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2012年10月31日 (水)

イスラームによる国家統治(5)

『イスラーム』の考え方に従えば、『モーゼ』『キリスト』『ムハンマド』はいずれも『預言者』であり、それぞれ『モーゼに導かれたユダヤ教徒』『キリストに導かれたキリスト教徒』『ムハンマドに導かれたイスラーム教徒』が存在することを基本的に認めています。『預言者』によって信仰の形式は異なっても『唯一の神』に到達することでは同じという考え方です。

それならば、『ユダヤ教徒』『キリスト教徒』『イスラーム教徒』は穏やかに共存できるはずですが、歴史はその様には展開しませんでしたし、現在もそのようにはなっていません。『国家や帝国の領土維持、拡大』という政治的な野望は、『穏やかな共存』とは相容れないからです。『領土維持、拡大のための戦い』は、外観(そとみ)には『異教徒との戦い』ということになる場合が多く、その時は『宗教戦争』ということになりますが、『政治戦争』を正統化するために『宗教』を掲げて『聖戦』と呼ぶことが実態として多いように梅爺は感じます。

人間社会の歴史において、『宗教が政治を支配する』『政治が宗教を支配する』という抗争が繰り広げられ、西欧国家や日本は、『結局どちらもいけない』という合意が形成されて、『政教分離』の考え方を採用しています。しかし、どの国も『完全に分離できている』わけではありません。アメリカ大統領は就任時に聖書に手を置いて宣誓しますし、演説の終わりには『アメリカに神の御加護を』などと付けたしたりします。『政教分離』では日本の方が進んでいる国かもしれません。

『イスラーム圏』国家の多くは、『宗教が実質的に政治を支配している』『為政者が宗教を利用している』のどちらかの状態ですから、『政教分離』を目指すと言う考え方そのものが主流になり難いことになります。民衆の蜂起で独裁政権を倒した『エジプト』も、その後の選挙では『イスラーム派』が勝利しています。私たちは独裁政権打倒は『民主化』のはじまりと考えますが、『エジプト』の人たちの多くは、むしろ『政教一体』の社会に回帰することを求めているらしいことが分かります。

『イスラーム』の文化では、政治的為政者は『剣の人』、宗教指導者は『文の人』と呼ばれ、両者はバランスを保っていますが、いざという時には『文の人』の発言が重視されるという『知恵』で成り立っています。ここに『政教分離』の考え方を持ちこむことは至難の業です。

『政教分離』が本質的に難しい『イスラームによる国家統治』の実態を、私たち日本人が肌で感じて理解することも、これまた難しいと感じます。

従って、『北アフリカのイスラーム諸国の民主化』『イラクやアフガニスタンの国家体制』が今後どのように推移するのかを見とおすことも、難しいと感じます。少なくとも『西欧型民主主義の方が優れている』という先入観念を排除して、推移を見守りたいと梅爺は考えています。

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2012年10月30日 (火)

イスラームによる国家統治(4)

梅爺は『イスラーム圏』の国家統治の基本は『神主主義』ではないかと、このタイトルのブログの最初に書きましたが、これは誤解を生ずるかもしれません。第一次世界大戦で敗北し崩壊した『オスマントルコ帝国』の時代までは、『イスラーム圏は神主主義』といえるかもしれませんが、それ以降現在に至るまでの『イスラーム圏』は、一律に論ずることが難しい状況に変貌しているからです。しかし、表面は変わっても、根底に『神主主義』が存在することを見落としてはいけないような気がします。

『イスラーム圏』も世界の政治、経済とは無関係には国家維持ができなくなり、『グローバリズム(経済、情報共有文化)』の影響は一段と色濃くなりつつあることが、表面的な多様さの背景です。

最初に『神主主義』を大胆に破棄しようとしたのが『トルコ』です。第一次世界大戦で『オスマントルコ帝国』は敗北し、国土は西欧戦勝国に分割配分されそうになりました。この時『アタチュルク(ケマル・パシャ)』が立ち上がり、西欧諸国に対抗し、ついに『トルコ共和国』としての独立を勝ち取り、国家滅亡の危機を救いました。

『アタチュルコ』が行った政治改革は、『世俗主義』などと呼ばれますが、内実はよくもここまでやれたものだと梅爺が感嘆する位徹底した『イスラーム神主主義』の排除でした。宗教裁判、神学校などは廃止になり、言語表記もアラビヤ語表記からアルファベット表記に切り替えました。当然学校教育は、『ムハンマド』より『アタチュルク』を礼賛する内容に変えられました。短期間の大改革には、手段としてリーダーの『神格化』が必要ということなのかもしれません。全てを『西欧化』することが、国家維持の前提と考えたのは日本の『明治維新』と共通です。『明治維新』でも政府は『廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』などで『宗教』への介入を行いましたが、『トルコ』ほど国家にとっての最大課題ではありませんでした。

一人の人間の強い改革意思が、1000年以上の『慣性』をもつ、宗教文化基盤を変えられるのかという視点で見れば、『トルコ共和国』建国時の状況は非常に興味深いものです。国家滅亡という危機でもあったためか国民は、表向きはこの改革を受け容れ、今日に至っています。勿論、あまりにも過激な改革に反対し『アタチュルク暗殺』を企てるような動きもありましたが、『アタチュルク』はこれらを反逆者として徹底弾圧し、『自分がトルコだ』とまで言い切りました。

『トルコ』は、西欧民主主義に近い政治体制の『イスラーム圏国家』ですが、今でも選挙のたびに、『世俗主義』と、『イスラーム』を重視する『反世俗主義』の争いが繰り広げられています。

今後『イスラーム圏国家』の民主化があるとすれば、『トルコ』のような『強引な民主化』は例外で、多くの国家は『民意』でそれを選択する方式が採られるものと思います。しかし、これにはどうしても『イスラーム』の一部を否定する必要(矛盾)が生じるために、どう考えてもスンナリ行きそうな気がしません。少なくとも短期間に民主主義国家に生まれ変わるなどということはないと推測できます。

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2012年10月29日 (月)

イスラームによる国家統治(3)

『イスラーム』を理解する上で、重要なアラビヤ語の概念は、『ウンマ(共同体)』『イジュマー(共同体の合意)』『ウラマー(宗教的指導者:知識を持つ人)』であることを『イスラームとは何か』という本を読んで知りました。

『ウンマ』は『イスラーム』を信仰する人達の絆で結ばれた精神的結束で、特定のコミュニティのことではなく、時には国の垣根を越えた広汎な連帯をも意味します。現在私たちが『イスラーム圏』と呼ぶ対象も『ウンマ』です。『神(アッラー)』と人間の結びつきは垂直で個人的なものですが、信者同士は『ウンマ』で水平に結びついた同胞であるという考え方です。この垂直(神と個人)、水平(信者同士)の結びつきが『イスラーム』思想の真髄です。

私たちも、学校、会社、国家などの一員として『連帯意識』を持ちますが、『イスラーム』の『ウンマ』はより強固な概念であろうと推測しました。『イラク』や『アフガニスタン』の反米ゲリラ組織には、『イスラーム圏』の諸国から多くの戦士が参加していますが、根底には『ウンマ』の連帯感があるためなのでしょう。

『イジュマー』は『ウンマ』の中になんとなく形成される『合意』のことです。特定のプロセス(会議、命令といった)を経て『合意』に達するのではなく、時間をかけてじわじわ形成される『合意』ですので、『不文律』『紳士協定』のようなもので、『なんとなく』としか形容のしようがありません。私たちの『民主主義』では、プロセスを決めて討論、投票などをおこない、手っ取り早く、効率よく、『合意』を得ようとしますが、『イスラーム』は時間をかけて煮詰まるのをじっと待つという方法ですので、悠長と言えば悠長ですが、その分試練に耐えうる強固な『合意』が得られる可能性を秘めているように感じます。時間をかけて本物が生き残るという考え方は『生物進化』にも似ています。人間の特性や能力を考えると西欧民主主義の『合意』形成方式が、『イジュマー』形成方式より優れているとは一概に言えません。

『ウラマー』は、『宗教指導者としての神学者、法学者』で、これも特定の選定方法があるわけではなく、『ウンマ』の中から、『賢い人』がなんとなく選ばれるというということですから、これも『イジュマー』の一種と言えそうです。個別の問題への対応指針は『ウラマー』が『神(アッラー)の代理』として決めることになりますから、重要な役割を負い、大きな影響力を持つことになります。

歴史的に特に優秀な『ウラマー』は『学派』をつくり、考え方が継承されていくために、『イスラーム』には現在も複数の『学派』が存在しているとのことです。『スンナ(スンニ)派』『シーア派』などは、この『学派』から元々派生したものらしいと知りました。『イスラーム』における宗派の違いとは何だろうと、かねがね疑問に思っていましたが、そういうことかと分かりました。しかし『全能唯一の神(アッラー)』の『真意の解釈』が、人間側には複数存在すると言う『矛盾』はいかがなものかと皮肉を言いたくなりました。

このようなことを知れば知るほど、『イスラーム』社会を西欧型の民主主義に変えるなどということは、至難の業であることが分かります。

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2012年10月28日 (日)

イスラームによる国家統治(2)

『イスラーム』の出現と急速な布教拡大で、当時の世界を二分していた『東ローマ帝国』と『ペルシャ帝国』のうち、『ペルシャ帝国』は滅亡に追いやられ、帝国の宗教であった『ゾロアスター教』も衰微してしまいます。

その後西ヨーロッパを中心とする『キリスト教』勢力と、『イスラーム』勢力は、世界史の中で『抗争』と『講和』を繰り返し、支配権の及ぶ地域を増やしたり、減らしたりしながら、現在の『世界地図区分』にいたっています。ヨーロッパは『キリスト教』の支配圏と単純に考えると世界史は理解できません。中欧、東欧、それにスペインの南部などを訪れれば、過去にその地が『イスラーム』の支配下であった痕跡を沢山見ることができます。

『イスラーム』と戦った苦い経験を持つ西ヨーロッパの人たちは、『イスラーム』体制が如何に自分たちとは異なったものであるかを、骨身にしみて分かっているために、ブッシュが能天気に『イラクの民主化』を掲げて侵攻しようとしたときに、『反対』しようとしたのではないでしょうか。アメリカは、自分たちの『新文化』は作り上げましたが、『異文化』による深刻な侵攻を経験していません。それゆえ『9.11』の時には国中がパニック状態になりました。ブッシュは、蒙昧(もうまい)な『イスラーム』の人たちが、すばらしい『民主主義』を知れば、たちどころに受け容れるであろうと想像したのでしょう。そうであれば、『イスラーム』のことを知らないブッシュの方が蒙昧です。

『イスラーム』は宗教ではありますが、同時に国家統治の『法』でもあるということを理解することが重要です。しかし啓典『クルアーン』や預言者言語録『ハディース』といえども、全ての社会問題への対応規律が記載されていあるわけではありませんので、個別の問題が発生するごとに『法』はつくられるのですが、それは『偉い神学者(法学者)』が、『神』の意図を忖度(そんたく)して決めることになります。実態は『人間』が作っておきながら、『神の意図』とすりかえるという巧妙な論理です。欠点は、法学者によって異なった『神の意図』が示されることがあることです。時には法学者が提示した『法』の庶民が従わない場合もあります。コーヒーやタバコは最初『法』で禁じられましたが、庶民の間に広がってしまい、『法』はなし崩しになってしまっています。

生活の全てが『イスラーム』によって規制されることの不合理に、『イスラーム』を信仰している人自身が気づいてほしいと思いますが、期待薄のような気がします。『信仰』を捨てることにつながるからです。

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2012年10月27日 (土)

イスラームによる国家統治(1)

『イスラームとは何か』という本を読むと、古代から中世にかけて、人類が『部族社会』から『国家社会』へ変貌する時に、『宗教』が如何に有効な『手段』として機能するものであるかが分かります。

