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2013年12月31日 (火)

生かされている(3)

梅爺は、なけなしの科学知識を総動員して、『自分は、自然の摂理の中で生かされている』と推論しましたが、古代の人類も、『周囲に存在する、眼に見えない、得体のしれない何者かが自分の命を支配している』と感じたであろうことは容易に推測できます。『得体のしれない何者か』を感じて、怯(おび)えるのは、別に人間だけではありません。今は亡くなってしまった我が家の犬も、には怯えていました。

しかし、人間は生物進化の過程で、『脳』が犬より高度な推論能力を発揮するようになり、『得体のしれない何者か』の正体を、推測するようになって、『こうにちがいない』ともっともらしいことを言いだします。『得体のしれない何者か』をそのままに放置しておくことは、不安がつのり、不安や心配事は『安泰』を脅かすストレスになるようにも『脳』はできているからです。

『雷』は、雲の上に『雷神』がいて、背中に背負った太鼓をたたいているのだという『推論』を誰かが云いだし、いつしか『雷神』は、それらしい絵にもなって、人々の共通認識として語り継がれることになります。『雷は臍(へそ)を盗む』などという話にまで拡大します。『雷』の正体は、今では科学知識が解明していますから、その存在を『信ずる』ひとは少なくなりました。

人間の歴史で、『神』や神にまつわる『神話』が登場するのは、これと同じではないかと梅爺は推測しています。古代のユダヤ人が考え出した、『神』や神にまつわる『物語』は、『旧約聖書』として語り継がれてきました。歴史的な出来事を記述した部分もありますが、多くは、『得体のしれない何者か』を説明しようした結果であろうと梅爺は考えています。

現代人の多くは『雷神』の存在は信じなくなりましたが、『神』や『聖書』の内容は信じています。現在地球上の90%以上の人たちが、何らかの『神』や『仏』を信じていると言われています。代々語り継がれてきたことは、一種の『仮想事実』となって、人間社会に大きな影響を及ぼし続けることが分かります。

『得体のしれない何者か』の正体について、『神』については『雷神』のような明解な説明ができないからなのでしょう。梅爺は、強いて『神』を定義すれば、『自然の摂理の奥に存在する真理(ルール)』であろうと考えていますが、このような考えをする人は多くはありません。梅爺の定義する『神』は、宗教が教える『神』とは似ても似つかぬものです。しかし、梅爺はニーチェのように『神は死んだ』と断定するほどの勇気はありません。

『雷神』を信ずる人が減少したように、宗教の範囲は、科学に依って次第に狭められつつあります。『天地創造』や『アダムとイヴ』の物語を信ずる人は同様に減少しているに違いありません。宗教にとって最後の砦は何なのかを、宗教人自身が真剣に考えなければならない時期が近付きつつあるように梅爺は感じます。科学が最後まで『神』の正体を説明することができないのかどうか、梅爺には分かりませんが、少なくとも『神』が、人間にとって『都合のよい存在』であるという考え方と、真っ向から向き合う勇気は求められるのではないでしょうか。

梅爺の『情』は、『自分を愛し、導いてくれる神様』がいて欲しいと『願い』ますが、梅爺の冷酷な『理』は、『そのような実体は存在しない』と耳元で囁き続けます。『情』と『理』を保有する人間の宿命なのでしょう。

梅爺は『自分は生かされている』と感じますが、それは、『自然の摂理』が創り出す周囲の環境によってもたらされているということで、そのことには感謝しています。仮に、梅爺が数百年前に生まれていたら、70歳までは到底生きることはできなかったに違いないからです。同様に、自分の人生を構成し、自分を支えてくれた先祖、肉親、家族、友人、知人にも感謝しています。梅爺は『神』を疑うほどの不遜な人間ですが、周囲に感謝の念を持たない冷酷な人間にはなりたくはありません。

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2013年12月30日 (月)

生かされている(2)

若いころの梅爺は生意気で、自分が『生きている』のは、自分の意志や能力によるものと勘違いしていました。人生の進路は、自分の意志や能力で切り拓いていくものという面だけを重視していたからです。

しかし『生物分子学』や『生物進化』の知識でみると、自分の命の営みの大半は、自分の意志とは無関係に機能していることが分かります。梅爺を構成する70兆個の細胞は、梅爺の意思とは直接に関係なく、先祖から受け継がれたDNAプログラムに従って、営々と、化学、物理の反応で『動的平衡』を保っていることになります。『体温』『血圧』『脈拍』なども、自分の意思とは無関係に、『動的平衡』で調節されるようにできています。『動的平衡』が保てなくなると、病気になり、やがて死を迎えることになります。

命を維持するためにはエネルギーが必要になり、『食物』『水』『酸素』の摂取が必須となります。聖人であろうが偉人であろうが、人間である以上この条件は同じで、適度な『食物』『水』『酸素』の摂取が継続できなければ、生命は維持できません。仙人のように、霞を食べて生きていくことはできません。特に『食物』には、他の生命体を殺さなければならないという非情な現実が関与します。

『食物』『水』『酸素』の摂取が可能な環境も、『当たり前』に手に入るものではなく、宇宙生成のプロセスの『動的平衡』の中で、偶然、地球環境が形成されたものです。言い換えれば『地球』も『生命』も、『動的平衡』で変容する自然の中で、偶然存在するようになったことが分かります。地球上の生命は、そのまま火星へ移住して、生き続けることはできませんし、地球環境が変われば、地球でも生存が困難になります。

このように考えると、自然の摂理が創り出した偶然の環境の中で、私たちは『生かされている』という表現の方が適切であることが分かります。条件が変われば、私たちは生きていけないからです。この偶然をもたらしてくれた自然の摂理を『神』と呼ぶのであれば、『神』に感謝をしなければなりません。しかし、ここでいう『神』は、宗教が定義する『神』とは異なり、人間の願いや祈りとは無縁な冷酷なものです。人間にとっては耐えがたい自然災害も、地球環境が、『動的平衡』でバランス点を変えることで発生します。自然の摂理を『神』と呼ぶなら、これも『神』の仕業ということになります。

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2013年12月29日 (日)

生かされている(1)

梅爺の興味の対象の一つが『生命』です。『生命の起源』『生命のカラクリ(生物分子学)』『生物進化』などは直接的に関連しますが、『宇宙の起源と歴史』『人類の出現と人類学的な歴史』『人間の脳のカラクリ』などは、間接的な関連があり、何度も何度もブログで取り上げてきました。多分、『宗教』『哲学』『芸術』などの話題も、突き詰めれば『生命』や『脳のカラクリ』と深い関わりがあるのでしょう。

『生命』は科学の対象として観れば、非常に複雑なしくみではありますが、基本は『化学』『物理』の法則で説明ができます。人間の『生命』も例外ではありません。その非常に複雑なしくみは、それだけを観ると、あまりにも巧妙にできている驚異的なものですから、『こんなものをデザインできるのは神様だけ』と考えたくなります。昔の人が、神に依る『天地創造』を信じたのは無理からぬことです。『宇宙』や『生命』は、当時の人間の知力をはるかに超えたものであったからです。しかし、私たちは自然の摂理が偶然によって産み出すものは、人間の想像をはるかに超えていることを知るようになりました。『科学』はこの自然の摂理を後追いで探究する行為であるとも言えます。

現代の科学でも、『宇宙』や『生命』の全てを解き明かしたわけではありませんが、それでも、多くのことが判明したり、定説として定着したりしています。20世紀は、人類にとっては『科学の世紀』で、私たちは、それ以前の人類とは、『別世界』で生きているといっても過言ではありません。19世紀以前の『考え方』は、古い、間違いとして全て切り捨てる必要はありませんが、少なくとも新しく獲得した『科学知識』で、見直してみる必要があります。残念なことに、現在学校で使われる教科書の内容は、大半が古いもので、最新の科学知識に更新されていません。従って、現代人の多くは、最新の科学知識を利用はしていながら、その内容を理解していないというチグハグな状態で生活しています。

最新の『科学知識』を本当に理解している人は、現代では一握りの人たちです。しかも、全貌を理解している人はほとんどいないと言えるほど、個々の科学領域が複雑化しています。この一握りの『知っている人』と大半の『知らない人』の間に生ずる種々の問題が、21世紀の人類の課題の一つとジャーナリストの立花隆氏は指摘しています。原発の事故が起きて、類が自分に及んではじめて多くの人が『安全であると聞かされていた』と、自分の無知を棚に上げて、一握りの人たちの判断を批難し始めたことをみれば、これが慧眼であることが分かります。国家のリーダーになるような人は、少なくても最新の『科学』の本質だけは理解しておく必要がある時代になりつつあるということです。『知らない人』が、『情』にまかせて原発の将来を論じてみても、役に立ちません。

『生命』を『科学』だけで論ずるのは、あまりにも『唯物論』すぎると、違和感を多くの方は抱かれるのではないでしょうか。『生命』の基本は、化学、物理現象にすぎないというだけでは、あまりにも味気ないからです。梅爺もそう思います。たとえば『生命』の尊さを『科学』では推し量れないというのはその通りですが、逆に『生命』の問題を、『一つの命は地球より重い』などと形而上学的な表現だけで論ずるのも『唯心論』すぎるように思います。

『生命』は、味気ないものでもあり、深遠な意味が込められているものでもあるという、矛盾するように見える両面を承知の上で、『生命』の問題に立ち向かう必要があるように思います。『生命』の解明しようという科学者には、特にこの姿勢は求められます。

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2013年12月28日 (土)

The Swerve(10)

『レクレティウス』が『物事の本質』で主張していることは、大きく二つに大別できます。一つは、『物質世界』のしくみについての洞察で、目に見えない『微粒子』が自由に『方向転換(Swerve)』することで、集合、離散が生じ、この活動で全ての物質が形成されているというものです。この視点でみれば『人間』も、特別なものではないことを見抜いています。『物質世界』は、際限なく『変容』し続けているだけで、始めも終わりもなく、『あるべき姿』や『目的』は存在しないという、現代科学が見出した『物質世界』のしくみと極めて類似した考え方であることが驚きです。 

もう一つの主張は、『精神世界』に関する言及で、『開放された自由な精神活動で喜び(Pleasure)を追求することが人生の目的である』と云う内容です。ただし、この主張は『レクレティウス』の考えと言うより、ギリシャの哲学者『エピクロス』の主張に賛同しているように見えます。 

紀元前1世紀のローマ帝国において『レクレティウス』の主張は、多くの人達の理解をはるかに越えていたに違いありません。ただし、『キケロ』など教養人にとっては、『興味深い主張』であったらしいことが残されている書簡などで分かっています。 

3世紀以降、『キリスト教(カトリック、正教)』が確立していった『教義』にとって、『レクレティウス』の主張は、極めて不都合な内容になりました。『物質世界』のしくみについては、『神の天地創造』とあまりにも異なっていますし、『自分を鞭打ち苦痛に耐えて、罪の許しを乞う』というような修道僧の行動は、『自由な精神活動で喜びを追求する』という考え方と正反対なものであったからです。 

『エピクロス』や『レクレティウス』のいう『喜びの追究』は、『欲望の赴くままの快楽を追求』と誤解され、キリスト教からは、目の敵にされましたが、元々の主張は『精神世界の喜び』のことでした。 

