« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »

2014年6月30日 (月)

モンスター銀河(1)

NHKBSプレミアムチャンネルの『コズミック・フロント』という番組を録画して観て『モンスター銀河』の存在を知りました。 

数ある『銀河』の中で、特に巨大なものを『モンスター銀河』と呼ぶといった単純な話ではないことを知り、興味を惹かれました。 

前に『モンスター・ブラックホール』というブログを紹介しましたが、これも単に巨大な『ブラックホール』以上の意味を保有しているらしいことと似ています。 

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-4ba8.html

宇宙には、2000億~3000億個の『銀河』があり、それぞれの『銀河』は平均2000億個の星で構成されていると考えられています。最近になって『モンスター銀河』と飛ばれる巨大銀河がいくつか発見されるようになり、宇宙の生成にどのような役割を果たしたのかに関する研究が盛んになっています。

『コズミック・フロント』で紹介された『モンスター銀河』は、いずれも日本の天文学者が発見した『オロチ(2008年:チリ、アステ電波望遠鏡で観測、118億光年の距離)』『ヒミコ(2009年:ハワイ、スバル望遠鏡で観測、129億光年の距離)』です。『オロチ』の発見が、世界中で『モンスター銀河』研究に拍車がかかるきっかけになりました。発見されている最も遠い『モンスター銀河』は、130億光年の距離ですから、『ビッグバン』の約8億年後の姿を観測していることになります。

現時点で観測している『モンスター銀河』は、過去に存在していた姿であり、現在の宇宙には『モンスター銀河』は存在しないと考えられています。

普通『銀河』は、ガスと塵の濃度が高い環境に存在しますが、『ヒミコ』は観測の結果ガス(水素、ヘリウム)が主体で塵(重い元素で構成される)がほとんどない環境であることが判明しました。

これらを総合すると、『ビッグバン』から9億年程度経た宇宙には、いくつかの(もしかすると多数の)『モンスター銀河』が既に存在していたと推察できます。当時の宇宙はガス主体でしたから、『ヒミコ』から塵が観測できないのはそのためです。

多くの天文学者にとっては、初期の宇宙に既に『モンスター銀河』が存在していたらしいという観測結果は驚きをもって迎えられました。

| | コメント (0)

2014年6月29日 (日)

ロボットから脳を読み解く(4)

この章の内容は難解で、梅爺は理解できたとは云えませんが、『脳』の機能を想定してモデル化した『情報処理システム』で、ロボットの動作を制御し、『簡単な動作』から初めて、訓練を重ね、徐々に『応用動作』までもこなせるようになることを実証しようとしていることは分かりました。

『目的』を達成するための『動作パターン』を記憶していて、その『動作パターン』は異なった『目的』にも応用でき、そうすることで『動作パターン』そのものの内容も高度化していくものと推察できます。
『目的』と『動作パターン』の組み合わせを即時に検索する作業は『シミュレーション』と呼ぶことができるかもしれません。この場合は、論理演算を行うというより、『パターン検索』をしていると言えますので、『脳』の対応の速さの秘密は、並列処理による『パターン認識』の方法に内在しているのかもしれません。
『動作パターン』の選択をおこなった後も、『脳』は、次に感覚器官から入力される情報を、あらかじめ予測し待ち構えるのではないでしょうか。そして実際に入力されてきた情報が、予測情報と異なるときは、再び『動作パターン』による対応を微妙に調整することも可能なのではないかと思います。
野球の打者が投手に相対する時のことを考えてみれば、上記のことが具体的に理解できます。打者は、投手の投げるボールの『球種』『コース』などを予測し、自分も『引っ張る』のか『流す』のかを決めて、ある『動作パターン』で待ち構えます。しかし、実際に投じられたボールの『球種』『コース』が予測と異なっていると認識したら、微妙に『動作パターン』を変更して対応しようとします。瞬間的な時間で、打者と投手の『駆け引き』が行われ、勝敗が決まります。
野球の本当の面白さは、表面的に『打つ』か『打たない』かではなく、打者と投手の『頭脳合戦』にあります。『人間社会』には、複雑で多様な『頭脳合戦』で満ち溢れていますが、野球はその端的なモデルとして、私たちを魅了するのでしょう。
膨大な感覚器官からの入力情報が、『脳』の中で階層的にどのように処理されるのか、『動作パターン』の記憶、検索、はどのように行われるのか、『ダイナミック・フィードバック』処理は、『脳』の中でどのように行われるのか、などの詳細は、現代科学でも解明ができていません。
『脳』があまりに複雑な対象であるために、『人間は、自分たちの脳を解明できる能力を持っていないのではないか』と主張する人もいます。全ての解明が可能かどうかは別にして、もっと真実へ近づくことは可能ではないでしょうか。
この章が対象としている研究範囲で、ロボットが『脳』を読み解く手段になるかどうかは分かりませんが、もし『情』を保有するロボットを前提に考えるならば、なにかしらの手がかりを見つけることになるのかもしれないと思いました。

| | コメント (0)

2014年6月28日 (土)

ロボットから脳を読み解く(3)

この章では、『人間』が『パントマイム』を演ずることができることを、『脳』の特徴として紹介しています。

『パントマイム』ができるということは、『目的行為』を想定して、『脳』が『シミュレーション』を行い、その結果にしたがって、仮想の行為を演じているものと考えられますから、『行為』に先立って無意識に『シミュレーション』が行われていることの証左と言えます。
『パントマイム』の観客は、演じられている仮想行為から、演者がなにを表現しようとしているかという仮想目的を逆に推察します。このことも、『脳』の中に『目的と、行為グループが対のパターンとして記憶されている』ことを示す証拠のように見えます。
『人間』は、『目的行為』を果たすための『行動パターン』を、自分の経験、訓練で身につけるばかりではなく、他人が同じ『目的行為』を果たすときに、どのようにふるまうかを見て、自分の『行動パターン』記憶の内容を変えることができるともいわれています。
弟子が親方の技を見て盗む、スポーツ選手が、他人のパフォーマンスを見て、自分のパフォーマンスを改良する、など実例がありますから、うなずけます。
これらの『見て真似る(自分の行動パターンに取り込む)』という能力は『脳』の『ミラー・ニューロン』という神経細胞の機能と考えられています。
動物の子供が、親の真似をして、生きる術を身につけていく上で、『ミラー・ニューロン』は重要な働きをします。この能力に長けた『種』が、生物進化の過程で生き残り、機能が継承されてきたことになります。他人が『あくび』をするのを見て、無意識にこちらも『あくび』をしてしまうのは、この『ミラー・ニューロン』のせいと言われています。
『人間』の『脳』を、『情報処理装置』というブラック・ボックスとしてとらえれば、各種感覚器官から絶え間なく入力される膨大な『入力情報』を処理をし、『精神世界』にとどまる思考を行ったり、筋肉システムを始め、身体の制御に必要な膨大な『出力情報』を出力していることになります。これらの『入力』『処理』『出力』が、超並列処理で行われていることが特徴です。これほど大規模な並列処理コンピュータ・システムは、最先端技術でも実現できていません。
摂取した酸素と食事で創りだすエネルギー源だけで、『脳』や身体各部を動かし、『精神世界』を含むすべての行動を維持し続けるわけですから、『人間』がいかに効率のよいシステムであるかが分かります。
この章を読んで、脳が『パターン処理』を主軸にした、『階層処理』『並列処理』であることは分かりますが、まだまだ、本質的なことがほとんど分かっていないことをあらためて確認できました。
現代科学が直面している最大の難問の一つが『脳』の解明であることは、間違いがありません。

| | コメント (0)

2014年6月27日 (金)

ロボットから脳を読み解く(2)

ロボットの動作を実現しようと考えたときに、私たちがすぐ思いつくのは、『ミクロな基本動作』を設定し、複数の『ミクロな基本動作』を適宜組み合わせて、目的とする『マクロな動作』を達成しようという方法です。

先ず、ロボットの『脳』に相当する『コンピュータ』で、『マクロな動作』達成のための、一連の『ミクロな動作』を、仮想的に計算します。これを工学的には『シミュレーション』と呼びます。この『シミュレーション』の結果に従って、『ミクロな動作』を逐次開始します。
しかし、一連の『ミクロな動作』の実行途上で、目的達成のために少し『ズレ』が生じていることに気づいたら(ロボットの場合センサーが認識したら)、『ズレ』を修正するために、それ以降は想定していた『ミクロの動作』を変更しなければなりません。即座に『シミュレーション』をやり直して、動作を再開します。それでもまた『ズレ』が見つかれば、即座に『シミュレーション』を行うというような繰り返しになります。
このような、『マクロな動作』実行途上の『修正』を、工学的には『フィードバック制御』と呼び、特に上記のような、動作を実行しながら修正を繰り返す方法を『ダイナミック・フィードバック制御』と呼びます。『ミサイル』がターゲットを追尾し続けるような動作は、まさしくこの手法が使われます。
ロボットの動作が、どこかぎこちなく見えるのは、『基本動作』の設定が、きめ細かくないことや、『コンピュータ』の『シミュレーション』に時間を要したりするためです。一方『人間』が目的とする行為を行う時には、非常に滑らかに動作が行われます。
『人間』の『脳』でも、『シミュレーション』や『ダイナミック・フードバック制御』に相当する行為が行われているには違いがありませんが、その仕組みはロボットの制御と同じなのでしょうか。『人間』の『素早い、なめらかな動作』は、ひょっとして、もっと巧妙な方法によって実現されているのかもしれません。
『人間』の行為は、素早く滑らかであると書きましたが、幼児がフォークやスプーンを使う練習を始めたころは、必ずしもそうではありません。動作はぎごちなく、正確さも欠如しています。しかし、同じことを繰り返し学習していくうちに、徐々に上達していきます。
このことは、『脳』では、ある行為をパターンで記憶し、そのパターンを他の類似した行為でも活用し、活用の幅を広げていくようにも見えます。
『コンピュータ』の制御プログラムは、『基本動作』が時系列的に連鎖する様式であるのに対して、『脳』は、同時に複数の動作を『並列処理』しており、その『並列処理』を可能とする基盤が、『動作パターン』の記憶ではないかと、梅爺のような素人でも推察できます。

| | コメント (0)

2014年6月26日 (木)

ロボットから脳を読み解く(1)

『脳研究の最前線(上下巻):理化学研究所編:講談社ブルーバックス』の第10章、『ロボットから脳を読み解く』を読みました。著者は『谷淳』氏です。 

中国では『コンピュータ』を『電脳』と表現し、日本でもこの言葉を得意げに遣う情報処理技術関係者がいましたが、梅爺は気が進みませんでした。正直に申し上げれば、その程度の浅い洞察しかできない、技術者や学者は、あまり評価できませんでした。
 
『電脳』では、人間の『脳』を『コンピュータ』で総合的に代替できるものという誤解が生じ、好ましいと思わなかったからです。明らかに、日本で最初に考えられた呼び名『電子計算機(略して電算機)』の方が、実態に即した訳語です。『人工頭脳』という表現も、人間の『脳』の詳細なしくみが解明できていない現状では、実態とはかけ離れています。
 
