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2013年2月21日 (木)

考える愉しさ(1)

梅爺が6年以上ブログを書き続けて得た強い実感は、当たり前なことですが、『考える愉しさ』は、自分が生きていることを意識できる最高の手段になりえるということです。

仕事の現役時代は、次々に押し寄せる難題を何とか克服しようと知恵を振り絞り、決断をし、時にはうまくいって喜び、時には絶望の淵にまで押し戻されて落胆を繰り返しましたが、どちらかと言えばそれらの難題は、与えられたもので、自分の興味の対象とは言えないものでした。当時は若かったこともあり、『生きている』ことは当たり前と生意気に思いこみ、ハードルを越えようと挑戦し続ける自分の行為に満足をしていたような気がします。勿論、組織がそういう自分を必要としてくれているという満足感もありました。

定年で仕事を引退した人の多くが、心の中から何かがスッポリ抜け落ちたような虚脱感を味わい、家の中でも『粗大ごみ』のように扱われて当惑するという話をよく耳にします。梅爺も生活パターンの変化になれるまでは、落ち着きませんでした。それでも、『これからは、自分を最優先に考え、わがままに振舞おう』と開き直った結果、自堕落な生活が日常化してしまいました。

そのような状況で、偶然『ブログを書こう』と思いついたのは、大変幸運なことでした。『書く』と言う行為は、頭の中で『対象内容』をまとめ、『表現形式』を詮索しなければなりませんから『考える』ことが前提になります。『見る』『観る』『読む』『聞く』『聴く』も、二次的に『考える』行為を誘発しますが、意識的に『考えた』というより受動的に『考えさせられた』ことになります。一方『書く』は『能動的(自分で対象を探して)に考える』色彩が濃くなります。

その分『書く』ことは『苦しさ』を伴い、『それより、テレビか映画を観ていた方が楽だ』と投げ出したくなりますが、その『苦しさ』を克服してみると、『観る』『聴く』『読む』では得られない大きな満足感が待ち受けていることを実感するようになりました。登山をする人と同じ心境なのでしょう。

梅爺は、『物識り』ではありませんので、自分が『識っている』ことを書こうとすれば、ブログは直ぐネタ切れになることは眼に見えていましたので、『考えたこと』『感じたこと』を書こうと先ず決心しました。

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