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2012年11月30日 (金)

地球外生命体再び(1)

以前に『地球外生命体』というタイトルのブログを紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-0a8c.html

その後、テレビの科学番組などを観て、前回のブログでは『液体の水』の存在にこだわりすぎた感があることに気付きました。

科学者は、『生命体の誕生と進化』には、次の三つの条件が必須と考えていることを知りました。

(1)有機物が存在すること
(2)液体が存在すること(液体は水とは限らない)
(3)何らかのエネルギーが取得できる環境であること

地球の『生命体』は、『液体の水』を必須としていますので、地球外に『液体の水』が存在すれば、そこには地球の『生命体』に似た『生命体』が存在する可能性が高いことになりますが、『液体』の範囲を『水』以外に広げても可能性があると科学者は考えているようです。『液体』は『有機物』を溶かし、更に複雑な組成の『有機物』を産みだす可能性を秘めていて、このことが『生命体』の誕生や進化には必須の条件ということなのでしょう。つまり、『液体の水』だけにこだわる必要は無いということになりす。

1997年にNASAが打ち上げた『土星探査機カッシーニ』は7年後に『土星』に近づき、『カッシーニ』から分離された小型探査機『ホイヘンス』は、『土星』の惑星の一つである『タイタン』の大気層をくぐりぬけて地表の観察に成功しました。『タイタン』は外側から観察するとオレンジ色の大気層しか見えませんが、地表の光景は科学者の予想を越えたものでした。そこには『山(氷)』や沢山の『湖(エタンまたはエチレン)』が存在することが判明しました。極低温の『タイタン』の環境では、『水』は固体でしか存在できませんが、『エタン(またはエチレン)』は液体で存在できることになります。

『タイタン』に『液体』が存在するということで、直ぐに『生命体』の存在と結びつけるわけにはいきませんが、少なくとも一つの条件はクリアしていることになります。『地球』以外でも太陽系には『液体』が存在することが確認できたのは、画期的な発見です。

『私たちは、宇宙で孤独な存在なのか?』という基本的な疑問を解明しようと、科学者は『地球外生命体』の発見に取り組んでいますが、皮肉なことに『地球の生命体』自身が、どのようにして誕生したのかを解明できていません。

『地球』では、38億年前の地層から、『生命体』の痕跡が発見されていますから、太陽系や『地球』が誕生した46億年前から、8億年後には『生命体』が出現していたことが分かります。勿論この『生命体』は、単細胞生物、微生物であり、これが、現在のような多様な『多細胞生物』へと進化を開始するまでには、更に30億年以上の年月を必要としました。

5億年前の『カンブリア紀』に、『生物進化』は『爆発的』に開始しますが、それを可能とする地球環境が整ったためと考えられます。現在『地球』には3千万種の『生物』が生息しています。『人類』の歴史は、たかだか800万年で、私たち『現生人類(ホモ・サピエンス)』に至っては、たった20万年程度の歴史でしかありません。

『地球』の歴史(46億年)、『地球生命体』の歴史(38億年)を考えると、私たち『現生人類』は、最後の一瞬(20万年)に現れた『新参者』に過ぎません。それにもかかわらず、自分たちはこの『地球』のずっと支配者であったかのような、勘違いをしているのではないでしょうか。『神』は、人間のいない『地球』で、四十億年近い間、何をなさっておられたのだろうか、などという失礼な疑問が、つい頭をもたげてしまいます。

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2012年11月29日 (木)

イスラームにおける『法学』と『神学』(6)

『ムハンマド』が出現する前のアラビア半島の部族の中にも『掟』はあったはずです。しかし、『イスラーム』が人間の生活の全てを支配するものとして確立した後は、『掟』も『イスラーム』の支配下に属するようになり、『イスラーム』にかかわる『法学者』が、『法』を作り上げていきました。今でも『イスラーム』社会では、『難問』が生ずると『最高指導者』に『見解』を求めます。

一方、パウロが世界布教を目指した『キリスト教』は、法治国家として体制が確立していた『ローマ帝国』への布教を目指しました。現実対応として『ローマ法』を全面否定せずに、『教え』と『法』の共存を認める姿勢を採用しました。

この『教え』と『法』の共存の考え方と、ギリシャ哲学の理性による真理追究の考え方が、その後の西欧社会の『法』の基盤になっていったのではないかと梅爺は思います。『キリスト教』社会と『イスラーム』社会が、異文化である原因の一つがここにあるようにも思います。

『法』の根源に、『宗教』の『教え(是非の判定)』が関与することは、完全には排除できないとは思いますが、『宗教』が『法』を支配するという考え方は、健全ではないと梅爺は思います。日本にも『法』を神聖視する方もおられますが、多くの方々は、その時点で『合意した人間の知恵』であると受け止めていますから、日本人の現在の『法』に関する感覚は概ね健全であると思います。

一方『神』を研究対象にする『神学』は、『宗教』にとっては、『諸刃の剣』ではないでしょうか。『神』は『人間の理解をはるかにこえた存在』であるなら、『研究』はそもそも無意味ですし、『研究すれば理解できる』とすれば、なにやらありがたみが希薄になってしまいます。更に、前にも書いたように、『神学』によって、異なった『解釈』が出現するというのも、『絶対唯一』ではなくなってしまう矛盾の種になりますから、困りものです。

『イスラーム』のように、『つべこべ言わずに、矛盾は矛盾としてありのままに受け容れろ』と『神秘主義』で居直ってしまうのも一つの対応ですが、一方『理性で納得しないと承知できない』という人間の習性を、封じ去ることはできませんので、どの『宗教』でも、多かれ少なかれ『神秘主義』と『理性での納得』のせめぎ合いは避けられません。

『神秘』は存在すると考えるか、『神秘』は存在せず『神秘にみえるもの』が存在するだけと考えるかが一つの分かれ目です。そして『神秘』の全ては解明できると考えるか、最後まで解明はできない(謎は謎を呼び続ける)と考えるかも立場の違いを生みます。

梅爺は、人間の能力に限界があるために、『神秘にみえるもの』が存在するだけと考えていますが、一方『神秘』の奥の奥をいくら追求しても人間は最後の真理には到達できないのではないかと『感じて』います。

『感じて』いるだけですから、論証はできません。

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2012年11月28日 (水)

イスラームにおける『法学』と『神学』(5)

人間の『信ずる』と言う行為の背景には、2種類があり、一つは、『無条件に信ずる』または『そうあって欲しいから信ずる』という、『理性』の判断を伴わないものです。もう一つは、『理に適っていると思うものを信ずる』というものです。

本能的に『安泰』を求める脳の基本機能が両者に関与していますが、前者は『自分にとって都合のよいことを求める(都合の悪いことは安泰を阻害する要因)』という『情』が強く作用しているのにくらべ、後者は、『納得できないことは安泰を阻害する(不安が残る)』として『理』で先ず納得することを最優先しようとしています。古代ギリシャ哲学は、後者の『理性で真理を追い求める』ことを『人間らしさの根源』として重視しました。

誰もが、人間である以上、2種類の『信ずる』行為を行っていますが、『論理的な思考』を好む人は、後者の比率が高いことになります。『科学者』や『哲学者』はこのような人達です。

『聖書』や『クルアーン』の内容は、『神』に関する記述なので、『無条件に信じなさい』と言われて、『はい、わかりました』と素直に従う人ばかりであれば、問題は起きませんが、『論理的な思考』がどうしても気になる人には、『聖書』や『クルアーン』の内容といえども、『理解できない』ことは放置できなくなります。

思いきって『神は存在しない』のではと視点を変えれば、『聖書』や『クルアーン』は、人間が創出した書物の一つに過ぎず、内容に、不備や矛盾があっても、当然なこととして悩みは解消します。『コナン・ドイル』や『アガサ・クリスティ』の良くできた探偵小説にも、あらを探せば不備や矛盾は見つかります。

しかし、『神』を否定せず、『聖書』や『クルアーン』は本来神聖なものという前提で、矛盾を何とか『理』で克服しようとするために、宗教関係者の悩みは深まります。『内村鑑三』や『新渡戸稲造』が、キリスト教と格闘したのも、このためです。『理』で考えれば『神』は存在しないことになる、しかし『神』を信ずることでもたらされる『心の安らぎ』は明らかに実感できる、一体これはどう説明すればよいのかと、二人は考え続けたに違いありません。

『イスラーム』でも同様で、最初に『理』で矛盾を克服しようと言う神学者が出現しますが、やがてどうしてもうまくいかずに、反動として今度は、『矛盾に悩むことはない、何もかもありのままに受け容れるべきだ』という『神秘主義』の考えが台頭してきます。『イスラーム』に今でも色濃く反映している『神秘主義』をみて、西欧の理性を重んずる人たちは、『とてもついていけない』と感ずるのでしょう。梅爺の友人も、『あの地面に頭をつける礼拝(らいはい)の姿をみただけで、いかがわしいと感じる』と言っています。『神秘主義』では『理性は放棄せよ』という色彩が強まることになり、『アッラーの他に神は無い』とただただ唱えるだけの宗派や、トルコのメヴラーナ派のような、輪舞する宗派が出現します。しかし、『キリスト教』にしても『奇跡』を無条件で受け入れるように説いているわけですから、『神秘主義』と無縁ではありません。理性だけでは『宗教』は成り立たないのではないでしょうか。

『イスラーム』の『神秘主義』の形式は、一見、原始的な宗教へ立ち戻ったように見えますが、明らかに『心の安らぎ』は得られるために大衆からは支持されることになります。念仏さえ唱えれば救われるという日本の仏教の宗派もこれに該当します。踊り続けて、やがて『神がかりになる(トランス状態になる)』様式は、アフリカの原住民の儀式や、日本の古い御神楽(おかぐら)にもみられます。魂が身体から離れて浮遊する感覚が得られる『トランス状態』は『宗教』の起源を解明する鍵かもしれません。

『神や仏を信ずる』ことは『心の安らぎ』を得る有効な手段で、現状では人間が思いついた最高の手段でもありますが、それしか手段がないわけではありません。『神秘』として思考を放棄せずに、人間にとって『心の安らぎ』とは何かを、あらゆる前提を排除して考えてみる必要があるように梅爺は思います。多分それは『脳』のしくみを解明することなのかもしれません。

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2012年11月27日 (火)

イスラームにおける『法学』と『神学』(4)

梅爺は、『梅爺閑話』で度々、『神』に関する小賢しい見解を提示してきましたが、迂闊なことに『神学とは何か』について、深く考えたことがありませんでした。 

『神学論争』という言葉は、『神の存在』を巡る『結論のでない不毛な論争』を揶揄(やゆ)する場合にしばしば引用されますので、『神学』を無意識に軽視していたのかもしれません。 

『神』は『信ずる対象』であって、『疑う対象』ではないとすると、『神学』とは一体何をする学問なのでしょうか。『学問』は『疑問』から出発するものであるとすると、『神学』は、本来『宗教』とは相容れないものであるような気がします。 

『神学』が、『キリスト教の神学校』『イスラームの神学校』などと形容句と一緒に表現されますので、『神』の存在を無条件に認めるという『前提』で行われる『学問』であるということになり、『学問』としては、極めて特殊な分野であることが分かります。ふつう『学問』では、あらゆる前提を『疑う』ことが許されるからです。従って『神』の存在を疑う学生は、退校処分になるか、退校はなくても、不出来な学生ということになるのではないでしょうか。

『神の意図』『預言者や教祖の言動』を記述した、『聖書』『クルアーン』『ハディース』の内容は、ありのままに受け容れて信ずればよいはずですが、信徒の中からも、『どう解釈すべきか』という疑念が生ずるために、『解釈』の提示が必要になります。この『解釈』を模索するプロセスが『神学』ということになりますが、困ったことに異なった『解釈』が登場し、混迷度が深まります。