『脳』がつくりだす人間の『精神世界』は、『理』と『情』の二つの機能の組み合わせで構成されます。現在の『コンピュータ』は、『理』の処理が主体で『情』の処理は不得意ですから、『コンピュータ』は『脳』の一部の代替しかできていません。
 
『脳』による『理』と『情』が創りだす『推論』『判断』は、『脳』の中で完結する場合と、『判断』した結果を『目的』として、身体の行動を起こす場合に分かれます。云い換えると、『脳』の活動は、抽象的な『精神世界』の中にとどまる場合と、『精神世界』にとどまらずに、身体の制御と連動する場合に分かれます。『算数の計算をする』などは前者であり、『机の上にある水の入ったコップを持ち上げて飲む』などは後者に相当します。
 
私たちは、のどが渇いているときに、『机の上にある水の入ったコップを持ち上げて水を飲む』等という行為は、いともかんたんにやってのけます。幼児のころから類似体験を重ねて、『脳』は『記憶』や、感覚器官の情報処理と筋肉制御をリアルタイムに行うフィードバック制御を駆使して目的を達します。
 
しかし、これと同じことを『ロボット』で実現しようとすると、そう簡単ではありません。コップの位置確定、指でコップを握る動作、水をこぼさないようにコップを口まで運ぶ腕の動作、コップを傾けて適量づつのどへ流し込む操作、などどれもやさしくはありません。たとえば指が強くコップを握ればコップが壊れることもありますから、感覚と力との関係の微調節を必要とします。
 
『ロボットから脳を読み解く』という章では、『ロボット』の制御を想定して、『人間の脳』がどのように機能しているかを、逆に推察しようという試みです。
 
『脳』と身体の筋肉システムが連動する場合という、特定の条件で『脳』を考え、更には条件をぬきにした『脳』の普遍的性質までも探りたいという研究であろうと梅爺は理解しました。

| | コメント (4)

2014年6月25日 (水)

『新約聖書』成立までの道のり(6)

2世紀初めに、小アジア出身の『マルキオン』という人物が登場し、ローマの『キリスト教』教会に加わりますが、立場(考え方)の違いが明確になり、『マルキオン派』と呼ばれる共同体(教会)を独自に各地で展開し始めます。

『マルキオン』は『グノーシス派』の影響を受けていて、『ユダヤ教』の『神(ヤーヴェ)』や『律法』は『悪い神』『悪い掟』として、排除しようとしました。『善い神(父)』から、この世に遣わされた『イエス』は、『悪い掟』を排除しようとことになり、このことを理解したのは『パウロ』だけであるとして、『イエス』の唯一人の弟子は『パウロ』と位置付けています。もちろん、ローマの教会とは、まったく異なる認識ですから、仲たがいするのは当然です。
『マルキオン』のすごいところは、『悪い神』の『タルムート』に対抗して、『善い神』の『聖典』を独自に編纂したことです。『キリスト教』にとっては、これが最初の『聖書』の形式をなす『文書』です。
『タルムート』が『律法と預言』で構成されているのに倣って『マルキオン』の『聖書』は、『福音と使徒(言動)』で構成しました。自分が考える『論理』だけに適合する既存の『文書』を取捨選択して編纂したものですから、『理路整然』とした内容になりました。
しかし、後に『マルキオン派』は、『グノーシス派』同様に、『キリスト教』の主流からは『異端』とみなされ、弾圧の対象になりました。
主流派は、『マルキオン』の『聖書』のような『文書』の有効性は認め、自分たちも『聖書』を編纂することになります。『福音と使徒』で構成する形式も、ちゃっかり流用しています。『新約聖書』はこのように、『異端』の『聖書』に触発されて編纂されたと言えます。
『新約聖書』は、一人の一貫した論理で編集されたものではありませんので、主流派にとって許容できる『文書』は、あれもこれも採用しました。つまり、寄せ集めの形態ですから、『マルキオン』の『聖書』のような『理路整然』とはいかない問題をはらんでいます。更に主流派は『タルムート』を『旧約聖書』として認めましたから、一層解釈が難しくなりました。
しかし、実はこの『あれもこれもの寄せ集め』が、むしろ人間の『精神世界』を刺激し、議論が尽きずに『聖書』が今日まで色あせなかった理由ではないかと、梅爺は思います。『理路整然』は一見好ましいことですが、それ以上の議論にならずに、興味が継続しないからです。人間は、曖昧なもの、矛盾しているものに興味を抱くようにできているからです。『興味を持続させたければ、物事は曖昧にしておけ』ということかもしれません。
『新約聖書』の編纂者が、このような深い洞察で対応したとは思えませんが、結果は大正解であったと言えそうです。『新約聖書』誕生には、このような背景がありました。

| | コメント (0)

2014年6月24日 (火)

『新約聖書』成立までの道のり(5)

口承伝承を布教の手段としていた、『イエス』や、『イエス』亡き後の弟子たちとは異なり、『ユダヤ教』と決別した(『ユダヤ教』から追放された)『キリスト教』では、『文書』が布教の手段に変わりました。『イエス』や弟子たちが、この世を去り、『権威』を『文書』に求めざるを得なくなった事情もありますが、広域かつ大規模になりつつあった『キリスト教』にとっては、必然的な変革のように思えます。

『文書』はギリシャ語で書かれ、ユダヤ人以外にも受け入れられるようになったことも、後の『キリスト教』に大きな影響を与えています。何よりも、『ローマ帝国』支配下の世界では、ギリシャ語は現在の英語のような、公用語のひとつで、これに対応できる人は一般に『教養レベルの高い人たち』と考えられますから、『教養レベルの高い人たち』が『キリスト教』を受け入れ始めたことも、重要な意味を持つように梅爺は感じます。
ギリシャ語ができる人は、古代ギリシャから継承されてきた、古典文学、哲学書、科学書の存在も知っていて、いわゆる『理性尊重の姿勢』を身に着けていたと考えると、この人たちの中から『キリスト教を論理的な構造で矛盾なく理解しようとする人たち』が出現するのも肯けます。
現代流にいえば、ある『仮説』を立て、その『仮説』の中で、納得できる『論理』を展開しようとしました。私たちがその『仮説』をみれば、突飛で荒唐無稽にも見えますが、当時の教養人が知恵を絞って考え出したものですから、本人たちは大真面目であったことになります。
後に、『キリスト教』主流から『異端』とされて排除された、『グノーシス派』が典型例です。
『グノーシス派』は、古代ギリシャから伝わっている、『この世は、悪と善で構成されている』という考え方を、『キリスト教』にあてはめようとしました。『グノーシス派』の主張は以下のように要約出来ます。
『善い世界と悪い世界があり、善い世界は善い神に、悪い世界は悪い神に支配されている。善い神は愛と慈悲の救済神で、悪い神は創造神ではあるが律法を重んじて、反するものは厳しく罰する。私たちが住んでいる世界は悪い世界である。私たちが苦しむのはそのためである。悪い世界はやがて滅びる。私たちの中の一部の人間は、光の種(善い心)を保有している。この者は善い神から祝福される。このことを知らしめるために、善い神は光の種だけの特別の人間(イエス)を悪い世界へ遣わした』
簡単に行ってしまえば、『ユダヤ教』の神(ヤーヴェ)は『悪い神』で、『キリスト教』の神は『善い神』であるという話です。『善い神』は唯一『キリスト教』の神であるということになるのでしょう。『悪い神』は『創造神』であることは認めていますが、律法を重視するため、私たちを罰することがあるということになります。『イエス』は『光の種』だけの特別な人間で、私たちの中の『光の種』を保有する者だけが救済されるということになります。『信ずれば誰もが救われる』というのとは微妙に異なります。『ローマ帝国(当時の現実の世界)』を『悪い世界』の具体例として非難しているようにもみえます。
私たちが『キリスト教』の教義として理解している内容と、かなり異なっていることが、お分かりいただけたと思います。
『新約聖書』が正典として採用される以前の時代(2世紀~4世紀)には、このような異なった『考え方』が乱立していたことになります。採用されなかった『考え方』は梅爺にとっては、興味の対象ですが、一般には、このような歴史を学ぶ機会は、あまりありませんから、最初から現在の『キリスト教』が存在していたと勘違いしがちです。

| | コメント (2)

2014年6月23日 (月)

『新約聖書』成立までの道のり(4)

初期の『キリスト教』の歴史を理解するには、いくつかの時代に分て、その時代の特徴を把握する必要があります。

(1)『イエス』が直に布教した時代(紀元30年~33年ごろ)
(2)『イエス』の死後弟子たちや信徒たちによって開始された布教の時代(紀元34年~)
(3)『キリスト教』が『ユダヤ教』と決別し、独立した布教を開始した時代(紀元1世紀末~)
(4)『キリスト教』がローマ帝国に公認され(318年)、やがて国教となった(391年)以降の時代
『キリスト教』に『文書』が出現するのは、(2)の時代で、ギリシャ語圏で育ったユダヤ人がギリシャ語で記述したものです。『マルコによる副新書』や『パウロが外地の信徒に送った手紙』などがそれにあたります。それまでの布教は、全て『口頭説教』主体であったことを考えると、画期的な出来事です。
『ローマ帝国』で『キリスト教』が国教になると、『教義』を統一するための『ニケイヤ会議』『コンスタチノポリス公会議』などの宗教会議が開催され、『父(神)』『子(イエス)』『聖霊』は、一体であるという『三位一体説』が採択されます。そして『新約聖書』が正典として採択されました(397年)。
注目すべきは、(2)と(3)の時代を合わせた約250年間に、各地に少しづつ『考え方』が異なった宗派が誕生し、それぞれが『文書』を書き遺したことです。後に『新約聖書』に採用された『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』『使徒行伝』『ヨハネによる福音書』『ヨハネ黙示録』などは、全て(3)の時代に書かれたものです。
梅爺は、現在の『キリスト教』の『教義』を理解するには、『宗教会議』で、『異端』とレッテルを張られた宗派の『考え方』、その宗派が書き遺した『文書』の内容を知る必要があると考えています。現代の視点で観れば、『異端』の『考え方』の方が『理性』で納得できる内容であるかもしれないからです。
たとえば、『イエスは神の子でがなく人間の預言者である』という『考え方』や、『処女懐胎、死後復活などの出来事を認めす、イエスの残した言葉だけを重視する』という『考え方』は『異端』となりました。梅爺の『理性』で判断すれば、これら『異端』の方が、逆に『まともな考え方』に見えます。『三位一体』などという苦しい弁明も必要なくなるからです。
『異端』はその後『ローマン・カトリック』によって徹底弾圧され、『異端文書』も全て廃棄されたはずでした。しかし、最近になって、各地で秘匿され続けた『異端』の書が発見され、(2)や(3)の時代を知る手がかりが増えました。
『新約聖書』は、穏やかに、すんなり成立したものではありません。背景に、激しい論争、異端者の粛清など、人間の生々しい行為が関与しています。『異端』はいつの時代にも、出現しますから、『キリスト教』はその批判の対象になり続けることでしょう。『異端』かどうかは、人間の『精神世界』の本質に照らして考える必要があります。理性による判断の基となる『知識』は、時代によってかわりますから『精神世界』が下す判断は、時代とともに変わります。たとえば現代人は、古代人のように『太陽』は『神』であるとは考えません。
『宗教』が『異端』を無条件に排除し続ければ、自らの立場を弱体化することになりかねません。1700年前に、人間が作った『教義』を、現代人に理解してもらうためには、『私が正当、あなたが異端』と云い張るだけでは説得力を欠きます。更に『理性だけで判断するのは間違い』と主張するならば、なぜそうなのかを『理性』で説明する必要があるのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2014年6月22日 (日)

