

地位、名声、権力、富など、現世の『欲望』に由来するものだけを追い求める生活は、やがて『心の荒廃』を生み出し、その極端な反動として、一切の『欲望』と無縁な生活を求める一部の人達が出現します。『出家』『世捨て人』『修道士(尼)』『隠遁者』などがそれにあたります。。

『一部の』と書いたのは、全ての人が『欲望追求』の生活に、『空しさ』を感ずるとは限らないからです。『欲望追求』は、『自分の安泰を最優先する』という生物としての『人間』の本能ですから、少なからず誰もが保有する資質です。

『自分の安泰を最優先する』という行為は、反面『他人の安泰を脅かす』ことにもつながり、また『自分は自分の能力、努力だけで生きている』と勘違いし、傲慢になると同時に孤独にもなっていきます。それが『空しさ』を感ずる要因ですが、自分が『空しさ』に蝕まれていることさえ気付かない人達も沢山います。

『空しさ』を感ずる人は、『自分は生かされている』ことに気付き、そのことに『感謝』すると同時に、『愛』『信頼』『友情』などで築かれた他人との絆が、何よりも強固で、尊いことを知ります。人間同士の絆は、それでも脆いところがありますが、一方『神』や『仏』との絆は強固ですから、『信仰』が『心の安らぎ』を生み出すことになります。

同じ『人間』でありながら、『欲望』だけに終始することに『空しさ』を感ずる人と、全く感じない人が存在するのは、『人間』の『精神世界』に個性があるからです。『精神世界』は『脳』が母体ですが、『遺伝子』と生後の体験のなどが複雑に絡んだ『脳神経細胞ネットワーク』のパターンで構成され、このパターンは厳密には一人一人異なっています。『愛』や『感謝』を大切にする心は、『精神世界』の『情』の機能ですが、幼児期の体験がこの育成に大きく関与することが分かっています。幼児期の『情育』を国がシステム的に行うことが、日本を将来『思いやりに満ちた社会』にするために重要なことです。『道徳』を『理』で教え込もうとする学校教育は、全く無益であるとは言えませんが、幼児期の『情育』に比べれば、効果が少ないと梅爺は考えています。

普通の人は、『世捨て人』になる決断は難しく、そうであるが故に、『世捨て人』を敬い、喜捨などで『世捨て人』の生活を支援することは徳を積む行為と考えられるようになります。『仏教』の『托鉢僧』への対応なども、インドの宗教基盤から生まれたものらしいことが分かります。それでは『世捨て人』は、『心の安らぎ』を得て平穏かというと、そうではなく、今度は捨てたはずの『欲望』が頭をもたげて、これとの葛藤に悩むことになります。『世捨て人』が『修行』を必要とするのは、この『欲望』との葛藤に対処するためです。

誰もが『釈迦』のように、『悟りの境地』に達するとは限りません。『人間』の『精神世界』は、『欲望の追求』と『欲望の否定』の間で揺れ動くように、そもそもできているように思います。どこでバランスをとるかは、その人の価値観で決まり、この価値観にも個性があります。人間社会が複雑なのは、これに由来します。

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2014年10月 8日 (水)

ヒンドゥー教の『解脱』(2)

『欲望』に執着する心が『煩悩』となり、結局『安泰』を脅かすことになるという考え方は、『精神世界』という厄介なものに対応しようとした人間が共通して辿りつく推論上の帰結です。

私たち日本人は、『仏教』からそれを教わり、『解脱(悟りの境地)』という概念を共通認識として保有しています。しかし、これは『仏教』だけの考え方ではありません。

『俗世から離れて生きる』という行為は、民族や宗教を問わず、人類が一種の『理想』として追い求めてきました。

『キリスト』の時代の『ユダヤ』には、『エッセネ派』という、世俗を離れて清貧な集団生活を送る『ユダヤ教の宗派』がありました。『バプテスマのヨハネ』などは、『世捨て人』の印象が強く、『エッセネ派』との関連があるのではと考えられています。『キリスト』が弟子たちと行った、布教活動からも、世俗の生活臭は感じられません。『キリスト』も荒野で一人修行したとされています。