『部族社会』でも『国家社会』でも、『外交』と『内政』の問題が生じますが、『見知った人たち』で構成される『部族社会』よりも、『見知らぬ人たち』が共存する『国家社会』の方が、格段に複雑な『内政』問題を抱えることになります。

『外交』は『敵』との抗争が主体で、『法』ではなく『力(武力)』による問題解決を余儀なくされますが、『内政』は、『法』の整備が重要な意味を持ちます。国民を説得する『法』を、国民が信奉する『宗教』の教えを基盤に整備するのは、実に巧妙な方法で、『イスラーム』国家では、国家と宗教が絶妙な関係が、『内政』を円滑にする要因として、少なくとも当時は成功しています。

『法』は、『イスラーム』のように、『神の教えを基盤とする』とみるか、西欧社会が試行錯誤で作り上げてきた『人間が考え出した約束事(知恵)』と見るかで、歴史的な意義や、『法』の基本認識が大きく異なってきます。

私たちは、『殺すなかれ』『盗むなかれ』などという『法』の基本は、『神の教え』と合致していると考えがちですが、梅爺が何回もブログに書いてきたように、人間は『自分にとって都合がよいか悪いか』を判別する本能から出発して、やがて群のなかの関係を良好に維持するために、『善』『悪』という抽象概念を考え出す能力があり、これを基準にものごとを区分けする能力も備わっていると考えると、全ての『法』は、『人間が考え出した約束事』であると考えて差し支えないのではないでしょうか。『神』が人間に『善』を教えたのではなく、『善』の究極の象徴として人間が『神』という概念を創り出したのであろうというのが、梅爺の畏れ多い推測です。

つまり、『人間が考え出した約束事』ですから、事情が変われば『法』の内容も変えるのは当然と考えます。しかし、『法』は『神の教えを基盤とする』と考えている人たちにとっては、そうはいきません。『法』を変えると言うことは、『神の教え』が『間違っていた』と認めることになりかねないからです。

『法』を『神の教え』として整備することは、『有無を言わせぬ』側面がありますから円滑に進むかもしれませんが、その後の『法』の運用の柔軟性は失われます。一方『法』は、その都度人間が合意した『知恵』とすると、議論が白熱したりして円滑な整備は難しくなりますが、『運用』は柔軟になります。

極端に言ってしまえば、『法』の視点で観るかぎり『イスラーム』は『神主主義』を基盤とした社会であり、日本を含む西欧国家などは『民主主義』を基盤としている社会なのではないでしょうか。

この根本的な『違い』を相互に理解しないと、共存の術(すべ)は見出せないことになります。『イスラーム』社会に『民主化運動』が始まったなどと、私たちは軽々しく口にしますが、『神主主義』から『民主主義』への移行が、そう容易なものとは思えません。1000年以上の『慣性』を保持している『イスラーム』社会に、私たちと同じような『民主主義』がすぐにでも定着すると考えている人がいるとしたならば、よほど楽観的な人です。

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2012年10月26日 (金)

UFOの正体(5)

『科学知識』を持たない時代の人たちは、摩訶不思議な自然現象、天体現象に遭遇すると、脳の『推論機能』で、何らかの『因果関係』を創造し、それを共通認識として共有してきました。『分からない』ままで放置するのは不安のストレスになるために、『説明』を考え出して安堵しようとする本能が関与していると梅爺は考えています。顰蹙(ひんしゅく)を覚悟で申し上げれば、自分で保有しながら自分でも理解ができない『精神世界』を、『説明』しようとして『宗教』が誕生したのであろうと考えています。これらの梅爺の推測も、梅爺が本能で安堵を求めている行為に他なりません。

昔の人たちは『日蝕』や『月蝕』は、何か不吉なことがおきる前兆と考え、畏れましたし、『雷』や『台風』は、『雷神』『風神』のなせる技と考えました。

現代に生きる私たちは、昔の人たちに比べて飛躍的な量の『科学知識』を保有していますが、それでも『UFO』などの摩訶不思議な事象に遭遇すると、『推論』で『説明』をしようとします。人間の本能が同じように作用しているからです。『科学』の領域では『推論』は『仮説』の段階で、その『推論』に『矛盾』がないことが検証されて初めて『定説』となります。しかし、『定説』とされていたことにも新たな『矛盾』が見つかり、覆(くつがえ)ることも度々あります。『科学』の領域では、『疑う』ことが出発点ですから、『信ずる』ことを出発点とする『宗教』と相容れないのは、当然です。梅爺は『疑う』ことも『信ずる』ことも、人間にとっては『安堵』を求める本能を満たす手段で、誰もが回避できない行為であろうと考えています。『疑いながら信じ、信じながら疑う』のが、人間の性(さが)ではないかと思います。『疑ってはいけない』『信じてはいけない』と相互に排除しあっても、人間の本質は見えてきません。

番組では、ノルウェイの山岳地帯の村で、『UFO』が度々目撃される事例を、科学者が解明しようとしている様子が紹介されました。この村の近郊には、鉱山(銅、鉄、石英)の廃坑跡が沢山あり、地下で発生した『電磁波』が、空中へ影響し、空気中のチリや元素(窒素、酸素、水素)を『プラズマ発光』させているのではないかという『仮説』でした。本当に地下で『電磁波』が発生するのかどうかの検証はこれからということでした。

『日蝕』や『雷』と同様に、『UFO』もやがて科学的に説明される時代がくるのではないでしょうか。少なくとも人間の『精神世界』を解明するよりは『UFO』を解明する方がずっと易しいような気がします。

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2012年10月25日 (木)

UFOの正体(4)

『UFO』は宇宙人が操縦する飛行物体であるという推測は、現実には極めて可能性が薄いと考えられます。地球以外の太陽系惑星に『生命体』が存在する可能性は、皆無ではありませんが、まだ確認できていません。太陽系ばかりではなく宇宙全体を考えれば、『生命体』の存在確率は高まります。

地球以外の太陽系惑星でその可能性が一番高いのは『火星』であろうと考えられていて、最近着陸に成功した無人探査機『キュリオシティ』の今後の調査結果が期待されています。現在も生息している『生命体』を発見することになれば、大ニュースですが、過去に生息していた『生命体』の痕跡を見つけるだけでも大発見です。それらの『生命体』は、地球の『生命体』でいうなら『微生物』のようなものかもしれません。『地球人』と同等、またはそれ以上の科学、文明を有する『火星人』が存在する可能性は現状では低いと考えられています。

アメリカのNASAや、ロシア、ヨーロッパ連合も、次は『有人探査機』を『火星』へ送り込もうと研究を継続していますが、多くの難題がまだ克服されていません。『火星』への安全な離着陸の技術もさることながら、往復に3年弱の時間を要するために、その間の飛行士の健康管理(肉体的、精神的)、エネルギー源となるロケット燃料の確保(火星で取得できる材料で、燃料をつくる無人工場を先ず建設するなどの案がある)などまだまだ問題は山積しています。過去に、宇宙飛行中のストレスで、精神障害を起こした飛行士の例も少なくなく、『人間』に関する問題解決が最大の難問とも言われています。

『人間』が最も近い惑星『火星』に行くだけで、これだけの難題があるわけですから、宇宙の果てから『宇宙人』が『地球』へ飛来することは可能性が低いと推測したくなります。1977年に打ち上げた、宇宙探査機『ボイジャー1号』は、35年経った現在ようやく太陽系の辺境に到達しようといますので、太陽系の外の惑星から『宇宙人』がやってくるには途方もない時間がかかることになります。その間の飛行体推進エネルギーの取得方法も不明です。しかし、それは『人間』の科学レベルや寿命を基準にした推測ですから、『人間』の常識をはるかに超えた『生命体』や『知識』が存在しないとは断言できません。

宇宙船の推進方式を、画期的に変えて、飛行時間を短縮しようという研究も進んでいます。宇宙空間に人工的な『歪み』を発生させ、その反撥力で移動するなどという一見とっぴなアイデアで、日本人の南喜成氏が特許をとり、NASAと研究を継続していると番組では報じていました。宇宙空間に『歪み』を作るには莫大なエネルギーを要しますので、実現のめどは立っていませんが、理論的には、『瞬間移動』『ジグザグ移動』など、『UFO』のような移動が可能であるということでした。

多くの科学者は、『UFO』を『宇宙人』から切り離し、『天体現象』として解明しようとしています。既に私たちが取得している、物理法則、化学法則の組み合わせで説明や再現実験が可能であるという前提です。新しくみえる『現象』は、ありきたりの科学の法則に則っているということですが、どうしても説明つかない時に『新しい法則』がみつかるきっかけになるかもしれません。

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2012年10月24日 (水)

UFOの正体(3)

『UFOは宇宙人の飛行船である』と、想像したくなるのは、明らかに自然の造形物とは思えない円盤状の物体が目撃されたり、写真撮影されたりしているからです。人間が作ったのではない造形物が、宇宙を飛行しているとすれば、それは『宇宙人(高知能生物)』がつくったものに違いないという『推論』が働くからです。

私たちは『大掛かりな奇術(イリュージョン)』で、摩訶不思議な現象を目撃しても、『自分が知らない種明かしが裏側にあり、自分は騙されている』と認めて、見事な技に喝采を送ります。『種明かしのしかけが分からないこと』には『不満(ストレス)』が残りますが、『必ず種明かしがある』と『推測』して、『不満』が『不安』や『恐怖』にまで進展しないように抑制します。

しかし、もし未開の土地の人たちが、予備知識なく『イリュージョン』を観たらどうなるでしょう。『見事に騙された』などと能天気には考えずに、『驚愕』『恐怖』に襲われ、魔術師は、『神』か『悪魔』とみなされるのではないでしょうか。

『イリュージョン』に接した時の、『現代人』と『未開人』の反応の違いは、人間の脳の働きを考える上で興味深いものです。私たちは『摩訶不思議な事象』に接した時に、必ずしもいつも『現代人』のように反応するわけではなく、時によっては『未開人』のように反応することもあるのではないでしょうか。科学を尊重する姿勢は、『種明かしを知ろうとする姿勢』ですので『現代人』的な行動であり、『神仏を畏怖する』姿勢は『未開人』的な行動と言えます。梅爺の中にも、『現代人』と『未開人』が共存しているのだと観れば、自分の行動の多くは納得できます。

同じ事象に接しても、『種明かしがある魔術』ではなく、『人知を越えた奇跡』であると考えることがあり、多くの宗教が、この人間の脳の反応を利用していると梅爺は考えています。ただし、宗教の目的は、人を騙すことではなく、『奇跡を信ずる』という行為の先に存在する『心の安らぎ』を獲得することですので、『騙された』などと考える人はそもそも信仰者にはなれません。

『空飛ぶ円盤』も『イリュージョン』ではないかと考えれば、『推論』の中身は変わってきます。たとえばイタズラ者が、『空飛ぶ円盤に見える風船』をつくり、水素ガスを注入して空に放ったのではないか、などという『種明かし』を考えることになります。

科学者は、『全ての事象には種明かしがある』と云う前提で、追求します。しかし、『全ての種明かしを入手できる』とは、必ずしも考えているとは限りません。哲学者が、『自分とは何か』という答がないかもしれない問題を考え続けるのと同様に、科学者は、『分からないかもしれないが、それでも知りたい』と衝動に駆られる人たちです。『科学者は、何事も理屈で片付けようとする、心の冷たい人たちである』などという科学者に対する誹謗は適切ではありません。『科学者』にも『信仰者』にも、相対的に『心の暖かい人』『心の冷たい人』はいるのではないでしょうか。

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2012年10月23日 (火)

UFOの正体(2)

『UFO』は世界中で目撃されていますが、特別に有名になった事件がいくつかあります。アメリカでは1947年に、ニューメキシコ州ロズウェルで起きた『ロズウェル事件』がそれにあたります。 

ロズウェル近郊の牧場で空から落下したと思われる散乱した金属片を住民が発見し、保安官経由で近くの空軍基地に通報されました。すぐに係官が駆け付け金属片は回収され、翌日空軍は『墜落した空飛ぶ円盤の一部を発見した』と発表し、全米が騒然となりました。ところが空軍はその次の日に、『あれは観測用気球に積んだ機材が落下した残骸である』と訂正の発表を行いました。 

