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2014年5月31日 (土)

『精神疾患』とは何だろう?(2)

『精神疾患』と聞けば、『精神の病で、脳が正常に機能しない病気のことか』と、何となく分かった気持ちになりますが、更に『脳が正常に機能している』とは何かを考えてみると、抽象概念のネーミングとしては理解できても、具体的に『ここからが異常』と言えないことに気付きます。つまり、したたかな政治家先生の発言のように、『言語明瞭、意味不明』ということになります。

この本には、世界的に使われている診断基準に準ずる、15の『病名』が掲載されています。わざと素人に分からないように、呼び名が定められているのかと、疑いたくなるような『器質性、症状性精神障害』『物質関連障害』といった名前が挙げれていますが、前者は『アルツハイマー病』のような認知障害、後者は『アルコールや麻薬』のようなものの中毒障害であるらしいので、それならば、なんとか理解できます。

問題は逆にネーミングがあまりにもありきたりで、これが『病気』なのかと当惑するものも沢山あります。『気分障害』『不安障害』『睡眠障害』『適応障害』『人格障害』などがそれです。

梅爺は、気分がすぐれず、不安に苛まれ、なかなか寝付かれず、その場になじむことができず、やたらと些細なことにこだわって理屈をこねたりすることがありますから、立派な『精神疾患』の持ち主と言えないことはありません。

『極端な症状が現れ、それが永続きする場合を病気と呼ぶのですよ』と慰めていただいても、『あぁ、そうですか安心しました』とは云いかねます。つまり、誰もが風邪をひいたりするように、誰もが『精神疾患』を患う可能性があるということでないでしょうか。軽い症状と極端に重い症状の客観的な区別は、難しいことは、梅爺のような素人でもわかります。

風邪をひいた時に、体内で起きている、正常ではない物理反応、化学反応がおさまるのを、薬や安静を利用して待つしかないように、『精神疾患』も脳で起きている、正常ではない物理反応、化学反応を何らかの方法で排除しなければなりませんから、『くよくよしないで、気分転換しろ』『気持ちをしっかりもって頑張れ』などという精神論での助言は、役に立たないことが分かります。

『うつ病』を、『軟弱な精神の持ち主の証拠』などと決めつけて、周囲が『気合いだ!気合いだ!気合だ!』と叫んでみても、埒(らち)はあきません。誰もが患う可能性のある当たり前な病気なのに、患者自身が『こんな病気にかかって恥ずかしい。家族にも迷惑がかかる』などとふさぎこむと、病状は更に悪化します。

この本には、日本で『うつ病』の患者が病院を訪ねる比率は20%程度で、残りの80%は、自分だけで抱え込んで悩んでいると書いてありました。『うつ病』は、適切に処置すれば必ず治るとも書いてありましたので、先ず、本人や社会の偏見をただす地道な努力から開始すべきであることが分かります。

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2014年5月30日 (金)

『精神疾患』とは何だろう?(1)

『脳研究の最前線(上下巻:講談社ブルーバックス)』の第9章は『精神疾患から脳を探る』というタイトルで、著者は理化学研究所の加藤忠史氏です。

文字通り『精神疾患』の患者の症状から、『脳』の基本機能を推察しようという話で、これが『脳』を解き明かす一つの手法であることは、梅爺も理解できます。

日本人の死亡原因比率は、ガンや心臓病が高いことは分かっていますが、患者が長期に社会生活から離脱を余儀なくされ、しかも介護を必要とする病気が、『精神疾患』に多いことを考えると、社会損失という点では、『精神疾患』が最も深刻な問題を抱えています。『脳梗塞』による脳障害、アルツハイマー病(認知症)など例を挙げるまでもありません。

残念ながら、医学で、最も遅れをとっているのが、『脳』に関る病気の分野です。医者や研究者がサボっているわけではなく、『生きている人間の脳』のしくみを詳細に知ることは、宇宙の謎を解明する以上に、困難を伴うからです。

理論的には、脳を構成する個々の脳神経細胞の機能、その細胞を構成している分子の物理、化学反応の詳細が解き明かされれば、脳の全貌が見えてくることになりますが、140億個と言われる脳神経細胞について、これを実現することは至難の業であることが分かります。

更に、脳神経細胞がつくり上げているネットワークのパターンは、個性的で、人間なら誰でも同じとは言えず、しかも環境条件に応じて、刻々変容しているわけですから、『脳の解明』は、人類の最大の難問であると言えます。

『脳』を外側から物理的に観察する手段も、昨今は格段に進歩していますが、それでもミクロに脳神経細胞の一つ一つを観察できるわけではありません。

『脳』を知るためなら、何でも利用しようということで、科学者はあの手この手で迫ろうとしています。『精神疾患から脳を探る』のも、一つの方法であると申し上げたのはその意味です。新しい発見はいくつもあろうと思いますが、この方法だけで『脳』が解明されることにはなりません。

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2014年5月29日 (木)

『稲盛和夫』100年インタビュー(6)

稲盛氏は、京セラの経営者であった時に、『経営指針』をリストアップし、『京セラフィロソフイー』という小冊子にして、全社員に配布し徹底をはかりました。 

『日本航空』の再建時には、『日本航空』の経営幹部が同様の『日本航空フィロソフィー』という小冊子を作成し、全社員に配布しました。 

梅爺は、失礼ながら文化大革命の時に紅衛兵が、手に手に『毛語録』の小冊子を掲げて、『正義』の名の元に伝統文化を破壊し、教養人を弾圧した光景を思い浮かべてしまいました。

勿論『稲盛フィロソフィー』と『毛語録』を同列に扱うのは適切ではありませんが、グループの結束のためにスローガンや信条を利用することには、一種の危うさが伴うことも知っておく必要があります。第二次世界大戦の折に、日本中が『欲しがりません勝つまでは』『撃ちてし止まん』『鬼畜米英』と叫びながら、悲惨な敗戦へ向かったことも忘れてはなりません。

稲盛氏の『フィロソフィー』や『経営12ヶ条』などをみると、あっけにとられる位、単純な『精神論的表現』が並んでいます。

『強烈な願望を心に抱く』『誰にも負けない努力をする』『燃える闘魂』『勇気を持ってことにあたる』『思いやりの心で誠実に』など、高校野球や高校サッカーの監督が、生徒に『檄をとばしている』レベルと変りません。

『事業の目的・意義を明確にする』『具体的な計画を立てる』『経営は強い意志で決まる』『常に明るく前向きに、夢と希望を抱いて素直に経営する』なども、特段目新しい表現ではありません。

稲盛氏はまた『企業経営には、権謀術数が不可欠だと感じている人が多いかもしれないが、そういうものはいっさい必要ない。今日一日を一生懸命に生きさえすれば、未来は開けてくる。また、正々堂々と人間として正しいやり方を貫けば運命は開けてくると考えている』と述べておられます。

これらを総合すると、『世の中は、難しい策を弄してもうまくはいかない。単純で当たり前のことを当たり前に貫けば、道は必ず拓ける』という主張に見えてきます。

上杉鷹山の『成せばなる、成さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり』と相通ずる主張で、そう言う考え方でことにあたる姿勢としては意味がありますが、『なにごとも人生はこれで解決できる』と本当に信じてしまうと痛い目に会います。

梅爺のこれまでの人生を振り返ると、確かに小賢しい策を弄した割には、失敗の連続であったような気がしますから、稲盛氏の主張は『ごもっとも』と言わざるをえませんが、オリンピックのメダリストが、『頑張って努力を繰り返せば勝利者になれる』と主張しているような気もしますので、必ずしも釈然としません。『そのような屁理屈を言っている人間は、そもそもダメで役に立たない』と、稲盛氏のお叱りが聴こえてくるような気もします。

『どうせなら明るく素直に振舞って、後は運を天に任せなさい』という話なら、異論なく受け容れることができます。

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2014年5月28日 (水)

『稲盛和夫』100年インタビュー(5)

『自分の中にある利己心と利他心の内、利他心を大切にしなさい』という教えは、『汝の敵を愛せよ』という『キリスト』の教えや、『煩悩を解脱(げだつ)せよ』という『釈迦』の教えに通じます。

『他人を顧みず、利己心を優先する』生き方は、動物の闘争を想起する危険でギラギラした人間関係を創出しかねません。

本来『利他心』は、『そのように振舞った方が、群(全体)の安泰が維持でき、ひいては自分も安泰である』ということを本能が察知して獲得したものであろうと思います。

しかし、その後『利他心』は、『愛』『思いやり』『献身』などの進化した概念になり、個々の概念が独り歩きを始めて、大元の『安泰の希求』は忘れられ、あたかも崇高なものと考えられるようになったのではないかと梅爺は推察しています。

『利他心』を重視しようとしても、自分の中に存在する『利己心』との葛藤は避けられません。生物進化の過程で、先ず『利己心(自分の都合を優先する)』の元となる本能を獲得し、その後、『利他心(他人や群の都合を優先する)』という一見矛盾する本能を獲得したからではないでしょうか。つまり、人間の『精神世界』の根源に『利己心』がマグマのように存在し、いつでも噴火する機会を狙っているように感じます。

その意味で、『利他心』を発揮するには、表現が適切ではないかもしれませんが、無意識な『妥協』『自己抑制』が裏側にあると思います。

昔の日本の商人も、『損して元取れ』『三方一両損』などという処世術、市井(しせい)の知恵を持っていたわけですから、特にビジネスの世界で、『利他心』の考え方や対応策が有効であることを知っていたことになります。

『利他心』を考える上で、もう一つ大切なことは、『他』の対象を何にするかということにあります。『家族のために』『チームのために』『会社のために』『地域社会のために』『日本のために』『外国のために』『世界のために』のどれを対象としているかで、同じ行為の価値が変ります。一見普遍的にみえる『利他心』も、相対的な価値観であるということです。

稲盛氏は、番組の中で何回も『その仕事が、世のため人のためになるかを、繰り返し考えて決断をし、臨んだ』という主旨の発言をされました。しかし、これは『会社(従業員)のため』『日本のため』という意味が込められているように感じました。『KDDIの創立』『日本航空の再建』は、日本市場を一社独占にしない競争環境を維持するために『役に立つ』ことではありますが、外国から観れば、ある意味どうでもよい話です。

『会社』『日本』のために全精力を傾注したために、稲盛氏の御家族が相対的に犠牲になったとすれば、『利他心』は相対的であることが分かります。

『利他心』という概念を何故人間が保有しているかを梅爺は考えただけで、これをもって『利他心』は本来崇高な動機のものではないなどと言うつもりはありません。人間にとって、もっとも重要な概念のひとつであることはいうまでもありません。

ただ『利他心』といえども、相対的な価値観であり、ある条件の中で意味を持つもので、これだけを『絶対的な真』と考えることは避けるべきだと言いたかっただけです。

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2014年5月27日 (火)

『稲盛和夫』100年インタビュー(4)

『会社』は所詮『人間が構成するコミュニティ』なので、『従業員が自分の仕事に誇りと生き甲斐を感じて能力を最大限に発揮できる環境』が強い『会社』の基盤になるという考え方は、特別新しいものではありません。日本の昔の武将も『人は石垣、人は城』と言っています。

『人間』は、『自分がコミュニティの中で認められ、必要とされている』と『感じた』時に、『満足』『生き甲斐』を得ます。私たちは、生物進化の過程で、生き残りの可能性を高める行為(安泰を確保する行為)として、『利己的な行為』ばかりではなく『利他的な行為』も有効であることを、本能で感知する能力を継承してきたからです。『絆』という概念が『人間』には重要なのはそのためです。

稲盛氏は、次のような関係を、『式』で表現しています。

(人生・仕事の結果)=(考え方)*(熱意)*(能力)

『考え方』は、人生観、価値観、哲学で、数値的にはマイナス100からプラス100の数で表現され、『熱意(努力)』『能力』はゼロからプラス100の数値で表現されるという前提です。