『新約聖書』成立までの道のり(3)

『ユダヤ教』における『タルムート(聖典)』は、『ユダヤ民族だけの神(ヤーヴェ)とユダヤ民族の間の約束(契約)事項』とされています。『キリスト教』は、ユダヤ民族だけにこだわる『ユダヤ教』から脱却し、独立路線を歩むようになりましたが、『聖書』は『神と人間との間の約束事』という考え方は継承されています。『旧約』『新約』はそれぞれ、古い約束、新しい約束を意味します。『聖書』に手を置いて宣誓するしきたりはこれによります。西欧の『契約社会』はこの『キリスト教』文化が背景にあります

『キリスト教』の『聖書』は、『旧約聖書』と『新約聖書』で構成されています。このスタイルが確立したのは、4世紀ごろと考えられます。
『旧約聖書』は、『ユダヤ教』の『タルムート』をほぼそのまま継承しています。『イエス』の死の直後、関係者は、自分たちが新しい宗教を布教しているなどという認識は無く、『ユダヤ教の新しい一派』という認識でした。そのため、『イエス』を権威づけるために『タルムート』の都合のよい部分だけを抽出し、『イエスの生涯は、タルムートで予言されていたことが成就したもの』と主張しました。既にユダヤ民族の中で『権威』を持っていた『タルムート』を利用し、『イエス』の『権威』を主張しようという頭のよい方法です。現代でも、有名人を友人にもつと吹聴して、『自分も、そこそこの人物である』とほのめかしたがる人がいますが、同様の発想です。
『キリスト教』が『ユダヤ教』から、独立をした(1世紀の終わりから2世紀の初め)後も『タルムート』の引用は継承され、ついに4世紀の『聖書』の編纂でも『タルムート』は『旧約聖書』として正式採用されました。
しかし、『タルムート』には、『キリスト教』にとっては都合の悪い話も載っていますから、梅爺のような信仰の薄い人間から見ると『旧約聖書』は、『キリスト教』を分かりにくくしてしまった一つの要因です。まず『キリスト教』と『ユダヤ教』の『神』は同じなのか、という単純な問いに答えなければなりませんので、『パウロ』やその後の神学者たちが、色々な弁明をせざるをえなくなりました。
『ユダヤ教』では、『ユダヤの王が、救世主、神の子として神から遣わされる』という考え方があり、これを『イエス』に適用すれば、『イエス』もユダヤの正当な王族の血統であることを示す必要に迫られ、『新約聖書』の一部には、『イエス』の先祖をたどれば、『ソロモン』『ダビデ』どころか、『アブラハム』にまで到達するという記述があります。『天皇家の先祖は天照大神』というような論法ですから、『お気持ちはわかりますが、ちょいとやりすぎではありませんか』と梅爺は云いたくなります。
『文書』を統一見解実現のための手段にするという方法は、口頭の伝達よりは良いことは明白ですが、『万事めでたし』とは行きません。人間が書く『文書』は、矛盾なく内容を伝達できるとは限らず、更に読み手の『精神世界』のレベルで解釈が異なる可能性を秘めていますから、『聖書』といえども、この問題から逃れられません。
『聖書』は神の言葉を記述したもので誤謬は無い、といわれて、『へへー』と畏れ入る人ばかりではありませんので、常に批判にさらされます。そうかといって内容を改定すれば、今度は『教義』の権威が保てなくなるという、ジレンマに遭遇します。『教義(ドクトリン)』を維持するには、相当の策略を要します。
そう考えると、約1700年間、『聖書』が『聖書』であり続け、今日もそれが通用していることは、『お見事』というほかありません。

| | コメント (0)

2014年6月21日 (土)

『新約聖書』成立までの道のり(2)

『ユダヤ教』の『シナゴーグ』は、ユダヤ民族の教会組織ですから、歴史的に継承されてきた『聖典(タルムード)』や聖職者(ラビ)の役割もはっきりしていて、信者の日常生活も戒律で統制されています。

2世紀の初めごろに『ユダヤ教』から分かれて、独立した道を歩み始めた『キリスト教』にとって、組織運用のルールが曖昧になり、これへの対応が最初の試練になったことは容易に想像できます。

人間が集団組織を新たにつくった時には、必ず組織運用ルールが先ず問題になるからです。現在の『キリスト教』教会は、永い時間をかけて創り上げた組織運用のルール(聖職者の役割、献金の集め方など)や、礼拝儀式の様式(祈り、使徒信条の朗読、説話、讃美歌など)が、判然としていますから、信者はそれを『当たり前なこと』ととして受け容れています。しかし。最初の『キリスト教』の様子は、現在とは大きく異っていたことを、認識する必要があります。

『リーダーの指示に従いなさい』などという基本的な議論からはじまり、やがて『考え方』を統一するために『文書』が『権威構築』のための重要な役割を演じ始めます。生前の『イエス』は、口頭での説教をし、信徒間では、その内容が同じく口頭で伝承されていましたが、この方式は、組織拡大、布教領域拡大の時代には適していないことは歴然です。伝承の過程で、解釈の違いなどが混入すると、末端には全く違う内容で届いたりするからです。

1世紀の後半に、ギリシャ語圏で育ったユダヤ人のキリスト教信者グループ『ヘレニスト』の中で、最初の『マルコによる福音書』がギリシャ語で書かれました。このグループはエルサレムの『ペテロ』をリーダーとする主流グループと、『エルサレム神殿(ユダヤ教)』の権威を認めるかどうかで意見対立し、独立したグループでしたので、当然『ペテロ』に批判的な内容で書かれています。

その後各地の『ペテロ的な教会』で、独自の『福音書』がギリシャ語で書かれることになります。現在の『新約聖書』に採用されている、『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』などがその一部です。これらは、先行した『マルコによる福音書』を参照していることは明らかですが、『自分たちの考え方』に沿って、一部を削除したり、新しい伝承内容を追加したりしています。

この頃各地で『○○による福音書』が沢山書かれ、その内容はそれぞれ微妙に異なっています。揺籃期の『キリスト教』の活力と混乱をこのことからも推察できます。

後に『新約聖書』編纂の時に、何故四つの福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)だけが採用されたのか、採用されなかった福音書は、何故排除されたのかは、『キリスト教』の『教義』の背景を知る上で重要なことのように思えます。

当然『イエスは人間の預言者である(神の子ではない)』という前提で書かれた『グノーシス派』の福音書(トマスによる福音書など)は、『異端』として排除されました。

『福音書』と同時に、当時の教会リーダーが書いた手紙や論文も『権威ある文書』として採用されるようになります。これによって、『パウロ』が書き残していた手紙が一躍脚光を浴びることになりました。そしてついに『パウロ』は『使徒』にまで格上げされることになります。

| | コメント (0)

2014年6月20日 (金)

『新約聖書』成立までの道のり(1)

アメリカ大統領が就任式で宣誓する時や、アメリカの裁判で証人が証言する時に『聖書』に手を置き、『神に誓う』儀式が行われます。このような場面を映画などで何回も観ているうちに、『聖書はとてつもなく権威ある書物』らしいという価値観が私たちの脳に刻み込まれます。 

『イスラーム』の人々も、彼らの聖典『クルアーン(コーラン)』が、異教徒たちによって侮辱的に扱われたとして、大抗議デモを行ったりします。 

このように、人間は『宗教』を成立させると、『神』『偉大な聖職者』『聖典(経典)』は、『神聖にして犯すべからざるもの』という固定概念を持つようになります。そして、その信徒グループの中では、これらを『疑う』ことは『異端』として排除されます。 

しかし『キリスト教の新約聖書』『イスラームのクルアーン』がどのような経緯で、編纂され、現状の姿になったのかを観てみると、編纂者は全て『人間』であり、『人間』である以上色々な意見や考え方が対立し、時には闘争で勝敗がきまるなどの、『生々しい争い』が浮き彫りになってきます。『人間』が関与して創られたものは、完全ではなく、矛盾や誤謬が混入する可能性がないとは言えません。しかし、『宗教』の場合、『人間』の行為が生み出したものが、永い時間がたつと『神聖なもの』になるらしいことが分かります。 

もしどこかで歯車がひとつ狂って勝者が入れ替わっていたら、現状のものとは違う内容の『新約聖書』『クルアーン』が成立してとも考えられます。そう考えると、信仰の薄い梅爺には、『神聖』は心もとないものに見えてきます。『宗教』『哲学』『芸術』など、『人間』の『精神世界』が創造したものは、仮に歴史を巻き戻して、ある時点からやり直してみても、同じ人物、同じ作品が再出現するとは限りません。これは『科学』とは決定的に異なることです。『ダ・ヴィンチのモナリザ』と同じものは再出現しない可能性が高く、一方『ニュートンの法則』は、同じ法則を別人が発見する可能性が高いという話です。

『ユダヤ戦争(紀元66年~70年)』で、『ローマ帝国』支配に、反抗して立ち上がったユダヤ民衆は、徹底的に弾圧され、エルサレムにあった『ユダヤ教神殿』までもが破壊されました。

『イエス』の死(紀元33年ごろ?)後、エルサレムを拠点として布教を開始した、『初期キリスト教』のグループ(リーダーは『ペテロ』、イエスの兄弟『ヤコブ』)も、『ユダヤ戦争』で、事実上機能を失いました。『ペテロ』も『ヤコブ』もこの頃に亡くなった(処刑された?)と考えられています。

その後『パウロ』などが、布教して立ち上げた『外地のキリスト教教会』が主体となって、『キリスト教』の布教は再開されました。しかし『パウロ』も紀元65年ごろに、処刑されたと考えられていますので、正確には『パウロ的な考えを持つ外地の教会』が主体となったということです。

『パウロ的な教会』の特徴は、ギリシャ語が原語として使われたことと、ユダヤ人以外の信徒が加わり始めたことです。それは『パウロ的な教会』では、ユダヤ教の戒律が重要視されなくなったことを意味します。

このような環境で、1世紀の終わりから2世紀の初めにかけて、外地の『ユダヤ教徒』と『キリスト教徒』は決別せざるを得なくなりました。『シナゴーグ』と『キリスト教会』が決別したことにもなります。しかし、『シナゴーグ』の風習や様式の一部が『キリスト教会』に継承されたのは当然のことです。その意味では、後の『イスラーム』の『モスク』も、『シナゴーグ』『キリスト教会』の模倣と言えないことはありません。

