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2014年7月31日 (木)

ワールカップを素材に人間を洞察する(7)

日本チームは、大会に臨む前に、口をそろえて、『自分たちのサッカーで勝利を目指す』と言っていました。 

『自分たちのサッカー』というのは、ザッケローニ監督の戦術を4年間かけて、築き上げてきたスタイルのことです。 

具体的には、フォワード(前方)とデフェンス・ライン(後方)の間を、常に20メートル程度に保ち(味方同士の距離間隔を短くして)、相手フィールドに近い所でボールを奪ったら、素早いパス回しで、相手ゴールへ迫り、ボールを持たない選手が、有効に動いてスペースを作り、そこへシューターが飛びこんで、相手の陣形を崩し、得点するという攻撃型の戦術です。 

攻める時も守る時も、全員が手を抜かずに陣形を維持するという戦術ですから、相手を上回る運動量と、正確なパス回しの技術が必要になります。 

この戦術の弱点は、攻撃時に味方のゴールキーパーとデフェンス・ラインの間に広大なスペースがあることで、相手がカウンターでこのスペースを利用した時には、一瞬にしてピンチを迎えやすいことです。 

ザッケローニ監督は、日本人の特徴を見抜いて、この戦術を採用しました。フィジカルな強健さ(背の高さなども含む)、身体能力で外国に勝てないならば、『献身的な運動量』『技術と俊敏さ』『チームの結束力』で対抗するしかないと考えたことになります。点をとられるのはある程度やむを得ないとして、それ以上点をとればよいという強気の戦術でもあります。 

南アフリカ大会の時にある程度成功した守備重視の戦術とは異なりますから、当時の『トゥーリオ』『中澤』といった、屈強なディフェンスを代表には招集せず、ある程度背の高さを犠牲にしても、俊敏で攻撃参加ができる選手をディフェンスとして召集しました。 

これでは世界のトップクラスと戦うには、ディフェンスに不安があると誰もが感じ、2013年のコンフェデレーション・カップにアジア代表で参加した時も、一勝もできずに、懸念は的中したようにみえました。 

しかし、アジアではある程度勝てたこと、国際的な親善試合でも、そこそこの成績を収めることができたことで、ブラジル・ワールドカップでは、なんとかなるかもしれないと一縷の期待で臨みました。残念ながら、日本の戦術がある程度功を奏したのはギリシャ戦だけで、結局1勝もできませんでした。

結果だけをみて、ザッケローニ監督の戦術は間違っていたというのは簡単ですが、世界のレベルは、攻撃、守備のバランスで想像以上に進化していたということではないでしょうか。天才的なメッシを活かすために全員が協力するといった、アルゼンチンの『古いタイプ』のサッカーは例外で、総合バランスで隙を見せず、正確なボール・コントロールができるドイツ型のサッカーが、今後の主流になっていくのでしょう。

今回設定した『あるべき姿』は、本番で実現できなかった上に、結果にはつながりませんでした。日本は、ゼロから体制の作り直しになります。ドイツをそのまま真似てもうまくいきませんから、再び『あるべき姿』を想定して、全ての努力をそこへ集中することになります。

人間社会では、この『七転び八起き』の繰り返しに耐えられない脱落者は、成功に近づくことができません。『あるべき姿』を設定して、直ぐに成功するケースの方が人生では稀です。

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2014年7月30日 (水)

ワールドカップを素材に人間を洞察する(6)

ワールドカップの試合の前に、何人かの選手は、『神に祈りを捧げるしぐさ』をしました。『自分に力を与えてほしい、チームを勝利へ導いてほしい』という願いが祈りに込められていたに違いありません。『キリスト教』文化圏の選手は、『キリスト教』の『神』へ、『イスラーム』文化圏の選手は、『アッラー』へ祈りを捧げたのでしょう。

しかし、理性で考える限り、サッカーの試合の勝敗が、『神の意図』『神への祈り』の影響を直接受けることは考えにくいことです。『勝利の女神がほほ笑んだ』というような表現は、『種々の幸運に恵まれた』ということの言い古された比喩に過ぎません。

サッカーの勝敗は、『物質世界の摂理(物理法則)』『人間が創り上げたルール』『選手の心身の能力』の複雑な要因の絡み合いで決まります。ここには、『神の意図』『神への祈り』が介入する余地はありません。

強いて挙げれば、『祈り』は、選手の精神面(メンタルな面)へ影響することがあるということだけでしょう。しかし『祈れば勝つ』という保証はありません。

同じく、国民やサポーターの『応援、声援』の量が、勝敗へ直接的な影響を与えるかと言うと、これも、たしかな『因果関係』は見出せません。今回、準決勝でサポーターの数で圧倒的に有利な『ブラジル』が、『ドイツ』に1:7で大敗しました。『応援、声援』が、選手には反って精神的な重荷になったのかもしれませんし、それとは関係なく『ブラジル』のチームの歯車が狂ってしまったのかもしれません。『ドイツ』が強いことは間違いありませんが、本来1:7の実力差があるとは思えませんので、スポーツで歯車が狂っていまうことの恐ろしさを世界中が垣間見たことになります。

『日本』が今回勝てなかったのも、『運』を味方にできなかったからで、実力的に大きな差異があったからとは思えません。『スペイン』の敗退も同じです。言うまでもなく『運』は『神』が決めているものではありません。無数の要因で全体が動的に遷移するなかで、偶然出現する好都合な状態が『運』です。これは『物質世界』の変容と似ています。『地球』という星は、『運』よく出現し、その『地球』に、『運』よく『生命』が出現しました。これらは『神のデザイン』ではありません。しかし、『運も実力の内』という言葉がありますから、『運』を手繰り寄せる要因が何かを分析し、強化を図ることは重要でしょう。フィジカル面で不利な日本人がこれを強化することは当然ですが、メンタル面の強化が今後鍵を握るのではないでしょうか。『決意』だけが先行し、緊張して試合に臨むのではなく、自信に裏付けされた余裕で、冷静に全体を展望できるチームに変貌することが、『運』を手繰り寄せる決め手ではないかと梅爺は思います。『真面目』すぎて、良い意味での『ふてぶてしさ』が日本に足りないような気がします。

『必勝祈願』は『安泰祈願』の一種ですから、人間の本能に根ざしています。『理』で、『そんなことは勝敗と関係ない』と薄々感じていても、いまだに人々が『祈る』のは、本能の『情』が『精神世界』を支配しているからです。

水を差すようで恐縮ですが、『必勝祈願』は勝利に結びつきません。プロ野球のどのチームも春季キャンプに入る前に神前に『必勝祈願』をしますが、優勝するのは1チームだけです。

『藁をもつかみたい気持ち』『苦しい時の神頼み』で、習慣的に選手やサポーターが『祈る』『念ずる』気持ちはわかりますが、勝敗は『祈り』や『念』とは原則的に無縁です。

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2014年7月29日 (火)

ワールドカップを素材に人間を洞察する(5)

昨日は、『仲間との絆を確認して安堵する』本能について、『孤独』が『不安』『恐怖』といったマイナスのストレスをつくりだし、これが嵩(こう)ずると心身の病にまでなりかねないと書きました。

しかし、人間は厄介なことに、生物が最初に獲得した『何よりも自分の都合を優先する』本能も併せ持っています。この本能は、時に『他人との絆』を煩わしいと感じて、これを排除し、『孤独』である状態をむしろ希求します。

つまり、『孤独』を恐れると同時に、『孤独』を求めるという矛盾した性格が、人間の中にあります。

『孤独』を愛するという性格は、必ずしも身勝手と非難の対象になりません。人間は、『孤独』な状態で、自分の内面や世の中の事象について深く思索することができるからです。『釈迦』も『キリスト』も『ムハンマド』も、『孤独』な環境に身を置いて『瞑想』しています。

梅爺も、独りで、読書をし、音楽を聴き、ブログを書く時間を大切にしています。

幼児の育児も、原則として常に『母親との絆』を幼児が感ずるようにすることを優先しますが、同時に幼児が『孤独』の時間を過ごす訓練も少しづつ開始するのが望ましいと言われています。幼児が『孤独』を『不安』と感ずるのではなく、自分の世界に浸って『楽しい』と感ずることを覚えることが、脳の健全な発育に寄与するという考え方です。

『孤独』の忌避と希求という矛盾する行為のバランスを取りながら『生きていく』ことが大切なのではないでしょうか。

梅爺は、退職して、家にいるようになって、最初に気付いたのは、自分が四六時中家にいることが、梅婆のストレスになっているということでした。食事を準備することなどもストレスの要因ですが、特に梅爺がテレビを独占して、勝手な時間に、自分の好きな番組を観ていることも、ストレスであることに気付きました。そこで、早速二人暮らしの家の中で、『テレビの視聴・録画環境』を完全に二つに分けました。梅婆は、『旅番組』『健康番組』『韓国ドラマ』などをこころおきなく楽しみ、梅爺は『スポーツ中継』『音楽番組』『ドキュメンタリー番組』を楽しんでいます。録画してみる『映画』も、好みが違いますから別々です。

夫婦は、常に同じ時間を共有するのが、好ましいという考え方もあろうかと思いますが、夫婦それぞれの価値観が異なることを考えると、我が家の方式も一つの対応策であろうと満足しています。趣味や交友のために、梅爺も梅婆も自由に外出をしますし、梅爺はその時独りで留守番をしたり料理をしたりすることも苦にはなりません。夫婦の会話は、食事の時や、就寝前にお酒を飲む時間に限定されますが、長年連れ添った夫婦ですから、それで十分な気がします。

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2014年7月28日 (月)

ワールドカップを素材に人間を洞察する(4)

『愛国心』は、個人の『コミュニティ帰属意識』の一つの現れです。『コミュニティへの帰属意識』は、『群の中の仲間との絆を確認して安泰を確認する』本能に起因しているというのが、梅爺の仮説です。『コミュニティ』は『国家』『会社』『学校』『家族』『同郷』『宗教の仲間』『趣味の仲間』など多様ですから、それに応じた『帰属意識』を私たちは使い分けます。『愛国心』はその一つで、『日の丸』や『君が代』はそれを確認する手段に過ぎません。学校で『愛国心』を教えることは無意味とは思いませんが、元々本能に起因していますから、『東京オリンピック』で、黙っていても高揚することは目に見えています。

この本能がいかに強いかは、『絆』を無くしてしまった『孤独』が、人間の『精神世界』を脅かし、時に心身の病を発症させる要因になることでも分かります。

『独りぼっち』『仲間はずれ』は、極度の『不安』『恐怖』のストレスとして『精神世界』へ作用します。『知人がいない、言葉も通じない見知らぬ外国の町の中に突然置き去りにされた自分』を想像してみれば、これがどれほどの『パニック』であるかは想像していただけるはずです。現在女子中高生が、強迫観念にとらわれたように、スマホや携帯電話で仲間との交信に執着するのは、自分が『仲間はずれ』になることを極度に恐れているからです。

『独り暮らしの老人』『社会生活になじめない孤独な若者』などは、このストレスにさらされています。耐えたり、克服したりできる立派な方々もおられますが、中には、絶望的な行動に走ったり、精神を病んで無差別殺人などの怖ろしい犯罪を引き起こす人も出現します。

物質的に豊かな世界が、反って『孤独者』を産みだしやすいという関係が分かってきました。戦後、豊かな社会を追い続けてきた日本は、今この問題に直面しています。『孤独者』をできるだけ作らない社会、『孤独者』を孤独にしない社会は、多分『価値観』のパラダイム・シフトが行われないと実現しませんから、日本人の『知恵』が試されることになります。世界の先進国は、同じ問題を抱えていて、対応を迫られていますが、決定的な『回答』は見つかっていません。ただ、北欧の国々が一歩先行しているように梅爺は感じます。