『能力』は天性のものであり、生まれながらの格差がありますが、それが必ずしも最重要ではなく、『有名大学出身のオリコウサン』が、必ずしも有用な人材ではありませんよ、と稲盛氏は主張しているようにも見えます。『考え方』にいたっては、マイナス評価もあるわけですから、『オリコウサン』のやることは、社会に貢献しないどころか、害になることもあり得るという話です。稲盛氏も『実力主義』を主張していますが、この『実力』は大きな『仕事の結果』をもたらす総合実力のことで、『オリコウサン』の『能力』のことではありません。

このように『式』として表現すると、『物質世界』の『摂理』の表現同様、絶対的な真理で『正しい』ことであると勘違いしがちですが、稲盛氏の『式』は、あくまでも『精神世界』の価値観の一つを表現しているだけで、これをもって『正しい』とは言えません。ひねくれた言い方をすれば、稲盛氏の『会社』では、稲盛氏の価値観にあった行為や人物が評価されるというだけの話です。

しかし、人生の経験則として、稲盛氏の主張は有力なものであることは確かであると感じます。そして『考え方』の根源に『利他の心』があるという主張も、梅爺は違和感を覚えません。つまり、梅爺の『精神世界』の価値観とは、大きなズレはありません。

『人間』で構成される『会社』や『社会』は、『部品』で構成される『機械』とは決定的に異なっていると言うことでしょう。『人間』の『特性』を洞察せずに、『人間』を『部品』のように扱う『会社』『社会』『国家』はうまくいかないということです。有能な戦国武将や、スポーツの名監督・コーチは、これを経験則でよく知っているということに他なりません。

『人間(従業員)』ではなく、『利益』や『株主への配当』を最優先する、欧米型の『経営』に、稲盛氏は『待ったをかけた』ということではないでしょうか。日本の精神文化のもとでは、稲盛式経営の方が成果を出しやすいとも言えるような気がします。

稲盛式経営を非難する人は、『稲盛氏の会社では、1週間も家に帰ることなく働かされる』などと言っていますが、『従業員が寝食も忘れて仕事に没頭する環境』であるのかもしれません。『健康を害するまで働かされる』のか、『健康のことを忘れてまでも仕事に没頭してしまう』のかは、『価値観(考え方)』の違いです。スポーツでも、『練習させられる』のか『自主的に練習する』のかで差が生じます。

『精神世界』の『価値観』で、人生の事象は、これほど異なって見えるという一つの例のように梅爺には思えます。稲盛氏が言いたいこともそのことなのでしょう。

稲盛氏の『経営』に信服した日本の中小企業経営者が、数千人集まって『盛和塾』という勉強会を全国で開催していると知りました。それ自体は結構な話ですが、この団体が、稲盛氏の主張を『信ずる』と同時に、『疑う』ことも忘れない集団であって欲しいと願っています。『精神世界』には、『これだけが正しい』という価値観は、『科学』を対象とした世界でもない限り、存在しないのですから。

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2014年5月26日 (月)

『稲盛和夫』100年インタビュー(3)

稲盛氏の『経営哲学』の基本は、『この世に生を受けた人間は、どう生きるべきか』を問うもので、『利己よりも利他を優先すべし』ということであると、梅爺は感じました。この点だけを観れば、『宗教的』な主張と言えないことはありません。

稲盛氏が、宗教団体『成長の家』の影響を受けていると言われていますが、その様な背景があってもおかしくありません。

番組の終わりに『100年後の日本人へのメッセージ』として、『それまでに、人間が利他を優先する考え方に変らなければ、人間社会は今よりも悲惨なものになっているかもしれない』と言うような主旨の話をされました。

100年後の世界の総人口が100億人を越すような状態になれば、誰が考えても『食料』や『エネルギー』の奪い合いの紛争が激化するとみるのは必然で、今よりも平穏な世界であるとは考えにくいことになります。

そもそも『地球』の資源が養える人口を、現状でも越えてしまっていると言えないことはありませんので、『総人口の抑制』という問題を人類が政治的に抱えることになることは目に見えています。『人口の抑制』は政治的、宗教的に人道に反するとして、誰も今は積極的に取り上げませんが、やがて、中国の『一人っ子政策』のように、『背に腹は代えられない』事態になるのではないでしょうか。

『少子化』は現状の日本にとっては不都合ということですが、人類の未来にとって、人口減少傾向は、皮肉にも歓迎すべき事象なのかもしれません。稲盛氏流に言えば、『少子化に歯止めをかける』ことは、『日本の利己』の発想であって、人類の生き残りを優先する『利他』的な考え方ではないということになります。

勿論、稲盛氏は、このような例で『利他』を主張したわけではなく、現状のように人間が『自分の利便、自分の利益』だけを優先追求する社会は好ましいものではないと、おっしゃりたかったのではないかと思います。基本的にこの主張に梅爺は異論がありません。

稲盛氏が、ご自分の『哲学』と言われる『信条』は、ご自分の人生体験の中から得たもので、それは、『学問的な理論』というより、『市井(しせい)の知恵』というべきものであるように感じました。

ご自分は、中学受験に2度失敗し、その上結核を患ったりして、決して恵まれた少年時代ではありませんでした。鹿児島大学工学部を卒業し、教授の推薦で就職した京都の『清風工業(セラミックの会社)』で技術者としてファイン・セラミックの商品化で頭角を現しますが、その成果を他の技術者(京都大学出身者)に譲るように会社からいわれて、反撥辞職し、数人の同士と『京都セラミック』を創立しました。出資をしてくれる実業家の援助などの幸運もありましたが、大変な苦労をして『京都セラミック』を現在の会社にまで育てました。

有名大学を出て、頭が良いと考えられている人達が、『経営者』や『官僚』になって行っていることは、本当に『庶民』のためになっているのかという、反撥が稲盛氏の原動力になっているように見えます。

経営学の本に書いてあることではなく、こういう『経営』が本来の姿ではないのかという、実体験から得られた『知恵』が、自負となって稲盛氏を支えているのではないでしょうか。

確かに、『稲盛哲学』の基本である、『経営の目的は、従業員の物心両面の幸せを追求すること』などという主張は、アメリカのビジネス・スクールの教科書には書いてありません。

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2014年5月25日 (日)

『稲盛和夫』100年インタビュー(2)

『稲盛和夫』氏は、『企業経営者』として特筆すべき功績を積み重ねて来られました。27歳で『京都セラミック』、52歳で『KDDI(当時、第二電電)』を創業し、78歳で財務破綻した『日本航空(JAL)』の再建を引き受けられ、二年半で再上場を果たすという見事な手腕を発揮しました。

強固な『経営哲学』を掲げて邁進する姿勢は、『毀誉褒貶(きよほうへん)』の対象になりやすく、稲盛氏が率いる企業は『まるで宗教団体のようだ』と非難されることがあることも梅爺は承知しています。『京都セラミック』は『狂徒セラミック』ではないかなどと陰口さえ囁かれています。

しかし、『企業経営者』というのは、ある限定された『会社』と呼ばれる『コミュニティ』のリーダーであることを、私たちは認める必要があります。

『会社』は勿論『社会責任』とは無縁ではなく、法に触れる行為も許されませんが、その範囲で『会社』の経営が、個性的に行われることは、非難の対象にはならず、むしろ経営が効果的に行われ、個性が『会社』の強みとなることも多々あります。

第三者が、ある『会社』の経営内容や経営者の性格を、『好き嫌い』の対象とし、『私はあんな経営者の下で働きたくない』と言うことは自由ですが、『会社』や経営者を全否定するような発言は十分配慮して行うべきです。

論理的には『会社』は『社会』ではありませんから、『会社』は、その方針を受け容れる人達の『コミュニティ』であって構いません。この点は『宗教団体』と似ています。色々な考え方の人たちが共存する(共存が認められる必要がある)『社会』とは、基本的に異なります。これまた論理的に言えば、自分の意にそぐわない『会社』なら、『入社しない』『辞職する』権利も個人は保有しています。微妙な『労働法』の判断の対象になりますが、原則として『会社』の役に立たない従業員を解雇する権利も『会社』は保有しています。有体(ありてい)に言ってしまえば、『会社は社会ではない』ということになります。

梅爺は、『稲盛経営哲学』の全てを信服して受け容れるつもりはありませんが、『会社の経営』に限定して、そのような考え方があってもよいと思います。しかし、この『哲学』を、『社会においても個人が遵守すべき信条である』と言われれば、『それは行き過ぎです』と申し上げることになるでしょう。これも梅爺の『宗教』への対応姿勢と似ています。

こう考えると、世間の『稲盛批判』は、氏の大きな実績への妬みややっかみが背景にあるのかもしれないと疑いたくなります。秀でた能力を、面白くないとしてけなす人は必ず世間に現れます。しかし『あのような考え方は肌に会わない(嫌いだ)』と表現することと、『あのような会社の経営哲学は間違いである』と表現することは別であるべきです。

なにしろ、『京都セラミック』『KDDI』『日本航空』と成功実績が厳然とあるわけですから、単なる評論ではなく、本当に『経営哲学として間違い』であることを証明することは、易しいことではありません。『正しい経営哲学とは何か』『その哲学ならより良い成功を収められるのか』を論ずる必要があるからです。

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2014年5月24日 (土)

『稲盛和夫』100年インタビュー(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映された『100年インタビュー、稲盛和夫』を録画して観ました。

『100年インタビュー』という番組は、各界の著名人を招いて、その人生観をインタビュー形式で聞き出し、最後に100年後の日本人へ向けて『メッセージ』を語ってもらうと言う形式で構成されていて、梅爺はこれまでに何度もこの番組と登場人物をブログで取り上げてきました。

些細なことですが、梅爺が気になっているのは『100年インタビュー』という番組の日本語タイトルです。予備知識無く、このタイトルに遭遇すれば、『100年も続くインタビューとは何のことだろう』と戸惑ってしまいます。

『100年後の日本人へ残すメッセージを引き出すためのインタビュー』という意味であることは、番組を観て気付きますが、タイトルだけでこの意味を想起することは、いくらなんでも無理です。

『何のことだろう』と関心を惹起することが目的というような議論がNHK内であったのかもしれませんが、もっと適切な日本語表現を選択することができなかったのでしょうか。『この日本語表現はちょっとおかしい』という意見がNHKには無かったのでしょうか。

もう一つついでに、気になることを申し上げれば、この番組でインタビューをする側の司会者(NHKのアナウンサーが原則)が、インタビューを受ける人(番組の主人公)に、『媚びる態度』で迫ることです。つまり、主人公の人生の言動が全て『善』であるという結論へ導こうとしていると感じてしまいます。日本社会で多用される見え見えの処世術で、梅爺はあまり好きではありません。

勿論、番組で取り上げられるような主人公は、一般論で言えば人生で、功なり名を遂げた人ですから、凡人である梅爺のような人間が畏敬の念を持つべき方であることに異論はありませんが、『全てを善と単純に割り切る』ことに若干の抵抗を感じます。どんな偉人であれ、人間は完全無欠ではありませんから、『全てが善』などということはありえないからです。

本当の偉人ならば、『媚びられる』ことは居心地が悪いことで、その場を逃げ出したくなるか、無愛想になるかするはずですが、全てを承知で柔和に対応する方は、よほど器が大きい方か、言葉が適切でないかもしれませんが処世術に長けた方ということになります。

『稲盛和夫』氏は、終始柔和に対応されました。アナウンサーの『媚びる態度』に気付かぬはずはありませんから、視聴者を不快にさせないために、番組の主旨を全うするために、そうされたのでしょう。ご自分の人生哲学には確固たる自信をお持ちである一方、その分犠牲にしてきたご家族への謝罪の念なども率直に表明されましたので、梅爺は『稲盛和夫』氏の一部を垣間見ることができました。

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2014年5月23日 (金)

You cannot get a quart in a pint pot.

