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2012年9月30日 (日)

ビル・ゲイツの慈善事業(2)

『個人向け小型コンピュータ』は、『高度な趣味(遊び)』『事務処理』『科学技術計算』の用途目的に枝分かれし、それぞれ『アップル社のマッキントッシュ』『IBM・PC』『サンマイクロシステム社のワークステーション』がそれぞれの分野を代表する商品になっていきました。

ハードウェアの中枢となる『CPUチップ』では、設計の基本方針の異なる『CISC(複雑命令セット型)』と『RISC(単純命令セット型)』が覇を競い合いましたが、現状ではインテル社の『CISC』のほぼ一人勝ちになっています。『RISC』は現在『スーパー・コンピュータ』などの特殊な分野で使われています。

基本ソフトウェア(OS)の分野では、『アップル社のMacOS』『マイクロソフトのWindows』『ワークステーション用の各種UNIX/OS』が登場しましたが、現在圧倒的な市場占拠率を誇るのは『マイクロソフトのWindows』です。強くて良い商品が市場を制するのではなく、時流に乗ってうまくふるまった商品が勝者になるという典型的な例です。

色々な経緯はあったものの、今ではインテル社の『CISCチップ』を購入し、マイクロソフトの『Windows(OS)』を契約採用すれば、『誰でもパーソナル・コンピュータ』は作れるようになり、『パーソナル・コンピュータ』は『コモデティ商品(代替品が自由に選べる当たり前の商品)』になってしまいました。皮肉なことに『IBM・PC』を戦略的に産みだしたIBM自身が、この激烈な『コモデティ商品』競争に耐えられず、この事業部門から撤退する羽目になりました。

『インターネット』の普及で、情報通信システムの構築のしかたは、劇的な変貌を遂げ、『パーソナル・コンピュータ(コモデティ商品)』『インターネット(共同利用環境)』『サーバ(コモデティ商品)』を利用することが当たり前になりました。つまり互換性のあるものを寄せ集めて構築できる『オープン・システム』と呼ばれるスタイルに変ったことになります。従来のコンピュータ・システムは、提供する会社(IBMなど)の『独自技術』で固められ、排他的であることが特徴です。ライバル同士の互換性などは無かったわけですから、文字通り市場は、『排他』から『協調』へと180度の方針転換(パラダイム・シフト)になりました。

梅爺は、『独自技術』の興隆期と衰退期、および『オープン』時代の草創期を業界のなかで体験しました。『オープン』になった途端に、技術提携のための米国出張が激増しました。しかし、コンピュータ業界の『独自技術』時代を体験しているということでは、『化石』のような人間になってしまいましたので、『老兵は消えゆくのみ』とできるだけ沈黙を守ることにしています。

『パーソナル・コンピュータ』を『コモデティ商品』にしたてた立役者は、インテル社とマイクロソフト社で、この2社は独り勝ちをして大もうけをし、ビル・ゲイツが世界の大富豪になりました。私たちは、『パーソナル・コンピュータ』を使う限り、マイクロソフト社が次々にバージョンアップする商品を買わされる羽目になっていますから、ビル・ゲイツの資産づくりに少なからず皆で協力していることになります。

勿論、昨今ではこのマイクロソフトの一人勝ち態勢を崩そうとする知恵者も現れ、『Google』などが、虎視眈々(こしたんたん)と機会を狙っています。ネットワークを介して必要なソフトウェアを供給し、電力料金と同じように、使った分だけ支払う『ユーテリティ・コインピューティング』にパラダイムシフトさせようというわけです。

ビル・ゲイツが何故大富豪になり、慈善事業家になれたのかを説明するために、話がドンドン脇道へそれてしまって申し訳ありません。

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2012年9月29日 (土)

ビル・ゲイツの慈善事業(1)

NHK地上波教育放送チャンネルで、月曜日の夜放映される『スーパープレゼンテーション』に、最近ビル・ゲイツが登場し、奥さんと共同名義で運営する世界最大の慈善事業団体『ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団』の活動内容の一端を熱っぽく語り、聴衆から喝さいを浴びました。 

ビル・ゲイツは、今でこそ、世界の大富豪で、恰幅(かっぷく)の良さと、柔和な顔立ちで、上品なおじさん(57歳)の印象が強い人物ですが、彼を成功者に導いた『マイクロソフト』社の創業の経緯(いきさつ)は、ひいき目にみても、あまり褒められるような内容ではありません。独創的なアイデアというより、他人のアイデアを先回りして実現するといった、綱渡りの連続で、時には『未だ存在していないものが既に出来上がっているとみせかける』ハッタリでその場しのぎをしたりしました。 

ビル・ゲイツは高校時代に友人と最初の会社を興し、後にIBMからパーソナル・コンピュータ(PC)のOS(オペレーティング・システム)の開発を受注したことを機に、ハーバード大学を中退して、『マイクロ・ソフト社』の活動が本格的に開始されました。恐いもの知らずの若者が、なりふり構わず突っ走り、大会社のIBMも、そのような若者を利用せざるをえない状況に、当時の業界があったという話です。人生はその人の能力と運で決まります。一つ歯車が狂っていたら、今頃平凡で無名のおじさんであったかもしれません。 

彼の成功は、『個人向け小型コンピュータ』の市場拡大と呼応しています。『個人向け小型コンピュータ』は、1970年代の半ばに産声をあげましたが、当時は、玩具か、精々マニアの嗜好品程度と考えられていました。コンピュータと云えば、IBMに代表される大型コンピュータ、DEC社の中型コンピュータが主流で、高度な処理機能を持たない端末機(ダム・ターミナル)を利用して、後方の大中型のコンピュータを共有する『集中処理』の考え方が普及していました。

しかし、半導体の分野で、集積回路技術が進み、一つのチップにコンピュータの中枢機能を集約搭載する可能性(後にCPUと呼ばれるチップ)が出てきて、最初は、このCPUチップを利用して、少し『頭の良い端末(スマート・ターミナル)』がつくられるようになりました。後方の『メイン・フレーム』と『スマート・ターミナル』で処理の分散をすることから、このシステムは『分散処理』と呼ばれる新しい考え方として脚光を浴びました。

梅爺の会社でも、独自の『CPUチップ』が開発されたことから、これを利用した独自の『スマート・ターミナル』を、梅爺は数人の仲間と開発しました。しかし、梅爺の会社は、大型コンピュータ事業から撤退せざるを得ない状況に追い込まれたために、梅爺たちが開発した『スマート・ターミナル』を主体に、小型・中型コンピュータと連携した、企業の部門向け『分散処理コンピュータ・システム』を販売するビジネスに転向し、幸いなことにこれが日本市場で受け入れられて、大きく成長するきっかけになりました。『スマート・ターミナル』は各社の独自の技術で構築されていますので、現在の『パーソナル・コンピュータ』とは似て非なるものです。

『個人向け小型コンピュータ』が脚光を浴びるようになったのは、1977年にアメリカでアップル社が創業(創業者スティーブ・ジョブス)して以降です。IBMは、『個人向け小型コンピュータ』の将来性を見抜き、1980年に『IBMPC』の開発に着手しました。しかし、短期間の開発を目指したために、『IBMPC』の基本ソフトウェア(OS:オペレーティング・システム)は外部からの調達を決め、当時無名のビル・ゲイツの会社を発注先としました。この時も色々ゴタゴタがありましたが、ビル・ゲイツは、強気に振舞い続けました。

ビル・ゲイツが、当時『個人向け小型コンピュータ』の将来を洞察できていたかどうかは、分かりませんが、少なくとも自分の人生をその分野に賭けたことが、人生の分岐点になったことだけは確かです。

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2012年9月28日 (金)

青木紀久子『室内楽の夕べ』

9月26日(水)に、ピアニスト青木紀久子さんを中心とした、室内楽のコンサートが銀座の『王子ホール』で開催され、梅爺と梅婆は、いそいそと出かけて、浮き世の憂さをしばし忘れ、音楽の世界に浸ることができました。演奏者とプログラム内容は以下です。

青木紀久子(ピアノ)
エルネ・セバスチャン(ヴァイオリン)
井上静香(ヴァイオリン)
ハルムート・パッシャー(ヴィオラ)
アダルベルト・スコチッチ(チェロ)

(1) ベートーベン:ピアノ四重奏曲 ハ長調 WoO 36・3
(2) ベートーベン:弦楽三重奏曲 ハ短調 作品9-3
(3) ブラームス:ピアノ五重奏曲 ヘ短調 作品34

(1)はベートーベン14歳の時の作品で、まさに『神童』と驚嘆させられますが、真の人生の苦悩などをあまり知らない少年が、純粋に音楽に取り組んで完成した作品の印象を受けました。絵画で云うなら少年期のピカソが描いた見事な具象画というところでしょうか。自分の表現を求めた長い旅路の始まりと言えますが、音楽として絵画として、常識を踏襲しながら、それなりに個性が垣間見れ完成度が高いところが『神童』たる所以(ゆえん)です。

(2)は、ベートーベン20歳代後半の作品で、『自分だけの表現』を求める『ベートーベンらしさ』が垣間見える作品の印象を受けました。三つの弦楽器だけで構成する音楽は、ホモジニアスな音色で統一できる利点はありますが、逆に複雑で魅力的な色彩を放つ音楽を創り出すには足かせになりますので、作曲家も演奏家も高い能力が求められます。

(3)は、ブラームスが31歳の時の作品です。形式や約束事を破壊することが『流行』であった時代に、ブラームスは、伝統を尊重し、均衡や秩序を保つ音楽を作り続けました。『保守』に足場を置いて、『革新』を迎え撃つという姿勢は、梅爺の好みでもありますので、ブラームスの音楽は大好きです。絵画で云えば、ゴヤの作品のようで、重厚であり、『古いようで新しい』ところが魅力です。

青木紀久子さんは、梅爺の畏友青木修三氏(大学からの合唱仲間)の奥さまで、『室内楽コンサート』は恒例になっていますので、梅爺は楽しみにしています。今回は、ヨーロッパの一流演奏家との共演で、日本に居ながらヨーロッパの香りも楽しめました。音楽が、私たちの感性を刺激するのは、旋律、リズムの他に『アンサンブル』があります。『室内楽』は『アンサンブル』を小規模編成の楽器で表現する究極の様式ですが、それだけに、一つのミスも許されないスリリングな演奏が求められます。

『王子ホール』は、『室内楽』に適した規模のホールで、演奏後拍手が鳴りやまなかったのは、聴衆も『アンサンブル』のライブ演奏を堪能した証拠なのでしょう。

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2012年9月27日 (木)

信念は不幸を招く?(3)

『自らを律する規範をもって行動しなさい』『強い信念をもって人生の難事に立ち向かいなさい』などという教えは、反論の余地がないように思えます。しかし、この教えは、結果としての『安泰』を保証してくれているわけではありません。確かに『チャランポランに生きる』『厭なことは避けて通る』は、人間として無責任であり、軽蔑すべきと考えたくなりますが、そのようにした方が、『安泰』が得られる場合もないわけではありません。

最近はやりのテレビドラマの中で、『神は乗り越えられない試練を人に与えない』というような科白(せりふ)を主人公が口にしていましたが、これも『真実』というより『信念』です。『そうであって欲しい』と願いますが、『そうである』とは言えません。