国民の中の経済格差が大きい、アメリカ、中国などは、『回答』を見つけるのは至難の業でしょう。教育水準が高く、相対的に経済格差が小さい日本は、北欧を参考にしながら、独自の『回答』を見いだせる可能性を秘めていると思います。先進国の日本には、そっくり真似をすればよい外国モデルなどないと覚悟して臨む必要があります。

現在の日本の政治リーダーたちは、もう一度日本が経済的に復興すれば、国民は『幸せになれる』と、単純に勘違いしているように思えて、気になります。物質的に豊かになればなるほど、社会の老人比率が高まれな高まるほど、『孤独者』への対応が、国家の政治課題になるという認識があって欲しいと梅爺は願っています。

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2014年7月27日 (日)

ワールドカップを素材に人間を洞察する(3)

『ワールドカップ』や『オリンピック』で、人類は突然『愛国心の権化』に早変わりします。人種、宗教、文明のレベルなどとは無関係ですから、『人間の根源的な本能』が関与しているのであろうと推察できます。 

このような、格好の事象を眼の前にしながら、誰も『愛国心』の本質を論じようとしないのはどういうことなのでしょう。

悪賢い政治リーダーが『愛国心』を利用して、国民を不幸な戦争へと駆り立てた苦い経験を人類は沢山繰り返してきました。皮相な観方しかできない人達は、『愛国心』こそ悪の元凶と怯え、日本でも一部の人たちは『日の丸』『君が代』が、軍国日本へ逆戻りする危険性を秘めていると、これらを拒否しています。一方中国では『愛国心』こそが『至上の善』であるとして、『愛国無罪』などと叫び、『愛国のためなら、どのような手段も正当化される』という、危険で馬鹿げた論理が横行しています。皮相な理解に止(とど)まる人達が多い社会は、文明のレベルが低いと言わざるをえません。

『ワールドカップ』の日本の試合の前には、FIFAの公式プロトコルとして、『日の丸』『君が代』が使われましたが、あまりにも国民の熱狂にたじろいだのか、これに『反対』を表明する論調はあまり見受けられませんでした。『スポーツ』の『愛国心』は、許容できると言う弁明も特にはありませんでした。

『愛国心』が人間の本能から発露するものとすれば、抑え込むのは無理で、『両刃の剣』のようなものとして、使い方を間違わないようにしなければならないというだけのことではないでしょうか。『正義』『義侠心』なども同じことです。

梅爺は『人間』の『精神世界』の根源に『安泰を希求する本能』があると、何度も仮説を述べてきましたが、『愛国心』もこれで矛盾なく説明できます。

生物が、40億年近く存続し続けられたのは、『生物進化』を繰り返してきたからです。『生き残り』を目標として進化したのではなく、偶然『生き残り』に有利な資質を獲得したものの子孫が生き残ったという話です。途方もない数の試行錯誤や、多大な犠牲者(生存敗北者)の上に『生物進化』は成り立っています。残念ながら『人間』は、『神が神に似せて特別にデザインした生物』ではありません。

『安泰を希求する本能』は、全ての生物に共通と思われます。この本能が、周囲の状況を把握し、対応する能力も高めてきました。私たちの『精神世界』が発する『不安』『恐怖』などの感情は、『安泰を脅かすものが周囲に存在する』ことを知らせるシグナルです。

一部の生物は、『個の安泰』と同時に『コミュニティの安泰』も同時に重視する本能を身につけました。『群で生きる』ことを選択した『人間』も、この結果『利己』の本能と『利他』の本能という、矛盾した本能をダブルスタンダードとして保有することになりました。私たちに中に『菩薩』と『悪魔』が共存しているように見えるのはこのためです。

『コミュニティの安泰』は、『仲間との絆を確認すること』で得られます。日本がサッカーで勝てば、『勝った仲間(同胞)との絆』も得られ、更に『仲間が勝つことは自分も愉快』という、『個の安泰』の感覚も得られることになりますので、熱狂的な『愛国心』が、自然に醸成されるのは当然のことです。

このような冷静な分析をしている、梅爺も、『愛国者』となってテレビのまえで応援をしました。梅爺も人間として本能で行動していますからこれまた当然の話です。

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2014年7月26日 (土)

ワールドカップを素材に人間を洞察する(2)

『人間は何故スポーツを考え出し、熱狂したり、意欲を燃やしたりするのか』という問いに本質的に答えるのは易しくありません。『面白いから』『健康に良いから』などという答では、洞察は深まりません。何故人間の『脳(精神世界)』は『面白いこと』『自分が健康であること』を本能的に希求するのかという本質的な問いに答えていないからです。 

『スポーツ』の勝負を決める要因は『物質世界の摂理』『人間が創った約束事(ルール)』『プレーヤーのフィジカル、メンタルな資質(能力)』です。 

『サッカー』は、チームが11人で構成される『グループ競技』ですから、『プレーヤーの個人的な資質』の他に、『チームとしての戦術理解の共有』が加わり、勝負は、無数とも言える要因の関り合いで決まります。『野球』も同じです。 

ただし、局面の変化が常にフールド全面を使って流動的に進行する『サッカー』と、勝負がローカルの局面に限定されながら進行する『野球』では、『スポーツ観戦』の『面白さ』の対象がかなり違います。 

『野球』の場合は、『バッテリーと打者の間のかけひき』が『面白さ』の大半を占めます。つまり投手と打者の『予測能力(脳の能力)』『対応能力(フィジカルな能力)』を駆使した、『巌流島の戦い』のような一瞬の対決が魅力の中心です。『スポーツ観戦者』は、更にそこへ『自分の予測能力』を加えて楽しむことになります。梅爺にはプロのプレーヤーの『対応能力』はありませんが、『仮に自分の対応能力があればこうするだろう』という前提で参加しますから、爺さんでも『野球』を楽しめることになります。

『野球』では、即座に『結果』が判明しますから、プレーヤーや自分の『予測能力』が『当たった』『当たらなかった』とこれも即座に一喜一憂することになります。

人間は『生きる』ために、あらゆることに『予測能力』『対応能力』を意識的であれ、無意識であれ駆使していますから、『スポーツ』が端的にその機会を模擬的に提供してくれることに魅力を感ずることになります。原則として『スポーツ』は『死のリスク』を意図的にルールで排除した『闘争』であり、観戦者は安心して参加できます。

『得点の多寡』だけを観て『勝った』『負けた』と言っている人は、『スポーツ』の真の面白さを享受していないことになります。

フィールド全体を使って局面がめまぐるしく流動的に変る『サッカー』と、局地的な対決の組み合わせで試合が進行する『野球』では、楽しみ方の『質』に違いがありますが、『予測能力』『対応能力』の対決が勝負を決めると言う点では同じです。

『スポーツ』が『面白い』のは、人間の本能(予測能力、好奇心、闘争心、好き嫌い、意外な展開への期待など)を端的に刺激するからであろうと思います。

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2014年7月25日 (金)

ワールドカップを素材に人間を洞察する(1)

世界中が熱狂した2014サッカー・ワールドカップが終わりました。

『サッカー大好き人間』の梅爺は、人並みに早起きしたり、録画をしたりして、興味をそそられる対戦カードをテレビで観ました。そして、日本の一次リーグ敗退に当然ガッカリし、日本同様に早期に一次リーグから姿を消す結果になったスペイン、イングランド、イタリア、ポルトガルなどに少し驚きました。優勝したドイツの強さにも感服したことは言うに及びません。

前評判の高かった、才能あふれる前線の選手は勿論のこと、いぶし銀のパフォーマンスで魅了する中盤の選手、鉄壁の固さでゴールを守るセンターバック、サイドバック、ゴールキーパーを再発見して、世界にはすごい選手がいるものだと感心しました。監督の采配が見事に的中するケース、裏目に出るケースを観て、人生そのものとも感じました。

梅爺が『サッカーおたく』であることを知っている友人から、『どうしてワールドカップを話題にブログを書かないのか?』と質問され、『インターネットには、既に沢山の感想、意見が溢れ返っており、同類の内容をいまさら書く気にならない』と、生意気にも答えました。感想、意見の大半は、『日本の早期敗退は残念だった』『日本は、まだ世界の上位を目指すレベルに無い』『ザッケローニの采配に疑問がある』『日本代表は国を背負って闘っているという自覚と根性に欠ける』などという内容で、この種の話なら梅爺もいくらでも気軽に書けますが、『サッカー』や『人間』の本質を洞察するという観点では、根が浅く正直啓発されることが少ないと感じていたからです。

梅爺流のへそ曲がりで、他に類をあまりみない一風変わった洞察なら、やってみる意味があるかもしれないと、このタイトルのブログを書くことを決めました。『ワールドカップを素材に人間を洞察する』という仰々しいタイトルですが、いつもの『精神世界』の話です。

『国の対抗戦は何故人々を熱狂させるのか』『選手の気合や根性は勝負の決め手なのか』『サポーターの必勝祈願や後押しは勝負の決め手なのか』『戦略にあるべき姿などというものはあるのか』『選手間の絆のもつ意味は何か』など、梅爺は沢山の疑問を列記してみて、考えを深めていきたいと思います。

皆様が期待される『サッカー論』からは、程遠い風変わりな内容になることは目に見えていますので、あらかじめお断りしておきます。

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2014年7月24日 (木)

A great book is a great evil.

英語の諺『A great book is a great evil』の話です。

直訳すると、『偉大なる書は、大いなる邪悪でもある』ということになり、何やら深遠なことを示唆しているようにも感じますが、何を言いたいのかが判然としません。

調べてみると、これはギリシャの詩人、批評家であった『カリマコス』の言葉であることが分かりました。『カリマコス』は『キリスト』より300年程度前の人物です。

『カリマコス』は、エジプトの最後の王朝『プトレマイオス朝』が、当時の世界で比類なき規模を誇った『アレキサンドリア図書館』で、図書目録の作成に従事していましたので、『偉大な書』の山に埋もれた生活を送っていたと推測できます。

『プトレマイオス朝』は、『アレキサンダー大王』の死後、家臣の『プトレマイオス』が、大王の所領地の一部であったエジプトを継承して王朝を開始したものですから、ギリシャ人(マケドニア人)が初代王(ファラオ)です。最後の女王は『クレオパトラ』ですが、この頃は、王朝もエジプト人との混血が進んでいましたので、『クレオパトラ』にはエジプト人の血も混じっていたと考えられています。

『プトレマイオス朝』の偉業の一つは、都であった『アレキサンドリア』に、当時世界最大規模の『図書館』を保有していたことです。『アレキサンドリア』は『ローマ』などが及びもつかないほどの文化・学問都市であったということです。先進国の『ローマ帝国(シーザー)』が、後進国『エジプト(クレオパトラ)』を併合しようとしたような印象を受けますが、事実は異なります。

『アレキサンドリア』は『キリスト』がヘロデ王の弾圧をのがれて、7歳ころまで過ごした地ということになっています。これが本当なら、『キリスト』は幼いころ『ギリシャ語』『ギリシャ文化』に触れる機会があったはずです。『キリスト』はユダヤに帰国後は『アラム語』で説教をしていたと考えられていますが、『ギリシャ語』をどの程度理解していたかは不明です。

本題に戻ると、『偉大な書は、大いなる邪悪でもある』という真意は、『偉大な書』に埋もれて生活していた『カリマコス』が、書の内容が人間の『精神世界』へ与える影響の大きさを感じとり、その影響には『良い面』と『悪い面』があることを肌で感じていたということではないでしょうか。