『精神世界の喜び』は、食欲や性欲と言った『肉体の喜び(快楽)』とまったく無関係ではありませんが、『精神世界の喜び』を伴わない、『肉体の喜び』だけの追求は、空しいと感ずる『理性』が求められます。このバランスをとることは易しいことではありませんが、少なくとも全てを『罪』として、蔽い隠そうとしても、人間は生きていけません。 

『レクレティウス』の『物事の本質』が発見され、中世、近代の西欧社会に大きな影響を与え続けてきたという主張は、必ずしも大袈裟ではないように思います。しかし、多くの人たちは、基本的に『キリスト教文化』の中で生きていましたから、なんとか『キリスト教の教義』と『レクレティウスの主張』を両立させる考え方はないかと、苦闘し、模索することになります。特に科学者にとっては、切実な問題で、『ニュートン』は悩みましたし、『ダーウィン』は『種の起源』の出版を永い間躊躇していました。 

自分の『罪(利己的な言動)』を認めることは大切なことですが、自分は罪人(つみびと)だと思い続けることは、本能の『不安』『恐怖』を呼び起こします。その結果『神の許しを得て安泰を得る』という受け身の考えも思いつきますが、むしろ能動的に自分から『安泰』を求めて行動する方が、人間の本性に即しているのではないかという主張も、一理があるように思います。

『喜びの追究』は『罪』に繋がるという主張と、『喜びの追究』を禁ずると人間の精神は閉塞的になるという主張は、どちらが『正しい』かを議論することは、あまり意味がないように感じます。

人間の『精神世界』は、『物質世界』と異なり、単純に『真偽』『白黒』の区別ができない領域であるからです。『精神世界』のしくみも、やがてはすこしづつ解明されていくとは思いますが、現状は『分からない』ことだらけです。それ故に、人間は素晴らしくもあり、おぞましくもある存在であると、梅爺は感じています。良きにつけ悪しきつけ、生物としての人間を際立たせている要因の一つは、『精神世界』を保有していることではないでしょうか。

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2013年12月27日 (金)

The Swerve(9)

紀元前1世紀のローマ帝国の、詩人、哲学者『レクレティウス』の著作『物事の本質』のコピーが15世紀に、ドイツの修道院の書庫から発見され、その内容が、その後人類文明がが近代へ向かって変貌する大きな原動力になったというのが、『The Swerve』という本の主旨です。 

『レクレティウス』の主張は、『神による天地創造』『全てのことは神の摂理(Providence)で定められている』という、聖書の教えと、全く異なるものでしたから、約1500年間、『異端の書』として、ほとんど誰にも顧(かえりみ)みられることなく、眠っていたことになります。 

『物事の本質』のコピーを発見したイタリア人『ポッジョ・ブラッキオリーニ』は、今となっては歴史上忘れ去られた人物になってしまっていますが、彼がいなければ、その後の人類文明の歴史が変わっていたかもしれないことを考えると、大きな貢献をしたことになります。『The Swerve』の著者『スティーブン・グリーンブラット』は、丹念に『ポッジョ・ブラッキオリーニ』の生涯を調査し、伝記風に紹介しています。この部分は、15世紀のヨーロッパの時代背景を知る上で、梅爺には大変興味深いものでした。

『ポッジョ・ブラッキオリーニ』は、トスカーナ地方の小さな町の公証人の息子として産まれました。当時はまだ印刷技術がありませんでしたので、書類や本の複製は全て手書きコピーでした。彼は、速く、正確に、見事な筆跡でコピーをつくる能力に長(た)けており、ラテン語の読み書きにも長じていました。やがて、フィレンツェ経由でローマに移り住み、バチカンの教皇秘書にまで登り詰めます。バチカンの公式文書はラテン語でしたので、彼の能力を必要としたのでしょう。

ところが彼が仕えた最初の教皇が、カトリックの歴史でも名代の悪徳教皇で、神聖ローマ帝国皇帝からの弾劾(だんがい)で、教皇の座から追放 されてしまいます。これで、職を失った『ポッジョ・ブラッキオリーニ』は、ローマ時代の古いラテン語文献探しの旅に出ます。ルネッサンス時代のヨーロッパでは、このように古典に憧れる、貴族や教養人が増えていたのでしょう。『The Swerve』という本では、これらの人たちを『Humanist』と称しています。『人道主義者』ではなく、人間中心の考え方をする人達というような意味ではないかと思います。そしてついに、ドイツの修道院の書庫に眠っていた『物事の本質』のコピーが発見されました。

その後、印刷技術が普及し、『物事の本質』は、またたく間にヨーロッパ中に広がり、カトリックがあわてて『禁書』扱いにしましたが、時すでに遅く、今でも多くの『物事の本質』は残っています。

『ポッジョ・ブラッキオリーニ』は、その後、バチカンの教皇秘書として復職し、更に3人の教皇に仕えました。しかし、生涯聖職者になることを拒み、最後はフィレンツェの市長になっています。バチカンの裏側に接し、その偽善ぶりをみて聖職者になることを拒み、『Humanist』のグループに加わっていったのだろうと推察されます。

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2013年12月26日 (木)

The Swerve(8)

人間は、自分の都合を最優先して行動しようとする習性を本能的に持っています。生物進化の過程で、『生き残る能力』を最優先としてきたわけですから、当然のことです。この本能はどの生物にも共通なものです。

自分を最優先にすれば、他人には不都合な行為となってしまう可能性がありますから、これを『罪』というなら、人間は、そもそも罪深くできていることになります。

しかし、人間はその後『群で生きていく』ことが、生き残りのための選択肢として重視するようになり、時に『自分の都合を最優先しない』という本能もまた獲得してきました。『自分の都合を優先する(利己的)』『自分の都合を優先しない(利他的)』という、矛盾する二つの本能のように見えますが、元はといえば『安泰を希求する』という一つの本能の変形に過ぎません。『自分一人の方が安泰』か『群と一緒の方が安泰』かを、時と場合で使い分けていることであると考えれば納得できます。

『自分の都合を優先しない』という本能は、獲物を独り占めにしないで、皆で分け合うというような行動になって現れます。一見『博愛主義』のように見えますが、『分け合った方が自分も生き残れる可能性が高い』と本能的に判断した結果ではないでしょうか。この『分け合う』という本能こそが、『ホモ・サピエンス』が人類種の中で唯一生き残った原因であると主張する学者もいます。

『宗教の教義を疑わずに信じて、心の安らぎ(安泰)が得られる人』は幸せですが、人間の中には、『教義に疑問を持つ人』も必ず出現します。ヨーロッパの中世にも、このような人達(教養人)が現れました。

敬虔なカトリック信者でありながら、『喜び』を人生の目的として生きる別世界の人たちの物語を『ユートピア』として書いた『トーマス・モア』、カトリックを批判して、キリスト教の改革に立ちあがった、『ルター』『カルバン』『ヤン・フス』等『プロテスタント』の主張者、『科学』の真理を求めて、聖書とは異なった事実を発表した『コペルニクス』『ガリレオ』などが、『The Swerve』と言う本には登場します。その時代を、苦悩しながら生きた(中には訊問の末に処刑された)生身の人間として紹介されますので、教科書で名前だけを知ったのとは、全く異なった人物像が見えてきます。

『信念を変えない』という生き方も立派ですが、『たえず真理を模索し続け、必要ならば方向転換(Swerve)する』ことも必要なことではないでしょうか。

自由な精神活動を抑制されると、人は『苦痛(安泰を損なう要因)』と感じます。勿論、『他人に大きな迷惑がかからない範囲で』という条件で、自由な精神活動が許されることは、素晴らしいことです。

この本を読んで、『梅爺閑話』のような能天気なブログを書き続けることができる現代の日本は、中世のヨーロッパと比べ、なんとありがたい環境かと、あらためて感謝することになりました。

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2013年12月25日 (水)

The Swerve(7)

『罪』という概念は、『掟(おきて)に反した行為をすること』です。『法の掟』は、人間社会の合意を体系化したものですので、時代や環境の変化で変わることがあります。『罪の認定』『罰則の裁定』も人間による『裁判』で行われます。『法』に関して『私は一切罪を犯していない』と主張する人が、必ずしも『善人』であるとは限りません。『法の掟』は、万全ではありませんから、『法の網をかいくぐって悪いことをする』人は後を絶ちません。

一方、『宗教』においては『神の掟』が提示されますが、これへの対応はなかなか大変です。信心深くない梅爺は、畏れ多くも『神の掟』は、人間が考え出したものであろうと推測しています。しかし、『宗教』において、『実は、人間が考え出したものです』などと認めてしまうと、『神』の存在がゆらぎますので、『神から預言者に授けられた(モーゼ)』『神から預言者にお告げがあった(ムハンマド)』などという説明がなされ、権威付けが行われます。

『神の掟』が厄介なのは、絶対的なものとして、疑ったり、変えようとしたりすることは許されないことです。『法の掟』とは決定的に異なります。

『タルムード(ユダヤ教)』『聖書(キリスト教)』『クルアーン(イスラーム)』などの聖典には、神の言葉は記述されており、『神の掟』もそこに示されているということになりますから、『聖典の内容は、絶対に正しく、疑いの対象にしてはいけない』ということにもなります。しかし、このような硬直的な考え方は、『宗教』の基盤を強固にするようで、じつは脆弱なものにしてしまうように梅爺は感じています。『精神世界』から、『疑問に思う』『思索を深める』という自由な振舞いを封じると、心が閉塞してしまい、開放感がもたらす精神的な喜びも奪ってしまう恐れがあるからです。

『神の掟』から導き出される『罪』とは何かを定義することは易しくありません。『欲望に身を任せてはいけない』などと言われれば、『飲食』や『性行為』など人間の生きるための基本機能はすべて『罪』となります。一瞬たりとも『神』のことを忘れて過ごせば『罪』であり、いわんや『神』や『聖典の内容』を疑うような思索をすれば『大罪』ということになります。

その上、『神』は法の裁判官と同様に、『罪の認定』『罰則の裁定』を行う存在であると言われれば、善良な人ほど、自分の罪におののいて、『神の赦し』『神の救い』を希(こいねが)うことになります。

『罪の意識におののいて、神に赦しを乞う生き方』とは異なった、『精神を開放して自由に思索し、喜びを見つける生き方』が、人間の本性に即したものではないかと、ルネッサンスのヨーロッパの知識人は再認識したことになります。『神へ従属して得られる心の安らぎ』と『自分を解放して得られる満足感』を、天秤にかけて考え始めたとも言えます。

そして、そのきっかけの一つが、『レクレティウス』の『物事の本質』という著作であったというのが、『The Swerve』という本の主張です。

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2013年12月24日 (火)

The Swerve(6)

人間関係で最も厄介な事態は、自分と他人が、異なった『精神世界』を保有しているということを、気付かないか、気付いたとしても認めようとしないかで生じます。

何故異なった『精神世界』を保有しているかの理由は、140億個程度あると考えられている脳神経細胞のネットワーク構造が、一人一人異なっているからです。ある人の脳神経細胞のネットワークは、『遺伝子で継承された資質』『生後の環境から影響を受けた資質』の複雑な絡み合いで出来上がっていきますので、親子、兄弟(姉妹)といえども、似ている可能性は高いとしても『同じ』ではありません。『クローン人間』が可能になったとしても、『生後の環境から影響を受けた資質』を、全く同一に制御できない限り、脳神経細胞のネットワーク構造は同じにはなりません。つまり、外見は瓜二つの人間に見えて、『精神世界』は、微妙に異なっていることになります。いわんや、夫婦、友人は、元々他人ですから、異なっているのは当然のことです。