『カトリック』や『正教』の、世俗を捨てて神に仕える『修道僧(尼)』も典型例です。裕福な家庭に育ち、青年時代までは放蕩生活を送ったと言われる『アッシジの聖フランシスコ』も、突然財産をはじめ世俗的なものを全て放棄して、聖職に身を投じ、世界中から最も尊敬される聖人の一人になりました。

現代アメリカにも、一切の文明の利器を使わず、自給自足の農耕中心の集団生活をおくるキリスト教の宗派『アーミッシュ』が存在します。

『釈迦』が『解脱』して『仏』になったという話も、『釈迦』以前からインドにあった、老人が全て世俗を捨てた生活を送ることを理想とする考え方が影響しているように思えます。つまり『バラモン教』『ヒンドゥー教』に既に『解脱』という概念が存在していたということになります。

『イスラーム』の教祖『ムハンマド』も、洞窟で瞑想中に『大天使ガブリエル』のお告げを受けたと伝えられています。

中国には、古代から『仙人』思想が継承されています。隠遁した老人を『知恵者』として敬う考え方は、古代エジプト、古代ギリシャにも存在しました。

『煩悩からの解脱』『世俗を捨てた瞑想』が、『究極の心の安らぎ』を得る方法であるという因果関係は、人間の推論能力で得られますが、凡人にとっては『世俗を完全に捨てる』ことは現実に不可能に近いことですので、凡人の共済策として、『神の救済』『仏の慈悲』という思想が生まれたのではないでしょうか。『神や仏が存在するから心の安らぎが得られる』のではなく、『心の安らぎを得るために神や仏と言う概念を必要とした』というのが、梅爺のひねくれた考え方です。しかし、同じようなことを主張する方にあまり出会ったことがありませんので、極めて少数派の意見です。

『精神世界』を追求すると、結局人間は民族や宗教を問わず、同じようなことを思いつくように梅爺は感じます。『精神世界』の本質を追究すれば、それは当然のことのように思います。

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2014年10月 7日 (火)

ヒンドゥー教の『解脱』(1)

『人間』が生きる上で、基本的に必要なことは、肉体の機能が正常に機能する状態にあるということです。エネルギー源や栄養源が摂取でき、新陳代謝が行われ、不要物を排泄できるといった、『物質世界』の摂理に適った行為が『肉体的な健康』を保つ基礎要因です。これは、貴賎、貧富などの関らず万人に共通なことで、『人間』以外の生物が『生きる』ことと、何ら変わりません。 

ところが、『人間』は生物進化の過程で、高度に発達した『脳』を獲得し、この『脳』がつくりだす『精神世界』という仮想世界が、生きることへも大きく関与するようになりました。このことが、『人間』を複雑にし、『精神世界』が健全に機能しなくなると、『精神疾患』という病を抱え込むばかりではなく、『肉体の健康』をも蝕むことになります。 

つまり『人間』が人間らしく尊厳を持って生きていくためには、『肉体の健康』と『精神世界の健康』の両方が必要であるということになります。

『精神世界』は『安泰を最優先する本能』に支配されていると梅爺は推測しています。この本能があるからこそ、『生物』として生き残って来ることができたと考えるからです。

『精神世界』は『安泰を脅かす要因』に敏感に反応します。『抗しきれない相手や状況によって安全が脅かされる』『愛する人や仲間との絆を喪失する』『自分の存在が周囲から無視される』『死は避けられないと感ずる』などの場合、『脳』は、『不安』『恐怖』『悲しさ』『寂しさ』『空しさ』などのネガティブな危険信号を発します。具体的には相当するホルモンが脳内に分泌されます。これらの『情感』は、私たちの意志とは無関係に、ふいに襲ってきます。

『生きる』ことは、上記のネガティブな危険信号に遭遇し続けることでもありますから、『悩み、苦しみ、悲しみ』を抱え続けることになります。言い換えると『悩み、苦しみ、悲しみ』無しに『生きる』ことは、望みえないことになります。

『悩み、苦しみ、悲しみ』は『生きているからこその証』であると、受け容れることができる人は器の大きな人ですが、多くの人は、『悩み、苦しみ、悲しみ』から解放されて『生きたい』と、無理な望みを抱きます。これも『安泰を最優先する本能』の成せるわざです。