同じ『宗教』でも、この『解釈』の違いが、『教派』を生む原因になり、『キリスト教』も、『カトリック』『正教』『プロテスタント』と枝分かれし、更にその中も厳密には異なった『教派(宗派)』に枝分かれする事態になります。『イスラーム』も『シーア』『スンナ(スンニ)』といった『教派(宗派)』に分かれることになりました。

『唯一絶対な神』と言いながら、人間側からの『解釈』が異なり、お互いに自己主張を取り下げることなく、枝分かれしていくところに、『宗教』の基本的な矛盾が存在するように梅爺は感じてしまいます。『解釈』の違いを認めれば、『色々な神のありよう』を認めることになり『唯一絶対』ではなくなってしまうからです。しかし、『神』も『宗教』も、実は人間が考え出したものだと視点を変えれば、この矛盾は消え去ります。云いかえれば、『神の真意はこうだ』と人間が『解釈』を示さなければやっていけない事態が、『宗教』は人間の創造物であることの、間接的な証左になっているような気がします。

梅爺が、このような理屈を振り回したり、『教派』は『解釈』を巡って自説を展開したりするのは、古代ギリシャ哲学から継承されている、『理性的な論理思考の重視』が基盤にあるからです。

『聖書』や、『クルアーン』『ハディース』の個々の文章には論理矛盾がないとしても、一つの文章と他の文章との間に論理矛盾が見つかることがあり、『神学者』が登場して『解釈』を下す必要に迫られます。『この世の事象は全て神の支配下にある』『人は己の行いの責任を取らねばならない』という二つの文章は、個々には論理矛盾がありませんが、一緒に考えると『自分の行いも神の意図であるならば、行いの責任は自分ではなく、神がとるべきではないのか』という屁理屈を云いたくなるはずです。

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2012年11月26日 (月)

イスラームにおける『法学』と『神学』(3)

近世の西欧諸国(大半はキリスト教文化が基盤)や、それを模倣しようとした日本では、『法律』は、『宗教』とは切り離した独立の領域の『学問』として進展してきました。『善悪の区別』という点で、『宗教』とは無縁とは言えない場合がありますが、あえて切り離して考える努力がなされてきました。それでも、『離婚』や『避妊・堕胎』は認めないというカトリックの教義と、『法律』との間には軋轢が生ずることになりました。『人間の知恵が創り出す約束事(法律)』を、『神のご指示(教え)』に優先することは、信仰を重んずる人には耐えがたいことで、今でも『神のご指示』が正しいと主張する人は絶えません。梅爺のように、『神』や『神のご指示(絶対的な善)』という概念も、元はと言えば人間が考え出したものではないか(実体としては存在しないのではないか)と推測する者には、矛盾なく得心できることですが、信仰の基盤に疑念を呈することは、『宗教』では論外ということになります。考え方の前提が異なっていますので、これは議論で方がつく話ではありません。

『キリスト教』がローマ帝国へ浸透するには、既に存在していた『ローマ法』との関係を配慮する必要がありましたが、『イスラーム』では、新たに国家を形成することや他国を制圧するプロセスで、啓典『クルアーン(コーラン)』や『ハディース(ムハンマドの言語録)』の内容を『法律』としていくことに大きな支障はありませんでしたので、『法学』は、『クルアーン』や『ハディース』の中から『掟』を抽出する行為として進展したことになります。元々、『掟』だけを目的として記述されたものではない表現の中から『掟』を抽出し体系化するわけですから、教えの本質を解釈して理解する『学者』を必要としました。

西欧の法学者が、『万人共通の基本的人権』『善悪の規範』『規律違反への刑罰とその量刑』『裁判とその制度』などを基盤に『法体系』を考えていったのに対して、『イスラーム』では、『アッラーの真意』は何かを基盤として『法体系』を考えたということですから、同じ『法学』という言葉の意味がかなり違っていることになります。

梅爺は、個人的には西欧の『法学』の方が好ましいと感じますが、『イスラーム』基盤の『法学』は、間違っていると断ずることはできません。

『イスラーム』が、私たちにとって『異文化』であることの大きな要因の一つが、この『法』に関する基本認識の違いであるように思います。

トルコのように、『イスラーム』を基盤としながら、西欧流の『政教分離』の政治体制を指向する国家の苦悩や行方は注目に値します。また、王族や独裁者が支配する『イスラーム』はどのように変貌していくのかも注目に値します。大きな矛盾をはらむ社会には、必ず極端な『原理主義者』が登場するのも、人間社会の特徴で、その点からも『イスラーム』から目が離せません。21世紀に『イスラーム』はどのように変貌するのかが、世界の安定と大きな関り合いを持っています。

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2012年11月25日 (日)

イスラームにおける『法学』と『神学』(2)

梅爺が、『掟(おきて)』と『法』とを区分したのは、近代の『法』の概念が確立するまでには、幾多の変遷があったのであろうと推測したからです。『法学』を学ばれた方には、釈迦に説法で恐縮です。『法の前では、王様も乞食も平等』というような考え方を確立したのは、イギリスであったと記憶していますが、近代国家の基盤として、特筆すべきことです。理性的な論理を尊ぶギリシャ哲学の思想が、脈々と西欧社会に継承された結果といえるのではないでしょうか。

人間の原始社会(コミュニティ)に、『掟』が出現するプロセスは、『長老の命令』『主だったメンバー(男達)による合議』など色々考えられます。しかし『掟』が長期間『コミュニティ』に根付くためには、単に『命令』『決定』である以上の何らかの要因を必要とします。つまりメンバーが納得する理由や権威付けが必要になります。『コミュニティ』を『安泰』に保つための『掟』は、メンバーが個々に『安泰』を希求する本能と一致しますから、受け容れ易いものとなります。『殺すな』『盗むな』などは、これに相当します。権威づけの方法として、有効なのは、『コミュニティを護ってくれている神の命令』であるとすることです。神の言葉を伝える特別の能力をもった『シャーマン(呪術師)』が、コミュニティの指導者である必然性がここにあります。『邪馬台国』の『卑弥呼』などがその例です。

私たちは『神』という言葉を聞くと、『唯一の神』『全知全能』『善の象徴』などを思い浮かべますが、原始社会の『神』は、必ずしもそのようなものではなかったと認識する必要があります。『自分達の命や生活全てを支配する得体の知れない圧倒的なもの』と考えられていたはずですので、自然災害は『神の怒り』であるとして、ただただ『鎮(しず)まって欲しい』と祈祷したはずです。

同じ『一神教』でも、『ユダヤ教』と『イスラーム』は、教義と『掟』が密接な関係にあるために、現在も『戒律』の厳しい宗教であるのに対して、『キリスト教』は、比較的に『掟』が緩(ゆる)やかであるように感じます。これはパウロが、『キリスト教』布教のために、『ユダヤ教』の『掟』の部分を極力排除したからです、このために『ローマ法』が確立していたローマ帝国にも、『キリスト教』は入り込むことができました。『キリスト教』の今日があるのは『掟』と『教え』を分離し、『教え』を重視したパウロの慧眼によるものと梅爺は考えています。

『ユダヤ教』は、モーゼの『十戒』でも分かるように、『神が下した掟を守る神への約束』が基盤になっています。現在でも日常生活にまで『戒律』は細かく及んでいます。『イスラーム』は、部族が分割支配していて、『ローマ法』のようなものが存在しない環境であったアラビヤ半島に出現しましたので、『クルアーン(コーラン)』には、信者が守るべき『掟』が盛り込まれています。

『イスラーム』を基盤とする国家で、西欧社会のような『政教分離』が難しい要因がこれに根ざしています。

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2012年11月24日 (土)

イスラームにおける『法学』と『神学』(1)

人間が構築する『コミュニティ』には、必ずその『コミュニティ』のメンバーが遵守しなければならない『掟(おきて)』が存在します。逆に云えば『掟』なしの『コミュニティ』は存在が難しいことになり、メンバーは、『掟』を守っていれば、『コミュニティ』内では最低限の『安泰』が保証されることにもなります。 

群をなして生きている人間以外の動物集団にも、不文律の『掟』があるようにみえますので、『掟』は人間だけが保有しているものではないと言えそうです。動物の『掟』は、遺伝子によって本能として受けつがれているのか、生後の『学習』で親から子へ受けつがれているのかは、浅学の梅爺には分かりません。しかし、人間の例から類推して、生後の『学習』による要素が強いように感じます。人間の場合は、『言葉』『文字』で『掟』の内容を詳細に表現し、伝承もより確実なものにしていることが特徴です

人間が動物の場合と決定的に異なるのは、『神』の概念を保有し、これが『掟』に大きな影響を及ぼすために、時に複雑な様相を呈することです。『掟』は『神』から与えられたものと考えるか、人間の知恵が生み出したものと考えるかで、『掟』の意味が異なってきます。

『神』から与えられたものならば、絶対的な正義として反論が許されなくなり、人間が考え出したものなら、相対的なものとして、事情に合わせて『変更』も可能ということになります。

梅爺は『法学』を正式に学んだことがありませんので、誤解があるかもしれませんが、近代国家における『法律』は、人間が考え出したものと言う前提で成り立っていると認識しています。つまり、『法律』は、反論が許されない絶対的な正義を表現しているのではなく、その時点の価値観で『変更』が可能なものとされていると考えています。

『避妊や堕胎の是非』『同性愛者同士の婚姻の是非』などは、国によって価値観は異なったり、同じ国でも時代によって価値観が変わることがあることからもそうであると推定できます。

現行の『日本国憲法』の内容変更を議論することは、『軍国日本への逆戻り』であると、現行の『日本国憲法』をあたかも神聖視して、議論することさえも罪悪視する方もおられますが、上記の認識を是認するならば、『内容変更の議論は結構、しかし内容変更には反対』という主張であるべきではないでしょうか。

『憲法』と『法律』は一緒にできない、『憲法』は『あるべき姿』『高い志』を反映したもので、軽々に変えてはいけないという反論もあろうかと思いますが、『憲法』といえども、人間がある状況下で考え出したものである以上、程度の差はあれ、『変更』の可能性は認められてしかるべきものはないでしょうか。

梅爺は、現行憲法を改定せよ、といっているのではありません。改定するかどうかの議論までも、罪悪視する必要はないと申し上げているだけです。

日本を含め、多くの国で、『法律』と『宗教』は、区別されていて、キリスト教文化が根底にある西欧諸国でも、そうなっているように見えます。しかし、『イスラーム』社会の国家では、少々事情が異なるらしいことを、『イスラームとは何か』と言う本を読んで知りました。

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2012年11月23日 (金)

Familiarity breeds contempt.