『人間』の『精神世界』は『善良/邪悪』という対立する抽象概念を保有していますが、普遍的な判別尺度は保有していません。従って、『精神世界』の事象は、ほとんどが長所は時に短所になり、短所は時に長所になるといって差し支えありません。

従って、私たちは『偉大なるもの』を評価すると同時に、それが持つ負の側面も理解する必要に迫られます。

『人間』が生きていくためには、『信じて疑う、疑って信ずる』という矛盾した行為が要求されることを、この諺は示そうとしたのではないでしょうか。

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2014年7月23日 (水)

ジョン・グリシャム『The Associate』(5)

『大規模法律事務所』では、膨大な量の訴訟関連ドキュメントが全て電子データに変換され、外部の人間には、到底検索できない厳重な機密保護システムで保護されています。内部の関係者の行動も全て監視されていますから、機密文書の持ちだしは不可能に見えます。

しかし、『恐喝者』一味には、この機密を破る方法を考えるプロがいて、主人公に、機密文書のダウンロード手順を伝授します。『法律事務所』のコンピュータに秘密の無線発信機をしかけ、同じく無線受信機で情報を抜き取ろうとする方法ですが、このようなことが現実に可能かどうか梅爺には判断できません。小説なのですから、とやかくいう必要はないでしょう。

追い詰められた主人公は、意を決して信頼できる弁護士をこっそり訪ね、事態を明かして、救済を依頼します。弁護士は、直ぐに知人のFBIと連絡をとり、『恐喝者』の逆捜査が本格化します。主人公はまた、弁護士の父親にも真実を明かし、父親も『レイプ訴訟』を示談で内密に終わらせる活動を開始します。

主人公は、指示された通りに文書をダウンロードしますが、内容は機密文書ではなく、さし障りのない文書を対象にします。この抜き取った文書の受け渡し現場にFBIが乗り込んで『恐喝者』を逮捕する手はずでしたが、FBIが踏み込んだ場所には『恐喝者』は現れず、『恐喝者』は雲隠れしてしまいます。

何らかの情報で『恐喝者』は危険を事前察知し、逃亡したことになります。FBIの捜査にもかかわらず『恐喝者』の正体は、暴かれません。

主人公は、これを機に『法律事務所』を辞めます。主人公が行った行為に対して、FBIも『法律事務所』も罪の告発をしないことで同意します。『法律事務所』としては、セキュリティ・システムに盲点があること、まだほかにもスパイが入り込んでいる可能性があることなどで、これらが明らかになれば社会的信頼を決定的に失いますから主人公を告発しないのは当然です。

FBIは主人公の身の安全のために、FBIの保護下で生活することを提案しますが、主人公はこれを拒否して小説は終わります。

この結末は、『ジョン・グリシャム』が仕掛けた、実に心にくい終わり方です。つまり、『恐喝者』の正体は謎のままで、このままでは主人公の身の安全も保障されないという不安を読者に残したままです。むしろ、すっきり『一件落着』と説明されるより、この方が、この物語の背景の闇が際立ちます。

『恐喝者』の背景は、航空機製造メーカによる産業スパイ、外国のアメリカ軍事機密を狙うスパイ、はたまた、怖ろしいことに米国政府下の諜報機関である可能性も示唆しています。

この後、主人公は父親の法律事務所で、良識的な弁護士で活躍するのか、ニューヨークで知り合った女性と幸福な結婚をするのか、はたまた、『恐喝者』一味の報復で暗殺されてしまうのか、これも読者の想像に任されたままです。

『ジョン・グリシャム』の小説の中では、かなり上出来な作品で、梅爺は堪能して読み終わりました。前にも書きましたが、アメリカは『素晴らしい国』でもあり、『ひどい国』でもあるという認識が更に深まりました。

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2014年7月22日 (火)

ジョン・グリシャム『The Associate』(4)

主人公は、ニューヨークへ移り住んで、『大規模法律事務所』へ就職します。『恐喝者』からは、何度も密会の呼び出しがあり、主人公は、渋々要求に応ずる姿勢を示しながら、内心は時間稼ぎをして『恐喝者』とその背景の一味の正体を突き止めようとします。主人公には必ず尾行者がつき、アパートには盗聴器、隠しカメラが設置され、携帯電話やインターネットのメールなども全て筒抜けになっていることを見抜きますが、わざと気付かぬふりをして、逆に『恐喝者』の正体を突き止める方策を模索します。

『乱痴気パーティ』事件で、レイプの疑いがかけられた大学時代の友人Aを、こっそり、ニューヨ-クへ呼び出すことに成功し、事態を説明して『恐喝者』の顔を隠しカメラで撮影したり、今でも『レイプ訴訟』を考えているという昔の女子学生の動向を調査したりすることを頼みます。

この友人Aは、もう一人レイプに関与した友人Bに会い、状況を話しますが、この友人Bは、アルコール中毒、麻薬中毒のリハビリ施設から出てきたばかりで、リハビリ期間中に感化を受けた宗教関係者の影響ですっかり『信心深い』人間になってしまっていて、『自分は、昔の女子学生に会って、罪の許しを請いたい』と言いだします。主人公や友人Aの『それは、自分たちを破滅に追い込むからやめろ』という説得を振り切って、友人Bは昔の女子学生が住む田舎の町へ車で出かけますが、途中に立ち寄ったガソリンスタンドのトイレで、何者かに射殺されてしまいます。

『レイプ訴訟』が先に明るみに出ると、主人公も『法律事務所』から解雇され、『恐喝者』としては、機密文書の入手のてづるを失いますから、友人Bは『恐喝者』一味に消されたことになります。友人Aは、これに恐れをなして、一切協力しないと主人公から去っていきます。

再び、孤独になった主人公は、『恐喝者』の思惑通りに、航空機製造会社間の訴訟担当に配属され、追い詰められていきます。『恐喝者』が『法律事務所』の内部事情に詳しいことから、自分以外にもスパイが送り込まれているのではないかと感じ始めます。

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2014年7月21日 (月)

ジョン・グリシャム『The Associate』(3)

この小説の主人公は、アメリカの名門イェール大学から、同大学の『ロー・スクール』へ進み、卒業間近の男の学生です。成績優秀ですから、ニューヨークの世界最大規模の『法律事務所』から、就職勧誘を受けます。

彼の父親は、アメリカの田舎都市で、個人経営の『法律事務所』を経営し、貧しい人の味方をする良心的な弁護士です。父親は、息子が成績優秀であることを誇りに思い、卒業後は自分の『法律事務所』に参加してくれることを望んでいます。

主人公も、『金儲け』目当ての弁護士ではなく、父親のような良識的な弁護士になろうと考えていましたが、卒業間近なある日、FBIを名乗る男から、『大学時代のある事件』について尋問したいと接触があり、いかにもFBIらしく周到に用意されたホテルの一室へ連れて行かれます。

『ある事件』とは、大学の寮生活の時に、主人公の部屋で、同級生4人と大学生らしい『乱痴気パーティ』を開催し、そのパーティに参加した一人の女子学生と、主人公以外の仲間の2人とが酒に酔って性行為に及んだ『事件』であることが判明します。実は、この『乱痴気パーティ』は、騒ぎを聞きつけて踏み込んできた警官によって解散させられましたが、女子学生が『自分はレイプ(強姦)された』と言いだし、警察の調べを受けた結果、『証拠不十分』で告訴はされずに済みました。女子学生は、『男目当て』に在学する、素行癖の悪い札付きの女で、やがて大学を中退していなくなったために、『事件』に関与した4人の男子学生は、『一件落着』と忘れかけていました。

FBIを名乗る男は、その『事件』をこっそり撮影したビデオがあることをほのめかし、事件に関与した当時の女子学生が、今でも『レイプされた』ことで、関係者を訴える意思を持っていることを主人公に告げます。

FBIを名乗る人物は、やがてFBIとは無関係の人物であることを自ら明かし、主人公を恐喝する『恐喝者』へ変貌します。主人公はビデオの一部も見せられて窮地に追い込まれます。

『恐喝』の内容は、主人公がニューヨークの『大規模法律事務所』へ就職し、近々大手の航空機会社2社の間で発生する『訴訟』に関する内密資料を盗み出して、恐喝者へ手渡すことです。つまりスパイ活動を強いたわけです。これに、応じなければ『事件のビデオ』を公開し、レイプ訴訟を再燃させると同時に、主人公達4人の将来を全て台無しにすると脅します。

主人公が、『大規模法律事務所』から就職勧誘を受けている事実、近々航空会社間で訴訟事件が発生し、『法律事務所』が関与することを、何故恐喝者は知っているのか、それに『事件』の隠し撮りビデオを何故保有しているのか、と謎は深まります。

悩んだ結果、主人公は、『大規模法律事務所』へ就職する決心を固め、父親にそれを伝えます。父親は、息子が『金に目がくらんだ』判断をしたとして激怒しますが、渋々認めます。

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2014年7月20日 (日)

ジョン・グリシャム『The Associate』(2)

『ジョン・グリシャム』という作家は、『真相』を知りたいと思う読者心理を次々に手玉にとり、謎めいた出来事を提示して、読者をどうしても先を読みたくなる状況にします。このような作家は、『Story Teller(話し上手)』『Page Turner(読書を中断させない人)』と呼ばれます。 

稀有な怪事件ではなく、読者周辺にもありそうな、場合によっては読者も巻き込まれそうな『出来事』を設定し、読者が知らず知らずに主人公に同情したり、感情移入したりするように仕向けますから、分かっていながら、すっかり乗せられてしまいます。読者を『こういう展開になって欲しい』と思わせておいて、時にはそれを裏切って、新たな謎を提示し、興味を継続させますから、実に始末に負えません。 

もっとも、読者は『手玉に取られる』ことを期待して読んでいるわけですから、『騙されている』ことを承知で観ている『マジック・ショー』のようなものです。 

『ジョン・グリシャム』の『The Associate』と言う小説は、日本流に言えば『社会派推理小説』ということになります。『訴訟社会』を背景に、『金儲け』に走る『大規模法律事務所』の醜い実態を暴(あば)いていきます。『法の番人』などという理想は微塵もなく、『金儲け』のためなら手段を選ばないという実態が明らかにされます。 

有名大学の成績優秀卒業者を、『高給』で勧誘して採用しますが、一旦組織に加わると、『つまらないルーチン作業』を強いられたり、『ノルマ』を課せられて早朝から夜遅くまで働くことになり、多くが『こんなはずではなかった』と疑問を抱いたり、疲弊したり、組織内の競争に破れたりして、辞めていきます。この過酷な環境を凌いだ一握りの人達が、昇進して『Partner』の資格を得ますが、そこへ達するまでに『良心』などはすっかり麻痺してしまうことになります。 

『大規模法律事務所』が『金儲け』をするしくみは、顧客である『大企業』の、訴訟事件を調停したり、裁判で弁護したりして、動いたお金の一部を報奨収入として受け取ることですが、日常的には、弁護士の働いた時間分の『料金』を顧客に請求することで、収入を得ます。 

早朝から夜遅くまで働かされるのは、課金する労働時間を増やすことが目的になります。『どんな内容の仕事をしたか』が問題ではなく『何時間は働いたか』が重要になります。外で食事をしたような時間や高額な食事代も『仕事をした』として顧客へ請求します。『Associate』では200ドル/時、『Partner』では400ドル/時程度の額が顧客への請求単位になります。 

顧客の『大企業』も、この実態は分かっているはずですが、『いざという時に窮地を救ってもらえる』可能性がある『法律事務所』には、文句が言えない弱みがあるのでしょう。お互いに『弱み』を庇いあって、金儲けのためには手を握ると言う、『資本経済至上主義』のアメリカに咲いた『あだ花』であるように見えます。