『人間』は、やがて『神の救い』『仏の慈悲』などという概念を考え出し、『宗教』の基盤が形成されたと梅爺は推測しています。『神』や『仏』が本当に存在するかどうかより、結果的に『心の安らぎ(安泰)』が得られることに意味があります。『宗教』の本質的な意義はここにあります。

『人間』の『欲望』や『煩悩』が、『悩み、苦しみ、悲しみ』を作りだす要因であると考え、『欲望』や『煩悩』に支配されない生き方を選ぶ人達が、どの『宗教』にも出現します。究極の『精神世界の健康』はこれで得られるという考え方です。

勿論『ヒンドゥー教』にも、『解脱(げだつ)』という考え方があります。

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2014年10月 6日 (月)

ウンベルト・エーコ『The Island of the Day Before』(6)

『物質世界』の事象を論ずる時には、普段の私たちの日常会話の中でも、小説の中でも、『摂理』にかなった内容でなければなりません。一方『精神世界』は、『なんでもあり』の世界ですから、他人の迷惑にならない限り、原則として何を表現してもかまわないことになります。『空飛ぶ象』や『八岐大蛇(やまたのおろち)』も『精神世界』の創作ならば、それですむ話です。しかし、それらが『物質世界』にも存在するという主張になると、梅爺のような理屈屋は、『ちょいと、お待ちなさい』と言いたくなります。 

『空想』『妄想』は、人間なら誰でも体験する『精神世界』の事象です。多くの場合、背景に『期待』『願望』など『自分にとって都合のよいこと(安泰)への希求』する本能が働いているからです。ただし『怨恨』『呪い』など『精神世界』の闇が現れることになると、おどろおどろしい話になりかねません。『自分の精神世界の中の事象である』と区別できていれば問題ありませんが、『物質世界』が関る現実の事象と混同すると、ややこしいことになります。『自分が期待するように相手が行動しないのは怪しからん』と相手を非難したりすることになるからです。個人ばかりか、国家もこれで紛争を繰り返しています。『夢(精神世界が関る事象)』か『現(うつつ:物質世界が関る事象)』かは、よほど冷静に判断しないと、間違うものです。 

この小説は、背景で展開される現実世界の話が、17世紀の話であるからといって、一切荒唐無稽な内容はなく、全て現代人でも納得する『理』が貫かれています。一方、登場人物の『精神世界』は、『空想』『妄想』で満ちていますから、区別して読まないと頭が混乱します。

『ロベルト』は、無人船に一人取り残されるといった過酷な環境で、『妄想』が激しくなっていき、自分の分身『フェランテ』が、かつて自分が恋心を抱いた娘『リリイ』の愛を勝ち取り、二人は航海に出て、不思議な島々を経て、船が難破し、『リリイ』は、『ロベルト』の船から見えている『前日島』の裏側に漂着して、助けを待っていると思い込みます。

『フェランテ』と『リリイ』が、遭難の前に訪れた島々では、『ガリバー旅行記』のように、奇怪な動物や、『肉体は朽ち始めているのに300歳までは死ねない人間(死だけが望み)』に遭遇します。全て『ロベルト』の妄想ですから、『なんでもあり』ということです。

『ロベルト』は、『前日島』へ到達できれば、時間を前日に戻して、『リリイ』の漂着を待ち構えることができると思い込み、現実の海へ飛び込み、命を絶つことになります。つまり『ロベルト』は、『妄想』と『現(うつつ)』の区別ができない精神状態で、死へ向かいます。

『物質世界』の『絶対時間』と、人間が約束事で決めた『日付変更線(子午線)』や『相対時間』の意味を『ロベルト』は正しく理解できずに、『現(うつつ)』の世界でも『時間を逆戻しできる』と勘違いしていることになります。

『ウンベルト・エーコ』がこの小説で云いたかったことは何かは難解ですが、人間の『夢と現(うつつ)を混同し易い習性』は、その一つではないかと梅爺は感じながら読み終えました。

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2014年10月 5日 (日)

ウンベルト・エーコ『The Island of the Day Before』(5)

