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2012年10月12日 (金)

柳田国男の民俗学(2)

梅爺のような老人は、社会環境や生活慣習の変化をみて、『日本らしさが失われてゆく』などと嘆きますが、言葉や生活慣習は、時代とともに『変化する』のが常態で、『同じ状態に止まる』方がむしろ異常です。

社会を構成する要因は、多様であり、その相関関係も複雑ですから、社会は自然の摂理同様に、『動的平衡』を求めて変容していくことになります。従って、ある部分だけを『昔へ戻す』ということは、容易なことではありません。『三丁目の夕日』の時代を懐かしんでも、『三丁目の夕日』の生活レベルに戻せと言われれば、現在の日本人の多くは悲鳴をあげることになるでしょう。

それでは『昔は良かった』という年寄りの郷愁は無意味かと云えば、そうでもありません。表面的な変容は『浮き世の変化』として認めるとしても、本質の変容までも認めることは、自分を否定することになったり、自分に不利な環境をわざわざ招くことに繋がりかねません。

『里山を取り戻そう』という運動は、日本の原風景を懐かしんでいることもありますが、それよりも『自然との穏やかな共生』が、環境を破壊せずに、人間にとっても有利な生き方であると再認識したからです。欲望を果てしなく追及するのが幸せではなく、生きていくためのバランスがとれていれば、それで幸せなのだという価値観を再確認したことにもなります。

柳田国男が、『常民』の歴史に目を向け、『自然観』『死生観』『倫理観』『審美観』『幸福観』を探ろうとしたのであれば、そこに日本人の『本質』が埋もれているのではないかと考えたからではないでしょうか。

もし、そこに変えることが好ましくない『本質』があるならば、『昔の方が良かった』と云うのではなく、その『本質』が、現在の、そして将来の日本人にとっても、大切なものであることを、『理』で説く必要があります。

『民俗学』が学問として意味があるとすれば、それを実践することなのではないでしょうか。語り継がれた昔話を採録するだけなら、文化財の保護に止まってしまいます。

柳田国男の興味の対象の一つが、『亡くなった人の魂』の行方に関する日本人の考え方でした。日本人の『死生観』の『本質』がそこに垣間見えるからです。

柳田国男は『魂になってもなお生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人であるがゆえか、私には至極楽しく感じられる』と述べています。

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