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2014年8月31日 (日)

ヒンドゥー教とカースト制度(3)

『階級』や『格差』は、どの人間社会にも存在しますが、『カースト制度』は、『ヒンドゥー教』という宗教の『考え方』が色濃く反映しているのは当然のことです。

『宗教』が社会の全ての基盤であった、原始社会では、霊媒者、呪術者が『神』と人間を仲介する者として、最高権力者であったと考えられますが、やがて社会の規模が大きくなると、『宗教』の権力者と、『政治・経済』を取り仕切る権力者の力関係が微妙になってきます。

古代エジプトのファラオや、インカ帝国の皇帝など、『神の化身』として『宗教』『政治・経済』全ての頂点にたつ人物の場合は、権力が一人に集中にしいますから力関係は問題になりません。司祭者は王(神)に仕えていたことになります。

最初に『宗教』の権力者がいて、後に『政治・経済』の権力者が台頭してきたような場合は、両者の関係が問題になります。日本の歴史や、インド『ヒンドゥー教』社会の歴史がこれに該当します。

日本の場合は、『天皇(宗教的権威者)』の権威を、『政治・経済』の実質権力者が、表面的に尊重するという、実にうまい『しくみ』をつくりだし、今日までその『しくみ』が継承されています。勿論、全ての権力を握ろうとした『天皇』がいたり、『天皇』を軽んじた実質権力者がいなかったわけではありませんが、形式的な相互尊重という『しくみ』が伝統的に定着しています。梅爺は、日本人のすばらしい『知恵』のひとつと感じています。『政治権力闘争』、『民族間闘争』を中心に展開された中国の歴史では、『宗教』は政治の道具になることはあっても、歴史の原動力であったようには見えません。現在の中国でも『宗教』は弱い立場にあり、政治の支配下にあります。

『ヒンドゥー教』社会では、『バラモン(司祭者)』が最高階級として君臨していますが、その地位は常時安泰で会ったわけではなく『バラモン』の下の階級『クシャトリア(王、武人など)』の不満が常に脅威の存在でした。結果的には『バラモン』がその地位をなんとか守り切ったということになります。

この問題を理解するためには、『ヒンドゥー教』では、『神(神々)』と『人間』の関係をどのように考えているかを知る必要があります。

『神(神々)』は『人間』に利害をもたらす存在ですが、両者の関係は基本的に『ギブ・アンド・テイク』であるというのが『ヒンドゥー教』の考え方です。これは、『神』の威信を絶対的とする他の宗教と決定的に異なっています。

『ギブ・アンド・テイク』ですから、『人間』は『神』に何かを期待するのであれば、それなりの『貢物』を捧げる必要があるということになります。他の宗教でも、『供物』『献金』などを捧げる習慣はありますが、『ヒンドゥー教』の場合には、より直接的に『御利益(ごりやく)』と『供物』の関係が明白です。

『命』は『輪廻(りんね)』の対象として尊いと言いながら、『御利益』のためには人命も最高の『供物(生贄:いけにえ)』とすることにもなります。勿論動物を『生贄』とする習慣も重視されます。

『神(神々)』に『供物』『生贄』を捧げる行為は『バラモン』を介してのみ可能という『しくみ』を盾にとって、『クシャトリア』に『供物』を競わせ、ひいては『バラモン』にも貢物をすることが、『神(神々)』から『御利益』を得ることになるという習慣を定着させました。

『バラモン』は、長い『神話』を一字一句まちがいなく暗記したりして、『賢さ』を売り物にし、庶民は『上位階級』の人は『賢い』という考え方を持つようになります。どうみても『賢くないバラモン』を、庶民は陰で『ジョーク』の対象として笑い物にしました。

日本でも、江戸時代に庶民は『武士は食わねど高楊枝』などと一部の『武士』を風刺の対象にしています。ロシアも伝統的に庶民が権力者を陰でジョークの対象にしてきました。

『総合的に賢い人』が、社会のリーダーになるという考え方に、梅爺も異存がありませんが、何をもって『賢い』とするかは、易しい話ではありません。

『家柄』『学歴』などは、『賢い』を判定する基準にはならないように感じています。人間や人間社会の本質を深く洞察する能力、多角的な視点でものを観る能力、独創的、論理的な思考能力、抽象化思考能力、決断・実行能力などが思いつきますが、どうもピンときません。

社会的に『賢さ』の定義がはっきりして共有できるようになれば、『教育』の内容も大きく変わることになります。日本でそういう議論が深まることを梅爺は期待しています。

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2014年8月30日 (土)

ヒンドゥー教とカースト制度(2)

『階級社会』『身分制度』はインドだけの話ではありません。日本でも江戸時代は『士農工商』の区分けがありましたし、ヨーロッパの一部には、今でも『貴族』と言われる人が存在し、ドイツでは職業の世襲習慣(マイスター制度)が今でもあったりします。『群』で生きることを前提としている人間社会には、『階級』『身分』は必ず存在します。

生物進化の過程で、『群』で生きることを、種の生存確率を高める方法として、人類は選択しました。ここでいう選択は、私たちが『精神世界』を駆使して、『意志』をもって決める行為とは異なり、偶然『群』で生きる特性を遺伝子で獲得した子孫が生き延びたということで、誰か頭の良いリーダーが出現して、『群で生きる方が安泰だ』と仲間を説き伏せたという話ではありません。

生物進化は、非常に効率の悪い方法で、試行錯誤的に、生き延びる可能性が高い方法を偶然身に付けた子孫が残ったということですから、大多数は生き延びることができずに滅んでいったことを意味します。

現時点で『生命のしくみ』は、見事と言って良いほど『合理的』に出来上がっていますが、『合理的』であることを『目的』として『生命』がデザインされたわけではなく、偶然『合理的』なしくみを継承した子孫が生き延びてきたことになります。

『天地』『生命』は、『神』が創造したものではなく、『物質世界』の新しい平衡状態を求めて移行する『変容』の中で、偶然創りだされたものと言えます。この『変容』は、全て『摂理』に支配されていて、『奇跡』などという例外はありません。『神が天地を創造した』という話は、人間の『精神世界』が考え出した『寓話』としては、無意味とは言えませんが、『物質世界』の事象の説明にはなりません。『寓話の内容を信ずる』という宗教的行為は、人間の『精神世界』においてのみ存在しうるものです。

人間社会の『群』には、必ず『リーダー(長老など)』が出現し、『掟(法など)』もつくられて、命令系統などを機能させるために『上下関係』が出現します。

『群』の規模が大きくなると、お互いに『見知らぬ間柄』の人間関係を包含したコミュニティになりますから、『リーダー』の権威も強化され、『掟』も詳細になっていきます。職業の分業、貨幣経済の導入などで、貧富の差も生じます。

『群』の大規模化は、人類が『文明』を生み出す母体ではありますが、『階級』『格差』も必然的に生じることになります。

『生まれてきた人間は、基本的に平等の権利を保有する』という考え方が普及したのは近世以降のことですが、このことで人間社会から『階級』『格差』が消滅したわけではありません。

『ヒンドゥー教』の『カースト制度』は、『階級・格差は当たり前(生まれつき決められている)』という社会常識に立脚したもので、前近代的と言えますが、私たちの社会にも『階級』『格差』はあるわけですから、程度の違いと言えないこともありません。

『階級・格差は当たり前』という考え方を変更するかどうかは、『ヒンドゥー教』社会の人たちが決めることで、私たちがお節介を焼くことではないように思います。

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2014年8月29日 (金)

ヒンドゥー教とカースト制度(1)

インド社会に、『カースト制度』という『家柄』『職業』で『階級差別』するしきたりがあることを、梅爺は学校の歴史の時間に習ってしていますが、そのような社会に暮らすことが、実際にどのようなものか、ある程度の想像はつきますが、実感がわきません。 

親の職業や、財産の度合いとは関係なく、生まれてきた子供は『人間として平等の権利を持つ』と言う、『民主主義』の基本原則の一つを、私たちは『正しい』と教えられてきましたので、『カースト制度』は、時代遅れで、人権を無視した制度と、簡単に片付けたくなりますが、人類社会がどのように構成されてきたかの経緯を考えると、『階級差別』が生ずる背景は、それほど単純ではなく、『人間』がもつ本質と無関係ではないように思えます。

人間社会に何故『差別』や『いじめ』が存在するのかは、生物として進化してきた『人間』の中に、『自分の都合を最優先する』『安泰を希求する』本能があるからではないかと、梅爺は何度もブログに書いてきました。『他人の不幸は、私の幸せ』などというブラック・ジョークがあるのもその証左ではないでしょうか。ユダヤ民族が、人類史のなかで、常に『差別』『いじめ』の対象になってきたのは何故かを考えてみれば、同じ原因に行き着きます。

もし、この『仮説』が適切ならば、『差別』や『いじめ』を行う衝動が、誰の中にもあるわけですから、表面的な道徳的説諭で、これを封ずることは容易ではありません。『差別やいじめはいけないことです』としたり顔に子供を諭している親や先生の心の奥にも、その衝動が潜んでいるということになるからです。

白色人種の中にある有色人種の蔑視、日本人の中にある近隣アジア諸国民族への言われのない蔑(さげす)みなど、残念ながら存在しないとは言えません。最近本屋には、韓国や韓国人をこれ見よがしに誹謗する本が、沢山並んでいますが、このような本を読んで溜飲をさげようとする日本人の心理は、褒めたものではありません。

『差別』や『いじめ』は、人間の本性に根ざすものであることを、直視して、その対策を講ずる必要があります。一部の『悪い人』が『差別』や『いじめ』を行っていて、私は『善い人』であるという多くの人たちが認識しているようでは、これらを減らすことは期待できません。

インドに『カースト制度』ができた背景は、侵略してきたアーリア人社会の中に既に身分階級が存在していた上に、征圧した先住民を社会の下層(奴隷)として組み入れたことと考えられています。

『カースト』は、ポルトガル語から英語になったもので、インドでは『ヴァルナ』と呼ばれています。

バラモン(司祭)
クシャトリア(王、武人)
ヴァイシャ(庶民)
シュードラ(賤民、奴隷)
パンチャマ(不可触民)

これに加えて、インドでは、職業集団、内婚集団(独自の長老たちが支配する)である『ジャーティ』が、2~3000種類もあり、非常に複雑です。

『ヴァルナ』や『ジャーティ』から『破門』されることは、インドではほとんど『死』を意味するほどのことであるらしいことを知りました。

若いころの『マハトマ・ガンジー』が、英国へ法学を学びに留学したいと言っただけで、母親から反対され、属する『ジャーティ』から破門されそうになったという逸話が『ヒンドゥー教(森本達雄著)』という本には紹介されていました。

1997年に、『パンチャマ(不可触民)』出身の『ナラナヤン』氏が大統領に選ばれていますから、インドも変わりつつあるのでしょうが、詳細は梅爺には分かりません。

これは、『真に尊敬されるべき人』は、学徳を兼ね備えた賢人でなければならないという考え方が、インドに根強く存在するからかもしれません。

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2014年8月28日 (木)

政治思想史学者『丸山真男』(6)

『丸山真男』が、『福沢諭吉』の思想に共鳴していることを番組で知りました。『福沢諭吉』は数々の『名言』を残していますが、『一身独立して一国独立す』は『民主主義』を考える上で重要な言葉です。 

国民の一人一人が、『自分で自立して考える能力を保有すること』が『独立』の意味です。各人が『勝手な考え』を持ったら、全体は収拾がつかなくなるのではという危惧は皮相な考えで、むしろこれこそが『一国が独立する』ための要(かなめ)であると『福沢諭吉』は見抜いています。 

『自立して考える能力を保有する』ためには、基盤となる教養を身につけなければなりません。『教育』が重要な役割を果たすことになります。明治政府が、国民の身分と関係なく、全ての子女に『義務教育』を課したことは、その後の日本の歴史に大きな影響を与えました。 