現在地球上に生存する70億人の『ホモ・サピエンス(私たち現生人類)』が、全て異なった肉体(容姿、体型)、異なった『精神世界』を保有しているということを考えただけで、気が遠くなります。『物質世界』で生命体が進化する過程で、思考錯誤の上に獲得した『生殖のしくみ』が、このような結果を産みだしています。云いかえれば、『個が異なっている』ことで『種の生存確率が高まる』からなのでしょう。『個』が皆同じならば、同じ環境変化で全てが死んでしまうからです。人間社会の組織も、色々な資質の人の存在を容認した方が強いと言われるのは、この話と類似しています。

ミクロに観れば、個々人が異なっていることを梅爺は強調し過ぎたように思いますが、マクロに観れば、勿論『似ている』と云えないことはありません。感動や、悲しみの度合いは同じとは云えないにしても、誰もが『日の出を観て感動したり』『親しい人の死を悲しんだり』します。人間社会は、マクロに観れば『似ている』ことを前提に、『絆』を確認しあうことで、成り立っています。しかし、このことが、更なる厄介の種にもなります。

一人一人が、異なった『精神世界』を保有していることを認めてしまうと、人間社会の運営は難しくなりますから、『ここまでは、同じ価値観を持とう』という取り決めが行われ、少々我慢をしてそれに従った方が、『安泰』が得られると理性で判断できれば、取り決めは守られます。『法』はこのようにして出来上がってきたのではないでしょうか。

異なった『精神世界』を認めようとしない組織も、人間社会には出現します。『ワンマン社長が取り仕切る会社』『独裁者が支配する国家』『一つのイデオロギーだけを正しいとする国家』などがそれにあたります。

宗教組織も、価値観を規制するという点では、かなり厄介な存在です。

『The swerve』という本を読むと、『ローマン・カトリック』が、『異端』と烙印を押すことで、多くの自由な精神の保有者を排除、処刑してきた歴史が紹介されていて、『精神世界』をむりやり同じにしようとすることが、いかにむごいことかが分かります。

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2013年12月23日 (月)

The Swerve(5)

昨日紹介した『レクレティウス』が推論だけで導き出した主張内容は、現代人が獲得している『知識』とは完全に一致はしていませんが、『的外れとは云えないほどに近い』ことが驚きです。全ての表現が『正しい』とは言えませんが、『本質』に限りなく迫っているところが見事です。 

『物質世界の基本構成要素(素粒子、元素)』『物質世界の動的平衡による変容(あるべき姿、目的へ向かっているわけではない)』『物質世界では人間も特別な存在ではない事実』など、『物質世界』への洞察が特に際立っています。 

『物質世界』の視点で観れば、『精神世界』の産物(神、霊、宗教など)は実態が無いものですから、『妄想、迷信である』と、切り捨てられてしまうのもしかたがないことですが、『精神世界』には『物質世界』とは異なった価値観(愛、美、善など)が存在し、人間社会はそれを重要なものとして共有していますので、『精神世界』そのものを『妄想、迷信』として、根こそぎ否定することは梅爺は賛成できません。 

『自然の摂理』に支配されている『物質世界』に、『生命体』が誕生し、進化の末に『人間』が出現し、人間は『脳』を利用して、『精神世界』という独特の『抽象概念の世界』を創り出したというプロセスを、『レクレティウス』は認識しているとは言えません。つまり、『精神世界』の特異性を認識しておらず、主に『物質世界』の視点で全てを観ようとしています。 

重要なことは、『物質世界の生命体の一員として、人間が存在している間だけ、その人の脳の中に精神世界が存在する』ということです。云いかえれば、『その人の死とともに、その人の精神世界は消滅する』ことになります。人間の『精神世界』が、『霊魂の不滅』『死後の天国』を『願う』あまりに、『霊魂』『天国』、それにそれらに関与する『神』が『物質世界』に存在すると『信じ』たくなる気持ちはわからないでもありませんが、残念ながらそうはいかないと梅爺は考えています。 

従って『レクレティウス』の、『魂(霊)、死後の世界、天使、悪魔などは、物質世界には存在しない』という主張は間違いではないと梅爺は思います。しかし、これらは『精神世界』に抽象的に存在する概念であることを認めれば、『精神世界』では、必ずしも無意味とはいえない(心の安らぎを得るためなどに)と梅爺は考えています。 

『精神世界』の産物である、『宗教』『芸術』『哲学』『イデオロギー』は、人間や人間社会には、重要な影響をもたらしますが、『物質世界』では特別の意味を持ちません。美しい音楽は、人間に感動をもたらしますが、『物質世界』では、単なる物理現象(音波の振動)に過ぎません。太陽、月、山、川が、音楽に感動することはありません。『物質世界(生きている脳)』があって『精神世界』が存在することは確かですが、『精神世界』の事象を、『物質世界』の事象と勘違いすると、話がトンチンカンになります。

人間を理解するには、『物質文化、精神文化』『唯物論、唯心論』を対(つい)のものとして、同時にバランスをとりながら考える必要があるのではないでしょうか。どちらかへの偏重は、人間を幸せにしないように思います。

今後『精神世界』と『物質世界』の関係や違いを、『宗教』関係者といえども正しく認識することが求められるようになっていくのではないでしょうか。『宗教』は『精神世界』では光彩を放ちますが、『物質世界』の謎に迫る手段にはならないからです。現代の理性的な人間は『神が7日間で天地を創造した』などという話は、本気に受け容れることはありません。

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2013年12月22日 (日)

The Swerve(4)

『The Swerve』という本の、何と言ってもハイライトは『レクレティウス』が著作『物事の本質』で記述した内容です。この本では、要点が箇条書きにまとめられていて、解説が施されていますが、以下に要点だけを列記(梅爺の拙訳で)して紹介します。 

● 万物は目に見えない粒子(Particles)でできている。
● 基本となる粒子は、『万物の種(Seeds)』である。
● 基本となる粒子の数は無限であるが、個々の形状や大きさは有限である。
● 全ての粒子は無限の真空空間で運動している。
● 天地(宇宙)には、創造者も設計者も存在しない。
● 万物は粒子が自由に方向を変える動き(Swerve)をすることで形成される。
● 自由に方向を変える動きが、自由な意志の源泉である。
● 自然は絶え間なく変容し、始め終わりの区別が無い。
● 天地(宇宙)は、人間のために、人間中心につくられたものではない。
● 人間は特別なものではない。
● 人間の社会は、うっとりするような満ち足りた状態(光り輝くパラダイスの時代)から始まったのではなく、生存のための闘いから始まったものである。
● 魂(霊)も、死とともに消滅する。
● 死後の世界は存在しない。
● 死で我々は全て無に帰す。
● 全ての組織化された宗教は、妄想(Delusion)に基づいた迷信にすぎない。
● 宗教は必ずある種の冷酷さを求める(禁欲、犠牲を強いる)。
● 天使、悪魔、精霊などは存在しない。
● 人生の究極の目的は、苦しみを減らし、喜びを増大させることである。
● 喜びの障害は苦しみではなく、妄想である。
● 物事の本質的な理解は、我々に深遠な驚き(喜び)をもたらす。

上記の箇条書きは、できるだけ恣意的にならないように、梅爺が訳したものですが、それにしても梅爺が6年間に近い『梅爺閑話』で書き続けてきた内容と酷似していることに驚かされます。

『ビッグ・バン』『生物の誕生と進化』『人間の脳のしくみ』などに関する最低限の科学知識を持っている梅爺ならいざ知らず、2000年以上前の『レクレティウス』が、洞察していた内容ですので、唖然としてしまいます。

現代人でも、この内容を100%受け容れることに抵抗を覚える方が多いのではないかと思いますが、いわんや、古代、中世までの一般の人たちには、何のことかさっぱり理解できなかったのではないでしょうか。

特に『キリスト教』にとっては、極めて不都合な思想ですから、『異端』として永年葬り去られていたのも当然のことです。

15世紀にこの著作(物事の本質)のコピーが発見され、人類が現代へ向かって『方向転換(Swerve)』するきっかけになったという表現が、大袈裟ではないと梅爺は感じました。

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2013年12月21日 (土)

The Swerve(3)

『The Swerve』という本は、アメリカでピューリッツァー賞を受賞しています。アメリカの知識人層の知的好奇心を満足させる内容であるからなのでしょう。『キリスト教』にやや批判的な内容であるにもかかわらず、アメリカ社会で評価されることに梅爺は興味を覚えました。

15世紀にイタリア人の『ポッジオ・ブラッキオリーニ』という人物が、ローマの詩人で哲学者の『レクレティウス』の書『物事の本質』のコピーを発見し、世に出した経緯を、『ブラッキオリーニ』の人物像、当時の時代背景、特にキリスト教(カトリック)の組織内部の状況などを、詳細に再現することで、読者が当時へタイムスリップして臨場感を味わうことができるのが、この本の面白さです。

『物事の本質』の内容は、勿論アッと驚くものですが、『ブラッキオリーニ』が単なる歴史上の人物としてではなく、生身の人間として読者に迫ってくるところも秀逸です。当時は『ルネッサンス』が進行している時代ですので、何故当時の知識人たちが『ルネッサンス』に魅了されたのかが、なんとなく分かるような気になります。

キリスト教は、悩み、苦しみからの救済を追い求めるために、『開放された精神(疑問を起点に自由に本質に迫ろうとする精神)』や『肉体的な快楽』を、信仰の妨げになるとしてきました。修道僧や修道尼僧は、そのような邪悪に、自分が負けてしまわないようにと、皮膚が破れ、血が流れるまで自らを鞭打つというような試練を日課としていました。キリストが十字架で味わった苦痛とダブらせて、自らの救いを求めたと言えるのかもしれません。

『清貧』『禁欲』を極端に強調すると、『精神世界』は陰鬱で閉鎖的になりがちです。そうしてそのような人たちの顔立ちは、いつも思いつめているようで悲愴で陰鬱な感じになります。キリストやマリヤが、心から楽しく笑っている様子は聖画には描かれません。

しかし、もし『開放された精神』や『肉体的な快楽』も是認するということになると、人生は変わってきます。『ルネッサンス』は、人間の生き方として、キリスト教が求めてきたものとは異なったものがあるのではないか、古代のギリシャやローマ時代の人たちはそのような異なった生き方をしていたのではないかと、気付いたことを意味しています。

『ルネッサンス』はそれまで絶対支配的であった『キリスト教の教義に基ずく生き方』に、疑問を呈することでもありました。この背景には、当時のキリスト教の聖職者や修道僧の中で、本当に『清貧』『禁欲』と言える人は極めて少なく、大半は日本流に云えば『生臭坊主』で、金や女や権力を追いまわすことにうつつを抜かしていたことがあります。カトリックの総本山のバチカン内部も、腐敗がはびこっていました。庶民は敏感にこれらを感じ取り、『云うこととやることが違うのではないか』と疑い始めていたに違いありません。

