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2014年3月31日 (月)

初期のキリスト教(8)

『キリスト教』は、私たちにとっては既存の『宗教』ですが、『イエス・キリスト』自身および、『イエス』の処刑後、弟子たちが集団で始めた布教の時点では、自分たちが『キリスト教』という新しい『宗教』を担っているとは考えていなかったと思います。 

あくまでも既存の『ユダヤ教』宗派に満足しない人達が、新しい『神との関係の在り方』を主張し始めたということになります。 

しかし、基盤は『ユダヤ教』であり、『ユダヤ教』は、『ユダヤ民族のための神(ヤーヴェ)を信仰する宗教』ですから、『イエス』や弟子たちの主張をユダヤ民族以外の『外国人』が受け容れ始めた時に、『ユダヤ教』の戒律や考え方の一部を変更せざるをえない矛盾を抱えたことになります。 

『外国人』が受け容れ始めたのは、『イエス』の教えが、『人間』に普遍的に適用でる内容を含んでいたからです。『人間』は、身体と心の両面が『健全』であるときに、真の『安泰』や『生きる喜び』を得られるという特性をもった生物であるからです。 

裕福な貴族として生まれ、若い時には放蕩の限りをつくし、作家として大成功をおさめた『トルストイ』が、晩年、全ての財産を放棄し、心の『健全』を『キリスト教』に求めた例が、『人間』とは何かを暗示しています。真剣に自分の『精神世界』を覗きこめば、必ず『安泰』の問題へ気付き、それが『自然との共生』『他人との絆』と深くかかわっていることに思い当たるはずです。 

『トルストイ』が、『ロシア正教は間違っている』として破門されたように、『イエス・キリスト』は『ユダヤ教は間違っている』と主張して、処刑されたのではないでしょうか。『トルストイ』が理想とする『キリスト教』を信奉した人達は、後にスターリンによって処刑されています。真剣に心の問題に向き合えば、既存の『宗教』のもつ、俗世的なしきたりや妥協が、許せないということになり、為政者にとってそういう信仰は極めて目障りということになるのでしょう。 

『ユダヤ教』のどの部分が、『人間』の普遍的な『安泰』を提供するには『不都合』かを、鋭く見抜き、大胆にその部分を『ユダヤ民族の誤認』と切り捨てた『パウロ』の英断は、見事なものです。 

『割礼』などの習慣も、外国人には必要無しとし、『神』をユダヤ民族だけのものという認識は『間違い』と断じたことになります。これで、『人間』なら誰でも信仰できる『キリスト教』が誕生しました。しかし『パウロ』は、『ユダヤ教』からは、『異端者』『裏切り者』の汚名を着せられることになりました。 

『パウロ』は、『旧約聖書』のどの部分が『ユダヤ民族の誤認』であるかを見抜いたはずですが、その後『キリスト教』が聖典として『旧約聖書』も採用し、『パウロ』の主張があやふやになってしまっているように梅爺は感じます。 

最初の布教で、『イエス』に『権威』を付与するために『旧約聖書』の都合のよい部分を利用したのは肯けるとしても、その後『キリスト教』が『旧約聖書』を聖典と定めたことが、矛盾を抱える原因になってしまっています。 

『釈迦』や『イエス・キリスト』の教えの普遍的な部分が、その後の『宗教』の確立過程で、むしろぼやけてしまっているように梅爺は感じます。『釈迦』や『イエス・キリスト』が、現在の『仏教』『キリスト教』の、形式、様式をみたら、戸惑うのではないでしょうか。『トルストイ』と同じく、彼らは『人間の安泰』は、心に依存する部分が大きいことを深く洞察していたことになり、それ故に『教え』の本質は、必ずしも宗教の視点で観なくても普遍的であると、梅爺は考えています。

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2014年3月30日 (日)

初期のキリスト教(7)

エルサレムに本拠を置く、主流派も、グループの規模が大きくなって、『共同生活』の運営が難しくなっていきます。特に貧しい信者が多数加わると、経済的貢献度で、金持ちの信者に『不公平』という不満が広がり、これに厳しい態度で接した『ペテロ』の人望も薄れて言ったと言われています。更に、時の経過とともに、『イエス』直々の弟子たちも高齢化して、やがてこの弟子たちがいなくなった時に、民衆に対して何を『権威』とするかも問題になり始めます。

多分、このような問題があって、『ペテロ』は代表の座を退き、グループの長が『イエスの兄弟ヤコブ』に変ったと伝えられています。『ペテロ』はこの後、伝道活動だけに専心し、『ユダヤ戦争』が始まる頃に、ローマで殉教したと考えられています。『ペテロ』の処刑地、墓の場所に、カトリックの総本山バチカン大聖堂(サン・ピエトロ寺院:聖ペテロ寺院)が建立されたと言うことになっています。

新しくグループの長になった『イエスの兄弟ヤコブ』という人物も、分からないことが多い人物ですが、グループ内での人望は高い人であったようです。

新約聖書によれば、『イエス』には4人の男と2人の女兄妹がいたことになります。ヨセフと聖母マリアの間に7人の子供が生まれ、その一人『イエス』だけが『神の子』という説明は、現代人には理解が難しい話です。

『カトリック』では、聖母マリアの処女性にこだわり、これらの兄弟は異母兄妹や『イエス』の従兄弟たち(ユダヤでは従兄弟も兄弟と表現するという主張)であると苦しい解釈をしています。

能天気な梅爺は、『イエスの神性、マリヤの処女性』にこだわらなければ良いのにと思いますが、それでは教義の権威が失墜することになるのでしょう。

『イエスの兄弟』は、生前の『イエス』の伝道に関与しているようには思えませんので、『イエス』の死後、信者に加わったということなのでしょうか。それならば『聖母マリヤ』や『マグダラのマリヤ』も、この『初期キリスト教』のグループに属していたということなのでしょうか。疑問は次々に湧いてきます。

この後、エルサレムは『ユダヤ戦争』で、壊滅的に破壊され、ここを本拠としていた『初期のキリスト教』グループは、大打撃を受けたと想像できます。

しかし、この頃までに、外国への布教が進められており、そこに信者グループが『教会』として存在していましたので、その後の布教は、これら外国都市の『教会』を拠点として行われていったことになります。

『ギリシャ語』ができ、教養人であった『パウロ』が、この新しい伝道段階で、キリスト教の主導者になっていったのには、このような背景があります。

『アンティオキア教会(現在のシリアの都市)』で、ユダヤ民族以外の外国人が信者に加わるようになり、この是非をめぐって、エルサレムの主流派と、考え方の調整が行われました。『パウロ』は、外国人は『割礼』などのユダヤ習慣を守らなくても信者になれるという、柔軟な対応で望みます。

この時点で、『ユダヤ教の一流派』から『キリスト教』が、分かれる機運が始まったことになります。

『パウロ』も『ユダヤ戦争』の始まりの頃、伝道途上で殉教死を遂げたとされています。しかし、『パウロ』こそが『キリスト教』の基盤を創った人物で、彼がいなければ今日の『キリスト教』は無かったと梅爺は想像しています。

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2014年3月29日 (土)

初期のキリスト教(6)

『イエス』の処刑後、エルサレムは、当局の監視の眼も厳しい場所であったはずですが、ここで、『ペトロ』を中心とした弟子たちによる『初期のキリスト教』が産声をあげたことになります。エルサレムは『イエス』の処刑地でもあり『神殿』の所在地でもありますから、ここで活動を開始することに意味があったのかもしれません。この頃は未だ『新約聖書』もありませんから、『イエス』同様に口頭の話のみが布教手段であったはずです。

生活様式は、『エッセネ派』と同様に、信者の『財産共有の共同生活』であったと推定されていますが、『生活の糧』をどのように得ていたのかはよく分かりません。生前の『イエス』一行の布教旅行もどうやって『生活の糧』を得ていたのでしょう。下世話な話で恐縮ですが、梅爺はこのようなことが気になります。共感者からの施しがあったのでしょうか。

しかしやがて、この『共同生活』の規模が拡大していくと、いくつかの問題が生じます。

一つは、外国出身で『ギリシャ語』を話すユダヤ人が、参加するようになったことです。この『ギリシャ語』を話すグループの一部は『ヘレニスト』と呼ばれ、『エルサレム神殿』の権威を認めない過激な主張を開始し、『エルサレム神殿』の権威を暗黙に認める『ペテロ』達の主流派と対立することになります。『パウロ』も外国出身で『ギリシャ語』を話す人物ですが、かれは『ヘレニスト』グループではなく主流派に与(くみ)しました。むしろ『ヘレニスト』を弾劾する側でした。

やがて『ヘレニスト』グループは、当局の弾圧の対象となり、グループの首領『ステファノ』は処刑され、他のメンバーは、エルサレムから、サマリア、ガリラヤなどに逃れて、独自の布教活動を開始します。活動内容は、エルサレムの『ペテロ』たちの主流派とほぼ同じですが、一番異なるのは、指導者格の人達の霊体験が重視されるようになったことです。『ペテロ』達には『イエス』直々の弟子という『お墨付き(権威)』がありますが、『ヘレニスト』グループは、それがありませんから、このように何らかの『権威』を創り出す必要があったのでしょう。

そして最も重要なことは、この『ヘレニスト』グループによって、『マルコによる福音書』という後の4大福音書の一つが初めて『ギリシャ語』で書かれたことです。『キリスト教』にとって『口頭による教えの伝達』から、『書物による教えの伝達』に変った画期的な出来事です。書かれた時期の特定は難しいようですが、少なくとも『イエス』の死後40~50年後と考えられます。

この時期は、ユダヤの民衆が『ローマ帝国』に対して蜂起し、徹底弾圧された『ユダヤ戦争(AC66~74年)』と重なりますので、『ヘレニスト』グループがこの戦争とどうかかわったのかはよく分かりません。エルサレムの主流派は『ユダヤ戦争』で壊滅的な打撃を受けます。ユダヤ教の『神殿(ヘロデ王が建設)』もローマ軍により徹底破壊され、現在の『嘆きの壁』が残る姿になってしまいました。その後『ユダヤ教神殿』は再建されていません。

『マルコによる福音書』は『ヘレニスト』の立場で書かれていますので、主流派の『ペテロ』などを当然批判的に記述しています。『ペテロ』が『イエス』から『引き下がれサタン!』などと叱られている様子も書かれています。

『マルコによる福音書』は、その後『新約聖書』が編纂された時に、採択されましたので、『初期のキリスト教』における、主流派と『ヘレニスト』グループの対立は現在ではあまり語られません。しかし、その後ユダヤ以外の外国へ布教が行われ、『キリスト教』の現在につながっていったことを考えると、『ギリシャ語』を話すグループの存在意義は大きなものであることが分かります。

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2014年3月28日 (金)

初期のキリスト教(5)