『パウロ的な教会』は、自分たちの教会の規律をどのように守るかが大きな問題になりました。『ユダヤ教の戒律』で守られていた規律が、それを放棄することで、逆に統制がとれなくなってきたことを意味します。

| | コメント (0)

2014年6月19日 (木)

合唱が創りだす『絆』(4)

『人間』を『楽器』にする『独唱』『斉唱』『合唱』は、『歌詞』を同時に表現できるということで、音楽ジャンルの幅を拡げます。

『メロディ』『リズム』『ハーモニィ』は、主として『精神世界』の『情』へ訴えかけますが、『歌詞』は、『情』と『理』の双方へ訴えかけます。

『理』の介入を極力排して、『情』だけに訴えかける器楽演奏の方が、純粋な音楽表現であるという観方もありますが、『歌詞(言葉)』を併用する音楽は、『精神世界』全体を揺さぶるという点では魅力的です。

『ベートーベン』が、『交響曲第九番』の最終楽章に壮大な『合唱』を組み込み、『人間賛歌』にした意図は、良く理解できます。

更に『芝居』『舞踊』までも取り込んだ『オペラ』は、『総合舞台芸能』として発展し、『バレー』『ミュージカル』などの新しい様式も生み出しました。『科学技術』が可能にした『映画』『テレビ』は、『舞台』という制約がなくなり、これまた新しい表現様式を提供するようになりました。いずれも『音楽』は、主役であったり、脇役であったりしますが、欠かせない要素として利用されます。これらは『娯楽』なのか『芸術』なのかという議論がありますが、梅爺にはあまり意味のある議論とは思えません。『最初は娯楽であったものが、芸を極め、精神性をとりこんで芸術へ発展していく』というのが、『人間社会』で共通に起こる事象です。

日本の、『能』『狂言』『歌舞伎』『人形浄瑠璃』『落語』などを観れば、それが良く分かります。何故『人間』は『低俗』では飽き足らないと考えるのかは、『精神世界』を解き明かすヒントの一つを提供しているように思います。『ワビ』『サビ』を根底で重視する日本文化は、世界の中で特異なもので、誇りうるものではないでしょうか。逆に『能』の真髄を理解できる外国人は少ないかもしれません。

昨年、仙台で開催された『4大学(北大、東北大、東大、九大)OB男声合唱団』によるジョイントコンサートに梅爺は参加し、アンコールで『ふるさと』を全員で歌いました。東日本大震災の後、この歌は良く歌われますが、200人以上の男声合唱団が醸し出すハーモニィは、歌う側にも聴く側にも感動を呼び起こしました。『合唱』は、病を癒す薬でも、空腹を満たす食べ物でもありませんが、『精神世界』を豊かにする効果を保有しています。

キリスト教会が『ミサ』や『讃美歌』で、『合唱、斉唱』様式を取り込んだのは、炯眼(けいがん)です。しかし、『合唱』は『戦意高揚』『独裁者賛美』『イデオロギー賛美』などの目的にも利用されますから、あくまでも手段であることを、弁えておく必要があります。

『合唱』を、自発的に純粋に楽しむ人達が多い国は、文化レベルが高いと言えます。日本は、世界の中で高いレベルにあると梅爺は感じています。この番組を見て、梅爺はその感を強めました。

| | コメント (0)

2014年6月18日 (水)

合唱が創りだす『絆』(3)

若い合唱指揮者『ギャレス・マローン』は、『合唱が持つ不思議な力』を実感していて、これを最大限に利用しようとします。『不思議な力の源泉』は、『安泰を希求する人間の本能』に由来するなどと、梅爺のような小賢しい解説はしません。

『宗教』の『心の安らぎが得られる不思議な力』を実感して利用すればよいと考える人と、梅爺のように『神との関係が、孤独を感じた人間にとって絆の代替になるから』などと解説をしたがる人がいるという関係に似ています。

梅爺のように何にでも子供のように『どうして?』と問いかける性格は、時折周囲の顰蹙(ひんしゅく)をかいますが、生まれつきのものですから変えようがありません。この性格が『梅爺閑話』を続ける原動力になっています。

『ギャレス・マローン』は、職場合唱団を結成するに当たり、『オーデションによるメンバー選び』『職場に適したメッセージ性の強い歌詞をもつ歌の採用』『歌に振りをつけて、表情やしぐさでも感情を吐露する歌い方強調』『コンテスト参加を期限付きの課題として与え、向上心、闘争心を煽動』など、『合唱』の持つ特性を更に引き立たせるためのお膳立てをします。

『自尊心(オーデションに合格)』『競争心、闘争心(コンテストの勝者をめざす)』『達成感(厳しい練習を経て聴衆の前で披露)』『連帯感』などは、『人間』の本性ですから、素人合唱団は短期間にメキメキと上達します。

これらは、必ずしも『合唱』固有の手法ではなく、『スポーツ』や『仕事』にも適用できる手法です。

梅爺が面白いと感じたのは、『病院』や『水道管理会社』など、病人や厳しい顧客クレームに接することを日常としている人達は、感情を表に出すことを自制することに慣れてしまっていて、『歌で自分を表現する』ことを求められても戸惑うところが見受けられたことです。これらの人達には、無意識に貯め込んでしまっているストレスを解消することに『合唱』が効果を発揮します。

更に歌詞のメッセージを聴衆に明確に伝えるために、発声、発音について指揮者から厳しく指導を受けている様子を見て、梅爺は『やっぱりね』とニヤッとしてしまいました。英語圏の人達が、英語の発声、発音について注意をされているのは、梅爺が所属する男声合唱団で、日本語の発声、発音について注意をされているのとまったく同じ光景であったからです。

『合唱』では、『ハーモニー』が主目的ですから、個性的な発声や、自分だけ目立つ歌い方は歓迎されません。一方『独唱』は、個性の表現が主目的ですから、『合唱』とは対比的です。この違いを際立たせるために、『ギャレス・マローン』は『コーラス(合唱)』と『ソロ(独唱)』を組み合わせた曲を選びます。『カラオケ』の名歌手は、必ずしも優秀なコーラス・メンバではないことを、理解してもらうには最善の策です。

『ギャレス・マローン』は、オーデションでメンバを選ぶ時に、職場の『管理職』『現場の作業員』などのバランスにも配慮します、普段、接触のない人達が、『合唱』を通じて『同じ会社の仲間』という連帯感が生まれることを期待してのことです。

この番組が、面白いのは『合唱』だけでなく、人間や人間が形成するコミュニティの特性を、細かく計算しつくして、シナリオに組み込んであることです。有能な番組企画者が背後にいることが分かります。

| | コメント (0)

2014年6月17日 (火)

合唱が創りだす『絆』(2)

『一緒に歌う』という行為が、歌っている人達ばかりではなく、聴いている人達の『精神世界』へ何らかの影響を及ぼすことは、多くの人が体験しています。

『精神世界』の表現、および共感が、『絆』を確認することに極めて有効であるということなのでしょう。他人や特にコミュニティの仲間との『絆』を確認することは、『群をなして生きる』方法を、生き残りの高い優先度として選択した『人間』と言う生物にとっては、当然のこととも言えます。

何度もブログに書いてきたように、『精神世界』の根底に『安泰を希求する本能』があり、『絆』を確認することは、それを満たすからです。

『絆を確認するために、精神世界の表現、共有を行う行為』の一部が、様式として洗練され、『芸術』という領域が産まれたと梅爺は推測しています。

勿論『芸術』には、『絆の確認』だけではなく、『楽しい(娯楽性)』『美しい(美意識)』という、『精神世界』をポジティブにする要素も含まれています。その割合によって『芸術』と呼ばれたり『娯楽』と呼ばれたりしますが、元をたどれば、全て『安泰を希求する本能』へ到達します。

現代の『芸術』は、商業主義と無関係でなかったり、『高尚』を吹聴するステイタス・シンボルや手段になったりして、『安泰を希求する本能』との関係が分かりにくくなっています。『芸術』は、経済的にゆとりのある人達の特権的な占有物ではありませんし、本来あってはいけないものです。

『芸術』の中で、『音楽』は、『絵画・彫刻』『文学』とは異なった特質を保有しています。第一に、他の領域の『芸術』とは異なり、『人間』の『聴覚』を介して『精神世界』へ働きかけが行われます。『楽器』『人間の声』それに最近では『シンセサイザー』で創りだされた音源が、様式化された約束事の下(もと)で、『メロディ』『リズム』『ハーモニィ』などの組み合わせで表現されます。

『音楽』は自然界に存在する『音』を模擬することはありますが、原則的には『自然界には存在しない音の表現』が特徴です。それは『精神世界』という仮想世界が『音』を利用して表現したものであるからです。

言い換えれば、地上から人類がいなくなれば、『精神世界』とともに『音楽』は消滅します。同じく、地上から人類がいなくなれば、『神』や『宗教』だけでなく、『愛』『正義』『平和』といった抽象概念も消滅するであろうと梅爺は推測しています。

『森のせせらぎの音と鳥たちの囀(さえず)り』『夕映えの空に沈みゆく太陽』を越える『音楽』『絵画』を人間は創りだせるのか、といった問いもありますが、それは『芸術』に課せられた別の問題です。それらを『心地よい』『美しい』と感ずる『人間』の『精神世界』がなければ、それは『物質世界』の事象に過ぎません

『合唱』は『音楽』の一部のジャンルですが、更に固有の特徴を保有しています。何よりも『言葉』を表現に組み込むことができますので、『精神世界』へ働きかけが容易になります。『独りで歌う(独唱)』と『皆で歌う(合唱)』の間にも微妙な違いが生じます。

| | コメント (0)

2014年6月16日 (月)

合唱が創りだす『絆』(1)

NHKBS第一チャンネルで、6夜にわたりイギリスのドキュメンタリー番組『ギャレス・マローンの職場で歌おう』が紹介され、梅爺は楽しく観ました。

若手の合唱指揮者『ギャレス・マローン』が、イギリスの『大病院』『郵便会社』『空港管理会社』『水道管理会社』で、『にわか作りの30人規模の混声合唱団』をそれぞれ編成し、最後は、ウェールズで開催される有名な音楽フェスティバルのコンテストに参加して、優勝トロフィーを争わせるという内容でした。

以前『ギャレス・マローン』は、イギリスの音楽伝統がない『私立男子校』で『男声合唱団』を結成したり、隣人同士が疎遠になりつつある郊外の町で『市民混声合唱団』を結成したりして、『男声合唱団』はロンドンのひのき舞台『ロイヤル・アルバート・ホール』で合唱を披露するまでに、『市民混声合唱団』はオペラ公演の合唱団として出演するまでに導く様子が『ドキュメンタリー番組』で紹介され、一躍有名になりました。

『ギャレス・マローン』を起用すれば、確実に視聴率が稼げると踏んだ番組企画会社が、『3匹目のドジョウ』を狙って今回の『ドキュメンタリー番組』を制作したのでしょう。

従って『ドキュメンタリー番組』といっても、本当の出来事を追いかけたのではなく、番組企画者が『想定あらすじ(シナリオ)』を設定し、それに沿って、事が進行する形式になっていますから、『ドキュメンタリー形式を装った番組』というのが正しい表現かもしれません。

合唱経験のない人達が、戸惑いながら、楽しみながら、音楽作りへ情熱を燃やす個々のエピソードは、ぶっつけ本番で撮影された内容が採用されていますから、番組の視聴者は、裏に『シナリオ』が仕組まれているとは気付かないかもしれません。

視聴率稼ぎの『やらせ番組』ではないかと非難することもできますが、視聴者に『合唱は何故仲間との絆を強固にするのだろう』という、『人間』の本性に関る問題を提起し、考えさせるという目的が明らかに仕組まれていますから、梅爺は、割り切って観ることができました。勿論現在も男声合唱を続けている梅爺には、主題が合唱でることが最も興味の対象でした。

何よりも、さわやかで、ウィットに富んだ『ギャレス・マローン』が、番組の品格を保ち、番組を魅力的にしています。

| | コメント (0)

2014年6月15日 (日)

What can't be cured must be endured.