英語の諺『You cannot get a quart in a pint pot.』の話です。 

『quart』『pint』は、液体の量を表す単位で、1quart =2pintsの関係にあります。従って、『1pintの壺には、1quartは入らない』という意味になります。

梅爺の亡くなった父親は、生前『1升瓶には2升は入らない』と言う表現を、『身の程をわきまえよ』という意味で、よく使っていましたので、まさしく同じ意味になります。子供の能力の多くは、生まれつき定まっているので、無理な詰め込み教育や、過度の期待は『百害あって一利なし』ということを言いたかったのでしょう。

天災的な『スポーツ選手』や『芸術家』は、子供のころからの英才教育で誕生する例は沢山ありますが、誰でも英才教育を施せば、天災的な『スポーツ選手』や『芸術家』になれるわけではありません。むしろ子供を不幸にすることにもなりかねません。

『物質世界』の事象として、『1はあくまでも1で、2ではない』という表現は『真』ですが、人間の『能力』や、『精神世界』の秘めたる可能性については、元々どれだけの容量があるかを、客観的、定量的に指摘できませんので、それらを対象として論ずる時には、この諺が示す『命題』は、必ずしも『真』とは言えないことになります。

つまり、『努力を怠って、妥協する』弁明に、この諺を流用することも可能です。

子供にせよ大人にせよ、『個人』の潜在能力を推定することは、難しい話です。従って、このようなネガティブな教えと、『少年よ大志を抱け』とか『自分の能力を信じて、目標に向かってあくなき努力をせよ』というようなポジティブな教えが、世の中には共存することになります。

ネガティブな教えも、ポジティブな教えも、一理ありますが、使い方を間違うと無責任な教えになってしまいます。

人間の『精神世界』では、『夢』『希望』『目標』『自分が必要とされているという満足感』などの『抽象概念』を保有することが、『生きる』原動力になる特性を持っています。『不安』や『恐怖』を排除して、『安泰』の中に身を置きたいという生物としての本能が、この背景にあります。

客観的には、艱難辛苦の環境の中でも、『夢』や『希望』を保有している人の顔は輝いており、一見平安な環境の中でも、『夢』や『希望』を失った人は、陰鬱な顔になります。

この人間の根源的な特性を理解した上で、ポジティブであれ、ネガティブであれ諺を受け止めることが重要です。

『自分の限界は、自分で決める』ことを前提に、周囲はできるだけ挑戦可能な環境を提供し続けることが重要なのではないでしょうか。自分で決めて、挑戦し挫折することはありますが、それはそれでその人の『人生』とするしかありません。最初から、『1pintの壺には、1quartは入らない』と他人の挑戦意欲を削ぐことには慎重であるべきです。

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2014年5月22日 (木)

ユダヤ戦争とキリスト教(6)

『イエス』や『キリスト教』を理解する上で、ユダヤの歴史背景を知ることが、重要ではないかと梅爺は考えています。

『何故一神教なのか』『何故、神は永い人類の歴史の中で、たった1度だけ、1世紀のユダヤに神の子を遣わしたのか』という単純な疑問への回答が、意外なことにあまり見当たらないこともあって、歴史背景から自分で考えてみようと思いました。

上辺だけの知識からの推察ですので、誤認は免れないと思いますが、以下のように考えています。

『一神教』は、異民族支配に悩まされ続けたユダヤ民族が、外国へ連れ去られ、その地のユダヤ人居住区(ディアスポーラ)で肩を寄せ合って生きていくうえで、『自分たちだけを特別に守ってくれる民族の神』という概念を必要としたからではないでしょうか。ベルディの有名なオペラ『ナブッコ』は、紀元前6世紀に、ユダヤ民族が捕囚となり、バビロニアへ連れ去られた歴史を題材にしています。第三幕の合唱『行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って』が有名ですが、『バビロニア王ナブッコが、最後はユダヤの神が正しい神と認める』という筋書きは、間接的に『キリスト教』を擁護しようとするヨーロッパ人の考え方が反映しているように感じます。どうせ『つくり話』なのだから、どうでもよい話ですが、この単純な『勧善懲悪』に、梅爺は少々閉口してしまいます。

『いつか救世主が現れる』という考えも同じように生まれたのでしょう。つまり民族のアイデンテティを維持するために『一神教』という概念を案出したものと思われます。この民族結束が、逆に外国からは『排他的』と受け取られ、歴史的に、ユダヤ民族が『いじめ』の対象になり続けてきた原因になっているように感じます。

この『一神教』の考え方を継承した『キリスト教』は、『ユダヤ民族だけの神』から『全人類の神』へ『格上げする論理』の必要に迫られました。『同じ神であるがユダヤ民族が自分だけのものと誤認している』と『パウロ』は一刀両断の回答を提示しました。こうすれば『旧約聖書』の中に『キリスト教』にとって、好ましくない表現があっても、『誤認』とすれば良いわけですから、見事な対応です。

『イスラーム』もアラブ民族結束のために出現したという解釈もあり、一理あるように思います。『ムハンマド』は、ユダヤ民族が自分たちの『神』をもって結束することを羨んで、自分たち(アラブ民族)だけの『神(アッラー)』を持ち出したという解釈です。それまで土着の『多神教』で、部族間の抗争が多かったアラブ民族社会が、見事に結束したわけですから、指導者としての『ムハンマド』の功績は大です。

『神の子イエス』という考え方は、後に『イエス』の権威を不動のものとするために考え出されたもので、『イエス』は、ローマ帝国支配で荒廃するユダヤ社会に出現した『宗教的な思想家』であろうと梅爺は考えています。『神の子』ではなく『人間』と考えれば、『何故神は一回だけ神の子をこの世に遣わしたのか』などと悩む必要は無くなります。勿論『イエス』は『ユダヤ教』の改革を目指したという推測です。

『イエス』は、『神の前で人はつつましくあるべき』、『人と人は愛の絆を大切にすべき』と説いたわけですから、後の『ガンジー』『トルストイ』などの、非暴力主義、博愛主義に通ずるものを感じます。

しかし、イエスの死後、ユダヤ民族は、『ユダヤ戦争』で、ローマ帝国に対して武器蜂起し、壊滅的な敗北を喫することになります。『イエス』の願いとは逆の結果になりました。それでも、その敗北の中から、後の『キリスト教』が本格的に産声を上げました。

『パウロ』は、亡くなっていましたが、『パウロの考え方』が、『キリスト教』の基盤になっていきます。『新約聖書』の中に、『パウロの手紙』が多く採用されているのは、その証左です。

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2014年5月21日 (水)

ユダヤ戦争とキリスト教(5)

歴史を俯瞰すれば、『ユダヤ教』から『キリスト教』と『イスラーム』が派生したことは確かです。『ユダヤ教』が無ければ、『キリスト教』も『イスラーム』も無かったことになります。しかし、『ユダヤ教』の『一神教』の教義も、『キリスト教』『イスラーム』へ継承されたことで、ややこしい問題を抱えることになりました。

『唯一の神』が複数存在するのはおかしい、という子供でも思いつく『論理矛盾』に対応しなければならなくなったからです。

各『宗教』で、色々な説明、弁明が今でも行われていますが、客観的に第三者を説得できる論理は存在しないようにみえます。

最も後から登場した『イスラーム』が、堂々と『アッラーの他に神は無し』と言い放っているのはお見事ですが、民衆はともかくとして、『イスラーム』の真面目な神学者たちは、色々な説明を施そうとしています。何しろ『ムハマンド』は『大天使ガブリエル』から『神の啓示を授かった』ということになっていますから、『イスラーム』は『ユダヤ教』や『キリスト教』とは無関係とは言いにくい事情があるからです。『イスラーム』では『イエス』は『預言者』の一人ということになっています。当然『イエス』は『神の子』ではなく『人間』であるという認識です。

しかし、現在のような『ユダヤ人』と『アラブ人』が、パレスチナで泥沼の政治紛争繰り返している状況では、『同じ神を信仰している』とはお互いに認められないに違いありません。最も憎み合っている民族同士の『宗教』が、実は根は同じという矛盾は、大変皮肉なことです。

『初期のキリスト教』で、『イエス』の『権威』を確立する手段として、『ユダヤ教』の『聖典』を利用したことは、頭の良い方法で、関係者は別に矛盾を感じていなかったのではないでしょうか。第一、自分たちが行っている布教は『ユダヤ教の新しい考え方』であって、『キリスト教』という新しい『宗教』を創りだそうとしているとは考えていなかったはずです。

しかし、『ユダヤ戦争』の後、『ユダヤ教』と『キリスト教』が、袂を分かつことになると、『一神教』の問題に直面することになりました。

後に『異端』として『カトリック』から弾劾された『キリスト教グノーシス派』は、『キリスト教の神は善い神、ユダヤ教の神は悪い神』と主張し、『善い神は唯一』という論理を展開しました。因みに『グノーシス派』では、『イエスは人間の預言者』で、『イエスの教え』だけを尊重しています。つまり、『処女懐胎』『死後復活』などの出来事は排除されています。このように『初期のキリスト教』は、色々な考え方が乱立していたと観るのが自然です。『教義統一』は4世紀以降、ながい議論や闘争で確立したものです。もし、『グノーシス派』が主流になっていたら現在の『キリスト教』とは違った『教義』になっていたでしょう。

『パウロ』は、『神は唯一であるが、ユダヤ民族の神の認識は間違っている』としました。実に明快な論理ですが、当然『ユダヤ教』からは反撥を受けることになりました。

昔の人は、産まれてから死ぬまで、同じ宗教環境(社会)で過ごし、別の世界、別の宗教のことは知らずに、影響を受けませんでしたが、現代人は、別の世界、別の宗教の存在を知るようになりました。この結果、自分の世界への『懐疑』が生まれ、『宗教』離れが増大すると同時に、むしろ逆に頑なに『自分の世界』の正当性を主張する人達(原理主義過激派)が出現して、混迷が深まっているように見えます。

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2014年5月20日 (火)

ユダヤ戦争とキリスト教(4)

生前の『イエス』の布教スタイルは、弟子たちを引き連れ各地へ赴き、口頭による『説教』と『癒しの施し』が主体であったように見えます。『イエス』自身は『洗礼者ヨハネ』から洗礼を受けたとされていますが、『イエス』が信者に洗礼を施していたのかどうかは梅爺は理解していません。施していたにしても、それが布教の重要事項であったという印象は、聖書の記述からはうかがえません。梅爺の理解が間違っているかもしれません。いずれにしても、『イエス』一行は、どのようにして日常の生計を立てていたのだろうかと、つまらないことが気になっています。

『洗礼』は、『イエス』の時代に既に存在していたわけですから、『ユダヤ教』の儀式で、後に『キリスト教』がこれを継承したことになります。『禊(みそぎ)』など、どの宗教にも『水で身体を清める』という類似した風習があります。『ユダヤ教』では、『罪の穢れを洗い流す』のと同時に、その人に『聖霊が宿るようになる』とされていたようですが、初期の『キリスト教』では、ユダヤ人でないと『洗礼を受けても聖霊は宿らない』などと差別することもあったようで、外国人から不満の声があがったとも言われています。外国人の多い地域で布教にあたっていた『パウロ』は、こういう外国人信者の差別の問題を敏感に感じ取って、『ユダヤ的な戒律の排除』という考え方へ傾斜していったのでしょう。

『イエス』の死後、弟子たちがエルサレムを拠点として行った布教も、『イエス』の布教スタイルをほぼ踏襲したのではないでしょうか。重要なことは、『口頭で説教が行われた』ということで、『文書』を布教手段としていないことです。ユダヤに住むユダヤ人に対しては『アラム語』が話し言葉として使われていました。『初期のキリスト教』には現在の『聖書』はありませんから、当然そのことを配慮してこの時代を理解すべきです。

ギリシャ語がつかわれている外国で育ったユダヤ人が、信者として加わりましたが、彼らは『エルサレム神殿』の権威を受け容れようといなかったために、『ペテロ』を中心とした布教集団と考えが一致せず、当局からも弾圧され(リーダーのステファのノは捕えられ、処刑されました)、外国へ逃れました。この集団は『ヘレニスト』と呼ばれ、この集団によって最初の福音書『マルコによる福音書』がギリシャ語で書かれました。『イエス』と直接接したことが無い信者には、『文書』で考え方を一つにする必要があったということでしょう。

『マルコによる福音書』の特徴は、『イエスの幼少時の話』が一切ないことと、当然のことながら『ペテロ』に対しては批判的に書かれていることです。『幼少時の話が無い』のは、『イエスの教え』だけが重要であったことを示唆しています。