同じ時期に、この空軍基地ので働いている人が、基地の遺体安置所に収容されている『宇宙人らしい遺体』を見たと証言し、『空軍は何かを隠そうとしているのではないか』という疑いが広がりました。当時は米ソの冷戦のさなかで、『軍事機密』は厳格に秘匿される時代でもありました。 

『ロズウェル事件』で軍に対する国民の不信が収まらないために、米政府はNASAによる『再調査』を行い、『レポート』が公開されました。内容は、『金属片』は、『ソ連の原爆実験を監視するためにアメリカの気球に搭載したレーダーが落下したもの(残骸)』であり、『宇宙人の遺体』は、『空軍が当時開発中であった新型パラシュートのテストのために使用していたダミー人形が落下したもの』というものでした。これが本当ならば、米軍は軍事機密を守るために、最初は『UFO』であると嘘をつき、大騒ぎになったのであわてて訂正したということになります。しかし、アメリカには、この『レポート』を信じない人たちも沢山いて、『軍は何かを隠している』と今でも疑っているようです。

この調査委員会は、それまでに全米から寄せられた『UFO』に関する全ての目撃証言を検証し、内訳を以下であると発表しました。

天文現象(21.8%)
航空機(21.5%)
気球(15.4%)
情報不足(10.9%)
幻覚(10.3%)
正体不明(17.7%)

これに基づき、『UFO』の科学調査を続行する意味は薄いと米国政府は判断しましたが、『正体不明(17.7%)』を無視できる割合ではないと異を唱える学者もいます。

フランスでは、国立の宇宙センター(研究機関)の中に『未確認大気宇宙現象情報研究グループ』があり、現在でも国民から寄せられた情報を分析して、その結果を公開し続けています。フランスの例では、『正体不明(22%)』があり、科学的に無視できる割合ではないと考えられているようです。

約2割の『現在の知識では説明できない現象』があるということは、今後人類が新しい科学知識を獲得できる可能性が、その研究の先にあるとみてよいのではないでしょうか。同じく『科学的に説明ができない現象』とされる『心霊現象』よりは、物理、化学現象として解明できる可能性が高いように思われます。

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2012年10月22日 (月)

UFOの正体(1)

UFO(未確認飛行物体:Unidentified Flying Object)の正体に関する番組が、NHKBSプレミアムチャンネル『コズミックフロント』で放映され、野次馬の梅爺は興味津津(きょうみしんしん)で観ました。

梅爺は残念ながら『UFO』を目撃したことはありませんが、世界中で多くの人たちが『UFOを見た』と証言しています。必ずしも錯覚や幻覚として片付けられないのは、飛行機のパイロットや宇宙飛行士などの、信頼できる人達の証言も含まれていることです。中には、写真や動画の撮影に成功した例も少なくありません。

人類は、ここ数百年の間に、幾何級数的に科学知識を増やしてきましたが、自分たちを取り巻く全ての森羅万象(しんらばんしょう)を説明できているわけではありません。『宇宙』はまだまだ謎に満ちていますし、意外なことに自分たちの『脳』が創り出し、誰もが常時体験している『精神世界』も、未知の宝庫です。『精神世界』は140億個と言われる脳神経細胞が同時並行的に相互作用しながら醸(かも)し出す複雑な世界ですから、単純に解明できるとは思えませんが、それでも科学の究明対象であることには変わりがありません。そしてその究明行為は人間の尊厳に対する冒涜でもないと梅爺は考えています。

『UFO』は文字通り正体不明の飛行物体ですが、人間は客観的に観察した事象の説明でとどめずに、因果関係を推察して『宇宙人が宇宙船で地球へ飛来したもの』ではないかと考えたりします。そう云う推察をもとに作られた『未知との遭遇』などという映画を観れば、『UFO』と宇宙人を結びつけて考える度合いが深まります。現代人も不思議なものに遭遇すれば、このような推察を行うわけですから、古代人も不思議に思うものに対して、知恵を絞って因果関係を推察したに違いありません。人間社会に宗教の原型が誕生する経緯はこのようなものであったのではないでしょうか。

『UFO』は『宇宙人が操縦する宇宙船である』という仮説は、全くありえない話とはいえませんが、現状で私たちが保有する全ての科学知識を駆使しても、その可能性は低いように思われます。ただし、『宇宙人』と呼ぶのが正しいかどうかは別にして、『宇宙』には地球以外にも『生命体』が存在し、中には『高度な知性を保有する生命体』も存在するであろうと多くの科学者は推測しています。ただそうだとしても、『生命体』が存在するであろう場所と地球との間の距離、移動時間、移動に要するエネルギーなどを『私たちの知識』で考えると、可能性が低いという推測になります。しかし、これはあくまでも私たちのメガネでものを見ているだけの話で、私たちが知らない『知識』を駆使すれば可能なことなのかもしれません。

先ずは、『宇宙人』との関係を一応排除して、『UFO』は天体現象の一つと考え、科学で説明しようとしている科学者が沢山いることを番組を観て知りました。

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2012年10月21日 (日)

冤罪事件は何故起きるのか(4)

アメリカの裁判では、『事実認定』は裁判官が行うのではなく『陪審員』によって行われます。被告を『有罪』とするためには、『陪審員全員一致する同意』が必要ですので、検察側には必ずしも有利なしくみではありません。

岩永氏は、『Justice(正義)』に関する基本的な考え方の違いが、日米にあるのではないかと指摘されました。

『Justice』には、『悪い奴を逃すな』という意図と、『無辜(むこ:無実の人)を罰するな』という意図の、二つの側面がありますが、日本の場合は前者が、アメリカの場合は後者の考え方が強いのではないかというのが岩永氏の指摘です。

『悪い奴を逃すな』を強調すれば、『少々の冤罪が発生してもしかたが無い』ということになり、『無辜を罰するな』を強調すれば、『少々悪人が見逃されることがあってもしかたが無い』ということになりますから、日本で『冤罪事件』が起きやすい事情が理解できます。

梅爺は、これらの日米の考え方の違いは、『国家体制』の成立のプロセスと関連していると感じました。

日本は、明治維新で近代国家の歩みを始めましたが、形式を西欧諸国を模倣することから始めました。強引に新しい『器』をつくったことになります。『国家体制』作りは『お上(かみ)』主体で行われ、庶民はほとんど参加していません。『有能なお上が、蒙昧(もうまい)な庶民を導く』という考え方が根底にあり、確かに運よく、しかもタイミング良く『有能なお上』が出現したこともあって、庶民が蜂起して、『お上』を排除して自分たちの国家を作るなどといった体験をせずにやってきました。『有能なお上と蒙昧な庶民』という構図は、現在では大分是正されたとはいえ、いまだに日本社会に根強く残っているような気がします。裁判制度も、これが反映して、『お上』の側を代行する『検察側』は有能であり、間違いを起こす可能性は少ないという前提で、検察側に有利な制度になっているのではないでしょうか。当時は、『蒙昧な庶民による陪審員に判決を託す』などという考え方は、『お上』にとっては論外であったにちがいありません。

一方、アメリカは、市民の寄せ集めで、『国家』を手さぐりしながら作っていった経緯がありますから、市民の権利を守る、無実の罪で罰せららることが無いようにするという考え方が強くなったのではないでしょうか。しかし、『市民は蒙昧である』という考え方にも、一面の真理は含まれていますので、『市民に任せれば万全』とは必ずしもいえないような気もします。『裁判から間違いを排除する』のは、いずれのしくみにとっても難題であることが分かります。

日本に根付いてきた裁判制度は、それなりに長所があるとは思いますが、『冤罪』は国民の人権を侵害するものですから、それを産みだす可能性が高いというなら、是正のための努力や議論は重要です。『拷問による訊問』を排除するなどの、小手先の対応ではなく、岩永氏の指摘にあるような、『証拠の質』『事実認定の質』改善のための本質理解を前提とした議論であって欲しいと願います。そう云う議論ができないとすれば、『庶民は蒙昧』と言われてもしかたがりません。

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2012年10月20日 (土)

冤罪事件は何故起きるのか(3)

岩永氏の論理的な説明は以下のように続きます。

先ず、裁判における『判決の質』は、法廷に提出される『証拠の質』と、『証拠』を基に裁判官、裁判員が行う『事実認定の質』に依存することになります。

日本の刑事裁判では、検察側が捜査権を用いて、集めた『証拠』が主として用いられますので、昨日も書いたように、『検察側の恣意』がそこに潜む可能性が高いことになります。別の云い方をすれば、『証拠の質』に問題があるということになります。検察側が『提出しなかった証拠』を、被告人や弁護側は見ることができない(見る権利がない)などの、不公平も生じます。

裁判官、裁判員が行う『事実認定』は、方法論としては『論理則』と『経験則』で行われます。平たく云ってしまえば『頭がよく、社会経験も豊富な人』という資質が求められます。裁判官は、法律知識に詳しく、論理思考ができる頭脳の持ち主であっても、社会経験は豊かとは言えないという弊害を是正するために、法律知識を持たない一般市民の『経験則』を利用する『裁判員制度』が導入されましたが、『判決』内容には必ず裁判官の意見も反映するようなしくみ(変則的多数決制度)になっていますので、最後に裁判員の『経験則』は否定されてしまう可能性が残ります。

『自白』は『事実認定』には有力なものですので、容疑者を『人質』状態にして、『心理的、肉体的な拷問』に近い方法で訊問したり、『直接証拠』を形成するための誘導尋問が行われたりする問題も生じます。『訊問』の状況をビデオテープに収録して、『可視化』しようなどという議論もありますが、なんとなく梅爺には対処療法の感じがします。

この日本の裁判の問題を考え直す手掛かりの一つとして、岩永氏は、アメリカの『ディスカバリー』という制度を紹介されました。『ディスカバリー』は、事実審理の準備のために、被告人や弁護士が、『証拠』を収集するための手続きで、『権利』として法的に保証されています。

梅爺は、アメリカ人作家のジョン・グリシャムの『法廷』に関る小説を読み、弁護士が行う『Interogatories(質問)』や『Deposition(証言録取)』という英単語は承知していましたが、これらが『ディスカバリー』の一環として認められている法的権利であることを、岩永氏の説明で初めて理解できました。

アメリカの『ディスカバリー』制度をそのまま日本へ導入するには、弁護士の再教育、コスト負担などいくつかの課題を克服しなければなりません。ただ、日本の裁判における『証拠の質』を高める改善努力や、そのための議論は重要であると認識しました。

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2012年10月19日 (金)

冤罪事件は何故起こるのか(2)

岩永氏は、論理的に話をされますので、梅爺のような理屈屋は、『なるほど』と頷(うなづ)くことができます。しかし、自分の『思い込み』を排除して、話し手の『論理』だけで判断を積み上げていくという理性的な行為は、意外に難しいことです。梅爺は、現役時代に外国人とのビジネス折衝を繰り返すことで、『ディベート(debate)』の基本として、これを苦労して身につけました。 

話し手の『論理』を理解しようとせずに、自分の『思い込みによる勝手な解釈』で、議論に割りこんだりするとかみ合わなくなります。世の中は、『勝手なこと』を云いあって、自分たちは『議論』していると勘違いしている例が多いように思います。学校教育で『ディベート』の訓練を受けていない日本人は、『あなたの論理や定義には同意できない』ということを論理的に説明しようとせず、『あなたは気にいらない。だから、あなたの云うことも気にいらない』というような発言になることが多いように感じます。 

たとえば、岩永氏は、『裁判における「事実」は、「証拠」から推認されたことを指し、「真実」とは言えません』というように話をされます。これは、ある前提、条件のなかで、『事実は必ずしも真実ではない』と云っていることになりますが、一般的に『事実は真実でもある』と思い込んでいる人は、一瞬戸惑うことになります。話し手の『論理』を追うためには、話し手の言葉に対する『定義』を理解する必要があります。自分が思い込んでいる『定義』や『解釈』だけにこだわると、そこから相手の『論理』が観えなくなります。自分の知っている言葉の定義だけで解釈しようとすると、外国語も理解できないのも同じようなことです。 

