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2013年2月19日 (火)

北一輝と大川周明の『昭和維新』(5)

『明治維新』は、『幕藩体制』から『近代国家体制』へ権力構造を変革する闘争で、基本的には一部の権力に近い人たち同士の争いでした。日本が列強の植民地政策の餌食にならないための必要な体制変革であったとも言えます。

庶民が自らの権利を求めて立ちあがった闘争ではありませんので、庶民にとっては『明治維新』は頭越しの変革で、わけもわからずに波に呑みこまれた感があったのではないでしょうか。

しかし、庶民は『蒙昧(もうまい)』だけであったわけではなく、やがて周囲の事情を理解して、体制への要求を主張するようになります。明治の初期には、各地で『憲法』のありかたの議論が行われ、沢山の『私版憲法素案』が作成されていたことが分かっています。『自由民権』『普通選挙による議会政治』等の要求もこの流れの中で出現しました。この庶民のレベルの高さは、近世以降の日本を考える上で重要な要因です。そして、今後も重要な要因であり続けるでしょう。

『憲法素案』は、『ビジョン』『構成能力』『法知識』『他国の憲法に関する知識』『表現能力』の全てを持ち合わせていなければ書きおろせません。これが可能な人材が、当時既に日本各地に散在していたというは驚くべきことです。

しかし、『明治政府』は、『自由民権思想』を弾圧し、『中央集権国家』作りに専心しました。日本を独立国家として世界に認めさせるためには、悠長な議論をしている余裕など無かったとも考えられますが、結局日本が『民主主義国家』になるためには、戦争、敗戦という高い代償を払うことになりました。

『近代国家日本』にとって、大きな問題は『天皇』をどのように位置づけるかでした。『明治政府』は、国体の中心に『天皇』を据え、『国民は天皇の赤子(せきし)』という思想を作り上げました。国民の精神の自立、自由(思想、宗教など)を認めず、むしろ『天皇』を利用して国民を拘束するようになっていきました。

これに対して『北一輝』や『大川周明』は、『天皇』は『国民の天皇』であるべきと主張しているように見えます。『天皇の国民(赤子)』か『国民の天皇』かは、大きな違いになります。『大川周明』は、『天皇は国民の共同生活の中心であるべき』などと表現していますから、現憲法の『天皇は日本の象徴』に近い考え方であったのかもしれません。

『天皇』自身が、『国民の天皇』の立場を支持するものと信じて立ちあがった、『2.26事件』の青年将校たちにとっては、『天皇』から『賊軍』と名指しされた結末は、大きな失望であり、処刑されるにあたっても、怒りや恨みが残ったにちがいありません。

列強の植民地にならないように頑張った近世日本が、ある程度体制が整ってくると、今度は、近隣国家を植民地化しようとする国家へ変身します。この矛盾にどう対応するかが、日本の知識人や思想家にとって試練になっていきます。『東洋を西洋の支配から解放し、解放後は日本を盟主とする共栄圏にする』というような、日本にとって都合がよい論理を考え出しますが、近隣国家にとって、『解放』はありがたいにしても、日本が盟主の実質支配は迷惑な話であるという単純なことに、気付かぬふりをして、結局国家や軍部の行為の追認を繰り返している内に、泥沼へはまりこんでいくことになりました。

『北一輝』も『大川周明』も、『アジアの解放、復興』と『日本の改造』を一緒に行うという考え方を持っていたように見えますが、西洋に対抗して東洋が一体になれると夢想しているように梅爺には見えます。

しかし、その後の歴史を見渡せば、東洋は一体どころか、東洋間の緊張が高まるばかりですから、『日本を盟主とする新秩序』などは、身勝手な空論にすぎないことがわかります。

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