個人の『信念』の影響範囲が、その個人にとどまっている場合は、他人は、あまりとやかくは言いませんが、影響が、他人の生命、財産、価値観を奪ったり、傷つけたりすることに及ぶと、深刻な問題になります。

コミュニティのリーダーの『信念』は、コミュニティに属する全ての人に、大きな影響を与えます。『強い信念』がなければ、コミュニティを統率し、向かうべき方向を指し示すことができませんから、『信念』は必要であるということになりますが、一歩間違えばリーダーの『信念』は、全員を不幸へ追いやることにもなりますから、『諸刃の剣』ということになります。

このことから、リーダーの『信念』には、特に『質』が求められることになります。人間や人間社会の特性を理解し、道徳や倫理にも配慮し、持てるすべての知性を駆使し、複数の視点で検証して、考え抜かれた『信念』に到達することが求められます。そこまでしても、結果として、うまくいかないことがあり、その責任を問われるわけですから、凡人は、間違っても『リーダーになりたい』などと思わない方が身のためと言うことになります。前にも書きましたが、『なりたい人』ではなく、『資質を備えた人』がリーダーにふさわしいということになります。しかし、世の中は『なりたい人』で満ち溢れています。

『信念』は、人間を崇高な存在に導くこともあれば、不幸を招く要因にもなることが分かります。非常に難しいことではありますが、自分の『信念』を、常に疑ってみることが重要であることも分かります。しかし、疑ってばかりいては『優柔不断』で、行動が起こせないことにもなりますから、『疑いながら強い信念を持つ』という矛盾した対応をし続けることが人生であると気付きます。『信念』は考えれば考えるほど厄介な代物(しろもの)です。

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2012年9月26日 (水)

信念は不幸を招く?(2)

人間は、生物として進化してきた名残を、遺伝子の中に受け継いでいます。『信念』を持つという習性もその一つであろうと、梅爺は推察しています。『信念』をもつことは目的ではなく、『安泰』の中に身を置こうとする手段として『信念』を持つのではないでしょうか。

私たちの周囲は、自分の能力では『理解できない』ことで満ち溢れています。しかし、その『理解できないこと』が、自分の安泰を脅かすかもしれないと『推測』し、『不安』『恐怖』を感じます。将来のことも明確には予測できませんから、やがて訪れるであろう『死』に関しても『不安』『恐怖』を感じます。『死』を恐れないと言う人は、何らかの方法で本能に基づく煩悩を克服し、自らを制御できている人です。尊敬に値する人も多いのですが、中にはアルカイダの戦士のように、『アラーに祝福される』という『信念』で、『死』の恐怖を克服する人たちもいます。

人間は、『理解できない』ことを、なんとか納得できることに変えようとして、色々なことを考えたり、他人の話や聖職者の説教を聴いたりして、『信念』を脳の中に創りだします。時にはこれで『不安』や『恐怖』が軽減し、『心の安らぎ(安泰)』を得ることができます。神や仏を『信ずる』ことが、『心の安らぎ』をもたらすのは、このためでしょう。『信仰』以上に『心の安らぎ』をもたらすものはないと実感した人にとっては、本当に神や仏が存在するのか、などという『理』の議論はどうでもよいことになります。『心の安らぎ』が最優先であるからです。

群(むれ)をなして生きていくことが『安泰』につながるという本能を獲得した人間にとって、『孤独』はもっとも『安泰』を脅かすものになります。『絆』の喪失も、寂しさや不安を呼び起こします。そこで『絆』を、常に確認する手段として、『言葉』や『感情の表現手段』を洗練したものに高めてきたのだと考えれば、『言語体系』や『芸術』の進化や、それを支えた脳の進化も納得することができます。

身体的な『安泰』ばかりではなく、精神的な『安泰』を脅かすものへの遭遇が、人間という生物種を『進化』させる要因であったのでしょう。人間が最も高度に進化した生物であるとすれば、人間が最も多くの試練を経験し、克服してきた生物であると言えるのかもしれません。『安泰』が保証される環境では生物は進化しません。

人間から『信念』は排除できないとすれば、『間違った信念は持ってはいけません』などと教えられても、対応に窮します。『信念』を、客観的に『正しい』『間違い』と区分けすることも難しいからです。しかし、『信念』は、個人やコミュニティに何らかの結果を、必ずもたらしますから、対応はこれまた厄介というほかありません。

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2012年9月25日 (火)

信念が不幸を招く?(1)

高度に進化した人間の脳が、考え出した『愛』『幸福』『正義』などという抽象概念ほど、人間にとって重要であり、また厄介なものはありません。個人が思い描く『愛』『幸福』『正義』は、他人が思い描く『愛』『幸福』『正義』と同じであるという保証はありません。違うものを思い浮かべながら、『同じであろう』という錯覚で口にしているわけですから厄介です。時に、相手が自分とは違うものを思い浮かべていることに気づいて、自分の思い浮かべる『愛』『幸福』『正義』の方が『正しい』と、今度は主張することになりますので、更に厄介です。

新撰組は、『正義』の名の元に、尊王攘夷の浪士に『天誅(てんちゅう)』を下し、アルカイダは、『ジハード(聖戦)』という『正義』をかざして、同時多発テロを画策しました。

ブッシュ大統領(息子)は、イラク、イラン、北朝鮮を『悪の枢軸』と決めつけ、『国連』が弱腰なら、アメリカだけででも、フセイン政権を打倒するぞと行動にでました。行動をともにしたイギリスのブレア首相は、最近(引退後)のテレビ・インタビューの中で『イラクでの戦いは、正義と邪悪の戦いであり、私は躊躇なく正義のために行動することを選んだ。今もその信念に変わりがない』と語っています。当時イギリス国民の多くは『戦争反対』を叫びましたが、首相の『信念』が、イギリス兵士を戦場へ送ることになりました。『正義』は人間の脳が考え出したもので、特定のコミュニティだけで通用する概念に過ぎず、自然界には『正義』という絶対的な実体が存在するわけではない、という梅爺程度の人間でも理解できる話を、文明国イギリスの首相が理解していないらしいことを知って驚きました。第三者が『いかがわしい』と思う体制やリーダーによって統治されるコミュニティ(国家、会社など)は、世の中に沢山あります。第三者が『いかがわしいと思う』と発言するのは許されるとして、『いかがわしさ』をコミュニティに代って排除する行為は、慎重を要します。少なくとも、『殺戮』『破壊』をその手段とするのは知恵の無い話です。

日本人は、日本の首相に『ビジョン』がない、『信念』がない、などと鬼の首を取ったように攻め立てますが、ブレア首相のような、強い独りよがりな『信念』を持たれても、大変迷惑であることが分かります。

世の中に『絶対的な正義』が存在すると『信ずる』人がいる限り、戦争、テロは無くならないことが分かります。『信ずる』内容を変えてもらうには、『理』で自ら疑ってもらうしかありませんが、『情』がこれを強固に拒もうとします。『信ずるな』と言っても、多くの場合『ハイ、分かりました』というわけにはいきません。

人間の本能で、『信念』は形成されます。色々なレベルはありますが、誰もがその人なりの『信念』を持つように、人間の脳はできています。生きていくための行動には判断を伴い、判断には多くの場合『信念』が必要になります。しかし、『信念』に基づく行動は、良い結果をもたらすという保証はありません。個人やコミュニティを不幸な状態へ導くこともあります。

自分の『信念』を時に疑ってみる、という方法しか、問題解決の糸口はありませんが、疑うことを強固に拒む『情』の習性を持つのも人間の特徴ですので、理屈通りに、人間もコミュニティも動きません。厄介だと言うほかありません。

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2012年9月24日 (月)

魔女信仰の島インドネシア、ライジュア島(6)

ライジュア島の人たちが、『神』ではなく『魔女』を信仰していることに興味を持ちました。目に見えない支配者は、『善良の象徴』とはとらえずに、『得体の知れない怖ろしい存在』と考えているように見えるからです。『女神』ではなく『魔女』という呼び方が端的にそのことを示しています。『魔女』が宿ると言う海辺の洞窟には、島の人は祟りを恐れて近づこうとしません。

人間の世界で、女が次々に男を誘惑し、だれの子か分からない子供を沢山産むというような行為は、『好ましいことではない』と島の人たちも感じていますが、自分たちが生き延びて来られたのは、そういう行為をする『魔女』が先祖にいたからだと考え、これからも生き延びるために『魔女』の末裔の女が同じような行為をすることを是認しているのではないかと思いました。『性道徳』よりも『生き残り』という切実な問題を優先しています。切羽詰まれば『道徳』も影が薄くなるのは、人間の哀しい性(さが)の一つではないでしょうか。

この島では、葬儀は年に一度共同で行われ、死者はそれまで、人形の形で装飾され、生者と生活を共にします。魔女の末裔が織った織物(イカット)が、魔力を持つ品として装飾に使われます。葬儀には『魔女』が降臨しますので『動物の生贄』が捧げられます。この儀式の最後は、『死者の魂の旅立ち』で、全員が浜に出て、浜から海のかなたの天国へ魂が旅立つところを見送ります。

『死者の魂』が生き続けるという考え方も、人間が考え出す宗教に概ね共通しています。『死者の魂』が存在する場所は、『天空(エジプト)』『海のかなた(ライジュア島、日本の沖縄)』『里を見下ろす山の頂(日本の遠野)』と、生活環境と関連した場所が選ばれます。『死者の魂』はやがて、『再生』して、または『最後の審判』を受けて生き返る、『輪廻(りんね)』で他の生物に身を変えてこの世に現れる(仏教)、自分たちに幸せをもたらすために年に一度訪ねてくるなどと、色々な説明が加えられます。人間は、『死ねば全て無に帰す』と言われることが厭なのか、死んだ人たちへの『思い』が断ちきれないためか、必ずと云って良いほどに『死者の魂』という概念を思いつきます。

やがて多くの宗教で、『死者の魂』が行き着く場所は、生活環境とは縁のない『天国(極楽浄土)』『地獄』などといった、抽象化された場所に変っていきます。『生きている時に罪を犯すと死後疑獄へ堕ちる』という一種の『脅し』は、宗教の権威を保つためには極めて有効ですから、これも多くの宗教の共通の考え方になっていきます。逆に『自爆テロで死ねば、天国へ行ける』などと、子供を洗脳するケースも登場します。

ライジュア島を去るにあたって、女優の鶴田真由さんは、以下の詩を作っています。見事な表現であると感心しました。

宇宙と呼吸する女
死者と共に生きる人々
昼と夜
生と死
聖と悪
相反するものが渦を巻き
混じり合いながら上昇し
瞬間が永遠と化していく

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2012年9月23日 (日)

魔女信仰の島インドネシア、ライジュア島(5)

私たちは、ライジュア島の『魔女』は、未開の地の遅れた文明の人たちが考え出した、本当は存在しない概念であると即座に判断するにもかかわらず、キリスト教の『神』や仏教の『仏』は、存在を全面的に否定できないのはどうしてなのでしょう。

自分が信ずる宗教は、洗練された教義であり、自分が属する文明は進んでいるという無意識の優越感があるからではないでしょうか。畏れ多い、大胆な意見を述べることをお許しいただけるならば、人間が、『魔女』『神』『仏』という抽象的な概念を考え出す元々のプロセスは、それほど違わないと梅爺は感じます。

