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2013年2月 5日 (火)

映画『12人の優しい日本人』(6)

この映画の陪審員の一人は、真面目に働いている青年ですが、女性や結婚には縁がありません。そのため、この事件の死んだ夫が、ぐうたら男であるにもかかわらず綺麗な若い女性(被告)と結婚したことに、無意識の反感を抱いており、『こんな男は事故で死んで当然』と判断し、妻(被告)は『無罪』と主張します。 

もう一人の陪審員は、目下妻と別居中(妻が子供を連れて出ていった)で、その視点でみると、裁判の被告(妻)も、子供を連れて家でしていることを許すことができず、『こういう女は悪い奴』として『有罪』を主張します。

更にもう一人の陪審員は、以前にも陪審員を務めたことがあり、この時『有罪』としたことが、後々『トラウマ(心の痛み)』になり、嫌な思いをしたので今回は『無罪』にしたいと主張します。 

つまり、人間は他人を純粋に客観視することが難しく、常に自分の価値観や経験で判断していることになります。哲学的に難しい表現をすれば、『客体』を『主体』の事情を投影しながら観ているということになります。 

梅爺も、『冷静に、客観的にものごとを観て判断したい』と願いながら、実は極めて自分中心に考え、振舞っているに違いありません。そのような習性から逃れられないのであれば、むしろ居直って、『私はこう感じます。こう判断します』と自分を主張した方が、むしろ、誤解を避けられるのではないかと、これまた自分勝手な論理で、『梅爺閑話』を書いています。『梅爺閑話』の内容は、誤認、間違いに満ちているに違いありませんから、必ずしもこれを『正しい』と確信して書いているわけではありません。『世の中には、このように考える人がいる(人間の精神世界は個性的である)』ということを知っていただくことに意義があると思っています。 

『精神世界』の、『理』よりは『情』で物事を判断しようとする日本人の習性を、脚本家の『三谷幸喜』は『優しい日本人』と表現しているのでしょう。『優しさ』を美徳と褒め称えているわけではなく、『優しさ』の陰に隠れた『危なっかしさ』を指摘したかったのかもしれません。 

日本人の習性は、『陪審員制度』には向かないために『喜劇』のネタにし易かったとも言えます。後に『裁判員制度』が日本でも採用されることを知らずに、この映画は作られています。現在施行されている『裁判員制度』で、『三谷幸喜』が予感した事態が実際に起きているのかどうか、知りたいところです

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