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2013年8月31日 (土)

日本人の『妖怪』好き(3)

『目に見えない何かの力で自分は生かされている』と、信仰心の薄い梅爺でも感じます。現代人が獲得した科学知識を、梅爺のなけなしの能力であれやこれやと総合活用して考えると、『目に見えない何かの力』の大半は、『物質世界』を支配している『自然の摂理』であるらしいと思い当たります。

梅爺の命は、60~70兆個あると言われる梅爺の細胞が、黙々と『自然の摂理』に基づいて、生まれたり、活動したり、死んだりしていることで維持されています。個々の細胞は死んで生まれ変わるという再生を繰り返しながら、梅爺という全体は、『生きて』います。しかも『精神世界』を駆使して、泣いたり、笑ったりし、時に周囲を自分中心に眺めまわして、『この世は間違っている』などと嘆いたりしています。何らかの理由で、細胞の再生や活動の営みが維持できなくなった時に、梅爺の命は尽きることになります。

それならば、その『自然の摂理』を『神』と呼べばよいのではないかということになり、梅爺もそれに異存はありませんが、残念なことにこの場合の『神』は、宗教の教える『神』とは大きく性質が異なります。

『物質世界』には、『精神世界』で重要な役割を果たしている『情』が通用しません。したがって『自然の摂理』も『情』とは無関係です。このため、『自然の摂理』を『神』とすると、『神が愛して下さる』『神が許して下さる』『神が救って下さる』『神がかなえて下さる』という教えを放棄しなければならないことになります。つまり、『神』は祈りや願いという『情』が通用しない対象であることを認めざるをえなくなるからです。

『自然の摂理』に梅爺は感謝しますが、『自然の摂理』は一方的に梅爺の生命活動を支配する力で、梅爺の都合で変えられるものではありません。『自然の摂理』は、『宇宙』の誕生以来『物質世界』を支配し続けている『圧倒的、絶対的な存在』で、梅爺の『祈り』や『願い』を捧げる対象ではない思い知り、そういうものだと覚悟しています。『願いをかなえてくれる神』がいるなら、何と素晴らしいことかと思いますが、『理』が、『無い物ねだりはやめなさい』と囁き続けますので、『理』に従うことにしています。

それでは梅爺は『祈る』『願う』ことはないのかというと、そうではありません。梅爺も人間として、『安泰を優先する本能』を保有していますから、無意識に祈ったり、願ったりすることを繰り返しています。ただ梅爺の理性が、『熱心に祈り、願えば神がかなえてくれる』という『命題』を、疑っているだけのことです。梅爺の『祈り』や『願い』は、やりばがなく宙に浮いています。『可哀そうに、理屈っぽい人間は救いがない』と言われればそのとおりですが、『理』を推し進めると『祈り』や『願い』は宙に浮いてしまいますので、どうにも始末におえません。

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2013年8月30日 (金)

日本人の『妖怪』好き(2)

自然界の万物に『霊(神)』が宿るという、『アミニズム』の考え方が縄文時代からの日本の土着宗教の基本です。比較的穏やかに推移する日本の四季の流れの中に、命の流れ、命の繰り返しを感じたからなのでしょう。 

『霊(神)』は時折、へそを曲げて、人間に祟(たた)ったり、災害をもたらしたりするように見えたりしたはずですが、総じて日本人と『霊(神)』との関係は穏やかであるように梅爺は感じます。『妖怪』の多くが、『河童』のように『怖ろしい』というより、『イタズラ好きのやんちゃで愛すべき存在』と考えられていることが、その証拠です。 

北欧の伝説に登場する森の小人なども、『愛すべき存在』ですが、多くの西欧の『魔物』や、過酷な気候の地域の『神』は、『怖ろしく、猛々(たけだけ)しい存在』であるように梅爺は感じます。 

荒涼としてパレスチナに登場した『ユダヤ教の神(キリスト教の神の原点)』、砂漠地帯に搭乗した『アッラー(イスラームの神)』から受ける印象は、『イザナミ、イザナギ』『天照大神(あまてらすおおみかみ)』から受ける印象と大きく異なります。日本にも部族ごと、地域ごとの固有の『神』という概念はありますが、異民族の支配に苦しんだユダヤ人のように、結束のために『自分たちだけの神』という概念を思いつくことは無かったように思います。ユダヤ人の『唯一の神』という考え方は、『神』は選ばれた民である自分たちだけが保有するもので、異民族には可哀そうなことに『神』はいない、異民族が『神』としているものは本物の『神』ではない、というものでした。

『キリスト教』は、この『神』を、『ユダヤ人にとって唯一の神』から、『人類全体にとって唯一の神』に格上げしました。この偉大な発想転換は『使徒パウロ』の功績であると梅爺は考えています。『イスラーム』の『アッラー』は、最初は『ユダヤ人にとっての唯一の神』を模倣して『アラブ人にとっての唯一の神』を作り上げたものと推定できます。それまで『多神教』であった『アラブ世界』をこれで結束させたわけですから指導者としての『ムハンマド』の功績は大きいと言えます。

しかし、『ユダヤ教の神』『キリスト教の神』『イスラームの神(アッラー)』は、いずれも『唯一の神』と主張することで、論理矛盾(唯一のものが複数ある)が出現し、宗教間の対立は、今日でも解消はしていません。

梅爺は能天気にも『神は人間の精神世界が考え出した抽象概念である』と考えていますが、この考え方を受け容れれば、個性のある『精神世界』が創り出す『神』という概念にも個性があるのは当然のこととなります。『愛』『正義』などという抽象概念を用いる時に、誰もが同じ内容を思い浮かべているわけではないのと同じことです。また、抽象概念ですから『物質世界』に実態が存在するとは言えなくなり『実態として唯一存在するもの』と言い争う必要もなくなります。

しかし、この梅爺の考え方は、2000年以上かけて、強固に構築してきた宗教の教義を常識として『信ずる』方々には、『認めることができない暴言』であるにちがいありません。

梅爺は自分が『正しい』と主張するつもりはさらさらありません。ただ、『教義を信ずる自由』と同様に『教義を疑う自由』も認めていただければありがたいと願うだけです。『理』の原点は、『信ずる』ことではなく『疑う』ことにあるからです。

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2013年8月29日 (木)

日本人の『妖怪』好き(1)

NHKBSプレミアチャンネルの『BS歴史館』と言う番組で、江戸時代の『妖怪』ブームが取り上げられ、梅爺は楽しく観ました。

『妖怪』『お化け』『ものの化』など、普段『この世』では目に見えない『得体の知れない何者か』が、時折その姿を『この世』に現して、『この世』の人と交流したり、影響を与えたりすることがあるという話は、現代の日本人も『アホらしい』とにべもなく切り捨てたりはしません。

『本当に信じている人』、『全く信じない人』、『疑ってはいるが、想定そのものは、それはそれで面白いと受け容れる人』に現代人は分かれます。梅爺は3番目の範疇(はんちゅう)に属します。

『妖怪』『お化け』『ものの化』は、『多分、実態としては存在しないであろう』と疑っていますが、『存在しないことを論理的に証明』する術(すべ)がありませんので、『分からない』というのが正しい表現になります。

梅爺は、『妖怪』『お化け』『ものの化』は、人間の『精神世界』が作りだした『抽象概念』であろうと推測しています。これは推測ですから『仮説』の一つに過ぎません。しかし、梅爺にとっては、極めて説得力がある『仮説』です。梅爺が保有する知識の範囲で矛盾がみつからないからです。

この考え方は、『神』『悪魔』『天使』なども『抽象概念』であろうと推測していることと同様です。『妖怪』と『神』を同列で論ずるわけですから、畏れ多いと自覚はしています。

『ゲゲゲの鬼太郎』の作者の『水木しげる』さんが、どのような『妖怪』観をお持ちなのか存じ上げませんが、すくなくとも人間の世界を投影したような、欠点もありながらどこか愛すべきところもある様々な『妖怪』が登場します。西欧の怖ろしい『魔物』のイメージとは大きく異なります。

アニメーション映画の巨匠『宮崎駿(はやお)』さんも、『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』などで、好んで『ものの化』を取り上げますが、これは『信じている』というより、『ものの化』に秘められている『日本人の自然に対する畏怖をもちながら共生しようとする姿勢』を重要視されてのことと梅爺は理解しています。

『宮崎駿』さんが、『妖怪』を信じているというより、日本人の『精神世界』の基盤、本質を、たまたま『ものの化』を利用して表現しようとされていると感じますので、梅爺は共感します。

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2013年8月28日 (水)

You must ask your neighbour if you shall live in peace.

英語の諺、『You must ask your neighbour if you shall live in peace.』の話です。 

『平穏な生活ができるかどうかは、隣人に問いただしてみる必要がある』という直訳になります。『平穏に生きられるかどうかは隣人次第』ということで、ごもっともな話です。隣国である、韓国、北朝鮮、中国との間で、問題を抱える日本にとっては、『その通り』と納得できます。 

『ロビンソン・クルーソー』でもない限り、人は必ず『他人と生活環境を共有する』ことで生きています。生物としての生き残り確率を高めるために、『群をなして生きる』習性を継承してきたからです。 

従って『独りで生きていかなければならない環境』は耐えがたいほどの精神的なストレスになり、精神ばかりか肉体も病む原因になりかねません。『独り暮らしの老人』が増えている日本社会は、社会の健全さを失いつつある深刻な問題を抱えていることになります。

『隣人』を広く『他人』と解釈すれば、配偶者も他人ですから、『平穏に暮らせるかどうかは配偶者次第』と言う意味にもなります。夫が社会(勤務先)と家庭の二つを生活の場にするのに比べて、専業主婦は家庭だけの生活の比率が高くなり、特に『妻の人生は夫に依存するところが多い』とよく言われますが、冷静に考えてみれば妻だけが受け身の被害者であるというのはおかしな話で、『お互いさま』ではないでしょうか。

英語の『neighbour』は、文字通り『隣人』で、配偶者までも含めた広い解釈はこの諺にはあてはまらないように思います。

人間は遺伝子や育った環境で、一人一人が異なった『個性』を保有するようにできていますから、どのような場合も『他人』との『やりとり(interaction)』には『齟齬(そご)』が生じる可能性を覚悟しなければなりません。『感じ方』『考え方』『価値観の優先度』などは異なっているのが常態であるからです。従って、相互に相手との違いを受け容れ、配慮することができる時のみ平穏な関係が築けることになります。

この諺では、平穏かどうかの責任を隣人に転嫁していますが、隣人から観れば、逆な立場で同じことが言えることになります。私たちは、知らず知らずに、相手に責任を転嫁する『論理』を考え、それを『正しい』と勘違いする習性をもっています。

『違い』を受け容れることが出発点ですが、どうしても許容できない場合は、『関係を断つ』か『逃げる』しかありません。しかし、『どうしても許容できない』とするレベルは、個人によって異なりますから一般論としての基準はありません。

この諺は、一見当たり前なことを言っているようですが、『人間関係』の難しさの本質を示唆しているように感じます。

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2013年8月27日 (火)

『変える』『変えない』(6)

自分が置かれている環境条件を、自分の意思で変えて、現状以上の何かを得ようとする行為が『変える』の真髄でしょう。勿論、自分の意志ではなく、『変える』ことを余儀なくされることも、人生には沢山ありますが、今回は、『自分の意思で変える』ことを考えてみたいと思います。