人間社会では、『権威』と言う概念が重要になります。これは『精神世界』が創りだした価値観で、『物質世界』には『権威』という概念はありません。『物質世界』は共通の『摂理』で平等に支配されているだけです。人間社会の『権威』は、『真の能力』『血筋』『既に権威あるものとされるものに認めてもらう』などの手段で作られます。巨人軍の終身名誉監督の長嶋茂雄は『真の能力(野球の)』で、天皇は『血筋』で、政治家は『既に権威あるもの(民主的な選挙)に認めてもらう』ことで『権威』を獲得しています。梅爺のように、いずれの条件も満たさない人間は、『権威』とは無縁です。

『宗教』は人間の『信ずる』という、『精神世界』の行為を基盤にしていますので、『信じてもらうための権威』が重要になります。

『初期キリスト教』では、『イエス』の『権威』を『ユダヤ教の聖典』に求めました。膨大な量の『聖典』の中から、『イエスは、聖典で予言されたことを成就した者』であることを示す、『都合の良い部分』を抜き出して、『これ、このとおり』と『権威』の根拠にしました。この作業は、かなり知的な作業ですので、『初期キリスト教』のグループには、かなりの『知恵者』が参加していたことが窺えます。

『ユダヤ教の聖典』はユダヤ民族では『権威』あるものですから、これで『イエス』の『権威』を示すという、うまい論法を採用したことになります。しかし、この目的で後の『キリスト教』が、『ユダヤ教の聖典』を『旧約聖書』として採用したことは、逆に難しい問題を抱えることになりました。『旧約聖書』には、『キリスト教』にとって『都合の悪い部分』もあるからです。『都合の悪い部分』も正当化しようと、神学者が四苦八苦しましたが、現代人には釈然としない話が多いように梅爺は感じます。『ユダヤ教の聖典』の『神(ヤーヴェ)』は、従わない人間を怒りで抹殺するなどの行為を行いますので、とても慈愛の『神』とは言えない側面を持っています。『天地創造』『アダムとイヴの話』などの逸話は、『イエス』の精神的な教えとはあまり関係なく、現在では『科学』から攻撃を受ける対象になってしまっています。

次に、『イエス』の弟子たち(使徒)は、『権威』ある『イエス』から、直々に教えを受けたという体験を『権威』とします。これだけでは不十分なので、やがて『自分たちは復活したイエスに会った』と主張したのではないでしょうか。後の『キリスト教』では『イエスの復活』は、公の『事実』のように教えますが、『イエス』の死後『復活』を体験したのは、ごく限られた人達で、『公然の事実』とは言い難いもののように梅爺は感じます。もし『公然の事実(特定の信者以外の多くの人が目にしていたら)』なら、『死者が蘇った』ことになりますから、社会的に大ニュースになり、何らかの歴史文献が残っているのではないでしょうか。支配していた『ローマ帝国』の歴史的な文献にもそのような記述は見当たりません。

使徒の『権威』を確実にするために、『私は復活したイエスに会った』と話を利用したのではないかと、梅爺は推測しています。特に生前の『イエス』と接触が無かった『パウロ』などは、この論法で自分の『権威』を創り出す必要があったのではないでしょうか。『パウロの回心(ダマスカスへの途上復活したイエスに遭遇)』は聖書では有名な話になっています。『下司(げす)の勘ぐりもいい加減にしろ』と言われそうですが、『パウロ』が意図的にその様な策を講じたかどうかは別にしても梅爺には、そういう説明の方が得心がいきます。

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2014年3月27日 (木)

初期のキリスト教(4)

生前の『イエス・キリスト』は、ユダヤ人社会では『預言者』の一人と受け止められていたのではないでしょうか。『預言者』としての能力の高さ故に『救世主』『神の子』ではないかと民衆の間に期待があったのは確かかもしれません。

『預言者』は『神』の意図を、民衆へ伝える能力の持ち主のことで、原始的な宗教では『霊媒者』の役割が類似しています。日本の『卑弥呼』も『霊媒者』であったと考えられています。

『イエス・キリスト』は、地上の国の権威ではなく、『神の国』の権威に従うべきこと説いて、地上の国の支配者から『危険思想分子』として排除されました。ユダヤ民族は『王の民』ではなく『神の民』であるべきという思想で、自らも『神の民』でありたいと願っていたに違いありません。

『イエス・キリスト』の十字架の処刑は、客観的に観れば、民衆を惑わす『危険分子』の排除であり、現代の表現をすれば『思想的な政治犯の処刑』です。『神の子が、私たちの罪を一身に背負って贖罪(しょくざい)の死を遂げて下さった』という意義づけは、後世の『キリスト教』が確立していった教義で、『初期のキリスト教』信者には、そのような考えは無かったのではないかと梅爺は推察しています。『初期のキリスト教』信者には、ただ『神の民であるべき』という『イエス』の教えが重要であったのではないでしょうか。

『人は誰も神の国の民であるべき』という『イエス』の思想は、やがて地上の王も『神の民』という考え方として西欧社会に根付きました。本当に『神』に恭順を示した王と、見掛け上そう振る舞った王と両方ありますが、少なくとも地上の王が『神』に恭順を示すことで世の中は『丸く収まる』という『知恵』を獲得したことになります。『宗教』を形式的な権威として上に置き、実質支配は為政者が行うと言うパターンは、日本は古来から『天皇』と『実質支配者』を区別する知恵を保有していますので、私たちには馴染みが深いものです。『カソリック』や『正教』が、西欧社会で、権威を保ち続けるために誘導した手際は、見事というほかありません。現在でも、為政者は就任時に『神』に宣誓するという儀式が行われるケースが多いのはご存知の通りです。

『初期のキリスト教』は、先ず『イエス』の権威を確立することを推進し、次に布教する主要メンバーも、特別の権威を付与されている人間であると主張しようとしました。『イエス』の権威を確立する手段として『ユダヤ教の聖典(タルムート:後にキリスト教では旧約聖書)』を利用し、既に予言されていたことを『イエス』が成就したという論法を採用しました。そして、そういう特別の『イエス』から直々に教えを受けた自分たち(使徒)は、特別の人間であるという二段論法を用いたことになります。

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2014年3月26日 (水)

初期のキリスト教(3)

『イエス・キリスト』は全て口頭で話をすることで『教え』を説いています。その言葉は『アラム語』であったと想定できます。後世の私たちには、『イエス・キリスト』直筆の著作が残っていないのは残念なことです。

『初期のキリスト教』のことを考える時に、『アラム語』を話す人達と、『ギリシャ語』を話す人達の関係が重要な意味を持ってきます。『ギリシャ語』を話すのは、『ディアスポーラ』と言われる外国居住区出身のユダヤ人です。またユダヤ人以外の外国人も信者として認めるかどうかも、後の『キリスト教』の発展を考えると鍵を握る事項でした。

もう一つ重要な視点は、『エルサレムの神殿』の権威をどのように考えるかということです。『ユダヤ教』は『一神教』ですから、『神』の神殿は一つだけというのが基本的な考え方です。日本のような、神社の乱立はありません。『イエス・キリスト』や直系の弟子たちは、必ずしも『神殿』の権威を全面否定はしていませんが、自分たちが集合する場所を『教会』として、『神殿』でなくても神との関係が築けると考えていました。後に『初期のキリスト教』に参加した、外国育ちでギリシャ語を話す人達の中には、各地の『シナゴーグ(教会)』で礼拝をおこなっていましたから、『エルサレム神殿』の権威を真っ向から否定する人達も現れ、これが『初期キリスト教』が、分裂していく大きな要因になっています。

『イエス・キリスト』が『ローマ帝国』『ユダヤ王国』に捕縛され、処刑されたために、弟子たちは自分たちへの類が及ぶことを恐れて、エルサレムから逃亡したと考えられます。少なくとも弟子の男たちの中で、身を呈して『イエス・キリスト』を護ろうとしたり運命を共にした人はいません。『イエス・キリスト』の処刑に立ち会ったのは、信者の女性たちだけであるらしいことが聖書には書いてあります。権力側の糾弾も女性関係者には及ばないということが分かっていたからではないでしょうか。

その後、悔悟の念にかられた弟子たちは、エルサレムに戻ってきて、『共同生活』で『イエス』の教えを再び密かに布教し始めました。この『ペテロ』を頭(かしら)とする『直系の弟子たち』の集団の他に、『イエス』の親族達を中心とした集団も布教を開始したらしいと考えられています。二つの集団は連携していたと思われますが、『直系の弟子たち』の集団が主導権を持っていたのではないでしょうか。これが『初期のキリスト教』の始まりです。

この集団は、当局の厳しい監視もあり、『エルサレム神殿』の権威を否定しない態度を保持していました。エルサレム中心の布教から、やがて『イエス』と同じように、地方への布教も開始しました。勿論、言葉は『アラム語』で、口頭で教えを説くスタイルでした。

この『初期のキリスト教』にとって、『自分たちの権威』をどのように確立するかが課題になったはずです。民衆の支持を得るためには必須であるからです。先ず『イエス』の権威を明確にし、『イエス』と特別の関係にある自分たちの権威をそれで作り上げようとしたと推定できます。

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2014年3月25日 (火)

初期のキリスト教(2)

『イエス・キリスト』が、ローマ刑法の極刑である『十字架刑』で処刑されたことは、『イエス・キリスト』が、当時のユダヤを属州として実質的に支配していた『ローマ帝国』およびその傀儡王国である『ユダヤ王国』にとって、『極めて不都合な思想の持ち主』であったことが容易に想像できます。 

勿論『イエス・キリスト』は、ユダヤの実質民族独立を唱えて、民衆を蜂起に駆りたてたり、テロを仕掛けたりしたわけではなく、ただ『神との契約に立ち戻り、神の民になるように』民衆に説いてまわり、民衆が『イエス・キリスト』を『救世主』『神の国の王』と崇める風潮が芽生えたことが原因ではないでしょうか。 

つまり、『イエス・キリスト』は、『ローマ帝国』『傀儡ユダヤ王国』の『権威』を貶(おとし)めかねない、思想の持ち主として看過できなくなったということでしょう。 

現在でも、世界の各地で、『現体制にとって不都合な思想の持ち主』は、『反逆者』としてとらえられ、投獄、処刑されるケースは後を絶ちません。 

都合の悪いものを『異端者』『反逆者』として排除するのが、もっとも手っ取り早い手段と、浅はかな権力者は考えがちです。権力者にとって最も恐ろしい事態は、民衆が『権力者』の『権威』に敬意を払わなくなる事態で、ある意味で武装蜂起よりも怖ろしいことになります。しかし、いかなる恐怖政治も長続きしないというのが、歴史が教えてくれる教訓です。

『イエス・キリスト』と弟子たち(使徒たち)および、信奉者が布教のためにとった方法は、他の『ユダヤ教の宗派』とは異なった新しいものでした。それは、集団で各地を巡り、『教え』と『癒し』を行ったことです。民衆の施しと、『癒し』の報酬などで生計を立てていたと考えられます。食事や宿泊などをどのように調達していたのかを推定しなければなりません。『癒し』は、現在で云えば医療を施したことと考えられますが、それ以外に『悪霊払い』などの儀式も含まれていたと想像できます。『宗教』は現在とは異なり、民衆の生活全てに関るものであったと考えるのが妥当なような気がします。『悪霊払い』『雨乞い』などは、その効果を誰も信じていたに違いありません。