『陰鬱な精神世界(泣く)』『快活な精神世界(笑う)』は人間の『精神世界』の両面ですから、どちらが正しいなどという議論は無益です。どちらかだけをを認め、他は排除するという考え方は、不自然で健全とは言えません。

バランスを取りながら生きるしかありませんが、梅爺はどちらかと言えば、『笑い』を多くした方が、人間は心身ともに健全で過ごせる確率が高いと感じています。

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2013年12月20日 (金)

The Swerve(2)

『レクレティウス』は、ローマ帝国の帝政を確立した『カエサル』とほぼ同時代(紀元前1世紀)に生きた詩人、哲学者です。

文明の視点で観れば、当時のローマ帝国の首都ローマは、決して世界の最先端の都市ではありませんでした。『クレオパトラ』の時代のエジプト『プトレマイオアス朝』の首都アレキサンドリアは、大図書館を有し、世界の知識の大半はここに集まっていましたから、ローマに比べれば圧倒的に『文明都市』でした。

ローマ帝国の言語は、ラテン語でしたが、ローマの知識人は、多くの知識を、自分たちより昔に繁栄したギリシャ文明、つまりギリシャ語で書かれた文献に求めたのではないでしょうか。

『レクレティウス』は、明らかにギリシャの哲学者『エピクロス』の考え方に影響を受けています。『エピクロス』は、『レクレティウス』より200年以上前の人物です。

『エピクロス』の思想を信奉するひとは『エピキュリアン』と呼ばれ、これは日本語で『快楽主義者』と訳されるために、この名前だけをみて『誤解』をしてしまう人が多いのではないでしょうか。『エピクロス』は酒池肉林の世界を推奨したわけではありません。

『エピクロス』は、現実の煩わしさや苦しさから解放された状態を『快(Pleasure)』と呼び、人生は『快』の追究に費やすべきと主張しました。ここでいう『快』は精神的な快楽のことで、肉体的な快楽はむしろ『苦』であると『エピクロス』は云っています。その証拠に『エピクロス』の生活ぶりは、極端に質素であったと伝えられています。

『エピクロス』の主張から、梅爺がすぐに思い浮かべるのは『釈迦』の教えです。『釈迦』は、人間の悩み、苦しみのもとを『煩悩』と呼び、『煩悩』を解脱(げだつ)した『悟りの境地』を求めるようにと説きました。『禅の修行』などは、その具体的な対応方法です。『エピクロス』の『快』は、『釈迦』の『悟り』と同じことをいっているのではないでしょうか。

人間は、悩み、苦しみ、『煩悩』に苛(さいな)まれるように生まれついているからこそ、努力をして『快』や『悟り』を求めようとすることに、『生きる意味』があるという主張には、梅爺は違和感を覚えません。『釈迦』の素晴らしい所は、人間は元々『善良な心』と『邪悪な心』を両方持ち合わせていると喝破している所です。生物は本能的に『安泰』を求めて自分に都合のよい行動をしますから、その一部が『邪悪な心』に由来するように見えることがあるのは当然のことです。本当に切羽詰まれば、誰もが『嘘をつく』『事実を隠ぺいする』ことをしかねませんし、考えたくありませんが時には『殺す』『盗む』ことさえも犯しかねません。自分の中に、『邪悪な心』が生まれつき存在することを認めることと、『邪悪な心』は『悪魔の甘い誘惑に負けること』などといって、悪魔のせいにするのとでは、大きな違いがあります。自分の『邪悪な心』は自分の責任で対応するしかないものと梅爺は考えています。『邪悪な心』より『善良な心』を優先させようとするのは『理性』に頼るしかありません。『釈迦』は『エピクロス』より更に数百年前の人物ですから、人間の洞察力でいかに傑出していたかが分かります。

14世紀から16世紀にかけて、開花した『ルネサンス期』までは、西欧社会は『キリスト教の教義』が最優先でしたから、『エピクロス』や『レクレティウス』の思想は『好ましくないもの』として排除されていました。ドイツの修道院に『レクレティウス』の『物事の本質』という著作のコピーが残っていたこと自体が、非常に幸運なことと言えます。

ローマ時代の他の資料から『レクレティウス』という、特異な主張をする人物が存在していたことは分かっていましたが、彼の著作そのものは、それまで見つかっていなかったからです。

『レクレティウス』は、驚くべき洞察力で、『全てのものは、複数の微粒子の結合でできている。人間も例外ではない』『死後の世界などは存在しない』『自然界にデザインという概念はない、絶え間ない変容が継続しているだけ』などと、梅爺が拍手したくなるようなことを主張しています。

現代に生きる梅爺はともかくとして、ローマ帝国時代や、その後のキリスト教文化の西欧では、『レクレティウス』の主張は、『まったくの世迷言(よまいごと)』と一般に顧みられなかったのは、当然と云えば当然かもしれません。

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2013年12月19日 (木)

The Swerve(1)

梅爺は、よほどのことが無い限り、一度読み始めた本を、途中で放棄することはありません。『自分には歯が立たない』と感じた本には最初から手を出さない、購入する前に目次の内容を確認したりパラパラと流し読みしてみる、広告のキャッチフレーズをみたり書評を確認する、などの『予備工作』がありますから、当然のことかもしれません。

しかしそれでも、読み始めてすぐに『期待が裏切られた』と感ずる本はありますが、『乗りかかった船』とあきらめて、忍耐強く最後まで読むことにしています。世の中には自分の価値観と異なったものがあることを知ることは、無意味ではないと、無理矢理自分を叱咤激励することにしています。

逆に、自分の価値観とピッタリあった本や、自分の云いたかったことを上手に表現してくれている本に遭遇すると、見知らぬ外国の街で、偶然親しい友人に遭遇したような、えも言われぬ嬉しさを感じます。当然ながら、そのような本に遭遇するチャンスは、そう多くはありません。

書店の洋書コーナーで見つけて購入したノンフィクション『The Swerve(How The World Became Modern)』は、梅爺が今まで『梅爺閑話』でアトランダムに述べてきた価値観を、体系的に代弁してくれているような内容で、びっくりすると同時に嬉しくなりました。

著者の『スティーブン・グリーンブラット(Stephen Greenblatt)』は、米国ハーバード大学の人文学(Humanities)の教授です。『The Swerve』は、『方向転換』とでも訳せばよいのでしょうか。人類が現代へ向けて『方向転換』するきっかけになった一冊の本を紹介するノンフィクションです。しかもその本はローマ時代に書かれたものですので驚きです。

15世紀の初めに、イタリア人の『ポッジオ・ブラッキオリーニ(Poggio Bracciolini)』という人物が、ドイツの修道院の書庫に眠っていた、ローマ時代の詩人『ルクレティウス(Lucretius)』のラテン語で書かれた書物のコピーを発見します。この書物のタイトルは『On The Nature of Things(物事の本質)』で、そこに書かれている内容は、現代の私たちがごく最近獲得した科学知識でないと理解できないような、『宇宙』『自然』『人間の肉体、精神』に関する深い洞察でした。

『ルクレティウス』は紀元前1世紀の人物ですから、『キリスト』の出現より50年以上前に、このような洞察力をもった人物が存在していたことを、梅爺は知って驚きました。もっとも、梅爺が知らなかっただけで、日本では『寺田寅彦』氏などが、とっくに着目して、『ルクレチウスと科学』というタイトルの文章を残していることも知りました。『寺田寅彦』は科学者(物理学者)であり、著名な文筆家でもありましたが、いち早く『レクレティウス』の著作内容の重要性に注目しておられるのはさすがです。

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2013年12月18日 (水)

カンブリア大爆発(6)

地球最初の『生命体』は、『深い海の底付近(熱水の噴出口近く)』で誕生したというのが有力な仮説の一つです。一方、『カンブリア大爆発』は、『浅い海の底付近』で起こったらしいことが『化石』から読み取れます。『三葉虫』などがその代表的な例です。

『海』は共通ですが、『深い』『浅い』の環境要因の差異は大きなもので、『生物進化』を理解するにはこの差異が重要です。

『物質世界』の視点で観れば、生物が『生きる』ことは、味気ない言い方で恐縮ですが『摂理を応用した(摂理に支配された)事象』に過ぎません。『生きる』ことは『活動する』ことで、そのための『エネルギー確保』を必要とします。

現在地球上の『植物』の大半は、『太陽の光』と『炭酸ガス』を外の世界から摂取して『光合成』を行い、『動物』は『酸素』と『食べ物』を外の世界から摂取して、それぞれ『エネルギー』を確保しています。『浅い海』はこれらの条件を満たした場所であり、このことから、『現在の生物の原型(祖先)』が『カンブリア大爆発』に出現したと推測できます。やがて生物は、『水』の補給が可能と言う前提で、『陸』でも棲息できる『種』に進化していきます。

ところが、40億年ほど前に最初に地球に『生命体』が出現した場所が深海であったとすると、『太陽の光』と『酸素』は期待できませんから、『エネルギー』確保のしくみが、現在の生物とは全く異なったものであったことになります。科学者は『熱』『メタンガス』『ミネラル(海中の)』などであったのであろうと推測しています。この最初の『生命体』の『生きるしくみ』が、現在主流の生物の『生きるしくみ』へと変貌(進化)するのに、35億年を要したとも言えます。

逆にいえば、現在の地球の生物の『生きるしくみ』だけが『生命体』を維持する方法ではないということになりますから、地球外の宇宙には、全くしくみの異なった『生命体』が存在する可能性があると科学者たちは推測します。

地球最初の『生命体』が深海で誕生したとすると、大きな矛盾が一つあります。それは、有機物質が化学反応で遺伝子継承に必要な『DNA構造』を創り出すには、『脱水反応』を必要とし、『水』に覆われた深海は不利な場所であることです。

『最初の生命体』の出現には『水』は邪魔であり、誕生した『生命体』の維持には『水』が必須であるという、矛盾を合理的に科学は説明できていません。『干潟』のような、時に『水』がなく、時に『水』がある場所が、『最初の生命体』の出現場所であるというのが一つの『仮説』です。もしそうなら、最初から現在の生物の『生きるしくみ』に近いものであったとも考えられますから、『最初の生命体』が、深海の『好熱メタン菌』であったとする『仮説』は否定されることになります。

人間が『精神世界』で創り出した『抽象概念』は、『生きるためのエネルギー確保のしくみ』などに頭を悩ます必要がありません。『神』『天使』『霊』は『何を摂取して活動しているのか』などと、議論することが無いのは、それが『抽象概念』であるからではないでしょうか。梅爺の乏しい『理性』で推論すると、そう言う説明が矛盾のないものに見えますが、多くの方が『神は人間の精神世界が考え出した抽象概念』であるという主張に、賛同されないことは承知しています。勿論、梅爺も自説が正しいなどと言い張るつもりはありません。

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2013年12月17日 (火)

カンブリア大爆発(5)

『カンブリア大爆発』で出現した生物と、それ以前の生物との一番顕著な違いは、『単細胞生物』か『多細胞生物』かということになります。

『多細胞生物』では、各細胞が『役割分担』をすることになり、相互の情報交換が必要になりますから、総合司令塔としての『脳』、情報伝達路としての『神経系』、情報取得器官としての『感覚器官(目や耳など)』の原型が出現したと推測されます。『脳』や『神経系』には主要なミネラルとして『鉄』が必要になるはずです。