多くの場合、『変える』には、『決断』を要し、脳が『決断』するには『予測』などの『理』と、『勇気』などの『情』が背景に絡みます。『楽観的』な性格の人は、比較的容易に『変える決断』をしますが、『悲観的』であったり、自分が確認できないことを恐れる性格の人は、『決断』がなかなかできません。

論理的には、『変えて成功する』『変えて失敗する』『変えなくて成功する』『変えなくて失敗する』も4つの結果のいずれかが待ち受けています。『変える』も『変えない』も人生の選択肢としては同等なはずですが、どういうわけか、世の中は『変えて成功する』話を高く評価するところがあり、仮に失敗しても『挑戦して失敗したのだからしかたがない』と好意的に評価されます。

その結果、『少年よ、大志を抱け』とか『艱難辛苦汝を玉にす』などと、果敢に挑戦することが推奨されます。『果報は寝て待て』などという逆の人生訓もありますが、これは『運』だけをたのみにするものとして、真面目な人にはうけません。

確かに、『挑戦』には、『運』だけではなく、自分の『意思』や『努力』が関り、『向上の歓び』『達成感』を伴いますので、人間の生き方として推奨されるだけの意味がありそうです。

人生には、『進学(退学)』『就職(転職、退職)』『結婚(離婚)』と、自分の意思で『決断』し、自分の身を置く環境を『変える』転機が何度かあります。『結果』は、『神のみぞ知る』ことですが、多くの人は自分の『決断』の責任をとって、新しい環境を良いものにしようと努力をします。『成功』も『失敗』もある意味で相対的な価値観ですから、『この挑戦は絶対失敗しない。なぜなら成功するまで頑張るからだ』などという詭弁も出現します。

どうせ一度の人生なのだから、できるだけ多くのことに挑戦しようと、『理』では考えますが、『現状のままの方が楽で良い』という怠惰な気持ち(『情』の一種)がまさって、優柔不断にもなりがちです。

結果を言い当てることは誰にもできないことでも、十分に考えをめぐらし、一度『変える』と決断したら、他人のせいにせず、自ら新しい環境を『成功』へ導く努力をすることの連続が人生ではないでしょうか。

それでも『運』に見放されることがないとは言えませんので、人生は綱渡りのようなものかもしれません。

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2013年8月26日 (月)

『変える』『変えない』(5)

政治姿勢で云えば『変える』は『革新』であり、『変えない』は『保守』ということになります。『あいつは保守的だ』は、多くの場合『臆病でダメ人間だ』と批難する時の発言です。『革新』は進歩的で、『保守』は後ろ向きのニュアンスととられることが一般的です。しかし、梅爺はこの価値観は、少々作為的であるように感じ、すんなり受け容れることができません。

人間や人間社会にとって、『革新』と『保守』は二律背反ではなく、むしろ共存する概念です。誰も、どの社会も両面を持っています。人間は、その時の精神状態や、年齢によっても、どちらを重視するかが変ります。つまり、人間は誰でも『革新的』でもあり、『保守的』でもあるということで、時と場合で対応が異なります。根本には『どちらが安泰か』を見極めようとする本能が関っています。人間は『善良』でもあり、『邪悪』でもあるということに似ています。

『耐えられる範囲の変化』は、人間にとって適度なストレスで、むしろ心身には健康的で望ましいことです。変化が無ければ、退屈と感じます。しかし、『許容範囲を越えた変化』は、心身を損ない、特に『心の病』を抱え込むことにもなりかねません。人間の脳や身体は、適当な変化を必要とし、過度な変化は有害であるようにできています。そしてさらに厄介なことに、個人個人でその耐えられる変化の限界が異なっています。繰り返しで恐縮ですが、変化の刺激が全くなくても、あり過ぎても耐えられないという、人間は身勝手な『生物』なのです。

人間で構成される社会も、同じような特性をもつことになります。ある程度の変化は社会の活性化のために必要ですが、限度を越えた変化は、社会を麻痺させます。

優れた政治家や経営者は、変化の限度をわきまえ、バランスをとりながら社会や企業の活性化を継続させます。活性化のために『挑戦』をしますが、破滅に向かう『挑戦』は無謀と考え避けます。

『誰もが安心して暮らせる社会』は耳に心地よいスローガンですが、むしろ『誰もが変化への対応を生きがいと感ずる社会』をつくることが重要です。変化への対応は、創意工夫を産み、人間も社会も更に強靭な体質へステップアップするきっかけになりうるからです。

結論的に言えば、『適度な革新』が好ましいということになりますが、何を持って『適度』とするかに知恵を要します。

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2013年8月25日 (日)

『変える』『変えない』(4)

ドレスデンやミュンヘンの人たちが、灰塵に帰した自分たちの都市を再興するにあたり、『昔の街並みに戻す』ことを選択したことを梅爺は興味深く感じます。同じく、第二次世界大戦で日本の多くの都市が空爆で焼け野原になりましたが、ほとんどの都市で日本人は『昔の街並みに戻す』ことを選択していません。梅爺が4歳の頃住んでいた新潟県長岡市は、空爆で焼け野原になり、梅爺が住んでいた家も家財道具もすべて焼失しましたが、長岡市は『新しい都市計画』に基づいて、昔とは異なった街並みになることを選びました。『昔の街並みに戻す』か『戻さない』かで、激しい議論があったという話も聞いたことがありません。

このドイツと日本の対応の違いは、『異文化』がなせる業です。日本人は、外国を観て、表面的な理解ではなく、その奥にある『異文化』を感じ取る訓練をする必要があります。国際化する世界で日本が、外国と協調し、理解し合って生きていくには、それが必須の条件であるからです。それは『違いの原因』を知ることであって、『相手を真似する』ことではありません。

ドレスデンの『聖母教会』は、2005年に、何と13年もかけて昔の姿に復元されました。焼け落ちた昔の石材を、『立体ジグゾーパズル』のように、元の位置に戻そうと言う、気も遠くなるような努力が続けられたからです。梅爺は、2003年に完成間近い『聖母教会』を観光で訪れたことがあります。

このドイツ人の『執拗』ともいえる対応姿勢を観て、日本人は『ドイツ人(ヨーロッパの人たち)は伝統を大切にする』からであると、我知り顔の説明をしますが、本当にそうなのでしょうか。それでは、相対的に『日本人は伝統を大切にしない』民族なのでしょうか。

梅爺は、日本人は伝統を重んじない民族であるとは考えていません。日本人は、自然も含め周囲環境は『うつろい行くもの』と考え、環境の変化には、むしろ自分の方を『変えて』対応しようとする習性が強いのではないでしょうか。その結果、物理的な環境より、精神的な環境の継続維持をより大切にすることになります。勿論、これは相対的な話で、日本人も『物理的環境』の維持に固執し、ドイツ人も『精神的環境』の維持に固執する面があるのは言うまでもありません。梅爺が指摘しているのは、程度の違いです。

『安泰』を希求する人間の本能は、日本人もドイツ人も変わりがありませんが、日本人は『物理的環境』の変化はやむを得ないと受け容れ、むしろ早く新しい環境になじむことが『安泰』を獲得する方法であると考えるのに対し、ドイツ人は、『物理的な環境』を同じものに戻して、『安泰』を再度獲得しようとするのではないでしょうか。

自分が『生きている』ことの証(あかし)を、何に求めようとするか、どういう環境で自分を確認し安堵できるのかといった人生観、死生観が背後にあるように梅爺は感じます。

日本とドイツのどちらが『正しい』対応か、そちらが『優れているか』などを議論する意味はあまりありません。

日本人は、ドイツ人との違いを認識し、その違いを産み出す原因を考えてみることが重要です。このことは、日本人がドイツ人を『理解』することにつながります。『異文化』を認識し対応するというのは、そういうことであろうと思います。

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2013年8月24日 (土)

『変える』『変えない』(3)

第二次世界大戦ヨーロッパ戦線の最後の段階で、ドイツの主要都市は、連合国空軍、特に英国空軍によって、壊滅的な空爆を受けました。旧ザクセン王国の首都であったドレスデン、旧バイエルン王国の首都であったミュンヘンは、貴重な歴史的建造物が建ち並ぶ文化遺産にあふれた都市でしたが、空爆は容赦のないものでした。

文化遺産を破壊することになることは、連合国も承知していたはずですが、ドイツ空軍によるロンドンへの空爆を耐え忍んだ英国のチャーチル首相は、英国空軍によるドレスデン空爆を認める決断をしたと言われています。『文化遺産を保護しよう』などという平時の主張は、戦争と言う緊急時の『報復』論理の前では、色あせたものになってしまうことが分かります。

『報復』は、人間の脳の『理』と『情』が組み合わされて考えだされる行為で、深く本能に根ざしています。勿論『報復合戦』は、果てしない泥沼になり、更に多くの不幸な人たちを産み出すことも、一部の理性的な人たちは思いつきますが、それが人類の共通合意になったことは、今まで一度もありません。

『やられっぱなしでは、腹がおさまらない。やられたら、やり返す』という行為は、時に『正義で邪悪を討つ』という衣をまとい実行されます。特に国家に依る『報復』は、国民の愛国心に後押しされ、それを実施しないリーダーは、『弱腰の臆病者』と烙印を押されます。中国漁船が日本の海上保安庁の船に、故意に体当たりしてきた事件で、日本政府の中国に対する対応は『弱腰』であると、国民やメディアは騒ぎたてました。日本政府の対応が単なる『弱腰』なのか、深い思慮の結果なのかは、梅爺には分かりませんが、この事件が、日中間の戦争の火種になるようなことは望みません。

『報復』が人間の本能であり、誰にもそれを望む意識があることは、『報復』文学作品が、根強く好まれることでも分かります。デュマの『岩窟王』、山本周五郎の『五弁の椿』など、梅爺も報復する主人公に感情移入して、ワクワクしながら読みました。

江戸時代、条件付きで『仇討』だけは認めていた徳川幕府は、人間の本性を見抜いて、粋な計らいをしていたと言えないことはありません。しかし、梅爺は現代社会で『仇討』が認められても良いと主張するつもりはありません。

ドレスデンやミュンヘンを、昔ながらの街並みに『復旧』した、ドイツ人の価値観に関する感想を書こうとして、話が『報復』に脱線してしまいました。

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2013年8月23日 (金)

『変える』『変えない』(2)

自分の意思や願いに反して、環境条件が変り、自分の生き方や、社会体制を『変えざるをえない』状況に追い込まれることがあります。これも広い意味で『変える』ことに相当します。

東日本大震災は天災であるが原発事故は人災である、などといくらもっともらしい議論をしてみても、『起こった後』の状態を『起こる前』にすぐには戻すことはできません。受け容れがたいほどに悲しいことですが、亡くなった方々の命は戻りません。

被災地の東北地方は勿論のこと、日本全体が『起こる前』とは異なった対応を求められることは、『理』で考えれば当然のことです。国民に、起きてしまった環境の変化への対応を、つまり『変える』覚悟を受け容れるように要請し、『効率よく対応する』方法を提示するのが政治リーダーの責務です。政治が無策であっても、社会は『動的平衡』で、何らかの変容を遂げ、外見には、復興へ向かうことになります。しかしこの場合は、部分的な試行錯誤が繰り返されることになり、極めて効率が悪いことは明白です。この効率の悪さ故に、更に多くの人が悲惨な状態になり、最悪命を失うようなことにもなりかねません。