英語の諺、『What can't be cured must be endured.』の話です。

『癒せぬものは、我慢しなければならぬ』という意味ですから、健康に例えた話ですが、人生や、社会の事象にも通用する教えになります。私たちの諺では『覆水盆に返らず』に近いニュアンスかもしれません。

人間にとって深刻なものは『死』で、貴賎、貧富、能力の有無を問わず、『死』は誰にでも訪れます。歴史上、『死』を免れた人は一人もいませんから、理性では覚悟が必要と考えますが、それでも、私たちは未練がましく、『死』の到来を少しでも先延ばしにしようと、涙ぐましい努力をします。

昔の権力者は、『不老不死の妙薬』を求めたりしました。しかし、梅爺も『老化防止に有効』などという宣伝に乗せられて、サプリメントを服用したりしていますから、昔の権力者を滑稽と笑えません。『一度だけ与えられた命は有効に過ごしたい』ので当然と反論したくなりますが、自分に都合のよい弁解であることには違いがありません。『物質世界』の摂理で観れば、『死』という事象は変容の一つに過ぎません。

現代科学では、『死』のメカニズムの解明が進んでいますので、『個』の生命活動を維持しながら、細胞を若返らせれば、『論理的に死は回避できる』可能性を示唆するまでに至っています。人工的に細胞を修復したり、若返らせて『死』を回避することは、人間社会の倫理で判断すべき問題で、近い将来人類の大きな問題になることでしょう。

個人にとって長寿は望ましいことでも、人間社会の継続的な維持の視点では、世代交代の方が重要かもしれません。『ヒト(生物種)』として長寿であっても『人(精神世界を保有する存在)』として長寿が、『幸せ』につながるのかどうかも分かりません。『人間』や『人間社会』は、単純な議論では律することが難しい厄介なものです。

『癒せぬものは我慢しなければならぬ』はごもっともな話ですが、『死』でさえも『癒せぬとあきらめるには早い』ということになりつつあることをみても分かるように、『何をあきらめるか』の判断が難しい時代になってきています。

梅爺は、『死があるからこそ生が輝く』という旧来の考えが好きですので、生きている証拠としてブログを書いています。『その割には、お前のブログは輝いていない』というご指摘は覚悟の上です。

| | コメント (0)

2014年6月14日 (土)

東大の先端工学研究の一端に触れる(4)

Dsc00663本郷キャンパス工学部14号館『精密工学科』に今でも保管されている梅爺達の卒業論文。Dsc00852駒場教養課程キャンパス内にあるファカルティハウスで昼食(フランス料理)の後、横井教授(中央)と懇談。

今回のキャンパス巡りで、工学部のいくつかの学科が共有している図書館(本郷キャンパス、工学部一号館内)と、駒場教養課程キャンパスにある『駒場図書館』を見学しました。 

学生たちが、大学備え付けのパソコンや、自分のノートパソコンを駆使して、勉強している様子は、50年前には考えられなかった光景です。世界中の論文、文献に即座にアクセスできるわけですし、教育内容、プロセスもパソコン用に準備されているわけですから、昔とは格段の違いです。 

しかし、蔵書の保管、管理方法は、昔と大きく変わっておらず、少々驚きました。全てデジタル化して、コンピュータ管理にすれば、利用効率も格段に良くなるはずですが、大学は経費不足で、思うようにはいかないのでしょう。 

研究インフラに投資するのも、長期戦略の一つですから、個別の大学ではなく、大学連携でこの問題は対処してもらいたいものです。

梅爺達の卒業時の『卒業論文』も、図書館ではなく『精密工学科』の書棚に、製本されて保管されていることを知りました。自分の『卒業論文』の詳細内容は、既に忘却のかなたですが、『捏造(ねつぞう)』や『改竄(かいざん)』を問われるような内容でないことを祈るばかりです。当時は、パソコンやワープロはありませんでしたので、『卒業論文』は全て、直筆の手書きです。

『捏造』『改竄』といえば、当然同級会の夜の宴会などで、『理研』の『STAP細胞事件』が話題になりました。仲間に、『理研』に永年勤務し、今でも関係のあるMaさんがいますので、当然Maさんに質問が集中しました。『STAP細胞』が存在するかどうかは、『現時点では何とも言えない』という正直なお答えでした。

功を急ぐばかりに、研究者として『脇があまく』、論文表現に関して、倫理観に乏しいと言われてもしかたがない小保方さんと、『大発見』に自分も関与したことをアピールしようとした『とりまき達(理研も少なからず後押ししたはず)』が、今になって『責任のなすりあい』をする様は、梅爺には見苦しく見えます。

『論文内容の不適切さ』と『STAP細胞の有無』は切り離して、『第三者の監視の下で、小保方さんがSTAP細胞の再現実験に成功するかどうか』を確認すれば、それで解決する問題です。

この事件は、『科学』の世界の話ですから、『物質世界』の摂理にかかわることで、『理』だけで『真偽』の判定ができます。

当事者能力のない梅爺のような第三者が、『精神世界』の『情』を絡めて、『小保方さんは可哀そう』『小保方さんはペテン師』『STAP細胞が存在してほしい』などと勝手に『想像する』ことは自由ですが、『真偽』の判定とは無縁のことです。あくまでも『情』を排した『理』のみによる『真偽』の判定であるべきで、『科学』の世界ではそれが可能です。

来年の同級会の幹事と、場所(神戸中心)を宴会の席で決めました。年齢を考えると年々開催は厳しくなることは想像できますが、『参加できることに感謝し、それを楽しみに生きていきたい』と梅爺は楽観的に考えるようにしています。大学卒業後50年も続いている友情は、梅爺にとって、人生の宝物のひとつです。

| | コメント (2)

2014年6月13日 (金)

東大の先端工学研究の一端に触れる(3)

Dsc00821_2広大な駒場リサーチ・キャンパス。非対称な時計台の建物がシンボル。Dsc00796見学前に横井教授の説明を拝聴。

東大の『駒場リサーチ・キャンパス公開』の日程に合わせて同級会が設定されましたので、6月6日は、『精密工学専攻』に属する研究ブースを4か所観て廻りました。

同時に公開されている研究ブースの数は140か所もあり、丁寧に観て廻ると2日間でも時間が足りないことになります。

『駒場』には、入学した学生が2年間教養課程を学ぶための『キャンパス』とは別に『リサーチ・キャンパス』があります。有名な戦闘機『ゼロ戦』などの基本開発研究も、昔ここで行われました。

今回梅爺達が見学した研究内容出展ブースは以下です。

『藤井研究室』(応用マイクロ流体システム)
生体親和性があるシリコンゴム素材に、微細な『流路』や『隔離室』を作り、生体外で血流の研究、DNAの研究、受精卵の培養などを行う研究です。この成果は他にもセンサーによる『深海探査』にも応用されるとのことでした。『精密工学』と『バイオ工学』の連携の典型例です。

『金研究室』(マイクロ要素構成学)
韓国籍の『金範埈』准教授の研究室です。半導体ナノ加工技術を応用し、基板上に様々な機能を持つ微細構造をつくりこむ研究です。『センサー』『エネルギー創出』『無線発信』機能を、独立して行える微小構造体を目指していると説明がありました。このような構造体が実現できれば、人体へ送り込んで昔『ミクロの決死圏』と言う映画で観たような世界が現実になります。私たちの周囲が『センサー』だらけになって監視される世界が、幸せかどうかは別にして、人類社会へ大きなインパクトがある研究です。『金准教授』は、外国の研究機関とも意欲的に交流していることが印象的でした。

『横井研究室』(プラスチック射出成形とパルプ射出成形の研究)
私たちの周囲には、『プラスチック射出成形』で作られた製品で満ち溢れていますが、まだまだ分からない問題が沢山あることを知りました。射出の瞬間を高速カメラでとらえ、現象を解析するなどの地道な研究です。日本の産業界からすると『横井教授』は、『頼りの綱』と言うことになります。『パルプ射出成形』は、紙の素材と同じパルプを用いて、成形する技術で、環境にやさしい製品が期待できます。

『新野研究室』(高次機能射出成形技術)
もともとこの技術は『3Dプリンター』の基礎技術で、『3Dプリンター』が世界的に脚光を浴びることになって、急に周囲の関心が高まったと『新野教授』は苦笑いしておられました。『短期間での試作モデル制作』『金型なしの少量生産』『メンテナンスのための予備部品保有の必要なし』などのメリットを活かせば、応用は沢山ある研究です。

梅爺の頃の『精密機械工学』は、『物作り』のための『精密加工』『精密測定』などが主体でしたが、50年経って時代が大きく変わっていることを実感しました。

| | コメント (0)

2014年6月12日 (木)

東大の先端工学研究の一端に触れる(2)

Dsc00611工学部2号館の内側は近代建築に様変わりし、広大なスペースにカフェもある。
Dsc00595
改築時に見つかった戦前の学科銘板、富国強兵の国策を反映している。

梅爺が学生の頃は、『精密機械工学科』は、安田講堂に近い工学部2号館にありました。現在の工学部2号館は、昔の建物の前面と一部を利用し、後方は近代的な建築様式に変っています。中には、『松本楼』が経営するレストランがあったり、アメリカのファスト・フード・カフェ『Subway』があったりして、往時の面影はほとんどありません。
 

現在の『精密工学科(学部)』は、新設された工学部14号館へ移っています。ご案内いただいた樋口教授は、『14号館は安普請で、直ぐに壁に穴があいたりします』と嘆いておられました。 

2003年に、『国立大学の独立行政法人化』がきまり、国立大学は、良い意味でも、悪い悪意味でも、変りつつあります。 

国からの交付金は、年々減らされる方針で、研究費の一部は自助努力で調達しなければならなくなりました。国立大学は『ホーム・カミング・デイ』などを実施して、卒業生からの寄付を調達したり、民間企業からの委託研究で研究費を補填(ほてん)しようと努力しています。私立大学との違いが無くなりつつあるようにも感じます。『世渡りのうまい教授』が『優秀な教授』と評価されるのであれば、少々問題です。 

