« 映画『12人の優しい日本人』(3) | トップページ | 映画『12人の優しい日本人』(5) »

2013年2月 3日 (日)

映画『12人の優しい日本人』(4)

この映画の『裁判』では、被告の若い女性(妻)が、人気(ひとけ)のない夜間の路上に酔っている夫を連れ出し、走ってくるトラックの前に夫を突き飛ばして殺したという容疑で検察から告訴されています。被告や弁護側は、偶然の『事故』であって『殺意はない』と主張しています。 

『殺意』という精神世界の抽象概念の存在を、『理(論理)』で説明することができれば『殺人罪』として『有罪』になりますが、説明できなければ『疑わしきは罰せず』のルールで『無罪』ということになります。被告(妻)と夫は路上で諍(いさか)いをしていたとすると、夫の暴力的な攻撃を避けるために、妻が突き放そうとしたということならば『正当防衛』という解釈も成立し、これも『無罪』の可能性が高まります。 

『咄嗟の、または計画的な殺意』や『正当防衛』という、抽象概念の存在を『理』で説明できるかどうかを思考し、その結果で『有罪』『無罪』を決めるという『情』の入り込まないプロセスに多くの日本人は不慣れで、それがこの映画の陪審員の言動になって現れます。 

『無罪(有罪)のような気がする(情の判断)けれど、理でそれを説明できない人』『潜在的な偏った価値観で判断しておきながら、自分が偏った価値観を持っていることを自覚していない人』『理のプロセスは理解しているために、逆に前提が変わると主張がコロコロ変わる節操のない人』などを、脚本家の『三谷幸喜』は実に巧みに登場人物(陪審員たち)として書きわけています。これらの人たちが交わすトンチンカンな会話が、『喜劇』を盛り上げていきます。 

梅爺が特に面白いと思ったキャラクターは、一人の女性陪審員で、彼女は、『全てを忠実に記録する性癖』が強く、裁判における証言、質疑の内容を手帳にきめ細かく記録しています。この記録内容は、陪審員たちが議論する時に大いに役立つものですが、彼女自身は、『情報を記録する』ことに満足してしまっていて、『情報が持つ本質的な意味』を考える能力を欠いています。 

この女性は、梅爺の眼には『日本の教育がつくりだす典型的な人物』として映りました。つまり『沢山のことを正しく知っている』ことを重視するレベルに止まっていて、『知識の裏側の本質』について『自分で考える』ことに興味を示さない人物です。このような人は『知る』ことは自分で『考える』ための手段に過ぎないとは思い及ばず、ただただ『知る』ことに情熱を傾けます。このため、教室では先生の言葉を一字一句もらすまいとノートに書き留めたり、『新聞や雑誌にこう書いてある』『誰それと言う学者や評論家はこう主張している』というようなことにこだわったりします。疑問の回答は、自分で考えて獲得しようとせず、他人の主張の中に見いだそうとします。日本では『博覧強記』の人は『頭の良い人』と尊敬されますが、意外なことに、このような人が自分の『考え』を持ち合わせていないことに、梅爺は気付くようになりました。 

『物質世界』の法則に関しては、確かにニュートンやアインシュタインに回答を求めるしかありませんが、『自分の生きがいは何か』などという『精神世界』の問いへの回答を、他人の中に見いだそうとしても、うまくいくとは限りません。 

『沢山外から得た知識を持っている』ことも精神世界に安堵(満足)をもたらす要因ですが、それよりも『沢山自分の考えを持っている、考える方法論を知っている』ほうがより安堵(満足)は深まるように思います。疑問への回答を常に他人(外の世界)に求めようとすると、回答が無いかもしれないという不安に駆られますが、自分で考える場合は、なんとかなる、なんとかしようという気持ちになるからです。

|

« 映画『12人の優しい日本人』(3) | トップページ | 映画『12人の優しい日本人』(5) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 映画『12人の優しい日本人』(3) | トップページ | 映画『12人の優しい日本人』(5) »