岩永氏が、『日本の裁判制度は冤罪を産みだしやすい』と主張する『論理』は明解です。それは『有罪を立証しようとする検察側が被告や弁護側よりも有利な制度である』からで、『何故検察側に有利なのか』は具体的な例を挙げて説明がありました。

簡単に云ってしまえば、日本の刑事裁判で法廷に提出される『証拠(物的証拠、供述調書)』は、原則として検察側が捜査や聴きとりをして集めたもので、当然のことながら検察側は『証拠』を集めるための法的な『捜査権』を持っています。これに対して、弁護側は、任意に『証拠』を集めることはできるのが関の山で、検察側のような『捜査権』を持っていません。アメリカの場合は、弁護側も法で保障された『捜査権』を保有していて、検察側と弁護側が法廷で、『対等』に争えますから、この点が日本と決定的に異なることになります。

日本の場合、検察側は『被告を有罪にする』ことを目的としますから、人間である以上、心情的に自分に有利な『証拠』を法廷に持ちだそうとするはずです。つまり、自分に不利な『証拠』は、『証拠』として提出しないことや、自分に有利な供述調書内容を提出するなどの、『恣意(しい)』が働かないとは言い難いことになります。弁護側には、捜査内容を全部公開させる権利もありませんから、検察側の『恣意』を論証するのは難しいことになります。

この結果、被告にとって不利な状況で裁判が進み、結果的に『冤罪』も産まれやすいということになります。

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2012年10月18日 (木)

冤罪事件は何故起こるのか(1)

10月12日に開催された『横浜フォーラム』で、メンバーの一人である岩永裕二氏(日米両国で弁護士資格をもち、現在も両国を拠点に活躍中)の『冤罪事件は何故起こる?』という講演を拝聴しました。

『横浜フォーラム』は、梅爺の大学時代の男声合唱団仲間の畏友Mさんが、主催する私的な会合の名称で、毎月1回、20~30人程度のメンバーが集まり、食事をしながら講師の講演を拝聴することにしています。メンバーは、Mさんの、高校、大学時代の友人(今回の講師の岩永氏や梅爺は、大学の合唱団仲間)、会社の知人、同業他社(化学関連の会社)の知人などが主体ですが、メンバーの紹介で一度講師を務めた後にメンバーになられた方もおられます。

メンバーの多くは、現役を退いた方達ですが、中には、岩永氏のように現役の方もおられますし、ボランティア活動に従事されておられる方もおられます。色々な仕事の経歴の人たちの会合ですので、梅爺も啓発され、出席を楽しみにしています。最初の頃の会合が、『横浜』で行われていたことから、『横浜フォーラム』という立派な名称になっていますが、『横浜』で開催される各種の本格的な『フォーラム』とは無関係です。

岩永氏は、4年前にも『横浜フォーラム』で、『日本の裁判員制度の問題点』について講演され、『日本版の陪審員制度であろう』と荒っぽく考えていた梅爺は、不明を恥じました。『市民の知恵を刑事裁判に反映させる』という大義名分の裏に、『裁判官の権威維持(市民裁判員の過半数の票決で判決が決まるとしながらも、票決には少なくとも一人の裁判官が参加することが義務付けられていて、実質的にこの裁判官の同意が必要になる。逆に云えば裁判官がが拒否権を持つ)』『裁判官の責任回避(後に誤審であったことが判明しても、裁判官だけの責任にならない)』などの裁判所側の『ホンネ』が隠されているらしいことを知りました。人間がつくる『制度』ですから、いずれにしても長所、短所はありますが、『日本の裁判員制度』の行方は注視する必要がありそうだと感じました。

今回の講演のタイトルは、『冤罪(えんざい)事件は何故起こる?』で、これも、『日本の裁判制度が抱える本質的な問題』を指摘することが目的であることが分かりました。『冤罪事件』は、世界中どこにでもあり、日本だけの話ではありませんが、『日本の裁判制度』がより、『冤罪事件』を産みやすいものであることが、日米の裁判制度の違いを説明していただくことで、理解できました。日本の裁判(特に刑事裁判)では、原則として検察側が提示する『証拠』が主体で審議が進み、検察側は自分に不利な『証拠』は提示しないという『恣意』が入り込みやすく、結果的に『冤罪』を産みだしてしまう可能性が高いという内容でした。つまり、検察側と弁護側は『武器対等では戦っていない』ということになります。

『国家のしくみ』や『裁判のしくみ』は、『偉いさんたちが考えてくれることで、任せておけばよい』と、日本の市民は『思考停止』してしまうきらいがあることが、このようなことの背景にあるように感じます。日本は、幸か不幸か、市民が立ち上がって『国家権力』を倒し、自分たちで『国家』を作りなおすというような体験をしていません。その上、タイミング良く『立派な偉いさん』が登場したりしますので、一層市民は『お任せで思考停止』してしまうことになります。偉そうに云う梅爺も、岩永氏に教えていただかなければ、『思考停止』状態であったことになりますので、自慢にはなりません。

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2012年10月17日 (水)

第六回ベセトハ合唱祭

10月14日(日)に、文京シビックホール(大ホール)で、『第六回ベセトハ合唱祭(アジア4大学合同合唱コンサート)』があり、聴きに出かけました。

『ベセトハ』とは、『北京(Beijin)大学(中国)』『ソウル(seoul)大学(韓国)』『東京(Tokyo)大学(日本)』『ハノイ(Hanoi)大学(ベトナム)』の4つの各国国立大学の頭文字をつなげた名称で、各校の合唱団が、合同で開催するコーラス主体のコンサートです。2年おきに、各国の都市で『持ち回り』で開催されることになっていて、今回は、『東京大学音楽部合唱団』がホスト役で、東京で開催されました。

『東京大学音楽部合唱団(男声:コール・アカデミー、女声:コーロ・レティツィア)』は、梅爺が現在所属する『アカデミカ・コール(東京大学OB男声合唱団)』の後輩達にあたりますので、『コール・アカデミーOB会』と一緒になって、開催資金の援助、プログラムに乗せる広告斡旋、歓迎パーティなどの支援、当日の観客動員、当日の会場運営などに協力してきました。

ところが、開催の1ケ月位前になって、『北京大学』から突然不参加の通知がありました。『尖閣列島』の領土問題で、日中の関係が険悪になり、中国政府が学生の渡航を認めないのが原因らしいと分かりました。それならば、韓国との間にも『竹島問題』があるので、こちらは大丈夫かと懸念しましたが、『ソウル大学』は参加方針と分かり、結局『ソウル大学』『東京大学』『ハノイ大学』の3校だけで開催することになりました。当日配布する『プログラム・パンフレット』等の内容を急遽変更する必要が生じたりして、日本側の学生たちは、大変な苦労をしました。

このような経緯があったために、是非コンサートを盛況裏に成功させたいと、先輩達も観客動員に努力をした甲斐があり、1000人を超す聴衆が集まりました。

開会のあいさつで、東大合唱団の学生代表が、『北京大学の仲間が、最後までなんとか参加できないかと努力をしたことを私たちは知っています。このようなことで私たちの友情が損なわれることはありません。今後もこの合唱祭が継続できると確信しています』と述べました。立派なメッセージです。

このような時であるからこそ、『北京大学』に参加して欲しかったと梅爺は思いますが、学生たちは得難い体験をしたことを、将来役立ててほしいと思います。『大学生の交流』『音楽の交流』は、相互理解のための『草の根交流』ですから、絶やさないで欲しいと願います。

コンサートそのものは、各国の音楽の事情やレベルが垣間見えて楽しいものでした。最後の合同演奏には、『東京大学音楽部管弦楽団』の大編成のオーケストラも加わって、迫力のある演奏でした。アンコールでは、日本語で歌う『ふるさと』で、心温まりました。

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2012年10月16日 (火)

柳田国男の民俗学(6)

柳田国男は、兵庫県に儒家の息子として生まれていますが、第一高等学校、東京帝大(法学部)を卒業後、農商務省に入省、その後も、内閣書記官、貴族院書記官と、官僚としては『花道』を歩んだエリートでした。学生時代から、文学に傾倒し、同人誌に投稿したりしています。官僚となっても、島崎藤村、田山花袋、小山内薫などと交流がありました。

国際連盟(ジュネーブ)の委任統治委員に就任して、海外生活も経験しています。国際連盟の公用語が英語とフランス語で、小国が苦労していることを目の当たりにし、新渡戸稲造とともに『エスペラント語』を世界の公立学校で教えることを国際連盟に提案をして可決させたりしています。自らも『エスペラント語』を学習し、日本へ帰国後もこの普及に尽力しています。

日本へ帰国後は、枢密顧問官に就任しますが、同時に自宅に『民俗学研究所』を設立、亡くなるまで日本の『民俗学』のために尽力しました。

柳田国男の『民俗学』を考える時には、彼の『文学好き、文学的才能』は見落とせない要因の一つであるように思います。また、海外生活を体験したことで、『日本人の精神世界の原点』を探究したいという思いが強まり、その方法論として、フォークロア(伝承されている習慣や民話)を重視する『民俗学』へ傾注していったのではないでしょうか。

『エスペラント語』を普及させれば、言葉の障壁がなくなるなどという、理想主義的な考えの人であったことも分かります。言語論理が人間の脳に形成される幼児期のプロセスを考えれば、『人工言語』を普及させることは、不可能に近い難事ですから、『法』で定めれば『エスペラント語』が世界の公用語になるなどとは、梅爺は思いません。

柳田国男自身の倫理観、審美観が『民俗学』に反映しているために、『性に関すること』が、切り捨てられているとして批判されたりもしています。『性』に関する考え方は、古代人と現代人では大きく異なっているはずですから、確かに問題があるように梅爺も思います。古代人にとっては『新しいいのちの誕生』という『再生』に、『性』は関与する『摩訶不思議なもの』であったはずです。古代人の精神世界を、現代人の倫理観や価値観というフィンルターを介して観ては、『本質』を見落としかねません。

『死者の魂』についての、柳田国男と折口信夫の論争もNHKの番組では紹介していました。柳田は、『死者の魂』は、『その家の守り神』となると主張したのに対して、折口は『死者の魂は、あの世で一体化し個性はなくなる』と主張しています。

このように人文科学では、『主張』が『主張』で留まるところが、自然科学に比べると弱点です。誰もが、好き勝手に『主張』でき、誰もどの主張が『正しい』かを絶対的尺度で判別できません。梅爺は、この種の『主張』は嫌いではありませんが、それが『正しい』と言わんばかりの表現になった時には警戒することにしています。

『死者の魂』の存在を疑っている梅爺にとっては、『死者の魂』に個性があるかないかなどという議論は、あまり興味の対象になりません。

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2012年10月15日 (月)

柳田国男の民俗学(5)

当然のことながら、古代の宗教は、自分達の住む世界、感知できる自然環境の中で、『神』との関係を『推量』しようとしました。『自然崇拝』『土着の宗教』と呼ばれる所以(ゆえん)です。

古代エジプトでは、ナイル川を舞台に、『カバ』『ワニ』それに猛毒をもつ『コブラ』、そして『糞コロガシ』といった虫さえも、『再生』という『摩訶不思議な世界』に関与する『神』の使者と考えました。インドの宗教では『象』が『神』の姿で出現します。同じ時代の別の場所に住む『カバ』『ワニ』『象』を知らない人達には、エジプトやインドの宗教は理解を越えていることになります。

『環境』とは切り離して、純粋に抽象化された『神』の概念を提示した『宗教』の出現は、人類の歴史上画期的なことです。『仏教』『キリスト教』『イスラーム』が世界宗教として成立する背景には、この『神』や『仏』の『普遍化』があります。『ユダヤ教』から、ユダヤ色(ユダヤの戒律など)を払拭(ふっしょく)した『パウロ』の功績が、『キリスト教』を生みだしました。