当時のユダヤには、『エッセネ派』『サドカイ派』『ファリサイ(パリサイ)派』『ゼロテ派』など、『ユダヤ教の宗派』がありました。『エッセネ派』に関与したと考えられる『預言者ヨハネ』から『イエス・キリスト』は洗礼を受けていますから、考え方は類似していたと想像できますが、『エッセネ派』は、隔絶した集団生活で信仰生活を護る集団ですから、『イエス・キリスト』の布教方法は明らかに異なっています。従って、逆に言えば他の宗派からも『イエス・キリスト』は『異端者』として反感を買っていた可能性があります。

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2014年3月24日 (月)

初期のキリスト教(1)

『イエス・キリストの生涯』については、『新約聖書』に詳しく記述されており、十字架の処刑後に、『イエス・キリスト』の教えを信奉する『キリスト教』が全世界へ広まり、その歴史の詳細も明らかになっている、と私たちは考えがちですが、よくよく考えてみると、『イエス・キリストの生涯』も『キリスト教の歴史』も、不明なことがあるように梅爺は感じます。 

『何も不明なことなどない』とおっしゃる信仰深い方々がおられることは承知していますが、俗人で凡人の梅爺が、なけなしの『理性』を振り絞って考えてみても、よくわからないことがあるという話ですから、『俗人の見解とやらを、参考のために聴いておこう』という程度にお読みいただければ幸甚です。 

『イエス・キリスト』は、約2000年前に、ユダヤで『新しいユダヤ教の流派』の布教活動をおこなった『人物(人間)』と梅爺は推察しています。『神の子として誕生』『死後の復活』『最後の審判を行うために再降臨』などには、後世に創られた話ではないかと疑念を抱いています。全てが『理性』では受け容れることが難しい事象であるからです。 

しかし『神との関係で、人はどう生きるべきか』を唱えた『イエス・キリスト』の『思想』は、人間の本質を鋭くとらえた内容が多く、今でも色褪せない価値を持っていることは、理解しているつもりです。

『イエス・キリスト』の思想と『釈迦』の思想を比較すれば、『イエス・キリスト』は『神の存在を前提に、人間を洞察した人』であり、『釈迦』は、『万物の摂理を「縁起(全ては相互依存している)」と洞察し、人間の精神世界を邪心(煩悩)と仏心の共存した世界と洞察した人』ということになります。『イエス・キリスト』は宗教的な哲学者で、『釈迦』は後の科学にも通ずる推論をおこなった哲学者であると梅爺は認識しています。

ただし『イエス・キリスト』が想定していた『神』は、現在のキリスト教が教える『神』ではなく、あくまでも『ユダヤ民族の創造神、救済神である唯一の神「ヤーヴェ」』であったと思われます。その意味で、『イエス・キリスト』および、彼の死の直後に弟子たちが受け継いだ宗教活動を『キリスト教』と呼ぶのは厳密ではなく、『ユダヤ教の新しい流派』と呼ぶのが適切であろうと思います。しかし、このブログでは『初期のキリスト教』と便宜的に表現します。

このブログでは、特に『イエス・キリスト』の死の直後から始まった、『初期のキリスト教』について考えてみたいと思います。

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2014年3月23日 (日)

『理性の限界』を読む(16)

『物質世界』の根源の『摂理』を、『数式』で表現しようとする追求は、驚くべき進展を遂げつつあります。『物質世界』は『形式的な数学の世界』で支配されているという話が一層現実味を帯びてきました。 

『物質世界』をとことんミクロな世界にまで立ち入って、事象を観察し、そこで作用している『摂理』を『数式』で表現し、事象がその『数式』と矛盾しないことを確認しようと科学者は努力しています。勿論、その『数式』がマクロな事象にも矛盾なく当てはまらなければなりません。 

70億人存在する『現生人類』の中で、この難しい仕事を本当に理解し、進展に寄与できる人材は、一握りの天才的な頭脳の持ち主に限定されますから、梅爺のような凡人は、傍観するだけで、せめて『凡人でも分かる範囲で本質だけを説明してほしい』と願うだけです。このことは、一握りの人たちに人類は『命運を託している』ということでもありますから、『民主主義』とは程遠いものです。『一握りの天才とその他大勢の衆愚』と言う構成で、『科学』の世界に限っては成り立っています。『格差は好ましくない』などという主張は意味をなしません。

『科学』が『科学者の道楽』であって、人間社会へ影響が少ないのであれば、大きな問題にはなりませんが、『科学』の成果の応用が、人類へ直接及ぼす影響が計り知れない時代に私たちは生きています。200年位前から、人類はこのような時代へ突入しました。このことは、現代の人間社会のリーダーとなる人は、昔求められていた資質に加えて、『科学の応用がもたらすものの本質』を理解していなければならないことになります。更に、国際社会がグローバル化していますので、それ以外にも『異文化への理解』『標準外国語の習得』なども求められます。

日本の大企業のリーダーは、このような新しい資質で選出されはじめましたが、日本の政治家の資質には大きな変化が見受けられないような気がします。『永田町だけで通用するかけひきに長けた人物がリーダーになる』というのでは、日本は国際社会で取り残されます。『理性の限界』の話が、とんだぼやきになってしまいました。

『理性』と『情感』が人間を素晴らしい存在にしていることは間違いありません。個人レベルの『理性』と『情感』の話と、人間社会全体の『理性』と『情感』の話は、別に論ずる必要があります。更に『科学』のような『理性』だけの世界の話と、『政治』『経済』のような『理性』と『情感』が相互に影響しあう世界の話は、これも分けて論ずる必要があります。

限界があるかどうかも、興味の対象ですが、人間の『理性』とは何かという基本的なことを、もっと深く考える必要がありそうです。

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2014年3月22日 (土)

『理性の限界』を読む(15)

『理性の限界』と言う本は、当然ながら人間の『脳』が保有する『理性(理)』の機能と『情感(情)』の機能のうち、『理性』に焦点をあてた議論が主体です。『理性』と『情感』を完全に分けて議論できるのは、『物質世界』の『摂理』を探求する『科学』のような世界ですから、『パズルを解くことが好き』という人には、この本は大変面白い本であると言えそうです。私たちは大半のことを『理性』と『情感』を絡めて判断していますから、日常の多くの事は『科学』や『パズル』のようにはいきません。『情感』は更に『個性』を持っていますから、人間関係が絡むと一層ややこしい話になります。

議論の余地なく、自明の『真』であるとする『命題』を『公理』と呼び、更に既に『真』と証明された『命題』を『定理』と呼びます。これらの『公理』や『定理』利用して、他の『命題』の『真偽』を論ずるのが、『科学』や『論理学』の世界です。

ところがある時、今まで『真』としていた『公理』や『定理』が必ずしも『真』とは云えない事実が発見されると、前提が崩れますから、全ての議論を当初に立ち戻って再検証をする必要が生じます。

『物質世界』の『摂理』の全てを矛盾なく説明できる『数式』を求めて、科学者は苦闘をし、ある時点でその『数式』が見つかったかに思えましたが、あらたな『矛盾』が指摘され、その『矛盾』を解消する新しい『数式』が登場するという、進化が繰り返されてきています。

『ニュートン(力学)』『アインシュタイン(一般相対性理論)』『シュレジンガー(波動方程式)』『南部陽一郎(一般理論)』などを経て、現時点では『シュワルツ(超弦理論)』やそれを更に進化させた理論が、最後の『数式』に限りなく肉薄したものと考えられています。

天才天文物理学者ホーキングは、『ブラックホールの奥底の事象』はパラドックスとして論理解明が困難と主張(ホーキングのパラドックス)してきましたが、最新の『超弦理論』では、『説明可能』であることを認める声明を出しています。自分の非を認めるという勇気のある行為ですが、『科学』の世界では、よく起こることで、『ホーキング』は讃えられることがあっても、非難されることはありません。

『物質世界』の究極にミクロな世界は、『超ひも』と呼ばれる物質で構成されているというのが『超弦理論』の本質です。

しかも最新の『超弦理論』は、『超ひも』が活動する世界は、『10次元(または11次元)』であり、『宇宙』はひとつではなく、ほぼ無数と言えるほど沢山存在することを示唆しています。

『10次元の世界』『複数の宇宙』とは一体何を意味するのか、それは本当なのか、それとも理論になにか問題があるのかと、科学者は究明を続けています。『ビッグ・バン』直後の事象から、今日の『宇宙』にまで膨張するプロセスは、最新の『超弦理論』で説明ができますが、それ以前の事象、つまり『ビッグ・バン』そのものと解明はできているとはいえません。『生命誕生』直後の事象から今日の『生物』に至るまでのプロセスは、『生物進化論』で説明できますが、『生命誕生』そのものの謎は完全には解明できていないのと似ています。

『ほぼ、最後に近い所まで追い詰めたものの、最後の正体は分かっていない』といえる状態です。

『最後の数式』は『神の数式』と表現されますが、これは『比喩』であり、『数式』と『神』との関係は、別の議論であるはずです。『理』の根源に『神』が存在するという表現は梅爺も受け容れることができますが、『情』とは無縁に見えますから、『神』が『慈悲深い』という説明に無理が生じます。

『宇宙とは何か』の正体が究明されれば、それはとりもなおさず『人間とは何か』という問いにも、新たな視点の解答が付与されることを意味します。

『宇宙』『地球』『生命』『人間』『脳』『精神世界』は、一連の『変容』と、偶発的な出来事の組み合わせで構成された環境(条件)がもたらしたものであるからです。

特に『宇宙』『生命』『脳』が解明されれば、神秘に満ちた『精神世界』のベールが取り除かれることになります。

『科学者』にとって、それは待ち遠しいことでもあり、実現してもらっては困ることかもしれません。なぜならば、究明する対象がなくなることは、『科学者』には、辛(つら)い、寂しい事態でもあるからです。

『理性の限界』を克服すれば良い、という単純な話ではないことが分かります。『単純な話』でない理由は、『精神世界』の『情』が絡むからです。『つらい』『寂しい』は、『情』に他なりません。

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2014年3月21日 (金)

『理性の限界』を読む(14)

『物質世界』を支配する『自然の摂理』の全てを人類は理解していませんから、『物質世界』の事象の因果関係を全て説明はできていません。少なくとも現時点では能力に『限界』があります。

『精神世界』の事象に至っては、『情』が創りだす『抽象概念』に、比較するための絶対尺度がありませんから、普遍的に物事の優劣や、良し悪しを判定できません。『精神世界』は『個性』で成り立っていますから、ある人の『悲しさ』を、もう一人の人の『悲しさ』と比較して、どちらが『大きな悲しみ』であると判定できません。大雑把な概念として『悲しみ』は共有できますが、詳細は比較しようがありません。『美』『幸福』『正義』など全て同類です。極端な場合、ある人が『幸せ』と感ずる状況は、もう一人の人には『不幸』であることもあり得ます。