『ネロのキリスト教徒弾圧』『ユダヤ戦争』を経て、初期の『キリスト教』は、重要なリーダー(『ペテロ』『ヤコブ』『パウロ』)を全て失い、しかも、布教の拠点がユダヤ以外の外国となったこともあり、『文書』に権威をもたせた布教スタイルに変更しなければならなくなりました。『キリスト教』の歴史では、この『口頭説教』から『文書』に布教手段が変ったことは大きな節目です。

『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』が、こういう状況で書かれたと考えられています。これらは、『マルコによる福音書』を参照していますが、新たに『イエス』に関する伝聞を集め、書き加えました。当然ギリシャ語で書かれています。書き加えられた『伝聞』は、『イエス』の死後100年程度経過していますので、『事実』かどうかの判定は難しくなります。『イエス』を権威づけるために『創作された』ものが含まれていないとは言い切れないような気がします。

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2014年5月19日 (月)

ユダヤ戦争とキリスト教(3)

『キリスト』の死後、たった30年~40年で、『イエスの教え』が、『ローマ帝国』の領域ばかりか、領外にまで燎原(りょうげん)の火のように、急速に広まっていったのは何故なのでしょう。

各地にあった土着宗教の『神や神々』は、『現世の御利益(戦勝、疫病封じ、豊作など)』をもたらすものとして信仰されていましたが、『イエスの教え』は、『現世の御利益』ではなく、『心の安らぎ』、とくに『死後に天国で永遠の命を授かる』ことを説いたものでした。

このためには『人間は神の前で、心貧しく、つつましく(Humble)ありなさい』『隣人には愛をもって接しなさい』という『イエスの教え』は、この世で悩み苦しみの中で生きている人にとっても、ローマ市民のように『パンとサーカス』が与えられ、表面的な快楽におぼれていた人にとっても、眼から鱗が落ちるような斬新な『思想』であったのではないでしょうか。喉の渇きを水で癒すように、多くの人達がこれに飛びついたと考えれば、急速な布教の理由が理解できます。

『キリスト教』の急速な普及は、『永遠の命の取得(死後)』で『死』への恐怖を緩和したこともありますが、『人は、心が満たされなければ、この世で生きている幸せは得られない』という、当たり前なことを示しているように思われます。

現代の先進国社会で、利便で飽食の生活の陰で、『心を病む人』が増えていることをみても、この重要性が分かります。

『キリスト教徒』にとって、『神』は絶対的な『忠義』で仕える『主』であって、その見返りが『心の安らぎ』『死後の永遠の命』ということになります。また『神』は『現世の王』の上に立つ『神の国の王(King of kings)』であるという認識ですから、ローマ帝国皇帝『ネロ』が、『俺の権威を踏みにじるのは怪しからん』と弾圧を命じたことになります。この『弾圧』のすさまじさは、数多くの小説や映画で紹介されてきました。闘技場で、『キリスト教徒』をライオンの餌にし、処刑を見世物にしたなどがその例です。『精神世界』に無関心なリーダーが率いる人間社会は、陰惨なものになります。現在の北朝鮮などがその典型例です。

『ネロ』にとっては、下層の市民ではなく、裕福な貴族階級の中から『心の貧しさ(Humble)』を求める信者が出現したことに『危機』を感じたのではないでしょうか。しかし、この後約300年後に、『ローマ帝国』は『キリスト教』を『国教』とするるという大逆転の事態となり、『皇帝』は『神の僕』として、教会(カトリック、正教)に仕えることになりました。『キリスト教』は、栄光の時代を迎えますが、今度はその『権威』維持のために、華麗な様式や儀式にこだわるようになり、1200年後に『ルター』等による『プロテスタント派』が、『イエスの教え』の『原点』へ戻ろうという運動を始めます。

現在世界の『キリスト教』は、『カトリック』『正教』『プロテスタント』が三つの柱になっています。ただし細かくは更に『宗派』に分かれたりしていて、微妙に『考え方』に差異があります。

何を議論の対象にするかによって、『キリスト教』『仏教』『イスラーム』はそれぞれ、ひとくくりで論ずることはできません。人間社会では『宗教』は、必ず枝分かれするのは何故かも興味深い話です。

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2014年5月18日 (日)

ユダヤ戦争とキリスト教(2)

16世紀の『マルティン・ルター』が、堕落し、様式化した『カトリック』に対して、『イエスの教え』とおりの『本来の神と人間の関係』『本来の教会のありかた』へ立ち戻ろうと言う『プロテスタント』運動を起こしたように、1世紀の『イエス』は、権力(ローマ帝国およびその属州であるユダヤ王国)に追従し、形式にばかり走る『ユダヤ教』に対して、『本来の神と人間の関係』へ立ち戻るように民衆へ話しかけました。

『イエス』は、『ユダヤ教』の改革者として登場したという説明を私たちはあまり受けたことがありません。『キリスト教』にとっては、教祖が『ユダヤ教』の枠組みの中で活動していたことは、あまり認めたくないという心情が働くためなのではないでしょうか。しかし、聖書の中の一部には、弟子が『イエス』を『ラビ』と呼んでいることや、当時のユダヤの環境を考えれば、『イエスはユダヤ教の改革者』と見るのが自然ではないでしょうか。

民衆の心が、為政者から離れて『神』へ向かうことは、為政者が最も恐れる事態ですから、『イエス』は『世の中を害する危険思想者』として、『十字架の刑』というローマ帝国の極刑で処刑されました。

梅爺は子供の頃、『心の優しく善良なイエスが何故処刑されたのか』を不思議に思っていました。『正しい人が罰せられる』ということが理解できなかったからです。しかし、その後大人になって『正しいからこそ罰せられる』という、不条理な側面が世の中には沢山あることを知りました。

特に独裁的為政者は、自分に都合の悪い主張や行動を行う人間は、『反逆者、危険思想者』として直ぐに処刑してしまいます。このような事件は、1世紀のユダヤだけではなく、現在世界中のいたるところで行われています。日本も歴史的にその様なことが無かった国ではありません。

『イエス』の処刑後、弟子たちや『イエス』の親族たちが、『イエスの教え』の布教を継承しますが、『カリスマ的なイエスの存在』を失って、それに代る『権威』を必要としたのではないでしょうか。

『生前のイエスから直接学んだ弟子である』というのが『権威』の一つになりましたが、やがて『復活したイエスに私は出会ったことがある(これは第三者には検証のしようがありません)』も『権威』になり、そしてついに『ユダヤ教聖典に書かれている預言の成就者がイエスである』という、とっておきの『権威』を利用するようになります。『ユダヤ教聖典』の都合のよい部分を、『権威』の裏付けに採用したのは、ユダヤ社会では頭の良い方法でしたが、後の『キリスト教』にもこれが『旧約聖書』として継承されたために、『キリスト教』としては、色々な問題を抱えてしまうことになりました。

『イエスの教え』を布教しようとする人達に、次なる試練『ユダヤ戦争』『皇帝ネロのキリスト教弾圧』が襲いかかります。主要なリーダであった『ペテロ』『ヤコブ(イエスの兄弟)』『パウロ』が、捕えられ多分処刑されて、中心人物を失い、更に弟子たちも年老いていく中で、布教は壊滅的な打撃を受けたはずです。

しかし、この壊滅的な打撃があったからこそ、『キリスト教』が『ユダヤ教』から独立し、現在へつながっていったとも観ることができます。生物進化が、苦しい環境変化でもたらされるのと似ています。

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2014年5月17日 (土)

ユダヤ戦争とキリスト教(1)

『ユダヤ戦争(紀元66年~70年)』というのは、パレスチナを中心に、『ユダヤ民族』が支配者『ローマ帝国』に反抗して武装蜂起した事件です。『キリスト』の処刑後約40年程度後のことです。パレスチナ以外の外国にも『ディアスポーラ』と呼ばれる『ユダヤ人居住区』があり、ここでも呼応して『ローマ帝国』に対して武装蜂起がありましたが、こちらは直ぐに鎮圧されてしまいました。

パレスチナでは、最初武装蜂起軍が勝利しましたが、『ローマ帝国』は威信をかけて皇帝や皇帝の息子を総司令官に立て、最後は鎮圧に成功します。虐殺、破壊はすさまじいもので、特にユダヤ人の精神的な支えであった『エルサレムの神殿』も徹底破壊されました。この時神殿にあった『宝物』は、『ローマへ持ち去られた』『ユダヤ人によって秘匿され、後の十字軍(テンプラー騎士団)が発見した』などの憶測が今でもあり、多くの『歴史ミステリー小説』の題材になっています。

『ユダヤ戦争』は、ユダヤ民族の蜂起であり、『キリスト教』や『キリスト教徒』は直接関与していませんが、『宗教活動』は大きな影響を受けました。この時期、現在で言う『キリスト教』は確立していたとは言えず、『ユダヤ教の新しい宗派』の色彩が濃いものでした。

このグループだけでなく、全ての『ユダヤ教各派』が戦争によって大打撃を受けたことになります。

特に、武装蜂起を主導したのは過激な『ゼロテ派』であると考えられていて、敗戦で凋落してしまいます。『エルサレム神殿』で神事を行うことを主にしていた『サドカイ派』は、神殿がなくなって権威を失墜してしまいます。結局穏健な『ファリサイ派』が、『ローマ帝国』の暗黙の支援も得て、敗戦後のユダヤ社会を立て直す中心になります。

『イエス・キリスト』が活動していたころ(紀元元年から30年代前半)のユダヤは、『ローマ帝国』支配に反抗する気運がある一方、『ユダヤ教各派』が乱立し、観方によれば、『宗教』に活気があったと言えます。こういう情勢であったからこそ『イエス・キリスト』が出現し、『危険思想人物』として処刑されたとも言えます。

しかし、『ユダヤ戦争』後の、ユダヤ再興の主導権を、保守的で戒律を重視する『ファリサイ派』が握ったことで、『ユダヤ教』は、むしろ硬直したもののなり、その影響が今日にまで及んでいます(『ユダヤ教』は今日でも非常に戒律に厳しい)。

『初期のキリスト教』は、『ユダヤ教』とつかず離れずの関係を維持してきましたが、『ファリサイ派』が主流になることで、『決別せざるを得ない状況』に追い込まれたのではないでしょうか。『ファリサイ派』からみれば、『パウロ』などユダヤ的戒律をあまり重視しない人が含まれる『初期のキリスト教』は看過できない存在であったからです。その意味で『ユダヤ戦争』は、『キリスト教』の歴史に大きな影響を及ぼしたことになります。

言い換えれば、『キリスト』の死の約40年後に、『キリスト教』は『ユダヤ教』から決別せざるをえない状況に追い込まれたことになります。

もう一つ、『キリスト教』の歴史に影響を与えた事件が、ローマ皇帝『ネロ』の『キリスト教徒迫害政策(紀元65年)』です。

このことは、当時(キリストの死後約30年)パレスチナから遠く離れた『ローマ』に、皇帝が無視できないほどの『キリスト教徒』勢力が存在していたことを示しています。また、皇帝が『迫害』をしたのは、『ユダヤ民族』ではなく『キリスト教徒』であることも重要です。つまり、『キリスト教徒』は、民族を越えた集団になっていた事を示しています。『キリスト教』の非民族依存性は、後の布教で重要な役割を演じます。

『ネロ』皇帝の命令で、属州であったユダヤでも『キリスト教徒弾圧』が行われたに違いありません。

初期の『キリスト教』にとっては、中心的な役割を演じた、『ペテロ(12使徒の一人)』『パウロ(外国への布教中心)』『イエスの兄弟ヤコブ(エルサレム教会の長)』の3人が、この時期に歴史から姿を消しています。

3人については、色々な伝聞がありますが、いずれも政治的に捕えられ、処刑されたのではないかと推察されます。

『ユダヤ教』から『決別』せざるをえなくなった『キリスト教』は、中心的指導者を失った上に、ユダヤ以外の地域(外国)を中心に、布教を進めることになりますが、この時『キリスト教』の『権威』を何に求めるかが、あらためて問われることになったはずです。

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2014年5月16日 (金)

小説『シェークスピアの呪い』(6)

