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2012年10月14日 (日)

柳田国男の民俗学(4)

昨日書いたような『推論』で、生きている人間の脳の中に、『神』『仏』『魂』『あの世』『天国(極楽)』『地獄』などという抽象概念が存在することは、人間の脳の進化を考えれば『自然の成り行き』と梅爺は考えています。矛盾するような話ですが、『実態』としてその様なものが存在することには、『疑念』をもっている梅爺の脳の中にも、抽象概念はまちがいなく存在しています。

梅爺は、生きている人間の脳の中に存在する抽象概念と、実態とは分けて考えているだけに過ぎません。しかし、世の中の多くに人たちは『脳の中にある抽象概念は、実態があるから存在する』と関連付けて推論しているのではないでしょうか。

どちらの考え方でも、社会に弊害をもたらさない限り、問題はありません。『愛』という抽象概念を信ずるか信じないかというような話であるからです。実態としての『神』の存在を信ずることが、より大きな『心の安らぎ』や『救い』をもたらすのであれば、それはそれで重要な意義を持ちます。しかし、『信じない人』は邪悪な人達で、許し難いとして、排除、抹殺しようというような話になると、社会に害を及ぼすことになります。『宗教』でさえも、このようなもろ刃の剣の側面を持っていることを、宗教関係者にも直視してほしいと、梅爺は願っています。

実態としての『神』が存在しないとすると、人の世は、『愛の無い邪悪や暗闇が支配するようになる』という考え方に、梅爺は同意できません。人間の脳は、抽象概念としての『愛』『正邪』を思いつき、それが『絆』を保つ重要な概念であることを見つけ出せると考えています。『絆』は『安泰』を保証する要因であり、本能的に人間はこれを求めるからです。

『人は死んで全てが無に帰す』という考え方は、何とも殺伐としたもので、そのようなことを言われれば、『寂しさ』や『不安』を生きている人の脳は『情』で感じます。逆に『魂は残り、あの世に行く』という『推論』は、『寂しさ』や『不安』を解消してくれますから、それにすがろうとするのも自然な成り行きです。

梅爺は、『人は死んで全てが無に帰す』と『理』で、考えていますが、『情』では『寂しさ』や『不安』を感じていないわけではありません。しかし、『理』が強固ですので、『あの世』や『魂』の話を聞かされても、それで『安心』『納得』するわけにはいきません。『理』の強い人間のこれは宿命で、ある意味では『救い難い人間』ということになります。

柳田国男は、仏教が伝来する以前から、日本には『あの世』の考え方があり、『死者の魂』が、生きている人間を『あの世』から見守ってくれているという考え方があったとを、山里にのこる伝承から確信します。

岩手県の遠野では、『死者の魂』は、里からみえる山に住み、里人を見守ってくれていると昔から云い伝えられてきました。その証拠に、山から里へ生きるための水が届けられていると人々は考えました。当然のことですが、昔の人たちは、自分が体験できる範囲の世界の中に、『この世』と『あの世』を共存させていたことになります。

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