『精神世界』は、『個性』が優先される世界で、『物質世界』のような普遍的な『真偽』を議論する領域ではないということを、人間や人間社会に根源的に保有する『限界』とするかどうかは議論がありそうですが、違いは厳然と存在します。

『物質世界』を究明する『理性』に『限界』があるのと、『精神世界』で『情』と絡んだ『理性(理)』に『限界』があるのとでは、少し意味合いが異なるように思います。残念ながら『理性の限界』という本では、梅爺のような観方では議論されていません。

『精神世界』は、放置すれば『全て個性的で異なっている』ために収集が尽きませんので、『法』や『倫理』で最低限の合意を確認してきました。『宗教』は『信ずる行為』で、信徒の共通基盤を確保してきました。

異なっている他人と共通の場を持とうとすれば、『信ずる(信頼する)』以外に方法はありませんから、『精神世界』にとって『信ずる』という行為が、不可欠であるように思えます。

しかし『信ずる』という行為は『理』の裏付けが強固ではありませんので、期待に反することが出来(しゅったい)しがちです。

私たちは『信じない』と生きていけませんが、『信ずる』ことにも『限界』があることを知っておく必要があるのではないでしょうか。

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2014年3月20日 (木)

『理性の限界』を読む(13)

よほど能天気な人でない限り、『自分の知識には限界がある』ことを私たちは実感しています。世の中には『博覧強記』な方もおられますが、それらの『知識』を全てまとめてみても、『人類の知識には限界がある』ことも、間違いなさそうです。つまり人類は、知らないことへの対応で過ちを犯す危険性を保有しています。 

面白いことに、『人間』は、『自分(自分たち)の知識には限界がある』と悟った時に、対極として『何もかも知っている』存在を、『抽象概念』として推論で導き出します。『全知全能の神』という概念です。そして自分たちの『不完全さ』は『神』に従えば補うことができると考えて安堵します。 

『自分には分からないこと』『自分には不条理に見えること』が周囲で起きても、『全て神の思し召し』とすれば、一応の決着となります。しかし、このように『理』で『情』を抑え込むことができる場合だけとは限りませんので、最愛の人を事故や災害で失ったような場合には、今まで崇めていた『神』を『疑い、恨む』ような事態にもなりかねません。 

『生命の死』は、『物質世界』の視点でみると、実に味気ない話で、『生命』を維持する条件が失われたことを意味します。『生命』を維持するしくみは、自然の『摂理』で支えられていて、この『摂理』は、あらゆる『生命』に平等に作用します。『善行を積んで善良に生きてきた人』に有利に作用することも、『極悪非道の人』に懲らしめのために不利に作用することもありません。 

しかし、『最愛の人の死を体験した人(残された人)』の『精神世界』は、そのような『理』による説明では、簡単に収まりません。最も大切にしていた『絆の喪失』は大きな『情』のストレスとして襲いかかってきます。悲しみや絶望の淵にまで追いやられます。更に『過去の絆』は『記憶』として『脳』に存在し続け、喪失はしませんから、残された人の『精神世界』では、『亡くなった人』は消滅せず存在し続けます。梅爺は『亡くなった人の霊』の存在は疑っていますが、自分の『脳』に『亡くなった人の記憶』は存在し、それが、自分の『精神世界』に影響を与えていることは、間違いなく実感しています。 

『生命の死』は、『物質世界』でみるか『精神世界』でみるかによって、これほど大きな違いがあります。 

私たちは、『物質世界』の非情さも理解すると同時に、『精神世界』への対応もしながら生きていく必要があります。『精神世界』は、喜びも、悲しみも、苦しみも全て含めて、私たちが『生きている』ことを実感できる世界ですから、『精神世界』を保有していることに感謝し、『どう対応するか』は、『神の思し召し』などと他に転嫁せずに、自分で考えるしかないのではないでしょうか。 

当然『知識』に限界がある私たちですから、『最善の対応』はみつからないかもしれませんが、それでも持てる『知恵』を振り絞って対応する必要があるように思います。『自分だけの人生を生きていく』ということは、そういうことではないでしょうか。

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2014年3月19日 (水)

『理性の限界』を読む(12)

この本の最後の章、第三章は『知識の限界』の議論です。第一章の『選択の限界』における『選択する』と言う行為は、梅爺流にいえば『精神世界』の『理』と『情』が同時に絡み易い行為で、第二章の『科学の限界』の『科学する』は、『精神世界』の『理』だけが関与する行為です。

『知識』は、一般には『脳』に記憶されている情報全体を指す言葉ですが、現代では『辞書』『百科事典』『インターネット』などで、容易に情報検索できますから、苦労して『脳に記憶しておく』必要から解放されています。記憶に自信が持てなくなっている梅爺のような老人にはありがたい時代です。

『脳の記憶』は、薄らいだり忘れたりと『不安定』ですが、時に『嫌な記憶』は薄らいだ方がストレスが減って健康的ですから、『不安定』であることは短所ばかりではありません。

『脳』に存在しようが、外部の提供手段に存在しようが、『知識』は『真偽』の属性を持っています。分かり易く言ってしまえば『偽情報』である可能性を秘めています。

しかし、人間は、自分が知っていることは『正しい』と思いこみがちですし、『新聞に書いてあったから正しい』と短絡的に信じやすい習性を保有しています。『情』が『自分に都合が良い』と囁くことには、特に敏感に反応します。『自分と同じ考えを述べる人』は『立派な人』と尊敬し、『自分を認めてくれる人』は『思いやりのある善い人』と受け容れます。

しかし、世間は『立派な人』や『善い人』ばかりで構成されていませんから、騙されて、突然人間不信に陥ったりもします。

『知識』の『真偽』を冷静に検証しようとすれば、大半の『知識』は『真偽』の断定が困難であることに気付きます。それならば、『知識』を保有することは意味が無いかと言うとそうではありません。人間の『脳』は、『知識』を素材として『知恵』を産みだす可能性を秘めているからです。『知恵』は、『知識』を素材に思考して、本質に近づく行為です。勿論、『知恵』にも誤認がありますが、『自分だけの知恵』を獲得することは意味があり、満足感も得られます。

『知識は、個性的な知恵を産みだすための手段である』と梅爺は考えています。『博覧強記』も素晴らしいとは思いますが、それよりも『個性的な知恵』を沢山保有している人を尊敬したくなります。

『知識』の『真偽』を検証する方法として、『論理学』があり、第三章の最初の部分は、『論理学』の事例が議論の対象になっています。

私たちは、普段しゃべったり、書いたりしている内容を、『論理学』で検証したりはしませんが、もし検証したりすれば、『おかしなこと』『矛盾すること』を沢山述べているに違いありません。

例えば『私は嘘つきです』という表現を、論理学の『命題』として検証すれば、『矛盾』であることが分かります。『命題』を『真』とすると、『嘘つきの人』が『本当のことを言っている』ことになり、一方『命題』を『偽』とすると、この人は『嘘つきではない』のに『嘘を言っている』ことになり、いずれも『矛盾』になります。

『そんな面倒なことをいちいち考えていたらやっていられない』と梅爺も逃げ出したくなりますが、『法廷』では、このような論理の適用で有罪、無罪が決定したりしますから、『論理学』のことも、頭の片隅には置いておく必要がありそうです。

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2014年3月18日 (火)

『理性の限界』を読む(11)

『物理学』の世界で、『ニュートン力学』が発表され、『物質世界』の森羅万象はこれで説明がつくと、当時の学者は思いましたが、やがて『そうはいかない』ことが判明し、『アインシュタインの一般相対性理論』が登場し、今度こそは究極の法則かと期待が高まりましたが、更に『量子物理学』の研究が進むと、説明できない事象が判明し、『シュレジンガーの波動方程式』などが登場することになりました。

梅爺程度の頭脳では、『ニュートン力学』を理解するのが関の山で、『一般相対性理論』や『波動方程式』の詳細を理解することはとても無理です。

分からないことを、無理に分かろうとすると、独り善がりな誤解が紛れ込む危険性がありますので、詳細の理解はあきらめて、それでも『本質』はなんとか把握できないかと考えています。

『物質世界』をミクロに追い詰めると『量子』の世界になり、この『量子』に関る事象を矛盾なく説明(または予測)するルールが、難解を極めることになります。測定しようとすると測定手段そのものが、対象に影響を与えてしまい、何を測定しているのか分からなくなってしまいます。人間の観測には『限界』があり、『ハイゼンベルクの不確定性理論』が登場しました。『量子の位置や運動量を一義的に特定できない』といっているだけですから、『量子は全くデタラメに動いている』ということとは違います。

『電子は粒子でもあり、波でもある』などと言われると、梅爺の頭は混乱しますが、『観方によってはそう見える』『そう考えると矛盾なく説明できる』ということなのでしょう。

『宇宙』の成り立ちに深く関与している『ダーク・マター』や『ダーク・エネルギー』の正体が明らかになり、これらを含めて矛盾なく説明ができる新しい摂理の発見が今後あるかもしれません。

『ニュートン』や『アインシュタイン』さへも考えなかった新しい分野へ向かって『科学』は歩みを止めません。今のところ、『これ以上は進めない。ここから先は神の領域だ』と科学者は弱音を吐いていません。

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2014年3月17日 (月)

『理性の限界』を読む(10)

第二章『科学の限界』は後半部分で、俄然面白くなります。『科学とは何か』という認識論が議論されているためです。結局誰もが合意する『科学の定義(認識)』は存在しないというような結論になっていて、それが『科学の限界』を示唆するというような話で終わっています。

梅爺は、『物質世界』と『精神世界』に分けて物事を考えるようにしています。梅爺のように区分けすれば、『科学とは何か』は、もう少し整然とした議論になるのではないかと思いました。

勿論『科学』も、人間の『精神世界』が行う行為ですから、両者は無関係ではなく、『精神世界』に内在する矛盾が、『科学とは何か』の認識にも反映することはありえますが、『科学』が扱う対象は、『物質世界』の事象であるということが、最も重要なことになります。『科学』以外の『宗教』『哲学』『芸術』は、主として『脳』が創りだした『抽象概念』とそれが引き起こす事象を対象としていることと決定的な違いがあります。

もっと分かり易く言ってしまえば、『科学』は、人間が存在しない環境でも起きている事象を対象にしているのに対して、『宗教』『哲学』『芸術』は、人間が存在する環境でしか起きえない事象を対象にしているということになります。

『科学』は、『物質世界の事象を支配している普遍的なルール(自然の摂理)がある』という『命題』を、科学者の合意で『真』とする前提で進められています。『なーんだ、科学も科学者の合意で成り立っているのか。それでは宗教と同じではないか』という反論があると思いますが、扱っている事象が『物質世界』に属するか、『精神世界』に属するかの違いがありますから、『同じ』と断ずるのは極端です。