更に『多細胞生物』では、大型化した体を『支える』ために、エビのような『殻』や、魚のような『骨』が必要になります。

現在地球には、知られているだけで100万種以上の生物が存在していますが、85%以上は、『節足動物』で、昆虫、甲殻類、クモ類、ムカデ類などが属します。一方魚類や哺乳類などの高等動物は『脊椎動物』で『骨』を有しています。これらの『節足動物』『脊椎動物』の最初の『先祖』が、『カンブリア紀』に出現したことになります。『人間』も『脊椎動物』の先祖から進化したものです。

『殻』や『骨』を形成するには、カルシュームなどのミネラルが必要になります。これらのことから、『カンブリア紀』には、海の浅い部分に、それ以前と異なって豊富な『ミネラル類』が含まれていたと推測できます。

『ミネラル類』は、海の中で自然発生しませんから、多量な陸の土砂が、川から海へ流れ込んだと考えるのが妥当です。

このことを裏付けるように、世界の各地で『カンブリア紀』以前の地層が約11億年にわたって欠落している場所が見つかっています。つまり、この間激しい降雨が続き、陸地の表面の大半が土砂となって、海へ流れ込んだと考えられます。

この他、『カンブリア紀』以前の海の浅瀬で、『光合成』を行う生物(微生物など)が活動し、海の中や大気に『酸素』が増えていたとも推測できます。『酸素呼吸』でエネルギーを確保する生物には『酸素』が必須であるからです。

これらを総合して考えると、『カンブリア大爆発』が起きる『お膳立て』ができていたと見るのが妥当です。地球規模の大きな自然環境の変化が、『生物進化』を促したことになります。この『お膳立て』に約35億年を要したとも言えます。

今も昔も、あらゆる生物は自然環境の恩恵を受けて、『生きている』ことになります。ただし、自然環境は私たちを『生かす目的』で存在したり、変容したりしているわけではありません。そこには『物質世界』を支配する『摂理』が存在するだけです。この『生きる』ことと『摂理』の関係を、理解することは時に苦痛でもあり、目をそむけたくもなりますが、『認めて覚悟する』以外に対応の方法はありません。むしろ『生かされている』ことに感謝して、生きている間は、精一杯生きることだけが大切なのではないでしょうか。

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2013年12月16日 (月)

カンブリア大爆発(4)

太古の『地球』と『火星』には『海』が存在したとすると、『火星』にも『地球』と同じ仕組みの『生命体』が出現していたと考えたくなります。しかし、現在の『火星』は、『海』が存在せず、現時点では『生命体またはその痕跡』は発見されていません。アメリカが着陸させた『火星探査機』が、今『昔の海の比較的浅瀬の部分』を調査していますので、『生命体またはその痕跡の発見』という大ニュースが近々飛び込んでくるかもしれません。

『地球』の『海』は存続し続け、『火星』の『海』が消滅した理由を、東工大の広瀬教授等の日本人科学者が究明し、『ポストペロブスカイト説』として発表しています。

地球の中心部の『コア』とその上の『マントル層』の境界は、『120万気圧、2000度C』の環境で、この環境で『ポストペロブスカイト(ケイ酸マグネシュームの高圧相)』が形成されることを突き止めました。『ポストペロブスカイト』は、地表から2600~2900Kmの深部に存在すると推定されています。

『ポストペロブスカイト』は、極めて熱伝導性が良い物質で、『地球』の『コア』の高温を『マントル層』へ伝え、『マントル層(マグマ)』も高温に保つことに貢献しています。

『海』の水が、『プレート』の隙間から地球内部へ沁み込もうとしても、『マントル層』が高温のため、水蒸気となって地表へ押し戻され(温泉のように)、結果的に『地球』の表面の『水』は減らずに存在し続けることになりました。

一方『火星』は、地球より小さく、太陽から遠い距離に軌道がありますから、『冷えやすかった』こともありますが、地球のような大規模な『ポストペリブスカイト』が形成されずに、『マントル層』が冷えて、『海』の水は、『プレート』の隙間から内部へ沁み込み、『火星』の『海』は消滅したと推定できます。昔の『海』の水は、地中に多量の氷として存在しているのでしょう。

日本人の科学者たちは、実験室で『高圧、高温』環境を再現し、『ポストペロブスカイト』の生成を確認しました。総合的に高い技術水準がなければ、実現できないことですから、誇らしい話です。

これで『地球』には『海』が40億年以上存在し続け、従って『生命体』が存在し続けられたことは分かりましたが、『カンブリア大爆発』が何故突然起きたのかは説明できません。

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2013年12月15日 (日)

カンブリア大爆発(3)

地球を構成する全ての素材は、元はと言えば宇宙に存在した塵とガスから得たものです。『物質世界』の視点で観れば、私たちの肉体もその原則に従いますので、『ビッグ・バンが無かったら人間は存在しない』という表現は、『風が吹けば桶屋が儲かる』という因果関係よりまともなものです。

『金』や『銀』といった貴金属も、地球環境が創り出したものではなく、地球ができる以前に、宇宙で起きていた『超新星爆発』などの、超高温、超高圧環境でつくられたものが、塵に含まれて宇宙に存在していて、やがて地球の一部になったものです。太陽の核融合環境でつくられる金属は『鉄』程度までと考えられています。つまり元素番号の大きい金属は、製造元は宇宙と言うことになります。

地球の『生命体』の誕生、およびその後の維持には、『水』が欠かせない要素であると考えられています。私たちも『水』が枯渇したら生きていけません。

『水』は、『生命体』にとって重要な有機物の合成、分解などの化学反応の媒体であるからです。宇宙のどこかには、『水』以外の媒体を利用する、全く地球とは異なったしくみの『生命体』が存在するのかもしれません。

原始地球は、『火の玉』のようでしたが、やがて冷却し、原始大気に多量に含まれていた水蒸気が雨となって降り注ぎ、海ができて、地球は一転して『水の惑星』に変貌したと考えられます。少なくとも、『生命体』が誕生した40億年前には『水の惑星』になっていたと推察できます。『水』は原始大気に水蒸気が既に存在していたという考え方(仮説)と、氷の塊が太陽系の辺境から、多量に『彗星』として地球に飛来、衝突してえられたものと言う考え方(仮説)があるようです。

少なくともそれ以後、地球は40億年にわたって『海』を維持し続けています。天文学者からみると、これは『奇跡』にちかい事象なのだそうです。

『火星』にも昔は地球と同様に『海』が存在していたことが科学調査で分かってきました。しかし、その後『火星』の『海』は消滅しています。何故地球は『海』を維持し続けられたかを説明できれば、間接的に何故地球の『生命体』は絶滅せずに現在にいたったかを説明することにもなります。

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2013年12月14日 (土)

カンブリア大爆発(2)

地球上に最初の『生命体』がどのようにして出現したのかについては、何度か推測をブログに書いてきましたが、現代科学でも真相は突き止められていません。『生物進化論』は、最初の『生命体』が出現した後の経緯は矛盾なく説明できますが、『生命体』出現を説明するものではありません。

『生物進化』は、基本的には世代交代時に、偶然おきる遺伝子の『突然変異』で、従来の標準種とは異なった資質を備えた『子』が産れることがきっかけで生じます。しかし、『環境』を生き抜くために、その新しい資質が不利である場合は、『突然変異』の『子』は種の多数派にはなりえず死滅しますが、『環境』に対して有利な資質である場合は、逆に多数派になって従来の標準種に置き換わります。数回の世代交代の中で『進化』が現れることもありますが、一般には、途方もない回数の『世代交代』のなかで『進化』は進行します。

言い換えると、生き残りに有利な資質が『選択』され、世代交代で継承されるということで、多くの場合『環境』の大きな変化があった時に、『生物進化』は起きやすいことになります。従って、『生物種』が存在すれば、必ず『生物進化』が起こるのではなく、永い期間『進化が起こらない』こともあり得ます。深海魚の『シーラカンス』が数億年前の姿をとどめているのは、深海環境にその間変化が無かったからです。

こう考えると、『カンブリア紀』になるまで、地球の『生命体』が、『単細胞生物』『微生物』のレベルに止まっていたのは、『進化』の条件が整わなかったという推察になります。逆に言えば、『カンブリア紀』に、『生命体』にとって地球環境が大きく変わったということになります。

その変化は、一体何であったかを『科学』は究明しようとします。勿論『カンブリア紀』に至るまで、『生命体』が存在し続けたからこそ『大爆発』が起きたことになりますから、35億年間、『生命体』が死滅しなかった理由も科学の追求対象になります。

『物質世界』の『摂理』が、数々の『幸運な偶然』で作用し、『生命体』は出現、生存、進化してきたことになります。私たちはその延長で、命を授かり、生きています。暗い予測で恐縮ですが、耐えられないような『不運な偶然』で『摂理』が作用すれば、私たちは存続できない危機を迎えることもあり得ます。現に『現生人類(ホモ・サピエンス)』以外の人類種は全て過去に絶滅しています。『現生人類』だけが特別であるという保証は何もありません。『摂理』は私たちに『生』ももたらしますが、『死』ももたらします。そうであるからこそ『生』を得ていることに感謝し、可能な限り『しっかり生きる』ことが私たちには大切なことなのではないでしょうか。

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2013年12月13日 (金)

カンブリア大爆発(1)

『カンブリア大爆発』は『生物進化』の過程で起きた顕著な事象で、火山などの大爆発の話ではありません。

今から5億4千万年前、地球が『カンブリア紀』と呼ばれた時代に、突然地球に数多くの『多細胞生物(真核細胞生物)』が出現し、しかもものすごい速さで『進化』を開始したことを『カンブリア大爆発』と呼びます。

それまでの地球には『生命体』は存在していましたが、それらは『単細胞生物』か精々『微生物』でしたから、堰(せき)を切ったように、多様な生物種が出現し、しかも更に高等な生物へと進化を開始した様子を『大爆発』と表現するのは、必ずしも大袈裟ではありません。

地球上に最初の『生命体(単細胞生物)』は、40億年前頃と推定されています。宇宙に『太陽系』が形成され、『(原始)地球』が出現したのは46億年前と考えられていますから、地球の誕生から6億年後には、既に『生命体』が存在していたことになります。

ここで誰もが抱く疑問は、『40億年前に出現した単細胞生物は、何故その後約35億年間大きな進化を遂げず、単細胞生物のままで止まっていたのか。何故5億4千万年前(カンブリア紀)に、突然大進化を開始したのか』ということです。

『生物進化論』は、いまでこそ『定説』ですが、ダーウィンが『種の起源』を著わした時には、『神を冒涜する説』として、大変な非難を受けました。『神による天地創造』『人間は神に似せて神が創ってくださったもの』というキリスト教(ユダヤ教)の教義を否定するものであったからです。『人間はサルから進化した』などと言われると自分の尊厳を傷つけられたと多くの人は反撥したことになります。蛇足ながら『人間はサルから進化した』と言う表現は適切ではなく、『人間とサルは共通の先祖から枝分かれした』という表現が正しいことになります。

定説になった今でも、世界には『生物進化』を認めない人達が沢山います。特に顕著な国はアメリカで、40%の人たちが『生物進化』を認めていない(宗教的な教えに反すると言う理由で)と言われています。日本は、90%以上の人が『生物進化』を受け容れています。