小説は、作者が登場人物を利用して、その『精神世界』を描き出します。昨日も書いたように、作者の『精神世界』が、登場人物の『精神世界』を創出すると言う二重構造になっています。この小説では『ウンベルト・エーコ』が、登場人物とその『精神世界』を創出していますが、登場人物の考え方や主張は、『ウンベルト・エーコ』自身の考え方や主張を反映しているわけではありません。少しややこしい話ですが、悪者が登場する劇の脚本を書いた人は悪人とは限らないという、関係と同じと理解すれば、分かりやすいかもしれません。 

『ウンベルト・エーコ』の小説の特徴は、執拗に物事の本質を『理』で極めようとする習性に満ち満ちていることです。この習性は、西欧の『教養主義』とも言えるもので、梅爺のような『屁理屈大好き人間』には、『面白さ』の宝庫ですが、多くの日本人には、『なんでそんなことに、それほど執着するの?』と敬遠したくなるかもしれません。『古池や蛙飛びこむ水の音』『なにごとの、おわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる』などの表現を、日本人は深遠な『情』の世界でとらえ感動しますが、このような感動を『ウンベルト・エーコ』の小説に求めても徒労に終わります。

17世紀のイタリア青年『ロベルト』が置かれた境遇で、『世の中の不可解な事象』を、どのように推論して、原因を考え出そうとするかといった事例が沢山網羅されています。梅爺は『ロベルト』が持ち合わせていなかった、現代人なら常識とされる知識を多量に保有していますので、『ロベルト』が知らない本当の原因を既に知っていたり、梅爺も原因は知らないにしても『ロベルト』と同じようには推論をしないことは明らかです。ただ『与えられている知識の中で、懸命に原因を推論しようとする態度』は、『ロベルト』も梅爺も同じですから、これが時代を超えて『人間』の共通特性であることが分かります。『ロベルト』の考えが正しいかどうかは、梅爺にとってはどうでもよいことで、懸命に考えようとする『ロベルト』に共感します。

例えば、『人間は考える』ということから敷衍(ふえん)して、それならば、他の動物や植物も『考える』のだろうかと、『ロベルト』は思考を進めます。そしてついに『路傍の石』も『考える』のだろうかと疑問を持ちます。『石は自分と外界の境界を意識できているのか』『自分が溶岩に呑みこまれて溶けてしまう時に、自分が消滅すると認識できるのだろうか』『石を構成している究極の素材である原子も更に細分化していけば、最後は無に到達するのか』など次々に疑問が湧いてきて、それに関する『ロベルト』の思考だけで、数ページが費やされます。

このような疑問は、『ウンベルト・エーコ』の疑問ではなく、自分が創りだした人物(『ロベルト』)の『精神世界』を借りて、想定した疑問に対して『展開する思考シュミレーション』そのものを愉しんでいるのであろうと思われます。『高度で知的な遊び』と言えるのかもしれません。

梅爺も、これらの疑問には、梅爺なりの解答ができますが、それが『ロベルト』の主張と異なっているのは当然のことですので、『なるほど、あなたはその様に考えたのですね』と、こちらも違いを確認しながら愉しむことになります。

『考えることは億劫だ』という人には『ウンベルト・エーコ』の小説は、興味の対象にはなりませんが、『考えることは楽しい』という人には、考える素材が山積みになっている、宝の山なのです。

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2014年10月 4日 (土)

ウンベルト・エーコ『The Island of the Day Before』(4)

少々自慢じみて恐縮ですが、梅爺は、ブログを書き続けるうちに気付いた『物質世界と精神世界を分けて考える視点』が、今回この小説を読む上で、大いに役立ちました。

『ウンベルト・エーコ』は、主人公『ロベルト』や、その他の登場人物の『精神世界』を記述して読者に提示します。中世の人たちが、当時の知識(科学知識など)を駆使して、『真理』を推測し、それぞれ自説を述べます。『精神世界』は個性的なものですから、生まれつきの性格、育った環境(道徳、倫理感)、宗教的な信条で、内容は異なることになります。『ウンベルト・エーコ』は、『ロベルト』の他に『理屈好きな神父』『社会通念としての宗教や道徳に反撥する青年』『物識りな修道士』などを登場させ、それぞれの『精神世界』を描きわけます。

