« 柳田国男の民俗学(2) | トップページ | 柳田国男の民俗学(4) »

2012年10月13日 (土)

柳田国男の民俗学(3)

人間は死ねば肉体は滅びるが、『魂』は生き延びる、という考え方は、ほぼすべての民族、ほぼすべての宗教によって、語り継がれてきました。そして、その考えは『事実』となり『常識』となって、人類の歴史にも大きな影響を及ぼしてきました。『不滅の魂』を信じない人は、『冒涜者』『信仰が薄い哀れな人』『冷酷な考えの人』と社会からは、つまはじきにされました。

梅爺は、何度もブログで『不滅の魂』にたいして、疑念を表明してきましたが、さすがに現代日本では、これで投獄されたり、火あぶりにされたりすることはありませんから、ありがたい時代に生きていると感謝しています。しかし、現在でも『偏屈者の、嫌な爺さんのブログなど読むに値しない』と顔をしかめておられる方も多かろうと、覚悟はしています。

生物進化の過程で、『理性』という高い能力を人類が獲得したことが、『神』『仏』『魂』などという抽象概念を、ほぼ間違いなく思いつき、共有するようになる原動力であると梅爺は想像しています。『言葉』や『文字』を思いつき、共有するようになるのと同じ話です。したがって聖書の『大初(はじめ)に言葉あり、言葉は神なりき』という表現は、深遠なものであるように思います。

『理性』は、『認識』『記憶』などという脳の機能と関連しながら、『論理的に物事を考える(推論する)』という機能が中心をなしています。この機能が『抽象概念』を思いつき、名前や記号を与えて共有化するという、人間だけに可能な世界を生みだしました。

一方人間は、原始的な生物から進化してきましたから、その時代の資質も受け継いでいます。生き残るために、自分にとって都合の良いことと悪いことを、即座に判断しようとする本能がその代表です。私たちが、理性とは直接関係の無い『好き、嫌い』という『情』に強く支配されるのはそのためです。厄介なことに、脳の中では『理性』による『善悪の判断』より、この本能的な判断が先行します。

自分にとって都合の悪いこと、嫌なことを感知すると、脳はストレスとして、ホルモンを血液内に送り出し、『警告』を発します。そして、都合の悪いこと、嫌なことを避けようとする『反応』『行動』を開始しようとします。赤ん坊の『指しゃぶり』などは端的な反応です。つまり、『安泰を脅かすもの』を感じ取り、これを避けようとする本能に私たちは基本的に支配されています。これは『安泰を希求する本能』と云いかえることができます。当然ながらこの『反応』は、『善悪の判断』以前に生じ、『身勝手な行動』を優先してしまうことがあります。この矛盾が、後に理性で反省して『自分は邪悪な心の持ち主』であると私たちを悩ませることになります。

科学知識を持ち合わせていなかった時代の人たちにとっては、『周囲の自然』『生と死』などは、『摩訶不思議なもの』であり、理解できないが故に『不安』や『恐怖』というストレスを生みだす要因でもありました。このため人々は、『推論』を駆使して、これらの『摩訶不思議』を理解しようとし、それによって『安泰』を得ようとしました。『宗教の教義』はその集大成で、『不滅の魂』という考えも、この過程で誕生したのではないでしょうか。『宗教』が『心の安らぎ(安泰)』『救い』と深く関与しているのはこのためです。

柳田国男は、『日本人は魂をどのようなものと考えてきたのか』に興味を持ち調査をしています。後に、同じく民俗学者の『折口信夫(おりぐちしのぶ)』と、『魂』に関する論戦をしていますので、『不滅の魂』という考え方そのものには、疑念をもっていなかったように見受けられます。

|

« 柳田国男の民俗学(2) | トップページ | 柳田国男の民俗学(4) »

コメント

お邪魔いたします。
とても興味深い内容で思わず書き込みさせていただいております。
葬儀の仕事に係わって、様々な司祭者とお話をしていますと、やはり宗教の世界は作り話だよなぁ、と痛感します。
でも、その作り話が、人の心を救ってきたのだから、不思議な感じがします。
俺も魂とか信じません。「ほら、お父さんはいつでも、側にいて見守ってくださってますよ」だなんて、演出としては言うこともあったけれど、心のどこかでは「そんなことあるわけなかろうに」と思ってしまっていた悪いスタッフでございました。

投稿: 須内 | 2012年10月13日 (土) 01時16分

須内さま、コメントありがとうございます。
近親者や親しい人が無くなれば、残された人の『記憶』のなかに、思い出が残り、『懐かしさ』『愛(いと)おしさ』『哀しさ』『寂しさ』感ずるのは当然のことです。
人間の脳の中に存在する『精神世界』の事象を、『自然界』にまで話を及ぼして、『霊』が存在すると『推量』するのも『精神世界』のはたらきです。『そうあって欲しい』という願いがいつの間にか『そうである』という事実に転ずるのも同じことです。
しかし、それで『心の安らぎ』が得られるのであれば、『精神世界』や『宗教』は、人間にとって無意味とは言えません。
『精神世界』の話と『自然界』の話を分けて考えることと、『精神世界』の大切さを理解することは矛盾しないように思います。
私も、『霊が存在したらよいのに』と『情』では願いますが、私の『理』は『自然界に霊はそんざいしない』と囁きつづけています。

投稿: 梅爺 | 2012年10月13日 (土) 13時37分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 柳田国男の民俗学(2) | トップページ | 柳田国男の民俗学(4) »