『科学』は、それまでの説明では、説明できない事態に遭遇すると、ルールそのものの見直しを行い、考え方の枠組み(パラダイム)を変えないと説明できない事態に遭遇すると枠組みそのものを変えてきました。つまり『普遍的なルールが存在する』という前提は堅守しながら、漸進的、または飛躍的な進化をしてきました。これは『教義』を絶対として、そこから抜け出ない『宗教』とは行動パターンが決定的に異なります。

『科学』の世界では、昨日まで正しかったことが、今日は正しくないということが、起きてもおかしくありません。新しい考え方が『普遍的なルール』として認められるからです。このような行動は『宗教』ではありえません。『教義』をそう簡単には間違いと言えない事情(権威の失墜)が背景にあるからです

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2014年3月16日 (日)

『理性の限界』を読む(9)

自分で思いつくか、他人から指摘されて私たちは『疑問』を抱きます。『疑問』を『疑問』のままで放置すると、『脳』は『不安』というストレスを産みだします。『自分に分からない怖ろしいものが自分の命を脅かすかもしれない』と感ずる能力が、生物の生き残りには重要な要因であるからです。

『脳』は『疑問』を解決して安堵したいと本能的に反応します。幼児は、沢山のことに『疑問』をいだき、『どうして?』と問いかけます。大人になると、『自分を脅かすものではない(自分とは関係が薄い)』と直感的に判断する能力が増え、更に『そう云うことは疑ってはいけない』という社会常識が優先され、『疑問』の対象は相対的に少なくなります。

科学者は、『何にでも疑問を抱く』人達ですから、ある意味で幼児の『脳』を維持しているとも言えます。梅爺も『野次馬根性』のかたまりですから、爺さんの割には『脳』の一部は幼児のままなのかもしれません。

『疑問を解こうと考えると、また新たな疑問が生ずる』というように、『脳』は不安の泥沼に引き込まれる矛盾をはらんでします。

『疑問』を解決できる人は『幸せな人』ですが、逆説的に言えば『疑問』を感じない人が、『不安』のストレスがないわけですから最も『幸せな人』かもしれません。『知らぬが仏』とはよく言ったものです。『思い煩わない方が健全である』という『命題』は、知識人や医療関係者を戸惑わせます。子供の顔が輝いていて、大人の多くは苦虫をかみつぶしたような陰鬱な顔になっていることと、関係がありそうです。

『禅の修行』は、『ありのままに受け容れる』訓練で、『疑問』を排除して『悟りの境地』を志向します。もう一つの『疑問』を疑似的に抑制する方法は、『信ずる』ことです。『信じて疑わない』という状態がそれを指します。

しかし、『信じて疑問が消える』人ばかりではなく、『信じても疑問が消えない』人も沢山いますから、『心の葛藤』が残ります。作家『パウロ・コエーリョ』は、『本当の信仰は、神と壮絶な格闘をしなければ得られない』と言っていますが、このことを言っているのでしょう。

『疑問』のタネが亡くなれば『科学』は、存立しえません。梅爺は、ほぼ無限に『疑問』のタネは残ると想像しますので、『科学の領域の限界はそう簡単には到達しない』と思いますが、想像ですので根拠はありません。

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2014年3月15日 (土)

『理性の限界』を読む(8)

『科学の限界(第二章)』の最初の部分は、梅爺には少々期待外れでした。議論の大半は『科学の歴史』の解説に終始しているからです。勿論、一見『神秘』に見える事象の奥に存在する普遍的なルールを見つけ出し、『理』だけで説明してみせる行為は画期的で、時に科学者はその時代から迫害されたりしてドラマティックですから、『科学の歴史』は面白いのですが、『科学の限界』を議論するために何故『科学の歴史』が必要なのかの事前説明が無いために、戸惑いました。

『科学』は、人間が『精神世界』の主として『理』の能力を駆使して、『物質世界の摂理を解明しようとする行為』の総称です。『限界』を論ずるのであれば、『人間側の能力に限界がある』ことを問題にするか、『摂理そのものに限界がある』ことを問題にするかを最初に宣言していただく必要があります。昨日も書いたように『摂理の一部には限界値が存在する(光の速度、絶対零度など)』ことは判明しています。

梅爺の興味の対象は、『人間側の能力の限界』です。梅爺個人の能力は『限界』がありますが、『人類の総合能力』は、天才的な人物の登場で知識が塗り替えられ、その知識が追加継承されますので、『知り得た摂理の量』は確実に増え続けていきます。『摂理の量』が有限であれば、やがて人類は摂理の全てを解明することになるという予測が可能ですが、『どうも、そうはいかないのでは』と梅爺は感じています。『感じる』は、『情』の世界の行為ですから、根拠がありません。

仮に『摂理の全てが解明された』とすると、『生命』や『脳』のしくみも明らかになりますので、『科学の応用』は『生命』や『脳』の根源にまで及ぶことになりかねません。『理』が『情』の正体を暴(あば)いてしまうかもしれませんので、『宗教』や『芸術』の神秘性も失われる可能性があります。人類がそのショックを克服できるかどうかが問題になります。

『知らぬが仏』『科学には深入りするな』『今のままでそっとしておいて欲しい』と言いたくなる気持ちもありますが、『本当のことを知りたい』という本能を抑制することも好ましくありませんので、結局『摂理』の一部が解明されるたびに、私たちは対応を迫られるのではないでしょうか。

倫理規定を設定してみても、『一人の悪人の登場』で、人類が滅亡する危機に瀕することもありますので、『自由な科学研究』と『研究成果の応用』の関係は、難しい問題をはらんでいます。

既に、『核エネルギーの応用』『遺伝子操作応用』『万能細胞の応用』などが、人類の救済する手段であると同時に人類を滅亡へ導く手段でもある問題として提示されています。

老い先の短い梅爺がくよくよ悩むことではありませんが、若い人たちにとっては、重要な問題ですので、他人任せにせずに、自分で対応を『考えて』いただきたいと願っています。

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2014年3月14日 (金)

『理性の限界』を読む(7)

この本の第2章は、『科学の限界』を論ずるものです。『科学』は『物質世界』の普遍的な『摂理(法則)』を究明する領域です。基本的に『真偽(正しい、間違い)』を判定することが可能ですが、『精神世界』で重要な役割を果たしている『情』が関与しない領域です。つまり『好き、嫌い』『信ずる、信じない』という価値観は持ち込むことができません。

多くの方々が、『物質世界』と『精神世界』の違いを理解せずに、混同しておかしな議論をしているように梅爺は感じています。つまり『自分に都合のよいことは正しい』『自分が信ずることは正しい』という主張が横行しています。『自分に都合が良いこと』『自分が信ずること』は、その人の『精神世界』では、極めて重要なことで、その存在を否定する必要などはありませんが、それを『普遍的に正しい』とは断言できません。人間社会は『異なった価値観』で満ち溢れているわけですから、紛争解決は『正義』ではなく、『寛容と忍耐』でしか対応できないのではないでしょうか。

『科学の限界』という表現は、二つの異なった問題を提起します。一つは、『人間の能力は摂理をすべて究明できるのか』であり、もう一つは『(人間の能力とは無関係に)摂理そのものに何らかの限界があるのか』ということになります。『摂理の一部には限界値がある(光の速度、絶対温度の零度など)』ことは判明しています。

梅爺の『脳』は、『摂理の全てを究明する能力を持たない』ことは明白ですが、人類には時折『天才』が出現して、新しい摂理の一部を解明し、それは人類の共通知識として継承されますので、個人の『脳』ではなく、人類の総合的な仮想『脳』は、秘められている摂理を次々に解明する可能性を秘めています。

この行為が継続されれば、『やがて摂理の全てが解明される』という楽観論と、『次々に新しい謎が生まれて、結局摂理は解明できない』という悲観論に分かれます。梅爺は、『すべては解明できないかもしれないが、一つ一つ解明できることの数を増やすことに意味がある』と感じています。『達成できないかもしれないが、努力を継続することに意味がある』という話と同じです。

『摂理の奥の奥は、神聖な神の領域であり、そこへ踏み込んではいけない』というようには思いませんが、知り得た摂理を『応用』するかどうかに関しては、慎重な対応が必要になることもあると感じています。人類は『核エネルギーの応用』『遺伝子操作』などで、既にその問題に直面しています。『科学知識の応用』は人類の救済にもなると同時に、人類を滅亡させる可能性も秘めています。

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2014年3月13日 (木)

『理性の限界』を読む(6)

『物質世界』の『変容』をあらかじめ予測することは、全て『自然の摂理(法則)』に則っていますから、かなりの精度で可能ですが、それでも、量子レベルの動きには『不確定要因』が存在することが分かっていますので、完全な予測は難しいことが判明しています。つまり、将来の状態を厳密に予測することには『限界』があります。

問題は『精神世界』の価値観が『変容』に絡む場合で、これも厳密にいえば全て異なっている個人の『価値観』が寄り集まっている『人間社会』が、『社会的な選択』をしようとした時に、『何が起きるか』は非常に予測が難しくなります。

『社会心理』は、このように個性的な『精神世界』の寄せ集めで決まります。『パニック』のように『情』が強く影響して起こるものもありますから、冷静な『理』で議論しても解明できません。『9.11』の直後、米国民の90%以上が、『テロ組織への軍事報復』に『賛成』しました。

しかし、『シリアの化学兵器使用疑惑に対してアメリカが軍事制裁に踏み切る』というオバマ大統領の提言には、国民の50%が『反対』しています。『ベトナム戦争』『イラク戦争』などの『アメリカの選択』が、アメリカ国民だけではなく、世界にもたらした『結果』は、『理想として予測した事態』とあまりにもかけ離れた悲惨のものであることを、米国民が体験し、『社会心理』が変わっていることを示しているように思います。『アメリカは正義と自由の象徴である世界の警察官』などという『夜郎自大』で単純な『考え方』に、米国民が疑問を抱き始めたことは、結構なことだと梅爺は思います。

『日本人は国際音痴』と良く言われ、梅爺も反省しますが、『米国人、中国人の大半はもっと国際音痴』ではないかと、反論したくなることがあります。

話が少し逸れましたが、『情』という個性的な要因が強く作用する『精神世界』が関与する『選択(判断)』は、『理』では矛盾といえるものになることは容易に想像できます。いわんや、個性のある『精神世界』が寄り集まった『社会心理』は、予測が難しいのは当然のことです。

私たちは、自分でも理解できない『自分』が関与して、生きるための『選択』を繰り返している実に危なっかしい存在であることが分かります。

『政治』『経済』は、『社会心理』が関与しますから、もっと危なっかしい世界であることも分かります。歴史的に人間社会から『戦争』『大恐慌』『独裁者』が、後を絶たない理由も、これに拠るのではないでしょうか。

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2014年3月12日 (水)