国立大学といえども、世間離れした『象牙の塔』ではない、という考え方にも一理がありますが、度を超すと、壮大で創造的な発想ができない、せせこましい人材だけになってしまうのではと危惧します。日本の国家戦略を『科学技術立国』とするならば、大学を『俗な発想で律する』ことは慎重であるべきです。ある程度の『ムダ』を許容する寛容さが国民にないと、研究は『雑魚(ざこ)』ばかりになって世界に誇りうる『大魚』を逸しかねません。

『産学連携』も勿論重要ですが、『産』と『学』が、本来異質であることを双方が尊重することに意味があり、『学』を『産』の従属物にすることが目的ではありません。

新しい国立大学運営体制の中で、色々なご苦労があることを樋口教授(本郷キャンパス)、横井教授(駒場リサーチ・キャンパス)のお話から察することができました。ある程度の苦労は、どの世界にもあるのが当然ですが、『創造性豊かな人材を育成する』『最先端の研究を推進する』という大学の本来の目的が、押しつぶされるものであったとしたら、日本にとって大きな損失です。

『領土保全』『国の安全保障』『景気再建』など重要な国策ですが、将来的に最も重要な国策は『有能な人材の継続的な育成』であるはずです。

『教育』や『科学技術』の本質を理解できる政治リーダーが少なく、国民の間でもこのような議論が優先されないのは、残念なことです。

| | コメント (0)

2014年6月11日 (水)

東大の先端工学研究の一端に触れる(1)

Dsc00672a_3本郷キャンパス赤門前で同級会記念撮影。
Dsc00683_4
屋形船で隅田川クルージング。

梅爺の大学同級会が、6月5日から6日にかけて、東京で開催されました。昭和39年(1964年)『東京大学工学部精密機械工学科』卒業の同級会です。卒業時は24名でしたが、2名が鬼籍に入り、今回は2名が健康上の理由で欠席でしたので、計20名が参加しました。参加者は、皆赫灼(かくしゃく)たるものですので、年齢(73歳近辺)を考えると、脅威的な出席率と言えます。
 

例年この同級会は、場所を変えて観光、見学などを行う1泊2日の旅行形式で開催してきましたが、今回は『卒業50周年記念同級会』ということで、特別に東京で開催しました。東大の『本郷キャンパス』『駒場キャンパス』を訪問し、往時を偲ぶと同時に、当時の『精密機械工学科』が現在どのような形で継承されているのかを、現役の教授の方々からご紹介いただくことを目的としました。 

幹事(Nさん、Miさん、Maさん)の入念な企画と、東大の樋口教授、横井教授のご協力で、素晴らしい同級会になりました。 

夜は、屋形船にのって食事をしながらの隅田川クルーズ観光、浅草のホテルでの宴会(2次会)と、例年のように各自の近況報告などを聞きながら、歓談で盛り上がりました。好奇心、チャレンジ精神が衰えない仲間の話を聞いて、相互に啓発されるのは、例年と同じでした。 

梅爺が卒業したころの東大工学部の『学科名』は、現在昔のままで必ずしも継承されていません。時流に合わせて大学も変容するのは当然のことですが、現在の学科には『社会基盤学科』『システム創成学科』などと、一般の人が名前を聞いただけでは中身を想像できないようなものもあります。

『言語明瞭、意味不明』を容認する日本の精神文化が、何に由来するのか梅爺は気になっています。適切に表現する言葉が見つからなかった、というだけならよいのですが、一般には、『骨太(ほねぶと)の政策』などと、『中身の貧困を言葉でごまかす』場合の常套手段ですので、東大に限ってその様なことが無いことを願います。

50年前の『精密機械工学科』は、現在では、学部『精密工学科』、大学院『精密工学専攻』として継承されています。途中10年間ばかり、『システム創成学科』に編入され、『精密』の名前が消滅した時代がありましたが、現在では復活しています。

梅爺の頃の『精密機械工学科』から、『機械』の文字が消えたのは、現在『精密工学』が、『機械』の分野だけに留まらず、あらゆる分野の『基礎工学』の一つであるという認識に変ったからであろうと思います。

戦前は、『精密機械工学科』ではなく、『造兵学科』と呼ばれ、『兵器開発』のための研究が主流でした。『学科名』は時代を反映しています。

現在の『精密工学科』『精密工学専攻』の研究テーマを拝見すると、『バイオ・エンジニアリング』『半導体エンジニアリング』『ロボット・エンジニアリング』などと密接に関連したものが多く、『精密工学』が学際的な要に位置付けられていることがよく分かります。

現在の教授陣の中に『女性』『外国籍の方』が含まれていて、学生の中に留学生が見受けられるのも梅爺の頃とは大きく異なります。50年経過して、日本の大学が社会的、国際的に開かれた場所になりつつあることは、大変好ましいことです。

| | コメント (0)

2014年6月10日 (火)

使徒パウロの功績(4)

『パウロ』はその才能(外国語、神学的論理思考)故に、初期の『キリスト教』では、ユダヤ以外の外国に住むユダヤ人を対象に、布教する役目を担っていたのでしょう。

外国に住むユダヤ人たちは、『キリスト教』を受け容れても、『ユダヤ教』の戒律も伝統的に遵守する姿勢は崩さなかったと思われます。『シナゴーグ(ユダヤ教教会)』の集会にも参加する人が多かったのではないでしょうか。

しかし、『キリスト教』に、ユダヤ人以外の民族が信徒として加わるようになると、『キリスト教』布教のために『ユダヤ教の戒律遵守』が障害になり始めます。理論的に物事を考える『パウロ』は、『ユダヤ教の戒律』は、『イエスの教え』の本質に比べれば優先度が低いものと判断し、これを排除しようとしました。

エルサレムを本拠とする『ペテロ』達とも、『ユダヤ教戒律の緩和』『神はユダヤ民族だけのものという考え方の是正』を申し入れて、『キリスト教』としての基盤統一のための調整をはかりますが、必ずしもうまくいかず、『パウロ』は孤立することになります。

『パウロ』のように『ユダヤ教』の一部を否定する態度は、『ユダヤ教』にとっても見過ごすことができず、外国の『キリスト教徒』は、『シナゴーグ』集会からは追い出されることになり、必然的に『パウロの考え方を重視したキリスト教徒だけの教会』が、各地(外国)に出来始めます。

『パウロ』は、これらの教会が抱える問題に対して、文書(手紙)で自分の考え方を伝えています。『キリスト教』の歴史の中で、初めて『文書』で教義の統一をはかる方法が出現したことになります。

『新約聖書』の中には、複数の『パウロの手紙』が採用されています。本当に『パウロ』が書いたと断定できるものは限定されます(それ以外は、後の人がパウロに擬して書いたもの、それだけパウロの権威が浸透していた証拠)が、『新約聖書』の中で、唯一著者が実在の人物と特定できる文書が『パウロの手紙』です。

『ユダヤ戦争』『皇帝ネロのキリスト教弾圧』で、『パウロ』も殉教死したと考えられますが、その後、2世紀初めごろから『キリスト教』が布教を拡大して言った拠点は、すべて『パウロ』が外国に築いていった『パウロ的な教会』です。

『パウロ』は『キリストの死の意味』を深く考えた思想家のように思えます。論理思考で『原罪』『贖罪』という概念を主張し、『愛』を最も重要なものとしました。『キリストの死』を、『周囲の人に対する愛の究極的な姿』ととらえたのではないでしょうか。

『キリストの死』は、『政治思想犯の処刑』に過ぎないと、皮相にとらえるのではなく、『精神世界』での理解にまで深めたことになります。『精神世界』でのみ、このような『抽象的、創造的な考え方』の存在が許されます。

『愛』は、日本流に言えば、『神との絆』『人との絆』『自然との絆』となりますので、全てはつながっていると洞察した『釈迦』の『縁起』にも通ずる概念のように思えます。

『パウロ』は、宗教家であると同時に、偉大な哲学者であるように、梅爺は感じます。それ故に『復活したキリストに出会って回心した』などという逸話は、『パウロ』には似あわないと感じています。そのような逸話を持ち出さなくても『パウロ』は十分偉大です。

『ローマ帝国』の政治支配の構図にならって『宗教支配』体制を各地へ広めていくという考え方を『パウロ』が既に保有していたかどうかはわかりません。ただ外国で育った『パウロ』は、発想がユダヤだけに制約されなかったであろうことは想像できます。

| | コメント (0)

2014年6月 9日 (月)

使徒パウロの功績(3)

『パウロ』が、『ユダヤ教』から『キリスト教』へ転向するきっかけになった出来事が新約聖書に記されています。これは『パウロの回心』と呼ばれる出来事で、ダマスコへ向かっていた『パウロ』に、復活した『イエス』が現れ、『何故私を迫害するのか』と呼びかけ、『パウロ』は目が見えなくなりますが、傍にいたキリスト教徒の祈りで目が見えるようになり、これ以降『キリスト教徒』になったというのが話の経緯です。

『パウロ』が、何らかの霊的啓示を受ける体験をしたのだと言われてしまえば、反論のしようがありませんが、この『パウロの回心』の内容は、あまりにも子供騙しの話のように梅爺は感じます。『パウロ』は理性で鋭い洞察をし、論理を操る印象が強い人物ですので、この『パウロの回心』という、『超自然現象』との組み合わせが、どうもピンときません。

これは、あくまでも梅爺の推測ですが、『パウロの回心』は、後の人が『パウロ』の『権威(イエスとの結びつきの強さ)』を確固たるものとするために加えた逸話ではないでしょうか。また、更にうがった見方をすれば、『キリスト教』の布教をする上で、『12使徒』に対抗できる『権威』を、『パウロ』自らが演出して作り上げたのかもしれません。『パウロ』は、生前の『イエス』から直接教えを受けていないという『負い目』がある一方、論理的な議論や認識では『12使徒』に負けないという自負があったと考えれば、このような策を弄したくなる気持ちも分からないではありません。

いずれにしても、『理性で思索し、判断する』能力が高い『パウロ』は、冷静に『ユダヤ教』と『キリスト教』を比較して、自分の考えに基づいて『キリスト教』を選択したものと梅爺は想像します。

信仰心の薄い梅爺は、『宗教』が『奇跡』『超自然現象』『霊界』などの話を持ち出した時には、一応疑ってみることにしています。多くの場合『神仏の偉大さ、権威、慈悲』を示すための『ホンネ』が裏に隠されているように思えます。

現代人の多くが、宗教離れしていく理由の一つが、この理性で受け容れるには抵抗がある内容を持ち出して、『とにかく信じなさい』という姿勢にあるのではないでしょうか。

梅爺のような人間は、臆病なので、何事も『理』で検証して判断しようと試みます。時にこの姿勢は『理でしかものを考えない心寂しい人』と評されるますが、『理が強い人は情が薄い』という主張も『理』で考えれば根拠のない話に思えます。梅爺から観れば、逆に『理で検証せずに信ずることができる人』は、『何とも大胆な人』と羨ましくなります。人の心は『信じて得心をする』と同時に『得心をして信ずる』という両面を持っていて、その間で揺れ動くようにできています。