『シェ-クスピア』が属していた劇団は、『Kings Men(王の一座)』と呼ばれていたことでも分かるように、王の庇護を受けていました。専用の劇場『グローブ座』も所有していましたが、外国の賓客を接待する余興で、宮廷で演ずることもありました。また巡業で地方を訪れることも多くありました。 

このため、『Kings Men』は、実は王のスパイとしての任務も帯びていたのではないかと言われることがあります。疑われずに各地に赴き、現地の情勢や情報を王へ報告できる立場にあったからです。『松尾芭蕉』は実は幕府の隠密であったのではないかというような推測と同じ類の話です。 

現代イタリアの、作家、評論家、学者として著名な『ウンベルト・エーコ』の『文学について』という著作の中に、『名著と言われるものは、ダブル・コードの面白さを秘めている』という指摘があります。 

作品の表面的な筋立ては、大衆にとっても『面白い』ものでありながら、詳細の表現では、高尚な教養人をも唸らせるものを包含しているというような意味です。言ってみれば、『一度で二度お美味しいアーモンド・グリコ』のようなものが名作なのでしょう。 

そう言われてみれば、『シェークスピア』『夏目漱石』『ウンベルト・エーコ』『パウロ・コエーリョ』などの作品は、表面だけを読んでも『面白い』と同時に、『深読み』すれば、更に深遠な『面白さ』に遭遇することに気付きます。『ウンベルト・エーコ』の『薔薇の名前』という小説は、推理小説であると同時に高尚な文学作品でもあります。 

文学だけではなく、音楽の世界でも『ビートルズの曲』『ワグナーのオペラ』などは『ダブル・コード』の面白さを秘めています。多くの人を魅了すると同時に、音楽の専門知識を持つ人を唸らせる、斬新な『和声進行』技法などを秘めています。 

人間の『精神世界』は、個性的なものですから、その人のレベルでしか芸術を鑑賞することができません。浅いレベルでも、深いレベルでもそれなりの『面白さ』を提供するには、作品の懐(ふところ)が深い必要があり、その様な作品を提供できる作家の『精神世界』は深遠であるということになります。 

単なる『ドタバタ喜劇』と『チャップリンの喜劇』の違いを思いうかべていただければ梅爺が何を言いたいか御理解いただけるのではないでしょうか。 

『表面的』『刹那的』な『面白さ』だけで、視聴率を獲得しようと言うテレビ番組が氾濫していますが、日本人の全てがそのレベルで満足するわけではありません。『精神世界』の深いレベルの『満足』を求めようとする人が多い社会が、『文化レベルの高い社会』と言えます。 

『宗教』『哲学』『芸術』は、『精神世界』の深いレベルと関係する領域です。

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2014年5月15日 (木)

小説『シェークスピアの呪い』(5)

この小説の女主人公はアメリカ人の大学で『シェークスピア』の研究者として働いていましたが、その職を辞して、『シェークスピア劇』の舞台演出家に転じたことになっています。作者自身の一部が投影されているのでしょう。 

この主人公が、スコットランドの富豪の未亡人から、招待を受け、そこで奇怪な殺人事件に次々に巻き込まれていくことになります。この未亡人は、かつて『シェークスピア劇の名女優』として、ハリウッドでも活躍した人物で、結婚を機に女優を引退し、故郷のスコットランドへ戻りました。更に、物語の最後に『スコットランドの魔女』の末裔でもあることも判明します。 

『魔女伝説』『シェークスピアのマクベス』『エジンバラの伝統的な祭』が絡み、スコットランドの『館』『古城』『丘』『森』を舞台に、オカルト的な物語が展開します。『魔女の三種の神器』ともいうべき『短剣』『鏡』『坩堝(るつぼ)』も重要な小道具として登場します。 

現在と『シェークスピアの時代』が、並行進行しながら、『謎』が明らかになっていくという歴史ミステリーの手法は『ダ・ヴィンチ・コード』などと一緒です。 

作者の豊富な『シェークスピア』に関する知識が披露され、劇の有名な科白なども沢山登場します。 

前半で、次々に奇怪な事件が起こり、読者を『一体どうなっているのだろう?』と当惑させておいて、後半に、突然『真犯人』を登場させるという段取りになっているのは、正当な『推理小説』の手法としてはあまりいただけません。早い時点から読者もフェアに『真犯人』探しに参加できるようにして欲しいと、梅爺のような昔ながらの『探偵小説』ファンは願います。 

『魔女の秘儀(魔術)』を、自分の欲望や、私怨のための復讐に利用しようとする狂信者が犯人という設定もありきたりのように感じました。 

『魔女』という呼び方は、キリスト教が関与した『魔女狩り』など悪いイメージが付きまといますが、本来スコットランドの『魔女』は、死者の『霊』や、自然に宿る『霊』と、特別な場所で形式的な儀式を行い交流する土着宗教の『霊媒者』であったのではないでしょうか。

日本の神道も、神官が形式的な儀式を執り行って『霊』を呼び出します。『霊』が本当に存在するから、人間がそれを感ずるのか、人間の抽象的な論理思考能力がその仮想存在を思いつかせるのか、議論が分かれるところですが、梅爺は後者であろうと考えています。

いずれにせよ、人間は必ず『霊』という概念に到達するのは共通の習性であることは興味深いことです。この延長上に『神』という概念も必ず登場します。

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2014年5月14日 (水)

小説『シェークスピアの呪い』(4)

『マクベス』は、権力志向が強い妻にそそのかされて、策略を弄して邪魔者を全て殺害し、王位についたものの、亡霊に悩まされて、『マクベス』も妻もやがて精神を病むようになり、悲愴な結末へ向かう話です。

現代の科学知識で考えれば、良心の呵責から実在しない亡霊を幻影としてみるようになったのではないかと推測できますが、『シェークスピア』の時代の人たちは、『霊は本当に存在し、霊はある時出現する』と信じていたと考えるべきでしょう。

『良心の呵責』は、『精神世界』で人間が考え出した『抽象概念』で、感じ方に個人差がありますから、時折、凶悪殺人犯が『良心の呵責』を示さないのをみて、多くの人がイライラしたりします。

『シェークスピア』の時代の芝居では、役者が『霊媒師』として、舞台上に『霊』を呼び出して見せ、それを見たさに観客が集まりました。つまり役者は『マジシャン』でもあり、観客は、舞台で繰り広げられていることを『作り事の世界』として、必ずしも区別していませんでした。別の云い方をすれば、芝居はあらゆる娯楽の要素を組み込んで構成され、観客はそれを『作り事の世界』とは観ない傾向が強かったということになります。

現代の『オペラ』も、娯楽要素を総動員したものですが、観客は、舞台の上で繰り広げられている世界は、『作り事』として区別して観ています。『マジック・ショウ』や『手品』も、『騙されている』ことを承知で観ています。当時と現代の大きな違いがそこにあります。

『シェークスピア』は、芝居の脚本を書くにあたり、『霊を呼び出す方法』として、厳重に秘匿されていた『スコットランドの魔女の秘儀および知識』を、何らかの方法で取得し、それを最初の『マクベス』の台本に組み込んだのではないかというのが、この小説の想定筋書きになっています。

しかし、『魔女の秘儀および知識』が公になることを阻止しようとする人達の圧力で、『シェークスピア』はその部分を削除したのではないかという推測になっています。『シェークスピア』が当時スコットランドを訪れたという証拠は残っていませんが、旅役者一座に同行して赴いていた可能性は否定できません。

本当に『魔女の秘儀および知識』が存在し、それで本当に『霊を呼び出したりできる』のであれば、それは『超自然現象』で『オカルトの世界』ということになります。

この小説は、『オカルトの世界』の存在を肯定してはいませんが、『オカルトの世界』を狂信する現代人(犯人)が、『霊に生贄(いけにえ)を捧げる』『自分の若さや命を取り戻す』などの目的で、儀式的な猟奇殺人を繰り返す話になっています。

『オカルトの世界』は梅爺の好みではありませんので、このような筋書きは気にいりませんが、『シェークスピア』の時代は『オカルトの世界』と現実は区別されていなかったという視点で歴史を観る重要性は再認識しました。日本でも近世までは、『加持祈祷』で『悪霊』を鎮めたり、病気を癒したり、戦いに勝つ力を得たりできると一般に信じられていました。

現代でも、多くの人が心の中で疑いながらも、神社仏閣では『祈願』することを習慣にしています。梅爺も、『習慣だから』とあまり抵抗なく手を合わせたりしています。『精神世界』で形成された社会常識、信仰常識の慣性は大きく、ちょっとやそっとでは覆ることはありません。

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2014年5月13日 (火)

小説『シェークスピアの呪い』(3)

この小説では、『シェークスピア』の『マクベス』が重要な役割を演じています。『マクベス』は、『ハムレット』『リア王』『オテロ』と並んで『シェークスピア』の4大悲劇の一つとされ、4つの作品の中では最後(17世紀初頭)に書かれたものと推定されています。

現在残っている『マクベス』の脚本の総行数は、他の作品に比べてかなり少なく(作品が短い)、初稿はもっと長かったのではないか、『シェ-クスピア』が推敲して短くしたとしたら、それは何故かという疑問が残ります。

この小説では、初稿の中に、『魔女の儀式の詳しい内容やそれに関する秘密の知識』が含まれていたという想定で、この初稿版探しが重要なプロットになっています。勿論これはフィクションで、現実には初稿版は見つかっていません。 

『マクベス』は、12世紀に実在したスコットランドの武将『マクベス』をモデルにしています。劇の『マクベス』は、妻にそそのかされて王を暗殺し、スコットランドの王位につきます。そして今度は王座を守るために、疑心暗鬼で関係者を次々に殺害します。しかし、『マクベス』とその妻は、殺した人達の亡霊に悩まされ、徐々に正気を失っていき、『マクベス』の殺害を逃れイングランドへ亡命した人が結成した軍隊の復讐攻撃で、悲壮な最期を遂げることになります。『マクベス』という芝居の冒頭で3人の魔女が登場し、その後の展開を予言します。予言は当たるのですが、その内容を誤解した『マクベス』には悲劇が待ち受けています。 

劇の『マクベス』は乱心の暴君ということになっています。実在の『マクベス』は下剋上で王位を手に入れたのは確かですが、当時下剋上は、別に珍しい話ではなく、17年間王位にあったことから、暴君ではなかったと考えられています。 

黒澤明は、『マクベス』を日本の戦国時代の話に脚色し直して、映画『蜘蛛巣城』を作りました。原作をかなり忠実に踏襲していますが、『能』舞台を思わせる演出で、見事な日本の映画になっています。

スコットランドは『魔女伝説』の宝庫で、『ハリー・ポッター』もこの風土を利用して誕生したものです。

中世のキリスト教による『魔女狩り』で、すっかり『魔女』は悪者のイメージになってしまいましたが、元々は土着の宗教の女性『霊媒者』であったのではないでしょうか。

スコットランド地方は、ヨーロッパの辺境で、高度な文明に浴する機会が少なかったと考えられてきましたが、最近の考古学の研究成果では、独自の高度な文明を保有していたらしいことが分かってきました。北欧との関係も深いように感じます。1万年前頃に現生人類が住み着いたと考えられていますので、日本の縄文時代とほぼ同じ時期です。日本と同様に、自然の中に霊が宿るとするアニミズムの信仰があり、霊との交流ができる女性『霊媒者(巫女)』の儀式が重要な役割を果たしていたのではないでしょうか。霊を呼び出す行為が『魔法』の概念となっていったものと思われます。

『ローマ帝国』も、イングランド、ウェールズまでは属州として支配しましたが、『カレドニア』と呼ばれていた北のスコットランドは、支配外でした。

この小説では、『スコットランド』『魔女伝説』を背景に、現代の連続猟奇殺人が展開します。殺人の動機に、『マクベス』初稿版に書かれていた『魔女の秘儀』が関与しているという想定になっています。

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2014年5月12日 (月)

小説『シェークスピアの呪い』(2)

前の小説『シェークスピアの秘密』の感想でも述べましたが、『シェークスピア』はその作品が戯曲の傑作として、今でも色あせないにもかかわらず、人物像の詳細は不明な点が多い謎の人物です。