『精神世界』は、『物質世界』のように、『摂理』で厳格に支配されることはありませんから、自由な発想が許され、『なんでもあり』の世界です。『かぐや姫』は、竹の中から生まれたり、月へ帰ったりしてもかまいません。

この小説の登場人物が、当時の科学知識をもとに、推測する『物質世界』の『真理』に関する自説は、現代人の読者には、間違いで滑稽に見えます。私たちは、沢山の科学知識を保有しているからです。『ウンベルト・エーコ』は、読者が中世の人たちを見下すことで、ある種の優越感を持つことを計算して仕組んでいるのでしょう。しかし、作者の本当の意図は、『現代人の知識も相対的なもので、数百年後の人たちにはあなたたちも滑稽に見えることになる』と言いたかったのではないかと思います。品のない表現で恐縮ですが『目くそ鼻くそを笑う』ということに気づきなさいということなのでしょう。

ややこしいことに、これら登場人物の『精神世界』は、全て『ウンベルト・エーコ』の『精神世界』の創作であることにもなります。

慎重にこの小説を読めば、『ウンベルト・エーコ』は、『精神世界』と『物質世界』を混同していないことに気付きます。『物質世界』で起きている事象を記述する時は、決して『摂理』を無視したりはしていません。梅爺が『さすが!』と唸るのはその点です。

現代人でも納得する『物質世界』の事象に関する記述、登場人物の様々な『精神世界』の記述で、小説は構成されています。荒唐無稽な推理、妄想などが沢山登場しますが、それは『精神世界』で許容される話であると、区別して読めば、頭が混乱しなくて済みます。

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2014年10月 3日 (金)

ウンベルト・エーコ『The Island of the Day Before』(3)

『ウンベルト・エーコ』は、『文学について』というエッセイの中で、作者が『時系列』にそって物語を展開するのではなく、話をあっちへ飛ばしたり、こっちへ戻したり意図的に操作すると、読者は、迷子にならないように自分で『時系列』や『場所』を頭の中に構築しながら読まなければならないことになり、緊張感や興味が増す効果があると、書いています。 

『刑事コロンボ』のストーリーは、最初に事件が提示され、視聴者は犯人が誰であるかを知り、コロンボが如何にして、犯人を追いつめるかをその後楽しみます。『倒叙法』という、推理小説で使われる単純な『時系列』逆転の手法です。映画で、昔を回想するシーンが挿入されたりするのもこの手法です。 

本を読んでいて面白いと読者が思うのは、『精神世界』で興味が喚起されていることを意味します。作者は、読者の興味を喚起しようと、あの手この手の仕掛けをすることになりますが、『ウンベルト・エーコ』の場合は、『時系列』の操作がその一つです。

この小説を、『時系列』で記述すれば、以下の順序になります。

(1)17世紀のイタリアの青年貴族『ロベルト』が、イタリアの城で、フランスの援軍と一緒に、攻撃してくるスペイン軍と闘う。この城内で、美しい娘『リリア』を一目ぼれするが、遠くから垣間見るだけの片思いの域をでることがない。また、この城内で、『理』で考える性向の強いカトリックの神父や、神を畏れず冒涜的な意見を持つフランス人の青年と交流を持つ。この戦いに敗れ、『ロベルト』の父は、戦死する。
(2)その後、『ロベルト』はフランスのパリへ行き、サロンで、上記の神を畏れぬ青年や、その他の論客と交流し、見識を深める。しかし『ロベルト』の発言が、フランスで『反逆罪』に問われ、投獄される。フランスの『枢機卿』は、『ロベルト』がフランスのスパイになり、英国の科学者が地球の『経度(日付変更線)』測定方法を模索する目的に乗船している外国船に乗り込んで、英国の得た科学成果を盗んでフランスへ報告するならば、罪を許すと条件提示をし、『ロベルト』はそれを受諾して、『アマリリス号』に乗船し、南太平洋英国のソロモン諸島近辺へ向かう。
(3)『アマリリス号』は、嵐で難破し、『ロベルト』だけが板につかまって漂流し、『ダフネ号』という船に辿りつく。『ダフネ号』は、眼の前に見える島のサンゴ礁沖に、停泊しているにもかかわらず、乗船してみると無人船らしいことに気付く。船内を探検していて、隠れ乗っていたジェスイット派の修道士を発見する。修道士から、何故『ダフネ号』が無人船になったかの経緯や、眼の前の島は、『日付変更線』の向こうにあるために、『前日の島』であることを知らされる。
(4)『ロベルト』と修道士は、なんとか眼の前の島へたどり着こうと、色々工作する。修道士は、手作りの潜水服で島へ向かうが、失敗して死んでしまい、『ロベルト』は一人『ダフネ号』に取り残される。『ロベルト』は、体験や片思いを『リリア』へ向けた手紙形式の手記(日記)を書き綴る。『ロベルト』は泳ぎを徐々に覚え、なんとか島へたどり着こうとするが、ことごとく失敗し、最後は妄想に取りつかれて、船に火を放ち、泳いで島へ向かおうとするが、死んでしまう。