壊滅的な敗戦から、日本が這い上がることができたのは、教育レベルの高い日本人が『人材』として残っていたからです。 

『福沢諭吉』は『学問のススメ』を書き、『慶応義塾』を開校して、『教育』を実践しました。『福沢諭吉』は、欧米視察の折も、相手国の文明の高さに圧倒されることなく、その国の政治体制の『本質』や『問題点』を見抜いています。『蘭学』などで、欧米に関する予備知識があったとはいえ、この洞察能力は見事というほかありません。 

『丸山真男』も、東大教授でありながら、各地の『市民大学』へ足しげく通い、講義をし、庶民と議論を交わしています。『一身独立して、一国独立す』に共鳴していたからに違いありません。 

『自立して考える能力』は、『精神世界』の自由な活動を認める社会基盤が存在することが前提です。『一党独裁』や『将軍様崇拝』で、個人の自由を束縛する国は、真の意味で民主的な独立国家にはなりえないことを意味します。 

『自立して考える能力』を持つ人は、『自分とは異なった他人の考え』が存在することも認めることができる人へ成長します。そして、異なった考え方の中に、なんとかお互いが共有できる共通点を『約束事』として見出そうとします。これが『民主主義』の根幹です。 

手っ取り早く『一党独裁』や『将軍様の意向』で、上意下達の『約束事』を制定した方が効率がよいという観方もありますが、こういう『約束事』は脆弱で、一方国民がエネルギーを費やして形成し、民主的なプロセスで創られた『約束事』の方が、強固であることを、『一身独立して一国独立す』は教えようとしています。 

『民主主義』を採用し、『教育』を施せばバラ色になるわけではありません。誰もが『自分で考える人間』になるとは限らないからです。『精神世界』には個性がありますから、どんな社会でも『愚かな考え』『浅い考え』を主張する人が必ず出現します。しかし、『自立して考える能力』をもつ多くの人は、『賢い考え』『深い考え』で、『愚かな考え』『浅い考え』を排除、抑制できる可能性を秘めています。『民主主義』はこの可能性に賭けるシステムです。

同じように、どんなに道徳教育を徹底しても、『精神世界』が個性的である宿命から、残念ながら凶悪犯罪者、猟奇犯罪者はある確率で出現します。

『民主主義』や『教育』は、それで万全とは言えませんし、何もかもバラ色の将来を約束するものではありません。しかし、少なくとも良い方へ社会を移行させる『可能性』を秘めているというだけの『もどかしい』ながら確実な手段なのです。

『民主主義』は体制や形式を整えることだけでは成り立ちません。国民が『自立して考え』、『寛容』と『忍耐』の意味を理解しなければなりません。

『丸山真男』が『他者感覚』を大切にしなさいと、主張するのは、そのことを言っているのでしょう。

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2014年8月27日 (水)

政治思想史学者『丸山真男』(5)

『政治』ばかりではなく、『経済』『宗教』『芸術』などを論ずるには、それらに関連する行為を産みだしている『人間』の『脳』の理解が必要になります。

勿論『人間』の『脳』の全貌は、解明されていませんので、『分からないことがある』『不明なことがある』という前提で考えることになり、もどかしいことは沢山ありますが、それでも『分かっている』ことから、解明できることも少なくありません。梅爺のような凡人が、『丸山真男』のような著名な学者の業績を批評するのはおこがましい話ですが、『政治思想史』を『政治』という特定の世界の中で考えるのではなく、『人間』の本質的な特性から論じないことに、番組を観ていて不満が残りました。

『人間』や『人間社会』の事象を考えるには、『精神世界』の本質を理解する必要があるというのが梅爺の基本姿勢です。

梅爺がブログを書き続けて、辿りついた『精神世界』の本質的特徴は以下に集約できます。

(1)『情』と『理』、『意識』と『無意識』が複雑に絡みあう世界である。
(2)『個の安泰』『群の安泰』を希求するという、矛盾した本能が、全ての思考活動の背景にある。『安泰』を脅かす要因はストレスとして感じ、排除、軽減しようとする。『理』で処理できないことは『願う』『信ずる』『祈る』で対応する。
(3)『脳』の生命活動が維持されている間だけ存在する『仮想世界』であり、死とともに全てが消滅する。
(4)この世界だけで通用する沢山の『抽象概念』を継承保有している。『善悪』『美醜』『愛憎』などが代表的で、これらには絶対的な価値判定基準がない。『物質世界』の『摂理』では、『真偽』の判定が普遍的に可能であることと対称的である。
(5)『物質世界』の『摂理』の制約を受けず、どのようなことも自由に発想できる。『神、悪魔』『天国、地獄』などという概念や、『神話』『お伽噺』もこの世界の中だけで存在可能になる。
(6)生物進化のしくみの影響を受けているため、厳密に言えば、指紋と同様に各自が全て異なった世界を保有している。

このような厄介な『精神世界』を持ち合わせている個人の集合体で『コミュニティ』が構成されているわけですから、『コミュニティ』を律するための全員が満足する『約束事』『規範』などは存在するはずがありません。

『民主化はあるが理想の民主主義は存在しない。永遠の改革の持続が必要である』などと『丸山真男』に言われれば、『ごもっとも』と思いますが、『何故独裁化より民主化が望ましいのか』『何故人間社会は、あるべき姿の設定が難しいのか』『何故紛争や戦争が絶えないのか』などは、上記の『精神世界』の特質に立ち戻らないと、理解が難しいのではないでしょうか。

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2014年8月26日 (火)

政治思想史学者『丸山真男』(4)

梅爺は、『丸山真男』の思想や人物を系統だって調べたり、学んだりしたことがありませんので、迂闊なことは言えませんが、番組からは『好奇心旺盛で議論好き』の人という印象を受けました。この点では梅爺と似ています。

『好奇心旺盛で議論好き』な人は、多くの人が、『当たり前』と感じて疑問を感じない事象に、『何故だろう』と疑問を抱き、それが一種の強迫観念になって、なんとか自分なりの『因果関係』を見出さないと気が済まない性格を持ち合わせています。こういう人は、他人から問答無用で『これはこういうことだ』と結論だけを押し付けられると、反撥するへそ曲がりな性格も同時に持ち合わせています。

自分なりの『因果関係』を見出さない限り簡単には『信じない』性格ですから、周囲からは『厄介な人物』『屁理屈屋』として、煙たがられます。

こういう人は、一般に、『同じ対象に疑問を抱く』他人には寛容です。他人が見出した『因果関係』が、自分のそれと異なっていても、受け止めて、更に自分の考えを深めることに利用しようともします。つまり『議論可能な相手』は尊重します。

『屁理屈屋』の梅爺は、自説を他人に押し付ける性格であると誤解を受けやすいのですが、全く逆で、『他人の異なった価値観』には寛容です。むしろ、深く物事を考えずに『信ずる』人の方が、『あなたもそう信じなさい、信じないのは間違っています』と他人に強要する度合いが強いと感じています。

『好奇心旺盛で物好き』な人は、自分と同じ対象に疑問を抱かない人や、皮相な他人の意見を鵜呑みにしている人には、冷淡に対応します。

『丸山真男』は、マスコミを極端に嫌い、そのくせ自分を受け容れてくれる『市民大学』などには、足しげく通い『饒舌』に話をしています。番組ではそのような『講演録音テープ』が沢山残されていることを紹介していました。

皮相な理解でとどまり、それで『解説』できたと思っているマスコミを、体質的に嫌っていたからではないでしょうか。梅爺も『分かりやすい』として評判の解説者、評論家の説明をテレビで視聴して、ガッカリすることがありますから、『丸山真男』に同情するところがあります。

『丸山真男』は、多くの事象の『因果関係』について、鋭い自説を唱えていることは確かで、一つ一つは『なるほど、そういう観方があるのか』と感心しますが、それらの『因果関係』の奥に潜む、『本質』へ更に迫っていくことなしに終わっているように梅爺は感じました。『政治思想』を洞察するなら、『人間』の『精神世界』や『脳』へまでも切り込んで欲しいと思いました。『文系』の思考範囲にとどまっていて、『学際的な思考』になっていないという不満です。

江戸時代の『儒教』の影響を、近代日本は継承しているというような『丸山真男』の『洞察』は、面白いと思いますが、『中国や韓国における儒教の影響と、近代日本は何が違うのか』、更に『コミュニティにおける価値観の継承』とは何かなどへと洞察を進めないと、『丸山思想』が体系化されているとは言えません。

『大学改革』の全学連共闘事件の中で、『丸山真男』は、保守的な体制側の教授として全学連の学生の非難の的になりました。『ファシストでもあれほど馬鹿げた行動はしない』と『安田講堂事件』の時に、『丸山真男』は全学連の行動を非難していますが、これは事象に関する『解説』であって、『人間』は、何故『目的のためならどのような手段も辞さないといった馬鹿げた行動をとるのか』を、『社会変革に暴力は不可避なのか』といった政治行動の本質に迫って答えていません。

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2014年8月25日 (月)

政治思想史学者『丸山真男』(3)

『丸山真男』は、戦後岩波書店の雑誌『世界』に、『超国家主義の構造と心理』という論文を発表し、一躍論客として注目を集めます。

『丸山真男』の父親はジャーナリストであり、自らもジャーナリストになりたいと考えた時があったくらいですから、文才に恵まれています。東大の学生時代に応募した懸賞論文が認められて、教職へ進むことにもなりました。

解釈にばらつきが少ないありきたりの言葉を用いて『理路整然』と主張を展開するのが論文を書く時の基本ですが、これでは何となく味気なく、インパクトに乏しいために、文才のある人は、新しい概念を、新しい用語で表現しようとします。

哲学者は、この傾向が強く、カントに『純粋理性批判』などと言われてしまうと、梅爺のような凡人は、そこからすごすご引き下がることになります。

『超国家主義の構造と心理』は、第二次世界大戦に向かった、軍国主義日本を論じたものですが、文才のある『丸山真男』は『超国家主義』『抑圧の移譲』などという新しい表現を用いています。『超国家主義』は『日本的なファシズム』のことらしいことが分かりますが、『抑圧の移譲』は、これだけを観ても何のことか分かりません。

『抑圧の移譲』は、上層部の人が下層部の人を、肉体的、精神的に抑圧するという行為が、社会の上から下まで全ての階層で行われ、それが社会を維持する基盤になっているという話です。平たく言ってしまえば、上から下まで『いじめ』が浸透していて、『いじめる人』が一方において『いじめられる人』であることでバランスが保たれていることになります。

出征した初年兵は、軍隊の中で最下層であるが故に、二年兵や上等兵から、難癖をつけられ暴力を受けるということになります。『思いやりがあり優しい』はずの日本人が、このような見苦しい人間になってしまい、誰も『こんなバカげたことは止めよう』と言えなくなってしまう所が、怖ろしい話です。

『独裁者国家』ならば、『抑圧の移譲』が日常化し、秘密警察が恐怖をまきちらすと言う話も分かりますが、『軍国主義日本』は、必ずしも『独裁者国家』ではありませんでした。ドイツは『ヒトラーが戦争を決断した』と特定できますが、日本の場合は、戦争を決断したリーダーを個人的に特定しにくいことが特徴です。

国民をあれほど悲惨な状態へ導いた戦争を、誰の責任で始めたのかが分からない『無責任の体系』を『丸山真男』は指摘しています。

確かに『無責任の体系』は、現在の日本にもないとは言えませんが、『リーマン・ショック』の引き金になった『サブ・プライム問題』も、実に巧妙に、『責任の所在』が追求し難くなっていますから、『責任逃れ』は日本人だけの話ではありません。

