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2013年2月14日 (木)

繋がるほどに孤独(4)

人間は、群のなかの一員であり、特定の他人との間に、情感の交流が相互にできて、それ故にその相手から自分の存在が認められていることを確認して安堵する本能を持っています。このような関係(絆)が、相手の死などによって、突然断ち切られると、『寂寥感』『喪失感』に苛(さいなま)まれます。

永い生物進化の過程で、人間の脳は、そのように反応するように仕組まれているわけですから、程度の差はあれ、誰もが回避できません。人間の脳にとって『寂寥感』『喪失感』はストレスですので、これを軽減しようとする『ヒーリング機能』がこれも本能的に働きます。意図的に忘れようとする努力もありますが、何らかのホルモンが分泌されて、時間とともに軽減するようになっているように見受けられます。しかし、完全に消滅はできませんから、『家族、友人の死』や『戦争、災害の悲惨な体験』は、その人が生きている限り『つらい記憶』として付きまといます。

情感の交流ができる相手が周囲に一人もいない人は、絶望的で慢性的な『孤独』に苛(さいな)まれ、そのような強いストレスは『ヒーリング機能』などでは対応できなくなり、『精神世界』に歪みが生じます。ひどい場合は『自殺願望』や『無差別殺人願望』にまで発展してしまいます。

自分以外の人間との情感の交流は、相互作用ですから、自分から働きかけないと、相手も対応してくれないことを理解しなければなりません。『愛さなければ、愛してもらえない』という話ですが、母親の一方的な溺愛(できあい)だけで育った子供が、大人になっても情感の交流は、相互作用であり、自分からの行為が必要であることに気付かないと、自分で『孤独(ひきこもり)』環境をつくりだしてしまいます。

『情報機器』を利用して『絆』を確認しようとするのは、直接の対人関係で『絆』を確認することに比べると、確かに問題はありますが、『孤独』を回避するということでは、それなりの効用があるとも言えます。

『シェリー・タークル』の指摘する『孤独』は、本当の『孤独』にくらべれば、まだ救いようのあるものかもしれません。

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