16世紀から17世紀にかけての人物ですから、『エリザベス女王(1世)』の時代で、日本で云えば戦国時代末期にあたります。イギリスの『ストラトフォード・オン・エーボン』という町には、『シェークスピア』の生家(父親は革職人)が観光名所としてあり、近郊には『シェークスピア』の奥さんの生家も残されていますが、多くの人が『謎』として指摘するのは、作品の知的レベルの高さと、彼の生まれ育ちの間に大きなギャップがあるように見えることです。

現在ならば、『革職人の息子』から『偉大な作家』が出現しないなどという考えは偏見ですが、当時のイギリスでは、『貴族の子弟』で教育環境にも恵まれない限り、『シェークスピア』の作品の題材になった『歴史』知識や、卓越した言語表現能力は得られないはずだという指摘です。例えば、『シェークスピア』の死の年に、『英語版聖書(ジェームス王版聖書)』が初めて発刊になりましたので、彼の活躍した時代の『聖書』はラテン語で書かれたものであったはずです。

周辺に沢山の書物、新聞、雑誌、インターネット、百科事典、辞書、図書館があれば、能力と努力次第で誰もが『知識人、教養人』になれる可能性がある現代とは、確かに事情が異なります。

しかし、『天才』は『凡人』が思い及ばぬ能力を発揮するが故に『天才』であるとすれば、『革職人の息子』から『偉大な戯曲家』が誕生することはあり得ないとは言えません。

『生まれ育ち』と並んで『謎』とされているのは、作品の数が多いことです。『短期間にこれだけの作品を独りでは書けない』として、複数の作家の共同ペンネームが『シェークスピア』であろうとする観方があります。

しかし、『モーツァルト』が作曲した作品数(600曲以上)や、『円空』の木彫り仏像の数(数万体)は、『凡人』の常識を超えていますから、『シェークスピア』が一人の作家ではないとは言えません。

『シェークスピア』の人物像や、『精神世界』の全貌は、推測が困難ですが、作品を介して私たちは『シェークスピア』の『精神世界』の一端を垣間見ることができます。鑑賞者は自分の『精神世界』で『シェークスピア』の作品を受け止めますが、誰もが同じように受け止めるとは限りません。基本的に『精神世界』は個性が支配する世界であるからです。

より多くの鑑賞者のそれぞれの『精神世界』へ、影響が及ぶ作品が、『名作』として世に残ります。これが『芸術』の真髄です。

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2014年5月11日 (日)

小説『シェークスピアの呪い』(1)

4年前に、梅爺は『シェークスピアの秘密』という小説を読んだ感想をブログに載せました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-6c56.html

ハーバード大学で、英文学や『シェークスピア』を専攻し、講師も務めていた『Jennifer Lee Carrell』という女流作家のデビュー作で、『正体が謎とされるシェークスピアは一体誰なのか』を解き明かす歴史ミステリー小説です。梅爺は英語版ペーパーバックで読みました。

作者が『シェークスピア』に関する、持てる知識を総動員して、綿密なプロットを構成し、過去のイギリス、アメリカ、スペイン、現代のイギリス、アメリカを背景に、殺人事件(現在)の真相追求の最後に、『シェークスピア』の正体が潜んでいるという展開ですから、梅爺のような野次馬にはこたえられない小説でした。

梅爺は、英語の文体のニュアンスの違いを、適切に指摘できるほどの英語の能力は持ち合わせていませんが、それでもこの作家の文体は、『硬質』であり、英語がネイティブ言語である人たちにも、スラスラ気楽に読めるものではないのであろうと推察できました。英文学者の教養人が、余技に小説を書いたのですから、そうなるのでしょう。

『シェークスピア』に関する知識をこの一作で使い果たし、次回作は執筆が難しいのではないかなどと、当時梅爺はブログで予測しましたが、梅爺の懸念は裏切られ、同じ作家の『The Shakespear Curse(シェークシピアの呪い):Jennifer Lee Carrell著』というミステリー小説(ペーパーバック)が、書店の洋書コーナーに展示されているのを見つけました。期待して購入し読みました。

スコットランドの『魔女伝説』に絡む、現代の連続猟奇殺人に、アメリカ人の女流舞台演出家(主人公)が巻き込まれるというプロットです。『シェークスピア』の『マクベス』の初稿には、『魔女の儀式(秘儀)』の内容が記述してあったのではないかという想定で、この初稿原稿の行方も物語のカギとして登場します。

相変わらずの『硬質』な英語の文体の上に、随所に『シェークスピア』の戯曲の科白がちりばめられていたりしますから、梅爺は読解に少々てこずることになりました。400ページに、小さな活字体でぎっしり詰め込まれている英文は、老人の眼にも易しいとは言えず、肉体的にも疲労しました。

正直に感想を述べれば、第一作の『シェークスピアの秘密』の出色のできには及ばないと感じました。『魔女のオカルト的な儀式』を狂信する犯人の猟奇殺人(儀式のいけにえとして)という設定も、梅爺の好みとは遠いもので、評価を下げる要因にもなっています。

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2014年5月10日 (土)

脳とコンピュータをつなぐ(6)

この本には、網膜の機能を失った人に、人工の眼球にあたるものから得られる画像情報を『脳』へ送り込んで、視覚を取り戻す研究が紹介されています。残念ながら実用化には程遠いレベルです。

これは、『脳』への入力装置を人工のもの(人工眼球)に代えるというもので、『脳』そのものと『コンピュータ』という情報処理装置同士を、補間、相互援助の目的で直接連結することとは異なります。

『人工眼球』や『人工鼓膜』が実用化されれば、沢山の方を救済することになりますから、実現してほしいと思いますが、人工の外部入出力装置と、『脳』を『接続』する具体的な技術が必要になります。140億個ある『脳神経細胞』の一つを特定して、そこへ信号を送り込む、またはとりだすという技術は、素人が考えただけでも易しくはありません。頭蓋を開いて、配線するなどという直接的な方法は、生きている人間には適用できませんので、梅爺には具体的な手法が思い浮かびません。

『人工の入出力装置』や『コンピュータ』と、『脳』を『つなぐ』ためには、このような『BMI(Brain Machine Interface)』技術を確立する必要があります。総合的に考えて、『脳』と『コンピュータ』を『つなぐ』研究は、まだスタートラインに立っただけのような感じを受けました。

梅爺が気になるのは、『脳』と『コンピュータ』の『主従関係』です。現在私たちが『コンピュータ』を利用している形態は、『人間(脳)』が『主』で、『コンピュータ』を『従』に位置付けています。『人間』の『都合』『目的』『意図』に合わせて『コンピュータ』を利用します。

しかし、『脳』と『コンピュータ』を『つなぐ』ことになると、この関係だけでは済まずに、『対等関係』『主従関係の逆転』のことも考えなければなりません。

梅爺は保守的な人間ですので、『IT(情報処理技術)』と『人間』の関係は、あくまでも『人間』が『主』、『IT』は『従』であるべきと考えています。『IT』はあくまでも『道具』であるべきです。

主従逆転して、『道具』の奴隷になることを梅爺は望みません。『インターネット』の掲示されていた情報を、『正しい』として鵜呑みすることは危険なことです。自分の能力には限界があることも承知していますが、それでも普段から『考える』訓練を怠りなくしておいて、最後の判断は自分で行いたいと思います。間違いがあれば、それは自分の責任ですから、騙されたと責任転嫁するより、自分が至らなかったことを悔いることにしています。

『へそ曲がり爺さん』『可愛げが無い爺さん』と言われることになりますが、『IT』と自分の関係に関する価値観を、変えるつもりはありません。

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2014年5月 9日 (金)

脳とコンピュータをつなぐ(5)

生きている『人間』に負担をかけずに、『脳』と『コンピュータ』をつなぐ方法が必要になり、これが、研究の障壁になります。ラットやサルを対象とした生体実験のように、頭蓋を開いて、能に直接電極を刺すというようなことができないからです。

テレビから漏れる微弱な電波を間接的にキャッチして、今どのチャンネルを映しているかは特定できても、番組の中味の詳細を特定することは難しいように、『脳』から漏れてくる『脳波』を間接的に測定することで、興奮状態か鎮静状態かなど大雑把なことは分かったとしても、『脳』が何を考え、何を感じているかの詳細を特定することは、ほとんど不可能に近い話のように思えます。

『脳研究の最前線(第8章)』の著者藤井直敬氏は、ご自分の研究分野であることもあってか、この分野の研究が着々と進行し、将来の展望も明るいといった楽観的なニュアンスで著述されていますが、『精神世界』の情報処理形態を解明することはそう簡単ではないと梅爺は感じました。

映画『マトリックス』のように、『コンピュータ』が創り出す『仮想世界』へ、『人間』が仮想体験として入り込んで、活劇が展開されるというような状況は、直ぐには実現しません。

人間の『精神世界』では、現実の制約を受けずに、どのような発想、空想も可能です。『鉄腕アトム』に出現した、当時の『未来世界』の多くは、現在実現されていますから、『マトリックス』の世界も、荒唐無稽と断ずることはできませんが、ことが『脳』を対象としているだけに、難しいと言わざるをえません。『精神世界』での発想が、人類の文明社会を進展させる原動力になっていることは確かですが、何が実現可能か、何が困難かを慎重に推定することもまた重要です。

『脳』と『コンピュータ』をつなぐ以前に、もっと『脳』の研究そのものが進まなければなりません。140億個といわれる脳神経細胞が創りだす、個性的、流動的なネットワークが機能する『しくみ』を理解することが先決です。仮にアインシュタインの『脳神経細胞ネットワーク』のある時点の状態を、外部の装置にダウンロードできたとしても、その『人工脳』が、新しい物理理論を産みだせるかどうかは分かりません。ダウンロードした次の瞬間に、アインシュタインの『精神世界』は変容してしまっているはずです。

外部の『コンピュータ』が、『脳』の意図を自動的に認識して、『脳』の働きを補強、支援してくれるという話は、一見魅力的ではありますが、『余計なおせっかい』であるようにも思えます。『脳』の個性が補正されて、全員が同じレベルの『脳』になったら、人間社会はどうなるのかを考えただけでゾッとします。人間は一人一人違っていることで輝いているのです。

『脳』に損傷を受けた人の病状を直すなど、勿論研究には肯定されるべき面もありますが、健常者を対象として、『脳』や『遺伝子』に、人工的な手を加えることは、個人の幸せや社会の健全性にも影響を与えかねません。これは『科学』の分野以外の判断を必要としますが、科学者もこのことには敏感であって欲しいと思います。

『ありのままの梅爺』が梅爺の存在価値であって、無理やり外の力を借りて『立派に仕立てられた梅爺』はもはや梅爺ではないような気がします。そのようなものにあこがれる気持ちにはなれません。

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2014年5月 8日 (木)

脳とコンピュータをつなぐ(4)

地球上の生物で、『脳』を保有しているのは『人間』だけではありません。『カンブリア紀』に出現した節足動物、脊椎動物に最初の『脳』の原型があったと考えると、『脳』の歴史は約5億年程度になります。

『基本的な生命機能制御』『複雑化した身体の運動制御』などから、やがて『感覚器官と連動した情報処理制御』と『脳』の機能は進化、拡大していったものと推察できます。

つまり、『脳』は、増築を繰り返して大きくなっていった建築物のようなもので、『人間』の『脳』も、例外ではありません。このことは、『人間』も、生物進化のプロセスで出現したことを如実に物語っています。

『コンピュータ』の『オペレーティング・システム(OS:基本ソフトウェア)』は、機能拡張、機能変更するために『バージョンアップ(世代変更)』が行われます。この時、『古いバージョンで使えた機能を、新しいバージョンでも使えるようにするかどうか』が、開発時のコンセプトとして重要になります。新バージョンで、機能を継承することを『互換性(Compatibility)の維持』と呼びます。

利用者からすれば、『互換性の維持』は、是非踏襲してほしいことになりますが、開発者にとっては、大きな負担になったり、新バージョンの効率を落とす要因にもなります。古いバージョンの『足かせ手かせ』を全て捨て去って、最初から新規に開発した方が、スマートな製品になることもありますから、時にメーカーは、『互換性の維持』を放棄します。このため、私たちは新しいバージョンを買ってから、『アレ、あの機能、あのプログラムが使えなくなった』と右往左往します。