強いリーダーシップは、責任も明確ですが、個人の能力に限界がある以上、危険性も含んでいて悲劇を招来することもあります。『無責任の体系』も、同じく悲劇へ向かう可能性を秘めていますが、そうかといって対極の強いリーダーシップを希求することも危険と言うことになると、どうすれば良いのでしょう。

自分がスーパーマンではないことを自覚していて、自分の考え方を明確に説明し、説得できる能力をもっている人が、現実的に好ましいリーダーですが、なかなかそういう人物はリーダーになりません。『リーダーになりたい人がリーダーになる』というしくみは、意外な陥穽(かんせい)かもしれません。

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2014年8月24日 (日)

政治思想史学者『丸山真男』(2)

『人間』は生物進化の過程で、『群をなして生きる』方法を『生き残りの確率が高い方法』として選択しました。『群(コミュニティ)』の規模は、『家族』『部族』『国家』『帝国』『連邦』と時代とともに大きくなり、『見知らぬ人達を包含したコミュニティ』を統率するために、『約束事』が必要になり、『法』の原型が出現することになります。『最高権力者や階級の出現』『職業の専業化』など、『文明』は『コミュニティ』の規模が大きくなることで生じました。 

『政治』は、『コミュニティ』を統率する術(すべ)としてその概念が登場します。『約束事』は、『神からの啓示(ユダヤ教の十戒など)』『神の代理者として最高権力者の託宣(エジプトのファラオなど)』『メンバーやメンバー代表による合議(ローマ帝国の元老院など)』など、色々な方法が出現しました。 

生きるために必要な自然の恵みは、『神』が支配しており、不都合な災厄は『悪魔(悪霊)』のしわざと、心底信じていた古代の人にとって、『政治』は『神』や『悪魔』との対応の術(すべ)でもありましたので、『宗教的な祭事、儀式』が重要な役割を果たすことになります。『政(まつりごと)』の表現や言葉が、継承されているのはそのためです。天皇家が継承している儀式の大半は『政(まつりごと)』です。縄文、弥生時代に、日本式の『政(まつりごと)』の原型はあったと想像できます。後に到来した『仏教』の影響で『政(まつりごと)』の様式は変貌しましたが、『加持祈祷』で『護国安泰』を祈願する様式は同じです。『都』を守るために建立された京都の『東寺』『西寺(さいじ:現在は消滅)』は、『護国寺』であり、朝廷から託された『東寺』の『空海』は、『雨乞いの祈祷』などを行っています。比叡山延暦寺は京都の鬼門(北東)を守る寺でもありました。 

『政治』にとって重要なことは、『約束事』を共通の価値観としてメンバーが共有することです。しかし、現実にはこれは易しくありません。なぜならば、『人間』は、各人が肉体的にも精神的にも『個性』を保有して、厳密には価値観が異なっているためです。何故『個性』を保有しているかは、生物進化を逆に辿ることで判明します。 

受胎の瞬間に、両親の遺伝子の偶然の組み合わせで、私たちの資質の基盤が決まります。『生物進化』の過程で、『両性生殖方式』が選ばれたことが、『個性』出現の原点で、これは今更変えられません。生後の『体験』で、脳神経細胞ネットワークのパターンが決まりますが、これも『個性』的ですから、人間の『精神世界』の価値観も、論理的には『個性』的になります。『人間』は『個性』的である宿命から逃れることができませんから、『個性』を肯定してしまった方が現実的です。『個性』を抑圧することを美徳とする日本の様な社会は、勿論長所もありますが、本来無理なことを求めているとも言えます。 

親子、兄妹といえども同じ『価値観』を保有しておらず、いわんや他人の『価値観』は異なっていることを肯定して、『政治』は洞察されるべきです。 

『価値観の共有は可能である』という前提ではなく、『価値観の共有は限りなく不可能に近い』という前提で、『政治』は考察されるべきではないでしょうか。 

いつになっても『紛争』や『戦争』が絶えないのは、『人間』や『人間社会』にとって、『価値観の共有は限りなく不可能に近い』からです。 

自分の『価値観』の赴くままに生きることを『正しいこと』と勘違いしたりすると、危険が増し、それよりも他人との『価値観』の違いを認めて、『我慢』『妥協』することが、自分も他人も安泰に生きていける現実対応策であることに気付きます。

人間は独りでは生きていけませんので、『価値観』の違いを認める社会が、実は最も安泰であるという結論に達します。

『丸山真男』も、『民主化は存在するが、理想の民主主義は追い求める対象であって、存在しない』と言っています。『生物進化』を理解すれば、当然の話のように梅爺には思えます。

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2014年8月23日 (土)

政治思想史学者『丸山真男』(1)

NHK地上波教育テレビで、『戦後史証言プロジェクト 日本人は何を求めてきたのか』という企画番組が放映されています。

最近、この企画の一つとして『知の巨人たちシリーズ』の放映が始まり、梅爺は偶然番組表で見つけて『第3回 丸山真男(まさお)』を録画して観ました。

『第1回 湯川秀樹、武谷三男』『第2回 鶴見俊介』を見落としてしまったのは、残念ですが、再放送があれば、是非観てみたいものです。

『丸山真男』は、『政治思想史学者』であり、梅爺が東大工学部に在学中に、法学部の教授でした。学部が異なっていますので、梅爺は丸山教授の授業を聴講したことはありません。当時梅爺が課外活動で所属していた『コールアカデミー(男声合唱団)』には、法学部に在学していた友人が多数いますので、彼らは丸山教授の授業を受講していたはずです。

『丸山真男』は、梅爺よりも27歳年長ですが、1996年の奇しくも終戦記念日に亡くなっています(享年82歳)。2014年が『生誕100年』の記念の年ということになります。陸軍兵卒として出征した履歴があり、広島県の呉で終戦を迎えていますので、『広島の原爆』も近い場所で体験しています。

『丸山真男』が学者として名を為したのは、戦後ですから、梅爺にとっては『同時代を生きた』人物として、その存在を身近に感ずることができます。

恥ずかしいことに、梅爺はブログを書き始める前は、『政治』『経済』の本質について深く考えたことがありませんでした。勿論、単語や、その単語がどのような事象を対象として使われるかの、皮相な知識は保有していました。

現在は、『政治』『経済』の本質を理解しているとは言えませんが、少なくとも相対的な理解のレベルは向上しています。『人間』の『精神世界』に関する理解が、そのベースになっています。

『精神世界』は、『物質世界』に存在し、その『摂理』に支配されている人間の『脳』が創り出す仮想世界ですから、『政治』『経済』も、本来『物質世界』の『摂理』に支配されている『脳のしくみ』『脳の進化の経緯』を洞察しなければ本質は理解できないのではないでしょうか。

『政治』『経済』に止まらず、『宗教』『哲学』『芸術』なども、『精神世界』から解き明かす必要があり、結局は『脳のしくみ』へ行きつきますから、『物質世界』の『摂理』に関る『科学知識』も含めて、『学際的』な追求が必要な時代になっているのではないでしょうか。

『経済』は既に『数学(統計学)』などと結びつき始めていますが、『政治』『哲学』『宗教』『芸術』が、いまだに狭い『自領域』の中だけで論理を展開しようとしていることに、梅爺は不満を感じています。

『人文科学』『自然科学』、『文系』『理系』などという境界線を作っていては、『人間』も『人間社会』も本質は見えてきません。

歴史上『知の巨人』と本当に言えるのは、境界線を感じさせない『ダ・ヴィンチ』や『南方熊楠(みなかたくまくす)』位しか梅爺は思いつきません。

『丸山真男』の思考に梅爺は『完全性』などを求めたりするつもりはありませんが、『人文科学』の中に止まっているように見えますので、ある種の限界があり、主張の中に矛盾があると指摘されるのは、そのためであろうと思います。政治学者といえども、『科学』や、とりわけ『人間の脳』に関する知識を必要とする時代になっています。

『丸山真男』は『大変頭が良い人』であることは間違いありませんが、『知の巨人』などと讃えてしまうと、実像が見えてこないかもしれません。

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2014年8月22日 (金)

ヒンドゥー教の起源(6)

今から3000年以上前に、インドへ侵攻した『アーリア民族』が、遊牧民族として継承していた宗教を母体に、『バラモン教』を創出しました。勿論、その内容は先住民『ドラヴィダ民族』の土着宗教の影響も受けて変容したと想像できます。

その様な宗教環境下で、2500年前に、『仏教』や『ジャイナ教』が出現しました。『仏教』は『釈迦』の優れた哲学的思索を反映したものですが、『バラモン教』の影響が皆無であったとは想像しがたいように梅爺は感じます。『ユダヤ教』の環境下で『キリスト』が出現したのと、『バラモン教』環境下で『釈迦』が出現したのとは、類似しているように思います。梅爺の勝手な推測ですので、この認識は、間違っているかもしれません。

『バラモン教』は今から2000年ほど前に衰退をしますが、『バラモン教』を母体として、各地の土着宗教の要素も取り込んだ『ヒンドゥー教』が成立し、現在インドでは最大の宗教勢力となっています。

『仏教』も、その後既存宗教(バラモン教、土着宗教、ヒンドゥー教)の要素を取り込み、変容しました。『釈迦』の教えの本質は失われていないとしても、様式は大きく変りました。日本へ到達した『仏教』は、変容した『仏教』ですから、以降日本人は、本来『ヒンドゥー教』の神様であったものを、『仏の守護神、仏の化身』と信じて対応してきました。『仏像』の様式が、多様で複雑であるのはそのためです。

『仏教』が、『釈迦』の出身地インドではなく、外国での布教に成功したのと、『キリスト教』が、『キリスト』の出身地ユダヤではなく、外国での布教に成功したことも似ています。人間社会に強く根を張った既存宗教の『慣性』を大きなもので、たやすく覆るものではないことを示しているのでしょうか。興味深いことです。

『ヒンドゥー教』では、『天界』『空界』『他界』のそれぞれ11の主要神がいることになっていますが、それ以外にも沢山の神々がいて、その数は総数で3億3千万とも言われています。『3』という数字はインド人の好みで、これはほぼ無数の神々が存在すると言うことを表現しているのでしょう。日本の八百万(やおよろず)の神々と言う発想と似ています。インドでは伝統的に『神話』『叙事詩』で神々の行為は書き記されていて、これが代々継承されてきています。

実際には『シヴァ神(創造と破壊の神)』『ヴィシュヌ神(維持の神)』が人気の神様で、現在信仰の対象になっているようです。

神々と人間の関係は、宗教によって考え方が異なります。『キリスト教』や『仏教』の考え方で、インドの人たちの『シヴァ神』『ヴィシュヌ神』への対応を観ると、理解が難しくなるように思います。

『ヒンドゥー教』の『考え方』についての感想は、別の機会にブログで紹介したいと思います。

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2014年8月21日 (木)

ヒンドゥー教の起源(5)

古代の人達が、自分たちの周囲に存在する『不思議』を畏怖し、『不思議』の中に『神』という概念を案出して、仲間で共有したことが、人類の『宗教観』の原点であろうと梅爺は思います。

『不思議』は『理解できないこと』であり、『脳』では『不安』というストレスが生じますから、何としても『因果関係』を突き止めて『安堵』しようとします。『安泰を希求する本能』が人間の精神基盤にあるからであろうと思います。その結果『不思議は神が創りだす事象』という説明を、『脳』の推論機能が案出したのでしょう。

『現生人種』で『神』の概念を思いつかなかった民族、人種は存在しないようにみえますので、『人間の脳(精神世界)は、必ず神という概念を創出する』と言えそうです。『言語』を創出しない民族もいないことと似ています。勿論『言語』は『神』という概念を生み出す母体です。『精神世界』で『安堵』を得るために、昔の人たちは『神』という概念を必要としたということで、現在でも『心の安らぎ』を得るために『宗教』はその存在意義を継承しています。しかし、『心の安らぎ』は、『宗教』でしか得られないとは言えないことを『脳科学』が明らかにしつつあります。『宗教』は無意味とは言えませんが、唯一無二の有効な手段であるとも言えないということではないでしょうか。

