« 日本近世の民衆宗教(1) | トップページ | 日本近世の民衆宗教(3) »

2013年2月 7日 (木)

日本近世の民衆宗教(2)

地球上の広域に布教を成功させた『宗教』は、7世紀の『イスラーム』以降出現していないのは何故だろうと、梅爺は前に書いた記憶があります。 

しかし、それ以降『新しい宗教』の出現は影をひそめたのではなく、沢山の新興宗教が出現したものの、『世界宗教』と言われるレベルにまでは至らなかったという表現が妥当ではないかと思います。云いかえれば、何故新興宗教は『世界宗教』にまで発展しないのか、という疑問になります。 

『科学』『文明』『教育』のレベルが変わり、人々は『理(理性)』で判断する度合いが高まったという変化が影響しているように思いますが、簡単には立証できません。『理』で考え出された『イデオロギー』が、『宗教』に変わって近世、現代では人類社会へ大きな影響力を持つようになったようにも見えます。 

『イデオロギー』といえども、最後は『信奉する(信ずる)』という『情』に属する行為がないと成立しませんから、人間は、『信じて生きる対象を何かしら必要とする』という習性を持っているのかもしれません。 

『宗教』が成立するには、『神の言葉を伝える開祖、預言者』と、それを信ずる『信徒たち』の存在が必要になります。たとえ『立派な内容の言葉』であっても、信ずる人達がいなければ、成り立ちませんし、逆に『怪しげな内容の言葉』でも、信ずる人たちがいれば成り立ちます。ただし、土着宗教の多くは、遡(さかのぼ)って誰が『開祖、預言者』であったかを特定ができず、『伝承』がベースになって信仰行為が継承されています。『この山には神が宿る』『この大木は御神木である』というような云い伝えがそれにあたります。 

何でも信仰の対象にしてしまう人間の不思議な習性を、昔の日本人は『鰯(いわし)の頭も信心から』と一方で笑い飛ばしています。『大真面目』と『笑い』が紙一重であることを喝破している諧謔精神が、梅爺は大好きです。『チャップリン』『伊丹十三』『三谷幸喜』などは、この紙一重を利用して私たちを笑わせてくれます。 

梅爺は『宗教』を軽んずるためにこのようなことを書いているのではありません。人間の『精神世界』では、生きるために信ずる対象を必要とし、『宗教』がその目的のために極めて効果的であることは承知しています。しかし、人間の『精神世界』には、一方で因果関係が曖昧なものには不安を感ずる厄介な習性もあり、『信ずる』ことよりも『疑う』ことを優先することがあります。『宗教』は『信ずる』ことをベースに成立しますが、『疑い』の対象になる宿命も帯びています。

『物質世界』には『真偽』を判定する基準がありますが、『精神世界』の『真偽』の判定は相対的なものが大半です。このために『信ずる』ことが大きな意味を持ちます。『安泰』をもとめて『信ずる』ことになりますが、やがて『本当に信じてしまって良いのだろうか』という『疑い』も芽生え、『信ずる』ことが次なる不安を呼び起こして安泰を脅かすことにもなります。『精神世界』は実に厄介です。

|

« 日本近世の民衆宗教(1) | トップページ | 日本近世の民衆宗教(3) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 日本近世の民衆宗教(1) | トップページ | 日本近世の民衆宗教(3) »