更に『精神世界』の『個性』は、人それぞれですから、自分と異なった考え方の人を『おかしい』と言ってみても始まりません。梅爺の性格では、今のところ『梅爺の回心』というような事件が、身の周りで起きそうにありません。

| | コメント (0)

2014年6月 8日 (日)

使徒パウロの功績(2)

『パウロ』はギリシャ語発音の呼び名で、ユダヤ人としての名前は『サウロ』でした。ローマ帝国の属州であったキリキア(現在のトルコに位置する)で産まれたユダヤ人です。ローマ帝国では、文化的にはギリシャ語が使われていましたから、『パウロ』は、アラム語とギリシャ語の両方が使えました。現在で云えばバイリンガルです。このギリシャ語の能力が、後の『パウロ』の功績に深くかかわってきます。彼の直筆の著作は全てギリシャ語で書かれています。

『ユダヤ教』の『ファリサイ派』に属し、エルサレムに赴いて有名なラビから『ユダヤ教』を学んでいます。この頃は熱心な『ユダヤ教徒』で、むしろ『キリスト教徒(当時はイエスの教えを信奉するユダヤ教の新宗派)』に批判的で、弾圧する側に加担していたと言われています。

ところが、この『パウロ』が、一転して『キリスト教徒』に転向し、初期の『キリスト教』の布教と、教義基盤の確立に多大な功績を残す人物に変りました。

『イエス』の弟子であった『ペテロ』などは、ガリラヤの漁師であったと言われているのに対し、『パウロ』は、バイリンガルで、『ユダヤ教』も学問的に修めた人ですから、『教養人』の印象を梅爺は強く受けます。

『ユダヤ教』から『キリスト教』への転向が、『教養人の精神世界』でどのように起こったのかを知りたくなります。『教養人』が自らの『理性』を駆使して考え獲得した『信念、信条』は強固なものであり、それを覆すには、大きな障壁を乗り越える必要があります。勿論、それと同時に自らの『信条』に疑念を持ち、それ以上の『理』に出会った時には、それまでの自分を否定する柔軟な精神の持ち主でなければ、このような『転向』は起きません。

このように考えると、『パウロ』は『自分でものごとの本質を深く思索し、自分で判断する人』であるように思えます。これは真の『教養人』の資質であり、後の『パウロ』の活動をそういう目で観ると、納得できます。

『パウロ』が、外国の『キリスト教徒の教会』へ、送った『手紙』が、『新約聖書』に採用されていますが、いずれもその教会が抱える問題に、『自分の考え』を書き送ったものです。

『無条件に信ずる』ことが求められる『宗教』の世界で、このように柔軟に自分で思索して判断するタイプの人物は『危険人物』でもあります。いつ何時再び自己否定をするか分からない危険性を秘めているからです。

言い換えれば『パウロ』は、味方につければこれほど心強いことはありませんが、敵に回すと厄介な相手になります。

『パウロ』が『理性』で理解した『キリストの教え、キリストの死の意味』が、彼の中でいかに強固なものであったかは、生涯この『理解』を再び変えることがかったことから推察できます。

| | コメント (0)

2014年6月 7日 (土)

使徒パウロの功績(1)

『イエス』と『パウロ』が『キリスト教』の中枢を担う人物です。 

『イエス』が『ユダヤ教の枠内で活動した宗教改革者』であったのに対し、『パウロ』は『ユダヤ教から独立したキリスト教思想の基盤を確立した人物』であったと梅爺は考えています。 

『新約聖書』の『使徒行伝』は、『パウロ』の活動を伝えていますが、『使徒行伝』は、1世紀の終わりごろに書かれたと推定されている『ルカによる福音書』と同一著者が記したと考えられています。『使徒パウロ』と呼ばれていますが、本来『使徒』は生前の『イエス』と行動をともにした弟子たち『12使徒』に与えられていた呼称ですから、その頃既に『パウロ』が特別の人物として、扱われていることをうかがい知ることができます。『使徒行伝』が書かれたのは、『パウロ』の死後20~30年後のことと想定されます。『パウロ』は『イエス』と同時代の人物ですが、『イエス』の死後に活動に参加した人で、生前の『イエス』とは面識がありません。 

『パウロ』は『キリスト教』の布教が軌道に乗ったことを確認して死んだのではなく、初期の『キリスト教』の混乱期に、対応の苦労を重ね、『ユダヤ教』からは『異端者』として糾弾され、捕えられてローマへ送られたと伝えられています。皇帝『ネロ』が『キリスト教弾圧』を指示した時期と一致しますので、ローマで殉教死したとも考えられます。 

『パウロ』の死後、20~30年後に、『パウロの考え方が改めて脚光をあびるようになった』のは何故か、が梅爺の興味をひきます。

生前一枚の絵も売れなかった『ゴッホ』が、死後高い評価をえたのに似ています。『パウロ』がいなければ今日の『キリスト教』は無かったと何度も書いてきましたが、あらためて『パウロ』の功績を考えてみたいと思いつきました。

| | コメント (0)

2014年6月 6日 (金)

『精神疾患』とは何だろう?(8)

『精神疾患』の症状については、誰もがある程度知っていますが、『脳』で何が起きているのかは、現代科学でさえも解明できているとは言えません。しかし、『脳』に関する知識は、断片的とはいえ着実に増え続けているわけですから、いつの日か、『脳』に関する理解で大きなブレークスルーがあることは間違いないでしょう。 

『人間』は、生物進化の過程で、ある程度の環境変化に見舞われても、対応、順応できる体質、能力を獲得してきました。これは他の生物も同様ですが、『人間』で特筆すべきことは、『脳』が高度な『精神世界』を構築できるレベルにまで進化したことです。 

感覚器官で取得した外部情報を駆使し、推論能力で将来に起こるであろうことも『予測』して行動します。『人間だけが、明日のために今日を生きる』と言われる所以(ゆえん)です。 

『自分にとって都合の悪い状況』は、やがて生存を脅かす要因になりかねませんから、『不安』『恐怖』といったネガティブ・ストレスとして『脳』は感知します。情感として私たちが感ずる『悩ましい』『悲しい』『寂しい』『怖ろしい』などは、『脳』の中のネガティブ・ストレスが創り出します。これらの情感は、ふいに襲ってきますので、自分の意思ではコントロールできません。『物質世界』の事象として表現をすれば、ストレスを感じて、脳内に特定のホルモン(化学物質)が信号伝達媒体として分泌されるということです。

身体に『免疫』などの自己治癒機能が備わっているように、『脳』も、不必要なネガティブ・ストレスを解消しようとする機能を備えています。更に『都合が良い状況』は歓迎すべきポジティブ・ストレスとして感知し、これも対応するホルモンが脳内に分泌されます。情感の『愉快』『楽しい』などは、このことで生じます。

ネガティブ・ストレスを解消しようとしたり、ポジティブ・ストレスでバランスをとったりして、『人間』は異常状況が継続しないように無意識に自己防御をして『生きて』いることになります。

自己防御機能では、補えない強いネガティブ・ストレスを受けたり、自己防御機能を妨げる体質(遺伝子で継承)を保有している場合、バランスが保てなくなり『精神疾患』が表面化します。

このように考えるとほとんどの『精神疾患』は、『自分では責任を負いかねる原因』で発症し、その上誰にでも起こりうるものですから、『恥ずかしい』病気とは言えません。いわんや、『精神を強くして、頑張れ』などいう助言は何の役にも立ちません。

『脳』の事象を、『物質世界』の事象として説明できて、初めて『精神疾患』の抜本的な対応策が見つかることになるだろうと、しかし、まだ時間がかかりそうだと梅爺は再確認しました。

| | コメント (0)

2014年6月 5日 (木)

『精神疾患』とは何だろう?(7)

『統合失調症』が、『自我認識』機能と関連しているということになると、『脳』のどの部分が『自我認識』を担当しているのだろうと知りたくなります。 

ところが、現状では、『脳』の特定の部位と『自我認識』の関係は見つかっていません。人間の『精神世界』にとって、最も重要な機能である『自我認識』が、『脳』のどの部位で行われているかが分からないということですから、途方に暮れます。このことから、脳神経細胞の『遺伝子』そのものか、脳神経細胞ネットワークの広範な部分が、総合的に『自我認識』に関与しているのではと推察できます。 

『統合失調症』は、思春期以降に発症する病気です。これを手掛かりに研究が進められていますが、まだ確たる成果が得られていません。 

『一卵性双生児』の一人が『統合失調症』になると、もう一人も50%の確率で発症するという報告があり、このことと、『思春期以降の発症』を考え合わせると、原因の一つとして『遺伝子』があると言えそうです。『思春期』そのものは、ある条件が整った時に、タイミングを見定めて発現します。まるで、『遺伝子』で、タイムテーブルを規定しているような不思議な話です。 

一方、『統合失調症』については、対症療法で効果的と認められる薬から推察できることもあります。『脳』の情報伝達媒体である化学物質『ドーパミン』と『グルタミン酸』の正常な伝達が疎外される(『ドーパミン』を抑制する機能が働かないなど)と『統合失調症』になると考えられています。 

『うつ病』の『セロトニン』、『統合失調症』の『ドーパミン』と、『脳神経細胞ネットワーク』の情報伝達に欠かせない化学物質の増減が、適切に脳内で処理されないと、『病気』になるというしくみは、類似しています。 

『適切に処理されない』原因に『遺伝子情報』が関与しているらしいことは分かっていますが、原因はそれ以外にもあるのかどうかは分かっていません。『過度のストレス』などが引き金になるようにも見えますが、誰もが発病するわけでもありません。

『脳神経細胞ネットワーク』の発達プロセスに問題があるのか、一見正常に発達したネットワークでも、他の要因で『統合失調症』は発症するのかは、まだ分かっていないらしいと梅爺は理解しました。

『うつ病』『統合失調症』と並んで、よく名前が挙がる『精神疾患』に『躁うつ病(双極性障害)』があります。

梅爺も、『気分が前向きな時』と『気分が後ろ向きな時』があることは、自覚できますから、軽い『躁うつ状態』は誰にでもあることではないでしょうか。しかし、『躁うつ病』と診断される人の行動は極端で、『躁』の時は派手に遊びまわる、会社で上司とけんかをするなどと周囲が困惑し、『うつ』の時は『うつ病』と同じような症状になりますから、こちらも周囲が対応に困窮します。『躁』のときにたしなめると、逆に『お前は怪しからん』と逆襲してきて、それが『妄想』のような根拠のない話ではなく、結構真実に近い内容であったりしますから、人間関係が一層ややこしいことになります。

『躁うつ病』も、『セロトニン』『ドーパミン』などの、脳内情報伝達に必要な物質の量が、適切に制御されないことで起こる『病気』と考えられていますが、詳細の原因は究明されていません。

| | コメント (0)

2014年6月 4日 (水)

『精神疾患』とは何だろう?(6)

『精神疾患』で、梅爺が理解できていない病状の一つが『統合失調症』です。日本の全入院患者の約13%程度が、実は『統合失調症』が関与しているというデータもあり、一層分からなくなります。100人に1人は、一生に一度この病気にかかるとも言われていますので、そろそろ自分の番かと、これまた心配になります。 