古代の人達と、現代人では『不思議』の対象が異なっています。『科学』が多くの『不思議』の原因を、理論的に解き明かしてしまったために、古代の人達が『不思議』とした対象の大半は、私たちには『不思議』ではありません。

『天体(太陽、月、星、星座)』『気象、災害(雨、風、地震、津波)』『命(誕生、死、生殖)』『自然(山、川、大樹、大岩)』など全てが古代の人達の『不思議』の対象でしたが、私たちには、これらは必ずしも『不思議』ではありません。

私たちの『不思議』は、『宇宙の起源』『生命の起源』『人間の脳の総合的なしくみ』などに絞られてきています。『不思議』の数は量的に減らないまでも、対象のレベルは、古代人とは大きく異なっています。

インドの古代の人たちが考え出した神々の世界は、原点は上記のような『不思議』の説明であることには違いがありませんが、『神々に与えた役割』は、他の民族の『宗教』と異なっています。

世界は『天界』『空界』『他界』で構成され、『創造』『維持』『破壊』が無限に繰り返されると考えました。勿論『神』は、『創造』『維持』『破壊』に関与します。そして、この考え方から、『輪廻転生』『業(ごう)』というような基本概念が産まれました。

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2014年8月20日 (水)

ヒンドゥー教の起源(4)

インドの古代宗教を時系列的に整理すると、以下のようになります。

(1)紀元前13世紀ころ、『ドラヴィダ民族』が支配していたインドへ『アーリア民族』が侵攻し、聖典『ヴェーダ』を元に、『バラモン教』が出現した。絶対的尊厳の対象となる『バラモン(司祭階級)』を最高位とする『カースト制度』で社会は構成された。
(2)紀元前10世紀ころから、『アーリア民族』と『ドラヴィダ民族』の混血が促進され、『バラモン教』と、先住民『ドラヴィダ民族』の土着宗教の融合が始まった。その後『バラモン教』の教えを理論的に深めた『ウパニシャッド哲学』が出現した。
(3)紀元前5世紀ころ、4大『ヴェーダ(聖典)』が成立し、『バラモン教』が隆盛となる一方、これに反撥する『仏教』『ジャイナ教』などの新興宗教が出現した。『バラモン(司祭階級)』の権力が強まることへの反撥とも言われている。
(4)紀元1世紀ころ、『バラモン教』と土着宗教の融合が一層進み、神々の中で、『シヴァ神』『ヴィシュヌ神』の地位が高まった。一方『バラモン教』は衰退し始めた。
(5)紀元4世紀ころ、土着宗教の取り込み、再構成が完成し、『ヒンドゥー教』として以後継承されることになった。

この経緯を俯瞰すると、『バラモン教』から『ヒンドゥー教』が派生したこと、『バラモン教』に反撥する勢力として『仏教』が出現したことが分かります。

『バラモン教』『ヒンドゥー教』という呼び名は、西欧人が後に区別のために付した名前ですから、インドの人達の感覚では、3000年以上の時間をかけて、自分たちの宗教観が、変容し成熟してきたと感じているだけではないでしょうか。

また『キリスト教』が、突然出現したのではなく、『ユダヤ教』の影響下で生まれたように、『仏教』も突然出現したのではなく『バラモン教』の影響下で生まれたことが分かり、梅爺は大いに納得しました。

しかし、浅学の梅爺は、『釈迦』が時代背景からどのような影響を受けたのかを理解していません。これについては、別途考えてみたいと興味が湧いてきました。

『ヒンドゥー教』は、現在でもインドの『聖』と『俗』の全てに関っているわけですから、最低限の知識を持ち合わせないと、インドやインド社会は理解できないことになります。勿論、『ガンディー』『タゴール』などの偉人を理解するためにも、必要になります。

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2014年8月19日 (火)

ヒンドゥー教の起源(3)

非常に大雑把に言えば、『ヒンドゥー教』は、インドの先住民族(古代インダス文明を創出した人達)を後に征圧した『アーリア民族』が創り上げた宗教と言えます。

『アーリア民族』は、現在のイラン人、インド人の祖先と考えられていますが、更にその祖先がどこに存在した人達かは、特定できていないようです。

ヒトラーが、ドイツ人の優秀性、純粋性を主張するために、『アーリア人種』を祖先とするという説を掲げたことは、記憶に新しいところですが、科学的な根拠はありません。

『アーリア民族』は、『遊牧民』であったと考えられますので、『遊牧民』に特徴的な宗教観を持っていたと推測できます。『太陽』『風』『雨』『火』『酒』などを『神』として崇める風習がありました。

イランに留まった『アーリア民族』が、『火』を崇める『ゾロアスター教』を、インドへ進出した『アーリア民族』が『バラモン教』およびそこから派生した『ヒンドゥー教』を創り上げていったと推察できます。言い換えると、同一の宗教観から、『ゾロアスター教』『バラモン教』『ヒンドゥー教』が派生したと言えそうです。それぞれの宗教の主な『神々』の役割が類似していることも分かっています。『ユダヤ教』から『キリスト教』『イスラーム』が派生したことと似ています。

古代人が『太陽』『風』『雨』『火』『酒』のもつ不思議な力を畏怖し、宗教の対象にしたことは容易に推察できます。『太陽』『風』『雨』は自然の恵みと関連があり、『火』や『酒』は、不浄なものを清める力があると考えたのでしょう。日本の『仏教』『神道』でも、祭祀に『火』や『酒』が重要な役割を果たすこともご存知の通りです。

『人間』は、どこでも同じような発想をするとみるのか、これらはみな同じ宗教観が世界的にひろまったとみるかは別れるところですが、原始宗教や現生人類の移動経緯を考える上では興味深いことです。

『ギリシャ神話』の『神々』と、インドに伝わる叙事詩に現れる『バラモン教』『ヒンドゥー教』の『神々』は、役割や人格化された性格などが似ています。これも、偶然同じような発想をしたとみるか、同一の云い伝えから派生したものとみるかで別れますが、梅爺は何となく同一の云い伝えが姿を変えたものと感じます。

『現生人類』が、アフリカから世界各地へ広がっていった過程で、原始的な宗教観も広がっていったのではないでしょうか。世界の宗教が、根源において、類似しているのは、このためのように感じます。

日本の『神道』にも、昔日本へ渡ってきた縄文人の祖先が、日本へ来る前から既に保有していた宗教観が反映しているのではないでしょうか。

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2014年8月18日 (月)

ヒンドゥー教の起源(2)

古代インダス文明は、発掘が進むにつれて、想像以上に広域に広がっていたことが判明しています。エジプトなどの他の古代文明と異なり、権力者の権威を象徴する巨大建造物が見つかっていないのが特徴のようです。比較的大きな建造物は、『公共施設』であったらしいことも分かっています。

この一事をもって、『民主的な社会』が成立していたとは言えませんが、他の地域と『社会文化』の基盤が異なっていたとは言えるかもしれません。

原始人間社会は、『素性のわかった者同士が構成する小規模のコミュニティ』であったはずですが、『文明』を生むような『素性の分からない者も含めた構成の大規模なコミュニティ』に発展すると、社会秩序を保つことが一層重要になり、『法』の概念や、『階級』の概念が出現します。仕事も分業となって、『職業』という概念も登場します。

古代インダス文明の社会に、『階級』が無かったとは思えませんので、統治者の『統治思想』が、権力誇示ではなく、下層の人たちを配慮するものであったのかもしれません。『力の支配』ではない、日本で言えば『聖徳太子』のような名君が存在したのでしょうか。それほど単純な話ではないにせよ、後のインド社会には『カースト制度』という厳格な『階級』概念が成立することを考えると、そのギャップに興味を覚えます。

古代インダス文明から発掘される陶板(素焼きの板)には、絵や文字らしいものも彫られていますが、詳細な解読はできていないようです。

しかし、絵の中に、座禅のような姿勢で座って瞑想しているように見える『神』の像があり、何となく『ヒンドゥー教』の『シヴァ神』の瞑想図と似ています。やがて、この姿勢は『仏像』にも継承されて言ったのではないかと推察できます。私たちが仏教文化と思っているものの起源は、ずっと古い古代文明へ遡るのかもしれません。

『釈迦』が瞑想修行で、悟りを拓いたというのも、当時のインドに『瞑想』の習慣が既に存在していたからかもしれません。ただ『瞑想』を手段としたとは言え、『釈迦』は、『宇宙の根源は縁起(えんぎ:全てが相互依存している)』であり、人間の中に共存する『善心』と『邪心』のうち、『邪心』が『煩悩(悩み、苦しみ)』の根源と見抜いたわけですから、現代人からみても『大哲学者』であるように、梅爺には感じられます。

古代インダス文明には、『女神崇拝』『リンガ(男根)崇拝』『蛇神崇拝』『樹木崇拝』の宗教的な基盤が存在していたと考えられています。これらは、『ヒンドゥー教』へ影響を与えているように見えます。

古代インダス文明を支えた民族は、後にこの地へ移り住んできた『アーリア民族』に征圧され、『アーリア民族』の社会から、『ヒンドゥー教』文化が生まれたと考えられますので、『アーリア民族』の宗教基盤と、先住民からの影響の両方を見る必要があります。

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2014年8月17日 (日)

ヒンドゥー教の起源(1)

『釈迦』『キリスト』『ムハンマド』といった『開祖』を戴く『宗教』の本質は、『開祖の教え』そのものにあるのであって、後世形成された『様式』『儀式』は副次的なものでると言えるかもしれません。

壮麗な『伽藍』『寺院(教会)』『モスク』やそこで行われる荘厳な儀式は、『宗教』を権威づけるために、後世の知恵者が考え出したものであり、『開祖の教え』を直接反映しているとは言えません。『宗教』がある種の『権威』を、何故必要とするのかは、人間の本性を考える上で、別の問題です。信者が『権威』に圧倒されて、『開祖の教え』が二の次になるとしたら、本末転倒の話になります。

しかし、『開祖』が何故出現したのかは、その民族の当時の状況、その民族の歴史と無関係ではありませんので、ある程度そのことについて知る必要があります。

梅爺が、『何故2000年前のユダヤに、キリストが出現する必要があったのか』という素朴な疑問を抱いて、何回も見解をブログに書いてきたのはそのためです。

『ヒンドゥー教』や日本の『神道』は、『開祖』が存在しない『宗教』ですから、どうしてもその起源を追いかけようとすると、『歴史』を学ぶ必要に迫られます。

『神道』の起源は、1万年以上続いた『縄文時代』の自然崇拝(アミニズム)や呪術にあるのであろうと、想像できます。青森の恐山の巫女(みこ)の呪術様式などに、その名残がありそうだと推察できますが、特定は困難です。

『ヒンドゥー教』も同様で、インドの古代史が関与するに違いありません。

『ヒンドゥー教(森本達雄著:中公新書)』には、興味深いことが紹介されています。インドには、近世に英国人が支配する以前には、英語の『History(歴史)』に相当する言葉が無かったというのです。つまり、ちゃんとした『歴史書』を書き残そうとする文化が希薄であったということになります。

これは、インドの人達の興味の中心が、『この世を支配する摂理を知る』ことであり、人間社会の政治などは、摂理が生み出す二次的な事象であって、関心事ではなかったという推測になりますが、これほど単純な話であるかどうかは別として、ある程度の真実が含まれているように感じます。

梅爺も『794年に平城京から平安京へ遷都が行われた』という事実には、あまり興味が無く、『何故遷都をする必要があったのか』に興味を抱きますので、インドの人たちに共感を覚えます。