宗教以外の視点でも『生物進化』に疑問を呈する人は存在し、その人たちが反論に用いるのが『カンブリア大爆発』です。『30億年以上進化しなかったり、突然進化を開始したりする事象の説明ができていない』と主張してきました。

NHKBSプレミアムチャンネルの『コズミック・フロント』という番組で、『カンブリア大爆発』を説明する科学的な『仮説』の数々が紹介され、梅爺は『なるほど、それなら分かる』と受け容れることができました。

『科学』が時折提示する、思いもかけない『仮説』は、既成概念を排し、頭を白紙常態にして柔軟に対応する必要があります。しかし、これはそう容易なことではなく、『そんなことは信じられない(信じたくない)、不愉快だ』という『情』が、邪魔をするからです。科学者にも倫理観念は求められますが、基本的に科学は『理』だけ世界ですから、『情』にこだわる人は科学者にはなれません。

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2013年12月12日 (木)

式年遷宮(6)

『神とよばれるものの、一部は元は人間であった』とすると日本の『神話』は少なからず歴史の事実を反映している可能性があることになります。歴史学、考古学が『神話』の中から事実を抽出することは、『歴史書』の記述を事実とねつ造に区分けすること以上に難しい話ですが、『仮説』をたてて、矛盾の有無を検証する対象にはなります。これは『聖書』の記述などにも当てはまる話です。『ノアの箱舟』の話は全て真実とは思えませんが、人類が大洪水という災害に見舞われた記憶がこの逸話を産みだしているのは確かではないでしょうか。

そう考えると、『伊勢神宮』に祀られている『天照大神(内宮)』と『豊受大神(外宮)』は、歴史上の誰なのかが興味の対象になります。『天照大神』は『卑弥呼』、『豊受大神』は『卑弥呼』の養女『壱与(いよ)』であるという説があり、私たち日本人のロマンをくすぐりますが、勿論『仮説』の域をでません。

『天照大神』は『女性の神』と私たちは教えられてきましたが、『太陽』を象徴する名前ですから、『男性の神』であってもおかしくありません。

『神話』は、それが書かれた時代の政治、経済、外交の背景、書いた人(書かせた人)の思惑、当時の人の知識、常識を配慮しながら読む必要があります。当時としては最高の知識人が、権力者の意図を正当化し、矛盾が少ない話に仕立てるために苦心惨憺したものと推定できます。作者が興の赴くままに作り話をでっちあげたのではなく、伝承を取り込みながら、当時の知識では矛盾がないと思われる最善の物語を、真面目に考え出したと考えるべきでしょう。

何故『伊勢』に『神宮』を建立したのか、持統天皇が『斎宮』を造って皇女を監督官として送り込み、『内宮』『外宮』を整備し、『式年遷宮』を開始したことは、史実と思われますが、それ以前『伊勢』には何が祀られていたのか、『伊勢神宮』に近接して今でも存在する『猿田彦神社』とは、誰を祀った神社なのか、など、多くの謎が残っています。『猿田彦』は、『天皇家』に刃向かい、非業の死を遂げた人物(土着の豪族)ではないかと、梅爺の空想は膨らみます。

『伊勢神宮』が『皇祖神』を祀った神社であることは、確かですが、建立にいたる本当の経緯は、『日本書紀』などで記述されているような、綺麗ごとではなく、もっと権力闘争がからんだおどろおどろしいものではないかと、梅爺は勝手に想像しています。

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2013年12月11日 (水)

式年遷宮(5)

昨日、『日本』の神々の一部は、『神代には人間のように振舞っていたが、その後人間の眼には見えない霊になった』と書きましたが、考え直してみると、この認識は間違っているかもしれないと気付きました。

そうではなく、『神々の一部は元々人間であり、亡くなって霊(神)になった』と考えれば、すんなり説明がつきます。『なあんだ、そうだったのか』というほど単純な話ですが、西欧の宗教の『神』の概念に惑わされていただけで、日本人にとっての『神』は、『人間の死後の化身』ということになります。この定義にしたがえば、梅爺も死後『神』となり、『梅爺神社』として祀っていただけるかもしれないという畏れ多い話です。

古代の日本人は、『山』『川』『木』『岩』などに『霊』が宿ると考えると同時に、『亡くなった人』も『霊』になると考えて、いずれも『霊』ですから同じような『祀り方』で対応したということなのでしょう。動物の一部(狐など)は『霊の化身』と考え、これも同じ『祀り方(稲荷神社)』で対応しています。その神社の御神体が何かというだけの違いです。

『人間が霊になった』場合は、自分の先祖の『霊』であれば、恭(うやうや)しく祀ればよいのですが、非業の死を遂げた人や、自分が殺した相手の『霊』は、『祟る』ことがあると恐れて、こちらは『鎮魂』のための神社を造りました。

日本の場合、『自分の先祖の霊』『自分(たち)が死に追いやった相手の霊』『何かの事情で非業の死をとげた人の霊(乃木元帥夫婦の自刃など)』『自然の中に宿る霊』『霊の化身(狐など)』がすべて同じような形式で、神社に祀られていますから、私たちは『霊』のいわれを先ず確認する必要があります。

『伊勢神宮』は、『天皇家の先祖を祀る神社』であり、『出雲大社』は『天皇家が国家統合時に策略を弄して国(大国)を奪取し、そのリーダー(大国主命)を非業の死に追いやったことの祟りを畏れて祀った神社』ではないかと、梅爺は勝手に想像しています。『神宮』『大社』と区別(差別)して呼び分ける意味も、それなら理解できるからです。

現在も『天皇家』の方は、『出雲大社』の神殿の一部には入れないというしきたりがあると聞いたことがあります。『天皇家』の方々が『伊勢神宮』へ参拝する意味と、『出雲大社』に参拝する意味は、全く異なっているのではないでしょうか。

多様な出自の『霊』を、同じ形式で『祀る』という日本の風習は、西欧の人たちには異文化にみえるでしょう。ましてや『自分の先祖(人間)が神になった』という主張し、『だから自分は神の末裔である』と平然と考えている日本人には戸惑うことでしょう。

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2013年12月10日 (火)

式年遷宮(4)

『ギリシャ神話』と同じく日本の『神話』の神々は、『昔(神代)』にはあたかも人間のように振舞っていたものが、『神話』が書かれた時代には、目に見えない『神』『霊』となって神殿や神社に祀られているという話に変ります。

『神』や『霊』が人間の目にはそもそも見えないというのであれば、どうして『神話』を実話のように書くことができたのか(誰かが想像して書いただけなのではないか)、昔は見えていたが今は見えないというのであれば、それはいつからのことで、何故見えなくなったのか、というような屁理屈を梅爺はいいたくなりますが、そういうへそ曲がりは当時一人もいなかったのでしょうか。

現在の梅爺のように、『神』や『霊』は人間の『精神世界』の中にのみ存在する抽象概念であると割り切れば、上記のような屁理屈や、矛盾は解消します。本質的に『神話』は『おとぎ話』と同様に、人間が創作したもので、『物質世界』とは無縁なものということになるからです。『精神世界』では、どのような想像も可能ですから、『神』や『霊』ばかりではなく『龍』『鳳凰』『麒麟』や『天使』『悪魔』が存在して差し支えありません。

『神話』では、『天照大神』が孫の『ニニギ命(みこと)』を『高天原』から地上に降臨させ、その『ニニギ命』の末裔から初代『神武天皇』が誕生するということになっています。『天照大神』は、日本列島を造り出した『イザナギ』『イザナミ』の夫婦神の『子』ですから、『天皇家』の祖先は、神々であり、とくに『天孫降臨』を行った『天照大神』は『皇祖』ということになります。

『天照大神』は何故『子』ではなく『孫』を、『降臨』させたのかも不思議です。普通に考えれば『天子降臨』のほうが自然なはずです。『古事記』『日本書紀』を書いた(書かせた)人の、思惑が込められていると歴史学者は推定します。『持統天皇(天武天皇の后妃、女帝)』は、『子(草壁皇子)』が若くして亡くなってしまったために『孫(文武天皇)』を後継者として指名しましたが、これは『天皇家』の歴史の中で異例なことであり、これを正当化するために『神話』の『天孫降臨』を創り出したと多くの学者が考えています。『天照大神』は『持統天皇』、『ニニギ命』は『文武天皇』というアナロジーです。

『持統天皇』が、伊勢の地に『斎宮(いつきのみや)』を造り、皇女を責任者として派遣して、『内宮』『外宮』を造り、『式年遷宮』のしきたりが始まった、というのが有力な説です。勿論『日本書紀』では、もっと古い時代に『伊勢神宮』は始まったことになっています。『斎宮』は、現在では遺跡のみが残っているだけです。

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2013年12月 9日 (月)

式年遷宮(3)

『伊勢神宮』が20年(式年)に一度、全てを新調するという『しきたり』は、実によく考えられた『知恵』のように思います。 

『作法』『技術』を継承していくために必要ということもありますが、『常若(とこわか)』という『神道』の思想が反映されているとも言われています。 

人間社会では、定期的な『行事』『祭』などが重要な意味を持ちます。『正月』『盆』『誕生日』『結婚記念日』『命日』などで、『生きていることに感謝する』『気持ちを新たにする』『記憶を再確認する』ことは、人間の『精神世界』を一度リセットしたり、再度刺激を与えなおしたりすることでもありますから、無意味ではありません。 

『祭』も、『日常』を『非日常』に変えて、『精神世界』を活性化し、ストレスを発散させる効果もありますから、これも人間社会には重要な行為になります。 

ブログを書き始める前の梅爺は、『物質世界』と『精神世界』の区別と、その意義に気付いていませんでしたので、『理』で『行事』や『祭』をとらえて、『正月だからと言っても、普段の一日と変らないではないか。一日は一日だろう』とか『祭に一年分の稼ぎの大半の大金をつぎ込むなんて、もったいない』とか言っていました。しかし今は、『精神世界』でのみ意味を持つ重要な行為があることを理解できるようになりました。勿論『精神世界』には個性がありますので、ある人が『行事や祭の形式や行為は意味が無い』というのも、受け容れることができます。 

人間の平均的な肉体と『精神世界』は、常に『適度なストレス』を必要とします。『過度なストレス』は極めて有害ですが、『適度なストレス』は健全に過ごすために必要と言う厄介な習性をもっています。

ストレスがほとんどない『天国』や『極楽』に私たちは憧れますが、本当にそのような環境に身を置くと『退屈でやりきれない』などと贅沢なことを言い出すのではないでしょうか。そうかといって、四六時中『苦痛』に苛(さいな)まれる『地獄』も願い下げですから、梅爺は死後の身の置き所に窮しています。

『式年遷宮』を見事にやりおおせるために、関係者は頭を使い、大変な努力もすることになり、『生き甲斐』や達成後の満足感を得ることになります。費用も莫大ですが、それを帳消しにするほどの効果があるのでしょう。これは『オリンピック』も同じです。

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2013年12月 8日 (日)

式年遷宮(2)

日本の古代の豪族が、自分の一族の権威を強化するために、『一族の祖先の霊(神)を祀る』ようになったのでしょう。自分たちに不都合なことが起きないように、祈りをささげました。『戦勝』『病気恢復』『安産』『大漁豊作』『雨乞い』など全てが祈りの対象であったに違いありません。現代人は更に欲張りになって、『出世』『金運』『良縁(結婚)』までも追加しました。