英語の諺『Familiarity breeds contempt.』の話です。

直訳すれば『親しさが軽蔑を育てる』となり、意訳をすれば『親しくなると相手のアラが見えて侮(あなど)るようになる』ということになります。

同様な意味の諺として、『No man is a hero to his valet.(英雄も召使にはただの人)』や、『Faults are thick where love is thin.(愛が薄れると、欠点ばかりが見えてくる)』があります。

何もかも完全な人間はこの世にいませんから、観方(みかた)によっては誰もが欠点を保有していることになります。天才、偉人と言われる人でも、欠点は免れません。天才、偉人も、外見だけでは、『一人の人間』に過ぎません。

親しく接して、相手の色々な面を知れば、『いかがなものか』と言いたくなることも必ず見つかりますから、『あなたはご存知ないので、あの人を立派と褒め称えるけれど、実はこういうひどい面がある』などと、鬼の首を取ったように言いふらしたくなる習性を凡人はもっています。

『他人から観れば、自分も欠点だらけの人間に見えている』ということを、つい忘れてしまうところが凡人の悲しさです。

相手の長所を高く評価し、相手の短所を低く評価するようにすれば、ほとんどの人間関係はうまくいくと思いますが、その逆になってしまうのは何故なのでしょう。

客観的に自分が劣っていることを直視したくないために、『あの人だってこんな欠点がある』といって、相対的に自分を高く評価したくなる本能を人間は持ち合わせているのかもしれません。自分が評価されていない、自分が無視されているという状態は、『絆』を必要とする人間と言う生物には、『安泰』を脅かす要因になり、耐えがたいと感じるからです。

『相手を貶(おとし)めて、自分を高く保とう』とする自分に、嫌悪を感じ、抑制しようとするのは『理性』しかありません。

梅爺も、その程度のことは理解していますが、つい『実は、あいつは・・』などと悪口をいって、溜飲をさげたりしていますので、この悪い癖は死ぬまでおさまりそうにありません。

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2012年11月22日 (木)

奈良『修学旅行』総括

Dscn9394平成の大修復が完成した『唐招提寺』の金堂。なにもかもが素晴らしい。

4日間の、奈良『修学旅行』の感想が、20日以上のブログになってしまいました。見聞きしたことを、頭の中で整理して、梅爺なりの『日本国家の夜明け』を想像してみましたが、歴史に詳しい方から観ると『勝手な思い込み』が含まれているかもしれません。
 

『部族による村落社会』が1万年以上続いていた縄文時代が終わり、弥生時代になると、いくつかの『ミニ国家』社会が出現し、『ミニ国家』間の2~300年間の抗争を経て、その一つが『大和朝廷国家』として主権を握り、その国家の出発点に『大和地方』が大きくかかわっているという実感を、この旅行で得ることができました。『ミニ国家』の出現には、『弥生人』の渡来は、勿論のこと、一緒にもたらされた『農耕(米作)システム』『鉄器』『建築・土木技術』『宗教』『分業による都市システム』『階級社会制度』などが関与しているように思えます。日本の中だけを『虫めがね』で覗くような歴史観では全体が見えないような気がします。朝鮮半島と日本の歴史を、一緒に俯瞰(ふかん)する努力がもっとあってもよいのではないでしょうか。 

『東大寺』『興福寺』『元興寺』『唐招提寺』『薬師寺』『西大寺』『春日大社』などの貴重な歴史遺産が残る旧『平城京』周辺は、観光地としては最適な場所ですが、『日本国家のルーツ』を体験するためには、『明日香』『巻向(纒向)』それに『橿原』(今回は訪れませんでした)へ出向く必要があります。明らかに、最初の『文明』とも言えるものは、『明日香』から始まっているように見えます。 

中国大陸や、朝鮮半島には、自分たちよりも先行する『文明』が存在することを意識しながら、それに負けまいと懸命に『国家体制』を築こうとした先人たちの情熱が伝わってきます。 

明治維新で、西欧を意識した『国家体制』を作ることに汗水をながし、また『第二次世界大戦』で敗北して、廃墟の中からの国家再興に死に物狂いでまい進した日本人の行動の原型を、『大和地方』で感ずることができます。

条件さえ整えば、最先端のレベルまで短期間に登り詰める日本人は、確かに『勤勉な努力家』の側面を持っていると言えそうです。

しかし、将来の日本に思いを馳せると、現状またはその延長で、日本が他国から尊敬される国家になれるとは思えません。『生活水準が高い』『社会インフラが整備されている』『一部の人たち、一部の会社の業績が世界的に認められる』というようなことで、『日本は立派な国』であるとは言えません。『自分とは異なった価値観の他人と、穏やかに対応できる人』『他人と情感を共有できる人』『向上心を大切にする人』が、圧倒的に多い社会を目指すべきではないでしょうか。これらは、『理』の教育だけでは達成できません。幼い時から、『情』を大切にする教育システムに接することが、重要であると梅爺は考えています。

奈良の『修学旅行』で、『日本の国家のルーツ』や、先人の驚くべき業績の数々に接して、あらためて日本人であることを意識すると同時に、将来にまで思いを馳せてしまいました。未だ書き残していることがあるような気もしますが、『修学旅行』の感想ブログは、ひとまずこれで終わりとします。

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2012年11月21日 (水)

奈良の神社巡り(3)

Dscn4117天理市にある『石上(いそのかみ)神宮』。元は物部氏(後に蘇我氏によって滅亡に追いやられた)が祭祀していた古い神社。『神宮』の呼び名で分かるように、その後天皇家の氏神を祀る重要な神社となる。『伊勢神宮』との関連も、色々推測されている。

古代の日本人は、目には見えない大きな力が自分を支配していると感じ、その力は『霊』であると考えたのではないでしょうか。やっかいなことに、この『霊』は、自分たちに『恵み』をもたらすと同時に、ある時は『災い』ももたらすものでもあると認識したにちがいありません。キリスト教的な観方をすれば、『霊』は、『神と悪魔の両面を持っている』ことになります。『善良』と『邪悪』を対立するものではなく、物事の両面として受け容れる思想は、ヒンズー教の『創造と破壊をつかさどる神』、中国の『陰陽思想』など東洋に多く見られます。『釈迦』も、人間は『仏心』と『煩悩(邪心)』とを併せ持つ存在である、という基本認識から出発しています。『理』を強調する西洋思想では、『善』と『悪』は区別できるものとして扱います(従って神と悪魔は別物)が、東洋の思想は、区別できない(あるものの両面にすぎない)ものとして受け容れているところに、大きな違いがあるように感じます。西洋哲学にも『アウフヘーベン(矛盾を超越する)』という考え方がありますが、東洋では、最初から『アウフヘーベン』が前提になっているようにも見えます。西洋と東洋のどちらの考え方が優れているかは、一概には言えませんが、好き嫌いで云えば、梅爺は東洋的な考え方が好きです。

古代の日本人は、自然界の万物に『霊』が宿ると考え、特に『偉大に見えるもの(山、巨石、大木など)』には特別の『霊』が宿ると考えたのでしょう。そして死者の魂も『霊』の仲間であると位置づけたことになります。生前、偉大であった人物、権力者であった人物、非業の死を遂げた人物などの『霊』は、特別の『霊』であると考えたに違いありません。『諱(いみな:死者の霊に与えられる名前)』の風習は、そのことを如実に物語っています。

やがてこの、信仰様式は、『神道』として確立し、神社は『霊』が宿る場所となりました。基本的な信仰形式は『縄文時代』から継承されていたものと推察できますが、『神道』としての様式化には、中国、朝鮮半島からの渡来人や、もたらされた文化が関与しているのかもしれません。

それらの集大成である大神殿が、『出雲』に建設されたのではないでしょうか。時期は、『大和朝廷国家』が成立する直前で、4~5世紀ではないかと思います。

6世紀には、『仏教』が日本へもたらされましたが、興味深いことに、日本では深刻な『宗教戦争』は起こらずに、むしろ『神仏習合』で、『神道』と『仏教』は、共存するようになります。『神が仏の姿で現れたのが権現である』などと、じつに都合のよい修験道(しゅげんどう)にような考え方も編みだされていきます。沢山の神様(霊)と馴染んできた日本人には、沢山の仏の世界を受け容れることに、あまり抵抗がなかったのでしょう。『天皇家』も権力者も、『神道』『仏教』双方にうまく対応してきたと言えそうです。明治の『廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』のみが、日本の為政者が強硬手段にでた唯一の例ですが、案の定うまくいきませんでした。

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2012年11月20日 (火)

奈良の神社巡り(2)

Dscn4096桜井市にある『大神(おおみわ)神社』。後の三輪山そのものが御神体となっている。

私たち『ホモ・サピエンス』が、いつの時点で『神』という概念を見出したのかを特定することは困難です。アフリカ、ヨーロッパ(トルコも含む)、オーストラリア、南米の古代の洞窟壁画には、宗教の祭儀と思われる絵が描かれていますし、洞窟そのものが神聖なる場所であったのであろうという仮説も存在しますが、断定はできません。

日本へ最初に渡来した『縄文人』は、渡来以前に『神』の概念を保有していたのか、日本の生活環境のなかで『神』を見出したのかも分かりません。ただ、『縄文人』が抱いていた『自然への畏怖観』『死生観』が、現在の日本人にまで、受け継がれていることは確かでしょう。

比較的穏やかな自然環境に恵まれている日本では、多くの場合自然は『恵み』の対象であり、その中に見出した『神』は、砂漠や不毛の地で生き延びようとした民族が見出した『神』よりは、比較的穏やかな性格の『神』であるように感じます。勿論それは相対的な話で、日本の『神』も、時折臍を曲げたり怒ったりして、洪水、干ばつ、台風、地震、噴火、疫病の蔓延(まんえん)などは起きましたから、人々は『神を鎮める』ために懸命に祈りました。

日本では、古代から『死者の霊』『先祖の霊』に対して、深い配慮が行われていたことがうかがい知れます。『死者の霊』『先祖の霊』が、自分たちに幸せを運んでくれるというポジティブな考え方と、不遇な死に方をした人の霊が、祟(たた)って何か不幸をもたらすというネガティブな考え方があったように見えます。生前偉大な人物であったのに、不遇な死に方をした人が、神社に祀られることが多いにはそのためでしょう。特に『殺した人』が『殺された人』の霊が祟らないように神社をつくって鎮めようとしていることは注目すべきことです。

日本の神社は、自然そのもの(山など)を祀る、神の化身(狐など)を祀る、先祖の氏神を祀る、偉大な人物を祀る、不遇な死を遂げた人の霊を鎮めるために祀る、など色々な形態があります。

特に権力者はその家系(先祖)だけを対象とした氏神を神社として祀ってきました。日本の神社は、いずれも『天皇家』と無縁ではありませんが、特に『天皇家』の『氏神』を祀る大切な神社を『神宮』と呼んで、『大社』や一般の『神社』と区別しているところは注目に値します。

『出雲大社』は大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀り、『春日大社』は藤原家の氏神を祀っているために『大社』であり、『神宮』とは呼ばれません。

特に『出雲大社』は、単に偉大な人物であった大国主命を祀っているのか、『大和朝廷国家』により非業の死を遂げた(?)ことで、祟らないようにするために祀ったのか、と今でも議論が絶えません。現在でも、皇室の方々でさえ本殿には入れないというしきたりは何故残っているのか、『2拝4拍手1拝』という独特の作法は、何故存在するのかなど、謎に満ちています。

『出雲大社』と『伊勢神宮』はどちらが古いのかは判然としませんが、梅爺は『出雲大社』の方が古いような気がします。『大和朝廷国家』が、制圧した『出雲』の宗教様式を継承して、『伊勢神宮』に自らの氏神(神宮)を祀った(のではないかと推察していますが、まちがっているかもしれません。

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2012年11月19日 (月)

奈良の神社巡り(1)

Dscn4093法隆寺に隣接する『斑鳩神社』。明日香京の時代からあったものではなく、後(14世紀)に法隆寺鎮守のためにつくられたもの。法隆寺の鬼門を守るということなので、『神仏習合』の思想が反映している。

今回の旅行で、奈良の『斑鳩(いかるが)神社』『大神(おおみわ)神社』『石上(いそのかみ)神宮』『春日大社』『談山神社』を訪れました。歴史の時系列にそって、系統的に訪れたわけではありませんが、それでも『神社』について、色々考えさせられました。
 

日本は、どこへ行っても、『神社』と『お寺』はありますので、私たちは幼いころからその存在や風景に触れて、違和感なく『環境』として受け容れています。日本人が『心のふるさと』として思い浮かべる光景には、『鎮守の杜(もり)』や『お寺の境内』が登場するのではないでしょうか。 

梅爺も、ブログを書き始める以前(6年前)は、特別に『神社』について深く考えたことはありませんでした。日本の古来の『神』を祀っている場所という、程度の認識でした。 

地球上のどの民族も、歴史の中で必ず『神』という概念を見出していますし、現存の未開の部族も『神』を保有しています。私たち『ホモ・サピエンス(現生人種)』は、『必ず神を見出す能力』を基本能力として持っているように見えます。『ホモ・サピエンス』以前の絶滅した『ネアンデルタール』などの旧人も、『神』という概念を保有していたのかどうかは是非知りたいことですが、梅爺は分かっていません。現在私たちは『抽象的に集約された単語』として『神』という言葉を使いますので、『同じもの』という錯覚しがちですが、実は、民族、部族によって、『神』として認識している対象は『異なっている』ということに、大きな意味が隠されているのではないでしょうか。民族や部族の、事情によって『神』の対象が異なっていることは、大胆に云ってしまえば『神』は人間が創り出した概念であることの証左ではないでしょうか。 

