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2013年2月23日 (土)

考える愉しさ(3)

『書く』と『話す』の違いは、表現するまでにかけることができる『思考時間』の多寡です。『話す』はまったなしで、表現をし続けなければなりませんので、十分に脳で『論理矛盾』や『美意識の比較』などを行う余裕がなく、つい『失言』『不適切な表現』をしてしまいがちです。凡庸な政治家の『舌過(ぜっか)』は大半この部類です。一方作家の開高健氏のように、『話言葉』をそのまま書きおろせば立派な文章になるという、驚くべき才能に恵まれた方も世の中には存在します。

これに比べると一般に『書く』は、事前に『論理矛盾はないか』『この表現で期待通りの理解が得られるだろうか』『語感、リズムなどに配慮した文体になっているか』など十分に思考を巡らせることができます。この間、脳は『推論機能(理)』『美追求機能(情)』を駆使することになり、それまで気付かなかった自分の中の新しい『発見』に遭遇し、深い満足感が得られます。『俳句』や『和歌』は、更にギリギリに制約された条件の中で、表現しようとするわけですから、完成時の満足感は一入(ひとしお)であろうと想像できます。

『数学』や『物理』の法則を論ずる文章は、『理』一辺倒で構成できますが、一般の文章は、書き手の『理』だけでなく『情』が表現に反映しますので、文章に『人柄』が現れます。読み手には楽しい話ですが、書き手にとっては裸身をさらすような恥ずかしい話です。

『ブログ』で心象を『書く』ことは、自分をさらけだすことでもあり、時に読者に不快感を与えてしまうこともあるだろうと、逡巡する気持ちにもなりますが、『爺さんのたわごと』としてお許しいただけるだろうと、勝手な前提で『梅爺閑話』を書いています。

『書く』ために『考え』、『考える』ことで、自分なりに『事象』の本質に少し近づけたと感ずるときや、思いもよらない自分の一面を見出した時の『愉しさ』は、文字通り『生きていることを実感』する満足感になります。

『科学』の分野を除き、世の中の『事象』には、簡単な『真偽』など存在しませんので、他人はともかく、『自分はこう思う』という『考え』を持つことが逆に重要になります。浅い思考で『真偽』を決めつけたり、自分の思考は放棄して、誰かに教えてもらおうとばかりしていては、真の『愉しさ』は得られないのではないでしょうか。折角の人生がもったいないことになります。

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