アメリカのもう一つの社会問題は、『軍産複合体』と呼ばれる、軍事産業の政治癒着です。『アイゼンハワー大統領』が辞任時に、『産軍複合体』の弊害を訴えましたが、その後も大きな改善がなされた様には見えません。アメリカが戦争に加担することが、軍事産業を潤すことになりますから、政治的には色々な大義名分を掲げて、戦争参加が肯定されます。若い兵士が戦死をすることも、大義のためにはある程度やむを得ない犠牲という論法になります。

少しでも多くの軍事予算を獲得するために、軍事産業はサロン活動を展開します。勿論多額の政治献金が行われます。

この小説でも、次期爆撃機をペンタゴン(国防省)から受注するために、ライバルの航空機会社同士が争い、一方が他方を『産業スパイで秘密技術資料を盗んだ』として訴える訴訟が背景として描かれています。勝敗には巨大な賠償金などが動く上、ペンタゴンを巻き込んだ一大スキャンダルにもなりかねない事件です。両方の航空機会社には、それぞれ異なった『大規模法律事務所』が訴追、弁護で関与することになります。

こういう背景に、大学を卒業したばかりの若手弁護士(主人公)が、巻き込まれていくという設定で、物語は展開します。

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2014年7月19日 (土)

ジョン・グリシャム『The Associate』(1)

アメリカの小説家『ジョン・グリシャム』の『The Associate』を、英語版ペパーバックで読みました。 

『Associate』は、一般には『仲間』というような意味ですが、アメリカの法律事務所で、弁護士のランクを区分けし、比較的経験の浅い弁護士の呼称として使われる言葉です。大学の『ロー・スクール』を卒業後、国家試験に合格した人が、大きな法律事務所に就職し、最初は『Associate』からキャリアを積んで、やがて『Partner』になるという段取りになります。 

『Associate』でも、年収数千万円の高給取りですが、『Partner』になると、年収が1億円を越えることがあり、『アメリカン・ドリーム』の実現者になります。 

しかし、これらの呼称や年収は、限られた『大規模法律事務所』の話で、全米には、無数の個人経営レベルの弁護士が存在します。それらの弁護士の中には、低い報酬で貧しい人の弁護を引き受ける良心的な人もいますが、いかがわしい事件に関与する悪徳弁護士も後を絶ちません。

『個人主義』『契約社会』『訴訟社会』のアメリカでは、100万人以上の弁護士が存在し、3万人弱の日本では考えられない事象が展開されます。広大な面積の領土で、短期間に多民族国家を作り上げてきたわけですから、そうならざるを得ない事情があったにせよ、日本から観ると全くの『異文化』です。アメリカやアメリカ人と付き合う時には、この『異文化』を理解する必要があります。尊敬に値する『アメリカ人』が多い一方、いくらなんでもひどいと言わざるを得ない『アメリカ人』も多く、それらが混在する国がアメリカです。

学校で法律を専攻した作家『ジョン・グリシャム』は、好んで『法律事務所』や『裁判』を題材にした大衆小説を発表し続けてきました。

『ストーリ・テラー』として優れた才能の持ち主で、発表する作品はほとんどベストセラーになっています。処女作『Time to kill』から、20作品以上が上梓されていますが、梅爺はほとんどの小説を読み続けてきました。お陰で、アメリカの『法律事務所』のしくみ、『裁判』のしくみについて多くの知識を得ました。

『The Associate』は、2000人以上の弁護士を抱える、ニューヨークのウォール・ストリートにある世界最大規模の『法律事務所』を舞台とした小説です。

大企業を顧客として、企業の『裁判沙汰』に関与し、莫大な成功報酬を得るビジネス化された仕事の実態が描かれています。『金儲け』を最優先する、アメリカ社会の『影の部分』が、これでもかとばかりに描かれていますから、『アメリカはなんとひどい国だ』と梅爺は言いたくなりますが、これもアメリカの現実的な一面であることには違いがありません。

観方を変えれば、このような『告発』小説が、ベストセラーになるのはアメリカの良い一面です。中国や北朝鮮では、体制を告発する小説などは、発禁になるに違いないからです。

人間の『精神世界』は個性があり、当然価値観にも違いがあり、そういう個人が寄り集まった社会は、多様な価値観の坩堝(るつぼ)になるという現実から目をそむけて、単純に『善悪』を律しようとする習性を人間は有しますが、アメリカは特に単純すぎると感じます。『共産主義者』『無神論者』『生物進化肯定論者』を『邪悪な人』と決めつけ、アメリカは世界の『正義、自由、民主主義』を護る砦の国家であるなどと盲信する人が多いところが、どうもいただけません。

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2014年7月18日 (金)

第八回東京六大学OB合唱連盟演奏会(4)

『Le Preghiere Semplici - 三つのイタリア語の祈り』の最初の『主の祈り』は、キリスト教関係者には馴染みの内容です。新約聖書に乗っている『キリストが弟子たちにこのように祈りなさい』と教えた内容で、礼拝時に信者が一緒に必ず複唱します。日本語では『天にまします父なる神よ、御名(みな)を崇めさせたまえ、御国(みくに)を来たらせたまえ』で始まります。『祈り』としては、さすが『神の子イエス』が教示しただけあって、人間の創作とは思えないほどの完璧な内容であると、三澤先生は評しておられました。

日本語の『我らの罪をも許したまえ』という部分の『罪』は、イタリア語では『debiti』で、英語の『debt(負債)』の語源と同じです。つまり『罪』というよりもっと明確に『負い目をチャラにして欲しい』という直接的なお願いの意味が込められています。『悪より救いだしたまえ』と『救いだす』は、イタリア語では『liberaci』で、英語の『liberalize(寛大にする)』ですから、『締め付けを緩めて欲しい』とニュアンスが強く、『心を解き放ってほしい』という意味も込められていると三澤先生は解説して下さいました。

同じ『主の祈り』を唱えながら、イタリア人と日本人は、少々異なった『精神世界』を感じ取っているらしいことが分かります。

二番目に歌った『アッシジの聖フランシスコの祈り(Preghiera Semplice)』は、イタリア人でもそれほど馴染みが深いものではないらしいことを知りました。三澤先生にとってはアッシジで受けたインスピレーションが作曲のベースになっていて、最も思いがこもっています。梅爺も以前アッシジを訪れたことがありますので、街並みや聖堂を思い出しながら歌いました。

『聖フランシスコ』は、『小鳥に説教をした』などという逸話の残る、『聖人』の中でも、飛びきりの温和な『聖人』の印象が強い人ですが、裕福な商人の家に育ち若いころは享楽的な生活を送ったとも言われています。突然すべてを投げうって聖職者になったところは、『釈迦』の出家と似ています。

『祈り』の内容は、『私をあなたの平和の道具としてください』に始まり、『憎しみ』のあるところでは『愛』をなど、多くの『対語形式』を駆使して、自分を『道具』として使って欲しいと、繰り返しています。表現は、論理的で情熱的な印象を受けます。三澤先生の音楽表現も、ラテンのリズムで『情熱』的になっています。

最後の『アヴェ・マリア』は『聖母マリア』に捧げる祈りで、イタリア人なら誰でも知っている内容です。『マリア崇拝』は、初期のキリスト教には無かったものですが、後に女性の信仰者を増やすことには大きく貢献しています。宗教には『厳しさ』と『優しさ』の両面がありますから、『父なる神』『母なるマリア』という象徴的な表現は庶民には受け容れ易いものです。

バチカンにある、ミケランジェロの彫刻『ピエタ』を観れば、誰もが『マリア』にひれ伏したくなる気持ちが分かります。三澤先生の『アヴェ・マリア』も、崇高な表現になっています。

イタリア語の『祈り』を歌って、梅爺の信仰心はあまり改善されませんでしたが、キリスト教に関する知識は少し増えました。

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2014年7月17日 (木)

第八回東京六大学OB合唱連盟演奏会(3)

『言語』とその国の『精神文化』が密接に関係しています。このため、『宗教』『芸術(とくに文学)』は『精神世界』を基盤としていますので『言語』の影響を受けるのは当然です。『精神世界』で重要な役割をはたす、『抽象概念』をある『言語』で表現した場合、その『言語』の文化圏だけで暗黙に共有されているニュアンスを伴いますので、他の『言語』の文化圏で生活する人達に、必ずしも正確に理解してもらえるとは限りません。日本の『精神文化』の中核を占める『ワビ』『サビ』などという概念を外国語で表現するのは至難の業です。

一方『科学』は、『理』一辺倒の『世界』ですから、『言語』による表現の違いという問題は発生しません。正しい翻訳がなされていれば、英語の科学論文を日本語にして読んでも特に支障はありませんが、『文学』や音楽の『歌詞』となると、そうはいきません。『原語』で読む、歌うことが理想となりますが、こんどは大半の読者や聴衆が『原語』を理解できないと言う問題に遭遇します。外国語の『文学』『歌詞』を日本でどのように表現するかは、このジレンマとの戦いです。

今回六大学の内、『早稲田』『明治』『法政』は、日本人が作曲した日本語の合唱曲を演奏し、『立教』と『慶応』は、リヒャルト・シュトラウス(今年は生誕150年記念の年)の歌曲をドイツ語で演奏し、『東大』はイタリア語で表現されたキリスト教の『祈り』を、日本人(三澤洋史先生)が作曲して、イタリア語で演奏しました。『東大』の挑戦は非常にユニークです。

今回梅爺たちは、イタリア語をイタリア語らしく歌うことで、四苦八苦しました。イタリア語は日本語と母音表現が似ているので、日本人にはなじみやすいと良く言われますが、実態はそう簡単ではないことを実感しました。

イタリア語に堪能の三澤先生から練習時に特訓を受けましたが、三澤先生のイタリア語の先生(当然イタリア人)が、今回は演奏を聴きに来て下さるというので、梅爺たちはプレッシャーを感じながら歌いました。後で三澤先生が確認してくださったところでは、『言葉が大変良く聴き取れた』という感想であったとのことで、ホッとしました。

それならば、日本語の合唱曲を歌う時は『易しい』のかというと、それはそれで、難問が多いのです。『美しい日本語』を合唱で表現するのも、実に奥が深く、なかなかうまくはいきません。

合唱では、『原語』と『精神世界』の問題をいつも考えさせられます。

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2014年7月16日 (水)

第八回東京六大学OB合唱連盟演奏会(2)

『東京大学音楽部OB合唱団アカデミカコール』は、学生時代『東京大学音楽部コールアカデミー』に所属し、男声合唱を経験した人達で構成されています。

卒業年次は異なりますから、学生時代には必ずしも一緒に歌った人達ではありませんが、『同じ伝統文化を受け継いでいる』という点で、『絆』は強固です。

現在『アカデミカコール』の常任指揮者を、『三澤洋史(ひろふみ)』先生にお願いしています。三澤先生は、現在新国立劇場のオペラ合唱専任指揮者で、海外留学、バイロイト音楽祭での合唱指導スタッフとしての活躍、ミラノ『スカラ座』での研修などの豊富な実績をお持ちです。

このような、日本を代表する合唱指導者が、『爺さん合唱団』の面倒をみてくださるという組み合わせは、一見不思議な関係なのですが、爺さんたちからすると息子の年代ともいえるような若い三澤先生の『蘊蓄(音楽、外国語、宗教など)』『指導(時に叱責)』を心から尊敬して受け容れています。