『理性の限界』を読む(5)

この本の『選択の限界』の章では、『民主的な選挙』と言われている方法が、必ずしも適切な『選択』をすることにはならないことを、『論理数学』を用いて、『証明』しようとする話がいくつか紹介されています。 

代表的な例として、米国コロンビア大学の数理経済学者『ケネス・アロウ』が主張した『不可能性定理』が挙げられています。 

『ケネス・アロウ』は、『民主的な選挙』が満たさなければならない条件を、『個人』に関るもので2つ、『社会』に関るもので4つ、計6つ前提として設定します。『個人』に関る条件の一つの例は、『個人(投票資格者)は、複数の候補者を、好ましい順に並べることができる(選好順序を決める能力がある)』であり、『社会』に関る条件の一つの例は、『個人は選好順序を外部からの圧力を受けずに自由に決めることができる』です。 

『論理学』では、これらの6つの条件は『命題』であり、『命題』が『真』であるとすると、『完全に民主的な社会的決定方式は存在しない』という論理帰結になることをアロウ教授は、『論理学(論理数学)』で証明してみせたと、この本では紹介されています。 

蛇足になりますが、現代の日本社会では、『命題』という言葉は、『達成しなければならないこと』というような意味で使われます。『論理学(数学)』で用いる『命題』とは異なっていますので、区別を必要とします。厳密にいえば、『命題』を『達成しなければならないこと』という意味で使うのは、正しいとは思いませんが、言葉の用法は時代とともに変りますので、梅爺は目くじらをたてないようにしています。『私的(わたしてき)には』『なにげに』『全然良い』『超すばらしい』『うちら』などの表現も、梅爺ならば『私としては』『何気ない様子で』『飛びぬけて良い(全然は否定形で使われる言葉)』『本当に素晴らしい』『私たち』と表現したくなりますが、他人の表現は我慢することにしています。 

アロウ教授の『不可能性定理』は、非常に難解であり、とうてい梅爺の能力ではフォローできませんが、『完全に民主的な社会的決定方法は存在しない』という結論には、それほどびっくりはしません。完全に『民主的な選挙』で選ばれたはずの、永田町の先生たちのレベルは、テレビで観ているだけでも推定ができ、日本の中から最適で最高の人材が選ばれているとはとはとて思えないという日常体験をしているからです。

『人間は誤った選択をすることがある』ということを『論理数学』で証明することも無意味ではありませんが、それを認めた上で、事後の被害を最小限度に抑える具体的な方策を議論する方が、現実的ではないでしょうか。

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2014年3月11日 (火)

『理性の限界』を読む(4)

私たちは、レストランで注文をする時、お店で買い物をする時、『選択』を行っています。梅爺も対象を『選択』しながら『梅爺閑話』を書いています。勿論『進学』『結婚』『離婚』『就職』『転職』など、人生を左右する岐路に立った時も『選択』を行っています。『選択』は『生きる』ために『精神世界(脳)』が行う重要な行為です。

そして、『絶対に間違わない選択の方法は、残念ながら存在しない』と、何となく感じています。つまり『選択には限界がある』ことを経験的に認めています。『私は頭が悪いのでしかたがない』と言い訳をしますが、それならば『頭の良い人』は『選択』を間違わないのかというと、そうではありませんから、誰もが『人間の選択には限界がある』『間違う可能性を覚悟の上で選択している』ことになります。

自分の『選択』が間違いと判明した時は、自分で『責任』をとることになりますが、『人間社会』の将来に関る『選択』は、一歩間違えば、『戦争』『大恐慌』『会社の倒産』など悲惨な結末を招来しますから、個人的な『責任』では償いきれません。天災が引き金になっているとは言え『福島原発事故』も、『人間社会』の『選択』に関る問題です。

『人間社会』は『リーダー』を必要とし、その『リーダー』の『選択』が重要になりますが、『リーダーも人間である以上間違うことがある』という、矛盾を抱えていることになります。

庶民は自分を棚に上げ、『リーダー』には、『スーパーマンの資質』を求めます。政治論争は、『お前の選択は間違いだ』と、あたかも『正しい選択をすることが可能である(自分が正しい)』と言わんばかりの前提で展開しますが、よくよく考えてみればおかしな話です。私たちにできることは、『できるだけ深謀遠慮に長けた人』を『リーダー』に選ぶことくらいしかありませんが、この『選択』行為にも、『間違いの可能性が秘められている』わけですから、お手上げです。

『個人』も『人間社会』も、『生きる』『営みを続ける』ためには、結果を予測できない多様な選択肢の中から、否応(いやおう)なしに『選択』をしなければなりません。『生きるとは、選択することと見つけたり』という話ですが、『間違いのない選択方法』はありませんから、『選択』には、人生の悲喜劇が伴うことになります。

『間違い』は、『自分にとって都合の悪い結果』のことで、『精神世界』の価値判断です。人間が存在しない世界(自然界、物質世界)では、『間違い』という概念そのものがありませんから、ただ『変容』が継続するだけです。

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2014年3月10日 (月)

『理性の限界』を読む(3)

『理性の限界』といった時に、『人間の脳』の能力の『限界』と、『抽象的な論理体系(数学、物理、論理学など)』そのものに内在するかもしれない『限界』とに分けて考える必要があると梅爺は思いました。

『人間の脳』は140億個の『ニューロン(脳神経細胞)』のネットワークで、供給できるエネルギーの量も含め『有限な資源』の範囲の活動ですから、処理時間、処理量に『限界』があることは、明白です。『人間の脳は、無限の能力を秘めている』という表現は、文学的な『比喩』で、論理的には適切ではありません。

『抽象的な論理体系』の世界は、人間の脳が見出したものではありますが、人間から切り離して、独立に存在する世界と言えます。仮に『人間』が地球からいなくなっても、『自然(物質世界)』は、『抽象的な論理体系(物理法則、数学法則など)』に従って変容を継続するに違いないからです。

『抽象的な論理体系』の中に『限界』が存在するとすれば、それは『人間の脳』の『限界』とは別の本質的な話ですので、非常に重要な意味を持ちます。ひょっとすると、『抽象的な論理体系』が内包する『限界』が、『人間の脳』の『限界』を産みだしていると言えるのかもしれません。『人間の脳』は『物質世界の摂理(法則)』に支配されているのですから。

この本では、『司会者』のガイドに従って、『選択の限界』『科学の限界』『知識の限界』の三つの分野で討論が進みます。

議論に先駆けて、『司会者』は、『議論(討論)のルール』を提示します。議論は合意を得ることが目的ではなく、自分とは異なった『考え方(信念)』が存在することを認めた上で、何故その『考え方(信念)』が導き出されるかについて自分で『考える』ことを楽しんでほしいと述べます。

『精神世界』は、個性で成り立っていると考えている梅爺は、この『司会者』の姿勢には100%賛成です。誰もが自分の『信念』を持つことは当然ですが、その『信念』は原則自分だけの『信念』であり、他人にも通用する普遍的な『信念』かどうかは、慎重に判断してほしいと願っています。この『司会者』は、『会社員』『大学生』には優しく、教条的に知識をひけらかす『専門家』には、あからさまではないにせよ冷たく接していて、これも梅爺には好感がもてます。

この本は『理性』が議論の対象ですから、まだ『普遍性』が意味を持ちますが、『感性(情)』が関与する『精神世界』では、『私には好ましい』と言えても、『あなたも好ましいと感ずるべきだ』と強要はできません。そうと分かっていても、梅爺は時に『感情を害して』、つい馬鹿なことを口にしてしまったりしますから、『精神世界』は実に厄介です。

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2014年3月 9日 (日)

『理性の限界』を読む(2)

『物質世界』の事象の一部には、『限界』があることを『科学』が明らかにしてきましたし、私たちは詳しくは理解しなくても、『そうであろう』と感じます。『光の速度』『温度の絶対零度』などで、『限界』を想定しないと、関連事象を矛盾なく説明できませんから、『限界』の存在は『科学』の世界でも受け容れられています。 

また『物質世界』では、『ある状態(平衡状態)』が維持できなくなって、『他の状態』へ移行することが繰り返し行われています。いわゆる絶え間のない『変容(動的に平衡状態が移行する)』こそが、『物質世界』の本質です。『人間』も肉体的には『物質世界』の一員ですから、この『変容』の定めから逃れることはできません。『生まれる』『生きる』『死ぬ』は、『変容』に他なりません。『変容』は観方によっては『限界』を越える事象とも言えますので、『寿命が限界に達して死を迎える』という表現にもなります。この『自然界(物質世界)』の本質を、『賀茂長明』『松尾芭蕉』は鋭く認識し見事に表現しています。 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。(方丈記)  

月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行き交ふ年もまた旅人なり。(奥の細道)

『釈迦』の『万物は縁起(えんぎ)で関連している』という認識も、同類の洞察です。科学知識が少なかった時代でも、優れた人間は『脳』の『理と情の能力』だけを駆使して、素晴らしい洞察を行っています。

『人間』の肉体的能力には『限界』があることも、容易に推察できますが、どの値が『限界値』かということになると、特定は易しくありません。

この本では、『生理学者』が、陸上男子100メートル競走の、理論的な限界値は『9.37秒』であり、スタート時に、ピストルの音を聞いて、0.1秒以内に始動した場合は、フライイングとする国際規定があると話します。

これに対して、『運動選手』が、『どのような根拠でそれが正しいと言えるのか』と食い下がり、『生理学者』は、つい『多くの学者がそれを支持しているから』と口をすべらします。『運動選手』は、『科学の世界では、多数決で正しいことがきまるのか』と、さらに食い下がります。

この例では、明らかに『運動選手』の云い分に分があります。『多くの科学者が支持している』『偉い先生が主張している』から『正しい』などという、判定は、『科学』の世界では、通用しない話です。

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2014年3月 8日 (土)

『理性の限界』を読む(1)

『理性の限界(講談社現代新書:高橋昌一郎著)』を読みました。

副題に、『不可能性・不確実性・不完全性』とありますから、主題の『理性の限界』とあわせ、表紙を見ただけで、『これは、自分の手におえる本でない』と多くの方が、逃げ腰になるのではないでしょうか。

しかし、実際にはこの本は、『学術的なお堅い専門用語を全く知らない人』でも、スラスラ読むことができ、しかも、できの悪い推理小説を読むよりはずっと『面白い』のです。そして、『精神世界』を構成する『理(理性)』と『情(感性)』のうち、『理(理性)』とは何かを深く私たちに考えさせてくれます。

そうなっているのは、著者の高橋昌一郎氏が、この本の著述形式として、巧みに採用した『仮想討論会形式』にあります。

『仮想討論会』の参加メンバーには、『会社員』『大学生』『運動選手』などの、私たち素人の素朴な疑問を代弁してくれる人たちがいます。

一方、提起された問題には、『数理経済学者』『生理学者』『哲学者』『物理学者』『国際政治学者』などなどの専門学者が、討議に参加して、意見を述べます。

そして、多分著者の分身であると推察できる『司会者』が、討論の進行を取り仕切ります。この結果、著者が意図する『内容と問題点』が鮮明に浮き彫りになり、読者は知的刺激にあふれる討論(ディベート)に、自ら参加しているような刺激を受けます。当然、お堅い学術書を読むよりは、問題の本質の理解が端的に得られます。

『理性の限界』の有無についての単純な『解答』を期待してこの本を読めば、少しイライラするかもしれません。『神は存在するか』と同様に『理性に限界があるか』という問いには、普遍的、論理的に『解答』することは困難です。むしろ、何故『困難』なのかを『考える』事に意味があります。その意味で、この本では現時点で人類が獲得している関連知識の多くが、『自分で考える材料』として提示されますので、『考える愉しみ』を追求する方には、楽しさが一杯です。

『脳』が創り出す『精神世界』の、重要な一角を占める『理性』については、『限界』ばかりではなく、『起源』や『存在理由』も解明されているわけではありません。『物質世界』の『自然の摂理』に基本的に支配されている『脳』の解明も、まだ『分からないことだらけ』ですから、『理性』についても『分からないこと』が多いのは当然のことと言えます。

しかし、私たちは自分の『理性』を駆使して、『生きている(考えている)』ことは、まぎれもない事実として実感できますから、自分の分かる範囲で『理性』と向き合うことは、無意味なことではありません。

そういうことに興味旺盛な方には、この本はお薦めです。

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2014年3月 7日 (金)

Catch not at the shadow, and lose the substance.