『摩訶不思議な事象』をそのままで放置すると、『不安』というストレスが増大しますから、人間は懸命に考えて、『摩訶不思議な事象を司る何者かが存在する』と思いつき、一応の『安堵』を得ると同時に、今度は、その『何者か』に、更なる『安堵』を実現してほしいと願うようになったのではないかというのが、梅爺の推測です。

『何者か』が、へそを曲げたり、怒ったりしたのでは『安堵』は期待できませんので、『何者か』に『機嫌良くしていて欲しい、鎮まっていて欲しい』と願うのも当然の成り行きです。この目的で『生贄(いけにえ)』を捧げるという行為は、多くの原始宗教に共通の儀式になります。時には、人間も『生贄』の対象になりました。キリスト教の大本であるユダヤ教の旧約聖書を読めば、『神』は頻繁に『怒り散らし』、人々も『生贄』で神の怒りを鎮めようとしていることが分かります。

しかし、大変頭の良い人も登場し、『何者か』は『決して、へそを曲げたり、怒ったりはしない』、それどころか『愛と慈悲だけの存在である』と主張するようになります。洗練された現代の宗教では、このパターンが共通です。実に見事な解釈であるように見えますが、今度は『そんなに愛と慈悲だけの存在である何者か』が、何故、大災害や病苦で私たちを苦しめたりするのか、という疑問に遭遇することになります。

『罪深い人』は『何者かの怒りに触れて地獄へ堕ちる』などという話も登場しますが、どう見ても『罪深くない、信仰厚い人』まで、苦しめられる実情に接すると、『一体どうなっているのだろう』と疑問がつのります。『安堵』を得るために考え出した『何者か』という概念の解釈で、新しい『不安』が生じることになります。最後は、『私たちの理解を越えている存在として無条件に受け容れなさい』ということになってしまいます。

梅爺は、現代の宗教を茶化すために、このようなことを書いているのではありません。人間が『安堵』を求めるために、『何者か』にすがろうとする本能は、梅爺にもありますから、そのことを否定するつもりはありませんが、その目的で考え出した『何者か』に関する宗教の定義には、一見賢く考えられたようで、実は矛盾がありそうだと申し上げているだけです。

梅爺にとっての『何者か』は、『自然の摂理』ですが、これは私たちに『愛や慈悲を施して下さる存在』でも、『願いをかなえてくれる存在』でもないと観念しています。しかし、梅爺が生きている(生かされている)のは『自然の摂理』あってのことですので、一方的に感謝し畏れています。少々の幸運や不運はあるにせよ、『自然の摂理』の中で産まれ、死んでいくという枠組みからは逃れることはできないと覚悟しています。与えられた命には、ただ感謝をし、限られた時間を有効に使いたいと思います。

ライジュア島の『魔女』は、レベルの低い概念で、『神』や『仏』はレベルの高い概念であるという解釈は、そうかもしれませんが、基本的には同じことかもしれないというのが、繰り返しで恐縮ですが梅爺が番組を観て得た感想でした。

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2012年9月22日 (土)

魔女信仰の島インドネシア、ライジュア島(4)

ライジュア島では、女が正式な婚姻関係以外の男の子供を産むことは、タブーではありません。死産や幼児死亡の率が高い時代に、島の生活を維持するために『沢山の子供を産む』ことが、最優先であったのでしょう。正式な婚姻関係ではなく産まれた子供は『アナ・パケ・プエ』と呼ばれ、母親の親族が育てるしきたりになっています。

現代社会の『性道徳』が、どのような過程で社会に根付いてきたかを考えると、善悪を単純に割り切れる問題ではないことが分かります。元々は『種の存続(生殖)』をより確実に促すために、『快楽(性欲)』が本能として付与された(獲得した)ものと考えられますが、このような『目的』と『手段』の関係が理解できるようになったのは、生物進化論以降のことで、この関係をどのように考えるかは『罪の意識』とも関連して、人類は困惑し続けてきました。今でも『生殖を伴わない同性愛結婚』を認めるか、認めないかの論争が続いています。

男女の関係を『結婚』という形式で限定し、その枠組みの中では『生殖のための快楽』も認めるという考え方が、多くの人間社会で継承されてきました。キリスト教では、限定条件のなかで『快楽』は『必要悪』と認めている風情があり、『快楽』の独り歩きは『罪』とされました。

話がややこしくなるのは、『生殖』『快楽(性欲)』『結婚(様式)』『男女の恋愛感情』は、相互の関係がきれいに説明できるものではないことです。どれが手段で、どれが目的かを指摘することは、易しくありません。これに『人権』や『自由』が絡まるとさらにややこしくなります。結果だけを『不倫の愛』『不自然な同性愛』などと非難することは容易ですが、本質はそれほど単純ではありません。全てが、生物進化で出来上がった『人間』という生物に付与されている資質と関連しています。

ヒンズー教や日本の御神楽(おかぐら)のように、『性愛行為』や『性器』そのものを信仰対象とする宗教も存在しています。現代人は『いやらしい』と眉をひそめますが、当時の人々には『生殖』は『豊穣(ほうじょう)』の象徴であり、神の恵みとして大真面目に崇拝していたのでしょう。『イスラーム』では一夫多妻を認めていますが、これも男の特権というより、戦争で男の数が減ってしまった時代の対応策であったと言われています。

ライジュア島では、『子供の数を確保する』ことが生き残りの条件で、『誰の子供でも産めばよい』ということを優先せざるを得なかった事情は理解できます。しかし、人間である以上、特定の男女の間の恋愛感情の存在を無視できませんから、『魔女』という概念を考え出して、矛盾を克服しようとしたのではないでしょうか。つまり、『魔女』と同じような行為は許されるとしたのでしょう。その証拠に、この島では、男が装身具を身につけて、女の気をひこうとするダンスが継承されていて、魔女の末裔と称する女性も、『昔はこれで好きな男の人を見つけたのですか』という質問にはにかんでいました。決して『奔放な性行為』だけが独り歩きしていないことが分かります。

ライジュア島の風習をみていると、人類が生き残りのために何を最優先に選択し、その選択から生ずる矛盾を、どうして克服しようとしてきたかをうかがうことができます。『生きる』ことと『宗教』が一体で、矛盾の克服に『宗教』が重要な役割を演じていることも分かります。

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2012年9月21日 (金)

魔女信仰の島インドネシア、ライジュア島(3)

昔ライジュア島に二人の魔女がいて、島の中を巡って次々に男を誘惑し、子供を産んだ、という話が伝えられていて、この魔女が島民の信仰の対象になっています。島民の生活を代々継承していくために、『子供』の数を確保することが重要であり、何度かは絶滅の危機に瀕して、とにかく『沢山の子供を産む女性』を崇(あが)める考え方が定着したのではないでしょうか。

『私は魔女の末裔です』という女性も番組に登場しますが、『魔女の名前をあかしたり、魔女について説明したりすると祟(たた)りががある』と云って、質問への回答を拒みます。『神(ここでは魔女)』は『恵みと同時に祟りももたらすもの』という考え方が原始宗教では一般的です。自然は恵みと同時に災害ももたらしますから、このように考えるのは自然な話です。人間の力ではいかんともしがたい相手ですから、ひたすら感謝か畏れの対象であったはずです。

現代の洗練された宗教では、『神』や『仏』は、『善』や『愛』の象徴とされ、対極のとして『悪魔』や『鬼』が『悪』や『憎』の象徴とされます。人間の脳は論理的なバランスをとろうとするために、『神と悪魔』『善と悪』『愛と憎』『天国と地獄』と対をなす概念を考え出し、なんとなく納得できたと感じて安心します。

人間にとっては、この対となる『抽象概念』は極めて重要ですが、意外なことに自然界は、このような概念や区分が存在したり、必要としたりはしていないように梅爺は感じています。人間の精神世界の営みと、自然界の営みは一致しないことに気づいて、唖然としてしまいます。自然界は、『自然の摂理』で絶えず変容しているだけで、『善意』や『悪意』が背後にあるわけではありません。しかし、多くの人は『精神世界』と同様に、自然界を理解しようとするために、大災害に遭遇したりすると『何故神様はこのようなことをなさるのか』などと矛盾を感じて困惑するのではないでしょうか。『神と悪魔』『善と悪』『愛と憎』『天国と地獄』は、『精神世界(人間の脳)』にのみ存在する概念で、自然界には存在しないと思いきって割り切って見ると、多くの矛盾(疑問)は消え去ります。

梅爺は人間の『精神世界』が無意味だといっているわけではありません。むしろ人間にとってもっとも重要な『安堵』を確認するためには重要で欠かせないものであると考えています。しかし、自然界を『精神世界』の延長で理解しようとしたり、説明しようとしても無理があると申し上げたいだけです。

『多産な女性を崇める』ライジュア島の魔女信仰は、子孫を絶やさないための知恵と結びついており、魔女を恵みと祟りの両方の源と考えるのは、原始的な土着宗教の典型的なパターンであると梅爺は感じました。

地球上には、いまだに魔女を疑うことなく信じて生きている人たちがいるということですが、この人たちは魔女を信じない私たちより、『幸せではない』とは言えません。ましてや私たちの方が『優れている』とも言えません。

『精神世界』が産みだす価値観の違いを、受け入れないと『異文化の共存』はできません。自分のメガネでものを観るのはしかたがないとしても、自分と同じでないのは『怪しからん』と発言することは慎重であるべきです。

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2012年9月20日 (木)

魔女信仰の島インドネシア・ライジュア島(2)

地球上の現生人類は、どの民族も先祖をたどると、『原始宗教』を保有していたのではないでしょうか。どの民族の先祖も『言葉』を保有し、やがて具象物や行動形態に『名前』をつけ、色々な『関係』を論理的な文章構造で表現するようになります。『わたし、これ、食べる』『あなた、それ、食べる』などの表現が始まります。『言葉』の大半は、産まれた後の経験や周囲の人たちからの伝授で会得されますが、赤ん坊が『論理構造』を自然に身につけていく背景には、遺伝子にそのような資質が埋め込まれているからであろうと、言語学者の多くは推察しています。生き残りに重要な意味を持つが故に進化の過程で獲得したという推測です。英語と日本語では、『論理構造』の表現様式(語順など)は異なりますが、『論理構造』が存在するのは共通しています。日本人の赤ん坊も、英語環境で育てば、周囲の外国人の赤ん坊と全く遜色なく英語を話すようになります。『言語の背景にある論理構造を理解する能力(本能)』こそが、人類を霊長類の頂点に押し上げた要因なのではないでしょうか。

やがて、人類は『言葉』による論理表現の中に、目に見えない事象(抽象概念)も対象として取り込んでいきます。『美しい』『正しい』などという相対的な比較をするための形容詞も思いつきますし、『神』『悪魔』『天国』などという名詞も思いつきます。目では存在が確認できない『モノ』を、あたかも存在するかのように扱うわけですから、『そういうモノがあるにちがいない』『そういうモノがあって欲しい』『そういうモノがあるからこういうことが起きる』と、『推測』することが原点です。人類の脳の『推論能力』とこれによって生まれた『抽象概念を共有する能力』が、私たちの精神世界を拡大し、複雑にし、華やかな色どりを加えることになりました。