三澤先生も、爺さんたちの純粋な合唱に対する情熱を尊重してくださり、不思議な関係は『良好な関係』として継続しています。

今回は特に三澤先生が、『アカデミカコール』のために、オリジナルな男声合唱曲を作ってくださいました。『Le Preghire Semplici - 三つのイタリア語の祈り』がそれです。小編成の弦楽器、ピアン、アコーデオンによる伴奏つきで作曲されています。

『三つのイタリア語の祈り』は、文字通り歌詞は全て『イタリア語(一部ラテン語)』で、キリスト教の『主の祈り』『アッシジの聖フランシスコの祈り』『アヴェ・マリア』で構成されています。

三澤先生は、カトリックのクリスチャンで、『アッシジの聖フランシスコ』が特にお好きで、ご自分の洗礼名も『フランシスコ』としておられます。

このように書くと、いかにも荘厳、静謐(せいひつ)な『宗教曲』という印象の合唱曲であろうと皆さまは想像されるかもしれませんが、実際は必ずしもそうではありません。ラテン風のリズム感、メロディが多用された、むしろ『華やかで情熱的な曲』なのです。アコーデオンを伴奏楽器に使われる宗教曲というのも、珍しいのではないでしょうか。

三澤先生は、非常にユニークな宗教観をお持ちなのではないかと梅爺は想像しています。お仕着せで均質な宗教観ではなく、ユニークな宗教観は、『精神世界』の個性的な表現で、梅爺にとっては魅力的です。

日本人の爺さんたちに、『イタリア語の祈り』を歌ってもらう目的は、日本語の聖書で表現されている『父なる神』『聖母マリア』とは、微妙に異なるニュアンスでイタリア人が『神』『マリア』の存在を受け容れていることを、爺さんたちに実感してもらおうと考えられたからではないでしょうか。

日本語で『御名(みな)を崇めさせたまえ』などと言うと、『神』は近づきがたい存在で遠のいてしまいますが、イタリア人が『神』に『Padre(父)』、マリアに『Madre(母)』と呼びかける時は、子供が『父ちゃん』『母ちゃん』と言っているときの親近感に近いと、三澤先生は解説してくださいました。

日本的精神文化でキリスト教を日本人が受け容れるのは当然ですが、それとは異なった精神文化とキリスト教の関係が存在することも承知した方が、信仰の内容が深まるということを三澤先生はおっしゃりたかったのではないかと思います。宗教曲がラテン風の音楽であったり、アコーデオンの伴奏がついたりすることに驚くこと自体、私たちが精神の自由さを失っている証拠なのかもしれません。

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2014年7月15日 (火)

第八回東京六大学OB合唱連盟演奏会(1)

二年毎に開催される『東京六大学OB合唱連盟演奏会』の第八回目が、7月13日(日)の午後、池袋の『東京芸術劇場コンサートホール』で開催され、梅爺は『東京大学音楽部OB合唱団アカデミカコール』の一員として、三澤洋史先生指揮の下に『Le Preghiere Semlici - 三つのイタリア語の祈り』を歌いました。 

東京六大学は、いずれも伝統的な『男声合唱団』を継承していて、現役学生諸君は、『合同演奏会』を昔から開催し続けています。 

『東京六大学OB合唱連盟』が合同で演奏会を始めたのは1999年からです。それ以前、各学校とも独自にOB組織の活動はありましたが、『合同演奏会』形式がこれで確立しました。 

その頃梅爺はまだ仕事の現役時代で、趣味としてOB合唱団に加わり、熱心に歌い始めたのは、仕事を引退して後の事ですので、『東京六大学OB合唱連盟演奏会』の最初の数回は、参加していません。

学生時代『男声合唱』にのめり込んでいた梅爺は、『いつかは、また歌いたい』と心の隅で考えていましたが、多忙な会社における現役時代は、文字通り『夢』でした。

各学校とも、『OB合唱活動』には、少しの違いがあり、メンバーの年齢層も同じとは言えませんが、やはり、仕事の現役を引退した人達の比率が高くなるのは必然的で、特に『東京大学音楽部OB合唱団アカデミカコール』の場合は、その傾向が顕著です。『気持ちだけはやたらに若い元気な爺さん合唱団』ということになります。『アカデミカコール』は、昨年ニューヨークのカーネギーホールと、東京のオペラシティコンサートホールなどで、演奏会を開催しています。

男声合唱は、高音部(テナー)と低音部(バリトン・バス)の音域や音質に差があるために、混声合唱、女声合唱とは異なった、重厚なハーモニーが生まれます。歌う人も、聴く人も一度この魅力に取りつかれると、愛好者に変貌してしまいます。

世界の各地で男声合唱は行われていますが、日本のレベルはかなり高いと思います。日本では、子供の時から、合唱、器楽独奏(ピアノ、バイオリンなど)、独創器楽合奏(吹奏楽など)を経験したり、習ったりする人が多く、これが日本の音楽のレベルを国際的に高いものにしています。色々な音楽ジャンルに愛好者が多いということは、日本の文化レベルの指標として誇らしいことです。

日本の男声合唱は、学生合唱団、OB合唱団、職場合唱団、地域愛好家合唱団など主としてアマチュア合唱団の活動が主体です。そういう意味では、『東京六大学OB合唱連盟演奏会』も、高いレベルの維持に貢献していると言えます。プロの『男声合唱団』が出現しないのは、主として経済的な理由ですが、そのうち日本に出現してもおかしくありません。

今回の演奏会では、各校が20分程度の単独演奏を行った後、参加者全員で各校の校歌を合同演奏しました。この校歌合同演奏が、毎回この演奏会の目玉の一つになっています。300人を越す『男声合唱』を生で聴く機会は、そうはありませんから、その『ド迫力』に、会場から惜しみない拍手が送られます。

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2014年7月14日 (月)

映画『春との旅』(4)

この映画の『小林政広』監督は、大手(メジャー)の映画会社に所属しておらず、『春との旅』という作品も、全国の限定された映画館で公開されたました。それでも、映画を観た人達の満足度は高く、絶賛されました。

小林監督の他の作品は、海外の映画フェスティバルで数々の受賞をしています。むしろ海外で高い評価を受けている監督です。

大手の映画会社に属さないのは、制約を受けずに『自分が作りたい映画』をつくるためではないかと推察します。多分そのために製作費の確保は難しいに違いありません。『春との旅』という映画も、北海道、鳴子温泉、仙台などの現地撮影が大半です。それでも『仲代達矢』をはじめ著名な名優がキャスティングに名を連ねているのは、小林監督の『映画』に共鳴する映画人が多いためではないでしょうか。『淡島千景』が最後に出演した映画です。

小林監督は、若いころ『ピンク映画』の脚本家でした。それだけで真面目な方は、『品性下劣』と眉をしかめたりするかもしれませんが、梅爺はそうは思いません。生活の糧を得るための手段であったのでしょうが、『上品』『下品』の同居は人間の宿命ですから、『下品』を観る眼がなければ『上品』も理解できません。興行収入を無視しては映画は成り立たないことを『ピンク映画』で体験している小林監督であるからこそ、『自分が本当に作りたい映画』への執着が人一倍強いのであろうと思います。

たしかに『春との旅』と言う映画は、『ピンク映画』とは異なった映画ですが、人間の本性を俯瞰し、本質に迫る能力がなければ、『春との旅』はつくれません。小林監督の興味の対象は、『人間』の『精神世界』の複雑性にあるのではないかと思います。『上品』『下品』はその複雑性の区分に過ぎません。生物としての『ヒト』は『下品』と無縁には生きられませんが、『精神世界』を保有した『人』は『上品』を求めることに『深い心の満足』を感じます。『上品』と『下品』のバランスを心得ておられる方は、魅力的です。世の中に本当に『上品』なものは、そう沢山はありません。厚化粧をして、とりすましてみても、『上品』には見えません。

小林監督は、多量なタバコを所持していて空港で課税されたり、海外の禁煙ホテルで喫煙して、退去を命じられたりと大変なヘビー・スモーカの様です。酒も強いようですが、ご本人は『酒もタバコもやめるつもりはない』と公言されています。

凡人は『命を縮めますよ』などとありきたりの忠告をしたくなるものですが、小林監督にとっては『単に生きる』というより、『自分らしく生きる』ことが重要なのではないでしょうか。これも『精神世界』の『個性』がもたらす価値判断ですから、『どうあるべき』と論ずることは難しくなります。

梅爺は『春との旅』というような映画が大好きですから、このような映画がつくる潜在能力を秘めている日本も好きで、誇らしく感じます。

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2014年7月13日 (日)

映画『春との旅』(3)

左半身に麻痺が残る老人『忠男』と、その世話をする孫娘『春』という設定は、日本の高齢化社会、介護のありかた、などの問題提起をしていますが、『忠男』も『春』も、『国の福祉政策は怪しからん』などと泣きごとを言わずに、懸命に自分たちで対応しようとします。

『春』の将来を奪いかねない自分の存在を『忠男』は承知していながら、そうは言っても独りでは何にもできない我がままを振り払うことができません。『春』も自分の青春や人生はどうなるのかという不安を抱きながら、それでも祖父との『絆』は簡単に断ち切れません。

『精神世界』が作りだす矛盾、葛藤が見事に描かれ、観客は引き込まれていきます。この映画では、『春』だけを引き取って面倒をみようという、旅館経営をする『忠男』の姉や、『私たちと一緒に暮らしませんか』と優しい言葉を『忠男』にかける、『春』の父親(『春』の母親とは理由があって離婚)の後妻が登場します。

観客は、これで『解決』できたとホッとしますが、当の『春』も『忠男』も、なんとこれらの厚意は、『ありがたいが受けられない』と断ります。これは、『春』や『忠男』の『精神世界』の価値観が、結局二人の『絆』を最優先する決断をしていることを意味します。『精神世界』は個性的なものですから、第三者がこの決断の是非を論じても始まりません。人生で何を最重要視するかは、個人によって異なります。何かを選ぶことは、何かを捨てることになりますので、何もかもハッピーな解決などは、人生にはほとんどありません。『そして、みんな幸せに暮らしましたとさ』というのは『お伽噺』の世界の話です。

この映画では、『春』の両親の離婚のエピソードが描かれています。『春』は映画の最後に、両親の離婚以降会っていなかった父親に会いに行きます。『春』は、両親の離婚の原因を本当は知っていながら、『どうして別れたのか』と父親に問いただします。父親は『特別の理由などない』と曖昧に答えますが、『春』は『私は本当のことを知っている』言って泣き崩れます。

『春』の母親(『忠男』の娘)が居酒屋でアルバイトをしていた時に、客と浮気をし、それを知った父親(夫)は母親(妻)を殴って家を飛び出しました。母親はその浮気を悔いて、夫の許しを乞い続けましたが、結局許されないことに絶望し、川に身を投げて自殺します。

『春』は、父親を恨んだりしていませんが、母親への思いも断ち切れず『人は人を許すことができないの?』と泣いて問いかけます。これも『精神世界』の話ですので、『こうあるべき』というような回答はありません。『許すべきである』などという説教が通用するほど人間は単純ではありません。

『こうあるべき』ということが何事にも必ず存在すると思う方には、この映画は中途半端で歯切れが悪いかもしれません。『精神世界』で『情』が絡むと、そうはいかないと考えている梅爺にとっては、実に素晴らしい映画という評価になります。私たちは、色々な価値観に翻弄されるが故に最後は『自分の価値観』を必要とします。

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2014年7月12日 (土)

映画『春との旅』(2)