英語の諺『Catch not at the shadow, and lose the substance.』の話です。『影を追いかけて、実体を逃がすな』という意味なのですが、杓子定規に論理的な解釈をするように英語を習った梅爺のような人間には、この構文形式は少し不自然な感じがします。省略されている部分をどう想定するかは、英語を母国語としていない人間には、やさしくありません。

学校で習ったように表現すれば、『If you catch at the shadow, you will lose the substance. 』か、または命令形に徹するなら『Don't catch at the shadow, and don't lose the substance. 』ということになります。英語ネイティブではない梅爺が、ブツブツ言う話ではありませんが・・・。

『表面的な些細なことに惑わされて、本質を見落とすな』という意味と解釈して、少々突飛なこじつけですが、『色即是空、空即是色』を想起してしまいました。

勿論梅爺は『色即是空、空即是色』を適切に理解しているとは言えませんが、『物質世界』の話としてとらえれば、極めて納得がいく論理に見えます。『色:物事が変容していく事象』『空:変容を創り出す摂理』と考えると、『変容の根源には摂理があり、摂理が変容を創り出している』となり、現代科学が到達している理解と少しも変わらないからです。人間には、『変容(動的に平衡を求めて遷移する事象)』は眼に見えることがありますから『色』であり、『摂理』は眼に見えませんから『空』と表現したとすると、何と深遠な思想なのかと気付きます。『般若心経』の原著作者は、2~3世紀頃のインドの思想家と思われますが洞察には感嘆の他ありません。

しかし、『色即是空、空即是色』を、『精神世界』のことを表現していると考えると、話は難しくなります。『色:抽象的に創造した概念』『空:実態がない無の状態』と想定すると、『精神世界における抽象概念は実態がない、しかし実態が無いところから創り出される抽象概念は必ずしも無意味ではない』と拡大解釈できそうな気になります。

『神』『愛』『正義』など、『物質世界』では実態が無いように思える抽象概念が、人間の『精神世界』で創りだされ、『精神世界』だけで、極めて重要な意味を持つという、梅爺の自論を、簡潔に言い表している様な気になりますから、こちらも感嘆してしまいます。『精神世界』は、厳密には個人個人で全て異なった世界で、他人に迷惑にならない範囲では、発想自由な世界(仮想空間)ですから、梅爺の勝手な自論をお許しいただきたいと思います。梅爺自身は大いに満足している自論ですが、普遍的に『正しい』と言い張るつもりは勿論ありません。別の云い方をすれば『普遍的に正しい』と言えないことで満ち溢れているのが『精神世界』です。梅爺は『モーツァルトは好き』とは言えますが、『誰もモーツァルトが好きでなければならない(モーツァルトが好きである事が正しい)』とは云えないことを想像いただければ、御理解いただけるでしょう。

『些細なことに気をとられて、本質を見失うな』という表現は誠にごもっともですが、『本質』はそう誰にも見つかるようなやさしい存在ではありません。残念ながら些細なことで一喜一憂しながら生きています。私たちにできることは、『もしかして、これは本質ではないかもしれない』と、常に自問自答することしかありません。意外なことに『信ずる』という行為は、この自問自答を放棄することでもあります。『信ずる』ことは、時に重要であり、時に思考の障害になるという、ややこしい話になります。『精神世界』はこのような矛盾で満ち満ちているが故に、これまた魅力的なのです。

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2014年3月 6日 (木)

ドキュメンタリー映画『天のしずく辰巳芳子(命のスープ)』(4)

辰巳さんの経歴を調べてみると、つらい体験を多くされておられることが分かります。良家のお嬢さんとして生まれ、高校2年生の時に、カトリックの洗礼を受け、20歳で結婚されますが、新婚生活たった3週間で、御主人はフィリピンへ出征し、帰らぬ人になってしまいました。結婚の翌年、ご自身が結核と診断され、その後15年間の闘病生活を送っておられます。

40歳になって、お母さんが始めておられた料理研究家の仕事を手伝うようになり、ご自身もローマへ渡ったり、日本でフランス料理の先生について、料理の研鑽を積まれます。お父さんの最後の闘病時期に、病院に届け続けた『スープ』をヒントに、末期入院患者に『スープ』を食してもらう運動を開始します。

そして昨日も書いたように、70歳を過ぎてから、『スープ』の本の執筆、各種NPOの立ち上げを行い現在に至っています。『食する』『料理する』の本質を『精神世界』と絡めて理解することが、『辛い過去の体験』も包含して『現在生きている』ことへの感謝になっているように、梅爺には見えました。

辰巳さんは、この思いを以下のような文章で表現しておられます。

愛は人の中に在るのではなく、人と人の間に在る。
人は愛ゆえに、作ったり食べさせてもらったりする日々。
過ぎてしまえば何と短いことでしょう。

いのちの目指すところは『ヒト』が『人』になること、なろうとすること。
いのちそのもの(神仏)の慈悲から目をそらさぬこと、愛し愛されること、宇宙、地球、即ち風土と一つになり生きること。
食すことはいのちへの敬畏、食べものを用意するとは命への祝福。

梅爺が、ブログに書いてきた、『物質世界』の一員である『ヒト』が、『精神世界』を保有することで『人』となること、そして本当の『人』になろうとすることの大切さを見事に表現しておられます。

『いのちは自然の摂理から与えられたものであることを直視しなさい』『愛をもって人同士が接っしなさい』『自然と一体になって感謝して生きなさい』などは、いずれもキリストや釈迦が私たちへ教えてくれたことです。

『これからは、何に挑戦していきたいですか』という質問に、辰巳さんは、笑いながらこう答えました。

『ちょっと飛んでもないことを考えているの。私はモノの中で生きてきたけど、モノは無私、無心でしょう。そういうモノと一体になることの、本当の深い意味は何かを考えていきたいの』

これも、梅爺流に解釈すれば、『情』とは無縁の『物質世界』と、『情』が重要な意味を持つ『人』の『精神世界』の関係を、問い詰めることです。梅爺と同じようなことを考えておられる方に遭遇して嬉しくなりました。

『物質世界』で『ヒト』は生きていけますが、『精神世界』がないと『人』は生きていけないという謎にせまることです。しかも『食材』の多くは、他の生物のいのちを奪って得られるものであるという意味も理解しなければなりません。

『食』や『料理』を『物質世界』の事象としてとらえれば、『栄養源の摂取』『レシピの習得』で終わってしまいます。この理解で止まる方には、辰巳さんの深遠な『精神世界』の『敬畏』『祝福』は不可解かもしれません。しかし、『精神世界』の不思議にとりつかれている梅爺には、辰巳さんはとても魅力的です。

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2014年3月 5日 (水)

ドキュメンタリー映画『天のしずく辰巳芳子(命のスープ)』(3)

辰巳さんは、1924年の生まれですから、この映画を撮影したとき(2012年)には88歳のはずです。言動の若々しさに、梅爺は感嘆しました。何よりも、『考えたことを実行に移し、根気よく継続する姿勢』に頭が下がります。

日本人は、『日本の米と大豆を食することが大切』と考え、『大豆100粒運動を支える会』を立ち上げます。この趣旨に賛同した信越放送と連携し、長野県下で2000人近い小学生が、自分で100粒の大豆を畑にまき、収穫しました。土に触れる子供たちの明るい笑顔が印象的でした。子供たちは初めて自分たちが食べている豆腐、納豆、味噌醤油、きな粉が、人間の努力や愛情と、自然の恵みが一緒になって、時間をかけて生育した食材からもたらされたことを肌で感じて知ったことになります。生産者を思いやる心を辰巳さんは大切にしています。

『良い食材を伝える会』『確かな味を造る会』『スープの会』と矢継ぎ早に、辰巳さんはNPOを立ち上げていきます。

驚くことにこれらのNPOは、辰巳さんが70歳になったころから始めています。70歳を過ぎて、理屈は言うもののすっかりグータラ隠居を決め込んでいる梅爺は、『しっかりしなさい』と頭を一発どやされた気持ちになりました。

この映画では特に、病院の末期患者に、『本物のスープ』を食してもらう運動『スープの会』の活動が多く紹介されています。これは辰巳さんの実父が、8年の病院での最後の闘病生活を送っていた時に、『嚥下(えんげ:呑みこむこと)』し易いようにと辰巳さんが届けた『スープ』の経験が原点です。『スープを飲んで父はほほ笑んでくれた』と辰巳さんは語っておられました。末期の患者は、どんな薬や励ましの言葉より『美味しい心のこもったスープ』に『命への感謝、思いやりへの感謝』を感じるからではないでしょうか。

父の死後、辰巳さんは、近所の病院の重篤患者のために、30人分のスープをつくり、4年間届け続けました。この主旨に賛同した多くの病院が『スープ』を配ることを始め、これが『スープの会』として広がりを見せています。

『天のしずく(命のスープ)』という映画のタイトルは、ここからきています。

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2014年3月 4日 (火)

ドキュメンタリー映画『天のしずく辰巳芳子(命のスープ)』(2)

ドキュメンタリー映画は、制作者が『ある主題』を設定し、『事実』や関係者のインタビューなどを収録し、最後に編集をして完成します。脚本に基づいて制作される劇映画と異なり、多くの素材を先ず集め、最後にそれらの素材の中から適切なものを選択し、つなぎ合わせて『主題』を分かり易く編集表現することになりますので、丁寧に制作しようとすると、制作過程で無駄も多いことになります。