『メモ魔』と言えるほど、中国人は『歴史』の事実を詳細に書き残してきたのと、インドは好対照です。中国は政治的権力者を中心とした社会が続き、『歴史』はその『権威』の象徴として必要であったからなのでしょう。

世界の4大古代文明の一つである『インダス文明』は、インドの先住民族『ドラヴィタ族』によるものと考えられています。後にインドへ移住してインドを征服した『アーリア民族』の文明ではないということです。『アーリア民族』の起源も必ずしも定かではありませんが、ヨーロッパ系の白人種に近いと考えられますので、現在のインド人は、先住民族と『アーリア民族』の混血ということになります。

『ドラヴィタ族』は『黒肌、低鼻』と表現されていますので、なんとなくオーストリアの『アボリジニ』を彷彿とさせます。現生人類がアフリカから全世界へ移動を開始した道程(みちのり)を考えると、この類似は肯けます。

『ヒンドゥー教』の起源が、もし『ドラヴィタ族』の文明にあるとすれば、『神道』が縄文時代に起源をもつという話と類似します。後に日本へ移住してきた弥生人にも『神道』が継承されたように、インドへ後に移住してきた『アーリア民族』にも『ヒンドゥー教の考え方』が継承されたという推定になります。

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2014年8月16日 (土)

中国は発展途上国のあこがれの星か?(4)

『貧困からの脱出』が現在人類が抱える大きな課題であり、中国の例を観れば、『民主主義』や『民間主導資本主義』が必ずしも、その課題に対応する有効な手段ではないという主張は、一理があるように見えます。

しかし、『貧困からの脱出』の裏側に潜む、『怖ろしい現実』から私たちは目をそらすことはできません。それは、地球資源には、現在の地球人口の全てを『貧困から脱出』させるだけの余裕がないかもしれないということです。

現在世界の人口は70億人を突破し、50年後には100億人になると予測されています。しかし、地球の資源は、40億人を養うのが限界で、既に限界を越えてしまっているという観方もあります。非常に皮肉な言い方をすれば、85%の人口が『貧困』であるが故に、現在15%の人口が『貧困から脱出』できているということになるのかもしれません。

つまり、発展途上国が、すべて『中国モデル』の体制を採用すれば、『貧困から脱出』できるなどという、楽観的な観方はそもそも成立しないのではないでしょうか。

中国自身は、確かに3億人程度の人達を『貧困から脱出』させることに成功しましたが、まだ未だその3倍ちかい人口は、相対的に『貧困』に喘いでいます。同じ国内に『格差』があり、その『格差』が広がっているという事実ほど、中央政権を脅かす要因はありません。中国がなりふり構わず、発展途上国へ進出し、その資源を獲得しようとするのは、国民の『不満』をかわすためにどうしても必要であるからです。『私のようにすれば、あなたも幸せになりますよ』と、発展途上国の先生になろうなどという生易しい話ではありません。

更に、既に『貧困から脱出』した沿岸部の3億人は、今度は『民主主義』『自由』が欲しいと言いだし始めますので、これまた厄介なことになっています。全員が貧しかった時には『欲しがりません勝つまでは』のスローガンが通用しましたが、裕福になった人達は、『どうして、自分たちが貧しい人たちのために我慢しなければならないのか』と勝手なことを言いだします。悲しいことに人間にはそのような身勝手な所があります。

共産主義革命直後の建国に必要であった『体制』が、今後中国でも通用しなくなる問題を抱えていることになります。『一党独裁』の体制から、民主的な選挙で『民主主義』体制へ変貌することが将来ないとは言えませんが、それは『宗教』が自らの『教義』を否定するようなことですから、『穏やかな移行』は想像することが困難です。更に先進民主主義国家との確執が増大し、世界を巻き込んだ『悲劇的な辛い試練』が待ち構えていないとも断言できません。先進諸国が中国とどのようにつきあうかは、先進諸国にとって重大な課題になります。

中国の体制は、発展途上国の『お手本』で、真似すれば『貧困から脱出』できるという単純な主張に、梅爺は賛同できませんし、『中国モデル』がいつまでも安泰であるとも思いません。

したがって、『中国は発展途上国のあこがれの星か?』という、問いに対する梅爺の答は『No』です。

当たり前のことですが、どの国も自分の国の身の振り方は、自分で考える他に方法はありません。

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2014年8月15日 (金)

中国は発展途上国のあこがれの星か?(3)

先進国の体制と、中国の体制は、異なっています。 

先進国体制の特徴
● 民間主導資本主義(Private Capitalism)
● 自由民主主義(Liberal Democracy)
● 政治的権利の優先(Prioritized Political Rights)
 

中国体制の特徴
● 国家主導の資本主義(State Capitalism)
● 自由民主主義の抑制(De-Emphasized Democracy)
● 経済的権利の優先(Prioritized Economic Rights)
 

現代の中国体制は、帝国主義的な資本主義を否定した共産革命に始まり、政策の大失敗、国中を巻き込んだ大混乱(文化大革命など)の苦い体験を経て到達したものです。頭で考えた目的体制を目指したというより、苦しい試行錯誤をしていたら、こうなってしまったというのが本当のところではないでしょうか。もし、鄧小平が権力闘争に勝たなかったら、現状は全く変っていたでしょう。 

広大な国土、十億人を越える人口、多民族の共存などの条件の中で、『貧困からの脱出』を目指せば、個人の『自由』などという甘っちょろいことを優先していたら、国家の運営はおぼつかないということでしょう。先進国の人達が『外野席』から、中国の現状体制を批判するのは簡単ですが、ギリギリの極限状態の中で、ある選択(一人っ子政策、反政府運動の抑圧など)を余儀なくされ続けてきた中国からすれば、『余計なお節介はいい加減にしろ』といいたくなるのでしょう。 

どの体制にも、良い面と悪い面があり、全てが順調などと言うことはありません。これは、個人の人生にも通ずる話です。 

『スーパー・プレゼンテーション』と言う番組での『Dambisa Moyo』さんの主張を聴いていて、梅爺は二つの疑問を感じました。

一つは、『中国の政治モデル』が、他の発展途上国のお手本になるというのは本当かという疑問で、もう一つは、中国にとって現在の『政治モデル』が、永遠に安泰なモデルなのかと言う疑問です。

梅爺は政治学者ほどの歴史認識を持ち合わせていませんが、『ある国が他国の体制を真似て、みるみる国家基盤を強固にした』というような例を、あまり知りません。強いて例を挙げれば、明治維新後の『日本(西欧列強の真似)』、第二次世界大戦で敗戦国になり、ほぼすべてを失った後の『日本(アメリカ型民主主義の真似)』は、それに該当するかもしれません。

短期間に、『奇跡の国づくり』『奇跡の復興』を遂げた『日本モデル』は、当時世界から高い評価を受けましたが、そっくり『日本モデル』を真似して、日本同様の成果をあげた国が次から次へと現れたわけではありません。

各国の政治基盤は、人口規模、国土環境、気候環境、天然資源の保有度合いは言うに及ばず、伝統的な精神文化、宗教環境、教育レベルなどが、大きく異なりますから、『他国のモデルを真似すれば好結果が得られる』というほど、単純なものではありません。

現在の発展途上国が、『中国モデル』を参考にすることはある程度できるにしても、『あこがれの星』として、何から何まで真似するなどと言うことは、現実には難しいことではないでしょうか。

次々に日本のような国が誕生しなかったように、次々に中国のような国が出現するとは思えません。

日本は、日本であるが故にできたことで、現在の中国も、中国であるが故に達成できたことなのです。

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2014年8月14日 (木)

中国は発展途上国のあこがれの星か?(2)

『Is China the new idol of emerging economies ?(中国は発展途上国のあこがれの星か?)』という『プレゼンテーション』のプレゼンテーター、『Dambisa Moyo』は、ザンビアのクーデターで、母国での大学教育が継続できなくなり、単身アメリカへ留学し、その後ハーバード大学(アメリカ)、オックスフォード大学(イギリス)で勉強し、卒業後は『世界銀行』などで、エコノミストとして活躍している女性です。2009年に『Dead Aid(先進国による発展途上国援助は全く無駄)』という著作を発表し、世界的な注目を浴びました。梅爺は、残念ながらこの本を読んでいません。

アフリカ援助に熱心な『ビル・ゲイツ』との論争でも注目を集めています。人間の能力は、人種や性別と無関係であることを、端的に証明しているような人物です。

彼女の主張の要点は、先進国の人達が、常識と信じて疑わない『民主主義、自由経済資本主義』の優位性に疑問を投げかけていることです。

『プレゼンテーション』の冒頭、先進国では金言とされる『Give me Liberty or give me Death.(我に自由を与えよ、さもなくば死を)』を例に挙げ、この言葉が尊重されるのは、先進国という環境があってのことと、切って捨てます。

現在世界の先進国人口は、全体の15%程度ですから、ほとんどの国の人たちは『貧しい』ということで、『貧しい』人にとっては『生きる』『食べる』『家族を養う』ことが最優先事項で、それに比べれば『自由』『民主主義』など優先度が低いという主張です。言ってみれば『衣食足りて礼節を知る』というのが、人間の本質であるということになります。

当面の最優先事項が『貧困からの脱出』であるとすれば、その手段は『民主主義』や『自由経済資本主義』ではないかもしれないと、先進国の人達は気付いてほしいという主張になります。一人あたりの所得が6000ドル/年を越えて、初めて『自由』が人々の最重要課題になるという話です。

『民主主義』の視点で観ると、『一人っ子政策』を断行し、反政府運動は『天安門事件』のように冷酷に弾圧する中国の、好ましいとは思えない政治、経済体制が、結果的には比較的短期間に3億人もの人達を『貧困から脱出させた』成果をみて、発展途上国の人たちが『中国方式』こそが、当面の解決策に近いと期待を寄せるのは、当然ではないかという話に展開します。

一理がある主張ですが、このまま放置すれば、世界は『先進国グループ』と『中国式体制グループ』に二分されるとでも言っているような話ですので、梅爺は、いくつかの疑問を感じました。

たしかに、中国は貧しいアフリカ諸国へ手を伸ばし、『インフラ整備』などをちらつかせて、資源入手の権利を獲得しようとしています。しかし中国を『アフリカ救済』の希望の星と観るのは楽観的すぎるように思えます。中国は、自国の国益中心に行動しているだけで、過去にヨーロッパ各国が植民地として搾取したように、アフリカを搾取し、アフリカ諸国は更に貧困化する危険性を秘めています。昔、東アジア諸国が、ヨーロッパ支配から救済してくれる救世主として日本に期待しましたが、結果的に日本は植民地支配者のように振舞いました。

発展途上国が、自力で『中国方式』を模倣するというならまだ話が分かりますが、中国に救世主役を期待するという依存関係は、やがて『同床異夢』であることが判明して破局に終わるのではないでしょうか。

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2014年8月13日 (水)

中国は発展途上国のあこがれの星か?(1)

NHK地上波教育チャンネルで毎週水曜日の夜放映される『スーパー・プレゼンテーション』を録画して観ています。 

アメリカの『TED』という団体が壇上の『プレゼンテーション』だけで構成する催し物を主催していて、その中から話題の『プレゼンテーション』を選りすぐってNHKが放映する番組です。 

プレゼンテーターは、世界の著名人または、注目に値する人物で、約15分程度の英語によるプレゼンテーションが行われます。 

会場で直接聴くメンバーになるためには、非常に高額な登録料を支払う必要があり、メンバーは金持ちか、企業の経営トップに必然的に絞られます。これだけを観れば『セレブ達のお遊び』の感がありますが、『プレゼンテーション』内容は、誰でもインターネットで検索視聴できますから、世界を啓蒙する役目は果たしていると言えます。 

アメリカ社会では、『ディベート(討議)』と『プレゼンテーション(主張)』は対(つい)で要求される能力で、政治家、企業経営者には特に求められます。アメリカでは小学校からこれらの訓練が始まります。 

日本では、このような能力は『でしゃばり』として敬遠され、『寡黙で謙虚』などが『徳』と考えられてきましたので、大方の日本人は、『ディベート』も『プレゼンテーション』も得意ではありません。 

梅爺は40歳のころから、海外企業との技術に関するビジネス折衝担当になり、この異文化対応と英語の対応で、四苦八苦しました。自分の苦い経験を自分だけで終わらせないために、若手で有能なシステム・エンジニア(SE)を多数アメリカへ送り込んで、基本的な研修をおこなうことも企画、実行しました。

『プレゼンテーション』は勿論最低限度の『テクニック』を必要としますが、実は最も重要なことは『個性的な主張内容』にあります。日本人は『他人の意見』には敏感ですが、『自分の意見』を論理的に思考、構築する訓練に欠けていることが『プレゼンテーション』を苦手とする原因になっています。勿論英語の表現能力にも問題があります。今まで『TED』に搭乗した日本人は、数人しかいません。

今回は、アフリカ、ザンビア出身の若い女性エコノミスト『Dambisa Moyo(ダンビサ・モヨ)』の『Is China the new idle of emerginng economies ?(中国は発展途上国のあこがれの星か?)』という内容で、非常に啓発的でした。

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2014年8月12日 (火)

A little pot is soon hot.