仏教が伝来する以前の日本各地には、その自然環境と密接に関係をもつ『土着の宗教』があったであろうことは、想像に難くありません。『死者の魂が住むあの世』も、沖縄では『海のかなた』になり、岩手県遠野では、『里を見下ろす山』ということになります。『死者の魂』は怖ろしいものではなく、『自分達を見守ってくれる』『自分たちに幸せを届けてくれる』存在と考えていました。そして逆に『死者の魂』が『あの世』で楽しく過ごして欲しいと願いました。後に『仏教』と『土着の宗教』が混ざって、『お盆』の先祖の里帰りのような行事が恒例となりましたが、陰々滅滅(いんいんめつめつ)の雰囲気ではなく、むしろ一族が集う楽しい行事という雰囲気になっているのはこのためです。

『死者の魂(先祖の霊)』だけではなく、恵みや災害をもたらすもろもろの『自然』や『環境』に、全て『霊』が存在すると考え、自分たちはこれらの『霊』との関連で『生きている』と昔の日本人は考え、それを信じていました。

先祖や自然を大切にして感謝するという、表向きの風習として、それが現代に日本人に受け継がれているとすれば、それには『非科学的』などと軽視してはいけない『本質』が関与しているように梅爺は感じます。

『魂』や『霊』の存在とは無関係に、『自分が何かによって生かされている』ことは誰もが実感できることで、その『なにか』は、先祖や自然であることも疑いがないように感じます。

『民俗学』では、昔の日本人の『精神世界』が多く形式的に語られますが、その奥に、現在、将来にも共通につながる『本質』を私たちが見出すことができるのなら、『カビ臭い学問』ではなくなるのではないでしょうか。

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2012年10月14日 (日)

柳田国男の民俗学(4)

昨日書いたような『推論』で、生きている人間の脳の中に、『神』『仏』『魂』『あの世』『天国(極楽)』『地獄』などという抽象概念が存在することは、人間の脳の進化を考えれば『自然の成り行き』と梅爺は考えています。矛盾するような話ですが、『実態』としてその様なものが存在することには、『疑念』をもっている梅爺の脳の中にも、抽象概念はまちがいなく存在しています。

梅爺は、生きている人間の脳の中に存在する抽象概念と、実態とは分けて考えているだけに過ぎません。しかし、世の中の多くに人たちは『脳の中にある抽象概念は、実態があるから存在する』と関連付けて推論しているのではないでしょうか。

どちらの考え方でも、社会に弊害をもたらさない限り、問題はありません。『愛』という抽象概念を信ずるか信じないかというような話であるからです。実態としての『神』の存在を信ずることが、より大きな『心の安らぎ』や『救い』をもたらすのであれば、それはそれで重要な意義を持ちます。しかし、『信じない人』は邪悪な人達で、許し難いとして、排除、抹殺しようというような話になると、社会に害を及ぼすことになります。『宗教』でさえも、このようなもろ刃の剣の側面を持っていることを、宗教関係者にも直視してほしいと、梅爺は願っています。

実態としての『神』が存在しないとすると、人の世は、『愛の無い邪悪や暗闇が支配するようになる』という考え方に、梅爺は同意できません。人間の脳は、抽象概念としての『愛』『正邪』を思いつき、それが『絆』を保つ重要な概念であることを見つけ出せると考えています。『絆』は『安泰』を保証する要因であり、本能的に人間はこれを求めるからです。

『人は死んで全てが無に帰す』という考え方は、何とも殺伐としたもので、そのようなことを言われれば、『寂しさ』や『不安』を生きている人の脳は『情』で感じます。逆に『魂は残り、あの世に行く』という『推論』は、『寂しさ』や『不安』を解消してくれますから、それにすがろうとするのも自然な成り行きです。

梅爺は、『人は死んで全てが無に帰す』と『理』で、考えていますが、『情』では『寂しさ』や『不安』を感じていないわけではありません。しかし、『理』が強固ですので、『あの世』や『魂』の話を聞かされても、それで『安心』『納得』するわけにはいきません。『理』の強い人間のこれは宿命で、ある意味では『救い難い人間』ということになります。

柳田国男は、仏教が伝来する以前から、日本には『あの世』の考え方があり、『死者の魂』が、生きている人間を『あの世』から見守ってくれているという考え方があったとを、山里にのこる伝承から確信します。

岩手県の遠野では、『死者の魂』は、里からみえる山に住み、里人を見守ってくれていると昔から云い伝えられてきました。その証拠に、山から里へ生きるための水が届けられていると人々は考えました。当然のことですが、昔の人たちは、自分が体験できる範囲の世界の中に、『この世』と『あの世』を共存させていたことになります。

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2012年10月13日 (土)

柳田国男の民俗学(3)

人間は死ねば肉体は滅びるが、『魂』は生き延びる、という考え方は、ほぼすべての民族、ほぼすべての宗教によって、語り継がれてきました。そして、その考えは『事実』となり『常識』となって、人類の歴史にも大きな影響を及ぼしてきました。『不滅の魂』を信じない人は、『冒涜者』『信仰が薄い哀れな人』『冷酷な考えの人』と社会からは、つまはじきにされました。

梅爺は、何度もブログで『不滅の魂』にたいして、疑念を表明してきましたが、さすがに現代日本では、これで投獄されたり、火あぶりにされたりすることはありませんから、ありがたい時代に生きていると感謝しています。しかし、現在でも『偏屈者の、嫌な爺さんのブログなど読むに値しない』と顔をしかめておられる方も多かろうと、覚悟はしています。

生物進化の過程で、『理性』という高い能力を人類が獲得したことが、『神』『仏』『魂』などという抽象概念を、ほぼ間違いなく思いつき、共有するようになる原動力であると梅爺は想像しています。『言葉』や『文字』を思いつき、共有するようになるのと同じ話です。したがって聖書の『大初(はじめ)に言葉あり、言葉は神なりき』という表現は、深遠なものであるように思います。

『理性』は、『認識』『記憶』などという脳の機能と関連しながら、『論理的に物事を考える(推論する)』という機能が中心をなしています。この機能が『抽象概念』を思いつき、名前や記号を与えて共有化するという、人間だけに可能な世界を生みだしました。

一方人間は、原始的な生物から進化してきましたから、その時代の資質も受け継いでいます。生き残るために、自分にとって都合の良いことと悪いことを、即座に判断しようとする本能がその代表です。私たちが、理性とは直接関係の無い『好き、嫌い』という『情』に強く支配されるのはそのためです。厄介なことに、脳の中では『理性』による『善悪の判断』より、この本能的な判断が先行します。

自分にとって都合の悪いこと、嫌なことを感知すると、脳はストレスとして、ホルモンを血液内に送り出し、『警告』を発します。そして、都合の悪いこと、嫌なことを避けようとする『反応』『行動』を開始しようとします。赤ん坊の『指しゃぶり』などは端的な反応です。つまり、『安泰を脅かすもの』を感じ取り、これを避けようとする本能に私たちは基本的に支配されています。これは『安泰を希求する本能』と云いかえることができます。当然ながらこの『反応』は、『善悪の判断』以前に生じ、『身勝手な行動』を優先してしまうことがあります。この矛盾が、後に理性で反省して『自分は邪悪な心の持ち主』であると私たちを悩ませることになります。

科学知識を持ち合わせていなかった時代の人たちにとっては、『周囲の自然』『生と死』などは、『摩訶不思議なもの』であり、理解できないが故に『不安』や『恐怖』というストレスを生みだす要因でもありました。このため人々は、『推論』を駆使して、これらの『摩訶不思議』を理解しようとし、それによって『安泰』を得ようとしました。『宗教の教義』はその集大成で、『不滅の魂』という考えも、この過程で誕生したのではないでしょうか。『宗教』が『心の安らぎ(安泰)』『救い』と深く関与しているのはこのためです。

柳田国男は、『日本人は魂をどのようなものと考えてきたのか』に興味を持ち調査をしています。後に、同じく民俗学者の『折口信夫(おりぐちしのぶ)』と、『魂』に関する論戦をしていますので、『不滅の魂』という考え方そのものには、疑念をもっていなかったように見受けられます。

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2012年10月12日 (金)

柳田国男の民俗学(2)

梅爺のような老人は、社会環境や生活慣習の変化をみて、『日本らしさが失われてゆく』などと嘆きますが、言葉や生活慣習は、時代とともに『変化する』のが常態で、『同じ状態に止まる』方がむしろ異常です。

社会を構成する要因は、多様であり、その相関関係も複雑ですから、社会は自然の摂理同様に、『動的平衡』を求めて変容していくことになります。従って、ある部分だけを『昔へ戻す』ということは、容易なことではありません。『三丁目の夕日』の時代を懐かしんでも、『三丁目の夕日』の生活レベルに戻せと言われれば、現在の日本人の多くは悲鳴をあげることになるでしょう。

それでは『昔は良かった』という年寄りの郷愁は無意味かと云えば、そうでもありません。表面的な変容は『浮き世の変化』として認めるとしても、本質の変容までも認めることは、自分を否定することになったり、自分に不利な環境をわざわざ招くことに繋がりかねません。

『里山を取り戻そう』という運動は、日本の原風景を懐かしんでいることもありますが、それよりも『自然との穏やかな共生』が、環境を破壊せずに、人間にとっても有利な生き方であると再認識したからです。欲望を果てしなく追及するのが幸せではなく、生きていくためのバランスがとれていれば、それで幸せなのだという価値観を再確認したことにもなります。

柳田国男が、『常民』の歴史に目を向け、『自然観』『死生観』『倫理観』『審美観』『幸福観』を探ろうとしたのであれば、そこに日本人の『本質』が埋もれているのではないかと考えたからではないでしょうか。

もし、そこに変えることが好ましくない『本質』があるならば、『昔の方が良かった』と云うのではなく、その『本質』が、現在の、そして将来の日本人にとっても、大切なものであることを、『理』で説く必要があります。

『民俗学』が学問として意味があるとすれば、それを実践することなのではないでしょうか。語り継がれた昔話を採録するだけなら、文化財の保護に止まってしまいます。

柳田国男の興味の対象の一つが、『亡くなった人の魂』の行方に関する日本人の考え方でした。日本人の『死生観』の『本質』がそこに垣間見えるからです。

柳田国男は『魂になってもなお生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人であるがゆえか、私には至極楽しく感じられる』と述べています。

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2012年10月11日 (木)

柳田国男の民俗学(1)

NHK地上波教育放送チャンネルで、2年間にわたり特集放映されている『日本人は何を考えてきたのか』シリーズの7回目は、『魂のゆくえを見つめて~柳田国男 東北をゆく~』でした。

梅爺は、柳田国男が『民俗学者』であり、『遠野物語』の著者であるというような表面的な知識は持っていましたが、いままで、『民俗学』について深く考えたことはありませんでした。

娘がまだ小学生だった頃に、家族旅行で『遠野』を訪ね、『座敷童子(ざしきわらし)』『オシラサマ』『河童』などについて現地で説明を聞きましたが、『地方で語り継がれた民話』の類(たぐい)と受け止め、ことさら深く考えたりはしませんでした。

梅爺が『民俗学』を、なんとなく軽視してしまったのは、その名前が原因ではないかとようやく気付きました。日本における庶民の『精神の歴史』とでも名付けていただいていたら、きっと興味を示したに違いありません。『座敷童子』『オシラサマ』『河童』は表面的な事象で、そのような概念を生みだした日本人庶民の精神世界を探求することが目的というのであれば、よく理解ができます。日本人の『自然観』『死生観』『倫理観』『幸福観』などが見えてくれば、自分もみえてきますから、これは捨て置けないことになります。

『歴史』を私たちは、偉人、英雄、著名人の行動、顕著な出来事として学びますが、歴史の背景には、無数の無名の庶民(常民)が存在し、その各々に『人生』があったわけですから、その庶民の視点で『歴史』を観ることも大変重要なことと言えます。その時代の『社会』が、大多数の『常民』で構成されていたからです。