人類の原始社会に、『原始宗教』が必然的に誕生するのは、このような事情があるからなのでしょう。当然のことながら、『原始宗教』は、自然環境と密接な関係を持ちます。古代エジプトでは『ワニ』『コブラ』『フンコロガシ(虫)』が『再生』にかかわる『神』の化身と崇められましたが、そのような生物を観たことが無い地域の人類には、なんのことやら理解できない話です。原始宗教は土着性が強いということは、人間が宗教を創り出したことの証左ではないでしょうか。

現代の洗練された『宗教』では、自然と直結する『アミニズム(自然崇拝)』の要素が薄れ、『悩み、苦しみ、不安、罪からの救済』といった、『心の安堵』が対象になっています。これによって『宗教』は地域の壁を越え布教できるようになりました。崇高な精神世界とも言えますが、『自然は必ずしも摩訶不思議なものではない』ことを『科学』が立証してしまったために、一層抽象的な世界へ向かわざるをえなかったとも言えます。『フンコロガシは神の化身』と主張しても、現代人には通用しません。

インドネシアの『ライジュア島』には、『魔女信仰』が今も残っています。孤島とはいえ、現代文明と全く関係を持たない島ではありませんが、それでも『原始宗教』の様式が継承されていることに梅爺は興味を覚えました。

人類が『宗教』を生みだす一つのパターンを理解するきっかけになるかもしれないと感じたからです。

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2012年9月19日 (水)

魔女信仰の島インドネシア・ライジュア島(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで2回に分けて放映された『アジア海道 ”不思議な島々”をゆく ~鶴田真由2000キロの旅~』の内の2回目(後編)を偶然録画して観て、文字通り『不思議な世界』に魅せられました。その後、再放送で1回目(前篇)も観ることができましたが、梅爺には2回目(後編)の方が多くの興味をそそられました。 

女優の鶴田真由さんが、インドネシア・バリ島の東に点在する『ヌサトゥンガラ諸島』を旅する様子を追ったドキュメンタリー番組ですが、さすがNHKで、民放で放映されるチャラチャラした多くの旅番組とは異なっていて、見応えがありました。 

特に『魔女信仰』が今も支配する孤島『ライジュア島』の様子と、現代人にとって、とても快適とは言えない旅環境を、むしろ気負いなく楽しんでいるように見える鶴田真由さんの人柄と聡明さに感銘をうけました。 

『ヌサントゥンガラ諸島』は、バリ島の東に、東西に延びて点在する島々で、その数は1000以上もあります。30以上の言葉も文化も異なった部族が今も存続していますので、『文化人類学』等にとっては、研究材料の宝庫ではないでしょうか。 

その中の一つ『フローレス島』で、2003年に、『ホモ・フロレシェンシス』と呼ばれる1万2千年前の人骨がほぼ完全な形で発見され、世界中の注目を集めました。私たち『ホモ・サピエンス』と異なった人種で、最後まで地球上に生息していた(『ホモ・サピエンス』と共存期間があった)のはヨーロッパの『ネアンデルタール人』だけで、約2~3万年前には絶滅したというのが、定説であったからです。 

『ホモ・フロレシェンシス』は、身長1メートルくらいの成人女性(小人)の骨で、頭蓋骨の形状や大きさから、人類種としては、『ネアンデルタール人』のような『旧人』どころか、むしろ『原人』に近いと考えられています。1万2千年前と云えば、日本では縄文時代ですから、この時代に、地球上に『原人』が生き残っていて、現生人種と共存していたということになると、人類考古学の定説が覆ります。『フローレス島』では、独特の進化を遂げたトカゲやネズミなども発見されていますので、外の世界から切り離された『島』という環境で、生物は独特の進化をとげ、その中には『人類種』も含まれていたという仮説が成り立つのかもしれません。『ホモ・フロレシェンシス』については前にブログで紹介しました。 

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bc26.html

番組の2回目では、『スンバ島』『ティモール島』『ライジュア島』が紹介されました。 

『スンバ島』は、今でも『ラジャ(王)』が支配する島で、つい最近まで、戦いに負けた部族の兵士の首を切り落とし、木の枝に刺して飾った『首狩り』の風習がありました。王族の女たちは、『イカット』と呼ばれる紬(つむぎ)織の布を丹念に織り上げます。一生かかっても何枚も織れないほどの貴重品で、その図柄は、部族の歴史を伝え、更に魔力も秘めていると考えられています。しかし、今では、『商業主義』がこの島にも押し寄せ、インドネシアの都会から『イカット』を美術骨董品として扱う仲買人が訪れて、札束で買いたたいていく様子も紹介されました。

『ティモール島』は、第二次世界大戦で日本軍が拠点をおいた島で、日本人が現地の女性との間につくった女性が番組に登場し、母親が戦火の中で、洞窟でひっそり自分を産んだと話していました。日本人の父親は妻子とともに日本へ帰還することを望みましたが、母親は島に残ることを選んだということでした。父親の1枚の写真を大切そうに見せてくれましたが、肝心の顔の部分が破れはててしまっていました。『私のラバさん、酋長の娘、色は黒いが南洋じゃ美人』などという歌が日本では面白おかしく歌われていましたが、戦争がもたらす現実のドラマはそのような能天気なものではありません。

鶴田真由さんは、この女性と洞窟(実際は地面の小さな穴に近い)を訪れ、以下のような詩を作りました。

男が戦っているとき、女は産んでいた。
男が戦っているとき、女は育てていた。
男が戦っているとき、女は愛に生きていた。
洞窟の中で、子宮と宇宙を感じながら。

『子宮と宇宙を感じる』等という表現は、男にはできませんので、鶴田さんの才覚(文才)に感心しました。

『ライジュア島』は、現在でも『魔女信仰』が残る島で、人類が『何故宗教を思いつくのか』『何故宗教を必要としてきたのか』をあらためて考えさせられました。資源に制約がある孤島で、人類が生き残るために、『子供を沢山産む女性』が崇められ『魔女信仰』がうまれたのであろうというのが梅爺の推測です。『死者の魂が浜から天国へ旅立つ』という考えも、孤島ならではの発想で、沖縄にのこる風習とも似ています。

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2012年9月18日 (火)

No cross, no crown.

英語の諺、『No cross, no crown.』の話です。 

直訳すれば『十字架が無ければ、王冠もなし』ということで、キリストが十字架の死を遂げなければ、後に『王達の王(King of kings)』と讃えられることもなかった、と言う意味にもとれますが、『艱難辛苦(キリストの十字架の受難のような)があって、はじめてこの世の栄光は得られる』という一般的な比喩なのでしょう。日本の諺の『艱難辛苦汝を玉にす』に類似する意味ではないでしょうか。 

『cross』『crown』と、頭に『cr』という共通の発音の単語で、かけ言葉(韻を踏んでいる)にしているところが洒落ています。 

キリスト教文化では『Cross』は『十字架』を意味し、『キリストが、私たちの罪をすべて背負い贖(つぐな)うために、身代わりになって死んでくださった』という、教義の中枢を象徴する特別な言葉です。更に『この世の終わりには、神が悪魔との最終決戦(アルマゲドン)、に勝利し、キリストがこの世に再臨して、人々や死者の信仰の度合いを審判し、信仰厚き人は天国へ、信仰の足りない人は地獄へと区分けされる』という話になります。 

『人間の邪悪な心や行為(罪)』『死後の世界』への対応が、あらゆる宗教に共通するキーワードですが、キリスト教の場合は『十字架の死』を原点として教義が構築されています。 

信仰心の薄い梅爺は、『キリストの処刑』は史実であったとしても、上記の『贖罪(しょくざい)』『最後の審判』の教義は、後の福音書の著者や神学者が考え出したものではないかと推測しています。 

ローマ帝国の属州であったユダヤでは、ローマ皇帝を『神』と崇めるように強いられ、ローマ帝国におもねる『ユダヤ王』や、堕落した『ユダヤ教』の神官に対して民衆の不満がつのっていました。その時『民族の唯一の神(ヤーヴェ)』への信仰を説くキリストが出現し、民衆の間で『民族の救世主』と讃えられるようになったために、ローマ帝国やそれに追従する人達は『体制が脅かされる』と畏れて、裁判でキリストを『反逆者』と断定し、処刑したというのが、『史実』ではないかと思います。『十字架の刑』はローマ帝国の刑法に従った処刑方法であることがそれを物語っています。勿論キリストは、直接的にローマ帝国へ反旗を翻(ひるがえ)すような行動は起こしていません。 

現在の『キリスト教』は、後に『使徒パウロ』が、キリストの教えの本質を『愛』と理解し、ユダヤ民族以外の異民族にも布教を開始して成立しました。異民族へ受け容れてもらうために『ユダヤ教』の色彩を排したのも『使徒パウロ』です。『ユダヤ民族だけのための神』という認識は『ユダヤ人の誤認である』という大胆で見事な論理を展開しました。『使徒パウロ』の存在なしに、『キリスト教』は存在しないのではないかと、梅爺は何度もブログに書いてきました。当然『ユダヤ教』の視点では『使徒パウロ』は許し難い『異端者』とされています。 

歴史的に、『神』と『人間の権力者(王)』の関係がどうであったかを観るのも一つの視点として面白いものです。『王は神である』『王は神の末裔(神の子)である』『王は神から統治を託された者である』などと、『王』はあの手この手で自分を正当化しようとしてきました。中には、好きな女と結婚するために、自分に都合がよい新しい宗派(イギリス国教会)をつくってしまった『ヘンリー8世』のような、強引な王様までいます。 

『cross』『crown』を、『神』と『王』を象徴する言葉とみれば、この諺はなかなか意味深長であることが分かります。

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2012年9月17日 (月)

太陽系の未知なる辺境(5)

『太陽』の重力や『太陽風』の影響が微弱になるところが、『太陽系の辺境』と論理的には云えますが、国境のような明確な境目はないことになります。

辺境領域にある『エッジワース・カイパーベルト』や『オールトの雲』が、無数の『氷の塊』で構成されていて、その中の軌道を保てなくなった『氷の塊』が、『太陽』へむかって移動を開始し、『地球』からはそれらの一部は『彗星』として観測できます。『彗星の尾』は、『太陽風』との衝突で、移動方向の後方にプラズマが形成されるたものです。

大半の『彗星』は、地球にとっては無害ですが、数10から数100万年に一度、地球に衝突し、地球環境に甚大な影響を及ぼしてきたと考えられています。6500万年前の『恐竜の絶滅』も、メキシコのユカタン半島に『彗星』が衝突したことが原因ではないかと言われています。ということは、『彗星』は『地球』にとって無害とは言い切れ無いことになります。

学者の中には、地球に存在する『水』は、昔『地球』に衝突した『彗星』によってもたらされたと主張している人がいます。地球の『水』と、『彗星』の『氷』に含まれる『重水』の比率が類似していることを根拠にしています。

梅爺の素人考えでは、地球に存在する水の量と、『彗星』との衝突でもたらされた水の量は、違いすぎるのではないかという推測になりますが、太古には無数の『彗星』が降り注いだということなのでしょうか。

更に、地球に『生命体』ができる材料となった『有機物質』は、『彗星』の『氷』に含まれていたものであるという主張をする学者もいます。

『地球』の『生命体』には、『水』も『有機物質』も欠かせないものですが、上記の主張が正しいとすれば、私たちは『太陽系の辺境』からもたらされた『恩恵』で存在していることになります。