この映画が『並みの映画ではない』と梅爺が感じたのは、俳優陣の演技力です。主役の『仲代達矢』『徳永えり』は言うに及ばず、脇役陣がいずれも出色の演技を披露します。勿論、小林監督の演出によるものですが、特に『科白(せりふ)』のない『間』の部分の表情演技が他の日本映画のレベルを越えています。主役の『忠男(仲代達矢)』が、ただ蕎麦を食べるシーンでも、観客は『忠男』の心の中を推察できます。梅爺はこういう映画が大好きです。大袈裟な顔の表情で、泣いたり、喚(わめ)いたりするする演技ならば、誰でもできます。いわんや日本の映画やテレビドラマにありがちな、学芸会のレベルの、話し方、演技は、興ざめです。

『ハリウッド映画』は、単に『美男・美女』『筋肉隆々のマッチョ』などが、派手なアクションを繰り広げるように思われがちですが、一流の俳優は『俳優養成学校』で、厳しく演技や発声の基礎をを叩き込まれる時代を過ごしています。『ジェームス・ディーン』『マーロン・ブランド』『アル・パチーノ』などは、このような時代に才能を見いだされた人達です。彼らは、『人間』の『精神世界』を『科白』ではなく、『間』『顔の表情』『しぐさ』で表現する能力を保有しています。

『科白』は、『言葉で伝える』手段ですから勿論重要ですが、言葉だけでは、『精神世界』の微妙な『情感』は表現に限界があります。特に『映画』は、舞台演劇と異なり、『顔の表情のアップシーン』『しぐさを強調するシーン』を用いることができますので、『演技』が『情感』を伝える決め手になり得ます。『科白』なしでも、限りない『悲しさ』『寂寥感』を表現することができます。

小林監督は、こういった『映画』の特徴を、見事に理解し、利用しています。この映画の俳優陣の多くは、『舞台俳優出身者』ですので、監督の意図を『演技』で表現できたのかもしれません。こういう監督や映画の出現は、日本の映画界のために、嬉しいことです。

この映画は、ごくありふれた普通の人達の生活を描いていますので、『会話』の内容もごく普通の表現になっています。『シェークスピア』の戯曲のような、『非日常的な難解な表現』とは対極的です。特に元漁師の『忠男』は、『教養』とは縁遠い人物ですので、そういうレベルで話します。孫娘の『春』も、普通の『おねーちゃん』で、そのように話します。

しかし、このような人達が自然に話す『会話』の中に、『人は、自分のことしか考えられないのか』『人は他人を許すことができないのか』などというニュアンスの発言が含まれていて、観客は、ハッとします。

『人間』の『精神世界』の奥底を、何気なく垣間見ることになるからです。『精神世界』は『こういうものだ』などと小賢しく説明できるものではありません。『人間』の素晴らしさも、おぞましさも全て『精神世界』が創り出しています。

小林監督は、この映画で、『人が最後によりどころにするものは何か』を問いかけていますが、説教がましい『押しつけ』は一切していません。

この映画には、『神』や『仏』や『宗教』に関する話はありません。『罪』や『救い』の話もありません。『人間』を『人間』だけの側面で描こうとする意図に、梅爺は共感しました。

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2014年7月11日 (金)

映画『春との旅』(1)

NHKBSプレミアムチャンネルの『プレミアム・シネマ』で放映された邦画『春との旅(原作、脚本、監督小林政弘:2010年作品)』を録画して観て、映画としての完成度の高さに驚き、感動しました。 

大変失礼ながら、『小林政弘監督』やこの映画(『春との旅』)そのものに関する予備知識は全くなく、何となく観始めて、『これは、並みの映画ではない』と直ぐに気付き、最後まで堪能しました。 

以前に、中国映画『初恋が来た道(チャン・イー・モー監督)』、イラン映画『こんなに近く、こんなに遠く(レザ・ミル・キャリミ監督)』に偶然遭遇した時と同様の感動と満足感でした。 

北海道増毛町で、孫娘『春』(徳永えり)の世話を受けて暮らしている元漁師の祖父『忠男』(仲代達矢)が、物語の主人公です。『忠男』は脳卒中の後遺症で、左半身に軽い麻痺があります。 

『春』は、学校給食に関る仕事をしながら祖父との二人暮らしを支えてきましたが、突然学校が閉鎖になり、職を失います。あまり深く考えず『春』は、『東京へ出て職を見つけたいので、おじいちゃんは、兄妹の誰かのところで面倒をみてもらったらどうか』と口にしてしまいます。『忠男』は、一瞬動転し、それでも『春』の将来を考えればその云い分を否定できない理性も働いて、憤然と『兄妹訪問巡り』の旅にでると言いだします。この辺のシーンは映画では描かれていませんが、その後の経緯(いきさつ)から梅爺が推測したものです。描かれていない事柄を観客に推測させる巧妙なしかけです。 

映画は、憤怒の形相で家を出る『忠男』と、それにオドオド従う『春』の場面から始まります。『春』は迂闊な自分の発言がもたらした結果を悔いて、『おじいちゃん、もうやめようよ』と『忠男』をとどめようとしますが、『忠男』は駄々っ子のように聞き入れません。

この後、永い間疎遠にしてきた『兄妹』を次々と訪ね、『自分の面倒を見てほしい』と虫のよい『依頼』をする『忠男』と、突然の勝手な依頼に怒ったり、戸惑ったりする『兄妹』の対応が描かれます。『兄妹』側にも生きるためのギリギリの事情があり、『忠男』と『兄妹』達の、やりとりから、これらが観客に明らかにされていきます。お互いにののしり合ったりしますが、根は誰もが善良な人で、『肉親の絆』を根本から否定するような人物は登場しません。

小林監督は、日本の『老人』の問題をテーマにしながら、若い『春』を含め、どこにもいるような普通の人達の『精神世界』を、善悪の判定や、説教がましい主張を一切排除急いて、淡々と描いていきます。

『人間』の『精神世界』において、『情』が果たす役割の重要性を、この映画は表現しています。『忠男』や『春』の対応が『正しいかどうか』などと『理』で判断したがる人には、この映画は『答』を提示していませんので、『それほど面白くない』と感ずるかもしれません。

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2014年7月10日 (木)

快楽が脳を創る(6)

梅爺の『人間は安泰を希求する本能を有する』という『仮説』は、『快楽が脳を創る』という主張と矛盾していないと感じました。『自分にとって都合のよい状態』は『愉快』『快楽』をもたらし、その時、分泌される『ドーパミン(ホルモン)』は、心身が健全であることを『記憶』して、その後『悲しみ』『苦悩』『不快』に遭遇した時に、それを緩和しようとする役割を果たすのではないかと推察できます。

『悲しみ』『苦しみ』だけに苛まれていると感ずる人にとっては、最後の『絆』を『神仏』に求めることが『心の安らぎ』を得る手段になります。梅爺自身は『神仏』の存在に疑念をもっていますが、疑念を持たない人にとって『神仏による心の安らぎを得る』ことが、何よりも有効な手段であるであろうことは想像できます。

『無神論者』は、『存在しない神仏に頼る』ことは理性的でないと非難しますが、『人間』の『精神世界』は、『存在しないもの』にも強い影響を受けることを知る必要があります。『精神世界』は、概念だけの仮想世界ですから、『物質世界には現実に存在しないもの』で満ち満ちています。従って、『病は気から』と同様『心の安らぎは気から』ということもあり得ます。

中途半端に小賢しい梅爺の理性は、『神仏は心の安らぎの源泉になると思うのは幻想にすぎない』と耳元で囁き続けていますので、残念ながら頼る気にはなりません。しかし、『信仰で、心の安らぎを得ている人』を、非難する気持ちにはなりません。それどころか、時には『そう思えたら、どんなに良いだろう』羨ましいと思ったりします。

『ビッグバン』で素粒子と、水素、ヘリウムなどのガス(軽い元素)が出現し、ガスが集まり星や銀河ができ、星や銀河が爆発して、あらゆる元素が生成し塵となって宇宙に飛散し、その塵とガスからまた星が銀河できて、その星の一つの地球に生命体が出現し、その生命体が進化して私たちが存在し、私たちの脳の中に『精神世界』が形成されているという、138億年の歴史を抜きにしては、あらゆることの本質は洞察できません。

『ビッグバン』以降の『物質世界』の変遷(変容)は、全て『摂理』に則っていて、例外はありません。『物質世界』に『神仏』が存在するとすれば、『神仏も限定された素材でつくられ、摂理に支配されている』というおかしな話になります。『摂理そのものが神仏である』という仮説は成り立ちますが、その場合『神仏は慈悲で私たちを見守ってくれている』という前提が成り立たなくなります。『摂理』は冷厳で、『精神世界』の『情』とは無関係であるからです。『摂理』が引き起こす自然災害の前に私たちは無力であることを考えれば、そう云う結論になります。

『快楽が脳を創る』という話は、『精神世界』は『物質世界』の影響を受けていることの一つの証です。『ドーパミン』の分泌は、『物質世界』の摂理に則った事象であるからです。

私たちが誤解してはいけないことは、『精神世界』は決して『物質世界』の『摂理』に影響を与えないということです。『願ったり』『祈ったり』しても、『摂理』は変えることができません。『科学』は『摂理』を利用しているだけで、その結果『物質世界』の事象の一部に変化を起こすことはできますが、『摂理』そのものを変えているわけではありません。

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2014年7月 9日 (水)

快楽が脳を創る(5)

『快楽が脳を創る』という表現から、梅爺は以前ブログで紹介したローマ時代の教養人『ルクレティウス』を思い出しました。『The Swerve(方向転換)』という本を読んでの感想でした。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/the-swerve-0290.html

『ルクレティウス』は、キリストとより100年ほど前の人ですが、驚くほどの洞察力の持ち主で、その主張の大半は、現代人も共感する内容です。科学知識が乏しい時代に、どうしてこのような洞察ができたのか、不思議ですが、私たち凡人には、推し測れない『天才』であったのでしょう。

『ルクレティウス』は、ギリシャの哲学者『エピクロス』の影響を受けていて、『人生の究極の目的は、苦しみを減らし、喜びを増大させることである』と述べています。『エピクロス』は快楽主義者(エピキュリアン)として誤解されていますが、『精神世界』の『喜び』を重視しただけで、『酒池肉林』を推奨したわけではありません。『エピクロス』自身の私生活は極めて質素であったと言われています。

多くの宗教が、『禁欲』『清貧』など、ある種の自己犠牲を強いることに『ルクレティウス』は疑問を呈し、『人生の目的は喜びを増やすこと』と主張しています。

『信仰こそが究極の喜び(歓び)である』という主張もあろうと思いますが、『ルクレティウス』の『喜び』は、もっと即物的な『笑い』を伴うような心身状態を指しているように感じます。

『生物進化』のしくみや、『脳神経細胞ネットワークの形成』のしくみを考えると、『安泰』『快楽』を優先した方が、健全な心身を育む可能性が高いことが分かります。

しかし、人間は生きていく上で、必ず『苦悩』『悲しみ』に遭遇することになります。その時に、『安泰』『快楽』を優先して育んだ健全な心身がものを言うという考え方に一理があるように感じます。

『安泰』『快楽』を優先すると言うと、『怠惰な生き方』を推奨しているように誤解されそうですが、そうではなく、『悲しさ』『苦しさ』の先に、『希望』『歓喜』があると考えて、対応する姿勢のことです。

『明るい目的』を想定しても、『禁欲』『清貧』で過ごさざるを得ない状況はありますが、『禁欲』『清貧』そのものを目的のように強いるのは、人間の心身のしくみを考えると健全ではないという主張を梅爺は受け容れることができます。