英語の諺『A little pot is soon hot.』の話です。

直訳すれば『小さなポット(器)は直ぐに熱くなる』ということですから、『器量の小さい人物は怒りっぽい』という意味なのでしょう。日本ではこのような人を『瞬間湯沸かし器』などと茶化します。

そう言われると、梅爺も頭にカチンときて、ムッとすることが度々ありますから、器の小ささに恥じ入りたくなります。

『人間』が『怒る』のは、『自分の価値観に反する事象が身の周りで起きたと感じた時』『自分が否定されたと感じた時』で、いずれも『精神世界』固有の話です。

言い換えれば、『物質世界』には『怒り』はありません。山や川は『怒る』ことなどしません。『物質世界』では、『摂理』に則った『変容』が存在するだけです。

『台風』『地震』『津波』など、『人間』にとって極めて不都合な事象も、『変容』に過ぎませんから、『おごり高ぶる人間を懲らしめるための神の怒りである(天罰である)』などという考え方は、『精神世界』の推論でしかありません。

私たちは、物質世界の事象を『真偽』の対象として議論することはできますが、『精神世界』の推論を『正しい』と主張することは、慎重であるべきです。

こういうことが『理』で分かっている梅爺も、すぐカッとなったり、ムッとしたりするわけですから、無意識に自分の『精神世界』の価値観が『正しい』と思っていて、これが否定されたような事態に遭遇すると、『怒る』ことになります。

何度も書いてきたように『精神世界』の奥底に『安泰を希求する本能』が潜んでいますから、自分の価値観が否定されたと感じた時は『義憤を感ずる』『プライドを傷つけられたと感ずる』ことになり、これがとりもなおさず『安泰が脅かされた』ことですから、『怒り』がこみあげてきます。

ここまでは、誰でも同じですが、『器の大きな人』は、ここで瞬時に『理性』が働き、『怒り』を抑制することができます。

結局、普段勉強をし、多面的な思索訓練をしておけば『理性』を養うことになるのでしょう。つまり『教養』が『理性』を強化する唯一の手段と言えそうです。

『教養』を積むことは、誰にでもできる易しいことではありませんが、『怒り』を治める具体的な方法として、『脳科学者』は、『怒りを感じたら、30秒間じっと我慢しろ』と言っています。

『脳』に『怒り』をもたらしたホルモンは、30秒程度で減衰するというのが、この方法の根拠です。物理的に『怒り』の元がおさまるのを待てと言うことです。

これもそう易しい方法ではありませんが、『教養』を積むよりは対応しやすいように思えますので、先ずこちらを採用したいと梅爺は考えています。

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2014年8月11日 (月)

ヒンドゥー教(6)

『ヒンドゥー教』には、沢山の神々が存在します。『宗教』の分類では『多神教』ということになります。

『神は唯一存在する』『神は多数存在する』『神は存在しない』と言う主張は、論理命題としてはいずれも『真』であると証明ができません。従って、どの主張が『正しい』かを議論しても始まりません。個人が、自分の『精神世界』でどれかを『信ずる』ことは、他人にそれを強要しない限りにおいて自由です。

科学知識を持たなかった古代の人たちが、最初に思いつく『神の世界』は『多神教』であると考えた方が自然であるように梅爺は思います。

自然の中に存在する不思議に見える事象の奥に『霊』がある、人は死んで『霊』になると考えたのではないかと推測するからです。『霊』には『生きている人間』を支配する力があると畏怖したことになります。

『ユダヤ民族』が『一神教』の考え方を編みだしたのは、他民族から虐げられつづけたことから、民族の拠り所として『自分たちだけの神』を必要としたからではないかと梅爺は推察しています。

『唯一の絶対神』という考え方は、簡素で強固な『教義』を構築するには有利な条件であり、これが『キリスト教』『イスラーム』に継承されて、私たちは『洗練された文明宗教』は『一神教』であり、『多神教』の『宗教』は、土着性の強い『原始宗教』であると、差別的に考える傾向があります。しかし、冷静に考えればこれは偏見ではないでしょうか。

『ヒンドゥー教』では、沢山存在する神々の中から、好きな神を信仰して良いということらしいのですが、人気が高いのは『シヴァ神(創造と破壊の神)』と『ヴィシュヌ神(宇宙の維持を司る神)』です。日本も神社の系列によって、祀る神が異なっていますから、日本人には抵抗が無い話です。

人間世界を投影したような『神々の世界』を、人間が思いつくのは自然なことで、『ギリシャ神話』『日本の神話』『ヒンドゥー教の神話』『ワーグナーの楽劇ラインの黄金の神々』などに共通しています。神々の間に愛憎劇があったり、神と人間が交流して子供が生まれたりする設定も似ています。これらの神々は、『聖典(キリスト教の聖書のような)』ではなく、『叙事詩』『神話』で語り継がれてきたのも共通です。

『ヒンドゥー教』の場合は、『マハー・バーラタ』『ラーマーヤナ』といった壮大な叙事詩で神々の所業が語り継がれてきました。

今回は大雑把な話になってしまいましたが、『ヒンドゥー教』に関する梅爺の感想は、今後、話題を絞ってブログに載せていきたいと思います。

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2014年8月10日 (日)

ヒンドゥー教(5)

『ヒンドゥー教』という呼び名は、西欧人が命名したものですから、比較的近世になって確立したものです。『Hinduism』という英語が語源です。

『ヒンドゥー』は『インド』につながる言葉でしょうから、元々ある地域を指す言葉ではないかと思います。

地域名に『イズム』をつけた英語には、『ヘレニズム(Helenism)』『ジュダイズム(Judaism)』があります。前者は『ギリシャ風文化様式』を後者は『ユダヤ教』を意味します。

『ヒンドゥー教』の著者の森本氏は、『Hinduism』は、『インドの文化様式』でもあり『インドの宗教』でもあるので、『ヘレニズム』とも『ジュダイズム』とも類似していると指摘しています。宗教的な色彩が強いことは確かですが、生活風習に深く根付いた文化でもあるということでしょう。この本の副題は『インドの聖と俗』ですから、何となくニュアンスが分かります。

紀元前5世紀ころに、『バラモン教』と土着宗教が結びついて『ヒンドゥー教』が出現したと言われていますが、時期やプロセスについて、詳細には特定できないことになります。日本の『神道』はいつ成立したのか特定が難しいのと同じでしょう。『カースト制度』は『バラモン教』から受け継がれたものと言われています。

『キリスト』が、『ユダヤ教』の影響下にあったように、『釈迦』が当時の『宗教』とどのように関っていたのかは、梅爺は浅学にして理解できていません。『釈迦』以降に『ヒンドゥー教』が成立し、『仏教』に『ヒンドゥー教』の考え方が組み込まれたというのが、一般的な見解のようです。『ヒンドゥー教』からすると『釈迦』は『神の化身の一人』ということらしいので、『イスラーム』が『キリスト』を『預言者(人間)の一人』と位置付けているのと似ています。

少なくとも中国を経由して日本に『仏教』が到達した時には、『ヒンドゥー教色彩の濃い仏教』になっていましたので、私たちが、『仏』の守護神または化身として受け容れた多くのものは、元をただせば『ヒンドゥー教』の神々であるということです。密教の曼陀羅などという発想も、『ヒンドゥー教』の影響を受けていますし、そもそも『仏像』も、ガンダーラで『仏教』『ヒンドゥー教』『ヘレニズムの彫刻文化(アレキサンダー大王の遠征でもたらされた)』が融合して誕生したものと考えられます。『キリスト』の時代に『聖書』は存在しなかったと同様に、『釈迦』の時代には『仏像崇拝』はありませんでした。

好奇心の強い梅爺は、『仏教』から各地の土着宗教の影響を取り去った、『純粋な釈迦の教え』を知りたいと思います。『釈迦』は、宗教家というより、『人間を含む宇宙の真理』を考えようとした哲学者のように感じているからです。

間違っているかもしれませんので、『釈迦』の純粋な教えについては、別の機会に考えてみたいと思います。

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2014年8月 9日 (土)

ヒンドゥー教(4)

『ヒンドゥー教』がいくら得体が知れない『宗教』であるといっても、基盤となっている『考え方』はあるに違いないと、梅爺は無理やり考えてみました。 

『人間』の『精神世界』は、複雑、不思議に見えますが、根底には『安泰を希求する本能(自分にとって都合のよい状態を優先して選択しようとする)』『因果関係を推定する能力』『抽象概念を言葉として表現し共有する能力』『個性』があると考えると、ほとんどのことが見えてきますから、『ヒンドゥー教』にもそういう本質があるだろうと推測しました。言うまでもなく梅爺の『精神世界』が機能した結果です。

『ヒンドゥー教』の基本的な『考え方』は、『万物は創造と破壊の繰り返しで、人間の生死もその一環である』というものではないかと推察しました。ここまでは『物質世界』の『摂理』がもたらす変容を表現していますから、大変理に適っていると梅爺は思います。ただ『創造と破壊の繰り返しに見える事象は、ある状態からある状態へ平衡状態が変ることの結果であって、目的ではない』という現代科学が得ている認識とは、すこしニュアンスが異なっているかもしれません。『物質世界』では、動的な平衡移行によって、創造と破壊が起きているようにみえると言う表現が適切です。創造や破壊は何かの意図があって起きているわけではありません。

『ヒンドゥー教』では、更に『人間の霊は、死後再び他の命の霊として再生する』という『輪廻転生』の思想を重視します。『物質世界』でも、『生命』の死で肉体は素材に還り、その素材が再利用されて他の『生命』が創られることがないとは言えませんから、『輪廻転生』を論理否定はできませんが、『ヒンドゥー教』の『輪廻転生』は人間の『願望(精神世界の行為)』から産まれた『仮想論理』であろうと梅爺は思います。『ユダヤ教』で、昔の人が『天地は神が創造した』という『仮想論理』を思いついたのと同じで、現代人が『非科学的である』と非難してみても始まりません。昔の人が持てる能力を駆使して『推論』を行ったと考えるべきでしょう。

『輪廻転生』を繰り返す『霊』が重要で、肉体はその時々の『器』に過ぎないということになりますから、死者の肉体は灰にされて、『聖なるガンジス河』に流され、『墓』は作られません。