毎年8月15日の近辺では、テレビで『大東亜戦争』の記録、記憶が放映されますが、『沖縄戦に巻き込まれた庶民』『広島・長崎で生き延びた人たち』『地獄の最前線から生還した兵士』『特攻隊員が残した遺書』『満州で逃げ惑った開拓民』の証言や記録を中心とした番組を観れば、当時の日本のリーダー(軍幹部、政治家、天皇)を中心に語られる『大東亜戦争』とは、まったく趣の異なった印象を私たちは受けます。

『常民』にこのような艱難辛苦を課すだけの意味が『戦争』にあるのかと怒りがこみ上げてきますが、一方、日本が外国から辱めを受けたら、どのような手段でも対抗すべきであるなどと、勇ましいことを云いかねない習性を私たちは持っています。韓国大統領が、日本の領土である『竹島』に、不法上陸するなら、武力ででも阻止せよ、日本政府の弱腰は怪しからん、と叫んだりします。まさか、日韓全面戦争に発展することはないとしても、それに類する事態になって、両国の『常民』が、艱難辛苦に巻き込まれる可能性が無いとは言えません。もっとも『竹島』は、現在毎日韓国から観光客が押し寄せるほど、『実質韓国支配下』にありますから、日本が、これを看過してきた責任は否めません。

『民俗学』がこのような難問を解決する手段になるとは思いませんが、『常民』の視点で国家を考える一助にはなります。国家をマクロな視点で観ることと、『常民』のミクロな視点の集合体と観ることの、バランスをとる責任が政治リーダーに求められます。『国民の生活が第一』などと迎合ばかりするのも、『何としても国辱は晴らす』などと固執するのも、不幸な結末に至るのではないでしょうか。政治は、『正論』を述べるだけではなく、したたかな『知恵』を見つけ実行する能力の発揮場所です。

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2012年10月10日 (水)

児童合唱、混声合唱、ピアノとオーケストラのコラボレーション

『認定NPO法人おんがくの共同作業場』が主催する、東日本大震災復興支援のコンサート『児童合唱、混声合唱、ピアノとオーケストラのコラボレーション』が、10月8日に、八王子の『オリンパスホール』で開催され、梅爺、梅婆は出かけました。 

梅爺の大学時代からの合唱仲間の畏友Uさんと奥さまが、『モーツァルトのレクイエム』の混声合唱のメンバーとして、このコンサートに出演なさるのを拝聴するのが主目的でしたが、以下のプログラムを全て堪能しました。 

(1)『こどもたちのための交響歌』(慈恩玲乃作曲)
(2)ピアノ協奏曲第五番『皇帝』(ベートーベン作曲)
(3)『レクイエム』(モーツァルト作曲)
  

管弦楽 オラトリオ・シンフォニカJAPAN
指揮  ジェフェリー・リンク
 

開幕前の『ウェイティング演奏』として、『FCT郡山(福島)少年少女合唱団』の演奏があり、その見事なコーラスに梅爺は驚きました。梅爺は自分が『男声合唱』を今でも続けていることもあり、コーラスには辛口な批評をする方ですが、この合唱団には心服しました。地元の民放局(福島中央テレビ)の専属合唱団で、オーデション等を経て厳選した子供たちなのでしょうが、それにしても、『発声法』『日本語の発音』『ハーモニー』『リズム』のいずれも見事でした。優れた指導者がおられるのでしょう。日本中の子供たちが『AKB48』のような『幼い地声』で歌うようになってしまうと、『合唱』は成り立ちません。 

(1)『こどもたちのための交響歌』は、日本や外国の有名な子供の歌を、合唱曲にアレンジしたもので、『FCT郡山少年少女合唱団』に、『オーケストラとうたう子供合唱団』や、三鷹、八王子、町田の小学校の合唱団が加わった、大規模な『少年少女合唱団』とオーケストラの共演でした。 

梅爺は歳をとって、涙もろくなり、このような清純な歌声を聴いただけで、直ぐに感動してしまいます。演奏の達成感、満足感を体験した子供たちは、きっと大人になっても音楽を愛するに違いありません。音楽を愛する心は『いじめ』などとは無縁です。明治政府が、初等教育に『音楽』や『図工』を必須科目として組み込んだ功績は多大で、日本人の精神世界に大きな影響を及ぼしています。アメリカは、教育予算が捻出できないという理由で、初等教育の『情操教育』は必須科目ではありません。イラクやアフガニスタンで膨大な戦費を使いながら、国家の将来にとって最も重要なことに先行投資をしていないわけですから、本末転倒も甚だしいと云わざるを得ません。今回の指揮者ジェフェリー・リンク氏はアメリカ人ですから、日本を羨ましく思ったのではないでしょうか。 

日本各地には、『合唱コンクール』への入賞を目指してがんばる、沢山の小中高等学校の『合唱団』があります。大人の合唱団も、企業の合唱団、大学のOB合唱団や、市民合唱団、ママさんコーラスなど数え切れないほどの人たちが、日常的に『合唱』を体験しています。その数の多さや、総合的なレベルの高さを考えると、日本は世界の中でも屈指の『合唱大国』です。今回のプログラムの『モーツァルトのレクイエム』は、ラテン語の宗教曲で、決して易しい曲ではありませんが、プロのソリスト(独唱者)を除いては、アマチュアの合唱団がこれを見事に歌い上げるわけですから、外国人からみれば、驚くべきことです。梅爺は日本人として、合唱を愛する人間として大変誇らしく感じます。

(2)のピアノ協奏曲第五番『皇帝』(ベートーベン)は、予定していたピアニストの太田太郎氏が体調不良で、急遽白石光隆氏が、代役を務めましたが、見事な演奏でした。このようなことが可能になるのも、日本の音楽の総合レベルが高いことの証左です。『皇帝』という名称はベートーベンが付けたものではなく、後の人が付けた呼び名ですが、由来は諸説あってはっきりしていません。

(3)『レクイエム(モーツァルト)』は、死者を悼むカトリックのミサ曲ですが、日本では多くの合唱団(混声合唱団)が好んで演奏する曲です。必ずしも、キリスト教文化を基盤としない日本で、しかもラテン語で歌われるわけですから、これも、外国人には、不思議にみえるかもしれません。モーツァルトの晩年の作品で、未完でしたが、弟子の補筆で完成し、今では『三大レクイエム(モ-ツァルト、ベルディ、フォーレ)』の一つと言われています。モーツァルトは、その言動から、決して信仰深い人であったとは言えませんが、見事な宗教曲を作ってしまうところは『天才』というほかありません。日本人を魅了するのは、純粋に音楽としての完成度の高さからなのでしょう。

楽しい演奏会を満喫し帰宅しました。

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2012年10月 9日 (火)

イスラームとは何か、再び(4)

『イスラーム』の聖職者の立場を理解することが、『イスラーム』を理解する早道かもしれないと梅爺は感じました。『キリスト教』『仏教』の聖職者と同じであろうと推察すると間違いを犯します。

『イスラーム』の聖職者は、コミュニティの中で最も『知識を保有する人』が務めることになり、平信徒から指導者として尊敬をあつめますが、『神(アッラー)』の前では特別な存在ではなく、従って特別に『厳しい戒律』や『厳しい修行』は求められません。聖職者だけが妻帯を禁じられたり、長期の断食をしなければならないというようなことがありません。聖職者同士の横の組織連携や、『総本山』『法皇』などといった位階もありません。『イスラーム』には、『キリスト教』の『修道院』、『仏教』の『禅寺(修行寺)』のようなものはありません。

『イスラーム』の聖職者の『権威』は、『クルアーン、ハディースに記載されている知識』で保たれていて、それ以外の位階やきらびやかな服装で保たれているわけではありません。多くの『宗教』で、聖職者の『権威主義』が堕落を招く要因になりがちですが、その弊害は『イスラーム』にはありません。

コミュニティに問題が生ずると、平信徒は答を聖職者に求め、聖職者は『クルアーン』『ハディース』に『こう書いてある』と提示して平信徒を導きます。『クルアーン』『ハディース』に前例が記載されていない場合は、聖職者が『判断』して良いと定めた『前例』が『ハディース』にあるらしく、この方法が採られます。

中近東の『イスラーム圏の国』で、政治問題に『最高宗教指導者○○師』なる人物が登場し『アメリカは口出しするな』と言えば、その国の外交戦略は『反米』になります。『アル・カイーダ』の指導者が、純粋な若者に、『アメリカへの聖戦(ジハード)』を指示すれば、テロは『崇高な行為』として実行されます。宗教指導者の『一言』が重大な運命を決めることになります。

自分の生き方を決める時に、『自分の理性』を優先して判断しようとする文化に育った私たちから観ると、『クルアーン』『ハディース』『宗教指導者の言葉』を最優先する『イスラーム』の文化は、一種の『マインド・コントロール』で『異様』です。『オーム真理教』が『異様』なのは同様な理由です。『マインド・コントロール』されることが厭なら、私たちは自分の理性を研ぎ澄まし、時に『神』をも疑う必要があるということになります。梅爺は『宗教はマインド・コントロールである』と断ずるつもりはありませんが、少なくともその要素があると、畏れ多くも考えています。

この文化の違いに配慮を欠いたり、逆に『イスラーム』の人たちからは私たちが『異様』に見えていることを理解しないと、『憎みあい』『罵(ののし)りあい』は止むことがありません。『ムハンマド』を冒涜した内容の映画がアメリカで作られたということで、アメリカ大使館へ抗議のために押しかけた人たちは、私たちには『暴徒』に見えますが、『イスラーム』では『敬虔な信者』なのではないでしょうか。自分の尊厳が傷つけられたと感じた時に、私たちもこのような行動に走らないとは言えません。

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2012年10月 8日 (月)

イスラームとは何か、再び(3)

『ムハンマド』の言語録『ハディース』には、『キリスト』の『汝の敵を愛せよ』とか、般若心経の『色即是空』のような、この世や人間を深く洞察した名言がちりばめられているのかと期待しましたが、『イスラームとは何か』と言う本の中で、重要な『ハディース』のひとつと紹介されている内容を読んで、期待は少々裏切られました。以下のようなものであったからです。

アブー・フライラは、神の御使い(ムハンマド)がこう言ったのを聞いたと語った。---私が汝らに禁じたことは、それを避けよ。私が汝らに命じたことは、可能なかぎり、それを実践せよ。昔の民が滅びたのは、自分たちの預言者に(忠実に従わず)やたらに質問し、背いたからである。

宗教は『信ずる』ことで成立するとは言え、こうあからさまに『問答無用、私の云う通りにせよ』といわれてしまうと身も蓋(ふた)もありません。これで全員が平伏してしまうのであれば、『北朝鮮』『オーム真理教』のような世界を思い浮かべてしまいます。もし仮に梅爺がこのような発言をしたとすれば、周囲は平伏などせず、『ついにあの爺さんも歳をとって頭がおかしくなってしまった』と憐れむ程度が関の山です。それが普通の人間の常識的で健全な反応です。

梅爺は、『完全無欠の人間が存在して誤謬はおかさない』という命題を『真』として無条件にうけいれることができない、厄介な性格の持ち主ですが、そんな梅爺でも、尊敬する人物の言葉であるから、『傾聴に値する』と思い込んでしまうところがないわけではありません。一度『聖人』『偉人』であると思える人に遭遇すると、その人の言葉は『何から何まで傾聴に値する』と思い込んでしまう習性を人間は持っています。

『松下幸之助語録』『土光敏夫語録』それに『イチロー語録』のように、読者が自分の人生訓として読む分には構いませんが、『毛沢東語録』『金日成語録』『ハディース』のように、『無条件な信奉』を強いる目的で使われるものには、梅爺はどうしても警戒心を強めてしまいます。