この考えを推し進めていけば、『地球』以外にも『太陽系』の中に『生命体』が存在する可能性も見えてきます。

『生命体』に適した『地球』環境は、『地球』を中心に生みだされたものではなく、『宇宙』とりわけ『太陽系』全体との、相関的な『動的平衡』を求める活動の中で、偶然形成されたということになります。

『太陽系の辺境』も例外なく私たちの存在に関っているという事実は、もっと明確に判明する時が来るかもしれません。『宇宙探査機:ボイジャー1号、2号』がどのような驚きの事実を私たちに教えてくれるのか楽しみです。

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2012年9月16日 (日)

太陽系の未知なる辺境(4)

宇宙が137億年前の『ビッグバン』で、微小な『ひも』から膨張を開始したと聞けば、素人の梅爺は『宇宙には中心があるのであろう』と推測してしまいます。実態はそれほど単純な話ではないのかもしれません。

『宇宙』には、文字通り無数と言って良い『銀河』が存在し、各々の『銀河』の中心には超新星爆発の名残である巨大『ブラックホール』があり、『銀河』全体は、その中心の周りに形成された『渦巻き』のような形になっています。そして『銀河』に含まれる『恒星』は、中心のまわりをまわっています。

つまり、『恒星』である『太陽』を中心とした『太陽系』全体は、『天の川銀河』の中心のまわりをまわっていることになります。『太陽系』の『惑星』の一つである『地球』は、傾いている地軸で『自転』しながら、『太陽』の周りをまわって、その『地球』の周りをまわる『月』という『衛星』が存在するという、複雑な構成になっています。

何故現在このような形になっているかは、『重力』や『遠心力』といった物理法則で説明がつきますから、摩訶不思議なものではなく『理』に適っています。しかし、現状は『最終到達点』ではなく、自然の摂理のひとつである『動的平衡』を求めた変容は止まることはありませんから、やがて『太陽』は燃え尽きて終焉を迎え、『地球』も現状は維持できなくなることは推測できます。しかし、それは40~50億年先のことですから、私たちが今慌てふためく必要はありません。宇宙全体の歴史の中で、『地球』が生物に適した環境である期間は『短い期間』に過ぎませんが、私たちはそれを相対的に『永い期間』と受け止めているだけです。

『自然世界』には、『動的平衡』による絶えまない変容があるだけで、『目的』や『あるべき姿』はありません。一方『人間』や『人間社会』では、『目的』や『あるべき姿』は、重要な意味を持ちます。『人間』の『精神世界』では、『目的』や『あるべき姿』が必要になるからです。『人間』は『自然世界』の一員でありながら、『自然世界』とは異なった『精神世界』を保有しているという関係を理解すれば、周囲のことに納得がいくと梅爺は考えています。『自然世界』の一員として、生理学的には『目的』のない変容を繰り返しながら、『精神世界』では『目的』を重視して行動しようとします。梅爺にとっては『精神世界』で『願う』ことは重要な意味をもちますが、梅爺の『願い』とは関係なく『自然世界』は変容します。『自然世界』は、何らかの意図をもって、梅爺に『恵み』や『危害』をもたらしているわけではありません。『自然界には目的が無い』という命題を受け容れるように、皆さんに強いるつもりはありませんが、一度『仮にそうならどういうことになるのか』と考えてみることはお薦めします。

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2012年9月15日 (土)

太陽系の未知なる辺境(3)

『天王星』より遠い『惑星』は、天文学者が根気よく望遠鏡をのぞき続けて発見したのではなく、物理法則と数理計算から、『新しい惑星の位置や質量』等が先ず予測され、その後実際に発見されています。天文学は、人間世界の『情』などが一切関与しない分野で、『理』だけの世界ですから、『理』だけを好む科学者が没頭するのは無理からぬことです。人間や人間社会の行動は、『情』という厄介な代物(しろもの)が介入するために、天文学のようには律しきれないという違いを理解しないと、トンチンカンな議論になります。その結果人間社会には、『自分は理性的であり、自分の考えが正しい』と単純に思いこむ人間が頻繁に出現し、異論を唱える相手は『全て間違い』と非難するためにイザコザが絶えません。 

『天王星』の軌道の『摂動(せつどう:微妙な揺れ)』を、外側の未発見の『惑星』の重力の影響と考え、計算して、『海王星』の存在が予測され、現実に発見されました。同じく今度は『海王星』の軌道の『摂動』から、外側の『冥王星』が予測され、発見に至ります。

『太陽系』は、『太陽』を中心に、リング状に以下のような構成で広がっていると梅爺は大雑把に理解しました。

『太陽』・・中心の『恒星』
『惑星領域』・・『水星』から『海王星』まで、『地球』が属する
『準惑星領域』・・『冥王星』や最近発見が相次ぐ『準惑星』
『小天体領域』・・『小惑星群』『エッジワース・カイパーベルト』
『辺縁領域』・・『ヘリオスフィア(太陽風が減速する領域)』『オールトの雲』

『惑星領域』は『惑星』だけが存在するのではなく、『イトカワ』のような『小惑星』も含まれます。『準惑星領域』『小天体領域』も便宜的な区分けで、境界が明白であるわけではありません。両方とも沢山の『小天体』が存在する場所ですが、『エッジワース・カイパーベルト』は、『氷』と『有機物』でできた数億個の『小天体』がベルト状に集まっている場所です。

そして本題の『太陽系の辺境』にあたる『辺縁領域』になりますが、この辺の様子はまだよく分かっていません。『太陽』から高速に放射された『太陽風』が、星間物質や銀河系の磁場と衝突して、減速する特殊空間『ヘリオスフィア』や、無数の『小天体(水、炭酸ガス、メタンガスでできた氷の塊)』で構成される球体状の『オールトの雲』が存在すると推測されています。

宇宙探査機『ボイジャー1号、2号』が、目下この『辺縁領域』に近づいていますので、近い将来多くの『事実』が明らかになると期待されています。

46億年前に『太陽系』は、形成されたと考えられていますが、最初から現在のような平衡状態であったわけではなく、『動的平衡』を求める変化が繰り返されて現状に至っています。たとえば『海王星』は、最初太陽に近い場所で出来上がり、徐々に遠のいて云って、現在の軌道に落ち着いたものと考えられています。

『地球』もできたての頃は、灼熱の『惑星』で、とても『生命体』が住める環境ではありませんでした。『地球』自体も『動的平衡』を求めた変化を繰り返し、現状に至っています。『人類』が出現してからの時間は、『地球』の歴史に比べれば、ほんの『一瞬』といって良いほどの短いものです。『天地』とほぼ同時に『人間』が創造されたという話と事実は、あまりにも異なっています。

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2012年9月14日 (金)

太陽系の未知なる辺境(2)

昔は『太陽系には9個の惑星がある』と学校で教えられ、太陽に近い順に『水金地火木土天海冥』と丸暗記させられました。ところが、2006年に開催された天文学の国際会議で、『冥王星』は『惑星』から『準惑星』に格下げになり、太陽系の『惑星』は8個になってしまいました。

学者たちは、『冥王星が惑星かどうか』を議論するために、先ず『惑星』の定義を議論して決め、決定した『定義』で判断して『冥王星は惑星とは言えない』と結論をくだしました。その時、決まった『定義(条件)』は以下です。

(1)太陽の周りを回っていること
(2)ほぼ球体であること
(3)軌道上に仲間の天体がないこと

『冥王星』は『惑星』としては規模が小さすぎるということで、格下げになったものと梅爺は考えていましたが、それよりも『冥王星』には、『冥王星』とほぼ同じくらいの大きさの『カロン』という『衛星』があり、対をなして太陽の周りをまわっていることから、(3)の条件を満たさないというのが、格下げの理由であることを知りました。

関連知識が増えたために、『再定義』が必要になるという事情は分かりますが、『後付けの定義』で、『お前は仲間ではない』と云い渡された『冥王星』には同情したくなります。こんなことが一般社会で行われたら大変なことになります。『日本人の定義を見直した結果、梅爺さん、あなたは日本人ではなくなりました』と言われたようなものですから。『差別するための定義』という巧妙な仕掛けも人間社会にはありますから、『定義』も鵜呑みにはできません。

番組の中で、『冥王星』が『惑星』から格下げになった時に、アメリカではこれに反対するデモがあったことを知りました。人々が『冥王星の格下げ反対』と書いたプラカードをもって歩いているのを観て、梅爺は失礼ながら笑ってしまいました。日本では、このようなデモがあったという話を聞いていませんから、典型的な『文化』の違いです。日本人の大半は、『専門家が集まって決めた』と言われると『へぇー、そういうことですか』と従順に受け容れますが、アメリカ人の一部は『自分には気に食わぬ内容である』ということで、反対を表明し、行動まで起こします。『冥王星』は英語で『Pluto(プルート)』であり、これはディズニー漫画の主人公の一人の名前でもあって、『夢を壊すな』ということなのかもしれませんが、日常生活とはほぼ無縁な『冥王星』の名誉のために立ち上がるとはご苦労な話です。もしかするとデモは『ユーモア精神の発露』かもしれませんが、いずれにしても、『私はこう思う』と個人的な旗色(きしょく)を鮮明にすることを優先する『文化』の違いを感じます。

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2012年9月13日 (木)

太陽系の未知なる辺境(1)

NHKBSプレミアムチャンネルで、『コズミックフロント』という宇宙に関する科学解説シリーズ番組があり、梅爺は熱心な視聴者です。

梅爺にとっては、今まで想像したこともない新しい知識に出会えて、刺激的です。番組で得た新しい知識の内容を、ここで解説することは二番煎じに過ぎませんが、『刺激的』と感ずることは、梅爺の『脳』の活動が関与してのことですので、個人的な心象の記述を旨としている『梅爺閑話』でも取り上げたくなります。

とは云うものの、心象に行きつくためには、最低限の『知識内容の解説』が必要になりますので、お許しいただきたいと思います。今回の梅爺の興味は『太陽系の辺境はどうなっているのか』に関するものです。

137億年前に『ビッグバン』で誕生した『宇宙』は、今でも膨張を続けていて、その大きさは想像を絶します。人間が観測可能な範囲だけでも、『宇宙』には17000億個の『銀河』が存在し、その中の一つの『天の川銀河』に含まれる太陽系の惑星の一つである『地球』に私たちは住んでいます。太陽系の中心にある『太陽』は『恒星』ですが、『天の川銀河』には2000億個の『恒星』があると考えられていますので、気の遠くなるような話です。昔の知恵者が、『天地は神が7日間で創った』と想像しましたが、まさか『天』がこんな途方もない大きさであるとは、思いもよらなかったに違いありません。

『太陽系』は、広大な宇宙を浜辺に例えれば、一つの砂粒のようなちっぽけなものですから、少なくともこれに関しては、科学が大方解明しているのであろうと想像していましたが、実態は今でも謎だらけで、特に『太陽系の最果て(辺境)』については、ほとんど分かっていないことを番組で知りました。

広大な『宇宙』の中の、ちっぽけではかない生命体である『人間』の『脳』の中に、広大な『精神世界』が広がっているという、奇妙な取り合わせが梅爺を魅了します。そして何よりも、『宇宙』『生命』『脳(精神世界)』についても、その『しくみ』をほとんど知らずに自分が『生きている(生かされている)』ことに戸惑い、感動もします。梅爺が梅爺について知っていることは、ごくわずかですが、日常はそれが梅爺の全てである(自分のことは自分がよく知っている)と勘違いしています。