『冗談を言うな。キリスト教の神や、仏教の仏は、民族、部族を越えて信仰の対象になっているではないか』という反論があることは承知しています。人間が最初の『神』を見出すプロセスについてのことに関して、梅爺は論じているつもりですが、その後の『精神世界』が洗練されていく過程で、民族、部族の事情を取り去り、『人間に共通すること(生と死、善悪の行為など)』にのみ焦点をあてた、新しいタイプの『神』が出現したことも、もちろん承知しています。 

民族、部族固有の『神』も、その後出現した人類共通の『神』も、人間の『脳』とそれが産みだす『精神世界』が、その時々の状況に応じて考え出した『抽象概念』であるという点では同じ、と梅爺は推察しています。

梅爺がこのような主張をすると、必ず『お前は、神は存在しないと云いたいのか?』という質問を受けることになり、閉口しています。『抽象概念』であっても、人間に必要なものとして、特に『心の安らぎ』を見出す手段として考え出されたものですから、無意味であるとは思っていないからです。『愛』や『正義』などという『抽象概念』も同じことです。ただ、自然界(物質世界)のどこかに『神』『愛』『正義』などいう実態は存在しないだろうと、申し上げたいだけです。逆に云えば、人間がこの世からいなくなれば、『神』『愛』『正義』も消滅するであろうと考えています。

人間の『精神世界』と、自然界の『物質世界』は、人間が生きていくことに深く関与していますが、この二つの世界は別世界であり、色々な事象を理解するために、両者を混同して考えない方が納得できることが多いと感じています

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2012年11月18日 (日)

纒向(まきむき)遺跡(2)

Makimuki_0001交番の親切なお巡りさんから頂戴した、『纒向遺跡』紹介のパンフレット。表紙の古墳は『箸墓古墳』。

『纒向遺跡』の時代から、約2~300年後には、『飛鳥文化』が花開くわけですから、この間に、大きな文明の飛躍があったことになります。『纒向遺跡』時代にも、大陸や朝鮮半島との交流があったとすれば、当時の日本人の一部は『漢字』の存在を既に知っていたと思われます。日本語の表現にそれを流用する知恵が普及するまでに、約2~300年を要したということではないでしょうか。

遺跡の一部から、故意に破損した多数の銅鐸を捨てた跡や、多量の桃の実の種が発見されていることから、『宗教改革』のようなことが当時あったのではないかと推察されています。桃の実は、中国『道教』では不老不死にかかわる仙人の果実ということになっていますから、大陸の『道教』が伝わってきて、権力者が支配のあたらしい手段として採用したのではないかという推察になります。銅鐸はそれまでの土着の宗教の儀式の道具であったと考えられています。

『明日香』の時代に『仏教』がもたらされ、日本の支配に大きな影響を与えたように、それ以前には『道教』も同じように、支配者に利用されていたかもしれないという仮説は、興味深い話です。『支配』と『宗教』は密接な関係があるのは、洋の東西を問わないからです。

『弥生人』は紀元前6世紀頃、朝鮮半島経由で多量に渡来したと考えられています。それ以前の約1万5000年位の間は、『縄文人』が、部族単位の村落を各地に作って生活していたことになります。ゆるやかな変化で推移していた『縄文時代』が、『弥生時代』になると急速な変化を遂げるのは何故なのでしょうか。

多分、稲作農耕や鉄器の渡来とともに、権力者を中心とした大型コミュニティの文明様式がもたらされたからではないでしょうか。これによって、村落社会は、『ミニ国家』のような体制へ変貌したと考えられます。『九州』『出雲』『大和』に、少なくとも『ミニ国家』のようなコミュニティが存在したことは、遺跡から明らかです。

朝鮮半島との地理的な関係から、『九州』『出雲』の『ミニ国家』は、『弥生人』の渡来と無関係ではなさそうに思えます。『弥生人』と『縄文人』の間で何が起きたのか、土着の宗教は『縄文人』から『弥生人』へ受け継がれたのか、『大和』の『ミニ国家』は誰がつくったのか、などが疑問として次々に湧いてきます。現在の日本人の遺伝子は、地方により少しの違いがありますが、『弥生人』のものを主として継承していることが科学的に分かっています。『縄文人』の遺伝子も一部継承していますので、私たちは『混血』であることには違いがありません。人口比率で『弥生人』が『縄文人』を凌駕していったプロセスに、稲作農耕などが絡んでいたのでしょう。すなわち多くの人を養えるシステムが導入されたと推察できます。

神話(初代神武天皇の東征)や、伝承を総合すると、『大和』の『ミニ国家』は、『九州』の勢力かまたはその一部が、移り住んで作ったのではないかと思います。その後『大和』は『出雲』を制圧して、『大和朝廷国家』の基盤ができたのではないでしょうか。

いずれにしても、『大和朝廷国家』の成立は、3~5世紀のことで、『日本書紀』や『古事記』が伝える、紀元前8世紀などということはあり得無いと考えるのが自然でしょう。

今回の『奈良修学旅行』で、梅爺の日本古代史に関する知識は増え、少しばかり系統的に理解ができるようになりました。

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2012年11月17日 (土)

纒向(まきむき)遺跡(1)

Dscn9347『箸墓古墳』に隣接する池。古墳の土を掘り出してできたものであろう。赤く見えるのは、養殖されている金魚の稚魚の群。

桜井市の『巻向(まきむき)駅(JR桜井線)』周辺に広域に点在する遺跡群は総称して『纒向(まきむき)遺跡』と呼ばれています。梅爺は、前にテレビで発掘状況を紹介する番組を観て、興味があったために、Nさんにお願いして、車で連れていっていただきました。

しかし、着いてみると、観光ガイドの標識などがないため、交番に立ち寄って、尋ねることになりました。親切なお巡りさんの説明で、梅爺がテレビ番組で観た発掘箇所は、今は再度埋め戻されてしまっているらしいことが分かりました。遺跡発掘と地主の権利との間で、難しい問題があるのかもしれません。お巡りさんは、交番の奥から『纒向へ行こう!』という立派なパンフレットを探し出してきて、『どうぞ』と手渡してくださいました。

『邪馬台国』は、『近畿』か『九州』かで、考古学の議論は今でも続いていますが、かりに『近畿』であるとすれば、『纒向遺跡』一帯が最有力候補地であると言えそうです。さらに『邪馬台国』は、後の『大和朝廷国家』の先祖ということになれば、この地から、中心地が『明日香』へ移り、『明日香京』になっていったという仮説がなりたちます。

『纒向遺跡』の中で、もっとも大規模な遺跡は、『箸墓古墳(前方後円墳)』で、『卑弥呼』の墓ではないかとも言われています。『卑弥呼』が亡くなったのは3世紀半ばで、この古墳の構築時期は、それに近いことがその理由です。『箸墓古墳』は宮内庁の管理下にあり、公式には『倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)』と呼ばれています。『日本書紀』によれば『倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)』は、『孝元天皇(第8代:紀元前3~2世紀)』の姉妹ということになっていますので、全く年代が合いません。『日本書紀』では初代『神武天皇』は、紀元前8~6世紀の人物ということになっていますが、遺跡から判明していることから判断して『大和朝廷国家』の成立時期は、3~5世紀ごろと考えられますから、『約1000年』の開きがあります。『日本書紀』『古事記』の一部は、『大和朝廷国家』の権威を示すために、創造されたものであると考えるのが自然です。

『纒向遺跡』では、古墳群の他に、権力者の住居跡、住民の住居跡、神社と考えられる建物があったらしい跡などが見つかっています。発掘された土器の15%は、九州や東北地方のものであり、当時日本にはないはずの『紅花』の花粉も見つかっていますので、日本の各地や、朝鮮半島とも交流があったことが推測できます。更に、土木工事用の道具(古墳は大土木工事です)は見つかっていますが、農耕用の道具は見つかっていないことから、この一帯は『都市』であった可能性が高いと考えられています。『都市』の出現は『分業』の始まりで、『文明』の第一歩であることは、洋の東西を問いません。

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2012年11月16日 (金)

五重塔(3)

Dscn9412京都『東寺』の五重塔。今回の旅行の帰りがけに訪ねた。

新約聖書ヨハネ伝の最初の文章、『太初(はじめ)に言葉あり、言葉は神なりき』は、梅爺には大変深遠な内容に思えます。著者がどのような意図でこれを書いたのか、神学者たちはこれをどのように解釈してきたかは分かりませんが、梅爺流に都合よく考えれば、次のようなことになります。 

『言葉のあるところに神がある』ということは『言葉が無いところには神はない』ということになります。『言葉』は、他人とコミュニケートするために、生物進化の過程で人間の脳が獲得した能力です。群をなして生き残るために、『言葉』は必須の要件であったことの証左です。思い上がった人間を罰するために、神が民族の言葉を異なったものにした(バベルの塔の逸話)というのが、旧約聖書の説明ですが、人間が言葉の様式を民族ごとに自ら別々に創り出したと考えるのが自然でしょう。他の動物の『言葉』と人間の『言葉』の違いは、『抽象概念』を言葉で表現できることです。人間の文明や科学は、『抽象概念』を扱う能力と、因果関係を脳の中で構築する『推論能力』とで、進化し続けてきたのではないでしょうか。 

こう考えると、『言葉』を保有する人間の『精神世界』にのみ『神(神という抽象概念)』が存在し、『言葉』が存在しない『物質世界(自然界)』には、『神(実態のある具象的なもの)』は存在しないのではないかと考えている梅爺の主張を、ヨハネ伝は簡潔に表現しているようにも思えてきます。 

古代の人たちは、『実態のある具象的なもの』に『神』が宿ると考え、太陽、月、星、山、川、石、木などを崇拝の対象にしてきました。得体の知れないものが、自分たちの生きることと関っていると『感じた』からで、当然のことです。現在の私たちは『得体の知れなかったもの』の正体の大半は、『科学知識』で理解できていますので、具象物を崇拝の対象とは考えなくなりつつあります。 

7世紀に登場した『イスラーム』は、『具象物』を崇拝の対象とすることを禁じています。しかし『アッラー』は、抽象概念であるといっているわけではなく、『具象的な表現ができないもの』といっているだけですから、信者は『アッラー』は宇宙空間のいずれかに存在する『実態』であると考えていることになります。 

よほど理性的な人でないでない限り、『具象物』を崇拝の対象にした方が、『手っ取り早く、分かりやすい』のも当然のことです。庶民への布教を考え、多くの宗教が、『具象物』を崇拝の対象にしています。『仏教』の『仏像』などは、その代表的なものです。 

『聖人の遺物』を崇拝の対象にするのも、手っ取り早い方法で、ヨーロッパのカトリック教会には、『聖遺物』が沢山祀られています。『十字架の一片』や『キリストの血』まであって、訪れた梅爺は驚いた記憶があります。 

『仏教』において『釈迦の遺骨(仏舎利)』の一部を、崇拝の対象にするのも、当然の成り行き(釈迦が望んだことではありませんが)で、それを祀るために『五重塔』が建てられました。『飛鳥寺』の『五重塔』跡(現在は存在しない)や、法隆寺の『五重塔』の心柱の直下から『仏舎利を収めた容器』が発見(修復のため解体した時に発見された)され、現在にまで伝えられています。 

朝鮮半島から『仏舎利』がどのようにして日本へもたらされたのか、代償を払って分けてもらったのか、亡命してきた人が『手土産』にもってきたのか、と想像はふくらみますが、史実はわかりません。『聖遺物』は、本当のものかなどと問い詰めるのは野暮な話で、そのようなことを口にする人間は、信仰者としての資格を欠くことになります。

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2012年11月15日 (木)

五重塔(2)