死後再び『生』を得る時に、どのような姿になるかは、現世での『業(カルマ:生き方)』が関与するということで、生きている間は善行の努力を積みます。インドでは飢饉のときにも、飢えを凌ぐために小動物を捕獲して食べようとしないという、驚くべきことが『ヒンドゥー教』という本には書いてありました。これは『自分の死より、輪廻転生の命を断つことを恐れる』ということに他なりません。小動物の命も『輪廻転生』の対象であるからです。

私たちは、『他の生物の命を大切にする慈悲の行為や善行優先は素晴らしい』と賛美したくなりますが、『輪廻転生』に反する行為をすることへの『恐怖心』が基盤にあるということなのでしょう。『宗教』が創りだす、社会的な価値観は、これほど強く人間の行為を縛ります。『ヒンドゥー教』の信者には、叱られそうですが、『畏怖心』が、結果的に『慈悲』『善行』の行為を生み出していると梅爺は、ひねくれた観方をしました。人間の『性善説』『性悪説』を考える上で、これは大変な示唆に富んでいます。

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2014年8月 8日 (金)

ヒンドゥー教(3)

『ヒンドゥー教』という本の第一章『ヒンドゥー教とはどんな宗教か』を梅爺は期待して読み、途方にくれました。

著者森本達雄氏の、筆不足で、論旨が分からないのではなく、『ヒンドゥー教』そのものが、私たちの『宗教』に関する既成概念をはるかに超えたものであることに起因しているらしいと感じました。

著者も、『ヒンドゥー教とは、ひとことでどのような宗教ですか』と質問されて、困惑せざるを得ないと書いてありますから、専門知識、関連知識を沢山保有していても回答が易しくないことが分かります。

統一的な理解が得られないのは、『ヒンドゥー教』そのものが、矛盾を矛盾と言わずに許容しているからであろうと、梅爺は感じました。

『黒も好き、でも白も好き』という人は、『得体が知れない人』として訝(いぶか)られるのと似ています。

この本には次のように書かれています。

たしかに、ヒンドゥー教には偶像崇拝もあれば偶像拒否もある、功利思想もあれば無所有の思想もある、また人間虐待や動物犠牲もあれば、非暴力や自己犠牲もある、さらに奔放な性愛礼讃もあれば、いきづまるような禁欲主義もある、この意味では、ヒンドゥー教は宗教の「百科事典」、いいかえると、なんでもありの宗教である。

西欧人の合理主義の視点で観れば、必ず正邪を決したくなりますから、これは『あきれてものも言えない』という話になります。それほど謹厳とは云えない梅爺のような人間でも、『これで宗教が、なりたつのか』と疑問を抱いてしまいます。

『ユダヤ教』『キリスト教』『イスラーム』のように、宗教を貫く教義、信条が信仰を導くのではなく、先ず無条件に信仰を優先し、逆に信仰が教義や信条をいかようにも自在に解釈していくのが『ヒンドゥー教』であるということなのでしょう。

『人間』は『正邪両面のあらゆる可能性を秘めた存在』で、しかも個性ある『精神世界』に支配されていることを考えると、杓子定規な信仰を強要するのではなく、『あなたの信仰に沿ってお好きに振舞いなさい』という『ヒンドゥー教』の方が、実は現実に即しているのかもしれないと、梅爺は感じました。

このような、宗教観が根底にあるインドは、正しく『異文化の地』であることが分かります。

『人類』の共通点を強調する『人類みな兄弟』は、重要なモットーですが、異文化の理解はもっと重要ですから『人類みな異邦人』と覚悟して対応することも現実には求められます。

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2014年8月 7日 (木)

ヒンドゥー教(2)

『ヒンドゥー教』は、現在でもインドの80%の人達の生活に影響を与えている『宗教』ですが、特定できる『開祖』が存在するわけでもなく、体系的な『聖典』があるわけでもありません。その意味では、日本の『神道』に似ています。 

『ヒンドゥー教』を遡れば、数千年前のインドの『土着宗教』に辿りつくのでしょう。『神道』を遡れば、数千年前の縄文時代の『土着宗教』に辿りつくのと、これも似ています。多分、複数の『土着宗教』が複合的に集まって形成されてきたのではないでしょうか。 

古代の人間社会では、『宗教』は、生活の全てを支配する『法』であり、『掟』であり、『道徳』であり、『規範』であったわけですから、彼らには『宗教』という特別の概念は無かったことになります。現代の私たちが『宗教』に対して抱くイメージで、古代を理解しようとしても無理があります。人々は、『恵み』も『災い』も『神(神々)』が生み出すもので、『死後の世界』『祟り』などが本当に存在すると『信じて』いたということです。現在でも、それらを形式的に『信じて』いる人達はいますが、本当に『信じて』いる人達は少ないのではないでしょうか。 

現代の洗練された『宗教』の視点で『ヒンドゥー教』を見ると、内容は荒唐無稽で、しきたりも合理性に欠ける、つまり『時代遅れの宗教』という印象を受けますが、『人間が何故神を必要とし、宗教を必要としたのか』を考える上では、むしろ色々な示唆に富んでいると感じました。古代の人達が、『神(神々)』をどのように考えていたかを色濃く止めているという意味です。 

日本は『ヒンドゥー教』とは無縁ではなく、沢山の事柄が、私たちの生活に入り込んで定着していることを知りました。それらは、全て『仏教』の『考え方』『事物』として日本へ紹介され、定着したものです。 

『大日如来』『梵天』『帝釈天』『弁財(才)天』『大黒(国)天』『十二神将』『聖天』『閻魔』『護摩』『輪廻転生』『業(ごう:カルマ)』などの言葉は全て『ヒンドゥー教』に由来するものです。 

お釈迦さまが始めた『仏教』は、様々な土地や時代で、『土着信仰』と結びつき、日本へもたらされたことが実によく分かります。 

『宗教』は、人間が考え出したものなので、当然変容、変遷すると言ってしまえばそれまでですが、『日本の仏教』と、お釈迦様の『教え』とは、何が違っているのか、土着宗教と結びつくことで、お釈迦様の『教え』の本質が曲げられてしまっていることはないのか、煎じつめると『仏教』とは何なのか、と梅爺は、畏れ多くも考えてしまいます。

今日、『キリスト』が出現したユダヤ人社会で、必ずしも『キリスト教』が最大勢力ではなく、『釈迦』が出現したインド人社会で、『仏教』が最大勢力ではない、という事実も興味深いことです。

『キリスト』と『ユダヤ教』の関係は、ある程度理解していますが、『釈迦』は『ヒンドゥー教』とどのような関係であったのかも知りたくなりました。

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2014年8月 6日 (水)

ヒンドゥー教(1)

梅爺は、『ユダヤ教』『キリスト教』『イスラーム』や『仏教』について度々ブログで取り上げてきました。

『人間』の『脳』が形成する『精神世界』に、何故『神仏』『悪魔(悪霊)』『天国(極楽)/地獄』などと言う『抽象概念』が出現するのか、何故『宗教』という考え方の体系が出現するのかが興味の対象であり、梅爺自身が信仰を深めるために、もっと教義を深く知りたいと思ったからではありません。

そのため、断片的な浅い知識で、全体を論ずるような不遜な議論になってしまったり、沢山の誤解や誤認が含まれていたりしているであろうことは、覚悟しています。

『精神世界』の根底にある『安泰を希求する本能』が、『宗教』に関連する全ての抽象概念や、『宗教』の教義を『創出した』というのが、梅爺の基本的な『仮説』です。『神』が『人間』を創ったのではなく、『人間』が『神(という概念)』を創ったという考え方です。

抽象概念や教義は、『精神世界』だけで意味をもつもので、これらを『物質世界』と関連付けることはできないと推察しています。言い方を変えれば、『物質世界』には、『神仏』『天国/地獄』は存在しないという推察になります。『物質世界』の『摂理』で説明できない例外は認められないという考え方です。勿論『物質世界』には『奇跡』はありません。

当然『精神世界』が存在しない所には、『神仏』も『宗教』も存在しないという論理帰結になります。『人間』がいない世界には、『神』も『宗教』も存在しないということです。

誤解が無いように申し上げれば、『精神世界にのみ存在する抽象概念や価値観は、全て絵空事で無意味である』と梅爺が考えているわけではありません。

『愛』『正義』『平和』『美』などは『神』同様に、『精神世界』でのみ意味を持つ抽象概念であり、『芸術』は『宗教』同様に、『人間』には重要な影響を与えるものです。

『物質世界』があって『精神世界』が存在するという因果関係はありますが、『精神世界』は独立した価値観で構成される世界であり、それは『人間』が『生きる(生き残る)』ために必要であるが故に保有していると梅爺は考えています。

インドの80%の人達が信仰する『ヒンドゥー教』について、梅爺はほとんど何も知らないことを恥じて『ヒンドゥー教(森本達雄著:中公新書)』を購入しました。

『宗教』は何故産まれたのか、何故『人間』はそれを必要とするのかについて、新しく、考えたこと、感じたことを、折に触れてブログで紹介していきたいと思います。

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2014年8月 5日 (火)

脳は理論で分かるか(4)

『脳』を理解するには、大変広範な科学知識を必要とします。一人の学者がカバーできる領域は、限度がありますから、このことが『脳』を総合解明しにくくしているように思えます。『宇宙』の解明も似ていますが、『脳』の方が更に学際的な知識を必要としています。 

『脳』を知るには、『遺伝子(ゲノム)』『解剖』『分子化学』『細胞』『ネットワーク』『情報処理』に関する知識だけでなく、『心理学』や『論理学』の知識までもが必要になります。当然、基本的な、物理、化学、数学、統計学などの素養が必要です。 

人間は誰もが『脳』を保有していながら、極めて断片的な知識だけしか持ち合わせていませんので、不思議の宝庫でもあり、その分、現時点では誤解も沢山あるのではないでしょうか。 

『左脳と右脳の違い』『小脳と学習の関連』『海馬と記憶の関連』などは、大雑把なことは分かっていますが、詳細に解明されているとは言えません。『何故人間は睡眠をとる必要があるのか』『何故人間の子供は、論理構造を有する言葉を自分で理解できるようになるのか』などという基本的な問いに対してさえも、科学的に全てを回答できる学者はいないのではないでしょうか。 

『脳』の基本機能を、『パーセプトロン』という論理モデルで模擬したり、並列処理の理論が進化させたり、ニューロンのネットワーク構造を模擬したりして、『脳はこのようなものではないか』という推測は深まりましたが、まだ『確かに脳はそうなっている』という確信が得られていません。 

ただし、これらの研究の副次効果として、『ロボット』『家電』『電子機器』『自動車』などに、『自己学習機能』が実用化されて搭載されています。手ぶれ防止の『デジカメ』なども実用化例です。 

現在の断片的な知識が、やがて、ある時点でつながり、『脳』に関する理解が飛躍的に深まる時代がくるかもしれませんが、近い将来と言う予感は梅爺にはありません。『脳』の全貌が理論で分かるには、まだまだ努力と時間が必要です。

何と言っても、『物質世界』で構成される『脳』で、『仮想世界』とも言える『精神世界』が何故存在しているのかという本質的な疑問が、梅爺の頭から離れません。

『精神世界』への理解が深まれば、『宗教とは何か』『芸術とは何か』も今以上に見えてくるに違いありません。

崇高に思えていたものが、実は根源的には単純な動機から進化したなどということが判明して、戸惑うことがあるかもしれませんが、『精神世界』が神秘でなくなったからといって、人類が不幸になることはないと楽観視しています。

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2014年8月 4日 (月)

脳は理論で分かるか(3)

『脳』の『情報処理』は、本来は『自分にとって都合が良いか悪いか』を判断する能力であることを弁えておく必要があります。『生き残り』の確率を高めるために、生物進化の過程で獲得した能力であるからです。 