人間は物理的にはちっぽけな存在ですが、それ故に『精神世界』もちっぽけであると卑下する必要はないように思います。『精神世界』は云わば『別世界』ですが、科学が踏み込んではいけない『神聖な領域』であるとは思いません。しかし、現在の科学知識だけでは『精神世界』の解明は難しいのではないかと推測しています。

話を『太陽系の辺境』に戻せば、人類は持てる知識や技術を総動員して、その謎を探る努力をしています。1997年に打ち上げた、双子の『宇宙探査機(ボイジャー1号、2号)』は今でも飛行を続けていて、『太陽系の辺境』に近づきつつあります。このような計画能力、実行能力に関して、アメリカは突出しています。

2006年に、今まで太陽系の『惑星』の一つと考えられていた『冥王星』が、『準惑星』に格下げになりました。日本を含む天文学の専門家の国際会議で、『惑星の定義』があらためてなされ、『冥王星』は条件に該当しないと判定されたからです。これも『太陽系の辺境』に関する知識が増えた結果です。

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2012年9月12日 (水)

クルアーン(4)

『イスラーム』の基本教義は、『アッラーのほかに神はなし』『ムハンマドはアッラーの使徒なり』の二つですが、これ以外に信者(ムスリム)が無条件に信じなければならない六つのことがら『六信』と、生活の中で守らなければならない五つの信仰行為『五行』があります。

『六信』は、『神』『天使』『啓典』『使徒』『来世』『定命』です。『神』の定義は、ユダヤ教、キリスト教とほぼ同じで『全知全能唯一で世界の創造主』ということになります。ただし姿かたちを具体的な造形で表現することは許されていません。『神』と『信者(人間)』を結びつける神側の仲介者が『天使』で、人間側の特別の仲介者が『使徒』です。『ムハンマド』が最後の『使徒』ですが、彼以前には『ノア』『アブラハム』『モーゼ』『キリスト』も『使徒』であったとされます。つまり『イスラーム』において『キリスト』は『神の子』ではなく『人間の使徒』として認められています。『啓典』は『クルアーン』のことで、『来世』は『死後の世界』、『定命』は『神によって定められた人間の運命』ということになります。『神は世界の創造主』なのですから、人間の運命も『神』によってあらかじめ定められているという論理になります。

『五行』は、『信仰告白』『礼拝(一日5回)』『定めの喜捨』『断食(ラマダーン月)』『巡礼』です。

二つの基本原理、『六信』『五行』を眺めてみると、『神』と『人間』の垂直的な関係を利用して、信者同士が水平的な同胞意識を維持するための、極めて具体的な行為、規範がベースになっていることに気付きます。宗教によってコミュニティの結束を実現することが、重要であった時期に『イスラーム』が出現した意味も理解できます。現在でも『イスラーム圏』の結束意識は強固です。

規範が実務的、形式的に決められているために、『悩み苦しみからの救済』『罪の赦し』などといった、精神世界の重要な課題である『心の安らぎ』の話があまり見えてきません。従って『六信』『五行』を励行する模範的な信者が、『原理主義』に走り、爆弾を抱えて自爆して『アッラー』を賛美したことになると考えるようになる危険も秘めているように感じます。無条件に『信ずる』ことを求めると、ある種の人間は多様な価値観を認めなくなり、自分だけが『正しい』と勘違いすることになります。

しかし、これらのことは『クルアーン』を熟読したことがない、梅爺の感想で、『イスラーム』を大変誤解しているのかもしれません。

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2012年9月11日 (火)

クルアーン(3)

『宗教』と『政治』を分離しようとする考え方は、近世以降のことです。多くの『民主主義』は『信教の自由』を保証するかわりに、『宗教』の政治介入を禁じ、『社会主義』ではイデオロギーそのものと矛盾するということで『宗教』の存在が否定されました。しかし、人間社会から『宗教』を排除することは極めて難しいことを歴史は語っています。

人類の長い歴史の大半の時期は『宗教』と『政治』は渾然一体のものでした。この視点なしには、古代や中世の歴史は理解できません。

特に『イスラーム』の啓典『クルアーン』は、人間(信者)の生き方全てに関る『規範』の色彩が強いことが特徴です。『教義』『信仰生活の義務』『社会生活の規範』『国家のありかた』の全てが網羅されていますから、『クルアーン』を最優先する限り、『政教分離』などはそもそも無理であることがわかります。『クルアーン』そのものが、『教え』であると同時に『生活規範』『法律』でもあるからです。

『イスラーム』世界では『宗教』の最高指導者の意見は、当然政治的な重みを持ちます。『イスラーム』基盤の国家が、『西欧的な民主主義をそのまま受け入れることはできない』と主張するのは、『クルアーン』を否定することになりかねないからです。

『イスラーム』基盤の国家における『民主化』が、今後どのような方向に向かうのかは梅爺にも予測ができません。少なくとも『民主化』は『脱イスラーム』ではないとすると、どこでバランスを取るのかは見通せません。『クルアーン』を遵守(じゅんしゅ)しようとすれば『原理主義』的になりますし、『世俗主義』を認めれば『クルアーン』の一部は無視せざるを得ないことになります。

『アタチュルク』の主導で『世俗主義』を取り入れた『トルコ』が一つの先例ですが、『トルコ』が理想とも単純には言えません。

はっきりしていることは、『イスラーム』社会の『民主化』は、『イスラーム』の人々が自分たちで決めて対応すべきことであるということです。多分長い年月を経て、色々な試行錯誤があり徐々に変革が進むのではないでしょうか。

アメリカや西欧諸国が、性急に自分たちの『民主主義』を理想像としておしつけようとしても、うまくいくはずがありません。私たちから観ると『クルアーン』で全てが定められている社会は、『異文化』ですが、『イスラーム』の人たちからすれば『クルアーン』のようなものを持たずに生きている私たちは『異文化』ということになります。

西欧の民主主義は『進んだ体制』で、『イスラーム』は『遅れている体制』であるとは単純には言えません。『イスラーム』は1500年以上の歴史をもつ、人類の知恵がつくりあげた社会様式の一つなのです。

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2012年9月10日 (月)

クルアーン(2)

『イスラーム』の啓典『クルアーン』で、重要なメッセージは、『アッラーの他に神なし』と『ムハンマドはアッラーの使徒(最後の預言者)なり』の二つです。

『唯一神』の考え方は、ユダヤ人が考え出した概念で、セム語族に属するアラブ人にも受けつがれたものなのでしょう。他民族に支配されたり、異国でバラバラに生きることを強いられたユダヤ人が、結束の象徴として『自分たちだけの神』という考え方を編みだしたのであろうと梅爺は推測しています。『自分たちだけの神』がやがて『キリスト教』や『イスラーム』の『全知全能の唯一の神』という概念に変貌していったものと思われます。

『イスラーム』が規定する『五大預言者』は、『ノア』『アブラハム』『モーゼ』『キリスト』『ムハンマド』で、『アッラー』と『預言者』の関係でその都度『宗教』は成立するものの、後に出現した『預言者』の方が、より正しく『アッラー』の教えを表していると考え、『ユダヤ教』よりは『キリスト教』が、『キリスト教』よりは『イスラーム』が優れているという論法になるのだそうです。実に都合のよい論法です。

『ムハンマド』より後に、もっと優れた『預言者』が現れては『イスラーム』は困りますので、『ムハンマドは最後の預言者』と釘を刺すことが必要になります。『ユダヤ教』『キリスト教』の系譜を大らかに受け容れ(観方を変えればチャッカリ流用し)、『イスラーム』が最後で最強と言おうとしているわけですから、羨望意識、劣等意識が何となく感じられます。

『アッラーの他に神はばし』『ムハンマドはアッラーの使徒なり』は、『イスラーム』が信者(ムスリム)に『無条件に信じろ』と迫る教義になります。どの宗教もこのように『無条件に信じろ』と迫る教義があり、『何故』と問いただすことは許されません。

あらゆるものを対象として『何故』を問うことが『科学』や『哲学』の基本姿勢ですから、疑うことを認めない『宗教』の姿勢は、時に『科学』や『哲学』から疎(うと)まれることになります。

『宗教』において『無条件に信ずる』ことは、『心の安らぎ』を得る前提にもなり、これは大きな利点とも言えますが、一方排他的になって、自分が信ずるもの以外排除しようとする、極めて大きな欠点にもなりかねません。宗教関係者が『異端』『聖戦』などという言葉を口にした時には警戒を要します。

『時に信じ、時に疑う』ことが、健康な生き方ではないかと、チャランポランな梅爺は勝手に決め込んでいます。

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2012年9月 9日 (日)

クルアーン(1)

『イスラームとは何か(小杉泰著)』と言う本を呼んで、『イスラーム』の啓典である『クルアーン(コーラン)』について、梅爺の知識は少し増えました。

『クルアーン』のボリュームは、現在の日本語の書籍にすると500ページ程度に相当し、アラビア語で声に出して読み続けても50時間以上かかるものと知りました。

梅爺はアラビヤ語は読めませんし、翻訳された『クルアーン』を読み通す意欲もありませんので、聞きかじりの生半可な知識で『クルアーン』を論ずるのは畏れ多い話ですが、大目に見ていただきたいと思います。

『クルアーン』は、『ムハンマド』が布教期間(23年間)に神の啓示を受けて口にした言葉を母体としていますので、彼の存命中に、その量がどんどん増えていったことになります。この時代、全てを『暗誦』した『語り部』のような人たちによって伝承されたと伝えられています。

韻を踏んだアラビヤ語の『詩文』形式の文章が、『節』『章(全体は114章で構成)』『部』で構成されていて、『部』は30個あり、一日『一部』を読み続けると1カ月で読み終わるように配慮されているようです。また『部』は長い『章』を最初に、短い『章』は最後に配置してあるとのことです。

短い『章』は、『イスラーム』が比較的少数派であった『マッカ』時代の啓示が多く、長い『章』は、『イスラーム』が体制を確立した『マディーナ』時代の啓示が多いと言うことは梅爺には興味深いことです。『マッカ』時代は、純粋な『宗教色』が主体であったのに対して、『マディーナ』時代には『政治色』『生活規範色』が濃くなり、理屈っぽい長い表現が多くなったと推測できるからです。

これらを総合して考えれば、『クルアーン』は、一貫した『叙事詩』のようなものではなく、『ムハンマド』がポツリポツリと語ったことを後の人たちが収集し、『ある意図をもって編集した』と考えるのが妥当なように思えます。

現在の『クルアーン』は、『ムハンマド』の後の第三代正統カリフ、『ウスマーン』が学者などを総動員して編集させた『ウスマーン版』が継承されていますので、『意図的な編集』が施されているとみて良いのではないでしょうか。少なくとも相互に矛盾する表現や、幾通りにも解釈できる表現は『編集』で是正されたものと推察できます。

『クルアーン』は、口伝されてきた『ムハンマド』の言葉を基盤にしているとは言えるかもしれませんが、現在にまで残されれいる表現形式は、多くの学者、知恵者が参加して作り上げたものであろうと梅爺は推測します。

