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2013年2月 6日 (水)

日本近世の民衆宗教(1)

2013年の1月を迎え、NHK地上波教育放送で、『日本人は何を考えてきたのか』シリーズの放映が再開されました。2012年1月に4回、7月に4回、そして2013年1月に4回と、このシリーズは12回で構成されています。以前に放送された時の感想はブログで紹介しました。 

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-9944.html 

『歴史』を事件、人物の行動などで紹介することは、そう難しくありませんが、単なる知識の伝達に止まり、深い興味の対象にはなりません。『1600年、関ヶ原の戦いで、徳川家康率いる東軍が、石田光成率いる西軍に勝った』と歴史の時間に教えられ、試験のために『1600年』『関ヶ原の戦い』『徳川家康』『石田光成』という単語を暗記させられましたが、梅爺は少しも興味が湧きませんでした。『沢山正しく暗記している子は頭がよい子』という評価は、日本の知識偏重教育の象徴のように思います。教育は『自分で考える方法』を教えることが主体で、知識は補助手段に過ぎないと梅爺は考えています。『考える方法』は応用が効き、考えるために必要な知識は自ら探し求めるようになります。知識だけを詰め込むことは、極めて効率の悪い教育方法です。 

『歴史』と『思想』の関係を解説することは、梅爺にとってはこの上ない興味の対象ですが、一般的には易しくはありません。したがって『日本人は(歴史の中で)何を考えてきたのか』というこのシリーズ番組は、大変勇気のある挑戦です。特に公共放送であるNHKが、これを取りあげようとすると、『公平さ』への配慮が求められますから、がんじがらめの手かせ足かせの中で、ギリギリの表現をしなければならなくなります。『思想』は、ある意味で偏っていることに特徴があるからです。ある『思想』には、必ず『反思想(アンチテーゼ)』があり、両方を公平に『こうとも言えるが、一方こうとも言える』などと紹介していては、主旨がボケてしまいます。 

『梅爺閑話』は、梅爺の責任で『偏った主張』が許され、偏っているが故に『なるほど、そのように考える変な爺さんがいるのか』と興味をもっていただけますが、公共放送のNHKはそうはいきません。 

特に9回目の番組は、大正末期から昭和の初期にかけて、『国体』を揺るがしかねない宗教団体『大本教(おおもときょう)』が出現し、民衆と国家権力が対立した事件をあつかっていますので、『宗教と政治』という微妙な問題を扱うことになります。『大本教』は今でも存続する宗教団体ですので、NHKは教義そのものへの批判的な表現は控えねばなりません。 

従って『大本教』の開祖『出口なお』や、布教の中心人物『出口王仁三郎(おにさぶろう)』の言葉をありのままに伝え、『何故新興宗教が生まれたのか』『何故民衆の支持が得られたのか』『何故国家権力と対立したのか』という時代背景との関係を中心に番組は構成されていました。 

梅爺は『大本教』に関しては、ほとんど知識がありませんでしたので、番組構成内容だけでも十分興味が湧きましたが、NHKが触れない部分でも、色々考えさせられました。『大本教』は、世界の他の『宗教』と同じ本質を備えていると感じたからです。 

京都府の田舎『綾部』で、すさまじい極貧を経験した主婦『出口なお』が、55歳の時に突然『神がかり(トランス状態)』になり、『神の言葉』を、口にし、筆で書きとめるようになります。まともな教育を受けていませんから、漢字抜きのひらがなだけで書き綴られている資料は『筆先』と呼ばれ、『大本教』の教義の土台になっています。

『預言者』や『開祖』が、『神がかり』になったり『神のお告げ』を受けて、突然『神の言葉』を口にするようになるというパターンは、『宗教』の常道で、『大本教』も例外ではありません。『預言者』や『開祖』の『精神世界』に何が起こったのか、これは『超自然現象』と言えるのかどうかなど、現時点では解明の方法が見当たりません。『出口なお』が、突然『出口なお』をはるかに越えた存在になったかどうかは、周囲が判断することになりますが、これも明確な判定基準がありません。

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