西欧社会の知識人が、比較的『イスラーム』に対して批判的である背景は、勿論『キリスト教文化』との違いもありますが、『無条件服従』を強いる姿勢に違和感を覚えるためではないでしょうか。『イスラーム原理主義者』の集団の中にその傾向が顕著に表れています。『信ずる』『疑う』という相互に矛盾する人間の習性は本能に由来するもので、人為的にどちらかを禁じてみても、結果は必ずしも幸せなものになるとは限りません。自分の中に『信ずる(信じたい)』『疑う(疑いたい)』という矛盾する心が共存することを素直に受け容れた方が健全に生きていけそうだと梅爺は感じています。

『ムハンマド』が真に偉大な人物であったのか、『イスラーム』の成立、布教過程で偉大な人物に仕立てられていったのか梅爺には判断がつきかねますが、少なくとも後者の要素はゼロではないように感じます。『イスラームとは何か』と言う本を読んでも、『イスラームは人類が創り出した斬新で究極ともいえる宗教』という実感は得られませんでした。

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2012年10月 7日 (日)

イスラームとは何か、再び(2)

『イスラーム』の主啓典は『クルアーン』ですが、もう一つ重要な啓典『ハディース』で、これは『預言者(ムハンマド)言語録』です。『ムハンマド』の側(そば)に仕えた人たちが、私は『預言者がこう語るのを聴いた』と語った内容を、後の世の人たちが集めたものです。

こういう形式は、『キリスト教』における『トマスの福音書』『ユダの福音書』などと類似しています。現在『聖書』に掲載されている『マタイ』『マルコ』『ルカ』『ヨハネ』の4大福音書は『正典』とされ、上記の『トマスの福音書』『ユダの福音書』などは『外典』と区分されます。ローマ帝国のコンチアヌス帝が、『キリスト教』を国教と定め、聖職者、神学者が集まって、『聖書』が編纂されました。『キリスト』の死後300年程度経過していて、沢山の『関係書』が存在していた中から、矛盾がなく一貫している『教義』を創り出すために、大議論が行われ、結局『トマスの福音書』や『ユダの福音書』は『異端』として採用されませんでした。

この時『キリストは神の子か、それとも人間の預言者か』も議論され、結局『神の子派』が勝って、『父(神)と子と聖霊は三位一体』などという、後の人たちを悩ませる難しい話になってしまいました。『トマスの福音書』『ユダの福音書』や、『グノーシス派』などは『異端』とされましたが、これらはいずれも『キリストは人間の預言者』とする立場で、『聖書』の福音書が『キリストの言動』を総合伝記風に記述しているのに対し、『トマスの福音書』『ユダの福音書』は、『キリストの言葉』だけを記述しています。つまり、『処女マリアから生まれた』『奇跡をおこなった』『死後3日目に蘇(よみがえ)った』などという『出来事』には触れていません。梅爺は、むしろ『異端』とされた記録のほうが、『キリスト』の実態を反映しているのではないかと想像しています。聖書に書かれているキリストに関する『出来事』の大半は、『教義』を権威づけるために、後の世の知恵者が創造したものではないかと疑っています。しかしこれも梅爺の推測に過ぎません。

『キリスト教』にも沢山の『キリストの言語録』と称するものが出現したように、『ムハンマド』の場合も、死後100年位の間に、無数とも言える『預言者の言葉』が出現します。その数なんと100万ケと言われていま。何故このようなことになったのかは明白で、短期間に『イスラーム』がアラブ社会にひろまったために、自分を正統化する目的で『ムハンマドがこう言った』と誰も彼もが『自分に都合のよいハディース』をでっち上げるようになったからです。『虎の威を借りようとする人』は、いつの世にもいます。

ついに大学者『ブハーリー』が出現し、『これは確かにムハンマドの言葉にちがいない』と確信が持てるものだけ7300ケを厳選し『ハディース』の『真正集』を編纂し、ようやく混乱はおさまりました。しかしこれも梅爺のようなへそ曲がりは『真正集は正しいとどうして言えるのか』と問いたくなります。

一つ一つの『ハディース』には、信憑性をにおわせるために『誰が聞き伝えたものか』が必ず書き添えられています。

『梅爺閑話』は掲載回数は2000回に満ちませんので、7300ケの『言語録』を残すためには、更に大変な努力が必要になります。このような現状ではとても『梅爺教の教祖』にはなれそうもありません。

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2012年10月 6日 (土)

イスラームとは何か、再び(1)

『イスラームとは何か』と言う本を読み進んで、梅爺は『そういうことか』と理解が少しばかり深まりました。言うまでもなく、これは梅爺の主観に基づく理解にすぎず、客観的に『正しい』と言えるとは限りません。

分かりやすい比較をしてしまえば、『釈迦』は、人が生きることで抱え込む苦しみの根源は何かを徹底模索し、『煩悩の解脱』に答を見出した『哲学者』であり、『キリスト』は、ローマ帝国の属州とされ、ローマの文化に毒され、ユダヤ民族の信仰を見失ってしまったユダヤの同胞に、本来の信仰に立ち戻るように求めた『宗教改革者(厳密にはユダヤ教の改革者)』であると言えるような気がします。

一方『ムハンマド』は、『社会改革者』の優れたリーダーであると言えます。部族ごとに種々の宗教を掲げて分裂状態であったアラブ人社会を、『イスラーム』という一神教宗教を結束の手段として『同胞コミュニティ』に変えることに成功しています。『同胞コミュニティ』を生みだすために『神の啓示』を利用したのか、『神の啓示』を口にしていたら『同胞コミュニティ』が出来上がることになったのかは、梅爺には分かりませんが、結果的に歴史的には『社会変革者』としてアラブ社会に貢献したことになります。

この『釈迦』『キリスト』『ムハンマド』の本質比較でわかるように、『ムハンマド』は最も世俗的であり、その啓典『クルアーン』は、宗教的な規範であると同時に、日々の生活の規範を規定し提示したものでもあります。たとえば『夫は公平に処遇できるのであれば4人まで妻を娶(めと)ってもよい』などという細かいことまでが『クルアーン』で提示されています。『何故4人なのか』『こんなことまでアッラーは指示したのか』と梅爺は不思議に思いますが、『イスラーム』を信ずる人たちには、国家の法律以上に『クルアーン』は神聖で疑うことなど許されないことになります。

蛇足になりますが『ムハンマド』は、コミュニティのリーダーに登り詰めた後には10人以上の妻を娶(めと)っています。『イスラームとは何か』と言う本には、これらの『一夫多妻』は、私たちが思い浮かべる男の性的征服欲望や権力誇示の実現手段ではなく、当時部族間の抗争で男が多数戦死し、世の中は未亡人や孤児であふれていたために、甲斐性のある男は、これらの未亡人や孤児が生きていけるような救済する必要があったのだと書いてあります。そうだとすると『男尊女卑』の見下げた行為ではなく、むしろ『弱者救済』の現実的な制度ということになります。

この例でも分かるように、私たちは『自分の価値観』を尺度として世の中を見てしまいます。それを承知で申し上げれば、『イスラーム』は、深い精神世界の教えと言うより、『生きるための総合指南体系』ともいえるもので、世俗的、具体的色彩が強いように梅爺は感じます。『ムハンマド』が『釈迦』や『キリスト』に比べて劣っているというのではなく、同じ評価法で比べることに無理があると申し上げたいだけです。『釈迦』や『キリスト』が、『妻の数は4人まで認める』などと語る様子は想像し難いものです。

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2012年10月 5日 (金)

Prosperity tries the fortunate, adversity the great.

英語の諺『Prosperity tries the fortunate, adversity the great.』の話です。

一つの文章の中で、同じ単語を繰り返すと冗長になるので、避けようとするのは日本語も英語も同じです。したがって、上記の表現は『Prosperity tries the fortunate, (while) adversity (tries) the great.』の省略形です。

形容詞に定冠詞(the)を付けると、『○○な人(モノ)』という意味になりますので『the fortunate』は『幸運な人』、『the great』は『偉大な人』ということになります。

直訳すると『繁栄は幸運者の真価を問い、逆境は偉大な人物の真価を問う』ということになります。しかしこれでは、何を言っているのかがいまひとつはっきりしません。自然な日本語に意訳をすれば『何もかもうまくいっている時は人物の器量は見えてこないが、うまくいかない状況では誰が真の人物かが見えてくる』ということになります。

経済バブルの時には、誰もが金持ちになったような気になりましたが、バブルがはじけた途端、梅爺のような凡人は資産を減らす羽目になりました。しかし、厳しい経済環境を逆手にとって、金儲けする知恵者はいますので、この諺はそういうことをいっているのであろうと理解しました。

凡人は、ことが順調に推移している、健康に過ごしているという状況では、それが自分の能力や努力によるものか、単なる『幸運』によるものかを深く考えたりはしません。むしろ、『順境』を『当たり前な環境』と受け止め、感謝の心を失うか、時には『自分の能力』で実現できていると勘違いして傲岸(ごうがん)になったりします。

人間の脳は『順境』を『安泰』と感じ、幸せな気持ちになりますが、『逆境』は『安泰』を脅かすものですから、『不安』『恐怖』というストレスとして受け止めます。そして本能的に『安泰』を脅かす要因を排除したり緩和したりしようとします。身体の免疫機能や怪我を自然治癒する能力もそれの一部です。ストレスを自分の知恵や努力で跳ね返した時に、人間は大きな『満足感』を得ます。

ストレスへの対応能力には、大きな個人差があり、ストレスに負けて一層みじめになる人と、ストレスを跳ね返して一層強靭になる人とに分かれます。この能力は天性のものなのか、生後の努力で強化できるものなのかは梅爺はわかりませんが、なんとなく『生後の努力』も関与しているような気がします。

『不自由を常と思えば不足なし』と戒めた徳川家康は、『順境』を当たり前なものとして受け止めるなといっているわけですから、並みの器量の人物ではないことが分かります。

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2012年10月 4日 (木)

ビル・ゲイツの慈善事業(6)

ビル・ゲイツは、『貧困国のマラリア撲滅』の後に『アメリカの教育改革』の必要性を訴えました。 

日本とアメリカを単純に比較することはできませんが、大胆に云ってしまえば『アメリカの素晴らしいところは日本よりずっと素晴らしく、ひどい所は日本よりずっとひどい』ということになると感じています。相対的にみれば、日本は格差が少なく、平均レベルは高いと言えるのではないでしょうか。アメリカの大都会は、日本では想像できないほどの『危ない場所』です。日本と同じと勘違いすると、『痛い目に会う』ことになります。 

能力に恵まれた人にとっては、アメリカは大成功を収める可能性があるかわりに、能力に恵まれない人はみじめさを強いられます。日本でも能力の多寡(たか)は、人生に影響しますが、アメリカのような極端なことにはなりません。どちらが人間の社会として健全であるかは、一概に言えませんが、梅爺は日本型の社会の方が『好き』です。 

アメリカの公立学校の教育現場の荒廃程度は、ある程度は想像していましたが、ビル・ゲイツの話を聞くと、『それほどまでにひどいのか』と愕然としてしまいます。公立高校の中退者の率は30%で、白人以外でみると、大学卒業率より、刑務所へ収監される率の方が高いということでした。 

日本では『いじめ』が問題になっていますが、勿論アメリカにも『いじめ』はあります。梅爺は、息子夫婦がアメリカのアトランタへ赴任していた時に訪ね、孫が通う『ジョージア州日本語学校』を参観したことがあります。『日本語学校』は現地の公立学校の校舎を土曜日だけ借りて授業が行われていて、廊下には『いじめは止めよう』『何かあったらすぐに先生に報告しなさい』というようなことを書いたポスターが貼ってありました。このポスターは、現地の公立学校のものですから、『いじめ』がアメリカでも日常的な問題であることがわかります。 

ビル・ゲイツが憂いているのは、『アメリカの学力の低下はアメリカの国力の低下になる』ということですから、いかにも起業家らしい発想です。梅爺がシリコンバレーに出張していた頃、IT企業の優秀なエンジニアは『IC(インド人と中国人)』で占められているといわれていましたから、ビル・ゲイツの憂いも分からないではありません。