『主題』を分かりやすく表現するために、『事実』をもう一度再現したり、ある『事実』を創造して加えたりする、編集者の『恣意』が全くないわけではありませんので、ドキュメンタリー映画は本物の『事実』だけを記録したものと、鵜呑みにはできません。

ナチス・ドイツの宣伝ドキュメンタリー映画を制作担当した女性監督『レニ・リーフェンシュタール』の作品は、極めて芸術性の高い表現で賞賛されたと同時に、ヒトラー思想を大衆に洗脳する道具にもなったと、戦後非難の対象にもなりました。彼女自身は生涯『私は芸術として独創的な表現を追い求めただけで、ヒトラーの片棒をかついだわけではない』と主張し続けました。そう言わなければ、自分の罪を認めることになりますから、当然と言えば当然の主張ですが、意思が強くないと頑張りきれませんので、強靭な精神力の持ち主であることが分かります。梅爺はこのような『ツッパリ型』の方とお付き合いするのが苦手です。

『天のしずく辰巳芳子(命のスープ)』という映画にも、日本全国の『土』を採取して芸術作品の素材としている美術家や、瀬戸内海の島にある『ハンセン氏病国立療養所』の患者さんと辰巳さんの交流が紹介されていますが、これらは、ある程度演出された『事実』であろうと梅爺は推察しました。しかし、これらの『演出』は、辰巳さんのお人柄や思想を映画を観る人に伝えるための有効な手段ですから、許される範囲の『恣意』で、問題無く受け容れることができました。

この映画の主題は、『食する』『料理する』ことの本質を、『精神世界』と関連してとらえようとする辰巳さんの考え方、生き方を紹介することです。梅爺のように『精神世界』の不思議に魅了されている人間には、この上もなく啓発的な内容ですが、『精神世界』に興味のない方は、『何もそんなに七面倒くさく考えることは無いんじゃないの』ということになるかもしれません。

『手軽に料理できて、エネルギーが摂取できればよい。まぁ美味しければそれにこしたことはない』という考え方では、辰巳さんは理解できません。音楽と『精神世界』の関係に興味が無い人には、音楽は雑音にしか過ぎないのと似ています。『精神世界』の価値観は個性的ですから、こういう方の存在を非難する気持ちにはなりませんが、『生きる愉しさを半分放棄している』ことは『もったいない』と感じます。『精神世界』を興味の対象とする人の比率が多い社会が、真に豊かな文明社会であると梅爺は考えているからです。その意味で、どのくらい多くの日本人がこの映画に『感動』するのだろうと知りたくなりました。

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2014年3月 3日 (月)

ドキュメンタリー映画『天のしずく辰巳芳子(命のスープ)』(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映された映画『天のしずく辰巳芳子(命のスープ)』を録画して観ました。 

料理研究家で文筆家でもある『辰巳芳子』さんは、『命に直結した食の大切さ』を訴える各種の運動を精力的に推進する方で、この映画はその一部を丁寧に追いかけて記録したドキュメンタリー映画です。 

辰巳さんは、同じく料理研究家であった実のお母さんから継承した、素材を大切にした『味』にこだわる料理法を提唱し続けておられることを、梅爺はこの映画で初めて知りました。 

食材を『料理』して食するのは、『人間』だけが保有する能力です。勿論高度に進化した『脳』が考え出し、代々継承してきた『知恵』ですから、『料理』が深く『精神世界』と関与していると考えるのは当然のことです。 

先進諸国に住む現代人の多くは、『食する』ことは、それほど労せずとも可能な当たり前な行為と受け止めていますが、『人類』の歴史を考えれば、これは『異常』であると思い当たります。20万年に及ぶ『現生人類』の歴史の中で、大半の時代は、命をつなぐ食材を手にすることは必死の努力を必要としました。その証拠に、私たちの身体には、ある程度の『飢餓』を絶えるしくみが継承されています。ところが、この脂肪を体内に蓄えると言うしくみが、現代人では逆にあだになり、メタボリック症候群などという、成人病に悩まされる皮肉なことになっています。私たちには『飽食』に対応する身体のしくみは継承されていません。 

地球上の人口の1/3は、今でも十分な食べ物が得られない状態にありますから、日本を含む先進諸国の『異常』さが、際立っています。 

『人間』にとって『食する』とは何か、『料理する』とは何かを、辰巳さんは訴えているのだと、梅爺は理解しました。 

現代人にとって『料理』は、『美味しさ』『美しさ』を追求する『技』と表面的にとらえ、レシピや教則本が氾濫していますが、『料理』の奥に潜む、『人間』の『精神世界』との関り、本質的な『知恵』『文化』に思いを馳せることの重要さを、辰巳さんは訴えていることになります。

現代人のせわしい生活テンポの中では、毎食手抜きをしない『料理』にこだわることは難しいことで、ある程度の『味』のレベルが保たれていれば、インスタント食品や、市販の調味料で済ませてしまうことは、やむを得ないとしても、時折、本質を思いやることは大切であることは間違いありません。

『しかたなく』料理をすることと、『感謝し、食してくれる人を思いやり、自分の創造性を楽しんで』料理するのでは、『心の満足』に大きな違いが生ずるからです。この点では『料理』は『音楽』と似ています。教則本どおりに、正しくお仕着せの演奏しても、聴衆の心へ訴える演奏にはなりません。

梅爺も、『いただきます』『ごちそうさま』と食前食後に唱える、『感謝』を表明する美しい日本語を不遜にも放念して生活していることを深く反省させられました。『日本食』が、『無形世界文化遺産』として登録されましたが、『日本食』は自然と共生することに感謝して生きてきた日本人の『精神文化』そのものを映し出している鏡でもあります。

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2014年3月 2日 (日)

梅爺創作落語『神の味噌汁』(6)

(熊八)『元はと言えば、あっしのそそうからのことですが、すんでのところでこの世におさらばのところでした。お礼の申しようもございません』

(老人)『面子(めんつ)とか沽券(こけん)とかがお武家さまには大切なものらしいことは分かるが、人の命と天秤にかけて比べるほどのものかどうかは、ちょいと考えれば分かる話ではなかろうかのぉ。まぁ、何よりもけが人もなくことが収まってようござんした』

(熊八)『先だっては、ター坊の病気を治していただき、今しがたはあっしの命をお救いいただき、なんともお礼の申しようもございません。おっかぁからも、あらためてお礼を申し上げさせたいと思いますので、この足で是非あのむさくるしい長屋へ、ちょいとお立ち寄りいただけませんか』

(老人)『わしは、なすべきことをなしただけで、お礼など一切無用故、どうかお気づかいなきように願います。さはさなれど、もしお内儀の味噌汁を一杯馳走いただけるなら、ちょいとだけ、お邪魔をさせていただいてもかまいませんぞ』

(熊八)『味噌汁一杯だけなどとおっしゃらずに、夕餉(ゆうげ)や酒の用意も致しますから、是非お立ち寄りください』

(老人)『いやいやその様な大袈裟なことならご辞退もうしあげます。前にお邪魔した時に頂戴した味噌汁の味が格別で、ついいやしく思い出してしまっただけのこと故、どうかご放念くだされ』

(熊八)『はいはい、分かりました。それではおっかぁに、味噌汁をつくらさせましょう』

長屋へ戻った熊八は、おかみさんに今日の顛末(てんまつ)と、味噌汁の件を話し、おかみさんも、それならばと腕によりをかけてシジミの味噌汁と振舞いました。老人は、さもうまそうにその味噌汁をすすると、前と同じように、挨拶も早々に、長屋からすっといなくなってしまいました。

(熊八)『どうも、あのご老人は人間とは思えねーな。神様の生まれかわりじゃねーのかなぁ、おっかぁもそう思わねーか』

(熊八の女房)『そーだねぇ。もしそうなら、神様が、こんな貧乏長屋にすむ私たちに気を使ってくださるなんて、ありがたい話じゃないかい。それにしてもどうしてあのご老人は、いつも味噌汁だけご所望(しょもう)されるんだろーね

(熊八)『そりゃお前昔からそう云うじゃねーか。「神のみぞ知る(神の味噌汁)」ってな』

お後がよろしいようで。

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2014年3月 1日 (土)

梅爺創作落語『神の味噌汁』(5)

(侍)『おいおい爺さん、おせっかいで邪魔立てすると、おぬしも一緒に痛い目にあうことになるぞ。いらぬ手出し、口出しはせぬ方が身のためだと思え』

(老人)『最前から事の経緯(いきさつ)は、後ろの方で拝見しておりました。ご武家様のお怒りはごもっともと思いますが、この者もこのとおり謝って、お許しを乞うておりますので、ひとつここは、この老人に免じてお見逃しいただくわけにはまいりませんかな』

(侍)『いやならぬ。このまま引き下がっては武士の沽券(こけん)にかかわる。これ以上四の五の抜かすと、おぬしも一緒に成敗することになるが、それでも良いか』

(老人)『これは困りましたな。何があっても、その腰のものをお抜きになりたいとおっしゃるなら、この若い者の代わりに私を成敗いただくというのではいかがでしょう。もっとも、お武家さまの命とも云われるその名刀で年寄りを切ってみても、あまりご自慢のお手柄にはならぬこととは存じますが』

(熊八)『ちょ、ちょっとまっておくんなさいよ。あっしも江戸っ子のはしくれですぜ。ご老人の命と引き換えにてめぇが助かろうなんて了見はこれっぽっちもありません。お武家さまがそこまでおっしゃるなら、どうかあっしをバッサリやっておくんなさい』

(侍)『お涙ちょうだいの三文芝居もその辺にしておけ。所望通りに二人とも成敗してやろう』

侍が、腰の刀に手をかけた瞬間、老人は、右の腕を侍へ向けて伸ばし、掌(たなごころ)で侍を制するような構え、瞑目(めいもく)したまま、何かを小さくつぶやきました。すると、あれほど威勢が良かった侍が、眼を白黒させたかとおもうと、刀も抜けずにヘナヘナと崩れおち、道の真ん中に仰向けに、大の字に倒れ込んでしまいました。成り行きを固唾(かたず)をのんで見守っていた野次馬からは、『おう』という驚きの声と期せずして拍手が湧きおこりました。

(熊八)『ご老人、このお武家さまは死んじまったのですかい』

(老人)『いや、御心配には及びません。一時(いっとき)気を失っただけのことです。しかし、往来の真中で大の字に寝ていられても皆さまにご迷惑となりますので、あの橋の欄干(らんかん)のところまで運んで、酔っ払いが寝込んでいるように、背をもたれかけた格好にしておくことにしましょう。熊八さん、ちょいと手を貸して下さいな』

二人は侍を抱えて橋のたもとに運びました。

(老人)『どうも、御見物のみなさん、ご迷惑をおかけしました。このご武家さまは、気を失っているだけで半時もすれば、気付きます。その折、最前何があったかは一切覚えていませんので、どなたにもご迷惑になることはありません。どうか、このまま、何もなかったようにしてお引き取り下さい』

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