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2013年2月 2日 (土)

映画『12人の優しい日本人』(3)

映画の導入部で、一室に集められた陪審員が、好きな飲み物を注文して良いと言われ、メニューの中から各自選ぶシーンがあります。『私はこれにします。あ、やっぱり変えてこれにします』と言ったり、他人の注文を聴いて『さっきの注文は取り消して、私もそれにします』などと大騒ぎになります。 

自分の飲み物さえ主体的に直ぐに決めることができない人たちが、これから他人の厳粛な『有罪』『無罪』の議論、票決に立ち向かおうとする滑稽さを『三谷幸喜』は、暗示しています。 

ことほどさように、この映画では、何気ない発言や表情の中に、登場人物の個性を暗示するものが、計算されて組み込まれています。それらは、人間の特質でもあり、特に日本人にありがちな特質でもありますから、映画を観ている人は笑ったり、身につまされたりします。『三谷幸喜』の洞察力に梅爺は感服しました。梅爺は『三谷幸喜』が大好きで、彼が脚本を書いた『笑いの大学』や監督を務めた『ラジオの時間』といった映画もお気に入りです。 

最初に、陪審員長(12人の中から選ばれた人)が、一人一人に『有罪』か『無罪』かを問います。多くの人は、『有罪と思う』『無罪と思う』と答えますが、『何故そう思うのですか』と問われると、論理的な説明ができず、『何となくそう感じます』と自信なさそうになってしまいます。 

このことは、人間が『情』で判断することは容易で速いのに対し、『理』で判断することが極めて難しいことを示しています。生物進化の過程で、『安泰かどうかを瞬時に見極める能力(生物に共通する能力)』が優先され、それが人間の脳に『本能』として受け継がれているからです。『理』で論理的に考えると言う能力は、後に人間が獲得したもので、咄嗟の場合の判断は『情』が優先するのはそのためです(脳は『情』と『理』の二重構造になっており、『情』が根底にある)。 

梅爺も、『ピーナッツ』が好物ですが、『何故好きなのですか』と問われれば答に窮します。『好き、嫌い』『美味しい、不味い』『美しい、醜い』は、『情』の判断ですので、『理』で説明することは、あまり意味がありません。そして重要なことは『情』の判断には、個性があり、全員同じとは限らないということです。梅爺の好物は『ピーナッツ』ですが、誰もがそうとうは限りません。ある人が『モーツァルトは好き』、ある人は『ピカソは嫌い』と『感ずる』のは、個性であって、『モーツァルトを理解できない人は教養が無い』などと非難するのはお門違いです。『信ずる』『期待する』『夢見る』なども『情』の行為ですから、個性に差異があり、『理』で説明することは必ずしも易しくありません。このことは意外に理解されておらず、『私と同じように信じない、期待しない、夢見ないのは怪しからん』と他人を非難する行為が、世の中には満ち溢れています。 

この映画の陪審員の多くが、『何となく無罪(有罪)と感じた』というのは、いわゆる『直感』ですが、脳は、瞬時に取得した複数の情報を並列処理して、『直感』を創り出します。『直感』は実に重要な判断で、『当たる』こともありますが、後に『間違い』と判明することもあります。『親切な人と直感で判断し、付き合ったら裏切られた』などという体験を私たちは繰り返し、生きています。 

陪審員の責務は、『理』で『有罪』『無罪』を説明し判断することで、、この『理』で判断する行為を、多くの日本人は苦手にしています。社会も『理屈っぽい人間』を忌避する風潮があります。梅爺のような『理屈屋』は、会社では『ぐずぐず言っていないで、汗を流して働け』と言われることになります。 

欧米(特にアメリカ)では、『理』による説得能力が、社会人として重要視され、小学生の時から『ディベート(議論)』『プレゼンテーション(表現)』の訓練を受けます。梅爺は、アメリカ人と仕事の上でつきあって、この『彼我(ひが)の差』を嫌というほど体験しました。しかし、日本人としては『理屈屋』の梅爺は、むしろアメリカ流が心地よいこともありました。

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