自分たち一族だけの『神』がいるということは、他の一族には、その一族だけの『神』がいるということも認めることになり、日本では、複数の神様が共存することに不自然ではなくなります。そして、『神』をめぐる争いは起きにくいことになります。『私の神』『あなたの神』が異なっているのは、当たり前なのですから。

外国人から観ると、『信仰』に関して日本人は、非常にいい加減な民族に見えるかもしれませんが、『神々の共存は当たり前』という古代からの考え方が継承されているだけで、日本人が『宗教』に関して特に非難される民族であるとは梅爺は思いません。『宗教』間の、激しい対立が社会問題の大きな一つにならない日本は、現実的には優れた『知恵』を保有する国家ではないでしょうか。

古代日本のある豪族が考え出した『先祖を祀る』様式が、優れているとして、他の豪族にも普及し、土着的な『神道』の形式が標準化されていったのでしょう。したがって、『神道』には、『仏教』『キリスト教』『イスラーム』のような『教祖』が存在しません。祭祀の形式(様式)が重視されますので。他の宗教のような『教義』や『聖典』『経典』もありません。

『なにごとのおわしますか知らねども、かたじけなさに涙こぼるる』というのが、『西行』が『伊勢神宮』で詠んだ歌です。仏門に仕える『西行』が、こんな歌を詠んでよいのか、などと言いたくもなりますが、これが平均的日本人の『宗教観』ではないでしょうか。この歌は、『精神世界』の『情』だけで表現されていて、『なにごとのおわしますかは知らねども』と最初に言われてしまえば、もうそれ以上『理』の介入は困難です。

『かたじけない』という、極めて外国語に訳し難い言葉で、日本人は『神と自分の関係』を受け止めてしまいます。これ以上『理』で説明しても反って藪蛇ですから、『教義』は出現しないのも当然のような気がします。

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2013年12月 7日 (土)

式年遷宮(1)

『伊勢神宮』の『式年遷宮』が2013年秋に行われ、大きなニュースになりました。『内宮』『外宮』の外、14の別宮の全てを20年に一度、全て新調する行事で、8世紀から1400年にわたって行われてきた、日本が世界に誇る伝統行事です。 

建物ばかりか、宝物や関連施設(橋、鳥居など)も新調するわけですから、費用もさることながら、宮大工、職人技量の継承や確保も難しくなりつつあります。 

永年日本人の『精神世界』の象徴の場所の一つであり続けてきた『伊勢神宮』は、誰がいつ何のために建立したのかは、必ずしも明確ではありません。 

『日本書紀』に記述されていることや、伝承されてきた内容(『内宮』は『天照大神』、『外宮』は『豊受大神』を祀るなど)は、考古学上の『史実』とは言えませんので、歴史学、考古学では、色々な解釈がなされています。 

『伊勢神宮』は、『皇祖神(天皇家の祖先)』を祀る神社であるといって良いのではないでしょうか。『ヤマト朝廷国家』が成立する以前には、日本の各地に豪族が支配するコミュニティが多数存在し、それぞれの豪族が、『氏神(自分の祖先)』を祀る祭祀の場を保有していたと考えるのが自然です。『伊勢神宮』はその中の一つです。『出雲大社』は、山陰に君臨していた豪族(大国主命)の『霊』またはその祖先を祀る神社なのでしょう。

現在、『皇祖神(天皇家の先祖)』を祀る神社のみに『神宮』の呼び名が許されています。他は『大社』『神社』と区別されています。 

当時は、『政治』と『宗教』は分離される概念ではなく、『神と人との関係』が生活の全てを支配していたと考えるのが妥当です。これは日本ばかりではなく、世界中どこでも同じです。自然のあらゆるものの中に存在する『神(神々)』や、先祖の『霊』が、時に『恵み』をもたらし、時に『災い(天災、病気、死など)』をもたらすと考えていましたので、『宗教』が生活の基盤になるのは当然のことです。『災い』は『神や霊の祟り』と考えられていました。つまり『神』や『霊』は、『ありがたいもの』でもあり『怖ろしいもの』でもあったことになります。
このようなとらえ方は、土着性が強い世界の『宗教』に共通しています。日本の古代社会は、四季のある気候条件に恵まれ、農耕を主体としていましたから、自然崇拝の『アミニズム(自然の中に神々が宿る)』が『宗教』の基盤になるのは当然のように思えます。
 

現代の私たちは、『神』や『仏』を『慈悲深い』『慈愛に満ちた』存在と認識していますが、これは後世の『宗教』が洗練された概念として考え出したものと、梅爺は考えています。『精神世界』が考え出した『善良』『邪悪』という抽象概念のうち、『善良』と関連付けて『神』『仏』を位置づけると、『邪悪』の扱いに困りますから、『悪魔』や『罪』などという考え方を思いつきます。『神』は人間を『罪深い存在』としてつくっておきながら、今度は『罪』を裁いたり、許したりする側にまわるというのは何故なのか、何故人間を愛して下さるなら最初から『善良な存在』につくってくださらなかったのかと、畏れ多くも梅爺は、考えてしまいます。

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2013年12月 6日 (金)

Under a ragged coat lies wisdom.

英語の諺『Under a ragged coat lies wisdom.』の話です。

『ボロ衣装の下に知恵が宿る』という直訳になりますが、『賢者は衣装(外見)には無頓着である』『外見で人を判断してはいけない』『ボロはまとえど心は錦』など色々な意訳が可能です。

『外見よりは中味が大切』と、多くの人が『理』では理解しますが、実際には、虚栄心で、中味の無さを外見でとりつくろうとします。生まれつきの能力は別としても、立派な『中味』を身につけるには、相応の努力を必要としますが、『外見』は比較的容易にごまかせるからです。

『馬子にも衣装』といいますから、外見で中味を一時蔽い隠すことはできますが、直ぐに『馬脚』が現れて、結局『笑い者』になったりします。世間には『具眼の士』がいて、『全てお見通し』であると、畏怖すればよいのですが、人は、自分の能力を尺度に周囲を判断しますから、なかなか『具眼の士』の存在に気づきません。自分が『裸の王様』であることに気づきません。

『厚化粧』や『きらびやかな衣装』で、中味の無さを補えると勘違いしている程度は、まだ可愛いのですが、『学歴』や『肩書』で、自分は偉いと勘違いしている人には閉口します。逆に、見え透いた『低姿勢』や『慇懃(いんぎん)な態度』で、媚(こび)を売る人も印象は良くありません。

一方、外見や作法は、その人の中味にも影響を及ぼすとも言われますので、『おしゃれ』や『マナー』は、無意味であるとも言えません。実に人間の『精神世界』は複雑です。

『分相応に装い、分相応に振舞う』ことが理想ですが、人は自分を冷静に客観視できませんので、どうしても自分を過大評価してしまいます。そうでない場合は、『自分は不遇にも美男美女に生まれなかった。頭が良い人間として生まれなかった』と、『生まれつき』を自己弁明の道具にします。

梅爺は、自分の外見には比較的無頓着で、梅婆から『最低限、他人に不快感を与えない程度の配慮をしてください』と言われ続けています。

梅爺の場合は、外見に無頓着でありたいという立派な信条の持ち主であるわけではなく、単に『無精』であるだけですから、突然『おしゃれな老人』に変身することは無さそうな気がします。

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2013年12月 5日 (木)

中性子星(パルサー)(2)

梅爺は、『中性子星』を詳しく論ずる知識は持ち合わせていませんが、どのようなプロセスで『中性子星』が誕生したのかについての大雑把な理解はできているような気になっています。

(1)138億年前に『ビッグ・バン』により素粒子で構成される『宇宙』は膨張を開始した。
(2)『宇宙』はやがて温度が下がり、『ヘリューム』『水素』元素が誕生した。
(3)4~5億年後に、『宇宙』の密度(温度、ガス)の『ムラ』が原因で『最初の星(First Star)』が出現した。この時点で『鉄』までの各種元素が誕生した。
(4)『最初の星』はやがて爆発し、『宇宙』に飛び散った『塵』で、『次世代の星』が誕生した。この繰り返しで『宇宙』には沢山の『星』が誕生し、やがて『銀河系』も誕生した。
(5)『銀河系』を構成する星が『恒星』で、『恒星』も寿命が尽きると『超新星爆発』を起こす。『超新星爆発』の高温高圧環境で『金(きん)』などの重い元素が誕生した。
(6)『恒星』は大きさ(質量の大きさ)によって、『超新星爆発』後に何になるかが変わってきて、太陽の0.46倍の質量なら『白色矮星』に、太陽の0.46~8倍の質量なら『赤色巨星を経て白色矮星』に、太陽の8から10倍の質量なら『中性子星』に、太陽の10倍以上の質量なら『ブラック・ホール』になる。

『恒星』がその質量の大きさで、異なった運命をたどることは、勿論天体物理学で理論的に計算された結果に基づいています。このことから、『太陽』も50億年後に寿命がつきて『超新星爆発』を起こし『赤色巨星(その後白色矮星)』になることが推定できます。私たちが今悩むことではありませんが、『太陽系』や『地球』は、永久不滅の環境ではありません。『仏教』では、『56億7千万年後に弥勒菩薩がこの世に再来して、衆生を救う』と教えていますが、その時点で『地球』が『生命の星』として存在するという科学的な保証は、残念ながらありません。しかし、『万物は縁起で繋がっている』という釈迦の教えは科学的な視点でも『そのとおり』ということになります。

話を戻せば、『中性子星』は、太陽の8から10倍の質量の『恒星』が、寿命が尽きて『超新星爆発』を起こし、変容したものということになります。『中性子星』は、内部が『中性子』だけで構成される超高密度な天体で、半径が10Km程度の大きさと推定されています。元の『恒星』からみると極端にコンパクトになり、『角運動量保存の法則』で高速回転することになります。『中性子星』が磁気を帯びていて、回転軸と磁気の方向がずれている場合、外部からは『周期的なパルス信号』を発信する物体として認識されることになります。

1968年に検知された宇宙からの『規則正しいパルス信号』の正体は、『中性子星』で科学的に説明できるようになりました。現在では、1100ケ以上の『中性子星』の存在が確認されています。

興味深いことに、『中性子星』は『金(元素)』を核融合で創り出し、周囲へばらまいていると言われています。『地球』は『宇宙』の『塵』を集めて出来上がりましたから、『金』も『塵』の一部として取り込んだことになります。『地球』の誕生以前に、『宇宙』で『超新星爆発』や『中性子星の誕生』が無ければ、『地球』には『金』はなかったことになります。

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2013年12月 4日 (水)

中性子星(パルサー)(1)

1968年に、宇宙へ向けられた『電波望遠鏡』が、周期1.34秒の規則正しいパルス信号を受信し、『宇宙人からのメッセージではないか』と、関係者が色めき立ちました。

『規則正しいパルス信号』は、『物質世界』には存在しないもので、明らかに『高度な知性を有する生物(宇宙人)が人工的に創り出しているもの』と当時は推定したことになります。