Dscn9312奈良『興福寺(藤原氏の氏寺)』の五重塔。

『明日香京』時代以前の『大和朝廷国家』の姿(3~5世紀ごろ)は、突然霧の中にかすんでしまいます。8世紀に編纂された『古事記』『日本書紀』からの類推、史跡や遺跡からの類推などに頼ることになりますが、史実とは思えない情報(伝承、創作)や、断片的な情報ですので、特定は困難になります。

『日本人のルーツ』『日本国家のルーツ』は、私たちの興味の強い対象ですが、必ずしも解明できているわけではありません。専門の考古学者や、歴史好きの素人が、あれこれ『仮説』を提示していて、はっきりしていないところが、梅爺のような野次馬には、たまらなく楽しい世界です。

朝鮮半島に残されている高句麗(現在の北朝鮮)の史跡『好太王碑』には、4世紀の終わりから5世紀の初めにかけて、『日本の倭(国)』が、『百済』と同盟を結んだり、『新羅』へ何度も攻め入ったりしたために、『好太王』が『新羅』の要請をうけて、これを撃退したというような内容の碑文が残されています。これが正しいとすれば、『倭』は『外交』に長け、外国に軍隊を送り込むことも可能な『体制』をもっていたことになります。5世紀の初めには、日本に『国家体制』に近いものが存在していた証(あかし)になります。

この碑文に書かれている『倭』とは、何者なのか、『卑弥呼の倭国』と同じ勢力なのか、『北九州』や『出雲』の勢力とはどのような関係があるのか、後に『大和朝廷国家』を作り上げた勢力なのか、と疑問は尽きませんが、これも特定できていません。

6世紀の後半から7世紀初めにかけて『明日香京』に『聖徳太子』が存在していたとすると、『好太王碑』の『倭』から、150年から200年後には明らかに『大和朝廷国家』が存在していたことになります。この間に日本で何が起こったのかを知りたくなります。

逆に云えば、『聖徳太子』の頃の日本は、朝鮮半島や中国(隋)の情勢は知りつくしていて、交流、交易は、想像以上の頻度で行われていたと推察できます。朝鮮半島の国家間で抗争があり、敗れた国家の権力者(王の一族など)が、日本へ亡命してきていても不思議ではありません。

『高松塚古墳』は、『明日香京』の次の『藤原京』の時代のものと考えられていますが、被葬者は特定できておらず、朝鮮半島から日本へ来た身分の高い人間(帰化人、亡命人?)ではないかという説もあります。確かに描かれている壁画の人物は、朝鮮半島の風俗を反映しているようにも見えます。

『五重塔』の話が大分逸れてしまいましたが、このような時代背景の中で、『明日香京』に高句麗様式の伽藍を持つ『飛鳥寺(蘇我氏の氏寺)』が建立され、その中心に『五重塔』が立っていたことになります。

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2012年11月14日 (水)

五重塔(1)

Dscn9337法隆寺の金堂と五重塔(世界最古の木造五重塔)。

日本人は『五重塔』が大好きです。幼いことから、現物に接したり、絵や写真で観たりして、『日本らしい美しい光景』の一つとして、心に刻んできたからです。
 

優雅な屋根の曲線、完全にシンメトリーな構造など、心難いまでに『美』を追求した建築物である上に、地震の多い日本でも耐えられるような、見事な耐震構造になっていることも判明して、日本人の『美意識』と『知恵』に感服してしまいます。 

紀元前3世紀ごろ、インドで作られた仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るための仏塔(ストゥーパ:英語ではPagoda)が起源と考えられています。やがて仏塔は、『仏教』の布教と同時に、各地にひろまり、ミャンマーでは金色に輝く『パゴダ』になりました。仏塔様式は、中国、朝鮮半島を経て日本へもたらされ『五重塔』となりました。 

木造『五重塔』の原型は、中国ではないかと思いますが、中国には現存するものが無く、朝鮮半島では、一つだけが残されています。日本の『五重塔』も、それほど多くなく、全国で約60塔くらいしかありません。もっとも最近は、コンクリート作りで、エレベーター内蔵の『近代的五重塔』もありますから、数え方には異論があるかもしれません。世界最古の木造『五重塔』は、法隆寺の『五重塔』です。7世紀の末から8世紀初めころ(『明日香京』の時代)の建立と考えられています。 

石や土を使った仏塔ではなく、木造を採用したのは、日本には木材資源が豊富で、これを使いこなす『技術』もあったからではないでしょうか。オリジナルは中国であったとしても、今や『五重塔』は日本を代表する建築物です。

『仏像』が『拝む行為の対象』になる以前の仏教では、『仏舎利』を収めた仏塔がその対象でした。したがって、仏塔は伽藍の中心に建造されました。日本最古の仏教寺と考えられている『飛鳥寺』でも、朝鮮半島の高句麗様式を採りいれ、伽藍の中心に『五重塔』が建立されていたと、説明の住職が語っていました。やがて『仏像』が崇拝の対象の中心に変り、『五重塔』は伽藍の中で、中心から脇へすこしずれた位置に建立されるようになったということでした。日本に現存する『五重塔』は、いずれも中心からわきへずれた位置に立っています。中心に立っていたと言われる『飛鳥寺』の『五重塔』は、現在していません。

『飛鳥寺』の高句麗様式伽藍、『法隆寺』の『百済観音像』など、『明日香京』時代の日本は、朝鮮半島と密接な交流があったことを示しています。

当時の朝鮮半島は、『高句麗』『新羅』『百済』などに分かれており、日本は、『バランス外交』で、うまく振舞っているように梅爺には見えますが、素人考えで間違っているかもしれません。

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2012年11月13日 (火)

正倉院展(2)

Biwa


螺鈿紫檀琵琶 [らでんしたんのびわ]


『東大寺』や『大仏』は、当初のものは中世の2度の兵火で焼失し、現在のものは18世紀初頭(江戸時代)に再建されたものです。現在のものでも圧倒的な偉容で私たちに迫ってきますが、当初のものは、もっと規模が大きかったと言われていますので、庶民は腰を抜かさんばかりに驚いたのではないでしょうか。

奈良に残る歴史遺産を見て、私たちは、高度な文化を謳歌した華やかな時代を想像しがちですが、実態は、ドロドロした権力抗争があったり、飢饉、疫病で社会が荒廃したりしていた時代でした。

『聖武天皇』は、『国家安泰』を『仏教』に託して実現しようとし、全国に60か所の『国分寺』の建立を命じ、その総本山として『東大寺』および大仏建立を始めました。飢饉や疫病は、『平城京』の位置が悪いためとも考え、一時都を『恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)』に移し、『恭仁京』の北東に位置する『紫香楽宮(しがらきのみや 現・滋賀県甲賀市信楽町)』を御所としましたが、2年ほどでまた『平城京』に戻る羽目になりました。しかし、『世直しのために遷都する』という考え方が、存在していたことが分かります。『平城京』はやがて、『長岡京』を経て『平安京』へと移っていきますが、この背景には『世直し思想』があったのではないでしょうか。

天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは752年のことで、その後大仏殿が竣工したのは758年のことです。諸外国に対しては、日本の国威を見せつけることにはなったと思いますが、疲弊している庶民にとっては、大変な苦役であったのではないでしょうか。例えは適切でないかもしれませんが、北朝鮮が、国威発揚のために、国民の生活を犠牲にして、『ミサイル』や『原爆』を建造しているのに似ているようにも思えます。権力者の歴史と、庶民の歴史は、関連はありますが、同じ価値観では律することができません。

『正倉院』の宝物が現在まで残っているのは、『聖武天皇』の后であった『光明皇后』のお陰です。『光明皇后』は『藤原不比等』の娘で、日本で初めて皇族以外で『皇后』になった女性です。『皇后』は、天皇が崩御したときに、つなぎ役として天皇に就くことがあるため、皇族以外の女性が皇后になることに反対する勢力(長屋王など)がありましたが、『藤原家』によって制圧されました。

実は、『聖武天皇』の母親も、『藤原不比等』の娘(民子)というややこしい関係です。つまり『聖武天皇』の母(民子)と妻(光明子)とは、『藤原不比等』の異母姉妹であったことになります。『藤原不比等』の権力がいかに大きなものであったかが分かります。母(民子)は、『聖武天皇』を産んでから、心的障害を患い、『聖武天皇』は37歳になるまで、母に面会することはなかったと言われています。『聖武天皇』も病弱であったといわれていますので、なんとなく暗い影がつきまとう印象を受けます。

天皇は、後継者が皇后になることを考え、正式な后は皇族から迎えます(近親結婚になりがち)が、夫人は何人も別にいましたので、夫人の子供でも男の子なら天皇になれる資格がありました。『光明皇后』は、この天皇家のしきたりを始めて変えた女性(皇族出身以外の女性で皇后なった)で、背後には『藤原家』の権力があったことになります。

直系の男子に天皇の位を譲っていくというしきたり(定め)のためとはいえ、宮廷の男女関係は、勢力闘争の具になりやすく、庶民の常識とはズレています。『平清盛』のテレビドラマを観ていても、宮廷の男女関係はすんなり理解できないほど込み入っていますから、後の世まで同じ状況が続いていたことになります。

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2012年11月12日 (月)

正倉院展(1)

Rurinotuki瑠璃坏(るりのつき)

奈良を訪れた日(10月27日)から、奈良国立博物館で『正倉院展(第64回)』が開催されていました。初日の入館は混雑して無理であろうと想像していましたが、午後様子を見てみると、そうでもなさそうでしたので、見学することにしました。
 

今回の出品の『目玉』は、銀台の上に配した、高さ11㎝ほどの瑠璃色(青色)のグラス(杯)『瑠璃坏(るりのつき)』で、この展示場所だけは、長蛇の列ができていて、側に近づくだけで1時間以上かかるといわれ、外側からのぞき見る(こうすればすぐに見ることができる)だけで我慢することにしました。もっとも、老人の視力は、衰えていますから、間近に見たからといって、どれだけの違いがあるのかはあてになりません。この『瑠璃坏(るりのつき)』は、西アジアからもたらされたと考えられていますので、文字通り『シルクロード』経由です。8世紀に、ペルシャ、中国、朝鮮半島、日本が『繋がっていた』ことの証左です。日本の『文化・技術』は、外国の『文化・技術』の影響を受けて進化していますので、『平城京』を虫メガネで覗き見るような歴史観では、全体が理解できないような気がします。 

『正倉院』は、『平城京』の役所や寺院が保有していた、収税物の倉庫の一般名称ですが、現在当時のままで残っているのは『東大寺』の正倉院だけになってしまったために、『正倉院』はこれを指す固有名詞になっています。『正倉院』は現在宮内庁の管理下におかれています。高床式校倉(あぜくら)作りの建築様式が、保管物を保護する(日本の気候条件に適している)と言われています。当時の日本人が保有していた『知恵』として興味深いものです。 

『聖武天皇(第45代)』の后(きさき)『光明皇后』が、天皇の死後(756年)に、天皇および自分の『御物(宝物)』を、『東大寺』に寄進した品々が、現在までまとめて残されているわけですから、文字通り日本の宝と言えます。

1200年前の文明のレベル、外国との交流レベル、生活様式などが、推察できるわけですから、歴史的にも貴重な品々です。梅爺が、面白いと感じたのは、展示品の中に、『当時何の目的で使われていたのか判然としない』ものがいくつかあったことです。

1200年は、地球の歴史にとっては『瞬間』にすぎませんが、人間社会にとっては、途方もなく永い時間であると感じました。『自然の時間』と『人間の時間』の、相対的な感覚差を、私たちは常に意識しておく必要がありそうです。やがて太陽系や地球は寿命に達して消滅(『自然の時間』では50億年ほど将来)することは分かっていますが、それは『人間の時間』では、無限にちかい将来のことですので、今『思い煩う』必要はありません。 

『平城京』時代の文字は、『漢字』ですが、日本語を『漢字』で表現する知恵が既にあったことは、それ以前の『万葉集』などから分かります。『話し言葉』と『書き言葉』をどのように使い分けていたのかも興味深いところです。 