『聖書』はキリスト自身の著作ではなく、『クルアーン』も『ムハンマド』自身の著作ではないところに『宗教』の成立に関する重要な事柄が秘められているように感じます。カリスマ的な『教祖』と、それを支える優秀な知恵者の集団が存在して、『宗教』は成立していくものではないでしょうか。どちらを欠いても『宗教』は成立しません。

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2012年9月 8日 (土)

内向型人間を侮るな(4)

『生きる』ということは、『外』から何かを『内』へ取り込んで、『内』を『生きている状態』に維持し続けることです。『酸素』『水』『食べ物』の補給が断たれたり、取り込む力が無くなった時には、『生きる』ことは終焉を迎えます。『生きる意欲』は大切ですが、『精神力』や『頑張り』だけでは生きていくことには限界があります。

『生きる』ために外から取り込まれるものには、『酸素』『水』『食べ物』の他に『情報』があります。人間は五感の全てを駆使して、常時『外』からもたらされる『情報』に対応しようとします。『暑い』と感ずれば、発汗して体温を一定に保とうとします。

私たちの『内』にある、『生命維持機能』の多くは、私たちの『意図(意識)』とは無関係に黙々と機能し続けています。『生きている』というより『生かされている』ことに感謝したくなるのはこのためです。『生命』は『自然の摂理』無しには存在しません。そう云う意味では『自然の摂理』は『神』と呼んでも差し支えありませんが、『自然の摂理』は宗教が提示する『神』のように、人間を特別に愛してくれたり、人間の願い事をかなえてくれたりはしません。『自然の摂理』は、私たちが一方的に感謝したり畏れたりすべき対象です。

人間は、生物進化の過程で、高度な情報処理が可能な『脳』を獲得しました。『脳』は『理と情の絡み合い』『意識と無意識の共存』という複雑な『世界』を創り出します。私たちが『精神世界』と呼ぶものです。この世界はあまりにも複雑なために、崇高なものでもありますが、根底は『安泰の希求』という単純な目的で機能していると梅爺は考えています。

『精神世界』が機能していることは『生きている』証左でもあり、『精神世界』も基本的には『外』からもたらされる『情報』に触発されて活動を開始します。そして『理解できないこと』に遭遇すると、不安が『安泰』を脅かし(ある種のホルモンが血液中に流れる)、『なんとか理解しよう』と『考え』始めます。

『外向型』の人は『疑問』を『群』の仲間と一緒に解決しようとしますが、『内向型』の人は、『他人との関係』も『安泰を脅かすもの』と感じて、独りになって、自分だけで『疑問』の答を見出そうとします。『男』はこの意味では『女』より一般的に『内向型』であると心理学では指摘しています。

『グループの仲間と触発し合いながら解決を見出す』のも、『独りで考えて解決を見出す』のも、どちらも有効な手段で、どちらが『正しい』ということにはなりません。ただ人類に大きな影響をもたらした偉大な『アイデア』や『思想』には、比較的に『内向型人間』が関与しているように梅爺は感じます。

『内向型』の人は自分の『考え』を自分だけにとどめようとしがちですが、本当は思い切ってそれを公開してもらえるとありがたいような気がします。自分で思っているより、大きな『影響力』があるかもしれないからです。世の中は『内向型人間』を必要としているのです。

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2012年9月 7日 (金)

内向型人間を侮るな(3)

『The Power of Introverts(内向型人間の持つ力)』という『プレゼンテーション』を行った女性は、同じ主旨の本を執筆して有名になり、各地へ講師として招かれるようになったと語っていました。『本当は、このように人前で話すのは苦手です』と云う通り、恥ずかしそうで控えめな話しぶりでした。

『堂々と、自信たっぷりに話す』が、アメリカ型『プレゼンテーション』で好まれるスタイルですが、この女性は全く異なっていました。しかし、話し終わった後で、聴衆は立ちあがって拍手を送っていましたので、この『プレゼンテーション』は大成功であったことが分かります。『プレゼンテーション』には『内容』と『テクニック』が求められますが、圧倒的な『内容』であれば、『テクニック』は相対的に瑣末(さまつ)であることが分かります。逆に『テクニック』だけの『プレゼンテーション』は興ざめです。

この女性の主張は、『外向型』に良さがあるように、『内向型』にも良さがあるので、社会はそれを評価して対応してほしいというものです。社会には『グループ・ワーク』が欠かせないことは認めるにしても、時に『内向型』の人が、独りになって深く考えたことは、社会にとっても重要な意味を持つのではないかという主張です。

この『プレゼンテーション』が喝采を博したのは、アメリカ社会にも『自分の中に内向型の性向がある』と感じながら、無理に押し殺してきた人たちが大勢いることの証左ではないでしょうか。梅爺も『内容が無いにもかかわらず、自信たっぷりに振舞うアメリカ人』には辟易(へきえき)させられた経験の持ち主ですので、この女性の『まともな主張』には、喝采を送りたくなりました。

梅爺は、自分のことを考えてみると、当然のことながら『内向型』『外向型』の両方の性格を持ち合わせていることに気付きます。しかし、どちらかと云えば、『内向型』の方が強いような気がします。『孤独な時間』はそれほど苦痛ではなく、むしろ本を読んだり、考え事をしたり、ブログを書いたりするための『歓迎すべき時間』と感じているからです。独りになって『何をしていいか分からない』などと途方に暮れることはありません。『孤独な老人はボケやすい』などと脅かされますが、今のところ、あまり恐怖を感じてはいません。

しかし、このように能天気なことを云っていられるのは、その気になれば、他人との接触の世界にいつでも戻れるからです。完全に『孤独』になっても、強がりを云っていられるのかどうかは自信がありません。人間は、『群』の中に『安泰』を求めようとする性向と、『孤独』の中に『安泰』を求めようとする性向を両方持ち合わせています。一見矛盾しているように見えますが、本質は『安泰』をもとめることにあり、そのために『群』を利用するかしないかの違いであると推測できます。

『内向型』は、人間の持つある一面であり、それなりに意味のあることですので、『内向型』は好ましくないなどと、決めつけることは、不自然なことです。

『深く物事を考える』ためには、『孤独な時間』が必要で、世の中には『深く物事を考える』ことが好きな人もいることを、梅爺は大いに認めます。なぜなら、自分にもそういう性向が多少なりともあると感じているからです。

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2012年9月 6日 (木)

内向型人間を侮るな(2)

『内向型人間』『外向型人間』とはどのような人を指すのでしょうか。

人類は過酷な環境で、『種』として生き延びる可能性を高めるために、『群』をつくって生活することを選択してきました。

最初の『単細胞生物』が、『多細胞生物』に進化する時にも、『コロニー』を形成しました。現在でも『海綿』などという動物にそれを観ることができます。細胞間を結びつけるのは『コラーゲン』で、これは私たち高等動物にも受け継がれています。『群』『コロニー』は、極めて原始的な生き残りの方法であることが分かります。もっとも、『単細胞生物』が地球上に出現したのは、40億年前ですが、『多細胞生物』へ進化するのに30億年以上の時間を要していますから、『コロニー』を形成する習性は、極めて稀な偶然で獲得したものであろうと推測できます。生物進化はなめらかに進行したのではなく、偶発的に突然大変化が起きたように見えます。ある要因の偶然の変化が、系全体に大きな影響を与え、新しい平衡状態へ一気に変るという『自然の摂理』が作用しているのでしょう。人間の社会も小さな出来事が引き金になって、大きく変わることがあるのと同じ話です。

『不安』『恐怖』といったストレスを回避するために、『群』を利用するのは、現在の私たちにとっても基本的な『本能』で、『赤信号みんなで渡れば怖くない』というジョークも、実は深遠な意味こめられています。どんなに強がりを云ってみても『人は一人では生きていけない』ということで、迷子の子供が恐怖で泣き叫ぶのはそのためです。大人でさえも、言葉も通じない外国の町中で迷子になれば、パニックになります。

ところが、今度は『群』の中で、『上手に振舞う』ことそれ自体が、ストレスになるという新しい問題が生じます。『周囲の人たちが何を考えているのか分からない』『自分は周囲の人たちから無視されているのではないか』などという『不安』に苛(さいな)まれる人も出現します。

このような人達でも、『群』を完全に否定するわけにはいきませんが、それでも『できるだけ他人との関係を最小限にとどめて、孤独な状態に自分を置く』ことの方が、『安心(安泰)』と感じることになります。

『内向型人間』は、『孤独の中に安泰を見出す』性向が強い人で、『外向型人間』は逆に『他人との関係を確認することに安泰を見出す』性向が強い人ということになります。

『内向型人間』は『恥ずかしがり屋』で『他人の眼をじっとみながら話すことが苦手』であったりしますが、『外向型人間』は『出しゃばり』『目立ちがリ屋』『やたらと仕切る人』ということになります。

現代では、どいういわけか『外向型人間』の方が好ましいという価値観が支配しています。特にアメリカのような『個人主義重視』の国では、その傾向が顕著で、『内向型人間』は肩身の狭い思いを強いられます。

日本はアメリカに比べればそれほどでもありませんが、それでも幼稚園のころから、『活発に自己表現する子供』は『オリコーサン』と評価され、『恥ずかしそうにひきこもりがちな子供』は、『困った子』と評価されます。

『内向型人間』は、他人との関係に鈍感であるのではなく、むしろ敏感であるがゆえにそれを避けているという本質を私たちは見落としがちです。『内向型人間』は『ダメ人間』と単純に決めつけるのは危険です。

更に重要なことは、『内向型人間』は、他人が提示する『考え方』を鵜呑みにすることが『不安』で、むしろ自分で物事を考え判断して得心(安心)しようとする傾向が強いことです。『釈迦』も『キリスト』もギリシャの哲学者も、孤独な環境で深く考えたり、瞑想したりしていますから、基本的に『内向型人間』の特性が強いように思われます。優れた芸術家の中にも、どちらかと云えば『内向型人間』が多いように感じます。

一人の人間の中にも、『内向型』と『外向型』が混在し、私たちはそれを使い分けながら生きていることになりますが、少なくとも『内向型』は『好ましくない』などと単純に決めつけてはいけないように思います。

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2012年9月 5日 (水)

内向型人間を侮るな(1)

アメリカ西海岸ロングビーチで毎年開催される『TEDカンファレンス』は、『プレゼンテーション』を競う大会で、開催期間中に1200もの『プレゼンテーション』が行われます。『プレゼンテーション(自己表現)』は、個人主義を尊重するアメリカでは重要な手段であり、この能力の多寡(たか)は、アメリカ社会で認められるための条件の一つです。つまり、『プレゼンテーション』が苦手の人は、『出世』できないことになります。

日本では、『集団の中では、できるだけ奥ゆかしく振舞い、目立たないようにすることが、集団の和に貢献し、好ましい』とされる文化が継承されていますので、『プレゼンテーション』には違和感を覚えがちです。はっきり云ってしまえば、日本人は『プレゼンテーション』が一般的に下手です。

梅爺は、仕事の現役であった頃、アメリカの会社とのビジネスが避けられませんでしたので、否応なしにこの『プレゼンテーション』への対応を余儀なくされました。新しく会社の中に『プレゼンテーション』文化を根付かせるために奮闘した経緯を、以前にブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-225d.html