貧困層の子弟を対象にした『KIPP』という新しい教育の試みを紹介していました。『有能な先生による楽しい教育』が目的で、このシステムでは96%が大学へ進学するということでした。 

教育の質は、『先生の質』と『教え方の質』で決まるということで、『アホな先生』の『楽しくない授業』は、むしろ害になるということでした。アメリカでは『良い教師』に恵まれたクラスのトップ20%の生徒に、『良い結果』が期待でき、ビル・ゲイツによれば、公立学校で、『良い教師』といえるレベルは25%程度ということですから、大半の学生に『良い結果』は期待できないことになります。 

日本も『有能な先生による楽しい教育(生徒の興味を喚起する教育)』への転換や、そのための社会投資を怠ると、アメリカと同じ道を歩むことになりそうだと感じました。梅爺は優秀な企業人を創り出すだけが教育の目的であるとは思いませんが、教育が国力の元となると言う考え方には賛成です。未来は誰も予測できませんが、未来に対応していくのは、次の世代の子供たちであるからです。

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2012年10月 3日 (水)

ビル・ゲイツの慈善事業(5)

『ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団』が取り組む分野の一つが『グローバル・ヘルス・プロジェクト』で、『マラリア』や『ポリオ』などの撲滅を目指しています。 

人類の歴史は、『病魔との戦いの歴史』でもあります。未開地の原住民も、その土地の『薬草』などを経験則で見つけていますから、対処療法をもっているとは言えますが、効果の範囲は限定的ですから、手に負えない場合はシャーマンによる『病魔払い』などの儀式に頼ることになります。 

現在の日本は、さすがに病気に関しては『加持祈祷(かじきとう)』に本気で頼ろうとする人は少なくなりましたが、少し前までは、国家にとっても、庶民にとっても、全ての『安全祈願』の儀式は重要なものでした。天災、飢饉、病気の蔓延(まんえん)、国難(蒙古来襲など)など、全て最後の頼みは『祈祷』でした。形式的な『安全祈願』の儀式は、今でも日本社会に根付いていますし、私たちの心に中に『最後の最後は神仏頼み』の気持ちがないわけではありません。『安泰を希求する本能』に、最も効果的に作用するのが『神仏』という概念であるからなのでしょう。 

古代エジプトには『外科手術』が既にあったことは分かっていますが、その後の『東洋医学』『イスラーム医学』などは、経験や試行錯誤の積み重ねによる『対処療法』でした。つまり、『何故効用があるのかは分からないけれども、とにかく効く』というレベルで留まっていました。それに対して、『西洋医学』は、『人体のしくみ』などの『科学的な解明』に基づいた検証が重視され、『病気の真の理由は何か、何故薬や処置が有効なのか』を明確にしようとする努力がなされました。ご承知のように、現在は『西洋医学の手法で、東洋医学やイスラーム医学を見直す努力』がなされています。『漢方薬は確かに効くけれども副作用が心配』などという懸念は段々なくなっていくのでしょう。

『HIV(ヒト免疫不全ウィルス:AIDSを発症させる)』『新型インフルエンザ・ウィルス』など突然変異したウィルスが、現在でも人類の脅威であり続けています。勿論、ウィルス以外でも、病原菌や病原原虫(マラリアなど)など、昔から存在するものも完全に根絶できているとは言えません。人類を含む、全ての生物が、『自然の摂理』の支配下で、生き残りを求めた『進化』を続けている以上、新しく進化したウィルス、病原菌、病原原虫(単細胞生物)と遭遇する宿命から私たちは逃れられません。結果として人類には不都合なものとして、出現しますが、『人類を懲らしめてやろう』などいう『悪意』が『自然の摂理』にあるわけではありません。『自然の摂理』のもとでは、人類だけが特別の生物ではありません。

『スーパー・プレゼンテーション』の番組の中で、ビル・ゲイツは、特に『マラリア』について説明しています。『マラリア』は、蚊の唾液の中に生息する病原原虫(単細胞生物)が、人体の血液に送り込まれて発症する病気で、昔は日本やヨーロッパでも発生していたようですが、現在では地球の、熱帯、亜熱帯地方に集中しています。『ワクチンの投与』『殺虫剤の散布』『蚊帳をつる』などの手段を尽くしても、年間3~5億人が『マラリア』にかかり、100万人が死亡していると言われています。これは大災害や戦争以上の被害規模です。

地球上の比較的貧しい地域と、『マラリア』の被害地域が重なっていることで、なかなか顕著な成果につながっていませんが、乳幼児の死亡率などは徐々に改善されています。勿論、人類も『マラリア』に強い体質へ進化することもありますが、病原原虫も負けじと進化するために、話は簡単ではないと、ビル・ゲイツは語っていました。

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2012年10月 2日 (火)

ビル・ゲイツの慈善事業(4)

ビル・ゲイツは典型的な『アメリカン・ドリーム』の成功者ですが、『金儲け』だけが目的ではなく、『金の亡者』でもないところが、人物を際立たせる要因になっています。 

基本的には『困難な状況を打破して見せたい』という欲望が、行動の源泉になっているように見えます。ほぼゼロの状態から、巨大なソフトウェア会社を作り上げると言う、『困難な課題の克服』が目的で、『世界有数の富豪になる』ことは結果的にもたらされたということでしょう。 

『困難な課題』を克服するには、ありきたりの発想ではだめで、『アッと驚く独創的なアイデア』を必要とします。ビル・ゲイツは、『自分は、どんな難問にも必ず解決策はあると楽観的に考える人間です』と述べていますが、『独創的なアイデア』を重視することでも知られています。マイクロソフト社は、全米の大学の成績優秀者を社員として採用したことでも有名ですが、最後の面接試験はビル・ゲイツ自身が行い、『突飛な質問』をしたことでも有名です。たとえば『富士山を動かせと言われたらどうしますか』といった類(たぐい)の質問です。平均以上の学力に加え、独創的なアイデアの持ち主を求めていた証左です。 

慈善事業を始めてからも、この習性は発揮され、『マラリヤに対する免疫を伝染させる蚊はつくれないか』という課題に賞金をだして、アイデアを求めたりしています。『マラリアを媒介する蚊』を逆手にとって、『免疫を媒介する蚊』に変えようと言う、逆転の発想を真面目に思いついたのでしょう。これについては、妙案が見つかったという話は聞いていません。 

『ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団』は、『世界の貧困、病魔の問題』、『アメリカの荒廃しきった教育現場の建て直し』という、国際機関や政府でも解決できていない『困難な課題』に挑戦しています。このような課題は、『ありきたりの発想』では解決できないとビル・ゲイツは考えているのでしょう。私たちも安易に『これは政府が解決すべき問題である』などと発言しますが、多くの人間の合意を重視する政府のような機関では、結局『ありきたりのアイデア』に集約されてしまうことになります。民主主義のもつ一つのジレンマでもあります。少数の人間で意思決定し、直ぐに行動する慈善団体の方が、『困難な課題克服』には有効であるかもしれないという話です。

それならば、有能なリーダーでの『独裁政治』の方が結果的に良いシステムかというとそうでもありません。『独裁政治』は人々の自由な発想を抑圧してしまうというこちらにもジレンマがあります。『民主主義』の体制下に、アイデアと素早い行動を掲げる『非営利団体(NPO)』が共存するというシステムが、好ましいように感じます。日本も多くのNPOが活躍する国に、変貌しつつありますが、大変すばらしいことではないでしょうか。多くの人の知恵が実際に活かされる可能性が高まるからです。ビル・ゲイツは現在のビル・ゲイツであることに意味があり、彼をアメリカ大統領にしてみても、うまくはいきません。

『困難な課題』を克服するには、お金もかかりますが、『解決のためのアイデア』がまず求められます。『ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団』は、巨額の資金を保有していることが活動の基盤となっていますが、どのようなアイデアに投資をするかの決定が最優先されているところに、価値があります。

たとえば、『パキスタン政府が、ポリオ撲滅に一定の成果をあげたら、日本からの借款を政府に変って返済してあげる』というような契約をパキスタン政府と交わしています。物品や金の援助をすると、末端まで届かずに権力者の懐を肥えさせる結果になりかねません。北朝鮮への飢餓救済食糧支援なども、効果は芳しくありません。『あなたが自身でポリオ撲滅をして見せてくれたら、あなたの借金を代りに返済してあげる』というアイデアには、パキスタンの悪徳権力者を肥えさせる要素がありませんから、実に妙案です。『ありきたりのアイデア』では、難問は解決できないという、ビル・ゲイツの自負が感じられます

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2012年10月 1日 (月)

ビル・ゲイツの慈善事業(3)

アメリカでは、世間知らずで、流行にも疎(うとく)く、パソコンやゲーム機にはまりこんでいるような若者は『Nerd』『Geek』と呼ばれ、少々蔑(さげす)まれます。日本でいうなら『ガリ勉野郎』『オタク』といったところでしょうか。

若いころのビル・ゲイツは、身なりには無頓着で、髪の毛はボサボサでフケが目立つというような『Nerd』の典型でした。Tシャツ、ジーパン、スニーカーで大概は通し、好物はファスト・フードのハンバーガーとコーラと言われていました。初期のマイクロソフトの社内では、仕事中に誰もが自由に、無料でコーラを飲み、ポプコーンが食べられるように配慮されていたと伝えられています。車の運転は『スピード狂』で、何度も違反チケットを切られていることでも有名でした。彼がもっとも揶揄の対象にされたのは、『ケチ』であるという話で、色々なジョークが面白可笑しく語られました。一番有名なのは、スーパー・マーケットのレジに行列ができ、滞っているので、どうしたのだろうかと見たら、ビル・ゲイツが『クーポン券』を取りだすのに四苦八苦していた、というジョークです。

マイクロ・ソフトがかなり成功をおさめた後も、ビル・ゲイツは日本へ来る時には飛行機の『エコノミークラス』を利用しており、他の役員が『ビジネスクラス』を利用することに批判的であったと言われていますので、『ケチ』というより、『合理的な価値観』の持ち主と云う表現が正しいのかもしれません。

同世代のライバル経営者である『スティーブ・ジョブス(アップル)』や『スコット・マクネリー(サンマイクロシステム)』が『プレゼンテーションの達人』であったのに対して、ビル・ゲイツは口下手で、聴衆を相手にスピーチするのは得意ではありませんでした。

しかし、『スーパー・プレゼンテーション』という番組に登場したビル・ゲイツは、落ち着いた話しぶりで、昔の口下手の印象はありませんでした。永年場数を踏んで、スピーチをする機会が多かったために、さすがに腕があがったのでしょう。中年のおじさんになって、『Nerd』の面影が失せたのは、年の効か、奥さんの気配りのせいかもしれません。

ビル・ゲイツはマイクロソフト社の会長ではありますが、実務は経営陣に任せ、現在は奥さんと一緒に、慈善事業に専心しています。2000年に、1.26億ドルの資産を投資して『ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団』を立ち上げ、その後友人の資産家ウォーレン・バフェットが2006年に、300億ドル相当の持ち株をこの財団に寄付したため、現在では350億ドルを超す資金を有する大規模な慈善団体になっています。ビル・ゲイツ、ビルの父親それに奥さん(メリンダ・ゲイツ)の3人が共同議長で運営されています。奥さんは賢い女性として米国では好感をもたれています。

この財団は『国際開発プログラム(貧困層の救済)』『グローバル・ヘルス・プログラム(マラリヤ、ポリオなどの撲滅)』『米国プログラム(劣悪な教育環境の改善)』を3本柱に活動しています。

『スーパー・プレゼンテーション』では、『蚊が媒介するマラリヤ撲滅』と『米国の劣悪な教育環境の改善』が主要な内容でした。米国の教育現場の荒廃はある程度予想していましたが、実態を数字で示されると、『そりゃーひどい』と云いたくなるものでした。

日本の教育現場の課題を合わせて考えさせられました。

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