政治リーダーは、『変える』内容を、『すぐに対応すべきもの』『将来を見据えて対応すべきもの』に区分けして国民に提示し、前者は決然と『実行』しなければなりません。緊急事態では次々に、新しい問題が起きますから『すぐに対応すべきもの』の数はドンドン増えていきます。それでも政治リーダーはひるまずに、国民の先頭に立って、速い決断でこれには対応をし続けなければなりません。9.11事件の後の、ニューヨークのジュリアーノ市長の対応は、『行動する市長』として、アメリカでも高く評価されました。緊急事態で『議論を尽くし、国民の合意を得る』などという、綺麗ごとの逃げ口上を述べている政治リーダーは失格です。

社会の動的平衡で『復興』することと、政治の力で意図的に行われる『復興』とでは意味合いが全く異なります。この違いを国民は厳しくチェックすべきです。『復興』が進んでいるのは、政治が対応している証拠と主張する無策な政治リーダーの詭弁を許してはいけません。繰り返しになりますが、政治が無策でも、あるレベルの『復興』は進みます。

取り返しがつかないような環境の大変化に見舞われた後に、どのように『修復』『復興』に対応するのかについては、その社会の文化的属性が強く作用します。第二次世界大戦の空爆で壊滅的な破壊を被ったドイツのドレスデンやミュンヘンが、元通りの街並みへ『修復』されるのを観て、梅爺はドイツ人の『変える』『変えない』の判断基準の一端を垣間見たように気がしました。

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2013年8月22日 (木)

『変える』『変えない』(1)

オバマ大統領が、最初の大統領選挙に臨む時に『We Can Change. Yes, We Can』をスローガンに掲げ、多くの日本人は、リーダーを目指す人が、スマートに『理念、夢』を提示していると感じ、『理念、夢』とは程遠い日本の政治家と比べて、『さすが』と思い『羨ましい』とも思いました。英語に堪能でなくても『We Can Change. Yes, We Can』程度は理解できますから、それでなんとなく嬉しくなったところもありそうです。『オバマの演説(スピーチ)』が、訳文と一緒にCDで売り出され、これもよく売れました。

アメリカの大衆も、『Change(変える)』という言葉に『勇気と挑戦精神』を感じ取り、熱狂的にこのスローガンを一緒に連呼しました。『変える』ことは『正しい』ことで、『変えない』ことは『正しくない』と、単純に思いこまされたようにも見え、それを狙ったオバマの選挙戦術の思う壺にはまったとも言えます。

しかし、人間が『生きる』こと、社会が『存続する』ことのために、環境条件を『変える』か『変えない』かの選択は、それほど単純で易しい話ではありません。勿論、『変える』ことは『正しい』ことで、『変えない』ことは『正しくない』ことなどと単純に区分けすることはできません。

何度も梅爺がブログに書いてきたように、人間は生物進化の過程で、物事を自分に都合がよいか、悪いかを本能的に嗅ぎわける習性を身につけています。『生き残りのための安泰』を希求する本能があるからで、『都合の悪い』ことに遭遇すれば、脳はストレスとして『不安』『気懸り』というような危険信号を発します。『都合の悪い』ことは、回避したり(逃げたり)、排除したり(闘って倒したり)しないと、『安泰』は脅かされ、生き残ることができないと脳が総合判断するからです。

ここまでの話は、人間以外の生物にも共通する習性ですが、高度な『理』の能力を脳で獲得した人間は、やがて『善と悪』という抽象概念を思いつき、『自分に都合のよいことは善』『自分に都合の悪いことは悪』と、区分けするようになりました。そして『善』の象徴である『神』、『悪』の象徴である『悪魔』という抽象概念までも産み出しました。しかしながら、自然界は、すべて『ただ成るべくして成っている(動的な平衡を求めて変容している)』のであって、自然界には『善』も『悪』もありません。地震や津波は、人間にとって極めて不都合な現象ですが、自然界で『悪』と区分けされる現象ではありません。

冷静に考えて観れば、自分と言う人間も、自然界の一員であり、自然界のなかで『成るべくして成っている』存在であると、梅爺のように考える人は少数派で、多くの人は、『自分は特別な存在』『人間は特別な存在』と信じて疑っていないように見えます。このような人たちは、『自分の立場』を『正しい』と思いこみ、この立場を支持しない人たちは『間違い』として排除しようとします。この世の中には『自分に都合の悪いこと』は存在しても、絶対的に『正しい』ことなどは、そうそう存在しないと考えることができれば、多くの紛争や戦争は回避できるはずです。『寛容』と『忍耐』を理解しない人は、結局不幸になります。

『なでしこジャパン』の世界一は、日本人の立場では『自分に都合のよい結果』で『嬉しい』ことですが、敗れたアメリカ人にとっては、『都合の悪い』『残念』なことです。

『誰かにとって都合のよいこと』は『誰かにとって都合の悪いこと』であるということが理解できれば、『正しい方向へ変える』などというスローガンは、そう易しいことではないことに気付きます。

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2013年8月21日 (水)

迫りくる地球への脅威(4)

太陽の『光球』の外側を、厚さ2000Kmの『彩層』が蔽っています。この『彩層』は、温度1万度のプラズマ状態と考えられています。更に『彩層』の外側を超高温(200万度)の『コロナ』が蔽っていて、太陽の半径の10倍ほどの地点まで宇宙に広がっています。 

この『コロナ』の一部のプラズマが、太陽の引力を逃れて宇宙空間へ放出されるのが『太陽嵐』です。したがって、『太陽嵐』は、日常的に存在していますが、その規模は地球の人類に大被害を及ぼす程度ではないということになります。 

ところが、時に『超高速太陽嵐』と呼ばれるものが発生し、この影響が地球へ及んだ時に深刻な事態を引き起こします。巨大な『太陽嵐』は、800年に一度、更に超巨大なものは5000年に一度程度の頻度で起こると予測されています。 

言ってみれば『通常の風』か『突風』か『大突風』というような差ですから、日常的に『太陽嵐』を観測して備える必要があります。しかし、通常の『太陽嵐』は、2~3日で地球へ到達しますが、『超高速太陽嵐』は、19時間程度で到達してしまいますから、備えは迅速でなくてはなりません。 

太陽と地球の中間の『ラグランジェ・ポイント』と呼ばれる宇宙地点(地球や月の運行の影響を受けずに太陽観測ができる場所)に、太陽探査機を配備し、日本を含む世界中の関係者が、四六時中太陽を観察し、『宇宙天気予報』を発信しています。航空会社などは、これが頼りの綱ということになります。 

『超高速太陽嵐』は予知できるのかということになりますが、近年では、黒点付近で、二つの磁力線が交差してできる『ミニ磁場』と関係しているのではないかという仮説が有力です。 

いずれにしても『超高速太陽嵐』が押し寄せると、地球の送電網、通信網が麻痺すると同時に、大気が熱で膨張し、普段は真空である、人工衛星軌道領域まで及ぶために、大気との摩擦で人工衛星が、失速墜落することにもなりかねないと考えられています。 

人類は『自然の摂理』を制御することはできませんが、どれだけ防御できるかは『知恵(主として科学的な知識)』に依存します。『精神世界』の『願い』や『祈り』は、『自然の摂理』の前では無力です。

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2013年8月20日 (火)

迫りくる地球への脅威(3)

『太陽嵐』は、太陽の『黒点』と関係しています。観察によって『黒点』は11年周期で、増減していることが分かっています。

『黒点』は、文字通り光っていないわけではありませんが、他の部分(6000度C)より温度が低い(4000度C)ために、相対的に人間の眼には黒く見えます。

古代の中国人は、『黒点』に気付き、『太陽にはカラスが住んでいる』と想像しました。日本の『八咫烏(やたがらす)』伝説は、神の使いということになっていますが、中国からもたらされた話ではないでしょうか。

『黒点』は、太陽の磁力線の『吹き出し口』と考えられています。地球の『磁場』は、自転軸を中心に、北極と南極を結ぶ、きれいな単一磁場ですが、太陽の『磁場』は、非常に複雑で、複数の磁場がアト・ランダムに存在しています。『黒点』はその一つの『磁場』と関連しています。太陽自体の『自転(赤道部分は、極地部分より自転速度が速い)』が関与しているらしいことは分かっていますが、『黒点』の全てが解明はされていません。

『黒点』から噴き出した磁力線の一部は、シャボン玉のように太陽を離れ、宇宙へ放たれ、その一部は地球へも向かいます。これが『太陽嵐』です。

『太陽嵐』のX線、ガンマー線は、光の速度で進み、その後をプラズマ(電子を帯びた粒子:電磁波)が追いかける形になります。この電磁波が、地球の大気圏や地表へ到達した時に、人類にとって『不都合なこと』が起きることになります。

『太陽嵐』による顕著な被害が、1989年にカナダのモントリオールで生じました。電磁波の影響で、送電線に過剰な電流が流れ、送電施設が破壊されて、大停電が起きました。

もし大規模な『太陽嵐』が現在の地球を襲えば、被害は停電程度ですまないことが分かっています。GPSの精度がくるって、飛行機の航路制御に問題が生じたり、長距離無線が使えなくなったり、人工衛星が墜落したりするおそれがあります。神経網のような通信手段が麻痺することは、現代社会そのものが麻痺することを意味します。アメリカの試算では、アメリカだけの被害は1~2兆ドルで、復旧に4~5年かかると推測されています。人類文明が発達したために、甚大な被害をうける可能性が高まったということになります。

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2013年8月19日 (月)

迫りくる地球への脅威(2)

『小惑星との衝突』以外にも『太陽嵐』による『脅威』があります。『太陽』は、地球を生物が住める『惑星』にしている源で、総じて言えば『恵みの星(恒星)』です。古来多くの民族が『太陽』を『神』と崇めたのは、自分たちの命や生活が、『太陽』に依存していると推測したからです。 

その後、『科学』は、『太陽』および『太陽系(地球を含む惑星群)』は、46億年前に、宇宙の塵とガスが寄り集まって形成されたことを明らかにしました。これによって、『太陽』を『神』と崇める『宗教』を信ずる人はほとんどいなくなってしまいました。『物質世界』と『神』を結びつけようとする宗教は、『科学』と相容れないことが分かります。宗教は『精神世界』でのみ、意味を持つものではないでしょうか。しかし、『宗教は精神世界の産物』であることを認めてしまうと、『神』や『仏』の普遍性が失われ、宗教は権威を逸することになりますので、多くの宗教が、『物質世界』の事象も『神や仏の支配下にある』と説明しようとするために、『科学』の批判にさらされることになっているように梅爺には見えます。 

しかしその『科学』も『太陽』の全てを解明できいるわけではありません。

太陽の半径は70万キロメートルで地球の110倍、質量は地球の33万倍と聞くと、地球のように『地表』という境界をもつ星であるように考えてしまいますが、実際は、可視光を発している『光球』を私たちが『見かけの境界(縁)』としているだけで、何をもって『大きさ』とするかさえも簡単な話ではありません。

『光球』の内部がどうなっているかは、科学的に推測されていて、中心部に『中心核』その上層に『放射層』、さらにその上層は『対流層』で形成されていると考えられています。

太陽のエネルギーの源は、高圧、高温の『中心核』で起きている『熱核融合反応』で、水素はヘリウムに変換され、膨大なエネルギーが発生します。エネルギーの大半はガンマー線やニュートリノ(素粒子)に変わり、数10万年かけて、見掛け上の太陽の表面に達し、そこから宇宙空間へ放出されます。

『中心核』で『熱核融合』に供される水素が無くなった時に、太陽は寿命を迎えるわけですが、それは約50億年後と推定されています。現生人類の歴史は高々20万年ですから、50億年は『無限の先』と言って良く、人類にとっては太陽は『無限のエネルギー源』といって差し支えないでしょう。自然の摂理に感謝したくなります。太陽エネルギーを、人類が消費する主要エネルギーとして利用できれば、エネルギー源の枯渇に怯えることがないわけですから、理想的で理に適っていることは自明です。

しかし、太陽は人間にとって好都合な存在だけではなく、時に『危険』の元にもなります。それが『太陽嵐』です。

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2013年8月18日 (日)

迫りくる地球への脅威(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映されている『コズミック・フロント』という科学番組を観ていて、地球が、『温暖化』以外にも、種々の『脅威』にさらされていることを再認識しました。 

もっとも、『脅威』は、地球上で『生きていこう』とする人類にとっての話で、『物質世界』の視点で観れば、例え地球が小惑星と衝突して、変形しようが、分解しようが、生物が死に絶えようが『動的平衡がもたらす変容』に過ぎず、『なるようになる』ということですから『脅威』とは言えません。 

小賢しい『理屈』はそのくらいにして、梅爺が紹介したい『脅威』は、『小惑星との衝突』と『太陽嵐の直撃』の話です。 

2013年の2月15日に、ロシアのチェリャビンスク州に、隕石が落下し、その衝撃波で、20万平方メートルの範囲で、家屋のガラスが割れるなどの被害が生じ、1500人もの負傷者がでたという報道が私たちを驚かしました。 

火の玉が落下する様子が、動画で撮影され、テレビのニュースで流されました。今回の隕石は、直径10メートル程度で、大気圏突入時の熱で、30~50Kmの上空で分解したと推測されています。衝撃波で地表に直径6から8メートルのクレーターが数個できましたが、仮に直径10メートルの隕石が、分解せず地球に衝突したとすると、直径100メートルのクレーターができたと考えられます。 

幸いに、今回の落下地点は、比較的人口の少ない地帯でしたが、もしこれがモスクワやサンクトペテルブルグのような大都市であったら、大災害となったに違いありません。 

何しろ毎日総重量100トンほどの宇宙の塵(チリ)が地球へ降り注いでいるということですので、地球が、常に『小惑星との衝突の脅威』にさらされていることは、天文学に関与する人達には『常識』で、多くの人たちが、驚異の対象となる小惑星の発見に全力を傾けています。しかし、それでも、今回のロシアの隕石落下は、事前に予測できなかったのでしょう。

膨大な数の星の中で、地球へ向かってくる『小さな物体』を発見することは容易ではありません。それでもコンピュータの画像処理などを活用して発見しようとする努力が続けられています。 

NASAが2012年に米国議会へ提出した報告書によれば、『脅威』の対象となる小惑星は、2万個程度あるとされています。 

最近では、『アポフィス(直径400メートル)』と名付けられた小惑星が、2029年に地球へ衝突する確率が1/300という報道がありました。その後全世界の天文学者が、軌道を計算し、一時確率は1/30にまで上がりましたが、更に精密な計算を重ねて、『スレスレのところで地球とは衝突しないで通り過ぎる』ことが判明し、一応安心ということになりました。

1908年に、シベリアのツングースカに直径50メートルの小惑星が落下した事件が有名です。周囲の森林はなぎ倒され、クレーターは『チェコ湖』を創り出しました。この時も、小惑星は上空で分解し、地上への影響は水爆並みの衝撃波が引き起こしました。軌道が4時間ずれていたら、サンクトペテルブルグが大被害を被ったと推測されています。

6500万年前に、メキシコのユカタン半島に衝突した、小惑星は直径10キロメートルと巨大で、粉塵が地球を蔽い、太陽光が遮断され、結果的に、生物界の頂点に君臨してた『恐竜』が絶滅しました。

直径10キロメートルの小惑星の衝突は1億年に1回、直径1キロメートルの小惑星の衝突は数10万年に1回、直径100メートルの小惑星の衝突は数100年に1回の頻度で起こると推定されています。

小惑星との衝突は、『いつ起こるかは特定できないとしても必ず起こる』と覚悟が必要です。『物質世界』が『動的平衡』を求めて変容するなかでの一事象ですから、『思い上がった人間への天罰』などという『精神世界』で考え出す説明は科学とは相容れません。

衝突が事前に予測でき、数10年の余裕があれば、人類は科学を利用して、地球へ接近する前に、迎え撃って破砕するなどの技術を開発できるかもしれません。

老い先短い梅爺が、悩むことではないでしょうと言われれば、その通りですが、人類としては『現実』を直視して対応する必要があります。

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2013年8月17日 (土)

ミステリー小説『The Secret Speech』(4)

人間にとって『精神世界』の自由が奪われることが、どれほど苦痛であるかは、想像に難くありませんが、この小説を読んで、スターリンが行った陰湿な思想弾圧の実態を具体的に知ると更に心は暗くなります。 

弾圧された側には、弾圧したものへの憎しみが残り、今度は陰湿な『復讐』へと向かうことになりますから、社会は『負のスパイラル』に陥り、人々の顔から健康的な『笑み』が消え失せます。 

人間は、『精神世界』の『理』を駆使して、『物質世界』を支配する『摂理(法則)』の一部を知り、『摂理』で『普遍的な真偽』を判定できることも知りました。リンゴの実は、枝から離れれば地上へ向かって『落ちる(真)』ことになり、天へ向かって『飛びさる(偽)』ことはありません。 

しかし、『精神世界』が見出した世界の中で、『科学』は『普遍的な真偽が判定できる』唯一の特殊な世界であることを多くの人が理解していないように梅爺は感じています。 

『精神世界』の『情』と『理』の組み合わせを駆使して、人間は『科学』以外に、『法律』『哲学』『宗教』『芸術』などの見事な世界を生みだしました。これらの世界には、なんらかの形で『情』が関与していて、これがなかなかの『曲者』であると梅爺はブログを書いて知るようになりました。 

『情』は、『自分にとって都合が良いか、不都合か』を判別する生き残りにとって重要な生物の『本能』が根底にあると考えると、『人間』や『人間の行為』の意味がおぼろげに見えてくるように思います。 

つまり、『法律』『哲学』『宗教』『芸術』の世界は、『自分にとって都合がよい(好ましい)かどうか』の判定は下せますが、それは『科学』の世界の『普遍的な真偽の判定』とは似て非なるものであることに気付く必要があります。 

『法律』は、多くの人が『好ましい(好ましくない)』と考えることを『善(悪)』として合意したことですので、『殺すなかれ』『盗むなかれ』を日常生活の上では『正しい』としてほとんど問題ありませんが、論理的には『法が区別する善悪』は『普遍的な正邪』とは言えません。『法』はコミュニティにおける『合意事項』ですから、コミュニティが変われば『法』の内容も異なります。『戦争』においては『殺戮や略奪』は『正義』の手段に変貌します。 

『信ずる』という行為は、典型的な『精神世界』の行為であると認識することも大切です。『信ずる』は、『そうあって欲しい』という『情』が根底にありますが、普遍的な『真偽』『正邪』の判定には供することができません。 

梅爺でも気付くこのような単純なことに気付かないコミュニティのリーダーが出現すると、不幸が生じます。ヒトラーは、『ユダヤ人は有害な人種である』と信じ、スターリンは『社会主義、共産主義以外の思想は有害である』と信じたのでしょう。個人が『信ずる』ことはその人の問題ですが、それを『普遍的な正義』とすりかえると、『大量殺戮』『拷問、投獄、強制収容所送り』が肯定されることになり、悲惨なことになります。

私たちは、『科学』以外の『精神世界』の産物に、『普遍的な正邪』の判定を持ちこむことに慎重であるべきです。しかし、『中国の一党独裁』『北朝鮮の将軍様崇拝』『イスラーム原理主義者の排他性』など、現代でも人類はこの『すり替え』を排除できていません。為政者がコミュニティを単純な区分で効率よく収めたくなる気持ちは分かりますが、人間の『精神世界』を均一にすることは、そもそも無理があり長続きはしないのではないでしょうか。

梅爺は『小説』の内容より、この問題を深く考えさせられました。

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2013年8月16日 (金)

ミステリー小説『The Secret Speech』(3)

この小説を読むと、どうして『ソ連』『北朝鮮』『中国』のように、国民に『思想均質』を強いる国家が出現するのだろうかと考えさせられてしまいます。

『人間社会』の難しさは、構成要員の『個(個人)』は『異質(ヘテロジニアス)』であるにもかかわらず、『全体(社会)』を維持するためにはある種の『均質(ホモジニアス)』が求められるという、云ってみれば『矛盾』に起因しています。

『個』が『異質』であることは、人間が生物進化の過程で取得した『命のしくみ』が、『個が必然的に異質になる』ようにできているからです。味気ない言い方で恐縮ですが、人間を『物質世界』の一員としてみる限り、『個性が付与される』というしくみは、『自然の摂理』の一つであり、逆らいようがありません。

受精の瞬間に、子供の遺伝子配列は、両親の遺伝子を利用した『偶然とも言える組み合わせ』で決まります。人間の遺伝子は、3万個ほどの要素で構成されていますので、同じ両親から生まれる子供でも、一人一人遺伝子配列は異なります。現在地球に生存する70億人の『現生人種』は、全て『個性』をもって生まれてきたことになります。これは人間だけの話ではなく、『両性生殖』の方式を踏襲している生物に共通したことです。

『容貌、体質、基本的な性格、能力』は、生まれながらに決まっていることになりますが、人間の複雑な所は、その後の『総合的な性格、能力』は、産まれた後の生育環境、蓄積される経験や知識、本人の努力などで差異が生ずることにあります。その人の人生の一部は、遺伝子で運命づけられていますが、人生の全てが運命づけられているわけではありません。

生後に形成される『個性』の大半は、『脳』の『精神世界』が関与して決まります。『脳』も、遺伝子で運命づけられる能力と、生後の環境や、本人の努力で取得する能力の両面で構成されます。違う表現をすれば、『脳神経細胞のネットワーク』は、一人一人異なっているということになります。コンピュータが、ハードウェアの面では全部同じ様式でできていることと大きく異なります。

『精神世界』は、『理』と『情』の機能の複雑な組み合わせで構成されていますが、『脳神経細胞のネットワーク』に個性があるために、『感じ方』『考え方』に個性が生じます。他人は自分と同じように感じたり、考えたりしていないという事実を受け容れることが重要です。

くどい話になりましたが、『人間社会』は、『個性のある異質な個人』の集合体であるという『事実』を肯定して考えないと、理解できないと言いたかっただけです。

『ソ連』は破綻しましたが、思想均質を強いる『北朝鮮』や『中国』も、やがて矛盾に耐えきれなくなるのではないでしょうか。『個人の個性』を認めた上で、『社会の均質性』とのバランスを考えるシステムの方が、現実に即していると梅爺は考えます。

日本は、『北朝鮮』や『中国』のような、思想強制がありませんが、日本人の一人一人が、本当に『個性の違い』を認めた社会を築くことの大切さに気付いているかと云えば、そうでもないような気がします。

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2013年8月15日 (木)

ミステリー小説『The Secret Speech』(2)

若いころ『秘密警察』のスパイとして活動した主人公は、やがて志願して、新設された一般警察の『殺人事件担当』に職を変わります。心の中で前行を悔いるところがあったとはいえ、『秘密警察』との関係は全くなくなったわけではありません。

『秘密警察』は、一般警察の『殺人事件担当』を快く思っていないことが、この小説では描かれていて、梅爺は、その理由がようやく分かりました。つまり、『秘密警察』は国家のためという名目で日常的に『殺人』を行っているわけですから、本来それを摘発されたら困ると言う後ろめたさがあるからであると知りました。なんともひどい話です。

やがて主人公は結婚をしますが、子供ができないために、女の子二人(姉妹)を養子にします。この姉妹の両親は、主人公が『秘密警察』時代に、検挙して死に至らしめた過去があり、主人公は、罪滅ぼしの気持ちで遺児(姉妹)を養子にします。

主人公とその妻は、過去を承知の上で、なんとか姉妹の父親、母親になろうと努力をしますが、特に姉は、自分たちの実の両親を死に追いやった主人公を決して許さず、心を閉ざして、時には睡眠中の主人公をナイフで殺そうとさえします。

モスクワを根城にする『無法者グループ』の女親分(元は主人公に検挙された聖職者の妻)は、主人公が養子にしている姉妹の姉を誘拐し、これを取り戻そうとする主人公夫婦に、精神的な拷問を課して、じわじわと『復讐』を遂行しようとします。

『無法者グループ』は身の安全を図るために、陰で『秘密警察』と手を結んだりしますので、話がややこしくなるのですが、ここから、『無法者グループ(女親分)』『このグループに誘拐された後自らの意志でグループに加わった女の子(主人公の養子)』『秘密警察』『主人公夫婦』が、入り乱れて『復讐劇』が進行していきます。

最後は、1956年にブタペスト市民がソ連に対して蜂起した事件が舞台になります。ソ連の『秘密警察』の手先として、ブタペスト市民の中に動向を探るために潜入したソ連の『無法者グループ、女親分、主人公の養子の女の子』は、ソ連を裏切って、蜂起にむしろ参加し、一方養子の女の子を何とか取り戻そうと、ブタペストへ乗り込んだ主人公夫婦も、この戦火に巻き込まれてしまいます。

戦車を繰り出して、征圧しようとするソ連軍と、これに火炎ビンやライフルで応戦するブタペスト市民の壮絶な戦いになりますが、この混乱の中から、主人公と妻は命がけで女の子を救出し、女の子も、ようやく心を開いて、家族としての新生活が開始されるところで物語は終わります。

ミステリー小説としての出来はともあれ、スターリンからフルシチョフへと、ソ連が少し変貌した時代の歴史内情の一部を覗き見ることができると言う意味で、その部分は興味深く読みました。

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2013年8月14日 (水)

ミステリー小説『The Secret Speech』(1)

『このミステリーが凄い!』『2009年ベストセラーNo.1』と広告張り紙がされた小説『Child 44(ペーパーバック版:Tom Rob Smith著)』を、以前書店の洋書コーナーで見つけ読んだ感想を前にブログに書きました。 

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/child-44-8546.html 

スターリン圧政下のソ連を舞台にし、『連続猟奇少年殺人事件』を題材にしたミステリー小説で、梅爺はそれほど秀逸なミステリー小説であるとは思いませんでしたが、ソ連が舞台であることと、スターリンの偏執的とも言える『思想弾圧、粛清』の酷(ひど)さを再認識できたことは、新鮮な体験でした。 

『恐怖政治』の下(もと)では、『裏切り、密告』が横行し、人間社会で一番大切な『絆、信頼』が失われることが悲惨をもたらします。配偶者、兄弟、親子、友人の間で『密告』が行われる状況は、考えただけでも心が暗くなります。人間は切羽つまれば、自分を最優先するものであるとはいえ、『絆』を犠牲にする行為にまつわる話は、悲劇としか言いようがありません。現在の『北朝鮮』なども、秘密警察の『恐怖政治』のもとで、陰湿な『密告』が横行しているのではないでしょうか。 

『Child 44』と同じ作家のミステリー小説『The Secret Speech(秘密の演説)』(英語版ペーパーバック)を今度も書店の洋書コーナーで見つけ、購入して読みました。 

この小説も『Child 44』同様に、旧ソ連を舞台としたミステリー小説です。スターリンの死の3年後、1956年の第20回党大会で、第一書記フルシチョフが、外国からの出席者、傍聴者を会場から締め出した上で、スターリンの行った圧政、拷問、暗殺の一部を暴露し、これが後の『スターリン批判』のさきがけとなった頃の物語です。この小説のタイトル『The Secret Speech』は、この時のフルシチョフの演説を指すもので、この演説が、当時のソ連国内外にもたらした大きな影響を及ぼしました。 

ソ連共産党は、フルシチョフの『演説内容』を、極秘にしようとしましたが、直ぐに漏えいして、スターリン時代に、体制側の『秘密警察』として、政治犯、思想犯などを検挙し、拷問の末に、死に至らしめたり、強制労働収容所へ送ったりしていた人たちが、今度は被害者の関係者によって『復讐』される事件が頻発するようになる状況が、この小説では描かれています。 

スターリンの政策に従って、検挙、拷問、収容所送り、暗殺に加担した『秘密警察』のメンバーも、『心からそれが国家のためと信じていた人』『保身のために従った人』と様々ですが、『国家のためと信じていた人』が突然フルシチョフの演説で『間違いを犯していた』ことを知らされ、良心の呵責に耐えきれず自殺するようなケースも描かれています。 

中世のヨーロッパで行われたカソリックによる『異端尋問』もそうですが、ある信条やイデオロギーだけを教条的に正当化しようとする人間の行為は、必ず悲劇を産みだします。人間の『精神世界』の自由を奪い、無理に型にはめ込もうとすることが、如何に罪深いことかが分かります。

スターリンの時代は、『宗教』も弾圧の対象でした。この小説では、『秘密警察』のスパイとして教会組織へもぐりこみ、聖職者の夫婦を『反政府活動』の罪で強制収容所へ送った男(主人公)と、その後収容所から解放された聖職者の妻が、モスクワを根城とする無法者集団の親玉になり上がって、自分たちを迫害した主人公や国家権力へ『復讐の鬼』となって仕返しをしようとする壮絶な闘いの物語が展開します。

主要な登場人物以外は、簡単に『殺されてしまう』というストーリーは、ハードボイルド以上の非情さで、読んでいて楽しくはありませんでしたが、我慢して最後まで付き合いました。

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2013年8月13日 (火)

『マーケティング』の功罪(8)

『マーケティング』には、従来統計処理や確率計算などの数学的な手法が主に使われてきました。市場から採取されたデータを処理して、動向を推測しようという考え方でした。人間の能力をはるかに超えたコンピュータのデータ記憶機能、処理速度機能が利用できるようになって、『マーケティング』の応用範囲は一気に広がりました。ネットワークを介する『国際金融商品トレーディング』は、今やコンピュータが主役で行われています。人間には『瞬時』と思われる時間幅の中で、『売る』『買う』の判断が行われ、実行されますので、人間の判断だけで『トレーディング』を行っていた時代には、想像もできなかった事態が発生したりして、世界経済の混乱の原因になったりしています。

コンピュータの威力を私たちが身近に体感できるのが、『インターネットでのキーワード検索』です。梅爺もブログを書くのに多用しているありがたい機能ですが、その『カラクリ』を想像しただけで、空恐ろしい気持ちにもなります。『Google』が保有する『検索エンジン』『推論エンジン』を利用して、『梅爺閑話』から梅爺と言う人物像を推定することも可能な時代になっています。スマートフォンで、日本語(音声)で質問すると、日本語の答(音声)が即座に返ってくるというサービスが行われていますが、後方の『認識』『検索』『推論』『表現構造構築(言語)』の『カラクリ』のレベルは、目もくらむものです。『Google』がインターネットを利用して、世界支配しているとも言えますので、中国政府と『Google』の反りが合わないのは当然のことです。

更に最近『マーケティング』の分野で注目されているのが『ニューロ・マーカティング』と呼ばれる人間の脳の機能に着目した手法です。

人間が『買いたい』『欲しい』と思うのは、脳がその様に働いているからですが、これを利用(悪用)して、購買者をその気にさせることができれば、どんなものでも売りつけることができますから、催眠術のような話になります。

『買いたい』『欲しい』は、梅爺流に云えば、『理』より『情』が強く働いた結果であることが、判明しつつあります。しかし、『理』の影響もゼロではありませんから、脳が総合的に働いた結果であって、特定の脳神経細胞が『買いたい』『欲しい』を決めているのではないことも判明しつつあります。

『広告』は、私たちを『買いたい』『欲しい』気持ちにさせる手段として提示されています。『ニューロ・マーケティング』を利用して、今後が更に巧妙に、私たちの潜在意識へ訴える方法が採用されることを覚悟しなけれなりません。それでなくてもへそ曲がりな梅爺は、『俺は騙されんぞ』と一層偏屈になる予感がします。

『ニューロ・マーケティング』の手法は、少しばかりはしたない表現で恐縮ですが、『宗教の布教』にも応用が効きます。『欲しくない人間』を『欲しい人間』に変えるのは、『信じない人間』を『信ずる人間』に変える方法と同じであるからです。

『マーケティングの功罪』を見極めることは、大変微妙で難しいことであるらしいと梅爺は感じています。

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2013年8月12日 (月)

『マーケティング』の功罪(7)

完璧に作られた『ソフトウェア』は、品質の経年変化はありませんが、物理的な素材で作られた『ハードウェア』は、品質の経年変化で、老朽化し、ついには機能できない状態になります。摩耗、材質の劣化などは、避けられないためです。入念な『保守』で、見掛け上故障の発生頻度を低く保ったり、ある部分が壊れても全体としては、致命的な状態にならないように『安全設計』を試みたりして、メーカーは、この宿命的な品質劣化に対応しようとします。このような安全対策を信用して私たちは、飛行機や新幹線を利用しています。

『ハードウェア』には寿命がつきものであることは、私たちもある程度『しかたがない』と認め、寿命が許容できる範囲であれば、受け容れます。しかし、メーカーが、市場の需給バランスを操作する目的で、こっそり『意図的な老朽化』を商品に仕組むとなると、話は変ってきます。

『意図的な老朽化』を業界が結託して行った有名な事例としては、『白熱電球の平均寿命操作』があります。1924年に、世界の有力な照明器具メーカーがジュネーブで会合し、カルテルを結んで『平均寿命を1000時間にする』ことを決めました。これに反したメーカーには罰金を科すという条件も付けられました。当時の技術でも『白熱電球』の寿命は2500時間程度は実現できていましたから、故意に寿命を半分以下に決めたことになります。1000時間にすることで『買い替え需要』は、倍以上になりますからメーカーにとっては都合のよい話です。

梅爺が入社した会社でも、当時『白熱電灯』を製造しており、新入社員の工場見学で、『アイヴァンホー・マシン』という巨大な『白熱電球自動製造装置』の説明を受けました。先輩技術者が『この機械一台で、その気になれば日本の全需要を満たす量の生産ができる。誤差10時間で寿命1000時間を実現している』と誇らしげに説明するのを聞いて、カルテルのことなど知らない梅爺は、『何と技術力の高い会社なのだろう。良い会社に就職できてよかった』と誇らしく感じました。今となればお恥ずかしい話です。

アメリカのGEも『白熱電球』を生産していましたが、『蛍光灯』が出現した時に、議会に働きかけて『蛍光灯』の普及を遅らせました。何とも横暴な話です。消費者には分からないように市場の需給バランスを操作しようとするメーカーや業界組合の政治工作、談合は、今でも後を絶ちません。

従来の『無制限の消費』や『拡大成長』だけに依存する市場のパラダイムが成り立たない時代になってきましたので、『マーケティング』の目的も対応手法も変更を余儀なくされる時代になりました。

『需要が伸びている市場(中国、インド、ブラジル、ベトナムなど)で如何に戦って生き残ろうとするのか』『需要の大幅な伸びは期待できない市場(日本、ヨーロッパなど)でどう生き残るろうとするのか』は、企業にとって同じ戦略ではありません。日本の製造業は、この戦略選択を誤ると、世界でも日本でさえも生き残れないことになります。難局であるが故に、経営者の手腕が問われます。新しいタイプの日本企業が出現することを願っています。

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2013年8月11日 (日)

『マーケティング』の功罪(6)

『コモデティ商品』を製造・販売する企業にとっては、顧客は『一般大衆(消費者)』となりますので、舞台裏では、想像以上の涙ぐましい『マーケティング』努力がなされています。

『コンビニエンス・ストア』では、本部からの指令で、時間別に、陳列商品の種類を変えたり、陳列場所を変更したり(売れ筋商品を目に止まり易い場所へ配置)と、きめ細かい配慮が行われたりします。時間帯や曜日、それにその日の天候でも売れ筋商品は変ってくるからです。

『コンビニエンス・ストア』では、『POS(Point of Sales)タームミナル』と呼ばれるキャッシュ・レジスターで、売上に関する細かい情報が吸い上げられ、本部に送信されます。本部は、これを集計・分析して、『時間帯』『曜日』『地域』『天候』などがどのように売り上げに影響しているかを分析し、指令内容を決定して店舗へフィードバックします。『POSターミナル』の客側へ向けられた画面には、効果的と考えられる『広告』が映し出されます。製造拠点や中間商品倉庫から、末端の店舗までの商品供給配送も、最も効率のよい『ルート設定』『トラック配車』がコンピュータで割り出されます。ネット購入した商品を、購入者が最寄りの店舗で受け取るシステムにも、この配送網が利用されます。更に、預金の預け入れ、引き出し、支払い振替といった金融サービスまでも可能になっています。まさしく店舗が『ワンストップ・サービス(一か所で全てのサーブすが行われる)』の拠点になりつつあることが分かります。今後は地方行政のサービス代行までも大幅に取り込まれるのではないでしょうか。情報社会が可能にした『マーケティング』とその応用の例で、日本は世界の最先端を走っています。

勿論、本部は、常に『差別化商品』の開発にも余念がありません。最近では『お惣菜』までもスマートなパッケージ商品として売られていますので、『スーパーマーケット』や個人商店にとっては、思いもかけない『敵』が出現したことになります。人口が少ない過疎地まで、『コンビニエンス・ストア』の移動店舗(トラック)が巡回販売を行うような時代になっていますから、零細な個人商店が立ち向かうのは、よほど特徴が無い限り益々困難になってきました。

このような内容を知って、私たちは、『そこまでやっておられるのですね。ごくろうさん』といって済ますことができますが、『マーケティング』分析を利用して、故意に寿命の短い商品を売ったり(買い替え需要を期待して)、消費者の脳をコントロールして『買う気にさせる』というような操作が行われるとなると話は変ってきます。

照明器具メーカーが、『国際カルテル』で、『白熱電球』の寿命を、故意に1000時間に設定して、買い替え需要を見込んだ例は有名ですし、『ニューロ・マーケティング』と称する、脳精神医学を利用した『購買意識喚起』の研究がおこなわれていますので、私たちが注意を払わなければならないのは『オレオレ詐欺』だけではない時代になっています。

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2013年8月10日 (土)

『マーケティング』の功罪(5)

『コモデティ商品』市場は、参入障壁が低く、競争が激しいために、この領域で生き残ることは容易ではありません。このような市場を『Red Ocean(紅い海)』と呼びます。血みどろの戦いが繰り広げられ、海は紅く血で染まると言う意味が込められています。

一方、悠々と独占状態を享受できる市場を『Blue Ocean(青い海)』と対称的に呼びます。企業にとっては『Blue Ocean』が好ましいのは説明を要しません。技術や特許で『障壁』を築き、他社の真似できない商品で『独り勝ち』することが理想です。

しかし、自社の活動環境を『Blue Ocean』にすると言うことは、誰にでもできる話ではありません。他社がまねできないアイデアや技術で、しかも消費者から歓迎される商品を考え出すということは、易しくはないからです。

仮に『Blue Ocean』を実現できたとしても、いつまでもその状態を享受できるとは限りません。 他社も、あの手この手で障壁を崩して、参入を試みてくるからです。とどのつまり、環境が『Red Ocean』になってしまいます。経営コンサルタントは、『最初はBlue Oceanで独占を享受し、Red Oceanになったら、さっさと撤退しなさい』と助言しますが、それは一般論であって、実践は極めて難しい話です。

そこで、多くの企業は、やむなく『Red Ocean』に身を置きながら、なんとか他社とは異なった特徴を持つ商品を提供し、消費者の関心をひこうとします。『マーケティング』の世界では、これを『差別化戦術』と呼びます。『吸引力が長時間持続する掃除機』などが典型的な例です。『差別化』はしたものの、一向に消費者の共感は得られずに、独り善がりで終わってしまう商品も数多くあります。

『マーケティング』では、消費者や顧客が『何を望んでいるのか』を『リサーチ(調査)』すること重要になります。ところが、厄介なことに、消費者や顧客は自分が何を望んでいるのかを、正確に表現するとは限りません。優秀なセールスマンは、売りつけるのがうまいばかりではなく、顧客との会話の中で、潜在要求の本質を嗅ぎ分け、それを自社商品にフィードバックする能力を持っています。大企業の社長は、社長室でふんぞり返っているだけでは、市場の本質を感知はできません。優秀な経営者は、社内、社外を問わず前線まで出向き、多くの人の言葉に耳を傾け、本質を会得できる能力の持ち主です。

梅爺は現役の頃、商品企画に携わっていましたが、上司から『ちょっとだけ良いものを、ちょっとだけ安く、ちょっとだけ早く市場に投入せよ』とはっぱをかけられました。当時は『理想的な商品を生みだそうなどと悩むな』という励ましの意味に受け取りましたが、今になって考えてみると、顧客の購買動機は単純なものだと、上からの目線で決めつけていることに、少々違和感を覚えます。

梅爺の仕事は、企業向け情報システムの販売でしたので、『商品企画』と『販売技術支援』の機能を同時に満たす組織にしました。『販売技術支援』の立場で、常に顧客のところへ足を運び、日常の会話の中から、次に商品が備えるべき機能の優先度を考え決定するのにそれが適していたからです。『会社の中で会議をいくら繰り返しても優れたアイデアは出て来ない』と肌身で感じていました。

『マーケティング』の理論は、教科書から学べますが、実践は教科書通りにはいかないと今でも考えています。

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2013年8月 9日 (金)

『マーケティング』の功罪(4)

世界市場における『コモデティ商品』の主導権が、日本から韓国へ、そして韓国から中国へと移るかもしれないと言う話は、当事国にとっては深刻な問題ですが、世界の実質経済の担い手が、日本、韓国、中国、台湾、シンガポール、ベトナムであることは、アメリカやヨーロッパからは、『本格的なアジアの時代の到来』と脅威に観えているに違いありません。彼らにとっては、『日本対韓国』の争いなどは、どうでもよい話で、『アジアに経済世界の主導権を握られてしまう』ことが問題であるからです。 

多くの『コーカソイド(白人種)』は、『モンゴロイド(黄色人種)』『ネグロイド(黒人種)』より、自分たちが総合的に優れていると、根拠もなく信じて『優越感』を保持してきました。オリンピックのサッカーでスペインが日本に敗れれば、『本当は強いはずのスペインが、本当は弱いはずの日本に、何かの間違いで負けた』と思い大騒ぎになります。確かに、中世以降、世界の歴史は西欧中心であったとも言えますし、日本も明治維新以降、西欧に『追いつけ、追い越せ』と努力をしてきましたから、裏返しの『劣等意識』が無いわけではありません。サッカーの勝利を『奇跡』と表現した日本のメディアも『劣等意識』に毒されているように見えます。あの試合だけを冷静に観れば、日本の戦術、技量が優っていました。『奇跡』などと言われるのは、選手や関係者にとっては、さぞや不本意なことでしょう。

梅爺も最初に仕事で欧米へ出張した時は、『バカにされてなるものか』と、必要以上につっぱたり、構えたりして、周囲の日本人からは、『あんたは、西欧人を意識し過ぎる』とたしなめられたりしました。その後、色々な体験をしながら、どこの国にも『優秀な人』『普通の人』『ダメな人』がいることを知るようになりました。人種による『能力差』が全くないと断言はできませんが、生まれつきの能力より、生活、文化環境の違いが後天的に作り出された能力の方が、違いの要因になっているらしいと気付きました。

経済的に『アジアの時代』が到来することは、西欧人にとっては『面白くない』ことかもしれませんが、本当に『アジアの時代』が来るかどうかは、まだ分かりません。『コモデティ商品』は、大量生産、大量消費という、従来のパラダイムが継続すると言う前提で、優位さを生みますが、もし、そのパラダイムが変われば、話は違ってくるからです。そして現に、『コモデティ商品』に象徴される大量生産、大量消費のパラダイムは、変わりつつあります。

日本は、自分の力で、新しいパラダイムの中での生き方を見つけなければいけません。なぜならば、もはやこれぞという『追いつき、追い越す』モデルが、世界のどこにも見当たらないからです。ブータンのような『幸福国家』 や、北欧のような『福祉国家』もある面では魅力的ですが、そっくり真似するのが適切とは思えません。他社が真似できないアイデアや技術を有する多数の中小規模の企業が主体で日本経済が成り立つようにすべきではないでしょうか。大企業が、大量生産、大量消費の『コモデティ商品』を、作りまくり、世界へ売りまくるという時代へ戻そうとしても無理があります。農業や漁業も零細な一次産業から脱皮して、技術や情報を駆使した産業へ変身すべきでしょう。要するに、日本で生産し、日本で消費することで、多くの関係者が『まあまあ生きていける』経済基盤に変える必要があるように思います。日本人が『贅沢に生きる』のではなく『まあまあ生きていける』ことを選択できるかどうかが鍵です。

日本の経済対応方式が、世界からも魅力的であると評価され、ノウハウを輸出して世界に貢献できれば、それに越したことはありません。世界の中で孤立しないように関税の障壁を低くしなければならないこともあるでしょうが、外国から安価な『コモデティ商品』が日本へ押し寄せてきて、日本の生産業者が壊滅するという事態をあまり恐れることはないのではないでしょうか。オレンジが自由化された時に『ミカン農家が壊滅する』、米(こめ)がひっ迫し、外米を緊急輸入した時に『日本の米農家が壊滅する』と大騒ぎをしましたが、日本人は、正月にはこたつでミカンを食べ、少し高価でも美味しい日本の米を食べることを選びました。日本の消費者の多くは『安ければ買う』というだけの動機で行動していません。きめ細かい消費者の嗜好に合わせた商品を日本で生産し、日本の消費だけでも最小限経営継続できる経済基盤を模索すべきであると経済音痴な梅爺は考えています。

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2013年8月 8日 (木)

『マーケティング』の功罪(3)

『マーケティング』の成果を、市場での熾烈な競争を回避する目的で応用しようとすることもあります。ある商品が売れると分かると、沢山の企業がその市場に参入し、やがて供給が需要を上回り、価格は下落して企業は利益を得られなくなります。このような商品は『コモデティ(類似品がいくらでも手に入るありふれた)商品』と呼ばれることになります。

『コモデティ商品』市場からは、早々に撤退するのも企業方針の一つですが、逆に最後まで頑張り続け、ライバル各社が撤退した後に、市場を独占するという方針もあり得ます。梅爺が勤務していた会社は、半導体が主流になって真空管が売れなくなった時も、真空管から完全撤退はせずに、特殊な真空管を作り続け、その分野で世界のマーケットシェアの上位を確保しました。デジタルカメラの普及や、DVD、CDの普及で、『フィルム』や『レコード針』の需要は激減しましたが、一部愛好家のために、独占的にこれを供給する企業が細々と生き残ったりします。しかし、この『ニッチ(くぼみ)市場戦略』には、成長や明るい将来展望はありません。

早々に撤退した例としては、IBMのパーソナル・コンピュータなどが有名です。企業の情報通信システムのハードウェア、ソフトウェアをパッケージにして供給するIBMが、主流端末である『IBMPC』を手放すことに、当時は梅爺も驚きましたが、厳密な分析で『コモデティ商品』からの撤退を決断したのでしょう。IBMは中国の会社に、利権を売り渡しました。

梅爺の勤務していた会社も、『LED照明』に特化し『白熱電球』市場から撤退する方針を早々に発表しました。この撤退を、『エネルギー節減に真剣に取り組む企業』のイメージ高揚の宣伝材料にしています。勿論それもありますが、したたかな分析で、撤退の方が総合的に企業を利するとの考えなのでしょう。企業の決断の裏側には、必ず何がしかの『損得勘定』が存在します。そしてそれは、得てして『善悪判別』よりも優先されることになり、社会の糾弾の的になったりします。企業経営者の『器量』が、この『損得勘定』と『善悪判定』との舵取りに大きく関ります。

経済成長期には、日本の製造メーカーは、品質、低価格を売り物に、『コモデティ商品』で世界の市場を席巻してきました。しかし、今同じ戦略を韓国のメーカーが追従踏襲し、日本のメーカーは、『消耗戦』に耐えきれなくなりつつあります。自動車、電子機器、半導体など日本の花型商品であった分野の主導権が韓国へ移りつつあります。日本は、『弱い敵』を席巻してきましたが、韓国は最初から『強い敵(日本)』の存在を承知で、したたかに挑戦したことが大きな違いです。

日本企業の復活は、『過去の良き時代を取り戻す』ことではなく、『新しい市場で、有利な地位を新規に作り出すこと』です。老人の梅爺は既にお役には立ちませんが、日本の若い人たちが、新しい世界を切り開いてくれるものと信じています。当面の対応も重要ですが、最後は『人材による勝負』ですから、人材を確保する、人材を育成するための投資も怠らないようにと願っています。

『コモデティ商品』市場で、有利な立場を勝ち得た韓国は安泰かというとそうでもありません。今度はどこかの国が韓国を脅かすようになるかもしれないからです。『コモデティ商品』で世界市場を席捲するためには、企業の技術力、販売力などの総合力が必要になります。そう考えると韓国を脅かす他国は、当面そう沢山はあるようには思えません。中国がその潜在能力を最も秘めているように梅爺は感じます。

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2013年8月 7日 (水)

『マーケティング』の功罪(2)

企業は、効率的な経営で、利益を増やすために『マーケティング』を実施します。しかし、『利益を増やすために選択する手段』が、道義的に許されるものかどうかが、多くの場合問題になります。『利益』だけに眼がくらみ、道義をおろそかにする経営者は、残念ながらいつの時代にも出現します。

そのような経営者を『悪徳経営者』と呼んで片付けたくなりますが、問題の本質はそれほど簡単ではありません。企業の経営は『生き残り』を賭けた熾烈な競争であり、この競争に敗れれば、経営者自身はもとより、従業員やその家族も路頭に迷うことになります。経営者は道義的でないことが分かっていても、生き残れると思えば、誘惑に屈することがあるからです。梅爺は『悪徳経営者』を擁護するつもりはありませんが、生物が『生き残り』を最優先する本能で行動するように、人間も、経営者も基本的には同じ習性を有していることが、問題の根底にあると考えています。つまり誰でも『悪徳経営者』になってしまうかもしれない際どい習性を抱えているような気がします。

生きるか死ぬかの切羽詰まった状況に追い込まれた時でも、道義を優先して振舞えると言える自信が梅爺にはありません。『平穏無事』の中に身を置いて『道義』や『戦争反対』を唱えることは誰にでもできます。しかしそれでも、いざという時でも自分は道義を優先する理性を持ち続けたいと『願って』います。

『マーケティング』の手法そのものや、それから導き出された結果を具現化する方法が、道義的に許されるものかどうかを見極める必要があります。

市場の一般的な特性を分析する程度であれば、問題は希薄ですが、特定の個人の特性を分析対象にすることになると、微妙な問題が発生します。

梅爺のところには、『amazon』から、『この本にご興味がありませんか』というような宣伝メールが届きます。明らかに、梅爺が今までにネット購入した本の特性を分析して、梅爺の『好み』をコンピュータが自動的に割り出し、メールを自動発信しているに違いありません。

これは『親切』なのか『おせっかい』なのかは、微妙な話になります。『amazon』にとっては、やみくもに本の宣伝をするよりも、消費者個人の嗜好に合わせて、購入を促した方が、成功確率が高いことは間違いありません。

今や『マーケティング』は、市場をいっしょくたに扱うのではなく、消費者を個人レベルで狙い撃ちする時代になりつつあります。梅爺が駅の構内を歩いていると、梅爺の眼の前の電子看板の内容が、梅爺の興味に合わせた商品紹介に変るというような時代が来ようとしています。梅爺の居場所を監視し、梅爺の嗜好が分かっていれば、それほど難しい話ではないからです。しかしそれが『親切』なのか『おせっかい』なのかは別の問題です。

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2013年8月 6日 (火)

『マーケティング』の功罪(1)

一般に企業は『PO(Profitable Organization):利益優先組織』でなければ存続できません。一方企業は、社会の一員でもありますので、『反社会的』な行動は許されません。個人が『生きる』ために衣食住の最小限の条件を満たす必要があるものの、『反社会的』なことまでをしてそれを満たすことが許されないのと同じことです。

しかし、これは論理的な表現であって、『存続する』『生きる』ために、どこまでが許される行為で、どこからが許されない行為であるかを万人が認める基準で律することができません。梅爺が自分では質素に生きていると思っている内容が他人から観れば、贅沢で許せない行為に見えるかもしれません。

企業は、市場で有利に振舞うために、『マーケティング(市場分析)』で戦略を練ります。もともと『マーケティング手法』は、国家が他国の情勢を各種の情報分析を行って洞察する活動に用いていた手法を応用したものです。

一見無関係に見える膨大な情報を、統計処理などして、内在する『相関関係』や『動向』を見出そうとします。各国は膨大な国家予算を使って、『他国』『自国』の情報を分析し、外交、内政の戦略の基盤にしています。現在は、放送、出版、インターネットなど、豊富な『情報入手手段』があり、人手を介さないス-パーコンピューターなどによる高度な分析も可能になっています。中国では、インターネット情報を監視し、分析する専門の人間が数万人国家のために働いていると言われています。日本は、先進国の中では比較的この『国家による情報分析』に能天気な国ではないでしょうか。

独裁国家などでは、自国民の情報監視は、『秘密警察』維持のための基盤になります。アメリカは独裁国家ではありませんが、政府の国民監視が『プライバシーの侵害』であるという議論が後を絶ちません。勿論政府は『9.11テロ』のような事例をあげて、『国民の安全を確保する』ために必要であると反論し、譲ろうとしません。日本政府が少々能天気であることは、日本国民には幸せなことなのかどうかは判断が難しいような気がします。

しかし、『梅爺閑話』をキーワードにしてGoogleで検索すれば、瞬時に沢山の情報が得られることからも分かるように、Googleがその気になれば、『梅爺のプロファイル』『梅爺の思想動向』『梅爺の行動予測』までも分析できるはずです。Googleにとって、『梅爺』を分析することは、興味の対象でないだけで、『その気になれば可能』の潜在力を保有していることになります。

犯罪が起きると、直ぐに隠しカメラのとらえた映像が公開されることからも分かるように、日本のような情報分析に比較的能天気な国とはいえ、私たちは既に情報化社会で、常時『監視下』に置かれていることが分かります。

このような分析手法が、企業の『マーケティング』に応用されれば、功罪双方が発生するであろうことは容易に想像できます。

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2013年8月 5日 (月)

A picture is worth a thousand words.

英語の諺『A picture is worth a thousand words』の話です。 

直訳すると『一枚の絵(写真)は、千の単語(を費やした文章表現)に匹敵する』になりますが、ここで『a thousand』は、厳密な数を表現するのではなく、『数え切れないほどの、無数の』という誇張ですから、意訳すると『一枚の絵の全貌は、いくら言葉を費やしても語りつくせない』ということになります。 

この諺は、『言葉には限界がある』ことを示唆していますが、一方私たちは、『言葉は私たちを啓発し、想像力や創造力を喚起する秘めたる力がある』とも教えられ、それを実感します。 

『人類がどのようにして言語能力を獲得したのか』『言語の根底に何故論理構造(文法)が組み込まれているのか』などは、仮説は種々ありますが、完全に科学的な説明ができていません。 

人間以外の生物も、仲間内で『コミュニケートする(情報を交換し合う)』能力は保有しています。しかし、人間の『言葉を使う』能力は、『コミュニケートする』能力の一つとはいえ、他の手段に比べて頭抜けています。 

『人間の言葉』は『人間の脳の機能』と密接に関係していることは明白ですので、『人間の脳の機能』が解明されない限り、『言葉の謎』も解明は難しいことになります。 

感覚器官(五感)を利用して、人間は瞬間瞬間に膨大な情報量を脳に取り込み続けていますが、それらを全て処理し、記憶しているわけではありません。脳といえども処理能力に限界があるためです。 

取り込んだ情報の中から『生きるために必要なもの』を、ほぼ瞬時に判別し、それらは処理の対象になり、認知され、一部は記憶されます。このプロセスには『意識的に行われるもの』と『無意識に行われるもの』があるように見えますが、詳細のカラクリは分かっていません。 

『一枚の絵』から感覚器官が取得する情報量は膨大であり、その全てを、有限な要素で構成される『言語(記号の組み合わせ)』で表現し直すことはできないのは当然のように思えますが、現代科学は、『画像』や『音源』といった本来膨大なアナログ情報を、ある程度の量のデジタル情報に近似置換することに成功していますので、『一枚の絵』はある程度情報量の記号情報に圧縮はできても、そこで用いられる記号情報は、人間の言語の記号情報とは異なった様式であるらしいことが分かります。言い換えると『言葉』が『デジタル情報』の一種ではありますが、『デジタル情報』の全ての資質を保有しておらず、ある種の制約があるらしいと推測ができます。 

『A pivture is worth a thousand words』という短い諺から、梅爺の『脳』や『言語』への好奇心は、限りなく喚起されます。このことからは『言葉』は無限の力を秘めているといえますから、なんとも『言語』と『脳』の関係は謎めいています。

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2013年8月 4日 (日)

UFOに誘拐された人たち(4)

『記憶』を利用して思い浮かべたことが、『実体験』か『疑似体験』かのどちらであるかを、私たちはどのように判別しているのでしょう?

睡眠中に観る『夢』にも『記憶』が関与していることは明らかであると思いますが、『夢』に現れた『景色』が、昔『実体験』で観たことがある『景色』なのかどうか、梅爺は判然としないことがよくあります。

『夢』は『精神世界』の事象ですが、そのカラクリは解明されてはいません。無意識の『不安』『恐怖』などが関与した場合は『悪夢』になり、『快楽』『愉快』が関与した場合は『楽しい夢』になるのでしょうから、『夢』にも『扁桃体』が関っているらしいと推測できます。梅爺は、『嫌な夢』を観る比率が高いように思いますので、無意識の『不安』『恐怖』を沢山抱え込んでいるのかもしれません。これは、自分ではコントロールできないわけですから、観念して受け容れるほかありません。

『脳』が『記憶』を利用するカラクリも詳細には解明されていません。というより、『記憶』そのもののカラクリさえも解明されていません。『扁桃体』が『記憶』の強さの程度を決めるカラクリにも関与しているらしいと推察されています。強い『不安』『恐怖』『快楽』を経験した時の『記憶』は後々鮮明ですから、妥当な推察であると思います。

『記憶』は『前頭前皮質』という部分に蓄えられていて、利用する時には一度『前部帯状回』という所へ移動し、そこで『実体験記憶』か『疑似体験記憶』か判別されて最終的に本人が『思い出した』と認識するのではないかと、現状では推測されています。『脳』の『記憶』は、コンピュータの『記憶』とは必ずしも同じではなく、『パターン』で蓄積されていると考えられています。脳神経細胞の一つが、ある『記憶』に対応しているのではなく、複数の脳神経細胞が関与して『記憶』が構成されているという推測です。

『ハッキリ眼がさめている状態』では、『前部帯状回』は、判別を誤る確率は低いのですが、『睡眠中』や『催眠術にかけられている時』は、判別が曖昧になり、『疑似体験』を『実体験』と勘違いすることになると考えられています。

『前部帯状回』が正常に機能していない時は、人間は『幻覚』を観て、本人はそれが『幻覚』であると意識できませんから、『本当に観た(体験した)』と主張することになります。

『脳』が病気に犯された時も、同様の事態が起こりますので、『幻覚』を口にすることになります。

『UFOに誘拐された』という主張が『幻覚』であるかどうかは別にしても、私たちは誰もが『幻覚』を観る可能性があることが分かります。

解明されていない謎に満ちた『脳』を保有し、『精神世界』の事象に一喜一憂している私たちですが、自分自身を観察対象にすれば、これほど面白い『謎解き』の世界はありません。『脳』に関する『定説』が固まるまでは、誰もが『素人脳科学者』になれるわけですから、当分梅爺の『勝手な推理』は終わりそうにありません。

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2013年8月 3日 (土)

UFOに誘拐された人たち(3)

『科学』は、『精神世界』を『物質世界』同様に解明しようと努力が続けています。『脳科学』がその中心ですが、『物質世界』ほどに解明されているとは言えません。物理的にみれば『脳』そのものは『物質世界』に属しますが、『生命活動に関与している時(脳の所有者が生きている時)』にのみ『精神世界』を創り出す拠点になります。

きわめておぞましい言い方で恐縮ですが、人間は生きている時のみ『精神世界』を保有し、死とともに、肉体や脳は単に『物質世界』に属する『モノ』になるのではないでしょうか。電源が供給されないコンピュータはただの『モノ』であることと類似しています。逆にいえば、『精神世界』を享受できるのは『生きている人間』の特権ですから、『生きている(生かされている)』ことに感謝し、少しでも有効に活用する努力を惜しむべきではありません。

『人間は死んでも霊だけは永遠に存続する』などと『精神世界』が作りだした『願望』が、さも『真実』のように語り継がれ、多くの人が『信じて』いますが、所詮『願う』『信ずる』は、『精神世界』の行為であり、『物質世界』は非情なことに、それを証明する『摂理』を提供しているようには思えません。

『精神世界』を創り出すことに、基本的に関与している『脳』の部分は『扁桃体』であることが、脳科学の研究で分かっています。感覚器官が取得した情報や、『脳』が創り出す間接的な情報(心配事など)が『扁桃体』で最初の判断の対象になります。多分、この判断の基準は、『自分にとって都合が良いか悪いか』といった単純なものであろうと推測できます。『扁桃体』の機能は、生物進化の過程で『生き残りの確率を高める』ために獲得したものと推定できますが、詳細なカラクリは分かっていません。

『扁桃体』が『都合が悪い』と判断した場合、『ストレスホルモン』が分泌され、私たちは『不安』『恐怖』を感じます。一方『都合が良い』と判断した場合は『快楽ホルモン(ドーバミンなど)』が分泌され、『快楽』『愉快』を感じます。

『扁桃体』の判断レベルには限度があり、限度以上の強い刺激が加わると、一瞬機能が停止してしまい、私たちは『頭の中が真っ白になった』と感じ、肉体的な運動機能も停止(硬直)してしまうのではないでしょうか。

『UFOに誘拐された』と主張する人達は、肉体的には運動機能が硬直している(金縛りになっている)ものの、『脳』の情報処理機能は完全に停止していないために、実際に観ていないものを観ていると勘違い(幻覚を観る)しているのであろうと、脳科学者は考えています。

『幻覚』を創り出す要因は、過去の『記憶』であり、この『記憶』には、『実体験記憶』だけでなく『疑似体験記憶(テレビ・映画で観た、本で読んだ、他人から聞いたなど)』も含まれているために、『UFO』『宇宙人』が登場するのであろうという推測になります。

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2013年8月 2日 (金)

UFOに誘拐された人たち(2)

UFOに誘拐された人たちの多くが『眼が覚めたら金縛り状態であった』と主張していることに脳科学者は注目しています。『金縛り』は、現代のアメリカだけではなく、世界中のどこでも多くの人たちが昔から『体験』してきたことであるからです。 

梅爺は、幸いにして『金縛り』を体験した記憶はありませんが、『驚愕』で一瞬身体が硬直したように感じたことはあります。人間は、極度の『不安』『恐怖』『驚愕』で、『頭の中が真っ白になり』、身体が思うように動かなくなってしまうようにできていることが分かります。『脳』のこのような反応の極端な例が『金縛り』なのではないでしょうか。 

運動選手が、大試合の前に『緊張』してしまって、いつもの実力が出せないことがあるために、メンタル・トレーニングで『平常心』を保つことを心がけたりします。『平常心』は、起きる可能性がある事態を『想定内』として待ち受けることで、『脳』に突然のショックを与えないようにすることでもあります。禅の修行では、雑念(外部からの情報)を全て排除し、『心を平静に保つ』訓練をします。こう考えてみると、宗教が求める『心の安らぎ』も、『平常心』の延長にあるものであろうと推定できます。  

どんな時でも『平常心』を保てる人は、既に宗教の奥義(おうぎ)を会得(えとく)した人か、宗教などを必要としない人ということになります。逆に云えば、普通の人間は『平常心が保てない』故に、生きることに四苦八苦していることになります。『金縛り』は、ある条件で誰にでも起きる可能性があるのではないでしょうか。  

しかし『平常心』を乱す『脳』の働きを恨んだりするのは、罰あたりです。何故なら、周囲の状況が『平常ではない』ことを察知して、逃げたり、安全策を講じたりできるように、この機能が『本能』として備わっているからです。つまり、生物が生き残りの可能性を高めるために、脳の中に獲得、継承してきた機能なのです。 

『不安』『危険』『恐怖』を察知できないと生きていけないために獲得した機能が、今度は『平常心を乱す要因』となって、人間を困らせているという皮肉な話です。『飢餓』に備える機能を身体に備えて、継承してきた『人間』が、今度は『飽食』に起因する病気に悩まされているというのと同じような皮肉です。 

更に人間の『精神世界』が厄介なのは、『不安』や『恐怖』は、現在の周囲の状況からもたらされるばかりではなく、『推論能力』で将来の状況を自ら推測して、『自分は永くは生きられない』『試験に不合格になるかもしれない』などと『脳』が『不安』や『恐怖』を創り出すことにあります。『脳』は、まるで『マッチポンプ』のように、『平常心』を乱す要因を、自ら創り出しているわけです。 

『物質世界』の一員として肉体や脳を獲得してきた『人間』が、『精神世界』も獲得し、その『精神世界』が、ある状況において、生きる悩みの種を創り出していることになります。とにかく『人間』は、誰もがそのようにできていると認めて直視しないと、『人間』や『自分』の本当の姿は見えてこないのではないでしょうか。

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2013年8月 1日 (木)

UFOに誘拐された人たち(1)

アメリカには、『UFOに誘拐されたことがある』と主張する人が累計370万人もいると聞いて、梅爺は驚きました。誘拐されただけなら『行方不明』のはずですが、『主張している』ということは、その時点では『地球に帰還している』ことになります。『気が付いたらUFOの中にいて、気が付いたら再び地球の元の生活に戻っていた』ということなのでしょうか。

これらの全てが『幻覚』と断ずることはできないにしても、ほとんどは『幻覚』であろうと推測したくなります。なぜならば、『宇宙人』『UFO』が登場する映画や小説が存在しなかった時代には、そのような主張の例はなかったからです。

人間の『脳』には、『実体験』の他に、テレビや映画で観た、書物や雑誌で読んだ、他人から聞いた『話』も、『疑似体験』として『記憶』され、『記憶』を再利用する(思い出す)時に、『実体験』と『疑似体験』の判別がつかなくなる曖昧な事態が生ずることがあるのではないでしょうか。

『UFOに誘拐された』という証言の大半は、『眠っていて眼が覚めたら、身体が金縛り状態でUFOの中にいた』というものであるということです。再び、気がついたら地球のものと生活に戻っていたということになりますが、それにしても『UFOの内部の様子』や『宇宙人の容姿』などについて、鮮明に覚えていることが共通の特徴です。

『眠りが関与している』『都合よくもとの地球の生活へ戻っている』などを考えると、これは『夢』に類似した『幻覚』ではないかと、脳科学者は考えているようです。

脳の『実体験』『疑似体験』が、この種の『幻覚』に関与している証拠は、人間の『幻覚』は、国や文化で異なっていることから分かります。中世のヨーロッパでは『魔女や悪魔との遭遇』、昔の日本では『幽霊との遭遇』、そして現代アメリカでは『宇宙人との遭遇』ということになります。

人間の『精神世界』は、『遭遇したと思う』から『遭遇したに違いない』へ、更に『間違いなく遭遇した』と確信度が変わるようにできています。『UFO』以外でも、私たちは『神は存在すると思う』『神は存在するに違いない』『神は間違いなく存在する』と確信を深めますし、『あいつは悪い奴だと思う』『悪い奴に違いない』『全く悪い奴だ』というような論理を無意識に使ったりします。この習性を悪用して、他人を『洗脳』しようという人間も後を絶ちません。特に『大人』が『子供』に接する時には、『教示』と『洗脳』が紙一重である危険性を、『大人』の方がが自覚している必要があります。

精神的な病では、『幻覚』『幻聴』が伴うものがあるといわれていますので、『脳』の機能が関与していることは間違いが無いといえるでしょう。『夢』と『幻覚』も、脳の事象としては判別が難しいように思いますし、『脳』の機能が正常なのか異常なのかを判別することも難しいように思います。つまり『正常な脳』とは何かを定義することは難しいことが分かります。

眠りが浅い時に、私たちは『夢』を観ますので、この時の『脳』の状態が解明できれば、『幻覚』の正体を突き止める手掛かりが得られるかもしれません。

『脳』に関して多くのことが分かってきたとは言え、まだまだ分からないことが多いことを知って戸惑います。言い換えれば、『自分で自分のことが分かっていない』ということになるからです。

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