アスリートや芸術家が、日々の苦しい基礎訓練に耐えられるのは、『明るい目的(希望、期待、夢)』があるからです。そのような人達の多くは、決して『苦虫をかみつぶしたような顔』ではなく、笑顔が魅力的です。梅爺も『好々爺(こうこうや)』でありたいと願います。

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2014年7月 8日 (火)

快楽が脳を創る(4)

全ての生物にとって、『自分にとって都合のよい状態を優先選択する能力』が生き残りのカギを握ります。このためには、『自分が今どのような状態に置かれているかを感知する能力』が必要になります。

『生物進化』は、偶然上記の能力を遺伝子の突然変異で獲得した生物の子孫が生き延びてきたことを示唆しています。『人間』も例外ではありません。

梅爺が、『人間』の『精神世界』の基本に、『安泰を希求する本能』があると推察したのは、このためです。

『安泰を脅かすもの』に遭遇したと感知すると、私たちは、これへの対抗策を講じます。多くは無意識に対応が行われます。

物理的に、毒物、バイ菌などが体内に侵入してきた場合は、『免疫能力』『治癒能力』などで排除、修復します。

『精神世界』が、『危険』『不安』『恐怖』を感じた時には、『逃げる』『闘う』などの行為を選択して対応します。

対応が優れば、私たちは生き延びますが、『安泰を脅かすもの』が勝った時には、心身ともに病に冒されたり、最悪の場合は『死』に至ります。

高度に進化した『人間』の『精神世界』の特徴の一つは、行動の前に『予測(計算)』をすることです。これによって、現実に眼の前にある事実だけでなく、自分で予測した仮想事実に、期待をしたり、怯えたりします。自分で予測した『心配事』『不安』で、心身が病に侵されることもあります。『病は気から』とはこのことを指します。

生物の中で『人類』が繁栄してきた理由の一つが、この『予測能力』であることは間違いないでしょう。

『安泰が得られている』と感じた時、私たちは『嬉しい』『楽しい』気分になり、『幸せ』を感じ、その延長に『快楽』があります。

度を過ぎた『快楽』は、自らを不幸にする面も有していますが、基本的には『安泰を脅かさない状態』を維持することが、心身の健全を意味します。

『笑う門に福来る』というように、人間は『楽しいこと』を必要とします。それは『楽しくないこと』が人生には沢山あることを、『予測』しているからです。『快楽』だけを賞賛するわけにはいかないまでも、それを否定することはできないように思います。

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2014年7月 7日 (月)

快楽が脳を創る(3)

『快楽』は、人間を堕落させるもので、好ましくないという考え方があります。『宗教』の価値観、倫理観などによるものです。しかし、生物である『人間』は、『食欲』とは無縁には生きられませんし、『性欲』と無縁では、種の存続も難しくなります。『快楽』と欲望の結びつきは、種の生き残りの可能性を高めるために、生物進化の過程で生じたもので、実は深遠な意味が込められています。決して、悪魔が人間を堕落させるために、創りだしたものではありません。 

しかし、『快楽』は『両刃の剣』のようなもので、適度な場合は必要なものと言えますが、過度になると、時に身を滅ぼしかねない危険も秘めていることは確かでしょう。 

このことを弁えて、『快楽』と上手に付き合うことが、私たちには求められます。『腹八分目』などは、これに関する知恵の最たるものです。『快楽を求める心は煩悩である』として、これを排除することで『悟りの境地にいたる』事ができるのは、お釈迦様くらいで、梅爺のような凡人には、端(はな)から無理な話です。『精神世界』の価値観の例えとして、『煩悩解脱(ぼんのうげだつ)』は、ある程度理解できますが、生物としての『ヒト』は、『快楽』抜きでは生きていけません。 

『快楽が脳を創る』という章を読むと、人間の『脳』は、『快楽』を手段として、有効に利用していることが分かります。脳科学で観れば、個人の『脳』は『快楽』体験を利用して、成長していくことが分かります。

人間は、行動する前に、意識的であれ、無意識であれ『予測(計算)』をして臨みます。『予測』と実際の結果の『差異』もまた、『脳』は、意識的にまたは無意識に確認します。この『差異』を脳科学の分野では『予測報酬』と呼んでいます。

大きなプラス『予測報酬』を得た場合、つまり『予測』よりも良い結果に終わった場合、脳内の『ドーパミン神経細胞』は『ドーパミン』というホルモンを分泌し、私たちは『感動』『感激』『満足』を得ます。

そして、この経験は、記憶され、その後の行動時に『予測』に反映されます。

当然、『予測』より悪い結果に終わり、マイナスの『予測報酬』を得ることもあり、この場合も『失望』『不安』などに対応するホルモンが分泌されます。この経験も記憶され、『強迫観念』『トラウマ』などとなって、後の行動に影響を与えます。

ホルモン分泌がおさまるまでは『脳』は興奮し、睡眠を妨げたりします。特にマイナスの『予測報酬』の場合は、食欲や意欲が減退し、体調を崩すことにもつながりかねません。

人間の『脳』にとって好ましいのは、プラスの『予測報酬』ですので、『快楽』が『脳』にとっては好ましいという主張は、これによるものです

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2014年7月 6日 (日)

快楽が脳を創る(2)

生物は、種の生き残りの可能性を高めるために、『自分にとって都合のよいことを本能的に優先』する遺伝子を継承してきたものと思います。『人間』も例外ではなく、基本的には『利己的』な存在であることを認めざるをえません。

『精神世界』は『情』と『理』が複雑に絡み合い、しかも大半は『無意識(不随意)』に作用しますから、『意識下の理』が、『私は利己的な人間ではない』といくら叫んでも、それは『そうあって欲しい』という願望の表明に過ぎません。言い換えれば、『利己』を『理』で抑制できる人は、『器の大きな人物』ということになります。

『宗教』や『道徳』が、『利己的は言動は好ましくない』と説き、それが社会通念になっているために、真面目な人ほど『自分が利己的である』ことを認めることに『罪』の意識を感じたりします。しかし、『人間』である以上、誰もが『利己的な行動を優先する本能』を継承していると、認めてしまう方が健全なような気がします。自分の責任ではありませんから『罪』を背負う必要はありません。

その様な『利己的』な『人間』が、『利他的』であることの価値も認め、その様に振舞うのは何故なのでしょう。これは『個』と『群』の価値観が異なるからではないでしょうか。『個』が全員『利己的』に振舞うと、『群』は収拾がつかないことになります。『人間』は『群』をなして生き残る方法を選択しましたので、時に『個』の『利己』を殺して、『群』のために『利他』の振舞いをする習性も、遺伝子の中に組み込まれたものと推察できます。一見矛盾する、『個』を優先する習性と『群の仲間との絆』を優先する習性の両方を私たちは『ダブル・スタンダード』として継承していることになります。『人間』が生物の中で高度な位置を獲得できたのは、『利他』の習性も保有したからではないでしょうか。

一人の『人間』の中に、『悪魔(邪悪な心)』と『菩薩(善良な心)』が共存するなどという現象は、この『ダブル・スタンダード』によると考えれば、得心がいきます。

『神仏を信ずれば邪悪を遠ざけることができる』という論理は、『宗教』が後付けで考えついたもので、実は『利己』『利他』の習性は、神仏とは無関係に『人間』が生物進化の過程で獲得したものであろうと梅爺は思います。

私たちが、『利己的』に振舞うか、『利他的』に振舞うかは、個人によって、時と場合によって異なります。このことが、人間社会の行動を、非常に複雑なものにしています。

『利己的』な行動の一部は、『人間社会』では好ましくないことは事実です。『利己的』であることを抑制できるのは、『意識的な理性』しかありません。この『理性』を磨くには、『学ぶ』『(自分で)考える』訓練を積む必要があります。『学ぶ』『考える』ことが適切に行われない社会、おろそかにされる社会は、不幸な方向へ向かいかねません。

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2014年7月 5日 (土)

快楽が脳を創る(1)

『脳研究の最前線(上下巻:講談社ブルーバックス)』の第11章は『快楽が脳を創る』で、著者は理化学研究所の『中原裕之』氏です。 

このタイトルを見ただけで、梅爺は大きな期待を抱きました。梅爺は、かねてから『人間の精神世界の根源には、安泰を希求する本能がある』と予測をし、その本能が、『神』『愛』『平和』『正義』などの高度な抽象概念を生みだし、更には『宗教』『芸術』などの分野も創出することになったのであろうとブログに書いてきました。 

この梅爺の仮説に従えば、『人間』の存在しない所には『精神世界』も存在せず、したがって『宗教』『芸術』は勿論、『神』『愛』『平和』『正義』といった抽象概念も存在しないということになります。 

私たちが属する『宇宙』の歴史は、約138億年で、私たち『現世人類(ホモ・サピエンス)』が登場してまだ20万年にも満たないわけですから、『宇宙(物質世界』は、ほとんど『現生人類』がいない期間であったことになります。 

『物質世界』は、『形式的数学の世界で表現されるルール(摂理)』で支配されていると科学者は推測し、その『摂理』の解明を続けてきました。この『摂理』は、『人間』とは無関係に存在します。『人間』はその一部を発見してきたに過ぎません。

仮に、時間を数億年巻き戻し、そこから生物進化を再度再現させたとしても、『現生人類』が再び出現するとは限りません。『物質世界』の摂理と偶然によって、私たち『現生人類』は出現したにすぎないからです。

それでも、生物進化を再現した場合、私たちとは異なった『高等生物』が出現する可能性はないわけではありません。そしてその『高等生物』が、『ニュートンの法則』や『アインシュタインの法則』を発見することがあってもおかしくありません。『法則』は『人間』や『高等生物』とは関係なく普遍的に存在するからです。しかし、その『高等生物』が、『仏教』や『キリスト教』を考え出すとは限りませんし、全く異なった『宗教形式』を思いつく可能性があります。

話が大分それてしまいましたが、『安泰を希求する本能』が生み出した、『宗教』『芸術』は、私たち『現生人類』だけで共有しているものであって、普遍的とは言えないということを言いたかっただけです。

『安泰を希求する本能』は『快楽』と関係しますから、梅爺の仮説をもう少し詳しく推し進め、強化できるかもしれないと期待したのはそのためです。

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2014年7月 4日 (金)

A fool's bolt is soon shot.