しかし、『脳』は、増築を繰り返すごとに、以前の機能は律義に踏襲してきました。『あの機能が使えない』では、生きていけないからです。そのため、効率が悪くなったこともあるに違いありませんが、『互換性の維持』を最優先してきたことになります。『安泰を最優先にする』などの生物としての原始的な共通本能も、当然継承されています。

『脳』と『コンピュータ』をつなぐ時に、『脳』のどの機能と連携するのかが、問題になります。『脳』の土台となっている『生命機能制御』『身体の運動制御』は、誰でも共通する制御系なので、『コンピュータ』との連携が比較的やりやすい領域になります。心臓の『ペース・メーカー』は実用化されていますし、歩行介助ロボットなども実用化間近です。

問題は、『感覚器官と連動した情報処理機能』の分野で、『脳』と『コンピュータ』が連動できるかどうかです。『感覚器官と連動した情報処理機能』は、『人間』が進化の過程で最後に獲得(増築)した『脳』の領域で、梅爺が度々ブログに取り上げてきた『精神世界』を創り出しています。

この領域は、『理』と『情』、『意識』と『無意識』が絡み合って判断を下すことが特徴ですが、そのベースに、本能的な情感、推論、記憶の参照などが複雑に関与します。何よりも、これらは、『脳神経細胞ネットワーク』で行われ、このネットワークのパターンは、『個性的』で『流動的』ですから、一律の『コンピュータ』との連携というわけにはいかなくなります。

言いかえれば、『人間』の『精神世界』を対象として『コンピュータ』との連携は、極めて至難の業であるということになります。人間が『何を感じているか』『何を考えているか』を、『コンピュータ』が正しく自動認識することは、そう簡単に実現できるとは思えません。特に『意識』と『無意識』の判別は困難を極めるのではないでしょうか。

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2014年5月 7日 (水)

脳とコンピュータをつなぐ(3)

『脳』と『コンピュータ』は、ともに『仮想世界』を構築できることが共通しています。『脳』の『仮想世界』は、梅爺がブログに何度も引用する『精神世界』で、『コンピュータ』の『仮想世界』は、『バーチャル・リアリティ(仮想現実)』と呼ばれるものです。

人間は『精神世界』で創りあげた『仮想世界』を、何らかの手段で表現することができます。つまり、『コンピュータ』がなくても、人間は『仮想世界』を表現することができます。

文字で表現すれば『小説』『童話』となります。『小説』は英語では『Fiction(虚構)』と、『童話』を『Fairy Tale(妖精の語り)』と言いますから、『仮想』であることがより鮮明に表現されています。音で表現したものが『音楽』で、色や形で表現したものが『絵画・彫刻』です。つまり、『芸術』は、人間の『精神世界』が創り出した『仮想世界』の一端を表現したものであることが分かります。『芸術』は、人間同士が『絆』を確認するために、絶大な効果を発揮しますが、人間以外には意味をなしません。『モナリザ』をうっとり眺める犬や猫はいませんし、『芭蕉』の句に『ワビ・サビ』を感ずる草木もありません。

ややこしいことに、人間は自分が接する『物質世界』の事象も、言葉や記号などを使って表現できます。『虚構』ではなく『事実(Non Fiction)』も表現できるということです。『科学』の論文などはこれに属します。『事実』は『現実世界』の事象ですから、表現されたものが『仮想世界』の事象なのか、『現実世界』の事象なのかを、私たちは日常判別する必要に迫られます。

梅爺は、『精神世界』と『物質世界』の違いに気付いてから、意識的に事象を区別するようになり、多くのことが『なーんだ、そういうことか』と納得できるようになりました。しかし、少々不遜な言い方で恐縮ですが、多くの人たちが、昔の梅爺と同様に、『仮想世界』と『現実世界』の事象を混同して、物事の理解を難しくしてしまっているように見えます。

『聖書』や『歴史書』に書かれていることが、全て『事実』と考えると、書かれている内容の矛盾で悩むことになり、ついには『奇跡』などという強引な説明まで登場します。『虚構』が含まれているとすれば、矛盾から解放されますが、こんどは『自分に都合の悪い表現』は、全て『虚構』として排除することにもなりかねません。人間は『精神世界』の価値観で行動し、その結果が、『物質世界』の『事実』に影響を与えたり、『事実』そのものとなって残ったりしますから、両者の関係は実にややこしい限りです。

人間の生命活動の基本は『物質世界』の『摂理』に支配されていますが、精神活動は、自分の『精神世界』が創り出す価値観を基盤にして展開しています。この二重構造を正しく理解しないと、自分も人間も見えてきません。

『物質世界』の事象である、天災は、あっけなく人の命を奪います。命を維持できない環境を『摂理』がつくりだすからです。どんな崇高な『精神世界』の保有者でも、差別なく容赦はありません。しかし、幸運にも『摂理』で『生かされている』間、個人の『精神世界』は、心がけひとつで、崇高な輝きを放つことができます。『生かされている』ことに感謝をし、少しでも『精神世界』を磨こうと努力することが、人間としての『恩返し』なのではないでしょうか。命を粗末にしたり、『精神世界』を荒廃させたりすることは、実に『もったいない』話です。

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2014年5月 6日 (火)

脳とコンピュータをつなぐ(2)

現在では、あらゆる家電機器、情報機器、自動車に、コンピュータは組み込まれていて、利用者の意図に合わせて(または安全稼働のために)機械が作動するように、プログラム(ソフトウェア)が内蔵されています。『洗濯機』『電気釜』『エアコン』『テレビ』なども、実は多くの機能がコンピュータで制御されています。このように『黒子(くろこ)』として機械に組み込まれるコンピュータは、『Embedded Computer』と呼ばれ、特にソフトウェアを開発する技術者の数が日本では足りないために、梅爺が勤めていた会社では、中国やインドに専門の会社を設立したりして補っていました。これらのソフトウェアは、日本語の素養をそれほど必要としないために、外国での開発が比較的容易になります。 

人間(利用者)の『脳(意図)』と、機械に組み込まれた『コンピュータ』は、分担してある目的を実行しているわけですから、『脳とコンピュータは既につながっている』と言えないことはありません。 

しかし、このブログで書こうとしている『脳とコンピュータをつなぐ』は、文字通り、『脳』と『コンピュータ』が、直接何らかの通信手段でつながり、より密接な共同作業を行うことを意味しています。情報処理のために神経細胞ネットワークを流れる信号(微細電流)をとらえ、この情報を『コンピュータ』に入力して、共同作業を行おうという試みです。 

分かりやすい事例では、『行動介助ロボット』があります。自力(自分の筋力)では歩行できない人に、『行動介助ロボット』を装着し、歩行を可能にするというものです。これを健常者に応用すれば、重いものを持ち上げる援助なども可能になり、過酷な労働環境を緩和できます。 

そこまで進んでいるなら、『脳とコンピュータをつなぐ』ことは、直ぐにもできるようになるのかと言うと、そうはいきません。 

『行動介助ロボット』では、『脳波』ではなく、筋肉を動かすために『脳』が末端神経系に流した信号を利用していますので、『誰でも共通の対応』ができますが、『精神世界』は、各人の『脳神経細胞ネットワーク』のパターンは異なっていて、機能も異なりますから、『脳波』をとらえてみても、厳密には『共通の対応』情報としては利用できないからです。 

『精神世界』は、個性的で、しかも時々刻々変容していますので、共通の対応方法を見つけることは至難の業です。 

『脳とコンピュータをつなぐ』試みは、どんどん進むと思いますが、誰もが思いのままにコンピュータと直接的につながって、共同作業をするというレベルは、そう簡単には実現できないでしょう。『脳神経細胞ネットワーク』の機能は、十分解明されていないこと、ネットワークのパターンが個性的であること、ネットワークは流動的に変動していることなど、克服しなければならない難題が山積みであるからです。

人の名前や地名が、思いだしづらくなってきた梅爺は、外部記憶装置に援助してもらえるのはありがたいことのようにも思いますが、口に出さないホンネが、相手にばれてしまったりするのは困りますから、そのような装置に頼らず、衰えゆく脳と、なんとか付き合いながら生きていく方が幸せであるような気がします。

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2014年5月 5日 (月)

脳とコンピュータをつなぐ(1)

『脳とコンピュータをつなぐ』と聞いただけで、色々な可能性や問題点を想起できる方は、かなり『科学通』です。 

『脳研究の最前線(上下巻):講談社ブルーバックス』の第8章『つながる脳』(著者は理化学研究所の藤井直敬氏)を読んで梅爺は大変啓発されました。基本的に、『脳とコンピュータをつなぐ』可能性を論じた内容であったからです。 

現代人は、『脳科学』に関する最新の断片的知識に取得し、自分の頭蓋の中に『脳』を保有していることを、強く意識するようになりました。そして、多くの人が『脳』に関心を抱くようになりました。知識と自分の体験を付き合わせてみて、『脳』を探索し始めたことになります。梅爺もその一人です。

問題は、『脳科学』の専門領域が細分化され、高度化したために、科学者が定義して使う『言葉』と、私たち素人が、日常的に『脳』に関して使う『言葉』との間に乖離(かいり)が生じていることです。

この本でもその例がいくつか紹介されています。『脳の活性化』と言う表現もその一つで、私たちは『脳トレで脳を活性化する』などと、ジムで筋肉を鍛えるのと同様に、健康維持のために『好ましい行為』と受け止めますが、科学者が『脳の活性化』と言う時には、『脳のある部位の神経細胞が機能を発揮する(発火すると表現されることもある)』という意味で用いるだけで、『好ましい』などという概念とは無関係です。

『心』などという言葉に至っては、受け止め方に大きな差があります。科学者は『心』を、『自分の視点を自分から他人へ動かし、他人の視点でモノを考える能力』と定義します。私たちは自分なりの言葉の意味にこだわっていると、このような定義に戸惑うことになります。『科学』は普遍的な真偽を見極める行為ですから、関係者が合意し、誤解を産まない『定義』が極めて重要になります。相手の『定義』を受け容れようとする姿勢は、まさしく『科学』が『定義』する『心』の表れになります。

梅爺は、『梅爺閑話』の中で、勝手に『物質世界』『精神世界』などという言葉を乱用していますが、もし、『梅爺閑話』を科学論文として世に問うのであれば、最初に厳密な『定義』をする必要があります。梅爺なりの『定義』は、ある程度可能ですが、それよりも、大雑把な考え方が、読者に伝わればよいと、手抜きをしてしまっています。従って、このブログでも『物質世界』『精神世界』という言葉を使って話を進めます。

『脳』の、『物質世界(素材や、エネルギーを利用した物理反応、化学反応などを対象とする現実世界)』の側面と、『精神世界(抽象概念、記憶、推論などを対象とする仮想世界)』の側面を分けて考えた方が分かり易くなります。勿論、両者は無関係ではなく、『物質世界』が機能していることで『精神世界』が機能するという考え方が前提です。分かり易く言ってしまえば、『脳が生命活動を維持できなくなれば、精神世界も消滅する』と梅爺は考えています。『死後の霊が永遠に存続する』などという可能性は、梅爺の『理』では、全く思いつきません。つまり『信ずる』ことを『理』が阻(はば)んでいます。しかし『信じている』方の存在を否定するほど頑(かたく)なではありません。『精神世界』の基本が『個性』であり、『信ずる』ことを『疑う』事に優先する方も存在するであろうと推測できるからです。

科学が定義する『心』は、梅爺の『精神世界』の機能の一つに相当します。『相手の視点でモノを観る能力』は、道徳、倫理では『思いやり』の原点で『大切なこと』ということになりますが、科学は、何故そのような能力を人間は保有しているのか、という因果関係を追求します。

梅爺の推測は、生物進化の過程で『心』を獲得したというもので、因果関係は以下になります。

(1)自分の安泰を希求する本能の獲得(生物に共通する本能)
(2)安泰を構成する一つの条件として群で生きることを選択
(3)群の中で安泰を確認するために、他人の考え方を見極める能力を獲得