『聖武天皇』も『光明皇后』も能書家として知られていますので、当時『書』を『美』の対象としていたことも分かります。

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2012年11月11日 (日)

日本の仏像の変遷(3)

Dscn9364『中大兄皇子』と『中臣鎌足』が、『大化の改新』を事前に密議した場所と言われる、桜井市多武峰(とうのみね)にある『談山神社』。

古代人が宗教に求めたものは、現代人が宗教に求めるものとは、必ずしも同じではないことを理解する必要があるのではないでしょうか。 

科学知識が豊富に存在する現代でも、切羽詰まれば人間は神仏に頼ろうとはしますが、多くの人が理性では、天災、干ばつ、飢饉、疫病、火災などは、神仏とは関係の無いものであることを理解しています。 

現代人は、宗教に『善良な生き方ができるように導いて欲しい』『苦悩を取り払って、心の安らぎを与えてほしい』などと、精神世界に関することがらを求めますが、古代人は、そのような高度な願いもさることながら、『生きる』ことを直接脅かす天災、干ばつ、飢饉、疫病、火災などは、神仏との関連でとらえ、これを排除してくださいと祈っていたことになります。 

『聖徳太子』が『仏教』を『国家』の基盤としたいと考えたのも、聖武天皇、光明皇后が、東大寺(大仏)を建立して、『国家安泰』を切実に願ったのも、平清盛が、厳島神社を建立して平家一族の『安泰』を願ったのも、『そうすれば、神仏は自分に味方してくれる』と本当に信じていたからに違いありません。勿論、権力者の『権威』を庶民にしらしめす、外国に日本の威光を示すなどの、目的もあったとは思いますが、副次的なものであったのではないでしょうか。 

先祖の霊を、氏神として信仰してきた『天皇家』や権力者が、『仏教』を知って、『氏神信仰(神道)』が廃れたのかと云うと、そのようなことはなく、古代においても『神道』と『仏教』は共存していたことは興味深いことです。法隆寺の隣には『斑鳩神社』があり、藤原氏は氏寺として『興福寺』を、氏神として『春日大社』を奈良に保有していました。『自前の文化』と『外来の文化』を、融合させてしまう日本人のメンタリティは、現在でも特徴的ですが、『神仏習合』は、そのはしりであったのかもしれません。桜井市の『談山神社』は、『中大兄皇子』と『中臣鎌足』が、『大化の改新』の計画を密かに練った場所とされていますが、昔は仏教の寺でもありました。13重の塔はその名残です。

仏像は、庶民が『仏の実在』を実感する上で、極めて効果的な役目をはたしてきましたが、日本の仏師の巧みな技は、見事な表情や風情を表現するようになり、庶民は拝顔しただけで、『心が洗われ、涙がこぼれ、救われる』と感ずるレベルにまでいたりました。仏師の、人間を洞察する能力が高くなければ、実現できないことです。 

『明日香の仏像』『奈良の仏像』『京都の仏像』『鎌倉の仏像』と、日本の仏像文化は、日本人の心に沿って進化し続けたことになります。日本の仏像文化は、世界に誇りうるものの一つです。

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2012年11月10日 (土)

日本の仏像の変遷(2)

Dscn9323東大寺の大仏(盧舎那仏)。仏の世界の中心に位置する仏。

奈良『西の京』にある、『薬師寺』の『大講堂』外面壁に、『お釈迦様の生涯』が絵物語として紙芝居風に描かれていて、梅爺は興味深く観ました。『大講堂』は平成15年に再建されたものですから、この絵物語も見学者の啓蒙用に最近描かれたものなのでしょう。

『母親(インド王国の王妃)が、白象が胎内に入る夢を見て身ごもり、やがて右のわきの下から釈迦(王子)が産まれた』と描いてありました。キリスト教の『マリヤの受胎告知』と同様、後の人が『釈迦』や『キリスト』を『聖なる人』として強調するために、考え出した『奇跡』を伴う物語であろうと、信仰心の薄い梅爺は推察しました。『釈迦』が産まれた途端に歩き、天を指して『天上天下唯我独尊』と云ったなどという話も、同類でしょう。

しかし、王子として恵まれた生活をし、結婚もしていた『釈迦』が、突然全てを捨てて出家し、命がけの修行、瞑想を繰り返して、やがて『万物は縁で繋がっている』『煩悩を排して悟りを目指す』という真理を会得し、弟子たちに見守られながら死んでいくという、その後の物語は、現代人の理性で考えても、なんらおかしいところがありません。むしろ、現在のような科学知識が無い時代に(2500年前に)、よくも『精神世界』でそこまで突き詰めたなと、感心してしまいます。宇宙ができて、それによって生命が誕生し、一つの生命として自分が今存在していることになりますから、まさしく『万物は縁で繋がっている』ことになり、『心の安らぎ』は、自分の中にある『煩悩』との戦いの対極にあるものであるという考え方も、生物として進化してきた人間の『脳』の機能を考えると、異論なく納得できます。『釈迦』は、無類の『哲学者』であったと梅爺は考えています。

『釈迦』の死後、『釈迦』を象徴する足の裏の紋様を、信仰対象にしたり、『釈迦』の遺骨を分けて、『仏舎利』として崇拝の対象にするようになります。『釈迦』の教えには、その後幾多の高僧の『解釈』が加えられ、土着の宗教の『様式、儀式』とも結びつき、『釈迦』が想像もしていなかった『多様な仏教』に変化していくことになります。『キリスト』も、現在のカトリックのような『様式、儀式』を知れば、想像もしなかったと驚くのではないでしょうか。『宗教』が『教え』だけでなく、様式化された『儀式』を伴うようになるのは、何故なのかと梅爺は考えてしまいます。『権威』を示すため、『陶酔の境地』にいざなうため、『信者同士の絆を確認するため』などの理由がありそうです。

『五重塔』は、本来『仏舎利(釈迦の骨)』を祀るための塔です。心柱の真下に、『仏舎利』が埋められていることになります。しかし、『釈迦の骨』にも量に限度がありますから、世界中の『仏舎利塔』に本当の『仏舎利』が祀られているのかどうかは、あやしい話です。

明日香の『飛鳥寺』の住職が、観光客への説明の中で、『ここの仏舎利は、ホンマモンでっせ』と云っているのを聞いて、梅爺は失礼ながら、クスッと笑ってしまいました。

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2012年11月 9日 (金)

日本の仏像の変遷(1)

Dscn9379明日香の『飛鳥寺』。周囲は昔ここに都があったとは思えないほどののどかな風景が広がっている。

今回の奈良『修学旅行』で、梅爺は、数え切れないほどの『日本の仏像』を拝顔することになりました。昔見たことがあるものから、初めてのものまで、あまりにも多かったため、頭が混乱していますが、見事な『表情表現』ということでは、興福寺宝物館の『阿修羅像』、斑鳩『中宮寺』の『菩薩半跏像』が強く心に残りました。仏像を鑑賞するのが目的なら、目的を一つに絞って出かけるのが本筋かもしれません。

仏像は、『如来』『菩薩』『明王』『天部(四天王、八部衆、梵天、帝釈天、吉祥天、弁財天)』と多種にわたり、宗派によって尊重するものが異なったりしますから、梅爺のような『仏教』の知識が乏しい者には、なかなか理解ができません。

『お釈迦様』の教えは、『万物は全て縁で繋がっている』『人の中には、仏心(良い心)と邪心(悪い心)が共存している。邪心を排除して仏心に従え』といった、深遠ながら単純なものであったはずですが、布教の過程で、現地の土着宗教と結びつき、今日のような複雑な体系になってしまったのであろうと、梅爺は理解しています。『お釈迦様』の洞察は、哲学者の洞察のようなものですから、梅爺は強く惹かれます。元々『お釈迦様』は、自分自身が信仰の対象になることなどは考えておらず、望んでもいなかったのではないでしょうか。ましてや、多種多様な仏たちの世界の存在などを説いたりしていません。初期の『仏教』には、『釈迦』を象徴する紋様はありますが、仏像信仰はありませんでした。

現在のアフガニスタンとパキスタンにまたがる『ガンダーラ』で、ギリシャ彫刻の影響を受けて、1~2世紀に最初の仏像が誕生したことが分かっています。勿論この時の仏像の顔立ちは、東洋的ではなく西洋的です。

日本へは、6世紀頃朝鮮半島経由で、仏教はもたらされたために、『明日香京』から『平城京』にかけては、朝鮮半島の『仏教』の影響を強く受けています。韓国の仏教は、今でも『華厳宗』『華厳経』が主流と言われていますが、奈良の東大寺は『華厳宗』の総本山であり、『大仏:盧舎那仏(るしゃなぶつ)』は、『華厳宗』の万物の中心に存在する仏ですから、その名残が今も存在します。平安時代、鎌倉時代にかけて、『密教』『禅宗』が伝わり、日本の『仏教』の主流を占めるように変遷していきます。『華厳宗』の『盧舎那仏(るしゃなぶつ)』は、『密教』では『大日如来』と呼び名が変わりますので、ややこしい話になります。

日本で最初に建立された『仏教』の寺は、蘇我氏の氏寺であった明日香の『飛鳥寺』であるとされており、現在も継承されています。『飛鳥寺』には、推古天皇の命で、『止利仏師』がつくったという、釈迦如来像(飛鳥大仏)が現存します(顔や指の一部などが、オリジナルのまま)。顔立ちは、朝鮮半島の影響からか面長で、後の平城京、平安京の仏像の『日本的な顔立ち』とは、明らかに異なっています。法隆寺の仏像も、『飛鳥寺』と同じように面長ですが、これは時代がほぼ同じ時期ですから当然のことかもしれません。

仏像の顔立ちは、ガンダーラ、中国、朝鮮半島を経て、変貌しながら日本へ伝わり、その後日本で『日本の仏像』へと変身していったことになります。

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2012年11月 8日 (木)

権力者の墳墓(3)

Dscn9374明日香村に残る『蘇我馬子』の墓と言われる『石舞台』。墓の主が誰にせよ、投入された多大な労力から、かなりの権力者であったことは確かであろう。

『明日香京』に関しては、すべてが分かっているわけではありませんが、それでも多くのことが判明していて、その後の『藤原京』『平城京』への移行も『史実』を追うことができます。この時代から、日本に『文字(漢字)文化』が定着し始め、『万葉集』が編纂されたりしたことと、『古事記』『日本書紀』が書かれた時代(8世紀)から200年程度前の『できごと』は、大きく風化していなかったためではないでしょうか。ただし、『古事記』『日本書紀』は、権力者『藤原不比等』や彼が支える『天皇家』にとって、都合のよい内容になっていると推測できますので、内容をそのまま史実とするわけにはいきません。

『中大兄皇子(後の天武天皇)』と『中臣(後に藤原)鎌足』が、横暴に振舞う豪族『蘇我入鹿』をクーデターで暗殺し、蘇我氏を滅亡に追いやった『大化の改新(645年)』は、『明日香京』での出来事です。中国(唐)の律令制度を真似て導入し、『法』を整備して中央集権を強化したのは、『蘇我氏』の横暴な専制政治を排除するためとも言えますが、中国や朝鮮半島の情勢とのバランスで、『日本(大和朝廷国家)』も、そうせざるをえなかったのではないでしょうか。私たちが想像する以上に、当時は中国、朝鮮半島との交流は頻繁であったことを、歴史を考える時には考慮すべきでしょう。

『大化の改新』以前の『明日香京』では、『蘇我氏』は、『蘇我稲目』『蘇我馬子』『蘇我蝦夷』『蘇我入鹿』と4代にわたって権勢を誇っていました。『大化の改新』で『悪玉』にされてしまった『蘇我氏(入鹿)』は、『聖徳太子』の時代(6~7世紀)には、仏教導入を支持して、対立する『物部氏』を滅亡させた『善玉(蘇我馬子)』でした。