『うつ病』同様に、経験的な対症療法が進んで、病状の悪化はくいとめることがかなり可能になっていますが、真の原因が詳細に特定されてはいないようです。 

『統合失調症』の症状には、『陽性症状』と『陰性症状』があります。『陽性症状』は『幻聴』『妄想』『奇異な行動』『思考形式の障害』があり、『陰性症状』は『自閉、無為』『感情の平板化、情動鈍麻』『思考の貧困』『意欲、発動性欠如』『快感消失、非社交性』『注意の障害』があります。 

『陽性症状』はともかくとして、『陰性症状』には、梅爺にも時に『考えがまとまらない』『やる気が起きない』『人と付き合うのが億劫』『不注意でヘマをやる』などと感ずることがありますので、『予備軍』かもしれないと不安になります。

『精神疾患』と類似の軽い症状は、誰にでもあることが多く、極端に発症した場合に『病気』と診断されるのではないでしょうか。つまり、正常と異常の境界は鮮明ではありませんから、誰も『私は無関係だ』とは言えません。『脳』の非常に複雑なしくみの全てが、常に正常に作動するとは限りませんから、これは当然のことかもしれません。

『私は立派な人間です』と思い込んでいる人が社会では問題であるように、『私の脳は正常だ』と信じて疑わない人は要注意人物ではないでしょうか。

『統合失調症』は、『自分を他人と区別して認識する能力』が劣化、欠落することで生ずると考えられています。『自我認識の障害』とも言えます。この結果『自分の考えが声として聞こえる』『常に自分を非難する声が聞こえる』『他人から操られているように行動する』『自分の考えが周囲へ漏れていると妄想する』『外部で起きていることが全て自分に関係していると妄想する(電波の影響を身体に受けているといった妄想)』というような症状になって現れます。

幻覚、幻聴の全てや、『被害妄想』『誇大妄想』の全てが『統合失調症』によるものではなく、『自分と他人を区別して認識』できなくったために起こる幻聴などが、『統合失調症』の特徴ということになります。

『脳』の情報処理は、『階層的』に行われていますから、ある『層』の処理がうまく機能しなくなると、他の層が機能していても、全体としては、おかしな結果になるということなのではないでしょうか。部品が壊れて、全体が止まってしまう機械とは異なり、『脳』は、一部に問題があっても、なんとか全体としては働き続けようとします。この補間機能は、見事なものですが、これが裏目に出た時に『精神疾患』となって現れるのではないでしょうか。

『脳』のしくみが分かってくれば、『精神疾患』のこともより詳細に分かってくると思いますが、現状では、分からないことが多く、従って『精神疾患』も分かり難い病気であると言えそうです。

| | コメント (0)

2014年6月 3日 (火)

『精神疾患』とは何だろう?(5)

『うつ病』の真のカラクリは、解明されているとは言えませんが、有効な対症療法から、いくつかの『仮説』は有力視されています。

ひとつの『仮説』は、『ストレス』により、最終的に脳内に分泌された『コルチゾール』が、『陰鬱』というネガティブな情感を『精神世界』に引き起こすという説です。これは人間なら誰にでも起こることです。

通常は、『コルチゾール』が増えると、これを減らそうとするネガティブ・フードバックが脳内で起き、時間とともに徐々に『コルチゾール』は減り、『陰鬱』感は薄らぎます。しかし、ネガティブ・フードバックがかかり難い体質の人は、『陰鬱』感が長期に継続し、このため脳神経細胞の一部が委縮し、機能を失います。

このような状態の『うつ病』患者に、『抗うつ剤』を投与すると、萎縮してしまった脳神経細胞に代る新しい細胞が作りだされ、『陰鬱』感からやがて解放されます。『うつ病』から立ち直るまでに、数ケ月を要するのはこのためです。

この『仮説』から、更にいくつかの疑問が生じます。

一つは、『コルチゾール』を減らすネガティブ・フィードバックがかかり難い体質は、何に由来するのかという疑問です。これも『仮説』ですが、最初に考えられるのは『遺伝子』で、これは生まれつきの体質と言うことになり、大いに可能性があります。次に、『幼児期』に強いストレス(虐待などのつらい体験)を受けた経験者の脳細胞は、その『記憶』をとどめていて、これがネガティブ・フィードバックを阻害しているという説です。脳細胞が幼児期の体験を『記憶』するカラクリは、遺伝子配列の一部がメチル化されるという事象であろうと推察されています。この説が正しいとすれば、幼児期の周囲の愛情がどれほど重要かが分かります。世界に先駆けて、先進の『幼児情育システム』を日本は導入すべき、という梅爺の考えは一層強まります。

もう一つの疑問は、従来大人の『脳神経細胞』は、新しく再生することはないと言われていましたが、『抗うつ剤』の投与で、新しい細胞ができるということが本当なら朗報です。『海馬』の委縮が原因とされる『アルツハイマー病』などにも、将来画期的な療法が開発されるかもしれないと、素人の梅爺は期待してしまいます。

一般に、普段『几帳面で、真面目な人』が『うつ病』にかかり易いと言われていますが、因果関係が見つかっているわけではありません。『きちんとしておかないと気が済まない』という性質は、一種の不安『ストレス』を感じ易い体質とも言えますので、これが『うつ病』と相関があるという話は、もっともらしく聞こえます。チャランポランで周囲から顰蹙(ひんしゅく)をかいやすい梅爺ですが、ある種の『ストレス』に鈍感であるということで、こと『うつ病』に関しては、幸運な体質であることになります。

| | コメント (0)

2014年6月 2日 (月)

『精神疾患』とは何だろう?(4)

『うつ病』は、『ストレス』が原因であるということは、臨床事例で分かっていますが、同じような『ストレス』要因を体験しても、誰もが『うつ病』になるわけではありません。『精神疾患』の多くは、『肉体疾患』のように因果関係を普遍的に特定することができません。『インフルエンザ・ウィルス』『ノロ・ウィルス』が犯人という単純な診断にはなりません。これは、何回もブログ書いてきたように、人間の『脳神経細胞』の特性は遺伝子などにより個性があり、『脳神経細胞ネットワーク』のパターンも厳密には一人一人異なっているからです。梅爺流に表現すれば、『精神世界は個性的で、しかも流動的に変容し続けている』という厄介なしろものなのです。

『違い』だけを強調すると、誤解を招きますが、マクロには多くの人が、『同じように考え、感ずる』ことももちろんあります。『美味しい』『美しい』などは、そのような共通認識で成立している『抽象概念』です。このような共通認識をベースに人間社会は保たれているとも言えます。しかし、くどいようですが、同じものを食べても『美味しい』と感じない人、同じものを見ても『美しい』と感じない人が、『存在する可能性』を私たちは常に意識している必要があります。100人中99人が『美味しい』と言ったから、『美味しいと感ずるのが正しい』として、『美味しくない』と答えた一人を、『異常、異端』と排除するのは危険な行為です。

しかし、残念なことに人間社会には、このような視点で他人を白眼視する風習が後を絶たず、『異常』と言われた人も、自分の責任であると考えて滅入ってしまうことがあります。

『精神疾患』は、この例に似ています。同じようなストレスを体験してもほとんどの人が『うつ病』にならないのに、少数の人が『うつ病』になるからといって、『異常』と決めつけることは危険ですし、『気持ちが弱いからそんなことになる』などと非難するのはもってのほかです。

解明されていない『脳』が原因で発症する『病気』は、対応に決め手を欠くことがあるのは事実ですが、それだけに、『自分とは無関係な病気』であるとはいえません。

『ストレス』にさらされると、『脳』の『視床下部』と、脊髄中心に臓器へ張り巡らされた『交感神経ネットワーク』が連携し、全身に信号が送られ、心拍、呼吸数が増し、瞳孔が拡大したりします。このような、肉体的な反応に加え、『脳神経細胞ネットワーク』にも、変化が生じます。『視床下部』『下垂体』『副腎皮質』の順で、次々に特定のホルモンが分泌され、これらが『脳』に『警戒警報』として通報されます。私たちの『脳』の中で、このような物理反応、化学反応が起きていることを私たちは普段は意識せずに(知らずに)生きています。

元々は、生物が危険を察知して、『闘う』『逃げる』などの行動を起こすための警戒システムですが、『精神世界』では、これが『不安』『恐怖』『寂寥』『悲しみ』などを引き起こします。このストレスの量が、その人の『閾値(いきち)』を越えると、『うつ病』などが発症することになります。『閾値』が人によって異なるのは、前に書いたとおりです。

| | コメント (0)

2014年6月 1日 (日)

『精神疾患』とは何だろう?(3)

全体として非常に複雑な動作をする『脳』も、煎じつめれば『脳神経細胞ネットワーク』を流れる『情報(信号)』に支配されていると考えられます。この情報伝達に関っている化学物質には『セロトニン』『ドーパミン』などがあることが分かっています。これらの物質は『脳幹部』の神経細胞で生成され、脳全体の神経細胞突起へ分配されます。そして生成は、遺伝子情報のプログラムに従い、その時の環境条件とも関連して行われますので、生成量には微妙な『個人差』があり、同じ人でもいつも一定とは限らないことになります。

これらの物質が、脳全体の調節機能を果たし、その結果が私たちの『思考能力』『性格』などとなって表面化していることになります。梅爺が大雑把に抽象概念として区分けしている脳の『理』とか『情』とかいう機能も、元はと言えば、これらの化学物質がなければ存在しません。

『化学物質』も『遺伝子情報』も、全て『物質世界』の『摂理』で支配されていますから、深遠にみえる人間の『精神世界』も、『物質世界』の支配下にあり、『摂理』が機能しなくなった時に、『精神世界』も機能しなくなります。そして肉体の死とともに『精神世界』は消滅すると考えるのが妥当と梅爺は考えています。『霊だけは永遠に存続する』という主張は願望に過ぎず、根拠が見当たりません。

『セロトニン』は、神経細胞突起から放出され、ネットワークで連結する他の神経細胞との情報交換のために使われますが、余った分は、『セロトニン・トランスポータ』と呼ばれるタンパク質で、再び神経細胞へ取り込まれます。

勿論、『セロトニン・トランスポータ』の生成にも遺伝子プログラムが関与しますから、人によって生成量が異なります。『セロトニン・トランスポータ』の量が比較的多い人をL型、少ない人をS型と分類し、『西欧人はL型が多く、日本人はS型が多い』『L型の人はストレスに強くうつ病になり難い』などという『仮説』が提示されましたが、現時点では、『定説』として確立はしていません。

複数の『化学物質』が脳の情報伝達に関与していて、その『化学物質』は、その人の『遺伝子』と環境条件の関係の中で生成されていることは確かと言えそうですが、個々の『化学物質』がどのような役割を持っているかの詳細は、現時点では分からないということになります。

『気持ちを強く持ち、頑張れば精神力は養える』という主張は、ある程度『脳』が正常に機能している人には有効な助言かもしれませんが、『精神疾患』の人には役に立たちません。『精神疾患』は、その人が責任を負えない要因で誰にでも起こりうる病気ですから、恥ずべき病気でもありません。

| | コメント (0)

« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »