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2013年4月30日 (火)

梅原猛100年インタビュー(4)

明治維新以来、日本は西欧の文明やその価値観を『正しい路線』と鵜呑みにして突っ走ってきた弊害が顕著になりつつあるという論法が昨今多いように感じます。

この番組で、梅原氏は、従来享受してきた西欧文明のメリットもある程度認めた上で、今こそ、日本は文明の基盤に関する考え方を転換すべきであると述べられました。

人間が生きていくためには、肉体的な安泰と、精神的な安泰の両方を必要とします。『衣食足りて礼節を知る』と言われるように、最低限の肉体的な安泰が保証されることが絶対条件になります。しかし、精神的な安泰が得られないと、人は絶望感にさいなまれ、生きる意欲を失います。

『物質世界』の摂理に支配される肉体を持つ人間が、『精神世界』を保有し、この『精神世界』が『生きる』ことに大きくかかわっているという関係を正しく理解することが必要です。『物質世界』と『精神世界』を関連付けて俯瞰しないと、『人は何故精神的安泰を必要とするのか』の真の理由が見えてこないのではないかと梅爺は推測しています。

東日本大震災の被害者を勇気づけようと、スポーツ選手や音楽家が行動を起こしていますが、これらは『精神世界』の支援として意義があります。スポーツを観ることや音楽を聴くことには、肉体的な安泰をもたらす効力がありませんが、精神面で人を癒す力があります。

西欧文明を受けいれる以前の日本には、日本独自の『死生観』『自然観』があり、実はこちらの方が文明の基盤としては『優れている』のではないかという、主張も増えています。西欧文明を『悪者』にして、日本の精神文化の優位性を主張したくなる気持ちは、梅爺にもありますが、それはほどほどにすべきであろうと考えています。

西欧文明が、効率や利便性を優先しているとすれば、それは相対的に肉体的な安泰を優先しているとは言えますが、西欧文明にも精神的な安泰を重視する考え方が皆無ではありません。一方、日本の精神文化は、肉体的な安泰は、ある歯止めをかけてまでも精神的な安泰を重視するということであれば、いずれにしても『バランス』のレベルに相違がだけであるということになります。世界には『仏教』をベースに精神的安泰を最重視する『ブータン』のような国家が既に存在しています。

東日本大震災を体験して、日本が、新しい『バランス』を志向する国家に変っていくことに梅爺は異論がありませんし期待もしています。

しかし、新しい『バランス』に関する合意が形成されるには、国民が他人の意見ではなく自分の考えを持つ必要があります。日本国民の『民意のレベル』が問われます。

『アベノミクス』で、見掛け上の景気が回復した途端に、またぞろ効率や利便性一辺倒へ逆戻りし、『経済大国日本の復権』だけに邁進するのであれば、東日本大震災の教訓は色あせてしまいます。

昔の日本の精神文化を再認識することは重要なことですが、現実的に私たちの生活環境を『昔へ戻す』ことはできません。

梅原氏は、日本人の『死生観』『自然観』を『草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)』という『天台密宗』の教えを用いて表現されました。

この教えを、今後日本が新しい『バランス』を見出すために重視すべきであるという主張には異論がありませんが、西欧文明より日本の精神文化の方が『優れている』という文明の単純な優劣論に供するのであれば、梅爺は賛成しかねます。

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2013年4月29日 (月)

梅原猛100年インタビュー(3)

梅原氏は、デカルトの『我思う、故に我あり』という思想が、西洋思想、西洋文明の基盤であり、この『理性的な我(自分)』が『自然の摂理を知り、それを利用する(支配する)ことを善として肯定する』結果に進展したために、『原発事故』の悲劇を招来したと因果関係を説明されました。

梅爺は、デカルトの肩を持つわけではありませんが、この論理には飛躍があり過ぎるように思います。

人間が『自然の摂理を究明する』『自然の摂理を利用した便利さを追求する』ことに限りなく情熱を傾けるのは、『生物として生き残りを優先し、安泰を希求する』という『本能』を遺伝子の中に継承しているからではないでしょうか。この『本能』は、人類の出現以来脈々と継承されてきたもので、『科学』体系として古代ギリシャで花咲いたとは言えますが、デカルトが原点とは言えません。デカルトは、この『本能』を用いて深く思索をした人間の一人に過ぎません。

『安泰を希求する本能』は、生物進化の過程で『脳』が獲得した機能ですから、『物質世界』の『脳』の生い立ちやしくみを解明しないと、『脳』がつくりだす『精神世界』も解明できないのではないでしょうか。

深遠な世界のように見える、『科学』『哲学』『人文科学』『宗教』『芸術』の全ては、『精神世界』の産物ですが、根底は『安泰を希求する本能』から始まっていると梅爺は推測しています。『知らないままに放置するのは不安で、知って安堵したい』『心の不安を排除して安らぎを得たい』『悲しさ、苦しさより楽しさ、心地よさを優先したい』『他人との絆を確認して安堵したい』などの『本能』としての願望が、やがて広大な『精神世界』を構築するにいたったのではないでしょうか。

人間には『自然の摂理』を制御する能力はありませんが、その一部を利用する能力はあります。確かに『どこまで利用は許されるのか』という問題はありますが、『下手をすると人類の命取りになる』という問題ですから、『遂行』するか『抑制』するかは、人間の理性的な『知恵』が決めるべき問題です。

『自然の摂理』の一部を利用することには、必ず長所、短所が表裏一体で伴います。短所やリスクを正しく知ることが『知恵』であり、この『知恵』を欠くと人類は自ら自滅の道を歩むことになります。

『核エネルギーの利用』『遺伝子組み換え医療』なども、『自然の摂理』の利用で、当然、長所、短所(リスク)を包含します。『恐いから反対』という人も、飛行機や新幹線には乗り、病気になれば薬を飲んでいるはずです。飛行機、新幹線や薬にもリスクがありますが、科学レベルがそのリスクを最小限にすることに成功しているだけのことです。

『核エネルギーの利用』『遺伝子組み換え医療』のリスクを評価するには、科学の知識を必要とします。金儲けを企む人たちの『美味しい話』を撃破するには、それしか方法がありません。『何となく怖いから嫌』というような庶民感覚だけでは迫力を欠きます。『現代文明には欠陥がある』などという哲学者の主張も、それだけでは同じく迫力を欠きます。効率や利便性の一面を優先すると、もっと大きなリスクを背負うことがあるというバランスを、分かり易く説明する能力が求められます。『ならぬことはなりませぬ』というレベルの主張は説得とは言えません。

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2013年4月28日 (日)

梅原猛100年インタビュー(2)

哲学者が、古代ギリシャ哲学、近代西洋哲学、各種宗教思想、道徳思想(儒教など)、芸術を幅広く探索し、『自分とは何か』『人間とは何か』を追求しようとすることに、梅爺は勿論異論がありません。

ただ、これらの探索世界が全て『精神世界』に属していることが、『哲学』がその限界を破れない一つの要因になっているのではないかと感じています。

『精神世界』を排除して考えれば、『人間』は生物であり、肉体や命を維持するしくみは、『物質世界』の法則(摂理)に支配されています。『物質世界』の支配法則を解き明かすことが『科学』であり、『科学』の動機は『知りたい(願望)』という『精神世界』の『情』がきっかけにはなっていますが、解明のプロセスには『精神世界』の『理』だけが用いられます。

言い換えれば、『物質世界』は『情』が関与しない世界であり、このことを理解することが、きわめて重要であるように思います。『精神世界』を介して観れば『美しい山(美しいは情の概念)』という表現はあり得ますが、『物質世界』だけで考えれば(仮に地球上から人間がいなくなれば)、ただ『山』が存在するだけです。

人間の『精神世界』は、脳が生みだしていますが、脳も含め肉体は『情』が関与しない『物質世界』に属しているという関係を見つめないと、『人間』は見えてこないのではないでしょうか。

『梅原猛100年インタビュー』という番組を観ながら、『精神世界』だけで人間を論じようとする姿勢に、梅爺は不遜ながら少し不満を抱きました。これからの哲学者には、『物質世界』の法則や摂理を深く理解した上で、『精神世界』の成り立ちを論ずる能力が求められるのではないでしょうか。『哲学』は、真に『学際的な知識』をベースに見直す必要があるように思います。

『文明は自然との共生の上にのみ維持できるものだ』『人生は自利/利他のバランスの上に成り立つ』という梅原氏の主張に、梅爺は全く異論がありませんが、このレベルの主張にとどまると、『論語』を読んでいるのと同様に、ただ『そうあるべきだ』という『お説教』で終わってしまいます。

何故『自然との共生』や『自利/利他のバランス』が必要となるかを追求しようと思えば、『物質世界』の摂理を深く洞察する必要があるはずです。

梅原氏は、残りの人生を賭けて、『人類哲学序説/本論』を書きあげたいと発言しておられましたが、それが『精神世界』の堂々巡りではなく、『物質世界』との関連に触れるものであって欲しいと梅爺は思いました。

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2013年4月27日 (土)

梅原猛100年インタビュー(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで放映された哲学者『梅原猛』へのインタビュー番組を録画して観ました。 

梅原氏は現在88歳ですが、40歳の頃、日本人の心の原点を知るために、古代史の研究にいそしみ、『法隆寺』は、聖徳太子一族の霊を封じ込め鎮めるための寺であるという新しい解釈『隠された十字架』や、柿本人麻呂の生涯に関する新説『水底の歌』などの著作を発表し話題になりました。 

当時大学を卒業し、社会人になったばかりの梅爺も、野次馬根性のかたまりでしたから、これらの本を読んだ記憶があります。一種の謎解き歴史ミステリーとして読みましたから、『面白いプロット(視点)である』とは思いましたが、梅原氏の提示する古代史が『正しい』と心酔するようなことはありませんでした。梅原氏の本業は『哲学者』であることを、当時の梅爺がわきまえていたかどうかは定かではありませんが、たとえ知っていても、そのことに大きな興味を抱かなかったに違いありません。

梅爺が曲がりなりにも『哲学』について興味をもつにいたったのは、ブログを書き始めて、物事の本質について少しばかり深く考える習慣がついてきてからのことですので、ごく最近のことです。

60年以上の歳月を、『哲学』に興味を抱かずに過ごしてきたことを『もったいない』と考えるかどうかは微妙な話ですが、若いころの梅爺は、『自分が生きている』ことは当たり前なことと受け止め、小さな挫折は体験しながらも、むしろ『未知の将来』に大きな希望や夢を抱く傾向の強い、手に負えないほどの生意気な若造であったような気がします。それが若者の特徴と云えばそれまでですが、今思い返せばほろ苦く、恥ずかしい話です。

梅原氏は、その後も教育者、著作者(哲学者)として活動してこられましたが、再び脚光を浴びたのは、『東日本大震災』の直後に、管首相が招集した『復興構想会議』の顧問(名誉議長)に就任し、『今回の災害は、天災、人災というより文明災である』と述べた時でした。

『哲学者』は、新しい概念を説明するのに新しい表現を持ちいる習性がありますので、梅爺は『文明災』という表現には驚きませんでしたが、命にかかわる大病を突然患った時に、『この病気の原因は何か』というような説明を受けているような気がして、少々違和感を覚えました。

『命をとりとめる手段』『リハビリの準備』などを緊急に対応し、そのめどが見えてきた時に『同じ病災』を繰り返さないための、真因の確認、予防処置を講ずるというのが、私たちの庶民感覚ではないでしょうか。

勿論、梅原氏は『緊急対応』の必要性を否定されたわけではなく、緊急対応も含めあらゆる対応の中に、『今回の災害は文明災である』と認識を持ちなさい、と言っておられるのでしょう。

そういう『前置き』の説明なしに、ただ『文明災』と言われても凡人は戸惑うことになります。

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2013年4月26日 (金)

Pity is akin to love.

英語の諺『Pity is akin to love.』の話です。

直訳すれば『人を哀れむ心は、人を愛する心と同類である』という意味になります。『はい、わかりました』で済ませたいところですが、梅爺の悪い癖で『Pity(哀れみ)』と『Love(愛)』の根っこは同じと言われると、『一体、何が言いたいのだろう』と気になり始めます。

『愛』は人間の情感の中で最も崇高なものと一般には受けとめられています。いわば『情感の王様』のようなもので、『愛』と聞いただけでひれ伏すことになります。まるで水戸黄門の葵の御紋の印籠のようなものです。

人間が『精神世界』で考え出した抽象概念の中で、『愛』ほど人間社会に影響を与えた言葉はありません。『愛』と『神』が横綱格で、『平和』『正義』などが大関格ではないでしょうか。もっとも、『神』を抽象概念とするのは梅爺の考えで、異論があることは承知しています。

英語の『Pity』は、相手の置かれている境遇を見下しながら『可哀そうに』と言っているニュアンスのある言葉です。対等な立場で『同情』を意味する時には『Sympathy』という言葉が用いられます。

つまり『Pity』の場合は、自分の方が相手より有利な立場にいるという『優越意識』が潜在的に働いているように思えます。何も『哀れみ』をそのように、ひねくれて受け止めなくてもよいのではとお叱りを受けそうですが、『哀れみ』を受ける方も、時に自尊心(プライド)が働いて『哀れみなど受けたくない』と跳ね返すことがありますので、人間の『精神世界』は実に複雑です。

複雑に進化した人間の『精神世界』も、元はと言えば生物に共通する『安泰を最優先する本能』から始まったものではないかと、梅爺は推測しています。『安泰』を人間関係『絆』の中に求めるのは、群をなして生きていく人間の習性では当然のことで、『絆』を確認する最高の抽象概念として『愛』を見出したのではないでしょうか。

一方人間関係の中で、自分の方が有利な立場にあることを確認することも『安泰』につながりますから、『優越感』も本能の発露と言えます。『哀れみ』の裏に『優越感』が潜んでいてもおかしくはありません。

『哀れみ』については、別の説明も可能です。『精神世界』の発達で、人間は客体のなかに主体を投影させてみることができる高度な能力を獲得したが故に、『困った立場の人、弱い立場の人を観て、自分がその立場にあったらどうだろう』と想像することができ、これが『哀れみ』『同情』という情感を産みだしているという説明です。人間はやがて自分(主体)をも客体として観ることができるようになりました。『自分を見つめるもう一人の自分』が存在するということで、『反省』『向上心』などは、ここから生じます。

『Pity is akin to love.』と言われると、分かったような気になりますが、よくよく考えてみると、根っこは同じと言えないことはありませんが、そうとも言えないというような気もしてきます。

はっきり言えることは人間の『精神世界』は、複雑で、解明がほとんどできていないということです。そうであるが故に、この分野で『仮説』はいくらでも思いつきますから、『梅爺閑話』にタネがつきつることはありません。

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2013年4月25日 (木)

SuperFreakonomics(10)

『地球の温暖化は、人間の行いが原因、即刻悔い改めよ』とアル・ゴア伝道師に説教されて、真面目な人は、『生きていることがそもそも罪深い』と畏れいってしまいました。呼吸するたびに、私たちは炭酸ガスを排出しているからです。

『石化燃料』からエネルギーを取得し続ける限り、大気の温室効果ガスも増え続けると誰もが気付き、このパターンからの脱却が必要だということになりました。エネルギー取得の代替手段である『原子力発電』は、事故の危険があり、何よりも使用済み燃料(ウラニューム)や、再利用のために生成されたプルトニューム(猛毒)の最終処理の問題が未解決ですので当てにならないとして、自然エネルギー(太陽熱、太陽光、風、波、水流など)依存へ大転換しようと、多くの人たちが叫び始めました。

エネルギーの取得方法に関する『パラダイムシフト』ということになり、それには新技術の開発、送受電ネットワークの革新(スマート・グリッドなど)など課題があり、投資コストも膨大になり、時間も要します。当面は、『省エネルギー』努力で耐え抜くと言う涙ぐましい決意も必要になります。

エネルギーの『パラダイムシフト』は、社会構造の『パラダイムシフト』でもありますので、経済環境、労働環境、生活環境にも大きな影響が及ぶことになります。経済、労働、生活の環境は、現状を維持したままで、エネルギーだけ『パラダイムシフト』ができるような安易な議論(脱原発議論など)は、梅爺には考えられません。

『金がかかる、時間がかかる、その上大変化を受け入れなければならない』と、多くの人たちが頭を抱え込んでいるときに、『地球の温暖化にお困りなら、冷やせば良いのでしょう』と、とんでもない安上がりな方法を、真面目に考えている人たちの話が、この本で紹介されています。

『マイクロソフト社』からスピンアウトした優秀な技術者たち設立した、ベンチャー・ビジネス企業で、ビル・ゲイツもこの会社に投資しています。

この人たちの発想は、『ピナツボ火山』が噴火した時に、明らかに地球は寒冷化へ向かったのだから、人工的に同じようなガス(二酸化硫黄)を大量に大気圏へ放出すれば良い、というものです。気球を基地として、地表からガスをポンプで送ろうという単純なしくみで、本当に実現できれば、実に安価に地球は冷えることになります。しかも、地球気候に影響を与えるのは、海面温度ですので、海の上空を主として、ガスで満たせば良いという理に適った話です。

まともに考えると解決が見えない問題に、発想をかえれば解決策が見つかるという例ですが、いまのところこのアイデアが採用されるような気配はありません。こんなに簡単に問題解決されては、今度は困る人たちが沢山でてくるのかもしれません。もっとも、このアイデアにも、私たちが知らない副作用や、落とし穴がないとは限りません。

世の中も人間も、複雑に見えて単純でもあり、単純に見えて複雑でもあるということではないでしょうか。

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2013年4月24日 (水)

SuperFreakonomics(9)

この本の『エピローグ』は、『Monkeys are people too(サルもヒトと同じ)』で、サルに金(かね)の使い方を教えたら理解するようになるか、といった実験内容に関するものでした。実験では『コイン』が使われ、『コイン』と好きな果物とが交換できるといった表面的な行為は『学習』できるように見えますが、自分のコインを他のサルに分け与えるといったヒトの場合には起きる『利他的な行為』は確認できないという結果に終わっています。

『サルもヒトと同じ』ではなく、金銭を扱う能力では『ヒトはサルとは違う』ということになります。サルは『金銭』の持つ『抽象概念』を利用した『論理思考(損得勘定など)』を行うだけの『脳』のレベルに達していないという、当然推測できる結果です。サルにとっては、『コイン』は外観だけの品物で、『コイン』の価値を抽象的に理解することはできないのでしょう。逆に云えば、ヒトの『素晴らしさ』も『おぞましさ』も、全てヒトが『脳』の機能として獲得した『抽象概念の理解』『推論能力』によるものと梅爺は考えています。『おぞましさ』をできるだけ抑制し、『素晴らしさ』を優先させようとするヒトが多い社会が、『健全な社会』といえるのではないでしょうか。いくら『物質文化』が豊かでも、『精神文化』が荒廃していたら、このような『健全な社会』は実現できません。

『衣食足りて礼節を知る』という、人間の習性は梅爺も理解してますが、日本の政治家の大半が、『物質文化』に関することだけを論じているのは残念なことです。

『エピローグ』の前の第5章(最終章)は、『What do Al Gore and mount Pinatubo have in common?(アル・ゴアとピナツボ火山の共通点は何か?)』というタイトルです。

アル・ゴア氏は、クリントン政権でアメリカ副大統領を務め、その後『不都合な真実』という本や映画で、『人間の行為が地球温暖化を促進している』と警告し、ノーベル平和賞を受賞した人物です。

『人類よ、悔い改めよ。さもなくば地獄がまっているぞ』と、実に巧みな話術で説教するのは、熱心な伝道師さながらですが、科学者の全てが『地球温暖化』の原因は、アル・ゴア氏あが指摘するような『人間の行為』だけに依存すると考えているわけではありません。

たとえば、1991年にフィリピンのピナツボ火山が大噴火を起こし、噴煙が地球を覆ったために、その後数年間地球は『寒冷化』や『飢饉』に悩まされました。今『温暖化』に怯えている私たちは、たった20年前には『寒冷化』に怯えていたことになります。

従って『アル・ゴア』と『ピナツボ火山』の共通点は、『地球の大気の温度』に関係しているということになります。

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2013年4月23日 (火)

SuperFreakonomics(8)

100年前のヨーロッパで、『分娩後の母親の死亡率』が高いのは、正常分娩の後の『分娩熱』による死亡率が高いことに起因しており、不思議なことに、大病院や大学病院などでの発症が多いことが判明しました。 

種々の因果関係を統計的に調査した結果、分娩を担当した医師が、直前に『死体解剖』に携わっていたことが判明したとこの本には書いてあります。『解剖』時に手に付着した病原菌が、分娩時の妊婦に感染したことが原因ということになります。梅爺は、産婦人科の医師が、分娩に立ち会う前に『解剖』に携わるなどというケースが本当に多いのか、医師は、分娩に立ち会う前に手を消毒しなかったのかと、この記述内容を『本当かいな』と疑いましたが、反論する術(すべ)がありませんので、一応受け容れることにしました。 

この因果関係が判明してから、『医師の手洗い(消毒)励行』が管理項目となって、『分娩熱』にようる死亡は激減したと書いてありましたから、それまでの『分娩熱』は院内感染であったことになります。 

『医師の手洗い励行』という、単純で安上がりな『方法』で、深刻な問題の発生頻度が激減したということですから、たしかに、『解決策はある。しかもそれは単純で安価な方法である』という、この章のタイトルにふさわしい事例ということになりますが、世の中の問題が、全てこのような『単純で安価な方法』で解決できるわけではないと、へそ曲がりな梅爺は、100%納得したわけではありません。 

この本には、別の例として、『2歳以上の子供では、専用のチャイルド・シートと、シート・ベルト(大人用の)の安全効果はほぼ同じ』というような実験調査結果が提示してあります。これも本当なら、『シート・ベルト』の方が簡単で安上がりな方法に違いありません。しかし、こんなことを言われたら『チャイルド・シート』の業界は、商売に差しさわりが出ますので、ロビー活動で政治家に働きかけ、懸命に法で『チャイルド・シート』を義務付けようとすることになります。このように、消費者が、知らず知らずに高い方法での出費を強いられていることがないとは言えません。世の中は、金儲けを企む人たちがいて、残念ながら、全て消費者第一の『経済原則』で動いているわけではないからです。 

都合のよい事例を提示して、全てがそうであるように思わせるのは、テレビのコマーシャルなどの常道手段ですから、用心が必要です。『英語を聞き流しているうちに、英語が自然に理解でき話せるようになる』とか『簡単なエクササイズで見るみるダイエットが進む』とか云われても、梅爺は冷ややかに観ることにしています。

この本も、都合のよい事例を並べて、説得しようと言う目論見が感じられます。難しい問題の本質を、徹底的に洞察する姿勢は重要ですが、その結果『単純で、安価な解決方法が必ず見つかる』とは限らないのではないでしょうか。

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2013年4月22日 (月)

SuperFreakonomics(7)

この本の第4章は、『The fix is in - And it's cheap and simple.』というタイトルです。『対応方法はある。しかもそれは安価で単純な方法である』という訳になります。

『物質世界の事象』であれ、『精神世界の事象』であれ、外観(そとみ)には理解困難と思われるほど複雑に見えても、本質的な影響力を持つ要因は、意外なほどに単純である、という例を梅爺は人生の中でいくつも体験してきました。そのことで、『本質を洞察する』ことに興味を持つようになり、今でも『梅爺閑話』のような理屈っぽいブログを書き続けています。

このことをもって、『全ての事象の真因は単純なものである』とは言えませんが、『最も影響力のある要因を見つけ出して対処すれば大きな効果がある』とはいえそうな気がしています。梅爺が大学で学んだ『機械工学』では、『安全率』の設定にこの考え方で対応しています。

一般に『事象』は、複数の要因が複雑に絡み合っていますので、最も影響力のある要因に対応すれば、大きなポジティブ効果は得られますが、その他の要因に対してはネガティブ効果になってしまうことがあります。経済政策で、良かれと思って打った手が、逆効果となって現れたり、薬を服用した時に副作用が現れたりするのはこのためです。

単純化して理解しようとすることで、『事象』そのものも単純であると錯覚する愚は避けなければなりません。政治家が、『戦争の無い平和な世界』『格差の無い社会』『誰もが安心して暮らせる社会』などと云いだした時は、梅爺は眉に唾(つば)して聴くようにさいています。梅爺が70年間体験してきた『世界』や『社会』はそのような単純なものではないと感じているからです。しかし、『戦争』『格差』『社会不安』に最も大きな影響力をもつ要因を洞察することは、決して無意味ではありません。その洞察内容を分かり易く提示できる政治家こそが、本当の政治家です。

この本では、『分娩時の母親の死亡率』を例にあげて論じています。現在、文明国といわれる国々では、『分娩時の母親の死亡率』は、1万人に9人程度ですが、100年前は、450人にも達していました。しかも、衛生事情や医療環境が劣悪なはずのアフリカより、その様なものが整っているはずのヨーロッパの死亡率の方が高いという、奇妙な現象を呈していました。そして、ついにその真因は『意外な要因』であることが突き止められました。

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2013年4月21日 (日)

SuperFreakonomics(6)

『アメリカ国民は、利己的(冷淡)なのか利他的(博愛)なのか』を検証するために、経済学者などが行ったゲーム形式の『実験』は以下のような内容です。

見知らぬ他人同士の二人(AとB)が、実験室に呼びこまれます。Aに20ドルを与え、自分の取り分を自分の意思で決め、残りをBに与えるように指示されます。Bが受け取った額を了承すれば取引は成立し、二人はそれぞれの金額を持って実験室を出ることになりますが、もしBが受け取りを拒否した場合は取引は不成立となり、A、Bとも手ぶらで実験室をでなければなりません。

この実験で判明したことは、Bは提供額が3ドル以下の場合『拒否』する確率が高いということと、Aは平均6ドル以上をBに提供するということでした。

その後、科学者たちは、この『実験』の条件を色々変えた変形版を考案し、世界中の人たちで『実験』し、平均的にAは4ドル(20%)をBに提供するという結果を得ました。

Aには、20ドルを独り占めできる可能性があるにもかかわらず、4ドルはBに与えようとする行為はどのように説明すれば良いのでしょうか。人間には本能として『利他精神』があると言えるのでしょうか。

『幼いころから教え込まれた道徳』『自分はさもしい人間ではないという自尊心』などという『精神世界』の要因が、働いていることは確かですが、この実験結果だけで、人間は『利他的な本能を保有している』と結論付けるのは強引すぎるように思います。

人間以外の動物ではこの『実験』は成立しません。『貨幣の抽象的な価値』を認識することや、見ず知らずの相手に自分の所有物の一部を分け与えるというような発想が無いように見受けられるからです。そういう意味で、この『実験』は、人間の『脳のはたらき』の一面を示していることは確かです。

人間は、独りでは生きていけないために、安泰を得る手段として他人との絆を必要とするという『本能』と、いざとなれば他人を排除しても自分だけは生き残りたいと言うより原始的な『本能』の両方を保有しているのではないでしょうか。煎じつめれば、人間は『安泰を求める本能を有している』ということになりますが、時と場合で同じ人間が『利他的でもあり利己的でもある』『仏心と邪心を両方持ち合わせている』という現象を創り出しているように思います。

『利他的な人間でありたい』『仏心を尊重して生きたい』などという価値観は、『理と情の複雑な絡み合い』の中で『脳』が獲得するものです。豊かな理性、細やかな情感が、人間にとって如何に重要かが分かります。

『人間はそもそも性悪か、それとも性善か』などを論ずることより、『どうしたら豊かな理性、細やかな情感を育むことができるか』を論ずることの方が意味があるように梅爺は感じます。

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2013年4月20日 (土)

SuperFreakonomics(5)

この本の第3章のタイトルは『Unbelievable stories about apathy and altruism』です。直訳すれば『冷淡と利他主義に関する信じがたい話』ですが、内容は『人間を性悪説と性善説のどちらで観るか』ということを論じています。

西欧の理性的議論は、どうしてもこのように物事を『白か黒か』と判別したがる傾向があります。従って『善』の象徴は『神』、『悪』の象徴は『悪魔』と対立概念で把握します。一方、『人間は仏心と邪心とを両方持っている』と洞察した釈迦の思想や、中国の『陰陽思想』、ヒンドゥー教の『破壊と創造を司るシヴァ神』など、アジアでは、『相反する要因を一つのものが兼備する』という考え方が継承されてきました。

梅爺は『人間は仏心と邪心とを両方持っている』という釈迦の洞察に共鳴しますので、『人間を性悪説と性善説のどちらで観るか』というような議論は空しいような気がします。勿論これは一般論で、個人レベルでは、『性悪』が勝っている人もいれば、『性善』が勝っている人も世の中にいるのは当然のことです。一番始末に悪いのは、『自分の中に仏心と邪心が同居している』ことを認識していない(認識しようとしない)人です。つまり、自分は『善意だけの人間』であると思い込んでいる人です。

第3章では、最初に1964年に、ニューヨークで起きた、『夜間帰宅中の若い女性が、通り魔に襲われ自宅近くの路上で殺された事件』が紹介されます。この事件が、以後数10年にわたって、全米で語り継がれるようになったのは、『ニューヨーク・タイムズ』が、事件報道の短い記事の中で『隣近所の住民38人が、この事件を目撃していながら誰ひとりとして警察に通報しなかった』と書いたからです。実は後になって、この記事の表現は必ずしも適切ではないことが判明するのですが、この記事を読んだ全米の読者は、『隣近所の住民は何と冷淡なのか』と憤慨し、『名前を公表しろ』とまで叫んだりしました。

社会学者や心理学者が、『人間は何故冷淡なのか』を研究する素材としてこの事件を取り上げることになりました。

一方、アメリカ人は、年間30兆円も、慈善のための寄付をしています、これはGDPの2%以上にあたりますから、この行為をみればアメリカ人は極めて利他的な国民であるようにも見えます。

『SuperFreakonomics』では、経済学者が、『アメリカ国民は冷淡なのか、それとも利他的(博愛的)なのか』を確かめるために、種々のゲーム形式の『実験』を行い、データで裏付けしようとするプロセスが紹介されます。

それはそれで、面白い内容なのですが、梅爺は人間の『脳』が、ある決定を行うプロセスは、非常に多様な要因が絡み合った結果であって、それを単純な『ゲーム形式の実験』結果だけで、類推するのは、無理があると感じました。

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2013年4月19日 (金)

SuperFreakonomics(4)

この本の第二章のタイトルは、『Why should suicide bombers buy life insurance ?』です。『何故自爆テロリストは生命保険をかけておくべきか?』ということで、この章を最後まで読まないと、何が云いたいのかが見えてきません。

自らの意思で死を選んだ人へ、生命保険会社は、保険金を支払いませんから、『自爆テロリスト』が生命保険をかけておいても意味が無いはずなのに、何故かけておく必要があるかの『意外な理由』が最後に判明します。

イラクやアフガニスタンで繰り返されている『自爆テロ』は、貧しい子供や、教育レベルの低い青年が『洗脳』されて犯人に仕立てられていると、私たちは想像しがちですが、じつは、比較的裕福で、教育を受けている家庭の子弟が『自爆テロ』の実行犯になっているとこの本には書いてあります。理性が乏しい故に、騙されて『テロリスト』に仕立てられているわけではなく、自らの理性で、『信仰』や『正義』をつきつめて『テロリスト』の道を選んでいるということになりますから、人間の『脳』は実に厄介です。日本にも『神風特攻隊』の悲劇の歴史がありましたから、暗い気持ちになります。

『9.11』のために、アメリカに送り込まれた『実行犯』は、ある期間、アメリカ社会へ溶け込んで生活しながら、準備をしていたことになりますから、欧米の大学を卒業するなどの、高い教育レベルの人間であったことになります。イギリスも、地下鉄、バスを同時に狙ったテロ攻撃を受けましたが、同様に、教育レベルの高い犯人達が、事前に現地社会へ溶け込んでいました。

アメリカとイギリスの、『国家安全対策機関』は、『テロリスト』を事前にあぶり出す手段として、これらの現地へ送り込まれてきた人間が、現地金融機関に開設した預金通帳に眼をつけました。『テロリスト』の個人情報や、生活や準備のための資金の流れの特殊性を、チェックリストで調べ、容疑者を事前に特定しようという作戦です。全ての預金口座が調査対象になりますので、膨大な作業になりますが、コンピュータによる作業ですので、国家安全のためなら労はいとわないということになります。

チェックリストの内容の一部は、この本に書かれていますが、肝心なことは、『対策機関の手の内』を明かすことになりますので、伏せられています。

公開されたチェックリストの一つが、『生命保険をかけているか』です。テロリストは『生命保険』をかけていないという前提で、『生命保険』をかけていれば、容疑者リストから外されるということを意味します。

つまり、『テロリスト』は自分の正体を隠そうとするなら、『生命保険をかけておくべきだ』と、この章のタイトルは云っていることになります。『手の内』の一部を公開したことになりますが、実際は、もっと複雑な論理推定がなされますので、『国家安全対策機関』側はこれで不利になることはないのでしょう。

観方を変えると、情報化社会では、想像を絶する手段で、『個人は監視されている』ことを意味します。なにか後ろめたいことを抱えている人は、枕を高くして眠れない時代になりました。

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2013年4月18日 (木)

SuperFreakonomics(3)

先進国の男女の平均寿命を統計的に比べると、女性が永生きであることが分かっています。原因は諸説ありますが、詳細には分かっていないのではないでしょうか。生物としての生存能力では、女性優位の『格差』があるということになります。 

しかし、人類の歴史で、いつの時代も女性の平均寿命が男性よりも永かったわけではありません。むしろ、女性の平均寿命の方が短い時代の方が多かったと推定されています。社会的風習で、男児が求められ、産まれた女児が間引きで殺されたり、現代医学が確立する以前は、出産時に多くの女性が死亡したことなどが原因と考えられます。 

『男女平等』を掲げる社会体制の中では、男女は平等に扱われているのかという視点で眺めてみると、どうも世の中は、まだまだ『男性優位』にできているのではないかと、主張する人達(特に女性)が多いように思います。

この本でも、ハーバード大学を卒業し、フルタイムの職業に就いている男女の年収を比較すると、統計的には女性の方が30%程度低いと記載されています。基本的な能力差が無いとすれば、アメリカにも男性優位の考え方が根強く残っているとも言えますが、実際には、女性の、出産、育児などの負担が、就業時間や就業条件(長距離出張が困難など)の差を生む原因になっているためではないでしょうか。

地上波NHK教育チャンネルで放映されている『スーパー・プレゼンテーション』という番組を見ていましたら、話題の『FaceBook』社の女性COO,シェリル・サンドバーグ女史が登場し、『アメリカ女性は、リーダーシップをとれる地位を獲得するために、男性優位を憂いてばかりいないで、自ら対応姿勢を改めなさい』と発言していました。彼女自身は、ハーバード大学経済学部を主席で卒業し、『世界銀行』『Google』などを経験して現職に就いた人ですから、『ごもっとも』と云いたくもなりますが、梅爺は、なんとなく釈然としないものを感じました。『平均寿命』の差でも分かるように、男女には、生物学的にも、社会的な役割でも、資質の違いが明白に存在しますから、全ての女性が『男性のように行動して、男性と同等な地位を得る』ことが、幸せにつながるとは言えないのではないかと感じたからです。彼女の発言に対しては、アメリカでも賛否両論があるようです。

国家元首になる、大会社の経営者になるといったことが、人生の『成功者』の象徴とされる考え方も、ステレオタイプすぎるのではないでしょうか。大きなことに挑戦する人生もあり、『昨日と同じ今日に感謝し、今日と同じ明日を願う』というような当たり前なことを当たり前に繰り返す人生もあり、人生は様々で、いずれにしても、懸命に『生きる』努力は必要になります。何を『幸せ』とするかも、個人によって価値観が異なります。

『こうあるべき』という主張の全てを否定するつもりはありませんが、特定の価値観を『正しい』として、押し付けようとすることに、へそ曲がりな梅爺は異を唱えたくなります。

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2013年4月17日 (水)

SuperFreakonomics(2)

この本の第一章は、『女性に対する社会的な差別の実態』を論じたもので、タイトルは『How is a street prostitute like a departmennt-store Santa?』です。直訳すれば『売春婦はいかにしてデパートのサンタのようなものになっているか?』ということで、アメリカ人の多くは、ニュアンスをすぐに理解して、クスッと笑うのかもしれませんが、日本人には、必ずしもピンときません。意訳をすれば、『売春婦という職業は、どうしていつの時代にも当たり前のように存在するのだろうか?』ということなのでしょうか。クリスマス・シーズンのデパートの客寄せサンタの出現が当たり前になっているように、売春婦の存在も誰も不思議なことと疑わないことを皮肉っているのかもしれません。 

アメリカの大都市には、必ず街娼が客引きしている街の一帯があり、特にシカゴは有名です。あらゆる売春行為は、アメリカでも法的に禁止されていますが、人類の歴史の中でこの『職業』が、なくなったことはありません。 

この本では、シカゴの『売春行為』を、経済学者が『経済的行為』として、事細かに調査し、分析しています。どのようなサービス行為が、どのような価格で取引されるのか、昔は『高価』であったある種のサービス行為が、現在では『安価』になってしまったのは何故か、のデータや解析結果が記載されていますから、その種のことにご興味のあるかたは、直接本をお読みいただきたいと思います。 

同じ『売春婦』といっても、マフィヤのヒモや麻薬が絡むような貧しいレベルから、一匹狼で高給を稼ぐ『コールガール』までピンキリで、この本では、全ての実態が分析対象になっています。最近では、個人的にインターネット・ビジネスとして『売春』を行うことが可能になって、高学歴の女性が、『荒稼ぎ』している事例も紹介されています。このような女性は、周到に客質を事前に調査、選別し、暴力事件に巻き込まれることも、うまく回避します。男にとって、何が『可愛い女』であるかを熟知していますから、裕福な男は、『家庭では得られないもの』を求めて通うことになります。性行為だけではなく、教養あふれた会話や料理の振舞いまでもがサービス対象になります。いくら価格を吊り上げても、客の需要は減らないという、『経済原則』に反したような成果を得ていることになります。 

売春は、経済的に観ると『女が男に利用されるみじめな行為』でもあり、逆に『女が男を手玉に取ったしたたかな行為』でもあるとも言えます。

この章は、『売春』という特殊な経済行為を対象にしていますので、内容が『際物(きわもの)的』に見えますが、女性の社会的な価値や、男性との比較における差別などの問題を取りあげることが目的になっています。

『Freakonomics』では、あらゆる人間の行為の背景には『Incentive(動機)』があり、その『Incentive』を、データで検証しようとします。法を破ってまでも『売春』が無くならない背景には、関係する男の『Incentive』、女の『Incentive』の強固な存在を突き止めなければならないことになります。『Incentive』を見て見ぬふりをして、倫理や道徳だけを振りかざし、『売春はいけない』と叫んでも、事態は変わらないとこの本では云いたいのでしょう。『Incentive』を模索することは、『人間』の心の奥を覗き見ることでもありますから、勇気がいることです。

倫理や道徳を重視する行為にも、実は背景に『Incentive』があるということになりますから、ややこしい話です。

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2013年4月16日 (火)

SuperFreakonomics(1)

3年前に、梅爺は『Freakonomics』というノンフィクションの本(英語版ペーパーバック)の内容をブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/freakonomics-c6.html

人間の社会的行動特性を、『経済学』の手法で明らかにしようという、新しい試みの本で、タイトルの『Freakonomics』は、出版にあたって関係者が創出した『造語』です。『Freak』と『Economics』を組み合わせたもので、『型破りの経済学』とでも訳せばよいのでしょうか。経済学者のSteven D. Levittと、ジャーナリストのStephen J. Dubnerの二人のアメリカ人の共著による本です。

本屋の書棚で、同じ二人の共著による『SuperFreakonomics』という本を見つけ、迷わず購入して読みました。『Freakonomics』の続編とも言える本ですが、最初の本が世界的にヒットしたことに味をしめ、今度は更に『Super』ですよと、読者の好奇心をくすぐるところは、なかなか商才に長(た)けています。前の本と同様に、『自爆テロリストは何故生命保険をかけておく必要があるか』などといった、意表を突く表現の5つの章で構成されています。野次馬根性のかたまりで、しかもへそ曲がりな梅爺には、面白い本で、クスクス笑いながら読みました。どうしても人間のもつネガティブな資質も直視することになりますから、人間は『清く正しく美しい』ものだと思い込んでおられる方には、腹立たしい内容かもしれません。

『政治』や『経済』は、元をただせば『人間の社会的行動特性』で形成される領域ですから、『人間の社会的行動特性』を洞察せずに、独立した『世界』のごとくに論じてみても、本質は見えてきません。更にややこしいことに、『人間』は、一人一人が異なった資質を保有していますから、誰もが同じように考えたり、同じように反応したり、同じように行動するわけではありません。『異なった資質の個人で構成される人間社会の行動特性』は、マクロな統計的手法などでないと解析はできませんから、『経済学』の手法が有効であることは理解できます。

法のもとに誰もが平等の権利を保証されているということと、個人の資質は異なっているということを、両方合わせて理解しないと、『格差があってはならない』などというトンチンカンな話になります。『極端な格差は、社会全体にとって好ましくない』というのが、現実的な話で、『格差』の無い人間社会など存在しません。

この本は、上記の例のような『綺麗ごとの一般論』に含まれる矛盾や、『嘘』を、経済的な思考手法で、あぶり出してみせてくれます。へそ曲がりな梅爺は、この本を読んで『人間』が嫌いにはならずに、一層『好き』になりますから始末に負えません。

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2013年4月15日 (月)

神は数学者か?(4)

『形式的な数学世界』は、人間が『発見』したものなのか、『発明』したものなのかという議論が続いていることを、この本を読んで知りました。『神は人間が発見したものか、発明(創造)したものか』という議論に似ているとも書いてありました。『発見』であれ、『発明』であれ、何故人間の脳にその様な能力が秘められているのかは、現時点では解けていない謎です。

体験や経験とは無関係に、純粋な論理世界だけで、数学者が、法則、定理を導き出す行為を観れば、『発明』に見えますが、その法則や定理が、『物質世界』を説明するのに有用であることが後刻わかるというようなことをみると、『発見』であるとも言えます。

純粋な理論推測が先行して、後に、天文学や量子力学で、『物質世界』の新発見がもたらされるということが、最近では多くなっています。『形式的な数学世界』を駆使する『理論物理学』なしでは、もはや、天文学や量子力学はなりたたない関係になっています。数学者が見つけ出した『特殊な数値』が、実は『物質世界』を説明する上で重要な『値』であることが、後に判明することもあります。『円周率』などはその代表です。

『物質世界』の真髄を説明する、法則や定理を、何故人間は、純粋な仮想論理世界から導き出せる能力を秘めているのかが、最大の謎です。これを観れば『人間には神の能力が付与されている』といいたくなる気持ちも理解できます。人間以外に、この能力を保有している生物は見当たらないからです。この本では『数学の不条理な有効性』という難しい表現で、『謎』を表現しています。『どうしてかは分からないけれども、数学は有効である』ということです。

『精神世界』『物質世界』『形式的な数学世界』を、混同しないように別々に議論することと、全部を一つの世界として議論することは、両方重要なのではないかと梅爺は感じます。

一番気をつけなければならないことは、論理を含む議論では、用いる言葉の『定義』に細心の注意を払う必要があるということです。『物質世界』や『形式的な数学世界』では、誰もが納得する『定義』が比較的容易に見つかりますが、『精神世界』では、これが極めて難しいことに、十分配慮すべきです。

『哲学』『芸術』『宗教』などは、『精神世界』を駆使して人間が作り上げた絢爛(けんらん)たる世界ですが、言葉の『定義』が極めて難しい世界です。『愛は何よりも強い』『正義は必ず勝つ』などという主張を対象に議論をしようとすれば、やがて『言葉の泥沼』に足をとられることになりかねません。

更に『精神世界』の議論では、『理』だけではなく『情』が入り込んできて、ややこしい話になります。私たちは無意識に『あなたは気にいらない。従ってあなたのの云っていることもは気にいらない。それ故にあなたの意見を認めない』といっている場合が多いようにか感じます。

『精神世界』で、『形式的な数学世界』と同様に『情』を排除して『理』で議論することを、人間の脳は苦手としているように見えます。

『情』の本質は、生物として『安泰を希求する本能』であるというのが、梅爺の『仮説』ですが、文字通り『仮説』に過ぎません。『安泰を希求する本能』を『理性』で完全に制御できれば、仏教の『悟りの境地』が得られると思いますが、生身の人間にはおよそ縁遠い話です。

『精神世界』が人間を、時に素晴らしい存在とし、時におぞましい存在にしています。今のところ人間は『摩訶不思議な生物』ですが、自分もその一人であることを梅爺はありのままに受け容れようと考えています。摩訶不思議な人間の一人として地上に生をうけたことには感謝しています。

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2013年4月14日 (日)

神は数学者か?(3)

『形式的な数学世界』は、基本的には『真偽』を断定しようとする世界です。今様に云えば『デジタル』な世界とも言えます。『アルキメデスの定理』は、時間や場所や状況を問わず『真』と言えます。勿論『形式的な数学世界』でも、最初『真』と考えられていたことが、後に『偽』と判明することがありますが、これは『形式的な数学世界』があやしい世界であるからではなく、『人類の知恵が当初及ばなかった』だけに過ぎません。 

何事にも『白黒をつけたい』と思う人にとっては、『形式的な数学世界』ほど居心地の良い世界はありませんから、浮き世の煩わしさを逃れて、この仮想論理世界に没頭する数学者が出現することになります。映画や小説に、『数学者』が、浮き世離れしたキャラクターで登場して、笑いを誘ったりしますが、このことには、深い意味があるように感じます。つまり、数学者は、脳の能力の内、『理による論理思考』が突出して優れている『スペシャリスト』であるということではないでしょうか。その分、『情』の表現能力を必要とする『芸術』の『スペシャリスト』のような能力が希薄であったり、そのことには興味を示さなかったりすることになる傾向もあると推察できます。逆に芸術家には、数学が苦手という人が出てくる可能性が高いのかもしれません。人間の脳の『総合能力』には限界があり、人によって得意とする能力分野に偏りがあるということなのでしょう。もっとも数学者は、『形式的な数学世界』に『美』を感じ取っているのかもしれませんから、『美』の対象が、他の人と異なっているとも言えます。

脳の能力分野で『スペシャリスト』が存在するということは、そこそこまんべんなく能力を保有する『ジェネラリスト』も存在することを意味し、会社の経営同様に、『スペシャリスト』と『ジェネラリスト』は、人間社会には双方必要となるのでしょう。

この本の著者の『マリオ・リヴィオ』氏は、『スペシャリスト』であり『ジェネラリスト』でもあるということになりますから、まさしく『賢人』です。『レオナルド・ダ・ヴィンチ』などは『賢人』の典型なのでしょう。

大胆に予測をすれば、『形式的な数学世界』によって『物質世界』は支配されており、その『物質世界(人間で云えば肉体)』から派生して『精神世界』が出来上がっているという構図になります。『精神世界』は間接的に『形式的な数学世界』の影響を受けていることにはなりますが、その関係が目下のところ『漠然としている』のは、残念ながら現状では解明する決め手(知恵)を欠いているということなのかもしれません。ただし『精神世界』を使って、『形式的な数学世界』の一端を推測できる能力を人間は持っているというややこしい話です。

梅爺はしばしばブログで、『自然の摂理』という言葉を用いてきましたが、上記の構図を見渡せば、『自然の摂理』の真髄は『形式的な数学世界』なのかもしれません。梅爺は、宗教の定義する『神』ではなく、『自然の摂理』を仮に『神』と定義するならば、受け容れることができるとも書いてきました。

この論法に従えば、『神は数学者である』という表現は、それほど突飛な発想ではなくなります。しかし、『形式的な数学世界』を『真理の中心』に据えることは、従来の『宗教』の考え方からすると、『苦痛の種』になります。なぜならば、『形式的な数学世界』は、『情』とは無関係で、『愛』や『罪』というような概念も、無縁なものになるからです。『ピタゴラスの定理』は、それ自身『真』ではありますが、『愛』や『罪』とは無縁です。誤解が無いように申し上げれば、梅爺は『精神世界』の『愛』や『罪』という概念そのものを、意味が無いといっているのではありません。『自然の摂理』はただ厳然と存在するだけで、『愛』や『罪』とは無縁であると云いたいだけです。

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2013年4月13日 (土)

神は数学者か?(2)

『精神世界』『物質世界』『形式的な数学世界』が、それぞれに無関係であれば、私たちは悩みません。ところが、この三つの『世界』は、互いに『関係しているらしい』ことに、私たちはすぐに気付きます。 

たとえば、私たち人間の身体(肉体)だけを取れば、脳組織さえも『物質世界』の一部であることは明白です。すべて、『物質世界』を構成している材料(元素)と同じものでできています。おぞましい表現で恐縮ですが人間の『死体』は、完全に『物質世界』のもの、そのものです。ところが、この肉体が『命』とともに存在する時(生きている時)には、その『脳』は、広大な『精神世界』を保有しています。 

『物質世界』の身体に、何故『命』が宿り、その結果『脳』に『精神世界』が出現するのかは、現時点では『謎』です。しかし、両者は無関係ではないことも明白です。 

『物質世界』は、研究が進めば進むほど、『形式的な数学世界』に支配されているらしいことが判明しています。 

19世紀のスコットランドの物理学者『ジェームズ・クラーク・マックスウェル』は、あらゆる電磁的現象を統一する理論を作り上げましたが、それはたった4つの簡単な方程式で説明されています。アインシュタインに至っては、時空の構造のような基本的概念(一般相対性理論)を、きわめて簡潔な数式で表現してしまいました。これらは全て『形式的な数学世界』に属します。

頭の良い数学者が、『脳』の論理機能だけを用いて考え出した、数学の法則の一部は、考え出した本人でさえも、『現実には何の役にも立たない』と思っていたものが、後に『物質世界』を説明するのに重要な役割を果たすことになったという事例が沢山あります。

『物質世界』を観察して導き出された数学の法則なら、まだ分かりますが、純粋に人間の脳だけで論理的に導き出された方式が、後に『物質世界』を説明するのに役立つという『事実』をどう説明したら良いのでしょう。少なくとも『物質世界』と『形式的な数学世界』は、密接な関係を有していることだけは、明白なような気がします。

『形式的な数学世界』の法則が、『精神世界』の本質を説明するのに有効であるかどうかは、現時点では明らかではありませんが、少なくとも『形式的な数学世界』の存在を確認したのは人間の『精神世界(論理思考)』ですから、両者は無関係とは言えないことになります。

こう考えてくると、『三つの世界』は、実は『一つの世界』で、それを統一的に説明できる知恵を人間がまだ獲得していないだけなのではないか、という考え方が頭をよぎります。

もしそうなら、『科学』と『宗教』は対立することなく説明ができるのかもしれません。ただし、その場合の『宗教』は、現時点の『教義』で構成されている『宗教』とは、趣が異なるものであるかもしれません。3000年前に考え出された『形式的な数学世界』の法則(アルキメデスの法則など)は、いつまで経っても論理的に『真』であると言えますが、3000年前に考え出された『宗教の教義』は、いつの時代も『真』とは言えないかもしれないからです。

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2013年4月12日 (金)

神は数学者か?(1)

梅爺は、服用している『血圧降下剤』をもらうために、定期的に近所のY医院へでかけ、血圧を測定していただいています。待合室に、Y先生が読まれたのであろう本が、数冊段ボールの箱に入れられておいてあり、『どうぞご自由にお持ち帰りください』と書いてありました。その中の一冊に『神は数学者か?』という本があるのを見つけ、梅爺は早速ちょうだいして帰宅しました。

『神は数学者か?(マリオ・リビオ著:千葉敏生訳、早川書房)』は、定価2300円もする立派なハードバックの本ですから、当日梅爺が支払った診察代や、薬局へ支払った薬代より高価で、『得をした』と喜ぶと同時に、『申し訳ない』気にもなりました。

著者の『マリオ・リヴィオ』は、アメリカの宇宙物理学者で、『ハッブル宇宙望遠鏡科学研究所の主任天体物理学者』ですが、何冊かの科学啓蒙書の著作で、国際的な受賞をしている、博覧強記でも知られる学者です。

現代の突出した賢人が、人類の抱える『謎』を、どのように受け止めているのかは、梅爺のような凡人にとっても、興味の対象ですから、いそいそと読み始めました。330ページの内容を、梅爺が二番煎じでブログに紹介するつもりはありませんが、啓発を受けた部分については、今後小分けにして、感想をブログに綴りたいと思います。

この本を読むことは、梅爺にとっては『見知らぬ土地へ修学旅行へでかける』ような体験ですから、心が躍ります。

梅爺は、ブログを書きながら、私たちの周囲には、二つの異なった『世界』があることに気付き、何度もそれについて言及してきました。人間の脳が紡ぎだす『精神世界』と、宇宙や自然界を包含する『物質世界』がその二つです。二つの世界は、無関係ではありませんが、『少なくとも同じように論ずることはできない』というのが、梅爺の稚拙な脳が考え出した結論でした。

たとえば『神』は、『人間が精神世界で創出した概念』であるのか、『物質世界に存在する実態』なのか、というようなことを取り上げ、前者であろうと小賢しく推測してきました。勿論この推測は『仮説』に過ぎません。『一神教』の宗教の教義では、『神』は宇宙や人間の創造者ですので、教義を忠実に受け容れれば、後者(『神』は人間が存在する以前から存在していたことになりますから、人間が考え出したはずが無いという論理)ということになります。しかし、『実態としての神』の存在を、普遍的に『証明』することは、現時点では誰も成功していませんので、宗教の前提は『信じる』ことになります。そしてややこしいことに『信ずる』という行為は、『精神世界』に属します。

『神は数学者か?』という本を読んで、オックフォード大学の著名な数理物理学者『ロジャー・ペンローズ』は、梅爺の『精神世界』『物質世界』の二つに『数学的形式の世界』を加えて『三つの世界』を、『謎』の原点ととらえていることを知りました。

『数学的形式の世界』は、人間の理性が『発明』したものではなく、たまたま人間が『発見』したものと考えれば、人間が存在しない世界にも存在することになりますから、『第三の世界』と言えそうです。

そもそも、この『三つの世界』は、本当に別々の世界なのか、それとも現時点で人間はこれらを『一つにまとめて理解する知恵』を持たないだけなのか、が最大の『謎』です。

現時点では、賢者にも答えられない『謎』ですが、この本は少なくとも『謎』を解く手がかりを提供しようとしています。

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2013年4月11日 (木)

壬申の乱(6)

『「古事記」と壬申の乱』の著者、関裕二氏は、ほぼ同じ時代に二つの史書(古事記と日本書紀)が編纂されたのは何故だろう、しかも、『古事記』は『新羅寄り』、『日本書紀』は『百済寄り』の内容になっているのは何故だろうと疑問を提示しています。

そして、『古事記』は『天武天皇(大海人皇子)』の立場を肯定するもの、『日本書紀』は『天智天皇(中上兄皇子)、藤原鎌足(中臣鎌足)』の立場を肯定するものと考えると、納得がいくと書いています。つまり、『日本書紀』は、藤原不比等が編纂に関与し、『藤原氏』の正当性を示そうとしているということになります。

二つの史書が異なった目的で書かれているという視点には、梅爺も合意できます。

『壬申の乱』で、勝利を収めた『大海人皇子』は『天武天皇』として即位し、左右大臣を排除して、全ての国政を『天皇と皇后(後の持統天皇)』で決める『皇親政治』体制を確立しています。都を『天智天皇』時代の『近江大津』から『飛鳥』へ戻し、律令制を強化し、国史(多分『古事記』)の編纂も行っています。自らを『天皇』と称したのも『天武天皇』が最初と言われています。『大王(おおきみ):豪族の長の中で最も偉い人物』ではなく、『天皇は特別な存在』として、新しい国家づくりを目指したように見えます。古代の中では、突出した政治力をもつ『天皇』であり、現在にまで影響がある『天皇制』の基盤を作った人物といえるのではないでしょうか。

この時代の歴史が、なかなか頭に入らないのは、皇族間の近親結婚が繰り返されたり、豪族の娘が政略的に側室になったりと、人間関係が複雑で、天皇の後継者争いの背景(関係者の思惑)が分かりにくいためです。

天皇は『万世一系』という考え方は、『天武天皇』の息子の『草壁皇子』が後継者になった時に言いだされたことで、それ以前は、必ずしも直系の男子が天皇になるという考え方はありませんでした。

有能な兄弟や、時に后(妻)が後継者が天皇に即位していますから、『女帝』も当たり前のこととして受け容れられていたことになります。

限られた『情報』から、全体像を『ああか、こうか』と考えるわけですから、洋の東西を問わず『古代史』は『面白い』のは当然です。『正しい歴史を知ろう』などと考えると、大変なことになりますが、『自分なりに歴史を想像してみよう』と気軽に考えれば、『知的冒険』の格好な対象になります。その意味で、梅爺の野次馬根性は止まるところを知りません。

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2013年4月10日 (水)

壬申の乱(5)

『白村江の戦い』で、唐と新羅の連合軍の圧倒的な強さを見せつけられた『天智天皇』は、今度はこの連合軍が日本を攻めてくるにちがいないと恐怖を感じ、軍事力や防御態勢を強化しようとしたのは、当然のことと肯けます。

しかし、日本にとっては幸いなことに、『天智天皇』『天武天皇』の治世下で、外国から攻撃されることはありませんでした。日本の軍事強化が功を奏したのではなく、唐と新羅が『仲間割れ』をし、朝鮮半島で互いに反目するようになったからです。

唐は陸続きの朝鮮半島を全て支配下にすることを目論んでいたと考えるのが自然です。戦術として、最初に新羅と組み、百済と高句麗を滅ぼしましたが、その後は、連合関係を破棄して新羅も手に入れようとしたに違いありません。新羅は、生き残りをかけて、『昨日の友』と戦う決意をしたことになり、結果的には生き残りを果たしました。唐は広大な国境線を持ち、新羅だけに全力投球できない事情もあったのでしょう。

唐と新羅が反目する中で、両陣営は日本を『仲間』に引き込もうとした形跡があります。突然一転して日本は『モテモテ』になったことになります。

唐は、軍勢をひきつれた使者を日本へ送り、『天智天皇』に謁見して、『一緒に新羅を討つ』策を言上(ごんじょう)しています。『天智天皇』の周辺には、百済から亡命してきた高官がいて、天皇も『百済寄り』の政策を続けてきていましたから、唐と組んで新羅を撃てば、百済の恨みを晴らすことになり、あわよくば百済の再興もできるかもしれないと、考えたことでしょう。

一方、新羅も日本へ使者を送り、低姿勢で『一緒に唐を討つ』策を申し入れてきたと思われます。朝鮮半島が唐に支配されたら、今度は日本が攻撃対象になるだろうと予測できますから、当面新羅と組んで、唐をくいとめる方が得策と考える日本人もいたに違いありません。『大海人皇子』は、『新羅寄り』の外交を主張した人物であると考えると、『百済寄り(唐寄り)』の『天智天皇および大友皇子』との対立の構図が鮮明に見えてきます。

唐の使者(および軍勢)が、唐へ帰国したタイミングで、『大海人皇子』は、『壬申の乱』を起こしています。唐からみると『大海人皇子』は目障りな人物で、色々牽制していたと考えると、牽制がなくなった時点で行動を開始した意味が見えてきます。『大海人皇子』は、『天武天皇』として即位した後も『新羅寄り』の政策をとっています。

ところが、『天武天皇』の後の時代では、再び日本は『百済と組んだ過去の行い』を肯定(賛美)する姿勢に変わっていきます。朝鮮半島には『百済』という国は既に存在しなかったわけですから、異様に見えますが、ヤマト朝廷に入りこんでいた亡命百済人の影響が大きかったと考えられます。更に、『百済寄り』の政策を進めた『天智天皇』『藤原鎌足』を賛美し、藤原家の威光を強化したい『藤原不比等』の思惑が強く反映しているのではないかと、梅爺は推測します。

古代日本の歴史は、東アジアの情勢と絡めて眺めないと、理解が浅いものになってしまうような気がします。当時の日本は、私たちが想像する以上に外国と交流があり、微妙な外交関係の上に成り立っていたことになります。

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2013年4月 9日 (火)

壬申の乱(4)

天智天皇の崩御から、『壬申の乱』にいたる経緯は、『古事記』『日本書紀』に記載されていますが、『どうも腑に落ちない』と多くの方が指摘しています。

そもそも、『古事記』『日本書紀』は、『壬申の乱』に勝利した『大海人皇子(後の天武天皇)』が、編纂を命じたとされていますので、都合のよい『脚色』がなされているであろうことは想像できますが、それにしても、不可解なことが多いのは事実です。

表向きの話は、以下のようになっています。

天智天皇は、死の間際に、弟の『大海人皇子』を枕元に呼び、『後はお前に頼む、息子(大友皇子)を補佐して欲しい』と告げます。しかし『大海人皇子』は、『お后(きさき)が、皇位を継ぎ、大友皇子が執政されてはいかがですか。私は出家します』と言って、妻(後の持統天皇)や子供(草壁皇子)と、30人ばかりの舎人(とねり)を引き連れて、吉野へひきこもってしまいます。

この部分だけを観れば、『大海人皇子』は、兄(天智天皇)一家への思いやりに富んだ立派な人物ですが、その後、天智天皇が崩御し、実質的に息子の『大友皇子』が政治をおこなうようになると、機をみて行動を開始し、『大友皇子』を『壬申の乱』で死に追いやります。

『大海人皇子』一党は、吉野を脱出して、戦闘の地『不破(現在の関ヶ原)』まで、175キロメートルの行程を、たった4日間で踏破しています。この間、大津宮に残してきた二人の子供(高市皇子、大津皇子)を脱出させ、伊勢で合流したり、要衝の地『鈴鹿』の守りを強化したりもしています。

吉野では、30人であった勢力が、4日後には3万人の大軍(東の豪族が参加)になっていますから、『壬申の乱』は、時間をかけて『入念に計画されていた』と考えないと辻褄があいません。天智天皇が、死の間際に『後はお前に頼む』といったという話も、作り話ではないかと疑いたくなります。

これらを総合すると、本当は以下のような話ではなかったのかと梅爺の想像は膨らみます。

『大海人皇子』は、兄『天智天皇』の失政(白村江の戦いでの敗戦)、軍事強化政策(山城、水城の構築)を傍で観ていて、多くの豪族が不満を抱いていることを理解していた。これら不満豪族を味方につけて、『天智天皇』の後継の座につくことを、密かに企んでいた。『天智天皇』は自分の後継は息子の『大友皇子』であって欲しいと願っていた。しかし『大友皇子』は、『大海人皇子』ほどのしたたかな政治感覚や経験を持ち合わせていなかった。『天智天皇および大友皇子』は、『大海人皇子』の不穏な動きを察知して、これを『排除(または殺害)』しようと考えていた。これを察知した『大海人皇子』は、都(大津宮)を脱出し、吉野に逃れた。

現在のように、インターネットや電話が無い時代に、4日間で、30人から3万人の大軍に膨れ上がるなどということは考えられません。事前に使者を送り、いつどこで落ち合うかの入念な計画が練られていたと考える方が自然です。

唐や新羅が、日本侵略の軍隊を送ってくるかもしれないという国難の時代に、政策をめぐって『天智天皇』と『大海人皇子(天武天皇)』の兄弟が、血みどろの権力闘争をおこなったというのが『壬申の乱』の背景ではないでしょうか。政策に対する考え方の違いは、内政だけでなく外交も関係していたように推測できます。『天智天皇』が『百済』支援の立場であったのに対し、『大海人皇子』は『新羅』と連携することを考えていたように見えます。

戦前の歴史教育では、『壬申の乱』は無視されていたと言われています。皇族同士の争いなどという内容は、はなはだ都合が悪い話であったからでしょう。『したたかな叔父(大海人皇子)』が、『世事に疎い甥(大友皇子)』を死に追いやって皇位を得たというのが『壬申の乱』の顛末のような気がします。

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2013年4月 8日 (月)

壬申の乱(3)

6世紀から7世紀へかけての『日本』と『中国大陸・朝鮮半島』の情勢を列記して眺めてみたいと思います。

聖徳太子(574-622年)の時代 (推古天皇、蘇我馬子、飛鳥)
『大化の改新』(646年) (中上兄皇子、中臣鎌足、蘇我氏滅亡 難波宮)
天智天皇即位(661年) (白村江の戦い 近江大津宮)
壬申の乱(672年) (天武天皇 藤原京計画実現せず)

唐の建国(618年) (滅亡690年)
唐、新羅の連合軍が百済を滅ぼす(660年)
唐、新羅の連合軍が高句麗を滅ぼす(668年)
新羅(唐に反抗して)独立体制を実現(676年)

このように俯瞰して観ると、天智天皇(中上兄皇子)、天武天皇(大海人皇子)の治世時代は、朝鮮半島の激動期(唐による侵略への対応)と一致することが分かります。

天智天皇が即位した前年に、唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼしています。当時日本には百済の皇子が人質で滞在していました。日本と百済は人質を交わすことで『安全保障』の同盟関係にあったと推察されます。滅ぼされた百済からは、日本へ救いを求めて多くの人たちが『亡命』してきたのではないでしょうか。天智天皇は、人質であった百済の皇子を送り返すとともに、百済再興の援軍を送りましたが、『白村江(はくすきえ)の戦い(663年)』で、日本と百済の連合軍は、唐と新羅の連合軍に完敗してしまいます。

日本は、唐と新羅の強さを思い知らされ、無謀な戦いを行った天智天皇は、日本国内でも批判にさらされたことでしょう。そして、今度は唐と新羅の連合軍が日本へ攻めてくると覚悟せざるを得ない状況に追い込まれたことになります。天智天皇は、軍事強化で国を守ろうとして、一気に沢山の山城、水城(みずき)の造営を命じます。これも各地の豪族に苦役を強いることになり、天智天皇への不満は更に増大することになります。天智天皇の死後、『壬申の乱』で勝利して皇位に就いた天武天皇(天智天皇の弟)は、兄(天智天皇)の政治とは異なった路線を目指し、国内にあった不満を解消しようとしたのではないでしょうか。むしろその目的で『壬申の乱』を起こしたと言ってもよいのかもしれません。

『大化の改新』というクーデターで、悪者『蘇我入鹿』を打倒した、中上兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、日本史の『スーパースター』のように伝えられていますが、それは、『古事記』『日本書紀』の編纂に、藤原不比等(藤原鎌足の息子)が関与しているからです。『史書』は公平な史実の記述ではなく、多くの場合『勝者の意図』『勝者の自己肯定』が反映しています。『蘇我入鹿』は実際以上に悪者にされてしまっている可能性もあります。少なくとも天智天皇は、当時失政が続いて不人気の天皇であったと考えるべきでしょう。

百済の滅亡で、多くの高官たちが日本へ亡命し、この人たちが『大和朝廷』にどのように影響を及ぼし続けたのかも、注意する必要があります。天智天皇の『親百済』の外交路線であったのに対し、皇位を継いだ天武天皇は、『親新羅』の外交路線に切り替えたように見えます。こういう日本の状況下で『百済』からの亡命高官たちが、日本でどのように振舞おうとしたのかも興味がわきます。

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2013年4月 7日 (日)

壬申の乱(2)

梅爺が愛読しているブログ『おゆみ野四季の道 新』の山崎次郎さんも、この番組を観て、早速感想を書いておられます。 

http://yamazakijirounew.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/bs-a829.html 

山崎さんの洞察は、『壬申の乱』は、後の『関ヶ原の戦い』と『瓜二つ』のように類似しているというものです。『大海人皇子(天武天皇)=したたかな戦略の攻め手=東の豪族連合軍=徳川家康』『大友皇子=思慮の浅い守り手=西の豪族連合軍=豊臣秀頼』という対立構図が似ていることと、戦いの場が『不破(後の関ヶ原)』であるところまでそっくりです。 

勿論これは、偶然の一致ですが、日本を東西に二分した戦いになる時に、『関ヶ原』が、要(かなめ)の地になるということは、必ずしも偶然でないかもしれません。山崎さんは、『初めてイメージがわいた!!!』と書いておられます。見聞きしたことを、そのまま記憶するのではなく、自分の思考で『再構築』してみると、『自分の認識(知識)』として脳に残りますから、山崎さんにとって『壬申の乱』は、カビの生えた古代のできごとではなく、『親近感のもてるできごと』に様変わりしたことになります。『考える愉(たの)しみ』の典型例で、自らの思考を伴う『深い認識』が『学ぶ』ことであると分かります。

『「古事記」と壬申の乱』の著者関裕二氏は、当時の『日本』が置かれていた立場、つまり朝鮮半島や中国大陸との関係を推定することで、『歴史』を観ようとされています。中国大陸、朝鮮半島、日本の地理的な関係は、昔も今も変わりがありませんが、そこを支配していた『体制』や『文明』は、現在とは全く別なものであるという視点から出発しています。

視点を変えて物事を観ると、『違った解釈』『意外な本質』が見えてくるということで、特に歴史を学ぶ時に有効な手段です。顕微鏡で局所を観察しても、全体像は理解できないからです。『日本史』は独立して存在するのではなく、『世界史』の中の『日本史』として観る必要もあります。残念ながら学校で教わった『歴史』では、そのような視点が希薄であったように思います。しかし、視点を変えて物事を観る姿勢は、歴史ばかりではなく、相手の立場で考える時にも求められ、脳の柔軟な対応が必要になりますから易しいことではありません。一般に、視点を固定していると認識は深まりません。

関氏は、聖徳太子から天武天皇までの、『国家体制変革』は、外国(中国、朝鮮半島)からの侵略へ備えるためのものであったという捉えています。『明治維新』で、日本は列強の支配下にならないように、西欧を手本に新しい国家体制を固めようとしたように、6世紀から7世紀の日本も、侵略者に怯えながら、当時の先進国を手本に、国家体制を固めようとしたという推測です。

何故『聖徳太子』が、仏教を重視し、『17条憲法』や『冠位十二階』を制定し、中国(隋)へ使者を送ったのかを理解するには、『突然立派な人物が登場した』というより、『日本を守るためにそれが必要であった』という説明の方が確かに説得力があります。

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2013年4月 6日 (土)

壬申の乱(1)

NHKBSプレミアムチャンネルの『BS歴史館』で『壬申の乱』が採りあげられ、梅爺は興味深く観ました。

昨年、奈良に住む友人Nさんご夫妻と一緒に、奈良、明日香を『爺さん婆さんの修学旅行』として訪れて以来、梅爺は『日本の古代史』に関して、並々ならぬ『野次馬』になってしまいました。高校時代『日本史』は暗記科目だと思い込んで、毛嫌いしていたことを思うと、嘘のような話です。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-edd0.html

『壬申の乱(じんしんのらん:672年)』は、『天智(てんじ)天皇』(中大兄皇子時代に中臣鎌足と、蘇我入鹿を倒し、大化の改新を成し遂げたとされる天皇)崩御(ほうぎょ)の後、後継の座を巡って、『天智天皇』の弟『大海人皇子(おおあまのおうじ)』と、『天智天皇』の息子『大友皇子(おおとものおうじ)』の間に起こった抗争で、『大海人皇子』が勝利し、『天武天皇』として即位した(673年)と伝えられている事件です。

『事件』を伝える主な資料は、『天武天皇』が編纂を命じたとされる『古事記』『日本書紀』ですから、『勝利者が書かせた歴史』であることを、配慮して読まなければなりません。

世界中、古代の『史書』は、どこでも『勝利者』が自分の立場を肯定、擁護するために書かせたものが大半ですから、『事実』を読み解くことは容易ではなく、『推定』の基盤を変えると、幾通りもの解釈が可能になります。『史書』では大悪人とされる人物は、実は立派な人物であったのではないか、などと逆の史観が登場するのもよくあることです。

梅爺は、『壬申の乱』の実態を知りたいと思うより、『実はこういうことではないのか』と自分で推測することの興味が強い性質ですので、『曖昧な資料から、全体像を勝手に想像する』ことにワクワクします。『頭の体操』をするには、うってつけの題材です。

番組のコメンテータ(作家倉本一宏、漫画家里中満智子、評論家 田原総一朗)の方々は、梅爺より『事件』に詳しいことは間違いありませんが、それでもご意見は『一つの仮説』に過ぎません。

ついでにこの際とばかりに、『「古事記」と壬申の乱』(PHP新書:関裕二著)、読んで、関氏の興味深い『仮説』も取得しました。関氏は、独自の鋭い洞察が売り物の歴史作家です。

それらを総合して考えてみると、『壬申の乱』は、その後の『日本の国体』を決める決定的な『事件』で、『天武天皇』は、日本の歴史の中で最も独裁色の強いしたたかな天皇であり、その皇后で、後に女帝になった『持統天皇』は、更にしたたかな天皇であったのではないかと思うようになりました。

念を押すまでもなく、これは梅爺の勝手な推測、仮説に過ぎません。

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2013年4月 5日 (金)

Faith's breach for love and kingdoms is no sin.

英語の諺『Faith's breach for love and kingdoms is no sin.』の話です。 

直訳すれば、『愛と祖国のためならば、信仰に反することをしても罪にはならない』ということになります。 

この諺を字義通りに理解して、『愛や祖国のためなら、裏切りや人殺しも許されるのだな』と受け止める人は、失礼ながら、思慮の浅い人です。 

しかし、そうは言っても、過激な『イスラーム原理主義者』は、ほぼ、この論理でテロを繰り返していますから、人間はこのような考え方を受け容れてしまう習性を持っていると考えると、怖ろしくなります。 

この諺に使われている『愛』『信仰』『罪』は、人間が『精神世界』で考え出した抽象概念ですから、人間の脳の中にのみ存在します。『祖国』だけは『実態』がある言葉のように感じますが、『祖国』とは何か、よくよく考えてみると、きわめて相対的で、曖昧な概念であることが分かります。『その人の法的な国籍を定めている国家が、その人の祖国である』などと定義してみても、必ずしもピンときません。 

『宇宙』や『自然』を構成する『物質世界』には、その営みの基盤となる『摂理』があり、その『摂理』の一部は科学者たちが発見してきました。『摂理』はなんと『形式的な数学の世界』で表現できるものらしいことが分かってきました。勿論この『形式的な数学の世界』の全てを人類は解き明かしてはいませんが、今までのところ、そう考えて矛盾が無いと多くの科学者たちは考えています。 

『物質世界』には『偶然』と思える事象もありますが、科学者はこれを『確率』という数学的な方法で処理し、『摩訶不思議』『奇跡』として追求をあきらめるようなことはしていません。 

『物質世界』の事象は、『形式的な数学の世界』を用いて、普遍的、絶対的な価値観で『真偽』を判定することができます。しかし、人間の脳の中に存在する『精神世界』には、普遍的、絶対的な評価尺度がありません。何故、『物質世界』と『精神世界』はこれほど異なっているかについては、今までに梅爺もいくつかの『仮説』をブログに書いてきましたが、現代の科学でも解明できていません。『精神世界』は、一人一人個性をもっていることも、解明を難しくしています。重要なことは、『精神世界』の大半のことは、『真偽』を断ずることができないということです。 

パウロは、『信仰より大切なものがある。それは愛である』と説いています。深い意味が含まれてはいますが、これも『精神世界』の話ですから、この表現(論理)が『絶対正しい』とは言えません。 

私たちは個性ある自分の『精神世界』を駆使して、『考え』『感じ』ながら生きています。そこに普遍的、絶対的な評価尺度がないと分かると、羅針盤のない船で、航海しているような心細さを感じますが、現実を受け容れるしかありません。『精神世界』にも『真偽』を決める絶対尺度があると勘違いしたり、自分の『考え』『感じ』かたが絶対正しいと思いこむと、自分はおろか周囲も不幸にしてしまうことがありますから、自戒を要します。

この諺は『一つの価値観を述べている』『信仰や罪さえも相対的な概念ですよと諭している』ように受け止めることはできますが、冷たく言ってしまえば『何も言っていない』ということにもなります。

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2013年4月 4日 (木)

日本の女性地位向上運動(6)

昭和の激動期に、日本が、『全体主義』『軍国主義』へ傾斜していった時代に、『平塚らいてう』は、権力へ与(くみ)しない立場を維持し続けたのに対し、『市川房江』は、国策(戦争遂行)への協力姿勢を見せることで、女性の権利を獲得しようとしました。『大政翼賛会』に組み込まれた『日本言論報告会』の理事に就任しています。

目的を達成するために、あくまでも『権力』と戦うか、ある程度『権力』にコミットして、『権力』を利用しようとするかは、方法論ですから、一概にどちらが正しい、効果的と判断はできません。

大きな『権力』と対峙すると、圧倒されるだけで空しさが残ったり、運動自体が先鋭化したりしがちです。一方、『権力』を利用しようとするると、『ミイラとりがミイラになる』ことになってしまい、『権力』に利用されてしまう矛盾も生じかねません。

日本は、兵士を補給するために、『産めよ増やせよ』を叫び、『軍国の母』を賛美する国家になっていきました。植民地でも、住民を『天皇の子供』に仕立てるために『皇子化政策』が採られ、『日本語』教育が徹底されました。『市川房江』は、結果的にこれらに加担してしまうことになってしまい、戦後は、GHQから公職追放処分(解除までに3年7ケ月を要しました)を受けています。

戦後『平塚らいてう』は、『非戦』『非核』の運動へ深くコミットしつづけ、『市川房枝』は、政治家として活躍を生涯全うしました。

この番組のコメンテータの『上野千鶴子』さんは、後世の人が評論、批評するのは簡単であるけれども、自分がその場にいたらどう行動しただろうと考えてみることが大切と述べておられました。梅爺も全くそう思います。

『女性の地位』に関する運動は、女性と男性の『違い』を認めた上で、『女らしさ』を活かして社会参加する考え方と、『違い』を認めずに『男並み』に社会参加する考え方の二つがあります。

梅爺は、どちらかと問うのではなく、事情に照らして、どちらも受け容れる考え方がよいと思います。これは男性にも当てはまることで、『男女の違い』を認めて『男らしく』参加するものと、全く男女平等に参加するものがあってよいということです。

真の文明国家は、『男に生まれて良かった』『女に生まれて損をした』などと単純に言えない国家のことではないでしょうか。現在の日本は、その意味ではかなり高いレベルの文明国と言えそうな気がします。

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2013年4月 3日 (水)

日本の女性地位向上運動(5)

『大航海時代』以降、ヨーロッパの国々は、植民地獲得で覇を競い合いました。南米、アフリカ、中東、アジアと、早い者勝ちの陣取り合戦のように進出し、政治支配、経済支配で『利権』を獲得しました。此の間、人道的にもひどいことが行われたのは周知の通りです。

遅れて建国したアメリカは、たしかにあくどい植民地競争には加担していないように見えますが、広大な国土があり、その上『多民族国家』の政治体制を自国でつくりあげることが焦眉(しょうび)の急で、手が回らなかったという事情もあったからではないでしょうか。

極東の島国であった日本は、西欧列強の魔の手が届きそうになった際どいタイミングで『明治維新』を達成し、なんとか独立を維持しました。このような状況認識の中で、身を守る最大の方策は『富国強兵』であると日本の明治の為政者が考えたのは、無理からぬことです。

西欧の列強は、植民地を含めて『大国』であり、日本はそれに比べて、資源の少ない小さな島国国家であるという劣等意識が根底にあって、日本は、台湾、朝鮮半島、中国へと、植民地支配を広げようとしました。劣等意識を優越意識で補おうとしたとも言えます。日本人の中には、『植民地支配は好ましくない』と考えていた人もいたと思いますが、多くの人たちは、『アジアが西欧の支配下になる前に日本が進出する』ことに、違和感を覚えていなかったのではないでしょうか。

第一次世界大戦の後のベルサイユ会議で、アメリカのウィルソン大統領が『民族自立』を支持したのは、正義を主張したというより、ヨーロッパ諸国や特に日本の痛い所をついて、牽制(けんせい)する目的であったのでしょう。外交とはそういうものですから。

『日清戦争』『日露戦争』『第一次世界大戦』で、実態はともあれ『戦勝国』になった日本は、それらが、日本本土を戦地とする戦争ではなかったこともあって、『戦争』を安易に考えてしまった感があります。この時代から、『戦争』は『局地戦』から『総力戦』へと変貌していき、結果的に『第二次世界大戦』は、日本を焦土にしてしまう無謀な戦争になってしまいました。

その後の歴史や、世界の価値観の変化を知っている私たちが、このような分析ができるのは当然ですが、昭和の初期に、次々に荒波が押し寄せてくるような環境で、日本人がどのように考え、行動したのかは、単純に律することは難しいことです。その時自分ならばどう行動したかを考えると不安になります。

女性の地位向上運動に、情熱を燃やしていた『平塚らいてう』や『市川房江』にも、この荒波は押し寄せました。日本の『国難』の中で、運動が頓挫(とんざ)してしまったのはやむを得ないとしても、二人が『戦争』とどのように向き合ったのかは、理解する必要がありそうです。

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2013年4月 2日 (火)

日本の女性地位向上運動(4)

『市川房江』は1893年(明治26年)に、愛知県の農家の3女として生まれました。父親が暴君で、それを母親が耐え忍ぶ姿をみて育ったと言われています。小学校の教師を経て、24歳の時に、『名古屋新聞(現在の中日新聞)』の初めての女性記者になりました。『大正デモクラシー』が叫ばれる中で、『言論』の力に期待していたのではないでしょうか。

1919年(大正8年)に、『平塚らいてう』等と、日本初の婦人団体『新婦人協会』を設立し、女性の集会結社を禁じていた『治安警察法』の改正を求める運動を行いました。この改正は後に実現しましたが、『新婦人協会』の運営はうまくいかず(『平塚らいてう』と『市川房江』の確執など)3年で解散しています。

1921年に、アメリカへ留学し、前年アメリカで成立した『婦人参政権』を推進したリーダーに会って、『女性地位向上運動』は、あれもこれもと欲張らずに『婦人参政権』の獲得だけに集中して推進することが肝要という助言を得て帰国します。

関東大震災の翌年、1924年(大正13年)に、『婦人参政権獲得期成同盟』を結成し、男子の普通選挙が法律で決まった1925年(大正14年)には、会の名前を『婦選獲得同盟』と変え、運動を続けました。

1930年(昭和5年)に、『第一回婦選大会』を開催し、翌年浜口政権下で、『婦人参政権付与』が衆議院で可決しますが、貴族院で否決され陽の目をみることができませんでした。

『市川房江』達の努力で、あと一歩まで追い詰めたことになりますが、運悪く日本はこのあと『戦争』へむかって、ひた走ることになり、結局『婦人参政権』が実現するのは、敗戦後の1945年、『GHQ』の指令によることになります。

『平塚らいてう』は、この時『敗戦のお陰で婦人は太陽になれた』と複雑な気持ちを述懐しています。『市川房江』は、晩年日本の女性に向けて『権利の上に眠るな』と忠告していますが、自分たちの手でつかみ取った権利ではなく、与えられた権利のために、権利の本当のありがたさを女性たちが理解していないことに、不満を感じていたのでしょう。

女性地位向上運動家が、『戦争』の時代にどう対応したかも、番組は紹介していますが、一言で言ってしまえば、『濁流に飲み込まれてしまった』と感じを梅爺は受けました。当時の情勢からはしかたがないことかもしれませんが、『国策』を是認しながら、運動を進めようとすることになってしまったからです。

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2013年4月 1日 (月)

日本の女性地位向上運動(3)

『平塚らいてう』が、多感(『情』に厚い)な女性であったことは、行動や文章(詩的なリズムをもつ文体)から推察できますが、一方『市川房江』は、理性が強く、『理』で『情』を抑制できる女性のように見えます。『平塚らいてう』と『市川房江』が一緒に活動していた時に、『市川房江』は几帳面に経理事務をこなし、少々チャランポランなところがある『平塚らいてう』とうまくいかないことがあったと番組では紹介していました。『市川房江』の潔癖さ、真面目さが窺(うかが)えます。 

『市川房江』は、この潔癖さ、真面目さで人生を全うし、『運動』のために、自分の恋愛や結婚は封印したように見えます。『ご立派』としか言いようがありませんが、梅爺は、『脱線気味』の『平塚らいてう』の方に、人間としての魅力を感じます。『平塚らいてう』は『女性地位向上運動家』ではありますが、本質的には、宗教、哲学にも興味を抱く『思索家』『文学者』であるからではないかと思います。『市川房江』は逆に、『平塚れいてう』がのめり込んだ『禅の修行』などには興味がなかったのではないでしょうか。

『平塚らいてう』は、禅の修行で、『父母未生以前における本来の面目如何(いかん)』という、禅問答の問を投げかけられたと番組は紹介していました。『物質世界』の事象として考えれば、父母が生まれる以前に『自分』は全く存在しないことになり、『無である』という答になります。しかし『精神世界』では、この設問は、『あらゆる属性を取り払った時の本質的な自分の姿』を問うていることになります。煩悩を取り除いた後の内なる光(悟り、仏心)という概念が禅では重要な意味を持ちます。『平塚らいてう』は、全ての女性の中にある『天才』を確信したいとも言っています。単に『男尊女卑』は怪しからん、などという浅い発想や認識ではありません。

『女性地位向上運動』では接点がありますが、『平塚らいてう』と『市川房江』はかなり異なったタイプの人物であることが分かります。

『平塚らいてう』は、後に『婦人公論』誌上で、2年間にわたり『与謝野晶子』と『母性保護』に関する論争を繰り広げました。『平塚らいてう』は、『母性保護を国家施策としてとりあげるべき』と主張し、一方『与謝野晶子』は、『国家へ依存すべきことではない』と主張しました。

『与謝野晶子』の主張は、『子供は、親のものでも、国のものでもない。子供自身のものだ』というもので、『子供が天皇の赤子(せきし)として、戦死することを母親は軍国の母として誇りに思わなければならない』などという馬鹿げた事態を危惧してのことですから、心情は分かります。

一方『平塚らいてう』の主張は、現在多くの国家が政策として採用していることで、人間社会で『出産』を担当する女性への配慮は当然のことと考えられています。

二人の論争は、軍国主義へのめり込んでいく日本であったからこそ、重要な意味があるのでしょう。『与謝野晶子』は、『母性保護論争』を利用して、日本の軍国主義、全体主義を批判しようとしたのではないでしょうか。

『平塚らいてう』は、二人の子供を『婚外子』として、自分だけで育て上げ、『与謝野晶子』は11人の子供を育て上げました(出産は12人)。『母性保護論争』は、観念的な論争ではなく、自らの体験を反映しているものであるが故に、現実味を帯びています。

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