地球以外に『高度な知性を有する生物』が存在する確率は極めて高いと、多くの天文学者が推定していますが、『生物』が住める環境は、『恒星』ではなく『惑星』であろうと推定しています。これは『恒星』である『太陽』の『惑星』の一つである『地球』に、私たちが現に存在していることからの推定になります。『恒星』は核融合を行っている『灼熱の星』ですから、『生物』は存在できないと考えるのは妥当です。『恒星』から適度な距離を保ち、液体の水が存在できる温度環境(ハビタル・ゾーン)の『惑星』が、『生物の存在』を考える場合最有力候補の星となります。

『地球』が『ハビタル・ゾーンの惑星』の一つであることは、『ビッグ・バン』以降変容を続けてきた『宇宙』で、『物質世界』を支配する『摂理』が、言ってみれば『偶然に(厳密には偶然とはいえませんが、人間の感覚では偶然に見える)』創出した環境で、『宗教』が説くような『神が愛する人間のために創出した天地』ではありません。自然を利用して『生きる』ように、私たちは進化してきましたが、人間を『生かす』ために自然が創られたわけではありません。人間もまた『物質世界』の摂理に基づく変容が、これまた『偶然に』創りだしたものなのです。地球の歴史という『ドラマ』の中で、最後の最後に登場して、『主役』気どりになっている『生物』が『人間』です。

宇宙から到来した『規則正しいパルス信号』には『ドプラー効果』が見受けられないことから、発信源は『惑星』ではないと推定され、従って『高等生物』が発信したものとするには無理があることが判明しました。『惑星』ならば周回運動しているため、『地球』からの距離が周期的に変り、『ドプラー効果』が発生するからです。

結局、後に天体物理学者たちは、『宇宙(物質世界)』に『規則正しいパルス信号』を発信する『モノ』が存在することを、『理』で探り当てました。それが『中性子星』で、パルスを発信することから『パルサー』とも呼ばれます。

『科学』は、『理』だけで『真偽』を論ずる世界ですから、ある時点の『仮説(宇宙人からのメッセージ)』の矛盾(惑星の宇宙人からのメッセージならば、ドプラー効果があるはずなのに無い)を克服し、より矛盾の少ない新しい『仮説(中性子星からのパルス信号発信)』へ移行していきます。『地動説』が『天動説』より矛盾が少ないことは、今では大半の人が認めています。

しかし『宗教』のような、人間の『精神世界』で成り立つ世界では、『教義』は絶対であり、これを疑うことや変えることは許されません。『教義には矛盾が無い』と『信ずる』ことが『宗教』の基盤であり、そうすることで『心の安らぎ』という人間にとって大切なものが得られるとしたら、無意味とは言えませんが、『教義』を、『物質世界』の真偽と同様に論ずることは、無理があるように思います。信仰心の薄い梅爺の心配することではないかもしれませんが、『宗教』といえども、やがてその無理を克服せざるを得ない状況に追い込まれる時が来るのではないかと案じています。『無条件に信じて受け容れようとする心』と『理に反するものは受け容れないとする心』を人間は両方持ち合わせています。『宗教』と『科学』は、その両面を特徴的に反映しています。

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2013年12月 3日 (火)

音楽という芸術の特殊性(12)

『西洋音楽』の歴史は、『形式を守る努力』と『形式を排除しようとする努力』のせめぎ合いでもあります。 

同時に複数の旋律を進行させるための約束事『対位法』、同時に複数の音を重ねることに関する約束事『和声学』に関しても、制約を取り除き、『自由な表現』を求めるようになっていきました。 

ある『音』を基音とする『調律(長調、短調)』にとらわれずに、『12種の基本音』を自由に使おうとする『12音技法』という考え方も登場します。『シェーンベルク』などが代表的な作曲家で、形式的な『音楽』に慣れ親しんだ人の耳には、難解な『現代音楽』として聞こえます。 

『楽器』も基本的な様式は変っていないとは言え、時代とともに科学技術を反映して変貌しています。『バッハ』の時代、『ベートベン』の時代、現代では『ピアノ』の音質、音量は異なっています。 

『音楽』の歴史的な変化は、変化が目的ではなく、『より新しい精神世界の表現』を求めた結果です。『絵画』の歴史も同様ではないでしょうか。人間は『より新しい精神世界の発見』にどん欲であり、今後もこの努力は続くものと思います。 

『芸術』は、人間の『精神世界』が作りだした様式ですから、『自然界(物質世界)』には存在しない表現が主流になります。特に『音楽』はその傾向が強い分野です。 

『安泰』を求める本能が、『精神世界』で、『美』や『心の安らぎ』を求める習性の基盤になっているのであろうと梅爺は推測しています。しかし、『安泰』を乱すものがあるが故に『安泰』を希求するわけですから、『精神世界』には、『悩み』『不安』『悲しみ』『恐怖』の情感も存在します。 

『音楽』は、これらの『安泰』を脅かす情感の表現にも挑戦することになりますが、それだけでは、やはり『落ち着かない』ことになり、『ベートベン』が『第九』の最終章で『歓喜の合唱』を提示したように、『限りなく解放され、安泰に満ちた精神世界』で終わろうとすることにもなります。

『音楽』は『理』で理解するものではありません。『音楽』は『理』や『約束事』の上に成り立っていますが、それに接する私たちは、『情』に身を任せて、受け止めればよいのではないでしょうか。自分の新しい『精神世界』の一面を見出すだけで良いのではないでしょうか。そして『作曲家』『指揮者』『演奏家』の『精神世界』に共感し、『絆』を見いだせれば尚すばらしいことと言えます。

自分の『精神世界』や、他人の『精神世界』との『絆』を感ずることができるのは、まぎれもなく『自分が生きている』ことの証拠ですから、『生きていること』への『感謝』がわいてくるはずです。

『音楽』が無くても、私たちは生きていけますが、『音楽』があれば、私たちは一層心豊かに生きていけるのです。

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2013年12月 2日 (月)

音楽という芸術の特殊性(11)

あらゆる『芸術』がそうであるように、『音楽』も『創造』と『形式(約束事)』という矛盾するもののバランスの上に成り立っています。逆にいえば『形式と言う制約の中で、どれだけ自由な創造が可能か』を競っているとも言えます。『五七五の語呂合わせ』『季語』など、がんじがらめの『約束事』がある故に、『俳句』の表現は反って深遠なものになり、広大な『精神世界』がひろがりますが、『音楽』も同様です。 

『芸術』ばかりではなく、人間社会のあらゆる行動は、『創造』と『形式』のせめぎ合いであると言えるのかもしれません。『政治』『経済』『スポーツ』などは云うに及ばず、『宗教』までにも当てはまるような気がします。『何故人間のコミュニティは形式を必要とするのか』は、深い本質と関連しているのかもしれません。 

群をなして生きていく上で、『絆』を『安泰』確認の手段として求める本能を私たちは保有しています。永い永い生物進化の過程で獲得した習性です。『手をつなぐ』などという行為は、その端的な現れですが、目に見えない『精神世界』でも『絆』を求めます。『愛』という抽象概念は、このために考え出されたものではないでしょうか。 

しかし、『芸術』の一部は、必ずしも『絆』を意識して創造されたものではない、という反論もあろうかと思います。たしかに、作者の『自分の精神世界を表現したい』という欲望だけが『創造』の原動力になっている場合もないとは言えません。それでも、その作品が『鑑賞者』の『精神世界』の共感を何も獲得できなければ、単なる『独り善がり』で、『芸術』は成立しません。

『他人を意識して創作する』『形式を守って創作する』は、ある意味で『芸術』にとっては足かせで、どの芸術家にとっても悩みの種なのでしょう。

徹底して他人に迎合しようとすれば、作品は『娯楽性』は増しますが、『芸術性』は希薄になるかもしれません。『オペラ』などという『音楽』のジャンルは、『娯楽』と『芸術』の際どいバランスで成り立っています。

芸術家も仙人ではありませんから、生きていくための収入が必要であり、収入を得るために、『鑑賞者』に迎合して創作する面も無視できません。

『芸術』は、極めて人間臭い、形式や足かせの中の妥協から生まれるものであることが分かります。しかし、素晴らしい作品は、そのような妥協をあまり感じさせません。芭蕉の『俳句』を、形式に対する妥協の産物であるなどとは、思いません。

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2013年12月 1日 (日)

音楽という芸術の特殊性(10)

『音楽』という芸術のもう一つの特殊性は、『物質世界』の次元単位である『時間』が関与することです。『時間』軸で『リズム』が刻まれ、『時間』とともに『旋律』が進行します。

こと『音楽』の鑑賞に関しては、王様であろうが乞食であろうが、感受性が高い人であろうがなかろうが、平等に『時間』の中に身を置く必要があります。『ワグナー』の『オペラ』のように、休憩時間を挟んで6時間近い演奏時間の作品もありますから、鑑賞には『心の準備』『覚悟』が求められます。

『音楽』が時間に制約される『ぶっつけ本番』の芸術であることから、ある『作曲家』の同じ作品を、同じ『指揮者』『演奏家』で演奏しても、同じ『演奏結果』になりません。演奏場所が異なれば、『音響』も微妙に異なります。

『指揮者』『演奏家』も人間ですから、ミスが起こることもあります。何よりも『指揮者』『演奏家』の『精神世界』は、いつも同じとは限りません。

『録音技術』が無かった時代、『音楽』は常に『生演奏』だけでした。しかし『録音技術』が出現して、『音楽』環境は一変しました。『レコード』や『CD(コンパクト・ディスク)』で、何回でも演奏が再生できるようになり、現在では、『DVD』で映像も一緒に再生できるようになりました。

このお陰で梅爺は、我が家で、世界中の有名な演奏会場で演奏される、著名な『指揮者』『演奏家』の『音楽』を、高画質、高音質で鑑賞することができるようになりました。

『音楽』の本質は、臨場感を伴う『生演奏』にあり、『録画、録音』したものは『まがいもの』に過ぎないという主張と、逆に最高の演奏を『録画、録音』できれば、それを後世の人たちも共有でき、文化の継承になると主張が対立しています。

指揮者の『ヘルベルト・フォン・カラヤン』は後者の主張を支持し、最先端の高度なデジタル録音技術を駆使して、『カラヤンの理想の音楽』を『CD』の中に閉じ込めることに異常な情熱を燃やしました。

音響のよい会場(教会)で『録音』のためだけの演奏を行いました。数十本のマイクを配列して同時録音を行い、楽器ごとの音量バランスを技術的に最終調整したり、時には、異なった演奏の部分をつぎはぎして全体を構成することもまでも実施しました。つまり、『録音』技術を最大限に利用して、『生演奏』では絶対に得られない人工的な『名演奏』を創り出したことになります。

本来アナログ情報である『音楽』を、デジタル録音処理することさえ邪道であると神経質なことをおっしゃる方もおられますが、人間の感覚器官の解像度で識別困難なほどに、技術が高度化していますから、梅爺はあまり気になりません。『記録内容の劣化』『ノイズの混入』を回避しやすいデジタル処理が、現在ではあらゆる『情報』処理に適用されています。

臨場感を伴う生演奏で、『絆』を共有する感動が、『音楽』の本質であるという主張も一理ありますが、最先端技術で、『理想に近い音楽』を録画、録音して後世に残すという考え方も排除する必要はないように感じます。どのような形であれ、私たちの『精神世界』を豊かにしてくれるものであれば、受け容れたいと梅爺は考えています。

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