『心』というと、大変崇高な概念のように聞こえますが、実は生物として生き残りの可能性を高めるために、『自分の都合を最優先する本能』が原点であるという考え方です。これは梅爺の『仮説』であって、科学の認める『定説』ではありませんが、梅爺は個人的に大いに納得しています。

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2014年5月 4日 (日)

禁断の木の実(6)

『エデンの園』にあった、『命の木の実』と『知識の木の実』の寓話は、人間の本質について的を射ているように感じます。

梅爺流に勝手に解釈すれば、『命の木の実』は、『肉体的に生きる元』であり、『知識の木の実』は、『精神的に生きる元』ということに考えられます。

『神』が『人間』に『知識の木の実』を食べることを禁じた『真意』は計りかねますが、確かに『精神世界』を獲得したことで、『人間』は、他の生物より、素晴らしくもなり、おぞましくもなったと言えるでしょう。

『神』はおぞましい人間を嫌ったというより、『神のように振舞う』人間を嫌ったということでしょうか。

『精神世界』は、自分に都合のよいことを優先しようとする習性がありますから、この暴走がおぞましさを引き起こします。この暴走に唯一ブレーキをかけられるのが、同じく『精神世界』に存在する『理性』です。

『理性』は主として後天的に得られる能力で、人間は成長の過程で、色々な体験をしながら『理性』を磨いていくことになります。『勉強をする』『自分で考える』ことが要(かなめ)です。

梅爺は、自分が獲得したなけなしの『理性』を振り絞って考えてみて、『肉体的な命』は、『物質世界』の『摂理』で維持されていると推定しています。何らかの理由で『摂理』が適用できなくなった時点で、『死』が訪れます。『肉体』の一部である『脳』が、『精神世界』を生み出していますが、『肉体』の『死』で、『脳』も『死』を迎えますから、『死』によって『自己』の全てが『無に帰す(消滅する)』という論理帰結になります。『霊』だけが『物質世界』における実態として、永遠に存在し続けるという根拠が見つかりません。

仮に死後、なんとか『エデンの園』へたどり着き、『神』に許されて『命の木の実』を食べ、『永遠の命』を得た自分を想像しても、大変申し訳ないことに、それが幸せであるという実感が湧きません。

むしろ『死で自分の全ては無に帰す』ことを覚悟を決めて受け容れ、せめて『今生きていること』を大切にしたいと思っています。『命に限りがある』からこそ命は尊いのではないでしょうか。

『永遠の命』とは言えませんが、人は『生きた証』として、子孫を残したり、時に何らかの『作品』を残したりしています。

梅爺が『梅爺閑話』を書いているのは、『今生きている自分を確認する』ためで、『作品』として、末代までも残そうなどと、大それたことは考えているわけではありません。

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2014年5月 3日 (土)

禁断の木の実(5)

使徒『パウロ』は、生前の『キリスト』とは面識がありません。全て『伝え聞いたこと』をベースに『キリストの教えの真価』を理解し、帰依していったことになります。その時代の布教の『権威』は、エルサレムで共同生活をしている、『生前のキリストから直接教えを受けた弟子たち』が担っていました。

『ギリシャ語』ができ、教養人であった『パウロ』は、ユダヤ以外の外国への布教を主に担当しました。『外国人を信者として受け容れる』ために、エルサレムでは発生しない問題を沢山抱えたことになります。

エルサレムの弟子たち(主流派)は、外国人を信者として受け容れることには反対はしませんでしたが、考え方は保守的で、外国人が『ユダヤの戒律』を守ることを条件としようとしました。『ユダヤの戒律』は、ユダヤ教聖典(キリスト教の旧約聖書)に書かれている『神との約束事』で、日常生活のしきたりを含め、事細かに決められています。主流派は、外国人を受け容れることでは、『ユダヤ教』より革新的でしたが、『戒律』は『ユダヤ教』に止まっていたことになります。

一方、理論家の『パウロ』は、『キリストの教えを信ずること』にとって『ユダヤの戒律』を守ることは、重要なことではないという主張(論理)を展開します。更に、外国各地の信者集団(教会)が抱える問題に、手紙(ギリシャ語)で自分の『考え方』を伝えています。これらの手紙の多くは、『新約聖書』に採用されています。初期のキリスト教の中心人物が、自ら『書いた文書』ですから、キリスト教の歴史で、最初の記述された貴重な『文書』ということになります。『パウロ』の時代は、まだ『新約聖書』は存在していません。

生前の『キリスト』も、『キリスト』の死後エルサレムで布教した弟子たちも、誰も『文書』を残した形跡がありません。弟子たちには失礼な表現ですが、『頭の良さ』では、圧倒的に『パウロ』が優っているように思えます。

『パウロ』は、意見調整のために、何度かエルサレムの主流派を訪問しています。しかし、『ユダヤの戒律』を重視しない『パウロ』は、一般ユダヤ人からは攻撃の対象になり、命を狙われるほどでした。好ましからぬ『異端者』として、為政者たちからも追及され、囚われの身で生涯を終えています。

後に『ローマ帝国』の『国教』になった、『キリスト教』では、逆に『パウロ』の考え方こそ『好ましい』ものでしたから、一躍『パウロ』は、『キリスト教の聖人』として崇められるようになりました。

『原罪』や『キリストによる贖罪』などという教義の礎を築いた功績の他に、『愛』の重要さを説いたことで『パウロ』の教えは、脈々と今日まで色あせずに継承されています。

『パウロ』がいなければ、今日の『キリスト教』は、なかったでしょう。

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2014年5月 2日 (金)

禁断の木の実(4)

『「新約聖書」の誕生:加藤隆著(講談社選書メチエ)』を読んでいて、使徒『パウロ』が、『キリストの十字架の死は、私たちの罪を身代わりで贖(あがな)ってくださったもの』という『考え方』を、思いつきで云いだしたのではなく、周到な論理思考で構築したらしいことを知りました。

この話が本当なら、『パウロ』は、かなりの理論家です。この『十字架による贖罪』という『教義』こそが、後のキリスト教の真髄ですから、『パウロ』の功績は計りしれません。

驚くべきことに、『エデンの園』の話と『十字架の死』を結びつけて『パウロ』は、『贖罪』『原罪』という『考え方』を導き出しています。こうなると『エデンの園』の話は、単なる創り話では済まされなくなります。この話が無ければ、中心的教義は生まれなかったかもしれないからです

『パウロ』の論理思考を追従して、以下に記述します。このためには、『エデンの園』の話に込められている重要ないくつかのメッセージを理解しておく必要があります。

『エデンの園』の中央には、2種類の木があり、それぞれ『知恵の木の実』と『命の木の実』がなっていました。『神』は『人間』に、『知恵の木の実』を食べることを禁じましたが、『命の木の実』を食べることは禁じませんでした。

つまり、『人間』は『神』の命令に従っていれば、『命の木の実』だけを食べて、楽園で『永遠の命』が保証されていたことになります。

ところが、『人間』は禁断の『知恵の木の実』を食べてしまいました。『知恵の木の実』で『善悪を識別できる能力』が得られますが、本来この能力は『神』だけが持つものでした。この結果、『人間』は、『自分も神と同じだ』と傲慢に考えるようになり、『エデンの園』から追放されてしまいました。

この『自分も神と同じだ』と思いあがることが、『人間』の『原罪』ということになります。そう言われると、地球を消費しつくそうとしている現代人の行為は『原罪』そのものと言えそうです。

『人間』は『エデンの園』から追放されたために、『命の木の実』を食べられなくなり、『死』が宿命づけられました(人は何故死ぬのかという問いに対する回答)。

一転して、『キリストの十字架の死』を考えると、『キリスト』は『神の子』ですから、『罪の無い存在』ということになります。その『キリスト』が『罪』のために処刑されたとなると、これはご自分の『罪』ではありえませんから、私たちの『罪(原罪)』をすべて身代わりに贖ってくださったと考えるほかありません(この論理は、少々飛躍がありますが)。

私たちの『罪(原罪)』が許されれば、再び『エデンの園』へ戻ることができ、『命の木の実』を食べて、『永遠の命』に与ることができるようになります。平たく言えば、『神を信じて、(死んで)天国へ行けば、永遠の命が得れる』という帰結になります。

いかがですか、『パウロ』の論理がお分かりいただけたでしょうか、そしてこの『論理』には、どういう難点があるか思いつかれたでしょうか。つまりこの『論理』には、いくつかの前提が存在し、その前提が全て『真』であることが必要になります。

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2014年5月 1日 (木)

禁断の木の実(3)

聖書によれば、『神は自分の姿かたちに似せて人を創った』ということになっています。『精神世界』で、人間が『そうあって欲しい』と願って創り上げた『話』として済ませば、何ら問題がありませんが、『物質世界』で起きた事象であるということになると、『偽』の可能性が高いと言わざるをえません。人間の姿かたちは、『生物進化』のプロセスで無数の偶然が積み重ねられて形成されたもの、というのが『科学』の定説です。『生物進化』を巻き戻しして、再開しても『人間』が今の形で登場するとは限りません。少なくとも、突然現状の姿でこの世に出現したものでもありません。

『精神世界』では、どのような発想も可能ですが、それと同じことが『物質世界』にも存在する、起きたと言いだすと、話は混乱します。『大きな耳をはばたかせて、小象のダンボが空を飛んだ』『玉手箱の煙で浦島太郎はお爺さんになった』という『精神世界』が創りだした空想の話を聞いても、『ダンボ』や『浦島太郎』が実在すると思う人は少ないと思いますが、『神が天地を創造した』という『話』になると、科学知識が豊富な現在でも、それを『事実』として『信ずる』人が多く存在するのは、どういうことなのでしょう。

『おいおい、待って下さいよ。神と、ダンボや浦島太郎を一緒にするとは何事ですか』とお叱りを受けそうですが、梅爺は、『神』も人間の『精神世界』が考え出した抽象概念であると推定しています。従って人間のいない世界には『神』も存在しないという推定になります。この『推定』も、梅爺の『精神世界』が推論で発想したものです。

『精神世界』に限定する限り、『神は全知全能である』『神は天地を創造した』『神はアダムとイヴをエデンの園から追放した』『神は怒ってロトの妻を塩の柱に変えてしまった』『神の子イエスをこの世に遣わした』『神は私たちの祈りを聞き届けて下さる』と、どのような表現も『可能』になります。

しかし、『神』が『物質世界』に実体として存在するということになると、『物質世界』の摂理に照らして、上記の表現の『真偽』を検証しなけれなならなくなり、証明は難しくなります。『物質世界』はすべてその摂理に支配されていて、例外はないという前提での話です。従って、梅爺は『物質世界に神が存在しないだろうと想像すはしますが、証明能力が無いので分かりません』としか言いようがありません。

しかし、梅爺の、『神は人間の精神世界が創りだした抽象概念であり、物質世界には存在しない』という前提で、自然界、人間界の事象や、人間および人間社会の行動や思想を眺めてみると、多くの不思議が解消し、狐につままれたように『なんだ、そういうことだったのか』と得心がいくようになりました。この結果、『自然の摂理』で自分が『生かされている』という感謝の念はつのりましたが、『神様に何かをお願いする』ことはあきらめるようになりました。今のところ、この考え方が気に入っています。

梅爺にとって興味の対象は、『神は存在するかどうか』ではなく、『何故、精神世界で神と言う抽象概念を人間は必要とするか』ということです。多分、『安泰を希求する本能』が、必然的に導き出す概念で、『愛』や『正義』なども同類であろうと考えています。

『愛』や『正義』も『物質世界』に実体は存在しません。自然界は、『愛』や『正義』とは無縁の摂理で、変容を続けているに過ぎません。天災は、『神』が私たちへ突きつけた『試練』などではありません。

世の中には、コチコチの『無神論者』という、『神』と聞いただけで何から何まで否定する人達がいますが、梅爺は『精神世界の抽象概念として存在することと、その存在意義は理解している』という点で、立場が異なります。『神』との絆を信じる人が存在し、『心の安らぎ』を得ておられることも理解していますので、『宗教』は意義が無いとは思いませんが、『心の安らぎ』は、『宗教』でしか得られないとは考えていません。

梅爺のような主張をされる方に、あまり遭遇したことがありませんので、自分は極めて特殊な部類に属するらしいと感じています。

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