この小説では、先ず(3)の、『ロベルト』の『ダフネ号』への漂着から始まり、次に(1)(2)が語られ、最後に(4)で『前日島』への到達を果たせずに『ロベルト』が死ぬところで終わります。

読者は、『ロベルトとは一体どういう人物なのか』『何故ダフネ号は無人船なのか』『前日島とは一体どういう島なのか』と次々に興味が湧いてきて、読み進むうちに、『そういうことか』と全貌が見えてくるしかけになっています。

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2014年10月 2日 (木)

ウンベルト・エーコ『The Island of the Day Before』(2)

梅爺が大好きな外国の作家『ウンベルト・エーコ』、『パウロ・コエーリョ』は、それぞれイタリア人、ブラジル人で、原著は、イタリア語、ポルトガル語で書かれていますから、残念ながら直接読む能力を保有していません。

どうせ翻訳本を読むなら、邦訳でも同じで、その方が楽であるとは思いますが、40歳のころから始めた『英語の本を読む』という習慣が身についていて、書店の洋書コーナーで、お目当ての作家の本を見つけると、つい購入してしまいます。

『文学』も『芸術』のひとつのジャンルですから、読み手の『精神世界』は、『理』と『情』で対応します。作家は、語彙、文体などを駆使して、語感、リズム感といったニュアンスを表現しますから、本来、作家と読者は、『同じ言語を日常的に使っている人』であるという関係が望ましいことになります。

『音楽』の歌唱曲、合唱曲などは、作曲家が歌詞のニュアンスを音楽的に表現していますから、訳詞で歌うことは、原曲の持つ情感を損なうことになりかねません。梅爺が所属している男声合唱団『アカデミカ・コール』では、原則『原語』の歌詞で歌うことにしています。そうすると今度は、歌い手の言語能力が問われることになり、更に日本人の聴衆には、言葉の意味が伝わらないという短所が生じますが、それでも、『原曲』のもつ音楽的な感性を、できるだけ忠実に再現することを優先しています。

北原白秋作詞、山田耕筰作曲の『からたちの花』を、英語に訳詞して、歌って、どれだけ日本語の情感が伝わるかを想像して見れば、無謀をさけたくなる気持ちはご理解いただけるのではないでしょうか。『オペラ』も原則は『原語』で上演されるのが習慣です。国際的なオペラ歌手は、イタリア語、ドイツ語、フランス語、英語、ロシア語などを使い分けて、3時間以上の公演を暗記してに対応するわけですから、プロとは言えその能力に感服してしまいます。

『The Island of the Day Before(前日島)』という小説(英語訳)は、細かい活字を用いて510ページに及ぶ大作で、梅爺は、老眼をおして読み進むことも大変でしたが、難しい語彙、複雑な文体にも手こずりました。ラテン語の言葉や文章もそのまま登場しますから、その部分は、生半可な理解で読み進めざるをえないことにもなりました。

原著(イタリア語)の情感が、どれだけ英語訳で表現されているのかは、梅爺には分かりませんが、翻訳が『大変な作業』であったであろうことは、容易に想像がつきます。

文章を用いて、内容を『理』だけで伝える目的であれば、平易な表現にこしたことはありませんが、『情感』を伝えようとすれば、語彙や文体の選択幅がひろがりますので、読者の能力では『難解』な表現が登場するのは避けられません。