『演説(Speach)』『講義(Lecture)』『講話(Discourse)』と『プレゼンテーション』は微妙に違います。『プレゼンテーション』は『自分の立場を理解してもらう手段』ですから、『他とは異なった自分の特技や、自分だけのアイデアを持っている』ことが基本的な条件になります。勿論『プレゼンテーション』にも、『話し方、見せ方のコツ(テクニック)』はありますが、『自分だけの特技やアイデア』を持たなければ、迫力は生まれません。そして『自分だけのアイデア』が世間の常識とは異なっている内容であったりすれば、なお価値が高まります。

日本人は、『プレゼンテーション』が苦手なのは、『人前で話すことになれていない』からだと考えますが、そうではなく、『自分だけの考えを持つ』訓練ができていないからであろうと梅爺は考えています。

『梅爺閑話』は、話し言葉による『プレゼンテーション』ではありませんが、書き言葉による『プレゼンテーション』でありたいと願っています。

NHK地上波教育放送チャンネルで、毎週『TEDカンファレンス』から厳選した『プレゼンテーション』が、『スーパープレゼンテーション』というタイトルで放映されていて梅爺は録画して観ています。MITメディアラボ所長の伊藤譲一氏の解説も、気が効いています。内容が滅法面白いのはもちろんのことですが、錆つきそうな自分の英語ヒアリング能力の劣化を、これで食い止めようとする狙いもあります。

最近の放送で、『Susan Cain』という若い女性(弁護士、作家)の、『内向型人間のパワー(The Power of Introverts)』という『プレゼンテーション』が紹介され、梅爺は拍手喝さいしたくなりました。

『出しゃばり、目立ち、仕切る』ことが、『有能な人間の特性』と思い込んでいるアメリカ人に、『内向的な人間を侮ってはいけませんよ』と警告する内容で、『ほれ、みろ』と云いたくなると同時に、人間の脳の機能に思いを馳せて、色々考えさせられました。

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2012年9月 4日 (火)

ジョン・グリシャム『Theodore Boone Kid Lawyer』(2)

タイトルの『Theodore Boone(テオドール・ブーン)』は、この小説の主人公である13歳の男の子の名前です。父親は不動産訴訟専門の弁護士、母親は離婚訴訟専門の弁護士と弁護士一家の一人っ子で、その影響もあってか、愛犬に『ジャッジ(判事)』と名付けるほどの『法律好き』で、町の裁判所の関係者からも『子供弁護士(Kid Lawyer)』として、一目置かれ、かわいがられています。

ノート・パソコンをいつも持ち歩き、両親の『法律事務所』に付与されている専用のアクセスコードを利用して、『法務データベース』に侵入し、判例や進行中の訴訟のスケジュールなどを閲覧したりしています。勿論、将来は『弁護士』か『判事(裁判官)』になりたいと考えています。豊富な『法律知識』を利用して、学校のクラスメートからの相談事にも答え、尊敬を勝ち得ています。

この平和な田舎町に、『殺人事件』が発生し、裁判も大詰めの段階に差し掛かり、町中が『有罪かどうか』の話題で持ちきりになっています。被害者は、不動産業者の妻で、夫に殺人の嫌疑がかかっていますが、目撃者や物的証拠が一切ないために、大方の人達は、陪審員達が『有罪ではない』と結論出すであろうと予想しています。蛇足ですが、アメリカの陪審員は、『有罪(Guilty)』か『有罪ではない(Not Guilty)』かを判定するのであって、『有罪ではない』は、論理的には『無罪』と同じ意味にはなりません。

ところが、ひょんなことから主人公の少年は、この事件には『目撃者』がいて、更に『物的証拠』も存在することも知り、物語が佳境にはいります。『目撃者』は不法入国者であるために、自分の身元が割れて投獄、本国送還されることを恐れ、裁判での証言を拒みます。さて、この難問に少年がどう立ち向かうか、裁判の結末はどうなるのかと興味にそそられて読者は読み進むことになります。

勿論読者が納得できる『結末』が待っているのですが、『種明かし』はフェアではありませんので、控えます。

コミュニティの『揉め事』を『法で裁く』のは、人類が考え出した『知恵』には違いありませんが、アメリカのように『何でも裁判沙汰』『弁護士がウヨウヨ』の社会は、日本人には『行き過ぎ』に見えます。しかし、アメリカは日本と異なり、『寄せ集め国家』であることを理解すると、『何でも裁判沙汰』以外に、現実的な解決法は無いのかもしれないと気付きます。異文化は、その根っこの部分までも洞察しないと、理解できません。残念ながら日本人は、この洞察訓練が不足しているように梅爺は感じています。世界を『日本と同じ』という前提で眺めても真の理解は得られません。

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2012年9月 3日 (月)

ジョン・グリシャム『Theodore Boone Kid Lawyer』(1)

アメリカの推理小説作家『ジョン・グリシャム(John Grisham)』の小説『Theodore Boone  Kid Lawyer(テオドール・ブーン 少年弁護士)』を英語のペーパーバック版で読みました。

梅爺は40歳を過ぎてから一念発起して、『英語の本を読む』ことを始めました。ビジネスで英語を強いられる機会が増え、『語彙(Vocabulary)』や『慣用語句(Idiom)』不足は、コミュニケーションにとって致命的な欠陥であると痛感させられたからです。

『読みとおす』癖をつけるためには『面白い本』が効果的と考え、最初のころ見つけたのが『ジョン・グリシャム』の推理小説でした。今でこそ『ジョン・グリシャム』はアメリカで指折りの大衆小説作家の一人ですが、梅爺が読み始めた頃は、新進作家としてデビューしたばかりで、次々に意欲的な新作を発表していました。弁護士の経歴から作家へ転じた人ですので、『弁護士』『弁護士事務所』『裁判官』『検事』『法廷』『陪審員』が登場するものが大半です。それに著者が住んでいるアメリカ南部を舞台に物語が展開するのも特徴です。

『Theodore Boone  Kid Lawyer』は、21冊目の著作で、梅爺はほとんどすべての著作を読み続けてきましたので20年以上の『おつきあい』となります。

彼はデビュー直後とは異なり、新作を発表すれば、『間違いなくベストセラーになる』ことが約束されていることもあってか、『Theodore Boone  Kid Lawyer』は、気負いなく、肩の力を抜いて、スラスラ書いた風情が感じられます。ボリュームも他の作品の半分くらいの量です。観方を変えれば『手抜き』で怪しからんとも言えますが、『円熟の境地』とも言えますので、評価はマチマチでしょう。この作品に関しては『特別傑作とは言えない』というのが梅爺の正直な評価です。

英語の表現も、気取ったところがありませんから、これから『英語』で本を読んでみたいと考えておられる方の『入門書』としては最適かもしれません。

物語は、アメリカの田舎町に住む、両親とも弁護士の13歳の少年が、その町で進行中の『殺人事件裁判』に、ひょんなことから巻き込まれていくというものです。特別に入り組んだプロットの設定はなく、時間の経緯にそって素直に話が進行しますので、すんなり読めます。著者は、少年少女の読者層を意識して書いたのかもしれません。

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2012年9月 2日 (日)

生命は火星で誕生した?(3)

小天体が火星へ衝突し、その衝撃で宇宙へ飛び散った火星の岩石の一部が隕石として地球へ到達し、その中に、元々火星で誕生していた微生物が混入していたというのがカーシュビック博士の仮説です。

この仮説は、少なくとも『火星から地球への飛来時間と、到達する隕石の量』『途中で浴びる宇宙放射線に耐えられるか』『地球の大気圏突入時の高熱に耐えられるか』などを検証しないと成り立ちません。

科学者が、『飛来時間と飛来量』を計算した結果、火星から飛び散った岩石の0.1%が10万年以内に地球へ到達し、数十個は少なくとも10年以内に到達することが分かりました。

『飛行中に宇宙放射線に耐えられるか』については、現在地球上に、『抗放射線菌』という微生物は存在しますから、耐えられないと断定はできません。『抗放射線菌』は、DNAが破壊(切断)されても、それをすぐに修復する特殊なたんぱく質を保有していることが分かっています。

『大気圏突入時の高熱に耐えられるか』については、地球へ到達した火星の隕石の実物をつかって測定(岩石内部の磁場の向きで調べる)した結果、表面は高熱になっても内部温度は40度C程度にしかなっていないことが分かりました。

勿論、これらの条件がクリアされたからといって、地球の生命体の『ご先祖さま』は、火星からやってきたとは断言はできません。それぞれに確率の低い条件を組み合わせて、全体が成立するためには、可能性は極度に低くなるからです。カーシュビック博士の仮説は、『その可能性は否定できない』というのが、現時点での妥当な評価でしょう。云いかえれば、地球環境で最初の生命体が誕生したとも断言できないということになります。この場合もいくつかの稀有な条件がそろわないと、成立しないことには変わりがありません。

梅爺は、カーシュビック博士のように、大胆な仮説を立て、少年のように情熱を燃やして立証しようとする性格の人が好きです。論理に矛盾が無いかどうかは気になりますが、全体として正しいか間違いかは、野次馬にすぎませんからあまり気になりません。生命の誕生の『真実』が判明するには、まだまだ時間がかかることでしょう。そしてその内容は、『火星での誕生』どころか、もっと驚天動地のものかもしれません。

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2012年9月 1日 (土)

生命は火星で誕生した?(2)

生命体には水が必須のものであると私たちは考えていますが、生命体の誕生には、水はむしろ邪魔なものであり、乾燥した陸地が必要なはずだとカーシェビンク博士は主張しています。つまり、38億年前の地球は、全て水で覆われ陸地が無かったとすると、生命は誕生し難いことになり、その当時の火星は、現在の地球のように、海と陸に分かれていた惑星であったために、生命誕生にはむしろ理想的な環境であったという推測です。

生命体の一つの条件は、『子孫を残す能力を保有している』ことであり、地球上の生命体は、細胞内のDNA(デオキシリボ核酸)でそれを可能にしています。DNAはRNA(リボ核酸)から創られたと推定され、DNA,RNAは、更に4種のヌクレオチドという化学物質が連結して構成されます。ヌクレオチドを構成する要素は、リン酸、糖、塩基で、この3要素が結合するには、水の分子を除去する必要があります。つまり、ヌクレオチドが出来上がるためには、水中より乾燥した陸地が適しているという推測になります。

ヌクレオチドの連結を促す物質として、モンモリオナイトという粘土の一種が効果的であることが分かっていて、これが火星にも存在することも分かっています。これらのことから、40億年前の火星こそが、地球より生命誕生に適していたという推測になります。

生命の誕生には、水は邪魔であり、一旦誕生した後の生命維持には水が必須であるという矛盾するような話を、梅爺は良く理解でていませんが、乾燥した陸と、海の両方を必要とするということなのでしょう。

NASAによる、最近の火星探査の成果で、40億年前の火星は、陸と海の惑星であった証拠が色々見つかっていますから、カーシェビンク博士のここまでの推論に関して、その可能性を否定はできません。

次なる難題は、火星で誕生した生命体が、一体どうして地球へ飛来したのかということになります。小天体が火星と衝突し、飛び散った岩石が隕石となって地球へ飛来し、その隕石の中に生命体が含まれていたというのが、博士の主張です。

突飛な主張に聴こえますが、その可能性も否定できないことを、博士は科学的な根拠で説明していきます。

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