明日香村に残る遺跡『石舞台』は、『蘇我馬子』の墓で、元は盛り土の下に埋もれていたと考えられています。もし本当なら、『蘇我馬子』の権力が如何に大きかったかが分かります。実質天皇の権力をしのいでいたと言われても、『そうかもしれない』と思ってしまいます。当時の技術で、このような巨石建造物をつくることが、どれだけの労力を擁したかを想像してしまうからです。

『藤原不比等』は、父親『藤原鎌足』の行為を正当化するために、『日本書紀』で『蘇我氏』を悪者にしていますが、『蘇我氏』が何から何まで悪かったとも言えないのではないでしょうか。『大化の改新』で殺された『蘇我入鹿』の祟りをおそれたのか、『明日香寺』には、『入鹿の首塚』が今も残されています。

『権力者の墳墓』は、私たちに色々なことを語りかけてきます。

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2012年11月 7日 (水)

権力者の墳墓(2)

Dscn4102奈良県桜井市纒向(まきむき)遺跡の箸中に所在する『箸墓古墳(前方後円墳)』。第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とされているが、『卑弥呼』の墓ではないかとも言われている。

死者を葬るという風習は、土葬、火葬、風葬や、海や川に流すなど様式は異なっても、原始社会から存在していたものと思われます。『死』は『生の終焉』であり、二度と『生』へは戻れないという冷酷な現実に直面し、原始人も、ただ悲しみ、畏れ、おののいたに違いありません。
 

しかし、権力者のための大規模な墳墓を建設するということになると、膨大な労働力が必要になりますから、少なくとも数千人から数万人の『被支配者』を擁する『社会』や『国家』が背景にあったと想像せざるをえません。 

日本の『古墳』が、3世紀から7世紀ころにかけて建造されたとすると、この間に、日本に『大規模社会』『国家』が出現したという証になります。つまり『弥生時代』の後期に『国家』が成立したのではないかと考えたくなります。 

6世紀に『明日香京』に『聖徳太子』が存在したとすれば、『大和朝廷』支配がその地で確立していたことは確かと言えますが、それ以前の『大和朝廷』の姿は、梅爺はなかなか具体的に思い浮かべることができません。 

3世紀に奈良盆地に出現し始めた『古墳』は、やがて『前方後円墳』のような巨大な墳墓になっていきますが、『応神天皇(15代)稜(羽曳野市)』『仁徳天皇(16代)稜(堺市)』のような『前方後円墳』の最盛期とも思える墳墓は、常識的に考えれば4~5世紀のものではないかと推定したくなります。しかし『日本書紀』の記述から年代を逆算すると、『応神天皇』や『仁徳天皇』は3~4世紀の天皇ということになり、微妙ながら少しずれているようにも見えます。歴史に疎(うと)い梅爺の勝手な思い込みなのか、日本史で教えられた内容は、実はそれほど確かなものではないのか、どちらなのでしょう?

『前方後円墳』は、日本全国に広く残っていることから、ある程度の規模の部族の長なら誰でも(天皇以外でも)採用することができた様式のようにも思えます。3世紀の以前は、多くの部族が乱立しており、圧倒的な支配力を持つ『国家』は存在していなかったのではないでしょうか。

『応神天皇稜』『仁徳天皇稜』のような大規模な墳墓は、何故奈良盆地ではなく、大阪地方に存在するのでしょうか。最初の『大和朝廷国家』は、大阪地方にあって、その後(5から6世紀に)『明日香京』へ移ったと考えるべきなのでしょうか。

そもそも『前方後円墳』は、日本独自の様式なのでしょうか、それとも朝鮮半島からもたらされたものなのでしょうか、もしそうなら、日本で権力者になったのは、『渡来人』であったのでしょうか。『大和朝廷』の先祖は『渡来人』なのでしょうか。

奈良に『修学旅行』にでかけたお陰で、日本の古代史に関する梅爺の疑問は前より一層大きく膨らむことになりました。

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2012年11月 6日 (火)

権力者の墳墓(1)

Dscn9350桜井市にある『祟神天皇稜(前方後円墳)』。祟神天皇(第10代)は、神武天皇(初代)同様実在の人物であるかどうか判然としない人物で、この『稜』の特定には無理がありそう。

洋の東西を問わず、古代の権力者の『墓』は、大きさ、豪華な副葬品の数々などで、生前の権力の大きさを私たちへ語りかけてきます。

エジプトの『ギザのピラミッド』は、ミイラや副葬品がまだ見つかっていないことから、『墓』以外の目的で建造されたという仮説がありますが、多くの考古学者は、盗掘を阻止する堅牢な構造になっているだけで、やはり『ファラオの墓』であろうと推測しています。つまり、いつかミイラや副葬品が発見されるであろうと考えています。『ギザのピラミッド』以前のピラミッドからは、石棺を収めた空間が、内部から発見されていますので、この仮説の可能性は高いと言えます。

中国の皇帝の墓は、地下に生前と同じような『生活空間』を準備することが特徴的で、秦の始皇帝の墓の兵馬俑は有名ですが、昔梅爺は北京郊外の『明の13稜』を訪ね、『地下宮殿』の規模の壮大さに驚いた記憶があります。亡くなった皇帝が死後の世界で困らないように、財宝や食糧の貯蔵庫があったり、地下宮殿の庭には『池』までがありました。盗掘を阻止するために、完成後、工事関係者は全て殺されたなどという話もきいたことがありますが、真偽のほどは分かりません。

『墓』は、生前の権力の大きさを誇示する目的もありますが、『死後の世界でも権力者であり続けたい』という願望が込められているようにも見えます。人類は、原始社会の時代から、『死後の世界』という概念を保有し、それを子孫へ継承していたのではないでしょうか。現在の宗教でも『死後の世界』は、重要な役目を果たしており、生前の信仰の度合いに応じて、『罪が許され(天国、極楽入りがゆるされ)』『霊に永遠の命が与えられる』などと、インセンティブが提示されます。信仰の薄い梅爺は、原始社会から継承されてきた『死後の世界』という概念を、後の宗教が、洗練された説明のしかたで、教義へ取り込んだのではないかと、畏れ多くも想像しています。

日本にも、古代権力者の『墓』が、『古墳』という史跡として残されています。奈良市、天理市、桜井市などを、車で走ってみると、道路の両側に、次々に『○○古墳』『○○天皇陵』が出現します。『邪馬台国』が、近畿地方にあったのか、九州にあったのかは別にしても、『大和』地方が、強大な権力者の支配下にあったことだけは、間違いないように思います。

日本の『古墳』は、どの時代に作られたのかは必ずしも判然としていませんが、有名な『前方後円墳』様式は、3~7世紀頃というのが定説のようです。これに従えば、『卑弥呼の時代』から『明日香京、藤原京の時代』まで、ということになります。今回桜井市の『祟神天皇稜(宮内庁の管理下にある)』を訪ねましたが、この特定には無理があることが分かります。『祟神天皇(第10代)』は、『日本書紀』に依れば紀元前1世紀の天皇と言うことになり(卑弥呼より300年も古い人物)、実在したかどうかも分からないわけですから、いわんやその『稜』を特定することなどはできるはずがありません。

『古墳』が実在することは厳然たる事実ですが、それを無理に『誰の墓である』と特定するのは慎重であるべきではないでしょうか。『祟神天皇稜』は戦前の『皇国史観』の名残りではないかと、梅爺は疑ってしまいました。

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2012年11月 5日 (月)

大和朝廷の遷都(4)

Dscn9378明日香村で現在も行われている、遺跡発掘調査

人類の『社会構成』の歴史は、世界中どこでも同じような経緯をたどっています。『家族』単位で行動した原始社会から、やがて『部族』単位になり、その後複数の『部族』を支配下に置く『王(皇帝、天皇)』が出現して、広域を領土とした『国家』が生まれます。『国家』掌握には、言葉、宗教、法律が重要な役割を果たします。つまり『都市』が出現し、『文明』が生まれます。

日本も例外なく、この経緯を辿っています。日本に『国家』が生まれたのは、3~5世紀の間のいずれかの時期ではないでしょうか。最初は、複数の『国家』が乱立していたと考える方が自然のような気がします。『万世一系の天皇が支配する神国日本』は、『大和朝廷』支配を美化したい後の世の人たちが考え出したものでしょう。北アフリカ、中東、インド、中国より、日本の『国家』成立が数千年遅れているのは、アフリカから世界へひろまっていった『現生人種』が、極東に達するのに時間を要したからです。

遺跡、史跡から、少なくとも『北九州』『出雲』『大和』には、『国家』規模の社会が存在していたように見えます。これらの『国家』の王は、『土着の日本人』であったのか、『渡来した外国人』であったのかは判然としません。高い文明レベルを有していた方が有利ですから、『渡来人(外国人)』であった可能性は否定できません。梅爺の根拠のない推測では、『大和』は『渡来人の王』、『出雲』は『土着人の王』のような気がします。『出雲の王』は、『大国主命(おおくにぬしのみこと)』と呼ばれていました。

『大和』と『出雲』の間に、『何らかの歴史的事件』があり、『出雲』は『大和』に併合されて、『大和』がより強大な『国家』になりました。『大国主命』を祀る神社は『出雲大社』であり、『出雲神宮』ではないところに、歴史の謎が秘められています。『神宮』は『大和朝廷天皇家の氏神』を祀る神社にのみ与えられている称号です。奈良の『春日大社』は、『藤原家の氏神』を祀る神社ですから、これも『神宮』とは呼ばれません。

『明日香京』時代には、『大和朝廷』の国家体制がかなり整っていたことが分かります。現在の『明日香村』は、奈良県の中部に位置する、人口6000人ほどののどかな農村地帯ですが、初めて訪れた梅爺は、日本人として、この地が、『日本国家』のルーツであることに感動を覚えました。

その後、『大和朝廷』は、政治的、経済的、宗教的理由で、『遷都』を何度か行って、日本は現在に至っています。最初の頃は、飢饉、疫病などを『祟(たた)り(場所や方位が悪い)』のせいと考え、『場所変え』をしたこともあったに違いありません。

『国家』の規模が大きくなるにつれて、『遷都』は容易ではなくなります。今のように疲弊した日本では、『遷都』を行うには少々エネルギー不足のような気もします。当分『東京』が日本の『都』であり続けるのではないでしょうか。

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2012年11月 4日 (日)

大和朝廷の遷都(3)

Dscn4089法隆寺の夢殿、今回は幸運にも『救世観音像(国宝)』が、御開帳されていて、鑑賞できた。

日本人が『文字(漢字)文化』の存在を知ったのはいつかは定かではありませんが、1~3世紀に、大陸や朝鮮半島との交流があったとすれば、その頃ではないかと推察できます。
 

仏教の伝来は、6世紀の中ごろ百済(聖明王)の使者から欽明天皇に、仏像、経典、仏具が献上されたとされていますが、日本人が『仏教』の存在に気付いていいたのはもっと前であったような気がします。 

『文字(漢字)』や『宗教(仏教)』が、飛躍的に日本の文明レベルを高めたことはまちがいがありませんが、見落としてはならないのは、『技術』の伝播です。建築、土木、鋳造、焼き物、織物、染色などの『技術』の導入が、日本を一変させたのでしょう。 

『卑弥呼』の時代(3世紀)と、『聖徳太子』の時代(6~7世紀)の間には、約300年の歳月が流れていますが、この間の日本の様変わりは目を見張るものです。『弥生時代』の高床式住居と、世界最古の木造建築である『法隆寺』の建築内容では、雲泥の差があります。日本人が生物学的に急に賢くなったのではなく、文明が日本人を短期間に賢くしてしたことが分かります。私たちも、20年前にはなかった『インターネット』『携帯電話』を、当たり前のように使いこなしているのも同じことです。人間の脳が、何故これほど最初から、『余裕たっぷり』にできているのかは不思議です。『卑弥呼』の時代の人を現代にタイムスリップして連れてきて、しかるべき教育をすれば、私たちと何ら変わることなく行動できるのではないでしょうか。 