英語の諺『A fool's bolt is soon shot.』の話です。 

『愚か者は、直ぐに矢を放ってしまう』という意味で、『満を持し、最適なタイミングで資源、アイデア、能力などを投入しないで、直ぐに奥の手を使ってしまう愚か者』を皮肉った諺です。 

原典は、シェークスピアの『ヘンリー5世』です。 

『愚か者』と言っているのはシェークスピアの皮肉で、大半の人間を指してのことですから、梅爺も、他人の話として笑うわけにはいきません。 

兵士が、眼前に突然現れた敵を見て、恐怖に駆られて、見境なく矢を放ってしまう(発砲してしまう)というような光景を思い描いてしまいます。敵を十分おびき寄せて、間違いなく倒せることを確認して冷静に矢を放つ(発砲する)事ができるのは、沈着冷静な兵ですが、戦場と言う異常な場で、その様に振舞えるかどうか自信がありません。

宵越しの金は持たない、などといって使ってしまう江戸っ子は、自分は『粋(いき)』と得意になっていても、客観的には愚か者の部類に入ります。

人間の脳の素晴らしい所は、どんな行動をする場合でも、意識的に、または無意識に『予測(計算)』をすることです。

『予測』が良い方に外れた場合(予想以上の結果が得られた場合)には、能の中のアドレナリン細胞が、アドレナリンを分泌し、私たちは、『満足感』『快感』を得ます。そして、その行動パターンを記憶して、次の適応の機会に備えます。

逆に『予測』が悪い方へ外れた場合も、同様に『不安』『不快』に対応するホルモンが脳内に分泌され、二度と同じ行動をしないように、その行動パターンも記憶されます。

いずれにしても、脳は一定の時間興奮し、夜寝付かれなくなったりします。

しかし『諸葛孔明』『竹中半平衛』『黒田官平衛』のような天才軍師でもない限り、『予測』通りに事が運ぶようなことは、人生では期待できません。

つまり『愚か者は直ぐに矢を放ってしまう』と言われても、自分が『愚か者』にならない手立ては示されているわけではありませんから、対応のしようがありません。

もっとはっきり言ってしまえば、人間は誰も程度の差はあるにせよ、『愚か者』であり、先を間違いなく見通すことなどできないということになります。

この諺をみて、『自分のことではない』と思い込める人は、失礼ながらかなり能天気な方です。

シェークスピアは、人間の本質を洞察でき、それ故にかなりの毒舌家であることが分かります。

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2014年7月 3日 (木)

モンスター銀河(4)

太陽系や地球が属している『天の川銀河』は、『モンスター銀河』ではなく、宇宙に沢山存在するありきたりの『渦巻き銀河』の一つです。『モンスター銀河』は、初期の宇宙(相対的に現在より小さかった)で、複数の大規模な『銀河』が集まって構成されていたもので、現在の宇宙には存在しない(楕円銀河に変容している)と推定されています。膨張を続ける宇宙の中で、大規模な『銀河』同士が集まって『モンスター銀河』を構成する確率は減少しているのということなのでしょう。 

『渦巻き銀河』の中心には、『モンスター・ブラックホール』が存在することが分かっていて、『天の川銀河』にも存在します。他の『モンスター・ブラックホール』からは、『X線』のジェット噴射が観測できますが、『天の川銀河』の『モンスター・ブラックホール』にはそれが見つからないことから、この『モンスター・ブラックホール』は周囲のガスや塵を飲み込みつくして、休眠状態にあると推察されています。しかし、最近、これに新たに接近しつつあるガスや塵のかたまりが見つかり、再び活動を開始するのではないかと、天文学者は期待して観測を続けています。 

『天の川銀河』ができたのは、100億年以上前と考えられています。その様な長期間、活動が続いている理由が永年謎でしたが、それが近年解明されました。やはりここでも『暗黒物質(ダーク・マター)』が関与しています。 

『天の川銀河』の渦巻きの外縁の部分が、遠心力で宇宙の遠くへ吹き飛ばされずに、現状の形態を維持しているのは、『銀河』の外側を、『ハロ』という『暗黒物質』の層が包んでいるからと判明しました。『ハロ』は2層あり、外側は『銀河』の10倍もの距離に存在します。内側の『ハロ』と外側の『ハロ』は相互に逆に回転していることとその原因もある程度推測できています。

『天の川銀河』が、未だに活動を継続できているのは、『ハロ』内に存在するいくつかの『矮小銀河』を呑みこみ続けてきたからというのが、天体学者の推測です。

『物質世界』で最も重要である『摂理』の一つは、『エネルギー保存の法則』です。『宇宙』そのものも、『銀河』も『太陽』も『地球』も、そして地球上に存在する全ての物体も、私たちの身体も、この『法則』から逃れることができません。『物質世界』に『神』は存在しないだろうと梅爺が疑っているのは、このためです。『神』だけは、エネルギーと無縁に存在するという例外を認めることには無理があるからです。

つまり、『生命活動』は、『物質世界』の視点で観る限り、『エネルギー保存の法則』に支配されています。分かり易く言ってしまえば、『生命活動』を維持するために、『酸素呼吸』と『栄養摂取』でエネルギーを獲得する必要があります。『精神世界』では、『天才的な科学者』『偉大な思想家』『稀有な芸術家』と能力格差が存在しますが、『物質世界』の『摂理』の前では、人間は全て平等です。

『生命活動』が『死』を迎えて、肉体は『変容(物質素材に戻る)』の対象になるように、『宇宙』『銀河』『太陽』『地球』も、『変容』からは逃れられません。『太陽』は今後約50億年で、燃え尽きますし、『天の川銀河』も40億年後には接近してくる『アンドロメダ銀河』と衝突し、新たな『平衡』へ向かって『変容』することが分かっています。その時点で『地球』は現状を維持できなくなります。

梅爺は『地球も人類も永遠に現状を維持できない。いつかは滅びる』などと『虚無的な』発言で、知ったかぶりをしたり、脅かしたりするつもりはありませんが、『理性』で論理的に考えれば、『諸行無常』はその通りというだけのことです。神仏に願ったり、祈ったりしても、『物質世界』の『変容』を都合よく変えることはできないということを申し上げたいだけです。

たった20万年の歴史しかない『現生人類』が、数10億年先のことを心配することは滑稽だ、というご指摘はその通りです。あくまでも論理的な推察の話ですから、今日明日一喜一憂する必要はありません。それよりも自分が『生かされている』間を、『どう生きるか』に向き合うことが肝要であることは申すまでもありません。

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2014年7月 2日 (水)

モンスター銀河(3)

『ビッグバン』から1億年後に『ファースト・スター』が誕生し、8~9億年後には複数の『モンスター銀河』が存在していた、という話が事実なら、宇宙は『ビッグバン』の直後から『銀河』の生成は開始されていたのではないかと梅爺は想像してしまいます。『モンスター銀河』は複数の『銀河』の複合体であると考えられますので、当初から沢山の『銀河』が存在していたと考えた方が、自然のように思います。

今まで理解していた、『最初の星が誕生し、やがて星の数が増えて銀河になった』というような悠長な話ではなく、最初から『モンスター・ブラックホール』とそれを中心とした複数の『銀河』生成のプロセスが始まり、その高密度なガスの中に『星』も続々と誕生したという話の方が、辻褄があうように思います。

つまり、『ビッグバン』の後に、複数の『銀河』形成プロセスが開始し、その結果として『星』が誕生したのではないかという推測です。

しかし、梅爺にはこれ以上の検証能力もありませんから、これは完全な推測です。今後梅爺と同じ主張の学説が登場するのを待つしかありません。

『銀河』同士が衝突したり、合体するなどということは、あまりにも壮大な話ですが、『モンスター銀河』の観測事実は、それが『ビッグバン』直後の宇宙では頻繁に起きていたらしいことを示しています。

現在観測できている『銀河』は、その形態で、『渦巻き銀河(77%)』『楕円銀河(20%)』『特異銀河(3%)』に分類できます。

私たちが属している『天の川銀河』は『渦巻き銀河』です。

『楕円銀河』は、『モンスター銀河』の終焉の形、『特異銀河』は、『モンスター銀河』そのものと考えられています。

発見された『モンスター銀河(ヒミコ)』は、当然『特異銀河』です。

『銀河』同士が衝突し、爆発すると『銀河風(スーパー・ウィンド)』と呼ばれるものが起こり、ガスや塵が遠方まで吹き飛ばされます。このお陰で宇宙には、色々な素材が飛散し、結果的に私たちのような生物(人間)が誕生する結果になったと想像できます。

『物質世界』の変容の歴史の中で、『人間』の誕生を考えると、気の遠くなるような偶然の積み重ねの結果、出現した存在であることが分かると同時に、『物質世界』の中では、何ら特別の存在ではないことも分かります。

しかし、この『人間』が、『脳』の進化の結果獲得した『精神世界』は、個性をもった広大な『仮想世界』であり、『自分を含む人間は、特別な存在である』と認識できるようになりました。『物質世界』ではちっぽけな『人間』が、相対的に広大な『精神世界』を保有しているという何とも不思議な話です。このことが『一つの命の重みは地球より重い』などという比喩を思いつく要因です。これは『精神世界』の価値観と、『物質世界』の事象とを比較するという、私たちが犯しやすい混同の典型例です。

『精神世界』は、私たちにとってはかけがえのない素晴らしいものですが、『物質世界』の『摂理』が許す『生命活動維持の期間(生きている期間)』だけ、私たちが享受できる世界です。

こう考えると、『生きている』ことに感謝し、『生きている間』は、『精神世界』と大切につきあっていきたいと思う気持ちが一層強くなります。

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2014年7月 1日 (火)

モンスター銀河(2)

『ビッグバン』の38万年後に、宇宙の温度が下がり、電子と原子核が結合して、光子は電子との相互作用の影響を受けずに、長距離進めるようになったと考えられています。この状態を『宇宙の晴れあがり』と呼び、この時期に放射されたマイクロ波は『宇宙マイクロ波背景放射』として、『ビッグバン』理論を裏づける重要な証拠とされています。 

この時期の宇宙は、ガス(水素、ヘリウム)と暗黒物質で構成されていましたので、『宇宙の晴れあがり』といっても、宇宙内部に可視光線を発するものが無かったために『暗黒』状態であったと想定されます。宇宙の歴史に、最初から大きな影響を与え続けてきた『暗黒物質(ダーク・マター)』の正体は、まだ明確に解明できていません。私たちが宇宙の物質として認識しているものの総量5倍の『暗黒物質』が存在するという計算になっています。『暗黒物質』の解明ができれば科学は一歩『摂理』へより近づくことになります。 

『ビッグバン』から約1億年後になって、ようやく宇宙に『一番星(ファースト・スター)』が出現し、人間の眼で観たとしたら、宇宙に光が生じたように見えたはずです。『ファースト・スター』が何故出現したかは、宇宙のガス、暗黒物質が均質に分布していなくてわずかな『ムラ』があったためで、『重力』が作用し、ガスが高密度に集まり、高温の『星』が生成されたためです。『星』の内部では核融合反応が起こり、鉄などの重い元素までが生成されました。やがて太陽の8倍以上の質量を持つ『星(恒星)』は寿命が尽きて『超新星爆発』を起こし、鉄よりも重い、貴金属元素が生成され、爆発でそれらの物質は塵となり、宇宙へ放出されました。

私たちの身体を構成する素材(元素)を含め、宇宙に存在する全ての物質素材がこれらのプロセスでできあがったことになります。言い換えれば、『星』の誕生や、『超新星爆発』が無ければ、私たちは存在しなかったことになります。 

宇宙(物質世界)は、『ビッグバン』を含め、全てが一部の『不均質』を『均質』に変えようとする平衡状態の移行で変容が生じ、現在もその変容は続いていることになります。これが『摂理』による変容の実態です。 

『物質世界』は、私たちの『精神世界』が重要視する『あるべき姿』『目的』が存在して、それに向かって変化しているのではなく、『不均質』を引き金にした果てしない変容を繰り返しているだけに過ぎません。全てが偶然と言える変容の結果として生じる事象ですから、『ビッグバン』に遡って、再び変容を開始させたとしても、再び現在の宇宙と同じものが出来上がる保証はありません。勿論、地球、生命、人間が出現する保証もありません。 

『物質世界』を『あるべき姿』『目的』で理解しようとすると、『神によるデザイン』などという仮説を思いつきますが、残念ながら『物質世界』には『精神世界』価値観の一部は通用しません。特に『精神世界』の『情』という概念は、『物質世界』には適用できません。『物質世界』には『山』が存在し、『地震』という事象はありますが、『美しい山』『怖ろしい地震』はありません。これらの表現は『精神世界』を介した『人間』だけの観方です。言い方を変えれば、この世に人間がいなければ、『美しい』『怖ろしい』という概念さえも存在しないことになります。

宇宙は『物質世界』そのものですから、究極の『理』といえる『摂理』だけが支配しています。そして『摂理』は『人間』だけに都合よく働くものではありません。このように割り切って見ると、色々なことが矛盾なく見えてくると梅爺は感じています。

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