『人間』の『脳』は、その後『理と情が複雑に絡む精神世界』の母体にまで進化しました。当然『情報処理』には『理』と『情』が関与します。 

『人間』は『理』を駆使して、『物質世界』に存在する普遍的な『摂理』の一部を『発見』しました。『科学』における『ルール』がそれにあたります。この『ルール』を用いて、私たちは『物質世界』の事象について『真偽』の判定ができるようになりました。勿論、『摂理』の全てを『発見』したわけではありませんので、厳密に言えば、『物質世界』の事象の一部について『真偽』の判定ができるようになったということになります。 

重要なことは、『脳』の『情報処理』で、『論理的に真偽を判定できる』のは、『物質世界』の事象の一部だけに限定されるということです。 

言い換えれば、人間社会の事象や、『精神世界』の事象の大半は、『真偽の判定』はそもそもできないということに他なりません。普遍的な判定尺度がないからです。それにもかかわらず、何にでも『正しい/間違い』の判定が存在すると勘違いした議論が横行しているように感じます。そして、自分で思考することを放棄して、安易に『正しい答』を、他に求めようとする姿勢も気になります。

『人間』は『自分にとって都合のよいこと』から出発して、やがて『群(仲間)にとっても都合が良いこと』を『善い(正しい)』ことという抽象概念で表現し共有するようになりました。その逆が『悪い(間違い)』という抽象概念です。『法』『道徳』『倫理』などがこれを基盤にできあがりました。これらは人間社会の『約束事』であり、普遍的な『真偽』とは無関係です。

このように、抽象概念の『善い/悪い』と、『物質世界』の『摂理』で判定する『真偽』は別物であることを認識すれば、多くの議論の混乱は避けられます。 

梅爺はブログを書いていて、このことに気付きました。残念ながら、このような基本的で重要なことを学校で教わった記憶はありません。

『政治』『経済』『宗教』『芸術』などの話の中に、『正しい/間違い』という表現が出現した時には、注意を払うようにしています。『自分(自分たち)にとって都合のよいこと』を『正しいこと』と相対的に表現しているに過ぎない場合が多いからです。勿論、普遍的な『真偽』とは程遠い話です。

『脳』を『物質世界』で観れば、『素材』はありきたりなもので、『しくみ』は『摂理』に従って機能していますから、理論で解き明かしたり、その機能を数式で表現することは可能かもしれませんが、『脳』が創りだす仮想世界としての『精神世界』を同様な手法で説明することは難しいのではないかと梅爺は想像します。『脳』を先ず『物質世界』の事象として説明する必要がありますが、その先の『精神世界』の解明は、更に困難を極めるでしょう。

しかし、人間の個性的魅力の大半は、『精神世界』が個性的であることに起因しますから、梅爺には最大の関心事です。

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2014年8月 3日 (日)

脳は理論で分かるか(2)

『人間』の『脳』が何故『情報処理』機能を獲得したかは、『生物進化』を考えれば容易に推測できます。周囲環境からの情報を感知して、『生命活動維持』『生き残りのための行動選択』を行うために必要であったからです。 

偶然周囲環境に適応する能力の高い遺伝子をもった子孫が優先的に生き残り、それの繰り返しで、私たちの『脳』にいたったということでしょう。 

140億個の脳神経細胞が、複雑なネットワークを形成し、『入力情報感知』『階層的事前処理』『予測処理』『比較処理』『判断処理』『記憶処理』『学習処理』『出力処理』などが行われている様は、あまりにも見事で、『神が、神に似せて創ってくださった』と考えたくなりますが、実は、数億年以上をかけて、気も遠くなる偶然の試行錯誤を繰り返し、継承獲得したものなのです。 

その証拠に、『脳』は完全とは言えず、また処理能力に限界も有しています。しかし、少ないエネルギー消費量で多量な情報処理量をこなす『脳』に匹敵するコンピュータを私たちは創りだせませんから、見事であることには変わりがありません。

50年位前から、『脳』の『情報処理』を、論理的な外部モデルで再現しようという試みが始まりました。アメリカの心理学者『ローゼンブラット』が提唱した『パーセプトロン』モデルがその一つです。

デジタル化した図形情報を『感覚層』に入力し、『連合層』『判別層』を経由して出力し、どのような図形情報であったかを識別できるかどうかを確認しようと言う試みでした。

『パーセプトロン』は、形式的な数式モデルで、『ローゼンブラット』は苦労の結果、『連合層』を『階層構造』にして、層を経由するごとに、情報の判断が簡易になるようにし、最終『判別層』では、ある『重み』を加えた計算で元の図形を認識するようにしました。適切な『重み』の値は、繰り返し経験で得られるもので、これを『学習』の結果としました。

『パーセプトロン』が、『処理の階層構造』『学習による重みの獲得』を示唆したことは、その後の『脳』の研究に啓発的でしたが、多様な認識を実現するためには、膨大な『階層』を必要とするなど、現実的でないとして、その後研究は下火になります。

コンピュータは、原則的に『記号』を用いた『直列処理』であるのに対して、『脳』は『パターン』を用いた『並列処理』であろうと、推察されています。このため『並列処理』の研究や、脳神経細胞ネットワークのしくみを模した外部モデルの研究などが、『人工知能』の研究として行われるようになりました。

一方、『脳』を『形式的な数式』で表現しようとする『数理脳科学』の研究も進められています。『宇宙』が究極の一つの数式で表現できるのではないかという探索が、かなりの現実味を帯びた所まできていますので、『脳』もその可能性があるといえるのかどうか梅爺には分かりません。

『生物進化』は『単純な土台』の上に、増築を重ね複雑化してきたことは確かですので、『単純な土台』を見つけることが、『数理脳科学』の出発点のような気がします。これも梅爺の推測にすぎません。

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2014年8月 2日 (土)

脳は理論で分かるか(1)

『脳研究の最前線(理化学研究所、脳科学総合研究センター編:上下巻:講談社ブルーバックス)』の最終章(12章)は、『脳は理論で分かるか・・学習、記憶、認識のしくみ』で、著者は『甘利俊一』氏です。

生物の『脳』、特に『人間』の『脳』は、『物質世界』に存在するモノの中で、特筆すべき『機能』を有しています。それは『情報処理能力』です。

コンピュータは『人間』が創り上げた『人工的情報処理機械』ですが、その『情報処理』のしくみは、必ずしも『人間』の『脳』の『情報処理』のしくみとは同じではありません。外見的に『似ているところがある』という表現が適切かもしれません。逆に言えば、『人間』の『脳』の『情報処理』のしくみは、その全容が解明されていないのが現状です。

『物質世界』にも『情報処理』に類似した機能に見えるものがないわけではありません。水(液体)は低温では氷(個体)、高温では蒸気(気体)に変ります。外部の環境条件を『感知』して、『状態遷移』という『行動』を起こしていると観れば、中間に『情報処理』の機能が介在しているように見えますが、そうではなく、『物質』と『環境条件』で決まる『遷移の摂理』が作用しているだけに過ぎません。つまり中間に『情報処理』はありませんので、『遷移』は例外なく起こります。

コンピュータの『情報処理』も、原則として『ある状態では、あることが必ず起きる』という制約条件を課して利用していますから、『物質世界』の『遷移』と類似しているように見えますが、実は同じではありません。

例えば、音声認識や形状認識をコンピュータにやらせようとすると、『誤認』や『認識不能』が発生します。このことはコンピュータの『認識』は、『物質世界』の『摂理』のように、例外なく、必ず同じことが起こるものとは異なっている証拠です。

『人間』の『脳』の『情報処理』は、コンピュータより柔軟に、多様な状況に対応できる一方、『誤認』や『認識不能』に遭遇する可能性も高いことになります。

何よりも、『脳』は『個性』がありますから、個人によって『認識』が異なります。『物質世界』の『摂理』のように、普遍的で例外が無いものとは、決定的に異なります。

『人間』の『精神世界』は、『脳』の『情報処理』で構成される世界ですから、本質的に『個性的』であり、普遍的な『認識』は望めないことが分かります。

『物質世界』の『摂理』の普遍性と、『精神世界』の本質的な非普遍性であることを理解して、初めて『人間』『人間社会』『世の中』が見えてきます。

しかし、『精神世界』にも普遍性があると、勘違いしている方が、多いように梅爺は感じています。『法』『道徳』『倫理』『宗教の教義』『芸術の美意識』などは、人間社会が創りだした『約束事』であり、普遍的な『真』とは言えないものです。

普遍性が無い所で、『法』『道徳』『倫理』『宗教の教義』『芸術の美意識』などを受け容れ、いかにも普遍性があるかのごとく振る舞うのが人間の知恵と言えないことはありませんが、『精神世界』の本質は、『非普遍性』であることを、事実として知っておくことは重要ではないでしょうか。

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2014年8月 1日 (金)

ワールドカップを素材に人間を洞察する(8)

『あるべき姿』を設定して、その実現に努力するという行為は、生物の中では『人間』が飛びぬけた能力を保有しています。事象の『因果関係』を、過去や現在ばかりではなく、将来に関しても『推論』する『脳(精神世界の土台)』を所持しているからです。

必ずしも生物の中で肉体的には最強とは云えない『人間』が、地球の支配者のように振舞っているのは、この能力のお陰です。勿論、この能力も『生物進化』の過程で、獲得したものです。

『安泰を希求する』本能は、『仮想の安泰状態』を、『希望』『期待』『夢』として思い描きます。『そこに山があるから』と同じ理由で、『そこにワールドカップがあるから、日本が優勝したい』と考えます。世界中の国や人々が、同じような『期待』を抱きます。

次に、『仮想の優勝』を実現するためのプロセス、条件を考え、『具体的な目標』『あるべき姿』を設定し、あらゆる努力をそこへ集中します。ザッケローニ監督が考え出した、『自分たちのサッカー』が、この『あるべき姿』でした。

『堅い守備』で『負けない』サッカーを目指すという対応策もありますが、それではある程度の成績を収められても『優勝』は目指せないとザッケローニ監督は考えたのでしょう。

『あるべき姿』を設定するのは、サッカーばかりの話ではありません。仕事の現役であったころの梅爺の会社生活は、この連続でした。何度も挫折し、『あるべき姿』を見直して、最後に成功した時には、大いなる達成感を味わいました。『願えばかなう』のではなく、『願って、挑み続ければ成功する時もある』というのが現実です。

日本のサッカーは、今回貴重な『挫折』を経験したことになります。できれば、日本人の監督の下で、将来『あるべき姿』を成功に導いて欲しいと、梅爺は『願って』います。

『あるべき姿』へ向かって努力をするというのは、『人間』の『精神世界』独特の行為です。『精神世界』が関与しない『物質世界(自然界)』には、『あるべき姿』は存在しません。多様な要因の絡み合いの中で、『諸行無常』の『変容』しているに過ぎません。

しかし、多くの方々が、全ての事象には『あるべき姿』があると勘違いされているように見受けられます。『天地は神が創造した』などという考え方が典型例です。『神のデザイン』という目に見えない『あるべき姿』が存在するという、『精神世界』の考え方を適用しようとするものですが、むしろ『神のデザイン』など存在しないと考えた方が、多くの事象が矛盾なく理解できます。

『物質世界』には、『目標』や『あるべき姿』が存在しないと、考えるようになって、梅爺は頭がすっきりしました。『物質世界』と『精神世界』の違いを、区別して考えると『なんだ、そう云うことか』と多くのことが見えてきます。勿論、『人間』にとって『目標』や『あるべき姿』が重要な意味を持つということは、『精神世界』を理解すれば得心がいきます。

皆様も、サッカーではなく『宗教』『芸術』などを素材として、『人間』の『精神世界』を洞察されてみてはいかがでしょうか。『金もかからず』『命の危険もない』知的探検は、年金老人にはこの上もない『愉しみ』です。

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