『新技術』は、私たちの生活を一変させますが、『新しい思想』との遭遇も大きな影響を持ちます。肉体的な苦しみだけでなく、心の悩みまでも救済する『仏教』の思想に遭遇して、当時の『頭がよい人たち』は衝撃を受けたのではないでしょうか。土俗的な『神々』との関係しか知らなかったインドの人たちが、『お釈迦様の思想』を知った時、同じく土俗的な『神々』を拝んでいたローマ帝国の市民が、『キリスト教』を知った時受けた衝撃と同じです。 

現世の『御利益』を願うことではなく、『心の安らぎ』を得ることが、人間にとって重要であることを、はじめて自覚することになったからです。『仏教』や『キリスト教』が、現在まで継承されているのは、その教えが『精神の安泰』に関連しているからです。『哲学』も精神世界の行為ですが、こちらは『疑って、真実に迫る』のに対し、『宗教』は『信じて、悟る』違いがあります。人間には、この両面があるのではないでしょうか。 

しかし、いつの時代でも同じように、『新しい思想』を受け容れる人と、拒絶する人がいます。豪族『蘇我氏』は『仏教』を受け容れ、同じく豪族『物部氏』は拒絶(日本古来の神道を擁護)しようとしました。思想の対立が政治の対立になったのか、政治の対立に思想の対立が利用されたのかは定かではありませんが、結局『蘇我氏』が武力で『物部氏』を滅亡に追いやり、『蘇我氏』が擁立する『聖徳太子』が、『仏教』を国作りの基盤にしようとしました。

これで権力者になった『蘇我氏』が、今度は『大化の改新』で滅亡に追いやられ、『中大兄皇子』を支えた『中臣(藤原)鎌足』が権力者の座に代って登り、その子『藤原不比等』は娘を天皇家に嫁がせて、権勢を誇るようになります。『藤原家』は、その後平安末期まで、『摂関家』として、貴族の重要ポストを占め続けました。『藤原京』『平城京』『平安京』の文化の多くは『藤原家』なしには考えられません。

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2012年11月 3日 (土)

大和朝廷の遷都(2)

Dscn9382『明日香』の『甘橿(あまかし)の丘(豪族蘇我氏の居住地)』から眺めた『天の香具山(大和三山の一つ)』

云うまでもなく、『都(京)』は、天皇の住まい『宮(御所、皇居)』を中心に、構成された都市のことです。『明日香京』時代に、『宮』は一時『明日香宮』から、『斑鳩宮(推古帝:601年)』、『難波宮(孝徳帝:646年)』へ移されたことがありますが、『都(京)』という視点で観れば、日本の『都』は、『明日香京』『藤原京(676年)』『平城京(710年)』『長岡京(784年)』『平安京(794年)』『東京(1869年)』となり、『平安京(京都)』の時代が、ずば抜けて永いことになります。『京都』に日本の歴史文化遺産が数多く集中しているのは当然のことです。『宮』と言う概念は、『天皇の住まい』でもあり、神社(神の住まい)のことでもありますので、日本人の潜在意識に、『天皇を神格化して観る』習性があったのかもしれません。
 

『京』という呼び名は、中国の都を真似て、碁盤の目のような都市構成(条坊制)がされたものというのであれば、『藤原京』『平城京』『長岡京』『平安京』がそれにあたり、『明日香』は『京』とは言えないのかもしれません。諸説あるようですが、驚くことに『藤原京(奈良県橿原市)』の規模は『平城京』を上回っていたようです。少なくとも『明日香』時代に、『条坊制の都市』をつくるだけの、『知識』や『技術』が、大陸から流入していたことことが分かりますから、想像以上に文化レベルの高い時代であったと云えます。 

『大和朝廷』の成立は、『いつ』『どこで』は特定できていませんが、少なくとも『明日香』の時代には、ある程度の基盤が出来上がっていたといえるのではないでしょうか。『ある程度』といったのは、力のある豪族間の『パワーバランス』の上に、『大和朝廷』が存在していたという意味です。日本の歴史は、天皇家の歴史でもありますが、天皇の側近として、または天皇を傀儡(かいらい)化して、実質的に権力を握った人物達の歴史とも言えます。いつの時代にも『天皇家』が、『権力者』との『パワーバランス』をうまく利用して、存続し続けたことは、世界の『王朝史』の中では、特筆すべきことです。このことが、日本人と『天皇家』の精神的つながりを、現在にまで継承しています。 

17万年前にアフリカに出現した『現生人種(ホモ・サピエンス)』が、日本へ到着したのは1万7千年前頃と考えられています。『縄文時代』の始まりですが、その後『弥生人』が渡来(朝鮮半島経由?)して『弥生時代』が始まったのは、2千3百年位前のことですので、日本における人類の歴史と言う視点で観れば、『縄文時代』が圧倒的に永い(約1万5千年間)ことになります。 

少なくとも『弥生時代』は、日本各地に『豪族』が割拠していた時代で、『何らかの事件(大和の豪族が出雲の豪族を征圧した?)』を経て、『大和朝廷』が成立したことになります。『弥生時代』の『倭国の卑弥呼』は、『大和朝廷』の先祖なのかどうかは特定できませんが、関係は興味深いところです。

『明日香京』『藤原京』時代の歴史は、遺跡や後の8世紀に編纂された『古事記』『日本書紀』の記載事項から『推測』するしかありませんが、『古事記』や『日本書紀』は、権力者『藤原不比等』の命で編纂されたことが分かっていますので、『藤原家』や『藤原家が支えた天皇家』にとって都合のよい話になっていることを配慮して読む必要があります。世界中の『歴史書』には、著者の思惑が混入していますから、必ずしも『事実(史実)』を反映しているわけではありません。『歴史書』が、推理小説を読むように面白いのはこのためです。

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2012年11月 2日 (金)

大和朝廷の遷都(1)

Dscn4084聖徳太子ゆかりの法隆寺中門。入口の中央に柱がある理由について、『鎮魂の寺』など色々の諸説がある。

梅爺の『日本史音痴』を他人のせいにするのは、少々大人げないとは思いますが、『日本史の教科書や教師が、断片的な史実を教えるだけで、体系的な流れや、歴史が動く本当の理由については、何も教えていない』のが原因であると云いたくなります。

たとえば、以下の『史実』だけを教えられて、日本史へ興味を持つ生徒がいたら、よほど変った生徒です。梅爺が日本史の本当の面白さを知らずに、軽んじてしまったのはこのためです。

710年 藤原京から平城京への遷都
784年 平城京から長岡京への遷都
794年 長岡京から平安京への遷都

梅爺は『奈良の都』と聞けば、東大寺、興福寺、春日大社など絢爛たる神社仏閣を思い浮かべ、『かなり永い期間存在し、繁栄していたた都』であろうと勝手に想像してしていましたが、よく考えてみると、上記の年表からも分かるように、たった74年の歴史しかありません。梅爺の今までの人生とほぼ変わらない時間の経過に過ぎません。1000年以上続いた『京都』と比べると、極端に『短命』であることを知って驚きました。日本史の時間に、『桓武天皇の御代に、平安遷都が行われた』とだけ教えられ、年号は『鶯泣くよ(794年)平安京』と覚えさせられましたが、『平城京が何故短命であったのか』については教えられた記憶がありません。

桓武天皇の気まぐれで、長岡京への遷都が決まったとは思えませんので、何か『決定的な理由』があったはずです。『平城京の水利の悪さが目立つようになり、水利の良い(桂川、宇治川が淀川になる合流点)長岡京への遷都が決まった』などの仮説を聞けば、経済的、衛生的な理由から、梅爺は『なるほど』と納得します。

今回の『修学旅行』で、歴史を理解するには、『当時の政治の中心地がどこであったのか』『当時の外国との交流はどの程度のレベルであったのか』『当時の宗教事情や文明のレベルはどのようなものであったのか』『政治的な抗争の原因は何であったのか』などを総合的に理解しないと、全体像が見えてこないことをあらためて痛感しました。

たとえば、『聖徳太子が、難波(大阪)に四天王寺を建立した』と聞くと、活動の拠点が『明日香』や『斑鳩(いかるが)』であった聖徳太子と大阪の関係は唐突に聞こえますが、当時中国との交易、交流が、難波津を日本側の港として行われていたことを知れば、納得がいきます。『遣隋使』を送ったこともそうですが、当時の中国や朝鮮半島との交流は、想像以上に頻繁で、多くの情報やモノ(仏教の経典、仏像などを含む)が、日本へもたらされていたことが分かります。『難波津』と『明日香』は、大和川やその支流を利用して、船による運搬が行われていたことになります。

このような、想像ができると、はじめて歴史の政治、経済、文化が生き生きとみえてきて、それに関連する人物の能力や性格なども推測できるようになります。これが歴史の『面白さ』です。

政治の中心地であった、『明日香京(飛鳥文化)』『藤原京(白鳳文化)』『平城京(天平文化)』を、別々に区分けして観ないと、日本の古代史は理解できないという当たり前のことに、ようやく気付きました。

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2012年11月 1日 (木)

爺さん婆さんの奈良修学旅行

Dscn4134コスモスの向こうに見える唐古・鍵遺跡(弥生期)の復元楼閣

奈良に住む友人Nさん(梅爺の大学時代の男声コーラス仲間)ご夫妻から、『奈良をご案内しますから、遊びにいらっしゃい』というお誘いがあり、梅爺と梅婆は、ありがたくお受けして、10月27日から30日まで、3泊4日の『修学旅行』に出かけました。
 

秋の観光シーズンと、27日から『奈良国立博物館』で開催される『正倉院展』とがぶつかって、ホテルの確保に少々難渋しましたが、インターネットで探しまわってなんとか見つけました。 

Nさんは、大学卒業後、日本の大手製薬会社に就職され、米国に駐在し、その後米国の会社に転職されて、逆に日本での事業責任者として帰国され、現在にいたっている国際ビジネスマンです。

Nさんご夫妻と、梅爺夫婦は、今まで何度か、大学時代のコーラス仲間と海外、国内旅行を楽しんできましたので、お互いに旧知の間柄です。

27日の夕食は、Nさんのご自宅に招かれ、奥さまの心のこもった手料理をごちそうになりました。ご自宅に着いて先ず驚いたのは、門から玄関までの足元を照らすために、通路の両脇に何本もの蝋燭が灯されていたことです。その後、さりげなく高価なシャンパンやワインが振るまわれ、贅沢な晩餐へと移行しました。梅爺と梅婆は、王侯貴族の気分を味わうと同時に、周到な準備、心遣いをしてくださったNさんご夫妻に恐縮しました。

更に、驚いたのは、Nさんのお宅には、あちらこちらに、有名な画家の絵画、世界のブランド工芸品、味わいのある骨董家具などが、無造作に配置されていたり、飾られていたりして、あたかも『プチ美術館』の趣をかもし出していることでした。主として、永い海外生活中に、奥さまが『審美眼力』を発揮され、折に触れて買い集められたものですが、ガラクタだらけの我が家と比較して、梅爺と梅婆は目を見張ってしまいました。とても真似はできませんが、Nさんご夫妻が、人生を、心を豊かにして積極的に享受されようとする姿勢は、大変参考になりました。

奈良公園近辺(東大寺、興福寺、元興寺、奈良国立博物館など)や、西の京近辺(唐招提寺、薬師寺など)は、梅爺夫婦だけで、徒歩や電車で観てまわり、比較的遠出になる、斑鳩(いかるが:法隆寺、中宮寺、斑鳩神社など)、明日香(飛鳥寺、石舞台、甘橿の丘)、桜井市、天理市の名所、遺跡には、Nさんの車で、二日間にわたりご案内いただきました。

あらためて『修学旅行』をしてみると、梅爺は日本人でありながら、日本の歴史の理解は極めていい加減で浅いことを思い知りました。

感想を書き綴ると、無知の程度がばれることになりますが、間違いをご指摘していただきながら理解を深めることもできますので、明日から、梅爺の問題意識別に項目分けして、『梅爺のやぶにらみ日本史』をブログに掲載したいと思います。

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