『ウンベルト・エーコ』の頭脳に、当たり前に去来する語彙や文体が、梅爺の頭脳では難解であるだけに過ぎませんから、『私の能力の程度に合わせて書いて欲しい』とは、恥ずかしくて言えません。

梅爺は、『ウンベルト・エーコ』が意図した内容の、何分の一しか理解できていないとは思いますが、それでも梅爺でも『興味を引かれる表現』が随所に登場します。全体のストーリーとは関係なく、部分部分の表現だけでも、『精神世界』は啓発されますから、適当なページを開いてそこだけ読んでも『面白い』ことになります。

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2014年10月 1日 (水)

ウンベルト・エーコ『The Island of the Day Before』(1)

イタリアの作家(記号論哲学者、中世史学者、評論家、随筆家)『ウンベルト・エーコ』の小説『The Island of the Day Before』を英語訳のペーパーバックで読みました。 

日本では、『前日島』というタイトルで、翻訳本が出版されていることを、後で知りました。梅爺の美的センスの好みで云えば、『前日島』というような『漢語』の表現より、『昨日の島』というような『和語』のニュアンスにしたくなります。勿論『前日島』は、厳密に正確な訳ですから、間違っているわけではありません。 

作者の『ウンベルト・エーコ』は、当代きっての『教養人』の一人であると、梅爺が勝手に崇めている人物です。自分の凡庸さに比べて、世の中にはなんと桁外れに『頭が良い』人がいるのだろうと、ただただ感服しています。スポーツや音楽、美術の世界の『超人、天才』にも驚きますが、広大な『精神世界』の持ち主である『ウンベルト・エーコ』の博識、深い洞察力の前では、自分が卑小に見えてきます。 

『ウンベルト・エーコ』は、学者として多くの論文、評論、随筆がありますが、1980年に出版した小説『薔薇の名前』が、世界的なベストセラーになり、人気作家の仲間入りをしました。 

『薔薇の名前』を含め、6冊の長編小説を執筆しています。小説に関しては、あまり多作な作家とは言えません。梅爺は、いずれも英語訳ぺパーバックで、『薔薇の名前』『フーコーの振り子』『バウドリーノ』そして今回の『前日島』と4冊を読んだことになります。 

エッセイとしては『文学について』を、これも英語訳で読み、『梅爺閑話』に感想を掲載しました。 

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_8405.html

『薔薇の名前』の舞台は、14世紀の北イタリアにあるカトリック修道院で、怪奇な事件、殺人事件が次々に起こり、これを二人の修道士(師と弟子)が、シャーロック・ホームズとワトソンのように、解明していく物語です。 

しかし、物語の背景には、中世の『宗教論争(厳格な清貧を求めるフランシスコ派と教皇庁の間の論争)』『異端尋問』があり、更に修道院の『図書館』が担っていた『知の宝庫(失われた古代の文献の発掘と複写など)』の役割なども関与しています。 

梅爺は、背景に関する歴史的知識をほとんど持ち合わせていませんでしたから、単なるよくできた『推理小説』として、当時読んだことになります。世界的なベストセラーになったのも、『推理小説』として面白かったからではないでしょうか。 

もし、梅爺が中世の歴史知識を持ち、問題意識も持っていれば、『薔薇の名前』は、もっともっと深く楽しむことができたに違いありません。 

『ウンベルト・エーコ』は『文学について』というエッセイの中で、小説の二面性、『表面的に読んでも面白い、深く読めば読むほどもっと面白い』、を重要な資質として挙げています。自らが実践していることになります。 

『前日島』も、このパターンは全く同じです。作者が、昔の人の手記原稿を偶然手に入れたという想定、主人公(イタリア貴族の青年ロベルト)の奇想天外な生涯(ソロモン諸島近辺で、難破船に一人とり残される)、主人公や彼の周囲の人たちが当時の知識(特に科学知識)をもとに展開する推論の数々などが、『表面的に読んでも面白い、深く読めば読むほどもっと面白い』という緻密に構成されている小説です。

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